新日和見事件の考察 | 第3部−2 | F「処分とその後」
G「事件のその後」について |
(最新見直し2007.2.7日)
その11 | F「処分とその後」について |
この時新日和見主義者として処分された党員の数については、全国で600名とも1000名に及ぶとも云われている。党中央は未だに全貌を明らかにしていない。処分は1972.9月末の民青同第12回全国大会で承認された。民青同本部常駐中央常任委員だけでも15名中7名が処分されていた。処分は民青同だけにとどまらず、広谷俊二共産党中央委員や川端治、高野孟などの評論家にも及んでいた。全学連指導部の処分には向かわなかったようである。このことに関して、「汚名」251Pは次のように記している。
そうかも知れない。
この記述には二重の詐術がある。一つは、「この闘争は、民青同盟が一時期の組織的停滞を克服し」の詐術である。この時期民青同は、「一時期の組織的停滞」どころか、反代々木セクトが退潮著しい中20万同盟員を擁して存在力を強めつつあった。嘘もいい加減にしないと閻魔様に舌を抜かれてしまうであろう。もう一つの詐術は、「新しい発展と高揚の方向をかちとるうえでも、重要な契機となった」である。既に説明不要であろうが、事実は民青同と全学連の組織的凋落への契機となっ
た。現党中央の饒舌もほどほどにしないといけない。今では地区組織も廃止され、20万→2万前後の同盟員に落ち込んでいるのではないのか。事件は「角を矯めて牛を殺す」結果になったのはないのか。私は、こういう詐術ががまんならない質であるが、党員の皆様は「何でもかんでも党中央の云うことはその通り」
なのでしょうか。
正論と言うべきだろう。
とあることから推測すれば、「県直属点在党員」となって支部からも外され、“格子なき党内独房”下に置かれるようである。“格子なき党内独房”について、宮地氏は自らの体験も踏まえて、 特高の「予防拘禁式組織隔離」を真似したものではないかと指摘し、次のように述べている。
宮地氏のこの指摘は的確と思うが、一つだけ同意できないことがある。宮顕12年の獄中生活を徳球・志賀らのそれと同格にしていることを疑問としたい。先の連作投稿「その5.宮顕の獄中闘争について」で明らかにしたように、宮顕のそれはいかにも胡散臭い。「獄中12年非転向タフガイ神話」はどこから生まれてきたのか不明であるが、真相は大きく違うのではないのか。戦後になってこの御仁から過去の転向を咎められて苦衷に陥った幹部党員がいるが、私に言わせればそのような必要なぞどこにも無いと思われる。
ここは注意を要するところであるが、宮顕・不破等の論文を読ませ感想文を書かせることの意味は、「宮顕−不破党中央のイエスマンになるのか」の踏み絵を権力的に強要したということであろう。ということは、現下党員幹部はこの踏み絵に対してのイエスマン橋を渡った者ばかりであるということになるであろう。
ここでも学習が義務付けられているが、宮顕・不破論文内容の駄文ぶりを思えば、待機組と同じくイエスマン橋の渡りを強要されたということである。彼らには「五階組」というアダ名がつけられ、要するに窓際族に追いやられた。「五階組」には単純作業が割り当てられ、小型版「収容所列島」の観があったと言う。治安維持法下の予防拘禁制度の真似のようなものであったとも言われている。なお、処分者は、自己批判の誠実度により、一年未満の党員権停止処分から除名処分の間を
ランク分けされたようである。彼らには「異常な」学習と労働が指示された。
「異常な」とは、「新日和見主義粉砕」のポスター書とそれの事務所周辺貼りの強要がなされたことを言う。このエゲツナイ指示を与えて得々としていた者が後にスパイであったことが判明している。ならば、そのスパイを使っていた者、そのスパイを表彰した者の責任はなぜ追及されないのだろう。誰がそのスパイを重用していたのだという当たり前の関心が遮断されている。
菅原記者ほどの提灯記事屋に「物書きとしての不誠実さ」をなじられたら立つ瀬もないが、世の中は往々にしてそういうところがある。先生先生と言われて善良ぽいことを言ってる者が裏で一番悪事を働いている例に似ている。それはともかく、菅原記者の物言いは、かの「査問事件」で居直った宮顕とまるで同じ論法である。あの時も、「蘇生の為に努力したのは私と秋笹だけであり」、何と!「蘇生しなかったのは小畑のせいである」という弁明を聞かされた。今また「これほど温情ある態度を党がとったのに、その党に背く行為をするとは何たることか」と叱責されてしまった。これは説教強盗の論理であり、二重三重の居直り論理であり、子供だましの物言いである。相手にすることさえ馬鹿馬鹿しい。 |
その12 | G「事件のその後」について |
さて、ここまで新日和見主義事件を見てきたが、私の観点に拠らずとも次の程度まで総括することはごく自然であるように思われる。
私は、共産主義運動内に「幹部としての自らの個人的利害を優先」させる作法が発生することなぞ原義に基づいて信じられない思いがするが、これが歴史の実際であり、自他共に戒めるべき且つ何らかの制度的措置を講じる必要があることのように思われる。 いよいよ新日和見主義事件に暗躍した公安スパイの考察に入る。事件から2年後の1974年、前民青同中央常任委員であり大阪府委員長であった「北島」が公安警察のスパイとして摘発された。「北島」の事件渦中の動きの詳細は伝えられていないが、事件後の被査問者に新日和見主義粉砕のステッカーを書かせ、それを民青同事務所の周辺に貼らせる指示さえなす等大阪府委員会における「異常な学習と労働」の先頭で立ち働き、この功績が認められその後党本部勤務となり要職に就いていたという人物であった。この経過は、党中央と「北島」の 利害が一致していたことの例証であると思われる。人の世の常として、こうした人物が「党本部勤務となり要職に登用」されることがままあるにしても、新日和見主義者排斥の強権発動ぶりと比較してみていかにもずさんなという思いが禁じえない。 続いて、翌75年、現職の民青同愛知県委員長「水谷」らもスパイであることが発覚 した。ところが、現職委員長のスパイの親玉は前・民青同愛知県委員長「西村」であることが判った。ということは、民青同委員長職がスパイからスパイへと回されていることになる。しかも、よりによって愛知県である。我々は、こういう事態をどう了解すべきだろう。この「西村」と言えば委員長在職時代に、新日和見主義者を処分した民青同第12回全国大会で、最高の栄誉「解放旗」を授与され、当然「西村」の模範的活動家ぶりが評価されたという曰くつきの人物であった。この経過もまた、党中央と「西村」の利害が一致していたことの例証であると思われる。物事には過ちがつきものとしてこうした人物に「解放旗」 が授与されることが許容されたとしても、新日和見主義者排斥の強権発動ぶ りと比較してみていかにも杜撰なというか、摘発方向が反対ではないかという思いが禁じえない。 「北島」、「西村」の二人について油井氏は次のように述べている。
こうしたことから 「当時の民青中央委員会に、中央常任委員を含む複数の中央委員が公安警察のスパイとして潜伏し、同事件を挑発した形跡がみられる」と結論づけられることになる。 事件渦中での「北島」、「西村」の働きをもっと知りたいようにも思うが、これ以上には明かされていない。75.12.26日付け赤旗記事から窺えることは次のとおりである。
赤旗に拠れば、「北島」、「西村」が新日和見事件時に党中央の意向を挺して新日和見主義者掃討の最も熱心な旗振り役であったことなどおくびにも出さない。むしろ、「党と民青同盟内で反党分派組織の拡大をはかった」とか「反党分派の謀議に参加し、民青同盟を党と対立させようと策動した」とか、あたかも新日和見事件時の新日和見主義者側であったかのごとくに逆方向へ意図的に詐術している。この詐術はまさか偶然ではなかろう。これが、宮顕-不破ラインの典型的且つ一貫した常用ペテン論理であることを見抜くのは造作も無いことであろう。 私は、これまで述べたことから明らかなように、単に公安の暗躍により新日和見事件が起こされたなどとは考えない。公安にしても「北島・西村」は表沙汰にされた一部でしかないのではないのかと考えている。「新日和見事件は党中央と公安とが内通しつつ押し進めた党内清掃事業であったのではないのか」と考えている。「北島・西村」の存在漏洩はその証の一部であったのではないかと考えている。こうして、新日和見主義事件は、民青同幹部にいた最もすぐれた活動家たちを根こそぎ一掃することで公安と党中央の目的を成功させた。 もし、この見方が間違っているというのなら、「北島・西村」摘発後における党中央の俊敏な、事件そのものの見直し作業が自主的に開始されていてしかるべきであろう。 事件から15年後の1987年4月上旬、なつかしさのこみ上げてきた元民青同中央常任委員・小山晃は、同事件の被処分者にあて、「5.30日15年ぶりの会」と銘打って再会の呼びかけを発した。この動きは、手紙を受けた者の一人が「おおそれながら」と訴えでたことにより、党中央に知られるところとなった。党中央は直ちに全国的な調査を開始した。「とにかく党員は『会』に行くべ きでないというのが党の見解です」と言いながら、党中央は何とかして会を中止させようと介入した。この指図に現執行部不破が無関係ということは有りえない。説得と指導を受けた小山は、「誰かの指示かだと? どうしてあんたがたはそう言う風にしか人間を考えられないのか。自分の書いた手紙の通り、かっての友人達と15年ぶりの再開を果たしたいのだ、それ以上でも以下でもない」と言い切り、離党届で始末を付けることを決意させた。当日、党の妨害を乗り越えて「15年ぶりの会」が開催された。 党中央は、この会を認めず、会終了後判明した参加者に対して、下部組織を使って「参加者の氏名や会の模様を文書で報告せよ、党事務所に出頭せよ」などと執拗に要求してきた。それは不参加者や元中央委員でない者にまで及んだ。追求は この年いっぱい続いた。この指図を見ても不破らしいねちっこさであり、無関係ということは有りえない。ここまで至ってさすがに嫌気の世界を誘発させたようである。新日和見主義者達は、これまで「党の内部問題は、党内で解決し、 党外に持ち出してはならない」という規約に従ってきた。被処分者の側から反論文書が公表されることもなく、「党員は出版などの方法で党と異なる見解を公表できない。もし、それを行えば規律違反で処分される」ことを恐れて「羊たちの沈黙」を守ってきた。しかし、党中央は、処分した側に警察のスパイがいたという諸事実が判明したにも関わらず事件見直しに着手することも無かった。「新日和見主義者」達は、この間主体的に自ら等が手塩で育てきた民青同の瓦解的現象にも横目で見過ごすことしか出来なかった。党中央の動きは、様々なデータから見てもあの頃より前進どころか後退しているようにしか見えてこない。 こうしたことが重なってきた結果、「振り返ってみて査問のやり方が気にくわない」という憤然とした気持ちが抑えられなくなった川上徹氏は、「新日和見主義」と称せられる「事件」がおきてから25年になろうとした頃、「私の中でようやく歴史となった」事件として、『査問』を世に問うことを決意したようである。この挙に対して、党中央は、「こういう不誠実さは、組織人の立場以前に、責任ある文筆家としての資格とも両立しがたいものです。事実をいつわらず、自分の言葉と行動に責任を負うことは、文筆家の最低限の資格にかかわることだからです」と叱責するが、ものは言いようでどうにでも言いなしえるのだなぁと深く嘆息させられてしまう。 しかし、世の中には次のような見方をする人も居られるから捨てたものでもない。高橋彦博氏は、1998.3.9日付「川上徹著『査問』の合評会」で次のように述べている。
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