「魏志倭人伝」解説(1)

 (最新見直し2007.3.19日)

【「魏志倭人伝」の正式名称について】
 「魏志倭人伝」(以下、「倭人伝」と云う)は、正式には史書「三国史」のうちの一節の文章を指して云う。従って、「魏志倭人伝」という書名の文章がある訳ではない。「三国史」は、3世紀後半に晋朝の修史官,陳寿によって編集された 魏・呉・蜀の歴史を扱った書であり、魏志(書)30巻、呉志(書)20巻、蜀志(書)15巻の三書全65巻からなる。「三国史」は、魏の文帝の黄初元年(220年)から晋の武帝の太康元年(280年)に至る、「後漢」が滅びた後の政治状況となった「魏.呉.蜀」の三国鼎立時代60年間の中国の歴史を記している。このうち「魏」國について書かれたものを「魏志(又は魏書)」と云う。「魏志」には「東夷伝」として高句麗、馬韓、弁韓、辰韓等の諸部族に続いてその列伝の最後に「倭」について記述されている。この「倭人の条」の文言を「魏志倭人伝」と略すことを慣例とする。正式には「三国史.魏志.東夷伝.倭人の条」ということになる。凡そ二千字の一括文である。

 つまり、簡略に云えば、「三国史は、魏志と呉志と蜀志に分かれており、その魏志の中に夷蛮伝があり、その夷蛮伝の中に東夷伝があり、その東夷伝の中に倭人の条があり、これが魏志倭人伝と言い表されている」ということになる。 

 その因とするところは、「蛮夷は中国をみだすもので、久しく中国の患をなしてきた」ことにあり、「鳥丸.鮮卑.東夷」の諸蛮に対する認識を正しく持つことによって、「以って四夷の変に備う」為にこれを記すことにあったとされる。ちなみに、「四夷」とは、中華思想に基づくもので、周辺諸国を「東夷、西戌(せいじゅう)、南蛮、北*(ほくてき)」とみなしていたことによる。

 史書「三国史」と混同され易いのが「三国志演義」である。これは、千年以上も後の明王朝の初期に羅貫中によって著された長編歴史小説である。吉川英治氏の「三国志」は、これに基づいている。

 2006.11.25日再編集 れんだいこ拝


【著者陳寿について】

 晋の著作郎職史官・陳寿が「三国史」撰者に任ぜられた。陳寿(233〜297年)の人となりは次の通りである。

 陳寿は、「魏」の明帝青龍元(233)年に「蜀」の巴西郡の安漢県に生まれ、字を承祚と云う。「晋書陳寿伝」によると、若くして学を好み、同郡の先輩で「春秋公羊学」の大家しょう周に師事した。師曰く、「君の才能と学識をもってすれば、必ず名を為すに違いない。それだけに風当たりも強くなるだろうが、それは決して不幸なことでもない。深く慎んで細心の注意を払って生きていくことだぞ」の忠告が残されており、あたかも陳寿の生涯を予見するかの如くとなった。

 長ずるに及び「蜀」の朝廷に仕え、歴史編纂の官吏である観閣令史(宮中図書係)に登用されたが、どちらかと云えば不遇の身に終始するところとなった。「宦人の黄皓、專ら威權を弄し、大臣皆な意を曲げて之に附するも、壽(陳寿)は獨り之が爲に屈せず、是に由りて屡々譴黜せらる」と反骨の人であった。

 263年に「蜀」が「魏」に併合されたことにより、 陳寿は31才の時に「魏」の首都洛陽へと移り住み、魏朝の文官に列なることとなった。2年後、「魏」は「晋」に替わり、この頃になって陳寿の才能が相当なものとして評価されるようになった。「晋」の皇帝の重臣として司空という土地.民事を司る最高官の職にあるとともに大詩人でもあった張華によって引き立てられ、任官しやがて著作郎に登用されることとなった。この官職は、「魏」が初めて置いたもので、中書に隷属したが、晋朝では秘書に属し、国史を司るのが役目の職であった。

 陳寿は、政敵「蜀」の名将諸曷亮の著作全集の執筆に取組みこれを上宰したが、その書において概ね諸曷亮を称賛する立場でこれを著述した為、「魏」より発した「晋」王朝の史官としての御用性不忠が問われるところとなった。こうして、陳寿を廻っての評価は二分されたものの、陳寿の史家としての厳正な態度を証左しているものとして逆に名声を高める結果に帰着することとなった。

 こうして時勢好転し、陳寿は、「三国志」の作成を命じられることとなった。この時、官修の史書として魏には王沈(おうちん)の魏書、呉には韋昭(いしょう)の呉書があり、私家の史書として魚豢の魏略があった。

 「三国志」は全部で65五巻より成り、太康年間(280〜289年)にかけて完成された。その出来栄えは当時から高く評価されており、「敍事に善く、良史の才有り」との評価を得ている。この当時魏の名将であった夏侯堪(243−91)も同じく同時代史「魏書」を書きあげていたが、「寿の作る所を見、すなわち己が書をこぼちて罷む」と述懐したと云われているほどに、追随を許さぬ名著であった。陳寿の官界における庇護者とでもいうべき張華も、深く喜んで、「立派な史書だ。晋の歴史も、この史書に継いで書かれるべきだ」と正史として偶されるに値するとの評価を与えている。 こうして「三国志」は不朽の名著として後世に書き継がれていくこととなった。

 これにより陳寿の晩年が順風となった訳ではない。否応なく宮廷の派閥抗争に巻き込まれ、失意の身に終始したまま「晋」の惠帝元康7(297)年に65才でその生涯を閉じた。その一生は、才能を高く認められていたにも関わらず、不遇で不運なものだったと云える。

 陳寿の没後、梁州の人事院長官で皇帝政務秘書の范きん等の働きかけにより、三国志は晋王朝の公認の史書として正史の地位を得ることとなった。その上表文には、「辭に勸誡多く得失は明らかにして風化に益有り。文艷は相如(司馬相如)にしかずといえども、質直は之に過ぐ」という最大級の賛辞が書かれている。この上表文の結果、河南尹に詔が下り、それにより洛陽令が陳寿の家に赴き、三国志は伝写されることになる。

 「三国志」の僥倖は、撰者自身が三国時代を経歴した人であったといういわば同時代の生き証人の手によって撰述されたこと、及び、撰者自身がかって「蜀」の朝廷に仕えた前歴を持ちながら、政敵の魏朝続いての晋朝のそれというふうに三王朝の興亡をつぶさにすることにより、王朝の有為転変を客観視し得た史官の手によって撰述されたこと、併せて、既に述べた様に、陳寿の気質としてその精神が反骨であり、御用史家の立場でありながらもその面目と筆法を心得た史上に輝く著述家の手によって撰述されたこと等々において一際光彩を放っている。


【「中国の正史」について】

 こうして三国志は中国の正史の一つに数えられる文献の地位を獲得することとなった。ちなみに、中国における正史とは、年代順に**を指し、そのうち「史記」.「漢書」.「三国志」.「後漢書」をもって「四史」と称する。なお、「三国史」の記述は既に述べたようにその文体は「簡潔的確な筆致」によって高く評価されるものの、反面簡略にされすぎた面がある為、五世紀の南朝宋の時代になって注釈が加えられることとなった。三国志成立後百三十年後に出来た、裴松之(372〜451年)撰「三国志注」がそれである。この注を得て三国志はますますその価値を高めることとなった。

 中国の誇るべきことの一つに精緻な王朝交代史が存在することである。そういう意味で、史書は、中国史の流れを綴る歴史的財産となっている。中国に於ける歴史書の編纂は、易経思想に基づいている。易経思想では、「天下を統治する者は有徳者の天命を受けており、その王朝が交替するのは、王朝の徳が衰え民心が離反したからである。新たな天命が下り、別の有徳者が天下を統治することになる。これが繰り返される」ということになる。これによる王朝交替を「易姓革命」と称する。

 従って、新王朝を打ち立てた者は、政権奪取過程の正当性を証し、天命が下ったことの理法を説き明かさねばならない。それを歴史書で詠う必要があった。これを仮に王朝イデオロギーと云う。その為に、歴史の脚色や捏造、不都合史実隠蔽などの作為が加えられることは避けられない。

 しかしながら、史家は必ずしも新王朝の権威づけのみに汲々しない。表向き新王朝の正義を綴りながら、裏面記述法で別の史実を説き明かしていることも稀でない。史書を読む上での難しさと面白さはここに存する。これに無頓着な史書読みは字面追い読者でしかなく、本来の意味での歴史家にはなれないだろう。いわゆる御用史家の類である。れんだいこは、裏面記述法で伝授しているところの意味をも読み取る歴史家としてありたい。

【裴松之(はいしょうし)校訂、注釈について】
 現存している「三国志」の版本はいずれも5世紀の南朝劉宋の人、裴松之(はいしょうし)が校訂、注釈をほどこしている。略して「裴注」と呼ばれるが、三国志の簡潔さを補う形で膨大な量の注釈を付けている。

 この時、裴松之は「三国志」序文に「上三国志注表」を附している。そこで、「あるいは一事を説きて辞、乖離する有り。あるいは事の本異を出して、疑いて判ずる能(あた)はざれば、並びに皆内に抄し、以って異聞に備う」(本文中に矛盾があったり、異本があった場合には、両方とも抄録して、後代の判断を待つ)、「その時、事の当否寿の小失に及ばば、頗る愚意を以って論弁するところ有り」(もし、陳寿がちょっとした間違いを犯しているような時には、大いに私の意見で論弁を加えた)と述べている。

 「これは、単なる美辞麗句ではなかった。この姿勢は、注記全体の中に正しく貫かれている」というのが古田武彦氏の見立てである(「『邪馬台国』は無かった」)。

【「倭人伝」の版本について】

 ところで、「三国史」の原本つまり陳寿の自筆本は現存しておらず、今日現存するものは後世の写本であり幾種類かある。やっかいな事は、台本により用いられている文字が異なっていることにある。そこで、文字の用法や意味合いを廻って他の膨大な史書との比較検討が必要になってくる。

 版木としては、南宋時代(1127〜1279年)の紹興年間に刊行された「紹興本」(編年1131年〜1162年)並びに同じく南宋の紹煕年間に刊行された「紹煕本」(編年1190年〜1192年)が最も古いものとして残されている。なお、「紹興本」と「紹煕本」の記述に大きな相違は認められないものの、それぞれの底本は異なっているものと推測されている。

版木本 編年 解説
紹興本 1131年〜1162年

 南宋(1127〜1279年)の初期の紹興年間(1131〜1162年)、わが国の平安時代末期に刊行されたと見られるテキスト。このテキストは、魏志倭人伝を含む刊本としては、現存最古のものである。但し、「南宋代の知識」によってあちこち改訂されている節があり、原形をどこまで留めているのか疑わしいとされている。

 蜀志、呉志を欠き、魏志30巻だけが中国の上海商務印書館・かんぶん楼に蔵されている。

紹煕本 1190年〜1192年  南宋の紹煕年間(1190〜1194)に刊行されたと云われているが、この系譜を引く慶元年間(1195〜1200)の刊行本が存在しているだけであり、従って、正式には「慶元版」と呼ぶのが相当であるとも云える。「北宋・*平本」の重刻本と考えられており、精度が高い。

 この「慶元版」はわが国の宮内庁書陵部(皇室図書寮)に存在すると云われている。但し、三国志全65巻のうち、魏志の1から3巻が欠落している。

 清朝から中華民国時代にかけての学者張元済の編集した「百のう本」(24史の三国志の中の魏志倭人伝)は、宮内庁書陵部に有るものを写真印刷したものであるとされる。これらの系統を引くものとして、「百のう本」.「武英殿本」(2008字)等が現存している。

 遡って、「紹興本」並びに「紹煕本」の租本と考えられる「北宋刊本」(11世紀)は残されていない。現在存在する刊本は、南宋以後のものと見られる。倭人伝に関する限りでは、「紹興本」と「紹煕本」との相違は少なく、別表の通りである。このうち、3)4)6)8)は、いずれか正しいか判定できず、1)と7)は「紹興本」に従い、2)と5)は「紹煕本」の方が正しいとされる。陳寿撰「三国」志を読まんとする時、以上の流れを踏まえて読み進むべきであると思われる。ともすれば「三国志」の杜撰さを過大視する向きがあるが、上述の流れから勘案する時においては、逆に、可能な限りにおいて正確な記述を心がけたものとして受けとめる方が自然であるように思われる。


【陳寿が「三国志」撰述する以前の史書について】

 陳寿が「三国志」撰述するに当たり、既に三国時代について書かれた先行する歴史書がいくつか認められており、当然陳寿も又これらを参照にしたものと推測される。これらの著作としては、「魏書」、「魏略」、「魏史」、「呉書」などが挙げられており、ここに一瞥しておくこととする。

書名 撰者 巻数
「魏書」 王沈 全44巻
 魏には早くから歴史書作成の動きがあり、「三国志」前の定本として王沈の魏書がまず上宰されていたことが伺われる。王沈の魏書は260年代前半に書かれたものとされている。

 裴松之は「三国志注」の中に、「魏書」から多く引用しており、それを見るとなかなかの名文でもある。「魏書」と「三国志」はいわば対の関係にあるといえる。「魏書」が官書そのままに時の権力者の意向に添う形での御用的な記述を流れとしており、陳寿は「三国志」撰述に当り本書を相当意識してしたものと推測される。

 「魏書」に較べて「三国志」は複眼的に史実を伝えており、その意味で客観性を際だたせることに成功した。こうして「三国志」上宰後は、「魏書」が重んじられなくなったいきさつがある。「魏書」には鮮卑、鳥丸などの風俗、習慣、文化などが詳しく記述されており資料的価値が認められている。これは、作者王沈の一族が北方民族と関わりの深い官職についていた為、その地方の見聞が王沈に伝えられたのであろうと推測されている。
「魏史」 夏候湛
 夏候湛は魏朝屈指の名将でもあり、自分が活躍して形づくった歴史を、自分の手により歴史書として書き留めることを決意し、魏史を書き記すところとなった。後日談として、夏候湛は、陳寿の「三国志」をみて、「寿の作る所を見、すなわち己が書をこぼちて罷む」と述懐したという。
「魏略」 魚劵 全五十巻
「魏略」の成立は「三国志」よりも二、三十年早く、それだけ同時代史料に近いと云える。構成は、紀.志.伝の体裁を備えている。陳寿「倭人伝」の底本ともなったと推測されており、帯方郡から邪馬台国への行程記事や、倭人の生活や習俗の記述、倭国の有様を記した部分は、ほとんど「魏略」の記述に基づいており、又全体として「倭人伝」の三分の二余りがほとんど魏略から書き移す形で纏められていると推測されている。

 「魏略」は後漢の滅亡から明帝在位(227〜239年)の治政までの歴史をまとめたもので、成立は、太康年間(280〜289年)とみられる。38巻説または50巻説とある。現在、完全本はなく、逸文があるだけである。後に中華民国の張鵬一によってその逸文が収集されて義略 本25巻が作られているが、翰宛と漢書地理志に引く逸文はもれている。三国志の裴松之(372〜451年)の注をはじめ、唐宋時代の本にかなり引用されている。

 撰者魚劵は民間の歴史家及び蔵書家であり大富豪であった魚劵が作成者であると伝えられている。生没年不明である。魚劵の学識はかなり高いものであり、興味の趣くところを記すままに当時の武将や知識人のエピソードを伝えており、正史とは又違った異彩を放っている。特に四夷の異民族に興味を持ち、その生活や習慣を克明に記している。わが国からみて「魏略」の真骨頂は、東夷伝の中で、当時の倭国について格別の関心を寄せていたことが伺え、「位置、風俗、習慣、産業、人口、暮しぶり、国の歴史、組織」などについてより詳細に伝えていることにある。

 残念ながら「魏略」の原本はなくなっており、諸書にその逸文が残っているだけである。

 角林文雄氏や江上波夫氏は、「倭人伝」が異質の書き方の二部分に分かれていることを指摘し、「倭人伝」は、魏略の記述をそのまま採用しており、陳寿が魏と倭国との外交考証部分をつけ加え、倭人伝の全体が整ったと推定している。魏略は、現在では写本迄を含めて散逸してしまっており、他の本に断片的に引用されたのを集めたものとして「魏略輯本」があるが、これには肝心の倭国関係はあまり出ていない。推定し得る残存史料として、「翰苑」所載の魏略と「広志」の倭国記事がある。翰苑は唐の張楚金を撰者としており、中国には残っておらず、唯一写本が太宰府天満宮に伝わっている。
「呉書」
 呉でも260年頃から歴史書の作成が始まり、韋昭が「呉書」五十五巻を完成させている。

【「三国志」の構成について】
 三国志を編纂した陳寿は、魏朝を漢の正統を継ぐ系譜と見なす立場から、魏志には帝紀を記しているが、蜀志にも呉志にも帝紀は無い。全て列伝である。魏から禅譲を受けた晋、その史官である陳寿のこの視点が全編に貫かれている。

【「三国志」後の輔弼本について】
三国志注  南朝宋の裴松之(372〜451年)は、魏略.魏書など210種に及ぶ文献を引用して、補注をつくった。原書が解逸する中にあって、この補注が現在貴重な資料となっている。

【「三国志」の文体の特徴について】

 その文体は、「三国志は、その言葉、誠を勧めるところが多く、その得失は明らかであって、風化に益するものがある。その文章がつややかであるとはいっても、漢の司馬相如には及ばない。しかし、その質直はこれに過ぐ」(范きん上表文)の評に代表される。ここにいう「質直」とは、「論語」顔淵の「質直にして義を好む」の文章を受けているものと思われ、飾り気がなく正直という表現において内容そのものに客観性があるということを前提としており、三国志が史的事実に忠実な筆写となっていることを伺うことが出来る。


【「倭人伝」の構成について】

 「倭人伝」は、「東夷伝」の最後の章に記されており、全文の構成は次のようになっている。赤い糸のように貫かれているのは邪馬台国への里程であるが、それを伏線として、その@・倭人の地理的位置および国家形成の歴史的俯観。そのAは、道中の国名とその国勢。そのBは、倭の風俗、産物、自然、社会、歴史、政治。そのCは、魏と邪馬台国の外交関係史である。

 「倭人伝」の約二千字は、「東夷伝」に記載されている六ケ国の他の諸国、「夫余」、「高句麗」、「東沃沮」、「ゆうろう」、「わい」、「韓」と較べてみて、字数が多く描写が精密であり、陳寿ないし晋王朝が、それだけ「倭人」に対して関心の深さ又は「倭人」を重要視していたことが伺われる。あるいは、当時において東夷に占める「倭國」の政治的文化的な成熟度が相応しい字数を要請せしめたということでもあろうか。その記述は、倭(日本)の様子について、当時の國家形成の状況及びその特質あるいはその風俗を明らかにしている点で、又とない貴重な文献となっている。

 この記述のうちどこまでが実際の観察に基づいているのか、既存の資料に依拠しているのか、あるいは何らかの推量を混じえているのか。それぞれがどの程度正確なのか。残念ながら肝心の、邪馬台国へ至る里程や方位の記述は正確とは言い難く、記述の方位や距離をそのまま辿ったのでは、邪馬台国の位置を特定することができない。そのためさまざまな邪馬台国所在地論が展開される結果となっている。


【「倭地」と「魏」の歴史的関係について】

 「倭地」と「魏」は、「魏.呉.蜀」三国の中で地理的にもっとも近く、その往来も時の勢いであったことと思われる。「魏」は、元々揚子江の北部を拠点とする国家であり、やがて「蜀」との抗争に勝利を治めたことにより、次第に東方服屬化政策を一気呵成に進行させていくこととなった。

 当時朝鮮半島を支配していたのは公孫氏政権であった。公孫氏は、元々後漢の時代に公孫度が地方官吏として遼東半島の大守となったことに始まり、二世期の終わりには、後漢から自立して独立した軍閥になり、以来「遼東候平州牧」と名乗り、この地方の王としての権勢を振るうこととなったていた。公孫氏政権は、魏の西北に位置して遼東半島.山東半島.朝鮮半島を支配する第四勢力ともいえた。倭地との関係で云えば、204年に公孫度の跡を継いだ公孫康時代に朝鮮半島へ進出し、楽浪郡を手に入れ、200年から210年代にかけて楽浪郡の南に新たに帯方郡を置く等、朝鮮半島を支配することに余念がなかった。ちなみに帯方郡は水利の便を考えて、大同江の河口に南から流入するサイネイ江の上流に置かれたと推測されている。「三国志」によると、それによって倭国や朝鮮半島南部の小国家(いわゆる馬韓.弁韓.辰韓の三韓)が帯方郡に従ったとあり、東方の異民族との外交権を掌中に収めていたことが伺われる。

 この公孫氏政権は、呉の遠交近攻戦略からも重要視されており、こうして魏呉間のせめぎ合いに巻き込まれることとなった。公孫康はやがて221年没し、没後弟の公孫恭が跡を継ぐが、まもなく康の子の淵(在位228〜238)が位を奪い公孫氏政権四世となった時代は、わが国の卑弥呼の時代でもあり、魏呉間のせめぎ合いが頂点に達する時勢となった。公孫淵政権は、一方で燕王を僭称して、百官を設け、年号を紹漢と定める等独立王国化の道へ傾斜しながら、他方で、表面上は魏に服属しながら魏敵呉との同盟を計る等必死に延命策を労した。

 しかしながら武運つたなく、景初二年(238)八月に、司馬いの率いる四万人の軍兵により首都襄平城(遼陽市)が陥落させられ、こうして、この独立小国家として自立していた公孫氏は滅ぼされることとなった。都合公孫氏勢力は三世四代のわずか半世紀ばかりで命脈を断たれ、中国全体から見ればごく小さな地方政権にすぎなかったとはいえ、東アジア史の上からは見落とすことができない重要な影響力をもたらした政権であったといえる。

 こうして、魏の東方服属化政策は完遂されて行き、「魏」と「倭」の交流は、「魏」の國ができた直後から始まるという時勢ともなった。記録によれば、倭から魏への使いは、239年、 243年、247年、そして250年頃と、数回に渡っており、一方魏の使節も240年、247年、そして250年頃というように、倭を訪れている。ここで見落とされてはならないことは、魏と倭の関係も又呉と倭との交流の可能性とのせめぎ合いの中から選択された道筋であったと思われることである。詳細は本文の中で説明することになるが、公孫氏政権同様倭国も又魏呉間の政争の狭間で梶を取らねばならない運命に弄ばれていたものと推測される。但し、卑弥呼女王政権は、魏が朝鮮半島の支配者として君臨し始めた直後より、他の韓諸国が態度定まらぬうちより、魏との交渉を決断し、臣下の礼を取りもったということになる。それは魏からしてみても又倭国からしてみても時節に相応しい外交的成果を結ぶものでもあった。


【「中華思想」について】

 「魏志倭人伝」の世界へと渉猟して行く前に、前提として「中華思想」について確認しておかねばならない。中国には、自分たちの國がもっとも進んだ國であり、周りの國を蛮夷であるとする思想を古くより共通としている。その思想は、中国こそ世界の中心「中華」であり、中国の皇帝は、天帝の意志を察知して、天下に君臨して異民族を徳化するものと考えられることともなった。これを「中華思想」という。これによって、周囲の地方は、「東夷」、「西じゅう」、「南蛮」、「北狄」と呼んで蔑視されたリ、又国々や民族の名にも「朝鮮」、「匈奴」、「鮮卑」、「鳥孫」などの卑字があてられることともなった。「倭」というのも、従順なおとなしいという意味の漢字の当て字のようであリ、漢字のつくりそのものには意味は無いと思われる。


【「後漢書の訂正による却って混乱」について】
 中国の史書を記すと下記のように図示できる。問題は、宋代に編纂された後漢書倭人伝の魏志倭人伝訂正にある。後漢書倭伝は、魏志倭人伝を下敷きにしながらいくつかの重要な訂正を加えている。それが何故なのか今日でも解析されておらず、むしろ混乱を誘っている。
 
【中国歴代王朝と史書編纂年代】
後漢 三国時代
(魏、蜀、呉)
 晋 北漢、趙、涼、北魏等    (北朝)
漢書 三国志
東晋  梁 (南朝)
後漢書 宋書

 以下、重要な訂正個所を見てみる(古代史(制作者 塚田敬章)を参考にする。後半咀嚼できず、そのまま転載。ご理解のほどを)。

 
その第一は、魏志倭人伝の「邪馬一国」が「邪馬台国」と書き換えされていることである。これは、古田武彦氏が「邪馬台国はなかった」という本で詳細に確認したところである。後漢書倭伝には、後に唐の章懐太子の注が為され、「今の名を案ずると、邪摩惟(ヤバユヰ)音の訛ったものである」との解説が付けられている。実際には次のように書かれている。
岩波文庫「魏志倭人伝」所載の、「後漢書倭伝」(范曄撰。唐章懐太子賢注)原文影印には、次の文があります。(百衲本)
魏志倭人伝原文
後漢書倭伝原文 大倭王居邪馬臺国 (案今名邪摩惟音之訛也)
書き下し文 「大倭王は邪馬臺国に居す。(今の名を案ずると、ヤバユヰ音の訛ったものである。)」

 
「ヤバタイ」(漢音)は「ヤバユヰ」が変化したものだと注釈されているが、「邪馬一国」が「邪馬台国」へと書き換えられた理由は不明である。推測するのに、宋書倭国伝によれば後漢書が著された南朝、宋の時代に、長い間交流を絶っていた倭の五王が使者を派遣し朝貢してきた。この時、自分達の国をヤマダイ(呉音)と発音していた。後漢書の著者・范曄は、後漢書倭伝を記す際に、魏志倭人伝の邪馬壹(ヤマヰ)国を訂正し、邪馬壹(ダイ)国に書き改めた、ということになる。

 魏志は壹と臺を間違えていると判断したか、あるいは、今はヤマダイに変わっているから、こちらを採るべきだとか考えたのか、分からない。後漢書に注を加えた章懐太子賢は、より古い魏志に、邪馬壹国と表記されている同じ土地が、後の時代、邪馬臺国に改訂されたのは何故かを考え、ヤバタイという今(唐代)の名はヤバユヰ音が変化したのだという結論を下した。
つまり、注が入れられた7世紀の唐代から、魏志には邪馬壹国、後漢書には邪馬臺国と別の文字が書かれていて、この二系統が後世にそれぞれ伝わるようになった。

 ちなみに、唐代に著わされた隋書?国伝は、隋の使者、裴世清等が、日本を訪れた時の状況を記録している。遣隋使、遣唐使も多数派遣されて、交流が盛んな時代だったので、それだけ信頼性も高いが、邪靡堆(ヤバタイ)国と記している。

 なぜ、書き換えられたのかもう一つの理由として、邪馬壹国から邪馬台国へ転記される過程は、王朝の断絶を示す痕跡を示唆しているのではなかろうかということである。古事記(記)、日本書紀(紀)には、神武天皇の東征とされる王朝の交代が記録されている。このことに関連しているのではなかろうか、ということである。
 

 その第二は、卑弥呼の後継者、女王となった少女の名も「壱與(一与)」から「臺與(台与)」と書き改められている。二行に三回もその名が現れ、この全てが書き改められている。その一、二行後に「臺(=中央官庁)に詣ず」という臺が正しく書き分けられているというのに。 実際には次のように書かれている。
魏志倭人伝原文  立卑弥呼宗女壹與年十三、為王。国中遂定。政等以檄告喩壹與。壹與遣倭大夫率善中朗将掖邪狗等二十人、送政等還。因詣臺
後漢書倭伝原文
書き下し文

 
その第二は、明らかに内容記述の訂正が見られる。後漢書の記述のうち、魏志を引いた部分は五百二十文字ほどで、そのほとんどは原形に基づいている。しかし、以下に挙げる文は、その意味する内容にまで変化が及んでいる。

後漢書倭伝原文 楽浪郡徼去其国万二千里 去其西北界狗邪韓国七千余里
書き下し文 楽浪郡境はその国を去ること万二千里、その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里

 ヤマイをヤマダイに修正しただけではなく、魏志が邪馬壱国(女王国)の北岸、朝鮮半島にある別の国とする狗邪韓国を、邪馬台国の西北境界の国として、邪馬台国に含めている。

後漢書倭伝原文 犯法者没其妻子 重者滅其門族
書き下し文 「法を犯すものは、その妻子を落しめて奴隷とする。重者は、その一門を滅ぼす」

 魏志では、重犯者も「没其門戸及宗族」となっていて、奴隷にされるだけですから、後漢書の方が刑罰は重くなっています。没と滅は文字の形が大分異なっていますが、これは魏志の方に伝写の誤りの可能性があるかもしれません。没、滅となっていたのを、没、前の字に引っ張られて没という具合に。後漢書の方が間違えたとは考えにくいでしょう。没、没とあるのを没、滅とするには、滅というそのあたりに見あたらない文字を、勝手に思い浮かべて書き込まねばならないからです。ここは、後漢書が没から滅に訂正したか、魏志倭人伝の伝写間違いのどちらかと考えられます。
 《注…魏志の異本では、後漢書と同じく「滅」となっています。但し、後漢書の方にも「没」とする異本があるからややこしい。しかし、魏志が「没」、後漢書が「滅」という形が本来のもののようです。理由は説明できますが、迂遠になりすぎますので、ここでは取り上げません。  「没」は、魏志夫余伝に、「殺人者は死。その家人を没して奴婢となす。」という記述があり、身分を奪って奴隷に落とすことを意味します。》

  
後漢書倭伝原文 自女王国 東度海千余里 至狗奴国 雖皆倭種 而不属女王
書き下し文 「女王国より、東に海を渡ること千余里。狗奴国に至る。皆倭種といえども女王には属さない」
    
 魏志が単に女王国の南と記す狗奴国を、女王国の東、海を渡った向こうの国と書き換えている。後漢書倭伝は、自らの言葉に置き換えながら、魏志倭人伝を四分の一ほどに要約しました。したがって、著者の范曄が魏志を通読し、同じ意味を持つ言葉を探して推敲したことは明らかなのに、内容の違いが、こういうふうにいくつも現れるのは不可解です。特に、この狗奴国に関する記述は不審を抱かせます。魏志のその部分は、解釈に迷うような難解な文ではありません。それにもかかわらず、「南に狗奴国があって女王に従っていない。」、「東に海を渡って千余里で、また国がある。皆、倭種である。」という四十行ほど離れた位置にある無関係な記述を合成して、魏志では、方向が異なった全く別の国と認識される二つを重ねているのです。

 これを、単なる勘違いとして済ますのは軽率と言うべきでしょう。現代日本人である私でさえ、簡単にその内容を読み取って間違わない文です。「若くして学を好み、経史を広く渉り、善く文章を為す。隷書に長け、音律に明るい。」(宋書范曄列伝)と評された秀才范曄が、その程度の解釈を誤る凡庸な頭脳の持ち主とはとても思えませんから、そう書いたのは、何かしらの根拠があって、魏志倭人伝を修正したと考える他ないのではないか。

 范曄がうっかりまとめそこなったとするより、後漢書を記すにあたって、倭の五王の遣使によって得られた新たな資料と照合した。そして、魏志倭人伝は間違っているという判定を下し、訂正したとする方がよほど説得力を持ちます。魏志の真珠を白珠に改めたり、丹を丹土としたり、後漢書には明らかな訂正の跡が見られるのです。 倭の五王と書いてしまいましたが、范曄が後漢書を著わしたのは、元嘉元年(424)の冬に左遷された後で、数年間の志を得ない時期とされています(宋書范曄列伝)。したがって、五王のうちで、利用できるのは讃の遣使時(421、425)の資料だけということになります。ただし、それ以前の、東晋の義煕九年(413)にも、王名を欠いた倭国の遣使が記録されています(晋書安帝紀)。

 倭王「讃(*)」は応神天皇のホムダワケという名の漢訳の可能性が強く、それに八年先立つ413年の遣使なら、その一世代前の王、つまり、讃の母、神功皇后の遣使と解することができます。《*/讃=ほめる。古語=ほむ》

 そして、「その西北界狗邪韓国」、「東の狗奴国が女王に属さない」という後漢書の記述は、この413年の遣使の資料を得て魏志を改めたもの。神功皇后時代、西は朝鮮半島の狗邪韓国に至るまでを領有していたが、東方に抵抗勢力があってようやく服属させたという、当時の政情を反映したものと考えられるのです。

 神功皇后は卑弥呼、壱与以来続く女王国の後継者と誤解され得ますし、北九州(福岡県)に拠点を置き、朝鮮半島へ進出した後、瀬戸内を通って畿内へ攻め上ったことが「記、紀」に記されていますから、狗邪韓国を領し、一海(瀬戸内または関門海峡)を渡った東方の国が敵対するという、後漢書の伝える状況と完全に重なるわけです。

 范曄が、「海を渡った東方の国が従わず、長い間戦っていた。」という皇后の使者の残した言葉と、魏志倭人伝中の女王に属さない狗奴国の記述を結び付けたと解せば、全てが氷解します。

 この女帝の実在を疑う向きもありますが、「記、紀」の記述は存在感にあふれ、「紀」の編纂者が、神功皇后を卑弥呼に比定するという誤りを冒すほどです。おかげで年代が、170〜180年ほど狂ってしまい、後の時間と合わせるのに苦心惨憺しています。

 《年表》
391  神功皇后、朝鮮に侵攻。(高句麗広開土王碑/記、紀=香椎宮)
 難波の忍熊王と対立し制圧。(記、紀/=「海を渡った東方」)
413 義煕9年  神功皇后、東晋に遣使(晋書)。
421  応神天皇(倭王讃)、宋に遣使(宋書)。応神天皇は三十歳。
424頃  范曄、後漢書を著す(宋書)。新たな資料を得て魏志倭人伝を訂正。前王朝時代(東晋)の文献に従ったと考えられるので、邪馬台国はその文献に記された文字かもしれない。
425  応神天皇、宋に遣使(宋書)




(私論.私見)