邪馬台国=四国説(阿波説、伊予説、土佐説、山上説)考

 (最新見直し2007.1.10日) (目下、全く不十分です。引用、転載元は改めて確認する予定です)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 大杉博・氏の「邪馬台国四国山上説」は面白い。れんだいこは、盲目の詩人宮崎康平氏の「まぼろしの邪馬台国」以来の傑作ではないかと思っている。「邪馬台国四国山上説」そのものよりも、九州説、機内説を批判する論拠が参考になる。今暫くこの「邪馬台国四国山上説」を検証してみたいと思う。

 徳島について、古くから地元の神山研究会などにより、卑弥呼や神話の神々が徳島にいて、神武東征後に栄える畿内の倭を築くまでは徳島に朝廷があったとする説が唱え続けられている。大杉博・氏の邪馬台国四国山上説や、ユダヤの研究者として著明な宇野正美氏の古代ユダヤが剣山にモーゼ契約の箱を隠匿したという説まで種々ある。地図を見ると、神山町神領など神々しい地名があったりして、楽しめる。

 2003.9.12日、2007.1.10日再編集 れんだいこ拝


邪馬台国=四国山上説の根拠考】
 「四国山上説」は次のような事由から根拠付けられている。「日本史のブラックホール・四国」、「足摺岬縄文灯台騒動・最後のまとめ」、「古代史ファンクラブ通信◎邪馬台国四国説」等を参照する。
「邪馬台国」の語源  魏志倭人伝で邪馬台国といったのは、「海から見て、馬の背に見えるような国」の意であり、四国はその姿があまりにも相応しく、大きさも倭人伝の記述に合う。
「吉野川」の相似性  四国の地名が原名となって各地に広がっている可能性がある。吉野川と言えば、四国を代表する川だが、紀伊水道を挟み奈良(大和)の紀ノ川(吉野川)と相似性を見せているのもその一例である。四国にも秦性やハタの地名が数多くあるのもその一例である。和歌山にある那賀が徳島にもあり、香川県との境の大坂峠や奈良街道、小松島湾の香具山など、紀伊水道を挟んで同地名が数多くあることに驚かされる
「剣山」の存在  四国の文化的伝統が元となって各地に広がっている可能性がある。四国の人にとって剣山(鶴亀山ツルキ山)は一番高い山(実は二番目に高い山なのですが)で修験道の霊山となっている。7月17日は御輿を山頂まで担ぎ上げる祭りがある。7月17日は旧約聖書によると、ノアの箱船がアララテ(アララト山)に漂着した日とされている。この日は、京都の八坂神社では、山鉾巡行がある。
歴代天皇家との繋がり  四国と皇室の間には妙な繋がりがある。木屋平村三ツ木(貢)の三木家は今上天皇はもちろん歴代天皇の大嘗祭の時に献上する神具あらたえ(麻の織物)を作り続けている。一宇村の天岩屋戸、卑弥呼・天照大神の五角形の塚があり三角縁神獣境も発見されている国府矢野神山の天石門別八倉比売神社、卑弥呼の都であった神山神領の悲願寺、友内山山頂の高千穂神社、蓬莱山(高越山)など盛りだくさんの神話の里がある。
天孫降臨の地の符号  「魏志倭人伝」、「古事記」、「日本書紀」にある邪馬台国の特徴とぴったり符号する。穴吹町「中野宮」が葦原中国を治めるためにニニギノミコト(天照大神の孫)が天降って都をつくった場所(天孫降臨の地)だといわれている。現在「中野宮」には穴吹町 商工会青年部により「文曲星宮殿」が建設されている。

【木村鷹太郎が「人種学上宇和島の提供する無類の材料」】
 古くは愛媛県宇和島出身の明治の哲学者、木村鷹太郎が「人種学上宇和島の提供する無類の材料」(『世界的研究に基づける日本太古史・上』、一九一一年、所収)を現し、その方言、祭祀、民謡、伝説などから「宇和島人はアリアン人たり、ヤペテ人たり、キンメリ人たり、希臘、ホエニシア、埃及人たり、神話時代の神裔人種たるを証明」したが、むろん学界の容れるところとはならなかった。

邪馬台国=阿波説」】
 最初に世に問うたのは、1975年、郷土史家の郡昇・氏が自費出版した「阿波高天原考」である。

 翌1976年、古代阿波研究会が「邪馬壱国は阿波だった−魏志倭人伝と古事記との一致−」(新人物往来社)を世に問い、全国に知らしめられることになった。同書の奥付によると、古代阿波研究会の当時の事務局長は堀川豊平氏とあり、編集委員として多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓、岩利大閑、磯野正識各氏の名が記されている。

 「邪馬壱国は阿波だった」はまず、古事記が阿波国の別名としてオオゲツヒメと記していることに注目する。オオゲツヒメは農作物を産んだ女神の名でもある。そこからその昔の阿波国が穀霊の国であったということから論を進めていく。阿波国こそ記紀神話の高天原に他ならないと云う。更に、三国志の現存刊本にある「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤写ではないという立場をとって邪馬壱国とする。

 倭の女王・卑弥呼は記紀神話の天照大神と同一人物であり、その宮の跡は名西郡神山町神領の高根城址、御陵は名方郡国府町矢野の矢野神山山頂、天石門別八倉比売神社の奥の院にある五角形の石壇だと云う。また、記紀神話の出雲とは、阿波国南部の勝浦川・那珂川方面であり、三国志倭人伝の狗奴国にあたるという。この卑弥呼=天照大神の宮都・陵墓と、出雲=狗奴国の所在に関する比定は、山中、岩利、大杉各氏に引き継がれることになる。

 「邪馬壱国は阿波だった」のユニークなところは、邪馬壱国の統治システムとして、「卑弥呼が、瀬戸内海一帯にはりめぐらした山上の物見や通信台からの情報で、明日の天気を予見を予見すると、それは太陽光の銅鏡反射を利用し、ピカピカピカッという信号で中継通信基地、焼山寺山がうけ、それを四方に信号で」おくるという一種の光通信が行われていたという主張がある(焼山寺山は標高九三〇メートル、阿波の他の山々からの見晴らしがよい地点にある)。魏からもたらされた銅鏡百枚はこの反射信号に使われただけでなく、舟と陸上との連絡、舟と舟との連絡にも用いられた実用品だった。また、銅鏡ばかりでなく、自然の鏡石を利用した古代の灯台もあったという。

 それが単なる空想でない証拠として、同書は阿波の中津峰山麓の古老の「むかしは、中津峰山で火がピカピカピカッと出たら、あくる日は雨になるといいますわ。そういや、このごろはでまへんな。昔は出よったといいますわ」という言葉を挙げ、「太古のことを、ついこの間のように語り伝えてきたものなのでしょう。(中略)古代をついこの間のように語りつたえる古老たち。その陰にどのような邪馬壱国の非運があったのでしょうか。抹殺と無視にたえて約二〇回の百年の節をこえてきた庶民の豊かな表情とゆとりに、いったい何があるのでしょか」と感極まった口調で説明している。

 「邪馬壱国は阿波だった」では、阿波が高天原だったことがなぜ忘れられたのか、その理由を明記していない。ただ、明治の漢学者・岡本監輔が阿波麻植郡舞中島出身であるにも関わらず、「千葉県平民」を称していたことに「歴史のゆがみを思わざるをえない」と暗示するにとどめている。

俳優・フランキー堺の注目
 俳優の故フランキー堺はこの「邪馬壱国は阿波だった」を読んで驚き、日本テレビのプロデューサー・山中康男氏との共同で、「いま解きあかす古代史の謎!ついに発見!!幻の国・皇祖の地高天原」(出演・フランキー堺)を製作した。山中氏は、1977年、その時の取材調査成果を「高天原は阿波だった」(講談社)という書籍にまとめた。

岩利大閑氏の道は阿波より始まる」】
 「道は阿波より始まる」が、「その1」、「その2」、「その3」の三部作で、それぞれ1985年、86年、89年に出された。同書は岩利大閑氏が自ら主催する阿波国史研究会の成果として発表していた自家版を、(財)京屋社会福祉事業団が、“好きとくしま大好き”運動の一貫として増補・再販したものである。岩利氏は「邪馬壱国は阿波だった」奥付に古代阿波研究会の編集委員として名を連ね、また山中氏の番組制作に際しては、その取材現場を案内した人物である。

 岩利氏の主張のユニークなところは、高天原だけではなく、記紀にいう「大倭」とは阿波国のことであるとし、大和朝廷は天武もしくは持統の時代にようやく畿内に入ったとするところである。

 岩利氏は語る。
 「『日本書紀』の記事の中に“阿波国”の国名が一切でてきません。『古事記』神代の物語りから“伊予”“阿波”の二国のみが記され、そのうえ衣類、食料までが原産地阿波国と明記されているにもかかわらず、『記紀』何れの文中にも“阿波国” 云々がでてこないのは誰が考えても不思議と思いわれませんか?」(「その三」)。

 岩利氏によると、聖徳太子(厩戸皇子)は引田町の厩戸川の川口で生まれた生粋の阿波っ子であり(その一)、一般には滋賀県にあったとされる天智天皇の大津京も伊太乃郡山下郷の大津に置かれていたということになる(その二)。

 面白いのは、宋書倭国伝に記された倭の武王の上奏文の解読である。その中には、「東征毛人、五十五国、西服衆夷、六十六国、渡平海北、九十五国」とあるが、岩利氏は武王こと雄略天皇の都も阿波国にあったとする立場から、毛人の国々を近畿地方、衆夷の国々を九州地方、北の国々を中国地方に求める。「渡平海北」は一般に「海北に渡りて平らげる」と読まれ、朝鮮半島への進出を示す記述と解されているが、岩利氏はこれを「北に平海を渡り」と読み、単に瀬戸内海を渡ったところにある国々の描写にすぎないというわけである(その一、その二)。

 なお、“和製インディ・ジョーンズ”の異名を持つ鈴木旭氏はこの「道は阿波より始まる」三部作を読んで以来、邪馬台国阿波説に立つことにしたと表明しておられる(鈴木「もしもの日本史」、日本文芸社)。

 また、聖徳太子が四国にいたという論考としては岩利氏の著書の他に西野八平氏の「法興天皇記」(講談社出版サービスセンター製作、1987年)がある。西野氏は聖徳太子は大王に即位し、蘇我馬子と共に愛媛県松山市の来住廃寺遺跡の地で日本を統治していたとする。推古朝遺文に現れる年号「法興」は聖徳太子の年号だという。また松山氏の天山神社は天から下りた山が二つに分かれ、その一つが天山となったという縁起を有するが、それは聖徳太子と蘇我馬子の二人が共に大王であったことの暗喩だという。

 また、西野氏は祐徳稲荷(佐賀県)、伊予稲荷(愛媛県)、伏見稲荷(京都府)、豊川稲荷(愛知県)、笠間稲荷(茨城県)、最上稲荷(山形県)という日本六稲荷の順番は邪馬台国の勢力が広がる過程を示すもので、伊予稲荷近くの谷上山宝珠山(聖徳太子創建)に「愛比売」が降臨したとの伝承は卑弥呼の宗女・壱与(伊予)の地を引く娘に関するものであろうともしている(察するに西野氏は邪馬台国については九州説をとっておられるらしい)。


【やまし氏の「邪馬台国=東四国説」】
 2007年度現在、ハンドルネーム「やまし」氏が、「邪馬台国=東四国説」を主張している。同氏は、「邪馬台国東四国説」で、「記紀の神代の舞台は鳴門市大麻山周辺」、「卑弥呼の墓は、徳島県鳴門市大麻比古神社の丸山」り」としている。

【浜田秀雄氏の「邪馬台国=四国北岸説」】
 浜田秀雄氏は、古代阿波研究会の活動に触発されて「邪馬台国=四国北岸説」を唱えた。同氏は、著書「契丹秘史と瀬戸内の邪馬台国」(新国民社、1977年)において、邪馬台国を四国北岸、卑弥呼の居城を、松山市大峰台西南の台地斉院に求めた。
 浜田氏は同書で、「四国説は四国の郷土氏家グループが主張していますが、学界では無視されています」と状況を述べ、契丹秘史、上記、宮下文書などのいわゆる古史古伝を用いて持説を裏付けている。同書カバーに出版社がつけたコピーは次のように述べている。
 「山東省のラマ寺から発見された謎の契丹秘史三千字(中略)著者は二十年の研究によって遂に解読し、日本民族のルーツと邪馬台国のルーツについて重要な手がかりを得、倭人の実体を解明するとともに邪馬台国は四国松山に比定できるという驚くべき結論に到達した。更に魏志倭人伝と古事記と、上記・宮下・竹内など従来統一できなかった各史書の綜合的な解明に成功し、これらの史書がすべて同一結論即ち邪馬台国松山説を示すことを考証し日本古代史のミッシングリングを埋めた」。

【三島明・氏の「邪馬台国=北四国説」】

 愛媛県伊予松山市在住の三島明氏は自費出版で、「新説古代史・神話と宇摩(天・邪馬台・日)」(1992年)、「謎の女性像は卑弥呼!?−宇摩の不思議と古代史の解明−」(1993)、「邪馬台国は北四国,伊勢神宮となった」(1994年)を著し、愛媛県宇摩郡を中心とする北四国に邪馬台国=高天原を求めている。

 三島氏によると「古代史の混迷は、九州や近畿との思い込み、また、統一の時期の思い込みなど、多くの思い込みに阻まれて、史実の扉が残されているのに、気付かないところから始まっている」という。

 三島氏は、西暦紀元前後の日本にはすでに伊予王朝による統一国家が存在し、記紀が伝える初期の大和朝廷の天皇は伊都国王と同様に邪馬台国の下位にあったとする(「邪馬台国は北四国,伊勢神宮となった」)。三島氏の伊予王朝説はまだまだ発展途上にあり、今後の展開に期待したい。


【土佐文雄氏の「邪馬台国=土佐説」】
 土佐文雄氏は、著書「古神・巨石群の謎」(リヨン社、1983年)の中で、概要「『邪馬壱国は阿波だった』を意外にしっかりしたきまじめな研究書」として好意的に紹介し、「邪馬台国土佐説」を採り、卑弥呼の居城を高知県香美郡土佐山田町の古神にある巨石群に求めた。ただし、同書は土佐氏のオリジナルな説を記したものではなく、地元の郷土史家、北山南・樫谷義広両氏の研究に基づいて制作されたテレビ番組「古神・巨石群の謎」(NHK高知放送局)の取材過程を記したノンフィクションである。土佐氏はその番組でリポーター役を務めた。 

 邪馬台国四国説では三国志倭人伝の方位で「南」とある箇所を「東」の誤りとするのが通例である。倭人伝に北部九州から先の行路に「南、邪馬台国に至る。女王の都する所、水行十日、陸行一月」と明記されている以上、方位の訂正なしで、九州の東にある四国に邪馬台国を持っていくことはできないからなのだが、土佐説だけは例外的に「南」のままで正しいとする。つまり、北部九州から九州東岸をそのまま南下して土佐を目指すことになる。

 なお、NHKの取材が契機となり、今や古神巨石群は、「甦った・なる邪馬壹」、「平和日本お誕生ご所」、「倭華宮」、「日本のルーツ・ヤマトの国センター」、「とさ若宮日本蓬莱山邪馬台国センター」としてテーマパーク化されているという。もっとも、それを守っているのは樫谷義広ただ一人だそうだ(根本敬「イジメもやまる日本発祥の地」別冊宝島「全国お宝スポット魔境めぐり」、1998.4月所収)。

大杉博氏邪馬台国=四国山上説」の登場】
 1977年、倭国研究会を主催し、邪馬台国四国説の論客でもっとも精力的に活動している大杉博・氏が、「日本の歴史は阿波より初まる−天孫降臨の地を発見す−」を自費出版した。1979年、「ついに解けた古代史の謎」で「大和朝廷の秘密政策説」を発表。その後も自費出版で自説の発表を続け、1992年、「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)を発表して、その成果を世に問うた。

 大杉氏は邪馬台国を阿波国内にとどまらず、四国の中央山地全体に広がる国だったとする。ただし卑弥呼の都城や陵墓、出雲国(狗奴国)などの位置については、古代阿波研究会の結論と共通しており、その意味では阿波説の一変種とみることができる。
 大杉氏は自説の証明として「写真の公理法」を提起している。「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」(たま出版)の中で次のように述べている。
 「富士山は写真などでもよく見る山である。そして、写真を見たときに、“富士山だ!” とすぐ分かる山である。この富士山をカメラで写した場合、できあがった写真は富士山を写した写真に間違いなく、一方、富士山もその写真に写っている山(実体)に間違いないと言うことができ、双方がそれぞれ間違いのない本物であるということができるのである。これが“写真の公理”である。(中略)では今度は、どこかの路上で一枚の紙を拾ったとする。その紙には、“その山は日本一高く、広い裾野には湖が五つあって、湖面に美しい山の姿を映している”と書いてあったとする。その場合、日本人なら誰でも“ああ、これは富士山のことだ”と認めるだろう。その場合、何時、誰がその紙に書いたのかということには関係なく、“富士山のことを書いている”と認めるのである。また、富士山は、その紙に書いてある山に間違いないと認められ、その比定に異議を唱える者はいないのである。すなわち、その紙に書いてある記事の信憑性が有ることと、“富士山”とする比定が正しいこととが、双方同時に認められたことになるのである」。

 大杉氏はこの方法で阿波の風土・産物と記紀神話の舞台を比較したところ、百項目以上の共通点をみつけたという。これだけの共通点がある以上、阿波は高天原で邪馬台国に間違いない、他の説をとなえる論者は自分を論破できない限り、すべて邪馬台国から手をひかなければならないと主張している。

 大杉氏は、四国山上邪馬台国が史実から消された理由について、大和朝廷の大秘密政策の存在を主張する。それは、白村江の敗戦と壬申の乱の後、大和朝廷が一時、信望を失い「大君の先祖は、南海の小さな島の上で、山猿のような暮らしをしていたのだそうな」という噂が流れたため、天皇家の本当の出自を隠すための政策が行われたというのである。その政策は平安時代まで続き、空海が四国八十八箇所を定めたのも、四国の霊地を訪ねる巡礼を本当の聖域に近づけないための方策であったという。大杉氏は、この大秘密政策によって「四国は死国にされてしまった」と主張する。

大杉博氏「邪馬台国論争」】
 大杉氏は、1980年から榎一雄・安本美典・奥野正男・古田武彦らの邪馬台国研究で高名な研究者たちに対して私信による論争を挑んだ。相手は61名の研究者と3団体に及び、その経過は「邪馬台国の結論は四国山上説だ−ドキュメント・邪馬台国論争」(たま出版、1993年)という本で公開されている。「たちまち沈黙してしまわれる」とある。

 著書「天皇家の大秘密政策」(徳間書店、1995年)の序には次のように書かれている。
 概要「私は、発見した事実の正しさを確認するために、多くの研究者に手紙による論争を申し込んだ。論争の結果は、まことに不毛なものに終わった。私が論争に敗れたというのなら、それはそれで実りある論争だったはずだ。ところが私は、決して敗れはしなかったし、勝ちもしなかった。勝ちもしなかったというのは、相手が負けを認めてくれなかった、ということだ。明らかに詰んだ将棋でも、投了さえしなければ負けないということを、私は初めて知らされた」。

 これに対して、論争を挑まれた側の安本美典氏は、「虚妄の九州王朝」(梓書院、1995年)で、その際の気持ちを次のように慨嘆している。
 「『季刊邪馬台国』の編集を通じて知ったことは、世の中には、ほとんどまったく誤りだと思える自説を強く信じて、他説を論難攻撃してやまないタイプの人が相当数存在しているということである。その説は、どのような説得によっても、訂正されることがない。(中略)自説は“仮説”ではなく、いかなる方法をもっても死守すべき“絶対の真実”なのである。そして、ひとたび自説の立場に立てば、自説にとって、いかに不自然な事実も、眼にはいらなくなる。みずからが、ゆがみ、さか立ちしている可能性もあるのであるが、みずからは、絶対にゆがんだりさか立ちしていないと、頭からきめてかかるのであるから、他の説はみなゆがみ、さかだちしていることになる」。

 この経緯について、原田実氏の
「日本史のブラックホール・四国」は次のように述べている。
 「しかし、相手が負けを認めなければ勝てない、というのは、大杉氏が一方的に論争を挑んだ相手の方からしても同様だろう。第一、一方が自らの「正しさを確認するため」の論争などは、始める前から不毛なのである。議論においては、仮説の反証可能性が問題とされる。すなわち、ある仮説について、どのような反証が現れればそれが成り立たなくなるか、仮説の提唱者と論争相手の間に共通の認識があって、初めて学問的な論争が成立する。しかし、大杉氏は自らの正しさを自明の前提としており、その仮説である四国山上説について、何ら反証可能性を示そうとはしなかった。このような態度が学界で相手にされないのはむしろ当然なのである」。
 大杉氏の「写真の公理法」に対して、結果としてもっとも辛辣な批判となっているのは前田豊氏の「倭国の真相」(彩流社、1997年)であろう。前田氏はその前著「古代神都東三河」(彩流社、1996年)で、高天原=邪馬台国が東三河にあると主張したが、「倭国の真相」ではその説の傍証として二箇所、大杉博氏の著書からの引用をしている。大杉博著「天皇家の大秘密政策」で、万葉集の柿本人麻呂の歌に基づき、古代の大和国には海があったはずだと論じている箇所を引いて、「大杉氏は四国に “倭の国”を想定されているのであるが、この状況はまさに、東三河やまと説について当てはまるのである」とする。

 また、同書の別のところでは「邪馬台国は間違いなく四国にあった」から、釈日本紀に、畿内を北倭、女王国を南倭とするくだりがあるという記述を引用し、「四国邪馬台国説の大杉氏には悪いが、その文献はまさに東三河のことを表している(中略)。南倭は古代中国の地理観では、東に相当するから、東倭でもある。まさに日本の東海に地方にある倭、東三河の大和であったのだ」と述べている(ちなみに、釈日本紀の「北倭」「南倭」の説はもともと山海経の誤った訓読から生じたものである)。

 原田実氏の
「日本史のブラックホール・四国」は次のように述べている。
 「大杉氏には『写真の公理法』で四国のことを指しているとしか思えなかった記事が、前田氏の目には東三河を指しているものと写っていることになる。主唱者の信念の強さでいえば、前田氏の東三河説は、大杉氏の四国山上説に決してひけをとらない。そして、信念の強さを競うのは、真実の探究とは何ら関係のない不毛な行為なのである」。

 なお、古代阿波研究会が卑弥呼の陵墓とみなし、大杉氏もそれに従っている矢野神山の石壇について、原田大六氏は「卑弥呼の墓」(六興出版、1977年)の中で次のように批判している。
 「日本全国の考古学者で、これを三世紀の卑弥呼の古墳と考える人は、誰一人なかろう」。
 「星形祭壇は、弥生時代にも古墳時代にもなく、それは“矢野神山の奥の院”の後世のちゃちな石壇にすぎない」。
 「石棺を崩して、棺材を石壇とし、その上に小祠を立てて祭ったというのが実情と考えられる。見取図では特別の石を敷いているように見えるが、掲載の写真を見ると石棺材に間違いなかろう。大墳丘を持たぬ粗製の組合せ式石棺は古代庶民の墓である。それを江戸中期になって盗掘したもので、卑弥呼の墓とは全く言えぬ代物であった」。


【「日猶同祖論」と四国の関わり】「失われたアーク」
 「邪馬台国四国山上説」に微妙な影を落としているのが「日猶同祖論」である。「日猶同祖論」とは概要「古代ユダヤの流浪の民が日本に渡来してきており、これが皇室の祖先となっている」とする説であるが、酒井勝軍がこれを唱え、宇野正美が継承した。曰く、遠い昔古代ユダヤ小王国が徳島にあり、剣山上に今も「モーゼのアーク(契約の聖櫃)」(アークは、ハリソンフォードの映画「レイダース 失われたアーク」で取り上げられている)が秘せられている。天皇家の菊花紋と聖地のヘロデ門にある菊模様が同じであり、東祖谷村にはキリストと読めないこともない「栗枝渡神社」がある云々。

 そもそもアークとは一体何か。なぜアークが四国にあるのか、これを見ておくことにする。旧約聖書によると、アークとは元々、モーゼが出エジプトの際にシナイ山で神から授かった十戒の石板を納めた箱のことを云う(「出エジプト記」第十九〜四十章)。ヘブライ(イスラエル)王国第3代目のソロモン王は、ツロ(テュロス)の王ヒラムの協力を得て、エルサレムに壮麗な神殿を建ててアークを安置した。その神殿建設には黄金、青銅、レバノン杉など高価な装飾や建材が惜しげもなく用いられた。ヒラムは偉大な航海民族・フェニキア人の王の一人だった。またソロモン自身もタルシシ船といわれるフェニキア人の船団のオーナーだった。ヒラムの船団とソロモンのタルシシ船団は、協力して紅海、地中海、そしてさらに遠い海の彼方へと交易に向かい、イスラエルに富をもたらしていたのだ。それが世に言う「ソロモンの栄華」である(旧約聖書の「列王紀上」第五〜十章)。

 ソロモンの死後内乱が起きて、その王国は北朝イスラエルと南朝ユダに分裂する。イスラエルは前721年アッシリアに滅ぼされ、ユダは前587年新バビロニア王ネブカデネザルに滅ぼされた。ユダ滅亡の際、バビロニア兵が首都エルサレムに乱入して、神殿も王宮も焼き払う。「列王紀下」25章には、財宝をすべて持ち去ったとある。

 だがアークに関する記述はない。神の栄光の象徴たるアークも、バビロニア人から見れば石板を入れたただの箱である。常識的には、アークはその時壊されたはずだ。しかし、信仰者とすれば認めたくはない。イスラエル人から見れば神の栄光の象徴たるアークも、バビロニア人から見れば、石板を入れたただの箱に過ぎない。彼らの関心はただその箱を飾る黄金にのみ向けられたはずであるとして、失われたアーク探索の試みが、史上幾度となく繰り返されることになった。ルーカス、スピルバーグ監督の映画「レイダース 失われたアーク」の国際的ヒットにはそのような歴史的背景がある。

 ところで、このソロモン王が実は死んではいなかったという説がある。3000年近く前、故国を脱出したユダヤのソロモン王家の一族は、なんと日本にやってきた。7000人というユダヤ人達一行は、四国の室戸岬に上陸して剣山に移り住んだ。以来この山頂において、14代800余年にも及ぶ生活をはじめたというのである。その集落が「倭」であり「和」であった。これこそが「邪馬台国」だという。

 ある時王達はこの和を出ることになる。奈良にたどり着いた一族はそこで国を造る。もっと大きな和、つまり「大和」である。だから天皇家の祖先はユダヤ人だということになる。一方、四国の和は「阿波」と変化する。淡路島はこの「阿波への路」からきている。そしてみんなを、奈良の大和へ連れて行ったリーダーこそが聖徳太子だというのだ。

 謎の多い「カゴメの歌」はソロモンの秘宝を歌ったものだともいう。剣山の頂上には宝蔵石、鶴石、亀石という3つの大巨岩があるが、歌詞の鶴と亀はこの石を指している。夜明けの晩とは、月と太陽がともに天にあろうとする時期をさし、伊勢神宮のシンボルに符合する。また、カゴメは籠目、籠目紋といえば、つまりソロモンの星と同じ六芒星を意味する。宝蔵石こそが財宝のありかを指す岩ということになる。

【「アークは四国にあり説」】

 最初にアークが剣山に隠されていると言い出したのは、神奈川県出身の元小学校校長・高根正教という人物である。高根は、「新約聖書」と「黙示録」、さらに「古事記」を比較研究して剣山に「契約の櫃」が隠されているという結論に達したという。高根は戦後の1952年、「四国剣山千古の謎−世界平和の鍵ここにあり」という小冊子を上宰している。また、その遺稿が御子息の高根三教氏により、「ソロモンの秘宝」(大陸書房、1979年)、「アレキサンダー大王は日本に来た」(システムレイアウト、1990年)という二冊の本にリライトされており、そこから高根の考えの道筋をたどることができる。

 それによると、「黙示録」第四章にある神の栄光を示す四つの生き物の記述(獅子、牛、人、鷲)と、「古事記の国産み神話」に、「四国は、面四つあり」とする記述が対応するものと考え、神の栄光の象徴たる「契約の櫃」が四国の剣山に隠されているということになり、「四国」とは「死国」であり、黄泉国であったとする。「アレキサンダー大王は日本に来た」によると、西洋史で早逝したとされるアレキサンダー大王(前326年没)は、実は自らの死を偽装して日本に渡来して、第10代崇神天皇となった。その後、アレキサンダーは田島守をエルサレムに派遣して「契約の櫃」をこっそり日本へと運ばせ、四国剣山に隠したのだという。田島守(田道間守)に関して万葉集に大伴家持の「橘の歌一首」がある。田道間守は、常世国から「トキジクカグノコノミ」を持ち帰ったと歌われている。

 また、剣山の麓、徳島県祖谷地方に伝わる次の民謡は、「契約の櫃」の所在を示すものだという。

  九里きて、九里行って、九里戻る。
  朝日輝き、夕日が照らす。
  ない椿の根に照らす。
  祖谷の谷から何がきた。
  恵比寿大黒、積みや降ろした。
  伊勢の御宝、積みや降ろした。
  三つの宝は、庭にある。
  祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
  先なる車に、何積んだ。
  恵比寿大黒、積みや降ろした、積みや降ろした。
  祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
  中なる車に、何積んだ。
  伊勢の宝も、積みや降ろした、積みや降ろした。
  祖谷の空から、御龍車が三つ降る。
  後なる車に、何積んだ。
  諸国の宝を、積みや降ろした、積みや降ろした。
  三つの宝をおし合わせ、こなたの庭へ積みや降ろした、積みや降ろした。

 高根の説はあまりにも抽象的、神秘主義的であり、文脈を追うことさえ難しい。また、その発想には木村鷹太郎の新史学の影響が強く読み取れる。

 
さて、大杉氏は「天皇家の大秘密政策」において、大秘密政策の理由について、意見の修正を行っている。大杉氏は述べる。「“天皇家の出自は四国の山上であるという噂が広まると、民衆に嘲笑されて大和朝廷を維持することができなくなるので隠した”というのは、天皇家の出自を隠した理由として弱いということは、私自身も感じていた。しかし、私としては当初、それ以上のことは脳裏に浮かばなかったのである」。

 ところが、大杉氏は、ユダヤ問題研究家として名高い宇野正美氏と邂逅し、剣山に登ってから新しい知見を得る。四国剣山の秘密にたどり着く。その秘密とは、単なる「日猶同祖論」ではない。概要「現在の世界を陰で支配しているといわれるユダヤ人は、実は本物のユダヤ人ではない。その決定的な証拠が、日本の、しかも四国の剣山に隠されている。その証拠が『契約の箱』であり、大秘密政策は『契約の箱』を隠し通すためのものであった。空海が四国八十八箇所を定めたのも、聖域に近づけないための『結界』にせんが為であり、この大秘密政策により四国は死国にされた、四国は黄泉国にされた」と主張するところとなった。


【「ソロモンの財宝は四国にあり説」】
 高根は1936年、内田文吉という古神道の研究家と出会った。内田は剣山に鉱区採掘権を持っており、高根と意気投合するや、その年の7月から鉱区採掘の名目で高根の指揮により、発掘を開始した。その坑道からは、大きな玉石や鏡石が出てきたが、アークと関係のありそうな出土品はついに得られないまま、二人は1943.12月、発掘を中止せざるをえなくなった。高根と内田が発掘を再開したのは、敗戦後の1945.9だが、たちまち資金が底をついてまたも断念、49年には内田が貧窮の内に世を去った。

 なお、50年前後の頃、清水寛山という人物がやはりアークを捜して剣山に登ったが、岩穴で一夜を過ごす途中、岩の下敷きになって死んだという地元の人の証言もある(大塚駿之介「四国にあるソロモンの秘宝」『特集人物往来』昭和三十三年五月号、所収)。


 1951年、高根は徳島県に埋蔵文化財発掘許可申請書を提出したが、翌年、元海軍大将・山本英輔と映画監督の仲木貞一、新興宗教・宙光道教の幹部らが同様の申請書を提出、県ではそちらのみを取り上げて、高根の申請を黙殺した。

 山本、仲木とも太古史マニアともいうべき人物であり、山本はかつてソロモン群島にソロモンの埋蔵金を捜したことがあるという(ソロモン群島の名は、1576年、スペインの探検家がこの島を発見した際、島民が黄金の装飾品を身につけていたことから、ソロモンに黄金を供給した伝説の国オフィルかと疑われたことに由来する)。仲木は関東大学教授になったこともあるインテリだが、戦前には自ら青森県戸来村のキリスト伝説の映画を海外向けに制作したこともある。このように山っ気のある人物がそろうことで、剣山発掘の目的はアークから、時価八千億円のソロモンの埋蔵金にすりかえられてしまった。

 山本は新興宗教・宙光道の中村資山ら同志を伴って52.8.7日に剣山入り、17日から発掘を開始した。その発掘により、山本らは五十体以上のミイラを発見したと主張するが、それは風化のため、土と見分けがつかなくなっていたということで真偽不明である。途中から、竜宮教教主・伊藤妙照なる人物も剣山に入り、古代の土器や人体の化石を掘り出したと発表したが、その現物は公開されなかったらしい。9月に入ると山本らの発掘は資金難から次第に行き詰まり、残ったのは発掘口の穴と山本の借金、そして神域を荒らしたことに対する地元の怒りの声ばかりという有様となった。

 山本らの発掘挫折の後、剣山を御神体山とする大剣神社では剣山山頂の発掘を一切禁じるという立場をとった。その後、70年代においても、宮中要吉氏ら少数の有志による発掘は非公式に続けられていたが、地元の大多数の人々は、その話をもはや忘れさろうとしていた。

 ところが1,990年代に入ってから、この状況に変化が生じる。きっかけは国際文化新聞編集長(当時)の三浦大介氏が、高根三教『アレキサンダー大王は日本に来た』を編集した縁で剣山を訪ねたことである。三浦氏はそこで大杉博氏と知りあい、国際文化新聞紙面に、邪馬台国四国山上説の発表の場を設けることになった(大杉『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』の推薦文は三浦氏が書いている)。

 かくして、剣山のアークは四国山上説とセットで三浦氏により広められることになった。真先にこれに注目したのは先述の宇野正美氏である。大杉博『邪馬台国の結論は四国山上説だ』の帯コピーには「宇野正美氏も絶賛」の文字が踊っている。宇野氏は「古代ユダヤは日本に封印された」(『歴史Eye』九四年七月号、日本文芸社、所収)において、次のように主張する。現在、ユダヤ人と呼ばれる人々の大多数は紀元後八〇〇年頃、ユダヤ教に改宗した中央アジアのカザール人の子孫、アシュケナジー・ユダヤ人である。本当のユダヤ人ともいうべきパレスチナのスファラディ・ユダヤ人はアシュケナジーにより虐げられてきた。

 スファラディ・ユダヤ人の中には日本に渡来して、大和朝廷の日本統一に協力した者もいた。日本の神輿は「契約の箱」にそっくりであり、古代ユダヤ人の日本到達の証拠となる。「契約の箱」を日本にもたらしたのは、おそらく預言者イザヤの一群であろう。イザヤはユダ王国が滅びるのも近いと見抜き、「契約の箱」をもってイスラエルを脱出、日本に向かった。大杉博氏のアドバイスによると四国山上には古代のハイウェーが走っている。剣山が人工の山であることは高根正教の発掘で証明された。四国が到着地となったのは、四国山上の地形がパレスチナの地形によく似ているからである云々。

 以上の主張は宇野氏の著書『古代ユダヤは日本で復活する』(日本文芸社、一九九四年)でも繰り返されている。なお、この著書によると、宇野氏が預言者イザヤに着目したのは、記紀神話のイザナギ・イザナミをイザヤとその妻のことだとする川守田英二の説(川守田『日本ヘブル詩歌の研究』上・下、一九五六・五七年)に基づいてのことだった。

 また、一九九四年九月八日から十一日にかけて、徳島県美馬郡貞光町の商工会青年部は宇野氏や大杉氏の主張を地域振興に利用するべく、日本探検協会会長・高橋良典氏を招き、剣山周辺の遺跡調査を行っている。

 その前日、同年九月七日付・徳島新聞は「古代史ロマンで活性化」という見出しでこのことを報じた。その記事では同商工会青年部の斎藤衛氏が「古代史ロマンは貞光町だけでなく、四国四県にまたがんている。今後は、他地域の有志らにも呼び掛けて情報ネットワークをつくり、面的な広がりを持つ地域振興を図りたい」とコメントし、同紙コラムでも乾道彦記者が「剣山に古代ユダヤ人が移住し、日本の基礎を確立。邪馬台国へとつながった−(中略)この仮説と地域振興をつなげ、滞在型の“古代史の里”の整備は、ユニークな構想だ。過疎化に悩む地域にとっては、一筋の光明ともいえる。いかに育て、広げていくか。活動に注目したい」と述べている。

 さて、『古語拾遺』は古代、天日鷲命(『新撰姓氏録』によると斎部氏=忌部氏の祖)の一族が四国の阿波に入り、さらに阿波の忌部氏が関東の安房へと移住したことを伝える。日本探検協会はこの斎部氏=忌部氏の伝承に特に深い関心を寄せたようだ。

 高橋氏の剣山調査に同行した有賀訓氏は、その直後に書いた「房総『笠石遺跡』の秘密がついに解けた!」(『weeklyプレイボーイ』一九九四年十月二五日号、所収)で、房総半島に「亀をモデルにした石造物」があるとして、昭和薬科大学教授(当時)・古田武彦氏の「縄文時代の航海者は亀を崇拝していた」という説を紹介し、「斎部の故郷・剣山周辺の古代遺跡を見て回ったが、予想どおり亀をモデルにした巨石を数多く確認できた。となると、海上のアワ・ルートを通じて房総へ巨石文化を持ち込んだ人々の正体はやはり斎部氏ということか?」と述べている。

 また、有賀氏のこの記事には、房総半島が大和朝廷の関東進出の足がかりになったことについて、「実際には、古くから黒潮潮流を利用していた斎部氏に案内されて、ようやく大和勢力の関東進出がスタートしたということでしょう」という高橋氏のコメントも引用されていた。

 その後も有賀氏は同じ週刊誌の記事で、剣山の財宝伝説について触れ、「この約半世紀前の発掘騒動は、剣山山麓に生まれ育った六十歳過ぎの人ならば大抵は記憶している。発掘現場に潜入した人も多く、“トンネルの中には海砂が厚く敷かれていて大人たちが首を傾げていたよ”といった当時の目撃談が聞かれた」と述べる。

 この記事では、有賀氏は、忌部氏族を約四七〇〇年前、初の石造ピラミッドを設計・建造したエジプトの宰相イムホテプの流れをくむ技術者集団であろうとしている(「古代エジプト民族が日本に上陸していた!!」『weeklyプレイボーイ』一九九七年六月三日号、所収)。

 さて、高橋氏の調査後、日本探検協会では、忌部氏の祖・天日鷲命はヴィマナ(古代インド叙事詩に登場する空艇)に乗って大空をかけめぐった太古の英雄であり、剣山には太古の地下都市シャンバラの宮殿とヴィマナが今も眠っているとして、「四国は日本太古史の究極の秘密の鍵を握るところ」であると主張する(日本探検協会編著『地球文明は太古日本の地下都市から生まれた!!』飛鳥新社、一九九五年。幸沙代子「失われた太古日本の世界文明」『日本超古代文明のすべて』日本文芸社、一九九六年、所収。幸氏は日本探検協会事務局長)。

 なお、高根や山本によるアークおよびソロモンの秘宝探索の波紋は剣山以外の場所にも波及している。故・浜本末造によると、「契約のヒツギ」はエルサレム陥落前にイスラエルの民によって神殿から運び出され、釈迦、秦始皇帝、新羅王家の手を渡って、神功皇后により、奈良県吉野の玉置山に隠されたという(浜本『万世一系の原理と般若心経の謎』霞ケ関書房、一九七三年)。もっともその後、浜本は「契約のヒツギ」は神功皇后が鳴門の渦の中に納めたとも述べている(浜本「神国日本の秘められた歴史と使命」『地球ロマン』復刊一号、一九七六年八月、所収)。

 沖縄の斎場御嶽にもソロモンの秘宝が隠されているという話がある(喜屋武照真『炎のめざめII 太古の琉球にユダヤの痕跡』月刊沖縄社、一九九七年)。同書に掲載された霊能者・石田博の手記によると山本英輔の剣山発掘は当時、「行者の間では問題になった」とあり、それに続けて斎場御嶽のことが出てくるので、この沖縄のソロモン秘宝の話が剣山から飛び火したことは間違いない。

 徳島県名西郡神山町で「日本超古代研究所チナカ」を主宰する地中孝氏は、ソロモンの財宝は剣山ではなく、その東の神山町神領方面にあるとする(地中『ソロモンの秘宝は阿波神山にある!』たま出版、一九九五年)。この地域は阿波邪馬台国論者によって卑弥呼=天照大神の本拠とされたあたりである。神山町内に立てられた「日本超古代研究所チナカ」の看板には「古代文字を解読してソロモンの秘宝の謎に迫り解読と発掘に賞金五億円ウガヤ王朝の京は神山にあった」というコピーが踊っている。

 神山の山村出身の地中氏は同書において、「庸の時代から三〇〇〇年変わることなく続けられた高地性山岳農法と生活の体験」を記している。地中氏は、小学校三年生の時、姉の下宿している徳島の町に出ただけで「山峡の谷あいで生れ育ち、外界の広さを知らぬ井の中の蛙であった子供心に、あくまで広大でまだ見ぬ世界のあることを、大人のさまざまな生き方があることを単純に開眼した」という。地中氏には申し訳ないが、同書で一番面白いのは、この山村生活の回想のくだりである。
 

 さて、高根正教から日本探検協会まで、剣山のアーク(もしくはソロモン秘宝)について諸説あるが、なぜ、ソロモンゆかりの宝が遠く離れた四国にあるのか、その説明は様々である。高根はアークを日本にもたらしたのはアレキサンダー大王(=崇神天皇)と田島守と考えているが、山本の発掘に協力した中村資光は「ソロモン王家」という実際には存在しない王朝(ソロモンは人名であって家名ではない)が剣山にやってきたと説く。佐治芳彦氏はソロモンのタルシシ船団に着目するし、宇野正美氏はイザヤがアークを持ってきたという具合である。

 剣山のソロモン秘宝説、邪馬台国四国説、高天原の比定、太古日本世界文明説(木村鷹太郎の新史学、『竹内文献』、日本探検協会)の論法には類似点がある。

 宇野正美氏は、次のように述べる。「長きにわたって四国は“死国”とされてきた。四国について書かれた小説はほとんどないし、四国についての歴史教育はほとんど行われない。日本中に高速道路が張り廻らされたとはいえ、最後にそれが完成したのは四国の中でも阿波の国、徳島県だった」(前掲「古代ユダヤは日本に封印された」)。

【「神秘の剣山説」】
 大塚駿之介氏によると、山本の剣山発掘に同行した中村資山は霊媒であり、次のような剣山の秘史を霊視していたという。「剣山は、むかし、岩石が花の雄しべのように乱立していて、その真ン中に、雌しべのごとき一本の大きな石の柱があった。その残りが、根幹だけとなったいまの宝蔵山である。故国を脱出したユダヤのソロモン王家とその一族六、七千人がいまから三千七、八百年前に東進してきて、剣山のこの特異な姿にひかれ、室戸岬に上陸し、山頂において十四代八百余年に及ぶ文化生活をはじめた。頂上には王家と近親五百人くらいが残り、三代めの王のころは、大半が下山して祖谷地方に走り西に移動しながら伊予の奥に達した。頂上族は、信仰の象徴であり中心であった大石柱が倒壊したので、王は自殺し、嗣子がなかったため、十四代をもって解体した。そして、王宮と重宝を埋蔵し、すべての史跡を岩石化するために、約二カ年の歳月をついやし、現在のような姿の剣山とした。下山族は、この悲報を伝え聞き、王妃と姫を守って故国へ帰ろうと計り、さっそく実行に移ったが、途中、北陸の金沢付近まできたとき、王妃と姫が相次いで病死してしまった。その後、頂上族と下山族の間にしばしば対立と闘争が続いたが、やがて、伊予の奥地一帯にほとんどが定住し、帰国する者がなくなり、平和になった」(「四国にあるソロモンの秘宝」)。

 また、78年に剣山のソロモン秘宝伝説を現地取材した柞木田龍善氏は、「剣山が阿波の古代文化発祥地で、約四千年前も、室戸岬から約一万人のユダヤ人が北上して付近にすみついていた」、「平家落人部落で知られるこの祖谷山の住民は、世界各国でみたユダヤ民族の顔と共通点である。あそこにはユダヤの血が残っている」という山本英輔の言葉や「二千五百年前に十四万四千人のユダヤ人が日本に移住し、剣山にユダヤの三種の神宝を埋蔵し、新しいユダヤ国家を日本という名で創始した。神武維新とはほんとうはこれをいう」という第三文明会会長・小笠原孝次の説を伝えている(柞木田『日本超古代史の謎に挑む−日本・ユダヤ同祖論の深層−』風濤社、一九八四年)。

 武内裕氏(武田洋一)は、剣山は縄文時代以前の原日本人が遺したピラミッドであり、そこに埋められているのは原日本人の宝物であろうという(武内『日本のピラミッド』大陸書房、一九七五年)。

 佐治芳彦氏はソロモンのタルシシ船がインド、東南アジアまで至っていたとして、「おそらく、古代世界最大、最良質の真珠採取海域であった日本近海も彼らの視野に入っていたであろう。タルシシ船団は、ルソン島沖で日本海流(黒潮)にのれば、それこそ目をつぶっていても、日本列島に到着する。九州、大分で発見された前八世紀の縄文製鉄の遺跡は、この船団の仕業と見てよい。彼らは、わずかな鉄と大量の真珠や砂金とを交換して巨利をむさぼったのであろう。(中略)このようなソロモン時代にさかのぼれるユダヤ人の渡来が、四国の剣山に伝わるソロモンの財宝埋蔵伝説の集団無意識的背景となっているのではないだろうか」(佐治『謎の九鬼文書』徳間書店、一九八四年)と述べる。

 ちなみに前八世紀の大分県にソロモンの製鉄プラントがあったというのは、もともと鹿島昇氏の説である。なお、大分県の製鉄遺跡について、その年代を前八世紀とするのは九州大学助手の故・坂田武彦の鑑定によるものだが、現在の考古学的常識では日本列島で後三世紀より前の確実な製鉄遺跡はまだ見つかっていない。

 鹿島氏は『古事記』の大国主命(大物主命)の一族はソロモンの末裔だという。すなわち、『古事記』の因幡の白兎の話の原形と思われる説話がマレー半島にあり、そこではソロモン王の命令を受けたと称する鹿がワニをだましたという話になっている。したがって「マレー神話の“ソロモンの命令を受けた鹿”は『古事記』の“大物主命に助けられた兎 ”に対応するから、ソロモン・イコール・大物主命という図式が成立するのである。なるほど、大物−オーモン−ソロモンと考えれば、謎はとけてしまう」というのである。

 また、鹿島氏は、日本のいわゆる神代文字の中にフェニキア文字から発展したものかあるとも述べている(鹿島『日本ユダヤ王朝の謎』正・続、新国民社、一九八三・八四年、他)。

【「日本民族フェニキア起源説の諸相」】

 さて、鹿島、佐治両氏の主張するソロモン船団の日本渡来説は、タルシシ船がもともとフェニキアの船であることを思えば、フェニキア人の日本渡来説とみなすことができる。柞木田龍善氏は高知高等商業学校の校歌の歌詞に「古代ユダヤ人の子孫がわれらである、という意が潜在しているように感じられる」という。それは次の通りである。

  鵬程万里はてもなき
  太平洋の岸のべに
  建依別のますらおは
  海の愛児と生まれたり
  天にそびゆる喬木を
  レバノン山の森を伐り
  船を造りて乗り出でし
  フェニキア人のそれのごと
  (前掲『日本超古代史の謎に挑む』より)

 木村鷹太郎が宇和島人をホエニシア人(フェニキア)の子孫とみなしていることは前に述べた通りである。ここで余談ではあるが、フェニキア人日本渡来説の流れをたどってみたい。
日本民族とフェニキア人を関連付ける学説として、まず筆頭に挙げられるべきは、明治の歴史家・竹越与三郎の『二千五百年史』(一八九六年)の日本民族フェニキア起源説がある。竹越は記紀などの日本古典には南洋人・マレー人種・シャム人・シナ人種・蒙古人種・小人種(コロポックル)など、あらゆる地方・あらゆる人種の伝説が含まれているとして、それらの伝説は各人種の祖先が日本に渡来してもたらしたものであろうとする。

 しかし、その中でも日本民族・国家形成の中核と成った人種について竹越は次のように考察するのである。「フェニキア人の文明は、独り歴史の伝うるがごとく、インドに達したるのみならず、神武紀元の前、数百年早くすでにインド、コーチンを経て、フィリッピン群島に達し、しかしてフェニキア人の経過せる海路は更にインド人の襲うところとなり、欧亜大陸の勢威は、漸々南東に下り来り、セミチック人種なるフェニキアの文明と、ハミチック人種なるインド・アリヤンの文明とは南島の中において新たに一大化合を始めたるもののごとし。(中略)フェニキアよりフィリッピン群島、フィリッピン群島より日本に至るまで、沿道の国土における、古神伝説の多くは海原を主とするの点において、海魚をもって人語をなさしむるの点において、言語の性質において、婚姻の風において、涅歯の風において、家居の風において、人身御供の風において、骨格において、神木を尊ぶの点において、跣足の風において、婚嫁に処女を尊ぶの風において、男子の陰を祭るの点において、みな一様の形跡ありて、セミチック、ハミチックの両文明がこの地を経過して日本に至れるを示す」(以上、『二千五百年史』引用は講談社学術文庫版、一九九〇年より)。

 高越はまた、「フェニキア人が貿易によりて世界の民に交通せるより、各国の言語を写さんとして発明せる声音文字の文明に傾きて、自然に『いろは』四十七字を生じて、国民的言語を成すに至りし」として、日本のカナ文字が、フェニキア人のアルファベットに起源することを主張している。

 もっとも一方で竹越は、フランスのル=ブルンジョンが説いた世界文明ユカタン起源説、ユカタン=アトランチス説に基づき、「日本はメキシコより直接に渡来したるものありしなるべし」とも述べている(ル=ブルンジョンの説についてはロバート・ウォーカップ著、服部研二訳『幻想の古代文明』中公文庫、一九八八年、原著一九六二年、ライアン・スプレイグ・ディ・キャンプ著、小泉源太郎訳『プラトンのアトランティス』ボーダーランド文庫、一九九七年、原著一九七〇年、を参照されたい)。

 工藤雅樹氏は竹越の論の特徴の一つとして「ヨーロッパ人学者のやや通俗的とも言える説を引用して、自説を補強しようとする態度」があることを指摘している(工藤『研究史 日本人種論』吉川弘文館、一九七九年)。

 竹越が参照したヨーロッパの通俗的な書籍はル=ブルンジョンのものばかりではない。日本民族フェニキア起源説は、学術的というよりも、そうした通俗的な諸説を基礎として構築されたもののようである。

 語源研究家の山中襄太は日本語「ふね(舟、船、艦)」は「古代の有名な地中海の航海民族、船民族たるPhoenicia」の“Phoeni−”“poeni−”と関係があるのではないか、と唱える。また、“Phoenicia”はギリシャ語で紫、紫赤、鮮紅を意味し、この民族が製した紫紅色の染料に由来するとされるが、それはまた日本語「べに(紅)」と似ているともいう(山中『国語語源辞典』校倉書房、一九七六年)。

 田口賢三氏は著書『日本語の謎』(大陸書房、一九七四年)において、日本語と英語の間には「本当」と“found”、「そっと」と“soft”、「そろそろ」と“slow”、「かばう」と“cover”「名前」と“name”など概念と音韻が共にほぼ一致する単語が多いとして日英両語同祖論を唱え、さらにそれを根拠に日本民族フェニキア起源説を説いた。

 田口氏によると、英語のアルファベットの起源はフェニキアにあり、一方、七世紀以前、「フェニキア人の使用した言語をペルシア人が受け継ぎ、それが海路を距てて中国南部のピンに定着し、いわゆる南方系混血をして東洋人となったものが日本人の祖先」であるというわけだ。

 日英両語同祖論といえば、清水義範氏のパロディ小説「序文」(『蕎麦ときしめん』講談社文庫、所収)が思いおこされる。それは日英両語同祖論を唱える学者の著書の序文という体裁をとった短編である。おそらく清水氏は御存知なかったのだろうが、「序文」より前に、同様の説を大真面目に主張した研究者が実在したのだ。

 むろん、田口氏の研究は学界から相手にされなかったが、その黙殺にかえって闘志をかりたてられ、田口氏はさらに二冊の著書『邪馬台国の発見−卑弥呼と七支刀』(新人物往来社、一九七五年)、『邪馬台国の誕生』(新人物往来社、一九七六年)を発表した。その中で田口氏は日英両語同祖論に基づき、『三国志』倭人伝の国名や、記紀神話の神名に独自の解釈をほどこしている(邪馬台国の所在については畿内大和説)。

 和歌山県地方新聞協会会長の日根輝己氏によると、『花岡青州の妻』で知られる作家の故・有吉佐和子もフェニキア人の日本渡来説を主張していたという。

 日根氏が自ら主宰する『黒潮新聞』に古代豪族の紀氏が朝鮮半島からの渡来系氏族だと書いたところ、以前取材したことのある有吉から電話がかかったという。一九八三年六月のことだった。「あんたねえ。紀氏を朝鮮からの渡来人だなんて、とんでもないことよ。『新撰姓氏録や太田亮の『姓氏家系大辞典』には<太古以前の大姓で、他にはなし>と書いてあるわよ。あの<キ>はね、古代フェニキアのキだと思うの。舟ではるばるやってきたのよ。(中略)だいたい、人類は三〇〇万年昔、アフリカで生まれているのよ。原日本人がフェニキアからきたところで、驚くにはあたらないわよ。木ノ本というのは木の根本ね。紀州こそ日本人のルーツなのよ」。有吉はその電話で「天皇家より古いのよ。うちの母が、えらくおこっているわよ」とも言っていたという。有吉の母は和歌山市西庄宮山の木本八幡宮の宮司家と縁続きであった。すなわち彼女は母方の血で古代の紀氏とつながっていたのである(日根『奪われた神々−騎馬民族王朝と紀氏の謎』アイペック、一九八五年)。


倭国(いのくに)研究会
「四国山上には莫大な邪馬台国の遺跡群とともに、驚くべき秘密の歴史が隠されていた。完全なる証明により既存の説を粉砕。所在地論争に終結を告げ、千数百年間の謎に包まれた日本古代史の全貌を解き明かす。大和朝廷の大秘密政策、空海の封印、失われたアークの在る場所とは? (大杉元信さん)」

『邪馬台国はまちがいなく四国にあった』『邪馬台国の結論は四国山上説だ』などを出版された、阿波池田在住の郷土史家、大杉博さん主催の研究会です。「超常現象研究とは趣が異なりますが、参考になれば幸いです」とのことです。


足摺岬縄文灯台騒動・最後のまとめ
足摺岬の縄文灯台説 

 四国地方・高知県の南端、足摺岬。そこには数多くの巨石による石組があり、その数二五〇余箇所にものぼるという。その多くは唐人駄場公園や白皇山に点在し、その他にも唐人岩と呼ばれるものなどがある。むろん、それらは人工のものではない。花崗岩の節理(温度変化により結晶の目にそって石に生じる割れ目)と風化の結果、形成された自然の奇景である。ところが最近、地元(土佐清水市)の要請により、これらの石組を太古の遺跡とする説が急速に浮上することになった。

 マスコミにこの説が登場した皮切りは、『THIS IS 読売』一九九三年七月号に掲載された「足摺に古代大文明圏」である。執筆者は昭和薬科大学教授(当時)の古田武彦氏。その前説には次のようにある。「高知県足摺岬、そこに縄文時代から卑弥呼の時代へと続く古代大文明圏があった−。・・・学界で異端児扱いされる筆者が、再び挑んだのが足摺岬とその周辺に点在する古代遺跡と巨石群である。・・・筆者は確信をもって言う。“やはり、三国志魏志倭人伝の著者・陣寿の記述は正確そのものだった。博多を起点とすると、足摺岬周辺が倭人伝にいう侏儒国にあたる。そして、そこから東南へ船行一年、裸国・黒歯国(現在のエクアドル・ペルー)があったのだ”と。古代史の夢はまた大きく広がった」。

 古田氏はまず、縄文人は山や巨石を信仰していたと主張し、また、弥生・古墳時代の銅鏡信仰について「“縄文以前”の鏡岩信仰を前提とし、背景としてこそ、“弥生以後”の銅鏡祭祀の盛行は理解できる。・・・“縄文以前”からの受け皿、すなわち“鏡岩信仰の時代”が歴史の大前提として存在していたことを示す。わたしにはそれ以外に考えようはなかった」という(「それ以外に考えようはない」というのは、読者の思考の一方向のみに誘導しようとする論法)。

 そして、唐人岩の石組の中の一つが「鏡岩」と呼ばれたことを根拠に「わたしはこれが “縄文以前”の御神体であり、太陽信仰の聖地であったこと、この事実を疑うことはできなかった」とする。そしてさらに足摺岬は黒潮上の難所である以上、岬との衝突をさけるために「天然と人工の鏡岩」が必要だったとして、足摺岬の巨石群の人工説へと説き進んでいくのである(議論の飛躍)。

 古田氏はその証拠として、足摺岬から縄文土器と石鏃が出土する事実を挙げ、「従来の考古学的見地では、右の事実から“縄文人が唐人駄場付近で狩猟をしていた”との認識を得るのにとどまったかもしれない。しかし、“無信仰の、神なき縄文人がただ狩猟にふける”−このようなイメージは、現代インテリの空想に過ぎない」という(縄文人が無信仰だったという考古学者は存在しない。実際には誰も唱えていない極端な説を設定して、それを否定し、読者の学界への偏見を煽る論法)。

 そして、古田氏は足摺岬の巨石群に亀や蛇を模した造形があると主張し、さらに古田氏の独自の『三国志』倭人伝解釈で足摺岬周辺が「人長三・四尺」という侏儒国であることを考証する(自らの主観を土台として全ての体系を造る空中楼閣のような論法)。

 古田氏は足摺岬には「三列の巨石」がしばしば見られるとして、それは「天「と「海」と「血」の三要素を表すとし、これは「古代人の宇宙観の表現」で「もちろん、それぞれ “神名”で呼ばれていただろう」という。そして、それに比べて、中国伝来の引用思想はいかにも「人工のイデオロギー」にすぎないと説き及ぶ(これについては別に後述)。

 古田氏はこの一大遺跡について、「先ず調査と保存を切望したい」として、この論文の筆を置いた。

 古田氏は同年十一月三日、鏡岩が縄文時代の灯台だったことの証明と称する実験を行った。それは古田氏が鏡岩があったと推定する所の岩に銀紙を張り、それが近くの展望台や唐人駄場公園の位置から見えるかどうか確認するものである。

 古田氏は著書『古代史をゆるがす・真実への七つの鍵』(原書房、一九九三年)において、この「実験」の結果、「唐人岩と大岩の銀紙が輝いていたこと」を発表した。

『THIS IS 読売』の論文は推定を重ねたあげくに突然、結論を出し、「それ以外に考えようはなかった」などのレトリックで言い抜けるという論法が目立つ。

 なお、学研のオカルト雑誌『ムー』一九九四年十一月号は佐敷二郎名義の記事、「四国足摺岬に謎の巨石遺構=メガリスを発見!!」を掲載、古田氏の「実験」について報じている。その記事の内容は古田氏の主張を全面的に肯定するものだが、古田氏のいう鏡岩について、「現在、その表面はくすんでいるが、磨けば光るのではないかという」程度のものにすぎないこと、古田氏が鏡岩に銀紙を張る前に「最初、実験は失敗した。くすんだ岩が光るはずもないからである」という段階があったことを報じており、注目される(『古代史をゆるがす・真実への七つの鍵』にはこの段階のことは記されていない)。

 古田氏は鏡岩がかつて磨かれていたことを前提にして、縄文灯台説を唱えているのだが、本当にそれは磨かれていたことがあるのだろうか?

 そもそも、縄文時代に銀紙があろうはずはないし、たとえ鏡岩が銀紙同様の光沢を持っていたとしても、それが輝いて見えるのは灯台の必要がない晴天の日中のはずである。どうしてこの実験が縄文灯台説の証明になるというのだろう。

 しかし、 土佐清水市教育委員会では、その成果(?)を歓迎し、大規模な遺跡として確定できれば、観光資源化にもなる」として、その調査に百五十万円の援助を予算化、古田氏に報告書作成を依頼した。

 また、九四年六月には、光文社カッパ・ノベルズの一冊として、古田氏の縄文灯台説を小道具に用いた推理小説『「古代四国王朝の謎」殺人事件』(吉岡道夫)が刊行されているが、あまり話題にはならなかったようである。 

縄文灯台説への批判 

 縄文灯台説に対する批判の筆頭となったのは、陸奥文化史研究家「ご神体と縄文灯台」(『季刊邪馬台国』五四号、一九九四年八月)である。藤村氏は次の論拠を挙げて縄文灯台説を否定した。

1 巨石信仰の存在が確認されるのは古墳時代以降であり、古田氏はその定説を充分に批判していない。これは「史学上の慎重どころか、学問以前の問題である」
2 灯台が必要とされるのは大型船が暗礁にのりあげるのを防ぐためである。縄文の丸木舟には灯台は必要ない。一大航海民族のポリネシア人にも灯台を造る慣習はない。
3 巨石を河口するためには多くの人口とそれを維持する食糧が必要だが、縄文時代の足摺でそれだけのものが確保できたか、古田氏は調査していない。
4 足摺のものと同様の巨石は東北地方など各地で見られるが、それらはすべて自然の造形美である。巨石の向きをそろえたように見えるのも節理の結果にすぎない。

 以上、藤村氏の指摘は理路整然としており、古田氏の『THIS IS 読売』の論文 のようなレトリックによるごまかしはない。それに対し、古田氏はプロパガンダ紙で次のように応えた。
「犯罪グループに近い人々が『季刊邪馬台国』でいろいろな嘘やデマをでっち上げて足摺プロジェクトを攻撃している。真実は強いし、必ず勝つ」(『TOKYO古田会NEWS』平成六年十一月号)

 議論の相手を犯罪者よばわりし、精神論的な必勝宣言をもって反論に代える。もはや古田氏には建設的な議論を行おうという意欲は失われていた。

 「笠石」は遺跡か 

 さて、千葉県・房総丘陵の中央部、君津市の山中に、「笠石」と呼ばれる奇景がある。
台となる巨大な岩の上に二メートルほどの巨石の板が乗り、微妙なバランスを保っているもので、節理と風化、そして畏るべき偶然が生み出した自然の芸術である。
 かつて、この笠石が人工の巨石記念物ではないか、というので話題になったことがある(有賀訓「房総丘陵で<超古代石造遺跡>を発見!」『WEEKLYプレイボーイ』一九九四年五月十・十七合併号、所収)。その際、古田氏は足摺岬の巨石と関連付けて、その人工説を支持した。
 その記事を書いた有賀訓氏は、まず、地質学者・生越忠氏から、「(房総半島南部が百万年前、海底から隆起して後、その地層が)長年の風化浸食作用を経れば、中間の柔らかい板状地層が消失して笠石のような奇岩怪石が造られる可能性があります」というコメントを得、その自然形成説を「見事なまでに理路整然とした解説だ」としながら、「自然科学に加えて、人文科学面からも笠石の謎解きを進めてみる必要がある」として、さらに「古代史学研究の大家・古田武彦教授」のコメントを求めるのである。
 有賀氏は古田のことを次のように読者に紹介する。
「現在、古田教授が取り組んでいるのは四国・足摺岬に残された巨石遺跡の研究調査。具体的には、縄文期の太平洋沿岸域に展開された巨石遺跡が古代人の沿岸航海の際に灯台の役割を果たしていたのでは?という仮説を提起して大反響を呼んでいる」
 そして、有賀氏は古田氏から次の二つのコメントを得たという。
「あらかじめお断りしておきますが、私自身の目で確認してみなければ正式な学術的意見は申し上げられません。その上で個人的感想を述べれば、これ(笠石の写真)にはなんらかの人の手が加えられているように思えます」
「足摺岬では周辺から多くの石器や土器が出土したことが遺跡であることの証明となりました。笠石の場合も、単体としてではなく周辺の埋蔵物などを調査検討してみる必要があるでしょう」
 なお、有賀氏によると地元・君津市に次のような伝説があるという。すなわち、かつて笠石が村人によって台から落とされた時、長老たちは災いを招かねばよいが、と恐れた。
ところがその晩、鬼または天狗が現れて一夜のうちに復元した。
 有賀氏はこの伝説から二つのメッセージをよみとろうとする。
「まず、笠石は人間以外の何者かによって造られたということ。そして、みだりに動かしてはならないということ」
 しかし、伝説では、落とされた岩は復元しており、そこから動かしてはならない、というメッセージを直接読み取ることはできない。また、伝説では笠石はあくまで復元されたのであり、鬼や天狗に造られたわけではない。そもそも鬼や天狗を持ち出すということ自体、この奇景が人工のものとは思われていなかった証拠ではないか。復元にさえ「人間以外の何者か」の手を煩わせなければならないほど人知を超えたもの、それはすなわち自然の神秘である。
 有賀氏は「房総『笠石遺跡』の秘密がついに解けた!」(『WEEKLYプレイボーイ』一九九四年十月二五日号、所収)において、ふたたび笠石のことを取り上げる。その中ではまで前回での生越氏と古田氏のコメントをそれぞれ要約し、「つまり、自然科学者と人文科学者の見解が分かれてしまったのだ」とし、人工説の方向でレポートをまとめたい、との立場を表明する。
 そして、前回収録できなかった古田氏の次のコメントを紹介するのである。
「金属器のなかった縄文時代には伊豆七島で採れる黒燿石が貴重な石器材料として黒潮を舞台に流通していました。太平洋沿岸域に残された巨石遺跡は、そうした古代航海のための目印ではないかと思われます。また、当時の航海者たちはよほど亀を崇拝していたらしく、古代の灯台ともいえる巨石遺跡には亀を形どったものがあります」
 有賀氏は笠石もまた「亀をモデルにした石造物」であるとして、「古代に“亀族”とも呼ぶべき人々が海から内陸へ進出した際、笠石を始めとする巨石遺跡を残した」という仮説を提示する。そして、その「亀族」を、神代の昔、斎部族が四国から房総に移住したという『古語拾遺』の記事と関連付けるのである。
 さて、古田氏が主張するように巨石付近での石器や土器の出土が、即、人工説の証拠になるか、といえば疑わしい。その論法でいけば、ビルの近くから縄文土器が出土すれば、そのビルは縄文時代から建っていたということになるだろう。
 建築というのは常に安定と堅牢を目指すものである。笠石の異様さはその不安定な形からもたらされるものであり、人工の建築というより、自然のイタズラと見る方が説明しやすい。奇妙な形のものを見れば、すぐに人工と思うのは、自然の造形力をバカにした態度である。
 イギリスのダートムーア地方やフランスのブルターニュ地方では、笠石に劣らない奇岩怪石の数々が見られるが、そのほとんどは自然の産物である(イギリスではこの種の奇岩を“tor”トアという)。この両地方には、先史時代の遺跡も多く、巨石記念物を残されているが、それと自然の造形では一目瞭然、異なっている。むしろ人工の巨石があることで自然の岩の奇怪さがきわだってみえることだ。そうした情景を目の当たりにした経験のある者としては、笠石もまた自然の造形という方が納得できるのである。
 有賀氏は古田氏を「古代史学研究の大家」「人文科学者」としてその意見を尊重するが、古田氏の専攻は思想史であり、特に地質学について研究したことはない。
 また、古田氏には考古学関係の著書もあるが、実際の発掘経験はない。専門の地質学者に比べれば、その石に関する発言はシロウトの思いつきを出ないものである。
 なるほど、たしかにアマチュアがプロの気付かないような視点から真実にたどりつくこともあるだろう。一介の官吏にすぎないアインシュタインがその後の物理学を書き変えた例もある。しかし、アマチュアの意見が「真実」と認められるには、プロを納得させるだけの論理性とデータを要求される。アインシュタインはそれをクリアしたからこそ相対性理論が広く認められることになったのだ。
 現在の古田氏には逆に、実際にはシロウトであるはずの問題についても大学教授という肩書の「権威」で、自説を押し通そうとする傾向がある。現在の古田氏には、アマチュアとしての謙虚さ、真摯な態度は求めようがない。

 潜在するアラハバキ信仰 

 ところで、先述の通り、古田氏は足摺岬の巨石群の「三列の巨石」に注目し、それが天・海・地という三要素を表現すると唱えている。
 しかし、客観的に見れば、「三列の巨石」なるものはただ岩が三つ並んでいるだけのことである。というより、大きな岩が二箇所で割れただけのものとみなした方が妥当だろう。たとえ、三という数字に意味があるとしても、それが天・海・地を意味するとは限らないし、縄文人がその岩を祀ったという証拠もない。いったい、この天・海・地というのはどこから出てきたのだろう。
 その謎を説く鍵は、『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書にある。それは現代人の偽作であることが明白であるにも関わらず、古田氏はあくまで真正の古写本と言い張っている文献である(拙著『幻想の津軽王国』批評社、参照)。
 その和田家文書は古代津軽の主神・荒覇吐神が天神・地神・水神の複合神であることを繰り返し述べているのである(「アラハバキ」という神格は日本各地の多くの神社で祀られており、謎めいた神格には違いないが、津軽で特に濃密な分布を示すような事実はない)。古田氏がそれに気付いていないとすれば、和田家文書を「学問的」に研究したという古田氏の主張そのものが怪しくなるだろう。なるほど、古田氏が『THIS IS 読売』の論文において、三列の巨石に「神名」があったはずだというのはもっともだ。
 藤村明雄氏も前掲「ご神体と縄文灯台」で「古田氏は“三列の巨石群”に荒覇吐神を見ていたのである」と喝破している。
 古田氏は『古代史をゆるがす−真実への7つの鍵』で次のように述べる。
「足摺岬の岩頭で、私は明確に知った。自然は三分法であることを。天と地と海、これだ。これが大自然のすべてなのである。・・・三列柱をもって、巨岩を構成した。あるいは天然の三列岩を畏れた。それが、黒潮にのぞむ海浜・山麓に、点々とその様態の大巨石の点在する理由だった。・・・津軽の産んだ天才的学者、秋田孝季の記録を伝承した和田家文書のなかにも、アイヌ族の原初神として、やはり“三神”(イシカ〔天〕・ホノリ〔地〕・ガコ〔水〕)が根本であったことが明白に記されている。あらためて深く脱帽せざるを得ない」
 和田家文書にヒントを得た思いつきから「大自然のすべて」をおごそかに説き、さらに同じような認識が和田家文書の中にある(当たり前だ!)のを発見して、その作者に仮託された架空の人物にすぎない秋田孝季を讃える。この思考回路に、自らの尾を呑み続ける蛇のような不気味さを感じるのは私だけだろうか。どうやら古田氏は「天才的学者」と同じ認識にいたった自分も天才だ、と主張したいらしい。

 大杉博氏の反論

 大杉博氏は邪馬台国が四国中央の山岳地帯にあったと唱え、多くの研究者に一方的な論戦を仕掛けている人物だが、その大杉氏が『THIS IS 読売』の古田論文を次のように批判している。
「古田氏は、このような巨石遺跡が四国全体の山上に点在していることをご存じないようである。巨石遺跡だけではない。四国の山上には巨大な溜め池も無数に造られている。また、山並みの頂上部には全部、古代の幹線道路が残っている。ところで、“侏儒国”とは “人長三四尺”の“小人の国”という意味であるが、そのような小人たちが、このような大遺跡(大土木工事)を造ったと古田氏は本当に思っているのであろうか?実は、これこそ邪馬台国と投馬国の大遺跡なのである。このような大土木工事は現代人でも簡単に造れるものではなく、まして小人たちに造れる大遺跡では断じてない。古田氏は何故そのような不自然なことを主張するのか?古田氏の今回の発表は、自ら墓穴を掘ったようなのである」(大杉『邪馬台国の結論は四国山上説だ』たま出版、一九九三年)
 大杉氏の批判はある面で的を得ている。大杉氏のいうように、巨石群が四国各地にあるとすれば、足摺岬だけを特別視する根拠はない。古田氏はたまたま自分が関わったという理由だけで足摺岬を課題評価しているのではないだろうか。
 有賀訓氏も前掲「房総『笠石遺跡』の秘密がついに解けた!」で、徳島県の剣山周辺を見て回った際、足摺岬と同様、「亀をモデルにした巨石」を数多く確認できたという。
 有賀氏はこれを房総半島の笠石と共に「亀族」の巨石遺跡とみなしているが、その肝心の笠石が自然の造形に他ならないのは先述した通りである。
 大杉氏の指摘でもう一つ重要なことは、巨石と侏儒国は直接には結びつかないということだ。『三国志』倭人伝にはどこにも侏儒国に巨石があるなどとは記されていない。この国の特徴として記されるのは、住人の小ささだけであり、それは侏儒国という国名と対応している。したがって、巨石の存在をもって侏儒国の証拠とする古田説は、最初からその根拠が怪しかったといわざるをえない。
 とはいえ、他者に厳しい者の自説がしっかりしているとは限らない。経験的にはむしろその逆のことが多いくらいである。
 その例にもれず、大杉氏の「邪馬台国と投馬国の大遺跡」という説も明確な根拠があるわけではない。
 足摺岬と同様の巨石が、四国の広範囲にあるとすれば、それはむしろ自然形成説にこそ有利だろう。安本美典氏は大杉氏が四国山中の溜め池の存在を邪馬台国四国山上説の根拠としながら、それが弥生時代からのものであるという証拠を示そうとしないことを指摘している(安本『虚妄の九州王朝』梓書院、一九九五年)。
 大杉氏のいう「巨石遺跡」についても、その人工説の根拠はまったく示されていないのである。

 オカルトへの逃避

 藤村明雄氏は前掲「ご神体と縄文灯台」において次の警告を発している。
「巨石で町起こしをするのはいいが、学問上確立されていない怪しげな説を表面に出して、さも学問であるかのように装い、科学的検査という名のもとに、杜撰な方法で結論を出す。そのうえ公費でもある多額の調査費用を浪費してはいないだろうか」
 藤村氏はこのように述べ、「あまりにも安易な、教育委員会の学問に対する無防備さ」を指弾した。
 高知県内の他の教育・学術機関も土佐清水市の動向を無視していたわけではない。県立埋蔵文化財センター主任調査員の前田光雄氏は語る。
「“縄文灯台”とされる花崗岩の巨岩は自然の営為でできた足摺岬一帯で通常に見られる奇岩と考えられます。・・・余りにも考古学的な方法論からすれば“縄文灯台”はなかったと言わざるをえません。縄文のフェロモンに惹きつけられたのでしょうか、“有名な” 教授でも専門外のこととなると、幼稚な過ちを興すことはありがちなことです。・・・『東日流外三郡誌』偽書問題で、つとに“有名な”某教授は、余りにも浪漫的な方法論で“ 縄文灯台”に取り組むのでしょうか」(平成八年七月二九日付『高知新聞』)
 この前田氏の意見は決して無責任なものではなく、独自の調査を行った上での結論として受け止められるべきものである。しかし、他の教育・学術機関に土佐清水市教委の暴走を止めるだけの権限はない。
 斎藤隆一氏は次のように指摘する。
「かつて古代史界に新風を吹き込んだ古田氏が、晩年『東日流誌』を支持し、足摺岬の巨石文化を論じ、厳密な実証主義理念を見失っている。しかも、現在なお最近の著作で『東日流誌』を支持する、オカルトSF超古代史家の佐治芳彦氏、高橋良典氏、鈴木旭氏らと同レベルの世界へ迷走し始めたことは、古田氏の学問のスタンスが、もともと不安定だったことに起因する。それは“信じることから始まる”という法律的、宗教的色彩の濃い思想が根底にあるのは、古田氏が親鸞の研究で成功した研究家であり、法律にも詳しいことと無関係ではない。古代史に限らず、学問とは“疑い”の中から発展するもの。その轍を逸れた研究家の行く先は、学問とは無関係の、信仰や神秘指向のSFオカルト的世界しかない」(斎藤「みちのくを揺るがす『東日流外三郡誌』騒動」、ジャパンミックス編・刊『歴史を変えた偽書』一九九六年、所収。文中『東日流誌』とは和田家文書のこと)
 古田氏は九六年七月刊の『新古代学』第2集(新泉社)で、和田家文書の中から三内丸山の巨大木造建築が描かれた絵図が出てきた、などと言い出した。
 三内丸山遺跡の巨大柱穴発見は九四年七月だから、それから丸二年、ジャンケンでいえば後出しもいいところである。
 藤村明雄氏はそのことも踏まえて次のように述べている。
「古田武彦氏の最新刊『海の古代史』(一九九六年 原書房刊)という講演録が、オカルト雑誌『ムー』(一九九六年十二月号 学研)の書評で絶賛されている。副題は“黒潮と魏志倭人伝の真実”というものだが、九州の縄文人が、足摺岬の巨石の灯台を頼りに黒潮に乗り、中南米沿岸に至り、それが『魏志倭人伝』に記されていたという。これまた『和田家文書』に三内丸山遺跡が書かれているパターンと通じる。まさに『ムー』的荒唐無稽な“真実”が、オカルトファンには受けるのだろう。古田武彦氏のイデオロギーは、古代史路線を踏み外し、ますますボーダーレスとなり、ついにオカルト界で注目されるに至ったようである」(藤村「偽史と宗教と三内丸山遺跡」『季刊邪馬台国』六一号、一九九七年二月、所収)。
 一九九六年八月発行の『別冊歴史読本63 謎の巨石文明と古代日本』(新人物往来社)は足摺巨石文化研究会副会長・宮崎茂氏による「よみがえる足摺半島の巨石文化」を掲載、その論文には足摺岬には巨石群だけでなく、ピラミッドやシュメール文字のペトログラフまでがあるとされており、地元の関心がオカルト雑誌の世界に接近していることを示すことになった。
 なお、この論文には、「学問的な踏査は、古田武彦氏(前昭和薬科大学教授)に教育委員会が委託し、本年度は報告書が提出されることになっている」という一節があり、報告書の発表が近いことを予告する役割も果たしている。
 そして、一九九七年五月頃、ついに『足摺岬周辺の巨石遺構−唐人岩・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書−』が土佐清水市教育委員会から発行される(以下、「足摺報告」と略称)。
「足摺報告」発行を報じた読売新聞(平成九年五月二日付・高知版)の記事では、現地の足摺巨石文化研究界会長・畑山昌弘氏が「観光などにも活用できる」とコメントしている。教育委員会は先述の通り、この報告書のための調査費援助を予算化している。報告書はそうした地元の期待に応える性格のものであり、特に古田氏執筆の箇所は、詭弁を用いてでも巨石群を遺跡にせずにはおくものか、という気迫に満ちている。
 ところが、この報告書こそ、結果として、古田氏のいう「足摺プロジェクト」の抱えるいくつもの矛盾を露呈したものになってしまったのである。

 地質学的調査の結果 

「足摺報告」は唐人岩の「古代灯台」実験を中心とする第一章、足摺山奥の院・白皇山(佐田山)の巨石群の調査報告よりなる第二章、国学院大学日本文化研究所教授の椙山林継氏、スミソニアン博物館のベティ・メガース、そして古田氏の論文を収めた第三章、古田氏が第一章・第二章で出した結論の英文要旨を収める第四章よりなる。
「足摺報告」の口絵には、巨石の他に、現地の地表採集による土器・石器の写真が収められているが、本文には考古学的業績となるような発掘記録はない(したがって「足摺報告」は考古学者にとって評価のしようがなく、報告書の体裁をなしていないと見ることさえできる)。
 第一章の実験なるものが無意味なことはすでに述べた通りである。第二章には、城西大学理学部教授・加賀美英雄氏と高知大学理学部教授・満塩大洸氏による「足摺岬花崗岩類よりなる巨石群の観察」が収められている。
 その結論は巨石群はことごとく自然の風化や地震の倒壊によって形成されたものとするものであり、ただ、自然の巨石が岩陰祭祀に使われた可能性があること、堂ケ森巨石群といわれるものの一部に特異な鉢の巣構造(直径五センチほど)や円形剥離があり、人工的な細工の可能性があることを指摘するにとどまっている。
 ところが古田氏は第二章の「最終総括」において、巨石群を「大自然の力による原石をもとにして、後に人工的にプラス・アルファされたもの」だと断定し、縄文期の遺跡であると主張するのである。
 加賀美・満塩両氏による報告では、白皇山西尾根の三つ並んだ巨石について「三石の一つは根付きの石である可能性があると判断した」とある。
 これは慎重な言い回しだが、その三石が根付きの巨石の割れたもの、すなわち自然の産物と述べているに等しい文だろう。
 だが、古田氏はその報告に基づきつつ、「佐田山Bサイドの三列石の中の二石は自然の節理に合致せず、後に(地質形成期以後)、他の力(人工)によって付加されたものであることが判明した」と主張する。
 三つの石の一つが根付きであるということは、必ずしも他の二つが人の手で運ばれたことを意味するわけではない。これは当たり前のことだが、古田氏は自説に不利な報告書の文脈を捩じ曲げ、自説が地質学的にも証明されたように言い張るわけである。
 第四章の英文要旨には、この古田氏の「最終総括」の内容しか収められていないわけだから、英文に頼る海外の学者が「足摺報告」を手にしたとしても、加賀美・満塩両氏による報告の本当の内容を知らないままになる、ということさえ起こりうる。
 また、第三章の椙山氏の論文は次のように述べる。
「古墳時代、弥生時代にも巨石信仰は見られるが、その場合、殆んど山麓地帯であり、山中への踏み込みはないと言える。このことは山中からの遺物の発見されることのないことからの思考ではあるが、現在までの学問上、妥当な考えとせざるを得ない。同様に縄文時代の人々も山中での石に対して、信仰がなかったとは言えないが、これを証する資料も今日発見されていない。この白皇山周辺においても遺物等を検出することは困難であろう。
なお、一部の石群を人工によるものとの見方もあるが、私見では自然のなせる神秘的な力によるものと見たい」
 つまり、椙山氏は巨石の人工説どころか、縄文時代、信仰の対象となっていたということにさえ批判的、懐疑的なのである。
 椙山氏は、この論文を「金剛福寺南方、岬の尖端部のように巨石の信仰が観光的にも利用されていることからして、広い範囲の岩石を、同様に活用することは十分可能であろう。この際、あえて人造人工等拘泥する必要はないと思う」と締め括っているが、これは言い換えれば、人工説にこだわらなくとも巨石を観光に利用できるということだ。
 椙山氏は自らを、「足摺報告」編集を担当した古田氏とは、一線を画する立場に置かれている。


地磁気調査の結果は何処に 

 さて、前掲の宮崎氏の論文は「足摺報告」以前の調査結果をまとめたものであり、それを見れば、古田氏がそれまで蓄積したデータの内、何をその報告書から省いたのか、あるいは何が使えなかったのか、推定することができる。
 その中で興味深いのは、神戸大学教授の井口博夫氏と、姫路工業大学教授の森永速男氏による古地磁気調査のことである。花崗岩は形成される時、自然と磁化されるがその方向は地球磁気の向きによって決まる。したがって花崗岩の残留磁気の方向を探れば、その岩が形成後に動かされたかどうか、理屈の上では推定できるはずだ。井口・森永両氏はその仮説に基づき、唐人駄場、唐人石などの磁性を調べたという。
 宮崎氏は前掲論文を執筆する時点で、井口・森永両氏の報告書をすでに手にしており、それに基づいて、ほとんどの巨石は移動や回転を伴って現在位置にあること、唐人石の下部については移動や回転の痕跡はないこと、唐人石の一部の石についてはかなり顕著な移動や回転を考えなくては残留磁化方向が説明できないことを指摘、「以上のように古磁気調査の結果は、足摺岬北帯の巨石群の風化浸食の課程で取り残された残留地形でないことを示している」とする。
 ところが「足摺報告」の第二証「最終総括」において、古田氏は追補に「足摺岬巨石群に対する“古地磁気”測定による、自然科学的調査が進行中である(井口博夫<神戸大学>森永速男<姫路工業大学>助教授による)」と触れるのみで、九六年八月より前に出来ていたはずの報告書について、一切語らない。
 実際には、花崗岩が動いていることは必ずしも人の手が加わっていることを意味するとは限らない。花崗岩を含む地層が風化浸食を受ける際、取り残された岩は必ずしも安定した形をとるわけではなく、不安定な塔状をなすことがある。房総半島の笠石の形成と同じ現象である。そして、その塔が崩れた時、その磁性が形成された時と異なる方向を示すのは当たり前だろう。唐人石の巨石の散乱ぶりは大きな塔の倒壊を思わせるものだ。そして、その倒壊を認めれば、唐人石の下部に移動をこうむらなかったこと、一部の石に顕著な移動・回転の跡が見られることは説明できるのである。
 宮崎氏も前掲の論文において、唐人石の人工的な構築を主張しながら、巨石が「移動回転を起した作用については地震などの自然現象の可能性もある・・・古地磁気調査の結果だけから、そのどちらが正しいか、もしくは他にどのような可能性があるかを述べることはできない」と認めている。
 もっとも、古田氏が井口・森永両氏の報告書について沈黙していたことに深い理由はないのかも知れない。
 それはただ単に、後述する奥付のトリックを成り立たせるために過ぎなかったとも考えられるからである。しかし、次に述べる古田氏のもう一つの沈黙については、はるかに深刻な問題がある。

 渡辺豊和氏からのアイデア盗用疑惑 

 古田氏が足摺岬の巨石のことを知ったのは、一九九三年一月のことである。古田氏がこの巨石に介入する以前、その調査の中心人物となっていたのは京都造形大学教授で建築家の渡辺豊和氏であった。渡辺氏は一九九一年四月発行の著書『発光するアトランティス』(人文書院)において、すでに足摺岬のことを取り上げている。
 それによると、農業が主産業となる前(縄文時代、あるいはそれ以前)、足摺岬と室戸岬を結ぶ古代航路があり、その痕跡が空海による四国八十八ケ所の配置や補陀落渡海の風習に残されていたという。
 渡辺氏は一九八一年、大阪の心斎橋ソニービルで開催された展示会「三輪王宮展」で古代都市の復元モデルを発表し、古代光通信の可能性を示唆した。八〇年代には『大和に眠る太陽の都』(学芸出版社)、『縄文夢通信』(徳間書店)などの著書で古代光通信の仮説を発展させている。
 この足摺岬を古代航路の拠点とする説と、古代光通信説とが、共に縄文灯台説に通じるのは一目瞭然だろう。前掲の宮崎茂氏の論文を見ても縄文灯台説が渡辺氏の発案になることがうかがえる。
「渡辺豊和氏は、奈良の三輪山を基点とする太陽のネットワークを作成して、縄文人の夢通信から彼等の世界観にせまろうとしている。・・・彼の夢通信を念頭に唐人石の磐座に立てば、夢はますますふくらんでくる。彼は続ける。縄文灯台もしかり、縄文神殿(一万年の歴史をもつ縄文の石造建築。未発見)ではなかろうかと、建築家らしき発想をもっている。縄文神殿、遺跡の規模から考えても夢通信の壮大な基地ではなかったか、また全体の配石から考察して唐人石は光の集積増幅回路として機能させたのではないかと語る。・・・更に渡辺教授は、この巨石神殿をコンピューターグラフィックで復元しようとしている」(前掲、宮崎論文)
 また、古田氏の著書『海の古代史』には、渡辺氏の「足摺巨石の宇宙と光通信」という一文が収録されており、その中に次の一節がある。
「かつて縄文時代には、日本列島全土に奈良県中部の三輪山を中心とする光通信ネットワークがはりめぐらされてきたと、私は考えます。・・・この足摺岬にも光通信の交点が一〇個あります。・・・唐人岩は、その最大の機能は光通信基地であり、その神殿であろうと思います。これが灯台の役割をはたした可能性も非常に高いと考えられます」
 ここでは、渡辺氏自身、縄文灯台説なるものが、渡辺氏の縄文光通信ネットワークのアイデアを矮小化したにすぎないことを暗に指摘しているとみてよかろう。
 ちなみに、この一文はもともと、平成七年十月二九日、土佐清水私立市民文化会館で開催されたシンポジウム「足摺巨石文化と縄文の国際交流」に渡辺氏が寄せたもののようだが、それがなぜ同シンポジウムの報告ではない古田氏の著書に収録されたのか、その理由は同書では説明されていない。
 自著に渡辺氏の文章を紛れ込ませているくらいだから、古田氏も渡辺氏の先行研究を知らなかったわけではない。現に『THIS IS 読売』では「当遺跡の先行研究者として渡辺豊和氏がある」、『古代史をゆるがす』に「シンポジウムがありまして、京都造形美術大学の渡辺豊和教授という方がお出でになったそうで、その際、来ないかというお話があったのですが・・・」なととして、その名に言及している(「京都造形美術大学」は「京都芸術大学」の誤り)。
 だが、古田氏はその名に触れはするが、渡辺氏の研究内容には全く言及しない。そして、古田氏自身は渡辺氏の縄文光通信ネットワークのアイデアを矮小化した縄文灯台説を、自説としてマスコミに流布しようとしている。
 そして、問題の「足摺報告」では、渡辺氏の名にさえ言及する箇所はない。これでは失礼ながら、古田氏は渡辺氏の研究を盗んだ上、足摺プロジェクトからその業績を抹殺しようと見られても仕方ないのではないか。
 かつて古田氏は推理作家・高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』について、その結論が異なっているにも関わらず、自著『「邪馬台国」はなかった』の盗作だと執拗に攻撃し続けたことがある(古田氏は邪馬壹国博多湾岸説、高木氏は邪馬臺国宇佐説)。
 その際、古田氏は高木氏に対し「氏がみずからすくわれる道は一つしかない。率直な謝意の表明とそれにともなう行為の簡単な実行だけである」と述べた(『邪馬壹国の論理』朝日新聞社、一九七五年)。
 渡辺氏は古田氏よりもはるかに紳士であるから、自ら盗作だなどと騒ぎたてることはない。しかし、古田氏が渡辺氏に対して「率直な謝意の表明とそれにともなう行為の簡単な実行」を示すことなく、足摺プロジェクトなるものを我が物にしようとするなら、その報いは古田氏自身がこうむらなければならないだろう。

 「足摺報告」奥付のトリック

 さて、「足摺報告」の奥付には「1996年3月31日」の日付があり、「昭和薬科大学文化史研究室」の編集である旨、明記されている。
 ところがここにそれとは明白に矛盾する史料がある。それは「tokyo古田会news」第五二号(一九九六年九月発行)に掲載された古田武彦「お迎えする言葉」という文章である。
「この二ケ月強、全く“休む”ひまのない、超多忙の日々でした。といいますのも、この三年半、手がけてきた、高知県の足摺岬周辺の巨石遺構にたいする調査研究、その報告書の仕上げの時期に当たっていたからです。・・・それは、二日前、九月二日まで続いたのです」
 つまり、奥付の日付を認めれば、九六年九月二日に編集を終えた報告書がその年の三月にすでに出ていたことになる。実際に「足摺報告」が世に出たのは九七年五月だから、奥付の日付が一年以上も早められていることは明らかである。
 なぜ、このような奇妙なことになったのか。実は「足摺報告」を編集したとされる昭和薬科大学文化史研究室は九六年三月、古田氏の同大学退職とともに廃止されている。
 つまり、「足摺報告」は実際には古田氏個人によって編集されたにも関わらず、編集責任を負うべき主体の名をいつわって刊行されたことになる。古田氏はこのゴマカシの辻褄を合わせるために、日付をも偽らなければならなくなったのである。
 かつて古田氏は「偽書」という語を次ぎのように定義した。
「当人がみずから偽りと知りつつ、それを他に真実と信じしめる行為としての造文・成書」(『九州王朝の歴史学』駸々堂、一九九一年)。
 この「偽書」の定義についての批判は拙著『幻想の津軽王国』に譲るとして、「足摺報告」の奥付は古田氏自身、その日付、編集主体についての記述が偽りと知りつつ、他に真実と信じしめるように作成したものである。
 すなわち、古田氏自身の定義によれば、「足摺報告」は偽書に他ならないということになる、といえば皮肉がすぎるであろうか。
 とはいえ、「足摺報告」の作成が土佐清水市教育委員会の依頼によりなされた以上、奥付にこのような細工をするのもやむをえなかったのかも知れない。市教委としては、報告書の作成を古田氏個人にではなく、大学研究室という機関に委ねたという建前をくずせなかったとも考えられるからである。
 前述のように「足摺報告」作成には公金も支出されており、個人よりも機関の方が責任も権威もあるという官僚的発想に古田氏もまた拘束されていたのであろう(結果として、すでに廃止された機関が編集責任を負うという、より大きな無責任がまかりとおることになったわけだが)。
 市教委が、大学教授という肩書や大学研究室という名にこだわらず、古田氏個人に依頼したという形式をとっていれば、奥付の不体裁は生じなかったかも知れない。とすれば、古田氏もまた状況の犠牲者ということはできるだろう。
 しかし、いかなる事情であれ、奥付に虚偽を記載した最終的責任が、実質上の編集者である古田氏に帰するであろうことは言うまでもない。

 足摺プロジェクトの終焉 

 さて、偽書?「足摺報告」が出て以降、足摺プロジェクトは停滞に陥ってしまった。あたかも「足摺報告」を出すこと自体が足摺プロジェクトの目的だったかのようである。
 今後も、足摺岬の縄文灯台説は、ネタの切れたオカルト雑誌やテレビのバラエティ番組などで思い出したように取り上げられるかもしれない。しかし、そこから大きく進展する可能性はまずない。
 古田氏は渡辺氏がかつて足摺岬に関して積み重ねてきた成果をくすねるようにして、地元自治体に介入し、足摺岬の巨石研究(人工説の立場からのもの)の窓口を独占した。
 そして、その後、プロジェクトの主体となって活動していた古田氏から大学教授の肩書が消え、昭和薬科大学文化史研究室も廃止されることで、足摺プロジェクトはもはや大学の名という虎の威を借りられなくなってしまった。
 その時点で、実質的には、足摺プロジェクトは終息してしまったものとみなしうる。古田氏の縄文灯台説が最初から学問としての骨法を持っていなかった以上、このような帰結もやむを得ないところだったのである。
 本論考は古田氏の縄文灯台説と足摺プロジェクトはすでに終焉したものとみなし、それを歴史上の一エピソードとして後世にとどめる立場から記述したものである。  

                       1998  原田 実





(私論.私見)