新日和見事件の考察 第2部 1、「新日和見主義事件」概観
2、「新日和見主義者の解析私論」

 (最新見直し2007.2.7日)

その3 1、「新日和見主義事件」概観

 いよいよ 新日和見主義事件の考察に入るところまでやって来た。以下の記述は、「赤旗」、著書「査問」・「汚名」・「突破者」、H P「さざ波通信」、宮地健一氏H P「共産党.社会主義問題を考える」の「新日和見主義『分派』事件」等々を参照させて頂いた。

 新日和見主義事件とは、70年代初頭に党−民青同盟−民青同系全学連の一部に現れていた戦闘的傾向に対し、宮顕の直接指示の下に党中央が摘発に乗り出したことから始まる。党は、1971.12月に第6回中委を開き、 合理的な理由もないままに突如「民青の対象年齢引き下げ」を決定し、その押しつけを民青同に迫っていくことになった。党中央は、これを「踏み絵」にしつつ反対派を浮き彫りにさせていった。

 72.5.7日、民青同幹部の党員会議が開かれたが、当然のように紛糾した。党中央は、会議直後用意周到に準備させた査問者リストの手筈に従い一斉に「査問」に着手した。川上徹氏(民青同系全学連初代委員長・民青同中央執行委員)始め有数の幹部達が捕捉され、分派活動をしていたという理由づけで一網打尽的に処分を受けることとなった。その実数は、宮地氏の「新日和見主義『分派』事件」で明らかにされている。

 これが新日和見主義事件であり、「日本共産党の戦後史において、現在の綱領路線を確立した以降に起きた事件の中で最も否定的な影響を及ぼし、現在にいたるもなお深刻な影を投げ続けているのが、1972年に起きた新日和見主義事件である」(「さざ波通信」)と言われているものである。「実に共産党系の青年学生運動の根幹部分で起こった査問事件であった」(「査問」前書き)、 「共産党の閉鎖的な体質が最も顕著にあらわれたものの一つが、この『事件』 だったと考える」(「汚名」)と、今日事件の当事者が語っているところのものである。

 この時の「川上徹氏始め有数の幹部達」とは、「60年安保闘争」以降に育った大衆運動畑の青年党員活動家達であり、この間1.革共同、2・ブント生成期の際にも、3.春日(庄)らの構造改革派分派の際にも、4.志賀らの「日本の声」ソ連派分派の際にも、5.多岐な動きを見せた中国派分派の際にも、65.全共闘運動の際にも動揺せず、むしろ愚頓直なまでに「宮本顕治と日本共産党の旗」を護り、党に結集していたいわば「ゴリゴリ」の民青同活動家達であった。この連中が一網打尽されたというのが新日和見主義事件の本質であると思われる。

 「汚名」 200Pは次のように述べている。

 「党最高幹部は年齢問題の仕掛けをつくることで、新日和見主義『分派』のあぶり出しに成功した。そして、本質的には良質で、党に忠実ではあるが、自主的・主体的に物事を判断しようとする人々を排除した」。

 この観点こそが、この事件のキーであると私も同意する。

 新日和見主義事件は、今日の党を実質的に支配する二重構造を改めて露呈させているということにおいて考察に値打ちが認められる。党の二重構造とは、背後に君臨するのが宮顕式の治安維持法的陰険狡猾な統制秩序であり、これに依拠しつつ表舞台で活躍するのが不破式スマイルによるソフト路線であり、この両者はあうんの呼吸で一対をなしていることを指す。新日和見主義事件は、この裏の構造が出っ張った事件となった。

 宮顕の音頭取りで直接の指揮の下直伝の「査問」が行なわれたが、この経過から見えてくるものは、宮顕が戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑リンチ致死事件」に何らの反省をしていないばかりか、引き続きここ一番の常套手法にしている様が見えてくるということである。同時に氏が次代を担う青年組織に用意周到に常に警察的な目を光らせている様が自ずと見えてくることにもなる。

 個々の特徴としては、1.この「査問」が理由づけが何であれ、党指導下の青年運動組織に対する党の露骨な介入以外の何ものでもなかったということ、2.その介入ぶ りが「非同志的査問=前近代的警察的訊問」手法を通して行なわれたということ、3.被査問者達がその後マークされ続け、陰湿ないじめられぶりを明らかにしていること、4.この時の査問関係者に警察のスパイが複数いたという事実、5.この事件で主要な役割を果たし真相を熟知している査問官茨木氏・ 諏訪氏が共に「過労死」しており、査問者側の真相告白の機会が失われてしまったことが惜しい、といったことに認められる。

 それでは、その川上氏らがどのような分派活動をしていたのか見てみよう。 事件の概要とコメントが「『新日和見主義』の分派活動とは何だったか─川上 徹著『査問』について―」(1998.1.20日付「しんぶん赤旗」.菅原正伯記者)で為されているので、これを参照しつつ私流のコメントで応戦して見たい。 菅原記者は、新日和見主義分派の理論について概要次のように解説している。

 「川上氏らは、当時、党中央委員だった広谷俊二(元青年学生部長)らを中心に、党の『人民的議会主義』の立場に反対して『私的研究会』を党にかくれて継続的にもち、広谷らがふりまく党中央や党幹部へのひぼう・中傷などを 『雲の上の情報』などといって、民青同盟内の党員や全学連その他にひろげ、 党への不信をあおっていた」
 「川上氏らは、その活動のさい、ある党員評論家(川端治氏のことと思われる−私の注)らを理論的支柱としていた」
 「この評論家らは、ニクソン米大統領の訪中計画の発表(71年7月)や、ドルの国際的な値打ちを引き下げたドル防衛策(同年8月、“ドル・ショック”といわれた)、72年の沖縄返還協定の締結など、内外の情勢の変動をとらえて、特異な情勢論を展開し、党の路線、方針に反する主張をひろめていました。アメリカが中国との接近・対話を始めたのは、アメリカの弱体化のあらわれだとして、ベトナム侵略をつよめるアメリカの策動を軽視する『アメリカガタガタ論』、沖縄返還協定で日本軍国主義は全面復活し、これとの闘争こそが中心になったとして、日米安保体制とのたたかいを弱める『日本軍国主義主敵論』、さらには革新・平和・民主の運動が議会闘争をふくむ多様な闘争形態をもって発展することを否定し、街頭デモなどの闘争形態だけに熱中する一面的な『沖縄決戦論』 など、どの主張も、運動に混乱をもちこむ有害なものでした」
 「川上氏らは、こうした主張の影響をうけて“日本共産党は沖縄闘争をたたかわない” “人民的議会主義はブルジョア議会主義だ”などと党にたいするひぼうと不信を民青同盟内にひろげた」
 「しかも自分たちの議論を党や民青同盟の機関の会議などできちんと主張するようなことは避け、党や民青同盟の機関にかくれて『こころ派』などと自称する自分たちの会合を、自宅や喫茶店、温泉などで継続的にも って、党の路線に反対する勢力の結集をはかりました」。

 私は、こういう歪曲と捏造とすり替えを見るたびに、既述連作投稿した戦前の「大泉・小畑両中央委員査問、小畑リンチ致死事件」での宮顕の詭弁を思い出す。というよりそっくりの論法に気づかされる。赤旗記者とは、宮顕論法を如何に上手に身につけたかを紙面で競う提灯記事の競い屋かも知れない。新日和見主義者達は、菅原記者が書いているような意味で「アメリカガタガタ論」・「日本軍国主義主敵論」・「沖縄決戦論」を本当に鼓吹していたのか。本当に新日和見主義者達が居たとした場合、彼らに紙上反論権が認められ、その見解が一度でも良いから赤旗で記事掲載されたことがあるのか。そういう事も問題にされぬまま、実際を知らせもせぬまま闇に葬むってしまうやり方はオカシクはないのか。こういう手法は、党ならではに通用する封建的な「お白州政治」ではないのだろうか。

 ちなみに、新日和見主義者達が唱えていた理論は、1・日本共産党はブルジョア議会主義路線に堕落した。2・大衆闘争に取り組まない。3・組織改善活動は党の革命性を捨てたものである、というように見なして日本共産党を批判しつつ、表向き党の綱領や規約を守るように振る舞い、背後に大国主義的干渉者がいるともトロツキストと野合している、ともされていた。

 私は当時の渦中にいた一人として思うのに、上記の1・2・3につき不正確な記述に変容されているが、この指摘自体はあながちデッチ挙げではないと思っている。当時の我々の気分はこうした見解を醸成しつつあったことは疑いない。問題は次のことにある。この時党中央は、この3点のどこが認識間違いとして新日和見主義者達を論破していったのだろうか。その後の歴史の進行は、この3点の指摘通りに進行して行ったのではないのか。何よりも史実の進行がこれを証している。今日の党の有り姿を見れば誰も否定できもすまい。つまり、この時の党中央は、事実の指摘の為に理論闘争的に対応し得ず、弁論を捻じ曲げた上で批判して得意がり、そういう訳で規約を盾にして問答無用で強権的に査問していっただけのことではないのか。それは、反動権力者が常用する手法であるというのに。

 
補足すれば、今日判明しているところでは、この時党中央が「背後の大国主義的干渉者」として想定していたのは北朝鮮労働党のことであったようである。「北朝鮮の支援を受け、朝鮮人参を売って分派資金をつくり、一大反党集団を結成しようとしている」と猜疑していたようである。ところが、査問した誰からもそのような陳述は得られなかった。黙秘したのではなくそういう事実が無かったと解するのを相当とする。「トロツキストと野合」も同様で、単に党中央の妄想あるいは捏造でしかなかった。そうではなかったと云うのなら、今からでも遅くは無い。党中央はその証拠を提示せよ。さもなくば、云いたい放題の悪質なフレームアップであろう。

 宮顕−不破式変態党中央は、日本共産党の名を語りながら、こういうフレームアップを得意としている。れんだいこは、それの及ぼす左派運動全体に対する信用毀損は計りがたいと考える。通りで青年が左派運動自体に幻滅させられ、左派離れが進む訳だ。そういう意味でも、宮顕−不破式変態党中央を引き摺り下ろし、連中の理論と実践の総体の総括に一刻も早くのりださないといけないと考えている。

 ところで、広谷俊二の無念の死が川上氏の「査問」文中にて明らかにされているが、川端治氏のその後の動静については記述がない。何らかの配慮があるものと思われるが、私は知りたい。いかにもオールドボリシェビキ風の雰囲気を持った軍事評論家であったが、どなたか氏の査問のされ方、その後の様子について教えて頂けたら有り難い。健在なら良いのだけれども。

 当時の民青同の戦う部分の見識を示す次の一文がある。

 「国会というものは、それ自体として新しい政治、新しい歴史を生み出すことのない、いわば産婆役に他ならぬ。人民の闘争こそが、レーニンの言う人民大衆の自主的政治活動こそが歴史の母であり、云々」(香月徹「祖国と学問のために」71.12.1日)。

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【補足・菅原正伯記者について】
 党中央のメガホンとして「新日和見主義者」を懇々と説教した菅原記者がその後他にもどのような記事を書いているのかを見ておく。

1999.04.04  日刊紙04頁 “ウソつき”よばわりでなくまじめな政策論戦を/地域振興券問題での公明新聞の記事について
1999.04.07 日刊紙05頁 「地域振興券」問題で破たんした公明新聞の日本共産党攻撃/いいわけでなく責任のある態度で
1999.04.10 日刊紙04頁 ウソが破たんしてもくり返すとは…/公明新聞が「地域振興券」問題で説明できなかったこと
2002.08.13 日刊紙14頁 NHKスペシャル 幻の大戦果 NHKテレビ 後9・0/虚報生む大本営の構造に迫る

 これによれば、菅原記者は「党中央防衛隊的切込み記者」として、特に公明党に対する難癖、離党反党者に対する説教記事で登用されていることが分かる。この御仁の癖として、己を鏡に映してそれをこれから批判する相手に被せて批判するという手法がある。


 「大本営の構造に迫る」では次のように書いている。
 「大虚報を生んだ大本営の情報軽視の体質と組織の構造的欠陥。同時に大本営を率いた天皇の役割や『人の姿をした神』の名で無謀な作戦を強要した不合理に触れないで日本軍の行動を本当に理解できるかどうか。そんな思いも残りました」。

 れんだいこが言い換えてしんぜよう。
 「大虚報を生んだ党中央の情報軽視の体質と組織の構造的欠陥。同時に党中央を率いた宮顕の役割や『唯一完黙非転向指導者』の名で無茶な指導を強要した不合理に触れないで日共運動を本当に理解できるかどうか。そんな思いも残りました」。

 2003.9.23日 れんだいこ拝


その4 A「新日和見主義者の解析私論」

 「新日和見主義者」達とは何者であったのか? あるいはまた「新日和見主義者」達が摘発される寸前の状況はどんなものであったのだろうか? 解析を してみたい。私は、「新日和見主義研究は、全共闘など新左翼諸派の影響下にあった青年を含む時代と青年情況の検証抜きには語れない」(「汚名」262 P)という観点に全く同意する。「新左翼諸派の影響下にある群衆に、単にトロツキズムないし反共主義のレッテル貼りだけではしのげないし、青年大衆の未定形の不満に対して、切り捨てるのではなく正面から対応すべきとする、と柔軟な感性の必要性を述べていた」というV記の作者(「汚名」262P)の感性を至当としたい。

 事実は、れんだいこ規定によれば次のように表現できる。

 「新日和見主義者達とは未形成なままに存在していた民青同の闘う分子であり、この時点まで党の呼びかける民主連合政府樹立をマジに信じて、その実現のために労苦を厭おうとしない一群の熱血型同盟員達であった」。

 でないと、新日和見主義者達は自己撞着に陥る恐れがあった。新左翼運動が衰退しつつあったこの時こそ民青同の出番となっていた訳であり、この出番で民主連合政府樹立運動に向かわないとすれば、一体全体ゲバ民化してまで全共闘運動と競り合った従来の行為の正当性がなしえず、大きな不義以外の何ものでもないことが自明であったから。

 そういうこともあって、あの頃民青同の闘う分子は本気で民主連合政府樹立を目指そうとし、そのために闘うことを欲していた。闘争課題は何でも良かったような気もする。川上徹・氏は、「査問」206Pで次のように述べている。
 「冷えかかった背後の空気を感じながら、私たちは沖縄闘争を闘っていた。まるでそれは、60年代から引き継いだこの灯を消して仕舞ったら、永遠の静けさの世界がやって来るのではなかろうかという、恐れに近いものでもあったろう」。
 「新日和見主義『一派』に括られた者たちの一部、主に学生運動の分野には、明らかにそうした傾向があった。運動の重さを辛うじて跳ね返し、なんとか闘争のヤマをつくりかけたさなかであった72年5月、新日和見事件が起こった」。

 この語りは、さすがに往時の指導者としての状況認識を的確リアルに示しており、至当と思われる。


 次のような見方もある。高橋彦博氏は、1998.3.9日付け「川上徹著『査問』の合評会」で次のように述べている。
 「戦後民主主義の欠陥を指摘する新左翼には、それなりに状況を反映する感性がありました。問題なのは、新左翼の側には感性しかなかったということでしょう。そして、新左翼と正面から闘う民青であったのですが、前衛党の末端機関としての在り方に満足するのでなく、社会状況に主体的に対応する大衆的組織としての道を選ぶ限り、組織形態としては、理念において対決する新左翼と同じ多元構造を内部に取り込む課題が不可避なのでした。新日和見主義とは、日本共産党の内部に浸潤してきた新左翼的発想にほかならなかったのですが、宮本顕治氏は、前衛組織防衛の本能を発揮し、民青に現れたその動向を『双葉のうちに摘み取った』のです。しかし、この摘み取り作業の結果、日本共産党は、新左翼的感性を取り込むことがないまま旧型左翼として旧世代の支持にのみ依拠する党となり、若者世代から見放される存在となっていったと私は見ています」。

 こういう高橋氏の好意的見方は伝わるが、少々評論的過ぎるように受け取らせて頂く。「新日和見主義とは、日本共産党の内部に浸潤してきた新左翼的発想にほかならかった」というこの見方は、闘おうとする意欲の源泉をこの絡みで見ようとする点で同意しうるが、「新左翼と正面から闘う民青」とその方向に指導した宮顕−不破執行部体制に付きまとう胡散臭さに対する批判的観点を基点にしない限り、喧嘩両成敗に帰着させられてしまう。

 新日和見主義事件の本質は、油井氏の喝破しているように、「本質的には良質で、党に忠実ではあるが、自主的・主体的に物事を判断しようとする」70 年代初頭に立ち現れた党−民青同盟−民青同系全学連の一群の戦闘的傾向、この傾向には「新左翼と正面から闘う民青」論理の不毛性を突破させ、確実な闘争課題に勝利していくことで実質的に社会変革を担おうとする戦闘的分子が混交しており、この動きに対して、元々反動的な宮顕一派が正体を露わにさせて乾坤一擲の粛清に着手した事件であった、とみなさない限りヴィヴィドな視点が確立されえない。

 事実、70年代を迎えて新左翼運動の瓦解現象が発生したが、党は、これと軌を一にしつつ既にかっての熱意で民主連合政府樹立を説かなくなっていた。この落差に気づいた私の場合、民主連合政府樹立スローガンが全共闘運動を鎮めるために党が用意した狡知であったということを認めるまでに相応の時間を要した。私の政治意識が遅れていたということであろうが、認めたくない気持ちが相応の時間を必要とすることになった。

 党がこの頃から替わりに努力し始めたことは、「社会的階級的道義」の名で道徳教育の徳目のようなことの強調であり、まるで幼児を諭すようにして党員達に対する注意が徹底されていった。川上徹・氏は、「査問」207Pで次のように評している。
 概要「70年代にはいると共に、党内での教育制度がきめ細かく制度化されるようになった。初級、中級、上級といったランク化された試験制度が定められ、それぞれの講師資格を取得することが奨励され始めた。党員全体に独習指定文献が掲げられ、専従活動家はそれを読了することが義務化された」、「党組織全体が巨大な学校のようになった。民青組織においてもその小型版が模倣されるようになっていった。私には到底堪えられる制度ではなかった」。

 私は吐き気を覚えた。

 ところで、宮顕はこの辺りの変節に対して自覚的であり、意識的に事を進めているように思われる。この冷静さが尋常ではないと私は思っている。氏の眼は、民青同の中に闘おうと胎動しつつあった雰囲気を見逃さなかった。ホン トこの御仁の嗅覚は警察的であり、この当時の公安側の憂慮と一体のものとなっている。

 70年安保闘争後のこの当時に青年運動レベルにおいて勢力を維持しつつ無傷で残ったのは民青同と革マル派であった。革マル派については別稿で考察しようと思うので割愛するが、70年以降「左」に対する学内憲兵隊として反動的役割をより露骨化させていったのが特徴である。となると、残るのは民青同の処置である。元々民青同は青年運動の穏和化に一定の役目を負わされていたように思われる。

 ところが、この頃民青同は、「新左翼系学生との闘争を通じ、“ゲバ民”のなかには、自分たちの青年学生運動のやり方に自信をもち、また他方で新左翼的思想傾向の一定の影響も出てきました。 そして、共産党中央の上意下達式対民青方針への意見、不満も出るようになりました」、「宮本氏にとって、70年安保闘争、大学紛争、“ゲバ民”後の川上氏らの民青中央委員会や民青中央グループの態度は、“分派ではない”ものの、反中央傾向に発展する危険性をもつと映りました」(宮地健一HP)とある通り、新左翼運動を目の当たりにした相互作用からか、幾分か戦闘的な意欲を強めつつあった。

 沖縄返還運動に対してその兆しが見えつつあった。党の議会闘争も成果を挙げつつあり、各地の選挙で躍進しつつあった。全国的地方レベルでの革新自治体の誕生と広がり、地方議員の誕生等々が並行して進行していた。このような背景を前提にして宮顕の出番となる。“ゲバ民”武装闘争体験者である川上氏の民青同指導が党の統制の枠を離れて指導部を形成し始め、民主連合政府の樹立に向けての本格的な動きを志向しつつあり、それは危険である、ように宮顕の眼に映った。

 恐らく、70年代の青年学生運動の流れを俯瞰したとき、組織的に無傷で温存された民青同は20万人の組織に成長し一人勝ちの流れに乗ろうとしていた。この動きは、対全共闘的運動の圧殺に成功した公安警察側の最後の心配の種であった。既に戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑リンチ致死事件」で解析したように、宮顕の奇態な党指導者性からすれば、当局のこうした意向が奥の院地下ルートから伝えられ、これを汲み取ることはわけはない。  

 こうして、宮顕の嗅覚は“分派のふたばの芽”を嗅ぎ取ることとなり、後はご存じの通り“例の”党内清掃事業に乗り出すことになった。この清掃事業に対して、新日和見主義者達は、「何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかった」(「査問」226P)。長い自問自答の熟考の末、事件の主役として査問された川上氏は、好意的に次のように理解しようとしている(「査問」152P)。
 「共産党はこの『事件』をきっかけにし(ある意味では利用し)、自覚的にか無自覚的にか、自身が一種の『生まれ変わり』を果たそうとしたのではないかと考える。 一つの時代の区切りをつけたかったのではないかと。それを『右旋回』と呼ぶか『官僚化』と呼ぶか『柔軟化』と呼ぶかはその人の立場によって異なるであろう」。

 つまり、被査問者達は、宮顕−不破ラインの党をなお信用しようとしており、自分たちが党の新路線問題で粛清されたと理解したがっているようである。しかしこうでも考えないと今だに「当事者達が何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかった」ということであろう。

 こういう結論に至る背景には、私には根深い宮顕神話の健在と宮顕式論理の汚染が影響しているように思われる。宮顕神話については次のように告白されている。

 「あの『事件』がおきる一年くらい前まで、私自身は『熱狂的』ともいえる宮本顕治崇拝者であった」。
 「頼りになるのは宮本顕治だけだと考えた。宮本の話したり書いたりした一言一句といえどもおろそかにしてはならぬと信じたし、これに異議をとなえるものは『思想的に問題がある』と信じた」。

 この連中に他ならぬ宮顕その人の指示で襲ったのが「新日和見事件」であった。この衝撃の落差を埋め合わせるのに各自相応の歳月を要したようである。 私は既に公言しているように、宮顕の戦前−戦後−現在の過程の一切を疑惑しているので、この事件の解明はそう難しくはない。現党執行部が公安当局との内通性の然らしめるところ、党内戦闘的分子(又はその可能性のある者)を分派活動の理由で処分したものと理解することが出来る。

 川上氏は現在この立場での認識を獲得しているように思える。今日においては、「あれほどコケにされた体験」と公言している。漸く「アノ世界からあれほどコケにされた体験」を客観化し得、この瞬間から「コケにした者達」への疑惑を確信したものと推測される。


 こうした認識上の延長からこそ以下に記す事態の凄みが伝わってくる。「査問」に先だって用意周到な首実検の場面が川上氏の体験で以って明かされている。事件発生前の72年初頭の旗開きの席のことである。宮顕は、彼らの“傾向” を直接観察するための場として、代々木の共産党中央本部で党本部幹部多数と民青同中央常任委員の合同レセプションを開いた。

 その場の宮顕について次のように書かれている。

 概要「私の眼は、会場のいちばん角の薄暗くなっている一角にじっと座っている、大きな人影を見つけだした。私はそれまで人間の視線を恐ろしいと感じたことはなかった。冷たいものが走る、という言い方がある。そのときに自分が受けた感覚は、それに近いものだったろうか。 誰もいない小さなその部屋で、私は、あのときの視線を思い出していた。その視線は、周囲の浮かれた雰囲気とは異質の、じっと観察しているような、見極めているような、冷ややかな棘のようなものであった」(川上著「査問」13P)。
 
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(私論.私見)