新日和見事件の考察 第2部−3 その6 (補足)「1969年愛知県党内騒動事件」について

  (最新見直し2007.2.7日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 宮地氏が「共産党問題、社会主義問題を考える」の中の「「私の21日間の“監禁”『査問』体験 1967年『愛知県五月問題』」で、「1967−71年の愛知県党内騒動」の顛末を記録している。ここで、この問題を採り上げるのは、新日和見事件直前の重要な処分事件であり、新日和見事件が偶然の産物ではないということを確認するためと、ここでも宮顕の共産党指導者としてあるまじき立ち回りが濃厚に暴露されているからである。これらの事件を知ってなお、宮顕=唯一非転向完黙最高指導者聖像として評価したがる者がその癖を直さないならば、いわば漬ける薬がないということになろう。

 2007.2.7日 れんだいこ拝


【「1967−71年の愛知県党内騒動」】

 「1969年愛知県『指導改善問題』顛末」が、宮地氏によって全容解明されつつある()。 「新日和見事件」の解明のためには、この事件をも踏まえておく必要があると思われるので、以下簡略に見ておくことにする。

 都道府県党レベルでの党民主化運動(機関民主化運動)は、具体的に報告されたことが一度もないが、「1967年5月愛知県党内騒動」は、愛知県党をめぐる「第一次民主化運動」であった。地区党組織とその上級機関との闘いとなったが、党中央への直訴も叶わず、愛知県党最大の地区党組織と党中央側の県常任委員会(箕浦中北地区委員長グループ)との闘いは約1カ月間続いた。しかし、例によって裏切り・密告によって挫折し、強権的に反対派は査問処分に付されて終息させられた。この時宮地氏は「首謀者、危険思想の持ち主」とされ、21日間監禁査問された。

 「第一次民主化運動」の2年後の1969年、余韻くすぶる愛知県党内に「第二次民主化運動」が発生した。赤旗が梱包のままでゴミ処理扱いされている不届き行為が党中央に漏れ伝わり、党中央が愛知県党委員会の調査に乗り出すことになった。その結果、「1967年5月愛知県党内騒動」が再燃していくことになった。

 愛知県委員会の大勢は「民主化運動」を支持し、箕浦らの上級機関グループ再批判に意思統一されていった。このたびは発端からして党中央も容認していたので、批判派は何ら臆するところがなくこれを進めて行くことが出来た。こうして、愛知県党内に「指導改善運動」が始まったが、批判はやがて県委員会レベルを越えて党中央批判にまで収斂しそうな気配を現わし始めた。

 この瞬間から、当時の宮顕書記長が直々に登場してくることになった。宮地氏による証言で、以下の経過を見ていく事にするが、再三にわたる卑劣な手口で「愛知県党内民主化運動」を強権的に挫折させていくことになった様が知られることになるだろう。この事件を総括していけば、宮顕論理の反動性とその党運営の強権本質と査問・粛清による統制手法があからさまに浮き彫りとなる。そういう意味で、この「1969年愛知県党内騒動事件」を分析することの歴史的意味がある。


 この経過の発端は、既述したように赤旗が梱包のままでゴミ処理扱いされていることが党中央に伝わり、党中央が愛知県委員会の調査に乗り出すことから始まった。その次の経過が第一期となる。第一期とは、5月、「指導改善問題」と呼ばれる総括会議が愛知県の党機関単位で始まった時期である。この時期は、「県党会議第1次草案」の作成に向かっていた時期とみなすことができる。かくして、「指導改善問題」総括運動が始まった。

 「指導改善問題」総括運動は、党中央の公認と援助側面を得ていたが、本質的に県党下部機関からの党民主化運動であった。但し、党中央の公認と援助を得ていたことからして、愛知県党の誤りにおける党中央の指導責任まで認められていた訳ではない。この限定において、「党内民主化運動」は、専ら箕浦准中央委員批判と県常任委員会批判に集中していくことになった。地区の常任委員会、委員会総会、細胞長会議、各細胞総会で、これまでの党活動の見直しが提起され、上級機関に巣くう箕浦グループの指導の誤りの解明と、それを許した自分たちの誤りの自己批判について、真剣な討論がなされた。各級党機関の討議は、10月の県党会議に向け、爆発的に盛り上がりを見せていった。地区レベルで自主的に「問題別調査委員会」が作られ、個々の機関のあり方としての問題点の切開と、上級機関の指導の誤りをどう文言規定するかについて討論を煮詰めていった。

 
この間次第に明確になり共通認識になったのは、次の確認事項であった。

・機関紙拡大の一面的追及と成績主義化
・上級機関権限の集中
・上級機関官僚の特権化、官僚化
・党内民主主義の破壊と抑圧
・打撃的批判と自己批判の強制
・規律違反、査問の乱用
・異常な出世主義と「家父長的」個人中心指導
・幹部活動家の健康破壊等々

 これらを分析した「県党会議第1次草案」が作成された。この過程で、箕浦批判は、次第に党中央批判にエスカレートする動きを見せ始めた。必然的に、1・箕浦個人への批判にとどまらず、2・県常任委員会批判となり、3・一面的・成績主義的機関紙拡大と打撃的思想批判方式を煽り立てていた元凶としての党中央批判、へと進んでいった。

 1969年10月、愛知県党会議が開かれ、「県党会議第1次草案」が決議され、合わせて1967年のいわゆる「5月問題」での箕浦グループ批判活動は全面的に正しかったと逆転評価が確認された。この時、党中央と県常任委員会もこれを認め、県常任委員会は、それまでの反箕浦派の主張を無視したばかりか半ば抑圧した経緯を自己批判した。こうして反箕浦派は名誉回復”された。


 ところが、この経緯に露骨な不快感を表明する者がいた。党の最高幹部・宮顕書記長その人であった。宮顕書記長の治安警察的な目は、愛知県党内のこうした動きを見過ごさなかった。その意を受けて、党中央から送り込まれていた砂間幹部会員らは、「愛知県党内民主化運動」に感情的なまでの拒絶反応を示すようになった。砂間は顔を真っ赤にして「党中央はこうやって援助に来ているんだ」と怒り、党中央批判に拒絶反応をあらわに示した。

 その背後に宮顕書記長の意向があったことは云うまでもない。この当時の宮顕の姿勢を解析すると、1・准中央委員箕浦の集中的党勢拡大意欲は正しい、2・やり方の行き過ぎはあったかも知れないが、それは是正で解決する、3・誤りとその責任は愛知県党委員会内部の問題で、党中央にはなんの責任もない、4・愛知県党内の党中央批判の動きはもってのほかである、というものであった。つまり、宮顕論理の特徴は、「愛知県党という中間機関が、中央統制をはみだして独自に民主化運動するなぞの権限は無く、党中央批判に及ぶなぞは『民主集中制』原理からの逸脱である」という話法にあった。

 ここから第二期が始まる。第二期は、「県党会議第2次草案」の作定期と重なる。この時期、宮顕書記長が露骨に介入してくることとなった。宮顕は、「県党会議第1次草案」の内容にクレームを付け、骨抜きにしていく指令を発した。その卑劣なやり方はこうであった。ほとんど議論らしい議論も経過せぬまま、抜き打ち的に「県党会議第2次草案」の決議を画策した。


 まず党中央派遣役員と県常任委員会は、1・県役員だけの県委員会総会に切り替えられた。それまでは、拡大
地区常任委員全員を参加させた「拡大県委員会総会方式」であったが、これに官僚的統制で県役員だけの総会に切り替えたと言うことである。2第1次草案で確認されていた「党機関運営上の誤り規定」を、ただの「個人指導による誤り」に矮小化させた。3・その他の誤り事例も曖昧な玉虫色表現にさせた。こうして換骨奪胎させられた「県党会議第2次草案」が強行可決され、県党会議に上程させられることになった。この経過に見られる姑息且つ統制的手法による機関決定は宮顕のやり方の典型例であり、ここでもそれを見て取ることができる。

 但し、「県党会議第2次草案」の強行採決時に、10数名より党中央批判が為され、そのうち3名が旗幟鮮明に繰り返し発言に及んでいた。こうした経過によって、この時阿部准中央委員は次のように応えていた。「県党会議の際に、神谷県委員長・中央委員が、『草案』とは別に詳細な口頭報告をする、させる」。ところが、この約束は履行されなかったので、苦し紛れの言い逃れをしたに過ぎなかったことが後に判明するところとなる。この経過から見えてきたこととして、宮地氏は、「私の専従体験15年間全体から、残念なことに、『宮本氏や中央役員は、下部に対して、嘘を平気でつく体質を持っている』という認識に到達せざるを得ませんでした」と述べている。

 第三期は、宮顕指令による「党中央の理由無き召還時期となる。1979.5月、「指導改善」当初から「県党会議第1次草案」完成までの間、党中央より派遣されていた党幹部は4名いた。そのうち砂間一良幹部会員、八島勝麿中央委員、阿部准中央委員の3名が、「県党会議第2次草案」の点検・承認を得ようとして党中央に帰ったものの、以降砂間と八島は愛知県に来なくなってしまった。たった一人帰ってきたのが阿部准中央委員で、その理由をみんなが問いただしても、曖昧な返事しか為されなかった。「草案規定の換骨奪胎手口」と「党中央派遣員の理由なき召還」は一体のものであり、宮顕の差し金以外には考えられない。 

 第四期は、「第3次草案」作成をめぐっての闘いとなる。地区党会議が開かれたが、この席で、宮地氏は強硬に「第2次草案」反対意見を主張した。この宮地氏発言に10数名が支持表明し、会場は騒然となった。この「後退草案」では、県党の1/2を占める中北地区代議員全員がとても納得しないだろうという雰囲気になった。ひな壇に並ぶ県常任委員全員と党中央派遣役員たちは、苦虫を噛み潰したような顔で事態に為す術を持たなかった。この時「理由なき召還」をされた党中央3名は既にいなかった。党中央は、箕浦准中央委員も意図的に欠席させていた。代わりに、党中央から派遣されていた者は、次期新役員予定者として候補になっていた井田幹部会員(県委員長候補)、阿部泰准中央委員(県副委員長候補)、佐々木季男中央勤務員(県常任委員候補)ら3名であった。

 県党会議では、宮地氏の妻(K総細胞LC)も発言し、「党を建設するという名のもとに、いかに党が破壊されたか」について厳しい党活動批判をした。その内容は、草案に対する態度にとどまらず、この間の党指導のあり方に対して根本的な疑義を表明したものであった。

これまでの一面的な一律拡大指導の誤り
細胞会議討論の拡大運動一面化の誤り
党内における民主的権利の抑圧の実態
K総細胞・査問事件について
自己批判を通じての今後の展望等々

 宮地氏は、上記諸点につき縷縷発言した。次のように厳しく党活動批判を述べた。

 「これらの地区指導は、党破壊でなくてなんでしょう。しかし、LCの指導も、課題から出発し、現状を無視した一律指導になっていました。自分で考え、職場に責任をもつ党風でありませんでした。党員評価の基準が、上級の会議に何回出たかであって、大衆の利益をどれだけ守ったかではなかった」云々。

 しかし、この時の愛知県党会議は、愛知県党の誤りにおける党中央の誤りや責任所在は、あいかわらず拒絶され、愛知県常任委員会と箕浦准中央委員個人の誤りに限定され、矮小化されたものを可決させた。この時宮顕指令は、1・「党中央派遣者3名の理由なき召還」、2・「草案規定骨抜き」策謀、3・「神谷県委員長の特別口頭報告約束の反故、に加えてさらに、4・「喫茶店グループ」の一人であり、「北守山ブロック虚偽拡大を遂行、宣伝した張本人の常任委員」を「県委員候補」にするとの「逆裁定機関推薦リスト」を、この時の県党会議議事日程の最後に提出してきた。

 この無神経さと「評価再逆転人事」にブーイングが巻き起こった。配られた「リスト」を見て、会場は瞬時に、怒りと不信の雰囲気に包まれた。当然ながら、代議員は彼に×印を打ち、彼は「過半数を超える96票の不信任」で落選した。結局、党会議は、宮顕書記長の後押しにもかかわらず、1を強行できただけで、2・3・4の策謀は愛知県党機関によって封じられることになったことになる。宮顕書記長が、党中央と地方の県委員会との関係でこのような敗北を味わされたのは前代未聞のことであった、と思われる。


 第五期は、この県党大会後から始まる。愛知県新副委員長になった阿部泰准中央委員は、宮地氏の担当組織の総括を禁止した。その理由は、「先の県党会議、下りの地区党会議で総括は済んだ。細胞レベルでの総括はもはや必要ない。機関紙拡大に直ちに取り組むべきである」というものであった。つまり、総括会議の中止指令であり、細胞レベルでの「指導改善総括運動禁止措置」が取られたということである。

 以降、宮顕書記長と党中央派遣の井田(幹部会員・新県委員長)、阿部泰(准中央委員・新県副委員長)、佐々木季男(中央勤務員・新県常任委員)の3人組が謀議を凝らすことになった。2、3カ月後の幹部会会議から帰ってきた井田県委員長は、全県勤務員会議を緊急召集し、「現在の愛知県党活動には、機関紙拡大への清算主義が現れている。独自の拡大追及を軽視したり、集中的拡大を否定的に捉える傾向がある。今後は、それらとの闘争を最重点課題にする」と宣言し、その後は、全県的に「清算主義との闘争キャンペーン」を大々的に行っていくことになった。

 この「清算主義との闘争キャンペーン」は、1970.7月、第11回党大会で宮顕書記長が直々に追認定式化した。彼は、中央委員会報告でわざわざ愛知県党に言及し、次のように述べている。

 「愛知県党組織は重要な県でありますが、党勢拡大運動などにおいての行政的な官僚的な指導の欠陥が一時期あらわれました。この欠陥が指摘され、克服されていったことは、重要な意義がありました。しかし、同時にその欠陥の克服の過程、克服の仕方が、また逆の一面性をもっておこなわれました。党が十年間の党建設のなかで、その重要性を確認している党勢拡大のとりくみをたえず独自に、また一定期間集中的にやることの意義まで、理論上無視するというような、逆の受動的な清算主義的傾向におちいりました。衆議院選挙におけるこの県の不成績も、この指導の両翼への動揺と結びついております」。

 宮顕の常套的詭弁話法をここに見て取ることが出来よう。

 それだけでなく、ご丁寧にも規約前文第5項に、「清算主義に陥らぬよう注意」なる文言を挿入するという念の入れようを見せている。井田県委員長は、代議員発言を行い、清算主義の側面だけをさらに具体的に強調した。こうして、第11回大会は、1・宮顕書記長の中央委員会報告、2・岡正芳常任幹部会員の規約改正報告、3・井田誠幹部会員の愛知県委員長の代議員発言によって、「清算主義三重奏」が奏でられる場ともなった。

 こうした経過に対し宮地氏は次のように総括している。

 概要「党中央は数年間にわたって『細胞破壊指導』を継続し、これに対し、党細胞が『指導改善』運動で見直し総括をしようと思ったら、『細胞レベルでは、その必要が無い』とストップをかけ、「機関紙拡大運動に捻じ曲げて指導をはかり、それへの批判、不満を云う者に対しては『清算主義だ』ときめつけ、レッテルを貼る。こうした指導スタイルは、県党全体、細胞の実態からかけ離れていた。なお、宮本報告にあるような『機関紙活動の意義まで、理論上軽視する傾向』などは、どこにも発生していなかった。これは、宮本式歪曲、捏造による為にする愛知県党批判でした」。

 こうして、宮顕は、再三にわたって党民主化運動の爆発的高揚を鎮火させる卑劣な手を打ち、その「宮本式高性能消火剤」数回撒布のききめで、県常任委員会の誤りの自己批判、県党による県常任委員会批判運動は、中途半端におわってしまった。


 第六期は、こうであった。この期で「愛知県党内騒動」は元の木阿弥に戻ることになる。愛知県党内の騒動の責任をとって党中央に召還されていた箕浦准中央委員が、何と!「箕浦式拡大指導は、一部行き過ぎがあったとしても、基本的には正しかった」として、党中央宣伝部長に大抜擢された。またしても宮顕式「再逆転評価人事」であった。この系譜の人事は続き、愛知県党内でも「逆転評価人事」が連続していくことになった。1970.7月、第11回大会の「清算主義三重奏」披露後に、下り(後期)”県党会議が開かれたが、なんとそこで、旧箕浦グループの県勤務員中2名が、県常任委員会推薦、県委員会総会「形式的承認」の「新・県役員候補者リスト」に載り、役員選考委員会に提出されると言う始末となった。全く愛知県党員の気持ちを逆なでする挙に出てきた。

 県党会議役員選考委員会会議が開かれたが、当然の如く大激論となり長時間に及んだ。K氏をはじめ、何人かが、「箕浦私的分派メンバーを『新・県役員』にするなど許されない」と強硬に主張した。K氏は、自らの体験を踏まえての2名の県役員不適格根拠事例を詳細に述べた。結果として、この時の役員選考委員会レベルで、2人は県党会議に提出する「新県役員候補者リスト」から削除された。こうして、宮顕と党中央派遣新県役員3名による愛知県党内「逆転評価人事」押し付け策謀は失敗に帰した。

 宮顕式上意下達式機関役員任命システムにおいて、「新役員候補者リスト」の一部が、このような経過で役員選考委員会レベルで削除されたのは、1961年綱領決定以降の日本共産党史上初めてのことであった。この前代未聞の結末とその経過には、宮顕が、愛知県党に潜在する箕浦らの私党的分派グループ批判の雰囲気の持続を「なめてかかった」ことに原因があった。この時点までは、中間機関レベルにおける反宮顕の抵抗行為が未だ残存していたということでもある。

 しかし、これで引き下がるような宮顕ではない。宮顕の党内人事工作の陰険さと報復心の強さは有名で、「六全協」以来一貫しており、多くの幹部が証言しているところである。宮顕は、党中央指導反対派として中心的な役割を果たし、幾度となく「煮え湯を飲ませてくれた」3名の掃討戦を指令した。なりふり構わぬ“宮顕式粛清”のゴーサインが出され、緊急の専従解除対象者にリストアップさせる対策が練られることになった。
宮顕は、報復執行責任者に井田幹部会員を任命した。

 こうしてK氏は、県党会議直後に専従を解任され、それまで縁もかりもなかった大衆団体事務局へ飛ばされた。U県委員は、1971年春、捏造された規律違反口実で、専従解任された。その5年後に宮地氏も専従解任されることになる。

 U氏の専従解任経過はこうであった。U氏は、「1967年五月問題」時期に、県委員としての立場から、宮地氏らの地区の箕浦批判活動を応援した、上級機関レベルで支援活動をした数少ない一人であった。その挫折後、県委員としてただ一人査問された。このたびの「指導改善」運動では、拡大県委員会総会で県常任委員会批判とともに、党中央批判を10回前後発言した県専従であった。

 1971.7月の参議院選挙を控えて、選挙前の春に伊豆学習会館で、党中央招集の各県政策担当者2、3人ずつを対象とした党中央選挙政策学習会が開かれた。この時、愛知県党からは、県政策委員長・県委員のU氏労働組合専従書記・県政策委員・県委員の2人が参加した。学習会の主催責任者は上田耕一郎副委員長だった。その正規の会議上での討論で、2人は、愛知県党における県政・名古屋市政政策とその指導のやり方について、井田誠愛知県委員長・幹部会員に対する批判発言をした。批判内容は、共産党愛知県議団・名古屋市議団から、それらの政策問題について県常任委員会に提起しても解決されず、彼らや県政策担当者2人のなかに、井田県委員長への批判、不満として蓄積されていたもので、まったく正当なものであった。
この時の遣り取りが直ちに上田から党中央宮顕に密告されたことがこの後判明する。
 
 その場は何事もなかったが、2、3日後党中央から「2人の井田幹部会員批判は、発言行為、発言内容とも重大な誤りであり、査問し、自己批判させよ」と電話連絡が入り、2人は瞬時に査問された。2人は、中央招集の正規の会議における批判発言であり、内容も正しく、なんの規律違反でもないからと、自己批判書提出を拒否した。
すると中央から折り返しの指示があり、井田幹部会員は、U氏に「自己批判書を書かなければ、専従解任する」と通告した。これは共産党専従者にとっては、明日から路頭に迷わせられるということを意味している。解任された専従者の再就職先は皆無に近いことを考えると悪質な脅迫でもあった。

 
U氏は、やむなく自己批判書を提出し、他の一人は党専従でないので、自己批判そのものも拒否し続けた。拒否した彼を規約上の処分にもできなかったことは、この批判行為がなんの規律違反でもなく、党中央批判発言専従を排除するための宮顕・井田式粛清手口であることを示している。

 ところが、U氏が自己批判書を提出すると、党中央はその自己批判書を逆手にとって、「Uは専従としてふさわしくないから、専従解任せよ」とだまし討ち解任を指令した。かくてU氏は、風呂敷包み一つに私物をまとめて立ち去ることになった。彼を専従解任措置だけで、規約上の処分にしなかったことは、これが規律違反捏造の宮本式常套手法であることを証明している。
U氏は、これまでの数百人の党中央批判発言専従の首切られ側作法どおりに泣き寝入りした。その後、彼は再就職先もなく、しばらくして自宅で学習塾を始める身となった。宮地氏はこの時のことを回顧して、「これにたいして何もできなかったことを、私は現在でも、自責の念をもって、その時点で私は何らかの発言・行動をすべきではなかったかと考えるのですと自虐している。

 その数日後、井田幹部会員は、数十人の県勤務員全員を緊急招集し、U氏専従解任報告とともに、「幹部会方針である」として、「党中央批判は、一般党員には許されるが、専従党員には一切許されない」と通告した。全員をにらみつけながらの脅迫通告であった。この通告が、幹部会会議から帰った直後になされたことは、これが宮顕・不破指示により全党的な「党中央批判専従の粛清方針」として決定されたことを示している。

 この「党中央批判発言専従の粛清秘密指令」が、翌1972年の「新日和見主義『分派』事件」として、600人査問、100人処分・民青専従解任という、日本共産党史上最大規模の宮顕・不破による党内犯罪として拡張、執行されていくことになった。

 第八期は、こうであった。K氏専従解任、U氏専従解任後、彼らは、次回の県党会議に再度、箕浦分派グループ2名を「新県役員候補者リスト」に載せた。地区推薦の役員選考委員リストで、それに異論を言いそうな党員は、事前チェックで排除していた。かくて今度は2名は県委員候補に信任された。さらに、その次の県党会議では、分派グループ3人目の県勤務員も県委員候補にした。彼らは、最初の2名を、10数人からなる県常任委員にも大抜擢していた。かくて執念の宮顕・井田式「逆転評価人事」体制が達成された。これが宮顕のわが世の春づくりの舞台裏である。

 第九期は、こうであった。残るは、「第三の男=宮地氏」だけになった。(宮地粛清事件は、次のファイルで書きます


 この経過を振り返って、宮地氏は、その到達点と限界を次のように明らかにしている。

 「これは、綱領路線、党勢拡大方針そのものへの批判ではありませんでした。また、民主主義的中央集権制への本質的批判でもありません。一面的拡大批判、様々な党破壊への抗議、最高指導者私的分派支配への反対、民主的党運営を求める中間機関レベルでの爆発的高揚をもった民主化運動でした。そして、閉鎖的、反民主主義的な組織原則と運営実態において、かつ、宮本側近グループ・私的分派支配体制において、その民主化要求と運動の方向は、必然的に、党中央批判に向かわざるをえません。そして、『プラハの春』党員50万人粛清と同じく、宮本・不破体制下では、運動全体とその党中央批判認識に到達した専従は、鎮圧・粛清されざるをえなかったのでしょう」。

 続けて、宮顕書記長が異様な介入と弾圧を指令した理由について次のように推測している。

 「この不可思議な攻防劇発生と粛清劇結末の真因は、この規定(愛知県党の民主化規定のこと−れんだいこ註)が、実は、宮本側近グループ・私的分派体制=『最高指導者宮本顕治による、宮本秘書団℃的分派を伴う個人独裁体制』に対する本質的根源的批判につながる性質を持っていたからと言えます。准中央委員批判での規定が、そのままストレートに宮本私的分派体制疑惑、批判に連結し、エスカレートすることを、宮本顕治、宮本秘書出身側近グループ数人の常任幹部会員が恐れたからです」。 




(私論.私見)