新日和見事件の考察 第3部 4、事件の発端と「年齢引き下げ問題」
5、「査問」の様子
6、「被査問者の査問実感」について
補足「党中央の新日和見主義者批判キャンペーン」について

 (最新見直し2007.2.7日)

その7 4、事件の発端と「年齢引き下げ問題」について

 新日和見主義事件は、民青同の「年齢引き下げ問題」から端を発した。つま り、新日和見主義者達が規約問題で党と対立したことが摘発の原因となったということであるが、既述したように実際にはこれは党より用意周到に仕掛けられた罠であり、そうとは知らぬ新日和見主義者達は予想通り反発を見せたことにより事件へと誘い込まれることになった。

 つまり、「年齢引き下げ問題」は党中央による挑発でありこじつけでしかないので、その是非をいくら党に弁明したところで新日和見主義者達の抗弁は通用しない。新日和見主義者達は、70年安保闘争以降の闘う主体としてありえていたからこそ粛清されねばならぬ情況にあり、その主役を引きずり降ろすことにより運動の芽を潰そうと企図した、公安と党中央との内通により作動したという観点からアプ ローチしない限り事態が把握できない。そう、宮顕執行部の胡散臭さが認識されない限りヴェールに包まれてしまうということだ。

 暫くこの動きを見ると次のような経過があったようである。それは、“ゲバ民”活動から1年後の1971.12月、第6回中委が開かれ、「民主青年同盟に対する指導と援助の問題について」の決議が採択された。この決議で、「民青の対象年齢引き下げ方針」の一方的決定がなされた。民青同加入年齢限度を従来の28歳から25歳、民青同幹部年齢限度を32歳から30歳に引き下げるというものであった。

 この突然の「民青の対象年齢引き下げ方針」に特段の理由があった訳ではない。28歳までという従来の年齢枠は、1960年の民青同再建大会となった第6回全国大会以来12年間にわたって維持されてきていた体制であり、このこと自体何らの問題を発生させていた訳でもなく、むしろ運動能力の継承という意味では合理的かつ歴史的試練に耐えたものであった。 「それは、労働組合青年婦人部の年齢とも対応していました。民青内の指導・ 活動経験継承システム上でも合理性がありました」(「さざ波通信」)とあるように、実践で鍛えられ確かめられた制度であった。

 従って、突如として「民青の対象年齢引き下げ方針」の一方的決定と押しつけは、党中央よりの民青同に対する「仕組まれた言いがかり」的観点から把握しない限り理解不能となる。この「民青の対象年齢引き下げ方針」の問題性は、その導入に当たり予備期間を設ける等一定の経過措置を講ずる手だてもないままにいきなり導入されようとしていた点においても強権的であった。運動の継承と人的引継ぎ等を考慮すれば、あまりにも現場を無視した暴挙であった。これも、党中央よりの民青同に対する 「仕組まれた言いがかり」的観点から把握しない限り理解不能となる。

 第6回中委決議を受けてその直後に民青同幹部の党員会議が開かれ、このたびの党の決定の承認が図られた。しかし、この短兵急な党の決定を無条件で受け入れるには正当性がなさすぎた。自分たちの利害に関係しすぎていたことと、民青同の組織的発展に難があることが明白であったため、党員会議は従来通りのようなベルト式無条件承認をなしえず、むしろ承認は時期尚早として結論を後日に持ち越すこととした。

 この決定が尾を引いていくことになる。この経過に対して、「党幹部は党指導部の提案が無条件に通らなかったことに衝撃を受け、その背後に陰謀を感じとりはじめた」とみなす向きもあるが、真相は逆であろう。党中央にとって織り込み済みの「衝撃」であり、会議後直ちに内部調査に乗り出し、首謀者相関図の作成に取りかかったというのが真相であろう。この頃党中央により赤旗紙面で新日和見主義事件の発生が告げられはじめていた。この時、民青同幹部は、まさか自分たちが新日和見主義事件の首謀者として想定されていることなぞ知る由もなかった。

 先の会議より半年後の1972.5.6−7日、民青同幹部の党員会議が再召集された(「10中委」)。「10中委」は、民青同第12回全国大会に向けての最後の会議として位置付けられており、綱領的文書である「青年同盟の呼びかけ−日本民主青年同盟の使命」の改正や、懸案の「年齢切り下げ」問題等の規約上の案件を検討することにあった。後から分かることは、この時、党中央は既に腹を括って権力を発動しており、この時の会議は摘発前夜の最後の様子見であったことになる。会議の主宰者は、党中央の青年対策部門責任者・茨木良和幹部会委員だった。この当時茨木氏は宮顕の信頼厚き人士で、1971年以降時々民青同会議に現れ、青年学生対策の最高責任者の地位にあった。

 この茨木氏の報告を受けて議論が始まった。そうとは知らぬ新日和見主義者達は、党のこのたびの強引なやり方に対して次から次と疑問、批判を噴出させた。これを機会に「みんなが日頃胸につかえていたことを、言いたいだけ言った」風があった。「汚名」の著者油井氏は一番長く発言したとのことである。この熱烈愛党発言が、後の「査問」時においての油井氏イジメの要因となったようである。かく査問官が意思統一していた節が伺える。

 そのことはともかく、会議は次から次と疑問意見を述べる者が起ちあがり、民青中央委員108人の半数以上が党中央決定に異論を示す事態となった。反対派の主張は、「年齢引き下げを行う場合、私の見解は経過的措置を含む柔軟で弾力的な運用をはかるべきだ、ということであった」、「この年齢問題自体の是非は、当時の状況の具体性に即して考察すべき問題であって、何らかの政治的原則にかかわるものではない。のちに新日和見主義事件に巻き込まれる民青幹部たちは、この年齢引き下げに原則的には同意しながらも、その実施にあたっては慎重を期すこと、機械的・拙速的に実施しないことを求めるという態度をとった」とある(「汚名」139P)。つまり、いきなり実行するのではなく必要な対策が講じられねば適切でないと、実に当然の主張をしていたことになる。

 会議を主宰した茨木良和はなかなかの役者のようで、次々と出る慎重論にいらだちを隠さなかった。「査問」では、「これでは労働組合の会議だ」という茨木氏の怒気が含まれた発言が紹介されている。茨木氏は途中席を外し、しばしば党中央と連絡を取っていたともある。こうして正論がぶたれ、不満が発せられたが、これが党の側からの挑発であったことまでは知る由もない新日和見主義者達であった。結局、年齢引き下げ案は採決できず事実上保留になった。民青同が党中央の方針に異論を述べるという経験は、1960.3月の第7回大会第9中総以来のことであった。

 この党員会議以降事態は急速に新日和見主義事件へと発展していくことになる。「ささ波通信」は、次のように解析している。

 「おそらく、この党員会議の以前から、党幹部は、民青幹部や全学連幹部の中に、自立的な志向、時には上級批判につながるような不満の雰囲気が広がりつつあることを察知していたのだろう。党中央は、背後で操る分派の首謀者が存在すると見た。しかし、党幹部は、この党員会議までは、この志向や雰囲気がどこまで組織的なものなのか確信を持てなかった。しかし、この党員会議において、あいついで異論や慎重意見が出され、党指導部の提案した方針が通らずに、結局保留になるという『異常事態』(党内民主主義が実際に機能している政党においては、ごく普通の現象なのだが)に直面して、党幹部は、民青幹部の中に分派的な潮流が存在しているという確信を抱くようになったにちがいない」。

 れんだいこには、やや評論気味の理解のように思われる。この経過で押さえておくべきは次のことである。この時点で既に、党中央の鉄の意思による断固たる新日和見主義者摘発闘争が発動されており、これを促したのはドン宮顕の「分派は双葉のうちに摘み取れ」の号令一下であった。つまり、5.7日の民青同幹部の党員会議の紛糾結果によって 「昨日、若造にやられたから」というにわか拵えの権力発動レベルのものではないということが踏まえられなければならない、ということだ。ここを確認しなければ真実が見えてこない。

 ただし、この見方も、宮顕式統制手法は証拠を残さないように巧妙になされるので、結局は推測に頼らざるをえないという欠点を持ってはいる。状況証拠から言えば上述の推論が成り立つということだ。宮顕の常套手段は、問題の在処を的確に認識した上でこれに正面から取り組まず、からめ手の裏口から形式的手続きの問題を通して用意周到にチクチク神経戦を伴って襲ってくるという特徴を持つ。その手法は病理的なまでに意識的変態的であるが、そういう癖があるだけに現場論議では尻尾しか見えてこない。この尻尾をたぐり寄せて本音の所まで辿り着かないと本質に迫れないという狡知が仕掛けられている。

 そのことはともかく、党中央は、こうして異論・批判者を入念にチェックしつつ 新日和見主義者達を浮き彫りにさせていった結果、5.7日の民青同幹部の党員会議時点においては、後は「査問」を待つばかりとなっていたものと推測し得る。この辺りの経過については、「汚名」(油井喜夫著、毎日新聞社、1600円) が詳しい。

 昨年末に木村さんよりご推薦頂き、ようやく店頭で見つけることが出来ました。かくして「汚名」は、私にとって記念すべき新千年紀の新年読書の第一冊目となりました。読む前までは「査問」の二番煎じだろうという思いこみがありましたが、読んでみて木村さんのご忠言に感謝しています。この場をお借りしまして御礼申し上げます。なお、「さざ波通信」で「汚名」が紹介された とき本屋に立ち寄りましたが新書コーナーにありませんでした。何度か別の本屋にも回りましたが同様でした。今や党関係の諸本がかくも人気が無いのかとも思いましたが、「汚名」読了後の私の気分はなぜ?という疑問を生じさせています。単に発行元の毎日新聞社の営業努力不足かも知れませんが、「汚名」は党関係者必読本のように思います。都会の書店ではどうだったのかは分かりませんが、地方の中小書店では取り寄せない限り手に入らない様子にあり、この不都合さは改善されねばならないように思います。

 こうした党の押しつけに対して民青同中央は次のように対応したらしい。件の菅原記者の手になる赤旗記事であるのでどこまでが本当かどうかは判らないが、他に資料もないのでこれを検討する。

 概要「民青同盟の活動における学習活動の重視、幹部の年齢制限など、民青同盟の発展のために党が提起した方針(71年12月、第11回大会6中総で決定)を大衆闘争軽視だなどとねじまげ、これに反対するため、民青同盟中央内での多数派工作、地方にいる役員へのはたらきかけ、 民青同盟中央委員会の会議が開かれる前の発言内容の意思統一や“票読み”活動、さらには民青同盟三役の不信任問題や次期委員長候補の選定を話し合うまでになりました」。
「新日和見主義の分派には、広谷俊二らのグループ、新日和見主義の理論的支柱とされた評論家たち、川上氏らの民青同盟中央の一部集団などいくつかのグループがありましたが、それぞれの行動が、党の方針に反対することを目的に、党規約をふみにじった分派活動である ことは明白です。彼らは互いに講師活動や執筆活動などで気脈を通じていま したが、とくに川上氏はいろいろのグループのいわば“結節点”にいた中心人物の一人として、この分派活動で重要な役割をはたしました。川上氏自身、当時、この状況を『多角的重層共闘』とか『問題別共闘』とか称していました」。

 これに対して党がどう動いたかが次のように明かされている。事態は急速に動いた。会議から2日後に出された5月9日の常任幹部会声明と「日本共産党創立50周年記念の歴史的な党躍進大運動に全党員は立ち上がろう」には、すでに 「干渉者」の存在を云々するとともに、これらの分子による「きわめて陰険で狡猾な暗躍」と闘うよう訴える一文が含まれていた。「陰険で狡猾」とは、調査してみてもはっきりしなかったという意味である。

 ちなみに、この時既に川上氏の 「査問」が開始されていた。この点は注意を要する。「査問」に拠れば、5.9日9時過ぎに民青同本部にやって来た川上氏は「即刻、代々木の本部に行って欲しい」と告げられ、訝りながら党本部へ詣でた様子を明らかにしている。丁度この時5.8ー9日にかけて、東京の民青同本部は役員・勤務員の日光への親睦旅行が2班に分かれ計画されていた。党中央はこれを由々しき謀議カムフラージュと見たと思われるが、5.9日、急遽中央常任委員会のグループ会議を行うとの騙まし討ちで介入し、中には日光から党本部に召集される者も出た。訝りながら党本部に駆けつけた者に待ち受けていたのは「査問」であった。

 5.11日の赤旗は大きなスペースを割いて、「トロツキストとの無原則的な野合」をし、「党の内部を撹乱するために労働運動、青年・学生運動などのなかで党への中傷と不信をもちこみつつある」対外盲従分子や反党分子に対する厳しい警告を発していた。この手回しのよさは事前の謀議が為されていたことを物語っているであろう。5.18日、「幹部会の呼びかけにこたえて、党躍進の大運動に全党員の奮起を訴える手紙」、6.2日の「党躍進大運動の急速な前進によって全半期目標を6月中に総達成するために」も同様文で発表されている。

 ところで、「トロツキストとの無原則的な野合」とあるが、具体的な記述がない。どこのセクトとどのような野合をしようとしていたのか今からでも明らかにして貰いたいところだ。新日和見主義者摘発闘争は、宮顕の号令一下現執行部総出でれっきとして不破・上田をも巻き込んだ党中央直々に関与した事件であるし、その党中央がいい加減なデマ記事を垂れ流していたということになれば、これも充分な責任問題に発展しうるように思うから。

 こうして、「72年5月、党中央は川上氏らの分派活動の動きを知り、常任幹部会の決定のもとに、ただちに調査と事情聴取をおこない、事実の究明にあたりました」(赤旗.菅原記者)とある。「赤旗」外信部にいた新保寿雄が最初の事情聴取を受けたのは5.12日、この頃から民青本部の者たち約30名に対する査問が順次始まった。かなり「さみだれ」的だったようである。

 「汚名」の著者油井氏はその頃肝臓病で入院中であった。この油井氏に対して5.15日、代々木の党本部へ出頭するよう呼び出しがきたと明かしている。査問官が執拗にこだわったのは、「分派相関図」であり、誰と誰がどのように関わっているのかを見極めようとした。

 「分派相関図は、当初から全国的規模をもって作成されていたと思われる。そして、その分派の内容としては、かねてから相当に訓練された、高度の政治的意図をもって暗躍している悪質な一派である ことが想定されていた。またその一派は外国勢力からも支援を受けているものと考えられていたフシがある」。

 しかし、どう詮索しようとも、査問官が期待していたような「分派相関図」、「外国勢力から支援を受けている一派」なぞは供述されず、従ってこの方面の解明は肩すかしに会ってしまったようである。このことは興味深いことでもあるが、「新日和見主義者」達は分派の臭いのするような相互の関わりを忌避しており、こぞって宮顕式統制論理の忠実な実践者であったことを逆に証明さえすることとなった。現場の査問官がこの落差をどう埋め合わせしたのか興味があるが伝えられていない。

 しかし、党中央は、「新日和見主義者」達を無罪放免とはしなかった。もっともらしい理由を付けて一件落着させた。この連中には正義も何もあったものではない「曲党阿世」の精神の持ち主であるということが分かる。赤旗の菅原記者は次のように述べている。

 「その結果、全員が分派活動の誤りを認め、自己批判し、規約にもとづく処分をうけました。広谷俊二も、当時は分派活動という党規律違反をおかしたことを認め、党中央委員の罷免、党員権停止の処分をうけましたが(72年12月、第11回大会9中総で決定)、党中央は広谷がこんごも党員として党規律をまもり党の決定にしたがうと表明していることを考慮して、彼の処分を党外に公表することはしませんでした。しかし広谷は、77年、参議院選挙の闘争のさなかに『中央公論』.『週刊文春』などの党外の雑誌に登場し、公然と日本共産党を攻撃したため、除名処分となりました」。
 「川上氏は、分派活動の誤りを認めて自己批判し、党員権停止1年の処分をうけましたが、党にとどまりました。しかし、90年、日本共産党員の資格に欠ける言動があって、党から除籍されました」。
 「党が『新日和見主義』の分派活動の組織的実態や構成メンバーなどについて、これまで具体的に発表してこなかったのは、参加者がすべて誤りを認め て自己批判し、党にとどまる態度をとっていたからです。党は、彼らがそれぞれ党員として立派に再生の道を歩むことを期待し、その見地から、分派活動の組織的実態の暴露や参加者への糾弾などを控え、批判は彼らの行動の前提となった誤った情勢論や方針などの理論的な批判に重点をおいてきました。 実際、この分派活動にくわわった党員のなかでも、多数の同志たちが、その 自己批判を生かした態度をとり、今日まで、党の一員として、いろいろな分野で活動しています」。

 こういう説教強盗の論理についてはこの後見ておこうと思う。

 後日譚であるが、この時党中央がゴリ押しして進めた「民青同加入年齢限度を従来の28歳から25歳への引き下げ方針」は、導入されるや早速現場に混乱を招き、規約改正を行った民青同第12回全国大会から3年後の1975.10.22日赤旗に早くも、宮本忠人党中央青年学生部長による「民青同盟の持続的発展のための援助」論文が出され、「『卒業』問題での誤まった傾向の改善」指令をしている。それによると、概要「25歳が過ぎたからといって機械的に『卒業』させるような指導が一部に発生しているが、同盟の発展につまづきを引き起こす重要な原因の一つになっています。このような状況は改善し、今後の戒めとしなければなりのせん。我が党の一部に生まれている民青同盟への配慮に不十分さが見られる指導をただすことが、今強く求められています」(油井喜夫「虚構」71P)とある。こうなると何をかいわんやではないか。

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その8 5、「査問」の様子について
 私は、本来であれば当局との丁々発止のやり取りの中で続けられる党的運動を思うとき、党における査問自体の必要悪を否定するつもりはない。ただし、胡散臭い連中側からの査問なぞ認めるわけにはいかない。「査問」74Pは次のように記している。
 「闘争においては、正面の敵よりは味方内部に『送り込まれた』敵の方が憎いものである。正面の敵に裏から『通じている』者は、闘いの過程で味方の秘密情報を敵に流すことによって味方の被害をより甚大なものとし、時として壊滅的な打撃をもたらすからである」。
 概要「そればかりではない。正面の敵がふだんは遠いところにいて『つき合い』などすることもないのに、『送り込まれた』敵は、日常生活を通して自分たちの隣にいて良き隣人づらをしつつ、隙を窺い攪乱を準備する (注−この部分は私の追加)」

 こういう現実があるわけだから、組織防衛上査問自体は必要悪と考えられる。但し、厳格なルールの下に行なわれる要件が伴うであろう。

 宮顕一派が戦前の大泉・小畑両中央委員に対して為したような、いきなりピストルで脅しての手縄・腰縄・足縄・猿ぐつわの下での食事を供せず便用の自由をも拘束したような査問は、どう強弁されようとも認められない。その点でこのたびの新日和見主義者達に為された査問はそのような「原始野蛮」な手法ではなかったことはやや改善の後が見られる。代わって採用されたやり方は精神的に追い込む手法であった。

 ここで言いたいことは、「民主集中制」もそうであるが、査問についても厳格に運用基準が定められ、その経過と内容に付き極力公表されるべきではないかということである。ここを無視すると査問が権力者の強力無比な如意棒として乱用され、勝者の一方的論理を聞かされてしまうことになってしまう。ブルジ ョア法の下であろうが、この点において法の運用には一定のタガが填められていることは良いことのように思われる。一般に法律は、「条文」とその理解のための「手引き」と関連した「判例」等により、適用をめぐっての厳格な実施要綱が定められていることを良しとする。これは市民社会下のルールとして歴史的に獲得されてきたものとみなすことが出来、一般に広く支持されている。

 ところが、党の場合、規約運用は未だ権力者の恣意性に導かれており、適正な遵法のさせ方としては肌寒い状況にあるのではなかろうか。既に多くの法学者が党員として結集しているように思われるのに彼らは一体何を学んでいるのだろう。党外の者に日本国憲法の基本的人権を滔々と説明する姿勢があるのなら、まずは党内の足下にその眼を向けては如何なもんだろう。党内権力者の恣意性を御用化するような法学者の精神は、官僚機構の「法匪」以下の水準にあると思われる。このようなブレーンに国の運命を託したとしたらと思うと、ゾッとするのは私だけではなかろう。

 党の規約における査問の根拠は次のように定められている。党規約第59条は、概要「党員でありながら党をあざむきこれを破壊しようと規律に違反した者が出てきた場合に、組織を守るために、党はその者を処分することができる」と定められている。そして同条第二項は、概要「規律違反について調査審議中のものは、党員の権利を必要な範囲で制限することができる」とある。査問とはこの「調査審議」のことであるとされている。「正式に査問の意味内容を説明するのは、この四文字だけである」(「査問」前書き)ということのようで、正式用語はあくまで「調査審議」であり、査問という用語自体は党規約、党文書のどこにも載っていないという代物であるらしい。

 ところが、党内では、早くも戦前の党活動において宮顕が中央委員に昇格した頃よりしばしば査問が行なわれてきているという史実がある。その実態は、紳士的で、“同志的”な「調査審議」どころではなく、憎悪の掻き立てられた「反党分子、階級敵への調査問責」であり、それは、警察による「犯罪者の取り調べ、尋問と同じ内容、雰囲気を持っている」というところに特徴がある。

 以下、査問がどのような容疑を対象にし、どのような形態で行なわれるかを考えてみることにする。新日和見主義事件に先行して宮地氏の査問の様子が自身によって公開されている。 宮地氏らに対する査問とは、党勢拡大責任の極度な一面的追及、党内民主主義を踏みにじる指導を見せていた箕浦一三 准中央委員・県副委員長・地区委員長等への1カ月間にわたる地区党内あげての批判運動が逆に切り返され、追及者等が“分派・グループ活動”と認定され処分された事件であった。新日和見主義事件の5年前の1967年5月頃のことで『愛知県5月問題』と言われている。この分派、グループ活動容疑では、 数十名が査問され、そのうち宮地氏等十数名が“監禁”査問された。宮地氏は、地区常任委員としてその“分派・グループ的批判活動の首謀者”と見なされ、21日間にわたって“監禁”査問されたと公表している。

 宮地氏は、この時の体験を通じて、党の査問が現行市民社会のルールの水準以下の旧特高的やり方であり、「日本共産党に市民社会的常識の秩序の適応を求める法的手段を講じよう」として対共産党裁判を実際に起こしたという珍しい経歴を見せている。この裁判を通じて、黙秘権、弁護士的な第三者機関の立ち会い・連絡、反論権などが全く尊重されていない「疑わしきは、被告人に不利にする」査問の実体が暴露されている。「人民的議会主義」の裏面がこのようなものであるとしたら、かなりの大衆は卒倒してしまうであろう。

 で、新日和見事件の場合、どのように査問が運営されたかを以下見ていくことにする。まず指摘しておきたいことは、「新日和見主義者」達の場合確定した反党活動があったのかというと、共通して「何も無かった」という驚くべき事実が報告されている。査問側は査問を通じて必死で裏付けを取ろうとしたが、 「組織された反党活動」は見いだされなかった。こうして証拠が出なかったところから、「星雲状態にあった」とか「双葉の芽のうちに摘んだ」とか恐るべき居直りで事後対応せざるをえないことになった。つまり、「新日和見主義者」達は 「別件逮捕のようなもの」で査問され、にも関わらず本筋において容疑が確定しなかったという二重の大失態を見せたことになる。

 今日こういう失態を警察が演じたとしたら大問題にされるところである。巧妙なことは、査問された側に、党の側からの呼び出し状であるとか、処分決定の言い渡し状であるとかが一枚も残されていないことであり、ほとんどを電話とか口頭命令で出頭させていることである。つまり、本人が明らかにしない限り事態の表出が困難にされている。後で見るように本人には堅く箝口令が敷かれている。

 驚くべき事はまだまだこれから明らかになる。川上氏・新保氏・油井氏の例しか伝えられていないのでこれを参照する。査問官は下司順吉・諏訪茂・宮本忠人・雪野勉・不破哲三・上田耕一郎・小林栄三・宇野三郎・今井伸英辺りが知れるところであるが、他の被処分者も含めてこの時の査問官リストを集計し、後世の記録として公開しておく必要があるのではなかろうか。現下党中央の生粋メンバーが総出で査問に当たっているという史実がある訳であり、誰が誰を担当しどのように査問していったのかを記帳しておく必要を私は感じている。拘束された被査問者たちに対する扱いは、近代刑事訴訟法上以下の非人道的取り扱いを受けていることが分かる。直接的な暴行が加えられなかったということは評価されるが、これは元々党員同志間のかつ容疑不分明な査問であるのだから当たり前であって、この状態で暴行が加えられるとしたら旧特高以上のやり方になってしまう。

 非人道的取り扱いぶりは、「君の党員権を今から停止する」の口上から始まり、該当の規約部分を告げながら問答無用式に「今から君を査問する。同意の誓約書を書け」というやり取りへと移る。この時査問理由の開示はない。押して理由の開示を求めると、「分派活動の容疑」と知らされる。分派活動の認定基準を尋ねると、「ここはね、君のチャラチャラしたお喋りを聞く場ではないんだよ」と一喝される。押し問答の末査問に無理矢理同意させられると直ちに私物一切の提出を強要される。ペンも取り上げられることによりメモも取れ無くなり、頭脳の中に一切を記憶して行かねばならないことになった。査問期間中は、査問される者はいっさい外界との連絡は取れない。妻とも取れない。査問の期限は示されない。査問に協力すれば早く終わると「自白」が強要される。

 被査問者に釈明権はない。黙秘権もない。党規約の実行という大義のもとで、容易に人権を蹂躙していく党体質が、ここに鮮明に浮かび上がってくる。 「党の決定に反対するような民青なんかいらねえんだよ。上意下達で黙ってろ」、「やったか、やらなかったのか、質問に答えればいいんだ」ということになる。調査問責は分派容疑の解明から始められたようであるが、茶のみ話のようなものに分派の嫌疑が掛けられる。

 「査問」の中で川上氏は云う。
 「市民社会の刑事訴訟では、有罪を主張する者にその挙証責任があり、被疑者の側は検察官の矛盾を衝きさえすればいい。ところが、ここでは無罪の証明を被疑者に要求する。『自分はやっていない』ことの証明を、この密室でどうやってやれというのだろうか」。

 ここで驚くべき事が発言されている。「共産党の分派に対する態度は、疑わしきは罰するということだ」と放言されていたとのことである。これは近代刑事裁判の大原則「疑わしきは被告人に『有利』に処遇する」の正反対の論理であり、「疑わしきは被告人に『不利』に処遇する」という恐怖政治の論理が貫徹されていたことになる。査問官諏訪茂書記局員は、宮顕の秘書経歴を持つ若手党官僚であり、宮顕の薫陶をもっとも受けている筈であるが、その薫陶の結果がこういう有様だということを真剣に考えてみる必要があるのではなかろうか。他にも宮顕秘書出身の党官僚が多くいる筈であるが、この際連中のリストとその忠勤ぶりを一挙に露出させてみたら如何だろう。恐らく愕然とするような事実が目白押しではないかと私は推測する。

 査問官諏訪は、「自分が納得する供述書を書かせることに執着」し、気にくわなければ何度でも書き直しを命じたとのことである。査問を通じて、会議打ち上げ懇親会のようなものを分派会議と認定したが、この時「分派というのは意識してやったかどうかというもんじゃないんだよ、意識しなくても分派は成立するんだよ」という放言がなされたようである。この論理に対し、「汚名」117Pは次のように述べている。
 「連絡や打ち合わせはすべて無届けで行なわれるが、この種のものに組織原則を適用すれば、際限なく広がってしまう。世間ではこの種の集まりを慰労会とか、懇親会とか、あるいは単にコンパという。 だが、党中央は党と民青に隠れて組織の指導権を握ろうとする分派の密事と見た。組織路線に不一致のある場合なら ともかく、課題遂行上の問題は積極的に解決すべきだろう」。

 が、予断を持って臨む査問官には通じない。つまり滅茶苦茶であるが、個人間の話にまで責任を負わしめることになれば党員同志の会話もままならぬことになり、こうなるといかようにも分派認定しうる恐怖政治が待ち受けていることになるであろう。これに報告制度の厳格化を加えれば、密告制度を発達させることにもなる。

 実際にはそれほど心配はない。問題は、党中央に対する造反的な言辞をなす場合に限って厳しく適用される訳だから、イエスマンにとっては別段の脅威にはならないということだ。しかしイエスマンばかりによる党活動というのも変な気がする。補足すれば、長年党員をやってきたが査問されたことはないという反論をするものは、我が身のイエスマン度を知るべきだろう。

 ちなみに、川上氏の分派容疑は、新保氏との「二人分派」と認定されたようである。「この『二人分派』は党内民主主義がないと言っては党を中傷し、党の掲げる方針である『人民的議会主義』に対して大衆闘争を機械的に対置して党の路線に反対したのだ」と認定された。この「二人分派」規定はかの特高さえなしえなかった論理である。「二人分派」の認定が一人歩きすれば、党員同士の会話さえ危ないということになる。

 補足すれば、ある市会議員同士が懇親会を用意したところ、共産党議員は参加するしないをめぐっていちいち党機関にお伺いを要するということで馬鹿にされている話を聞いたことがある。茶飲み話の席ではあったが、「あの連中は人種が違う」というオチを皆肯いて聞いていた。こういう「二人分派」の認定とか、統制的組織論の然らしめる密告制度の一人歩きを考えれば、そうせざるをえないと言うことなのだろうか。しかしあまりにもサブい話だ。

 党規約は誹謗、中傷に類するものは党内討議に無縁であると定めているので、幹部批判を行なえば、党規違反の責めを受ける危険性もある。ここにも閉鎖的体質を助長する要素がある。同志売りの強要も行なわれ、被査問者の供述書がリアルタイムで攪乱に使われたようである。「全部吐けよ、吐きゃあ気 も楽になるし、家にも早く帰れるのにな」はまだしも、次のように恫喝されたと証言されている。
 「どうしても吐かないっていうんだな。こっちは査問いつ打ち切ってもいいんだぜ。そのかわりにな、お前、新保という人間をな、党内はもちろんのこと、社会的にも抹殺してやる。断固、糾弾していくんだぜ」。
 「お前、子供が居るな。民主連合政府になってな、親父は反党反革命分子だということになったら、子供はどうなるんだ。子供の将来のことも考えろよ。おい、吐けよ」。
 「君らのことを公開すれば道を歩けないぞ。今住んでるところに住めないぞ」。

 これは特高の論理とうり二つではないのか。どうも宮顕の薫陶宜しきを得た連中の物言いは揃いも揃ってこうした特高論理を身につけていることが気になって仕方が無い。

 除名の脅しも効いたようである。「査問」95Pは次のように記している。
 除名は日本共産党の最も重い処分である。それは運動からの永遠の追放を意味する。被除名者は裏切り者、トロッキスト、修正主義者、外国の盲従分子、敵のまわし者、挑発者、スパイなどと呼ばれた。彼らが行動を開始すれば、たちまち民主的統一戦線の破壊者・挑発者として徹底的に糾弾された。『反党分子』にされ、歴史の彼方に葬り去られる」。


 油井氏の査問経過は次のように明かされている。
 概要「査問は4日続いた。他の被査問者と同じく、残された道は、査問者の望むような自白をすることだけだった。こうして、査問者の描いたとおりの自白と自己批判書がつくられていった。彼らはよってたかって六中総に反対したことを強要した。私は、査問がふりだしに戻ることを恐れた。また、査問官の心証を悪くすることを恐れた。次第に、この際、査問官のいうとおりに従った方が無難である、と考えるようになっていった。そして、無実の殺人犯[正しくは『容疑者』]が犯行を供述する心理状態をはじめて知った。その場の苦しさからの解放と逃避のため、一時的安楽に妥協することは、ある特殊な条件のもとではいとも容易であった」(「汚名」142 P)。
 概要「相手は、自らのすべての信頼と実存をあずけている党自身だった。私はいかなる情況のもとでも敵のテロや弾圧に屈服してはならない、ということを党から学んだ。日本共産党の歴史はそのような英雄的先達者によって築かれている。党が誇り、人々から尊敬されるゆえんもここにある。しかし、この理屈は階級敵のとり調べのときに光り輝くものであっても、共産党の査問部屋で通用するものではなかった。味方と命を賭けて闘うことなど、どうしてできよう」(「汚名」43P)。

 スターリンの拷問部屋で、ボリシェヴィキの歴戦の勇士が次々と、 自分がファシストの手先であることを告白していったのと同じ過程が、やや平和的かつ小規模な形で繰り返されたのである。油井氏は4日目にようやく解放された。その後彼を待っていたのは処分だった。被査問者たちが処分を言い渡されたのは、民青本部だった。こうして、油井氏は、青春のすべてを捧げた民青同盟から永遠に追放された。専従であった彼は、他のすべての被処分者と同じく、同時に生活の糧をも失ったのである。

 川上氏の査問解除経過は次のようなものであったようである。川上氏がすでに10日以上も監禁状態で査問を受けているだけでなく、川上夫人までが党本部に呼び出されたという時点で、川上氏の両親が心配し、あまりにも「世間の常識」に反し「横柄」であると怒り、父親が日本共産党の本部へ電話し、息子の留置を止めなければ人権擁護委員会に提訴すると通告し、その結果川上氏の監禁状態が解かれたというのが真相とのことである。党活動が「人権擁護委員会」から掣肘されるなどという本来ありうべからざる事態が起こったということになる。この場合、この事件が現党中央総出の行為であることを考えると、事は異常に過ぎるという思いを持つのは私だけだろうか。

 被査問者には一様に査問後丁重に釘が差されたようである。「他との連絡・接触を禁止する旨、厳重に言い渡した。査問を受けた者は情報を他に与えてはならない」とされ、「うっかり話もできない。何処で誤解され、密告されるかわからない」という疑心暗鬼に陥った。被査問者は一様に査問後遺症とも言うべき「心の傷」を負って家路についた。

 川上氏は、この時の体験を、事件から25年経過して「アノ世界からあれほどコケにされた体験」とみなすことができるようになったとのことである。「私も含めてわが友人達は、かくも長き期間、なぜ手を切らなかったのだろうか」と自問しているが、今はやりの言葉で言えばマインドコントロールの世界に陥ったとき自縛の縄をほどくのはそれほど難しいと言うことであろう。

 この査問について、『さざ波通信』は次のようにみなしている。
  「『査問』が出版されたとき、『赤旗』は党活動欄という目立たないところで、その著作に対する批判を試みた。しかし、その批判は、彼らが実際に分派であったことを力説するのみで、査問の実態についていかなる反論も試みていない。苛酷で非人間的な査問の実態については、反論のしようもなかったのである。 たとえ、査問が形式的に本人の同意を得たものであっても、十数日間にわたって監禁することは絶対に許されないし、また今回のように重病人を病院から呼び出して4日間も監禁することは、基本的人権を正面から蹂躙する蛮行以外の何ものでもない。党中央が錦の御旗とする『結社の自由』論によっては、けっ してこれらの行為が正当化されないことは、今さら言うまでもない(この問題については、いずれ詳しく論じるつもりである)。

 今回の『汚名』について、党中央は何か反応を見せるだろうか?  おそらく完全に無視するだろう。宮本時代が、批判者に対する徹底した反論と糾弾を基調としていたとすれば、不破時代は、都合の悪い問題に対する沈黙と無視を基調としている。われわれの『さざ波通信』と同様、『汚名』もまた無視されるだろう。不破委員長は、このような問題があたかも存在していないかのごとく、ふるまい続けるだろう。だが、事実は事実であり、 歴史をなきものにすることはできない。新日和見主義事件を見直す特別の調査委員会を中央委員会に設置し、改めて関係者から事情を聞き、事実関係を調査するべきである。そして、事件当時には知られていなかったスパイの役割についても改めて検討の対象に加えるべきである。そして、事実関係にもとづいて、あの事件が冤罪であったこと、処分が間違っていたことを率直に認め、すべての関係者の名誉回復を行なうべきである」 (1999.7.6日S・T)。

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その9 6、「被査問者の査問実感」について 
 川上氏は解放直後の実感として次のように述べている。
 概要「翌朝、私は初めて査問部屋から解放された。茨木良和と今井伸英が入ってきた。今井が、『川上君、君、どっか籠るようなところない?ホラ、別荘とか』、『君、君が消えてくれるのがいちばんいいんだけどな。ネ、茨木さん、ネ』。私は後年、何度か、今井が何気なく吐いたこのときのことばを思い出し、もし日本がソ連・東欧型の社会主義国になっていたとしたら、間違いなく自分は銃殺刑に処せられていただろうと思った」(「査問」109P)。

 同じ気持ちを高野孟司(はじめ)氏も伝えている。高野氏は、当時、党中央直轄の細胞が支配する通信社ジャパン・プレス・サービス(JPS)でジャーナリスト活動をしていたところ同じく「新日和見主義」で“監禁”査問されたとのことである。少し補足しておくと、この時の直属部長が川端治(山川暁夫)氏であり、高野氏の「香月徹」ペンネームによる論評共々「人民的議会主義」の下での選挙重視、労働運動・学生運動軽視の方針の評価などを廻って、半ば公然と党中央を批判していた。この「党中央の見解の枠をはみ出すことを恐れない時評」が党内の若い世代の人気を得、盛んに講演にも招かれていた。

 これに宮顕一派の党内監視団が発動することとなった。「川端治や香月徹らは、北朝鮮労働党からカネを貰って日本共産党指導部の転覆を謀る陰謀的な分派を形成している」という容疑で、中央から上田耕一郎(現幹部会副委員長)が乗り込んできて、川端と高野を陰謀の首謀者としてさんざん糾弾することとなった。川端氏の方は分からないが、高野氏は次のように証言している。
 「そのまま上田に連れられて党本部に出頭させられ、1週間にわたり監禁され、査問された。査問の中で彼らは、私が党中央の情勢分析や組織方針と反する言動を弄して学生・青年をたぶらかしていると非難した。私は、私が中央と若干異なった見解を抱いているのは事実だが、『意見が違う』というのと『党を転覆する陰謀を企んだ』というのは全然別の次元の話で、仮に後者だというのなら私を反革命罪で除名したらどうか、と言った。彼らは、そうするだけの理由と証拠はないと認めた。それで私は、党中央に誤解を受けるような言動をしたことは申し訳ないという趣旨の『反省文』を提出して、無罪釈放された」。

 高野氏は、1998年5月号「諸君」の「『日共』の宿痾としての『査問』体質」紙上で次のように述べている。
 「それで僕は査問第一日目の結論として、この党にだけは権力取らせちゃいけないと思った。スターリン粛清とか、いままでさんざん言われてたのと同じことが日本共産党でもやっぱり起こると思った。まだいまは党内権力だから、 このくらいですむけれども、これが国家権力だったら殺されてる」。

 こうした受け止め方に関する考察は重要であると思われる。川上氏と高野氏の実感に拠れば、「日本共産党に天下を取らせてはいけない、大変なことになる」という思いにとらわれたということである。マルクス主義運動を擁護せんとする見地からすれば、これは困った結論である。こうした思いを反「党中央」的に了解するのならともかくも、汎反共的了解の世界に沈潜させていくことになるとしたら大きな損失のように思われる。党的運動の責任の重さを考えさせられる。

 私には、胡散臭い宮顕系執行部をこれ以上存続させることによって、宮顕系執行部的党活動を党運動そのものの宿阿として誤認させることを通じて、日一歩反共主義者を拡大再生産させてしまうことになるのを心配する。私の感性は、現行の宮顕系執行部的党活動はあくまで宮顕系のそれであり、徳球系であればそれなりの、志賀系であればまたそれなりの、他の誰それ系であればそれなりの党活動になるのではないかと睨んでいる。わが国の民衆的運動にどういう執行部が望ましいのか引き続き課題として見つめていきたいと思っている。だから、私はあきらめない。

 私は次のように思う。左翼運動史上の無数無限の否定的事象の出来にも関わらず、我々は容易に反共主義者になる前に、以下の三つの面からの考察をなしておくべきではなかろうか。その一つは、「査問・粛清」が共産主義イデオロギーに潜む不可避なものであるのかどうかということ。一つは、共産主義運動から「査問・粛清」体質を除去することが可能として、必要悪最小限の適用基準の確立が可能なのかどうかということ。一つは、宮顕体制の「好査問・好粛清」性に対してどう対処すべきかということ。こうした観点からの考察は早かれ遅かれ避けて通る訳にはいかない。新日和見主義事件はその格好の教材ではないかと思われる。

 「査問・粛清」が共産主義イデオロギーに潜む不可避なものであるのかということについては、次のように考えられる。「査問・粛清」は、「暗殺・毒殺」同様に何も左翼運動に限って発生する訳ではない。歴史の中からこれらの事例を拾い出すことは造作もないことを思えば、組織の指導権争いに絡んだ権力闘争一般につきものとみなすことが出来、今後ともこの種の係争には事欠かないものと思われる。問題は、共産主義運動との密接関連性としてどうなのかということになろう。このテーマに対して解析を挑むには私の知識と能力が足りないことと、本投稿のテーマから離れてしまうのでまたの機会とする。

 ただし、こうは言える。スターリンによる党内粛清・党外弾圧事件(このところレーニンにその起源を求めようとする解明がなされつつあるが)のみならず、共産主義運動の有るところ皆この問題にまといつかれてきたことを思えば、我々の運動は、いくら運動の歴史的正当性を説いたところで、本当のところここの問題を正面から受けとめ、有効な解決策を獲得しない限り、にっちもさっちも進まないと考えるべきであろう。特に私のように主流派に与しにくい不従順性格を持つ者にとっては、この問題の解明を避けたまま党的運動に身を委ねるとか、これを支援することは自分で自分の首を絞める技になりかねない。

 共産主義運動から「査問・粛清」体質を除去することが可能として、必要悪最小限の適用基準の確立が可能なのかどうかについては、次のように考えられる。この問題は、小手先の技術的な湖塗策で解決しうるものではなく、党的運動・組織論の「総体」の見直しを通してからしか処方され得ないのではなかろうか。あるいはもっと深くマルクス主義の認識論における「真理」観に関係しているようにも思われる。元々マルクスの功績は、唯物論的弁証法−史的唯物論の発見ないし確立にあったと思われるが、元祖マルクス・エンゲルスの指導能力をもってしてさえ、これを党的運動として推進する段になるやたちまち異見・異論との齟齬をきたすこととなったというのが史実である。それほどに実践運動は難しいというのが実際であるが、その後マルクス主義の正統の継承者を自認するレーニン等によって、資本主義体制下のもっとも弱い環としてのロシアに於いてマルクス主義のイデーが結実していくことになった。

 ただし、世界を震撼させたロシア十月革命は揺り戻しも大きかった。この過程で、ボルシェヴィキの、その最高指導者であったレーニンの強力独裁指導を生み出すこととなった。こうしてマルクス主義運動は、一個人が獲得したマルクス主義的見地の「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に服従する党的運動に席巻されてしまうことになった。歴史の実際の局面がそういう独裁指導を必要とし、その方が緊急事態対応型の危機管理能力形成に適切であったという面があったとは思うが、この時この独裁体制をして時限的暫定的措置としてのタガを填めることが出来なかった。

 これを私はレーニン主義に胚胎していた人治主義的傾向とみなしているが、レーニンがこの誤りに気づいた時には、既にモンスター的スターリン権力確立の前夜となっていた。歴史に後戻りは効かない。恐るべき事態を憂慮しつつレーニンはこの世を去っていくことになった。私はこの間の闘争を指導したレーニンの偉業をおとし込めようとは思わないが、今日レーニン直の指導による誤りが次から次へと解明されつつある。つまり、レーニン主義の「負の遺産」が明らかにされつつある。私は、この時のボタンの掛け違いが、その後のソ連邦の発展と消滅をプログラムしたと考えている。

 レーニンの後を継承したスターリン権力の功罪は知られているので割愛するが、今日では当人達の主観に関わらずマルクス主義のイデーから大きく逸脱した党的運動であり、ただ単に新官僚国家形成運動であったとみなすことが常識である。その後ソ連邦は「スターリン批判」を通じて集団指導体制に移行しようとしたが、根本的な「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に対して、理論的な切開と打開をなしえる能力を持ち得なかった。つまり、「スターリン批判」は人治主義的傾向に対しての対症療法的なものでしかなく、マルクス主義的運動に発生した「負の遺産」を断ち切ることが出来なかったように思われる。その原因は、資本主義体制下の権力者であれ「社会主義体制」下の権力者であれ、権力の密の味をしめた指導者ないしその官僚機構は「道理」を説いたぐらいでは容易には権限を手放さないという、ということであろうと思われる。

 私は、「英雄主義的個人崇拝的絶対基準押しつけ的指導体制」に道を拓いた党的運動・組織論に対する徹底見直しこそが究極「査問・粛清」体質を除去させ、必要悪最小限の適用基準の確立を可能にせしめると思う。これを具体的に言えば、「絶対基準押しつけ」の対極に位置する「総党員参加型の民主主義の効用」を目を洗って再評価すべきではないかということになる。「民主主義」を空疎空論でブルジョア的だとかプロレタリア的だとかの言辞で弄ばず、なおかつ形式主義に委ねず、「実質的な集団討議的手続きと制度と機構」の確立に向けて党的運動・組織論の変革を勝ち取るべきではないかということになる。充分には出来ないにせよ、まずは我が身内たる党内に於いて実践的に獲得したものを社会一般に押し進めるべきではなかろうかということになる。

 この背景の思想としては次のような簡明なものを措定したい。
その1  みんな寿命に限りがある神ならぬ身の存在であり、能動寿命は「たかが、されど人生50年」であることを認識し、人生の有限的関わりで社会貢献を志向すること。
その2  その命に限りある者が「ぼちぼちでんな」の精神で能力・環境に応じて統一戦線的に欠けたる所を互いに補う気持ちで精を出すこと。
その3   党的運動・組織論において絶対真理的教条ないしは権威主義の押しつけを排し、所定ルールに基づき大衆的討議を獲得しつつ「いろいろやってみなはれ」 的集団指導体制に向かうこと。
その4  反対派の生息を認めた上で、執行部に指導権限を与えること。ただし、執行部の責任基準を定め、定期的に総党員選挙によって信任を問うこと。緊急事態対応については時限化させること。
その5  このような党的運動・組織論の実践過程に於いてのみ規約とか服務規律の重要性を認め、執行部にこの脈絡抜きに規約とか服務規律を振り回させないこと。

 宮顕体制の「好査問・好粛清」性に対してどう対処すべきかということについては、次のように考えられる。私は、宮顕の人となりについて直接面識はない。党史を通じて理解するばかりであるが、凡そ共産主義的運動の指導者としては似つかわしくないことを確信している。しかしその宮顕も既に高齢であり、今更氏に対してむち打つ気にもなれない。問題は、後継者不破−志位指導部の評価と責任追求にある。この執行部も不破から数えれば既に30年の歳月を経ている。人民的議会主義に基づいて民主連合政府の樹立を提唱し颯爽と登場した70年頃から党運動が一歩でも二歩でも前進しているというのならまだしも、昨今の現状は明らかに後退局面にあるのではないかと私は考えている。

 その根拠の一つは、社会全体からの左派意識者の減少である。最近書店周りで気づいたことは、かってなら存在していた左派思想・運動関係の書棚が消え去っていることがこれを追認していると思われる。こうした傾向は、党運動百年の計から見て左派土壌の枯れを意味する。土壌が枯れたところには花は開かない。お百姓さんでなくても誰でも知っていることだ。現下の議会闘争の局面は、審議拒否戦術で自・自・公政権に対決しているが、それならそれでかっての社会党の審議拒否戦術を嘲笑していたことに反省の弁を添えておくべきであろう。私は可能性はともかく現実性が無いと思っているが、よしんば党代表が大臣席の一つにありついたとしても、連合政権維持のためなし崩しの妥協しか待ち受けていないという構図が予想される。細川政権以降橋本政権に至るまでの過程において、旧社会党・さきがけ・江田グループがその事例となっている。

 不破−志位指導部は、こうした事例に対する 理論的研究を獲得しつつ党員に針路を示さないので党員は困惑させられているのではないのか。かの諸党のようにはならないという証文を一筆書き付け、これに執行部の責任を託すということをしないから、万事にそういう「体を張る」作風が無いから、延々と30年も座椅子にぬくもってしまうことになる。30年も (宮顕から数えれば50年も)党最高指導者として留まること自体を自他共にオカシイと考えるべきではないのか。おのれの好みと器量に似せて党をリー ドすることは党の私物化でしかないのではないのか、退陣することにより暴露されてはならない諸事実が明るみになることを怖れているのではないのか、と勘ぐってしまう。もっとも、党内から特段の批判が挙がらないことを思えば、私がこういうことを言ってわざわざ皆様から憤激を買うこともないかとも思うが、これが私の性分だから仕方ない。

 ただし、これだけははっきりしている。現下の党運動は、マルクス主義とは無縁の近世的ヒューマニズム運動の延長にあるものであって、この程度の運動で有れば何もマルクス主義の洗礼を通過する必要もなかったし、戦前の非合法下で党員はボルシェヴィキ的活動に殉じる必要もなかったのではないのか。私には草葉の陰から苦虫を噛みしめている祖霊が見える。当人がよく言っているように、いっそのこと「日本道理党」とでも改名して運動を押し進めるのであれば、あるいは又その政治理論からして「新民社党」とでも改名して運動を押し進めるのであれば、私もこの党に対してこうも関心を持つこともなく、皆様から不興を買うこともない。お互いにその方が賢明なようにも思うのに。

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その10 補足「党中央の新日和見主義者批判キャンペーン」について
 新日和見主義批判キャンペーンについて、油井氏の「虚構」は次のように記している。
 概要「新日和見主義者に対する理論的な批判キャンペーンは、1972.6.12日の幹部会から始まった。批判は、政治路線から運動論、組織論、学習・教養問題、人生観にまで至った。これほど多角的に批判され、数多い『罪過』を冠せられた『反党分派』は党史上皆無だ。新日和見主義の用語が初めて登場したのは6.29日の赤旗での上田耕一郎論文『沖縄闘争と新日和見主義』からで、この文中で『分派集団』が『新日和見主義』と名づけられていた」。

 新日和見主義の性格規定として、「『左』に偏向した組織的成育以前の『双葉の分派集団』」と見なされていた。不破書記局長も、新日和見主義が「左」からの修正主義の特徴を持っていると述べ、岡副委員長報告もこれを追認していた。宮顕委員長は、日本共産青年同盟創立50周年記念集会で、もっと露骨に「トロッキストの『左』からの攻撃に通ずる日和見主義」と語っていた。

 今振り返ってみるのに、新日和見主義に対する「左」規定はあながち的外れではない。当時の民青同中央は、共産党中央の右派的穏和路線に規制されつつも、最低限必要な範囲でマルクス・レーニンの原語を引き合いに出しながら運動に理論を与え、「闘う主体」づくりを図ろうとしていた。当時の「青年運動」、全学連機関紙「祖国と学問の為に」を読み直してみて云えることは、左派的でありうるぎりぎりの線でマルクス・レーニンらの片言隻句を引用しているという程度で、ことさら「左」と云われるほどのものではない。問題は、その程度の言辞さえ「左」規定して排斥に向かった党中央の不可思議な性格こそ凝視せられるべきであろう。

 実際の運動面でも、共産党中央の右派的穏和路線に規制され、「学園の民主化闘争」、「トロッキストの追放」、「民主連合政府の樹立に向けての共産党の議会運動の支援」、「沖縄闘争等々政治課題における幅広反対闘争」等々党中央の敷いた路線の中で闘っていた。決して「左」的ではないが、その中にあって僅かな可能性を見出しつつ「戦闘的な運動主体」を創出しようとしていたことは事実である。川上徹の小論「戦闘的・民主的学生運動における主体の形成」はこのセンテンスのものである。問題は、こうした行動意欲の戦闘性さえ「左」規定して排斥に向かった党中央の不可思議な性格こそ凝視せられるべきであろう。

 これらを種々勘案するのに、我が宮顕式党指導は何の為に党中央に君臨し、何をさせないために居座っているのかという疑惑無しには説明つかない。残念ながら、この観点は目下れんだいこ独特の観点になっており、共鳴者が未だ少なしの感がある。が、いずれ歴史が明白にさせていくだろうと考えている。

 新日和見主義者達とは、指導者が普通の感性であれば、次代を担う有能にして熱心な党運動実践者として褒め称えられるべき類の党の「宝」であったであろうが、我が党中央はそのようには遇さ無かった。実際に為されたことは、新日和見主義者達の理論と行動と感性を捻じ曲げ、一大批判キャンペーンであった。ここに立ち現れた一握りの党中央による党中央のための党中央私物化運動こそ新日和見主義事件の本質である。付加すれば、この時の党中央のやり方は、共産主義者的であることはおろか民主主義者的であることにも及ばずの奇妙奇天烈な批判及び歪曲手法を駆使して、新日和見主義者達を一刀両断していったことが銘記されるべきであろう。

 「日本共産党の60年」では、次のように新日和見主義者達の「罪科」を列挙している。
 6中総(1971.12月)の学習の比重を高めることや同盟員の年齢制限を妨害。
 ニクソンの中ソ接近を帝国主義の危機とみなすアメリカ帝国主義美化論。
 沖縄協定以後、日本軍国主義が主敵となったとする「一つの敵」論。
 人民的議会主義や組織活動改善をブルジョア議会主義、解党主義と攻撃。
 大衆闘争重視を口実に党勢拡大を独自の課題として取り組むことに反対。
 民青に対する党の指導に反対。

 このそれぞれについて、新日和見主義者達に反論させ、実際に云おうとしていたことと党中央の批判を両論併記させれば、多くの者が新日和見主義者達の言い分に同意を示すであろう。新日和見主義者達の「理論」は、「学びつつ闘い、闘いつつ学ぶ」運動の中から生まれた知恵であり、明日の党活動に資する積極的な提案であり、その限りにおいて党中央の変調指導に対する見直し要求であり、それはその後の党活動に好影響を与えこそすれ、その逆のものではない。しかし史実は、党中央がこれに耳を傾けず、むしろ危険視して、一方的非道な糾弾キャンペーンにより断罪していくという経過を見せた。

 この時の党中央の立場を明らかにしている論文として、水口春喜の前衛(1972.11月号)誌上での「新日和見主義と青年同盟論」、党中央文教部副部長・小林栄三の同じく前衛(1973.6月号)誌上での「新日和見主義の学生運動批判」、党出版局の単行本「新日和見主義批判」(1973年出版)等がある。詳細は「虚構」に委ねるとして、云えることは、党中央側からするマルクス主義理論、組織論、運動論、闘争論、学生運動論の全域にわたって、有害無益な非実用的スコラ批判が為されていることである。この時川端治・氏らとともに新日和見主義者の背後のイデオローグとして批判された広谷俊二氏の著書「現代日本の学生運動」が槍玉に挙げられた。「現代日本の学生運動」は、それまで民青同系の学生運動におけるバイブルであった。対トロ批判の思想的武器であり、この間永らく党公認のお墨付きを得ていた。今これを読み直して見るのに、党の宮顕式論理と規制を受けて随分「奴隷の言葉」で語っており、「左」であるぎりぎりの線での学生運動論でしかない。ところが突如この時期に、この水準さえ「左」がかっていると総出で批判された。そういう代物の批判が繰り返し為されることになった。

 党中央の云うように学生運動の中からこれ以上左派性を薄めたらどうなるか、現状の青年運動、民青同の体たらくが語るところの姿になる。「虚構」は、小林栄三の吐き気を催すような悪質且つ捻じ曲げを得手とした反動統制理論を紹介している。当然のことながら、以降の民青同は、この時の小林理論を下敷きにしていくことになった。してみれば、その後の民青同の急速な凋落は、世の変動に適切な対処をしえなかったからという客観論によってではなく、宮顕−不破系指導部の安泰維持の為の党中央私物化用に政策的に作り出された瓦解現象であった、という推定こそ正鵠を射ているのではなかろうかということになる。これをあえてやる党中央のマッチ・ポンプ的変態性がそれとして確認されねばならないのではなかろうか。

 新日和見主義者の感性について批判を試みた下司順吉の「アナーキズムと新日和見主義」(1972.9月号前衛)、榊利夫の「新しい日和見主義の特徴−内外情勢の関連で」(1972.6.19−20日付け)、榊利夫「新日和見主義と『30年代論』」(1972.10月号)も見逃せない。下司・榊らは主として川上徹氏の諸言説を取り上げ、その民主集中制観、党内民主主義、べ平連運動、情念論についていずれも「捻じ曲げ批判」を加えている。下司・榊らの論に従えば、党−民青同運動は不活性化せざるを得ず、事実歴史はその通りとなった。

 不破式「人民的議会主義」についての新日和見主義者の批判と、これに対する党中央側からの再批判(主として中央委員・石田精一「人民的議会主義と新日和見主義」)も一考の余地があるが、石田らがどう饒舌しようとも、その後の歴史は新日和見主義者の見通しが正しかったことを明らかにした。当時危惧されていた不破理論の真の狙いは議会主義専一化であり、大衆闘争との有機的結合の視点がなく、大衆運動がいずれ軽視されていくことになるとした予見は、以来30年を経てその通りとなった。

 沖縄闘争を廻っての新日和見主義者の批判と、これに対する党中央側からの再批判も一考の余地がある。榊利夫「新日和見主義の特徴−内外情勢との関連で」(赤旗1972.6.19−20日)、上田耕一郎「沖縄闘争と新日和見主義」(赤旗1972.6.28−30日)が代表論文であるが、歴史は、党中央の現状規定、アメリカ帝国主義論、沖縄返還論が刻々生起する新事象に対応し分析を加える必要の無いおざなり建前理論であることを明らかにした。但し、この点については、新日和見主義者にも欠陥があった。党の綱領路線である対米従属規定の規制から抜けだせず、我が日本の国家権力がサンフランシスコ講和条約で以ってまがりなりにも独立したという視点からのその向自的自立化の動きとして見ることが出来なかった。一方で帝国主義国家の動きとして捉え、他方で綱領路線による非独立・対米従属国家規定に配慮するという背反的な変調視点から『沖縄闘争』を位置付けしていた。これは党中央に拝跪する限り抜け出せない新日和見主義者達の限界であったと思われる。

 新日和見主義者達のこの限界が「日本軍国主義の新段階論」を生み出していった。ニクソン・ドクトリンによる新アジア政策は、日本のアジアでの「積極的な肩代わり」を要請しており、今後の日本は有事即応的自主防衛路線という名目での軍国主義化に拍車がかけられるであろう。沖縄の返還はただ単に沖縄が返還されるという「沖縄の本土化」ではなく、「本土の沖縄化」が促進されることになると予見し、これに立ち向かう運動論、闘争論の構築を必要とさせていた。

 これに対し、党中央は具体的な動きをそれとして分析しようとせず、十年一日の対米従属論を繰り返すのみであった。その後の歴史は新日和見主義者の予見が正しかったことを明らかにした。憲法原理の根強さ、国際情勢、経済動向との複合的絡みの中で急激な進行は許していないが、「日本がアメ帝の目下の同盟者として有事即応的自主防衛路線を既定路線として推進していくであろう、それが日帝の利益でもあるとする戦略が敷かれている」との見通しの正しさが、既に十分に明らかとなっている。

 新日和見主義者のイデオローグであった川端氏は、「日米共同声明と日本人民の70年代闘争の展望」(経済・1970.1月号)論文の文中で、当時の日米関係を評して「帝国主義的同盟の本格的構築に入った時代」と論じている。この「日帝論」による、「対米従属か自立か」は悩ましい問題で、ことごとく党の綱領路線と衝突する。そこで編み出されたのが「従属帝国主義」論で、実質的に自立国家論でありながら、「この転換は共産党綱領の立場から云えば、綱領の見地の転換の必要を促すものではなく、その規定の正しさをいよいよ明らかにする現実の動向なのである」と言葉だけ気遣いながら、概要「1952年のサンフランシスコ講和条約により形式的独立を得たが、今や『全面的発動』の時期を迎え、日米の対米従属的帝国主義的同盟関係の構築時代に至った」という見解を披瀝していた。

 党の対米従属規定綱領路線と日帝の自立認識との川端式折衷理論であったが、綱領に対する絶対的な拝跪を要件とする民主集中制組織論にあっては、この制約も致し方なかった面もある。川端論の意義は、日本の国家主権は独立していると認識すべきであるとしていたことにあった。この立場に立たない限り、この頃の日米貿易摩擦、東南アジア市場での資本輸出の動きが既に解けなくなっていたことにも起因していた。常に現実を分析する批評家としての面目がこのように結実したものと拝察される。

 これに対し、上田は早速噛み付いた。概要「川端見解は、対米従属を形の上で認めているが、結局は帝国主義自立論に通じており、日米関係を帝国主義的同盟体制への転換とみなすことにより、党の綱領路線である対米従属を否定する修正主義理論である」と批判した。上田の川端批判のオカシナところは、川端氏が提起したところの党の綱領路線の対米従属規定そのものが本当に正しいのかどうか、あまりにも現実にそぐわないではないのかと、その見直し論争で遣り取りすべきのところを、党の綱領路線と食い違ったことを云っているから間違っていると批判していることにある。実際には、当の川端氏そのものが「その規定は正しい」とへりくだり、上田が「党の綱領路線である対米従属規定のないがしろである」として、党の綱領路線を錦の御旗に批判していったからややこしい。結果、「オカシナ規定の方が正しい」と強調され、党中央の権威とお墨付きで党の綱領路線の正しさが再確認されることになった。これが、「科学的社会主義者の理論」の内実であるとすれば、恐ろしいほど乾ききった感性なしには為しえないであろう。ここで我々は、上田という人物の骨の髄からの御用精神性を見て取ることができるだろう。

 こうした新日和見主義者に対して示した党中央の態度は、宮顕委員長直々指令の断固たる「双葉のうちの機敏な摘発」であった。これが完全に奏効し、新日和見主義者は「羊の沈黙」を守ることになった。第12回党大会での不破書記局長報告は、「青年運動に重大な損害を与える以前に粉砕した」と勝利の凱歌をあげている。この過程での査問の様子は見てきたところであるが、一大批判キャンペーンの姑息さも見ておく必要がある。事件の被害者油井氏は云う。
 概要「党中央は新日和見主義の背景にある傾向を批判し、氏名や文献を公表しなかったのは党の温情ある配慮からだと云い為したが、これでは結局、誰の、何が批判されたのか、さっぱりわからなかった。名前も出典も伏せて傾向を批判するわけだから、対象が際限なく拡大される。しかも、その裏で被批判者の論理を歪曲・加工し、それを批判するのだから本質論議から大きくかけ離れる。そうなれば、それはもはや『虚構』という次元のものになる。新日和見事件の分かりにくさはここにあるのではないのか」。
 「事件がどのようにつくりあげられていった、それを知る人は論点を一つの方向に意図的に組み立てた一部の最高幹部に限られるだろう。現行の民主集中制のもとでは、この種の事件や党内の不可解な事柄は一部の最高幹部にしか分からない。その最高幹部の判断が党の意思となり全党を拘束する」(「虚構」256P)。

 最後に。この事件の最大の変調性は次のことにある。この時期党は、「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」を目指していた。70年代安保闘争に向けての全共闘運動、革共同系、ブント系、その他様々の他の左翼党派とここが違うところであり、「70年代の遅くない時期に民主連合政府の樹立」の願いがあればこそそうした運動に巻き込まれず党中央に結集していた人士も少なくなかった。この呼びかけに忠実である限りは、70年代の半ばに向かっての重要局面に至っており、議会闘争と大衆闘争、労農運動等々全域全分野で一丸となって突き進まねばならない時機であった。

 ところが、その運動のもっとも肝心なこの時に、そっちのけで、党中央の粛清大鉈が新日和見主義者に振り下ろされることになった。結果、軽騎兵的な役割を担っていた青年運動がズタズタにされていった。恐るべきは、党中央の呼びかけで始まったことからして民主連合政府が樹立されるされないについて党中央には相応の責務があると思われるが、史実は一片の弁明も無く反故にしてしまった。70年代の後半も80年代に至っても、民主連合政府は近づくことさえなくむしろ構想そのものが雲散霧消した。

 こういう歴史的経過があるにも拘らず、90年代後半になってまたぞろ「21世紀の早い時期という今度はかなりの長期スパンでの民主連合政府の樹立」構想が再度持ち出されてきている。我々は、同じ執行部でのこの厚顔さをどう評するべきであろうか。しかし、党内にはこのように問う
人士もいないみたいであるからして、まともな感性の者が関わりの持てる相手ではなかろうということになる。




(私論.私見)