第12部 1951年当時の主なできごと.事件年表
徳球派党中央極左路線採用す。講和条約締結。

 (最新見直し2007.6.26日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第2期、党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。

1.1 宮顕派の「解放戦線」第1号が発行され、1.20日付けで「党活動」第1号が発刊された。それぞれ党中央側の「内外評論」、「党活動指針」に対応していた。宮本の手になるものと思われる綱領的文書「新しい情勢と日本共産党の任務」が「解放戦線」第1号に掲載された。
1.3 NHK、第1回紅白歌合戦を放送。 復興した歌舞伎座の開場式が行なわれる。
1.15 全面講和愛国運動全国協議会結成。
1.19 【社会党第7回大会開催】〜21日。右派の反対を排除、左派が主導権を握る。平和4原則(中立.全面講和.再軍備反対.基地反対)を採択。鈴木茂三郎委員長選出。
1.21 【宮本百合子死去】宮本百合子死去51才。急死であった。
1.24 「内外評論」第6号に無署名論文「なぜ武力革命が問題にならなかったか」が発表された
1.24 日教組、「教え子を戦場に送るな」の運動方針を決定。
1.24 山口県麻郷村八海で老夫婦が惨殺される。(八海事件)
1.25 アメリカ講和特使ダレス、来日。1.29.31.2.7日吉田首相と会談。  
1.27 川上貫一議員が、衆議院本会議の代表質問で、日本の平和と独立は、全面講和と占領軍の即時且つ完全な撤退によってのみ実現されると主張。発言取り消し要求を拒否。(3.29日国会を除名される) 
1.29 吉田茂・ダレス会談始まる。この会談で、講和・安保の骨子が固まる。
2.10 社会民主党(委員長:平野力三、佐竹晴記書記長))結成。 
2.11 ダレス離日。
2.13 東大.スパイ・査問事件。早大細胞.スパイ=オマタを摘発、早大(文学部)細胞キャップ・松下清雄が東大に連絡。
2.14 東京、猛吹雪で積雪が30センチに達する。
2.15 前日からの大雪で、首都の交通網が寸断され、機能麻痺。このため、国会は流会。証券取引所立会も停止となる。
2.21 世界平和評議第一回会総会がベルリンで開催される。米・英・仏・ソ連・中国の5大国による「平和協定」締結を要求する。(ベルリン・アピール)      
2.23 【「第四回全国協議会」(四全協)開催、新方針決議徳田書記長は、大会に準ずるものとして秘密裡に「四全協」を召集した。この会議で、「当面の基本的闘争方針」(「51年綱領」).「分派主義者に関する決議」と「新規約草案」を決定した。武装闘争方針が提起された。周恩来からの意見として、武装闘争の準備についてのソ連、中国両党の指示が伝えられ……。軍事方針がきまり,国際派はその直後に空中分解。所感派による非合法会議。内容はいまも不明。徳田派の混乱と無能力.極左冒険主義の採択と国際派非難。これ以降,国際派、所感派の逆転現象。宮本らは4全協の結果を見て全国統一会議を再建。
3月 ストックホルムで行われた世界平和委員会総会が呼びかけた原子兵器の無条件禁止などを要求するアピールの署名運動。
3.4 第1回アジア競技大会がインドのニューデリーで開催される。
3.5 無着成恭編『やまびこ学校』が刊行される。 戦後の「生活綴方(つづりかた)」の復興に影響を与える。
3.9 三原山、大爆発。
3.10 −12日総評第二回大会が開催された。左派のヘゲモニーが強化され、再軍備反対.全面講和.基地反対の「平和4原則」が決議された。高野実が第二代事務局長となった。
3.14 国連軍ソウルを奪回し、再び38度線に達した。38度線を境に一押し一引きの様相となった。
3.21日 ダレスが対日講和条約草案を発表。
3.29 メーデー会場に皇居前広場の使用が禁止となった。
3.29 共産党川上貫一議員、全面講和と再軍備反対を主張し、議会から除名される。
3.31 改正結核予防法公布。これにより、BCGが強制接種となり、その是非が問題となる。
3月 伊藤,紺野,椎野らの自己批判続く。
4.1 琉球臨時中央政府(行政主席:比嘉秀平)設立。東横・大泉・東京映画配給の3社合併による「東映(株)」が発足する。
4.1 銀座に106本の街灯が復活する。
4.11 【マッカーサー、米大統領により連合軍最高司令官を罷免される】トルーマン、マッカーサー元帥、国連軍最高司令官解任(後任にリッジウェイ中将)。→マッカーサーの2000日終わる→16日離日=20万人が羽田までの沿道を埋める
4.12 ナイロン・ストレプトマイシンなどの製造技術導入が認可される。ナイロンは、米デュポン社から東洋ーヨンへ導入決定。ストレプトマイシンは、米メルク社から協和発酵・明治製菓へ導入決定。
4.16 マッカーサー、離日。ダレス来日。
4.16 三原山、再爆発。
4.19 田中茂樹、日本初参加のボストン・マラソンで優勝。
4.23 【第2回統一地方選挙実施、「二つの共産党」による選挙戦 自由党が圧倒的優位となる。4.23.30日全国にわたって第2回一斉地方選挙が行われた。党は、都道府県議6名当選。市区町村議489名当選。この選挙戦で党の分裂が深刻な様相を見せた。大衆の面前で主流「臨中」派と統一会議派との抗争が展開されたのである。
4.24 横浜の桜木町駅で、京浜東北線の電車が発火。2両が焼失。106人が死亡。(桜木町事件)
4.27 政府が第22回中央メーデーの皇居前広場使用を禁止(中央メーデー中止)。リッジウエイ、政府のメーデー皇居前広場の使用禁止を支持。
4.28 総評、中央メーデーは中止と決定。(岩波年表)
4.30 都知事選挙、安井誠一郎当選、出隆惨敗。
5.1 第22回メーデー開催。東京では皇居前広場の使用が禁止され、芝公園などての分散メーデーとなる。
5.1 リッジウェイ中将、日本政府へ占領下法規再検討の権限を委譲すると声明する。     
5.3 リッジウエイ、公職追放解除。政府主催憲法施行4周年記念式典が皇居前で行われ、都民2万人が参加=天皇・皇后も出席。
5.5 児童憲章の制定が宣言される。
5.14 政令諮問委員会第1回会合、占領諸法令の再検討のため開催。
5.22 原爆禁止・ストックホルムアピール署名運動開始。
5〜6月 所感派幹部の自己批判の評価めぐり、国際派内部において宮本=自己批判について否定的、春日=肯定的、の対立深まり,決別。
6.1 大阪市でワンマン・バスが初めて運転される。
6.3 NHK、テレビ初の実況中継を行なう。(後楽園球場から日本橋三越へ、プロ野球の実験放送)
6.8 住民登録法公布。
6.9 新土地収用法公布。 
6.12 警察法改正(自治体警察の縮小を規定)公布。
6.20 第1次公職追放解除(石橋湛山・三木武吉・河野一郎、菊池寛ら2958人)を発表。
6.21 ユネスコと国際労働機構(ILO)が、日本の加盟を承認。
6月 多喜二・百合子研究会結成.(94年党史年表)
6月 関東夜間社研連絡協議会発足。
6月 下旬、イールズ帰国。置き土産の「高等教育の改善に関する勧告」。
7.1 日文部省、「学習指導要領一般編(試案)」の改訂を発表。
7.4 吉田茂内閣、第2次内閣改造を実施。
7.6 敗戦を信じず、7年間もアナタハン島ですごした日本人20人が帰国する。
7.10 開城で朝鮮休戦会談開始、朝鮮戦争休戦
7.31 日本航空(会長:藤山愛一郎)設立。(戦後初の国内民間航空会社)
8月上旬 共産党、モスクワ会議。スターリン.徳田.野坂.西沢.袴田らで51年綱領の押しつけ。モスクワに派遣された袴田(=宮本派)は、スターリン御前会議において自己批判した。国際派からみればこれを変節となる。
8.3 8.3日全国商工団体連合会結成  
池田蔵相、佐藤政調会長。
8.4 奄美大島の住民8000人が、日本への復帰を要求し24時間の断食を行う。
8.6 第2次公職追放解除(鳩山一郎・岸信介・正力松太郎ら1万3904人)を発表。
8.10 コミンフォルム機関紙「恒久平和」が、4全協の「分派主義者にたいする闘争にかんする決議」を支持的に報道。党の内部問題に関する二度目の干渉ともなったとされている。これにより、最左派の 国際主義者団が降伏、団結派の解散大会、統一協議会の解散と自己批判、統一派=春日のゴマスリ的自己批判、宮本の抵抗と復党となった。宮本の自己批判書は二度書き直しを要求されているが、それはついに公表されなかった。恐らくは志田が保管したまま……と推測されている。寺尾五郎「宮本顕治の自己批判書はたしかにあった。そのころ本部にいた宮直治が誰かにたのまれて、それを筆記したと聞いたことがある。いまどこにあるかは分からない」という証言がある。こうしてスターリンとコミンフォルムの権威によって、反徳田派の圧倒的多数の人々は徳田派に屈服することを余儀なくされた。全学連内部も苦悩した。不破の反省と復党の意見と武井,力石の反論、安東.土本の中間意見に分かれた。
8.19 【徳田派が「武装闘争路線」宣言する「第20回中央委員会」が秘密裡に開かれた。第19回中央委員会総会以来1年4ヶ月ぶりであった。講和会議が開かれる直前の時期であった。この会議の眼目は、反対派受け入れに当たっての無条件屈服要求方式を採用すること、後述する新綱領の下での全党の理論的統一を獲得することにあった。会議では、新綱領草案、「党の統一に関する決議」など5つの決議が採択された。「4全協」で採択された改正「党規約草案」も承認された。
この月、生活難から人身売買が横行し、児童福祉法違反事件が続出。山形・東京・福岡・奈良などで約5000人を数える。
9.1 初の民間放送である、中部日本放送(名古屋)と新日本放送(大阪)が開局する。
9.4 共産党臨時中央指導部らに団体等規正令違反容疑で逮捕状。
9.8 対日講和条約(サンフランシスコ平和条約又は対日平和条約)が単独講和方式で、サンフランシスコで調印された。この条約の締結によって日本は占領統治体制から脱却し主権を回復することになった。日米安全保障条約も調印された。
9.10 第12回ベネチア国際映画祭で、黒沢明監督の「羅生門」がグランプリを獲得。
10.1 毎日新聞・読売新聞などが夕刊の発行を再開する。
10.4 出入国管理令公布。
10.14 日ルース台風、上陸。交通・通信網が寸断され、本州各地で大被害。死者・行方不明者1200人にのぼる。       
10.16

【「五全協」開催徳田系党中央派は、秘密裡に「第五回全国協議会」(「五全協」)を開き。「新綱領」を採択し、武装闘争方針を具体化した。この大会で明確にアメリカ占領軍に対する「解放軍規定」の残滓と決別し、革命の目標を民族解放民主革命であると規定した。その実現の為に暴力革命を盛り込んだ「新綱領」を採択した。

 徳田,志田体制を確立したもみなされている。新綱領=51年テーゼ=暴力革命唯一論=極左冒険主義=山村工作隊=スターリンと中国共産党の指導。戦前の「社会ファシズム論」の復活により社民勢力を反革命と規定、社会党に打撃を集中するセクト主義の誤り、重光首班論の誤り等々が見られたと総括されている。

 この方針のもとに火炎瓶時代の極左冒険主義がひろまる。解放の名に隠れた民族主義の危険性。植民地的従属状態の強調、民族解放民主革命=武力革命論。大塚茂樹『当面の課題を民族独立を第一義とし、反封建の課題を結合した民族解放民主革命の路線が定式化された.その分析は中国共産党の民族革命論に倣うもので、日本の現状に本来適合するものではなかった.しかし、国際的権威に無批判的だった人々はこの新綱領を日本で具体化するために、以前から模索していた軍事方針を本格的に展開しはじめる』と見なしている。

10.24 社会党第8回臨時大会、講和・安保条約に対する態度をめぐり左右両派に分裂。 左派は全面講和を主張し、右派は多数講和を支持した。こうして、社会党は、昭和30年の再統一までの約4年間を右派社会党、左派社会党の分裂対立時代を迎えた。
10.25 日本航空、東京〜大阪〜福岡間で運航開始。
10.26 衆議院、講和(承認307票対反対47票)・安保(承認289票対反対71票)両条約を承認。
11.10 日教組、第1回全国教育研究大会(教研集会)を日光で開催。
11.18 参議院、講和(承認174票対反対45票)・安保(承認147票対反対76票)両条約を承認。
11月 共産党は、このころ「球根栽培法」.「栄養分析表」など武装準備のための非合法出版物ぞくぞくと刊行。薄紙で、丸めてのみこめるレポが物かげで渡されたり、「球根栽培法」や「組織者」が危険物のように回覧されたのもそのころである。再建細胞の党員たちの多くは、50年以降に入党し、分派活動の中で育ち、非合法活動の手足として危ない思いをしてきた新人たちで、学生運動の高揚期にみられたのびやかさは見られなかった。暗く、いつも緊張していた。
12.10 ダレス来日。
12.24 吉田茂首相、ダレス宛書簡で国府(台湾政府)との講和を確約。
10.24 社会党第8回大会、講和条約の承認賛否を巡り左右両派に分裂(「左派社会党」鈴木茂三郎委員長、「右派社会党」浅沼稲次郎書記長)。
12.25 ラジオ東京(現TBS)、開局。
12.26 吉田茂内閣、第3次内閣改造を実施。
 この年、パチンコ大流行。  この年、赤痢の流行で1万4000人以上が死亡。  この年、脳溢血が結核を抜いて、死亡原因の第1位になる。  この年、浅香光代・大江美智子などによる「女剣劇」がブームとなる。


【朝鮮動乱その後の推移】

 年が明けても、中国人民解放軍の反撃は続き、アメリカ軍は38度線の南に追いやられた。再び朝鮮半島から追い出される危機が迫った。


【講和問題の浮上】

 1.1日、トルーマン大統領は、ダレスを対日講和交渉大統領特別代表に任命した。


 51年になると日本の独立問題が浮上する。国内では単独講和又は全面講和をめぐって大騒動になっていった。吉田政府は、単独講和によるアメリカを盟主とする資本主義陣営との単独講和を目指すと同時に米軍の進駐を認める方針を取った。


【民戦結成大会】

 1.9日、朝連解散後1年4カ月目、解散した朝連に代わる民戦が結成された。東京都江戸川区小岩の個人の家で代表者80名によって、非合法に民戦結成大会が開催された。そこでは、民戦結成準備委員会長金薫の情勢報告がなされ、大会宣言、綱領、規約、活動方針が決定された。「在日朝鮮人運動の統一的な戦線体である」と規定し、祖防委、祖防隊は、軍事武装闘争の非公然活動部面を担当するとの方針を掲げた。この構成人員は53.9月時点で13万1524名である。朝連解散時の勢力36万5792名にくらべると約三分の一に減少している。

 情勢報告では、朝鮮戦争を「祖国解放戦争」であると規定し、「祖国解放戦争は新しい段階に入り、完全解放の日はもう遠くはない。米帝の敗退は最早時間の問題である。……諸君は勇気をもって日本人民を奮い立たせ、その先鋒に立って祖国解放戦争に続かねばならない」とした。

 基本方針は次のとおり。

 第一に祖国の解放戦線に参加する。また祖国の完全な統一と独立をはかるために、一切の外国軍隊を即時朝鮮から撤退させ、かつ祖国侵略のための日本の再軍備に絶対反対する。

 第二に米国と日本政府による基本的人権の侵害と、民族的差別、弾圧と生活権の剥奪の民族的課題に対して闘う対権力闘争を組織する。

 第三に米占反動から朝鮮人民に対して加えられる弾圧は日本自身の問題であり、すなわち日本の独立と平和を破り、日本を戦場にして日本人民を奴隷と悲惨な戦争に駆り立てるものである点を、日本人民に理解させ、共同闘争を組織する。


【「全面講和愛国運動協議会」が結成される】
 1.15日、共産党、労農等や産別会議、私鉄総連、全造船など40労組、その他民主団体によって「全面講和愛国運動協議会」が結成された。南原繁ら多くの学者.知識人もまきこんだ。署名運動。戦時中に乱発された愛国の文字が、戦後の反体制運動組織に登場した最初の例となった。

【宮顕系分派機関紙「理論戦線」の論調】

 鹿児島事件と私 議論系掲示板・投稿者:羽派・投稿日: 5月22日より

 宮本は,1951年1月18日付の分派機関紙「理論戦線」の中で,次のように述べている。(50年問題資料集2,p227)「・・・外国帝国主義及び日本反動が我が党を誤った方向に導くためにスパイ,挑発者を最大限に活用しようと努めていることは容易に推察できる.・・・所感分派の形成の過程と党中央の弾圧の時期と弾圧後の一連の動向を全体として見る場合,われわれは・・・こうした解党主義と分裂主義のコースを特に何人が煽り激化させているかを敵の弾圧政策,スパイ,挑発政策への闘争の一環として深甚な注意で見守らざるを得ない.・・・昔の特高がスパイ大泉兼蔵をコミンテルンに送ろうとしてたくらんだ事を考えるならば,国際プロレタリアートを欺瞞するために各種の悪質な手段をとることさえ想像される」。

「解放戦線」1号(51年1月)(50年問題資料集2:p207)では次のように述べている。「かれらの基本方針は・・・所感派の分派活動に対して明確な批判を持つものを一律に悪質分派として孤立化し、いわゆる『上を浮かして下を取る』という方針を強行することを『党統一』の道としているのである.これが最悪の分裂主義であることはあきらかだ」。

(私論・私観)宮顕の切り返し論理について

 この論調を見れば、徳球系党中央が宮顕グループをスパイだと批判しているのみならず、宮顕の側からも徳球系党中央こそスパイ、挑発化していると非難していることが判明する。宮顕の行くところ向かうところ必ず相手がスパイないし挑発者呼ばわりされていることの例証になる。


 後段の文章に対して、サイト仲間の羽派氏は云う。

 「所感派と『お互い様』というところはあっても,ほとんど何の節度なく,分派闘争に邁進していった様子が伺えます.自分が『浮かされる』ことを警戒していたわけです.また,浮かされる対象は自分(とその限られた側近)だけなのに,『一律に』などと強弁する.こうして文字として残るところでは少しでも自分が正しい,普遍的な立場にあることを印象付けようとしている.なお,『分裂主義』とは,自分が中央幹部になれない状態のことを指すのかも知れません.宮本は,強いリーダータイプだったけど,スターリン・チャウチェスクとならんで,(やったことのスケールは何桁も小さいが)「トップにしてはならない人」だったですね。当時の党員達もそれはある程度わかっていて,増山さんの本を見ても,『宮本を擁立するのだが,あいつはほっとくと何をするか分からないので,グループを作って見張っていないと駄目だ』と言われていたそうです」。

【社会党第7回党大会】

 朝鮮戦争の勃発と講和への動きが強まる中で、1.19日、社会党第7回党大会が開催された。大会は、左派の決議案と右派の修正案を廻って激しい対立が続いたが、最終日の21日採決が行われ、右派修正案は342票対82票の大差で否決され、左派の決議案が可決された。これ以降、再軍備反対、中立堅持、軍事基地提供反対、全面講和実現の「平和4原則」が社会党の旗印になり、これが以降の社会党の基本方針となった。

 空席の委員長ポストには左派の鈴木茂三郎が選出され、浅沼書記長とのコンビが生まれた。左派の主導権が確立したとみなされている。この背景には前年7月に結成され、社会党の支持母体となった総評で民同左派が勢力を伸張、高野実事務局長下で「ニワトリからアヒルへ」の急速な左旋回を遂げるという事情があった。会計には下条恭平、統制委員長には猪俣浩三が選出された。

 委員長に就任した鈴木は、「青年よ、銃をとるな!婦人よ、平和のために!」と演説し、日教組も1.24日の中央委員会会場に「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンを掲げることとなった。


 この当時の社会党の院内勢力を見るに、右派は衆議院29名、参議員31名。左派は衆議院16名、参議員30名で、左派のほうが劣勢であった。しかし、総評の左旋回の全面的なバックアップの元に、選挙のたびごとに党勢を伸ばしていくことになる。

 社会党大会直後に開かれた第二回総評大会でも、この「平和四原則」が採択された。


【芦田前首相が各界に再軍備の必要を主張】
 芦田前首相は、朝鮮動乱以来俄かに国防の重要性を強調し始めた。GHQに求められるままに「芦田意見書」を提出し、「‐‐‐こんな危険な状態にある時、兵力を持たないという手はない。スイスでも兵隊を持っている。自ら守ろうとする気持ちのない国民に一体誰が援助してくれよう。日本は2万の軍隊を今すぐにでも持たなければならない」と再軍備の必要を述べていた。

 これに対し、吉田首相は、第10国会答弁で、「国民の要望は自由に発表するがよい。しかし私は憲法を改正する意思もなければ、再軍備する気もない。軍事基地提供も憲法の精神に反する、外国の要求があっても断固として憲法の精神を守る」と述べている。

【宮本百合子死去】
  1.21日、宮本百合子死去(51才)。宮顕曰く、「風邪と過労に加えて『急性敗血症』を併発させた『自然の不意打ち』であった」。「彼女の突然の死を前にして私が痛感したことは多い。しかし、その一つのごく原始的なしかも痛切な思いは、我々は社会科学とその実践に熱心ではあったが、肉体について、自然科学の生活への不断の適用についてまだまだとかく軽視に陥って、熱心さが足りないということである---『自然の不意打ち』に対する日常の科学的用意の不足を反省するのは、単に愛するものを失った者の嘆きの繰り言とはなるまい」(「百合子追想」雑誌「展望」3月号)。

 ところで、百合子の死因に不自然さと疑惑が伝えられている。1.19日は夜更けまで書斎で平常に仕事をしていたそうである。それが20日午前1時ごろから、急に寒気がするといいだし、午前11時には39度8分の高熱、午後4時になると肝臓部に痛みを訴え、胸部.下肢にも紫斑が現れたという。百合子が苦しみだした時、宮本家にいたのは百合子の他に宮顕と百合子の秘書大森寿恵子(当時30才、百合子の内弟子として秘書兼お手伝いとして同居)の二人だけだった(この二人はその後結婚し大森は宮本夫人となる)。それから苦しみのため転々とする場面があって、21日午前1時55分に息が絶えたことになっている。宮本家からの急報で、主治医の佐藤俊次医師が駆けつけたのが20日午後7時過ぎであった。その直前知人の小西先生、近所の林順圭先生、さらに林先生の息子の医師、泉橋病院の外科部長藤森正雄先生と医師が4人も枕辺に揃ったという。それらの医師によって書かれた死亡診断書が急性紫斑病である。これらの経過は主知医佐藤俊次医師がある雑誌(50.3)「終焉の記録−宮本百合子さん臨終に付添って」によるもので、その証言は確かとされている。

 ところがその後、1.22日の午後になって、百合子の遺体は東大伝染病研究所で病理解剖に付された。執刀に当たったのは草野信男教授という党員教授である。この解剖の結果、「最急性脳脊髄膜炎菌敗血症」であることが「ほぼ確実となった」ということで、先の4名の非党員医師が臨終に立ち会ってつけた病名を変更している。「『最急性脳脊髄膜炎菌敗血症』のため急逝した。51才であった」(「日本共産党の60年」)と党史には書かれている。肝心かつ重要なこういういきさつは書かれていない。草野教授は後に原水協の内紛時に党に反抗している。

 この時「人民文学」が3月号で「宮本百合子について」特集を組んでいる。新人の宍戸弥生、玉城素、大場進の寄稿を採用したが、三編とも「追悼ではなく強い批判」であったため、宮本顕治と新日本文学会中央グループから激しい怒りを買った。江馬は責任を取らされ、次第に閉職に追いやられていくことになった。

【全学連内に所感派が台頭】

 1月、全学連内に所感派系の運動が盛り上がってきた。東大再建細胞の増田、早大政経細胞の藤井が、都学連大会を目指して活動を表面化させてきた。1.24日の都学連の自治会代表者会議で、新制東大自治会の増田委員長が執行部の提案に反対し、「この方針は日本共産党に対する誹謗であり、青年祖国戦線を分裂させるものだ」と主張し退場、採決は賛成13.反対4.保留2となった。 

【 ダレス来日】
 1.25日、ダレス来日。対日単独講和の打ち合わせにやってきた。2.21日に離日するまで吉田・ダレス会談5回、事務レベル会議を十数回重ね、講和に向けての下交渉をした。この時期、朝鮮戦争は泥沼化しており、米国務省は、「アジアはアジア人で戦わせよ」の思惑もあり日本の再軍備を急ごせようとしていた。もう一つの理由として、占領状態は、日本での民族解放闘争を誘発し、得策でないという判断も為されていたと思われる。この一挙両得発想から、それまでの一方的な対日占領支配体制から脱却し、あらためてアメリカ陣営の下で強固な絆を固めるべく講和による日本の独立へと誘導していくことになった。この当時の「ル・モンド」紙特派員は、ダレス来日について、「アメリカの三つの目的は基地の確保、再軍備、軍事同盟であり、これを抽象的に繋ぐものが、日米安全保障条約である」と書いている(斉藤一郎「総評史」)。

 この時のダレスと吉田の交渉のひとコマが次のように伝えられている。ダレスの激しい再軍備要求に対し、吉田は次のように述べて抵抗した。
 概要「さような再軍備は、事実上不可能だ。再軍備は日本の自主経済を不能にする。体外的にも、日本の再軍備に対する危惧がある。国内的にも軍閥再生の可能性が残っている。再軍備は問題である」。
、「日本は敗戦経済再建に、国家財政の大部分を投入しなければならない。それを再軍備に傾注すれば、ドッジ・ラインのいう経済自立は困難なものになる」。

 吉田が、これまでのGHQ政策を逆手に取って対応しているさまが窺える。これに対し、ダレスは次のように詰問している。
 「独立を回復し、自由世界の一員になる以上、日本は自由世界の強化にどういう貢献をしようといわれるのか。米国は今日、世界の自由の為に闘っている。自由世界の一員としてこの戦いにどう貢献しようと言われるのか」。

 吉田首相は、こうしてダレスに抵抗する一方で、「全面講和」ではなく「多数講和+日米安全保障条約」という政治決断を下した。これを「吉田ドクトリン」と云う。

【徳球執行部、「武力革命}を提起する

 1.24日、「内外評論」第6号に無署名論文「なぜ武力革命が問題にならなかったか」が発表された。

 概要「権力闘争は武力闘争に他ならない。すなわち、力には力をもって闘うという武装闘争が新しい任務である。決戦の時期はわりあいに早いことを、世界情勢は告げている」。

ここでは、「武力の問題は原則上の題目ではなくて当面の実践問題」 だと強調されていた。この論文では、永らく党内を支配した野坂式「平和革命コース論」が見る影もなく断罪されており、返す刀で、主流派を右翼日和見主義と罵倒する国際派が、武力革命の問題に触れない事実を嘲笑していた。このような逆転が中国共産党の組織的指導のもとにおこってきたということである。

 こうして武力革命の問題が主流派から提起されたことによっ て、従来の主流派と国際派の立場が逆転することとなった。これまで国際派は、概ね主流派に対し反帝闘争を回避している「右翼日和見主義」であると非難してきており、帝国主義との直接的闘争を主張していた。これに対し主流派は、国際派の主張を「極左主義」.「跳ね上がり屋」と応酬してきた経緯があった。ところが、ここに至って主流派が帝国主義との武力闘争を指針とするといい始めた訳であるから、これで党内がまとまりを得るかと思えばそうはならなかった。宮顕は今度は、武装闘争を行動スローガンにするのは決定的な誤りだと云い、神山や中西は、武力革命の原則そのものは認めても、これを当面の実践課題とすることは時期尚早であり、挑発的であるとして「極左冒険主義反対」という対応に移行した。

(私論・私観) 反党中央派の姿勢について

 つまり、この経過から見えてくるものは、反主流派=国際派は党中央が右を指針すれば左を云い、左を指針させれば右を云うという反対のための反対派でしかなかったということになる。つまり、徳球指導に対する反対派は、「ああ云えばこう云う論」者でしかなかったということになるであろう。異論は有るであろうが、あえてこうみなす方が実際に近いであろう。


【「練馬事件}発生する

 2月、「練馬事件」が発生し、全国の非合法アドレス名簿が警察に奪われ、4百数十ヶ所が襲われた。機関紙の発送・配布・防衛の担当は保坂浩明であったので、その責任が問われることになった。保坂は伊藤律の配下にあったので、機関紙担当政治局員としての伊藤律の管理責任が志田派から追及されることになった。


【 戦後党史第二期】/ 【ミニ第A期】党中央「四全協」後の新方針で極左路線志向

  1951(昭和26)年2.23日の第4回全国協議会(「四全協」)で武装闘争路線が採用されてから党は未経験の内乱的死闘路線へと向かう。この道中は、更に武闘化するのか議会闘争を軽視しても良いのか暗中模索となった。徳球書記長の信任の下に伊藤律が主に活躍したが、51.10.16日からの「五全協」で志田派に主導権を奪われる。この期間を【 戦後党史第二期/ミニ第A期=党中央「四全協」後の新方針で極左路線志向とみなすことができる。


【「第四回全国協議会」(「四全協」)開催、新方針決議】
○、2.23日−27日にかけて徳球は、大会に準ずるものとして秘密裡に「第四回全国協議会」(「四全協」)を召集した。この会議の眼目は、新方針を全党の決定に持ち込むことにあった。

○、大会は、「日本共産党の当面の基本的闘争方針」(「51年綱領」).「分派主義者に関する決議」と「新規約草案」を決定した。

 「当面の基本的闘争方針」(「51年綱領」)は、武装闘争方針を決議した。党結党以来初めての軍事方針の打ち出しであった。「51年綱領」は野坂式平和革命路線を全否定し、「新しい民族解放民主政府が、妨害なしに、平和的な方法で、自然に生まれると考えたり、あるいは、反動的な吉田政府が、新しい民主政府に自分の地位を譲るために、抵抗しないで、自ら進んで政権を投げ出すと考えるのは、重大な誤りである。このような予想は根本的に誤りである」、「日本の解放と民主的変革を、平和な手段によって達成し得ると考えるのは、間違いである。労働者と農民の生活を根本的に改善し、また日本を奴隷の状態から解放し、国民を窮乏の状態から救うためには、反動勢力に対し、国民の真剣な革命的闘争を組織しなければならない」としていた。

 こうして新方針が打ち出されることになったが、長期にわたる武装闘争によって勝利を獲得した中国共産党の経験を学び、中国革命方式による人民革命軍とその根拠地づくりを我が国に適用した戦略・戦術として武装闘争方針を掲げていた。その狙いは、朝鮮戦争の後方兵站基地として機能している日本での後方撹乱により、朝鮮戦争を優位に進めようとする当時の国際共産主義運動の方針があったようにも思われる。 

 中共的武装闘争方針の具体化の第一歩として都市における労働者の武装蜂起と農村遊撃戦争を組織し、その過程で結集された大衆の抵抗組織としての「中核自衛隊」(「中自隊」)を組織し、これを発展的に人民解放軍に導くことにより、全国的な武装闘争を勝利的に展開するというものであった。こうして、労働者の抵抗党争の中から「遊撃隊」を編成し、大経営と山岳山村地帯に「根拠地」を持たねばならないとされ「山村工作隊」の組織化が指針された。

 この闘争形態に沿って全組織に「オモテ」と「ウラ」が作られ、前者が後者を地下から指導するという態勢をとることになった。地域闘争を強化し、自衛闘争を行い、遊撃隊をつくりだし、自衛隊との緊密な連絡の下に遊撃根拠地をつくり云々とされ、各地で火炎ビン闘争を発生させることになった。中核自衛隊の組織、戦術等が指示された武装闘争支援文書「栄養分析法」・「球根栽培法」等が配布された。同書にはゲリラ戦・爆弾製造の方法も書かれていた。この共産党の方針が学生党員に押し付けられ、全学連の方針もそれに影響を受ける事になった。

 こうした「四全協」の方針は、従来の行動方針の大転換であり、国際派の全グループを一挙に左へ飛び越すものであった。但し、今日においては「極左冒険主義」であったと総括されている。

 「分派主義者に関する決議」は、「スパイ分派の粉砕」を強調した。国際派らの反対派をスパイ.挑発者.売国奴.民族の敵として規定し、取り扱うこととした「臨中」.統制委員会の新方針を確認し、「スパイ分子の粉砕」、「全統委」的統一を主張していた党組織や党員への闘争を強調した。「なお党内に残る一切の分派主義者、及び彼らに通じる中道派分子に対する最後の勧告を行う」との決議を採択した。この全文を手に入れていないので詳細は不明であるが、ここに明確に宮顕グループらの国際派を明確に「スパイ」呼ばわりしていることが注目される。この時の「悪質分子は明白にスパイの正体をあらわすに至った」が単に反対派に対する罵詈雑言であるのか、一定の根拠を持っていたのかが詮索を要するところと思われる。

 ちなみに、この決議は8.10日コミンフォルム機関紙「恒久平和と人民民主主義のために」に掲載され、コミンフォルムは支持を声明している。その中で、国際派を分派と呼び、「正直な人々が多数いるが、国内を支配する複雑な政治情勢を理解できないで、敵の諜報機関によって党内に送りこまれ、意識敵に党を破壊している挑発者、スパイ、ずるがしこい冒険主義者の犠牲になっている」という見解を示している。


○、新しい中央指導部を選出した。同時に党組織の編成替えをも決定した。組織の重心を非公然体制に移すこととし、単一組織としてのビューロー組織を確立することにした。従来の合法面=公然機関の指導部、非合法面=ビューローという二重組織から、地下指導部がつくる非公然の中央ビューローの下に、地方.府県.地区.細胞群.細胞にも非公然のビューローをつくり、この各級ビューローが公然面の各級機関の指導を行うということになった。

 選出された中央委員は、1.徳田球一ト、2.野坂参三、3.志田重男、4.伊藤律、5・長谷川浩、6.椎野悦朗、7.紺野与次郎、8.松本一三、9.河田賢治、10.春日正一、以下丸山一郎、佐貫徳治、前田啓太、松本三益、遠坂寛、杉本文雄、水野進、田中松次郎、梶田茂穂、白川晴一らの面々であった。中央委員候補は、宮本太郎、小沢要、吉田四郎、西舘仁、桝井トメ、吉田資治。統制委員は、杉本文雄、岩本巌、田子一郎、竹中恒三郎。

 次第に志田系が伊藤律系を駆逐しつつあった。

○、大会は、党規約を改正して、中央委員会の権限を強化し、指導機関の選挙制の制限、統制委員会の中央委員会による任命等、従来の党内民主主義に更に制限を加える方向の措置を決定した。

○、この大会で伊藤律の機関誌活動を一切に優先させるやり方が強く批判された。独善的指導への反発が生まれつつあった。

(私論・私観) 武装闘争に至る経過の分析について

 社労党・町田勝氏の「日本社会主義運動史」では、この間の党中央の動きを次のように分析している。「一方、49年の総選挙で35名に躍進した共産党は『民主人民政権の問題は今や現実の問題』(野坂)と浮かれ、『九月革命』説などを振りまいて、たわいもない革命幻想に浸っていた。しかし、それも束の間、翌50年1月、コミンフォルムから衝撃的な批判が飛び込んできた。それは、『占領軍=解放軍』規定や『占領下平和革命』論の野坂理論は『日本の帝国主義占領者の美化の理論であり、アメリカ帝国主義称讃の理論であり』、『マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもないものである』という激しいものであった。

 このコミンフォルム批判の一撃で、党内は批判の無条件受け入れを主張する宮本、志賀らの国際派と徳田、野坂らの所感派(中国共産党の追撃で彼らもすぐに批判を受け入れるのだが、当初『その問題はすでに実践的に克服している』との『政治局所感』を発表したことから、この名称で呼ばれる)とに分裂して、その後5年間にわたる激しい分派闘争に突入していった。

 同年6月のレッド・パージ後、所感派は臨時中央指導部を作り、地下から、あるいは亡命先の中国からこれを操ったが、51年10月には第五回全国協議会を開き、悪名高い『五一年綱領』を採択した。スターリンに乞うて作成したといわれるこの新綱領は、日本をアメリカの『植民地・従属国』と規定、戦後の『民主化』や『農地改革』はすべて『いつわり』であり、戦前と大差のない体制が温存されているとして、中国革命方式にならって武力闘争による『民族解放民主』革命を提起した。そして、この荒唐無稽でアナクロニズムの新綱領に基づいて、中核自衛隊、山村工作隊などが組織され、火炎ビンなどによる極左冒険主義の馬鹿げた『武装闘争』が繰り広げられていった」。

 れんだいこはこの分析に満足しない。その一つの理由として、この当時の宮顕の動きを国際派的観点からのみ捉えている点について問題ありとしたい。既に何度も繰り返しているように、宮顕グループの動きは徳球党中央からの党中央簒奪を視野に入れてのあらゆる手段を通じての党内分裂策動であった。その後の動きないしは理論から見ても国際派的観点はマヌーバーでしかなかったことが判明しているにも関わらず、十年一日のようなこのような把握を良しとは思わない。

 二つ目の理由として、この当時の武装闘争路線は、結果の不出来は別として共産党が只の一度限りの暴力革命路線をまともに志向したことに関して「荒唐無稽でアナクロニズム」と批判している点について問題ありとしたい。敢えて言えば、社労党の左派的党是の根幹に関わる面であり、果たしてマルクス主義運動から暴力革命的要素を抜き去ることが可能であろうかということについてその見解を糾してみたい。

 この当時いわば敵階級は、そのブルジョア民主主義さえ公然と踏みにじり、党中央の追放から始まるレッドパージへと公然と暴力支配に踏み出していたことについてまさか認識の相違はあるまい。とすれば、支配階級が暴力路線に拠って来た時、プロレタリア運動はどのように対峙ないし応戦すべきかという課題が突きつけられていた訳であり、今日的に貴重な演題となっているとみなすべきではなかろうか。

 なるほど結果は無惨にも結末し、この時の経験一切が闇に葬られてしまって今日に至っている。非常事態として、少なくとも党中央が一致結束して事に当たらねばならないこの時に、宮顕−志賀ラインを頭目とする国際派が党内分裂策動に終始したことも含め、この貴重な経験を「アナクロニズム」呼ばわりする反動性について断固異論を提起したい。それは、武装闘争的暴力革命路線を称揚するという意味ではない。我が国の革命闘争において最も相応しき運動の創造という観点から、この総路線がなぜ成功しなかったのか多角的に研究する一級課題であるという点を強調したいということである。

(私論・私観) 伊藤律と志田の対立について

 伊藤律と志田の対立・抗争について、長谷川浩は次のように述べている。「私は九州にいましたが、潜行活動の4年間に3回上京しています。志田、律、椎野らは東京周辺にいたわけです。志田と律では肌合いも違うし、意見の食い違いもありました。一口で言えば、律は柔軟路線、志田はラジカルで硬直路線でした。当時、軍事方針をめぐっていくつかの問題点、対立点がありまして、意見の食い違いが出てくることは避けられなかった」。概要「軍事方針では、少数精鋭でやるのか大衆の武装闘争として取り組むのか、武力闘争は労働者が主力なのか、農民が主力なのか、農村でゲリラ闘争をやるのか、労働者階級のゼネスト武装蜂起で行くのか等々について、こうした問題で、志田と律が対立していました」。

【四全協における朝鮮問題の位置づけ】
 「日本共産党の当面の基本的闘争方針」の中に「在日少数民族との連携の強化」の一項目が設けられていた。そこでは「在日朝鮮人は日本の中の少数民族」と規定されていた。それは、「在日朝鮮人は外国人と位置づけるものではない。日本の中の少数民族で、日本革命の同盟軍である」というものであり、「日本革命を成し遂げることなしには、在日朝鮮人の問題は何一つ解決できない。在日朝鮮人の活動は、日本共産党の指導に従うのが国際的任務である、日本革命なしに自分の問題は解決しないことを理解して、祖国防衛運動をも日本への米軍支配との闘争、基地反対、再軍備反対、全面講和運動に結合すべきだ」という論理に立っていることを意味している。

 これに対し、「敗戦前の朝鮮は日本の植民地で日本の権力の支配下にあったが、敗戦後はたとえ南北に分断されても、朝鮮には自分たちの政府ができている。解放後は海外公民として、在日朝鮮人の地位が根本的に変わらなければならなかった」とする批判が為されている。

 民戦中央委員会は、この指導方針「在日少数民族」規定を廻って議論が展開されることになった。在日朝鮮人の側も民族問題の認識が不十分であったことを認めている。「われわれが朝鮮人の立場で民族問題を掘り下げる暇がなかったんです。総連の路線転換後(一九五五年以降)、朝鮮人はどのようにしていつから日本に来たのか、そういう初歩的なこともわからない」、「そのように基礎的な理論・調査活動がぜんぜんなかったといってもいいくらいです。だから、解放によって、朝鮮人の日本の中での民族的地位がどう変わったかということも、今でこそ言えますが、当時は考えたこともなかったのです」という反省がある(姜在彦「民戦時代の私」『体験で語る解放後の在日朝鮮人運動』神戸学生青年センター出版部、1989、143〜144P頁)。

 最終的に「在日同胞の当面する民族問題の焦点は、祖国防衛にあることを再確認し意思統一した」。
(私論・私観) 四全協における朝鮮問題の位置づけ」について

 「『日本共産党の当面の基本的闘争方針』の中の『在日朝鮮人は日本の中の少数民族』規定」につき原文を読んでないので判断しにくいが、当時の時代的認識の枠の中での評価と後付の評価とに方面から考察をせねばならないように思われる。戦後の革命闘争において、日朝共産主義者は緊密な兄弟党として相互に位置づけ運動を担ってきた。それは、日本革命と朝鮮革命が緊密に連動していることを受けての融合でもあったし、国際的共産主義運動司令部・ソ共の指示でもあった。この観点が常識的であった、という当時の流れを無視する訳にはいかない。この枠組みの中で、日共は日共的に朝鮮人活動は「祖防」と「民戦」で独自に運動を組織していたのではなかったか。

 これを今日的にみれば、そもそも朝鮮人は朝鮮人の自主・自律的な取り組むを為すべきであったのであり、日共とは共同戦線理論で交叉すべきであった、という反省を要するところではあるが、史実はそうはならなかったということを教えている。

【51年当時の党の方針の特質と要点 】

@、〈世界情勢に対する認識〉について

 この時期「冷戦時代」が朝鮮半島で熱戦に転化しようとする気配にあった。党にとっても、国際共産主義運動の連帯課題としてアメリカ帝国主義との戦いが緊急になりつつあった。こうして「日本の完全な独立、中立の確保」がスローガンにされていくことになったが、今ひとつ党に緊張感がかけたものがあったように思われる。

A、〈国内情勢に対する認識〉について

 既に 「GHQ」は「逆行指令化」に転じていた。党は、「民主主義的諸権利の擁護と人民大衆の生活安定」をスローガンとしたが、〈世界情勢に対する認識〉と同様今ひとつ党に緊張感がかけたものがあったように思われる。

(私論・私観) 「51年綱領」による「植民地又は従属国規定論」への転換について

 @.Aにつき 激化する国内外の諸情勢に対して明確さを欠いた対応が目立っている。徳球は、概要「日本共産党30周年に際して」で次のように述べている。「党の方針が不明確であった基本的な点は、党指導部が、敗戦後の日本が帝国主義国であるのか、それとも植民地又は従属国であるのかを明確にしなかったことである。植民地・従属国の革命と規定して、同志スターリンが明らかにしたその原則によらなかったために、基本的に問題を解決することができなかった」。つまり、現状分析による日本の国家権力規定において、「植民地又は従属国」論にシフト替えさせられたことになる。

 この「植民地又は従属国」論が一人歩きして、六全協後の宮顕党中央時代にも概要「敗戦によって日本は、高度に発達した資本主義国でありながらアメリカ帝国主義の支配に陥り、革命の戦略的展望が急速に変わりましたが、こうした過渡期の情勢の複雑さとも結びついて正しい綱領的方針を確立することができませんでした」(「日本共産党の45年」へと結びつく。これにつき田川和夫氏は、著書「戦後日本革命運動史1」で「だが、徳田球一のように植民地・従属国の革命といおうと、宮本顕治のように高度に発達した資本主義国の従属といおうと、そこから出てくるものは、社会主義革命の否定である」とズバリ指摘している。

B、〈党の革命戦略〉について

 天皇制を打倒するという主張がますます後退しスローガンから無くなりつつあった。政体についても不明瞭となった。

C、〈党の革命戦術〉について

 この時期先の総選挙での躍進に自信を深め人民政権の樹立を目指す闘争が呼びかけられ始めた。野坂の「平和革命コース理論」のもと急進的な運動を排斥する穏健路線が公式の見解ではあったもののにも関わらず急進化し始めた証左である。

D、〈党の当面の具体的な運動方向〉について

 議会主義への傾斜グループと大衆闘争グループへと党の運動が二極化しつつあった運動が、この時期「9月革命.人民政権樹立」に向けて歯車がかみあい始めていた。但し、宮顕グループは「民族の独立」が優先課題であると主張し、「GHQ」の占領下にも関わらず人民政権の樹立が可能であるかの見地は日和見的との批判を為し続けた。執行部内部の混乱が見え始めたということと、何かにつけて反対する宮顕グループの姿が浮き彫りになるつつあった。

E、〈党の大衆的指導理論〉について


(私論・私観)

 B.C.Dにつき但し、


E、(党の機関運営について)

 こうして、徳球と宮顕の対立は飽和点に近づき始め、徳球の「党指導における粗暴で節度にかける態度」がいっそう激しくなり、党機関の民主的運営は保障されず、指導体制内部の対立も深められる結果となった。この頃の徳球グループの実務は伊藤律が担当していた。伊藤律は、徳球書記長の秘蔵っ子的な期待を受けて党指導の矢面に立った。この経過は今日では次のように総括されている。「伊藤律は、こうした党の条件を出世主義者特有の敏感さでとらえ、徳田同志に取り入った。彼は自己の地位をかためるために、幹部間の不和を拡大することを意識的におこなった」、「こうして、徳田同志を中心とする家父長的個人指導の体制は派閥的傾向を強め、党中央の団結に重大な危険となっていた」。

 この頃の党機関(徳球主流派)の構成は次のようになっていた。

地下組織 @・海外組織・北京機関 徳田・野坂・西沢
A・国内地下組織 伊藤律、志田重男絵、紺野与次郎、春日正一、長谷川浩ら。
公然組織 B・国内公然組織 椎野悦郎、鈴木市蔵、聴涛克巳、河田賢治、輪田一造、杉本文雄ら。

F、(党の機関運営について)  

G、〈左翼陣営内における本流意識〉について  

H、〈青年戦線.学生運動〉について  

 5.5日日本青年共産同盟の運動を受け継いで「日本民主青年団」が発足。「民青団」は、党主流派所感派を絶対視することを強制され、軍事方針の下で工作隊となり、学生党員もこれに積極的に参加した。東京周辺の学生たちは三多摩の山奥にもぐり込んだ。民族解放革命を目標として、街頭的冒険主義に陥り、セクト化を強め一面サークル主義になった。

I、〈大会後の動き〉  



【宮顕派による「全国統一会議」結成される 
 前述の経過で「全統委」派は解消されたものの、今度は宮顕の直接の音頭取りで「全国統一会議」(「統一会議」)を組織した。「統一委員会」より本格的な動きとなる。宮顕の云う党の原則的統一とは、徳球系党中央の軍事方針を批判し、その為の大衆闘争を指導するという意味での党統一運動であったから、名前は「統一会議」であっても実際には「分裂の促進会議」的役割を担った。 かってのように党の統一を「臨中」との交渉に求めることを止め、「臨中」と徹底して張り合う形で大衆闘争を指導していくことを目指した。その意味では分裂の固定化であった。

 1.1日付けで機関紙「解放戦線」第1号が発行され、1.20日付けで「党活動」第1号が発刊された。それぞれ党中央側の「内外評論」、「党活動指針」に対応していた。宮顕の手になるものと思われる綱領的文書「新しい情勢と日本共産党の任務」が「解放戦線」第1号に掲載された。ここに独自の指導機関.機関誌.綱領的方針をもつれっきとした分派組織が生まれた。宮顕が頭目であることがはっきりし、非和解的な動きを強めることとなった。徳球執行部の新方針を極左冒険主義と断罪し、「民主民族戦線の発展の為に」などの方針を打ち出して対抗した。3.1日理論機関誌「理論戦線」が発刊された。

 「四全協」に対する対応をめぐって、「統一会議」派内は一枚岩ではなかった。春日(庄)は動揺した。宮顕は四全協を正式の党会議とみなさず、「党内闘争の新段階」を呼号しつつ一層精力的に活動を強めた。こうして主流派と宮顕グループを核とする「統一会議」派との全国的な党内闘争が激化していくこととなった。

【民戦の精力的活動】

 2.1日〜3.1日、「祖国防衛・日本再軍備反対闘争月間」が組織され、30余万の全面講和投票と17万余の強制送還反対署名を集め、日本人民の全面講和投票運動を大きく推進し、全面講和、再軍備反対闘争を政治的に発展させることに寄与した。この月間闘争では、府県としては京都府が、地域別では、川崎、松阪、滋賀県八幡、大阪東北、兵庫伊丹、下関、宮崎地区などが、広汎な大衆を基盤として成果をあげた。

 8.10日、民戦は引き続き8.10日〜9.10日を「祖国統一戦取月間闘争」を展開し、平和署名13万名、全国講和署名58万名、基金カンパ2773万円を集めた。

 8.15日、祖防全国委員会では「この歴史的な民族解放記念日にあたって、在日男女を民主統一戦線のもとに結集し、侵略者の排撃運動に参加する祖国防衛の行動を組織する」と宣言し、その祖防隊の規約、宣言、綱領を発表した。


【マッカーサー元帥とトルーマン大統領の対立】
 3月、国連軍最高司令官マッカーサー元帥は、「中国本土爆撃も辞さず」と声明し、中共政権そのものを崩壊させようとする戦略を用意し始めた。が、トルーマン大統領はそうした考えを「好戦的」と判断し、こうして両者は対立した。大統領には大統領の世界戦略があった。

 4.11日、トルーマンはマッカーサーを解任した。大統領はその声明で、「非常に遺憾なことであるが、私はマッカーサー元帥をその公的任務に関する事項に付き、米政府及び国連の諸政策に全幅の支持を与えることができない、との結論に達した。米国憲法が私に課した明確な責任と、さらに国連が私に与えた責任とに鑑み、私は極東における司令官の更迭をはからねばならないとの決定に達した」と述べている。日本人にとっては「寝耳に水」の「シビリアン.コントロール」を目の当たりに見せ付けられたことになった。

 この時マッカーサー71歳、二千日(5年8ヶ月)にわたって日本の戦後を支配した元帥は、連合国最高司令官、国連軍最高司令官、米国極東軍ならびに極東陸軍総司令官という総ての任務を解かれた。後任にはリッジウェゥイ陸軍中将が任命された。急遽ソウルから東京へ赴任し、マッカーサーと入れ替わった。離日に当たってのマッカーサーの言葉は「老兵は死なず、ただ消え行くのみ」。

 4.19日、上下両院合同会議の席上演説で、「私は日本ほど安定し、秩序を保ち、勤勉である国、日本ほど人類の前進のため将来建設的な役割を果たしてくれるという希望の持てる国を他に知らない」、「老兵は死なず、ただ消え行くのみ。あの歌の老兵のように、私は今軍歴を閉じて、ただ消え行く。神の示すところに従った自分の任務を果たそうと努めてきた一人の老兵として。さようなら」とも語っている。

 マッカーサーは、1951.5.5日、米議会上院軍事.外交合同委員会聴聞会で次のように述べている。
 「仮に、アングロサクソン族が科学、芸術、神学、文化の点で45歳だとすれば、ドイツ人はそれと全く同じくらいに成熟している(ほぼ同年輩である)。しかしながら、日本人は、時計で計った場合には古いが、まだまだ教えを受けなければならない状態にある。現代文明の基準で計った場合、彼らは、我々が45歳であるのに対して、12歳の少年のようなものでしょう(日本人はまだ生徒の時代で、まず12歳の少年である)」。

 マッカーサーは、国家的成熟度として「我々アングロ.サクソンが45歳なら、日本人はまだ12歳の少年である」と認識していたようである。この12歳の少年を何とか成人に導かんとして5年8ヶ月(65歳から71歳までの間)にわたって最高権力者として君臨した、というのは紛れようの無い史実である。

 マッカーサーはその後1964年84歳で死去。バージニア州ノーフォークにマッカーサー記念館。吉田は、次のように追想している。
 「もちろん元帥も人間である以上、評者によっては気取り屋であるとか、お高くとまっているとか、色々というものもないではないが、日本人を相当高く評価していた元帥を、占領軍の最高責任者として迎えたことは、何と言っても、日本の幸福だったと思う」。

【港湾労働者のスト】

 3.4日、大阪港で南朝鮮向けの米を積み込み中の軍船ヴィクトリア号の作業中に、アメリカ兵と労働者の間に争議が発生した。これがきっかけとなって、大阪の港湾労働者がストに突入。4.6日全港湾大阪地本の闘争宣言には、「我々は輝かしい闘争の伝統をもっている世界の港湾労働者に、決して遅れをとらず、全日本の労働者の先頭にたって闘う」とある。4.13日48時間スト、15日から無期限ストに入った。このために神戸港が完全に機能麻痺している。名古屋でも4.15日24時間スト、16日から無期限ストに突入した。この港湾労働者の闘いは、「戦争反対、平和の要求」という政治的闘争を帯びており、これが後の労働運動に影響を与えていった点で重要である。


【総評第2回大会開催】 

 3.10日、総評の第2回大会。高野派(総同盟・表見左派)と新産別派(総同盟・主流派)、総同盟刷新派(総同盟・右派)が激突し、ことごとく対立した。講話問題と平和運動に対する左右両派の態度が食い違い、規約改正問題、運動方針、行動綱領、組織問題、自由労連加入問題などで三案が持ち出され、紛糾を重ねた。

 議長に武藤を再選し、事務局長に高野実(全国金属)を選出した。

 概要「総評は発足に当たって、確かに反共という形で結束したものであったけれども、この第2回大会で方向転換を行い、いわゆる『ニワトリからアヒルへ』と変身した」(岩井章)。「大会の翌日、私は呼び出された。『総評大会が自由労連加盟の手続きをとらなかったことは遺憾である。平和4原則を決めたことは、政党支配に侵された証拠である。この決定は占領政策に反する』というのだった」(高野実「労働組合実践論」)。

【世界平和評議会日本委員会の動き
 2.21日、ベルリンで開かれた世界平和評議会第1回会議。「日本問題の平和的解決についての決議」を採択。「対日単独講和を結ぼうとする一切の企図を非難する。世界平和評議会は、講和条約は、中.米.ソ.英の間で、まず交渉され、その後、全関係諸国により採択されねばならないと考える。講和条約締結後、占領軍は即時、日本から撤退、日本人民に対する民主的平和的生活の保障、公然、非公然の一切の軍事組織と軍事機関の禁止、全工業の平時態勢への転換」を要望していた。

 3.27日、日本委員会は、平和擁護全国活動者会議を開いたが、常任委員会に対して激しい批判が出始め、執行部側は一方的に閉会宣言している。

【第11回目の昭和天皇とマッカーサーの会見】

 ●朝鮮の戦況質問

 マッカーサー元帥が米大統領に罷免された後の51年4月の最後の会見で、天皇は、極東国際軍事裁判(東京裁判)に触れ「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度につき、この機会に謝意を表したい」と語った。これに対し元帥は「私は戦争裁判の構想に当初から疑問を持っておりました」と語り、「ワシントンから天皇裁判について意見を求められましたが、もちろん反対致しました」などと述べ、裁判を求めた英国やソ連を「間違い」だと主張した結果、天皇が不訴追になった経過を明らかにした。

 朝鮮戦争さなかの51年5月に始まるリッジウェー会見で天皇は「(国連軍の)士気は」「制空権は」など一貫して戦況について質問。「仮に(共産側が)大攻勢に転じた場合、米軍は原子兵器を使用されるお考えはあるか?」とも尋ねていた。リッジウェー司令官は「原子兵器の使用の権限は米国大統領にしかない。野戦軍司令官としては何も申し上げられない」と答えながらも、地図を前に詳細に戦況を説明した。

 講和条約調印直前の51年8月の会見で同司令官は、日本が主権を回復したら国防上の責任を果たす必要がある、と指摘。天皇は「もちろん国が独立した以上、その防衛を考えるのは当然の責務。問題はいつの時点でいかなる形で実行するかということ」と述べた。続けて「日本の旧来の軍国主義の復活を阻止しなければならない」とし、「それにはまず軍人の訓練と優秀な幹部の養成だ」との考えを示していた。

 ■会見は計18回

 昭和天皇・マッカーサー会見は45年9月〜51年4月、リッジウェー中将(のち大将)との会見は翌年5月まで行われた。いずれも内容は秘密にされたが、マッカーサー会見第1回全文と第4回の前段については、作家の児島襄氏(故人)が通訳の記録を雑誌や著書に公表。第3回記録も国会図書館に保管されているのが見つかった。松井氏は死去の直前、会見内容のごく一部を産経新聞94年1月6日付朝刊で語っていたが、全容を示す手記は今回初めて明らかになった。(2002.8.1日朝日新聞記事「昭和天皇とマッカーサー元帥 占領期の会見詳細判明」


【「二つの共産党」による選挙戦
 4.23.30日、全国にわたって第2回一斉地方選挙が行われた。党は、都道府県議6名当選。市区町村議489名当選。この選挙戦で党の分裂が深刻な様相を見せた。大衆の面前で主流「臨中」派と統一会議派との抗争が展開されたのである。主流派は社会党の受け入れ為しに一方的に社共の「統一候補」として社会党候補者を推薦するという選挙方針をとった。東京都知事に加藤勘十を、大阪府知事に杉山元治郎を推した。

 統一会議派は、反帝の態度が曖昧な候補の推薦を無原則的と批判し、独自候補の擁立を促した。主流派がこれを入れないとみるや東京都知事に哲学者の出隆、大阪府知事に関西地方統一委員会議長の山田六左衛門を出馬させた。こうして両派による泥試合が展開された。戦前戦後通じて初めて「二つの共産党」が別々の選挙戦を戦うという珍事態が現出した。特に宮顕系の統一会議派は、主流「臨中」派の地方選挙方針を激しく批判しつつ、独自候補運動の正当化を喧伝した(「党活動」3.10日付け「革命的議会主義と当面の地方選挙闘争」他)。

 だが、統一会議系の独自候補擁立方針に対しては、同じ反対派の中から異論も出た。中西派は、機関誌「団結」紙上で、党内が別々の候補で争うことに反対し、選挙候補の統一を呼びかけた(「団結」第23号「地方選挙闘争の基本問題」他)。福本グループの「統一協議会」は、国会選挙以外の地方選挙は一切ボイコットせよと主張した。野田ら「国際主義者団」は、「平和綱領」を承認する候補者だけを支持せよと呼びかけた(「火花」3月第5号「地方選挙と日本プロレタリアートの任務」他)。こうして事態はますます混乱するばかりとなった。

 選挙戦を通じて、主流.国際派両派の争いは激化し、相互悪罵戦の泥仕合となった。党外大衆の困惑は不信と失望へと向かった。投票結果はそれぞれ惨敗となった。得票数等の詳細は公報したものを入手していないので分からない。

【主流派内に「自己批判書」騒動起こる

 「二つの共産党」による選挙戦が行われたこの頃の3月から5月にかけて奇妙な現象が主流派内に起こった。主要な地下指導者と椎野「臨中」議長たちの相次ぐ自己批判声明が発生した。3.25日付けで志賀義雄の「自己批判書」が口火を切った。「1−2月頃に旧全国統一委員会が解放戦線を発刊してはっきりと分派行動の再開に乗り出したのを知って、これと闘う気持ちになった」と、告白していた。

 次に3.29日付けで内山春雄名義の「自己批判」が発表された(内外評論4.5日付)。そこでは「軍事問題の従来の指導を誤りとして反省、今後は四全協軍事方針に従って闘う」としていた。党の非合法機関紙の責任者伊藤律の自己批判であった。伊藤律の党内基盤はこの辺りから下り坂に入り、反対に志田が浮上していくことになる。ゆくゆく徳球の跡目相続争いが必死となる。

 5.20日付けで森浩一郎名義の「自己批判」が発表された(内外評論5.31日付)。これは従来の機関誌活動の誤りを全党の責任者という立場から自己批判していた。伊藤律の「自己批判」と信じられたが、機関紙責任者の枠を越えて全党の最高責任者として党活動の全面的な反省を記した自己批判内容が含まれていたので徳球書記長のそれと推測された。


【民対全国代表者会議が四全協決定を確認】

 5.10日、民対全国代表者会議が開かれ、四全協決定を確認し、2月〜3月の「祖国防衛・日本再軍備反対闘争月間」運動の成果と欠陥を検討し、「在日朝鮮人運動の当面の任務」を決定した。

 行動としては、5.25日〜6.25日には「6.25一周年記念闘争月間」を設置し、そこでは五大国平和条約締結の署名運動が展開され、多くの署名を獲得した。とくに在日朝鮮青年たちは、国際青年学生平和祭をめざして平和署名運動を積極的にとりくみ、6.26日までに全国152万名の署名を獲得している。大阪では6.1日、全大阪朝鮮体育祭を真田山公園で開催したが、1万5千名の大衆を結集し、盛大な体育祭を挙行して民族的団結を示威した。


 5月、青年共産同盟の運動を受け継いで、日本民主青年団として発足。

【「宮本百合子葬」が盛大に執り行われる

 5.23日、「宮本百合子葬」が東京の共立講堂で開かれた。その葬儀には党から花環が送られたが、宮本百合子祭には、臨中からボイコット指令が出ていた。「『宮本百合子祭』を大衆的にボイコットせよ!」(51.4.18日「党活動指針」。ねじれであった。その論拠は、「百合子祭を平和擁護のカンパにアであるかのように言っているが、筋金の入った集会が、たとえ文学であろうと、平和のためのものであろうと、地域的な小集会に至るまで禁圧されているとき、百合子祭が許可されているということは、その性格が危険ではないという当局の認識があるのではなかろうか」(伊豆「真実と文学と人間性」)。「この催しの前後に平和のための集会を同じ共立講堂で行おうとして、二度とも不許可になったという話を聞いていた私は、それが許可されたばかりでなく、約3千人に近いその大会合に、一人の警官の姿も見えなかったということをきいて、驚きと怪しみの念にたえなかった」(岩上「蔵原の文化理論について」)。 


【社会主義協会が設立される 】
 6月、社会主義協会が設立され、雑誌「社会主義」が創刊された。社会主義協会の主要メンバーは、山川均、大内兵衛、大田薫、岩井章、高野実、清水慎三、岡崎三郎、高橋正雄、向坂逸郎らであった。このうち、高野実、清水慎三、高橋正雄、大田薫は分離していくことになる。次のように自賛している。
 「社会主義協会は、創立以来、つねに、極左翼とたたかい、社会党の右傾化、改良主義化に抵抗して、成果をおさめてきた。総評の健全なる発展に貢献するところも少なくない」。

 社会主義協会は他にも「理論戦線」、「唯物史観」を発刊する。その主張は、「マルクス・レーニン主義を、日本の歴史に具体的に適用し、日本における社会主義革命を達成することを、その使命」とし、次の諸点に特徴が認められる。1.社会主義革命を目指す。2・社会主義革命は武装蜂起路線を否定し、平和的移行により達成する。3・国家権力を奪取して生産手段を原則として国有にし、その土台のうえに勤労大衆の精神的、物質的福祉を増進してやむことのない計画的な社会をつくる。

【椎野臨中議長統一を呼びかける  

 こうした自己批判運動は、地下指導部からやがて合法公然指導部に及んで行った。7.6日椎野臨中議長は、「党の理論的武装のために、私の自己批判」を発表した(前衛.51.8月第61号、党活動指針7.30日付)。それは、これまでの理論軽視の自己批判であった。自己の理論水準の低さを反省し、これまでの理論軽視の傾向や経験主義助長の傾向を自己批判していた。こうして突如予想もされない 自己批判の連続的発表となった。一方で、分裂問題については、「統一会議」の動きに対して「分派」.「空論主義者」と呼び徹底批判を強めた。


【自己批判運動をめぐる国際派各派の対応
 反主流派各グループは、こうした主流派の自己批判の姿勢に様々に対応することとなった。この経過を見ておく。
 7.15日、まず宮顕が「欺瞞と歪曲の書」見解を発表した。
 7.16日、宮顕派が、都統一会議指導部名で、椎野文書への批判を声明。
 7.18日、宮顕派の関東統一会議が、椎野文書否定の上、統一申し入れ。
 これに対し、7.18日、春日(庄)らの関西統一委員会が、椎野文書の肯定的評価と統一の申し入れをした。7.19日、この文書を公表。
 7.20日、春日派の東北統一委員会が椎野文書肯定の上、統一申し入れ。
 7.25日、春日(庄)が「党統一闘争の発展のために」を発表。
 7.31日、春日派が東北統一委員会「全国ビューローの通達」に対する我々の見解を発表。
 8.1日、亀山が、「統一と解放」紙に、「椎野自己批判をめぐって」を発表。
 8.10日、宮顕派が、全国ビューロー機関紙「建設者」に「欺瞞と歪曲の書」の要旨掲載。
 8.13日、春日派の関西統一委員会が、復帰・統一を決議、8.16日それを公表。
 
 統一問題に対する態度を次のように整理することができる。相次ぐ党中央の自己批判の動きをどう受け止めるかの評価を廻って、宮顕派は、「徳田党中央の責任追及による『上からの統一』」、春日派は一応党中央への合流、中西.福本派は下からの統一、国際主義者団は主流派粉砕の新党コース、神山派は上から下までの組織的統一というふうに見解が分かれた。こうして党中央の自己批判は反対派内部に決定的な意見の対立を発生させていくことになった。

 これを図式化すれば次のようになる。
【統一支持派】
春日派 下からの統一 「統一会議」の指導部にいた春日(庄).亀山.山田六左衛門らは、この椎野文書を評価して4全協指導部の下での「一応中央への合流」という立場から党の統一に乗り出す動きへ転換した。「同志椎野の自己批判と我々の態度」を声明した。亀山は、7.30日付け「党の統一と大衆闘争の前進のために、同志椎野の自己批判に対する我々の態度」を発表した。
 春日(庄).亀山らの「団結派」は、まず反対派の各グループを統一して、次に主流派との統一を下から働きかける「下からの統一」方式を主張し、宮顕派の「上からの統一」方式論と対立した。
中西団結派
統一協議会派 福本等の「統一協議会派」は、始めは「国際主義者団」の見解に近かったが、徳球の自己批判を評価して統一の道を模索するようになった。
神山グループ 神山グループは、独自の立場をとり続けていたが、主流.国際派が代表をあげて会議を持ち、一定の協定をした後「上から下までの組織統一」により統一機運を促そうとした。
【統一拒否派】
宮顕派 全面否定
上からの統一
「統一会議」派の実権を握っていた宮顕.遠坂らの宮顕派は、あくまで全国ビューローこそ正統の革命的中央部とみなし、6.6追放以前すなわち「第6回党大会」決定の中央委員会の復活以外に全党統一の道は無いと主張した。7.15日「欺瞞と歪曲の書、同志椎野の自己批判について」声明を出した。「上からの統一」方式と云われるものであったが、最も現実的でない提案であった。つまり、宮顕グループは分党の徹底化を志向したということになる。
国際主義者団派 新党コース 「国際主義者団」は、統一はあり得ず「主流派粉砕の新党コース」による真の革命党の自前づくりを主張した。


【宮顕派と春日(庄)派との対立、訣別

 この過程で、同じ「統一会議」派内の宮顕系と春日系が最も鋭く対立し、この対立は深刻な様相を見せていくことになった。宮顕は自己批判について欺瞞的として否定的態度をとり、春日は肯定的に受止めようとした。この対立が深まり両者は決別していくことになった。関東と関西の間に違いが生じ、関東系は主として宮顕を支持し、関西系は春日を支持した。

 4月頃、春日は宮顕と訣別した。春日にすれば、全国統一会議の指導部があまりにも宮顕派に独占され、官僚化されたので、宮顕に見切りをつけて大阪へ移動し、主として関西を中心に活動することとなった。亀山も宮顕と決裂していた。5〜6月の時期に国際派の内部で潜行していた分岐と対立が顕在化し、下部組織まで含めて遂に袂を分かつまでに至った。

 宮顕派内の中でも、宮顕.遠坂派とその影響の強い東京都統一会議指導部は、「欺瞞と歪曲の自己批判−同志椎野の自己批判について−」を発表し、自派の主張と立場の正当性を主張し続け、次のように述べた。

 「党の輝かしい統一を回復するには、これらの部分的自己批判によって果たされるのではない。要は党中央を分裂させ、解体に導いたことについての率直大胆な自己批判の上に立って、その責任の所在を明らかにし、そして率先して党中央の団結のために献身の努力を払うこと」と、切り返した。概要「四全協を前提とした自己批判なるものはマヌーヴァーに過ぎず、統一を求めるのなら6.6追放=解体以前の中央委員会の復元という眼目を抜きにしては有り得ない」。

 これに対し、春日の反宮顕の非難が注目された。宮顕派の関東と関西の間に発生した食い違いに対して、関西派の態度が正しいとした。党の統一の好機であるとして、「上からの統一」方式と宮顕派の「第6回党大会の中央委員会回復せよ」の態度を「形式的正統主義」と激しく非難した。宮顕派に対し次のように批判した。

 概要「人民大衆の現実の闘争も全国同志のさんたんたる統一への努力をかえりみようとせずに、ただ形式的に正規の中央回復と正統主義を口先でとなえる『サロン的グループ』に堕落している」。
、「統一委員会を解体すると称しながら、実は裏でケルンと称する全国的組織を持つ腹背的態度こそ、人もおのれも欺くものだ」。

 前年来の宮顕のセクト的策謀ぶりを暴露し攻撃した。

 これを補足すれば次のようにも云っている。鹿児島事件と私 議論系掲示板投稿者:羽派・投稿日: 6月4日より、これにれんだいこが補足

 「我々は『相手』(徳田派のこと)を官僚主義,セクト主義,右翼日和見主義,無原則主義と攻撃しているが、目を一転して、自らの足下をみれば我々の側にもこれと同様のものがあり、更に、それよりも一層仕末の悪い空論主義、小ブルジョア的分派根性、その上に形式的正統主義という、余計な雑草がはびこっている。一部の指導的幹部の間には、人民大衆の現実の闘争に対する救いがたい無関心、実践的政治感覚のマヒが見られる。これらの同志は,かって正しい態度をとったということそれだけで今日においても彼らを正しいものとしていると錯覚している」。

 「形式的に言えば、我々はいわゆる正統派である。このような、自己批判を欠き、実践的土台を欠いた正統主義は必然に実質上、もっとも、性の悪い分派的セクト主義に陥らざるを得ない。なぜならば常に発展のない同じ立場にたって相手を批判・攻撃するだけであって、しかもその批判も自己の実践的土台を欠いているために、次第に抽象的・一面的たらざるを得ない。従って、その批判は、全党的観点から見た建設的なものとはなり得ない。このような形式的正統主義がもっともはびこっているところにおいては、我々の党組織は、大衆闘争から遊離し、しかも観念的気分的に革命的な、サロン的グループとなり、地下主義と結合してあらゆる種類の日和見主義が発生している」。

 「このような形式的正統主義は更に、我々のうちにおける官僚主義の根源となっている。それは、指令したり、任命したりすることによって、第6回大会の指導体制が維持できるように思っており、今日の党統一の運動が全国の同志の苦心惨憺たる努力によって維持され、発展されていることを知らない者である。何よりもこの形式的正統主義の致命的欠陥は、対所感派との対立において己の正しさを示すことに関心の中心が置かれていて、我々にとって無条件に且つ義務的に必要な大衆の闘争は勿論全党の統一を実践的に打ち出してゆくことに積極的な努力を払おうとしないことである。従って、このために、形式的に唱えられる一切のもっともらしきことは、それはそれだけのことであって、実際上においては逆の現象を生み出す」

 となって、例の「ケルン」の暴露へ続いて行きます。私はこれを読んで、宮本の「党活動」の特徴が非常によく捉えられていると感心しました。戦前も、60年代以降も、この人によってどれほど「もっともらしいこと」に聞こえるが実際は「実践的政治感覚のマヒ」した「空論」が唱えられ、党員達は苦労させられ組織は破壊されたことでしょうか。(「党統一闘争の発展の為に」(榊原宗一郎名義,1951年7月25日).日本共産党五0年問題資料集3(新日本出版))より。

【春日(庄)派の党合同の動き】
 こうして、春日は、「彼らの自己批判に見合って我々の側もこの際自己批判を示し、統一のための条件を成熟させなければならない」として、榊宗一郎名で「党統一闘争の発展のために」を発表した。春日に続いて春日(小)の影響力の強い関西地方統一委員会グループは、椎野の自己批判の積極的意義を認めようとする立場から7.18日、関西地方委員会議長・山田六左衛門も同様趣旨の文書「同志椎野の自己批判と我々の態度」を発表し、椎野自己批判の積極的意義を認めようとする態度を示した。「(椎野の)自己批判はすでに貴重な芽を含んでいる。それ故に我々はこれを歓迎し、これを正しく発展さすよう全力をあげて援助し協力しなければならぬ」と説いた。

 このあたりのことに関して、亀山氏の「戦後日本共産党の二重帳簿」)には次のように書かれている。
 「椎野自己批判によって所感派中央が、分裂の基本点について多少でも誤りを認めている以上、それは党統一の契機になりうるし、また『我々にも若干の反省すべき点はある』という考え方で一致した。そこで、我々はまず臨中側と話し合い、復帰・統一の方向をとることに決まった」。「椎野自己批判を『欺瞞と歪曲の書』と見るのは、見た人自体が、欺瞞と歪曲をいつも行っているからである」。

 8.14日、モスクワ放送が、8.10日付けコミンフォルム機関紙に「四全協、分派に関する決議」が載ったことを放送。国際派を批判した。
 8.16日、宮顕派の全国統一会議系の全国代表者会議(埼玉会議)が開かれる。
 8.18日、宮顕派の関東統一会議指導部が、モスクワ放送を受け入れ、組織解消を声明。
 8.19日、党中央が第20回中央委員会を開き、「新綱領」の提示と「党統一の決議」を行う。

【宮顕派分党の解体 

 こうしていよいよ宮顕系国際派は追い詰められ、分派組織の解体を呑まざるを得ないことになった。この時の対応は四コースに分かれた。これを図式化する。どのコースを取るかによって、各人各様の人間模様が生まれた。

@ 全面的自己批判による復帰コース派 @−@ 徹底的全面的な自己批判による復帰コース派 不破哲三ら。
@−A 敗北したので仕方ないとして形式的にも全面自己批判しつつの復帰コース派 力石定一ら。
A 部分的自己批判による復帰コース派
B ・自己批判を拒否し党への復帰もなりゆきに任そうとする派 武井昭ら。
C 本音は全面的に自己批判拒否であるが再再度党中央奪権目指して復帰する派 宮顕、蔵原ら。

 6月、第一次追放解除。石橋湛山、三木武吉ら政財界要人2985名の追放解除が行われた。更に8月、鳩山一郎、大麻唯男、緒方竹虎、前田米蔵、松野鶴平、松村謙三、河上丈太郎(社会党)、河野密(社会党)らが追放解除された。


【吉田茂内閣、第2次内閣改造を実施

 7.4日、吉田茂内閣、第2次内閣改造を実施。引き続き自由党単独内閣を形成し、増田甲子七幹事長、広川弘禅総務会長、吉武恵市政調会長の布陣で政局運営にあたることになった。佐藤栄作は、郵政相兼電気通信相として入閣。


【スターリン裁定為される】

 日本共産党問題がモスクワで討議された。8.12日前後、日本共産党の分裂問題についてスターリンも参加してモスクワで会議が開かれた。ソ共側は、首相兼ソ共党書記長・スターリン、第一副首相・マレンコフ、副首相兼内務省要人・ベリヤ、党政治局員・書記局員・モロトフ。中共側は、対外連絡部部長の王稼祥。日共北京機関からは徳球.野坂.袴田.西沢。反主流派からは袴田が幹部として呼ばれた(袴田の場合は国際派の代表として中国、ソ連に派遣されていたが、王稼祥に説得されて、「五一年綱領」原案を認めてこの会談に出席している。加えて、スターリンから自己批判書まで書かされた)。つまり、ソ共・中共・日共主流派・日共反主流派代表の一同が会したことになる。

 スターリンは、「統一会議」派を分派と裁定した。その理由として、概要「労働者は団結しなければ勝利できない。それなのに反対派をつくって、果たして勝利できるだろうか。このテーゼ(51年綱領)は我々も協力して仕上げたものである。この方針に基づいて、日本の党は前進して欲しい。袴田同志、日本の同志たちから聞いたところでは、日本の国内で分派闘争が激しく行われているという。良くない。すぐやめさせなければいけない。今度決まった方針(51年綱領)で党を統一して欲しい」と発言為されたことが伝えられている(袴田「私の戦後史」)。つまり、「何があろうとも分派は駄目だ」という最高判決が下されたことになる。

 こうして、スターリンは、「51年綱領」をよしとして採択させた。「原案は51.4月、北京機関の徳田、野坂、西沢らがモスクワに呼ばれ、スターリンの直接の指示と監督のもとに作成された。最後はスターリンが直接手をいれた。付帯文書の軍事方針も、スターリンが、朝鮮戦争の勝利を展望してつくられた」(不破哲三「日本共産党にたいする干渉と内通の記録―ソ連共産党秘密文書から(下)」(新日本出版社、1993年、99P)とある。

 かくて中国に渡った徳球指導部は、「51年綱領」で、従来の平和革命式議会主義から一転して武装闘争路線へと転換せしめることになった。モスクワでのスターリン裁定により、「主流派」が是とされ「国際派」が分派として断罪されたということであった。後日明らかにされたところでは、スターリンの前で徳球と袴田が是非を争って論争し、スターリンの一喝で袴田が自己批判書を書かされるはめになったということであった。

 こうして袴田は自己批判を発表した。その内容は、概要「昨年1月コミンフォルム」批判後、党内に起こった論争の経過の中で、当初は分派主義と闘いながら、後にはそれら分派主義者の一部の者と行動をともにし、且つその指導に参加するに至ったことは、この原則を破り、鉄の規律を破壊したことになる。(中略)私は明らかに全国的規模の分派をつくることに参加し、その指導にも参加したのである。」(地下機関誌「内外評論」)、「私は今後一切の分派と関係を断ち、分派根絶の為闘争する」というものであった。この時の袴田の自己批判書は、徳球系執行部の正当性を国際派が認めた貴重文書として意味をもってくることになる。「六全協」での宮顕式徳球系総括と齟齬をきたすこととなった。

 もっとも、徳球はこの「51年綱領」に満足していた訳ではない様である。「あの綱領は、スターリンの意見に基づいて、マレンコフが主としてまとめた。その意見をロシア語のできる野坂が翻訳し、更にその文章に西沢が手を入れた。おかげで、弱々しい、へんちくりんなものが出来上がったよ」と伊藤律にこぼしていたと伝えられている。但し、野坂がそれほどロシア語に堪能であった訳ではないのでやや真偽不明である。

 8.10日、「恒久平和」紙上で「四全協」の「分派主義者に対する闘争に関する決議」を支持的に報道し、「統一会議」派を「日米反動を利益するに過ぎない」分派活動として非難した。所感派を全面的に支持し、国際派を断罪するところとなった。

 8・14日には、共産党中央の第4回全国協議会の決議を掲載した。「所感派が勝利を呼号し、国際派に対して全面的な屈服を威丈高に要求してきたのと対照的に、国際派は一挙に打ち砕かれ、見るも無残に打ちひしがれることになった」(安東「戦後日本共産党私記」)とある。

 「統一会議」派は、この「論評」と決議を契機として総崩れとなり、「党の団結のために」声明を発表して組織を解体した。この論評を契機に中国地方委員会は解散し、党中央がわに復帰の態度を明確にした。足掛け9ヶ月で党内二党並立時代に終止符が打たれた。宮顕の「私の五十年史」は次のように記している。「私達は活動を中止し、結局組織を解散した。当時、まだ私達は、コミンフォルムの批判−ソ連共産党や中国共産党の批判を不可抗力視する傾向を免れていなかった。私は不本意だが、この状態で活動を続けても道理は通らないだろうと考えざるを得なかった」。つまり、党の内部問題に関する二度目の重大な干渉であったとされている。

 こうして国際派は主流派に復帰することになった。最左派= 国際主義者団は降伏し、団結派は解散大会を開いた。統一協議会も解散と自己批判をした。統一派の春日はゴマスリ的自己批判をし、宮顕は最後まで抵抗しつつ復党したとされている。


 亀山幸三氏によれば、この時宮顕の自己批判書は三度書き直しを要求されていると伝えられている。この際、蔵原、中野重治が同一歩調であったようである。この宮顕自己批判書は杉本文雄の手を経て志田のところに届けられたようである。が、公表されぬまま経緯し、その現物も闇に消えている。宮顕に限りこうした不自然な形跡が多すぎる。


【 党中央徳球派の党内整風運動と反発】

 こうしてスターリンとコミンフォルムの権威によって、反徳球派の圧倒的多数の人々は党中央徳球派に屈服することを余儀なくされる。が、この時主流派は、国際派に対して分派活動としての自己批判と「51年綱領」の承認と「四全協」の規約の承認を前提としたことから復帰自体も円滑に進まなかった。「その後も、幾度かの『分派狩り』が、総点検運動の名において行われた。右手に除名処分の剣を持ち、左手に慈悲の免罪符をかざしながら、手荒い説得と教育の三ヵ年が引き続いた」ようである。

 これにつき、宮顕は次のように云い為している。「党の統一回復を主張していた人々は、党中央委員会を解体した側がつくった不正規の指導機関のもとに復帰することにされたが、分派活動としての自己批判と51年綱領の承認が前提とされ、復帰自体も円滑に進まず、分裂による不正常な状態が長く続き、統一回復への一歩を踏み出すには、1955年7月の『六全協』をまたなければならなかった」。分派ではなく分裂時代として言い換えて論旨を整序している。「勝てば官軍」、何とでも云えるの好例であろう。


【 全学連中央=国際派の動揺】 
 コミンフォルムが所感派の方を正しいと裁定したことに拠り、全学連中執派のメンバーは非常に衝撃を受け、これを契機に再び多くの学生活動家は党中央の指導に服していくようになった。全学連内部の苦悩が頂点に達した。しかし、全学連委員長武井ら20数名は国際派の首領格であった宮本顕治グループと行動を共にする途を択ぶ事になる。宮顕復党後は更に混迷を深めていくことになった。

 安東氏の「戦後日本共産党私記」によれば、三つの意見に分かれたようである。一つは、自己批判と復党を急ごうとした流れであり、不破が急先鋒であった。力石は負けたのだから仕方がないとして復党に向かった。これが多数の流れとなった。宮本と軌を一にしていることが知られる。一つは、我々は基本的には間違っていなかったと反発する流れであり、武井と福田らが主張した。復党を拒否することになったが、これは少数派であった。さらに、三つ目の流れは、双方共に分派であったこと、所感派は悪い分派で、我々は良い分派であったことは譲れないむ。復党は流れに任せるという主張であり、安東らが主張した。復党拒否派は次第に孤立していくことになったようである。

【 「第20回中央委員会」開催、徳球派が「武装闘争路線」宣言する 】

  8.19−21日にかけて「第20回中央委員会」が秘密裡に開かれた。第19回中央委員会総会以来1年4ヶ月ぶりであった。講和会議が開かれる直前の時期であった。この会議の眼目は、反対派受け入れに当たっての無条件屈服要求方式を採用すること、後述する新綱領の下での全党の理論的統一を獲得することにあった。会議では、新綱領草案、「党の統一に関する決議」など5つの決議が採択された。「4全協」で採択された改正「党規約草案」も承認された。「党の統一に関する決議」では、反対派復帰に当たり徹底的な自己批判が要求される無条件降伏の道を採択した。

 会議では、「50年テーゼ草案」の処理に一言も触れることなく、突如として「日本共産党の当面の要求 新しい綱領(51年綱領草案)」が発表された。先の「当面する革命における日本共産党の基本的任務について」(徳田テーゼ)と様相をがらりと変えていることが注目される。これが「51年綱領」、「新綱領」と呼ばれていくことになった。政治史的意味は、中国共産党の革命成功観点からの綱領色が強められたことにある。後に明らかになったところでは、地下に潜行した年年綱領徳田.野坂ら主流派が、スターリンの指導と中国共産党の支持の下にモスクワで起草されたものと云われている。

 この当時の社会情勢を反映して進駐軍=解放軍規定はすっかり陰を潜める。「戦争後、日本は、アメリカ帝国主義者の隷属のもとにおかれ、自由と独立を失い、基本的な人権をさえ失ってしまった」、「アメリカ帝国主義者は、日本を新しい侵略戦争に引き入れようと努力し、そして、我が国を完全に破滅させ、無力にしようとしている」、「彼らは、日本を、自分の目下の同盟者として、これを新しい戦争に引き入れようとしている」、「吉田政府は、アメリカ帝国主義者による日本の民族的奴隷化のための政府である」、「吉田自由党反動政府を打倒し、そのかわりに、新しい国民政府を樹立しなければならない。これは、日本の民族解放の政府となるであろう」、「天皇制の廃止と民族解放民主政府の樹立」、「新しい民族解放民主政府が、妨害なしに、平和的な方法で、自然に生まれると考えたり、あるいは、反動的な吉田政府が、新しい民主政府にじぶんの地位を護るために、抵抗しないで、みずから進んで政権を投げ出すと考えるのは、重大な誤りである」、「吉田政府はこのような日本国民に対する闘争をすでに行い、共産党を地下に押し込めようと、労働者と農民の指導者を逮捕し、労働組合と農民組合を内部から破壊している」、「吉田政府に対し、国民の真剣な革命的闘争を組織しなければならない。すなわち、反動的吉田政府を打倒し、新しい民族解放民主政府のために道を開き、そして占領制度をなくする条件を作らなければならない。これ以外に行く道はない」、「この解放闘争の主力は、日本人口の圧倒的多数を占める労働者と農民であり、それは、労働者と農民の同盟である」。

 つまり、日本革命の展望として日本の解放と民主的変革を、平和の手段にやって達成しうると考えるのは間違いであると規定し、「暴力革命唯一論」の見地からの革命闘争への決起を呼びかけたのである。野坂の「平和革命論」との対極にあった。またこうも書かれていた。

 概要「この『新綱領』によって、現在の段階において内外の情勢と、国民の諸要求に合致して、出過ぎた社会主義への過渡的段階を闘い取る諸要求を引き下げ、まず民族の解放を全国民の力によって勝ち取るための民族解放民主統一戦線の発展と強化にこそ、すべての努力の集中点があることを理解しなければならない」。  

(私論.私観) 「51年綱領草案」の中ソ共産党の指導性如何について

 宮地氏の「北京機関と自由日本放送(藤井冠次)」で次のように明かされている。一方、徳田が律を必要としたのは、その年の夏、モスクワでスターリン指導下に新綱領を決定したが、同時に党の分裂をきびしく批判され、北京に帰ってからも、毛沢東から同様のきびしい批判をうけた。徳田は毛沢東にたいして、はじめ反対派の非を主張して抗弁し容易に聞き入れなかったが、それでも毛沢東から現下の時局(朝鮮戦争と抗米援朝の立場)では党の統一をすみやかに実現することが必要であると強く説得されて、まるで彼自身の自己批判を迫られたみたいに、書記長としての重大な責任を痛感した。

 スターリンと毛沢東とは、日共の武装闘争についても多少の意見の相違はあったが、戦略的には一致してその必要を認めていた。その限りでは、中・ソはまだ中ソ友好同盟条約にもとづいて蜜月であった時代である。そのことを立証するものとして、後にフルシチョフが事実を暴露して日共中央委員会にあてた公開書簡がある(タス通信・一九六四年七月二十日付第七八三号、「日本共産党中央委員会あて一九六四年四月十八日付ソ連共産党中央委員会書簡」)。

 これは、この前年(六三年)三月、日ソ両党代表間で会談がおこなわれた際、日共代表団が、朝鮮戦争当時、ソ共が五一年綱領と〈極左的冒険主義戦術〉とを日共に押しつけたのは〈内政干渉〉であるとして抗議したのにたいして、ソ連側でそのような事実はないと反駁したものである。書簡によれば、一九五〇年一月のいわゆるコミンフォルム批判の論文は「スターリン個人の発意で発表されたもの」であり、五一年綱領については、「その草案が日共指導者(徳田・野坂両同志その他)の諸君と、その直接参加のもとに、スターリン自身の手で仕上げられたものであること」を言明している。

 が、さらに書簡はつづけて、「この綱領草案とは別に、日本の同志たちは日共の戦術にかんする文番を作成したが、この作成には、ソ連共産党のうちだれ一人関係しなかった」としている。またこれに先立って、書簡は「(ソ共は)朝鮮戦争当時の日共の〈極左的冒険主義〉戦術とは何ら関係がないことを示した」と述べ、「このような戦術は、その大部分が中国共産党の経験(山岳地帯におけるゲリラ戦態勢、〈支援基地〉の設置など)の教条主義的なひきうつしであって、これには実際、ソ連共産党もなやまされた」などと述べている。

 フルシチョフの中ソ離間策と中共への責任転嫁の意図は明らかであるにしても、当時のスターリンと毛沢東とが、朝鮮戦争と〈抗米援朝〉の立場から、〈後方基地〉日本内地での武装闘争に日共の一定の役割を認めていたことは事実であろう。


【「山村根拠地建設」、各地での火炎ビン闘争が発生】

 こうした方針から「山村根拠地建設」、「自衛組織づくり」に向かうことになった。山村工作隊が組織され、各地での火炎ビン闘争が発生した。 志田重男がリーダーとして指揮をとった。「栄養分析法」 .「球根栽培法」等で中核自衛隊の組織、戦術等が指示された。

 この方針は、当時中国革命の勝利を背景にして、人民革命軍とその根拠地づくり、長期にわたる武装闘争によって勝利を獲得した中国共産党の経験を学び我が国に適用しようとしたものであったが、「中国の人民戦争の経験の機械的適用であった」と総括されている。

 ところで、奥吉野・奥有田に「独立遊撃隊」を作らせながら、数カ月で補給さえ放棄した。この無責任は各地の山村工作隊に共通しているようである。


【全学連中央委員会総会、この当時の学生運動】
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。

 8.26日、全学連は中央委員会総会を開き、50年以来の闘争の総括をした。分裂主義者にたいする決議と闘争宣言、「全日本学生へのアピール」を採択した。武井委員長が再選されている。

 この年共産党は、51年秋から、トロツキスト追放キャンペーンの激しさをました。


【講和条約締結前の弾圧

 8.14日、共産党機関紙20紙の発行停止。8.15日、全国一斉平和集会の禁止。8.16日、旧軍人を含む13000名の追放解除。8.26日、正規軍人20100名の追放解除。9.3日、GHQと政府は、講和会議を目前にして、占領政策違反の名目で党の合法指導部と残された「臨中」委員、国会議員その他に弾圧を加えた。まずは18名(椎野.河田.鈴木.杉本.輪田.保坂浩明.福本和夫.岩田英一.山辺健太郎.西沢隆二.岡田文吉.岩本巌.上村進.砂間一良.細川嘉六.堀江邑一.川上貫一.木村三郎)、9.6日にはさらに西館仁を加えたので合わせて19名の公職追放が命ぜられた。1年前の中央委員追放に続く党中央への弾圧であった。GHQの指示を受けた警察は、全国300ヶ所にわたって党の機関を捜査した。椎野等は既に事態を察知して地下に入っていたので、公然面に残された8名(岩田英一.堀江邑一.細川嘉六.山辺健太郎.福本和夫.砂間一良.上村進.川上貫一)が逮捕された。


 9.8日、特高関係者の追放解除。 


【講和条約締結
 朝鮮戦争、マッカーサーの解任等々対日講和を阻害すると思われた事件の出来にもかかわらず、講和への動きは着実に進んでいった。この頃朝鮮戦争は既に膠着状態に陥っていた。8.16日、講和条約草案の全文発表。8.22日、全権、全権代理及び随員が発表された。全権は、吉田茂首相、池田隼人大蔵大臣、苫米地義三民主党最高委員長、星島二郎自由党常任総務、徳川宗敬(むねよし)緑風会議長、一万田尚登日本銀行総裁。全権代理は、吉武恵市自由党政調会長、大野木秀次郎自由党参議員議員会長、松本六太郎農民協同党委員長、鬼丸義斎民主党最高委員。一応超党派の体裁を整えていたが、社会党.共産党抜きの「超党派」であった。随員として、宮沢喜一、白州次郎、麻生和子(吉田首相の娘)らが選ばれた。8.31日、日本全権団が羽田を出発した。

 9.4日より講和会議がサンフランシスコのオペラ.ハウスで開かれた。アチソン米国務長官が議長席につき、トルーマン大統領が開会挨拶した。参加国は52カ国。冒頭から波乱含み。ソ連代表グロムイコが発言し、概要「この米英草案は、平和の条約というよりは極東における新しい戦争準備のための条約である。これは日本軍国主義再建を防止する保障を含んでいないのみならず、逆に侵略国家としての日本復活の為の条件をつくっている」。こうして米ソの対立が露骨化した。吉田.トルーマン会議が持たれた。

 9.8日、単独講和平和条約が締結された。48(46)カ国が調印した。ソ連.ポーランド、チェコスロバキア、中国.インド.ビルマが調印しなかった。この条約の締結によって日本は占領統治体制から脱却し主権を回復することになった。

【日米安全保障条約締結】

 この条約の調印の5時間後日米安全保障条約が締結された。「平和条約の効力発生と同時にアメリカ合衆国の陸軍、空軍及び海軍を日本国内に配備する権利を日本国は許与し、アメリカ合衆国はこれを受諾する」。両条約は52.4.28日に発効されることにされていた。吉田首相は、「この条約は評判が良くないから、後の政治活動に影響があってはならない」として、彼一人が署名した。アメリカ側は、アチソン国務長官、ダレス顧問ら4名が署名した。署名前吉田は次のように声明している。

 「日本は独立と自由を回復した後、自分の力でこの独立と自由を保持する責任をとらねばならない。しかし不幸にして、未だ自衛の用意ができていない。で、米国が日本の安全は太平洋及び世界の安全を意味することを理解されて、平和条約後も暫く軍隊を日本に留めて共産主義者の侵略を阻止してくれることを欣幸とする。新たに独立した日本は、極東の集団安全保障に対する応分の責任を負うであろう」。

 10.26日、衆議院通過。自由党、民主党、社会党右派その他の307名が賛成し、社会党左派、共産党、労農党、その他の47名が反対した。11.18日参議院通過という経過で戦後日本の主権が回復された。「講和は占領の終焉であると同時に、独立国家としての戦後処理の新たな出発となった」。

(私論・私観) 「日米安全保障条約締結考」

 安保条約により日本の国際的立場はアメリカを盟主とする資本主義国家の仲間入りに向かうことが明確にされた。日米共同当局者によるアメリカ陣営組み込み、真実は、第二次世界大戦後の国際金融資本即ち国際ユダヤ裏政府の国際戦略に戦後日本を委ねることを意味していた。「日本共産党の65年」P141は、次のように述べている。
 「この二つの条約は、日本を形の上で主権国家としただけで、実際にはアメリカ帝国主義の半占領下におき、日米軍事同盟によって日本を無期限にアメリカの戦争計画にしばりつけた」 。

 この規定だけでは真実に迫れないが、おざなりなかような規定で納得するのが戦後左派運動の貧困と云える。

 ここで付言しておけば、吉田には自由主義陣営への確固とした信頼と共産主義陣営に対する不信が牢としてあったようである。「例のマルクス主義的世界観というか、米国を資本主義、帝国主義の権化と考え、その対外的働きかけをことごとく何らかの邪心ある行動の如く思いなす思想風潮」の鼓吹者としての共産主義者的見方の観点を否認しており、「共産政権誕生以来、ソ連は5千万人、中共は2百万の国民を殺したといわれる。人民を多数殺戮するような国に、何の進歩、何の発達、何の自由があり得るのか」と批判している。

 吉田首相のもう一つの意図は、日本の軍事費を節約して、経済再建に集中することにあった。2006.4.9日付日経新聞の「私の履歴書」の宮沢喜一氏のbX「安保、日本から瀬踏み」は次のように記している。
 「独立後も米国に安全保障を頼ったことには様々な批判があるだろう。しかしあの時の日本にそれ以外の選択肢は無かった。最小限の軍備にとどめ、余力を日本経済の再建に傾ける政策を貫く。それが吉田さんが選んだ路線であり、私は正しい判断だったと信じている」。

 2006.4.9日 れんだいこ拝

【台湾の国民政府を、中国の正統政権として認める

 この時、吉田首相はダレス国務長官の勧告を受け入れ、台湾の国民政府を、中国の正統政権として選んでいる。そうする以外、早期講和が難しい情勢によったと伝えられている。

 後日、吉田はこの時の気持ちについて、日本経済新聞社刊「日本を決定した百年」で次のように述懐している。「対日講和会議が成立した頃、既に、朝鮮戦線においては中共軍の介入から、戦況は極度に苛烈な状態に至っており、アメリカ国民の北京政権に対する感情は悪化の極致に達していた。従って、講和独立後の日本が、北京と台湾とのいずれを選択するのかの問題は、アメリカにとって特に重大な関心事となっていた。万が一にも日本が貿易その他の経済的利益に動かされて、北京政権との間に何らかの修好関係を持ち始めるような事態ともなれば、アメリカの対共産国政策は大きく動揺せざるをえない」、「台湾との間に修好関係が生じ、経済関係も深まることはもとより望むところであったが、それ以上に深入りして、北京政府を否認する立場に立つことも避けたかった。中共政権は現在こそ、ソ連と握手しているように見えるけれど、中国民衆は本質的にソ連人と相容れざるものがある。文明を異にし、国民性を異にし、政情も又異にしている中ソ関係は、遂には相容れないようになるに違いない。従って、中共政権との間柄を決定的に悪化させることを欲しなかった」。


【講和条約による独立如何問題考】

(私論.私観) 「主権の取り戻し」について

 歴史の流れを正当に見れば、講和条約によって日本は主権を回復したことになる。が、日本の最大左翼である日本共産党執行部はそのように見なかった。このミスリードが今日もなお続いている。「第5回全国協議会における一般報告」は次のように規定している。

 「アメリカの仕組んだサンフランシスコでの単独講和によって、我が国の状態は再び大きく変化し、その条約によって我が国はむきだしにアメリカに占領されることになった」()

(私論.私観) 「サ条約・安保条約体制」をどう見るかについて

 サンフランシスコ講和条約と日米安保条約は、日本資本主義の日帝化の方向を明示したものであった。その方向とは、アメリカ帝国主義の傘下で運命共同体となり、そういう日米同盟下での再建・発展を目指すという意思表示であり、「ヤルタ協定を機軸とする戦後帝国主義世界体制の一翼として自己を延命させた」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)とみなすことが正確であると思われる。この路線を敷設した吉田茂を敢えて歴史客観主義で評価するならば、「支配階級にとっての戦後史の最大の貢献者であり、『国葬』に附されるに相応しい業績を挙げた人物だということができよう」(田川和夫「戦後日本革命運動史1」)。

(私論.私観) 「サ条約・安保条約体制」をどう見るかについて

 吉田首相には次のような認識があった。

 「占領6年有余にして、日本は一日も早く独立を獲得せねばならぬ、とする私の考えはいよいよ強くなった。全面講和は理想としてはいいかも知れぬが、当時の国際情勢、殊に米ソの冷戦のもとにおいては、それは一場の夢に過ぎない。平和条約で独立は一応回復した。しかしこれは主権回復という意味での政治的独立であって、経済的独立には未だ前途尚遠しである。しかも、経済的独立に専念するためには、国の内外における安全が保障されねばならぬ。しかし、当時の我が国の経済状態は再軍備の負担に耐えるべくもない。況や、我が国の新憲法は厳として再軍備を禁じているにおいておやである」。

【山陰線鉄橋爆破計画】
 田中宇氏のマンガンぱらだいす」(風媒社、95年刊)情報によると概容次の通り。

 この頃、京都府下で日共武闘派(主として朝鮮人鉱山労働者ら)によるが「山陰線鉄橋爆破計画」、京都府精華町の「米軍弾薬庫爆破計画」、京都府日吉町の「天若ダム(八木町の発電所)爆破計画」ががあった、とされている。これに後の自民党幹事長・野中氏が関係していたと云う。50〜52年頃、日本共産党を上部組織とする組織、在日朝鮮人連盟(朝連)や在日朝鮮統一民主戦線(民戦)に参加していた在日朝鮮人らの証言で裏付けられる。マンガン鉱山労働者のイ・ジョンホ(李貞鎬)は、概容「(95年現在)自民党国会議員の野中も、当時はバリバリの共産主義者で、京都府S町の細胞(暴力革命の行動単位)のキャップだった。野中と一緒に細胞会議をしたこともある」と証言している。

 この背景には、朝鮮戦争の動きが絡んでいた。「京都府北部には戦時中日本海に面した重要な軍港だった舞鶴港があり、朝鮮戦争が始まると、そこから軍需物資が搬出され、朝鮮半島に上陸した米軍に補給された。そこで、当時京都府内にいた在日朝鮮人の共産主義者らは、米軍と戦う北朝鮮軍の支援には、米軍用の物資搬出を阻止するのが最善と考え、舞鶴港に物資を運ぶ山陰線の、鉄橋爆破を計画した」(田中前掲書、P.234)。

(私論・私観) 「朝鮮動乱時の野中氏の左翼性」について

 上記の史実を、野中氏の政治的致命傷とする観点から暴いているようであるが、れんだいこは逆に受け取る。この頃の野中氏をして左翼闘士として懸想させていた「時代の革命性」こそが真実だったのであり、それは野中氏のむしろ「誉れ」であると考える。真に考察すべきは、その後の野中氏の政治的変節過程であり、それを促した「時代の趨勢」ではなかろうか。野中氏は、1952.4月に京青連大会で最初の「反共宣言」を行い、左派決別の道へ歩みだすことになる。この種の政治的変節は野中氏に限らず多くの者に認められる。

 興味深い事は、彼らの多くは自民党ハト派系それも限りなく田中角栄グループないしその周辺に結集していくように見えることである。もっとも野中の権力掌握過程は、後にロッキード事件で解体の危機に瀕していた田中派瓦解の糸引き役を請け負った竹下派への食い込みであり、この限りでの「変節性」は問われねばならないと考える。


 2004.4.28日 れんだいこ拝


【労働者同志会結成される

 9月末、労組内のオール左派を結集しようとして「労働者同志会」が結成された。メンバーは、岩井・国労共闘部長、宝樹・全逓企画部長、平垣・日教組組織部長、大田・合化委員長、岡本・駐労委員長、市川・金属委員長、平林・全日通委員長等々であった。大田以外はいずれも30歳前後の若手俊英で、左派社会党を支える実戦部隊となった。


【警察予備隊の進化】
 10月、吉田政府とマッカーサーとの協議で、正規の将校不在のまま創設されていた警察予備隊に、旧軍の中佐、少佐クラスの軍人を400名ほど入隊させている。 52.6月にも元大佐クラスの軍人10余名を採用している。こうして次第次第に指揮官を増やしていくことになった。この間の流れは「泥縄式の編成であった」と云われている。しかし、師団の編成は米国式になり装備も米軍提供のものであり、大枠を米軍との強調に向かうことしか出来ない仕組みにされていた。

【反対派各グループ解体される
 8月下旬から9.10月にかけて、反対派各グループはなだれをうって解体していった。国際権威の異威力の前にスターリン裁定に一言の異存もなくその指導に従うことになった。徳田派の粉砕を叫んでいた国際主義者団がいち早く復帰の方針を定めた。8.23日「臨中」への「申入書」で、「自己の分派を一切の痕跡を断つまで解消させる」決意を述べた。スターリン裁定の効果であった。9月には団結派が解散大会を開いた。「論評に指示されたリン注の基本的正しさと反対派の間違いを無条件に認め、4全協とリン注を承認し、自らのグループ解体と無条件復帰申し入れとを確認した」(「党統一の勝利的発展と我々の態度」)。

【新「臨中」が任命される

 9.22日、小松雄一郎を議長に、塚田大願、梶田茂穂が新「臨中」に任命された。もっとも、このメンバーに実質的な権限は持たされなかった。


【統一会議が解散決議発表】

 10月、統一会議指導部は「党の団結のために」を発表した。「自分らの主観的意図にも関わらず、日米反動に利する結果になったことを認め、ここに我々の組織を解散するものである」と宣言した。こうして、春日は、宮顕は、関西や中国その他の統一会議系地方組織、国際主義者団、団結派、神山グループなど、いずれも組織の間解散を行った。中央指導部は、彼らの復帰に対して、新綱領と4全協規約の承認、分派活動の自己批判を容赦なく要求した。  こうした屈服を拒否したのは一部の新日本文学会、武井昭夫.安東仁兵衛らの全学連グループらであった。


(私論・私観) コミンフォルム裁定について

 こうしてコミンフォルム論評に始まった分裂はコミンフォルム裁定により解決した。国際プロレタリア主義の影響下にあったこの時期に置いては今日的な意味での自主独立路線は存在しなかったという歴史性があり、コミンフォルム裁定を単純に是非論でみる事は出来ない。しかし、今日から見て、党に与えたスターリン騒動とも云うべき一連の経過は、国際共産主義運動の見地からコミンフォルム論評の様な指導が許されるとした場合に置いても、スターリンの指示が極めて不適切であったと思われるきらいがある。このような観点からも捉え返されねばならない。党内問題に介入した不適切さと下した判断の不適切さという二重の誤りの観点から総括されねばならない。

 党内闘争に全エネルギーが奪われていたこの時期、党は、当面していた課題に対応することが出来なかった。朝鮮戦争の勃発から講和会議の準備に至る重大な転換期に、党は、内争にエネルギーを消耗し、大衆闘争を組織することも指導することも出来なかった。前年のレッドパージをはじめ、支配層の反動的諸施策が講じられているこの時に、かって 170万を越える強大な組織を擁していた産別会議が51年末3万数千名に落ちこんでいた。党外郭の多くの大衆団体がその基盤を失った。


【「武装闘争路線」の推進
 こうして主流派の下で一本化した党は、極左冒険主義に突入していくこととなった。とはいえ、9.3日の弾圧に対して党として反撃することはなかった。

 旧反対派の復帰は、下部機関の無茶な罪状告白式自己批判強要の為遅々として進まずといった按配で闘う素振りさえ見せることが出来なかった。
 

【伊藤律に代わって志田が党中央を牛耳始める
 この頃伊藤律は、地下の日本国内最高指導部の一員として宣伝面を受け持ち、機関紙発行を担当、当局のアカハタ発禁に抗して名称を変えたアカハタ継続紙を相次いで刊行していたが、五全協を前にしたこの頃機関紙印刷局で当局側に機関紙の発送先の全国住所簿を押さえられる打撃を受けた。五全協開催に当り、この問題が下部から集中的な批判を受け、伊藤律は窮地に立たされた。これが伏線となって、五全協で伊藤律が最高指導者の地位を志田に譲ることになる。

 この辺りの事情について、宮地氏の北京機関と自由日本放送(藤井冠次)が次のように記している。
 「律は前年(五一年)十月、第五回全国協議会で国内指導部(政治局)から解任され、その直後中国へ渡航を命じられた。失脚の理由は、主に彼が専任していた非合法の機関紙誌(「平和と独立」「内外評論」)における指導の独断専行、特に五〇年十月に、〈武装闘争〉をよびかける論文を独断で発表したためと見られているが、主流派が正面切って武装闘争を呼びかけたのはこの時がはじめてであり、これが新綱領の基本方針に照らして誤りではないにしても、朝鮮戦争のさ中でもあり慎重を要する発表に、集団主義を無視して発表したのが、志田とその周辺から〈挑発的〉と見られた。加えて、その後の五全協では、国際派分派グループの党(主流派)への復帰状況が審議されたが、主流派と分派との間には、分裂当時の悪名高い〈分派狩り〉(分派と見られる機関要員に除名から党活動停止にいたるさまざまの苛酷な追放処分がおこなわれた)が主流派への不信を招くしこりとなって残っていた。

 その責任が、主流派幹部であり書記局残留者である伊藤律に擬せられたのが重なって、律のスパイ容疑を強めたからと見られる。そのため、律とそのグループの失脚は殆ど一方的に志田派のイニシアティブでおこなわれ、これを察知した律は、志田の渡航命令にたいしても、はじめ頑強に抵抗したといわれている。律の真意はわからないが、彼としては、反面では徳田・野坂ら分裂以来行動を共にして来た首脳部から見放されて、内地に残された時からの残留の劣等感があり、〈分派狩り〉を理由に志田から追い落しをかけられる危険を感じたことは疑いを容れない。ついでに、形式的なことにこだわれば、この時の政治局は第六回大会で任命されたもので、分裂後も主流派の観念で踏襲されていたものであるが、志田重男と伊藤律は徳田・野坂と共に政治局・書記局を兼任していたが、志田重男は政治局員は律より先任であり書記局は後任であった。だから、形式的には、律は政治局を解任されても書記局員の資格は残るので、北京に着任して徳田に再会した時、忽ち息を吹き返して、書記局の存在と権威とを内外に誇示したくなったのであろう」。


【民戦中央常任委員会が、「在日全体同胞におくるアピール」を発表】
 10.3日、民戦中央常任委員会が、「朝鮮人強制追放陰謀に対して在日全体同胞におくるアピール」をだし、全国各地で人民大会がもたれ、兵庫県下里村、福岡市、神奈川県大和町、大阪市東成あたりでデモをともなう暴力的闘争が展開された。


【 戦後党史第二期】/ 【ミニ第B期】=党中央「四全協」後の新方針で極左路線志向

 分裂した党中央の旧執行部であった徳球―伊藤律系は1951.2.23日の「四全協」で武装闘争路線を採用する。この間伊藤律が党を指導したが、51.10.16日からの「五全協」で志田派に主導権を奪われる。以降、党中央は軍事路線に突っ走りことになるが組織された軍事戦にならずことごとく失敗する。やがて53.10.14日徳球書記長が亡命先北京で客死する。後ろ盾を失った伊藤律は失脚させられ、志田派のワンサイド天下になる。この期間を【 戦後党史第二期/ミニ第B期=志田派の軍事路線とみなすことができる。


【「五全協」開催

 10.16−17日にかけて徳球派は秘密裡に「第五回全国協議会」(「五全協」)を開いた。ともかく分派闘争の終結後の19中総以来初めての一本化された指導部の下での大会となった。会議の眼目は、新綱領(「51年綱領」)の採択や軍事方針の具体化、党規約の改正など党の前途を決定する重要な問題を討議することにあった。だが会議は主流派の強引な手法でリードされ、反対意見は全て分派主義者のレッテルを貼られて圧殺されると云う非党内民主主義的方法で進行した。

 新綱領「日本共産党の当面の要求」(「51年綱領」)とこれに基づく軍事・武装闘争方針「われわれは、武装の準備と行動を開始しなければならない」を採択した。「51年綱領」は、北京にいた徳田書記長が中国共産党の指導の下で纏め上げたものを、モスクワに飛び、スターリンの眼前でこの党綱領を決定したとのいきさつが伝えられており、「スターリン綱領」とも呼ばれている。この大会で明確にアメリカ占領軍に対する「解放軍規定」の残滓と決別し、革命の目標を民族解放民主革命であると規定した。その実現の為に暴力革命を盛り込んだ「新綱領」を採択した。武装した権力を相手に闘っているのだから武装の準備と行動を開始しなければならない、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成し得ると考えるのは間違いである」という武装闘争戦術の下、「51年綱領」を採択、軍事闘争路線に基づく各組織を着々と整備してゆくことになった。その結語は、「第4回全国協議会で基本的方針の決定を見た軍事方針について、今回さらにその具体的実践の方向を指示した武装闘争の方針もまた、全員の賛成を得た」。「中国のパルチザンには解放区という大きな根拠地があった。---しかし、現在の日本にはこのような地域がない」という批判に対して、「我々は国民の信頼を基礎とし、たとえ竹槍を持つても、敵より有利な条件を作り出し、敵に打撃を与える作戦を生み出さなければならない」と反論していた。
  
 「五全協」は、「新綱領草案の討議を終結するに当って」、「一般報告」、「規約の改正」、「結語」等々を採択し、他に「沖縄.奄美大島.小笠原諸島の同胞に訴える」などのアピールを採択した。決定は、11.1日付け「内外評論」に発表された。新綱領は、11.23日付けコミンテルンフォルム機関誌「恒久平和と人民民主主義」と11.24日付プラウダに掲載された。12.1日には北京放送からも放送された。国際的な支持と確認を受けた。

 「五全協」は、臨中議長に小松雄一郎、軍事委員長に志田重男を据えた。小松雄一郎の抜擢は、椎野以下19名がGHQの第三次弾圧で公職追放された対応策であった。 志田重男はこの大会で伊藤律に替わる軍事責任者として台頭した。

 新綱領は、中国革命の機械的適用で、当面の革命を人民民主主義革命でもなく社会主義革命でもなく、民族独立を第一義とし、それに反封建の課題を結びつけた「民族解放民主革命」と規定した。闘争形態としては、平和的方法ではなくて国民の「真剣な革命的闘争」が必要であると主張した。中国共産党の武力闘争方式を具体化していくこととなった。

(私論・私観) 新綱領の評価について

 新綱領が、民族解放の重要性を掲げたのは軍事占領体制下のこの時点では正しかった。しかし、講和会議で日本の独立が認められていく過渡的な移行期の流れの中で、旧植民地特有の武装闘争の方針が適切であったかどうか。

(私論・私観) 「四全協」.「五全協」の党史抹殺について

 ところで、宮顕は、自分の時代になってから、党史を書くとき、この「四全協」.「五全協」の存在そのものを認めようとしない態度を取った。現在の党史では、「徳田らは(四全協につづいて)10月には五全協を開いた。この会議も四全協と同じく党の分裂状態のもとでの会議であり、統一した党の正規の会議ではなかった」と総括されている。これを正史として認めると、自分の分派的行動が判明させられるからである。そこで宮本が作り出した苦心の論法が「党の分裂」という言葉であった。

 これについて神山茂夫は次のように云っている。

 「この「四全協」.「五全協」について、宮本君などは、それがあったことさえも認めない。その理由は、「六全協」で従来の文書は破棄するという決定をしたから、『四全協』.『五全協』も認めないと云うのだ。これでは極端ないい方をすれば、文書によって、党の歴史上から過去の文書を消し去り、実際にあったことさえ消してしまうことになる。それは出来ない相談である」(神山茂夫「日本共産党とは何であるか」)。

【志田体制確立される】

 この大会で、伊藤律は宣伝担当からも外され、権限を奪われた。後釜に座ったのが志田重男である。 


【「五全協」後の武装闘争】
 「五全協」直後、「内外評論」の「球根栽培法」に、新綱領に基づく具体的指針として「我々は武装の準備と行動を開始しなければならない」という論文が発表され軍事方針を明確にした。「われわれは直ちに軍事組織をつくり、武器の政策や、敵を攻撃する技術や作戦などを一般化する初歩的な軍事行動から着手し、さらに軍事行動に必要な無数の仕事を解決しなければならない」とのべられていた。ここでは、問答形式によって、労働者農民が軍事組織をつくる方法、抵抗自衛闘争が軍事問題発展の環である理由、パルチザンを組織することの可能性、軍事組織の活動の方法と内容、敵の武装力に対する内部工作の必要などを平易に解説していた。「栄養分析表」では、時限爆弾、ラムネ弾、火焔手榴弾、速燃紙などの製法、使用法の解説書などが、まかれた。

 まず党中央に、一般党組織と別個の「中央軍事委員会」が設けられ、関東、北海道、東北、中部、西日本、九州の6ブロックに、それぞれ地方軍事委員会が置かれた。その直接軍事行動の中心は「中核自衛隊」で、レッド・パージで職場を追われた若い労働者、尖鋭な学生党員、在日朝鮮人党員等で編成され、一般細胞の党員とは別個に厳秘に付されて組織された。

 更に、ゲリラ戦の根拠地設定の任務を指令された「山村工作隊」.「農村工作隊」が、職業党員や学生党員で組織されて奥多摩や富士山麓等の山岳地帯、或いは農村に展開していった。中核自衛隊は昭和27初め頃、約8千名といわれた。

 又、武器として時限爆弾、ラムネ弾、火炎手榴弾(キューリー爆弾)、タイヤーパンク器等の製造法を詳述した指令書は「球根栽培法」「栄養分析表」という秘密パンフによって流された。この様な秘密軍事論文で、中核自衛隊が「武器は敵から奪い取る」として直接行動を開始したのは昭和26年の暮頃からである。

(私論・私観) 歴史の皮肉について

 こうして日本共産党が初めて武闘路線による政権奪取を志向させた時、歴史の皮肉ということになるが、肝心の朝鮮戦線においては膠着状態に陥り、休戦会議が始まっていた。
国内の状況も、サンフランシスコ条約が締結されて、GHQもいなくなり、占領権力は表面上姿を消していた。つまり、党の極左武装闘争が宙に浮く運命にあった。が、暫くの間この戦術を転換させることができないまま突き進むことになった。


【全学連執行部内の所感派と国際派の指導権争い】

 10.6日、都学連において国際派執行部は辞任し、反対派に指導権を渡した。しかし、この時点では、全学連中執は国際派が掌握していた。


【祖防全国委員会指示】

 10.21日、祖防全国委員会は次のように指示している。

 「在日朝鮮人当面の闘争方針」で「敵の企図を粉砕する闘争は、単にわれわれの生命財産を守るだけの闘争ではなく、わが祖国の侵略を失敗させ、祖国と日本とアジアから米帝国主義を追放する祖国防衛闘争と、平和擁護の闘争であり、また、日本民族の解放を支援する闘争である。……この闘争を闘いとるためには、中核自衛隊の性格をもつ祖防隊の編成をすすめなければならない」。

 11月、祖防委全国会議では「祖防委の性格と責務および当面の方針」がだされ、本格的武装闘争を展開するようになった(朴慶植「在日民戦の活動と運動方針問題」『在日朝鮮人史研究』第7号、1980.12月号)。


【「五全協」後の歩み

 10.22日、中央への攻撃がそれ以上為されない様子を見て、臨中指導部議長に小松雄一郎を、指導部員に塚田大願と梶田茂穂の二人を届け出、一応合法中央機関の形だけを整える動きもみられる。 一方で、党に対する弾圧が次第に激しくなり、地下組織はもとより、公然面の各機関も、容赦のない捜索や検挙、取り調べを受けた。

 11.8日、「軍事問題の論文を発表するにあたって」という前書きを付けて、「我々は武装の準備と行動を開始しなければならない」論文が発表された。「これを単なる論文として終わらせるのではなく、実践のための武器にされんことを希望する」としていた(内外評論「球根栽培法」)。この論文の本文は一問一答式で述べられており、全部で十問から成っていた。中核自衛隊が構想され、軍事委員会を組織し、「民族解放・民主統一戦線」との結合を呼びかけていた。

 11.12日、京大で、京大学友会が天皇への公開質問状を突きつけ、約一千の学生が天皇裕仁の車を取り囲み、一個大隊の警官隊が学生を襲撃するという事件が発生した。これは京大細胞=所感派の準備と指導で取り組まれた。この事件に対する二つの見解が発生し、全学連中執は、概要「京大事件の本質は、最大の目標を再軍備におきその一切の政治的、経済的イデオロギー的手段を動員した、戦争放火者に対する日本学生の真情と良心を代表した闘いである」とした。日共主流は、概要「天皇事件を天皇制との闘いとし、戦後権力構成の一つとして戦略的打撃論に結びつけるべし」とした。

 11月、共産党.このころ「球根栽培法」「栄養分析表」など武装準備のための非合法出版物ぞくぞくと刊行し、このころより山村工作隊を組織し始めた。

 12.2日、都学連.新執行部による大会.全学連中執不信任案、可決。11月から12月にかけて、北海道学連、関西学連、東京都学連が相次いで全学連中執の不信任を決議し、この流れが翌年へと続いていくことになる。


 11.22日、「予備隊工作の当面の重点」、「警察工作の立ち後れを克服するために」などの論文が発表された(内外評論「球根栽培法」)。

 11.23日、ビラ「全学連中央執行委員会不信任決議(案)」=東京都学生自治会連合執行委員会.〃反帝闘争偏重、出隆かつぎだし、青年祖国戦線へのヒボーなど全学連中執の独善的指導にたいする非難、絶縁宣言〃。


 12月中旬、全国組織会議を開き、「五全協」以後の新しい情勢に対処すると同時に、新綱領の具体的な行動方針を討議した。この会議の眼目は、「当面の戦術と組織問題」を決定、意思統一して、実際に諸問題を規定することにあった。軍事方針の具体化に向かうこととなった。


【志田の画策による伊藤律の中国行き要請
 10月中旬の頃、志田と伊藤律の二人だけの会談の席で、北京からの徳球書記長の伝言なるものを伝えた。概要「伊藤律に北京に来て欲しい。来る来ないはキミ(伊藤律)自身で決定していい」とのことであった。伊藤律が「行くことにする」と答えると、志田は、「キミが北京に行く以上、党の政治局にいる必要は無い。だから政治局を降りろ」、「政治局の他の者(長谷川浩、椎野)には自分の口から云うから、云わないで欲しい。律さんのことは俺に任せてくれ、といっておくから」と云った。伊藤律が去れば「3人委員会」が崩壊し、国内指導部は志田の独裁になるのは目に見えていた。椎野はお人よしで、既に志田の言いなりに動いていた。「志田の陰謀」とまで伊藤律は言っている。

 こうして伊藤律は秋口の頃中国へ向けて密航している。伊藤律が去った後の国内指導部は、志田・椎野・紺野与次郎らが掌握するところとなった。


【伊藤律の北京機関へ登場の際の逸話

 北京機関に登場した際の様子が伝えられている。徳球書記長、野坂、西沢が歓迎してくれたが、野坂があれこれ日本の様子を聞き始めると、徳球が突如怒り出した。「正式な会議も開いていないのに。余計なことをしやべるな」と叱ったとのことである。その後徳球と伊藤律の二人きりになった時、徳球は次のように云った。

 「野坂は先輩ぶって君を抱き込もうとしている。政治路線の上でも、ちっとも改まっていない。個人的な話はしない方がいい」。
 「西沢とはもう縁を切った。俺は過去を振り返ってみると、西沢の為に随分毒されている。彼は俺の義理の娘と結婚し、孫が出来た。俺は長い間孤独な生活をしてきたから孫が可愛い。その情につけ込んで党内をかき回した。その為に今にして思えば、俺はもう少しで、誤まるところだった。彼を日本に返してしまおうか」。

 伊藤が「返したら危ない。何を言うか分からない」と答えると、「それじゃ、ここに缶詰にして仕事をさせないでおこう」と云ったと伊藤自身の口から伝えられている。

 徳球は更に次のようにも伝えた。

 「ソ連ではスターリン、中国では毛沢東、劉少奇が私を支持してくれている。しかし、北京機関を世話し、中共中央とを結ぶパイプ役の中共対外連絡部の人たちの殆ど(部長・王稼祥、副部長・李初梨、趙安博、張香山、王尭雲ら)は、野坂派だ。彼らは、延安以来の野坂との縁もあって、野坂を崇拝している」。

【社会党左右両派へ分裂

 10.23日、社会党第8回臨時大会が浅草公会堂で開催された。既に7月に対日講和草案が発表され、9月に講和会議がサンフランシスコで開かれたが、この間の平和(講和).安保両条約問題をめぐっての運動方針をめぐって左右対立を激化させた。左派は両条約反対の全面講和を主張し、右派は両条約賛成で多数講和を支持した。更に、中間派として「講和賛成、安保反対」論も飛び交った。

 この時の大会運営委員長は佐々木更三。大会は冒頭から荒れて議事に入れず、翌朝に閉会宣言が出されると同時に、左右両派は別々の会場で大会を続行、かくして両派は左派社会党と右派社会党へと分裂を遂げてしまった。こうして又もや左右に分裂した。国会勢力は、右派が衆議院29名、参議院31名。左派は衆議院16名、参議院30名。こうして、社会党は、昭和30年の再統一までの約4年間を右派社会党、左派社会党の分裂対立時代を迎えた。


【この頃の江田三郎の動き
 2003.2.22日付け毎日新聞の岩見隆夫コラム「近聞遠見」にこの頃の江田三郎の動きが次のように明らかにされている。
 「江田は当時、当選ほやほやの参院議員で、左派社会党の総務部長に就く。すぐに手がけたのが日刊新聞の発行だった。共産党が赤旗を持っているのに、社会党にないのは絶対にまずい、と一念発起した。周囲は、『無理だ、やめろ』と止めたが、江田は強引に進める。株式会社・社会タイムズ社を設立、文芸家協会会長の青野季吉に社長を頼み、江田が専務、取締役に清水幾太郎(社会学者)、高野実(総評事務局長)ら、監査役には左派委員長の鈴木茂三郎が座った。資本金1000万円を調達するため、江田は労組や高利貸しに借り歩き、自分の歳費まで前借した。第一号の社会タイムズ発行にこぎつけたのが52.3.1日、2ヵ月後に血のメーデーが起き、世上は騒然としていた」。

 当時の同紙記者・飯島博はのちに江田の回想録に次のように書いている。
 「編集局があった田村町のビルには、風早章、宇都宮徳馬、中村哲、安倍公房、太田薫、平塚らいてう、荒正人、松岡洋子、船山馨といった人たちが次々に現れ、談論風発していた。青二才の私などは目を輝かして聞いていたのを思い出す。そんな中で、江田さんはなりふり構わず飛び歩いた。便所の掃除もやる。工場にも行って職工の肩を叩く。広告も取りに行く。たたきあげの町工場のおっさんといった感じで、国会議員、農民運動の指導者、一橋出身のインテリとは凡そ無縁の人だった。朝早くから黙々と働いていた」。「だが、米国から高い印刷機械を購入したのが足かせになり、党員は党費を取られているのだからと購読料を払ってくれない。江田は倉敷市の自宅も抵当に入れたが、経営が行き詰まり、2年半でついに廃刊になった。『愚痴ひとつ言わずに後始末してましたね』と江田の死後のインタビューで、光子夫人が語っている」。

【サンフランシスコ講和条約の議会承認】
 10.26日、衆議院、講和(307対47票).安保(289対71票)で両条約を承認。

 11.18日、参議院、講和(174対45票).安保(147対76票)で両条約を承認。吉田内閣は批准書を作成し、11.19日、天皇の認証を得
、11.28日、アメリカに寄託、翌52.4.28日、発効となった。

【反戦学生同盟(反戦学同)の結成】

 11月、全学連国際派の系流が反戦学生同盟(反戦学同)を結成した。この時の武井委員長の意見書に「層としての学生運動論」が展開されているとのことである。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与するものに過ぎない」と学生の闘争エネルギーを過小評価しているのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」という学生運動を「層」としてみなすことにより、社会的影響力を持つ一勢力として独自的に認識するよう働きかけていったようである。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことになり、武井委員長の理論的功績であったと評価されている。


 11.25日、鹿地旦事件。


 12.7日、都学連大会において「全学連中執不信任決議」が為された。


 12.18日、警視庁練馬警察署印藤巡査殺害事件。


【吉田茂内閣、第3次内閣改造を実施

 12.26日、吉田茂内閣、第3次内閣改造を実施。首相・外相吉田茂、官房長官・保利茂、幹事長・増田甲子七(留任)、法務総裁・木村篤太郎、蔵相・池田隼人(留任)、文相・天野貞祐(留任)、厚相・橋本竜伍(留任)、農相・広川弘禅、通産相・高橋竜太郎(留任)、運輸相・村上義一、郵政・電通相・佐藤栄作(留任)、労相・吉武恵市、建設相・野田卯一(留任)、経本長官・周東秀雄(留任)、国務相地方自治・岡野清豪、国務相防衛問題担当・岡崎勝男、国務相警察予備隊担当・大橋武夫、国務相・山崎猛の顔ぶれとなった。

 この改造の意味するところは、講和条約という退任を果たした後も吉田続投で行くという長期政権担当宣言であった。ということは、追放が解除され政界に復帰した鳩山に禅譲しないという決意でもあった。「吉田の野郎、大変なクリスマス・プレゼントをよこしゃあがった」が、鳩山擁立派の思いであった。


【この頃の宮顕
 この頃の宮顕について、宮顕自身が「経過の概要」の中で次のように記している。
 概要「8.14放送(中共からの統一要請)後、別項の声明を発し、中央委員の指導体制を解体す。この間(期限付きで自己批判書の提出を求められこれに応ず。また)経過措置として、臨中側との交渉、地方組織の統合その他に他の諸同志ともにあたる。51年秋、地下活動に入ることを求められ、これに応じ、宣伝教育関係の部門に入れられることになったが、仕事を始めるに至らず、一、二週間して不適格者として解除される。以後、選挙応援その他で、時おり連絡はあったが、特定の組織的任務につくことなく、『こうして、私は、一党員として過ごすことになった』。『当時、党籍はあったが、党のどの組織にも属していないという、普通ならば有り得ない状態に置かれていた』」。
 「私は、二重の意味で、事実上政治活動を封じられていた。一つは、アメリカ帝国主義の公職追放令によって。同時に、1951.8月のコミンフォルム論評以後の事態の中で」。

 この時期に宮顕が為したことは、宮本百合子全集等の刊行とその解説書きであった。
 「この間文芸評論多数書く」。
 「このような新しい事情のもとで、結局、私は、1953年1月の百合子全集完結まで、毎巻欠かすことなく全集の解説を書いた。全集の評説は、私自身にとって、必要上、半世紀にわたる日本の社会思想、文化、文学の歴史の勉強になった」(引用元不明)。

 1975年4月号「文芸春秋」の「離反者たちの共産党論議」において、宮顕は次のように回顧している。
 「コミンフォルムが、1951年8月、この運動を批判する態度を取り、ソ連や中国の共産党も同様の態度を表明した。私たちの多くは、これに疑問と批判を禁じえなかったが、まだコミンフォルムなどを事大主義的にみる傾向にあったこともあり、結局この組織を解散し、活動を停止することにした。党の原則的統一を主張した運動は、このようにして挫折した。私はそれ以後、どの党機関にも属することなく、主に、1951年1月に死亡した宮本百合子の全集の解説、『人民文学』批判の書き下ろし論文、ジャーナリズムへの執筆などで暮らした」。

(私論・私観) この時期の宮顕の様子について

 この頃の宮顕の様子としてもう一つ重要なことが次のように伝えられている。元統制委員増田格之助氏は、「宮本はボクシング方式の減点法をとっていて、活動している同輩がミスを犯すのを採点していた」(高知聡「日本共産党粛清史257P」)と伝えている。その失点を握って、相手を押さえつけていくのが「六全協」後の宮顕の政治技術となる。果たしてこれは当人の性格とか技術の問題だろうか、何の意図があってかと思料すれば、私には胡散臭さばかりが見えてくる。





(私論.私見)