| 「魏志倭人伝」逐条解説(1) |

(最新見直し2006.11.25日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
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さて、いよいよ「倭人伝」の世界へと入って行こうと思う。魏志倭人伝は迷路になっており、特に方位と里程の点でにっちもさっちも行かなくなる。比定地も然りである。れんだいこの定見は未だ無く、折に触れどんどん書き改めていく予定である。既に、官民問わず専門家多数により数多くの研究が為されてもいるのであるが、厳密な学問的批判に耐ええるものとしては希有であることを考えると、身が引き締まる思いがする。本書も又珍説、奇説の類にならぬよう眼光紙背の批判精神でもって書き進めて行こうと思う。 最後に。倭人伝の記述の解析に当っては、まず通説を記し、順次その他の有力と思われる異説を併記し、最後に私説を述べることとした。私説の確信部分又は独創的所見と思われる部分については特別にアンダーラインを引き、諸賢の判断を仰ぐこととした。 |
| 倭人は、帯方の 東南の 大海の中に在り、 山島に依りて、 国邑を為している。 |
| 舊は百余国。 |
| 漢の時、朝見する者有り、 今、使訳通ずる所は三十国 |
| 【総合解説】 |
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魏志倭人伝(以下、「倭人伝」と記す)の冒頭の一節である。撰者は、「倭人」の住む国邑を俯観して、その地理的特徴を五文意にて、倭人の国邑数と歴史的な往来の経過についてを三文意にて記述するところから論を起こしている。いずれも簡直明解な記述となっている。 |
| 【補足・各史書の「冒頭記述」について】 | ||||||
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ちなみに、倭人伝のこの冒頭の記述を他の史書のそれと比較してみれば、 微妙な違いがあり、併せて理解を援用することが出来る。
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| 【逐条解説】 |
| 【「倭人」について】 |
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ここに書かれた「倭人」が今日の日本人の祖先と考えられている。但し、ここでいう「倭人」が、現在の日本人の直系祖先となるのか、混血により大和化される以前の一方のルーツとしての「倭人」であるのかについては断定出来ない。 「倭人」に、「倭」という名称の冠せられた由来については定かではない。松下見林(1636ー1703年)は、1636〜1703年)が、「異称日本伝巻上一」で、「日本古は之を倭国と謂えり、但し倭の義未だ詳かならず」と記している通りである。一説に、弥生時代以前の日本列島に住みついていた人々の背丈が大陸の人より低かったという「矮」という意味で倭人と呼称されたものとされる。 |
| 【他の文献上の「倭人」記述考】 | ||||||||||
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参考までに「倭人」について記された他の文献を見てみると、正史ではないが、「魏略」逸文、「山海経」、「論衡」などの書物に、「倭.倭人」について次のような記載が見える。
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| 「帯方の」について |
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「漢書」.地理誌第八下.燕地の条の一節に「夫れ楽浪の海中、倭人有り、分かれて百余国と為る、歳時を以って来り、献見すと云う」との記録が有り、従来は「楽浪」の海中と記されていたことがわかる。倭人伝では、この「楽浪」と「帯方」とが入れ替わっていることになり、このことは、「魏、蜀、 呉」の三国時代に、遼東半島を支配した公孫氏政権が楽浪郡を分けて帯方郡を置き、公孫氏を滅ぼした「魏」も又これを継承したことに基づいている。 |
| 「東南の」について、併せて「倭人伝記載の方位について |
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ここで初めて方位の記述が登場する。倭人伝の記述における方位の正確度を廻っては諸説在り、全体的に正確でありこれを記述通りに読み進めるべきであるとする説と、北が東へ振っておるとする説とに分かれる。この場合45度反転説、90度反転説とあり、いずれも通説とする。 私説は、「方位の記載は古代航海者の知見をもとにして記載したものであるから、方角を誤って記すことはありえない」(水野祐氏「日本古代の国家形成」)という見方に与する。但し、私は、恐らく星座の位置から割り出す方位法であったと推測するので、定点から目的地に向う方向には誤りは無いものの、使節が実際に行程する道中における方位は概略であった、と理解する。つまり、魏志倭人伝の方位記述は、目的地方向では誤らずも、個々の行程時の方位記述は正確ではないと受け取る。従って、45度反転説、90度反転説いずれも有り得ると心得る。 |
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【解読取決め1・方位論】=「方位は見晴らしての目的地方向では誤らず、個々の行程時の方位記述は正確ではないと理解する」。 魏志倭人伝の生産的な解読を為すために、起点より順次解読手引きとしての「解読取決め」を為していきたいと思う。この取決めをしないと、必要以上に百家争鳴になるから、不必要な混乱を避けるためこの方式を採用するものとする。 この取決めに疑義がある場合はここを論議すれば良い。それも大事なことだ。しかし、一旦これを認めるならば、以下の同様記述は全てこの方式で解読していかねばならないものとする。まさか、魏志倭人伝文中に同じ記述で他の意味を持たせることは無いと思われるから。そういう意味で、整合性を重んじることにする。 従って、「解読取決め1」は「方位論」となり、「方位は見晴らしての目的地方向では誤らず、個々の行程時の方位記述は正確ではないと理解する」と取り決めることにする。 |
| 「大海の中に」について |
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日本列島全体が四方を海に囲まれており、現在の名称では太平洋、東シナ海、日本海、オホーツク海ということになるが、「大海の中に在り」との記述はまことに簡直明快な表現であると云える。 倭国を取り巻く「大海」についてこれを考察しておくことも意味あることと思われる。「大海」は、視点を外から見れば、故に倭地列島を海洋の中に閉じ込め孤立させたという部分がある。他面において、海洋が倭国と外部の世界とをつなぐ通路の役割をも果たしてきたとも云える。倭国観の原点を為す地理的な条件として、「大海」をこの両方向から複眼的に考察するべきであると云える。 ところで、ここで注意しておくべきことは、倭人伝の記述の有り様からすれば、倭国は、その列島の国土のみならずその周辺の海域をも領域とする国家として、つまり海洋国家として認識されているという観点が必要であると思われる。 |
| 「帶方東南大海之中」について |
| 「帶方東南大海之中」は、倭人たちは住んでいる地域を「帯方東南の大海の中」と解するのが妥当であろうが、「『帯方東南』且つ『大海中』」という解釈もあるらしい。この差は一見ほとんどないように見えるが、「帯方」と「大海」の大きさが極端に異なっているような場合は、大きな差が出てくる。 |
| 「在り」について |
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「在」と「有」の使い分けも一考を要する。一説に、「在」は既に存在が分かっているもの、「有」は存在が不確定のものに対して使うという。 |
| 「山島に依りて」について |
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「山島に依る」とは、中国大陸のような平坦な地形と異なり、列島化した山地含みの島々より構成されている、という意味であると思われる。 倭地の国土としての列島は、一方で山地を波々とさせており、そういう地勢的条件に支えられて採集.狩猟経済を成立せしめたきたことが推測される。なお且つ平野部では、河川に恵まれてもいることから農耕経済を準備せしめることともなったであろう。こうして見ると、倭地に対して、先の海洋による漁労経済と併せて、地理的自然に恵まれている国土観というものが必要であろうかと思われる。 |
| 「国邑を為している」について |
| 前述のように中国の歴代王朝との交易はかなり早くから行われていたらしいことが推測されるが、その記述のされ方からすれば、いわば国家形成以前の成熟過程としては「倭.または倭人」として存在が認められていたようである。いわば各々が独立した自然村落的社会集団を形成している段階の国邑像を思い浮かべれば良いと思われる。 既に、この国邑のうち有力なそれは、かっては楽浪郡この頃においては帯方郡を折衝の窓口としながら、中国歴代王朝及び周辺諸国との関係を深めていたことが推測される。特に前漢時代の元封2〜3年(前109〜前108年)にかけて武帝(前141〜前87)により衛氏朝鮮が討伐された結果、朝鮮半島に「楽浪郡、真番、玄菟、臨屯」の四郡が置かれて以降において、「ここにおいて東夷初めて上京に通ず」との記録が為されており、武帝の朝鮮出兵による朝鮮半島の支配が東夷との交易朝貢関係を大きく進展させることとなったようである。大陸との交流は非常な速度で倭国の政治的経済的文化的な発展を促すことになり、この時代を経過して「倭人」は「倭国」として認識される段階に変貌を遂げていった様子が推測される。 |
| 「舊は」について |
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舊とは、漢時代の頃のこと、紀元前後から第一世紀の中葉の頃と推定される。 |
| 「百余国」について |
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この頃、倭地には列島の処々に独立した国邑が形成されつつあり、当初は「百余国」として認識されていたことがわかる。実数の百という意味であるのか、たくさんのという意味であるかについてははっきりしないが、実数的に理解してみても大過ないものと思われる。 この百余国の所在について、日本列島のどのくらいの範囲に百国あったのか、については不祥である。一説は、いわば限定的な地域に群立していた国邑の概数と見て、九州北岸一帯を指しているものと推測する。別説は、今日の日本列島の各地を前提として、所々に散在していた国邑の総数とみる。つまり、二説がある。私説は、後者として理解する。整理の都合上、この百余国期の倭国を仮に「古代プレ倭国」と称して標識しておこうと思う。その時期は紀元前後に当たる。 |
| 「漢の時、朝見する者有り」について | ||||
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「朝見」とは、小国が大国に使節を送って挨拶することを云う。先の百余国とされた国邑のうち、有力な国々が率先して中国本朝との関係を求めて使節を往来させたようである。この頃の倭国の有力な国邑の一つとして、北九州の沿岸地域主に博多湾沿岸地域、糸島半島、唐津市付近等玄界灘寄りの沿岸部が推測されており、その中にあっても「奴国」が支配的な勢力を誇っていたようである。その記録が次のように残されている。
※類似の記事は、唐代の編纂ではあるが、「晋書」.「随書」.「北史」などにも散見することが出来る。 |
| 補足.「古代プレ倭国」の様子について | ||
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さらに紀元二世紀前後の頃になると、「古代プレ倭国」の国邑が次第に世襲的な王権を存立させる国家的風貌を整えつつあったことが記録されている。
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| 補足.「古代倭国」の様子について | ||
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紀元二世紀初頭に至って、一括して倭国として称される代表政権が形成され、この政権と漢王朝との朝貢関係が次第に勢力的に続けられていった様子が記録に登場する。整理の都合上、この時代を「古代倭国」として標識することが出来る。
紀元二世紀の半ば頃西暦120年乃至130年頃になると、倭国王として帥升等の存在が確かめられることとなった。帥升等は記録に表れた最初の倭国王であることが注目される。この倭国王を初代邪馬台国の王と推理する説もあるが、通説とまでは行かない。 |
| 補足.「倭国王帥升等」について | ||
「倭国王帥升等」については、「後漢書」倭伝に次のように記されている。
「倭国王帥升等」について考察をしておく。多くの論者は、この個所を帥升等と読んで、倭国王の「升」及びその従者が後漢に朝貢したものと解釈している。藤間生太氏は、「帥升等」の表現は、王を複数で表わしたものと解釈する。しかし、これには異説も多く、「帥」は「率」とともに当時の支配者を表わす字であり、従って倭国の「王帥」の「升等」と読むべきであり、又「王帥」は「主帥」の間違いであり、「主帥」の「升等」と読むべきであり、升及びその従者たちとする説がある。この説に従えば、仮に「王帥の升」という人物を派遣した倭国とはどこの国であろうかということになる。 |
| 補足.「倭国、倭面土国、倭面国」について | ||||||||
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「倭人伝」、元版以降の「後漢書」は、単に「倭国」と記すが、別本.異本などには、別表の通り様々に記載されている。要約して、「倭面土国」か「倭面国」となっており、これをどう読むかで又諸説分かれている。「倭面土国」か「倭面国」か及びその比定地についての絡みで見ることにする。
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| 補足.「倭国の形成過程」について |
| こうしてみると、倭国は、三つの発展過程を経ており、「百余国期=古代倭国」から「三十許国=中期倭国」へ、「三十許国」から「邪馬台国=末期倭国」へと向かったことが伺われることになる。この後二世期の半ばを過ぎた頃、倭国の王国間に深刻な戦争状態が起ったことが知られている。この後の消息については、魏志倭人伝本文「」の項においてふれることとするが、この末期倭国の争乱を経て、大和朝廷の時代へと向かうことになる。 |
| 「今」について |
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今というのは、撰者陳寿が三国志を著わした西晋の時代のことを云う。従って、二世期の半ば頃には、ほぼ三十余国の存在が確認される。本項と同じ記述は「随書倭国伝」にも有り、「魏の時、訳を中国に通ずるもの三十余国、皆自ら王と称す」と記録されている。この時期を仮に「中期倭国」と称してみることとする。 |
| 「使訳通ずる所は三十国」について | |
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「使訳所通」とは、使者と通訳と解されるが、これは朝貢関係を意味するのか、朝貢関係までには至らない単に使訳関係のことなのか不祥である。 ところで、ここに書かれている「三十国」の比定についても議論の余地がある。概略邪馬台国を盟主とする倭人伝記載の諸国を指しているものと了解して限定的な地域とするのか、今日の日本列島全体に生息していた国々のうち使訳通ずる所の国としての「三十国」と見るのか議論の余地がある。つまり、「倭人伝記載三十国説」と「列島全域三十国説」に分かれる。 参考までに、外国からみた日本の特徴が記された文献として、マルコポーロ(1254ー1324、イタリアの旅行家)の「東方見聞録の」一節を見ておこう。比較してみるのもあながち無益ではないと思われる。その著の中で、日本は次のように紹介されている。ここで述べられている日本は13世紀の鎌倉時代の記述であり、邪馬台国の時代からは丁度千年程たっている。
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| 「郡より倭に至るには、海岸に循ひて水行し、 |
| 韓国を歴て、 |
| 乍に南へ乍に東へしながら、其の北岸狗邪韓国に到る |
| 七千余里」 |
| 【総合解説】 |
| 使節の、帯方郡から「狗邪韓国」へと至る様子が四文意にて述べられている。これを仮に、第一行程として理解を進めてみようと思う。 (逸文)魏略は、「従帯方至倭 循海岸水行歴韓國 至拘邪韓國七十里」と記している。 |
| 「郡」について | ||||||||||
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この「郡」は、当時の魏王朝による韓国.倭国との外交折衝及び事務を司どる出先機関であり、本国の幽州刺史の統属下にあった。建安年間に、遼東の帯方郡治のあったのは、1・現在の平壌の南約60キロの「沙里院駅付近説」(仮に平壌説とする)と2・現在の「京城ソウル説」との二説がある。この決着もついていない。私説は、平壌説とする。しかし、これには特段の根拠は無いので軽断とする。
京城ソウル説は、その理由として次のように述べている。
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| 「従(より)」について |
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「従郡」とある場合、この郡を帯方郡よりと解釈するのを通説とする。私説もこれに従う。これを、魏の都洛陽からの距離と見て洛陽郡よりと解釈する説又は楽浪郡よりとする説もあるが、参考に留まる。 なお、後に、「自郡至女王国万二千余里」の記述があり、「自郡」とある場合と「従郡」とある場合の違いを踏まえておく必要があるかと思われる。「自郡」は出発点としての意味において捉え、「従郡」は経過点として捉える、との違いと考えられるものと思われる。 |
| 「倭に至るには」について |
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「至る」というのは、「---迄」という意味である。後に「到る」の記述が出てくるが、その違いについては「到る」のところで述べることとする。 |
| 「海岸に循ひて水行し、」について |
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「循(したがう)」とは、「拠る」、「沿う」という意味。「Aに循いてBす」文形は、「Aの地形に沿いつつ、Bの行為をする」という意味になる。 |
| 「韓国を歴て」について |
| 「韓国」は、馬韓.辰韓.弁韓を指す。 |
| 「乍に南へ乍に東へしながら、」について |
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通説は水行コースで考えるが、上記の韓国を経てより陸行とする説もある。私説は水行コースを採る。いずれにしても朝鮮半島を西の海岸線に添って南下し、木浦を通過して済州海峡に面した島々の間を縫いながら東進したことになる。平壌説に従うと、大同江口の長口鎮より椒島.得物島.唐恩浦.泰安.郡山.法聖浦.木浦.康津.麗水.固城.金海のコースとなる。 ここにも方位が出で来るが、【解読取決め1、「方位論」の取決め、「方位は見晴らしての目的地方向では誤らず、個々の行程時の方位記述は正確ではないと理解する」】に従う。この場合は、後者の「個々の行程時の方位記述は正確ではない」に該当するので、「南へ」、「東へ」の記述を大雑把にその方向へと理解して可とする。 |
| 「其の北岸」について |
| 「其の北岸狗邪韓国」という記述に対して考察を為す必要があると思われる。「その北岸」、「狗邪韓国の領有権」も解釈が非常に分かれているところである。ここでは、「その北岸」について考察する。これを普通に読めば、「狗邪韓国の北岸」と云う事になるが、学究の手に掛かると簡単にそのようには受け取ることが出来なくなる。「倭地の北岸である狗邪韓国」と云う意味に採ることが可能となる。私説は、「狗邪韓国の北岸」と普通に読むこととする。つまり、使節が「狗邪韓国の北岸」に到ったと理解する。 |
| 「狗邪韓国」について |
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通説は「くやかんこく」と読み下すが、「こやわにこく」と読む説もある。「狗邪韓国」の比定地について、私説は、「朝鮮半島の南方、現在の慶尚南道の釜山〜金海忠武付近」説を採る。 「狗邪韓国」は、朝鮮半島の南方、現在の慶尚南道の釜山〜金海忠武付近にあったとされる。異説として、朝鮮海峡を渡るのに最も対馬に近い巨済島を比定する説もある。巨済島は朝鮮半島の最南東端の鎮海湾頭にあり、済む州島につぐ韓国第二の島で、面積は389km2である。 「弁辰狗邪国」には金貝遺跡が認められている。この地ならば、北九州地方との考古学的な共通性も有り、朝鮮半島−九州.本島間航海の出発点としての条件を備えている。 |
| 「狗邪韓国」の領有権について | ||||||
| 狗邪韓国については、「倭国地説」と「韓国地説」、「倭韓両国説」とに見解が分かれており、不毛とも思われる論争が決着を見ていない。私説は、「韓国地説」に従う。 | ||||||
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○、「倭国地説」
とあり、蓋国は後の高句麗、鉅燕国は大燕国と考えることが出来、倭の地の北に位置しているということであれば、逆に倭地はその南の朝鮮半島南端に在ったということが裏付けられると推測する。
とあり、ここでも朝鮮半島南端に倭の地があったことが記されているとする。 |
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○、「韓国地説」 狗邪韓国が倭地の最初の国であるとすれば、次の対馬国以下の記述に見られるように官名、戸数、国の特徴等が記されていなければ不自然であり、この記載が為されておらず、又冒頭での帯方の東南の大海の中にあるという記述に但書のないことを思えば、朝鮮半島に陸続する倭地というのは具合が悪くはないかとするのが、「韓国地説」である。又、国名に韓国という文字が入っている以上、倭の国というより韓の国として捉えるべきではなかろうか、と考える。従って、「其の」は韓国と考えるべきで、韓国からみて北岸の国に狗邪韓国が位置していたと解釈するのが妥当とされる。 |
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○、「倭韓両国説」 別説として、白鳥庫吉氏曰く「北岸の文字は穏やかではないけれど、これを倭漢両国に横たわる海洋の北岸とみれば文意は通ずる」と述べているように、「其の」を初文の「東南の大海」を受けた言葉と理解する説がある。「接す」についても、山尾幸久氏のように、陸続きであることに限定せず、海域を挟んで境界が接するとの意味に了解し、「倭国地説」が挙げた史料の例証にも関わらずこれを字句通りには受け取らない見方もある。倭国は、前述した様にあくまで国土及びその周辺の海域の海洋迄を含んだ地域として認識されていると思われるからである。いずれにせよ、三世紀の倭国を考える場合には、常に半島との絡みを見ておく必要があるということにはなるであろう。 |
| 「に到る」について |
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「到」というのは、「---に着く」という意味である。「至」と「到」の違いを単に修辞上の違いと見做す黙殺説もあるが、「至」と「到」とは厳密に書きわけられておるとする区分説もあり、私説は区分説を採る。 |
| 補足・「至」と「到」の違いについて |
| 魏志倭人伝は、「至」と「到」を使い分けている。一般に中国古文の中で、同文中に「至」と「到」が出現した場合には、区別して使用されており、当然意味するところを違えて読まれなければならないことになる。この問題は、後の伊都国のところで大いに問題となる。「到」が使われているヶ所は「狗邪韓国に到る」と「伊都国に到る」の2箇所のみで、後は全て「至」となっている。「至」と「到」とは、日本語では両方共「イタル」と読み区別されないが、中国語では使い分けするようである。 厳密な意味においては、漢字の三代要素である「形」(字の形態)、「音」(字の発音)、「義」(字の意味)においてすべて異なって理解される。仮にこれを英訳すれば歴然とする。「至」は、till又はuntillであり、「到」はreach又はarrive toである。「至」と「到」にはそういう違いがある。つまり、 「至」は、「通行途次の場合に使われ、至る先は経過点を表す」のに対し、「到」は、「次の行先への起点にならず、これから先には進めないという含意を持つ到着点を表わす」という違いがある。 これを中国の辞典である台湾中華書局印行の「辞海」で確認すると次のように云える。「至」は至部の字であり、その意味は、第一に極、第二に到、第三に大、第四に善---というようになり、倭人伝では第一の「極」の意味で使用しており、線的な概念として「---迄」として理解していることになる。文章の中では、通行途次の場合に使われ、「至」る先は経過点を表す。これに対して「到」は、刀部の字であり、その意味は、第一に至る、第二に周、第三に倒、第四に弔---というようになり、倭人伝では、第一の「至る」の意味にとっており、点的な概念として使われており、その一点に着くことであり、「---に至る」として理解すればよいことになる。文章の中では、次の行先への起点にならず、これから先には進めないという含意を持つ終着点であるという認識が必要である、と云う。 私説は、「至」と「到」の違いを次のように解く。「至」は、定まったルートによる経過地を指している。「到」は、到着し逗留するところであり、止まる地である。従って、狗邪韓国に「到」とあるのは、「止まり、ここから先へは進まない」という言外の意味が含まれているのではなかろうか。ということは、「到」の場合には次の行程に向う場合の起点にならず、次の行程には回り道となるという意味が込められているのではなかろうか。次の行程は、必ずしも狗邪韓国の首府から出発するのでは無く、事前行程の都合の良い所を任意に選んで出発地としている、と解することができるように思われる。 この説をひとまず打ち立てると、解釈の整合的統一上、伊都国の「到る」の場合にも同様に解せねばならないことになる。つまり、邪馬台国へ一瀉千里に向う場合には、必ずしも狗邪韓国と伊都国へは向う必要が無い、ということになる。では、邪馬台国への到着になぜ「至」が使用されているのかというと、その場合には定まったルートがあるという風に解する。「ルート行程=至」と記述したと解することができる。 |
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| 【解読取決め2・「至・到論」、「至る=ルート通過点を意味する、到る=行き止まりを意味する」】 「解読取決め2」を「至・到論」と為し、「至る=決まったルートによる通過点を意味する、到る=行き止まりないしは逗留を意味し、次の行程には回り道を意味する」と取り決めることにする。 |
| 「七千余里」について |
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郡より「狗邪韓国」へと至る行程、これを第一行程とすれば、「7千余里」であるということである。以下、第一行程を検討する。この後の記述で邪馬台国に至る諸国とその行程が順次明らかにされることになるが、その最初の基準がここに現れているのでこの「7千余里」の分析は重要である。 |
| 「余里」について |
| 「七千余里」とある「余里」について考察してみる。三国志全体の記載を通じて、「余」の検討をしてみるのに、「余年」、「余里」と有る場合の「余」は、凡そ越えて「一」から「七」迄を指していることがわかる。してみれば「七千余里」とは七千里より七千七百里の間を意味していることになる。 |
| 「一里」について |
| 以上のことから七千余里を仮に七千五百里とすれば、狭く見て600km÷7500里=80m、広く見て800km÷7500里=100mとして「一里=80〜100m」を求めることが出来る。少なくとも、魏志倭人伝全体に及ぶかどうかは別にしても、海を越えていない大陸との地続きの相互間の距離であり、往来に容易と見做されるから精度も高いと考えることが出来、「長里・短里」を云う場合のかなりに正確な目安として、この「一里=80〜100m」を参考にせねばならないことと思われるが如何であろうか。これはれんだいこの私説であるが、この基準は後の行程にも十分通用する。 「当時の里程」については、「魏志倭人伝総合解説(2)予め議論を為しておくべき事項整理」の「当時の里程について」で考察する。 |
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| 【解読取決め3・里程論、一里=80〜100m】 「解読取決め3」は里程論となり、「一里=80〜100m」と取り決めることにする。 |
これより後は、「對馬国から不弥国に至るまで」に記す。
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(私論.私見)