新日和見事件の考察 | 第2部 | 1、「新日和見主義事件」概観
2、「新日和見主義者の解析私論」 |
(最新見直し2007.2.7日)
その3 | 1、「新日和見主義事件」概観 |
いよいよ 新日和見主義事件の考察に入るところまでやって来た。以下の記述は、「赤旗」、著書「査問」・「汚名」・「突破者」、H P「さざ波通信」、宮地健一氏H P「共産党.社会主義問題を考える」の「新日和見主義『分派』事件」等々を参照させて頂いた。
この観点こそが、この事件のキーであると私も同意する。
私は、こういう歪曲と捏造とすり替えを見るたびに、既述連作投稿した戦前の「大泉・小畑両中央委員査問、小畑リンチ致死事件」での宮顕の詭弁を思い出す。というよりそっくりの論法に気づかされる。赤旗記者とは、宮顕論法を如何に上手に身につけたかを紙面で競う提灯記事の競い屋かも知れない。新日和見主義者達は、菅原記者が書いているような意味で「アメリカガタガタ論」・「日本軍国主義主敵論」・「沖縄決戦論」を本当に鼓吹していたのか。本当に新日和見主義者達が居たとした場合、彼らに紙上反論権が認められ、その見解が一度でも良いから赤旗で記事掲載されたことがあるのか。そういう事も問題にされぬまま、実際を知らせもせぬまま闇に葬むってしまうやり方はオカシクはないのか。こういう手法は、党ならではに通用する封建的な「お白州政治」ではないのだろうか。
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【補足・菅原正伯記者について】 | ||||||||||||||
党中央のメガホンとして「新日和見主義者」を懇々と説教した菅原記者がその後他にもどのような記事を書いているのかを見ておく。
これによれば、菅原記者は「党中央防衛隊的切込み記者」として、特に公明党に対する難癖、離党反党者に対する説教記事で登用されていることが分かる。この御仁の癖として、己を鏡に映してそれをこれから批判する相手に被せて批判するという手法がある。 「大本営の構造に迫る」では次のように書いている。
れんだいこが言い換えてしんぜよう。
2003.9.23日 れんだいこ拝 |
その4 | A「新日和見主義者の解析私論」 |
「新日和見主義者」達とは何者であったのか? あるいはまた「新日和見主義者」達が摘発される寸前の状況はどんなものであったのだろうか? 解析を
してみたい。私は、「新日和見主義研究は、全共闘など新左翼諸派の影響下にあった青年を含む時代と青年情況の検証抜きには語れない」(「汚名」262
P)という観点に全く同意する。「新左翼諸派の影響下にある群衆に、単にトロツキズムないし反共主義のレッテル貼りだけではしのげないし、青年大衆の未定形の不満に対して、切り捨てるのではなく正面から対応すべきとする、と柔軟な感性の必要性を述べていた」というV記の作者(「汚名」262P)の感性を至当としたい。
でないと、新日和見主義者達は自己撞着に陥る恐れがあった。新左翼運動が衰退しつつあったこの時こそ民青同の出番となっていた訳であり、この出番で民主連合政府樹立運動に向かわないとすれば、一体全体ゲバ民化してまで全共闘運動と競り合った従来の行為の正当性がなしえず、大きな不義以外の何ものでもないことが自明であったから。 そういうこともあって、あの頃民青同の闘う分子は本気で民主連合政府樹立を目指そうとし、そのために闘うことを欲していた。闘争課題は何でも良かったような気もする。川上徹・氏は、「査問」206Pで次のように述べている。
この語りは、さすがに往時の指導者としての状況認識を的確リアルに示しており、至当と思われる。 次のような見方もある。高橋彦博氏は、1998.3.9日付け「川上徹著『査問』の合評会」で次のように述べている。
こういう高橋氏の好意的見方は伝わるが、少々評論的過ぎるように受け取らせて頂く。「新日和見主義とは、日本共産党の内部に浸潤してきた新左翼的発想にほかならかった」というこの見方は、闘おうとする意欲の源泉をこの絡みで見ようとする点で同意しうるが、「新左翼と正面から闘う民青」とその方向に指導した宮顕−不破執行部体制に付きまとう胡散臭さに対する批判的観点を基点にしない限り、喧嘩両成敗に帰着させられてしまう。 新日和見主義事件の本質は、油井氏の喝破しているように、「本質的には良質で、党に忠実ではあるが、自主的・主体的に物事を判断しようとする」70 年代初頭に立ち現れた党−民青同盟−民青同系全学連の一群の戦闘的傾向、この傾向には「新左翼と正面から闘う民青」論理の不毛性を突破させ、確実な闘争課題に勝利していくことで実質的に社会変革を担おうとする戦闘的分子が混交しており、この動きに対して、元々反動的な宮顕一派が正体を露わにさせて乾坤一擲の粛清に着手した事件であった、とみなさない限りヴィヴィドな視点が確立されえない。 事実、70年代を迎えて新左翼運動の瓦解現象が発生したが、党は、これと軌を一にしつつ既にかっての熱意で民主連合政府樹立を説かなくなっていた。この落差に気づいた私の場合、民主連合政府樹立スローガンが全共闘運動を鎮めるために党が用意した狡知であったということを認めるまでに相応の時間を要した。私の政治意識が遅れていたということであろうが、認めたくない気持ちが相応の時間を必要とすることになった。 党がこの頃から替わりに努力し始めたことは、「社会的階級的道義」の名で道徳教育の徳目のようなことの強調であり、まるで幼児を諭すようにして党員達に対する注意が徹底されていった。川上徹・氏は、「査問」207Pで次のように評している。
私は吐き気を覚えた。 ところで、宮顕はこの辺りの変節に対して自覚的であり、意識的に事を進めているように思われる。この冷静さが尋常ではないと私は思っている。氏の眼は、民青同の中に闘おうと胎動しつつあった雰囲気を見逃さなかった。ホン トこの御仁の嗅覚は警察的であり、この当時の公安側の憂慮と一体のものとなっている。 70年安保闘争後のこの当時に青年運動レベルにおいて勢力を維持しつつ無傷で残ったのは民青同と革マル派であった。革マル派については別稿で考察しようと思うので割愛するが、70年以降「左」に対する学内憲兵隊として反動的役割をより露骨化させていったのが特徴である。となると、残るのは民青同の処置である。元々民青同は青年運動の穏和化に一定の役目を負わされていたように思われる。 ところが、この頃民青同は、「新左翼系学生との闘争を通じ、“ゲバ民”のなかには、自分たちの青年学生運動のやり方に自信をもち、また他方で新左翼的思想傾向の一定の影響も出てきました。 そして、共産党中央の上意下達式対民青方針への意見、不満も出るようになりました」、「宮本氏にとって、70年安保闘争、大学紛争、“ゲバ民”後の川上氏らの民青中央委員会や民青中央グループの態度は、“分派ではない”ものの、反中央傾向に発展する危険性をもつと映りました」(宮地健一HP)とある通り、新左翼運動を目の当たりにした相互作用からか、幾分か戦闘的な意欲を強めつつあった。 沖縄返還運動に対してその兆しが見えつつあった。党の議会闘争も成果を挙げつつあり、各地の選挙で躍進しつつあった。全国的地方レベルでの革新自治体の誕生と広がり、地方議員の誕生等々が並行して進行していた。このような背景を前提にして宮顕の出番となる。“ゲバ民”武装闘争体験者である川上氏の民青同指導が党の統制の枠を離れて指導部を形成し始め、民主連合政府の樹立に向けての本格的な動きを志向しつつあり、それは危険である、ように宮顕の眼に映った。 恐らく、70年代の青年学生運動の流れを俯瞰したとき、組織的に無傷で温存された民青同は20万人の組織に成長し一人勝ちの流れに乗ろうとしていた。この動きは、対全共闘的運動の圧殺に成功した公安警察側の最後の心配の種であった。既に戦前の「大泉・小畑両中央委員査問・小畑リンチ致死事件」で解析したように、宮顕の奇態な党指導者性からすれば、当局のこうした意向が奥の院地下ルートから伝えられ、これを汲み取ることはわけはない。 こうして、宮顕の嗅覚は“分派のふたばの芽”を嗅ぎ取ることとなり、後はご存じの通り“例の”党内清掃事業に乗り出すことになった。この清掃事業に対して、新日和見主義者達は、「何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかった」(「査問」226P)。長い自問自答の熟考の末、事件の主役として査問された川上氏は、好意的に次のように理解しようとしている(「査問」152P)。
つまり、被査問者達は、宮顕−不破ラインの党をなお信用しようとしており、自分たちが党の新路線問題で粛清されたと理解したがっているようである。しかしこうでも考えないと今だに「当事者達が何で自分たちがこんな目に遭わされるのか、よく解らなかった」ということであろう。
この連中に他ならぬ宮顕その人の指示で襲ったのが「新日和見事件」であった。この衝撃の落差を埋め合わせるのに各自相応の歳月を要したようである。
私は既に公言しているように、宮顕の戦前−戦後−現在の過程の一切を疑惑しているので、この事件の解明はそう難しくはない。現党執行部が公安当局との内通性の然らしめるところ、党内戦闘的分子(又はその可能性のある者)を分派活動の理由で処分したものと理解することが出来る。
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