「邪馬台国」比定諸説論争史(2)

 「邪馬台国」の研究は「古代史ロマンの華」である。一説に「新井白石に始まり安本美典で終わった研究史」と云い為す向きもあるが、違う。今日なお「甲論乙駁す」論議のただ中にあり、あまたの頭脳を投入しているにもかかわらず解明にはほど遠い学問領域となっている。

 通説には必ずといってよいほど異説が伴っており、極言すればどの箇所に於いても定説が見当らない。論を深めてきた歴史的経過の割には、知れば知るほどむしろ混迷を増していく観があり、杳として成果が定着していない。専門家がこういう有り様だからして、郷土史家、小説家、宗教家、私学者(アマチュア)が自説を堂々と開陳出来得る魅惑的な分野となっている。

 その原因は、魏志倭人伝約二千文字の記述そのものに内在している。どうすればこれだけの解釈が可能になるのかと驚嘆するばかりの多義的文言で書かれている。あるいは意図的に筆法的書き方が為されているとみなす向きもある。よって、その解読は、奥深く入り込めば込むほど迷宮入りしてしまう不思議なパズルとなっている。東西の帝国大学の歴史学者の頭脳をしても解けず、かの高名な推理作家である松本清張あるいは高木彬光をしても如何ともし難い。逆に云えば、そういう文言ないしは筆法のせいで、この二千文字から何を如何に読み取るのか、未だ各人の自由に任されている。これまでどれほど創造的な読み取りが現れてきたか微笑を禁じえない。それを思えば、邪馬台国論は我々の思考を鍛えてくれる格好素材と云えるかも知れない。れんだいこもそれ故に興味を抱いてきたのかも知れない。

 魏志倭人伝の多義的文言、筆法的書き方は今更どうしようもなかろう。それを踏まえて学問するとならば、考古学的に実証していく方法と史料的に考証していく方法とが常道であろう。学問的な裏付けを積み重ねて、一つづつの事象を確認しながら、共同して論議を深化させていくことが相応しかろう。しかしながら、邪馬台国研究の実際は、学閥的に左右されたり、郷土愛的な先入観を第一義にしてみたり、観点に特許を導入して他の論者の介入を斥けてみたりの凡そ非学問的学問作法論法が横行している。
 もう一つ大事な方法がある。それは、考古学的実証にせよ史料的考証にせよ、研究成果の共有と解釈方法を共同構築していくことが肝要ではなかろうか。勿論、異説を許容しつつの共認化を求めねばなるまい。邪馬台国研究のお粗末さは、この面が積み木崩しされてしまっており生産的になっていないことにある。いわばお互いが得手勝手に自己の信ずる見解を披露するばかりで、論を蓄積して焦点を精密化するという研究作法が定着していない。人文科学の世界のことであるからある程度は仕方ないにせよ、それにしても度が過ぎているように思えるのは私だけだろうか。

 
驚くことに魏志倭人伝約二千文字の解釈において、異説を内包しない通説は見当らないというのが現状である。通説はあるが通説に留まり、極端に云ってどの部分一つとっても定説がない。時に奇抜な着想で在野の研究史家が続々と登場してはいるが、珍説の域を出ない。邪馬台国の研究に大きな進歩をもたらした様子も見受けられない。こうしたことの原因に、先ほど指摘したように積み上げた努力をお互いが為そうとしない作法が横たわっていることを考えざるを得ない。

 邪馬台国論の通説の場合、 解釈の分かれそうなケ所のどの部分を採ってみても、異説を退けるには足りない範疇においてしか通用していない。こうした場合の便宜として折衷説も飛び出すけれども、事がそれで解決する訳でもない。真偽を質す実証精神のないままに諸説が喧騒し続けているというのが実際なのである。通説側からは異説を斥ける論証が為されるべきであり、異説を無視したまま通説を語り続ける態度が果たして学術的であろうか。

 有名な白鳥−内藤論争にしたって単に並置された説に留まっており、それぞれのどの部分迄が一致しており、どこから先に見解が分かれることになっているのかの検証が為されていない。あたかも講座派的な学閥上の争いに取り込まれてしまった観がある。なるほど著名な推理作家の手によっても解明し得ない世界のことであるから、結論を急ぐ訳には行かないというのが実際のところではある。但し、私は、論争の仕方によってはもっと進展が見られる局面もあるのではなかろうかと思う。

 暫く、諸説分かれるところを取上げて見る。邪馬台国論の比定上の最大の関門は、邪馬台国の所在地である。このことに誰しも異存はあるまい。巷間、九州説.畿内説の二大説で流布されるが、九州説.畿内説.その他諸説の三すくみの鼎立状態で推移しているという認識こそ正しいのではなかろうか。にも関わらず二大説としてのみ流布されている。この辺りからして研究者の恣意的な驕りとそれによる歪みを見て取ることが出来よう。

 驚くことに、邪馬台国の比定地は百ケ所を越えており、九州は北から中央、南の各県、奄美大島、沖縄の地まで推定されている。四国説も登場してきている。中国地方では出雲、吉備説がある。畿内においては河内、大和、熊野、琵琶湖、丹波、丹後等々。その他国内各地に信州諏訪、房総、越後等々が散見する。更に、国内に止まらず韓国、ジャワ、スマトラ、フイリッピンのアジアの各地から中近東のエジプト説まである。  

 これだけ各地に比定されておりながら相互に何等の検証を為さないということは学問的作法として相応しくないのではなかろうか。それぞれの説にはそれぞれの根拠があってのことと思われるが、倭人伝その他各史書との記述上の整合性を確認しあい、諸説を支える根拠について議論し、成果を抽出できるならば共有し合うべきではなかろうか。特に、九州・畿内の二大説以外の諸説の場合には、その比定地を支える根拠には首肯し難い面も見られるが、二大説の欠陥については鋭く厳しい場合が多い。特に、大杉氏の四国山上説の場合かなり精緻に言及しており、聞くべきところが多い。とすれば、二大説を唱える者は、諸説の比定地を無視するだけではなく、指摘された二大説の欠陥について正確に反論すべきではなかろうか。こうした相互検証のないままに諸説が諸説として喧騒されるだけの事態は学問的には異様なのではなかろうか。

 邪馬台国へ至る行程を確認してみよう。対馬国の比定については現在の対馬で何人も異存なかろうと思えるが、子細については上島.下島の両島を指すのか片方の島を云うのかについて議論が定まっていない。一支国を壱岐島に比定するには異存は見られないが、一支国の支は大と記述されることもあり、どちらかが書き誤りなのかそれぞれ根拠をもっているのかについても詮議半ばである。通説は、末盧国を松浦半島の唐津市辺りに、伊都国を糸島半島の旧怡土郡辺りに、奴国を博多市辺りに比定しており、ここまでは確かなこととして論を進める者は多いが、この通説に疑義を挟み込む異説も多く、又この異説は無視されるには有力過ぎる根拠に支えられていたりする。

 そこから先の不弥国、投馬国、邪馬台国の比定となると百家争鳴状況にある。れんだいこも判然としない。これだけ各地で提唱されながら、お互いの主張の根拠を確かめ合う姿勢が乏しい。いわば随意にお勝手にという姿勢であろうが、こうした姿勢が真摯に学問的であろうか。諸国の比定ばかりではない。方位にせよ、長里短里を問う里程にせよ、邪馬台国か邪馬一国かの台か一かを廻る論争にせよ、女王卑弥呼の見立てにせよ、共通の認識を探ろうとする努力が乏しいまま甲論乙論が得手勝手に論駁されている。もう少しお互いの根拠を確かめ合いながら議論を詰めていくべきではなかろうか。人文科学系の場合には絶対の真理というものは定めにくいのであるから、双論併記の上で一つ一つ断をくだしていく作法がいるのではなかろうか。

 奇妙なことは、邪馬台国と女王国と他の倭の諸国との関係についてさえ解釈が一定していない。このこと自体は倭人伝全体の文章解釈により為しえるのであるから難しいことではないと思われるが、各書によって認識の混乱が横行している。つまり、邪馬台国と女王国と倭との関係において≧、≦、=さえ定まっていないということである。こうしたことの論議が為されないままに議論百出させ続けて見ても、学問上の成果は覚束無いと云うべきではなかろうか。整合的理解を進めることを惜しんではならない。都合の悪い部分を史料の誤りとしてすぐに切り捨てるのではなく、倭人伝に内在する論理性を重視しながら整合させる努力を試みることが大切ではなかろうか。

 私は、本書執筆に当り、上述の問題意識から邪馬台国論に取り組もうと思う。従って、通説、異説を盛り込みながら自身の見解を対置させ、まるでジグソーパズルを解くようにして迷路からの脱出を試みたいと思う。その際の基準は、これまでの邪馬台国研究のうち定着させるべき成果の確定であり、少なくともここまでは詮索可能と為し得る点につき印しを打っていくことである。これより先はどうしても私見に依らざるを得ず、この点については読者のご容認を頂けるものと思う。こうして獲得された成果に対しては、その成果の上にたって論を積み上げていったらどうなるのであろうか。このことに挑戦したのが本書である。十分とはいかないものの、作法としては学界に大いなる貢献を為すものと確信している。
 最後に。邪馬台国論争は、神武天皇東征神話との絡みを重視せねばならない。「邪馬台国、同論争の歴史的意義について」でも言及したが再確認する。「記.紀」による 日本の建国神話によれば、神武天皇の東征が語られている。この神武天皇を、1・邪馬台国系譜の人と見做すのか、2・邪馬台国と対立していた狗奴国系譜のものと見るのか、3・はたまた別の系譜上の人物とみるのか。これによって、大いに邪馬台国の解釈が揺れることになるという歴史的相関性が認識されていなければならない。極論すれば、邪馬台国研究の意義はこの為にこそ深められるべきであり、紀元三世紀の倭国の様子がつぶさに伝えられていることの成果はむしろ従の関係にあるというべきであると思われる。 

 つまり、邪馬台国論争の構図上の最大関門は、邪馬台国及び女王卑弥呼と「記.紀神話」との相関の解明にこそある。天孫降臨譚、神武天皇東征、国譲り譚の真相解明と云い代えても良い。「記.紀神話」は、天津神系譜を正統とする天皇伝説を縦糸として、在地の国津神系譜との抗争乃至和睦の歴史を綿々と連ねているが、邪馬台国及び女王卑弥呼がそのどちらの系譜に列なっているのかを解析せねばならない。

 卑弥呼を神功皇后や天照大神と同一視して天津神系譜で捉えるのが通説のようにも思えるが、それでは邪馬台国と対立していた狗奴国をどう捉えるのかという問題に言及せねばならない。狗奴国も又天津神系譜で捉えられることが多く、それでは初代天皇としてハツクニシラスメラミコトとして知られる神武天皇又は崇神天皇伝説はどちらとどう絡むのであろうか、これも解析せねばならない。邪馬台国を国津神系譜で捉える視点も魅力的である。出雲政権及び畿内の国津神系譜のナガスネヒコ政権と邪馬台国との絡みはどう了解されるのであろうか。思いを馳せれば次々と知りたい衝動が生まれてくる。

 かの時の政変とそれによるその後の歴史への影響は、今に至る日本的DNAの原基を為しているように思われる。そういう意味で、邪馬台国考は非常に重要である。これまで無数といってよいほど邪馬台国が考証されて来た割には、肝腎要のこれらとの関係が曖昧模糊の感じが否めない。邪馬台国の比定地論争は、これら「日本古代史の秘密」の課題に関係して論ぜられている筈であるが論が深められていない。してみれば、邪馬台国の研究はまだ緒に就いたばかりと云うべきではなかろうか。

 既に明察の士も居られようが、邪馬台国研究のこの情況は、まさしく日本マルクス主義のそれと酷似している。邪馬台国研究の質の出藍は、マルクス主義のそれをも生み出すという相関関係にある。そういう意味で、邪馬台国研究の意義を位置付けることが可能であろう。一事万事というから。以上、記しておく。

 2006.12.1日 れんだいこ拝




(私論.私見)