【「邪馬台国」比定諸説】

 (最新見直し2006.10.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「邪馬台国比定諸説」を検証する。「邪馬台国大研究」の邪馬台国比定地一覧が詳しいのでこれを参照する。邪馬台国比定を廻って、これだけ多くの諸説が為されていることに驚くであろう。

 2006.11.29日 れんだいこ拝


【九州説】
 九州説論者は次のように説いているようである。
福岡県 北九州  九州北部、北部九州とも表記される。中島河太郎は、巫女説。大谷光男、川野京輔はシャーマン説。鯨清は、天照大神説。森浩一は、豪族説。井上光貞、和辻哲朗は、天照大神説。藤間生大、実吉達郎ら。
北九州沿岸  大林太良はシャーマン説。
筑後川流域  山村正夫は、女酋巫女説。阿部秀雄ら。
吉野ヶ里広域  博多・吉野ヶ里・甘木朝倉に及ぶ。久保雅男が、卑弥呼の墓を日吉神社の鳥居周辺を比定。奥野正男、
福岡県一帯  古田武彦ら。
福岡市博多一帯  久米邦武は、筑紫国造説。松本清張は、巫女説。古田武彦。
太宰府市近辺  松田正一、佐藤鉄章ら。
筑後山門郡  福岡県柳川市付近。奴国から筑後川を舟行し、この地へむかったとする説。福岡県久留米市御井町高良山を中心とする筑後川南岸付近とする説もある。ここには高良大社が祀られ、それを取り囲むように城石が廻らされていて、この城域は高良山神籠石と呼ばれている。
 新井白石は、神功皇后説。星野恒は田油津媛の先代説。橋本進吉、津田左右吉は一女酋説。喜田貞吉は、大和朝廷配下の九州の王説。村山健治は、教祖族長説。吉田修は、シャーマン説。榎一雄、牧健二、田中卓。
筑後御井  福岡県久留米市御井町、三井郡。植村清二ら。
筑後京都郡  重松明久ら。
筑後田川郡  坂田隆ら。
築前博多  福岡県福岡市付近。
築前甘木  福岡県甘木市・朝倉郡付近。筑後川北岸中心。安本美典氏が指摘していることの一つに、甘木市と大和の奇妙な地名の一致がある。甘木に住んでいた集団が大和に入ったことの証明になると云う。神話の「天の安河」と思われる「夜須川」もあり、日本書紀の神話が史実からの伝承である可能性も出てくる。天皇家が渡来系であるなら、朝鮮半島から甘木付近に入った後、大和に移住したことになる。安本美典、村山義男は天照大神説。奥野健男、木村俊夫ら。
朝倉郡  高倉盛雄
その他筑前  福岡県瀬高町、福岡県鳥栖。
佐賀県 八女郡  八女市。中堂観恵は、日の御子説。井沢元彦ら。
筑紫平野  藤沢偉作ら。
長崎県 肥前島原  長崎県島原半島。宮崎康平。
肥前千綿  長崎県東彼杵町付近。野津清。
佐世保市  恋塚春男。
大村湾東岸  鈴木勇は天照大神説。
熊本県 肥後山門  熊本県菊池郡小源村。伊都国から舟で玄界灘沿岸を西へ行き、長崎県西彼杵半島をまわって有明海に入ったとする説。近藤芳樹は、九州の一豪族説。白鳥庫吉、黛弘道ら。
肥後玉名  熊本県玉名市付近。宮崎康平。
玉名郡江田村  古屋清は、神功皇后。
阿蘇郡  藤井甚太郎は、神功皇后説。渡辺豊和が、阿蘇神社周辺を比定。
阿蘇郡蘇陽町  藤芳義男は、百襲姫説。
下益城郡佐俣町  安藤正直ら。
人吉市  工藤篁。
山鹿市  鈴木武樹。
八代市  李鉦埼は、インドの王女説。
東九州  石崎景三ら。
菊池川流域  岩下徳蔵は、豪族の娘せつ。
大分県 豊前山戸宇佐  大分県中津、宇佐付近。不弥国から舟で関門海峡を通り、豊前の海岸を南下して大分県宇佐市に入ったとする説。宇佐八幡神宮はその由緒により、後の大和朝廷時代に至っても一朝事あった際の神託のお告げを授かる地位にあったとする。卑弥呼の墓を宇佐八幡神宮に比定。富来隆、久保泉、高木彬光(作家)、伊勢久信は、神功皇后説。安藤輝国は、応神天皇一族説。高橋ちえこは、巫女説。市村其三郎ら。
宇佐神宮領地内  神西秀憲。
周防灘沖合海中
(知珂島)
 大羽弘道。
別府湾岸  山本武雄。
中津市  横堀貞次郎。
宮崎県 日向地方  林屋友次郎。
延岡市構口  小田洋。
日向  尾崎雄二郎。
霧島山周辺  高津道昭は、巫女説。
西都原  清水正紀は、天照大神説。
西都市  原田常治は、天照大神。
鹿児島県 鹿児島  加治木義博、王仲殊。
霧島山一帯  霧島山南峰の高千穂峰は、古来神話.伝説峰として尊崇されてきており霧島山の南の麓にある霧島神宮は、旧官幣大社であり、主祭神は邇邇芸命書紀では 杵尊。霧島付近がなんらかの形で日本創世に関係が在ることは疑いない。霧島山の東方には、高原.高崎.高城、少し離れて高岡.高鍋などの地名がある。山の名前も高千穂をはじめ、高隅山.高畑山など高のつく地名が多く、これらは神話にでてくる高天原と無縁ではないように思われると為す。
薩摩・大隅国  鹿児島県大隅半島。鶴峰戊申は、熊襲の女首長。
薩摩国・そお  吉田東伍。
大隅国姫木  那珂通世。
九州南部  本居宣長は、熊襲の女首長説。
奄美大島  小林恵子。
沖縄  木村政昭。


【畿内大和説】
 畿内説論者は次のように説いているようである。
近畿内  笠井新也、原田大六、和歌森太郎は、倭百日百襲姫説。橘良平は、倭彦命説。
大和  田口賢三は、神功皇后説。青木慶一は、倭百日日百襲姫説。田辺昭三、由良哲次、山尾幸久、小林行雄。他に、樋口隆康、岡崎敬、浜田敦。山口修、西嶋定生、謝銘仁。
 舎人親王、松下見林、伴信友、高橋健二、志田不動麿は、神功皇后説。内藤虎次郎は、倭姫命説。藤田元春は、倭百日日倭姫命説。稲葉岩吉、末松保和、中山平次郎、梅原末治、三宅米吉、山田孝雄、鈴木俊、上田正昭、直木考次郎ら。
奈良県 桜井市
天理市  黒塚古墳とは奈良県天理市柳本町に所在する全長約130mの前方後円墳。1998(平成9).1月、黒塚古墳の竪穴式石室より全国でも過去最多33面もの三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡1面が、ほとんど未盗掘の状態で出土した。三角縁神獣鏡の製作年代は、古墳の出現時期を推定するカギでもあり、古代史解明の重要な資料となる。

 この三角縁神獣鏡こそ、卑弥呼が古代中国魏から贈られた「銅鏡百枚」にあたるのではといわれ、邪馬台国論争の争点になっている。黒塚古墳での三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡の発見は、今後の邪馬台国研究に新たな1ページを加える歴史的な大発見といえる。
三輪山麓  肥後和男は、倭百日日百襲姫。三品彰英、大庭脩。高城修三は、倭迹迹日百襲姫説、卑弥呼の墓は箸墓古墳としている。
郡山  鳥越憲三郎は、物部氏一族説。
飛鳥  新妻利久は、神功皇后説。坂田隆は、倭姫命説。佐原真。


【四国説】
 四国説論者は次のように説いているようである。
愛媛県川之江  大森忠夫。
松山  浜田秀雄。
四国東半
徳島県 阿波国  古代阿波研究会は、神功皇后説。岩利大閑ら。
徳島高根
四国山頂  大杉博が、徳島県神山町山上を比定。卑弥呼の墓を八倉比売神社に比定。
高知県伊野町


【中国地方説】
 中国説論者は次のように説いているようである。
吉備 日差山  久保幸三が、卑弥呼の墓を楯築遺跡に比定。
岡山・香川  広畠輝治が、蒜山高原を高天原に比定。
吉備津神社  薬師寺慎一が、卑弥呼の墓を楯築遺跡に比定。
熊山町  若狭哲六が、卑弥呼の墓を熊山に比定。
出雲  大川誠市。

安芸

 

安芸郡府中村  多祁理宮(埃宮)、現在の府中町にある多家神社を中心とした地域であるとする。その根拠として、この地域は古の莵狭國の中心地であり、神武天皇はこの地の多祁理宮で亡くなっており、後世の厳島または宮島は「神 ろぎ磐坂」として祭祀を厳修した社殿が存在したりする。


【その他地域】
 その他地域論者は次のように説いているようである。
大阪府 大阪市  大熊規短男。
難波  泉隆弐。
京都府 京都府京都市  江戸達郎は、神功皇后説。
滋賀県 琵琶湖畔
野洲町  大内規夫は、天照大神説。
和歌山県 吉野から紀州一帯  立岩巌。
北陸地方説  小島信一は、神功皇后説。
新潟県栃尾市
石川県眉丈山
石川県羽昨市  能坂利雄は、能登ヒメ説。
福井県鯖江市
長野県 諏訪地方  武智鉄二の南シベリア族の女王説。
山梨県 逸見高原  山梨県。
東海地方説
静岡県登呂
南伊豆、下田  肥田政彦。
旧東山道
山梨県逸見高原
諏訪
千葉県  伊藤邦之。
総国(上総・安房)  鈴木正知は、巫女説。


【海外】
じゃわ、スマトラ  内田吟風は、神功皇后説。
エジプト  木村鷹太郎。

【偽書説】
 岡田英弘が、晋朝狂言説、偽書倭人伝は偽書であり、邪馬台国は架空であると唱える。

 新説・日本の歴史第6弾邪馬台国の真相横浜市 井上友幸

  「ヤマ」とは、「多い」と意味であった。「ヤマタノオロチ」は「多くの頭をもった大蛇」という意味である。すると邪馬壱国は、「多くの国が一つになった」という意味ではないだろうか。すなわち、連合国家である。

 壱与の時代(西暦260年ごろ)から、40,50年経過した頃、邪馬台国を構成していたどこかの国が、奈良盆地に移動したものと思われる。これが近畿邪馬台国である。九州・福岡県一帯と奈良盆地には、同じ地名が多いとの研究報告があるが、近畿に東遷した邪馬台国の国は、福岡県一帯に居住していた人達の国ではなかったか、と思われる。日本書紀に書かれている崇神天皇がこのとき東遷した勢力とも考えられる。

 東遷したその国は、国名を「ひのもと」と命名したものと思われる。この国は、発展をとげ、大阪、吉備、出雲などを従えるようになり、多くの鏡を生産し、九州、中国、近畿にばら撒いたものと思われる。そして、「ひのもと」の首都が、纏向遺跡で、「多くの人がいる」という意味で「ヤマト」と呼ばれたのである。後世、「日本」、「大和」と書いてヤマトと呼んでいるが、このような歴史的事実があったからこそ、当時の人は抵抗なく、受け入れたものと思われる。(注意)この時期、大阪は、「クサカ」(草深い棲家)と呼ばれていた。

 この国は、100年近く栄えたが、その後、応神天皇が、九州の勢力(実際は朝鮮の勢力か)を従えて、大阪に上陸することになり、激しい戦闘の上、敗北し、長野県方面に逃げたが、さらに津軽にまで逃げ、そこで、その子孫は、再び国を作ることになる。

 これが、「エミシ」と呼ばれる人たちの国で、1500年ごろまで、政権は変わったが、津軽を中心に栄えた。「エミシ」の「エ」は「えにし」の「エ」で昔の意味、ミは「尊い」の意味、「シ」は「うおがし」の「し」と同じで場所特定の意味、すなわち、「昔の尊い人」という意味になる。しかし、津軽の邪馬台国の後継政権は、1500年ごろ当地襲った大地震で壊滅した。

 奈良の天理市の近くに「石上神社」があるが、ここでは、今でも毎年1月1日の早朝(紅白が終わってまもなく)祝詞を挙げる慣わしがある。内容は、「ひふみよいむなや」で始まる意味不明の祝詞である。

 これを古代朝鮮語で訳した人がいる。内容は「返してよ、返してよ、お馬鹿さん」という意味だそうだ。実は、石上神社は、いつ頃できたか判らないほど古い神社である。おそらく、奈良盆地で一番古い神社といわれている。

 ところが、津軽に、これと同じ祝詞を1月1日に挙げる神社がある。これをどのように解釈したらよいであろうか。おそらく、石上神社は、「ひのもと」の国の神社であったろうと思われる。そして、応神王朝に対して、政権の返還を実に1600年に渡って、主張しているのである。

 そして、津軽の神社でもその子孫が、延々と歩調を合わせていたと思える。(もっとも、やっている当人は、その意識はないと思うが)これは、西暦700年ごろ国を失ったイスラエル人が、旧地返還を主張し、戦後(1950年ごろ)、アメリカの援助で旧地に「イスラエル」を建国した話に似てないだろうか。

 津軽には、「津軽外三郡史」という江戸時代にできた歴史書がある。津軽藩の家臣が、当時の津軽近辺の民話、伝承などを編集したもので、一部には荒唐無稽な話もあり、歴史学者からは、信用されていない。

 この中に、「かって、津軽は日本の中央であった。」という意味で、「日本中央」とういう石碑があったが、坂上田村麻呂の侵略のとき、地中に埋めたと書かれている。明治になってから、石碑を探すプロジェクトができたが、そのときは、発見されなかった。

 ところが、戦時中、自分の庭に防空壕を作ろうとしていた農家の庭先から、「日本中央」と書かれた石碑が出てきたのである。当時は、戦時下で、この事実は伏せられていたが、最近では、広く写真入りで公表されている。

(注意)最近、放送されNHKの番組では、「日本中央」の石碑の発見に関して、戦時中、農家の人が適当な大きさの石を探しているとき、小川の土手で偶然「日本中央」の石を発見したとなっていたが、真偽の程は不明。

 これが、かっての津軽政権の残した「日本中央」の石碑かどうかは、今後の分析を待つしかないが、恐らく、津軽政権の遺跡と思われる。いつの時代の石碑なのか、どのような背景で作られたのか判らないが、津軽政権の一端を示すものであろう。

 日本の歴史の継続性は、驚くものがある。古代エジプト文明は、歴史の古さ、文明の規模に付いては、申し分ないが、継続性がない。すなわち、古代エジプトは、今のエジプト人の生活、家系、信仰とほとんど関係ないのである。

 また、中国の歴史は、歴史の古さ、文明の規模、歴史の継続性、すべてにおいて世界でもっとも優れた歴史である。(何しろ、孔子の子孫が今でも家系を保っている)これに対し、日本の歴史は、歴史の古さ、文明の規模においては中国にかなわないが、歴史の継続性においては中国の歴史を凌ぎ世界一である。この点において、ユダヤの歴史と日本の歴史は似ている。

 また、日本人の血液を分析すると、東北地方と、沖縄人がともに南方系ということで、共通している。これは、弥生時代に朝鮮からの人口移入により、それまで日本に住んでいた縄文人や比較的古い弥生人が南北に分断されたためである。このことは、邪馬台国の東遷、そして、東北地方への亡命という歴史的出来事と符合するものである。

(注意)できたら、3世紀の九州の人骨と津軽の古墳の人骨のDNA鑑定をしてもらいたい。

 これが、邪馬台国の顛末と考える。すなわち、「邪馬台国はどのにあったか」という質問に対し、西暦200年から260年ごろは北九州に、西暦260年から350年ごろは奈良盆地に、しばらく長野に滞在したのち、西暦400年から1500年間は、津軽地方にあったというのが、私の答えである。

以上





(私論.私見)