新日和見事件の考察 第8部−3 H「事件余話」について

 (最新見直し2007.2.7日)

 1969年の民青同と全共闘との内ゲバ時における宮顕の関与が明かされている。通常このような青年・学生運動の成り行きに御大宮顕自身が乗り出 してくることは似合わないように思えるが、そこが氏らしい。宮顕が「新日和見主義事件」も含め、常に青年・学生運動の左翼的成り行きを極めてナイーブに危惧している姿勢が浮き彫りにされており興味深い。

 川上氏の「査問」38Pは次のように記している。

 「宮本委員長が執務する部屋に直接案内されたこともあった。私がいい気になっていた頃である。あの時、宮本は私に詳細な報告を求めた。『われわれ』の側の武装情況、その指揮系統、食糧の供給状態、学生達の健康状態、ゲバ棒の数に至るまで、こちらが質問に即答できず慌てるほど詳細であった。奇妙な質問もあった。そうした現在の武装状況を一挙に解くことが出来るか。一夜にして『消す』ことができるのかと聞くのである。宮本が何を言いたいのか、私には分からなかった。私は出来ないことはない、と答えた。東大全共闘と全学連(民青系)の行動隊が双方1万人のゲバルト部隊を動員し、武装対峙したときのことである。

 宮本と会って間もなく、彼が質問した意味を理解することとなった。安田講堂を落とす為に機動隊が構内に突入するという形勢となったときのことである。党本部から緊急の指示が来た。明朝までに、ゲバ棒は一本残らず撤収すること、行動隊も一人残らず東大構内から姿を消すこと、この指示は絶対に守ること。これは、直ちに完璧に実行にうつされたのである。機動隊が導入された時、『われわれ』が拠点としていた場所からは一本のゲバ棒も発見されなかった。もちろんゲバルト部隊の一員たりとも。実行に移したのは『われわれ』であったが、今日そのような事態になることをあらかじめ予測し、詳細なデータを集めた宮本の細心にして大胆なことに舌を巻いた。『武装民青』のイメージは、マスコミ から消すことに成功した」。

 宮顕のこの手際のよい見通しを、果たして、「宮本の細心にして大胆」さに因を求めるべきであろうか、私の観点は繰り返さないことにする。「査問」126Pは次のようにも記している。

 「そのころは、学生問題関係は詳細にわたる事項までトップに報告され、少なくともその了解のもとに決定され、実行に移されていた」

 宮顕は、新日和見主義者処分の正当性を得々と語っていたようである。「査問」183Pは次のように記している。

 「宮本顕治は講演会で、一派の者が書いたという自己批判書の文章を取り上げ、『娯楽』と書くべき所を『誤楽』と書いていたと紹介し、一派の者達の知的教養の低さを嗤った。それを赤旗がそっくり掲載し、その箇所で(爆笑)と記録 していた」。

 同様の話として、「民主集中制」の「制」を「性」 と誤記しているのを嗤ったという話もある。

 「査問」205Pは、不破のトラウマぶりを次のように伝えている。

 「この年(1971年)の秋、全学連は沖縄返還協定の審議を始めた国会に向けての抗議行動に移っていった。1 0.21日から11月初旬に向けて『連続高原闘争』と名付けられた。連日、国会に押し掛けようというものであった。だが、そろそろ息切れの頃だった。国会の議員面会所では不破がにこやかに手を振っていた。だが、翌日、全学連の役員は党本部に呼ばれる。『あのVサインを止めさせてくれないか。不破さんが眼を刺されるようでイヤだと言ってる』。党の側の冷たい対応が続いた」。

 トラウマは各自が持っているものであり一概に非難されるべきではないにせよ、共産党の委員長としてのこのトラウマはあまりにも似つかわしくない。

 川上氏は、次のように厳しい党批判を投げかけている。私も同感である。その一節は、

 「すべて些末なことと大事なこととが逆転していた。些末なところで党員が規格化されていく」。

 少々長くなるが法政大学教授高橋彦博氏の1998.3.9日付け「川上徹著『査問』の合評会」の一節を紹介する。

 「日本共産党の歴史も75年になりますが、第二次大戦後の、いわゆる戦後の党史が70パーセントを占めるようになりました。ところが、戦前の20余年の非合法共産党史についての研究は厚い層を形成するほどの成果を蓄積していますが、戦後の50余年についての日本共産党史研究は、目下のところほとんど手付かずの状態にあります。日本共産党本部が編んだ『正史』 が50年史、60年史、65年史、と何種類もありますが、 編纂した時点で党の理論的立場や歴史経過の評価を変え、しかも、変えた部分や変えざるをえなくなった経過を明示しないという方法をとっているのがその特徴になっています」。
 「ベルリンの壁の崩壊とソ連共産党の解体を受けて、日本共産党も崩壊と解体の危機に直面しました。そこで、宮本顕治体制特有の組織防衛の先制攻撃が開始されました。それが1992年の 『ネオ・マル粛清』でした。『新日和見主義』の大粛清で辛うじて生き残った川上さんも、『ネオ・マル粛清』の前夜、隠微な処置方法で消去されたのでした」、「1992年における一橋大学の某教授の追放を皮切りに、1993年における法政大学の某教授(実は私)、続けて名古屋大学の某助教授、さらに立命館大学の某教授と、ネオ・マルクス主義の理論的立場で発言を続けてきた研究者たちが、何人か、除籍、離党など、処分以外のなんらかの形で日本共産党から追放されました。かつての分派闘争との違いは、だれがどのような問題で日本共産党から排除されたのか、いっさい、明らかにされることなく、党内論争の浮上が徹底して抑止されたことです」、
 「『ベルリンの壁』の崩壊後、党内に急速に浮上した前衛党の構造改革を求める意見が党内に波及することを防ぐ目標で、いっさいのその種の党内論議に厳封を施したまま消去する処置がなされたのが『ネオ・マル粛清』の内容でした。それは、『新日和見主義』の大粛清と同じ性格の粛正工作でした」、「私は、この『ネオ・マル粛清』の全貌を把握しているわけではありません。そのような策動を自分の周辺の動きとして感知したにすぎません。それでも、東海道を東から西へる方向で各個撃破戦術よろしく辣腕を得意気にふるって歩いたWという 『スターリン時代のベリヤ』のような男の存在を私なりに確認しています。彼の名は、最近では日本共産党中央委員会の名簿の末尾に載るようになっています。Wは、川上さんや加藤さん の二世代くらい後になる学生運動出身の活動家でしょうか。W を見ると、知的誠実さを欠落させた権力志向のパーソナリティ が再生産される集権的党構造が現存している実態をあらためて確認させられます」。

 なお、この好査問体質はフリージャーナリスト有田芳生氏の場合にも証明されている。1度目の査問は1983年、2度目が1990年とある。詳細は本人自身の私の査問体験を参照されたし。

 おしまいは私の寓話。「行動心理学」なるものがあるとして次のたとえは私の胸を打つ。コックが食用カエルを調理するとき、カエルをいきなり熱湯の鍋の中に入れるとびっくりして「アッチッチッ」式に飛び跳ねて出てしまう。ところが、 鍋の中の水を冷水状態にしておき、ここにカエルを入れると気持ちよく泳ぎ始める。仕掛けは次第にとろ火で熱していくことである。カエルは温泉気分になって我が世の春を謳歌するまもなく次第に眠くなる。こうしてゆでカエルの一丁上がりとなる。マァマァマァのうちに徐々に眠くさせられるところがミソと言える。

 お叱りを受けつつも長々と投稿を続けさせて頂きましたが以上で完結です。 時局柄不破執行部の最後の大奮闘期に入っている様子ですので頑張って頂きたいという配慮から暫く静観しておこうと思う気持ちと、客観的に見て紙面を重くした責任を感じていますので雪解け期まで蟄居したいと思います。確かに、金城さんのご指摘為されているように私の個人的感慨を「さざ波通信」で マスターベーションさせた嫌いがあります。ただし、そういう動機であれ、内容的にどうなのかという点で「良薬口に苦し」であった的に受け留めて頂けましたら本望ではありますが。何しろ根が拗ね者ですので今後は許容される限り気ままに投稿させていただこうかと考えています。


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