新日和見事件の考察 | 第3部 | 4、事件の発端と「年齢引き下げ問題」
5、「査問」の様子 6、「被査問者の査問実感」について 補足「党中央の新日和見主義者批判キャンペーン」について |
(最新見直し2007.2.7日)
その7 | 4、事件の発端と「年齢引き下げ問題」について |
新日和見主義事件は、民青同の「年齢引き下げ問題」から端を発した。つま り、新日和見主義者達が規約問題で党と対立したことが摘発の原因となったということであるが、既述したように実際にはこれは党より用意周到に仕掛けられた罠であり、そうとは知らぬ新日和見主義者達は予想通り反発を見せたことにより事件へと誘い込まれることになった。
れんだいこには、やや評論気味の理解のように思われる。この経過で押さえておくべきは次のことである。この時点で既に、党中央の鉄の意思による断固たる新日和見主義者摘発闘争が発動されており、これを促したのはドン宮顕の「分派は双葉のうちに摘み取れ」の号令一下であった。つまり、5.7日の民青同幹部の党員会議の紛糾結果によって
「昨日、若造にやられたから」というにわか拵えの権力発動レベルのものではないということが踏まえられなければならない、ということだ。ここを確認しなければ真実が見えてこない。
これに対して党がどう動いたかが次のように明かされている。事態は急速に動いた。会議から2日後に出された5月9日の常任幹部会声明と「日本共産党創立50周年記念の歴史的な党躍進大運動に全党員は立ち上がろう」には、すでに
「干渉者」の存在を云々するとともに、これらの分子による「きわめて陰険で狡猾な暗躍」と闘うよう訴える一文が含まれていた。「陰険で狡猾」とは、調査してみてもはっきりしなかったという意味である。
しかし、どう詮索しようとも、査問官が期待していたような「分派相関図」、「外国勢力から支援を受けている一派」なぞは供述されず、従ってこの方面の解明は肩すかしに会ってしまったようである。このことは興味深いことでもあるが、「新日和見主義者」達は分派の臭いのするような相互の関わりを忌避しており、こぞって宮顕式統制論理の忠実な実践者であったことを逆に証明さえすることとなった。現場の査問官がこの落差をどう埋め合わせしたのか興味があるが伝えられていない。
こういう説教強盗の論理についてはこの後見ておこうと思う。 |
その8 | 5、「査問」の様子について |
私は、本来であれば当局との丁々発止のやり取りの中で続けられる党的運動を思うとき、党における査問自体の必要悪を否定するつもりはない。ただし、胡散臭い連中側からの査問なぞ認めるわけにはいかない。「査問」74Pは次のように記している。
こういう現実があるわけだから、組織防衛上査問自体は必要悪と考えられる。但し、厳格なルールの下に行なわれる要件が伴うであろう。 宮顕一派が戦前の大泉・小畑両中央委員に対して為したような、いきなりピストルで脅しての手縄・腰縄・足縄・猿ぐつわの下での食事を供せず便用の自由をも拘束したような査問は、どう強弁されようとも認められない。その点でこのたびの新日和見主義者達に為された査問はそのような「原始野蛮」な手法ではなかったことはやや改善の後が見られる。代わって採用されたやり方は精神的に追い込む手法であった。 ここで言いたいことは、「民主集中制」もそうであるが、査問についても厳格に運用基準が定められ、その経過と内容に付き極力公表されるべきではないかということである。ここを無視すると査問が権力者の強力無比な如意棒として乱用され、勝者の一方的論理を聞かされてしまうことになってしまう。ブルジ ョア法の下であろうが、この点において法の運用には一定のタガが填められていることは良いことのように思われる。一般に法律は、「条文」とその理解のための「手引き」と関連した「判例」等により、適用をめぐっての厳格な実施要綱が定められていることを良しとする。これは市民社会下のルールとして歴史的に獲得されてきたものとみなすことが出来、一般に広く支持されている。 ところが、党の場合、規約運用は未だ権力者の恣意性に導かれており、適正な遵法のさせ方としては肌寒い状況にあるのではなかろうか。既に多くの法学者が党員として結集しているように思われるのに彼らは一体何を学んでいるのだろう。党外の者に日本国憲法の基本的人権を滔々と説明する姿勢があるのなら、まずは党内の足下にその眼を向けては如何なもんだろう。党内権力者の恣意性を御用化するような法学者の精神は、官僚機構の「法匪」以下の水準にあると思われる。このようなブレーンに国の運命を託したとしたらと思うと、ゾッとするのは私だけではなかろう。 党の規約における査問の根拠は次のように定められている。党規約第59条は、概要「党員でありながら党をあざむきこれを破壊しようと規律に違反した者が出てきた場合に、組織を守るために、党はその者を処分することができる」と定められている。そして同条第二項は、概要「規律違反について調査審議中のものは、党員の権利を必要な範囲で制限することができる」とある。査問とはこの「調査審議」のことであるとされている。「正式に査問の意味内容を説明するのは、この四文字だけである」(「査問」前書き)ということのようで、正式用語はあくまで「調査審議」であり、査問という用語自体は党規約、党文書のどこにも載っていないという代物であるらしい。 ところが、党内では、早くも戦前の党活動において宮顕が中央委員に昇格した頃よりしばしば査問が行なわれてきているという史実がある。その実態は、紳士的で、“同志的”な「調査審議」どころではなく、憎悪の掻き立てられた「反党分子、階級敵への調査問責」であり、それは、警察による「犯罪者の取り調べ、尋問と同じ内容、雰囲気を持っている」というところに特徴がある。 以下、査問がどのような容疑を対象にし、どのような形態で行なわれるかを考えてみることにする。新日和見主義事件に先行して宮地氏の査問の様子が自身によって公開されている。 宮地氏らに対する査問とは、党勢拡大責任の極度な一面的追及、党内民主主義を踏みにじる指導を見せていた箕浦一三 准中央委員・県副委員長・地区委員長等への1カ月間にわたる地区党内あげての批判運動が逆に切り返され、追及者等が“分派・グループ活動”と認定され処分された事件であった。新日和見主義事件の5年前の1967年5月頃のことで『愛知県5月問題』と言われている。この分派、グループ活動容疑では、 数十名が査問され、そのうち宮地氏等十数名が“監禁”査問された。宮地氏は、地区常任委員としてその“分派・グループ的批判活動の首謀者”と見なされ、21日間にわたって“監禁”査問されたと公表している。 宮地氏は、この時の体験を通じて、党の査問が現行市民社会のルールの水準以下の旧特高的やり方であり、「日本共産党に市民社会的常識の秩序の適応を求める法的手段を講じよう」として対共産党裁判を実際に起こしたという珍しい経歴を見せている。この裁判を通じて、黙秘権、弁護士的な第三者機関の立ち会い・連絡、反論権などが全く尊重されていない「疑わしきは、被告人に不利にする」査問の実体が暴露されている。「人民的議会主義」の裏面がこのようなものであるとしたら、かなりの大衆は卒倒してしまうであろう。 で、新日和見事件の場合、どのように査問が運営されたかを以下見ていくことにする。まず指摘しておきたいことは、「新日和見主義者」達の場合確定した反党活動があったのかというと、共通して「何も無かった」という驚くべき事実が報告されている。査問側は査問を通じて必死で裏付けを取ろうとしたが、 「組織された反党活動」は見いだされなかった。こうして証拠が出なかったところから、「星雲状態にあった」とか「双葉の芽のうちに摘んだ」とか恐るべき居直りで事後対応せざるをえないことになった。つまり、「新日和見主義者」達は 「別件逮捕のようなもの」で査問され、にも関わらず本筋において容疑が確定しなかったという二重の大失態を見せたことになる。 今日こういう失態を警察が演じたとしたら大問題にされるところである。巧妙なことは、査問された側に、党の側からの呼び出し状であるとか、処分決定の言い渡し状であるとかが一枚も残されていないことであり、ほとんどを電話とか口頭命令で出頭させていることである。つまり、本人が明らかにしない限り事態の表出が困難にされている。後で見るように本人には堅く箝口令が敷かれている。 驚くべき事はまだまだこれから明らかになる。川上氏・新保氏・油井氏の例しか伝えられていないのでこれを参照する。査問官は下司順吉・諏訪茂・宮本忠人・雪野勉・不破哲三・上田耕一郎・小林栄三・宇野三郎・今井伸英辺りが知れるところであるが、他の被処分者も含めてこの時の査問官リストを集計し、後世の記録として公開しておく必要があるのではなかろうか。現下党中央の生粋メンバーが総出で査問に当たっているという史実がある訳であり、誰が誰を担当しどのように査問していったのかを記帳しておく必要を私は感じている。拘束された被査問者たちに対する扱いは、近代刑事訴訟法上以下の非人道的取り扱いを受けていることが分かる。直接的な暴行が加えられなかったということは評価されるが、これは元々党員同志間のかつ容疑不分明な査問であるのだから当たり前であって、この状態で暴行が加えられるとしたら旧特高以上のやり方になってしまう。 非人道的取り扱いぶりは、「君の党員権を今から停止する」の口上から始まり、該当の規約部分を告げながら問答無用式に「今から君を査問する。同意の誓約書を書け」というやり取りへと移る。この時査問理由の開示はない。押して理由の開示を求めると、「分派活動の容疑」と知らされる。分派活動の認定基準を尋ねると、「ここはね、君のチャラチャラしたお喋りを聞く場ではないんだよ」と一喝される。押し問答の末査問に無理矢理同意させられると直ちに私物一切の提出を強要される。ペンも取り上げられることによりメモも取れ無くなり、頭脳の中に一切を記憶して行かねばならないことになった。査問期間中は、査問される者はいっさい外界との連絡は取れない。妻とも取れない。査問の期限は示されない。査問に協力すれば早く終わると「自白」が強要される。 被査問者に釈明権はない。黙秘権もない。党規約の実行という大義のもとで、容易に人権を蹂躙していく党体質が、ここに鮮明に浮かび上がってくる。 「党の決定に反対するような民青なんかいらねえんだよ。上意下達で黙ってろ」、「やったか、やらなかったのか、質問に答えればいいんだ」ということになる。調査問責は分派容疑の解明から始められたようであるが、茶のみ話のようなものに分派の嫌疑が掛けられる。 「査問」の中で川上氏は云う。
ここで驚くべき事が発言されている。「共産党の分派に対する態度は、疑わしきは罰するということだ」と放言されていたとのことである。これは近代刑事裁判の大原則「疑わしきは被告人に『有利』に処遇する」の正反対の論理であり、「疑わしきは被告人に『不利』に処遇する」という恐怖政治の論理が貫徹されていたことになる。査問官諏訪茂書記局員は、宮顕の秘書経歴を持つ若手党官僚であり、宮顕の薫陶をもっとも受けている筈であるが、その薫陶の結果がこういう有様だということを真剣に考えてみる必要があるのではなかろうか。他にも宮顕秘書出身の党官僚が多くいる筈であるが、この際連中のリストとその忠勤ぶりを一挙に露出させてみたら如何だろう。恐らく愕然とするような事実が目白押しではないかと私は推測する。 査問官諏訪は、「自分が納得する供述書を書かせることに執着」し、気にくわなければ何度でも書き直しを命じたとのことである。査問を通じて、会議打ち上げ懇親会のようなものを分派会議と認定したが、この時「分派というのは意識してやったかどうかというもんじゃないんだよ、意識しなくても分派は成立するんだよ」という放言がなされたようである。この論理に対し、「汚名」117Pは次のように述べている。
が、予断を持って臨む査問官には通じない。つまり滅茶苦茶であるが、個人間の話にまで責任を負わしめることになれば党員同志の会話もままならぬことになり、こうなるといかようにも分派認定しうる恐怖政治が待ち受けていることになるであろう。これに報告制度の厳格化を加えれば、密告制度を発達させることにもなる。 実際にはそれほど心配はない。問題は、党中央に対する造反的な言辞をなす場合に限って厳しく適用される訳だから、イエスマンにとっては別段の脅威にはならないということだ。しかしイエスマンばかりによる党活動というのも変な気がする。補足すれば、長年党員をやってきたが査問されたことはないという反論をするものは、我が身のイエスマン度を知るべきだろう。 ちなみに、川上氏の分派容疑は、新保氏との「二人分派」と認定されたようである。「この『二人分派』は党内民主主義がないと言っては党を中傷し、党の掲げる方針である『人民的議会主義』に対して大衆闘争を機械的に対置して党の路線に反対したのだ」と認定された。この「二人分派」規定はかの特高さえなしえなかった論理である。「二人分派」の認定が一人歩きすれば、党員同士の会話さえ危ないということになる。 補足すれば、ある市会議員同士が懇親会を用意したところ、共産党議員は参加するしないをめぐっていちいち党機関にお伺いを要するということで馬鹿にされている話を聞いたことがある。茶飲み話の席ではあったが、「あの連中は人種が違う」というオチを皆肯いて聞いていた。こういう「二人分派」の認定とか、統制的組織論の然らしめる密告制度の一人歩きを考えれば、そうせざるをえないと言うことなのだろうか。しかしあまりにもサブい話だ。 党規約は誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁であると定めているので、幹部批判を行なえば、党規違反の責めを受ける危険性もある。ここにも閉鎖的体質を助長する要素がある。同志売りの強要も行なわれ、被査問者の供述書がリアルタイムで攪乱に使われたようである。「全部吐けよ、吐きゃあ気 も楽になるし、家にも早く帰れるのにな」はまだしも、次のように恫喝されたと証言されている。
これは特高の論理とうり二つではないのか。どうも宮顕の薫陶宜しきを得た連中の物言いは揃いも揃ってこうした特高論理を身につけていることが気になって仕方が無い。 除名の脅しも効いたようである。「査問」95Pは次のように記している。
油井氏の査問経過は次のように明かされている。
スターリンの拷問部屋で、ボリシェヴィキの歴戦の勇士が次々と、 自分がファシストの手先であることを告白していったのと同じ過程が、やや平和的かつ小規模な形で繰り返されたのである。油井氏は4日目にようやく解放された。その後彼を待っていたのは処分だった。被査問者たちが処分を言い渡されたのは、民青本部だった。こうして、油井氏は、青春のすべてを捧げた民青同盟から永遠に追放された。専従であった彼は、他のすべての被処分者と同じく、同時に生活の糧をも失ったのである。 川上氏の査問解除経過は次のようなものであったようである。川上氏がすでに10日以上も監禁状態で査問を受けているだけでなく、川上夫人までが党本部に呼び出されたという時点で、川上氏の両親が心配し、あまりにも「世間の常識」に反し「横柄」であると怒り、父親が日本共産党の本部へ電話し、息子の留置を止めなければ人権擁護委員会に提訴すると通告し、その結果川上氏の監禁状態が解かれたというのが真相とのことである。党活動が「人権擁護委員会」から掣肘されるなどという本来ありうべからざる事態が起こったということになる。この場合、この事件が現党中央総出の行為であることを考えると、事は異常に過ぎるという思いを持つのは私だけだろうか。 被査問者には一様に査問後丁重に釘が差されたようである。「他との連絡・接触を禁止する旨、厳重に言い渡した。査問を受けた者は情報を他に与えてはならない」とされ、「うっかり話もできない。何処で誤解され、密告されるかわからない」という疑心暗鬼に陥った。被査問者は一様に査問後遺症とも言うべき「心の傷」を負って家路についた。 川上氏は、この時の体験を、事件から25年経過して「アノ世界からあれほどコケにされた体験」とみなすことができるようになったとのことである。「私も含めてわが友人達は、かくも長き期間、なぜ手を切らなかったのだろうか」と自問しているが、今はやりの言葉で言えばマインドコントロールの世界に陥ったとき自縛の縄をほどくのはそれほど難しいと言うことであろう。 この査問について、『さざ波通信』は次のようにみなしている。
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その9 | 6、「被査問者の査問実感」について |
川上氏は解放直後の実感として次のように述べている。
同じ気持ちを高野孟司(はじめ)氏も伝えている。高野氏は、当時、党中央直轄の細胞が支配する通信社ジャパン・プレス・サービス(JPS)でジャーナリスト活動をしていたところ同じく「新日和見主義」で“監禁”査問されたとのことである。少し補足しておくと、この時の直属部長が川端治(山川暁夫)氏であり、高野氏の「香月徹」ペンネームによる論評共々「人民的議会主義」の下での選挙重視、労働運動・学生運動軽視の方針の評価などを廻って、半ば公然と党中央を批判していた。この「党中央の見解の枠をはみ出すことを恐れない時評」が党内の若い世代の人気を得、盛んに講演にも招かれていた。 これに宮顕一派の党内監視団が発動することとなった。「川端治や香月徹らは、北朝鮮労働党からカネを貰って日本共産党指導部の転覆を謀る陰謀的な分派を形成している」という容疑で、中央から上田耕一郎(現幹部会副委員長)が乗り込んできて、川端と高野を陰謀の首謀者としてさんざん糾弾することとなった。川端氏の方は分からないが、高野氏は次のように証言している。
高野氏は、1998年5月号「諸君」の「『日共』の宿痾としての『査問』体質」紙上で次のように述べている。
こうした受け止め方に関する考察は重要であると思われる。川上氏と高野氏の実感に拠れば、「日本共産党に天下を取らせてはいけない、大変なことになる」という思いにとらわれたということである。マルクス主義運動を擁護せんとする見地からすれば、これは困った結論である。こうした思いを反「党中央」的に了解するのならともかくも、汎反共的了解の世界に沈潜させていくことになるとしたら大きな損失のように思われる。党的運動の責任の重さを考えさせられる。 私には、胡散臭い宮顕系執行部をこれ以上存続させることによって、宮顕系執行部的党活動を党運動そのものの宿阿として誤認させることを通じて、日一歩反共主義者を拡大再生産させてしまうことになるのを心配する。私の感性は、現行の宮顕系執行部的党活動はあくまで宮顕系のそれであり、徳球系であればそれなりの、志賀系であればまたそれなりの、他の誰それ系であればそれなりの党活動になるのではないかと睨んでいる。わが国の民衆的運動にどういう執行部が望ましいのか引き続き課題として見つめていきたいと思っている。だから、私はあきらめない。 私は次のように思う。左翼運動史上の無数無限の否定的事象の出来にも関わらず、我々は容易に反共主義者になる前に、以下の三つの面からの考察をなしておくべきではなかろうか。その一つは、「査問・粛清」が共産主義イデオロギーに潜む不可避なものであるのかどうかということ。一つは、共産主義運動から「査問・粛清」体質を除去することが可能として、必要悪最小限の適用基準の確立が可能なのかどうかということ。一つは、宮顕体制の「好査問・好粛清」性に対してどう対処すべきかということ。こうした観点からの考察は早かれ遅かれ避けて通る訳にはいかない。新日和見主義事件はその格好の教材ではないかと思われる。 「査問・粛清」が共産主義イデオロギーに潜む不可避なものであるのかということについては、次のように考えられる。「査問・粛清」は、「暗殺・毒殺」同様に何も左翼運動に限って発生する訳ではない。歴史の中からこれらの事例を拾い出すことは造作もないことを思えば、組織の指導権争いに絡んだ権力闘争一般につきものとみなすことが出来、今後ともこの種の係争には事欠かないものと思われる。問題は、共産主義運動との密接関連性としてどうなのかということになろう。このテーマに対して解析を挑むには私の知識と能力が足りないことと、本投稿のテーマから離れてしまうのでまたの機会とする。 ただし、こうは言える。スターリンによる党内粛清・党外弾圧事件(このところレーニンにその起源を求めようとする解明がなされつつあるが)のみならず、共産主義運動の有るところ皆この問題にまといつかれてきたことを思えば、我々の運動は、いくら運動の歴史的正当性を説いたところで、本当のところここの問題を正面から受けとめ、有効な解決策を獲得しない限り、にっちもさっちも進まないと考えるべきであろう。特に私のように主流派に与しにくい不従順性格を持つ者にとっては、この問題の解明を避けたまま党的運動に身を委ねるとか、これを支援することは自分で自分の首を絞める技になりかねない。 共産主義運動から「査問・粛清」体質を除去することが可能として、必要悪最小限の適用基準の確立が可能なのかどうかについては、次のように考えられる。この問題は、小手先の技術的な湖塗策で解決しうるものではなく、党的運動・組織論の「総体」の見直しを通してからしか処方され得ないのではなかろうか。あるいはもっと深くマルクス主義の認識論における「真理」観に関係しているようにも思われる。元々マルクスの功績は、唯物論的弁証法−史的唯物論の発見ないし確立にあったと思われるが、元祖マルクス・エンゲルスの指導能力をもってしてさえ、これを党的運動として推進する段になるやたちまち異見・異論との齟齬をきたすこととなったというのが史実である。それほどに実践運動は難しいというのが実際であるが、その後マルクス主義の正統の継承者を自認するレーニン等によって、資本主義体制下のもっとも弱い環としてのロシアに於いてマルクス主義のイデーが結実していくことになった。 ただし、世界を震撼させたロシア十月革命は揺り戻しも大きかった。この過程で、ボルシェヴィキの、その最高指導者であったレーニンの強力独裁指導を生み出すこととなった。こうしてマルクス主義運動は、一個人が獲得したマルクス主義的見地の「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に服従する党的運動に席巻されてしまうことになった。歴史の実際の局面がそういう独裁指導を必要とし、その方が緊急事態対応型の危機管理能力形成に適切であったという面があったとは思うが、この時この独裁体制をして時限的暫定的措置としてのタガを填めることが出来なかった。 これを私はレーニン主義に胚胎していた人治主義的傾向とみなしているが、レーニンがこの誤りに気づいた時には、既にモンスター的スターリン権力確立の前夜となっていた。歴史に後戻りは効かない。恐るべき事態を憂慮しつつレーニンはこの世を去っていくことになった。私はこの間の闘争を指導したレーニンの偉業をおとし込めようとは思わないが、今日レーニン直の指導による誤りが次から次へと解明されつつある。つまり、レーニン主義の「負の遺産」が明らかにされつつある。私は、この時のボタンの掛け違いが、その後のソ連邦の発展と消滅をプログラムしたと考えている。 レーニンの後を継承したスターリン権力の功罪は知られているので割愛するが、今日では当人達の主観に関わらずマルクス主義のイデーから大きく逸脱した党的運動であり、ただ単に新官僚国家形成運動であったとみなすことが常識である。その後ソ連邦は「スターリン批判」を通じて集団指導体制に移行しようとしたが、根本的な「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に対して、理論的な切開と打開をなしえる能力を持ち得なかった。つまり、「スターリン批判」は人治主義的傾向に対しての対症療法的なものでしかなく、マルクス主義的運動に発生した「負の遺産」を断ち切ることが出来なかったように思われる。その原因は、資本主義体制下の権力者であれ「社会主義体制」下の権力者であれ、権力の密の味をしめた指導者ないしその官僚機構は「道理」を説いたぐらいでは容易には権限を手放さないという、ということであろうと思われる。 私は、「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に道を拓いた党的運動・組織論に対する徹底見直しこそが究極「査問・粛清」体質を除去させ、必要悪最小限の適用基準の確立を可能にせしめると思う。これを具体的に言えば、「絶対基準押しつけ」の対極に位置する「総党員参加型の民主主義の効用」を目を洗って再評価すべきではないかということになる。「民主主義」を空疎空論でブルジョア的だとかプロレタリア的だとかの言辞で弄ばず、なおかつ形式主義に委ねず、「実質的な集団討議的手続きと制度と機構」の確立に向けて党的運動・組織論の変革を勝ち取るべきではないかということになる。充分には出来ないにせよ、まずは我が身内たる党内に於いて実践的に獲得したものを社会一般に押し進めるべきではなかろうかということになる。 この背景の思想としては次のような簡明なものを措定したい。
宮顕体制の「好査問・好粛清」性に対してどう対処すべきかということについては、次のように考えられる。私は、宮顕の人となりについて直接面識はない。党史を通じて理解するばかりであるが、凡そ共産主義的運動の指導者としては似つかわしくないことを確信している。しかしその宮顕も既に高齢であり、今更氏に対してむち打つ気にもなれない。問題は、後継者不破−志位指導部の評価と責任追求にある。この執行部も不破から数えれば既に30年の歳月を経ている。人民的議会主義に基づいて民主連合政府の樹立を提唱し颯爽と登場した70年頃から党運動が一歩でも二歩でも前進しているというのならまだしも、昨今の現状は明らかに後退局面にあるのではないかと私は考えている。 |
その10 | 補足「党中央の新日和見主義者批判キャンペーン」について |
新日和見主義批判キャンペーンについて、油井氏の「虚構」は次のように記している。
新日和見主義の性格規定として、「『左』に偏向した組織的成育以前の『双葉の分派集団』」と見なされていた。不破書記局長も、新日和見主義が「左」からの修正主義の特徴を持っていると述べ、岡副委員長報告もこれを追認していた。宮顕委員長は、日本共産青年同盟創立50周年記念集会で、もっと露骨に「トロッキストの『左』からの攻撃に通ずる日和見主義」と語っていた。 今振り返ってみるのに、新日和見主義に対する「左」規定はあながち的外れではない。当時の民青同中央は、共産党中央の右派的穏和路線に規制されつつも、最低限必要な範囲でマルクス・レーニンの原語を引き合いに出しながら運動に理論を与え、「闘う主体」づくりを図ろうとしていた。当時の「青年運動」、全学連機関紙「祖国と学問の為に」を読み直してみて云えることは、左派的でありうるぎりぎりの線でマルクス・レーニンらの片言隻句を引用しているという程度で、ことさら「左」と云われるほどのものではない。問題は、その程度の言辞さえ「左」規定して排斥に向かった党中央の不可思議な性格こそ凝視せられるべきであろう。 実際の運動面でも、共産党中央の右派的穏和路線に規制され、「学園の民主化闘争」、「トロッキストの追放」、「民主連合政府の樹立に向けての共産党の議会運動の支援」、「沖縄闘争等々政治課題における幅広反対闘争」等々党中央の敷いた路線の中で闘っていた。決して「左」的ではないが、その中にあって僅かな可能性を見出しつつ「戦闘的な運動主体」を創出しようとしていたことは事実である。川上徹の小論「戦闘的・民主的学生運動における主体の形成」はこのセンテンスのものである。問題は、こうした行動意欲の戦闘性さえ「左」規定して排斥に向かった党中央の不可思議な性格こそ凝視せられるべきであろう。 これらを種々勘案するのに、我が宮顕式党指導は何の為に党中央に君臨し、何をさせないために居座っているのかという疑惑無しには説明つかない。残念ながら、この観点は目下れんだいこ独特の観点になっており、共鳴者が未だ少なしの感がある。が、いずれ歴史が明白にさせていくだろうと考えている。 新日和見主義者達とは、指導者が普通の感性であれば、次代を担う有能にして熱心な党運動実践者として褒め称えられるべき類の党の「宝」であったであろうが、我が党中央はそのようには遇さ無かった。実際に為されたことは、新日和見主義者達の理論と行動と感性を捻じ曲げ、一大批判キャンペーンであった。ここに立ち現れた一握りの党中央による党中央のための党中央私物化運動こそ新日和見主義事件の本質である。付加すれば、この時の党中央のやり方は、共産主義者的であることはおろか民主主義者的であることにも及ばずの奇妙奇天烈な批判及び歪曲手法を駆使して、新日和見主義者達を一刀両断していったことが銘記されるべきであろう。 「日本共産党の60年」では、次のように新日和見主義者達の「罪科」を列挙している。
このそれぞれについて、新日和見主義者達に反論させ、実際に云おうとしていたことと党中央の批判を両論併記させれば、多くの者が新日和見主義者達の言い分に同意を示すであろう。新日和見主義者達の「理論」は、「学びつつ闘い、闘いつつ学ぶ」運動の中から生まれた知恵であり、明日の党活動に資する積極的な提案であり、その限りにおいて党中央の変調指導に対する見直し要求であり、それはその後の党活動に好影響を与えこそすれ、その逆のものではない。しかし史実は、党中央がこれに耳を傾けず、むしろ危険視して、一方的非道な糾弾キャンペーンにより断罪していくという経過を見せた。 この時の党中央の立場を明らかにしている論文として、水口春喜の前衛(1972.11月号)誌上での「新日和見主義と青年同盟論」、党中央文教部副部長・小林栄三の同じく前衛(1973.6月号)誌上での「新日和見主義の学生運動批判」、党出版局の単行本「新日和見主義批判」(1973年出版)等がある。詳細は「虚構」に委ねるとして、云えることは、党中央側からするマルクス主義理論、組織論、運動論、闘争論、学生運動論の全域にわたって、有害無益な非実用的スコラ批判が為されていることである。この時川端治・氏らとともに新日和見主義者の背後のイデオローグとして批判された広谷俊二氏の著書「現代日本の学生運動」が槍玉に挙げられた。「現代日本の学生運動」は、それまで民青同系の学生運動におけるバイブルであった。対トロ批判の思想的武器であり、この間永らく党公認のお墨付きを得ていた。今これを読み直して見るのに、党の宮顕式論理と規制を受けて随分「奴隷の言葉」で語っており、「左」であるぎりぎりの線での学生運動論でしかない。ところが突如この時期に、この水準さえ「左」がかっていると総出で批判された。そういう代物の批判が繰り返し為されることになった。 党中央の云うように学生運動の中からこれ以上左派性を薄めたらどうなるか、現状の青年運動、民青同の体たらくが語るところの姿になる。「虚構」は、小林栄三の吐き気を催すような悪質且つ捻じ曲げを得手とした反動統制理論を紹介している。当然のことながら、以降の民青同は、この時の小林理論を下敷きにしていくことになった。してみれば、その後の民青同の急速な凋落は、世の変動に適切な対処をしえなかったからという客観論によってではなく、宮顕−不破系指導部の安泰維持の為の党中央私物化用に政策的に作り出された瓦解現象であった、という推定こそ正鵠を射ているのではなかろうかということになる。これをあえてやる党中央のマッチ・ポンプ的変態性がそれとして確認されねばならないのではなかろうか。 新日和見主義者の感性について批判を試みた下司順吉の「アナーキズムと新日和見主義」(1972.9月号前衛)、榊利夫の「新しい日和見主義の特徴−内外情勢の関連で」(1972.6.19−20日付け)、榊利夫「新日和見主義と『30年代論』」(1972.10月号)も見逃せない。下司・榊らは主として川上徹氏の諸言説を取り上げ、その民主集中制観、党内民主主義、べ平連運動、情念論についていずれも「捻じ曲げ批判」を加えている。下司・榊らの論に従えば、党−民青同運動は不活性化せざるを得ず、事実歴史はその通りとなった。 不破式「人民的議会主義」についての新日和見主義者の批判と、これに対する党中央側からの再批判(主として中央委員・石田精一「人民的議会主義と新日和見主義」)も一考の余地があるが、石田らがどう饒舌しようとも、その後の歴史は新日和見主義者の見通しが正しかったことを明らかにした。当時危惧されていた不破理論の真の狙いは議会主義専一化であり、大衆闘争との有機的結合の視点がなく、大衆運動がいずれ軽視されていくことになるとした予見は、以来30年を経てその通りとなった。 沖縄闘争を廻っての新日和見主義者の批判と、これに対する党中央側からの再批判も一考の余地がある。榊利夫「新日和見主義の特徴−内外情勢との関連で」(赤旗1972.6.19−20日)、上田耕一郎「沖縄闘争と新日和見主義」(赤旗1972.6.28−30日)が代表論文であるが、歴史は、党中央の現状規定、アメリカ帝国主義論、沖縄返還論が刻々生起する新事象に対応し分析を加える必要の無いおざなり建前理論であることを明らかにした。但し、この点については、新日和見主義者にも欠陥があった。党の綱領路線である対米従属規定の規制から抜けだせず、我が日本の国家権力がサンフランシスコ講和条約で以ってまがりなりにも独立したという視点からのその向自的自立化の動きとして見ることが出来なかった。一方で帝国主義国家の動きとして捉え、他方で綱領路線による非独立・対米従属国家規定に配慮するという背反的な変調視点から『沖縄闘争』を位置付けしていた。これは党中央に拝跪する限り抜け出せない新日和見主義者達の限界であったと思われる。 新日和見主義者達のこの限界が「日本軍国主義の新段階論」を生み出していった。ニクソン・ドクトリンによる新アジア政策は、日本のアジアでの「積極的な肩代わり」を要請しており、今後の日本は有事即応的自主防衛路線という名目での軍国主義化に拍車がかけられるであろう。沖縄の返還はただ単に沖縄が返還されるという「沖縄の本土化」ではなく、「本土の沖縄化」が促進されることになると予見し、これに立ち向かう運動論、闘争論の構築を必要とさせていた。 これに対し、党中央は具体的な動きをそれとして分析しようとせず、十年一日の対米従属論を繰り返すのみであった。その後の歴史は新日和見主義者の予見が正しかったことを明らかにした。憲法原理の根強さ、国際情勢、経済動向との複合的絡みの中で急激な進行は許していないが、「日本がアメ帝の目下の同盟者として有事即応的自主防衛路線を既定路線として推進していくであろう、それが日帝の利益でもあるとする戦略が敷かれている」との見通しの正しさが、既に十分に明らかとなっている。 新日和見主義者のイデオローグであった川端氏は、「日米共同声明と日本人民の70年代闘争の展望」(経済・1970.1月号)論文の文中で、当時の日米関係を評して「帝国主義的同盟の本格的構築に入った時代」と論じている。この「日帝論」による、「対米従属か自立か」は悩ましい問題で、ことごとく党の綱領路線と衝突する。そこで編み出されたのが「従属帝国主義」論で、実質的に自立国家論でありながら、「この転換は共産党綱領の立場から云えば、綱領の見地の転換の必要を促すものではなく、その規定の正しさをいよいよ明らかにする現実の動向なのである」と言葉だけ気遣いながら、概要「1952年のサンフランシスコ講和条約により形式的独立を得たが、今や『全面的発動』の時期を迎え、日米の対米従属的帝国主義的同盟関係の構築時代に至った」という見解を披瀝していた。 党の対米従属規定綱領路線と日帝の自立認識との川端式折衷理論であったが、綱領に対する絶対的な拝跪を要件とする民主集中制組織論にあっては、この制約も致し方なかった面もある。川端論の意義は、日本の国家主権は独立していると認識すべきであるとしていたことにあった。この立場に立たない限り、この頃の日米貿易摩擦、東南アジア市場での資本輸出の動きが既に解けなくなっていたことにも起因していた。常に現実を分析する批評家としての面目がこのように結実したものと拝察される。 これに対し、上田は早速噛み付いた。概要「川端見解は、対米従属を形の上で認めているが、結局は帝国主義自立論に通じており、日米関係を帝国主義的同盟体制への転換とみなすことにより、党の綱領路線である対米従属を否定する修正主義理論である」と批判した。上田の川端批判のオカシナところは、川端氏が提起したところの党の綱領路線の対米従属規定そのものが本当に正しいのかどうか、あまりにも現実にそぐわないではないのかと、その見直し論争で遣り取りすべきのところを、党の綱領路線と食い違ったことを云っているから間違っていると批判していることにある。実際には、当の川端氏そのものが「その規定は正しい」とへりくだり、上田が「党の綱領路線である対米従属規定のないがしろである」として、党の綱領路線を錦の御旗に批判していったからややこしい。結果、「オカシナ規定の方が正しい」と強調され、党中央の権威とお墨付きで党の綱領路線の正しさが再確認されることになった。これが、「科学的社会主義者の理論」の内実であるとすれば、恐ろしいほど乾ききった感性なしには為しえないであろう。ここで我々は、上田という人物の骨の髄からの御用精神性を見て取ることができるだろう。 こうした新日和見主義者に対して示した党中央の態度は、宮顕委員長直々指令の断固たる「双葉のうちの機敏な摘発」であった。これが完全に奏効し、新日和見主義者は「羊の沈黙」を守ることになった。第12回党大会での不破書記局長報告は、「青年運動に重大な損害を与える以前に粉砕した」と勝利の凱歌をあげている。この過程での査問の様子は見てきたところであるが、一大批判キャンペーンの姑息さも見ておく必要がある。事件の被害者油井氏は云う。
最後に。この事件の最大の変調性は次のことにある。この時期党は、「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」を目指していた。70年代安保闘争に向けての全共闘運動、革共同系、ブント系、その他様々の他の左翼党派とここが違うところであり、「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」の願いがあればこそそうした運動に巻き込まれず党中央に結集していた人士も少なくなかった。この呼びかけに忠実である限りは、70年代の半ばに向かっての重要局面に至っており、議会闘争と大衆闘争、労農運動等々全域全分野で一丸となって突き進まねばならない時機であった。 ところが、その運動のもっとも肝心なこの時に、そっちのけで、党中央の粛清大鉈が新日和見主義者に振り下ろされることになった。結果、軽騎兵的な役割を担っていた青年運動がズタズタにされていった。恐るべきは、党中央の呼びかけで始まったことからして民主連合政府が樹立されるされないについて党中央には相応の責務があると思われるが、史実は一片の弁明も無く反故にしてしまった。70年代の後半も80年代に至っても、民主連合政府は近づくことさえなくむしろ構想そのものが雲散霧消した。 こういう歴史的経過があるにも拘らず、90年代後半になってまたぞろ「21世紀の早い時期という今度はかなりの長期スパンでの民主連合政府の樹立」構想が再度持ち出されてきている。我々は、同じ執行部でのこの厚顔さをどう評するべきであろうか。しかし、党内にはこのように問う人士もいないみたいであるからして、まともな感性の者が関わりの持てる相手ではなかろうということになる。 |
(私論.私見)