第12−2部 1950年当時下半期
中央委員会の分裂、執行部非公然体制に移行

 (最新見直し2006.5.8日)

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動論」の「第2期、党中央「50年分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動」に記す。

【 戦後党史第2期】/ 【ミニ第3期】=中央委員会の分裂、執行部非公然体制に移行
 「第十九回中総」の最終局面を迎えた4.30日、党中央委員会は分裂し、6.6日、「GHQ」の公職追放指令が出され、これを予見していた党幹部は地下に潜行した。

 
翌6.7日、名代として椎野悦郎を議長とする「臨時中央指導部」が設置されることにより党の分裂時代が始まる。これより52.2.23日より開催された「第四回全国協議会(「四全協」)」で武装闘争路線が採用されるまでの期間を【 戦後党史第二期】/ 【ミニ第B期】とみなすことができる。

【中央委員会の分裂】

 「第十九回中央委員会総会」では引き続き強められつつあった官僚的指導の克服が最終議題として予定されていたが、伊藤律が突然、日本共産党弾圧についての重大情報なるものを持ち込み、それを口実として急遽会議がうち切られた。会議の後、徳球は党本部近くのアジトで、野坂参三.西沢隆二.伊藤律.志田重男.紺野与次郎らを集めて、今後政治局員宮本顕治.志賀義雄を除外して、政治局員長谷川浩を加えて、非公然組織の準備をすすめることを申し合わせた。政治局内に党中央派フラクションが形成されたと云うことになる。

 こうして中央委員会委が瓦解した。その意味するところは、執行部が暴力的に反対派グループを排除したと云うことである。既に組織上何らの意思疎通も存在し得ないほど対立していたということであろう。党員数23万6000名と発表。

(私論.私観) 中央委員会の分裂について

 こうして政治局員宮本顕治.志賀義雄を除外しての非公然組織の旗揚げをどう総括すべきであろうか。今日の宮顕体制においては、この経過は、「これは党の組織原則に反して、党中央の内部に事実上の徳田派を分派的に形成する重大な誤りであり、政治局と中央委員会の統一的機能を破壊し、党解体、分裂の第一歩を踏み出すものであった」(「日本共産党の65年」P132)と総括されている。

 この観点に調和しているのが小山弘健氏の「日本共産党史・第2章」であり、次のように記されている。概要「党中央の分裂という前例の無い事態の根因は、どこにあったか。徳田派は、なぜ民主主義的な討議を通じて解決を図ろうとせず、勝手な分裂行動に出たのか。反対中央は、なぜこれを阻止して統一確保のために全党を動かしえなかったのか。これらの根因は、前にもしてきたように、共産党としての正しい党風や指導体制や機関運営が存在せず、中央から一般党員にまで十分その点の自覚も訓練も無かったということである」。

 しかし見てきた通り、徳球系と宮顕系の対立は既に非和解的であり、特に宮顕系をスパイ.撹乱者集団とみなしている観点からすれば、時局切迫の食うか食われるかの局面においては執行部のやむを得ない措置でもあった、とみなすことのほうが自然であろう。この状況認識抜きに徳球系執行部の方から分派したなぞと総括するのは形式主義の愚でしかなかろう。どこの世界に主流派のほうから分派する必要があるのだろう。

 次に、小山氏の論評は、この肝心なことへの言及が一切無い点でヌエ的な云い回しに過ぎない。徳球派よりする宮顕派へのスパイ呼ばわりが適正であったのか、あまりにも馬鹿げていたのか、その見極めをへて論評せずんば何の役にも立たない一般論でしかない。小山氏の傾向として濃厚な「批判しまくり評論」は、この肝心な点を問わない点で駄弁に過ぎない。れんだいこは資料的価値のみ認める。


【「GHQ」の公職追放指令、 「レッドパージ」 】

  遂に「GHQ」は、強権による共産主義者の排除に踏み切ることになった。こうして日本共産党が非合法化されることになった。ここに、戦後直後の共産党を戦後改革の重要な担い手と考え、一翼として助長させる政策から180度転回したことになる。

 6.6日、マッカーサーは吉田首相に書簡を送り、日本共産党全中央委員24名全員の公職追放を指令した。吉田内閣はこの書簡を受け、同日の閣議で即日追放を通達した。
追放されたのは、徳球.野坂.志賀.伊藤律.春日正一.神山.春日庄次郎.袴田.長谷川浩.伊藤憲一.亀山幸三.紺野.岸本茂夫.蔵原.松本一三.松本三益.宮顕.佐藤佐藤次.志田.白川晴一.高倉テル.竹中恒三郎.遠坂寛.野坂龍の24名である。

 
この時のマッカーサー書簡の内容が、6.7日付毎日新聞の記事「社会の崩壊を煽動、日本に破滅の危険」との見出しで、次のように報ぜられている。

 「現局面において占領を指導している思想は保護であって懲罰的なものではなかった。その目的と効果は日本の民主化を図る為の連合軍政策の目的とするところが、反民主主義分子の影響と圧力のために失敗に帰するようなことにはならないという保証を与えることであった。その適用の範囲は大部分、その地位と影響力から征服と搾取への冒険に導いた日本の全体主義的政策の責任を負った人たちを包含した。

 しかしながら最近になって新しい、しかも以上に劣らず有害な団体が日本の政治舞台に入り込んだ。彼らは真理を枉げ、大衆の暴力行為を煽動することによって、この平和で穏やかな国土を代議的民主政治の途に沿っての日本の顕著な進歩を阻止する手段として無秩序の闘争場裏に化し、日本国民の間に速やかに成長しつつある民主主義的傾向を破壊しようとしてきたのである。彼らは一致協力して憲法上の権威に対し挑戦し、法と秩序を無視し、誤まった煽動的な言辞と破壊的手段によって社会的混乱を引き起こして、結局は日本の立憲政府を暴力により転覆せしめるごとき社会不安を引き起こそうと努めた。

 彼等の弾圧的な方法は過去の軍閥指導者が日本国民を欺き誤導した方法と酷似しており、彼等の目的がもし達成されたならば、一層悪い災厄に日本を導くことは確実であろう。この無法状態に煽動する行為をそのまま続けさせておくことは、たとえそれが今は萌芽的のように見えていても、遂には日本の民主主義制度を抑圧し、連合軍がこれまで発表してきた政策の目的と意図を直接に否定し、日本の政治的独立の機会を失い日本民族の破滅をもたらす危険がある」。

 翌6.7日、マッカーサーは吉田首相に第二書簡を送り、17名(聴涛克巳主筆.高橋勝之編集局長等)のアカハタ編集委員を6.6日の追放リストに加えるよう指示した。かくて、アカハタ編集委員が公職から追われた。


【党幹部非公然体制に入る 】

 徳球等は6月から7月にかけて地下に潜り非公然体制に入った。主流派の9名の中央委員(徳球.野坂参三.志田重男.伊藤律.長谷川浩.紺野与次郎.春日正一.竹中恒三郎.松本三益)が行動を共にした。伊藤律は、6月中旬小松雄一郎(2代目臨中議長)の手配で、東京・恵比寿の秘密アジトに潜行した。宮顕.志賀らの反主流幹部には何の連絡もせぬまま置き去りにしたままの地下潜行であった。強い不信があったということである。地下に潜った徳球党中央は後事を椎野に託した。増山太助によると、この時徳球は、「このことは宮本には云うなよ」と念を押しているということである(「運動史研究5」)。こうして非公然の「中央ビューロー」 を組織した。野坂は表向きの窓口代表に残った。

 宮顕系党史論では、この時の非公然体制化を次のように批判している。「この弾圧に対して、徳田等は、正規の政治局会議や中央委員会をひらいて党中央の意志と統一をはかり戦う処置をとらず、これをやることを求めて党本部に宮本.神山が訪れたが、徳田派はまともに対応しなかった。徳田派は、意見の違う7人の中央委員(志賀義雄.宮本顕示.蔵原惟人.袴田里見.春日正次郎.亀山幸三.神山茂夫)を排除して、一方的に地下に潜って連絡を断った」。

 しかし、置いてきぼりで残された中央委員が、「孤立し自前の有効な対応を組織し得なかった」とすれば、それはまたそれでおかしなことである。

 袴田の「私の戦後史」によって、この時の国際派の動向が次のように明かされている。

 「公職追放を受けた者は、政治活動は禁じられていたが、後は所在さえはっきりさせておけばよかった。法務府特別審査局から出頭命令があつても顔を出しておけば問題なく、私たちは地下活動をする計画がなかったから、ほとんどが出頭に応じていた。これに反し、地下に潜行した徳田派の9幹部には、不出頭の理由(団体等規制令違反)で、逮捕状が出された。もっとも、公安にすれば、国際派幹部とていつ地下に潜るか分からないわけだから、見張りをつけることは忘れなかった」。
(私論.私観) 「袴田証言」について 

 袴田には認識がないようであるが、国際派が如何に公安筋と友好関係にあったかを証左するものではなかろうか。

【臨時指導部設置される

 追放命令は20日間の事務引継の猶予期間を与えていたが、党はかねてよりの手筈に従い6.7日徳球グループが地下に潜り、同時に手筈どおりにアカハタ紙上に、統制委員会名で、「共産党は人民と共に不滅である」を発表して弾圧に屈せず闘う宣言を発表する一方で、椎野悦郎を議長とする8名(輪田一造.杉本文雄.多田留治.鈴木市蔵.聴濤克巳.河田賢治.谷口善太郎)の「臨時中央指導部(臨中)」を確立し、「『臨時』指導部の任命について」を発表した。同時に「1950年6.6ファッショ的弾圧による中央委員会全員の追放に伴い、中央委員会の機能は実質的停止のやむなきにいたった」として、中央委員会の事実上の解体を是認した。

 この「臨中」の下に地方委員会、都道府県委員会、地区委員会、細胞に至るまで合法組織と非合法組織の二重組織が確立されていくことになった。こうして今後は「臨中」が中央委員会に替わって時局の対応に向かうことになった。以降弾圧の下で闘う党の非公然体制を準備する方針を具体化していった。

 この時期、椎野は次のような声明書を発表している。

 これらの分子は同志志賀の「意見書」の周りに結集し、徳田及び野坂に対する闘争を組織している。かように彼らは支配階級と一緒になって我らの指導者を攻撃している。(中略)

 彼らの活動は明らかにトロツキスト左翼機会主義者のそれである。戦闘的国際主義の仮面の下に彼らは国際主義を日本人民の利益から切り離して見ることによって、且つ又我々の闘争が国際独占資本にのみ向けられることを主張することによって日本の権力の一構成物である反動勢力を援けているのだ。(中略)

 彼らは戦略を国際主義の上に置くという口実の下に党の全面平和の要求に反対し、ソビエト同盟及び中国との分離的平和条約を支持する。国際独占資本と闘争するというごまかしの下に彼らは党を大衆から切り離す暴動的行動に向って扇動する。

 第18回中央委員会全員会議に続く3ヶ月の結果は、これらトロツキスト分子が活動したところでは何処でも党は大衆からますます孤立するようになった。(中略)そして闘争は不成功だった。しかし第18回中央委員会全員会議の決議が行われた地区では、同志志賀の見解とは反対に広汎な統一戦線が現われている。(中略)この統一戦線は人民の独立と平和の擁護を目標として、その日常闘争は民主主義人民戦線形成の主要な土台となっている。かくして労働者のヘゲモニーは確立され、党の力は増大する。(中略)

 我々は外国の党の経験から学び、日本に於ける新しいトロツキスト分子を粉砕しなければならぬ。

 この時か少し遅れてか不明であるが、地下指導部が形成され、志田重男が組織・人事を、伊藤律が非合法機関紙を分担することになった。小松雄一郎は機関誌部長に任命されている。 


【朝鮮共産主義者の自律化の道
 レッドパージは、共産党の指導体制を混乱させた。民族対策部(民対)に依拠していた朝鮮共産主義者はこれにより独自の指導主体を確立せざるをえなくなった。これより、朝鮮活動家のそれまでの日共との蜜月時代が終わり、自律化していくことになる、という思わぬ副産物を生むことになった。

【宮顕、九州より帰還する
 徳球らの地下潜行とは逆に、宮顕は九州から帰還したようである。宮本「私の五十年史」は次のように述べている。
 「1950年6月6日、私は福岡で、マッカーサーの命令で吉田内閣からの執行として、日本共産党中央委員全員の追放という、ニュースを聞き、急ぎ東京に帰ってきた。直ちに党本部に赴いて徳球書記長等の政治局のメンバーとの連絡を求めたが、要領を得なかった。まだ政治活動の自由を合法的に認められている二十日の猶予期間内に、政治局.中央委員会を開いて今後の措置について協議すべきだと主張し、その後も引き続き本部に赴いてこれを主張したが、状態は変わらなかった。そのうち、統制委員の椎野悦郎を議長とする臨時中央指導部なるものが設けられて、我々と連絡を切っている政治局員たちがその背後に居るということが話されるようになった」。
(私論.私観) 宮顕の九州からの帰還について

 この文章から読み取れることは、宮顕がドサクサの中で東京に立ち戻り、徳球系党中央の一糸乱れぬ対応策に棹差している様子である。宮顕の云うように「二十日の猶予期間内に、政治局.中央委員会を開く」ことが可能であったか、必要であったか、「そのうち、統制委員の椎野悦郎を議長とする臨時中央指導部なるものが設けられて」の記述は虚偽であり、党中央は即刻かねての打ち合わせ通りに「臨中」を設置しているというのが史実である。

 日頃、機関決定の拘束を重視する宮顕の弁からすれば、宮顕の帰還は任務放棄ではなかろうか、という疑惑も残る。ということは、万事自身のことになると適用除外という便利な規定を設けていることになろう。

【党中央分裂】
 これを他方から見れば、党の統一的機能は破壊され、党は事実上解体され、党の分裂を決定的にしたということでもあった。こうして以後5年間の分裂時代に入っていくこととなった。追放命令は20日間の事務引継の猶予期間を与えていたから、この間に政治局会議.中央委員会総会などを開いて、指導の新体制について意思統一をし、具体的に後継体制の処置をしておくことも理論的にはできた。しかし、中央委員会の分裂状況からして主流派は徹底的に宮顕グループとその息のかかるグループを排除したまま事を遂行した。こうして「この発表は統制委員会の任命という規約にない形式で為された」ことにより、反主流派の執行部批判の口実を与えることになった。

 なお、統制委員会名で発表するのであれば議長だった宮顕を関与させる必要があったが、当然の事ながら宮顕に諮らず統制委員会の会議がひらかれていなかったということで「二重の意味で違法行為」として宮顕グループに執拗に攻撃されることとなった。「『臨時中央指導部』は中央委員会の解体であり、解党主義であり、分裂主義である」、「(執行部自ら中央委員会の機能停止是認する)このような見地は、マッカーサーの命令を党大会の決定、党規約に優先させるまったく明白な誤謬であり、党の民主集中制の原則に対する重大な解党主義の誤謬であった」(P134)と攻撃された。

(私論.私観) 党中央分裂の責任について

 宮顕グループによるこれらの批判を状況から見れば、為にするあまりにも形式的な論拠でしかないであろう。この時執行部は既に宮顕グループと決別していたのであり、宮顕グループに相談することを意識的にしなかったのであるから、そのことを批判するということ自体無意味な批判でしかないであろう。

 そのことと、既に事態は非合法化の最中である。その対応策を党の機関で公然論議すると云う手法はあり得にくい。そんなことをすれば、当局に情報が筒抜けになってしまう。つまり、宮顕グループの批判は為にするものでしかない。ちなみにこの時の党中央反対派の面々とは、志賀、宮顕、神山、袴田、春日(庄)、蔵原、亀山、遠坂良一らであった。 


 志賀の「日本共産党史覚え書」は次のように述べている。

 「1950年6月、私は、徳田球市野坂参三とともに、アメリカ占領者から無法にも追放された。だがその時、徳田・野坂らは巧みに地下に潜った。私や宮本顕治、春日庄次郎は地上に取り残された。宮本は、徳田らを『不当に中央委員会を分裂させたもの』と非難して、統一委員会をつくった。あの場合、党中央の責任者で多数派の先頭に立っていた徳田が、コミンフォルムの野坂批判を認めた以上、急速に朝鮮南北の対立が激化し、日本を基地とするアメリカの戦争が不可避な情勢のもとで、分裂した中央委員会全体の会議を待たずに、徳田・野坂らを地下にもぐらせたのはやむをえなかったと私は考えている。だから、追放後も法律上与えられた20日間の善後処置期間に、中央委員会が集まって協議すべきだったという宮本の主張は、手続き拘泥論であった。そんなことをしていたら、徳田も宮本も全員が逮捕されたことは間違いない」。

【 50当時の党の方針の特質と要点 】

@〈世界情勢に対する認識〉について
 
この時期は「朝鮮動乱」直前の気配にあった。アメリカを盟主とする資本主義陣営とソ連.中国を盟主とする共産主義陣営の代理戦争が火を吹こうとしていた。党は、世界共産主義運動の連帯課題として、「民族の独立」の課題からアメリカ帝国主義との戦いに急転直下向かうことになった。

A〈国内情勢に対する認識〉について

 完全な主権の回復という立場から全面講和を呼びかけることになった。全占領軍が撤退することを要求し、民主民族戦線政府の樹立をめざすことになった。「世界戦争体制にまきこみつつある帝国主義と、これに奉仕する国内の売国政府の政策に対して、全愛国者は、世界の平和勢力と提携しつつ、全力をあげて反対し、闘争しなければならぬ。これ以外に、わが民族の生きる道はないのである」とした。

B〈党の革命戦略〉について

 この時期天皇制の問題はほぼ消失した。民主民族戦線政府の樹立が課題となった。

C〈党の革命戦術〉について

 急進化し始めた。

D〈党の当面の具体的な運動方向〉について

 従前と異なり、議会主義が大いに糾弾された。大衆闘争に向けて党の運動が一本化されていくこととなった。

E〈党の大衆的指導理論〉について
※B.C.Dにつき但し、
F(党の機関運営について)  
G〈左翼陣営内における本流意識〉について  
G〈青年戦線.学生運動〉について
H〈青年戦線.学生運動〉について  
I〈大会後の動き〉
 


【共産党の都委員会がトロツキスト全学連中央追放を発表】
 6.1日、共産党の都委員会声明「全党員及び学生に訴える」でトロツキスト全学連中央追放を発表。

 6.2日、警視庁が都内の集会・デモを6.5日まで禁止。
【労学ゼネスト】

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。

 6.3日、労学ゼネスト、青年祖国戦線参加を決定。早稲田、東大、外大、都立大など8校がスト。但し、共産党の切り崩しにあって不発となったと言われている。


 6.16日、国家警察本部は、集会・デモの全国的禁止令を出した。


 6月、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)結成準備会が作られる。


【「全国代表者会議」】

 6.18日、「臨中」の召集によって「全国代表者会議」がひらかれた(「第3回全国協議会」とされる)。会議の眼目は、「6.6追放」に伴う党指導部体制確立をすることにあった。会議は非常事態における措置として「臨中」設立を確認した。潜行9幹部と「臨中」との関係は裏と表に位置づけられた。伊藤律は、保坂.藤原.小松.服部らを部下に持ち、保坂が「臨中」議長椎野との連絡に当たった。

 「分派主義者に対する決議」を採択し、志賀に対して「何ら党分裂と闘争する具体的証拠を示さなかった」と批判した。

 拡大中国地方委員会から6.18付けの意見書が発表された。これに関東地方委員会が反撃した文書が6.27日「党活動方針」に掲載された。


 6.22日、早大で、当局の集会禁止命令を蹴って自由と平和を守る会強行。この頃 GHQと日本警察による反戦言論の取り締まり。主に在日朝鮮人、共産党員、学生対象。逮捕者500人以上。

【朝鮮動乱の勃発 】

 このように党内が大揺れしている時期の6.25日に朝鮮戦争が勃発している。当時どちらが先に仕掛けたかという点で「謎」とされた。双方が相手を侵略者と呼んで一歩も譲らなかったからである。

 
今日では北朝鮮側の方から仕掛けたということが判明している。「朝鮮人民は李承晩一味に反対するこの戦争で、朝鮮民主主義人民共和国とその憲法を守り抜き、南半部にたてられた売国的かいらい政権を一掃して、わが祖国の南半部に真の利人民政権である人民委員会を復活し、朝鮮民主主義人民共和国の旗のもとに祖国統一の偉業を完成しなければなりません」と、南半部全面開放を目指す戦争に、全人民が総決起するよう呼びかけた。北朝鮮軍の南下が始まりこうして全面的な内戦が始まった。北朝鮮軍は戦車と重砲を持つ人民軍部隊により韓国軍を打ち破り、たちまち38度線を突破しソウルを火の海にした。北朝鮮軍の奇襲は成功し、7.8月、北朝鮮軍が「怒涛のごとく南下」し、一挙に南朝鮮側を追いつめた。アメリカ軍は釜山周辺に追い詰められた。

 
この時のマッカーサーの様子が次のように伝えられている。6.25日、この日は日曜日であったが早朝総司令部の当直の将校から電話がなり、「元帥、只今ソウルからの電報で、今朝4時、北朝鮮の大部隊が38度線を越えて攻撃をかけて来たという報告であります」と知らされた。「何万という北朝鮮軍がなだれをうって国境を越え、韓国軍の前線部隊を押しつぶし、立ち向かうもの一切をはらいのけるほどのスピードと兵力で、南へ向かって進撃し始めたのだ。私は悪夢を見ているような奇妙な気分になった。丁度9年前のやはり日曜日の朝の同じ時刻に、私はマニラ・ホテルの屋上の家で、これと同じけたたましい電話の音に起こされた。あの時の悲痛な戦いの声が、又もや私の耳に響いている」と回想している。

 マッカーサー元帥は、すぐさま国連の安全保障理事会に持ち込み、6.27日の安保理事会で韓国援助決議を採択。国連軍の名の下に軍事介入する国連決議を得た。こうしてアメリカの朝鮮戦争の介入が始まった。日本はその前進基地とされた。戦火は朝鮮海峡を越えていつ国内に飛び火するかも知れぬ事態を迎えていた。

 6.30日、トルーマン大統領は、マッカーサーの度重なる要請に応えて、米地上軍の朝鮮への派遣を決定した。ここにアメリカの参戦が決定した。トルーマンは全面戦争を何とか避けようとして、マッカーサーは機敏な対応こそが勝敗を決するという姿勢の違いが発生していた。マッカーサーは、直ちに日本に駐留していた第8軍を朝鮮に送り込んだ。
 

  この北朝鮮軍の勝利を手放しで喜んだのは日本共産党であったが、その他の者の大半は判断に迷った。7.6日社会党中央委員会が国連軍の名によるアメリカの朝鮮武力介入を精神的に支持することを決定。

 7.7日、トルーマンはマッカーサーを「国連軍最高司令官」に任命。7.31日、マッカーサーは急遽台湾へ飛んで、蒋介石国民政府総統と会談した。「総統の共産主義の支配に対する不屈の決意は、米国の利益と共通のものである」として、「中国本土と戦っても支援する」との特別コミュニケを発表した。蒋介石率いる国民政府の擁護と台湾を守る強い意志を表明した。

 マッカーサーは国連軍司令官として強力な軍事行動を主張し、「極東に共産主義の脅威が広がるなら原爆の使用をも辞さない」と発言し物議を呼んだ。しかし、この中国大陸との戦争事態も引き受けようとするマッカーサー声明は、台湾中立化政策のトルーマン大統領との軋轢を生むことになった。

 8.19日、吉田首相は、「朝鮮動乱とわれらの立場」という声明書を発表し、概要「中立論も戦争不介入論も日本軍事基地化反対論もすべて共産党の謀略工作であると断定し、国連軍に許される限りの協力を行う」立場を明確にさせた。

(私論.私観) 「朝鮮動乱についての党史記述の変遷」について

 日共党史は、朝鮮動乱勃発経緯に付きその記述を何の弁明も無くくるくる書き換えている。 

 50年史(1972年党史 )P137  アメ帝の侵略説
 「アメリカの帝国主義は、六月十五日、朝鮮で侵略戦争を開始した.朝鮮では、一九四八年九月北半部に朝鮮民主主義人民共和国が成立していたが、これを米・「韓」の連合兵力で撃破し、朝鮮半島全体をその支配下において、社会主義陣営の東方の一角に打撃をあたえようというのが、アメリカ帝国主義の野望であった」。
 65年史(1988年党史)P上−135  38度線の軍事衝突
 「この間、五〇年六月十五日、朝鮮を南北に分断する三十八度で軍事衝突がおき、翌六月十六日金日成首相は放送演説で(略)南部全面解放をめざす戦争に、全人民が総決起することをよびかけた.こうして全面的な内戦がはじまった」。
 70年史(1994年党史)P上−231 北からの軍事行動 
 「この内戦は、実際にはスターリンの承認のもとに北朝鮮の計画的な軍事行動によってはじめられたものであった.(略)……中国も九月入って、『義勇軍』の名で北朝鮮を支援して内戦に介入し、ソ連軍もひそかに関与した」。

 「6・25 金日成の武力南部解放路線による全面的な内戦、朝鮮戦争はじまる」。

 つまり、「何の説明もなく一八〇度かわっている」。代わるのは良いが、弁明が必要だろう、それが政治責任というものではなかろうか。

 「70年史」の約半年前に、萩原遼・氏著「朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀―」(文芸春秋社、1993.12月初版)が出た。彼は元「赤旗」の国際部副部長で、ピョンヤン特派員員などを経て1989年に理由・説明ぬきで罷免された。但し、党員で有り続けている。彼は、「アメリカ政府の情報公開法によって米軍が一時占領した北朝鮮地域の各機関から奪ってきた百六十万頁という尨大な北側文書を国立公文書館で二年半かけて通覧。その結果、朝鮮戦争は北側が長期かつ周到な準備のすえに謀略的に南側に武力攻撃をくわえたものであることを判明させた」。

 次のように記している。
 「金日成が隠密にすすめてきた朝鮮戦争の陰謀は、マッカーサーの極東米軍によって一年前からことごとくつかまれていて、かれらの大謀略に完全に利用された。朝鮮戦争は金日成とマッカーサーの合作とさえいいうるものである。現代史はあらたな角度から見直される必要がある」(同まえがき)。

(私論.私観) 「朝鮮戦争疑惑の新視点」について

 田中清玄氏の「田中清玄自伝」に次のような衝撃的な裏話が記されている。

 概要「朝鮮戦争は、中国が強大化するのを恐れるソ連スターリニズムによる、その力を削ぐための作戦であり、東アジアで米中両国を戦争に引きずり込もうとしたのではないか。スターリンは、これより早くまずベルリン封鎖でアメリカの国力弱体化を図ろうとしたが失敗し、次にベトナムでこれをやろうとした。しかし、親中派のホー・チミンの登場とソ連の兵站線が長すぎることを理由に見送られ、結局、朝鮮半島がその為の舞台として選ばれた」。

 これによると、その後の日共の武装闘争もこの観点から促され、「アメリカの後方支援兵站基地として軍事的に重要な役割を果たしている日本の後方撹乱工作の必要があった」ことから、それまでの徳球-野坂執行部の闘争方針の一挙的急進主義運動化への展開を指示した、ということになる。「50年問題」の裏史実として、このことは知られておいて良いように思われる。

 田中氏はこの裏工作への関与を接触されたようで、これを断固として断った、とある。この時の経験も踏まえて次のように云う。

 「この話のポイントは、スターリンの本当の狙いは、朝鮮での戦争に中国を巻き込ませたかったという点にあります。要するに彼は中国を強大な国にはしたくなかったし、いつも中国を自分の支配下においておきたかったと云うことです。これは何もソ連だけではありませんよ。アメリカはもっと強烈に中国の強大化を阻止しようと考えています。その点ではアメリカもソ連も変わりはありません。これが現実の世界政治というものです。イデオロギーなどに騙されちゃいけません」。

【「アカハタが30日間の発行停止処分」される】
 6.26日、朝鮮戦争を南朝鮮の侵略行為(李承晩側の越境事件)として偽りの報道をしたという理由で、アカハタを始めとする党機関紙の30日間の発行停止が指令された。「民主主義の破壊者」、「彼らの弾圧的な方法は、過去における軍国主義的指導者が日本国民をあざむき過誤を起こさせたところの方法と非常によく似ている」。

 6.27日、マッカーサー書簡により、党国会議員の追放が始まった。第一回は7名が追放された。この頃より党内対立が露骨化する。

【戸塚秀夫(元東大細胞指導部責任者)、武井昭夫以下38名の除名処分発表】

 6.27日、臨中統制委員会は、戸塚秀夫(元東大細胞指導部責任者)、武井昭夫以下38名を悪質な分派主義者、党破壊を企てた者たちとして、東大12名、早大10名、中大6名、法政3名、商大、教育大各1名の除名処分を発表した。


【共産党の朝鮮戦争事態対応】

 6.28日、日本共産党本部で民族対策部(民対)中央会議を開き、祖国の防衛と組織の防衛強化のため軍事活動の機関として祖国防衛中央委員会を組織し(責任者慮在浩)、委員は民対部員が兼任し、各地方に祖国防衛委員会(祖防委)と祖国防衛隊(祖防隊)をつくり、祖防委が祖防隊を指導することとした。

 7.1日、朝鮮戦争の緊急事態に対処する「祖国防衛委員会」と「祖国防衛隊」が結成された。


 6.28日、吉田内閣改造。


【電波3法が施行】

 6月、電波法、放送法、電波監理委員会設置法の電波3法が施行された。これにより、政府は、電波を占有していた状態を改め、一部を民間に開放した。これが放送局の開局ラッシュに繋がる。


【住宅金融公庫設立】
 6月、政府は、GHQの勧告も有り、住宅金融公庫を設立した。公庫の出資金には、一般会計のほか米国の対日援助物資の売上代金から100億円が充てられた。第1回の融資受付は、公庫の設立から3週間後、東京都や神奈川県、大阪府など都市部を対象とした。申込み数は3万件弱となり予定枠通りになった。住宅の建設資金を借りるには、月収が毎月返済額の7倍以上、住宅延べ床面積が30u以上、返済期間は木造で15年以内、耐火構造で30年以内とされていた。貸付金利は5.5%弱で、73年まで同水準が維持された。翌年度以降応募が殺到し、抽選倍率が数十倍に達することもあった。

 公庫は、2005年度までの55年間に国内で着工された6千万戸の住宅のうち3割に融資してきたが、小泉構造改革により、2006年度待つまでに直接融資を原則禁止、2007.4月からは独立行政法人住宅金融支援機構に移行し、民間銀行の住宅ローン債権を買い取って証券化する業務に軸足を移す。

 7.4日、朝鮮戦争勃発から10日目のこの日、日本政府は閣議で「朝鮮における米国の軍事行動に行政措置の範囲内で協力する方針」を了承した。


【日本労働組合総評議会(総評)結成される】
 7.11日、労働組合内の「民同派」が中心になって、産別会議に対抗する日本労働組合総評議会(総評)が結成された。事務局長・島上善五郎は、「労働組合は政府、企業経営者など外部からのいかなる支配干渉をも絶対に排すると同時に、政党からも完全に独立自由でなければならない」と強調し、階級協調路線、自由労連加盟のすみやかな実現をうたっていた。具体的には、「当面の闘争方針」の中で、「我々の賃金闘争は企業経営の合理化、資本の技術構成、労働力の再編成(完全雇用)などの問題をめぐって、極めて頭脳的な闘いとして、取り上げられるべき段階であり、これまでの単純な『よこせ』運動、『くわせろ』運動式の賃上げ闘争は、当然止揚され、日本経済再建の課題と結びついた多角的な闘争形態へ発展すべきである」としていた。

 結成大会では、「18組合、370万4400名の組合員」を擁して発足したと報告されている。議長・武藤武雄(炭労)、副議長・長谷武麿(全逓)、松浦清一(会員)、事務局長・島上善五郎を選出した。

 GHQは、この大会を「許可」したばかりではなく、「祝福」メッセージを与えている。大会には自由労連極東視察団が出席している。こうしたことから見るのに、GHQの指導の下に結成されたことが分かる。

 7.13日、全学連、都学連など全国50カ所一斉捜索。戦後最初の全国的規模に及ぶ全学連傘下の大学の家宅捜査となった。東大、早大などで前夜相当量の書類を焼いた痕跡があったと報道された。〃軍事基地の実態を見よ !〃の勅令311号違反容疑であった。

 7.18日、マッカーサー将軍の吉田首相宛て文書。

 6.26日貴下に差し上げた余の書簡は共産党の扇動的欺瞞的破壊的宣伝を解体させようとしたものであるが、日本共産党と結びつく国際勢力は平和の維持と民主主義社会に於ける法の支配の優位性に一層激しい脅威を与え、あらゆる国々の自由なる人民に対し暴力をもって自由を奪い取ろうとする彼らの目的を明らかにしている。かかる情勢の下に於いては公の報道機関の自由にして無制限なる使用がかような目的の宣伝撒布の為に少数者に許されるとすれば、それは自由の概念の悪用であり、社会的責任に忠実な大多数の自由なる日本新聞に対し不公平となり、且つ一般の幸福を危うくすることになるであろう。

 現在自由世界の軍隊が戦いつつある偉大な闘争に於いて全ての人々は彼らの責任の分担を忠実に引き受け且つ遂行しなければならぬ。かかる責任の分担の中で社会の報道機関に与えられたもの以上に大きなものはない。何となればそこには真実の報道を保証する完全な責任がかかっており、また真実の上には知識的に啓蒙された世論の発展がかかっているからである。歴史は自由の新聞がこの責任の遂行に失敗して自らの破滅を免れなかった例を記録していない。

 余は日本の責任ある市民大衆の上に与えられた共産主義宣伝の破壊的影響に就いては心配していない。なぜならば日本の市民の正義と公平への献身と共産主義者の虚偽の仮面を暴く能力については既に充分な証拠があるからである。しかしながらこれまでの事実は社会的報道機関が共産主義によって破壊と暴力主義の宣伝の為に用いられること、また無責任且つ不法の少数分子を扇動して法に反対させ、秩序を乱し、社会の幸福を破壊する手段として用いられ危険のあることを警告している。それ故日本に於ける共産主義がかかる無法律の扇動によって発表の自由を悪用し続けるならば、彼らによる社会報道機関の自由なる使用は公共の利益の為に否定されなければならない。

 従って余は貴政府が余の既に述べた書簡の実行についてとられつつある手段を更に強力に続行せられ、日本に於いて扇動的共産主義宣伝に従事しつつある「赤旗」及びその後継紙又は同類の発行の上に課した停止命令を無期間に維持せられんことを命ずる。

【GHQが占領政策の大転換、軍隊復活を指示する】
 1949.10.1日、親ソ派による新中国の誕生に象徴される植民地からの民族独立運動の昂揚、1950.6.25日、体制間代理戦争ともみなせる朝鮮動乱の発生が、米帝国主義に危機感を募らせ、日本を早急に「東アジアにおける反共の砦」化する方針が決定された。ダレス特使が来日し、日本の再軍備を強く要求することになった。こうしてそれまでの「日本弱体化政策から強化育成政策」へ占領政策が方針転換することになる。

 7.8日、GHQ最高司令官マッカーサーは本国の指示に従い、吉田首相宛てに「7万5千名からなるナショナル.ポリス.リザーブを設置せよ」を指令した。「従来の国家警察、自治体警察とは別組織であり、必要に応じて随時随所に出勤し、相当規模の機動力を持つ」と規定されており、これが警察予備隊の設置の起源となる。さしあたり4個師団編成の日本防衛隊で、将来の日本陸軍の基礎としようとするもので、朝鮮有事に米軍が派遣された後の手薄になった日本の防衛が任務であった。

 GHQのこうした方針の変更にあたっては、GHQ内部でも対立があったと伝えられている。民生局のホイットニー准将は旧内務官僚と結び、日本の再軍備を阻止しようとしていた。これに対し、情報局のウィロビー少将は東条英機の秘書官上がりの服部卓四郎大佐と結んで再軍備を推進しようとした。この対立は米国本土でも国務省と国防総省の対立に起因していた。国務相は再軍備抑止派であり、国防総省は再軍備による日本の恒久基地化を望んでいた。マーカーサーでさえその間を行きつ戻りつで決断が為しえなかったようである。従来の占領政策が至上課題としていた日本の非軍事的再建に抵触したからである。

【吉田首相の「不文律吉田ドクトリン」】
 時の首相吉田は、こうした事情からのGHQ指令であることを読み取り、その意を受け警察予備隊設置に向かう。しかし、言いなりになった訳ではない。日本の再軍備化の強要に抵抗した節があり、経済復興を最優先とする立場から「GHQ」と交渉を重ねている。警察予備隊を朝鮮に派遣することを憲法との絡みで明確に拒否しつつ、むしろ、国内の治安保持、破壊活動防止の観点で利用しようと謀った経過が見えてくる。

 この時吉田首相は合わせ技を使い、@・「軍事金食い虫」観点から「最小限軍隊」としての抑制、A・経済復興優先、B・1951年サ条約で戦後日本の独立、C・同時に日米軍事同盟の締結で応えている。このことは、外交官畑の吉田の眼が、戦後日本は米国を盟主とする資本主義陣営に身をおくことこそ賢明と判断させ、米国単独の占領政策を受け入れる代わりに引き続き経済援助を求め、資本主義的発展に道を開くことを良しとした。これに基づく政策の総称を「不文律吉田ドクトリン」と云う。この「防衛をアメリカに頼ることで防衛努力を最小限に抑え、経済合理性を最大限に重視する政策」が「不文律吉田ドクトリン」と呼ばれ、戦後日本の総路線的基本政策となって行く。但し、このドクトリンを吉田自身が明示したことはない。「この言葉は元々、政治学者の永井陽之助氏が、保守本流の外交路線の総称として言い始めた」ものが流布していくことになった。

 吉田首相はこの当時次のように述べている。「アメリカや国連による安全保障にただ乗りするつもりはないが、今再軍備すると日本の経済が持たない。これからの日本は再軍備ではなく経済で国を立てていくべきだ−これなら世界中大手をふって通る」、「日本の現状は、軍事上の要求のみで兵力量を決定するわけにはいかぬ。今はまず国に経済力をつけて、民生の安定をはかることが先決だ。日本は敗戦によって国力は消費し、やせ馬のようになっている。このヒョロヒョロのやせ馬に過度の重荷を負わせると、馬自体が参ってしまうと、はっきり参謀本部に伝えてくれ」。

 こういう観点から「アメリカ側の32万5千名規模の軍隊要求に対し、吉田は極力規模を押さえ7万5千名から11万までの増加に押さえた」とのことである。これを軍事防衛政策で見れば、「防衛をアメリカに頼ることで防衛努力を最小限に抑え、経済合理性を最大限に重視する政策」と云える。再軍備を促すダレス国務長官に対して述べた吉田首相の返答は、「日本は民主主義を守り、非武装化し、平和を愛し、世界の国々の意見に頼れば安全が守られる」趣旨を述べ、これを聞かされたダレスは、「まるで『不思議の国のアリス』のような気分にさせられた」とある(加瀬みき著「大統領宛 日本国首相の極秘ファイル」.毎日新聞社)。

(私論.私観)「吉田ドクトリン」の功罪について

 「吉田ドクトリン」の功罪は今日なお未決着である。政府自民党を仔細に分析すれば、ハト派とタカ派の絶妙な日本式バランスの上に成り立っている。吉田以降の政府自民党の主流派は、1980年初頭の鈴木政権まではハト派が御してきた。しかし、この間次第に自衛隊の肥大化が進み、建前と実態の乖離が激しく経過してきた。今や、この矛盾の解決が否応なく促されつつある。特に1980年代の中曽根政権以降、「大国的国際責任論」が勃起し始め、2003年現在この系譜を引く小泉政権の下で「自衛隊の国軍明記」を主眼とする憲法改正運動が組織されつつある。保守的な国防論議の中にあって、 「吉田ドクトリン」がどう浮沈していくことになるのかに興味が持たれる。

 2004.6.12日再編集 れんだいこ拝


 7.20日、香川県知事を勤めていた内務省官僚出身の増原恵吉が新設予備隊の長官に内定。


【「衆議院本会議で警察予備隊の設置をめぐって論戦」】

 7.29日、衆議院本会議で警察予備隊の設置をめぐって論戦が行われた。マッカーサーの心変わりを捉えていた吉田とあいも変わらず平和の使者認識の社会党の論戦が興味深い。問題は、警察予備隊の組織の正確を吟味することなく創出していったことにある。吉田は従来「自衛のためといえども軍隊の保持は憲法第9条によって禁止されている」という立場を堅持しており、この時の警察予備隊の創設にあたっても客観的には再軍備である事実を糊塗し既成事実で容認させていくという手法で対応した。曰く、「治安維持の目的以上のものではない。再軍備の意味は、全然含んでいない。目的は国内治安の維持であり、性格は軍隊ではない」。

 「事実を糊塗し既成事実で容認させていくという手法」と「戦力無き軍隊」論法で切り抜けている。この時の吉田首相の曖昧答弁が骨子となり継承されていくことになる。

 
この頃マッカーサーの「日本人は資質が高く、勤勉だ。駐留軍がいなくなっても、騒ぎ一つ起こらない。私は日本人を信用した、そのおかげで日本人のプライドは呼び戻されたのだ」発言が為されている。


【「警察予備隊令公布」】
 8.10日、政令第260号により警察予備隊令公布、即日施行した。こうして「軍隊の卵」のようなものとして「警察予備隊7万5000名の創設、海上保安庁8000名」が創設され、これが今日の自衛隊の前身となる(50年警察予備隊→52年保安隊→54年自衛隊)。

 ジャーナリズムは、これを「逆コース」と喧伝した。

 8.13日、隊員募集に入った。吉田首相の指示で、日給5000円、2年間の勤務の後6万円の退職金という好条件がつけられていた。合計38万人が応募し、8.23日第一陣7500名余が入隊した。この時の部隊編成の担当者が後藤田。後藤田曰く「当時の日本の人材は、内務官僚の特高警察に集まっていました。特高警察というと、一番悪い奴らだと見られていますが、僕らから見ると最も視野が広く常識的、前進的で優秀な人材の集団だった。で、こうした警察経歴者の無優秀な人材を、予備隊の幹部にしろというのが民政局のホイットニーの考えだった。ところが、GHQの意図が説明してある指令所を見たら、これがなんと米国の歩兵師団の戦時編成なんです」とある。以後10月12日まで5日毎に11回にわたって目標人員が入隊した。マッカーサー書簡からわずか3ヶ月での早業であった。


 朝鮮戦争の勃発は、対日占領の終結を遅らせ、対日講和構想の全面的改定を予想させた。しかし、吉田首相は「これこそ天啓であり」朝鮮戦争が日本の講和条約締結の時期、ひいては独立を早める絶好のチャンスと読んだ。事態はそのとおりになった。多くの人々が長引くことになったと判断した中で、吉田首相は正しく情勢をつかんでいたことになる。


【社会主義協会結成の動き】
 1947.7月、山川均と向坂逸郎とが編集委員代表になって創刊された雑誌「前進」の起草メンバー(山川均、荒畑寒村、高橋正雄、稲村順三、小堀甚二、板垣武男、岡崎ニ邸、向坂逸郎ら)間に、朝鮮動乱以降の情況への対応に意見対立が発生し遂に廃刊されることになった。

 論争の一つは、朝鮮戦争後の再軍備を廻る問題であった。二つは、に講和を廻る全面講和か単独講和かの対立であった。三つに、ソ連は社会主義社会であるかどうかという議論がむすびついた。論争は主として、小堀甚ニと向坂逸郎とが代弁した。向坂は、「再軍備不要、全面講和、ソ連は社会主義国である」ことを主張した。ほぼ全員が賛同し、小堀が反対し、板垣は書店主として、どちらの主張にも賛否をのべなかった。

 この結果、山川、岡崎、稲村、向坂は、社会主義協会をつくることにした。高橋正雄は、この座にはいなかったが、社会主義協会にくわわった。荒畑はいずれにも属しない独立の意見をとった。

【在日朝鮮人が祖国防衛闘争に立ち上がる】

 8.27日民対全国代表者会議を党本部で開き、朴恩哲の情勢報告、鄭東文議長で次の事項を決定している。

 (1)、青年行動隊、祖国防衛隊などを動員して南朝鮮に送る武器弾薬の製造、輸送を中止させる。また軍需品の輸送を妨害し、日本人労働者に朝鮮内乱の真相を伝えて理解させる行動をとる。

 (2)、朝鮮動乱は純然たる朝鮮の内政問題だからアメリカその他各国の干渉を許さない。

 (3)、在日同胞の生活権の防衛闘争を強化する。

 (4)、在日朝鮮統一民主戦線の組織が予定よりおくれているが、早急に地方組織を推進して、中央組織大会をもつように督励する。

 (5)、「解放新聞」が停刊されているので(八・三)、民対と祖防委の機関紙を早急に発行する。

 以上のような方針で、在日朝鮮人は朝鮮戦争が勃発するやただちに祖国防衛闘争に立ち上がった。闘争は、はじめに米日反動のデマ宣伝が乱れとぶさなかで動乱の真相を訴え、その性格を広汎に宣伝しながら、労働者大衆に武器の製造と輸送を拒否させる活動に重点がおかれた。工作活動は全国各地の青年行動隊によって主要都市と職場で行われた。なかでも神奈川県鶴見青年行動隊の闘争はとくに勇敢であった。愛国の熱情にもゆる青年たちは、弾薬の輸送に狩りだされた労働者らたちが運転するトラックの下に体を投げだし、数時間にわたって抗議をつづけた。そしてついに弾薬の輸送に狩りたてようとする人夫募集を阻止した。この勇敢な闘争は日本の労働者を強く刺激し、京浜地区の自由労働者の各職安でのサボ、抵抗運動に拡大していった。闘争に立ち上がったのは青年だけではない。主婦や子供、老人までも「朝鮮に原爆を落とさせるな!」と、ストックホルム・アピールの平和署名運動を展開した。(脇田憲一「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」

 8.28日、「アメリカ帝国主義者の朝鮮戦争干渉に反対するとともに祖国人民を援助するため、あらゆる手段によって、南朝鮮向けの武器の製造・輸送を阻止する」という方針を決定した。

 9.3日、日本共産党臨時中央指導部が『在日朝鮮人運動について』という指令を発し、呼応する。「武器の生産と輸送を阻止するための在日朝鮮人の闘争は、日本から帝国主義を一掃し、そのカイライ国内反動勢力を打倒する日本人民の闘争と一致する」と、これを追認した。

 在日朝鮮人は北朝鮮派と韓国派に分裂して抗争し始めることになった。


【「臨中」、「分派活動の全貌について」を発表し分派規制】

 7.4日、「臨中」は、統制委員会の名で「分派活動の全貌について」を発表した。この文書は、志賀.宮顕.春日(庄).増田格之助(統制委員).遠坂ら執行部に批判的な組織グループや党員を分派主義者、分裂主義者ときめつけ、「憎むべき挑発者、分派主義者をうちくだかねばならない」と訴え、全国の組織に対してこれらの人々(志賀.宮顕ら7名の中央委員と3名の中央委員会候補その他)を排除する「除名カンパニア」を全党的に繰り広げた。このカンパニアに反対する者は分派主義者というレッテルを貼られ、組織的に排除されるか除名でおどかされるかした。その際「50年テーゼ草案」への賛否が踏み絵的に利用された。

 これを反「臨中」から見れば、「 まさに全党員が団結し一つになって戦わねばならないそのとき党員相互の間に大きな混乱と疑心暗鬼をうみ、党の分裂は中央から地方へと拡大し、大衆団体の分裂にも波及し、大衆運動の指導にも不統一と混乱を引き起こした」と云える。

 
7.15日、増田・遠坂の除名が発表された。


 臨時指導部内の唯一の国際派多田留治、参議院議員且つ作家の中野重治、北海道の婦人代議士・柄沢とし子、党中央委員袴田里美の妻・袴田菊江らが志賀派として報ぜられた。


【「臨中」と反中央派との確執 】
 こうして中央委員会の解体と分裂は全党の分裂に発展した。党機関だけでなく、あらゆる大衆団体.大衆組織にも広がり、党員同士が相互に除名し合う混乱が生まれた。新日本文学会も揺れた。大衆運動の指導と不統一と混乱を拡大した。

 このグループの中では中国地方委員会が最も戦闘的であった。同地方委の指導的幹部は原田長司、国会議員の田中暁平らであった。「右翼日和見主義分派を粉砕せよ!−党のボルシェヴィキ的統一の為に全党に訴う−」を載せた機関誌「革命戦士」を全国の県委員会以上の各機関に配布したりするという公然と反「臨中」行動を強めた。

 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように述べている。「反対派も関西地方委員会、中国地方委員会をはじめとして公然と旗上げをするに至った。とりわけ、原田長司、内藤知周に率いられた中国地方委員会の決起は、中国地方の党機関と党員の圧倒的支持を受けている点で、全党員に奮起を促すというアピールを発した点で画期的はであった機関紙『革命戦士』は全党に発送されたが、私たちはその堂々たる論陣に接して感動し、大いに力づけられたものである」。

 「臨中」.統制委員会は、中国地方委員会常任委員の除名と委員会そのものの解散を含んだ「中国地方の分派主義者に対する決議」を発表した。地方委員会全体の解散措置というのは党史の上でも最初の事例であった。関西地方委員会も大きく揺れた。「臨中」派と反「臨中」派が相互に泥まみれの抗争を開始した。こうして主流派と国際派両派の抗争は、各地方各府県のいたるところに拡大していった。

 「臨中」は、7.11日「臨中」反対声明をしていた長崎県委員会の県委員会解散指令、県委員長・宮島豊除名。7.11日茨城県委員会機関紙部連盟決議「党内に巣くうティトー主義反対」を声明していた水戸市委員会、全市細胞代表者会議、県委員会の数人を除名。その他、「臨中」の分派活動を非難声明していた福岡県筑豊委員会の解散。その理由として、「椎野が、九州地方委員会議長宮本に内密に分派結成をしたことが発覚した為」(来栖宗孝「日本共産党の50年問題と党内闘争」)とあるが、詳細不明。

【中国共産党の友誼的勧告】

 7.7日、人民日報は、日中戦争13周年を記念する「日本人民闘争の現状」なる社説を発表した。「朝鮮へのアメリカの武力介入の開始に面して、これと闘う日本人民の民族統一戦線の結成の必要を強調し、統一戦線の発展の為に日本共産党の内部の団結が必要」という友党への勧告が為された。

 7.14日、中国共産党は、党創立28周年記念に際して、日本共産党中央委員会に次のメッセージを寄せた。「(親愛なる同志諸君が)一つに団結し、さらに日本の民族独立、人民民主主義のために闘う愛国的日本人民のすべての層と団結することを望む」。


 7.15日、最高検が徳田書記長、紺野、竹中、松本三益ら9氏に逮捕状を発布した。この時宮顕らには逮捕状が発せられていない。これを、概要「宮本らは地上に置き去りにされたためであり、ここでも運の強い人であった」(鈴木卓郎「共産党取材30年」)との理由付けが為されている。おかしなことであろう。

【レッド・パージの嵐始まる】

 7.18日、マッカーサーは、共産党国会議員の追放、アカハタの一ヶ月停刊の指令に引き続き、無期限発刊停止処分を指令した。同時に後継.同類紙も同様に発行停止。以降、共産党の機関紙活動も非合法になった。

 7.24日、新聞協会代表にレッドパージを勧告。これを皮切りに各分野にわたってレッド.パージの嵐が見舞うことになった。占領政策違反の名による逮捕数千名。集会デモの禁止。


 8.11日、「臨中」指導で全国労働政策会議が開かれ、議長・椎野は一般報告の中で総評結成の動きを次のように批判している。「右翼社会民主主義者(民同)は、明らかに帝国主義者の手先、社会ファシストの役割を果たすに至った。彼らは、戦争挑発の国際機関世界自由労連と結び、特に外国帝国主義及び売国政府との結合を深めた」と述べ、「戦争の火付け人」とまで罵った。


【「臨中」側、相次ぐ強権処分 】

 関西地方委員会の反「臨中」派を強権処分)関西地方委員会多数派は「臨中」の分派工作を非難し声明を発表していたが、「臨中」は、委員会議長・山田六左衛門、多田留治(「臨中」の一員)を除名、その他4名を活動停止処分に附した。

 
中国地方委員会を強権処分)7.18日中国地方委員会が「臨中」反対声明を出し、「臨中」が「党活動方針」誌上で同地方委員会を非難していたが、8.16日「臨中」は、同委員会解散、指導的幹部7名(原田長司、内藤知周ら)を除名した。これにより中国地方の全組織が分解することとなった。「臨中」は、関西地方委員会内に中国対策委員会を設け、今後は関西地方委員会が島根・鳥取・岡山県各県組織を、九州地方委員会に山口県委員会をそれぞれ管轄させることを決定した。広島県委員会は放置された。地方委員会の解散は党始まって以来の措置であり、された方は「暴挙」と批判している。

その他強権処分)8.1日東北地方委員会多数者による「臨中」反対意見が出されていたが、「臨中」は、同委員会の反対者を排除、委員会を改組した。8.5日福島県委員会の「臨中」反対声明が出されていたが、「臨中」は、反対者を排除、委員会を改組した。


【徳球系党中央の中国行き工作】

 8月中旬、徳球が中国に派遣した密使が帰国して中共中央の伝言を伝えた。「日本の党は、非合法生活に入った指導者たちの安全を、完全に守りきる自信があるのか。少しでも不安があれば、自分達は、日本の指導者達を迎え入れる用意がある」(「徳田球一の日本脱出記」)。

 これまで1950.6.6日の「レッド・パージ」以降、徳球系指導部が中国へ逃亡した経緯が不明であった。ところがこのたび、宮地氏の「共産党問題、社会主義問題を考える」「中国密航と50年8月・周恩来との会見」サイトで、徳球系党中央の中国渡航の根回し過程が明らかにされた。本文はリンク先で確認していただくとして要点を抜書きないしコメントしておく。

 この一連の根回しを為した人は、東宝争議の指導者であり映画撮影監督であった宮島義勇氏であったことが判明した。宮島氏は東宝争議終結後党本部詰め書記局事務員となった。日共は1950.1.6日のコミンフォルム批判後党内は大分裂していくが、宮島氏は国際派に属し「神山、野坂、宮本」と近い立場で働いていたようである。「レッド・パージ」以降幹部は地下に潜るが、日共と中共はこの幹部の受け入れを廻って交渉していくことになった模様である。この工作は安斎庫治と宮島義勇の二人が別々に推し進めることになる。最初は徳球系で安斎が動くが暗礁に乗り上げる。次に野坂系の宮島が動きこれが成功する。その経過の概要は次の通り。

 
或る日志田重男から声を掛けられ、中国行きを指示された。実際に指示を出した奥の院が分からないが、野坂―西沢―岡田文吉がうごめいている。中国共産党宛の信任状を野坂が書き付けたことが明らかにされている。訪中前に徳球に挨拶しているが、徳球が無愛想だったことが明かされている。つまりこの計画にタッチしていないということになる。

 5.2日に日本を出発し天津着。一ヶ月近く天津に滞在し、6.10日前後北京に着く。招待所に住みながら周恩来との接見の機会を伺う。この間意見書を書き上げ、8.10日前後会談に成功する。3、4時間にわたって日本の革命運動の進め方、日本の権力問題、日本国内の階級構成の問題を討議し、最後にいくつかの結論を得る。亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」(現代評論社刊)によると、「一、徳田をすぐ密航させよ、二、非合法組織を作れ、三、軍事方針、武装闘争の準備をせよ」の三つの問題を持ってきたとなっているが、宮島氏に拠ればそういう漫画的なものではないとしてこれを訂正している。結論的な要点は、1・党内団結、統一こそ肝要、2・弾圧されている幹部の防衛が必要、3・武装闘争を視野に入れた革命闘争の喫急化認識の必要、という友党的勧告にあったと云う。

 8.19日、横浜に帰国。8.22日、党本部へ。椎野悦朗・臨時中央委員会議長、西沢隆二と会談。西沢の指示で徳球と会う。会食会談の帰り際に「野坂にも、このことを話しておいてくれ」と言われて、徳球と別れた、とある。

 
その後野坂、西沢と会談。周恩来会談の第二項であった幹部の防衛という観点から、徳球系指導部を北京へ移すという話がとんとん拍子に進んでいくことになる。北京機関を作り上げるための下準備に元朝日新聞論説委員の聴涛克巳を送ることを決定している。こうして徳球、野坂の北京亡命が用意されていくことになる。凡そ以上の経過が明らかにされている。

(私論.私見)徳球の北京亡命交渉経過について
 
 判明することは、徳球が自ら望んだのではなく、中共側からの簡明な誘いでもなく、ここでも野坂が暗躍しているという史実である。志田、西沢、岡田らの影も見えており、何のことはない後の宮顕グループ且ついずれもスパイグループという人脈でお膳立てが為されていることが判明する。このことに気づく者はあまりいないだろうが、れんだいこには透けて見えてくる。


 8.30日、全労連本部の解散と幹部11名の公職追放。


 9.1日、閣議で公務員などのレッドパージの方針を決定。重要経営と労働組合からの万を越える共産党員と支持者の追放(レッドパージ)などの弾圧が見舞った。9月から11月10日までの間に民間主要産業342社9524名と各官庁公務員1177名合わせて1万701名がパージされた。この時大衆的な抵抗はほとんど組織し得なかった。党は活動基盤を根こそぎ失った。


【分派組織の旗挙げ】
 公然と分派組織が名乗りを挙げた。7月、野田グループは「日本共産党国際主義者団」を結成した。「徳田一味」の打倒の為に反対派グループの統一を呼びかけた。中西グループは8月に「団結派」を結成した。相互に分派主義者呼ばわりするという奇妙な動きがみられることになった。

【分派最大組織「統一委員会」の旗挙げ】

  排除された7人の中央委員は、宮顕を首魁として党の統一を回復する為と称しながら7月頃中国5県をはじめとする十余の府県組織といくつかの地区組織、大衆団体グループを傘下におさめ結集させ、8.31日、公然機関として「全国統一委員会」(「統一委員会」)をつくった。全国委員を指名して、機関紙「統一情報」を発行することを決めた。参加したのは、中国・関西地方委員会、長崎・茨城・福島の県委員会、筑豊・静岡中部・宮城県中部・岩手県東部の地区委員会、全労連、全金属、新日本文学会の中央グループその他であった。

 「統一委員会」は、後述する分派別党コースを目指さず、徳球執行部に替わる執行部という立場をとった。全国委員として、多田留治.遠坂良一.原田長司の中央委員候補、統制委員の増田格之助、代議士の田中堯平、労組グループの津々良渉・西川彦義、地方機関の山田六左衛門.三羽嘉彦.宮島豊.宮川寅雄、作家の中野重治の12名を選んだ。機関紙の編集長に神山茂夫が就いた。

 「統一委員会」は、反執行部派の公然組織旗揚げとなった。ここに党の分裂が明白となり、実質上中央から地方に至る二つの党組織が存在することになった。この「統一委」には、野田らが旗揚げした「国際主義者団」や「中西グループ」は「極左分派主義」として排除された。宮顕.袴田らの中央委員はパージを受けていた為名を連ねなかった。

 「統一委員会」の結成アッピールは、「我が党に幡居している右翼日和見解党主義所感派分派は、かねて我が党の基本路線の発展を歪め、党のボルシェヴィキ的団結を妨げてきた」と述べ、「中央委員会の解体および一切の解党主義反対」と称し、「原則に基づく党の統一を実現するために全力を挙げる」ことを表明した。興味深いことは、この時点での党中央執行部側を「右翼日和見主義解党分派」と規定していることである。その他「すでに反革命的分子となりさがった悪質解党主義者の清掃」という呼び掛けも為された。


 「統一委員会」結成後続々と結集し始めた。全学連中央グループ、東大.早大.都立大.法政大.中央大学.明治大学などの各細胞、日本帰還者同盟の中央グループ、新協劇団細胞などが参加した。

 反対派の大半は「統一委員会」に結集したが、「国際主義者団」や「中西グループ」が排除されたことにより、別途小グループとして志賀系「国際主義者団」.中西らの「団結派」.神山茂夫グループ.福本和夫の率いる「日本共産党統一協議会」などが分立するという様相を示した。こうして日本共産党内の「50年分裂」は、全党的規模で公然化し、抜き差しなら無い抗争へと激化していくことになった。


【「臨中」派の巻き返し】

 「臨中」側は、一層態度を硬化させ、合法機関と機関誌の全てを動員して「分派の撃滅」を叫んだ。この頃の裏の指導部では伊藤律が絶大な権限を持って合法.非合法の全ての機関誌とその出版活動を指導していた。彼の権限下に8.12日非合法機関誌「平和と独立」が、8.30日非合法理論誌「内外評論」が創刊された。裏の伊藤律と表の椎野、それを小松が伝える役割を果たしていた。


 この時、「臨中」側は、分裂主義者たちが「莫大な経費を使っている。我々はその出所を知らない。何か手品を使わなければ、不可能である」と、資金源の供給ルートに疑念を発している。

(私論.私観) 宮顕派の潤沢な資金疑惑について

 安東氏の「戦後共産党私記」は、党中央側のデマとみなしているが、あながちそうとは見なしきれまい。こういうところの解明が重要であるが詮索されていない。


【志田の登用について

 この頃、志田が登用されている。50年分裂の一年前、中央に引き上げられたとのことである。たちまち頭角をあらわし、伊藤律に次ぐ位置にのしあがった。やがて伊藤派と志田派の跡目争いへ発展していくことになる。

 志田登用いきさつに関する山辺健太郎の次のような伝がある。「徳田君というのは、まわりに誰かがいないとやれない人で、それで志田を呼んで、伊藤律の替わりにしようとしたわけです。志田君は理論は別にないけれど、運動ではつぎからつぎに新しい手を考えて、闘争を組んでいくような才能はあったんですよ。頭はきれるほうなんです」、「彼の本拠は大阪ですが、大阪では周囲に人がたくさん集まりましたよ。いわゆる切れ者で、徳田君との関係もいいし、私兵を持っているタイプでしたから。これは面白いのですが、東京のほうにはそういうタイプの活動家はいなかった。労働組合の若手を養成して、それを手駒のように動かすというような人はいなかったのです。宮本君も労働者が好きではないのか、そういうのは作らないし、長谷川浩だって、そういうのはもっていませんからね。伊藤律ももちろんだし、東京にはそういう人がいなかった。ところが、志田は、組合出身の活動家を自分の子分として持っていました。ですから、彼の才能は、誰か優秀な人のふところ刀的な才能です。同時に自分の私兵を持っているから、派閥闘争にも強いわけです」。

(私論.私観) 志田派進出の背景について

 私観は、志田派進出の背景はもっと解明されねばならないと疑惑している。れんだいこは、宮顕派ないし公安筋が志田派を後押ししたのではないか、と見ている。


【徳球書記長他中国へ密航と直前の指示】

 8月末、徳球が北京に渡った。徳球は、日本を去る直前に開かれた政治局会議で、次のように指示している。

今後の方針について 政治方針の基本は徳球が向こうで立てる。
組織指導体制について 組織指導は国内に一任する。志田、椎野、伊藤律の三者合議を中心にやっていくこと。
野坂の扱いについて 野坂は国内に留まるといっているが、徳球の所へ送るよう説得する。
宮顕の扱いについて 分派に対しては統一の努力をあくまで続ける。国際派幹部個人はどうでもよい、宮顕は党に戻らせない方が良い。彼らに追随している活動家、党員、大衆を呼び戻し団結することが肝要である。

 徳球のこの指示に基づき、伊藤律が機関紙・宣伝部を、志田が組織部を、椎野が臨中議長という分担でトロイカ体制を造った。それぞれにレポ(秘密連絡役)がつき、伊藤には小松雄一郎、志田には増山太助、椎野には諸橋某女が任命された。このレポたちの仲介で、週一回「3人委員会」が秘密のアジトで開かれていった。しかし、徳球という重しを欠いた3人組の合議はうまく機能しなかったようである。


【徳球日本脱出、中国北京に現れる】

 この間に徳球は漁船で日本を脱出、北京に現れ毛沢東と会っている。この頃の毛沢東はスターリンと親交良く、徳球にスターリンと会うよう説得したと云われている。

 この頃党は、中国へ脱出すべく人民艦隊の編成に着手しており、海上の秘密路線を作っていた。傘下の艦隊は15隻、主な出入港基地は関東から西の三崎、舞鶴、焼津、長崎等が使用されており、上海ルート、香港ルート、北朝鮮及びソ連ルートで、目的地は何れも中国であった。


【北京機関】
 徳球に続いて11月に野坂、12月に西沢隆二が出国し、北京に日本共産党在外指導部を構築した。これが「北京機関」と呼ばれることになる。翌51年10月に伊藤律も出国。

【臨中による「在日朝鮮人運動について指令」(415号)】

 9.3日、日本共産党臨時指導部は「在日朝鮮人運動について」の指令(四一五号)をだした。

 朝鮮問題は、日本革命の当面する闘争の主要な環……朝鮮戦争を第三次大戦の口火にしようとする国際帝国主義の企画を粉砕し、朝鮮侵略に便乗して日本帝国主義を夢みている吉田を首班とする国内反動勢力を打倒し、日本人民大衆を平和擁護の旗の下に結集することは、当面する日本革命の最も重要なる環である。
 在日朝鮮人運動は、「外国の朝鮮内戦干渉反対」「朝鮮から手を引け」のスローガンのもとに日本から送られる武器の生産と輸送反対闘争へ結集している。
 党の指導を強化せよ。

 在日朝鮮人の武器生産、輸送反対闘争は、日本から帝国主義勢力を一掃し、かいらい反動どもの打倒粉砕闘争と一致するので、朝鮮青年行動隊の勇敢な行動性を、党が指導せよ。そのために、イ、日常闘争を政治闘争と結合させ、青年後続部隊を養成する。ロ、日・朝青年行動隊の連携を指導し、共同訓練をおこなう。ハ、日朝親善協会の係を各級機関におく。ニ、朝鮮人党員の規律強化と分派について、党臨時中央指導部のもとに、分派活動を粉砕し、党強化のため全力をつくすべきことを全朝鮮人党員に徹底させる。(脇田憲一「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」


【中国共産党の介入】
 9.3日、人民日報は、「今こそ日本人民は団結して敵にあたるべきである」、「日本共産党内部の一致団結は党員全体が大局的観点から出発して、日本共産党内部の統一を断固として保持することは、現在においては如何なることよりも実に重要な最高の任務である」(「9.3声明)という社説を発表した。「9.3アピール」と云われている。1.17日、7.7日に続く三度目の勧告となった。

 この社説は、事実上徳球派率いる「臨中」への結束を求めていた。このたびの社説の内容は、先の友誼的勧告後一向に効き目の無かったことを踏まえて大胆に党の針路を指針させていた。この前後、徳球.野坂らは中国に渡り、国際的支持の取り付けを計った。


 アメリカの占領下に於いて日本は再びアジアに於ける帝国主義的侵略と反動ファシストの中心となりつつある。それ故に中国及び他の世界の全ての人民は日本帝国主義の後継者でありパトロンであるアメリカ帝国主義に抗して起ちあがらざるを得ないのである。彼らは日本の情勢と日本人民の闘争に最も深い関心を示している。(中略)

 今や日本人民の前には二つの道が横たわっている。一つは日本の支配階級によって示されたものであり、他の一つは日本勤労階級の党ー日本共産党ーによって示されたものである。(中略)

 その(日本共産党)現在の最高任務は党内の緊密な団結を達成することである。(中略)日本共産党の若干の党員は最近党指導部の方針の正しさについて疑問を声明し、又はそれを認めることを拒み、「極左的」冒険主義的性格の不適当なスローガンを掲げている。彼らは現情勢のさなかに党が今やっていることを停止すべきであり彼らと非現実的な討論をすべきだと主張し、且つ若干の不適当な組織方法を採用すべきだと要求している。

 かかる考えの不正確なことはあまりにも明瞭である。これらの同志は現在の情勢を冷静に考慮し彼らの不適当な要求やスローガンを放棄し、指導的党機関と党の大多数に心からの統一を行うべきである。若干の意見の相違は統一の基礎の上に漸次的に消滅させることができる。また意見の一致は討論によって、現実情勢の許すように、且つ情勢の発展に正しさを証明させることによって漸次的に達成されるであろう。

 彼らは党の統一に有害な無規律方法を採るべきではない。さもないと情勢は却って敵に利用されることになる。(中略)

 他方日本共産党の指導機関(臨時中央指導部)は最大の忍耐と考慮をもって異見を抱く全ての真面目な党員を統合すべきであり、彼らに対して気短に残酷な組織の方法をとってはならない。思想的な事柄は残酷な方法では解決できるものではない。さもないと党内の紛争は党の統一を破壊することになり、敵や挑発者に道を開くことになる。(中略)

 これは我々が日本の同志に対する心からの提案である。

【全学連の「レッドパージ反対闘争」決議】

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。 

 8.30日、全学連緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議、各大学自治会に指示を発した。9.1日、全学連.中執は、レッドパージ粉砕を声明、「レッド.パージ阻止の為、夏休み中の学生は急遽学校へ戻れ」の檄を出した。こうしてレッド・パージ反対闘争が開始された。9〜10月にかけて各地でレッドパージ粉砕闘争と結合させて試験ボイコット闘争を展開した。

 9.6日、全学連代表、CIE ルーミス課長と会見。


【朝鮮動乱その後の経過】

 9.15日、アメリカ軍は仁川上陸作戦に乗り出し、マッカーサー司令長官が自ら艦上で指揮をとった。「5000分の1の賭けだ」といっていたこの作戦が成功し、ソウルを奪回に向けての作戦が開始された。

 9.28日、ソウル奪還。この日、トルーマンはマッカーサーに対して北朝鮮での軍事行動を許可した。国連軍は国連軍は38度線を越え、朝鮮戦争の目的は「北朝鮮軍による侵略の阻止」から「北朝鮮軍の壊滅」へとエスカレートした。戦局の転換となった。

 10.15日、太平洋上のウェイク島で、トルーマン−マッカーサー会談が行われた。

 10.19日、北朝鮮の首都平穣陥落。国連軍は直ちに中国国境に進撃を開始した。

 10.25日、林彪将軍率いる中国人民解放軍18万が「抗米援朝保衛祖国」のスローガンの下に介入、義勇軍を送り込んできた。中国軍は鴨緑江を渡り、戦局はたちまち逆転し、アメリカ軍は再び38度戦の南に押し返されてしまった。

 11.28日、総司令部が中国軍20万余が北朝鮮に侵入したとの特別声明を発表した。「この結果我々は、まったく新しい戦争に直面している」。

 11.30日、トルーマン大統領は原爆使用を考慮中と恫喝している。

 12.3日、平穣放棄。

 12.16日、アメリカは朝鮮戦争の継続の決意を明らかにし、国家非常事態宣言を発表。

 12.23日、第8軍司令官ウォーカー中将が字当社事故死。後任に米陸軍参謀次長付きリッジウェイ中将が任命された。


【全学連の「レッドパージ反対闘争」】

 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。 


 この頃世情は騒然とし始めており、朝鮮戦争の拡大、警察予備隊創設、共産党と全労連の解散、出版・報道関係のレッドパージが進む状況に直面していた。

 この頃党内情勢の分裂事態が深刻で、党非合法化に対処する過程で、徳球系執行部党主流派(所感派)は国際派の宮顕・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。 この党内分裂が全党末端にまで及んでいった。党主流派の主要幹部は中国に逃れ、国内の指導はその指揮下の「臨時中央指導部」に委ねられていた。 国際派の動きはまばらの野合であったが、宮顕を中心に党統一会議としてまとめられていくことになった。全学連グループはこの流れに属したことは既述した通りである。

 9.4日、統制委、「分派活動について」を発表。

 9.5日、「臨中」派は「北京人民日報社説発表に際して」、「友党の批判に答えて」を発表。「全国統一委員会」派は、「『北京人民日報』9.3社説の忠告を受けて」で、双方が「9.3声明」の受け入れを表明した。


 9.7日、椎野「臨中」議長、「人民日報社説について」声明。


【宮顕の「統一委員会」文書の改竄】
 この頃の動きとして、亀山幸三は、「戦後日本共産党の二重帳簿」の中で、宮顕のおかしな動きを伝えているのでこれを見ておくことにする。大阪の全統委結成大会で、宮顕と全国統一委員(11名)で討議、決定された文書が大幅に削除又は改竄されているとのことである。削除又は改竄部分は、党改革の有益な提言に限ったところに集中しており、無闇な分裂化へ誘導していた形跡がある。

 一つは、「コミンフォルム批判以来の国際派幹部に対する下からの批判」文を削除した。一つは、野田弥三郎派、中西功派、福本和夫派に対する攻撃をことさら大きく取り上げるよう改竄した。一つは、原文に無かった「ここに全国の責任ある党機関に所属する愛党的同志によって党統一促進のための党内のコミッティとして全国統一委員会が結成された」を挿入し、全国統一委員会があたかも全党的趨勢であるかのように分裂策動した。一つは、全国統一委員会が「朝鮮侵略戦争を続けている米帝国主義並びにその番犬、日本反動勢力に抵抗して闘う」とあった部分を削除して、全国統一委員会の任務を党統一だけの問題に限定した。これらの行為は、「肝心のところだけ、かくも無残に改竄されたのである。しかも宮本一人の判断でなされたのである」。

(私論.私観) 宮顕の党文書改竄について

 今日、我々は、この時のこうした宮顕の変調な動きをどう総括すべきだろうか、亀山が明らかにするまで隠蔽されつづけてきた史実である。宮顕は何のためにこういうことをやらかすのだろう。


【北京人民日報の「9.3アピール」の扱いを廻って、「統一委員会」の足並み乱れる】
 北京人民日報の「9.3アピール」の扱いを廻って、統一委員会は足並みが乱れた。9.9日、「全統委」派が「臨中」に党統一の申し入れ。9.11日、多田.原田.遠坂.宮川.西川.松本惣一郎、戎谷春松らの指導分子が党本部で椎野「臨中」議長、輪田一造と会見し、2回目の「党の統一のための申し入れ」をした。分裂後初めての公式会見となった。9.15日、第2回目の会合が開かれ、「全統委」派は、「一切の分派の解消と主流派による既決処分の取り消し」を条件に両派の統一を申し入れたが、「ケンカ別れに終わった」。こうして9月から10月にかけて「臨中」に中央委員会の機能の回復と統一を繰り返し申し入れたが拒否された。

 この時「臨中」派はこの「全統委」派の申し出に対し高姿勢で臨んでいる。「全党を挙げて分派活動を粉砕せよ」(「党活動指針」9.20.第61号)と突っぱね、分派活動の自己批判を要求した。

 こうした経過の中「9.3声明」に対する態度を廻って全国統一委員会は三派に分かれた。一つは、志賀義雄.松本惣一郎らで、徳球らが国際的に支持されたとみて、反対派中央委員の共同行動から離れ、「臨中」の指導下に入った復帰統一派。この時志賀は、「宮本とは訣別する」と自己批判している。神山茂夫グループは独自の立場を保持しつつ、最終的に復帰統一派に転換した。一つは、宮顕と蔵原らで、全国統一委員会の立場を堅持しつつ臨中と折衝し統一を実現するという抵抗派。その他中西らの「団結派」は独自の行動を続けることになった。

 9.16日、徳球派の「平和と独立第6号」発行。極左冒険主義の論文を掲載。9.18日、「全統委」派は、北京人民日報の「真心からの団結」、「最大限の暖かい理解」を援用し「再び統一のために訴える」を発表。

 9.20日、椎野議長談話「全党を挙げて分派活動を粉砕せよ」が発表された。これが統一委員会の申し入れに対する回答となった。注目すべきは、「第二にスパイと結び党破壊のために行った策動の全てが永久に闇に葬られる」とある。つまり、「全統委」派の背後にあるものとしてこれをスパイ視していることが伺える。

 9.27日、人民日報に10.6日「恒久平和と人民民主主義のために」に、椎野の「友党の批判に答えて」が転載された。

 10.6日、「全統委」派が、党統一の為の訴え「三たび党統一のため訴う」を発表。この頃、全学連も日本帰還者同盟中央グループも統一を訴える意見書を発表した。

【党中央が武装闘争方針指令】

 10.7日付け共産党.徳球・野坂派の非合法機関紙「平和と独立」(10.12日付け「内外評論」にも掲載)に武装闘争方針の無署名論文「共産主義者と愛国者の新しい任務−力には力を以って闘え」(日本共産党の七十年−党史年表134P」では野坂の執筆とされている、真偽不明)が発表されている。これが武装闘争を呼びかける最初の論文となった。

 この論文に拠り、平和革命→武装革命=中核自衛隊による火炎瓶闘争へ向かう闘争方針が明確にされた。明らかな路線転換であった。都市における労働者の武装蜂起と農村遊撃戦争を組織し、その過程で結集された中核自衛隊を人民解放軍に発展させることによって全国的な武装革命を展開する方針を採った。実践的には、火炎瓶闘争の開始(ウラで「Y」とよばれた軍事組織の実体は不明、なぜ「Y」 と称したのかいまでもわからない)が指令された。

 概要次のような文面である。

 「我々共産主義者は、わが国の労働階級とすべての愛国者に対して、大胆に、率直に、今日まで公然と云えなかったことをはっきりと云わなければならぬ時機がきたと確信する。帝国主義の駆逐、日本反動政府の打倒、人民政府の樹立は、広大な人民の闘争と、そこから生まれ、それを守り、その先頭にたつ決死的な武装された人民の闘争なしには、実現できない、ということである」、「我々は極力、武力の行使を避け、平和的手段による政権の獲得をひたすら願望している。しかしながら、国内の支配階級が公然と武力によって、民族を奴隷化し人民の生命までも奪っているのが現実であるにも関わらず、人民の武装闘争の問題を提起して、これを真剣に準備せねばならぬことを、今なお人民に語らないとすれば、それは民族と革命への裏切りと云われても仕方が無いであろう」。

 概要「憲法の保障する言論.出版.集会.結社.デモ.ストライキ等の基本的自由が公然と奪われ、失業者がピストルによって職安から追い出され、供米と税金がジープによって取り立てられている今日、さにら国会から共産党議員が、政党の理由も無く追放され、国会自体が『翼賛議会』と化した今日、一体どうすれば我々は解放と革命の目的を達成することができるであろうか」、「存在しもしない『民主主義』を通じて、目的を貫徹することができるだろうか? 否である。明らかに否である。絶対にできはしない! ただマッカーサーから社会党幹部にいたる『民主主義者』のみが、それができるかのような虚偽と欺瞞とを、あつかましくも大衆に説教することができるだけである」。
 「敵が権力、すなわち軍隊、警察、裁判所、刑務所、反動団体等を動員して、人民に凶暴な弾圧を加えている時、人民だけに手をこまねいて右の頬を出せということは、結局、祖国の独立も基本的人権も人民政権も放棄せよというに他ならない。では、どうすればよいのか? 敵の権力に対しては、人民も組織された実力をもって対抗し、闘う以外に道はありえない」、「国会とは帝国主義の独裁を『民主主義』の偽装によって、人民の目をゴマかすための金のかかった道具に過ぎない。従って、このような国会を通じて、人民が政権を握りうるという主張は空想であるか、あるいはもっとも悪質有害な支配階級擁護の弁であることは明白である」。
 「平和と独立」紙第1号は次のように述べている。「恐らく、我が革命は、ロシア革命のように都市の労働者の蜂起と人民協議会とが主力となるが、同時に中国革命のような農村遊撃隊が蜂起を支援し、また決定的瞬間に至るまでの比較的長い準備期において、これを準備し、あるいは敵を消耗させ、牽制する重要な役割を演ずるであろう」。

【主流派の左旋回=武装闘争化】
 この頃中国共産党は、徳球派と連絡を深め、戦略戦術の指導にあたった。後に「極左冒険主義」と総括される武装闘争の道を指し示した。徳球等は北京に逃亡し、これら亡命した人々によって地下指導部「北京機関」がつくられた。この「北京機関」指令として、突如武力革命方針が提起されるようになった。「共産主義者と愛国者の新しい任務−力には力をもってたたかえ−」という無署名論文が10.7日付け「平和と独立」と10.12日付け「内外評論」に発表され、武力革命と武装闘争が指導されることになった。国内では、志田重男が徳球にかわり組織の指導にあたることになった。

 この背景には中国共産党の指示があった。中国共産党は、「武装した人民対武装した反革命は中国だけの特質ではない」という認識から日本革命の道筋を明らかにし、日本革命はロシア.中国.東欧の三つの革命の特徴を大なり小なり持っており、これら革命の諸経験を摂取して独自の進路を見いだすべきとした。現実の革命コースとしては、ロシアの都市労働者の武装蜂起と中国の農村遊撃隊の組織との結合を予想し、同時に軍事的知識の習得を要請した。こうして、10.15日号「党活動指針」は、「敵が民主主義の仮面をかなぐりすて、その支配を保持するために武力をもちいている以上、もはや平和で合法的な方法だけにたよっていることはできない」と、はじめて非合法活動の必要と武力闘争への転換の必要とを示唆した。

(私論.私観) 党の武装闘争と軍事方針について

 【註】「レッドパージの予感がつのっつてきたころ……野坂、長谷川に軍事方針の作成を依頼.長谷川が断ると紺野与次郎(戦前の風間委員長のころの軍事委員長)へ.紺野、全国の5万分の一の地図を集めて農村ゲリラ活動と根拠地建設の一大プランを作成.長谷川ほか多数が反対.志田は沈黙。

 51年の4全協.農村ゲリラとゼネスト・武装蜂起の折衷案.〃折衷案といっても、ゼネスト路線は遠い先の話だから、現実には農村ゲリラ型の地域解放= 中国流の地域解放闘争だけになってしまう〃〃戦後の日本資本主義をどうとらえるか、プロレタリアートと農民のどちらを重視するかという実に根本的な戦略論争〃.以後、軍事路線について、志田と長谷川は一貫して対立」とある。


【人事防衛委員会の設置】
 この年秋口頃、人事防衛委員会(人防)が設置された。これは統制委員会の下請け機関として活動することになり、党本部では阿部義美や中野雪雄などがそのメンバーであったが、国際派等の反対派狩りや「スパイ摘発」に猛威を振るうことになった。但し、六全協後は消滅させられ、統制委員会の事務室とか党本部総務部などに分散、配置されることになる。この「人防」についても党史上解明されていない。

【トラック部隊】

 この頃、人民艦隊の1隻、第三高浜丸は、中国からトラック部隊長・大村栄之助を連れ帰っている。大村栄之助とは、松岡洋右の次の満鉄総裁大村卓一の次男で風采も人当たりも良かった。トラック部隊とは、共産党が火炎瓶闘争を展開していた頃、中小会社から物資.財産を取り込もうとしたかなり過激な秘密行動組織隊であった。収奪、乗っ取り、破産させ、党の裏の財政活動をしていたとも云われているが、今日でも実態は解明されていない。
 
 朝鮮戦争が勃発し、共産軍が破竹の勢いで米韓軍を釜山橋頭堡に追い詰めた時期、党員達は本気で革命近しと信じ、「もう直ぐ、中国解放軍が日本解放の為朝鮮海峡を渡ってくる」、「北海道にソ連軍の降下部隊が降りてくる」といった話が呟かれていた。トラック部隊の動きはこうした状勢に連動していた。

 トラック部隊の正規の名称は「特殊財政部」であり、最初のキャップ大村は、昭和26年頃、駐日ソ連代表部のシバエフMVD(ソ連内務省)大佐らから、日共の活動資金を受取っていた暗号名「ロン」と呼ばれる人物だったとされている。つまり、トラック部隊は、当時の日本、ソ連、中国の各共産党が緊密な連携作戦の下に日本の革命工作をしていたことの貴重な史実となっている。主に志田系が関与し、豊富な財源となった。

(私論.私観) 「トラック部隊」の党史上からの抹殺について

 「トラック部隊」に関する情報はほぼ遮断されており、今日も判明しない。それを「当時の日本、ソ連、中国の各共産党が緊密な連携作戦の下に日本の革命工作をしていたことの貴重な史実」の観点からのみ見るのは方手落ちのような気がする。れんだいこの臭いとして、戦前の風間執行部下での「スパイM」による資金調達手法と酷似している気がしてならない。基本的に左派戦線に打撃を与える結果になる方向で諸悪事が画策されたのではないのか。

 後に触れようと思うが、これに宮顕が深く関わっているという隠蔽された史実が刻まれている


【「全国統一委員会」解体される】
 10.10日、ソ連.中国両共産党の支持を得ることに成功した「臨中」派は、ますます強気になった。10.10日、「悪質分子を孤立させよ」と呼号した(「10.10日5周年にさいし全党の同志諸君に訴える」)。こうなると、「全統委」派の情勢利あらず内部の足並みが乱れ始め、10.30日「党の統一促進のためにわれわれは進んで原則に返る−全国統一委員会の解消に際して−」声明を発し、「全国統一委員会」を解消した。結成後2ヶ月に満たない歴史となった。統一委員会は、この時のしこりで宮顕派と春日派に分かれることになった。

 この時の宮顕の論理が亀山の「戦後日本共産党の二重帳簿」で次のように明かされている。
 概要「宮本は、春日(庄)や亀山反対を押し切って唐突に全統委を解散させた。その際、形の上で全国統一委員会を解消するが、これは『隊列を解くのではなく、敵に口実を与えない為の方便である。現に存在する地方組織は解消せず、表面に名前の出ている全統委だけを解消するのだ』と策略を弄した。しかし下部からの突き上げがあり、そこで何やらこねあげてきたのが『ケルン論』であった。どういう意味かというと、『全統委を解消し、表向きは統一の姿勢をとるが、実質的には引き続き所感派に対抗していくケルン運動を展開する。ケルン組織は表に出さないので、批判されることは無い』というものであった」。

 こういう欺瞞論理に春日(庄)と亀山らが納得せず、「党内闘争にそういう虚偽は通用しない。宮本の云うようなケルン組織は組織原則の破壊であり、悪質な分派主義となる危険が有る」として反対した。宮顕は、「これこそが政治における名人芸というものだ」と嘯き、ケルンとしての宮顕グループ形成に力を入れていった。この経過と次に述べる統一会議での画策を見て、亀山は次のように評している。
 「このような宮本の遣り方は、常に形式論理を重んじ、外形を繕いながら内実では明らかに原則を逸脱した『分派主義、政治性の駆使』以外の何物でもない。まさに欺瞞と歪曲の連続であった。この辺りに宮本という人間の一つの『原型』が現れている」ろ。

(私論.私観) 党内対立の不毛性について

 この経過から見えてくることは、党は、朝鮮戦争が53.7日に板門店で休戦協定が調印されるまでの間を、この間後述するように日本の独立をめぐる講和問題が発生したこの時に、党の力量が最も問われている時に、党内が大混乱してその党内対策に熱中させられていたという馬鹿馬鹿しさを見せていることになる。


【全国統一委員会解体後の新指導部】
 日本共産党の指導体制は、@・北京機関》の国外指導部、A・国内の臨時中央指導部(臨中)、B・地下指導部ラインに一本化された。幹部配置は、北京機関の徳田球一、野坂参三、西沢隆二、椎名悦郎、地下指導部の伊藤律、志田重男となった。「国際派」七人の中央委員をすべて排除した主流派独占の指導体制となった。

 「党内抗争の力関係の結果というよりも、スターリンから委託された中国共産党の強力な指導がこの背景にあった。宮島義雄が党の密命をおびて持ち帰った三つの指示はそれを物語っている」
(脇田憲一「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」

 11.1日、臨中、全国統一委員会の統一申し入れに対する拒否回答を発表。その後、排除された中央委員を代表して宮顕が統一促進の為の具体的方策を「臨中」に手渡す。

【「第1次早大事件」発生】
 この頃の学生運動につき、「戦後学生運動第2期」に記す。 

 10.17日、この時早大で、第1次早大事件といわれる闘争が取り組まれ、全学連はゼネストを決行せよ指令を出し、全学連の呼びかけで早大構内で全都集会が開かれる。大学当局と警察は学生の「平和と大学擁護大会」を弾圧し、学生143名が逮捕された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。


 この時の、全学連中執の指導が疑惑されることになり、次のように証言されている。これが1952.2.14日の国際派東大細胞内査問・リンチ事件の遠因となる。
 「夜おそく早大に駆けつけた私は、腰紐で文字通り数珠つなぎにされた同志たちを見て容易ならざる状態であることを知った。木村とともにこの日の無理な〃突撃〃を命じた戸塚の指導が後の査問の理由のひとつとなる」。

【「人民文学」創刊される】

 11月、反党中央派的であった「新日本文学」に対抗する為に、党中央派は「人民文学」を創刊している。江馬修を中心に除村吉太郎、藤森成吉、島田政雄、来栖継の5名が中心になり、創刊後は豊田正子が来栖と交替し、徳永直、岩上順一らも結集していた。高倉が巻頭論文「人民に仕える文学」を書いている。53.12月(37号)まで続いた。


【企業に対するレッド.パージ通達】

 労働省労政局通牒「企業内における共産主義分子の排除について」で、各企業におけるレッド.パージに対する指針を示した。「排除の対象は、共産党員及びその同調者であって、且つその何れにしても、指導的に活動し、他にたいして扇動的であり又はその企画者で企業の安全と平和に実害のある悪質ないわゆるアクティブ.トラブルメーカーである」と文中には書かれていた。これは労働基本権に対する底なしの蹂躙であり、事実後に財界の「アカ労働者攻撃」につながっていくことになった。


【 公職追放解除】

 10.13日、「GHQ」の承認により戦争犯罪者の公職追放解除にとりかかり、1万余人の解除が発表された。


【 労働組合の変化】

 49.12.10日、「民同」グループが新産別の結成大会開催。「ファシズム及び共産党の独裁政権に反対し、かれらの企図する暴力革命を粉砕し、社会民主主義政党と協同し、社会主義の実現を目標とする」綱領を掲げた。委員長には金山敏(全生保)が就任した。

 総同盟は、49.11の第四回大会において左派の進出が目立った。松岡駒吉が引き続き会長に選出されたが、左派の山花秀雄との激戦になった。

 7.11日、東京三田の東交会館で日本労働組合総評議会(総評)が結成されている。議長に炭鉱労の武藤武雄、事務局長島上五郎。正式参加17組合、377万5000名、オブザーバー参加17組合、63万5000名と称した。労働戦線における諸単産が結集した労働組合中央組織。高野実事務局長。結成大会で「日本共産党の組合支配と暴力革命的方針を排除し、」「自由にして民主的なる労働組合によって労働戦線統一のの巨大なる礎を据えた」と宣言した。日本社会党を支持する態度を決定した。


【 朝鮮戦争特需】
 この朝鮮動乱は突如として日本に特需景気をもたらし、ドッジ.プランのデフレ政策に苦しんでいた日本経済に、時ならぬ利益をもたらすことになった。戦争遂行に必要な物資やサービスが日本から調達されることになったことによる。こうして、後方兵站基地として機能した日本に米軍発注の特殊需要が創出され、この年だけで1億8200万ドル、1950.6月からの一年間で3億4000万ドル(1200億円)に達し、動乱発生前の滞貨推定額1000億円を上回った。以後1955.6月までの5年間の累計は16億2000万ドルに達した、と云われている。

 日本経済は思わぬ恩恵を受けることとなり、金偏、糸偏景気といわれた動乱ブームに沸いた。開戦後一年間で、鉱工業生産は46%増え、輸出が60%以上増加し、国際収支も50年下半期より輸出超過に転じた。まさに起死回生の「干天の慈雨」となった。以降日本の独占資本は、戦争が生んだ特需景気に活路を見いだしていくことになった。

 これを証する次の資料がある。昭和9年〜11年を100とした製造業の生産指数は、22年35.1、23年52.5、24年68.9、25年82.0、26年115.1、29年173.8、32年262.5となっている。「近代日本総合年表第三版」(岩波書店)によれば、1951年度の鉱工業生産指数、製造工業生産指数は戦前の1934〜36年を1000とした場合、いずれも127.7、114.8と大幅な伸びを見せた。また、1952年度の個人国民所得は戦後7年目で戦前の水準にまで回復している。日本経済が、この間に見事に復活と再起を遂げていることが分かる。

【池田蔵相「貧乏人は麦を食え」 発言で物議】
 12月、国会答弁で、池田勇人蔵相が概要「所得の少ない人は麦を食う。多い人は米を食う(というのが経済の原則)」と発言。マスコミがこれを「貧乏人は麦を食え発言」として喧伝していった。

【 分裂下の党の戦い】

 党は、この時期党として最も大切な職場の基盤がつぶされつつある時、党内闘争の方はますます深刻化させていき、全党のエネルギーがほとんどこの内争にそそぎ込まれる有様であった。

 党は、不幸な分裂状態におかれていたが、それぞれの当機関と組織や党員はアメリカ帝国主義の朝鮮戦争介入に公然と反対し、たたかった。党中国地方委員会は、核兵器反対運動を展開した。平和署名運動、基地闘争が展開された。統一的な運動が組織できず、闘争を発展させることができなかった。レッドパージその他の弾圧にも有効な戦いが組織できなかった。経営支部の大部分が破壊され、労働組合運動に対する指導力も弱められた。


【 「臨中」派の勝利宣言とその後】
 「統一委員会」の解体を見た「臨中」派は一層威たけだけとなった。11.1日、「臨中」と統制委員会連名で「統一委員会」派に結集した党員の復帰要項を発表した(「分派組織よりの『申入れ書』に対する回答」)。概要として、組織としての話し合いは一切受け付けず、各個人が徹底的な自己批判を行って「臨中」への忠誠を誓って活動するなら復党させても良いというものであった。「臨中」派の勝利宣言であった。「統一委員会」派に拠らなかった他の国際派グループ(「国際主義者団」.「統一協議会」.「中西派」など)は、両派の交渉ぶりを見守る態度をとった。

(私論.私観) 「臨中」派の勝利宣言について

 「臨中」派の勝利宣言も、それが党内的に解決しえず中国共産党の威を借りてようやく決着したというお粗末さであったことを「臨中」派はわきまえるべきであったと思われる。常に肝要なことは、原則であり有頂天になることではない。実際に、立場が替わって宮顕グループが執行部に座るようになった際に倍した報復を受けることになる。

(私論.私観) 中国共産党の影響力の強さについて

 ここで注意しておくべき点は、この時点で党に与える影響力について中国共産党の方がソ連のそれよりも大きなっていたということであろう。この傾向はこの後もますます強くなり、次第に中国共産党のイニシアチブの下に党が動かされていくことになる。


【 椎野「臨中」議長の「地域人民闘争プラス民族闘争プラス武装闘争」の呼びかけ】
 椎野「臨中」議長は、前衛50.12月号で「民族の危機と我が党の緊急任務」で次のように述べている。「我々の闘争は権力をとることを目的に発展させられなければならない。この観点に立てば、労働者階級の当面の要求は、直ちに農民・市民の要求と結合され、闘争は労働者階級を中軸として広範な人民闘争、権力闘争へと拡大するのである。日本の解放闘争は、この地域人民闘争を基礎とする全国的な闘争によって達成される」見解を披瀝している。

 同じくこの号で、宮田千太郎なる名で「権力獲得への基礎」で次のように論ぜられている。「地域闘争はその本質において、我が国における権力獲得の中心戦術である。それは我が国の諸条件に適用され、具体化されたマルクス・レーニン主義である。労働者階級が全人民の先頭に立ち、民族を解放し、反動支配を打破し、新しい支配形態を創造していく道がすなわち地域人民闘争である」。

 これを見れば、当時の指導部が、地域人民闘争プラス民族闘争プラス武装闘争という戦術を立てていたことが分かる。

【 宮顕が新たな分派組織の旗揚げ策動】
 「統一委員会」派は、12月頃になって、先の 「統一委員会」の解散が時期尚早であったことを確認していくことになった。こうして12月中旬には再び全国的な統一組織をつくろうとする筋書きが纏まり、年末にかけて宮顕.蔵原.春日.袴田.亀山.遠坂.原田らの旧「統一委員会」指導分子が中心となり、新たに全国的機関としてビューローを設けること、機関誌「解放戦線」、理論誌「理論戦線」、「党活動」などを発行することなどを取り決めた。志賀、神山は除かれていた。

 年末には中国共産党に理解を得ようと袴田里見を送り込んだ。

(私論.私観) 蔵原について

 ここで宮顕の次に名前の挙がっている蔵原は札付きの胡散臭い人物であることが注目されて良い。戦前のプロレタリア文化運動の大御所であったが、戦時中逮捕されているにも関わらず病気を理由に仮出獄しており、同じく転向仲間であった中本たかと結婚している。詳細は資料が入り次第に綴ることにするが、この観点はほぼ間違いない。

 この当時の宮顕グループを精密に考察することには意味があると思われる。「臨中」派がスパイ呼ばわりをしていた根拠のある人士が結集しているように思われる。


【 この頃の宮顕の動静】
 この頃の宮顕の動静を伝える次のような逸話がある。

 「征きて還りし兵の記憶」(高杉一郎著 岩波書店 平成8年)の著者高杉氏は、敗戦後シベリアに強制連行され、4年間の奴隷労働の後昭和24年に帰国した。戦前雑誌「改造」の編集者でもあったことから、その時の記録集として「極光のかげに」を出版した。作家宮本百合子と付き合いがあり、昭和25年(1950年)12月末宮本夫妻宅を訪問した。その時の逸話が次のように伝えられている。
 (「征きて還りし兵の記憶」187−8頁からの引用)

 宮本百合子が私のシベリアの話を聞きおわったころ、…階段を降りてくる足音が聞こえた。…引き戸がいきおいよく開けられた。…戸口いっぱいに立っていたのは、宮本顕治だろうと思われた。…宮本百合子が、坐ったままの場所から私を紹介した。雑誌「改造」の編集者だった、そしてこのあいだ贈られてきた「極光のかげに」の著者としての私を。すると、その戸口に立ったままのひとは、いきなり「あの本は偉大な政治家スターリンをけがすものだ」と言い、間をおいて「こんどだけは見のがしてやるが」とつけ加えた。 

 (「征きて還りし兵の記憶」206頁からの引用)

 自分は一度もシベリアに行ったことのない集団が、まる四年間そこで働かされてきた人間を突然呼び出して、おまえの見てきたシベリアの「事実」は「事実」ではないと断定するばかりか、その報告はゆるしがたい犯罪行為であるかのように攻撃するのである。




(私論.私見)