第16部 1955年当時の主なできごと.事件年表
「六全協」開催、党中央大同団結す。

 (最新見直し2007.6.27日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第3期、「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊」に記す。

1.1 党は、「党の統一とすべての民主勢力との団結」(「1.1方針」)を発表した。「極左冒険主義」路線の破綻と徳田書記長の急死という条件が重なりここにおいてはじめて地下指導部の「自己批判」が為されることとなった。「1.1方針」に基づき、1月志田.椎野.吉田.岩本らの地下指導部は公然化の準備とその後の対策の協議を始めた。
1.18 左右両派社会党臨時大会(それぞれ同文の両社統一に関する決議を採択、統一準備委員を選出)。
1.21 志賀は大阪に姿を現し、立候補を表明した   
1月左右両派の社会党がそれぞれ統一促進委員会に関する決議を可決した。こうして統一のための基盤整備に向かった。 
1.24 衆議院解散(本会議の質問の途中で解散詔書が朗読される)⇒「天の声解散」。
2.14 日本生産性本部設立会長石坂泰三
2.19 日本ジャーナリスト会議創立議長吉野源三郎。   
2.27 第27回衆議院総選挙が行われた。党は73万3121票(1.85%)を獲得した。川上貫一と志賀の2名が当選した。民主185.自由112.社会党156(左社会89.右社会67).労農4.無所属6、諸派2。
機密文書。「日本の戦略的立地条件や、日本が有する潜在的な軍事力及び生産力は非常に重要なため、アメリカは日本の如何なる領土も敵対勢力が支配するのを防ぐ必要がある。同様に必要があれば、政府の転覆を狙った動き、あるいは反乱に対して日本政府を応援せざるを得ない。−アメリカと強固な同盟関係を結び、共産中国に対抗する重石となり、極東における自由世界の勢力に貢献できる強い日本というのが、アメリカの利益に一番かなっている」。この頃から「パ−トナーシップ」が云われだした。
3.15 アカハタは、指導体制の強化と各専門部の充実をうたい、中央指導部員として春日(正)議長.志賀.宮本.米原の4名の決定を発表した。その意味するところは、地下指導部と国際派の「合同」であった。党史上の再転換が為されたということになる。この「合同」により国際派の頭目宮本.志賀が指導部に復帰することになった。つまり、このたびの「合同」は、50年来の党分裂が徳田執行部系の敗北で決着し、地下指導部が国際派に対する白旗宣言を掲げたということであった。
3.19 第二次鳩山内閣成立。 (民主党単独少数内閣)
4月アジア.アフリカ会議(バンドン会議)が開かれた。  
4.15 日中貿易協定調印。
4.23 4..30日第3回一斉地方選が行われた。党は、都道府県議10名、市区町村議322名を当選させた。
4.30 第3回統一地方選挙(創価学会、地方議会に51名当選)。
5.8 砂川.立川基地拡張反対決起大会開催.砂川闘争始まる。
5.10 北富士.座り込み農民を無視、射撃演習開始.各地に基地反対闘争激化。
5.12 「平和と独立のために」(第407号)終刊号。指導部の「合同」に伴い、春以降になって地下党員がぞくぞく表へ現れだした。 
5.14 ワルシャワ条約調印。
5.15 民主党総務会長三木武吉と自由党総務会長大野伴睦が保守合同を目指して会談している。
5月 右派社会党、「右派綱領」(統一社会党綱領草案)発表。
6月末 軍事組織の解散と関係文書の処分が指令された。「六全協」の合法的開催の予定が特定の党員たちに知らされ、その為の予備会議が開かれた。
7.27 【 「六全協大会」開催】この大会の眼目は、統一への動きが強まってきたことを受けてここに主流派と国際派の幹部レベルが歩み寄り、50年以来の党分裂に対し党の不統一を克服することを当面の緊急最大の任務とするという立場から党の内紛的事態に決着をつけた歴史的大会となった。 講和条約締結後の新しい条件に対応して、党活動を公然化に転換させる上での重要な一段階を画した。大会は、主流派系地下指導部の従来の武闘方針を「極左冒険主義」とみなした上で誤りとして認め、公然と全面的な自己批判を行わさせ、以降ばっさり切り捨てるという方針上の根本的転換を明らかにした。
7.29 第一回中央委員会総会が開かれ、野坂参三を第一書記に選んだ。ここに野坂−宮本体制確立の端緒が切り開かれた。現在の党史では、「党の混乱と不統一を克服し、党の政治的.組織的統一と団結の基礎を築いた」とされている。故徳田書記長の追悼式を決定、中央機関紙編集委員を任命した。
8.2 「常任幹部会」が「中央委員会」の人事を決定、「常任幹部会」の責任者に宮本が治まった。以降党は、「中央委員会」自体が飾りになり「常任幹部会」主導により運営されていくことになる。その中心的指導権力を宮本が掌握していくことになる。
8.6 第一回原水爆禁止世界大会、広島で開催。
8.7 部落解放全国委員会が大会を開いて部落解放同盟と改称。
8.11 8.11日「六全協」記念演説会が東京の日本青年会館で開かれた。潜行在京幹部出席。野坂.志田.紺野の3幹部が、新調の揃いの背広で地上に姿を現す。
8.17 「第2回中総」。第一書記野坂、書記局員3名、専門部長を決定。 8月以降各地で党会議を開き、除名者の復帰、地方幹部の交代、主流派の責任追及などを進める。
8.25 から9.1日にかけて、重光外相、岸日本民主党幹事長、河野農林大臣が次々と渡米した。
9.13 立川基地拡張の為の東京.砂川町で強制測量開始される。町長を先頭にした反対闘争起こる。砂川町で警官隊と激突。以来長期の砂川闘争始まる。基地反対斗争の嵐=「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」。
9.14 党本部で、野坂第一書記、志田書記局員が記者会見を行い、「伊藤律問題」について、志田から「スパイ.挑発者であった」と発表された。
9.19 志田は、「党団結のさしあたっての問題」という自己批判を書き、中央委員会の分裂とその後の指導の誤りの決定的責任が徳田主流派にあったことを認めさせられた。他方で、宮本.春日(庄)らは自己批判を何一つしなかった。志田は、旧指導部を代表して頭を下げてまわされる役目を負わされた。
9.19 原水爆禁止日本協議会(原水協)結成。 原水爆禁止署名運動全国協議会と原水爆禁止世界大会日本準備会の統合により、原水協が結成された。吉田嘉清、事務局長常任。
そうこうしているうち、「六全協」で中央委員の一員として選出されていた志田重男と椎野悦郎らに集中した旧指導部のスキャンダルが暴露された。党分裂の地下生活時代の党生活の上で幹部としてあるまじき堕落行為を行っていたことが明るみにされた。財政上の疑い、女性関係におけるスキャンダルや待合い生活による頽廃が暴露された。
10.13 【左右社会党統一】左右社会党の統一大会が開催され、統一綱領を採択した。 綱領には、「共産主義は事実上民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、相容れない存在となった」、「我々は共産主義を克服して、民主的平和のうちに社会主義革命を遂行する」と明記された。委員長・鈴木茂三郎.書記長・浅沼稲次郎.顧問河上丈太郎。
10.13 「第3回中総」。50年問題の教訓を明らかにすることを常任幹部会に委任した。各級機関の選挙規定、参議院選挙方針を決定、地区財政問題など討議。
10.14 故徳田球一書記長の党葬。
吉田の跡目を継いだのは緒方竹虎。三木武吉が緒方自由党と民主党の合同を策した。三木提案と呼ばれる。この提案に対し、民主党内は大きく割れた。歓迎派が岸や根本龍太郎。反対派は松村や三木武夫ら。財界が保守合同歓迎の意向を示していた。
11.15 【保守合同で自由民主党結成】「占領制度の是正と自主独立」をスローガンに反目し合っていた日本民主党と日本自由党の保守も又合同し、自由民主党が誕生した。総裁決定まで鳩山一郎ら4名を代行委員に選出。「強い保守党」を臨むアメリカの影響があったが、ここからが「55年体制」のスタートとなる。11月自由党と民主党が合同して自由民主党となった。こうして保守合同も為された。ここに二大政党が実現して、イギリス流議会政治ともてはやされる時期を迎えた。
11.22 第三次鳩山内閣が成立した。この自由民主党が政権与党となり、社会党が野党第一党となる構図が定着した。これを自民.社会二大政党制による「55年体制」という。    
11.27 ソ連、水爆を完成。
【袴田らによる伊藤律再査問】この頃袴田が伊藤律を訪ねて再査問している。「命が惜しかったら、一行でいいからスパイでしたと書け。そしたら命を助けてやるだけでなく、元のポストに戻してやる。自分がそうでなければ、長谷川など他の幹部のことでもいい。君の才能を惜しむことにかけては、宮本も俺も徳田に劣らない。今だから云ってやるが、ソ.中両党に手を廻し、君にこうした処置をとらせたのは、この我々だ」との発言が為されたことを伊藤自身が明らかにしている。「この取引を私は即座に拒否した」とある。
12.22 第3次鳩山内閣(改憲と小選挙区制問題で保革激突時代到来)小選挙区制の実施で、3分の2の議席を確保して一挙に改憲を狙う→党利党略の区割→かつてアメリカでは「ゲリマンダー」といわれたが、日本ではこれをもじって、「ハト(鳩)マンダー」と皮肉った。小選挙区制の法案は、衆議院は通過したが参議院で審議未了・廃案となった。小選挙区制について鳩山はその回顧録において「鳩山内閣最大の失政」と嘆いた。


【志田執行部極左冒険主義方針を自己批判】
 1.1日、党は、「党の統一とすべての民主勢力との団結」(「1.1方針」)を発表した。「極左冒険主義」路線の破綻と徳田書記長の急死という条件が重なり、ここにおいてはじめて地下指導部の「自己批判」が為されることとなった。次のように述べている。
 「このさい、われわれが過去において犯し、また現在もなお完全に克服されきっているとはいえない一切の極左的な冒険主義とは、きっぱり手を切ることを、ここで素直な自己批判とともに、国民大衆のまえに明らかに公表するものである」。
 「われわれは、断じてこのような極左冒険主義の誤りを、再びおかさないことを誓うものである」。
 この一文によって、1951年以来4カ年にわたる軍事方針路線(「悪夢のような党の歴史」)にピリオッドが打たれることになった。

【志田と宮顕の秘密会合】
 宮顕は、この頃の動きを「私の五十年史」の中で次のように述べている。
 「翌1955年の或る日、顔を知った使いの者が来て、志田重男らが会いたいと告げた。彼は、党の分裂以降地下活動に入り、徳田に近い一人と思われていた人物だった。その日、自動車をたびたび乗り換えて、郊外の大きな家に行った。志田のほか西沢隆二らがいた。徳田は北京で死んだ。極左冒険主義は誤りだった。伊藤律はこれこれの経過で不純分子であることが判明した。彼等はこういって、『六全協』の計画を提案した」。

(私論.私観)「志田・宮顕会談」について

 この記述は貴重である。宮顕本人の陳述であることに価値がある。「1955年の或る日」は不正確で、恐らくもっと以前の伊藤律失脚後の1954年のことであろうが、このような秘密会談が志田系と宮顕との間に整って「六全協」が準備されたことを知るべきである。

 問題は、この志田と宮顕を中心に、野坂、紺野、志賀ら数人の話し合いで六全協が準備されていったという史実である。他の中央委員クラスは排除されたまま秘密裡に進行していった。この過程は今日もなお明らかにされていない。れんだいこが睨むところ、ここに集結した連中が正真正銘のスパイのボス達ではなかったか。


【日ソ国交回復の端緒】
 1.7日、鳩山邸に、ソ連政府高官ドムニッキィが書記官のチャソブ二コフを伴って来訪。極秘会談であったが、この時ソ連政府の意向として「我がソ連政府は、日本との間に、戦争終結宣言を締結、日ソ間の法的な戦争状態を終わらせ、領土、通商、戦犯釈放、日本の国連加盟など、日ソ間の懸案解決について、交渉を持ちたいと考えます」が伝えられた。鳩山の同意を得たドムニッキィは、1.24日、「下交渉に入るための具体的準備に着手を呼びかける」ソ連政府の文書を携えて再訪問してきた。

 この動きは外相・重光と外務官僚当局との打ち合わせぬきで行われ、以降「早期妥結論」の鳩山と「慎重論」の重光という二元外交を発生させていくことになった。

【左右社会党がそれぞれ臨時党大会を開催】

 1.18日、左右社会党がそれぞれ党大会を開催した。左派の大会には右派の河上委員長が、右派の大会には左派の鈴木委員長が挨拶に出向いたり、全く同文の「社会党統一実現に関する決議」を採択するなど統一機運を盛り上げた


 1.24日、鳩山首相が衆院を解散。「天の声解散」と云われる。左右両社会党は統一を前提にこの解散総選挙に臨んだ。


 2.2日、授業料値上げに反対して東大駒場2千名を中心とした約4千名の学生デモが都心で行われた。


【新日本文学界に内紛発生】

 2月頃、新日本文学界の大会が開かれ、宮本・蔵原対武井昭夫、大西巨人、野間宏らで、非常に紛糾した。注目すべきは、この時既に宮顕は「党権力に近いところにいる態度」であったと伝えられている。このことは、六全協以前に宮顕が党中央の一角に参入したことを物語っている。


【椎野追放の動き】

 この頃のことのようであるが、椎野悦朗は「志田からしきりに中国へ行くようすすめられている」。この椎野の外国への亡命計画は、「宮本も大いに推進していたそうである」とある(亀山「戦後日本共産党の二重帳簿」)。椎野は一時はその気になったが、伊藤律の二の舞になることを恐れ、予定日の直前になって止したようである。志田は、椎野の代わりに志田直系の吉田四郎をやろうとしたが、吉田も直前になって暗い予感がして逃げたと本人の弁で伝えられている。してみれば、党幹部の中国行き教唆の闇も深いということになるやも知れない。


 2.21日、社会党左派の理論家・稲村順三が逝去。享年54才。


【第27回衆議院総選挙】

 2.27日、第27回衆議院総選挙が行われた。「鳩山ブーム」が巻き起こり、鳩山は日ソ国交正常化と憲法改正を二大スローガンとして打ち出していた。選挙結果は、鳩山民主党は185名(←改選前124)、緒方自由党は112名(←180)、社会党は156名で、左派社会党89(←74).右派社会党67(←61).労農4(5).共産2(1)、無所属8(10)の合計467名。こうして、鳩山・民主党が、自由党に代わって第一党となった。他方、両派社会党も議席を伸ばし、野党は憲法改正を阻止するのに必要な3分の1の議席を獲得した。特に左派社会党の伸びが目覚しく、統一過程における優位が確定した。

 社会党は、左社が89、右社67となり、左社が差を広げた。いわゆる「総評=社会党ブロック」の形成が進行しつつあったことを証左している。

 党は、73万3121票(1.85%)を獲得した。川上貫一と志賀の2名が当選した。

 この時、宮顕は東京一区から立候補している。この経過について、宮顕は次のように記している。

 「私は、いわゆる『臨時中央指導部』から、東京一区から立候補してくれとの申し出を受けた。‐‐‐私は、この申し出を受けて、党の統一の促進に多少とも役立つならばと考え、恐らく戦後の党の最悪の事態とも云えるこの時期の選挙を、日本共産党の候補者として闘うことになった」(「文芸評論選集第4巻あとがき」1969.4執筆)。

【第二次鳩山内閣組閣】

 3.18日、衆議院で首班指名投票が行われ、鳩山254票、鈴木茂三郎160票で、予定通り鳩山が選出された。 

 官房長官・根本竜太郎(留任)、副長官・松本滝蔵、田中栄一。外相・重光葵、蔵相・一万田尚登、法相・花村四郎、農相・河野一郎、通産相・石橋湛山、運輸相・三木武夫、建設相・竹山祐太郎、労相・千葉三郎、経済企画庁長官・高碕達之助、国務相国家公安委員長・大麻唯男、、行管地方自治庁長官・西田隆男ら主要閣僚は留任のまま、厚相・川崎秀二、文相・松村謙三、郵政相・松田竹千代、国務相自治庁長官・川島正次郎、防衛庁長官・杉原荒太、北海道開発庁長官・大久保留次郎が新たに加わった。


【社会党統一の機運高まり交渉に入る】
 3.2日、左派社会党和田氏と右派社会党の浅沼氏の両書記長会談が行われ、双方から10名づつの統一交渉委員による「綱領、政策、組織などについての意見の一致を期し、速やかに統一を完成する」申し合わせをした。統一交渉委員会のメンバーは、左派が委員長・佐々木更三、事務局長・成田知己ら、右派が委員長・三宅正一、事務局長・松井政吉らの各氏であった。委員会は、綱領政策と組織運営の二つの小委員会に分かれ、地方選挙の終わった5月中旬から本格的な討議に入った。この間左派の伊藤好道、右派の三輪寿壮が黒子役を引き受け尽力した。

 機密文書。「日本の戦略的立地条件や、日本が有する潜在的な軍事力及び生産力は非常に重要なため、アメリカは日本の如何なる領土も敵対勢力が支配するのを防ぐ必要がある。同様に必要があれば、政府の転覆を狙った動き、あるいは反乱に対して日本政府を応援せざるを得ない。−アメリカと強固な同盟関係を結び、共産中国に対抗する重石となり、極東における自由世界の勢力に貢献できる強い日本というのが、アメリカの利益に一番かなっている」。この頃から「パ−トナーシップ」が云われだした。


【西沢らによる伊藤律再査問】

 西沢、紺野与次郎、宮本太郎の3名が伊藤律の査問に訪れている。六全協準備のためにモスクワに行く途中の立ちよりであった。宮本が「貴様はアメ帝のスパイだったと認めれば、それでいいんだ」と机を叩いて強要している。


【 「六全協」前の動き(国際派の指導部復帰)】

 3.15日、アカハタは、指導体制の強化と各専門部の充実をうたい、中央指導部員として春日(正)議長.志賀.宮顕.米原の4名の決定を発表した。その意味するところは、地下指導部と国際派の「合同」であった。党史上の再転換が為されたということになる。この「合同」により国際派の頭目宮顕.志賀が指導部に復帰することになった。つまり、このたびの「合同」は、50年来の党分裂が徳球系執行部の敗北で決着し、地下指導部が国際派に対する白旗宣言を掲げたということであった。

 この発表に応じてこれまで徳球系とみなされる中央指導委員だった田中松次郎.松本三益.風早八十二.岩間正男などが各専門部の責任者に転じることとなった。この橋渡しをしたのが春日(正)であったことも注目されるであろう。春日(正)はこれ以降徳球系の立場から転じて宮顕系の地盤固めの過渡期におけるキーパースンとなっていく。

 
しかし、この地下指導部の白旗宣言は、志田.椎野.岩本巌.吉田四郎.水野進らの国内地下指導部の命脈を保った形での「合同」劇であり、地下指導部から見れば国際派との団結の道を取り付けることに成功したともみなされるものであった。地下指導部は、この方針転換後における宮顕系の台頭を予見できず、引き続き主導権を確保する為何度も秘密の会合を持ち準備工作を行っていくこととなった。以降暫くの党史は、この地下指導部と復帰した国際派(特に宮顕系)との丁々発止の闇試合が繰り広げられていくことになる。


【 バンドン会議】
 これを転機にして植民地体制の崩壊がはっきりした形となる。

 4月、伊藤律系の長谷川浩が逮捕されている。

【日本生産性本部が発足】

 春頃、日本生産性本部が発足した。「生産性向上3原則(1・失業防止、2・雇用増大、3・労資強力・協議、公正な成果分配)」を掲げ、左派系労働運動に代わる労資協調路線を模索し始めた。「戦後日本の労働運動史を振り返ると労組を政治主義から離れさせ、経済主義それも現実的な労使協調路線の方向に導くのに生産性本部の運動は大きく貢献したと考えられる」(2005.5.13日付日経新聞「私の履歴書」の「加藤寛、bP2・生産性本部」)とある。

 加藤寛・氏は、日本生産性本部の活動について概略次のように述べている。「私が話すのはこういうことだ。生産成果の公正な分配と福祉の増大を図るには、経済体制は、市場経済でなければならない。現状では社会主義経済は早晩行き詰る。企業が労使協調して労働生産性を向上させ収益を上げ、公正な分配をすれば、労働者も社会も豊かになれる、と。つづめて言えば、会社側には社会への貢献と労組との協調を、労組には左翼的思想への決別と会社との協調を説いた」。


【保守党統一の機運高まり交渉に入る】

 4.13日、民主党総務会長の三木武吉氏が、保守合同をぶちあげた。民主党結成後まだ半年も経っておらず、第二次鳩山内閣発足から僅かに1ヶ月のこの時「保守結集の為なら、鳩山内閣は総辞職しても良い。民主党も解党しても良い」と言い切り、まさしく爆弾発言となった。「大目的の為には、昨日の敵は今日の友、自由党総裁緒方はもとより、吉田といえどもだ、今度は手を握る努力をせねばならん。保守の総結集は、わしの最後の政治目的だ」が、本意であった。

 「先に鳩山政権実現に奔走した三木武吉は、社会党の躍進に強い危機感を感じ、保守合同という新しい目標に向かって走り始めた。はじめ三木は自由党の緒方総裁にこの話を持ち掛けたが緒方は乗り気でなく、相手を大野伴睦に乗り換えた。大野はもともと鳩山の第一の子分を自任しており、鳩山が追放になったときには『鳩山先生のために座布団を暖めておく』と称して自由党に残った。ところがいざ鳩山が追放解除になってみると、三木や河野らが側近としてすでに居座っていたため、大野は弾き出されてしまった。大野が三木らに良い感情を持っていようはずはなく、三木は大野をなだめるのに相当苦労したようだが、保守合同という大義名分を盾に会談に引きずり込む」(「自民党派閥の歴史」

 5.15日、民主党総務会長三木武吉と自由党総務会長大野伴睦が保守合同を目指して会談している。この二人は30年来の政敵であったが、「救国の大業を成就させたい、保守合同が天下の急務」との思いで極秘会談した。この時三木は、「今や政敵の関係を離れて国家の現状に心を砕くべき時期だ。日本は放っておいたら赤化の危機にさらされること、自明の理だ。天地神明に誓って私利私欲を去り、この大業を成就させる決心だ」。「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人」との名文句の生みの親大野はこれに応えた。「伴睦殺すにゃ刃物はいらぬ、お国のためじゃと云えばよい」と歌になったシーンである。


【保守党統一の動きを読売新聞社主・正力松太郎が支援】

 この動きを、読売新聞社主・正力松太郎が支援している。「貴君らが画策している、自由・民主両党の大同団結には、ワシも大賛成だ。ついては運動資金に不自由していることだろう。これを使って、偉業を成就して欲しい。―衆院議員・正力松太郎は、こう云って、現金1千万円、今の金に換算して約10億円をポンと、テーブルの上に出した」、「鳩山一郎政権下の30年春、三木、大野の『政敵二人』は密かに自由、民主両党の合同による、保守新党の結成を目指して動いていた。だが、運転資金で動くに動けない状態だった。そこに、一千万円もの運動資金だ。これで、保守合同の動きに弾みがついた」(「別冊歴史読本「昭和秘史歴代総理と財界巨頭」のP57「正力松太郎―一千万円の代償は伴食大臣」.1987.11.15日発行」)とある。


 5.7日、右派社会党はそれまで綱領を持っていなかったが、左派社会党との統一機運に合わせて、練り合わせの為か綱領を作成し、この日中央執行委員会で承認された。草案は、当時30歳そこそこの河上民雄と藤牧新平の二人が、箱根の「奈良屋」旅館に泊まりこんで書き上げた。これを見るに、民主主義制度を機能させた社会主義の建設を目指すこと、ソ連型の一党独裁と永久政権方式を排除すること、前衛党的指導を目指さず国民諸階層の結合体運動に向かうこと、自由制度を保障した議会闘争による多数派工作に注力すること等々としていた。総じて「民社社会主義」の立場を敷衍していた。


 5.12日、「平和と独立のために」(第407号)終刊号。


 指導部の「合同」に伴い、春以降になって地下党員がぞくぞく表へ現れだした。6月末には軍事組織の解散と関係文書の処分が指令された。「六全協」の合法的開催の予定が特定の党員たちに知らされ、その為の予備会議が開かれた。


 5.26日、鳩山内閣の仕事始めとして、第5次選挙制度調査会を発足させる。


 5.27日、民主党の岸幹事長、三木総務会長、自由党の石井幹事長、大野総務会長の四者会談が開かれ、その流れで6.4日、鳩山・緒方両党総裁会談が実現した。会談後、「両党総裁は、保守勢力を結集し、政局を安定することに、意見の一致をみた。これが実現には、両党の党機関をして当たらせる」声明を発表した。6月末難交渉を経て、両党より10名ずつの政策委員が選ばれ、政策協定づくりに向かうことになった。この時の委員は、民主党側から福田赳夫、中村梅吉、井出一太郎、早川崇、堀木謙三。自由党から水田三喜男、船田中、塚田十一郎、灘尾弘吉らの面々であった。


 6.3日、ロンドンで、日ソ外交交渉が始まった。日本側全権は松本俊一外務省グループ、ソ連側全権はマリク駐英大使他。数次の会談を経て、@・国交回復、A・漁業協定、通商協定の締結、B・相互の主権尊重、内政不干渉の約束、C・相互に賠償請求権利を放棄する、D・日本の国連加盟をソ連が支持する、ことなどについて基本的な合意を得た。但し、北方領土問題、在ソ抑留邦人の釈放と帰還問題については見解が対立したままで終わった。

 この時、重光外相は訪米し、ワシントンで8.29日より重光・ダレス会談を開始している。こちらの方も、日本の防衛の在り方をめぐって海外派兵論にまで言及し始め、大きく不評を買う結果となった。


 6月、全国軍事基地反対連絡会議(基地連)が結成された。これは53年の内灘から始まって、54年の妙義、55年の砂川と燃え上がっていく基地闘争の流れから生み出されたものだった。しかし、党の反応は鈍く、積極的な指導は為されなかった。 

【 総評第6回大会−高野派敗れる】

 7.26日、総評第6回大会が開催された。事務局長のポストを岩井章(国鉄)と高野が争い、128票(岩井)対123票(高野)、白票8票という僅差で、高野が一敗地にまみれた。この時共産党の労働対策部は前年の高野支持から中立を決め込んでいた。

 以降岩井派が総評主流派、高野派が総評反主流派となる。この二派に共産党の流れがあり、都合この三派が労働運動内に対立していくことになる。興味深いことは、高野派の評価であり、@・総評主流派と本質は同じ左翼的改良主義者、A・総評主流派よりも戦闘的な共産党と気脈通じた同左翼的改良主義者、B・共産党よりも左派的な民族的な革命的グループ等々定まらぬところがあった。

 高野派は、本籍を社会党において新政党を目指さず、労働組合におけるグループとして自生していくことになった。有力メンバーとして、平垣美代司(日教組)・松尾喬(全国金属)・内山光雄(私鉄)らがいた。平垣氏は、著書「労働運動批判と『日共』糾弾」の中で、高野イズムについて次のように表現している。「私の理解では、いわゆる『家族ぐるみ・街ぐるみの労働運動』に象徴された条件の成熟した地域−拠点から重層・多角的に統一行動を組織し、国際的視野、とりわけ日・中・朝人民の連帯を軸とするアジア的視点に立脚した長期の戦略展望を見据えての闘争指導であったと思う」、「このことが正しかったか否かは、後世の史家の評価に任せるとして、現在もなお当時を回顧して部分的な過失や人間的な欠陥を指摘されれば一言もないが、『指導方針』が誤っていたとは毫(ごう)も考えなておらない」。



戦後党史第三期】/ 【ミニ第@期】= 宮顕派が党中央に再侵入する。
 この時期「六全協大会」が開催され、党内各派の大同団結となった。この時干されていた宮顕グループの執行部入りと、宮顕の書記局入りが為され野坂−宮顕執行部が確立される。宮顕は、当初は旧徳球系志田派と蜜月行脚していたが、それも束の間で本性を露にし始め、伊藤律−椎野系、志田系の旧徳球系グループの掃討戦を開始する。六全協から始まって旧徳球系グループの掃討戦を開始するに至るこの期間を【戦後党史第三期のミニ第@期】とみなすことができる。

「六全協大会」開催】

○期日.会場.代議員数について

 7.27−29日にかけて「日本共産党第六回全国協議会」(「六全協」)が開催された。このたびは合法的に開催された。旧中央.地方の幹部、その他特に召集されたもの101名が参加した。逮捕の恐れやその他の理由で、志田以下地下指導部の大半は参加しなかった。この時点での特徴は、依然として地下指導部主流派中心による大同団結であったことにあり、彼らのつくった筋書きを渡された窓口の中央指導部が大会全体を運営していくことになった。

 注目すべき点として、「四全協、五全協の中央委員、その他の役員は当日の朝早く党本部に緊急召集され、春日正一から一切の全権委任を迫られ、全員が承諾した由である。それも奇怪という他は無い」(亀山「戦後日本共産党の二重帳簿」)とある。 山辺健太郎の「その日呼ばれて出て行ったが、何のことか分からなかった」、竹内七郎の「あとで赤旗に、六全協が開かれたと大きく出たので、それではあれが六全協だったのかと思った」との伝えもあり、いかに秘密主義且つ幹部だけの手打ちであったかが知れる。

 7.29日午後4時、代々木党本部の東京都委員会室で記者会見が為され、春日正一を真中に両サイドに志賀と宮顕が並ぶという恰好で始められた。他に志賀の隣に松本一三、宮顕の隣に米原が居た。席上、志賀の口から徳球の死亡が明らかにされた。噂が裏付けられた恰好であったがビッグニュースであった。鈴木卓郎氏の「共産党取材30年」に拠れば、この時既に宮顕が強権的な采配をしていとことが明らかにされている。

○大会の眼目

 この大会の眼目は、統一への動きが強まってきたことを受けてここに主流派と国際派の幹部レベルが歩み寄り、50年以来の党分裂に対し党の不統一を克服することを当面の緊急最大の任務とするという立場から党の内紛的事態に決着をつけた歴史的大会となった。 講和条約締結後の新しい条件に対応して、党活動を公然化に転換させる上での重要な一段階を画した。

 大会は、主流派系地下指導部の従来の武闘方針を「極左冒険主義」とみなした上で誤りとして認め、公然と全面的な自己批判を行わさせ、以降ばっさり切り捨てるという方針上の根本的転換を明らかにした。「マルクスレーニン主義の理論によって全党を武装」することを強調した。

 他方の意義として党内民主主義と集団指導の方向を確立した。推定党員数35000名。

○採択決議について

 「決議」.「党活動の総括と当面の任務」(中共議案).新規約草案が採択された。注目すべきは「党の統一に関する決議」で、初めて「全党の不統一と混乱」の責任を主流派が被ることになったことにあった。従来との逆裁定であり、徳球執行部系譜が白旗を掲げさせられたということであった。

 この裁定はより本質的に深められ総括されるべきであったが、この時点においては両派とも大同団結の優先こそが緊急とされるという制限を持っており、この立場から問題が持ち越されることになった。

 この時付帯決議で、「今後の党活動は綱領とこの決議に基づいて指導される。従って、過去に行われた諸決定のうち、この決議に反するものは廃棄される」とされた。この決議が後々宮顕派のご都合主義を満展開させていくことになったが、「誰もその重大な意味に気が付かなかった」(亀山「戦後日本共産党の二重帳簿」)とある。

 大会最後の日徳球書記長の死亡と伊藤律の除名が満場一致で再確認された。「51年綱領」は再確認された。大会は、まだ復帰していない旧党員に復党を呼びかけることとなった。

○新執行部について

 新たに中央委員が選出された。中央機構の改変が為され政治局と書記長制が廃止された。替わりに中央委員会常任幹部会と第一書記制が採用された。スターリンの死後、フルシチョフが集団指導を強調してソ連共産党に創始した方式を採用した。

 中央委員の選出に当たっては、旧主流派と国際派の合同の意義を踏まえてバランスに注意が払われた。旧主流派から野坂.志田.紺野.西沢.椎野.春日(正).岡田.松本一三.竹中.河田の10名、旧反対派からは志賀.宮本.春日(庄).袴田.蔵原の5名が選出された。10対5の割振りであった。伊藤律系の長谷川浩が外されている。

 中委候補は、米原.水野進.伊井弥四郎.鈴木市蔵.吉田資治らの5名でほぼ主流派系統。

 中央常任幹部会は、野坂.志田.紺野.西沢.志賀.宮本.袴田の7名で、4対3の割り振り。書記局は、野坂を第一書記として、志田.紺野.宮本の4名で、後にこれに竹中.春日(庄)が追加された。4対2の割振り。統制委員会は、春日(正)を議長に、岩本.蔵原.松本惣の4名で、2対2の割振り。この会議には、志田以下地下指導部の大半(野坂.志田.紺野.西沢.椎野.岡田.河田)は参加しなかった。袴田も中国に滞在中で参加していなかった。この時宮顕はアカハタの編集責任者のポストを握った。

 中央の人事から主に伊藤律系とみられる長谷川浩.松本三益.伊藤憲一.保坂浩明.岩田英一.小松雄一郎.木村三郎らの名前が消えていた。

 日本共産党行動派の見方では、「徳田球一が死亡するや宮本・志賀ラインは党中央の指導権を奪い取ってしまった。プロレタリア幹部は「六全協」に反対して闘ったが、その多くは指導機関から排除されてしまった」とみなしている。大武礼一郎議長は当時関西地方委員会の幹部として闘ったが、同じように指導機関から排除された。大武議長は、「生産点と職場に入り、下から、大衆の中から闘いを開始した」とある。

 こうして見れば、中央委員人事は全体としてみると旧徳田主流派系が優位を保っていたものの、中委常任幹部会.書記局.統制委員会の重要職においては旧統一会議系国際派と完全に対等になっており、それだけ国際派の食い込みが功を奏していたことになる。

 なお、旧主流派内の伊藤派.国際派の神山.中西.亀山.西川らは除かれていた。神山は旧中央委員であり除外された経過は不明朗であった。この経過を勘案すれば、「六全協」は徳球系地下指導部と宮顕系国際派の両派の折衷、打算、駆け引きに終始して運営されたということであり、両派以外の各グループや下部における大衆的討議が一切抜きにされていたことになる。これらが「六全協」の限界と弱点であった。真の意味での党の統一でもなければ、大衆的責任の上に立った自己批判でもなかった。

 小山弘健氏は「戦後日本共産党史」の中で、「六全協までの話し合いの主体が、伊藤派を除いた旧主流派と神山・中西・亀山・西川らを除いた旧反対派との二つであったことを、明らかにしていた」と評している。


【野坂−宮顕体制の確立】

 7.29−30日、第一回中央委員会総会が開かれ、野坂参三を第一書記に選んだ。ここに野坂−宮顕体制確立の端緒が切り開かれた。現在の党史では、「党の混乱と不統一を克服し、党の政治的.組織的統一と団結の基礎を築いた」とされている。この時野坂は、「責任をとってやめるということは、ブルジョア政党のやり方である」と述べているようである。故徳田書記長の追悼式を決定、中央機関紙編集委員を任命した。

 「六全協」における執行部体制は一見すると旧徳球派と国際派のバランス体制であったように思える。しかし、党の最高執行権力は書記局にあり、この書記局を握ったのが野坂と宮顕であったことを思えば、「六全協」において野坂−宮顕体制が確立されたとみなして差し支えがないであろう。

 鈴木卓郎は「共産党取材30年」の中で、「まことに、この六全協こそ今日の宮顕体制への胎動期で、宮顕が党内権力を掌中におさめる発信台であったから、戦後の共産党史を記述する上で特筆すべきものがある」と述べている。

 以降野坂−宮顕体制は、宮顕を機軸としながら党内純化を遂げていくことになる。この純化の過程は、「党が、50年以来の混乱を根本的に解決し、正しい政治路線を確立し、真に党的な団結を回復する為には、六全協で選ばれた党中央の一定の団結を足がかりに、新しい大会−第7回党大会を準備する、その後3年間にわたった全党的な努力が必要であった」(「日本共産党の65年」)、「『六全協』は、党分裂以来の歴史的制約を残した不正常な会議であることを免れなかったが、いくつかの点で党の転換への重要な一歩となった」(「五十年党史」)と淡々と記載されているが、実際に行われたプロセスは、最初旧執行部の徳球派を放逐することに専念する。

 次に党の指導に従わない全学連執行部の除名とトロツキスト呼ばわりすることにより左翼戦線からの排除を指導する。これに成功するや構造改革派の追い出し、続いてソ連派、次に中国派を排除する。この間いつしか野坂−宮顕体制は宮顕−野坂体制へと主客逆転し、続いて宮顕独裁体制へと収斂していくことになる。この後に起こったことは学生運動の一元的統制化と文化人・知識人の整風化であった。後は我が世の春で、社会党壊滅作戦、田中角栄壊滅闘争を経過してその他諸々で最後の仕事を終えた。


 宮顕指導の特徴は、「挑発に乗るな」が座右銘となることにある。党勢拡大と組織の温存が自己目的に追求され始め、大衆闘争はこれに従属して管理・調整されることになる。その様は、異常なまでに執拗である。 

(私論.私観) 不十分な総括について

 この時の決議は、レーニンの次のような言葉を引用していた。「誤りを公然と認め、その原因をきわめ、それを引き起こした状態を分析し、誤りを訂正する手段を細心に審議すること−これが党の任務の遂行であり、これが階級の、それからまた大衆の教訓と訓練である」。だが、実際の進行はこの言葉を絵空事にさせてしまう歩みを見せる。もともと六全協が「『上』で準備され、『上』から開始された」ことを思えばなりゆきであったかも知れぬ。

(私論.私観) この頃の「宮顕神話」について

 こうして宮顕が党中央に登場してくる際に「宮顕神話」が決め手となっていたことが分かる。この「宮顕神話の心情」について、安東氏は「戦後日本共産党私記」の中で次のように明らかにしている。概要「私のこの確信−宮本崇拝は頑なまでに固かった。戦前の獄中12年に屈しなかった完全非転向−宮本は徳田、志賀と違って予審調書にも完全黙秘で押し通した唯一の指導者であると教えられてきた。戦後の徳田、伊藤律、志田重男らが支配した党内にあっても不遇に堪えて信念を変えず、国際派の内部においても志賀や春日庄次郎らの無原則的傾向と闘い、51年のコミンフォルムの国際派断罪にも坊主懺悔を排して歴史の審判を確信している指導者、これが東大時代に吹き込まれた宮本崇拝であり、抱き続けていた宮本像であった」。

 この「宮顕神話」の虚構は、私が目下解明しているところであるがあまりにも遅すぎた観がある。

(私論.私観) 袴田の登用について

 この時袴田も7名の幹部会員の一人に選出されている。ところが、この時期袴田はソ連に滞在の身であり、宮顕が片腕懐刀として引き上げたことが分かる。袴田が帰国するのは1957(昭和32年)の暮れであり、以降翌1958(昭和33年)7月の第7回党大会で幹部会員、書記局員。1961(昭和36年)の第8回党大会で党内bQの地位を確立する。

(私論.私観) 六全協の原案が重要部分で差し替えられていたことについて

 亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」は、「六全協の原々案、原案、決議文をめぐる怪」として、次の史実を伝えている。六全協の原案作成にタッチしたのは党の最高指導部でもごく少数で、宮顕、志田、蔵原、松本一三、春日正一辺りのところで為されたようである。しかも、決議文にいたる段階で削除されたり、挿入された部分がかなりある。

 その重要な点を見ると次のように変更されていた。情勢分析の変更は仕方ない面もあるとして、分派問題に対して、「党は平和革命の日和見主議論を排し、新しい綱領に基づいて、党を分裂させていた党内分派闘争を停止し、党の政治的、組織的統一を回復した」とあったところの「党は平和革命の日和見主議論を排し、新しい綱領に基づいて、党を分裂させていた党内分派闘争を停止し」を削除している。逆に挿入した個所は、党の団結に関する旧指導部の責任に言及して、「党の統一を求める総ての同志に対して無条件の支援を与えることを決議したにも関わらず、党中央はこの決議にきわめて不忠実であったことを、おごそかに認めなければならなない。そのため党への復帰と党の統一を求める多くの誠実な同志たちを不遇な状態におきざりにした。このことは党中央の重大な責任である」。その他、「党は、何よりも党の組織からスパイや挑発者を追い出すために闘わなければならない」として、過去の手法の反省に立って具体的な方法を言及していた部分が削除されている。その他、50年分裂以来の経過に関して、党中央の指導と分派に走った者たち双方が反省すべきことがうたわれていた部分を改変し、専ら「当時の党指導部に『も』責任があった」と言い換え、分派側の「これらの同志らは1950年に中央委員会の多数がとった諸方針に対して、いくつかの点で正しい批判を行いながら、彼ら自身は、理論的性質を持った誤りを犯し、また党の組織原則を破って党内に分派を組織するという重大な誤りを犯した」とあった部分を削除させている。

 これらを見れば、かなり狡猾な文書改竄劇が進行したことが分かるであろう。しかし、この改竄行為はやって良いこととやってはいけないこととの重要な基準であるにも関わらず、見過ごされていったとは、おまりにお粗末が過ぎよう。 

(私論.私観) 「六全協」をどう見るか

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では次のように分析されている。「こうして労働者人民からすっかり浮き上がり、孤立を深めていく中で、54年に入り所感派が軍事方針を転換し始めたことから両派の間に『統一』の気運が生まれ、55年7月の第六回全国協議会で『党の統一』が回復されることになった。

 しかし、この『統一』も社会党の『統一』に劣らず両派の無原則な妥協による『手打ち式』に他ならなかった。武力方針を除き『五一年綱領』は『完全に正しい』と国際派も認め、宮本顕治は六全協直後のアカハタで『この(六全協の)決議にある日本の革命運動の基本方針はあの輝かしい(51年)新綱領が示した道がまったく正しかったことを証明しています』と書き立てた。そして、この立場は宮本の手になる六一年綱領へと引き継がれていくのである」。

 この分析に対しても、れんだいこは激しく抗議したい。気づくことは、「六全協」は「2.1ゼネスト」問題と並んで戦後直後の党運動の白眉な考究対象である。それをこのような簡略且つ中心課題を見据えない分析なぞありえてよかろうか。ここには、宮顕グーループによる党中央の簒奪というエポック性がでてこないばかりか、単なる「社会党の『統一』に劣らず、両派の無原則な妥協による『手打ち式』に他ならなかった」といい為している。仮に妥当性があったとしてもそれは現象面であり、地下水脈の真実はまさに宮顕グループによる党中央簒奪であったという観点に立たない限りその後の動きが分析できない。

 そういう意味では、概要「徳球時代の基本方針が『宮本の手になる六一年綱領へと引き継がれていくのである』」分析も平板過ぎる。宮顕は、自身としては基本路線を産み出す能力を持たない指導者である。党中央の簒奪こそが使命であり、そういう意味において基本方針はさほど重視されておらず表向き継承された。但し、この路線上にあった『左』的なるものを順次換骨奪胎していくことになった。党内反対派の駆逐と基本路線の右傾化が以降の流れとなった。これが正史であって、失礼ながら「日本社会主義運動史」では全くぼかされてしまっている。その他の分析では簡潔要領よくまとめているのに肝心な事項におけるこの軽さはどうしたことだろう、疑問としたい。


 田川和夫氏の「日本共産党史」では、「共産党は、50年のコミンフォルム批判以来、それまでの右翼戦術から一転して極左戦術に走ったが、その破綻と共に再び右へ揺れ戻った。六全協はその右翼化を合理化し、徹底的に推し進めた。革命的政治方針のかわりに、大衆の『思想的獲得』、それによる統一戦線の結成が説教された」とある。

 この観点もほぼ社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」と通底している。六全協以降の宮顕グループの特異な右派性を指摘しない限り的を得ないであろう。


【道徳的説教の始まり】
 宮顕の党中央登壇と共に道学者風の物言いが始まる。六全共決議では次のように云われている。「我が党員の中には、党内外の生活において、民主主義的気風と常識の点で、著しく欠けたところのものが珍しくない」、「党員は共産主義者としての修業につとめ自覚と品性をたかめるように努めなければならない」。この物言いは宮顕のそれである。

【55年「六全協総括」当時の党の方針の特質と要点】
○〈本党大会までの執行部評価〉について

 「六全協」により、「これまで存在していた党の混乱と不統一を克服し、党の政治的.組織的統一と団結の基礎」が築かれることになった。「スパイ伊藤律を放逐し、党の純化に着手した」。徳田執行部のセクト主義が批判された。その指導下の党活動が「極左冒険主義」とみなされてばっさり切り捨てられた。「民族解放運動のある程度のたかまりや、労働者のストライキおよび農民闘争の増大という事実から、党は国内に革命情勢が近づいていると評価した」、「その結果、党はそのおもな力と注意を誤った方向へ向けた」、「党は戦術上でいくつかの大きな誤りを犯した」、「誤りのうちもっとも大きなものは極左冒険主義である」、「党中央はすでにこの一月、極左冒険主義的な戦術と闘争形態からはっきり手を切る決意を明らかにした」、「党は、1954年以来、情勢に対する誤った評価をしだいに克服し」、「民主勢力を統一する地道な活動にむかって一歩をふみだした」、「今日の日本には、まだ切迫した革命情勢のないことを確認し、広範な大衆を共産党の側に組織するために、民族解放民主統一戦線をきずきあげるために、ますます深く大衆の中へ入り、ねばり強い不屈のたたかいをつづけることをあらためて強調する」。

 @〈世界情勢に対する認識〉について 
 A〈国内情勢に対する認識〉について

  「六全協」声明において認識された情勢分析は次のようなものであった。「単独講和条約の締結と占領体制の形式的な廃止は日本民族の独立を回復しなかった。我が国はあいかわらずアメリカ軍の占領下にある」、「日本は発達した資本主義国であるが、アメリカ一国に占領され独立を失っている従属国である」 、「( アメリカ帝国主義者は、)我が国を再軍備させ、日本人をかれらの傭い兵とし」、「わが民族を侵略的な原子戦争の犠牲にしようとしている」として国家の独立をめぐって「従属」規定が採用された。 

(私論.私観) 「国家主権の『従属』規定」について

 この認識がその後の党の闘争戦略の骨格を形成したという意味で、今日においても罪深いものとなっている。

B〈党の革命戦略〉について

C〈党の革命戦術〉について

 「党の任務は、労農同盟をかため、これを基礎にすべての愛国的進歩勢力を民族解放民主統一戦線に結集することである。強大な民族民主統一戦線をつくるには、正しく強大な党の建設が必要であり、また党の強大な発展には、民族民主統一戦線を大きく発展させることが必要である」。

D〈党の具体的な運動方向〉について  

E〈党の大衆闘争指導理論〉について

 労働組合運動ないし農民運動における極左冒険主義と左翼セクト主義を戒め、ますますねばり強い活動を続けるよう指示するというかって通ってきた右翼日和見主義の路線を敷いた。「これまで党内に存在した知識人に対する偏狭な考え方をすて、独立と平和と民主のための運動の中で、知識人の果たす役割を正しく評価しその活動を積極的に援助しなければならない。」

 社会党や労農等を反動支配と対決する民主的政党と認め、三党の統一行動による民族解放民主統一戦線の結成を打ち出した。従来の農民運動における誤りや労働組合に対する赤色労働組合主義の間違いを自己批判し、広く大衆組織の統一の為に努力することを誓った。  「青年運動は現在新しい成長のきざしをしめしている。党は青年運動のなかにめばえたあらたな気運を認め、正しい指導をおこなわなければならない。」  「宣伝扇動はインテリゲンチア風にではなく、大衆の言葉で、国民のいろいろな層によくわかるようにしておこなう必要がある。」、「党が大衆と話し合う言葉及び党の文章を改善する必要がある」。

F〈党の機関運営及び組織論〉について

 「六全協」は過去の闘争方針、戦略・戦術の見直しの切開に向かうのではなく、「党員は共産主義者としての修業につとめ自覚と品性を高めるように努めなければならない」として、専ら党員の精神修養問題にすりかえていった。「一億総懺悔」的な責任回避により糊塗したということになる。

  対スパイ対策として「党の審査、点検は慎重に行い、まず上級機関の団結をかため、全党の思想的武装の強化、組織的統一の強化と結合しておこなわなければならない。全党に対する審査、点検の方法は、高い原則生と慎重な態度をもって上級機関から順次行うべきである」、「党規約の軽視は党内に官僚主義とセクト主義を生んだ」という認識から、「党規約を厳格に守り、党規約に定められている民主的中央集権制の組織原則をつねにつらぬきとおさなければならない」とされた。

 「批判と自己批判を無原則な分派闘争や空虚なざんげにかえてはならない。党の利益は党員すべての個人的な利益のうえにある」、「わが党内には、これまで集団指導の作風がかけていた。しかも日本に残っている半封建的な思想が党内に持ち込まれ、個人中心的な指導と結びついて、家父長的な指導となる傾向があった。党はこのような傾向と戦い、個人中心的な指導方法を断固としてとりのぞかねばならない。そして集団指導の原則を厳格に実施し、指導的中心が固く団結しなければならない。個人の権威の上に立つ指導があってはならない」。

G〈左翼陣営内における本流意識〉について

H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について

  党の極左冒険主義批判の影響を受け、右翼日和見主義となり、民青団は清算主義に陥った。マルクス.レーニン主義を学ぶことさえ放棄した。解体寸前の状態に落ち込んだ。  全学連第7回中央委員会で極左傾向を批判した。

I〈大会後の動き〉   

 「朝鮮籍の党員の分離や後の帰国運動も取引の一環でしょう」

(私論.私観) 宮顕理論のマヌーバー性について

 思えば、宮顕一派は奇怪千万な履歴を持つ。国際主義的な見地から徳球の自主路線を批判し続けていたにも関わらず、徳球の最大の功績である自主独立路線の法灯を受け継いでいるから。ここから見えてくるものは、宮顕グループにとって理論はそれ自身としての意味を持たず権力闘争の道具にしか過ぎないのではないかという見地であろう。


 8.2日、「常任幹部会」が「中央委員会」の人事を決定、「常任幹部会」の責任者に宮顕が治まった。以降党は、「中央委員会」自体が飾りになり「常任幹部会」主導により運営されていくことになる。その中心的指導権力を宮顕が掌握していくことになる。


 8.6日、第一回原水爆禁止世界大会、広島で開催。


 8.7日、部落解放全国委員会が大会を開いて部落解放同盟と改称。


【潜行幹部の野坂.志田.紺野の3幹部が公然化する】
 8.11日、「六全協記念政策発表大演説会」が東京の日本青年会館で開かれた。潜行在京幹部出席。野坂.志田.紺野の3幹部が、新調の揃いの背広で地上に姿を現わす。壇上には徳田球一の写真が飾られてあったが、その徳球の大肖像の中央に宮顕が立ち、その前に志田、野坂、紺野がイスに座っているという構図の写真が残されている。政権簒奪が為されたことが分かる。
 
 この時、宮顕が演説会を取り仕切り次のように述べている。概要「この決議にある日本の革命運動の基本方針とはあの輝かしい新綱領が示した道が全く正しかったことを証明しています。この綱領は、今回の決議の導きの星であります。独立した平和な民主的な日本を実現する、これが我が党が民族解放民主革命を通じて実現する基本目標であります」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P115)、「六全協決議は、党中央の自己批判として、まず党の団結の問題を挙げています。第二の問題は今年の1.1方針以来云われている極左冒険主義の問題であります。第三の問題は党がセクト主義、左翼的セクト主義の誤りをしばしば犯したということであります」(宮顕「第6回全国協議会の基本的意義」アカハタ55.8.18〜22日連載)。

(私論.私観) 宮顕の「第6回全国協議会の基本的意義」のマヌーバー性について

 つまり、右翼的見地から且つマヌーバー的に「50年問題」の総括を為していることになる。思えば、宮顕一派は奇怪千万な履歴を持つ。国際主義的な見地から徳球の自主路線を批判し続けていたにも関わらず、徳球の最大の功績である自主独立路線の法灯を受け継いでいるから。ここから見えてくるものは、宮顕グループにとって理論はそれ自身としての意味を持たず権力闘争の道具にしか過ぎないのではないかという見地であろう。

 しかし、宮顕の「新綱領が示した道が全く正しかった」とする見地はやがて大きく修正されていくことになる。「日本共産党の50年」では次のように云われている。「一連の誤りの根源であった51年綱領について、その『全ての規定が正しい』ことを再確認し、51年綱領の承認を党の統一の基礎にするという誤まった立場を取るなど、多くの重大な問題点を含んでいた。


 野坂は記者会見で、「ずっと日本にいたよ。外国になんか逃げやせんよ。まことに都合のいい今夜の大会があったから出てきたんだ。団規令は、もう無効になったんだ。もう地下になんか、もぐらないよ」と胸を張って質問に答えた(鈴木卓郎「共産党取材30年」)とある。この時、警視庁と共産党弁護士の間で、「三人は帰る時玄関前で逮捕する。但し三人に手錠はかけない」と話がまとまり、事実そうなったとも書かれている。「野坂らは団体等規制令違反の形式的な取り調べを受けた後、8.18日に釈放された」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P115)とある。

(私論.私観) 「潜行幹部の公然化とお咎め無し」について

 警察が、徳球系とはうってかわって野坂・宮顕系とはじゃれあってる様が透けて見えてくる。こういうのを「出来レース」というのだろう。こういう現象も、宮顕が党中央に潜入以来増えてくることになる。


 8.17日、「第2回中総」。第一書記野坂、書記局員3名、専門部長を決定。 8月以降各地で党会議を開き、除名者の復帰、地方幹部の交代、主流派の責任追及などを進める。


【野坂談話】

 8.18日、アカハタに「野坂同志談 釈放当夜本部であいさつ」なる次のような記事が掲載されている。「私たちは5年間たって、どの党にもない二つのものを持った。一つは正しい戦略、あの新しい綱領、今ひとつは、この戦略にそってそれを実行するための戦術、六全協の決議である。この正しい戦略と戦術、これは正宗の名刀を二つ持ったようなものだ」。

 野坂は前衛55.10月号紙上で、「六全協の主要な問題」というタイトルで次のように語っている。「我が党と労働者階級は、正しい戦略(新綱領)と正しい戦術(六全協の決議)とをもっている。これらは我が党と労働者階級が、革命を勝利に導くための最もすぐれた武器である。全ての共産主義者と革命的労働者の緊急の任務は、この二つの武器の性能を正しく、徹底的に理解し、把握し、そして、これらを情勢の変化に応じて正しく、巧みに使いこなすことに熟達することである」。

(私論.私観) 野坂の「六全協の主要な問題」のイカサマ話法について

 この論は野坂らしい詭弁述で、非常に巧妙に徳球時代の指導者の一人としての責任を回避し免責し、且つ六全協後も指導者として立つ自身の立場を鉄面皮に擁護し、更に今後も党員一般が党中央に拝跪するよう要請している点で芸術的なイカサマ話法であろう。


【 「六全協」の衝撃と諸影響】
 主流派党員は、大なり小なり「六全協」の方向転換に衝撃を受けうちのめされた。今まで絶対に正しいとして、何の疑念を無く受け入れてきた指導方針や上からの通達が、突然そうでなかったといわれたのだから、仰天し混乱してしまった。彼らの内では、深刻な挫折感から戦列を離れていく者から、新方針にそのまま乗り換えていく者まで様々であった。暫くの間「六全協ショック」、「六全協ノイローゼ」、「六全協ボケ」と呼ばれる状態が続いた。

 この時の気分が次のように伝えられている。「六全協後、批判がこのような実践的な焦点(極左冒険主義と火炎瓶闘争の問題、山村工作隊や山林解放闘争の問題、総点検運動や査問の問題等々−私の注)に徹底的に集中されるように指導されず、全党的に『失敗から学ぶ』体制が組織的に組まれなかった結果、批判は個人的問題に集中されて、いたずらに多くの党員に自己の品性の低さと理論的無能力とを嘆かせることとなり、苦難な時期を常任活動家や工作隊員として活動してきた若い同志達に『30にして道を失った』ことを感じさせることとなったのである」(山辺健太郎「戦後日本の共産主義運動」.「中央公論」63.12月号)。

 田川和夫氏の「日本共産党史」には次のように記されている。
 「六全協に至るまで、共産党は、一つの神話によって支配されていた。それは、党の本来的革命性、本来的無謬性、そして。マルクス・レーニン主義の思想と理論を最高度に身につけた、中央委員会の絶対的権威についての神話であった。51年綱領は文字どおり神格化され、一切の批評の許されなかったことは、戦前の勅語と全く同じであった。この綱領については、『信ずるために理解することを求めるのではなくて、理解するために私は信ずる』(アンセルムス)という、中世的原則が適用された。だが、1955年の夏突然に、この一切の神学的権威は、音を立てて崩れ去った」。

 「六全協」の方向転換を歓喜して受け入れたのは、旧国際派の党員たちであった。屈辱的な自己批判を強要されていた事態から、解放された。大なり小なりこれまでの自分たちの見解が受け入れられたと理解した。

 その他レッドパージや分派闘争の過程で自然に組織からはなれて「野放し状態」になった何万もの旧党員や、新参党員が歓迎した。

【 「下からの突き上げ」と宮顕の策略】

 六全協後、一時的にではあるが自由な発言が許される雰囲気が党内に醸成され、下部党員による活発な討議が展開されたが、それは次第に党の誤謬に対する責任の取り方という組織論における基本的課題に収斂していった。それは具体的には、地下指導部において非公然面を指導した幹部に向けられた責任追及となっていった」(しまね・きよし「もう一つの日本共産党」P121)が、野坂は「指導的地位を去ることのみが責任を取る唯一の方法ではない」と調法な言い回しで居直り、残された旧主流派に向けて糾弾が組織され、政治主義的に利用されていった。

 8.23日よりアカハタに「六全協決議の理解と実践のために」が連載され、一般党員の投書が連日掲載された。これは政治責任追及のターゲットを徳球系及びその一渓流である志田系を痛打することに利用された。つまり非常に政治主義的に活用されたことになる。

 実権を握った宮顕の「党内の保守、反動、官僚主義の総元締めになった」変調な動きについて、亀山は「戦後日本共産党の二重帳簿」の中で、次のように明らかにしている。概要「宮本は、六全協以前の党活動の大きな誤りに直接の責任を負う立場に無かったことを意識して、この頃巻き起こった『下部からの突き上げ』を、巧妙且つ自派勢力に都合よく恣意的に利用した。『過去の誤りに対して打撃主義は正しくない』と云いながら、打撃の使い分けをした」。

 これを具体的に見ると次のような対応の違いを見せた。伊藤律−椎野系に対しては「下部からの突き上げ」を放任し、促進させた。志田系に対してはこの頃は極力批判を抑圧し、以下で見るようにタイミングを計って一挙に叩くことになった。野坂と西沢隆二に対する批判に対しては、強引に抑制させる方針をとった。旧所感派系からの国際派の分派活動批判に対しては、「後ろ向きの態度」、「自由主義的行き過ぎ」、「打撃主義的誤り」などと使い分けながら宮顕派に向かう流れを押さえつつ、志賀系、春日(庄)系、野田弥三郎系に対する批判は助長した。

 この経過に対して、亀山は「代々木は歴史を偽造する」の中で、次のように指摘している。「このような悪質極まる陰謀によって宮本は党内ヘゲモニーを握ったわけであるが、党内には志田につながる軍事委員会のメンバーや、第二次総点検をやった人防メンバーが沢山いるから、宮本はその志田派との合体、それらのメンバーを全て自分の傘下に収めることで党内第一の地位を確保したわけである。こういう一連の長期的陰謀に−その全体像は判らないが、個々の現れに−抵抗した人はすべて党からはじきだされたと見ていい」。


 こうした宮顕の動きに対してこれを変調として抗議していったグループもあったようである。まず椎野は、「六全協は全く清算主義的決議である」、「これは六全協以前の全ての党活動、50年初めのコミンフォルム批判以後の党をすべて否定したものである」と批判している。徳球−伊藤律−椎野派としてみれば、当然の観点であった。次に、中村丈夫が「六全協は戦後党の挫折の過程であり、その仕上げである」、「六全協後の党は革命党の残骸でしかない」と批判している。金沢幸雄は、「宮本顕治、裏切りの34年」で、「六全協は党を敵に売り渡す売国の会議で、この決議は徹頭徹尾、修正主義によって貫かれている」、「六全協によって、四全協、五全協以来の革命的な原則は廃棄され、党は修正主義者宮本によって指導権を奪われた」と批判している。

 亀山氏は上述の見解を批判的に紹介しているが、私は肯定的に見る。徳球系運動は数々の批判されるべきものもあったであろうが、この系譜上で総括せねば党運動の教訓として生かされないからであると考える。全く異質且つ胡散臭い宮顕系論理で席捲される事態だけは避けねばならなかった。ところが、いずれ駆逐されていく自ら等の運命も分からず、志田、春日(庄)、亀山、志賀、中西功、神山、中野派らはこの時宮顕派の幻惑に騙されてしまった、と考える。


 8.25日から9.1日にかけて、重光外相、岸日本民主党幹事長、河野農林大臣が次々と渡米した。


【 第一次砂川闘争】

 この頃の学生運動につき、「第3期「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊」に記す。 

 5月、東京都砂川町議会は、立川飛行場の滑走路拡張に反対の決議を行い、8月には、支援労組、学生等を含めて基地反対共闘会議を結成した。これに対し、政府は9月から警官隊を導入して測量を実施し、労働者と農民が当局と激しく衝突した。これを第一次砂川闘争と云う。翌56年秋口には流血の事態を向かえることになる。

 この時、アカハタ11.5日付けで、概要「政府の挑発と分裂の政策に乗ぜられることなく、いわゆる『条件派』の人々わも含め、一切の住民の具体的要求を統一するよう」主張していた。現地で戦う労働者と農民の怒りと不信を買った。

 高見圭司「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。

 「この当時、私がかかわった運動らしい運動は“砂川基地拡張反対闘争”であった。このころは、五三年ごろから妙義、浅間の基地闘争、内灘の村民を先頭にした実力阻止のすわり込み闘争が高揚していた。砂川闘争は数多く起った全国各地の安保条約にもとづく基地反対闘争のなかで天目山のたたかいであった。五五年九月二二日砂川町で強制測量が開始され、警察機動隊と地元反対同盟、東京地評傘下の労働者、ブンドの指導する全学連が激突し闘った。私は、この日警察機動隊の前に坐り込み、ゴボウ抜きされ、ズボンは引きちぎられ、そのご数日間足を引きずって歩かねばならないほど機動隊に蹴られたのである。その後も何回か現地闘争に参加した」。

【志田.宮顕の「全国説得行脚】
 宮顕は、「六全協直後、九州、北海道、中国、関東等に他の同志と出席して、この問題の報告の一部を担当する」(「経過の概要」)とあるように果然活動を強めている。ここで他の同志とあるのは志田のことで、志田と宮顕は九州から北海道まで全国説得行脚に出かけている。宮顕が、「党の統一と方針転換についての基調報告」を行い、志田が「過去の路線への自己批判」を行い、それをまた宮顕が弁護するという奇妙な演説会であった。宮顕は、下部からの責任追及を煽り、志田を庇うというポンプ役を演出していた。「前向き.後向き」論で、過去の責任追及は後ろ向き、志田は自己批判したのだから前向きの論議をしようという子供だましの仕掛けをしていた。宮顕が「ズル顕」と陰口されるようになった由来がここにある。

【この頃の宮顕】
 「私は六全協後、20名の党指導部の一員として1950年以来の党の混乱の整理、文字通り正規の統一を実現するための第7回党大会の準備に活動した。本郷の義弟の家の二階から私は杉並に移ったが、百合子の元秘書で、百合子全集を手伝ってくれた大森寿恵子、現在の妻と結婚した。党は、政治的、組織的にも大きな深い傷を負っていた。過去の分裂の総括と新しい進路を打ち立てる上で、山なす困難が相次いだ。相次ぐ会議、徹夜、方針の執筆、難問題解決のための地方出張等、文字通り休息のない日々だった。中でも、東京地方組織の状況は深刻だった。50年問題の責任追及を先決として主張するメンバーが指導部に多く、中央委員会から東京の会議に出向く役目をしばしば受け持った」(宮本「私の五十年史」)。実際には、マッチポンプのマッチ役であったのではなかろうか。

【西沢が一人で伊藤律を訪ねる】

 初春の半年後のこの頃西沢が伊藤律のもとを訪れている。この時は今までの態度と異なり、悄然としていたとある。いつもの「伊藤律=アメ帝のスパイ」とする自己批判強要はなく、「僕は前に君に注意したろう。オヤジ(徳田)が生きているうちはいいが、オヤジが死にでもすれば、用心しないと宮本や袴田にやられるよと。彼等は戦前の実績がある人たちだからな。云わないことじゃない、君は用心しなかったものだから、こういうことになってしまったんだ」。この一ヵ月後に袴田が訪れている。


【伊藤律の風聞】
 9月初旬、「週刊朝日」9.11日号で、「伊藤律はどうしてる」記事が掲載され、様々な仮説が立てられていた。「共産党にとっては迷惑なことかも知れぬが、今の我々にとって、興味があるのは伊藤律はどうしているかということだ」とある。ちなみに仮説として、@・国内軟禁説、A・国内恭順説、B・国内病死説、C・国内粛清説、D・国外軟禁説、E・国外粛清説、F・米国逃亡説等が挙げられていた。

【志田重男.椎野悦郎旧指導部責任追及される】
 「六全協」以降の動きは、「六全協」が党の統一の為の事態の終結ではなくて、その発端に過ぎないことが明らかになった。8月頃から責任追求の嵐が党内に巻き起こった。9.14日「伊藤律問題」について、志田から「スパイ.挑発者であった」と発表された。伊藤律は国外にいると推定され、本人の自由意志で出てこない、除名した者の行動については関知しないというのが、この頃の党中央の見解であったが、志田はこの時「(伊藤律の)査問は国内でしたが場所は云えない」と明らかにウソをついていた。

 9.19日志田は「党団結のさしあたっての問題」という自己批判を書き、中央委員会の分裂とその後の指導の誤りの決定的責任が徳田主流派にあったことを認めさせられた。他方で、宮本.春日(庄)らは自己批判を何一つしなかった。志田は、旧指導部を代表して頭を下げてまわされる役目を負わされた。

 そうこうしているうち、「六全協」で中央委員の一員として選出されていた志田重男と椎野悦郎らに集中した旧指導部のスキャンダルが暴露された。党分裂の地下生活時代の党生活の上で幹部としてあるまじき堕落行為を行っていたことが明るみにされた。財政上の疑い、女性関係におけるスキャンダルや待合い生活による頽廃が暴露された。共産党系とみられていた雑誌「真相」特集号(1956.9.15日発行)に、「共産党はどこに行く」記事が掲載され、党分裂時代の志田が、料亭「お竹」を中心に、女と酒で数千万円を豪遊していたとの退廃的内容が書き連ねられていた。この問題は当時のマスコミの好餌にされた。
 

 ここで補足すれば、亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」によれば、六全協からずっと2年間財政部長であった小田茂勝は他に囲った女性が公安部の紐付きで、ずるずると彼自身も公安とつながっていったとある。「一時期、臨中指導部の議長になった小松雄一郎は自己批判書の中に、詳しく、そういうことを自分についても他の人についても書いている」とある。勘ぐりようによれば、六全協以降そうした篭絡が一層容易に浸入したとも考えられる。

(私論.私観) 「宮顕の政敵追放手法としてのスキャンダル暴露攻勢」について

 宮顕の政敵追放手法に、商業新聞を使っての「スキャンダル暴露攻勢」があることが知られねばならない。今日に続くその後の党中央の手法になっている。


 10月、ベトナム共和国宣言。国民投票が実施され、ゴ・ジン・ジェムが、バオ・ダイ元首を破り、初代大統領に就任。


【55年体制の確立−社会党左右両派の合同】

 党の合同の影響かどうかこの年政治状況に大きな変化が見られた。まず社会党の左派と右派が合同した。10.13日、左右社会党の統一大会が開催され、右派の浅沼稲次郎と左派の鈴木茂三郎が書記長と委員長を分け合い、150議席を保つ大社会党が発足した。

 統一綱領を採択したが、左派社会党の新綱領が転じて統一綱領となった。その統一綱領には、「共産主義は事実上民主主義を蹂躙し、人間の個性、自由、尊厳を否定して、民主主義による社会主義とは、相容れない存在となった」、「我々は共産主義を克服して、民主的平和のうちに社会主義革命を遂行する」等々と明記され、共産党によるソ連型運動を否定的に総括した労農派社会主義論を満展開していた。「右社の露骨な反共主義と漸進的改良主義を盛り込んだ『統一綱領』の下に再び野合を遂げてしまうのである。『統一綱領』の無原則な折衷主義は『階級的大衆党』というわけの分からない『党の性格』規定に象徴されている」(社労党「日本社会主義運動史」)ともみなされている。

 統一社会党初代委員長には鈴木茂三郎がなった。書記長・浅沼稲次郎、財務委員長・伊藤卯四郎、政審会長・伊藤好道、国対委員長・勝間田清一、選対委員長・佐々木更三、統制委員長・加藤勘十、顧問河上丈太郎などの陣容が決められた。

 高見圭司氏の「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。

 「この年の10.22日、分裂していた社会党は左右統一をとげた。そして私は社会党中央青年部の中央常任委員となった。当時の社会党青年部は左派社会党青年部の、党中央とは自立した大幅な運動の分野を確保する伝統を引き継いで、きわめて“戦闘的”でかつ“自由”な雰囲気に満ちていた。当時の青年部長は左派出身の西風勲氏で、彼の自由闊達な性格はそのまま当時の青年部の気風となっていた。何よりも左派出身の諸君は、かつて安保条約をめぐって右派と訣別し、その左翼バネとして右派を凌ぐ勢力にまでのし上げてきたという実績に裏打ちされ意気けんこうたるものがあり、私にとって魅力あるものであった」。 

【保守党の自由党と民主党が合同】

 吉田の跡目を継いだのは緒方竹虎。鳩山民主党の総務会長・三木武吉が緒方自由党と民主党の合同を策した。三木提案と呼ばれる。既に4月頃、大阪での記者会見の席上、「保守合同」をぶち上げていた。「今や保守勢力結集による政局安定はダ、民主・自由両党ともごく一部の感情論を除けば皆強く望んでいる。185名の少数党の民主党で政策推進を行うということ自体がダ、根本的に無理である。民主党はダな、自由党に対し、引き抜きや切り崩しなどの工作をせず、近く表玄関から呼びかけるつもりだ。保守結集の形は、合同でも提携でも構わないが、その時機は今や熟しておると言ってもいい」。

 この提案に対し、民主党内は大きく割れた。歓迎派が岸や根本龍太郎。反対派は松村や三木武夫ら。財界が保守合同歓迎の意向を示していた。三木は自由党の窓口に、やはり総務会長であった大野伴睦に白羽の矢を立て、交渉を続けた。二人はそれまで犬猿の中で、三木は大野を「雲助」と呼び、大野は三木を「タヌキ」と罵詈合っていた。都合60数回に及ぶ極秘会談が重ねられたと伝えられている。

 9.22日、「保守合同のためには、自由、民主両党議員全員で、新党結成準備会を結成する」と、民主党が党議決定を可決、9.25日、自由党もこれを可決した。11.6日、三木・岸・大野・石井の四者会談で、@・新党の運営は当面、総裁代行委員制とし、集団指導体制でいく。A・できるだけ早い時期に党首選挙を行ない、31年頃に総裁公選を行う。B・第三次鳩山内閣を発足させるを打ち合わせした。

 10.13日、日経連が総会で、「清新強力な政治力が急務」と決議する。10.20日経済同友会も「速やかに保守合同を実現せよ」と決議する。

 11.15日、「占領制度の是正と自主独立」をスローガンに反目し合っていた日本民主党(鳩山)と日本自由党(緒方)の保守も又合同し、自由民主党が誕生した。こうして保守合同も為された。自由民主党に参加した国会議員は衆議院299名、参議院118名であった。衆議院では圧倒的過半数を確保したことになる。

 総裁人事は一時預けとし、「首相は鳩山。党は総裁を置かず、当分代行委員制でゆく、いずれ総裁は公選で決める」として、総裁決定まで自由、民主両党から2人ずつの鳩山一郎・緒方竹虎・三木武吉・大野伴睦の4名を代行委員に選出し、新党の運営に預からせることになった。

 初代幹事長は岸信介、総務会長は石井光次郎、政調会長は水田三喜男が就任した。「階級政党としての社会党に対決する国民政党」が標榜されていた。

 この時、自由党内では吉田直系の池田、佐藤らが合同に強く反対していた。吉田は、政敵鳩山とは与せずとして、合流しなかった。これに殉じて、佐藤栄作と橋本富三郎が無所属に留まった。数ヵ月後3名とも入党している。池田隼人、田中角栄らは結局自民党に入る。


【55年体制の確立】
 この自由民主党が政権与党となり、社会党が野党第一党となる構図が定着した。これを自民.社会二大政党制による「55年体制」という。ここからが「55年体制」のスタートとなった。

 ここに「保守・革新」の二大政党が実現して、イギリス流議会政治ともてはやされる時期を迎えた。ちなみに、この時の統一社会党の議席は154、自民党は299であった。この背景には、「強い保守党」を臨むアメリカの影響もあったものと思われる。

【第三次鳩山内閣が成立】

 11.22日、第三次鳩山内閣が成立した。この時日ソ国交回復が為されることになる。

 幹事長・岸、官房長官・根本竜太郎(留任)、副長官・松本滝蔵、田中栄一。外相・重光葵、蔵相・一万田尚登、農相・河野一郎、通産相・石橋湛山、経済企画庁長官・高碕達之助、国務相国家公安委員長・大麻唯男らの閣僚が留任した。法相・牧野良三、文相・清瀬一郎、厚相・小林栄三、運輸相・吉野信次、郵政相・村上勇、労相・倉石忠雄、建設相・馬場元治、防衛庁長官・船田中、自治庁長官・大田正孝、北海道開発庁長官・科学技術庁長官・正力松太郎らが新たに加わった。


 アカハタは突如12.19日「党と大衆との結合を強めて大衆運動を発展させよう」、翌12.20日「六全協決議の全面的実践へ」という主張を掲載した。概要「まず十分な党内闘争によって『党を正し』次の段階で大衆運動に向かうことが出来る、と考えるのは誤りだと、党員の義務の積極的遂行を強調した」。


【志田重男失踪】

 年末頃から志田は党本部にでてこなくなった。野坂は「志田は自己批判を書くのに苦しんでいる。ノイローゼ気味なので、あるところで保養しながら、総括を書くことになっている」と奇妙な弁護で辻褄併せをしている。この頃、西沢、紺野らが志田調査の任を引き受け、志田の三つのアジトを調べている。「封も切られていない下部組織からの報告文書が、柳行李に三杯も出てきた。志田が組織的な任務を完全に放棄していることが明らかになった」とある。

 志田はこのときから消えた。この時点から、党中央を宮本が牛耳るようになった。が、暫くの間は志田失踪問題ははぐらかされ続けて行った。


【袴田による伊藤律再査問】

 この年の暮れ近く袴田が伊藤律を訪ねて再査問している。袴田は勝ち誇った態度を見せながら次のように述べたと、伊藤律が証言している。

 概要「キミが一行、ひとこと、アメ帝のスパイだったと承認すれば、命は助かるし、元のポストに戻してやる。自分がそうでなければ、長谷川か小松など他の幹部のことでもいい。それが君の手柄になる。君の才能を惜しむことにかけては、宮本も俺も徳田に劣らない。今だから云ってやるが、ソ.中両党に手を廻し、君にこうした処置をとらせたのは、この我々だ」。

 「この取引を私は即座に拒否した」。袴田は「死にたければ勝手にしろ」と捨て台詞を残して去ったとある。それっきり、25年間、4分の1世紀誰も来なかった。

(私論.私観) 「袴田の『今だから云ってやるが、ソ.中両党に手を廻し、君にこうした処置をとらせたのは、この我々だ』発言」について

 この袴田発言も貴重である。伊藤律が生還したことにより明らかにされた裏史実である。





(私論.私見)