社青同解放派考

 (最新見直し2,006.10.19日)

 関連サイトは、「社青同解放派内「内ゲバ」事件について」。

 (れんだいこのショートメッセージ)

 社青同解放派内「内ゲバ」事件考察の前提として、社青同史を見ておくことにする。とは云いながら、れんだいこは社青同史について知らない。それもその筈で、インターネットで検索しても同派の党史サイトが出てこない。これは全くお粗末なことである。と書いてみたが、仔細に見ると社青同リンク集で拝見できるようである。これによると、60年代史から71年までは「歩み」が整理されているようである。次にいきなり革労協再建連・社青同中央再建委から全協へと飛んでいる。いずれにせよ、「社青同私史」があるだけで公認党史化の段階にまでは至っていないようだ。現代古文書研究会に貴重な資料があったように思うが、現在パスワード式になっており直には閲覧できない。2005.12.29日現在では「社青同の歴史(1960〜1988)を目にすることができる。「(ウィキペディア)革命的労働者協会(社会党社青同解放派)」も現われたのでこれも参照する。



【社青同党史概略その1、創設】
 社青同の歴史(1960〜1988)」その他を参照する。
 1960.10.15日、日本社会主義青年同盟(以下、「社青同」と記す)が結成された。社会党は、60年安保闘争の経験を総括して、日共の民青同を意識してこれに対抗しうる青年学生運動組織を創らんとして社青同を創設した。1959年頃より日本社会党左派がこれを推進し、社会党青年部特に総評系労働組合の活動家が担った。戦前日共運動の山川均を頂点とする労農派マルクス主義(後の社会主義協会)の思想的伝統も汲んでいた。「社青同は安保と三池から生れた」と云われる。

 この流れを創出したのが革命的労働者協会(革労協会=社青同解放派)の書記長・解放派筆頭総務委員の中原一(本名・笠原正義)氏、滝口弘人、、高見圭司狭間嘉明らであった。 機関紙として「解放」(旧「革命」)を発行する。1969.9月、このグループが「社会党・日本社会主義青年同盟学生班協議会解放派(社青同解放派)」を形成し、その政治組織として革命的労働者協会(革労協)、学生組織として全国反帝学生評議会連合(反帝学評)を結成する。拠点校は明治大学。

 その中原氏が、1977(昭和52).2.11日、革マル派の襲撃に遭い死亡する。解放派は復讐戦を誓い、全面戦争に突入する。ところが、対革マル派戦に向かう他方で求心力を失い始め、学生武闘派を中心とした狭間派と、労働者組織重視の労対派(滝口弘人、高見圭司ら)に分裂する。

【社青同党史概略その2、社青同の組織基準の特徴】
 社青同は、日共民青同の統制主義的組織原理を排し、その組織基準を開放系にしていた。このことの良し悪しがその後の社青同に刻印される。これに一言しておくと次のように云えるのではなかろうか。社青同は日本左派運動史上珍しい組織原理を導入していたことになるが、それが為にために社青同は左右から常に揺さぶられることになった。が、それは非ではなく是とされるべきではなかろうか。いわば「革命的組織弁証法」を実践したことになり、この原理が否定されるべきではなかろう。この原理を御する能力を関係者が相互に持ち得なかったことを見て取るべきではなかろうか。もっとも、この能力を史上持ちえた組織は未だ見当たらない。れんだいこ的感慨としては、戦後保守本流を形成した自民党ハト派系の吉田ー池田ー佐藤ー田中ー大平ー鈴木が指導したほぼ30年史を知るばかりである。

 「社青同」は組織基準を緩めたため、ここにいわゆる反日共系の急進主義的な学生グループがどんどん加入してきた。第四インター系が加入戦術で組織的に食い入ってきた経緯もある。三多摩地区を中心にかなりの勢力をもった(その後自己崩壊し、東京では1968年頃までには社会党系の運動からひきあげることになる)。これと異なる急進主義グループが生まれ、後に解放派を結成していくことになる。ところが、このグループは、1971年の社青同大会で除名処分された。社会党史では「社青同東京地本の解散」として扱われている。ブント系の四分五裂に対して、社青同系のそれは分裂が少ないという特徴がある。

【社青同党史概略その3、】
 1964.2月、社青同は第4回全国大会で、「改憲阻止・反合理化」を今後の闘いの中心に据えることを決定した。これが「基調」(または「基調の確立」)と呼ばれている。その後の社青同は、この 「基調」評価を廻って対立していくことになる。「基調」は、思想闘争の重要性を踏まえ自由討論を重視していた。皮肉なことに、このことも又社青同を翻弄していくことになる。

 群馬・栃木・東京・愛知・大阪・京都・徳島など少なからぬ重要な県で急進派が生まれ、激しい理論闘争を展開した。急進派は、東京地本の執行委員会を握り、地本内部でも全国の同盟に対しても理論闘争を促し、「基調」批判の討論や教宣を続けた。急進派は、当時のブント系、革共同系と伍するべく、社民運動を批判しつつ革命的労働者の結集による前衛党建設を志向し始め、社会党・社青同内部で分派闘争を展開し始めた。この立場から、第4回全国大会以後「基調」批判を強め、遂に上部団体の社会主義協会的穏和運動を「日本革命の最大の敵」とまで公言するに至る。

 1965年、日韓条約反対闘争の頃、公労協青年部を中心に「反戦青年委員会」が結成された。「反戦青年委員会」は、労組青年部の団体共闘を中心に、社会党・社青同が加わり、さらに個人加盟を認め、様々な学生集団のオヴザーバー参加をも認める構成だった。そして中央に続いて、各県段階、さらに地区段階にも結成されて大きな役割を果していくことになる。この「反戦青年委員会」もその組織基準を開放系にしていた為、当時活性化し始めていた新左翼の加入に洗われることになる。

 1966.9.3日、東京地本第7回大会が開かれたが、急進派は、執行部独占を意図して、反対派に対し開会直後からゲバ棒を手にして数時間にわたる暴行・テロを加えるという事件を引き起こした。これにより百数十人が負傷者させられ、半身不随で療養する者も生まれた。これを「九・三事件」と云う。大会は流会した。緊急中央委員会の決定で東京地本は解散させられた(「社青同東京地本の解散」)。東京地本は同年12月に再建された。第四インターと急進派は、再登録にともなう自己批判を拒否し、東京地本の急進派は社青同を脱退した。

 1967年、第7回大会直後より、社青同内の大論争がはじまった。この頃、いわゆる「三つの見解」が生まれ、それぞれ、第一見解、第二見解、第三見解と略称された。その背景には「社会党・総評ブロック」の評価があった。当時の「社会党・総評ブロック」は、社会・公明・民社三党合同を強めつつあり、労働戦線でも総評・同盟を再編する労働運動の「再編統一論」を打ち出していた。いずれも右傾化の流れであった。

 急進派の主張は第二見解と云われる。彼らは、「社会党・総評ブロック」の右傾化を批判した。解放派、第四インター、構改左派、主体と変革派、福岡地本執行部がこれに加わった。「社会党・総評ブロック」の社民運動と決別し、左派運動の左派化による再生を主張していた。但し、その内部では更なる論争と対立が繰り返された。右派の主張は第三見解と云われる。彼らは、第二見解を批判した。歴代の社青同委員長をはじめ中央執行委員会の多数派がここに加わった。太田薫と思想上のつながりを持っていたので太田派ともよばれた。太田派は、急進派に反発する対抗勢力となった。第三見解派は執行部に代表を送らず、事実上の分裂活動を始め、復帰の呼びかけを拒否しつづけた。中間派の主張は第一見解と云われる。彼らは、左派系の第二見解、右派系の第三見解のどちらをも批判した。当時の中央執行委員会主流派の見解であり、兵庫・東京・福島などの地本の支持を受けていた。この当時少数派となっていた。組織維持を責務とした観点からの見解であり、「第一見解は、急進派の第二見解に対して批判的で、右派の第三見解に対して宥和的であった」。

 1968年、それまでの急進派や第四インターだけでなく、革マル派、中核派などが地区や単産に入りこみ勢力を拡大し始めた。彼らは、「第三期反戦青年委員会運動」を自称し独自の反戦運動を提起し始めた。その頂点は、いわゆる「職場反戦青年委」で、「自主・創意・統一」というスローガンの下に職場毎に組織されている労働組合運動を越えた横断的活動者グループを組織し始めた。

 同年、第8回大会では事実上三つの流れが生まれた。1969.9月、第9回大会では、いわゆる「三つの見解」が鼎立して譲らず、「今後1年間かけて徹底的な討論により団結の道を探す」ことを申し合わせた。

【社青同解放派党史概略その1、創設】
 その直後の1969.9月、急進派の主流を形成していたグループが、「社会党・日本社会主義青年同盟学生班協議会解放派」(以下、「社青同解放派」と記す)を旗揚げし、その政治組織として革命的労働者協会(革労協)、学生組織として全国反帝学生評議会連合(反帝学評)を結成した。この流れを創出したのは中原一(本名・笠原正義)氏、滝口弘人、、高見圭司狭間嘉明らであった。 中原一・氏が革労協の書記長、社青同解放派筆頭総務委員に就任した。機関紙として「解放」(旧「革命」)を発行する。太田派も第9回大会の決定を拒否し、事実上の分裂活動を始めた。

 1970年末、第34回社会党大会が開かれたが、社青同内の対立の縮図がそのまま持ち込まれ、「社・公・民」路線を採り始めた執行部とこれに反対する左派との対立で収拾がつかなかった。1971.2月、第10回大会が招集されたとき、第二見解派はこれを暴力的に破壊することを宣言、第三見解派は開催に反対を唱え参加しなかった。この時の大会で第二見解派が除名処分された。これを「解放派処分」と云う。

 第10回大会後の社青同執行部派の考察は割愛する。以下、解放派の流れを追うことにする。

 解放派は、学生運動の拠点として東大に足場を築き、早大政経学部自治会を長らく維持していたが、東大紛争の最中に革マル派との束の間の蜜月時代を経てゲバルトに突入。これに敗退、追放された。その後、明治大学を拠点とする。ブント系の四分五裂に対して、社青同系のそれは分裂が少ないという特徴がある。

 70年安保闘争後の1970.8.4日、東教大生・革マル派の海老原俊夫氏が中核派のテロにより虐殺され、8.14日、革マル派は中核派の拠点に法政大に乗り込み報復した。以降、両派はやられたらやり返す党派間戦争に突入した。この過程で、革マル派と解放派の党派間抗争が始まり、こちらもやられたらやり返す党派間戦争に突入した。







(私論.私見)


社青同第十回大会宣言

「社会党・社青同・社会主義協会派批判」


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「織田進氏の社青同批判」

 正式には日本社会主義青年同盟(社青同)。社会主義協会向坂派が指導する青年政治組織。「孝行息子か鬼っ子か」。第四インターナショナル日本支部の社青同の「発展」における貢献。

 社青同は、社会党の浅沼委員長が右翼によって暗殺された直後の、一九六〇年一〇月一五日に結成された。当時の社会党は今日と違って、大衆の急進主義にたいする許容量が大きかった。良くも悪しくも社会党らしさが見られる。社会党の青年党員。全国で数百名といったところであろう。どんなに多くかんじょうしても、一、〇〇〇名。

 六〇年安保闘争の最先頭に立ったブンド系全学連の指導者は、三宅坂の党本部によく出入りし、青年部役員と連絡をとって東京地評工作やデモ戦術の打ち合わせなどをやったし、デモが終ったあとに大衆をひきいて党本部の門前に出かけ、「社会党ガンバレ!」のシュプレヒコールをやるようなこともあった。社会党の方でも、戦闘的な青年、学生とのつながりにおいてはいつも共産党にひけめを感じていたから、全学連とのこういうつながりを積極的に歓迎し、呼応していた。

 まるまる一ヶ月にわたって完全にマヒしている国会で、安保条約改定批准が、自然承認となる六月一八日午後一二時まで、全学連はついに行動の指令を発しなかった。

 安保決戦前年の五九年に、安保条約改訂是非をめぐって西尾派と対決し、西尾追放の最先頭に立って、民社党結成に追いつめたのも、彼らであった。

 社青同結成の計画は、彼らによって練り上げられていった。彼らは、党を大衆運動の積極的な主体に押し上げるためには、組織・機構改革が必要であると考えた。その一つが、社会党青年部を社青同に発展・解消させることであり、もう二つは、機関紙「社会新報」の強化と、オルグ団制度の導入であった。この方向は、「社会党近代化路線」とも呼ぶべきもので、提唱者の中心である青年部中央役員の多くは、江田三郎のもとに集まり、「構造改革論」の学習をやっていた。社会主義協会派は、歴史を偽造して、社青同結成を彼らが一貫して推進したかのように宣伝しているが、事実は反対である。協会派はこの提案が社会党の「左翼バネ」である青年部を党外に排除する陰謀ではないかとうたがい、「時期尚早」をとなえたが、構革派がその抵抗を押し切って結成にもっていったのが真相である。

 日共の民青に対する社会党・民同の対抗青年組織として結成された。

 安保闘争において、社会党が共産党のような「統制」をおこなわなかったことに好感。民青の「歌ってマルクス、踊ってレーニン」に対する反発。
 「安保と三池で生まれた社青同」。「安保と三池で生まれた社青同」はこのふたつの敗北した闘争がつき出した課題を受けて、真の革命的前衛党を建設するためにたたかう組織なのだ、という主張がそこから出てきた。

 構革派の「平和と民主主義」の大衆的青年運動をつくり上げる組織。社会主義協会派。「安保と三池」の戦闘的な実感と、共産党――民青なにするものぞ、というような気概とで、混然と一体となっている姿が、結成当時の社青同であった。こうしたカオス状況のなかから、社青同の歩みがはじまった。そしてその歩みは、これらのまじり合った諸傾向が、次第に固定化し、対立し、相互に排除し合い、最後には激突にいたろ過程なのであった。

 結成から三年間、社青同の指導権は、西風氏を中心とする構造改革派の手にあった。六四年二月の第四回全国大会で、いわゆる「改憲阻止・反合理化の基調」が採択され、「左派」執行部が確立されるまで、構革派系の社青同中央は、総評青年部幹部と結んで、「大衆化路線」を実現しようとした。

 協会派が分裂のときまでかついできた深田氏等。構革派指導部は協会派にない良さをもっていた。彼らには、あまりセクト主義がなく、どちらかというと陽性であった。それにひきかえ協会派は共産党の物真似というべきセクト主義でかたまり、活動家の感性が陰湿である。

 構造改革派の理論と社会主義協会の理論をくらべて、どちらが「左」であるかをいうのはむずかしい。反独占革命派であり、平和革命論であり、議会主義であるという点では、差異はない。世界革命に開かれた政治感覚という点では、むしろ構革派の方が優れている。国際路線では、どちらもソ連派であり、平和共存派である。改憲阻止闘争こそ、「左派」が登場した契機であったなどと協会派の諸君はいうが、政治闘争にたいする協会派の熱中ぶりがどのていどのものであるかは、すぐそのあとで示されることになる。どちらも「護憲・民主・中立」の立場である。七〇年闘争を経た今日にたってふりかえると、当時の構革派の頂点は現在「社公民路線」を走っており、江田派の中核をなしているから、その限りでみると構革派が右派であったことは、歴史によって示されたということになろう。だが、もうひとつ無視し得ない、歴史の示した事実がある。協会派が今日まで一貫した反急進主義を守り通し、社会民主主義の枠を一歩も超えないのにくらべて、構造改革派の運動を担った拠点的地区本部、大阪、埼玉、石川、北海道などは、六七年以降の急進的青年運動の高揚のなかで社会党の一線を飛び出して、自ら新左翼的な分派「主体と変革」派を結成し、急進派の陣営に移行するのである。

 構革派が右で協会派が左であるという図式は、構革派を江田派という無理な限定にしぼってしまえばいえなくもないが、当時の社青同横革派にそれはあてはまらない。

 協会派と構革派のもっともはっきりしたちがいは、運動のくみたて方、組織のつくり方にあった。構革派は「平和擁護・民主化要求」の闘争路線を提起した。この路線は平和共存の情勢を「積極的に利用」して、資本主義の権力構造、社会構造のなかに革命の拠点となるべき「改革」をつくり出そうとするものである。社会の「大衆化状況」のなかで、権力の秩序のなかにますます多くの大衆が包摂されている。これを逆手にとって、権力を空洞化し、その空洞を革命の側が埋めていくのだ、と主張した。協会派は、こうした路線は改良主義的な幻想だ、と指摘する。レーニンの「国家と革命」を半分だけ引用して、(もっとも協会派が引用するマルクス、レーニンは、いつも半分なのだが)ブルジョア国家はブルジョア独裁であって、それをプロレタリア革命にそのまま役立てることはできないという、それなりに正しくはあるが、面白みも新鮮さもない批判を展開した。それでは協会派はどういう路線を対置するのかというと、実に単純明快、無味乾燥、論理の水準でいえば小学校の算数程度のものである。社会主義革命をやるためには労働者に社会主義の思想を理解させなければならない、それは学習を通じるが、学習の意欲を起させるためには、政治反動と合理化攻撃にたいして、抵抗するたたかいをやらなければならない。抵抗をつみ上げて学習を組織し、社会主義を理解した活動家を育てて、ときを待つ。つまり、資本主義の決定的な破局を、である。

 ちぢめていうと、構革派は「要求闘争」派であり、協会派は「抵抗闘争」派であった。両者はたがいに激しく嫌悪した。
 構革派指導部の「右派性」がはっきりしはじめるのは、六二年のソ連核実験以後である。ここで構革派指導部は、「全ての核実験反対」を打ち出し、総評、社会党と一緒に、日本原水協を分裂に追い込み、あらゆる戦線で反日共の策動を展開した。この問題をめぐって社青同のなかに最初の大規模な対立が発生した。東京地本の「左」派を中心とする部分は、こうした動きは反共主義であるとして非難した。むろん彼らも、ソ連核実験に賛成なわけではないから、彼らのかかげたスローガンは、「『全ての核実験反対』に反対」という、つまり、「反対にも区別をつけろ」というすっきりしないものであった。

 ここから始まった対立は発展して、社青同の組織路線をめぐる対立になった。すでにのべたように、構革派指導部の「要求闘争」路線は、社青同の「大衆化路線」として定式化された。大衆の要求に積極的にとりくみ、それを運動に組織して権力にぶつけていく。それが「歌い、踊る」要求であっても、大衆のあらゆる要求にどん欲にとりくむ組織でなければ、社青同は拡大しないという反省にもとづく方針であった。日共との対決に意識をするどく集中した構革派は、民青と対決するために、民青の「お株をうばう」活動をやろうとしたのである。

 これにたいして協会派の「左派」は、それが社会主義の魂を同盟が捨て去り、大衆の水準に社青同を低める、「同盟を大衆化する」路線であると反撥した。

 六四年二月の第四回大会で、構革派は敗北した。核実験問題をめぐる反日共主義は、職場の労働者の戦闘的部分には受け入れられず、職制に近い部分やダラ幹的勢力に歓迎されるものであった。こうした背景のなかで、構革派の「大衆化路線」は、わずかの例外(大阪地本など)をのぞいて、実践する部隊も、基盤ももたなかった。これに反して「左派」は、三池闘争から出発した福岡、安保の産物としての戦闘的活動家群に支えられた東京を中心とし、社会主義協会の歴史的蓄積をフルに利用して多数を制した。「左派」は、「改憲阻止・反合理化の基調」なる決議を採択し、執行部を掌握した。

 ところで、「基調」という用語が、耳なれない読者もいるだろう。あえていえば、「総路線」とか、「戦略」とかいうことになるのであろう。あるいは綱領の解釈の仕方、綱領の補強ということでもあろう。いずれにせよ、あいまいで含みの多い、社民的な用語ではある。

 こうして社青同は、「平和擁護・民主化要求」の「大衆化路線」ではなく、「改憲阻止・反合理化」の「基調」のもとで、当分進むことになった。第四回全国大会は、指導分派を交代させた。ところが、これは社青同内分派闘争の終りなのではなく、まさに始まりだったのである。以後七〇年にいたるまで、社青同の歴史は分派闘争の歴史となった。

 社会党は、この分派闘争に事実上介入できなかった。民青の分派闘争は、つねに共産党によって解決された。あるいは民青の分派対立は、共産党の分派関係の反映にすぎなかった。社青同の場合も、基本的には社会党内の分派対立を反映する。だが社青同には、社青同にしかない分派がいくつも存在する。また社会党のなかの重要な分派のほとんどが、社青同内に忠実な“息子”をもてないでいた。根本的には社会党内の力関係に沿って解決がはかられていくにせよ、直接の結果はつねに社青同内分派闘争の独自的な力学によって決まった。第四回大会以降のめまぐるしい分派闘争は、社会党の派閥力学とは異質の展開を見せた。社会党は、はらはらし通しであった。親に以ぬ子「鬼っ子」を持ってしまった不幸のなげきを、しばしば禁じ得なかった。
 第四回大会は、そうした社青同の「鬼っ子」の時代をひらいたのである。

 3 「孝行息子」への変身

 ここで、鬼っ子時代の社青同にふさわしく、“極左派”として協会派中央の憎悪の的となった二つの分派を紹介しておこう。
 第一は、第四インター派である。第四インターは六〇年安保闘争以後、社会党への加入戦術を行ない、社青同のなかに無視し得ない力をきずいた。第四インターが加入活動によって影響力を行使した地方は、三多摩を中心とする東京、宮城を中心とする東北、そして大阪を中心とする関西の三つである。第四インターの加入活動に終始神経をとがらせていた協会派は、次のように説明している。
 「加入戦術とは、社青同の思想・運動・組織・構成員の全体を認めず、全体はだめだが部分的によい者がいるという考え方で加盟することである。したがって全体強化や全体の意志統一を追求せず、正反対に、全体から『正しい部分』をいかに分離させ別の方向へ向わせるかを追求する。社青同の自由な討論はよくこのような加入戦術に利用された。」(労大新書「青年運動」)
 加入戦術の意味を、この程度のものにしか理解できなかったところに、協会派のお粗末さがあらわれており、なぜ彼らが、あれほど第四インター派に苦しめられなければならなかったかの一つの根拠がある。加入戦術は、「悪い全体」から「良い部分」を切りとろうというようなものではない。こういう規定は、むしろ解放派の組織論にあてはまる。もちろん解放派は、加入戦術をやったわけではない。
 加入戦術は、革命的な運動の影響力を、改良主義的な運動の内部につくり上げようとする戦術である。ふつうこうした目的は、統一戦線戦術として追求される。だが、革命的な運動が極端に孤立して、大衆運動が改良主義者のもとにしか存在しないような場合には、加入戦術が行なわれる。改良主義者のなかから良い者をかりとるためであったら、外部から革命の旗をかかげて工作した方がはるかに早い。だが、改良主義者のなかに、それほど良い者がいるという認識を第四インターは持ったこともないし、幻想として斥ける。
 革命的カードルは革命的運動のなかからしか生れない。だが、革命的運動は、改良主義的な運動から発展しうる。そのためには、革命的カードルが必要なのであるが、それを改良主義の運動に「外部注入」するのが加入戦術なのである。
 だから加入戦術は、あれこれの個人の活動家を対象とする運動ではなくて、革命的な大衆運動をつくり上げる。事実、加入戦術が成功した三多摩や宮城では、社青同全体が第四インター派のつくり上げた革命的大衆運動の成果として生れた。協会派の諸君はあとからこれに“加入”して自らの影響力を行使しようとしたが、ついに指一本ふれることができなかった。革命派の大衆運動に改良派が“加入戦術”をしようとしても、できるわけがないのである。加入戦術を終えるにあたって、第四インター派はたしかにその成果を刈りとった。つまり社青同を解体し、公然たる第四インターの旗をかかげた。だが、このことについて協会派や社青同から文句を言われるすじ合いはない。第四インターがつくり上げた革命的大衆運動は、他の場所にはいきようがないのであって、自分の運動に自分の旗をかかげたからといって、誰にも非難できない。協会派は、運動にたいして運動を対置できなかった自らの弱さを恥じるべきなのである。
 第四インターの加入戦術活動が、その最初の段階から目的意識的に追求されたのとくらべると、もう一つの鬼っ子分派たる解放派は、かなり事情が異なる。解放派は一〇年間かけて左へゆっくりと移動し、とまった。とまったところが、社会党の境界線を半分だけこえた位置であった。たとえ半分であろうと、こえたものを見のがさないのが、スターリニスト派社民たる協会派の特技である。主として協会派によって、党と社青同の外に排除されてしまった。哀れなのは解放派である。自らはたった半分のちがいしか見出してはいないのに、五〇歩も、百歩もちがうように言われて追い出されたのである。あきらめ切れない解放派は、母なる社会党屋敷の茨の垣根のすぐそばに堀立小屋を立てて、仮住いをしている。堀立小屋には、「社青同中央本部」と看板をかけ、母屋とわが屋は棟つづきなのだと、人々に納得させようとしている。だが、公平に見て棟はつづいていない。“極左派”に手をやいた協会派が自戒をこめてめぐらした深い防衛ラインが、この二つの社青同のあいだにはたしかにあるのである。
 解放派が左へ移動した基本的な動因は、社会主義協会の長期抵抗闘争路線が、六〇年代の都市合理化の攻撃にたいして無力だったところにある。解放派の中枢的な担い手は、もともとは協会派の若手カードルの戦闘的部分であった。押し寄せる都市合理化にたいして協会派の長期抵抗闘争が“なしくずし敗北路線”でしかないことを見てとったこれらのカードルは、“一点突破、全面展開”なる職場反乱型の闘争に突入していって、そこから、協会派への批判を開始した。これを促進し、指導したのは、山川均の直系を自称する滝口弘人氏がひきいる、学生“共産主義”者のグループであった。このようにして解放派は生まれたのである。
 解放派は、たしかに社会党の枠を半歩だけこえた。暴力革命=ソビエト革命を認めたためである。それにもかかわらず彼らが、わずか半歩しかこえていないのは、レーニンを認めないからである。レーニンの前衛党=インターナショナルの立場に立たないからである。このため彼らの暴力革命=ソビエト革命は、アナルコ・サンディカリズム的にねじまがっている。レーニンの立場に立ち切ることなしには、暴力革命は個人の信条の範囲をこえ出ないのである。
 ともあれ、このようにして左へむかった解放派は、六五年から東京社青同の主流派の位置をしめ、群馬、京都、徳島などに影響力をつくり上げた。
 六四年第四回大会で左派中央が誕生した直後から、大衆運動はベトナム・日韓闘争にむけてうねり出しはじめた。このうねりの最先頭の位置に突然おどり出たのは、第四インター派が指導する三多摩社青同であった。三多摩社青同は、未組織労働者を組織する統一労組運動を土台として、民間・官公労青年労働者のあいだに急速に組織をのばし、文化運動、婦人運動、高校生運動などのひろがりをつくり上げていたが、六四年の原潜寄港反対、横須賀闘争以降、政治闘争への全力投入を開始した。三多摩社青同の、全員ヘルメットをかぶった戦闘的な闘争にひきつけられたのは、都内の解放派系同盟員であった。六四年の末に、解放派と第四インター派のブロックが結ばれ、解放派は協会派との提携を打ち切って、“左派の左派”をつくり上げる路線にのり変えた。この解放派の態度の変化は、協会派を硬化させた。こうして、六五年から六六年いっぱいまでの二年間、解放派=第四インター派連合と協会派とのあいだに、主として、政治闘争の路線をめぐる対立と闘争がつづいた。奇妙なことに、この関係は、東京に限られていた。宮城でも京都でも、解放派は第四インター派にたいして対抗しつづけた。宮城では協会派を利用して第四インター派指導部を攻撃したし、京都では、第四インター派の加入を認めようとしなかった。なぜ解放派がこうした態度に固執したのかは、わからない。結局、解放派は全国分派というよりは、地方分派の連合体にすぎず、中央の判断が必ずしも地方に受け入れられない組織体質だったのであろうか。
 東京での協会派と“左派の左派”の対決は、六五年の日韓闘争を通じて、感情的、暴力的対決の水準にまで高まった。東京池本の力関係では、解放派H第四インターの左派連合が協会派を圧倒しつづけた。べトナム=日韓の政治闘争においても、東交を中心とする反合闘争においても、運動を活発に展開して大衆をひきつけたのは左派連合であった。このため、旧来の協会派の拠点といわれていたいくつかの職場班や活動家グループが、左派連合に加担した。協会派が、全国の最大地本であり、中心地本である東京の指導権を奪い返す見込みはますます遠のいていった。だが、協会派は中央本部を全一的に掌握していた。このため、対立は応々にして、中央本部対東京地本という形態をとるようになった。そこから、組織規律の問題が発生し、分派闘争は路線上の対立から、“規約上”の紛争の次元にうつっていった。
 決定的な対決が、六六年の九月に行なわれた東京地本第七回大会で発生した。この大会にむけて協会派は、重大な決意をかためた。東京地本大会を流会に追い込み、中央本部の強権を発動して、少数派たる協会派を地本の指導権にくいこませようとしたのである。このため彼らは、綿密な挑発の計画をたて、議事運営の暴力的な妨害をおこなった。この挑発に解放派がのった。解放派の集団暴力が協会派に加えられ、協会派は百数十名の重軽傷者を出した。
 “不祥事件”は、協会派に絶好の口実を与えた。中央本部は直ちに東京地本を解散して同盟員の再登録を行ない、協会派だけの東京地本を“再建”して、これを社会党にも認めさせた。電光石火の早業である。社会民主主義者の優柔不断を体質にのこしている解放派は、これに太刀打ちできなかった。解放派は社会党内派閥の介入をあてこみ、はじめから“妥協”の姿勢でこの動きに対処しようとして、はね返されてしまった。一方第四インター派は、“妥協”をこばんで強硬路線を走りつづけたため、左派連合自体にすきま風が入りこみ、やがて解消の方向にむかっていった。東京の第四インター派は、この頃から加入活動の中止の方向へむかっており、第四インター派内部の対立のために、社青同運動自体が解体されていったのである。こうして協会派は、まず東京で勝利を収めた。
 だが、協会派の東京における勝利は、そのまま社青同の全国的な一枚岩体制にはむすびつかなかった。全身傷だらけになってようやく東京地本“再建”にこぎつけた六七年に待ちうけていたのは、それからの四年間にわたって日本の政治を大きくゆさぶった急進的青年・学生運動の爆発であった。
 六七年は砂川闘争ではじまった。砂川闘争は反戦青年委員会運動を全人民的な視野に登場させた。砂川反対同盟は、共産党の妨害を押しのけて、反戦青年委員会と全学連に公然たる発言の場を提供し、戦闘的実力闘争を鼓舞し防衛した。六〇年安保闘争の敗北以来、孤立と分裂の環境のなかで離合集散をかさねてきた“新左翼”諸セクトは、ようやく“人民”の場で活動する自信を得て、いっせいに活気を取り戻した。
 砂川闘争ではずみをつけた急進的な青年・学生運動は、二次にわたる羽田闘争をたたかい、佐世保エンプラ闘争、王子野戦病院反対闘争、三里塚闘争を経て、六八年の一〇・一二新宿“騒乱”へと連続的に爆発した。これらの闘争は、ベトナム革命の六八年テト攻勢にはじまり、チェコ政治革命、フランスの五月とつづく世界的な青年の急進化、世界革命の攻勢にこたえる性格をもって、戦後革命の敗北過程における共産党の“武装闘争”とは明らかに異なる大衆的叛乱の時代の幕が開きつつあることを示した。さらにこうした一連の“反戦闘争”の爆発は、キャンパスに燃えうつり、六八年から六九年にかけて、日大、東大を中心として全国の大学をおおった“帝国主義大学解体”のバリスト闘争の波をつくり出した。
 六〇年安保闘争で大衆の急進化にたいする無原則的な包容力を見せた社会党は、六七年〜六八年にふたたび“左”にぶれた。佐世保闘争あ熱気が会場にあふれた一月下旬の社会党三〇回大会で、成田委員長は「反戦青年委員会ぬきに七〇年闘争はたたかえない」と言明し、井岡大治国民運動局長は「三派全学連は同盟軍である」と規定した。だが六〇年闘争とはちがって、この“左”へのぶれは、長くつづかなかった。帝国主義日本経済の“恩恵”に浴して“右傾”と官僚主義の道を決定的に歩んできた民同・総評は、社会党のこのような“包容力”を見過さなかった。それというのも、すでに大学闘争が示しているように、街頭にあふれた青年達は、職場にかえれば職場で資本と労働の共存の秩序に反逆するエネルギーに満ちていることが明らかだったからである。
 一月社会党大会の親急進主義路線にたいするまき返しは、三月、総評青対の“反戦青年委員会を改憲阻止青年会議に移行させよ”という提起、いわゆる“三月逆流”からはじまって、この年の夏、総評全国大会における“反戦青年委員会凍結”の決定に到った。総評民同は、社会党指導部を呼びつけて叱責し、“組合の実情”を無視した党の“極左的偏向”の修正を要求した。一〇・二一新宿騒乱の時点で、一月大会の言明は、反故になった。
 党の“左傾”は半年ももたなかったが、社青同の場合はそうならなかった。東京地本処分で“左の足”を切りすてたはずの社青同は、六七年から七〇年までのまるまる四年間にわたって、深刻な対立と抗争に投げ込まれてしまった。
 東京地本を切りすてたことは、社青同中央が、反戦闘争に参加し、急進的青年運動の一方の極として活躍する手段を放棄したことを意味した。砂川、羽田闘争を領導した三多摩、東京反戦青年委員会は、切りすてたはずの東京地本が主軸であったし、佐世保闘争は、“三池”を語る全国の協会派の尊敬の的となってきた福岡池本が社青同中央に反旗をひるがえす契機となった。社青同中央は、反戦闘争・大学闘争をたたかう全国の青年・学生運動からとりのこされ、総評青対の官僚機構を防衛することに必死となりながら、全国各地本が、中央をバイパスして急進的青年運動に合流していく様子を、絶望的に眺めていることしかできなかった。
 六七年の社青同第七回大会では、福岡地本と宮城地本の連合が成立し、反戦闘争と三池CO闘争の路線をめぐって中央本部と対立した。東京地本処分に関しては、大会の多数は中央本部を支持したが、福岡宮城連合と、大阪――埼玉の構革派系地本が、痛烈に批判した。翌年の第八回大会では、福岡――宮城連合に構革派系の地本が参加して、反戦派フラクションが形成された。反戦派フラクションは大会の三分の一を数え、すでに解放派そのものとなっていた旧東京地本との合同会議を開催するなど、社青同中央を“反戦路線”で掌握するための公然たる活動を開始した。
 協会派にとってさらに深刻な打撃となったのは、六九年に発生した協会派自身の分裂であった。分裂は、社会党内闘争の路線をめぐって起った。協会常任委員会多数派は、党内分派闘争を強化する路線を打ち出したが、向坂氏を中心とする少数派が、これを“別党コース”であると否認して、あっという間に二つの社会主義協会が出来上ってしまったのである。協会派の分裂は直ちに社青同にもち込まれ、社青同中執も分裂した。
 六九年第九回大会は、協会向坂派、太田派、そして反戦派の三つどもえの大会となり、どの派も単独では過半数がとれないという事態になった。そこで大会は、三つの見解を一年間実践して結論を見出そうという妥協案を採択して、三派鼎立の中執体制を選出した。これは、運動の上では既成事実となっていた統一指導機能の崩壊が、組織上の現実として追認されたことを意味した。このとき、向坂派に忠実な地本は、主なものでは再建東京地本、兵庫、千葉、福島、岩手など、太田派が新潟、愛知、広島、反戦派は、北海道、宮城、埼玉、福岡、大阪、徳島などであった。中執の相対多数をにぎる向坂派にとってとりわけ困難であったのは、従来からの拠点地本が、形ばかりの東京をのぞけば、ことごとく反対派にまわっているという事情であった。
 統一機能の崩壊は、七〇年七月中央委員会で、向坂派が作製した第一〇回大会議案(中執多数派提案)が否決されるにいたって、頂点に達した。社青同組織そのものが存続の危機に立たされたのである。この危機を救ったのは反対派の内部不統一であった。太田派と解放派は、第一〇回大会そのものを開かせるべきでないと主張した。反戦派は、第一〇回大会を統一大会としてひらき、中執多数派提案を葬むり去って、社青同の息の根をとめるほどの打撃を与えようという見解に立った。太田派と解放派が大会阻止の戦術に出たのは、社会党のなかに深く足をふみ込んでいる彼らが、自派の社青同を再建しうるという幻想にとらわれていたためである。すでに社会党――社青同を解体の対象としていた反戦派は、第一〇回大会をその総仕上げの機会ととらえていたのであった。反対派のこのような乱れは、向坂派に大会ひきのばしの口実を与えた。向坂派は、七一年二月、会場を千葉にうつし、厳重な防衛体制を敷いて自派単独の一〇回大会をひらいた。彼らはこの大会を、「本格的な思想統一にもとづく社青同運動の出発」と位置づけている。
 一〇回大会以降の社青同は、極左主義との対決はもちろん、太田派の“別党コース”(その実は、たかだか、強固な分派建設をめざすという程度にすぎないのだが)からも峻別して、自らを、社会党・総評とともにあるものと位置づける。
 「反合理化闘争でも、組合全体の右傾化に苦しみ迷いながら、組合員大衆も苦しみ、怒りや要求を持っていること、それを引きだせないのは、社会党・総評幹部が悪いというより、自分自身の弱さだ」(労大新書「青年運動」)
 彼らは深く「悟り」をひらいたのである。結成後一〇年余を経て、ようやくにして社会党は、本当に安心のおける「孝行息子」を手に入れた。もはやこの息子は、親にさからうことはないだろう。親が悪事を働いても、それは自分の「孝行の足りなさ」と反省してしまうのであるから、のんだくれで仕事ぎらいの「不良おやじ」も、わが子の健気さにうたれて更生の一歩を踏み出そうというものではないか。実に徳川三百年以来の儒教のおしえが、わが社青同の政治道徳に復活した。
 だが、ここにかしこまっている社青同は、われわれがかつて語り、見つめてきた社青同と同じものなのであろうか。「安保と三池」で生まれたことを誇り、日和見主義の民青をあざけり、機動隊との衝突を好み、議会主義の社会党、改良主義の民同に怒り、社会党全国大会で演説する成田委員長にたいして、「おまえの赤いのは鼻だけだ!」とやじりとばした社青同は、どこへ行ったのか。
 今日、“向坂派社青同”と正しく呼ばれているこの組織が、どのような歴史を通って形成されたかをわれわれは見てきた。われわれの前に現に存在している社青同は、一つの独自の思想潮流であり、政治組織である。だがそれは明らかにかつての社青同そのものではない。常に情勢の先頭に立ち、抑圧された労働者・人民のもっとも深い苦悩と怒りから発するエネルギーを、赤いじゅうたんや冷暖房完備の労働会館の一室などで安逸をむさぼっている議員連中や労働貴族にはげしくたたきつけようとして苦闘したかつての社青同は、すでにないのである。
 三池の敗北を受けとめ、自立した思考とそれを支える自分の足をもった共産主義者たろうとして、佐世保闘争の最先頭に立った福岡地本こそ、“安保と三池の社青同”にいちばんふさわしい“野武士”達であったが、“社青同は死んだ、だがわれわれに新しい路線は未だない”と宣言して、七一年一〇回大会を前に自ら解散した。“復職”の日を夢見ながらそれぞれ自称しつづけている太田派と解放派の未練がましい“社青同”が“喜劇”としてのこってはいるが、健康な急進的青年のたたかいのエネルギーは、“社青同”を見捨てたのである。構革派左派は“主体と変革派”を結成して独自の道を模索し、わが第四インターナショナル派もまた新しい青年同盟の旗をかかげた。(注)
 (注)六○年代全体を通じて、一方における指導勢力の右傾化に抗し、他方における大衆の急進化のなかに立とうとした社青同の前に立ちふさがったのは、社会党=社会民主主義の厚い壁であった。社青同の戦闘的部分は、はげしく、幾度もこの壁に突進した。あるものはそこではね返されて後退し、またあるものはついにそれを突き破った。はね返されたもの達のエネルギーは使い果されており、突き破ることに成功したもの達にとっては、すでに自らが社青同であることが無意味になっていた。こうして、一〇年の分派闘争の期間が終ったとき、社青同は、新しい急進的な青年運動のために道を掃き清めるという本質的な役割をも終えたのである。六〇年代の戦闘的青年の政治組織であった社青同は、このようにして死んだ。

 残されたものは、日本社会党の忠実な息子である。そしてまさにその理由によって、彼らは戦闘的青年の組織たる資格を自ら棄てたのである。彼らはいわば社青同結成以前の水準に逆もどりしたのだ。すなわち、社会党青年部の時代にである。
 もはや青年の戦闘性と反逆の情熱を抑圧し、説教する役割しか果さなくなってしまったこの組織は、新しい別の“社青同”である。六〇年代を通じて自己の限界を使い果してしまった戦闘的な社青同のしかばねの上に、もうひとつの社青同が、社会党そのものによって押しつけられたのである。これが今日の社青同の本質である。したがって彼らは、彼らの新しい役割にふさわしく綱領・規約を書きかえ、新しい運動路線を定めなければならない。われわれは次に、その検討にうつろう。


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国際革命文庫  11

日本革命的共産主義者同盟
(第四インター日本支部)
中央政治局編

電子化:TAMO2
「社会党・社青同・社会主義協会派批判」

目 次

社会党批判………………………………西山次郎

 第一章 社会党批判の実践的課題
 第二章 日本社会党の歴史
 第三章 社会党はどこへ行くのか

社青同批判………………………………織田進
 第一章 新しい「社青同」はどのようにつくられたか
 第二章 社青同批判

社会主義協会派批判………………………………槙慎二
 第一章 天皇制との闘争を放棄した合法主義―協会向坂派の母斑「労農派」
 第二章 平和共存=平和革命=社会党寄生―社会民主主義集団向坂派の骨格
 第三章 社会党=民同体制の下僕

「社会党批判」
西山次郎

第一章 社会党批判の実践的課題

 なぜ社会党をとりあげるのか

 日本社会党は依然として日本労働者階級の政治的多数派を代表しつづけている。共産党=産別ブロックが自己の誤りとアメリカ帝国主義(GHQ)の弾圧という両方の破壊力によって一九四九年から五○年にわたって解体され、日本階級闘争の前面から退場を余儀なくされて以来、これにとって代った社会党=総評ブロックは、一九五〇年以来、いっかんして、日本労働者階級の政治的多数派の座にありつづけてきた。
 いまでも社会党は労働者階級の第一党派である。もちろん、この二五年間という政治過程のなかで、社会党の役割、位置、力量といったものはさまざまに変動してきている。そして歴史的に総括するならば、日本社会党はほぼ一九六五年を転機として、歴史的衰退の過程に入り込み、危機の過程に突入したといえる。このプロセスの開始は、ちょうど戦後日本資本主義が日韓条約をバネとして“アジア化”へ離陸し、それゆえにアジア革命との衝突の歴史的時代に突入した時期と重なり合うのである。
 別の言葉でいうならば、“日本社会党を日本社会党たらしめてきた政治構造が解体しはじめた”ときから日本社会党の歴史的衰退が開始されたのである。
 二五年間つづいた一国平和主義の枠内での戦闘的改良主義の蓄積と伝統をわれわれは決して軽視したり黙殺してはならないだろう。社会党が衰退過程に入り込んだからといって、このことは社会党が“自動的崩壊”にまでいくことを決して意味してはいない。
 日本の革命に勝利するためには、改良主義である社会党のもとにおかれた労働者階級を革命的政治路線で再武装、再結集しなければならない。革命派にとってこれは大前提の任務である。労働者大衆を社民的政治路線から革命的政治路線へと獲得することは、実践的には党派闘争であり、かつまた統一戦線戦術である。われわれはこの実践によって、ブルジョア支配体制の左の一翼と化している社会民主主義を左から解体するのである。
 真面目に真剣に革命に勝利することを考えるとするならば、いま現在の労働者階級の政治的主流に対する分析と評価と展望をもつことが、政治方針をみちびくこととあわせて大切なことである。われわれが結集しなければならない労働者は真空のなかにいるのではなくて、その多数は社会党=総評という政治潮流が作りだす環境のなかにいるのである。したがって、労働者に革命的工作をおこなおうとするならば、労働者の多数派の政治指導部への評価と批判をわれわれがもちあわせなければならないのである。

 スターリニズムの社民化

 社会党は議会主義であり、平和主義であり、現状維持であり、改良主義であり、……すなわち革命的ではない。世界の社会主義運動の歴史をみると、社会党(すなわち社会民主主義)の帝国主義への屈服は一九一四年にはっきりとしめされた。社会民主主義が革命党でないという結論は歴史的にはすでに祖国防衛主姿に転落した一九一四年(=第一次帝国主義戦争)で下されたのである。それ以後、社会民主主義は帝国主義政治体制の一支柱へと自己を転化して、このなかで生きのびてきている。
 われわれが社会民主主義を問題にするときに、第二次大戦後の事情はもうひとつ労働者階級に困難さをつけ加えている。それはスターリニスト党の“社会民主主義化”である。各国共産党は一九一四年の各国社会民主党の帝国主義への屈服を断罪して、左へと分裂して、政治的自立を獲得して、帝国主義に降参した社会民主主義にかわって革命の前衛たらんとして結成されたのである。これがレーニンやトロツキーが意図したコミンターン(第三インターナショナル)の歴史的任務だったのである。しかし、スターリンがロシア革命の世界的孤立とロシア社会の後進的性格というプロレタリア政権に加えられたマイナスの圧力によってテルミドール体制を樹立してロシア革命を転落させ、同時にコミンターンと各国共産党も堕落させたことにより、共産党はスターリニスト党として、革命的前衛の道からはずれてしまった。
 スターリニスト党は一九二〇年代後半から三〇年代前半にかけて政治的ジグザグをくりかえして革命の条件をむざむざと殺してしまい、各国の闘争を敗北にみちびいたのであるが、第二次大戦後は人民戦線戦術の帰結として共産党のブルジョア政府への参加からはじまって、議会主義、平和主義を強め、イタリア共産党の構造改革論からソ連共産党大会におけるフルシチョフ報告(革命の平和移行の可能性)に到ってその政治路線が全体系にわたって“社民化”を完成するのである。
 日本共産党の政治路線における社民化の完成度は、最近になってその終点に到達した。社民的政治路線はいまや社会党一党だけでなく、共産党も加わって、社共合同の政治的影響力が、議会主義、改良主義の人民戦線派潮流として日本労働者階級の政治的環境を支配しているのである。これを左から解体打倒して改良から革命へと労働者階級を再編することがわれわれの政治的任務である。社民批判は実践的課題である。

 「不思議な党」―日本社会党

 毛沢東が日本社会党を指して「不思議な党」であるといってから、この言い方は随分と流行した。この言葉にはいろいろの意味を込めることができる。ふつうは“社会民主主義の党でありながら不思議と日本社会党は戦闘的で左翼的である”という内容を込めて使われる。日本社会党を論ずる多くの評者はこの党の階級性、左翼性を特徴として必ず指摘する。例えば、
 「日本社会党、あるいはその支配下にある総評は、毛沢東から『不思議な党』といわれたように、きわめて特殊な存在であるとされてきた。この特殊性とは、イギリス労働党・フランス社会党など西欧の社会民主主義政党に対して、『日本的特殊性』といわれるもので、一言でいえばその左翼性・戦闘性なのである。」(岸本健一「日本型社会民主主義」・八頁)
 この評価はひとつの代表的なものである。
 世界の社会民主主義の党と対比してみるとたしかに日本社会党は左に位置している。社会民主主義の世界の各党は一九五一年に社会主義インターナショナルを結成したが、この社会主義インターは帝国主義に全面降伏してマルクス主義と絶縁をしたうえ、さらにマルクス主義を敵として、共産主義を全体主義に併置して、民主主義の対立物とし、“民主主義的”帝国主義を支持して、労働者国家とスターリニズムをファシズムと同列において不倶戴天の敵と規定するまでになったのである。イギリス労働党がヘゲモニーをとった結成大会における「フランクフルト宣言」は帝国主義の軍事力を支持する立場を公然と認めたのである。その後、西ドイツの社会民主党はゴーデスベルグ大会においてマルクス主義との完全かつ全面的絶縁を決定した。こうして戦後の社会民主主義勢力は帝国主義と労働者国家の対立のなかで、はっきりとなんのちゅうちょもなく帝国主義の側に立つことをあきらかにし、実践上もブルジョア政府への参加はもちろん、自らが第一党となるやブルジョア議会制政府を組織して、その中味は完全に中道ブルジョア路線を歩むのである。
 世界の社民が帝国主義体制の枢要部に組み入れられるなかで、日本社会党はブルジョア議会制政治のなかの“反対党”の歴史を歩んできている。片山・芦田連立政府への参加の時期を除くと、社会党の歴史は議会内の反対派でありつづけた歴史といえる。もちろんこのことが戦闘性、左翼性を即自に証明するわけではない。社会党はマルクス主義と絶縁はしていない。この党のなかには、マルクス主義に反対する者もいれば、マルクス主義を修正すべきだと主張する者もいれば、われこそマルクス・レーニン主義の正統派であると自認する者もいる。そういう党である。同一の党内にマルクス主義を排斥する分派から、マルクス・レーニン主義の正統的後継者を自認する分派までが同居しているのである。これも不思議なことのひとつである。不思議なことはいろいろある。五万人しか党員がいないのに一千万票も選挙の票を獲得するのも不思議であろう。“日韓条約粉砕”を叫ぶ大会が“独占資本から金をもらわないようにしよう”と決議するのもこれまた不思議なことである。“ハノイ、ハイフォンが爆撃されたら、総評はゼネストをやれ”という同じ口で健康保険の大衆負担を増加させる法案に妥協するのであるから、これはやはり相当に不思議な党である。結局、本論はこの不思議さを歴史的にときあかすことが目的となるが、われわれはまず、不思議さに幻惑されて、社会党への誤った評価を下すようになったいくつかの場合をみておこう。

 誤解から幻想が生まれる

 社会党の内部に戦闘的、左翼的分派が生まれ存続してきたということを一面的に把えることによって、社会党への過大評価がなされてきた。
 例えば社会党=民同ブロックの内在的な批判者である情水慎三は社会党に未来の革命党の期待を抱いている一人であるが、かれはこんな評価を社会党に対してくだしている。
 「社会党左派が戦争と平和の岐路にあたって自国資本家階級にくみすることなく、これまでの歴史的伝統的意味の社会民主主義の常道を破って平和方針を貫き、あわせて自国の民族的課題に社会主義原則にもとづいて答えたことは政治史的にも社会主義運動史的にも特筆に値するできごとであった。たとえこの場合が自国資本家階級独自の帝国主義政策にもとづくものでなく、他国の帝国主義への従属的な荷担であってこれまでの西欧的事例と異なるものがあったにせよ、社会民主主義が反帝国主義を貫徹できた意味は大きかった。これを契機に、当時の社会党左派、後の左派社会党=統一社会党の主流は西欧社会民主主義諸党とは世界政治のなかで異質の座と機能を身につけていったのであった。」(清水慎三「戦後革新勢力」・一八一頁)
 これは社会党が平和四原則(全面講和、中立堅持、軍事基地反対、再軍備反対)を党として確定しサンフランシスコ講和条約ののち、日米安保条約に反対する立場を持続することとなったが、これが社民的限界を突破して世界でも特異な立場をしめることだと評価したのである。ここで清水慎三は重大な誤りを重複して犯している。
 第一に社会党の平和四原則なるものが、帝国主義と民族問題に対する社会主義的原則にのっとった立場であるかのように言うが、これはとんでもない論法で、帝国主義と民族問題に対する社会主義の原則はコミンターンの最初の五ヵ年に確立された原則であり、レーニンやトロツキーが第二インターナショナルの帝国主義への屈服妥協に対して闘争するなかで形成された原則であって、これは平和主義や中立主義とはまったく無縁である。平和主義や中立主義はまさに社民的な立場そのものであって帝国主義への降参の立場であり、まさにレーニンやトロツキーが断罪した日和見主義の立場なのである。
 平和四原則はNATOを認めた西ヨーロッパ社会民主主義に対比するならば相対的に左の立場にあるが平和主義と中立主義という歴史的伝統的社民の政治路線を一歩もはずれていないのであり、厳然として社民の基本的立場を表現しているのである。
 第二に清水慎三は、社会党が平和四原則を確立して世界政治のなかで「異質の座と機能」をもったと評価するが、このような評価が正しくないことはその後の歴史過程があきらかにしていよう。平和四原則の本質は日韓条約という真に日本資本主義の帝国主義的政策に直面してその社民的性格が暴露されたのであり、最近の韓国情勢への社会党の対応には「異質な機能」など見ることはできないであろう。平和四原則の有効性は未だ日本帝国主義がアメリカの傘の内にあって、帝国王義と民族の問題をそのものとしてつきつけられない一国的国民平和主義のなかにあったときには持続できたが、ほんものの帝国主義と民族の間題が提起されるや、社会党の平和四原則はその無効性、社民的本質が暴露されたのである。
 いっぽう、社会党への外在的批判者として中核派の岸本健一は先に引用した『日本型社会民主主義』を著しているが、そのなかにこんなくだりがでてくる。
 「日本型社民は、西欧社民や民社党に対する特殊性と同時に、日本共産党に対する独自性――日本社会主義革命における綱領的対立者としても特色あるものである。これは、日共がその綱領において日本における革命を、常に『民主革命』または『民族民主革命』とし、決して『社会主義革命』としなかったことに対する歴史的批判の現われである。日本型社民はこれに対し、曲りなりにも『社会主義革命』をかかげるものの代表者なのであった。
 大衆がよく知っているとおり、『穏健』な社会党が『社会主義革命』で、『過激』な共産党が『民族民主革命』だ、ということは、日本革命運動を混乱させつづけたパラドックスの一つであった。しかしこれは、単に日共と日本型社民の問題でなく、全世界の共産主義運動が、一九二〇年代以後ずっと陥ってきた混乱――スターリン主義による『社会主義革命』の放棄の現われなのである。」(岸本健一「日本型社会民主主義」・一三頁)
 社会党が「社会主義革命」であり共産党が「民主主義革命」だからといって混乱させられたのは日本の階級闘争ではなくて岸本健一の頭脳ではなかろうか。
 日本の労働者、人民は社会党の「社会主義革命」の綱領などてんから信用していないのである。大体、労働者、人民は社会党に革命は期待していないし、革命を考える労働者、人民は社会党の綱領など信用しないのである。現行の社会党綱領は一九五五年の左右統一においてまったく水と油の二つの液体をご都合主義でまぜ合わせた便宜的代物であり、ここでいう「社会主義革命」は古典的な意味の「最大限綱領」であって、この革命は無限の彼方に考えられているのである。日本社会党を綱領によって把握し分析するととんでもないところへわれわれは行ってしまうであろう。社会党は綱領によって形成された党ではなくて、きわめてルーズなブルジョア議会内の反対派として形成された歴史をたどっているのである。岸本健一が社会党に「社会主義革命」の綱領を見出して、共産党の「民主革命」よりもより自身たちとの綱領的近さを感じていたのであるから、これはまさに日本の「新」左翼主義の政治的水準のひどさを端的にあらわしたというべきであろう。
 これら社会党を過大に評価する人びとに共通するのは、「日本の」社会民主主義とか「日本型」社会民主主義とか、「日本」を強調していることである。社会党を社民的本質を契機として把握し分析するのではなくて、日本的特殊性――その中味は戦闘性と左翼性――を強調する契機をもって把握し分析するのである。したがってここから導かれるのは、「反日本共産党主義」の裏がえしとしての社会党への無原則的ズブズブ評価なのである。

 中間主義者による社会党批判

 帝国主義の危機がいっそう深化すると、この帝国主義体制のなかに組み込まれていた社会民主主義やスターリニズムが政治的に動揺を起こして、その内部からさまざまの左翼中間主義を発生させる。社会民主主義とスターリニズムも中間主義の一種ではあるが、この中間主義がさらにいくつかの中間主義を派生させるのである。
 中核派、革マル派、共産同各派、構改派はスターリニズムの政治的危機と分解から誕生した左翼中間主義である。解放派や主体と変革派は社民の危機から派生した中間主義である。
 そして、日本社会党の「左翼性」を表現する一つの要素とみられている社会主義協会派も社民の一翼を占める中間主義である。このグループのイデオロギーや理論の起源は日本社会党に求められるのではなくて、協会派の起源は戦前の日本共産党に求められる。すなわち、協会派はスターリニズムから派生した改良的分派であり、この立場から戦後の改良主義の党=社会党の左の椅子に自らの座る位置を見いだしたのであり、組織方針上の日和見主義、宿借り主義が歴史的に継承されて今日まで来ているのである。
 日本社会党に対する分析と評価の流れは、第一に協会派によるもの、第二に共産党によるもの、第三に左翼中間主義諸派によるものが支配的であった。協会派による社会党評価は山川イズムからの歴史を正当化して日本社会党を労農マルクス主義(現在は向坂イズム)で“純化”する目的からなされるものである。清水慎三の立場も本質はこの協会の立場と同一であり、解放派もそうである。解放派の場合は山川均を是とし、向坂を非とするが、歴史をさかのぼると山川のところで合流するのである。
 共産党の評価はスターリニズムの「社会ファシズム論」「社民主要打撃論」が前面にでていた時期――一九四五年〜五五年――から六〇年安保以後の時期とは表面上ことなってきているが、つねにその根底には「社会ファシズム論」が流れており、そのうえに無原則的な人民戦線戦術や連合政府路線がたてられているのである。共産党には正しい統一戦線の思想がないので、社民批判は絶えず発作的なジグザグを繰り返すのである。
 第三の「新」左翼諸派の社民批判は何ら政治的独自性を認められない。革マル派の社民評価は協会派と同じであり、むしろ水準はもっと低く「反スタ」のための「社民利用」というプラグマチズムの水準である。共産同諸派は真面目に社民批判と社民との統一戦線を考えてもみないグループであって、これは情勢と無縁の存在である。
 中核派は急進的闘争のヘゲモニーをとっていた時期――一九六八年〜七一年――に反日共・社民との統一戦線という方針をとっていた。この立場は誤った統一戦線であるがゆえに、すぐ破産する。岸本健一の著作はこの中核派の立場を表現したものであるが、中核派のこの時期の活動は社民とのゆ着、あるいは社会党との無原則的取引き、社民官僚とのボス交と社民影響下の労働者大衆への最後通謀主義など、統一戦線における誤りを典型的にしめしたのである。

 統一戦線と党派批判

 スターリニストによる打撃的社民批判や中間主義者による無原則的社民評価という誤りに対して、唯一われわれトロツキストが統一戦線の立場から社会党の分析と評価をおこなってきたのである。この理論と実践の双方の分野における活動は、日本のトロツキズム運動の開始とともに着手されたのであり、一九五〇年代のはじめから、山西英一氏の闘いから持続されてきている活動である。この活動ぬきには、日本のトロツキズム運動はありえなかったであろう。
 独自の党の建設とともに、つねにその時期における労働者の多数派を占める党派に対する統一戦線戦術を駆使する活動は不可欠なのであり、まさにこの活動を通じて党が建設されていくのであるといえよう。
 われわれの社民批判は改良的、議会主義的党派を暴露し、それを労働者大衆に公然と訴える活動として展開されねばならないが、それはつねに統一戦線戦術のなかに位置づけられた党派批判でなければならない。
 社会党批判は最近ではかなりゴリでセクト的なグループ=社会主義協会派が社会党内に「抬頭」してきているので“やり甲斐のある”仕事であるが、それでも“のれんに腕押し”の感が強い。スターリニスト党との党派闘争は激しいやり合いを覚悟しなければならないが、社民批判はなんだか張り合いのない党派闘争に思われる。しかし社民批判は社会党や民同幹部をわれわれが攻撃して溜飲を下げるのが目的ではなくて、多数の労働者を政治的に獲得するために行なうのが目的なのである。次のトロツキーの指摘は貴重である。

 革命の道への過渡的状態

 「この二つの党は、中間主義組織を代表している。両者の違いは、スターリニストの中間主義がボルシェヴィズムの解体の産物であるのに対し、社会党の中間主義は改良主義の解体の中から生まれたという点にある。もうひとつ、これに劣らず本質的な違いがある。スターリニストの中間主義は、その発作的なジグザグにもかかわらず、強力な官僚階層の地位と利害に不可分に結びついた非常に安定的な政治体制を代表している。社会党の中間主義は、革命の道への出口を探し求めている労働者の過渡的な状態を反映している。」(レオン・トロツキー「ブルジョア民主主義の危機とフランス社会党」・第四インターナショナル・一四号・一四八頁)
 社会党の動揺は労働者の過渡的状態を反映しているのであり、まさにそうであるからこそ、仮借ない党派批判の展開と、左からの統一戦線戦術の行使が必要なのであり、社民批判の実践的意義がここにこそあるのである。


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第二章 日本社会党の歴史

第一節 前史―社会民主主義の歴史的継承

 明治からの社会民主主義の流れ
 日本の社会主義運動は大きくふたつの源流をもっていた。ひとつはキリスト教社会主義の潮流であり、この流れが明治期の社会主義運動の多数派を形成し、この流れのなかから、労使協調、資本主義発達を支持する右翼社会民主主義の流れが生まれた。また片山潜のようにキリスト教社会主義のなかから左へと分化してマルクス主義に到達し、第二インターナショナルから第三インターナショナルにつながる流れも生まれたのである。
 もうひとつの源流は自由民権運動というブルジョア急進民主主義の運動からの潮流である。幸徳秋水を代表としてこの最左派の民主主義者たちはマルクス主義に結びついて、キリスト教社会主義の流れの左の部分と合流して、明治期の社会主義運動が展開されたのである。
 日本社会党のひとつの大きな要素である社会民主主義右派の流れは明治期において幸徳や片山らに対立していた社会主義運動、労働運動の右派の流れを起源としている。これはのちに日本共産党に対抗して合法無産政党を結成して離合集散をくりかえしつつも、一九四〇年に最後的に弾圧されるまで、労働運動、農民運動における改良的翼を表現するのである。

 戦前の社民三派が社会党をつくる
 戦後に結成された社会党であるが、その政治的伝統は戦前の合法無産政党=社民三派がになってきたのである。
 一九二〇年代後半から三〇年代にかけて社民系の無産政党はさまざまな分裂と合同のくりかえしを経てきたが、基本的には社会民主主義は三つの政治的潮流に分化した。それは右派、中間派、左派である。そしてこの分派的流れが、ほぼそのまま戦後の社会党の分派を構成するのである。
 右派=社会民衆党(社民派)この党は伝統的に右翼社民の立場で、指導者には安部磯雄、松岡駒吉、片山哲、西尾末広らがいて、大衆組織は日本労働総同盟、日本農民総同盟をもっていた。このグループは、戦争中は産業報国会、大政翼賛会に参加して、帝国主義の走狗となり、そして戦後の社会党結成のヘゲモニーがこのグループによってとられるのである。さらに六〇年安保からはこのグループが民社党をつくることとなる。
 中間派=日本労農党(日労派)河上丈太郎、河野密、浅沼稲次郎らが指導者で、日本労働組合同盟、全日本農民組合をもっていた。このグループは社民派とともに社会党の右派を形成し、西尾たちが民社党を右へ分裂させたとき、日労派は西尾についていった部分と社会党に残った部分とに分裂した。西尾の去ったのちの社会党の右派はこの日労派グループが占めることとなる。
 左派=日本無産党(日無派)鈴木茂三郎、加藤勘十、黒田寿男、高野実らがこのグループをつくり、社民左派を形成していた。このグループは社会党の左派をなしてくるが、片山政府のときには日無派の一部が労農党を結成して分裂し、その後も民同と革同への分裂、構改派の分裂など、左派内の再編がつづいてきている。
 以上の社民三派が戦後の社会党の政治的骨格を構成するのである。

 共産党の結成
 戦後の日本社会党が先にあげた社民三派の政治的寄り合い世帯として結成されたことはその通りであるが、しかし、これだけでは正しい社会党の前史とはいえない。すなわち、戦後の社会党にはもうひとつの重要な政治潮流が流れ込むのである。それは、日本共産党の合法主義的右翼反対派ともいうべき山川イズムであり、山川イズムを起源とする労農派マルクス主義派 社会主義協会派と連らなる日本マルクス主義運動の右派がひとつの歴史的な流れを形成し、この潮流は戦前においては合法無産政党の社民三派の最左翼に、そして日本共産党の右に位置していたが、戦後の社会党の結党に参加して、社会党の左派の支柱を形成するのである。
 労農派、協会派は人脈的には先にあげた社民三派のうちの左派=日無系と重なり合っているが、思想的な起源や政治的起源は日本共産党を結成した山川均らのなかに求められ、西欧社民とはことなった“日本的な”歴史的成立の事情をもっている。
 一九二二年に日本共産党が結成された。結成されたときは数十名の小グループにすぎず、その政治的力は小さかったが、日本共産党の成立は歴史的には画期的な事件であった。共産党は第三インターナショナル日本支部として結成されたのであり、はじめて、日本の階級闘争と世界の階級闘争を結ぶ前衛党の建設の第一歩がしるされたのである。すでに、日本の社会主義運動は第二インターナショナルの運動に参加してきているが世界党の支部として共産党が結成されたことは、第二インターナショナルとの関係とはまったくことなった飛躍を意味していた。
 レーニンとトロツキーは第二インターナショナルとその各国の社会民主党が第一次帝国主義戦争において帝国主義にひざまづき祖国防衛主義に転落してしまったことに対して第二インターナショナルの内部で激しい分派闘争をすすめたが、一九一七年のロシア革命の勝利を突破口として、帝国主義打倒・世界革命を闘うためには、第二インターナショナルと社会民主党では絶対に闘いえないし、勝利しえないと断定し第三インターナショナルの結成と各国社会民主党の最左派を結集して共産党をつくる方針を実践したのである。
 東アジアにおいては中国、朝鮮、日本の三国に共産党を結成することが方針としてたてられ、オルグ工作がすすめられた。
 そのときの日本の社会主義運動の状況は、右翼社民に対して左派がひとつの潮流に結集していたがその内部には幸徳の直接行動主義と片山・田添らの議会主義との対立を孕んでおり、さらに支配体制を完成させた明治天皇制国家権力の弾圧がすさまじい勢いで運動をおさえこんでいた。それでもなお、明治社会主義運動の成長は天皇制権力の恐怖するところとなり、一九一〇年に大逆事件の大弾圧がくわえられ、社会主義運動は一挙に崩壊させられてしまった。
 堺利彦、山川均、荒畑寒村らは「冬の時代」といわれる一九一〇年代を窮乏のなかで送るが、第一次帝国主義戦争にみられる帝国主義体制の世界的危機は日本でも同じく、明治天皇制体制の衰弱が進み、一九一八年の米騒動は「冬の時代」として凍てついていた厚い氷をぶち被って、大衆闘争の爆発的昂揚の突破口をひらいた。米騒動にきびすを接して、労働者のストライキ、農民の小作争議が頻発し政治的にはブルジョア民主主義運動である大正デモクラシー運動をはじめ、アナキストの抬頭、急進的民主主義運動の抬頭がつづいたのである。
 コミンターンの工作と国内の大衆闘争の高揚という条件のなかで、日本共産党が結成されるが、「冬の時代」を生きのびた堺や山川らは共産党結成に消極的であり、むしろ反対していた。山川が反対した理由はその後の山川の政治的立場が明らかにすることとなるが、かれら指導的人物の反対も、国際的、国内的階級闘争の圧力の前には抗し難くついに一九二二年に共産党の結党が実現するのである。そして共産党の結党によって、日本の社会主義運動はそれ以前とことなった党派的編成の時期をむかえるのである。

 労農派の形成
 コミンターン第三回大会は「大衆の中へ!」をメインスローガンとして、一九一七年からつづくプロレタリア階級の攻勢が、帝国主義戦争後に訪れた資本主義体制の一時的安定の前に、一直線には革命の勝利にまで到達することは困難であり、まず、革命的前衛が大衆の中に入って、労働者大衆の多数を獲得して次にくるであろう革命的危機にそなえなければならない、という戦略的展望からみちびかれた方針を提起した。レーニンの「共産主義における『左翼小児病』批判」も同じ趣旨から執筆されている。
 山川均は共産党結党とともに、コミンターンの「大衆の中へ」という方針を我田引水風に利用して共産党を解党して、少数の社会主義者は大衆組織の中へ入っていくべきであることを主張する。共産党結成は一九二二年七月であるが、八月の「前衛」誌上に山川は「無産階級運動の方向転換」でかれの真意を発表するのである。
 山川イズム――労農派マルクス主義、社会主義協会派――と呼称される独自の政治的内容はまさにこの共産党を否定し、前衛を大衆組織の中へ解消する山川の「方向転換」のなかに示されているのである。レーニンやトロツキーの「大衆の中へ」という方針は解党主義とはもとより無縁であり、革命的前衛政党の防衛は、どのような客観的に不利な条件のもとであれ、無条件的に追求されるべき第一の任務であったのである。これに対して、山川の方針は天皇制権力の苛酷な弾圧に対して敗北主義の立場であり、合法的右翼社会民主主義との無原則的野合であり、なによりも「何をなすべきか」に集約されているボルシェヴィズムの組織論と敵対する立場に他ならなかったのである。
 山川の方針に沿って日本共産党は一九二四年に解党を決議する。この解党決議によってそれ以後、山川らは二度と再び共産党の“再建”には参加することなく、結局、組織上は合法社民の左派へと自己を次第に変化させていくのであるc 山川イズムは党建設論では「連合戦線」党の立場として特徴づけられるが、この連合戦線党は山川の意図に反して、その後の階級闘争のなかでついに実現することはなかった。山川は自らの理論に忠実たらんとして、無産政党組織の離合集散には“超越”した態度をとろうとしたが、それがますます組織論上の山川の日和見主義をあきらかにしただけであって、戦後の山川は調停的立場にまで転落していく。山川イズムの党派的実践的不能性に対して、山川が死んでのち、社会主義協会派のヘゲモニーを手中に納めた向坂逸郎が、協会派を宗派的セクトに固めて、このセクト主義で社会党のヘゲモニーをにぎろうとするのである。向坂イズムは山川イズムの現実への実践的不能性への自己否定、反措定の面とにもっている。
 山川の「方向転換」論は共産党を否定してのちなお自らはマルクス・レーニン主義、コミンターンの正統的継承者であるという奇妙かつ法外な政治主張をもった潮流の出発点となるのである。共産主義運動の党は世界党とその各国支部としてのみ成立しうるという、マルクスの第一インターナショナル以来の歴史的公理を真向うから否定して、山川イズムは純粋一国王義の枠内で合法共産党を作ろうとするものであった。これはもともと誤りであり実践上も絶対に成功することはできない日和見主義的組織方針であった。
 山川イズムで解党した共産党は「福本イズム」で再建される。これはそのセクト主義、最後通諜主義で純化された理論で、組織論では山川の対極に位置する内容をもっていた。こうして日本共産党はその出発の数年間において、組織方針の右翼路線をとって自ら解党し、次いで、その対極の極左路線をとって、極度のセクト主義で再結集するというジグザグを描くのである。
 「方向転挨」に示された山川の組織論の立場は「労農派」の政治的起源をなした。一九三〇年代に入ってスターリニズムに支配されたコミンターンが日本共産党にいくつかの「テーゼ」をしめすが、このテーゼをめぐって論争が展開され、共産党の「講座派」と共産党に否定的な「労農派」とが大きく対立し、明治維新の評価から日本資本主義分析、日本革命の規定にいたる全面的政治対立がつくられるが、労農派マルクス主義はこの論争を通じて自己の理論を体系化していく。(この論争については本書・槙論文参照)
 第二次大戦への日本帝国主義の危機のなかで共産党も社民各派も徹底的な弾圧をうけ運動としては潰滅し、社民の一部が公然とファシズム化したり、大政翼賛会に参加していき、社会主義運動としては日本帝国主義の敗北まで中断を余儀なくされてしまう。

第二節 結党・人民戦線・片山政府

 天皇万才・国体護持でスタート
 第二次帝国主義戦争において日本帝国主義が敗北しアメリカ軍が占領統治を行うなかで、一九四五年十一月に日本社会党は結成された。結成のヘゲモニーは右翼社民が握り、西尾末広、水谷長三郎、平野力三らが指導権をとっていた。労農派を含む左派は少数派として結党に参加した。
 結党大会では、賀川豊彦が国体の護持を訴え、浅沼稲次郎が閉会で“天皇陛下万才”三唱の音頭をとった。結党時の社会党はそういう党であり、そういう状況を反映する党であった。共産党がアメリカ占領軍を「解放軍」と規定したことは、その後の左翼運動で物笑いのタネになったが、社会党は権力の規定とも縁のない存在なのであったから、誤ることもなかったわけである。社会党は共産党を笑えないのである。しかし、共産党が徳田以下、GHQの前で「解放軍万才!」を叫び、社会党の方が結党大会の閉会で「天皇陛下万才!」を叫んだという歴史のエピソードはいまでこそ笑いながら語れるが、当時の労働者、人民にとっては生死をかけた闘争にかかわることであったのである。こういう指導部のもとでは日本の労働者、人民は救われないのも当然であろう。
 結党のとき社会党は「政治上は民主主義、経済上は社会主義、外交上は平和主義」という法三章にもならぬ御都合主義の語呂合せを「綱領」にして、敗戦後の革命的激動のなかに船出するのであるが、結党のいきさつをみると「綱領が党をつくる」という党建設論の対極にたったきわめてブルジョア的結集であったことをわれわれは忘れてはなるまい。

 人民戦線の気運
 大衆の前に歴史上はじめて公然と姿をあらわした日本共産党は、まず、社会党に人民戦線の結成を申し入れるとともに、当面の任務はGHQが遂行する日本帝国主義の非軍事化と民主主義改革をおしすすめることであるとした。 そして、このGHQと共同してすすめる“氏主主義革命”の政治的内容での共産党としての独自性は「天皇制打倒」であった。戦後初の第四国大会において志賀義雄は作られるべき人民戦線は「反天皇制の人民戦線」でなければならないと社会党に対する最後通告的内容を表明した。右派のヘゲモニー下にある社会党は共産党の人民戦線結成の中し入れを拒否する。この右翼社民の反共主義と、さらに共産党の「社会ファシズム論」とが相乗して、人民戦線の最初のこころみはまず挫折した、
 いっぽう一九四六年に入るや労働者階級の攻勢はいちだんと高まり、日本帝国主義はもはや労働者に対しても何の抵抗も不可能なほど解体的危機にあった。GHQがこの解体を最後の一線で防衛していた。
 四六年一月朝日新聞が社説で「人民戦線の結成を急げ」と主張するほど情勢は危機的であった。隠とんから復帰した山川均の人民戦線結成の提唱も朝日社説の直後、四六年一月のことで、かくて人民戦線への気運が急速に高揚した。この状況のなかに野坂参三が中国から帰国したので野坂の歓迎大会は実際上は人民戦線結成へのステップとみられた。
 しかし社会党は西尾をはじめブルジョアジーとの連立を画策した。かれらは何とかブルジョア内閣の一角に社会党大臣を実現しようと、醜悪な裏工作をつづけていたので、人民戦線へのゆさぶりを阻止しようと、社会党中執は組織としても個人としても人民戦線への参加を禁止する決定をくだしたのである。
 山川の提唱した人民戦線はその実質は人民戦線の機能も内容ももたぬまま小規模な共闘組織のようにして発足したが、共産党が引き上げ、社会党は不参加なまま、労農派系の学者が個人的に参加するだけの惨胆たるもので破産した。
 アメリカ帝国主義の占領下で人民戦線を結成する方針は、危機に瀕した日本帝国主義の資本制支配の骨格をその最終的段階において防衛し、大衆が革命へ向おうとするのを、民主主義的改革の枠内にとじこめることを意味していた。労働者の闘争は生産管理闘争を中心として、すでに、企業内では資本主義体制そのものに手をつけはじめていた。しかし、企業の外では、社会党はブルジョアとの連立に血道をあげ、共産党は占領政策の枠内で、日本資本主義を人民戦線の方針で最終的崩壊から救ってやる立場に立っていた。この指導部からは革命への突破口をしめす方針は出てこなかった。労働者の経験的闘争がアメリカ帝国主義の意図した“ニューディールによる日本資本主義の再建”と衝突するようになると二・一ゼネストの禁止のようにマッカーサーは弾圧にのりだした。
 社会党、共産党のGHQとの共同による“民主主義革命”の甘い幻想はすぐに破産したが、社・共両党はそれに気付くまでにまだ時間がかかったのであり、そのために労働者階級は政治的武装もし得ぬまま、敗北を余儀なくされるのである。

 片山中道連立政府
 二・一ゼネストは禁止されたが労働者の力はまだ消耗されず、戦闘力を保持し四月の選挙では社会党を第一党におしあげた。右派指導部は組閣工作に入り、自由党、民主党、国民協同党のブルジョア三党を連立の対象とした。連立三条件は極左・極右に反対する、重要機密はもらさない、社会不安を招く行動に反対する、という内容でこれはブルジョア政党からの要求を社会党が呑んだのである。さらに自由党は連立したいなら社会党左派を切り捨てろと右派に迫ったが、左派の党員を入閣させないことで妥協が成立した。
 左派は連立を認め、鈴木茂三郎、加藤勘十の二人の左派指導部は共産党との絶縁を声明して、片山政府は中道連立政府として成立するのである。
 片山政府は労働者の攻勢をかわし、不満を鎮静させ、日本資本主義を拡大再生産過程にみちびくための政府としてGHQお気に入りの政府であった。片山政府は物価と賃金を凍結してインフレを抑止しようと貸金を一八〇〇円ベースに釘づけしたが、インフレは止らず、労働者の生活を破綻に直面させた。さらに国家財政を石炭、鉄鋼部門に重点的に投入する傾斜生産方式を採用し、資本主義のたてなおしをはかったのである。片山政府の唯一の“社会主義的”政策といわれた「炭鉱国家管理」はブルジョア政党からまったく骨抜きにされ、“社会主義”の痕跡も残さぬ代物になり果てたのである。
 結局、片山政府は二・一ストの挫折の代替として労働者の希望を担って登場したが連立の性格がまったくのブルジョア中道政策の枠内であり、労働者を裏切って、労働者を犠牲にして日本資本主義を再建の途につかせる任にあたったのである。
 しかし労働者は一八〇〇円ベース釘付けを打破する闘争に立ちあがり、片山政府の賃上分を公共料金値上げで補てんする予算案に左派が党内野党化を宣言して反対したため、片山政府は辞職に追い込まれた。
 片山のあとを継いだのは芦田であるが、この芦田政府も片山政府と同じブルジョア中道路線の政府で、芦田政府の任務は資本主義の再建のため、外資導入や賃金抑止をすすめるところにあった。GHQは労働攻勢の主力をなしていた官公労労働者のスト権を奪うことによって労働攻勢を抑圧しようと意図して、芦田政府に政令二〇一号の公布を命じたのである。これを担当したのは社会党左派で芦田内閣に参加した加藤勘十労相であった。GHQ内のキレン労働課長はニューディラーとして政令二〇一号に反対して抗議の辞職をしたが、加藤労相は一言の反対すら表明することなくこの政令を公布し、官公労のスト権は剥奪された。
 日本資本主義はようやく拡大再生産過程に入り政策転換したGHQの抑止力で労働攻勢を押えてもらった日本ブルジョアジーは敗戦処理から生産再建の過程で自信をとりもどし政治的には中道路線をお払い箱にしてブルジョア政権の“純化”をはかろうと中道政府を倒すことを決定した。そのために疑獄事件のワナが仕掛けられ、いとも簡単に芦田政府は崩壊し、社会党は致命的打撃をうけた。書記長・西尾が逮捕れた社会党はまさに存亡の危機に直面した。


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第二章 日本社会党の歴史

第三節 再建.左右分裂・総評とのブロック形成

 選挙で一挙に転落
 芦田政府が疑獄で倒れると第二次吉田政府が組織され、この政府がブルジョア支配体制の再建を担う吉田長期政権の出発となるのである。
 社会党は疑獄で西尾を逮捕され解体の危機を迎えた。左派の一部は労農党を結成して分裂し、山川も新党結成の動きをはじめた。しかし結局、山川ら協会派は社会党左派に自己の組織路線を定着させる道を選ぶのである。
 四九年一月の選挙で社会党は一四三名から一挙に四八名に転落した。共産党は三五議席を得て逆にこの党は一挙に拡大した。共産党は五回大会(四六・二)、六回大会(四七・一二)、一四中委(四九・二)といずれも占領下における民主主義革命を平和革命としてすすめる方針を確認し、ことに一四中委は三五名の当選者をだした直後だけに議会主義と平和革命論がはっきりと貫徹された。この共産党の路線に対して翌五〇年の年頭にコミンフォルム批判がなされ、共産党は分裂と地下活動と火炎ビン闘争の時期に突入するが、四九年はまさに共産党の議会主義と平和主義の最盛期であった。
 社会党は四月に再建大会を開くが、この大会は「森戸=稲村論争」が展開され社会党に歴史的転機を印す大会となった。右派の森戸と左派の稲村を代表にしたこの論争は、党がマルクス主義を受け入れるか排斥するか、国民政党か階級政党かをめぐる観念的論議であった。この論争は左右の対立をあらわした論争であったが、社会党左派の理論上のヘゲモニーを労農派が掌握したことにわれわれは注目すべきであろう。さらにこの大会には民同が五〇名近い代議員を送りこんで左派と結びつき、右派と対決したことも注目すべきことであった。
 すなわち、四九年の再建大会は労農派の主流が社会党左派として流れこみ、さらに総評民同(当時は産別民同)が共産党=産別ブロックに対抗して、自己の政治的表現を社会党左派に求めてこれと結合し、かくて、社会党左派と労農派マルクス主義と民同とがブロックとして形成される端初となった大会であった。
 森戸=稲村論争は社会党における右派の圧倒的ヘゲモニーが解体し、左派が上昇して左右対立が本格化することを告げ知らせる大会でもあった。労農派マルクス主義の理論によって左派と民同がブロックをつくり、衰退する右派に攻勢をかけたが、四九年十二月の中執会議は左派のイニシアチブで平和三原則(全面講和、中立、基地反対)が決定した。この三原則はその後再軍備反対が加えられて平和四原則となるがこの“原則”こそ“日本型”戦後社民の全政治内容を集約したものといえよう。社会党は日本帝国主義が離陸する一九六〇年代中葉の時期まで、この原則にのっとって、一国的国民平和主義の政治構造そのものとなるのである。さらにこの原則は講和条約をめぐる左右対立から分裂への“引き金”ともなった。

 アジア革命の前進と“戦後革命”の敗北
 片山政府が成立した四七年五月に先立って出されたアメリカ大統領年頭教書はトルーマンドクトリンと呼ばれて、大戦後の帝国主義と労働者国家の対立構造をつくりだした“冷戦”の開始を告げた。四八年六月にはマーシャルプランが発表され、西ヨーロッパはアメリカのドルによって資本主義的再建に着手する。
 アメリカの対日占領政策の転換はアメリカがまず西ヨーロッパにテコ入れしてのち、少しの時差をもってアジア革命の波の高まりに対応して急ピッチでなされた。四九年にはドッジ、シャウプの勧告が出されて、日本資本主義を経済と財政の大合理化によって再建する方途が確定され、政治的・軍事的にも“極東の工場”に対応して沖縄を中心に“不沈母艦”たらしめるべき軍事基地化がめざされた。
 四八年九月には朝鮮人民共和国が成立し、つづいて四九年九月には中国革命の勝利が実現した。アジア全域で反帝武装闘争が展開され、アジアは革命的激動の時代をむかえていた。アメリカはアジア政策の手なおしをせまられた。日本を要塞化し、これを北端として南へと下る対労働者国家とアジア革命への軍事包囲網をアメリカは形成するのである。
 昂揚するアジア革命とアメリカ帝国主義の対決は一九五〇年に朝鮮において激突し、朝鮮戦争が勃発した。
 GHQは朝鮮戦争の遂行体制を日本において築くべく、次々と手を打ってきた。共産党の中央委員を追放し、「赤旗」を停刊させ、産別に代って総評をかれらの肝いりで結成した。労働組合にはレッドパージが相次ぎ、四五年以来の労働者階級の攻勢もアメリカ帝国主義の占領政策の転換によって抑圧され、ここにおいて“戦後民主主義革命”は一敗地にまみれた。
 共産党はブルジョア議会内でこそ多数派を社会党に譲ったが、産別を通じての労働者階級の闘争においては、社会党のとうてい及ばぬ力を保持していたが、二・一ストの禁止からようやく公然化した党と産別フラクとの対立から、共産党はいっそう組合のひきまわしに走り、右からのきり崩しの基盤を提供した。GHQは下山、松川、三鷹事件というフレームアップをつくりあげて産別の主力に打撃をくわえ、さらに産別内からも民同が発生し、共産党=産別ブロックは急速にヘゲモニーを喪失していったのである。五〇年初頭のコミンフオルム批判は共産党を分裂に追い込み、五〇年を転機に共産党は以後一五年近い期間、大衆闘争と議会での多数派を完全に社会党にゆずるのである。

 ニワトリからアヒルへ
 一九五〇年六月朝鮮戦争が勃発するや七月に総評が結成され、「国連軍支持、北朝鮮侵略非難」の立場を表明する。しかしこのあからさまなアメリカ帝国主義寄りの政治的立場は社会党左派の立場とも対立するものであった。すでに社会党は五〇年一月に左右の分裂を経験しているが、四月の六回大会では統一してもとにもどっている。しかし、この分裂は来るべき五一年の分裂の前触れに他ならなかった。
 五一年の七回大会は左派のヘゲモニーのもとで平和四原則の路線が確立された大会であるが、この大会の政治的影響は結成後、一年にもみたぬところで開催された三月の総評大会に波及して、総評は社会党の平和四原則を確認するのである。これは“ニワトリからアヒルへ”の変身であった。平和四原則の確認をめぐって民同は左右に分裂し、民同の右翼は反共愛国主義に純化して、右翼社氏と結びのち同盟・民社へと移るのである。早くも総評は社民右派の路線から社民左派のヘゲモニーが確立して、民同左派が多数派を形成したのである。この“ニワトリからアヒルへ”の転換ののち、総評は五一年の社会党左右分裂において左派社会党と結び社会党=総評ブロックを形成するのである。

 左右分裂・社会党=総評ブロックの形成
 労働者国家と植民地革命を包囲する反共軍事体制をつくりあげるため、アメリカは日本を占領統治から日米軍事同盟による包囲網への組み込みの方針を決定した。日米両国は講和条約の方針を帝国主義国も労働者国家も含めた全面講和とせずに、帝国主義国家とその支持国のみを相手とする単独講和として締結することを決定し、ダレスと吉田は早期締結を準備しはじめた。
 社会党右派はアメリカの単独講和の方針を知るや平利四原則を攻撃し、この破棄を求め単独講和支持を表明しだした。
 サンフランシスコ講和条約と日米安保条約に対する国会批准を控えて開催された社会党の第八回臨時大会は両条約反対の左派と、講和条約賛成の右派とが激突し、ついに大会は分裂した。両派は別の大会をもって左派社会党と右派社会党としてそれぞれ分裂を組織的に固定してイニシアチブを争う段階に入った。分裂のとき衆院議員は右派三二、左派一六名、参院は右派三二、左派三〇名で右派が議席において上回っていた。左右両派への分裂は労働組合に及び、右派は総同盟と左派は総評と結びつくこととなった。
 両派は五五年の統一に到る四年間、分裂しているがこの間の選挙によって左派は右派を圧倒して統一のヘゲモニーは左派が握るようになるのである。このように左派社会党を押しあげたのは総評の力であった。
 五二年一〇月の衆院選挙ではまず右派五七、左派五四となって両派は接近し、五三年の衆院選挙で右派六六、左派七二名となって完全に逆転した。この力関係で五五年に両派が統一するのである。
 すでに民同は社会党の四回大会(四八年)から明確に社会党左派と結びつき、左右に分裂すると文字通り総評は全組織をあげて左派社会党をバックアップしたのである。右派とつながる総同盟に対して総評は産別なきあとの労働組合運動の主流を担っていたがゆえに左右の力の差ははっきりとしていた。
 政治路線上も左派社会党は有利な位置に立っていた。朝鮮戦争が泥沼に入り込むのを対岸の火事のように見て、戦争はもうまっぴらという日本の大衆の平和主義と戦争反対の消極的気分は平和四原則とぴったりと適合していた。左派社会党は当時の大衆の意識を忠実に反映していた。単独講和に加担した右派に対して左派は政治的にも道義的にも大衆との関係で優位に立っていた。
 さらに左派社会党を有利にしたのは日本共産党の「武装闘争」路線であった。共産党は五〇年初頭のコミンフォルム批判によって大分裂をおこし、朝鮮戦争の勃発とともに中央委員が追放され、地下に潜入した指導部のもとで五一年二月の四全協は「武装闘争」方針を決定し、議会主義と平和革命路線から手のひらを返すような転換をなしたのである。八月にコミンフォルムは四全協方針を支持し、一〇月に五全協は「新綱領」を採択して日本共産党は火炎ビン闘争に表現される大衆から孤立した闘争に入り込むのである。すなわち左派社会党は左からの共産党の“脅威”をうける心配はなく、労働者大衆の戦闘性を平和、中立、改良の枠内において全面的に発揮させることが可能となる条件を与えられた。
 “日本型”あるいは“日本的”社民の戦闘性と左翼性は、まず第一に労働者階級の多数派を組織し、それを自己の政治的影響力のもとにおくことに成功し、第二に左からの批判を受ける心配がほとんどないことによって、その社民的本質をいんぺいすることが可能だったからである。
 しかしより根本的には左派社会党のもとでの大衆闘争が帝国主義体制、資本主義体制の枠内にとじこめられ、戦闘的ではあるが改良主義の限界の内にあったことを指摘しなければならない。この体制の枠とはすなわち日本の一国的枠を意味しており、アジア革命と切断されたところに日本の階級闘争が孤立させられたという限界のことである。

 平和共存体制への移行
 五〇年に勃発した朝鮮戦争ははじめは北朝鮮軍の圧勝で南朝鮮軍と「国連」軍は南端にまで包囲されたが、かれらは反撃に転じて三八度線を北上して逆に北朝鮮を軍事的敗北直前の危機にまでおいつめたが、中国義勇軍が参戦して戦局は転換し、再び労働者国家の軍隊は帝国主義軍隊をおしもどし、戦線は三八度戦で膠着した。この膠着はアメリカ帝国主義が東アジアにおいて革命を決定的に潰滅し、反革命をもたらすことに失敗し、労働者国家の方はアメリカ帝国主義を完全に撃退するまでには勝利しなかったが、革命の基本的成果を防衛するところまでは果すことができた、この状況で両者が対峙していることの表現であった。
 五三年に朝鮮戦争は休戦協定が結ばれ、戦闘は停止した。朝鮮休戦はアジアにおける帝国主義と労働者国家の平和共存への移行の準備をなした。中国は周恩来・ネール会談によって平和共存の原則をうちだし中国革命は帝国主義を追いつめることより、国内的体制整備の路線を選択することとなる。
 アジアにおける平和共存の開始は日本における資本主義の再建、高度成長のための政治的条件をつくり出すこととなった。日本のブルジョアジーは戦略的にはアメリカの反共軍事包囲網に日本を提供し、労働者国家との軍事上の対峙をアメリカ帝国主義にまかせ、自分たちは経済主義的に日本を再建する任務をひきうけたのである。

 左派社会党における綱領論争
 社会党を綱領のうえから分析しても、この党の政治的本質に正しく迫ることができない理由は先に触れたが、向坂派の諸君が「金科玉条」として随喜の涙を流して喜びおしいただいている「左社綱領」についてはいささか立ち寄らねばならないであろう。
 左派社会党は右派と袂を分ってから法三章の結党時の「綱領」ではない、新しい綱領を労農派理論のもとで策定することにした。起草の任には向坂や稲村があたったといわれている。かれらの起草した綱領はプロレタリア独裁を認めている、日本革命は社会主義革命である、平和革命方式による、という特徴をもっていた。一九五四年の時期におけるこの綱領の政治的性格は日本共産党の「新綱領」に対比して評価されるべきであろう。共産党の「新綱領」はアメリカ帝国主義を主敵とし日本を植民地と規定し、革命の性格と任務を民族独立民主革命とし、暴力革命をその手段のうちに容認していた。これに対して左社綱領はアメリカ帝国主義との闘争を回避もしくは軽視し、日本を独立国として規定し、革命を平板な社会主義革命のなかにとらえたものであり、平和革命は労農派マルクス主義の社民的本質を端的にしめしたものであった。もちろん共産党綱領が正しいとはいえない。むしろ誤っている。しかし、その批判者として登場した左社綱領が正しいとはなおさらいえない。より誤っているといえよう。今日からみてみると、左社綱領はその最大限綱領的性格、平和主義・改良主義的性格からして、スターリニスト党の社民化を先どりしているといってよい面をもっている。たしかに、戦前のその発生のときから、スターリニズムの右翼的分派として自己を形成し、その後は社民化を深めてきたのが労農派であり協会派なのであるから、スターリニズム社民化の「国際的先駆者」の栄誉をわれわれはかれらに与えるのにやぶさかであってはならないだろう。その点ではわが協会派はまこと“日本的”社民の優秀なる伝統を今日に伝えているセクトというべきである。
 この左社綱領の策定において党内論争が生じた。主流の向坂ら協会派の原案に対して、協会派からぬけた清水慎三らが「民族独立社会主義革命」の戦略規定を盛りこんだ対案を提起したのである。結局、向坂らの案が部分修正を受けて採択されたが、清水等は共産党により近い立場から協会派の理論を批判する内容をもっていた。すなわち清水案は協会派と共産党の折衷であった。この左社綱領論争も、戦前の「講座派」「労農派」論争も、戦後の日本共産党の綱領論争もすべて日本のマルクス主義は総体としてスターリニズムの段階革命論と一国革命論の枠内での論争を超えることはできなかった。日本共産党は民族独立民主革命から社会主義革命へという二段階革命論であるのに対して、労農派は社会主義革命を「一段階」としてとらえ、永久革命としてはとらえないので、必然的に一国性をもち、双方の対立は世界革命から切断された日本の革命の段階をめぐる訓話解釈におちこんでいったのである。

第四節 一国的国民平和主義における戦闘的改良主義の展開

 左右統一・六全協・保守合同――一九五五年
 アジアと世界における平和共存の傾向が増大し、日本資本主義が戦後再建から高度成長への入口にさしかかったことにより、政治支配体制の転機をなしたのが一九五五年である。
 一九五五年七月に共産党は六全協を開いて極左軍事方針を清算する。六全協は党内における宮本顕治のヘゲモニー確立の出発点をなし、今日の日和見主義路線がスタートしたときでもある。共産党は日本帝国主義にたてつく異端分子ではなくて、この体制の反対派として政治上の市民権を得ようとする党に転化していくのである。まだ五五年の時点では社会党はこの共産党の転換のもつ政治的意味を自覚できなかったが、左派社民の存立の基盤を侵食しこれを危機におとしこむ共産党の社民化の出発点は六全協であった。
 経済的に自信を回復したブルジョアジーは政治の次元で複数のブルジョア政党が争っている状態にいや気がさし、さらに五三年の選挙での左社の躍進に危機感を抱いて、ブルジョア政党の一元化を要求した。保守合同がそれであり、五五年十一月に単一ブルジョア政党・自由民主党が成立するのである。保守合同の気運に押されて左右社会党は統一を決定し、十月には統一大会を開催した。こうして、自民党、社会党が二大支柱となって形成する国民平和主義の政治構造がつくられる。
 これに対応するように総評も高野事務局長体制から太田―岩井ラインに転換して、産別統一闘争の結合による賃上闘争―春闘方式を労働組合運動の基調とする構造となるのである。
 高度成長期に入った日本資本主義にとって春闘方式は適応するものであったがゆえに、日本の階級闘争の主流はこの春闘方式のなかに集約されていったのである。すなわちこの高度成長に見合う範囲内での賃上げを獲得する春闘方式は、この枠内では労働者のエネルギーを目いっぱい解放してもブルジョア政治支配にとって決して危険ではなく、ここに“日本型”社民の戦闘的改良主義の成立する基盤があったのである。
 すなわち“日本型”社民の戦闘性と左翼性は社会党の主体の内的戦闘性や左翼性に由来するのではなくて、日米軍事同盟の枠内における日本の大衆の反戦的・平和的意識や、日本資本主義経済の高度成長に対する改良的要求への大衆の戦闘力の発現として、このエネルギーが社会党総評ブロックに反映されたのである。この反映こそが社会党の「左翼バネ」であって、党の内的主体の本質は厳然たる社民的体質とイデオロギーに支配されていたのである。

 軍事基地反対闘争
 国民的平和主義の構造はその内部に安保をめぐる賛成と反対という境界線が引かれていた。この亀裂は本質的にはアジアにおける革命と反革命の対立の日本における反映ではあったが、国民的平和主義を瓦解させるほどには強力な反撥力をもっていなかった。
 しかし、農民の生活破壊を直接にもたらす米軍事基地の拡張に対しては、反安保、平和擁護の国民的意識と農民の生活防衛の意識とが結合して、国民平和主義の時代にあってほとんど唯一の尖鋭な政治闘争となった。この軍事基地反対闘争の頂点は東京・砂川における闘争であるが、この五六年から五七年に到る闘いには、社会党議員たちはピケット要員の一員として参加し、基地内に突入し、逮捕され、裁判にかけられるところまで戦闘的闘争を展開した。安保闘争前の大衆闘争ではまさにこの軍事基地反対闘争は社会党の戦闘的改良主義の政治におけるもっとも典型的闘争といえる。
 ちなみに、砂川闘争は共産党内に分裂のきっかけをつくり、全学連左傾化の端初となるのである。
 砂川闘争に示された社会党の“戦闘性”はこの闘争の頂点で終りをつげ、右傾と官僚化、議員党の体質を濃くしていく。

 革同の切捨て、民同の右傾化
 階級協調の国民平和主義がスンナリと成立したわけではない。政治闘争においては軍事基地をめぐる対立があったが、労働者の闘争においては共産党・産別なきあとの左派を代表した革同へのブルジョアジーの攻撃が集中するとともに総評内の戦闘的組合をたたく策動がつづけられた。
 国鉄新潟闘争、王子製紙闘争、日教組勤評闘争などはこの攻撃のあらわれである。左派社会党を押しあげてきた民同派の三羽ガラスといわれた岩井(国鉄)宝樹(全逓)平垣(日教組)の連合もこの時期には次第に政治的分解の過程に入り、民同労働運動は全体的に官僚化を深め、右傾しはじめるのである。
 総評内の戦闘的労働組合への攻撃は高度成長の内実を構成していた重化学工業化、技術革新、油主炭従へのエネルギー構造の転換などが労働者へ犠牲を強要する攻撃としてなされた。この高度成長期の前半期に実行された総体としての合理化に対して、総評民同はほとんど階級的反撃を組織しえず、抵抗する組合はすべて孤立のなかで敗北させられていった。
 政治的には国民的平和主義の枠を一歩もこえられず労働運動においては合理化と取り組めず賃上げ闘争しか闘えなかった社会党.総評ブロックの脆弱さは、六〇年安保闘争の水準を規定するとともに、その後の右派攻撃への無防備状況の前提となってくるのである。


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第五節 安保・三池闘争・組織改革・構改論の抬頭

 勤評・警職法・安保国民会議
 五九年三月、共産党をオブザーバーにして安保反対国民会議が結成され、第一次統一行動がもたれた。勤評闘争から警職法闘争を闘った大衆闘争は、まだ安保にはその力をあらわさず、第一次統一行動はささやかな集会で、ひとり全学連が突出しようとしていた。
 社会党は五一年の安保締結の時と同じく、再び内部に分裂を孕んでいた。疑獄から復帰した西尾は安保改訂への社会党の反対闘争に対して陰に陽に妨害し、これに対して、青年部を突破口として西尾除名の声が拡大した。五九年一〇月、西尾は旧社民系の自派と河上派の一部をかかえて分裂し、民社党を結成することとなった。西尾分裂は社会党にパニックをもたらしたが、大分裂に到らず、多数はとどまった。しかし、安保闘争に対する右からの攻撃として西尾たちはきわめて有効な打撃を社会党・総評にあたえたのである。
 左からは急進主義的戦術突破主義をもって全学連が社会党・総評をゆさぶった。社会党は右往左往し、総評と共産党が手を組んで全学連を抑圧した。この構図は七〇年の反戦青年委員会をめぐってもういちどくりかえされることとなる。
 東京地評(当時、残り少ない革同が一定の力をもっていた)と結んで全学連は戦術左翼をもって一一・二七から一・二六、六・一五へとつき進んだ。一一・二七国会デモに対して社会党は右へブレた。つづいて一・二六羽田デモは国民会議は動員をとりやめた。こうしてブントのイニシアチブは礎立し、安保闘争は小ブル急進主義の戦術突破のためのカンパニアと、もはや戦闘性から身を遠ざけた国民会議の“お焼香デモ”に分裂し、しかし大衆は澎湃として怒りをたかめて闘争にたちあがったが、政治的有効打にはならず、“民主主義を守れ”に集約された。

 三池闘争―協会派の限界
 安保闘争がたかまりをみせているとき、九州・大牟田でも三池労組の反合理化闘争が決戦をむかえようとしていた。ブルジョアジー・自民党にとって「安保と三池」の結合は恐るべきものであった。安保の小ブル的カンパニア闘争が、組織労働者の武装ピケットの闘争にまで進んだ三池の闘争と結合し合体したら大変なことになるであろうとかれらはふるえあがったのである。しかし現実はこのふたつの大闘争は同じ時期に展開されながら、ほとんど結びつかずに別個に進んで一緒にうたれてしまった、そういう典型のような闘争であった。結論的にはふたつの闘争を結びつける階級的指導部が不在だったのでそる。
 三井三池労組は向坂が手塩にかけて育てた組合であり、職場闘争と学習活動の徹底さとおいては日本のどの組合も三池に及ばぬほどであった。「資本論」に取組む炭鉱労働者が千の単位でいたのである。三池はブルジョアジーの炭鉱合理化を遂行しようとする行手にはだかる大きな巨人であった。
 この三池に対する首切り合理化への労働者の反撃は二組切り崩しもともないつつ、ホッパー決戦にまでつきすすむのである。しかし安保との分断をはかるため、石田博英労相があっせんにのりだし、ホッパー決戦は回避された。決戦の回避は敗北への途となった。
 三池闘争は社会主義協会派の長所も短所もさらけ出した。そしてなによりも協会派の反合闘争論が非政治的な権力の問題をぬきにした労働組合主義にほかならぬことを暴露したのである。

 構改三派の形成と「社会主義のたましい」
 浅沼が暗殺され安保は自民党が強行採決して成立し、岸は倒されたが池田がかわって動揺した自民党支配体制のたてなおしにのりだした。安保闘争の小ブル性やカンパニア的性格から、闘いが終るとみるみる大衆のエネルギーは引いてしまった。
 三池の敗北ののち、江田はこの闘争を否定的に総括して、構改理論をとり入れた石炭政策転換闘争の方針にむかっていく。大黒柱・三池の敗北後の炭労はみるみるうちに資本攻勢の前に後退し、組織そのものの存亡が危うくなるに到った。この時点での政転闘争はまさに改良主義そのもので、何ら国家とブルジョアジーに迫る闘いではなかった。
 安保と三池は日本共産党の「前衛の神話」を崩したといわれているが、この闘争がテストしたのはひとり共産党だけでなく、社会党も闘争の中心指導部であるがゆえの決定的テストを受けたのである。まさに安保と三池は社会党が政治路線で無能であり、組織力で無能であることをあきらかにしたのである。
 テストに対して社会党から二つの回答が提出された。ひとつは向坂翁が雲の上の仙人が舞いおりてきてお告げをいうように、「社会主義者のたましい」論を再び三度びおごそかに語ったのである。向坂イズム信者は感泣し、ふるいたち、忠誠を新たにした。
 もうひとつは、協会派の最大限綱領と最小限綱領の穴を埋めてくれそうな構改路線にとびつくことであった。向坂仙人のお告げにうんざりし、シラけた左派の一部が江田を筆頭にして構改派を形成する。そしてこの左派から分裂した江田派に和田派、河上派が同調して構改三派がつくられ、安保後の党内主導権をつくりあげるのである。

 組織改革―政治新聞、青年同盟
 江田は組織局長であった五九年に機構改革案をまとめた。この案は議員と労働官僚のよせ集めという本質的な実態からぬけ出すことのできなかった社会党を“近代的”組織政党へ転換させる意図をもっていた。
 国会議員が自動的に大会代議員になることはやめる、県連組織(地域組織の連合を意味していた)から県本部―総支部―支部の機構へ転換させる、非議員中執を設ける、オルグ制度を設置する、党学校をつくる、機関紙を有料にする、という内容が骨格であった。
 構改派のイニシアチブで機関紙活動に力が注がれるとともに、安保、三池に発現された大衆の力を組織し、共産党の民青や婦人組織に対抗するために社会主義青年同盟の結成と日本婦人会議の結成が決定された。この五九年から六〇年にかけての社会党の組織改革は社会党の歴史のうえでは大きなエポックをなしている。
 社会党は議員の集団であり、議会の党であり、大衆への工作は総評という組織を利用しておこなう、というのが伝来の社会党組織論であった。これを直接に大衆を党や青年同盟に組織するという方針に転換したのである。これは画期的なことであった。社会党はこの方針をこころみたわけであるが、「百万人の党建設」というメインスローガンをはじめほとんどは失敗してしまう。
 ただひとつ、社青同だけは他の組織改革の失敗とはことなって民青の左へ進出して戦闘的青年運動の歴史を経験することに成功するのである。(社青同については本書の織田論文を参照)

 動揺常なく―ジグザグを描して衰退へ
 ケネディが六一年一月に大統領に就任し、情勢は新しい段階を迎えた。社会党では構改路線がヘゲモニーをとって組織改革をすすめるが、この大衆を組織する活動は共産党と公明党という二大競争相手を向うにまわさねばならなかった。結局、社・共・公の大衆組織レースは共・公が勝ち、社会党は何馬身もひきはなされて敗北することとなる。
 江田は構造改革論をいっそう改良主義的に“改革”して江田ビジョンをつくりあげ、日本社会党を新型の社民へと脱皮させようとした。このこころみには労働組合の右派攻勢とが重なりあって、江田路線はいっそう右に傾いていった。
 六二年一月の二一回大会は左派がまず反撃した。大会は江田ビジョンを否決した。江田は書記長を代って江田と同じ構改派の成田が書記長となった。このときから、六五年の佐々木更三の委員長就任に到る期間、社会党は右派と左派の分派闘争がつづいた。
 六四年一月の成田論文は「議員党体質、労組依存、日常活動不足」の“三悪”をあげてこれが根深く残っていることを指摘した。
 高度成長のなかで春闘方式で賃上げをかちとる組織労働者は、ことさらに社会党に入る必要はなかった。そしてむしろ高度成長のヒズミのところで抑圧されている大衆を、共産党と公明党が現世利益をスローガンにして改良主義の路線で組織していき、選挙における票も急速に伸ばしていったのである。社会党の危機は足もとにしのびよっていたのである。

第六節 歴史的衰退のはじまり

 原水禁分裂・中ソ論争
 安保国民会議は事実上解体して社共共闘の場は失なわれた。唯一、原水禁大会が最後の共闘組織として残ったがこれも六三年八月に分裂し、共産党は社会党をケネディ・ライシャワー路線の手先として攻撃し社会党は共産党を中国の核実験に反対しないとして攻撃した。中ソ対立が日本の社共両党に波及した。共産党は中ソ論争の公然化した六三年から宮本訪中団が毛沢東と決裂した六六年までは中国派であった。これに対して社会党は左派の一部を除いてソ連派が主流であった。
 向坂派は中ソ論争の当初においてはあいまいであったが、ソ連派にかたまり、いまでは日本でもっとも忠実なソ連ボナパルチスト官僚のスポークスマンの任を受けもっている。すでに向坂は五六年のハンガリー革命において、ソ連の軍事介入を支持したし、この立場は六八年のチェコ八月革命においても貴かれ、ソ連軍介入を向坂は支持したのである。共産党がソ連ボナパルチスト官僚のエージェントとさらに日本ブルジョアジーのエージェントに業務を拡大したのに対抗して、社会主義協会は日本ブルジョアジーのエージジェントからソ連ボナパルチスト官僚のエージェントへと業務を拡大してきており、この両者は同じ商品を扱っているライバル会社のようなもので、それだけに相手に対する敵意だけは溢れんばかりにいっぱいなのである。
 共産党が自主独立路線にたてこもって中ソともに正式の関係を断絶したことから、中ソ対立が社共対立から、社会党の内部にそれぞれソ連と中国の分派がつくられて社会党に反映するようになった。ソ連派は構改派と協会派で、中国派は左派のうちの非協会派社研グループと安打同(安保体制打破同志会)グループによってつくられた。
 当初、中国派(毛派)は植民地革命の戦闘性と急進性を代表して、社会党が反戦と並んで六〇年代末の戦闘的大衆の圧力を受けたもうひとつの政治傾向であった。青年急進化の流れは党内にあっては解放派と構改系から左傾化した流れと中国派の三つがあった。反戦が“逆流”以降党を離れていったのに対して中国派は反戦“後”の党内最左派に位置していたのである。
 しかし、アジア革命の高揚を間接的に歪曲して反映していた社会党毛沢東派は中国ボナパルチスト官僚そのものが米中平和共存の路線に軌道を定めるや、急速に政治分解していったのである。毛派はニクソン訪中以降はほとんど左のイニシアチブを失い、国際的に毛派の分解と混乱が演じられたが、日本でも同じで社会党内でも毛派の力は低下した。そして中国官僚と結び、その利害を表現するところに堕落し、佐々木更三は田中訪中の露払いの役割を果して、日中平和共存のブルジョアヘゲモニーの確立に奉仕するようになるのである。
 最近とみに、毛派の衰退に乗じて、ソ連官僚の忠実な番犬ぶりを発揮しているのが協会派である。かれらは、自分たちがいかに共産党よりもクレムリンに忠誠であるかをかれらの雑誌で宣伝している。このひとつをとってみても協会派が反急進主義であり、植民地革命に否定的態度をもちスターリニズムの右翼路線を貫徹させているかが立証されるのである。

 日韓条約―日本帝国主義の離陸
 一九六五年の日韓条約の締結は日本帝国主義がアジアに向って本格的に離陸することを知らせるものであった。そして同時に日本の帝国主義化は従来の政治構造が破産していくはじまりでもあったのである。“日本型”の社会民主主義の存立基盤が解体されはじめたのである。
 議席の上でも社会党は日韓条約を境として長期低滯に突入していく。日韓条約に表現される日本の帝国主義化は社会党に歴史的な転機をもたらしたのである。
 “日本型”社民が“日本型”としての特殊性=戦闘性、左翼性を保持しえたのが日本の政治的経済構造であることは先に触れたが、日本帝国主義がもっとも至近の南部朝鮮を植民地経済をもって支配することに全面的に突入したことにより、日本は唯一の原爆被災国であるとか、平和憲法をもつ国であるとかという第二次大戦での敗北がもたらした事項をもって無害の平和国家であるという神話は崩れ去って、帝国主義の論理にたちむかわなければならなくなったのである。
 帝国主義は歴史的なものであるから日本ブルジョアジーは戦後の国民平和主義を経過しても、帝国主義的本能は決して失ってはいないが、戦後の社会党は平和主義の所産であって、第二次大戦で敗北した日本帝国主義のその敗北をひきつぐ存在であったがために、日本帝国主義が復活拡大し、帝国主義的本能をあらわにしたとき、とうていこれに対抗する能力はもちあわせていない。
 一九六五年を画期として社会党には政治的安定性はなくなって、ジグザグを描く時代に入るのである。目まぐるしい指導部の交替、しかも決して安定不可能な指導部の選出、その日暮しの政治方針、ブルジョアジーと手を結ぶ分派もあり、それでいて戦闘的革命的闘争の圧力を他のどの既成政党よりも敏感にうける体質も残っており、分派の離合集散はめまぐるしい。そういう時代に社会党は突入したのである。

 北爆―アジアの革命と反革命
 六五年二月、アメリカ帝国主義の北ベトナム爆撃はベトナム侵略をエスカレートさせたが、この北爆はアメリカの戦略的敗北につながる第一歩となった。そしてベトナム革命へのアメリカの全面的な反革命軍事介入が局地限定戦争の枠を破り、全世界的に帝国主義と労働者、人民大衆との対決の戦線を構築したのである。
 五月の社会党二五回大会は左派の佐々木吏三が委員長となり、右派=江田派は敗北した。二六回大会で再び右派がもりかえすが二八回大会では左派が勝利する。安保後、IMFJC派や総評内右派をバックに構改論で右派攻勢のヘゲモニーを掌握していた江田派は北爆を端初として開始するアジアの革命と反革命の激突の局面において、右翼的路線が破産して構改論は力を失っていく。
 北爆がもたらした激動の情勢は日本の一国主義的国民平和主義の政治情勢に一撃を与え、さらに日本帝国主義のアジア侵略への策動が公然化することと結びついて、歴史的な転換点をもたらした。ベトナム戦争のエスカレートは社会党を左へむけた。江田にかわって左派の佐々木が委員長に勝利して、佐々木はこれまでの江田による反共産党路線を修正して高山談話で共産党との共闘の道を開いた。
 構改派の反共産党セクト路線はいっぽうでIMFJC派への社会党の屈服を意味していたが、構改派の退潮ははっきりと社会党と労働戦線内の流れを変えたのである。共産党との共闘に社会党が窓を開けたことはあきらかに左への圧力を受けたからであり、アジア革命の圧力がこの党に反映したことを意味していた。右派のヘゲモニー下で進められた労働戦線統一運動は壁にぶつかった。
 日韓・原潜・ベトナム反戦の闘いを通じて鎮静化していた大衆闘争は上昇を開始し、とくに青年の急進化が急速にすすんだ。社会党はこの高揚する大衆闘争の波に乗ろうとしたのである。

 急進的闘争の高揚と党の衰退
 さてわれわれはここで社会党が急進的大衆闘争の圧力を受けて左へと押しやられながらも、本質的には決して大衆の圧力が社会党を党として強化はしていないことをみておかねばならない。
 六五年七月の参院選で社会党は若干の伸びを示し、同じとき行なわれた都議選では自民党の汚職という敵失もあって第一党に進出したが、六七年一月の衆院選挙はふるわず議席は後退した。しかし四月の地方選では美濃部が勝利する。六八年の安保、沖縄を争点とする参院選では後退をつづけ、六九年十二月の衆院選は一挙に五〇議席を失って大敗北を喫するのである。
 七二年の年末衆院選では五〇の失った議席の半分をとりもどすが、(一一八議席)この選挙では共産党の進出が著るしく、共産党は三八名になり、社会党の“回復”はむしろ共産党の進出の陰にかくれてしまった。
 この六五年からはじまる社会党のブルジョア議会内における力の衰退はジグザグを描きつつも確実に進行している。国民平和主義のフレームで形成されたブルジョア議会制支配は日本帝国主義の内在的矛盾の激化と、アジア革命の力の上昇の局面に入るや衰退と解体の過程に入りこんだが、この衰退のまずはじめの影響は社会党に集中してあらわれたのである。共産、公明両党の伸びはブルジョア議会制支配の安定性や生命力がいまだに持続していることを証明したのではなくて、この両党の伸びは自民党や社会党では及ぼせない政治的影響力を共産、公明が集約したのであり、とくに共産党は社会党に代替する機能を果しているにすぎない。すなわち共産、公明両党はプロレタリアートと小ブルジョアジーの自民、社会ではすくいきれない部分をブルジョア議会制に組織し動員する任務を果しているのである。この任務は衰退するブルジョア議会制支配を左から解体するのではなくて、逆にこれをささえ防衛することを意味する。
 社会党はブルジョア議会内で共産、公明の狭撃をうけつつその力を弱化し、さらにこれらの全体の党が依存している議会制政治そのものが衰弱しているのである。
 したがって、六七年から開始された急進的大衆闘争が高揚したさなかでも、あるいは大衆が左傾化したからこそ、社会党は大衆の左への趨勢を全面的に受けとめることはできなくなっており、かつての社会党総評ブロックが大衆の戦闘的改良のエネルギーを吸収した機能がもはや失なわれており、情勢のなかで絶えざるジグザグをくりかえすのである。

 “革新自治体”による改良の路線
 六七年四月の地方選挙で美濃部が東京都知事に当選したことは政治情勢が転機を迎えたことを示した。ブルジョア議会制の危機のはじまりがまず社会党に表現されたが、美濃部の勝利は自民党の危機のはじまりをはっきりとしるしたのである。
 労働者、人民は都市に集積した資本主義の矛盾の激化に直面してまず手近かの地方自治体に戦闘的改良主義のエネルギーをあらわした。
 地方政治は自民党権力にとっては弱い環であり、とくに都市の小ブルジョアジーを組織できていないかれらにとって、大都市の大衆は自民党政治の統制のもっとも弱い部分であったがために、高度成長の矛盾が表面化し、それが大衆の生活をおびやかすことがはっきりしてくると、都市においては自民党政治が解体を早めていったのである。
 社会党の江田派をはじめとする構改派はベトナムの一撃でかれらの路線が破産するや、新しい改良主義の脱出口をこの革新自治体に求めようとした。その後、構改路線による革新自治体の「戦略的位置づけ」は社会党の主調となるが、これはまた共産党が構改路線と同じ立場から革新自治体を民主連合政府のヒナ型として位置づけたため、革新自治体は人民戦線路線のテストケースとして社・共両党からもてはやされ革新自治体の拡大が革命そのものであるかの概を呈した。
 しかし、革新自治体は労働者、人民が要求する問題の解決に無力であるばかりか日本資本主義経済が危機に突入するや逆に労働者、人民の既得権を奪いとり、労働者、人民の闘争を鎮静化して、ブルジョア議会制秩序を大衆の闘いから防衛する役割を受け持つようになるのである。

 反戦青年委員会と社会党
 急進的大衆闘争と社会党との関係をひとつの典型としてしめしたのが反戦青年委員会をめぐってであった。
 一九六七年から六八年にかけて拡大した学園闘争に対して、共産党は“トロツキストの暴力主義”として全面的に否定し、これを警察権力の弾圧の対象として認め、ブルジョア支配に反抗して立ち上がった学生への警察権力による鎮圧を積極的に擁護したのである。
 これに対して社会党は六八年一月の第三〇回大会において学生の闘争を認め、学生運動を“同盟軍”として位置づけたのである。
 六八年はベトナムにおける二月のテト攻勢、五月のフランス革命、チェコスロバキアにおける八月革命と世界の政治情勢が激動し、革命と反革命の力関係が逆転して平和共存体制が歴史的に解体にむかい、全世界的に青年の急進化がひろがって、反帝国主義の闘争は急進的青年によってラジカルにすすめられた。日本での青年の急進化は反戦青年委員会と全国全共闘の運動によって表現された。
 八月には反戦青年委員会が正式に結成され社会党はこの反戦を通じて急進的青年運動のエネルギーを党に吸収しようと試みるのである。
 六九年五月の社会党青年問題委員会の報告は次のように青年の急進化に対する方針を確認した。
 「党の総力をあげて反戦青年委を青年労働者のすべてのエネルギーをくみつくしうるものとして全国的に強化する。さきに党大会で決定した全国反戦委の強化再開、各県反戦委の拡大、さらにその基礎としての職場反戦の建設は、まさに青年、学生戦線が内包している弱点を労働者的たたかいによって克服しようとするものであり、七〇年闘争勝利のため緊急の課題となっている。」
 共産党と社会党が示した全国反戦と全国全共闘に対する対応のちがいが先に引用したトロツキーの分析にぴったりであることをわれわれはすぐ気付くであろう。
 改良主義が解体されて生まれた社会党の中間主義的ジグザグは、大衆とブルジョア権力との衝突の狭間にあって、絶えることなく動揺し、大衆が革命への突破口を探して行うジグザグを“反映”し“表現”しているのである。共産党は強固な官僚的装置をもち、かれらの強固にうち堅められた政治路線をこの官僚体制を通じて大衆に押しつけ、かれらの路線からはみでようとする大衆を抑圧するのである。
 学生の闘争と全国反戦に対して示された社会党の寛容さは、改良主義が大衆の急進化で左から解体されていくプロセスにおいて社民が何らの防衛手段を持ち合わせていないことの表現であり、これはブルジョア議会制政治がそうであることを社会党が代表して示したともいえよう。
 青年の急進化を容認しながら、六八年七月の参院選で社会党は後退する。青年の急進化はこの改良の党、議会主義の党を何ら強めるのではなくて、逆に左からつきあげつつ、解体を促進する作用として働いたのである。
 社会党が急進的青年運動を容認したことに対して、総評は労働官僚の立場から、共産党はかれらの政治路線から非難をはじめる。
 総評の民同官僚は学生の急進化がやがては全国反戦というルートを通じて青年労働者の多数が急進化の流れに合流する危険性を感じとった。青年労働者の急進化はまさに総評民同の基本構造を急速に崩壊させる恐るべき力をひめていると察知した民同は、官僚支配を防衛するために“反戦育成”から“反戦弾圧”に転換する。
 全国反戦による青年労働者の政治闘争への参加が目立ちはじめるや、総評は六九年八月の大会で社会党の学生や反戦に対する“甘さ”を批判して、全国反戦からの新左翼の排除を決定する。共産党は総評の方針を支持し社会党を難詰した。六九年末の衆院選での社会党の敗北はこの総評、共産党の傾向に助勢してついに社会党は右へ舵をきる。流れは一転して反戦切り捨ての逆流となるのである。
 七〇年四月、成田はまず反戦にも“よい反戦”と“悪い反戦”があると言及し、“悪い反戦”を排除し共闘に入れないことを指示した。かくて七〇年後半から“反戦パージ”が進み、七〇年党大会は機動隊の動員をたのんで反戦派を排除した。青年労働者の急進化に対して労働官僚、社民、スターリニストの共働による抑圧が加えられ反戦に参加した青年は孤立、分断させられて多くは職場から追放された。反戦パージによって民同の支配はからくも守られた。ブルジョア権力の暴力装置による街頭での徹底した弾圧と反戦派がパージによって労働者階級の本隊から切断されたことによって孤立を余儀なくされた急進的青年運動は急速に分解をはじめ、この運動を基盤にしていた「新左翼」諸党派は解体と堕落の過程に入り込むのである。
 社会党の中から発生した中間主義の解放派や主体と変革派は“逆流”前の社会党の“左傾化”に大いなる幻想を抱き、社会党を革命党に変化させるつもりでいたが、“逆流”によってかれらは排斥されるか、自ら社民への幻想を打ち消して、右傾化した社会党と別れなければならなくなった。
 成田が認めた“よい反戦”とは協会派系であり、これは反戦のなかでは無能・無力・日和見のもっとも質の悪い反戦で、たんに協会派が青年の急進化のなかで必死に自己防衛するためのカモフラージュにすぎなかった。不肖な息子ほど親は可愛いいのであろうか。
 反戦への“逆流”のイニシアチブをとったのは協会派であった。本質的に反急進主義である協会派は社会党を共産党と同じ組織体質に作りあげ、官僚的統制と支配を大衆に及ぼそうとする意図をもちつづけており、かれらの反急進主義と官僚主義が結びついて、協会派は反戦パージのイニシアチブをとったのである。陰険な反戦パージのテルミドールは社会党中央本部や東京都本部の急進派を党から追放することとなり、社青同を協会派の私物とする手がかりをつかんだのである。
 協会派は党内の急進分子を追放して、クーデター的に社青同を手に入れて、社会党内へ本格的な分派として進出しはじめるが、協会派の手に落ちた社青同はもはや青年の凝刺としたエネルギーを代表する機関ではなくなってしまった。
 唯一青年の力が綱領も理論も組織も金もない社会党を左へ向かわせる衝撃力であったが、この最後の綱が断ち切られたのである。


第三章 社会党はどこへ行くのか

 戦闘性、左翼性を生みだした基盤の崩壊

 “社会党の左翼バネ”として、清水慎三は戦前からの社民左派、労農派マルクス主義、民同グループ、青年部の四つのファクターをあげ、この四つの要素が情勢の転回のなかで社会党が右へブレるのを押しもどし、左へと反撥させる力であると分析している。この分析はまず大前提に社会党の左翼バネのインパクトが党を構成する主体に内在していることをアプリオリに認めている。まずこれが誤っている。
 戦前派の社民左派(鈴木茂三郎や佐々木更三に代表される)は本質的に社民であって戦闘性、左翼性はただ大衆の圧力に対して柔軟であるときに表現されるのである。
 労農派マルクス主義の日和見主義的本質はあきらかであり、本書槙論文によってこのグループの社民的本質が暴露されている。いまや、労農派グループの唯一の組織的結集体となった協会派は社会党がもっている大衆の圧力に対する“脆弱さ”をスターリニスト的官僚の専制によって除去しようとその先頭に立っている。協会派の社会党内におけるヘゲモニーの確立は、社会党を化石のようにしてこの党に残された唯一の“美徳”である「大衆の圧力に柔軟である」特質を奪い去ってしまうであろう。向坂派はもうひとつの合法共産党をつくろうとしているのである。
 民同グループが社会党の左翼バネでないことはいまでは三才の童児でもよく理解されるところである。左派社会党の成長期に果した民同の左翼バネ機能は春闘方式の破産とともに喪失しているのである。民同は今では右へのバネとなっている。
 青年部はどうか。社青同結成によって青年部はなくなったので、青年の力による社会党への左翼バネの機能は社青同に移行したものとしてとりあげなければならないが歴史的な事実として、協会派がヘゲモニーを社青同において掌握する以前は社会党青年部、社青同は絶えず社会党の最左派の行動隊として右派を糾弾し、戦闘的大衆闘争のエネルギーはまず青年部や社青同に反映し、ここをパイプとして社会党に押し流され、文字通り左翼バネとして機能してきた。しかし社民からするとこの青年のエネルギーを伝える組織は党に活力を与えはするが、いつ“暴発”して党に打撃を与えるかも知れない社民にとって危険な存在でもあった。反戦パージによって作られた協会派社青同は“暴発”する危険はないので党は安心していられる。しかしこの社青同は青年の活力をもたず、青年の力を党へ伝える能力ももたず、へ理屈ばかりこねてひねこびており、小ボス、小官僚が組織を牛耳っているのが実態である。いまや協会派社青同は社会党の左翼バネではなくて社民路線の優等生となっている。
 清水のあげた左翼バネ要素はもはや歴史的に失なわれてしまっている。かれがあげた左翼バネは左派社会党を形成し、統一後に左派のヘゲモニーを形成する過程を通じるなかで機能してきたのである。しかもまごうかたなく左派社会党こそが国民平和主義そのものであったのであり、日本帝国主義の左の柱を背負ったのである。

 戦闘的改良主義の終り

 社会党を構成する主体に戦闘性と左翼性があったのではなく社会党が存立した基盤が戦闘的改良主義を許容したのである。それは先に述べたように、第一に高度成長であり、第二に一国的国民平和主義である。高度成長は労働者に絶えざる賃上欲求の力を拡大持続させ、春闘方式は改良の闘いではあるが大衆のエネルギーを動員して戦闘的に展開されてきた。アメリカ帝国主義の傘の下にあって温室としての国民平和主義の構造のなかで、社会党は反戦平和、反原爆の国民意識の政治的代表者たりえてきた。
 社会党を論評する人びとが多く指摘するこの党の戦闘性と左翼性とは、そのほんとうの中味は戦闘的改良主義であったと、われわれはまず訂正しなければならないだろう。そして次に、この戦闘的改良主義を成立可能ならしめてきた基本構造とはとりもなおさず戦後日本帝国主義を復活・強化してきた基本構造そのものであったことを指摘しなければならない。そしていまやこの基本構造は解体過程に決定的に突入したのである。解体過程をもたらした歴史的な力学は、
 日本資本主義の危機の深化
 第三次アジア革命のはじまり
この内と外のふたつの衝撃が、社会党を存立させてきた国民平和主義的政治構造を分解させ、この党を激動のなかに押しやったのである。
 日本資本主義経済が危機的過程に入り、高度成長が終りを告げ、高度成長期に蓄積された矛盾が社会の表面に噴出してくるようになると社会党、総評ブロックの春闘方式を軸とした改良主義が「国民春闘」として手直しされたとしてももはや根本的に情勢に対応できなくなったということは多言を要する問題ではないだろう。

 非武装中立の社民路線はアジア革命の前に破産

 現実には日米軍事同盟を結び、自衛隊を持ちながらこれらを観念の上で否定することによって国民平和主義がつづいた。この観念を“政策”にしたのが社会党の非武装中立である。非武装中立路線はアメリカ帝国主義がアジアに労働者国家と植民地革命を軍事的に包囲する戦略を選択して、日本の沖縄から北海道にいたる全島に軍事基地をつくりあげ、国内の階級闘争の鎮圧と、米軍への戦術支援を任務とする軍隊の創設を容認し、かつ育成した過程においては、これに反撥する日本の大衆の平和的意識を表現する立場として、現実の根拠をもっていた。
 しかし、現実に存在するものを観念のうえで否定するしかない社会党の非武装中立の路線は、是非善悪はどうあれ大衆が現実に存在する自衛隊を“認め”ていく過程がすすむことによって、この根拠は崩れていったのである。非武装方針による自衛隊の否定と米軍駐留の否定は当初のラジカルな立場から、改良の立場へ移行して、自衛隊の存在を前提して、その性格や機能に対して平和主義的、改良主義的圧力をかけるところへまで屈服し、つとめて自衛隊の問題を労働者・人民の前からはずそうと努めたのであり、これは国民平和主義の意識のカべによって思うようには自衛隊を強化できない自民党の思惑に合致して、軍事問題を禁忌とする政治環境が持続されてきた。
 帝国主義の武装解除、労働者、人民の武装、兵士を労農人民の側に獲得する、という労働者階級が帝国主義軍隊に対してとるべき原則に、社民は決して立つことはできないし、共産党も現在では基本的に社会党の立場に接近し、帝国主義の軍事力に対する労働者階級の意識を武装解除しているのである。
 日本帝国主義が離陸して、アジア革命との対決の局面に入ったときから、基本的に外交路線は、――
 日本帝国主義に対する革命的敗北主義か
 日本帝国主義への祖国防衛主義か
の二者択一をすべての左翼に迫っているが、社、共両党は日本帝国主義の敗北をのぞまずに、日本帝国主義の祖国を防衛する立場に立っているのである。金大中事件をはじめ韓国との関係でみられる社、共の振舞いは国権論であって、祖国防衛主義そのものである。かれらは、アジア革命から日本帝国主義が打倒されぬようまず防衛して、しかるのち、この帝国主義をよくしよう、という改良の運動をすすめるのである。
 日韓闘争を社、共、総評が闘いえなかったことは、この闘争があった六五年の時点では未だ顕現されていなかったが、すでに祖国防衛主義の社民的本質が潜在していたからであるといえよう。安保では“平和と民主主義”の意識を動員できたが、日韓では反帝国主義の意識を動員できなかったし、かれらが反帝国主義でもなかったのである。
 中立路線は日米軍事同盟=アジア革命への敵対という自民党路線に対する日和見主義的外交方針であり抜本的に帝国主義政策と対決することはできない立場である。自民党がアメリカ帝国主義の手を借りて維持してきた日米軍事同盟の路線はベトナム革命の前進によるアメリカの戦略的後退によって危機を迎えたが、中国ボナパルチスト官僚の外交路線に助けられて、自民党は日中共存体制をもってこの危機を回避した。
 かくて、日米軍事同盟と日中共存は見せかけの“中立”をしめしており、この外交路線が自民党、ブルジョアジーのヘゲモニーによって貫徹されたため、社会党をはじめ、すべての議会内反対党の中立方針は自民党の帝国主義外交と対決できなくなったばかりか、その補完物になり下ったのである。
 ベトナムを先頭とするアジア革命が左から日本外交の社会的立場を解体したので、社、共はより右へ移行した。いまや、中立方針は何の“反体制”的性格を爪の垢ほどももってはいない。
 社会党の「党是」が全面的に解体されたのである。

 派閥の再編・社共路線と社公民路線

 若手議員を集めて「新しい流れの会」が結成されたが、このグループは市民主義的性格をもち、構改派が没落した後では、このグループが大衆の意識の変化にもっとも敏感に反応している。来るべき次の大衆の急進化においては、非協会系左派グループとこの新しい流れの会のグループが急進的エネルギーの圧力に対応しようとするであろう。しかし、新しい流れの会は都市市民の民主主義的意識を平和的に表現しており、その基盤はプロレタリア的ではない。その性格はネオ右派ともいうべきもので、階級闘争の諸原則とは遠くはなれた存在である。自民党政治が強権化、反動化に向うとき、このグループは民主主義防衛をもって一定の戦闘性を発揮するかも知れない。しかし、このグループは戦略的な位置をもつことは決してないであろう。
 左派の分解はこれまで、
○片山政府のときの労農党グループと主流との分裂
○構改路線による江田派の分裂(これは以後も山本、楢崎、大柴らの分裂としてつづく)
○中ソ論争による中国派の分裂
の三つの大きな分解があったが、六五年以降の左派分解の中心は社研派(左派の主流)が協会派と非協会派に公然と分裂していく状況であろう。
 協会派はそれまで党内分派でなしに理論グループとして労農派マルクス主義の学者、旧日無系の議員、民同官僚指導層、党官僚などの横断的組織として、きわめてルーズなサロンのような性質をもって活動してきたのである。山川が死んで協会の指導権を向坂が握ると、向坂は協会派をもって党内の分派闘争に介入し、協会派を社会党の分派に転化していったのである。左派は党内分派として社研派をもっていたので社研という分派の論理と協会派という分派の論理が衝突するのは必然であった。
 向坂イズムは政治的には社民であり、組織的にはスターリニズムであり、協会派は社会党を共産党的組織体質をもって支配しようとするセクトである。いま、向坂派は社会党と社青同において“拡大”している。われわれはこれをどう受けとるべきか。
 結論的にいえば、協会派は社民の“寄生物”であって、決して自己を本体にまで転化することはできないであろう。もし、協会派が社会党で多数を占め、その恐怖政治を社会党においてふるうとするならば、これはもうひとつの右翼的共産党が生まれたことを意味しており、協会派支配下の社会党は共産党との血みどろの抗争に突入する。一国に二つのスターリニスト党は並びたつことは神(=スターリン)の許さぬ行為なのだから。
 むしろ、協会化された社会党は大衆の圧力によって、組織として分解されてしまうであろう。これは、国民平和主義の“連合戦線党”的性格をもっていた社会党を自らの手で壊すこととなり、向坂は「恩師・山川」の教義を自ら裏切ることとなる。
 協会派はこれから激しく左に右にジグザグを絶え間なくえがくであろう社会党・総評ブロックの寄生物となって、ジグザグしないためには向坂大先生の「科学的社会主義」を信じなさい、ということを布教する宗派集団でありつづけよう。かれらが多数をとると、それは自殺行為となるにちがいない。
 いま、社会党は政治路線として社共共闘か社公民路線かで混乱している。七五年統一地方選を契機として大きな政治的再編がこの党を襲うであろう。激しい分解過程についていまあらかじめ占うことはあまり意味のあることではない。

 階級的力関係を反映する党としての社会党

 いま社会党の前に提起されている政治路線は、人民戦線、中道左派路線、中道右派路線である。どれをこの党はえらぶのか。それはこの党が主体的にはえらべないことである。ひとつだけはっきりしていることがある。まだこの党の前に提起されている路線は、いずれも日本帝国主義を左からささえる路線であって、まだ「革命への脱出口」となるべき路線は提起されていないことである。にもかかわらず、来るべき大衆の圧力はこの党をして激しく左右への動揺のなかへ押しやるであろう。この党はブルジョアジーの力、プロレタリアートの力のぶつかり合う階級闘争の力学を歪少化してはいるが反映させる党として存在しつづけよう。それがまた、この党の最後に残された“美点”である。

 プロレタリア統一戦線へ

 革命への脱出口をつくるのは、われわれしかいないのである。社民やスターリニストがあれこれ経験的行為をくりかえして、革命への脱出口をさぐりあてることはできないし、かれらはむしろそうするよりブルジョアジーに投降するであろう。スターリニストは自らがブルジョアジーに投降するのをいんぺいするために社民にあらん限りの悪罵を投げつけ、自己の正当性を守ろうとする。「社会ファシズム論」や「社民主要打撃論」がそれである。これは階級闘争と革命運動に致命的打撃を与える誤ったやり方であることは歴史が幾度も教えてくれたところである。
 社民に対する統一戦線は、革命への脱出口を求めてジグザグを示す労働者階級の闘争を革命の勝利への扉へ向かわせる革命的左派の任務であり、社会党批判の実践とは、プロレタリアートの統一戦線を構築する闘争と同義であることを、いまわれわれは部落解放闘争をめぐるきびしい情勢の中で銘記すべきであろう。
      (一九七五年二月二〇日)

第二章 社青同批判

 1 新しい綱領

 すべての反対派を排除して自派単独の「社青同」をつくり終えた協会向坂派は、社会党の公認を得て、“再建”にのり出した。七二年一〇月の第一一回大会では、社青同が「学ぶ」ための組織であることを確認し、七三年一二月の第一二回大会で、新しい綱領を採択した。
 新綱領の構成は、次のようになっている。
 「社会主義は歴史の流れ
  独占資本の支配と諸階級
  反独占闘争と青年
  社会主義革命と日本社会党
  帝国主義の後退と社会主義の優位
  社青同の歴史
  社青同の決意」
 最後の「決意」の項に、定式化された任務がのべられ、綱領の結論部分になっている。
 「一、独占資本の支配をうち倒し、社会主義の実現をめざしてたたかいます。
  一、日本社会党を先頭とする反独占統一戦線の一翼をになう、強大な青年戦線を組織します。
  一、働く者の生活と権利を守り、民主主義と平和を勝ちとり、資本主義文化の退廃に抗してたたかいます。
  一、あらゆる職場、学園、地域で青年の団結を強め、同時に全世界の労働者、進歩的青年と連帯します。
  一、科学的社会主義の理論を学習し、あらゆるたたかいのなかで学びながら、自らの向上をめざします。
  一、社会主義者にふさわしい生活態度を身につけ、いつでも組織の一員としての自負をもって活動しす。」
 六〇年に採択された旧綱領の主文を、比較のために紹介しよう。
 「一、私たちは、帝国主義的に強化しつつある日本独占資本の体制や政策とたたかい、中立を勝ちとり、階級闘争を基調として社会主義社会の実現をめざしてたたかいます。
  二、私たちは、平和と民主主義をもとにした憲法をまもり、その完全な実施を求めてたたかいます。
  三、私たちは、青年の生活をゆたかにし、社会的・文化的要求を勝ちとるためにたたかいます。
  四、私たちは、青年運動の階級的統一をはかるため、その担い手を結集し、全民主勢力の中核となってたたかいます。
  五、私たちは、民族の解放と完全軍縮、社会主義の実現と建設をめざしている世界の青年のたたかいを支持しともにたたかいます。
  六、私たちは、科学的社会主義の理論を学び、みずからの向上をもとめて団結し行動します。」
 新旧両綱領が大きく変っていることは、一目瞭然である。
 (T)「反独占・社会主義」の戦略が、確定されていることが、第一の問題である。「反帝国主義」は、きれいさっぱり消し去られている。「独占資本の搾取と支配」については長広舌をささげているが、今日の階級闘争の根本的な要求の一部である。「被差別大衆」のたたかい、「アジア革命」との結合、民族解放、植民地革命の課題、これらの点についてはただの一言もふれられていない。定式化されている「反独占・社会主義」の戦略は、「今日の日本の生産構造を支配している独占資本をうちたおして、社会主義を実現する」というだけの、それ以上でも以下でもないのである。
 革命は、国家権力の問題である、とはレーニンの有名な教えである。独占資本を経済関係においてとらえるだけでは、なにひとつ明らかにならない。独占資本の賃労働者にたいする直接的な支配を維持するだけのためにも、まして広汎な人民諸階級・諸階層を従属させるためには、それが帝国主義国家権力として実存せざるを得ないのだという点に、社会主義革命の可能性と現実性が存在する。帝国主義として実存する独占資本の支配は、外にむかっては侵略者、略奪者として、内においては前近代的生産部門の解体・支配と、差別・抑圧構造の拡大として、その矛盾をひろげていく。こうして帝国主義は、単にプロレタリアートの敵であるばかりでなく、すべての被支配階級・被差別大衆、被抑圧民族の共同の敵となって、自らの肥大化がそのまま孤立の完成に転化し、社会主義革命の経済的必然性を政治的前提条件の成熟に物質化するのである。
 協会派は、「独占資本の支配という規定のなかに、帝国主義の規定がふくまれている。両者は同じものなのだ」と反論するかもしれない。だが、それは誤まりである。「独占資本」の支配は、つねに帝国主義の支配としてあったわけではない。独占資本は突如として登場したのではなく、資本の競争とその結果としての統合の運動を通じて形成されてきたのである。帝国主義は、独占資本の支配が国内的に完成し、資本主義的生産関係において貫徹したことを示すと同時に、それが前資本主義的生産関係にたいして、また後進的諸国家と諸民族にたいして全面的な支配と抑圧の運動を展開しなければ存続することができない段階にまで到達していることを示す概念である。つまり帝国主義は、経済的支配関係と政治的支配的関係の一体性、一国的支配関係と世界的支配関係の一体性を示す概念である。それ故、「独占資本の支配」というだけでは、それがどのような歴史的段階にあるのかを示すことにならず、われわれがなぜ社会主義革命に直面しているのかを明らかにできないのである。
 あるいは協会派は、帝国主義を独占資本の運動の一つの機能であるととらえているのかもしれない。独占資本の権力が、他国に敵対し、侵略し、支配しようとする運動の側面だけを表現する概念として、「帝国主義」を理解しているのかもしれない。だがそれは、いっそう明白な誤りである。他の国家、他の民族にたいして「帝国主義」としてふるまう階級は、自国の他の階級にたいしても「帝国主義」としてふるまうのである。「帝国主義」を独占資本の運動の一側面としかとらえない者は、資本の国際的運動と国内的運動を分離し、資本の政治的支配と経済的支配を分離する。それは、すでにレーニンによって完全に粉砕された第二インターナショナルの立場に復帰することである。
 彼らが「反帝国主義」の戦略を斥けるのは、反帝革命は民族解放・民主主義革命であるというスターリン主義の二段階革命戦略に屈服しているからである。「反帝革命はブルジョア革命で、反独占革命は、社会主義だ」と、彼らは言う。だが、そのことによって、日本革命の性格規定の誤りにつけ加えて、民族解放をたたかう植民地革命のとらえ方においても決定的に誤まっていることを告白する。植民地解放革命の民族・民主主義的諸課題が、社会主義革命そのものの貫徹によってしか実現し得ないことは、ロシア革命以来のすべての革命が、勝利と敗北の歴史を通じて明らかにしつくしているのである。
 「反独占・社会主義」の戦略は、純粋に経済主義的で、一国主義的な革命戦略である。だがおよそ革命戦略は、政治的・国際的な革命戦略としてしかありえない。したがって、この戦略は、革命戦略としての資格をなにひとつもっていないのである。
 反帝国主義の立場から分離された「反独占社会主義革命戦略」は、狭い意味での組織労働者、官公労・民間大企業の本工労働者の利益だけを代表する。そのため、この戦略は労働組合主義の綱領としての意味だけをもつ。労働組合の経済的改良斗争と、「社会主義政党」の議会主義的政治闘争との、分業の戦略である。
 日本の労働者、人民が真に団結してたたかう戦略は、このような戦略ではあり得ない。
 第一に、独占資本に反対するだけではなく階級としてのブルジョアジーに反対し、第二にブルジョアジーの経済的支配に反対するだけではなくその国家権力に反対し、第三にブルジョアジーの国内的支配に反対するだけでなくその国際的反革命と侵略、民族抑圧に反対する。したがって日本の労働者人民は、第一に全世界、とりわけアジア労働者、人民と団結し、第二にすべての抑圧・差別された人民の諸要求・諸闘争を結合し、第三に組織されたプロレタリアートを中核として農村と都市の小ブルジョアジーを結集したプロレタリア独裁権力の樹立のためにたたかわなければならない。
 こうしたたたかいを実現し、勝利させる戦略は、世界帝国主義の極東における支配体制である米―日帝国主義の反革命同盟を粉砕し、日本帝国主義を打倒して、社会主義アジアの突破口をきりひらく日本社会主義ソビエト共和国をうちたてる「反帝・社会主義革命戦略」でなければならない。
 (U)「反独占、社会主義」の戦略は、必然的に平和革命戦略に移行する。帝国主義の本質から、暴力性をとり去ることは、協会派にとっても不可能である。「暴力的でない帝国主義」を夢想することは、「独創」的な向坂教授の頭脳をもってしても困難にちがいない。
 だが彼らは、すでに「独占資本の支配」から、「帝国主義」を切りはなすことに「成功」している。よってここに平和革命の展望がひらけるのである。
 社青同の新しい綱領は次のように断定する。
 「現在の日本では、強大な組織的な力、すなわち、社会党を中心とする強固な中核と、反独占統一戦線による数千万の国民の政治的統一をもって、社会主義革命を実現することができます。武器の力では、独占資本の権力を倒すのは不可能です。このことを科学的社会主義の理論が教えています。」
 科学的社会主義が、どんなふうにそれを教えているのかという説明は、一行もない。ないはずである。マルクス・レーニン主義には暴力革命が不可能だという理諭は、どこにもないのである。この点では、同じ社会主義協会派でありながら、向坂天皇のもとから逃げ出した“太田派”の最近の説明を紹介してみるのも面白い。彼らは向坂教授にどなられなくてすむぶんだけ、正直になった。
 「マルクスとエンゲルスは、資本主義から共産主義への移行は、資本主義社会の被支配者であるプロレタリアをまず解放しなくてはならない。それも・、学者や金持の善意によってでなく、自らの組織された力によって、暴力的に。この闘いには妥協がないことを明らかにしたわけです。」
 「もし、資本家階級の番犬として動員される無知な自衛隊員や警察官に、労働者階級としての良心を呼びおこすことができるならば広範な大衆の信頼をえて、敵階級の暴力装置を不発のまま、社会主義政権へ移行できるかも知れません。この平和移行は階級闘争における最も望ましい方法であって、これを実施するには、労働者階級の側に、質量とも優れた革命の集団がなければなりません。決して国会議員が増えた程度のことで実現するものではありません。」(社青同全国協議会「加盟の手びき」)
 事実にたいしていくらか正直であろうという姿勢をとり戻した太田派の立場は、警察官にまで労働者階級の良心を期待する「平和革命願望論」になってしまった。これはこれで笑うべき議論であるが、向坂派社青同の綱領の立場は、誤解の余地のない「暴力革命不可能=平和革命不可避論」である。
 この絶対平和革命論の唯一の欠点は、その正しさが、けっして証明されないことである。論証されない命題は、理論たり得ない。
 「武器の力」で革命は不可能だと主張して暴力革命派に一撃を加えたつもりになっているらしいが、だいたい、暴力革命の理論は、「武器の力」で革命を起すなどという粗雑な主張なのではなく、労働者階級の武装した団結の力で、敵権力の武装を解除する理論なのである。「武装」とは、人間=プロレタリアートが武器をもつことであり、主体はあくまでも血の通った人間=プロレタリアートである。それも、敵を打ち倒すためには死をも恐れないほどの政治的自覚と決意を固めた幾百万のプロレタリアートである。不退転の意志を実現する手段として武器を手にし、自らを一個の軍隊へ結合する幾百万のプロレタリア大衆のまさに組織的な力で、歯まで武装した敵権力の暴力装置を包囲し、解体するたたかいによって、プロレタリア独裁権力をうちたてようとするのが暴力革命論であって、これ以外に敵階級の「暴力装置を不発」ならしめる方法はないのである。
 ところがわが向坂社青同は、暴力革命論を「唯武器論」にすりかえるという、ブルジョア・イデオローグの常套手段であるペテンを使って、その絶対平和革命論の唯一の「論証」に置きかえ、さすがにこれだけでは心もとないので、「科学的社会主義が教えている」などと、もうひとつのウソを重ねておいて、すばやくこのやっかいな問題から立ち去ろうとするわけである。
 だが、向坂派のこうしたまやかしの本当の政治的意図が、太田派の説明を待つまでもなく、幾百万のプロレタリアートの直接的な政治行動・武装した団結を、たかだか数百人の国会議員の議会内かけひきによって代行させようというところにあることは、明らかである。数百人の議員諸君が、ブルジョアジーのおぜん立てする演壇の上から、敵権力の「良心」を呼び覚まそうとかきくどく説教の力によって革命が起るのか、政治的決意を最高の水準にまで高めた、すなわち武装した団結をかちとった幾百万のプロレタリアートの組織的なたたかいによって革命が起るのか、本当の対立はここにある。
 (V)新綱領の第三の特徴は、社会党の指導に服することを絶対条件にもち出した点である。「日本社会党を先頭とする反独占統一戦線の一翼をになぅ」と綱領は言う。だが、反独占統一戦線どころか、いかなる大衆闘争においてもおよそ「先頭」に立ったことがないというのが、日本社会党の歴史であり、現実ではなかったか。この党のいちじるしい特徴は、大衆闘争の先頭に立つ点でのきわだった無能さと、それに対照的な「反映する」能力にある。この党は、大衆が闘争を通じて生み出していく新しい意識、新しい自覚を、おくれて「反映する」ことで今日まで生きのびてきたのである。
 だが、綱領は、日本社会党を先頭とする反独占統一戦線なるものを、既成の現実であるかのように語る。これもまたペテンである。旧綱領はこの点では正直であった。旧綱領主文では社会党との関係は明示せず、その説明のなかでわざわざ「支持・協力の関係」と、ことさら対等のよそおいでふれただけである。だがそのことの裏側には、社会党が未だ真実の革命党ではないこと、社会党を真実の革命党に成長させていくための「協力」であること、だからその期待が裏切られた場合には、わが道を別個に探る可能性もあるのだという言外の意味をふくめることで、反逆の精神にみちた戦闘的青年大衆を社青同の隊列にむかえ入れることができたのである。六〇年の頃からくらべて社会党には本質的な成長がなにひとつない。大衆闘争の先頭に立つ点での無能さはいささかも改善されず、「反映する」能力においてはむしろ急速に衰えた。官僚主義的な老化が進行する社会党に青年達の忠誠心を要求するこの綱領のこっけいさは、「年寄りのナントヤラ」を想像させる。この綱領のもとで生きた青年の組織をつくろうとこころみるのは、枯木に花を咲かせるよりもむづかしいであろう。
 (W)そこで新綱領は、青年達が老人を尊敬するようにしむけなければならないと気づくわけである。社青同の任務を「学習」に限定したつえで、屋上屋を架す「道徳条項」をつけ加える。いわく、「社会主義者にふさわしい生活態度」「いつでも組織の一員としての自覚」と。国(協会派)に忠、親(向坂家父長)に学、そして先輩(中央常任委員会)には尊敬を!
 「学習は想起である」とは、マルクスがへーゲルから学んだ思想である。マルクス主義は、プロレタリア自身の生活=たたかいの総括であり、だからこそ未来を創造する指針たりうるのである。学習を通じてわれわれの前に示されるすべての真理は、われわれの生活=たたかいのなかにすでに隠されていた真実を、意織的な自覚の場にとり出したものである。だからたとえば「資本論」(向坂氏の権威と資本論の関係は、キツネとトラのようである)のようなむずかしい著作が、労働者の愛読書にもなりうるのである。労働者の生活=たたかい、つまり感性的な現実こそ、真理の源泉である。
 「われわれは、現実の運動からも、敵の動きからも様々に学ぶことができる。しかし科学を日々の生活の体験の総活に置き換えることはできない。理論は、徹頭徹尾学ぶことによってしか、身につけることはできない。この点では、われわれの活動は、まだ非常に大きな欠陥をもっている。『学ぶ』ことよりも、『感じる』『思う』ことが先行しており、それがよく調査された事実によってうらづけられていない。」(社青同第一二回大会方針)
 まさに、実践と学習は分離されている。「科学」という魔法のツエを、わが社青同同盟員は、「徹頭徹尾学ぶ」ことで与えられる。このツエをもっていないと、現実という曲りくねった細道を、歩くことができないと思い込まされている。だが、彼らに一つの忠告を与えよう。諸君が道を踏みはずすまいとして、ツエにすがりつく前に、まず諸君の目をおおっているその目かくしをはずしたまえ。自分の健康な両眼で、前途にひらけている大道(それはかならずしも平担ではないかもしれないが)をたしかめ、まず思いきって、自分の両足で駆け出したまえ。光がどこから射してくるか、若い君に感じられないはずがない。地図は走りながら見るが良い。ツエはくらやみにさしかかったときにたよれば良い。それが、青年というものではないか。
 日々の生活=人間と自然の歴史の総括でないような科学は、科学ではなくドグマである。感じる、思うことが先行しないような人間は、ユーレイである。ドグマをかかえこんだユーレイに、どうして敵に肉迫するたたかいがなしえようか。青年の「沸きたち、沸きかえり、探求する」 (レーニン)実践と理論の活動が遂行できるだろうか。
 青年から青年であることの強さを去勢し、労働者の感性的現実を取り除いた「科学的社会主義」を注入する――これが向坂教授好みの「期待される青年像」なのである。これが社青同の学習主義であり、こうして、青年達を日本社会党の安心できる「孝行息子」の群に訓育する道が開けるのである。
 (X)こうしてこの綱領は、青年大衆にたいして一本のせまいラセン階段を提供する。このラセン階段は前へむかって進むわけではない。ただ、グルグルと同じ地点で、「上」にのぼっていくだけである。
 こうした作業は、外見いかに強固によそおっても、その実あまりにもむなしく、もろいものである。外にひらける広大な世界、そこで展開されている雄大で荒々しいたたかいに目をむけたとたん、この作業のつまらなさに誰でも気がつき、気の早いものは階段の途中から飛び出そうとするだろう。だから設計者としては、のぼり始める前にきびしく念を押しておかなければならない。他に道はないのだ、外を見てはならないのだ、と。
 新綱領には、「社青同の歴史」の一項がつけ加えられた。協会向坂派以外の全潮流をあらかじめ否認しないかぎり、社青同に加盟できないような踏み絵が、そこに書かれている。社会民主主義の名にふさわしくないスターリン的なセクト主義が、綱領の新しい特徴の一つである。資本主義とたたかう決意だけでは不十分で、協会向坂派という一つの分派に加盟する決意がなければ、加盟の資格が与えられない。
 このセクト主義は、社会党総体のなかでも不協和者としてひびく。社青同が自ら社会党の孝行息子であると宣言しても、社会党のなかでそれを信じるのは協会向坂派だけである。社会党内部の対立が、社青同の拡大とともにふかまっていくだろう。

 以上が、新しい綱領が新しくつけ加えた特徴である。新綱領と旧綱領の間には、明白な断絶がある。われわれはすでに、六〇年代を生きた社青同と今日の社青同が歴史的経過において別のものであることを見た。いま、そのことは綱領の検討によって確認された。
 そこでこの新しい綱領のもとで、社青同がどのような運動を展開し、どのような組織をつくろうとし、やがてどのような運命をたどろうとしているのかを考えていくことにしよう。

 2 社青同の運動

 社青同の運動の特徴は、次のようなところにある。
 まずそれは、労働組合の活動家としての運動である。社会主義の意識から、活動の場としての労働組合運動に参加していくのではなくて、労働組合のなかから社会主義にむけて成長していく場に、社青同がなる。
 労働組合運動にたいする指導的役割は、まず社会党に、それから労働組合自身の指導者に与えられ、社青同がひきうけるのは、労働組合内部の学習部の役割である。
 「青年同盟は青年労働者の経済的要求をひきだし、経済闘争の機関である労働組合と協力し、その指導下にあって要求解決に行動しなければならない。」(篠藤光行「社青同と民青」)
 「青年同盟の任務は『学ぶ』ことにある。青年同盟は、社会主義者の学校である。これ以外の目的のためだったら、青年同盟はなくてもよい。労働組合青年部か、社会主義政党でやるべきことなのだ。労働組合の運動から何らかの理由で逃げだして、青年同盟単独でなんでもやろうとする場合が過去にはあった。労働組合が『いくらかの反動性』を強めるときには、これからもこういう傾向が起こりうる。しかし、これはまちがいである。青年同盟の独自の活動は、基本的に、『学ぶ』ためのものにかぎられる。」(盛山・山崎「青年運動」)
 社青同が、労働組合の学習部の役割しか果そうとしていないという指摘が、誹謗でも、中傷でもないことは、彼ら自身の言葉から、おわかりいただけると思う。そこでつぎに彼らがなにを「学ぶ」のかを、見ておかなければならない。むろん、そのことについても、彼ら自身による規定がある。
 「以上のこと(改良闘争の成果は団結以外にないということ)からでてくる結論は、改良闘争は、どれだけ力んで、『戦闘的』『階級的』にたたかっても、言葉だけでなく、実際この言葉にふさわしくたたかっても、しかしやっぱり防衛戦だということである。われわれは首根っ子をおさえられたまま、あばれている。あるいはしずみかかった船の、船底の穴をふさげずに、ただ水をかいだすためにたたかっている。
 改良闘争の意義は、ひろがっていく団結である。しかしこの団結を、どこを向いてきずくか。どうしたらひろげきるのか。そこに飛躍が必要である。経済学の学習がこの飛躍の条件である。そしてここで、われわれは、社会主義運動をはじめるのである。」(同・右)
 こうして、社青同は「飛躍」して、社会主義運動に到達するのであるが、経済闘争では労働組合指導部が監視の眼を光らせていたように、社会主義運動でも、社会主義政党がまちかまえていることは、もちろんである。社青同がやる社会主義運動は、したがって、社会主義政党=日本社会党の運動を「学ぶ」ことなのである。それには、選挙が一番適当だ、とわが社青同は考える。この考えは、まったく正しい。社会党を学ぶために、選挙ほどふさわしい運動を他に思いつけるはずがない。社青同の運動の中心は、そこで、青年選対運動だ、ということになるのである。
 以上のべたことが社青同運動のすべてである。それが実際にどのように展開されているかを、少し長くなるけれども、彼ら自身からもう一度聞いてみることにしよう。
 「昭和四九年七月の参議院選挙では、全国約六五〇地区での青年選対運動がとりくまれ、約三〇万名の青年が社会党勝利の運動に結集した。この青年選対は昭和四七年の衆議院選挙のときにくらべて約三倍の規模に達した。社会党、総評、社青同の三者によって提唱された青年の統一闘争が、これほどまでに爆発的な統一闘争の力を発揮したことは、いままでにかつてなかったことであった。……
 その統一闘争のなかでは、二つの特徴が見いだされた。第一は、活溌な学習活動であり、第二は、独占資本によって奪われる生命と権利の実態を、職場、地域、学園をこえて交流することであった。このような職場、地域、学園をこえた現実の鋭い暴露こそ、青年が社会党勝利をめざさなければならないということの最も有効な意志統一をつくりだしていったのである。……
――福島県喜多方の昭和電工は三月四日、『石油危機』を口実に電解部門の閉鎖と、六〇名の労働者の千葉への配転を提案してきた。当初、盛り上らなかった配転反対闘争も、昭和電工労組青年部、社会党青対、社青同、地区労青年部の四者共闘ができて、配転される組合員の実態が具体的に調査されるなかで、非人間的な資本のやり方に怒りがわきおこっていった。
 その中心メンバーの一人は、『本当にそこにはギリギリの階級対立というか、よく私たちは合理化絶対反対というわけですが、理論的にはそうですが、本当に事実をつかんだら絶対反対以外にはない、ということが明らかになったわけです』とのべている。たとえばEさんは四人家族で、同居している両親は病気で、自分たちだけでは生活さえできないことがわかった。また、間もなく結婚予定の青年もいた。みんな、そうした生活の苦労をかかえながら立ち上がっているのであった。
 このような実態を四者共闘会議は、地域の労働者に訴えはじめた。S食品は、組合活動もゼロに等しい職場だけど、ビラまきには朝七時からでてきて協力した。
 『(彼らは)私の職場でもこの訴えをぜひききたいというんです。同盟員の方が驚いたくらいです。S食品はカン詰工場なんですが、最盛期の七、八月は一ヵ月に一日の休みもないほど働かされる。冬になると吹雪が工場のなかまで舞込んでくる。地面は水びたしで凍りつくので居心地がわるい。体が疲れきって酒をのまないと仕事ができないといって婦人たちがガブガブ酒をのむそうです。オルグに行った仲間が驚いたわけで、俺のところも同じだということで、組合活動のイロハもない職場の仲間が怒りにもえて立ち上がって来たわけです。毎日まいにち、朝の七時からです。三・八の総決起集会では、右腕を切断された若妻の問題も報告されて、昭篭の職場の問題は昭電だけじゃない、俺たちの問題だということが、集会のなかで集約されていったわけです。』
 このような交流と行動は、地域の労働者どうしの連帯感を作りだしていき、たたかいは地区全体にひろがっていった。このなかで、ついに昭電資本は四月一日に、最後まで配転を拒否した四名の仲間の配転を撤回せざるをえなかった。
 このたたかいのなかでつくりだされた団結は、引きつづいてたたかわれた市長選挙に対する青年選対運動に引きつがれていった。そのなかで、ますます地域の労働者の実態がほり下げられていった。……
 たしかに、地区の労働者すべてが、まだ十分に社会党の平和革命路線を学習したわけではないであろう。しかし社会党や社青同と労働組合がしっかりと結びつき、独占資本とたたかう以外には、自分たちの生活さえ守れないということは、多くの労働者に確認されていった。そのなかで、社会党に結集する条件をつくりだしているのである。」(同・右)
 社青同の運動はまず、労働者相互の、職場どうしの、実態の交流ではじまる。彼らのいう防衛戦の実態、労働者が、どれほど苦しく、まずしく、みじめな現実のなかで、どれほどひどい、非人間的な攻撃に抗して、自分の生命とくらしを守るためにたたかわねばならないか、たたかっているのかという実態が、交流され、報告されると、青年達は、一つの同じため息をついて、「どこも、おなじなのだなあ!」という。そこで目的意織的活動家集団(?)であるわが社主月同の同志が立ち上がって、「そうなのだ、だから俺たちは団結してたたかおうではないか、市長選を、参議院選挙を!」と提案し、その確信にみちた眼差しを、はるか東京は三宅坂・社会党本部の方向にむけてじっと注ぐのである。だが、このままでは、問題と結論のあいだには、「飛躍」がある。この「飛躍」を埋めるのが彼らの学習――経済学を学ぶことなのである。
 このような社青同運動は、反動的であるとは言えないまでも、社会主義革命の勝利にむかって青年達を前進させる力を、すこしも持っていない。
 第一に、彼らは、青年の戦闘的なエネルギーにいささかも依拠しない。青年の弱さ、労働者のみじめな現実を「共有」し合うところで、団結ということを語り、つくり上げようとするだけである。
 彼らは「いまやもっともみじめで、もっとも追いつめられているのは、帝国主義の側であり、日本資本主義そのものなのだと大局的な確信をもっていないのである。改良闘争は、いくらがんばっても防衛戦にすぎないと彼らは言う。改良闘争は防衛戦であるという規定は、資本主義はつねに攻勢であるということと同じ意味であって、明白な誤りであるばかりか、笑うべき憶病を表わしている。
 改良闘争がつねに防衛であるとしたら、改良闘争はどのようにして革命につながっていくのであろうか。革命は巨大な攻勢であり、改良闘争は自らを攻勢の局面に移行させることを通じて、革命に飛躍していくのである。
 社青同の諸君は、改良闘争、つまりは労働組合運動は、つねに防衛でなければならないと思い込んでいるから、被害者意織の共有の場だと規定し、景気の良い、戦闘的な言葉や運動をきらう。改良闘争の発展が、資本主義の危機のなかで、生産手段の管理、没収という攻勢のたたかいへ飛躍していった無数の実例(たとえば、第二次世界大戦直後の日本にもそれはあった)を彼らはどう説明するのであろうか。第一次世界大戦のさなかに、ロシアの労働者、人民がかかげた「パン・土地・平和」の改良的要求が、帝政ロシアをブルジョアジーもろともほうむり去る偉大な攻勢のスローガンであった歴史的事実、彼らが口では敬意を払うレーニン自身に指導されたこの歴史的たたかいを、彼らはどのようにとらえるのであろうか。ももちろん、こうした歴史の真理をひもとくまでもない。今日の日本資本主義社会の破局状況は、われわれが、まさに改良闘争そのもののなかで攻勢に出るチャンスを、熟し切った果実をもぎとれというように、提供しているのである。資本の攻撃にたいしては反撃から逆攻勢へ、合理化、首切りの攻撃にたいしては、労働者管理から資本の没収へと、われわれはいま突き進まなければならない。このようなたたかいのなかにこそ、青年の戦斗的で、革命的なエネルギーが爆発するのであって、社会党勝利をかかげる選挙などでは、けっして爆発しないのである。
 第二に社青同は、政治闘争を議会主義者の下僕の活動に限定している。青年達が欲する真実の政治は、自らの精神と肉体をもって敵権力と直接にたたかい、自らの権力をつくり出すことである。労働組合や社会党のおえら方のために集票活動を手伝うことが政治活動であり、社会主義運動であるなどというのは、青年の本質に完全に敵対するものである。青年は過去に責任を負うのではなく、未来に責任を負っている。新しいものを、新しい道を通って創造していくときにこそ、青年が自己の隠されているエネルギーと能力に目ざめるときである。新しいものの最高の結論こそ、権力である。プロレタリア独裁のソビエト権力である。青年達は、自らをこの新しい権力の担い手として提供することによって、誰かに代行されるのではなく、自分自身の直接的な政治活動を完成させるのであり、今日展開されるべきさまざまの政治活動は、その結論にむかって、直接に発言し、直接に行動していくものでなければならない。
 第二に、社青同運動は労働組合主義の運動である。ここでは、青年のもっともゆたかな特徴である、人間的な理想にもえて、被抑圧、被差別人民大衆のあらゆる要求を自己の要求として共有する感性が、斥けられている。青年達は、自分の現実を賃労働者であるとするどくつかみとるだけでなく、自分の本質をまさに人間であると主張する能力をも有している世代である。賃労働者としての搾取の問題だけでなく、労働組合員としての組織の問題ばかりでなく、抑圧され、差別されるすべての人民の苦悩と闘争を、直接に自己の課題として受けとめる能力をもった世代なのである。
 この能力が、マルクス・レーニン主義の理論を自らの武器とすることを可能にする。賃労働者としての自覚だけでは、せいぜい、経済学を、しかも「国民経済学」の水準で理解することぐらいがせきの山である。いうまでもなく、マルクス・レーニン主義は単なる経済学ではなく、人間の全面的な解放に到る革命の理論でありその戦略・戦術の体系である。
 したがって青年の運動は、組織労働者の運動に限定されず、ブルジョアジーの支配によって分裂させられている被支配階級と諸階層の青年達の政治的な団結を、他の世代に先駆けてつくり出すのであり、それ故労働組合運動自体においても、多くは経験をもってはいるが貴労働者としての階級的位置により深く規定されている壮―老年の活動家で構成されている組合指導部よりも、いっそう鋭い革命的な立場と視野を持つことができる。だから、青年同盟の役割りを、労働組合の、それも青年部運動に主として限るのは誤りであり、反動的である。青年同盟は全人民的な政治運動の最先頭に立つことができるし、労働組合運動においても、労働組合の指導下に立つのではなく、逆に労働組合を全人民的政治闘争の視野から指導することを任務としなければならない、この指導が、主として労働組合の若い層にかぎられること、その限界を、労働組合の総体指導の立場から正しく位置づけ、みちびくことはもちろん必要であるが、青年同盟にたいするそうした指導は、労働組合指導者の役割ではなく、党の役割である。
 こうした青年の本質的な創造性、革命性にさからい、抑圧する社青同運動は、社会主義革命の条件が成熟すればするほど時代遅れのものとなり、遅れた政治意識を代表するものになっていかざるを得ない。われわれは先に、今日の社青同運動が反動的であるとか反革命的であるとかすぐには断定はできないとのべた。だがそのことも、情勢の許容する範囲内でのみ言えることである。革命が直接の課題となる日程にさしかかったときには、このような社青同運動は間違いなく革命に反対する部分に依拠するか、それとも自らの綱領と方針を根本的に修正してプロレタリアートの先進的な意識に依拠する方向に転換するかの選択を迫られることになる。この選択はたぶん、かびのはえた向坂教授の「教え」を歴史の博物館のくずかごに投げ捨てるかどうかの選択であろう。もし社青同のなかに青年の名に真実値いする青年達がいれば事態は簡単である。だが、盛山・山崎氏やその後輩達で埋めつくされた社青同であったならば、自らも向坂教授と共にくずかごにおもむく運命を選択する結果に終るのは、ありそうなことである。

 3 社青同の組織

 歴史のくずかごに投げすてられかねない危険に、わが社青同の指導者達が気づいていないと考えるとすれば、礼を失することになる。彼らは、六〇年代全体を通じて、いやというほどその瀬戸際に立った経験をもっている。彼らには、自分の運命に関する十分な危機意識がある。この危機意識は、彼らの組織理論に反映せざるを得ない。いうまでもなく、組織理論は「規約」として定式化されるのであるから、われわれは、社青同の新しい規約を検討するたのしみにとりかかって良いのである。
 新しい社青同規約の特徴は、主流派の位置が、二重、三重の防護壁によって、厳重に保護されていることである。
 社青同の最高指導機関は、中央委員会であることになっている。だが、この中央委員会は、「少くとも六ヶ月に一度」ひらかれることになっており(旧規約では三ヶ月に一度)日常活動における指導的役割を果せないので、そのために、中央常任委員会を互選することになっている。したがって、中央委員会の活動は事実上、中央常任委員会に代行されることになる。
 同盟員の加盟は、すべて中央委員会の確認を得なければならない。
 統制条項では、「組織の防衛上やむを得ない場合には、中央委員会が下級の組織・委員会・同盟員の処分を決めることができる」という特例条項がつけ加えられている。通常、処分に関して不服のある同盟員の異議を審査し、弁護士の機能を果す機関として、中央統制委員会が設置されるのであるが、この規約にはそれがない。そのかわり、中央監査委員会というものがあるが、これは「同盟および同盟員が綱領・規約を守っているかどうか、中央本部の業務が正しく敏速に行なわれているかどうかを点検」する検事の役目を果す。
 処分を受けた同盟員が、どこに不服申し立てを行うのかというと、中央委員会である。
 そこでこういうことになる。反対派は、いつでも、自分の所属する組織・機関をとびこえて、中央委員会によって排除されることを覚悟しなければならない。その場合、抵抗の余地はない。なぜなら、抗告して争う場所は、その処分を決定した中央委員会以外にはないからである。つまり社青同においては、加盟から追放にいたる一切の権限を、中央委員会がにぎっているのである。そしてこの中央委員会は、事実上中央常任委員会の諮問機関にすぎないのであり、中央常任委員会の独裁体制が万全にととのっていることになるのである。ひとたび中央常任委員会を掌握した主流派は、この組織の解散にいたるまでその位置を占めつづけることが保障されているわけである。
 かつては、中央執行委員会が大会で選出されることになっていた。新規約では、中央常任委員会は中央委員会の互選である。主流派にとっては、各県代表である中央委員を自派で占めることは、大会代議員の多数を制するよりもやさしい仕事である。こうして新しい社青同規約は、反対派の活動の余地を完全に奪い、一派独占を保障するねらいのもとで制定されている。
 規約上のこのような措置が、運動の面でも、受動的で、従順な青年達をつくり出し、かき集める努力を行なっていくことと合わせて、社青同を急進的で戦闘的な青年運動の攻勢的な影響から防衛し、隔離する目的に役立つのである。社青同の綱領と運動における一貫性は、こうして組織につらぬかれている。
 だが、われわれは、このような念のいった自己防衛策をほどこさなければ、自らの地位をまもれないと考えている今日の社青同指導部の姿のなかに、情勢と大衆闘争の荒々しい進撃の足音のこだまを、聞きとることができるのである。二重、三重の防護壁をめぐらさなければ、日本社会党の平和革命の綱領に青年達をつなぎとめておくことができないことを、彼らは知っているのである。綱領と運動における民主主義への狂信が、組織においてはスターリニストから借用した官僚独裁の反民主主義の運営によって支えられている。これこそ、彼らの民主主義が、ブルジョア民主主義以外の何物でもないことを告白するものではないか。ブルジョア民主主義は、警察と軍隊の力でつねに保護されている。プロレタリア民主主義は、反対派の活動の余地を奪うことによってではなく、与えることによって党派闘争に勝利する確信をもっている。

 4 社青同の未来

 社青同が果そうとする結論的役割りは、人民戦線の青年行動隊である。したがって社青同の未来は、人民戦線の未来と一体である。彼らは、ドイツ・プロレタリアートのファシズムにたいする敗北を「総活」したディミトロフの「統一戦線論」を援用して彼らの反独占統一戦線を語る。ディミトロフのコミンテルン第七回大会報告の結語に、統一戦線の一番基本的な考え方がのべられているという。
 ディミトロフはどのように言うか。
 「われわれは、階級敵にたいして闘争をおこなう目的で、もっとも広範な大衆と共通の言葉を見いだしたいと思う。革命的な前衛がプロレタリアートと他のすべての勤労人民の大衆からの孤立化を最後的に克服する道を見いだしたいし、また同時に労働者階級自身がブルジョアジーに反対し、ファシズムに反対する闘争における、その本来の同盟者からの致命的な孤立化を克服する道を見いだしたいと思う。」
 ドイツファシズムの勝利のあとで、ディミトロフは、まだこんなことを言っていたのだ。肝心なことは何ひとつ言われていない。諸階級のなかに暖かい避難場所を見つけて、孤立しないでいたい、これがディミトロフの総活なのだ。
 肝心なことは次のように提出されるべきであった。ファシズムを芽のうちにたたきつぶすプロレタリア統一戦線、具体的には共産党と社全民主党の統一戦線と、その反ファシスト武装行動隊が必要であった。だがまさにその時に、社会民主党が主敵であって、これを倒すことが先決だという救いがたいセクト主義によってファシズムの勝利に手をかしたのは、スターリンの指導するコミンテルン自身であったのだ、と。
 ドイツの敗北以後、一転して右翼に転換したコミンテルンの意を受けて、ディミトロフが語るのは、孤立を避けるために、プロレタリアートを他の諸階級のなかに溶解させてしまう「統一戦線」である。ただプロレタリアート自身の統一した、断固たるファシスト粉砕の行動だけが、その組織だけが、他の諸階級をひきつけることができるのだということを、いぜんとしてすっかり忘れ果てている。
 これが人民戦線である。孤立をさげるために小ブルジョアジー、ブルジョアジーそのものにプロレタリアートをひざまづかせ、武装解除して、今度は右翼日和見主義の立場からファシストの勝利に貢献した人民戦線路線である。
 社青同の「反独占統一戦線」もまた、人民戦線である。だが、日本人民戦線の今日の運命は、きわめて不本意なものである。
 三〇年代のヨーロッパ人民戦線は、ヨーロッパ革命の敗北、ロシア革命の孤立、そしてファシズムの勝利という、革命の退潮期に成立した。だからそこでは、「孤立を避けよ」というよわよわしい訴えにも基盤が提供された。
 現在の日本と、それをとりまくアジアは、まさに三〇年代ヨーロッパとは正反対に、革命の高揚のただなかにある。退潮しつつあるのは反革命である。情勢は、表と裏ほどにちがうのだ。
 人民戦線政府の成立は、ブルジョアジーがそれを受け入れることを前提とする。もし受け入れないとすれば、人民戦線運動は武装した反革命に直面し、敗北するか、鮮明なプロレタリア暴力革命に自らを成長させるかの二者択一をつきつけられる。革命の高揚のただなかにおいて成立する人民戦線政府は、プロレタリア独裁の引き金に手をかけざるを得ない。それゆえ、日本ブルジョアジーは、基本的に人民戦線政府を受け入れようとはしないし、仮に受け入れたとしても、武装した反革命に突撃を命ずる準備ができるまでの短い期間においてだけである。
 こうして、日本の人民戦線は、絶対に成立しえない幻想の政府をめざす運動である。ところが、人民戦線運動がやがて権力にまでたどりつきうると信じこんでいる人民戦線派は、プロレタリアートに自粛を要求し、諸階級から孤立しないようによびかけ、プロレタリアートの突出を最大限に抑制する。ここに日本人民戦線派の基本的な役割がある。彼らは現実に政府をつくる以前の段階で、おおいにブルジョアジーに貢献し、危機の情勢が完全に成熟して大衆がこの統制をいたるところでくいやぶりはじめると、ブルジョアジーの彼らにたいする信頼も失なわれていって、公然たる激突の局面が開始することになる。人民戦線派の諸君が、自らの政府を現実に期待しうると錯覚するような情勢では、事態はもう一歩先に進んでいて、プロレタリア暴力革命の幕がすでにあがりはじめているのである。
 これが日本人民戦線の運命であり、したがってその行動隊である社青同の運命である。
 日本人民戦線は、もうひとつの青年行動隊である民青をもっている。情勢の成熟が人民戦線自身の危機としてはね返ってきたとき(すでにそれははじまっているが)、その圧力は、民青よりもするどく社青同をおそうであろう。民青における官僚統制は歴史的な伝統に支えられてより強力であるが、社青同が最近になってスターリニズムから借り出した官僚統制は、間に合わせで身にぴったりと合ってはいず、革命の攻勢は彼らのスキ間だらけの防護壁を浸蝕してうち寄せるだろう。彼らの組織は多くの場合労働組合そのものに合体しており、労働者大衆の革命的エネルギーは、労働組合の太いパイプを通って彼らの統制の網に大穴をあけてしまうであろう。
 社青同の未来を予測することはけっしてむずかしいことではない。
 今日、社青同は拡大している。社会主義協会によって指導されている「まなぶ」の読者は、公称一三万人である。この拡大はどこから来ているのであろうか。
 第一の理由は、青年大衆の広汎な政治的活性化である。無関心層、脱革新現象とか呼ばれてきた青年大衆のなかに、広汎な政治的活性化が進んでいるのである。社青同が日和見主義的な組織であるとはいっても、社会主義をかかげるものである以上、こうした広汎な大衆の左にむかった政治意識の成長を基盤にしなければ拡大できるものではない。だが、もちろん大衆の広汎な左傾化がそのまま社青同の拡大に直線的にむすびつくわけではない。社青同に流れ込んでいくことは、大衆の左傾化が中途で止まるということなのである。なにが、左へつき進もうとする大衆の前に立ちふさがっているのか。
 第二の理由がここにある。それは、急進的左翼の諸セクト、いわゆる“過激派”の腐敗と堕落の現象である。とりわけ、内ゲバと“爆弾派テロリズム”の横行である。これらの活動は、左へ進もうとする大衆にたいして、未だ革命が遠い未来に属するものであると宣伝する効果をもっている。権力の支配力が、未だ強大であると大衆に警告する役割を果しているのである。
 第一の要因は第二の要因に助けられて、その歩みを中途でとめる。社青同はそこに自己の活動の場を見出している。そしてまたここに、社青同の未来がどのようなものであるかを解く姿も存在する。
 社青同の未来は決してはなばなしいものではない。社青同は社会党の孝行息子になり切った。大衆が社会党をのりこえるとき、自動的に社青同もまたのりこえられてしまう。六〇年代の社青同は、こうした状況に出会うと、「われわれは新しい革命党をつくるのだ、社会党はその素材にすぎない」という解答を用意していた。だが今日の社青同は、社会党そのものが革命の党なのだ、と断定している。もちろんわれわれは、その断定を、額面通りに受けとる必要はない。彼らのそうした規定は、社会主義協会派が党の指導権を全面的ににぎっていく展望のかぎりでなされているのである。社青同が獲得する数万の青年活動家の手で、党を組織労働者運動に根ざした組織につくりかえていくこと、この課題を間近かな目標に設定しているからこそ、彼らは社会党が革命の党であり、青年達がこの党とともに前進するのだと主張できるのである。
 だが、彼らにとっては不幸なことだが、社会主義協会派が社会党の指導権を全一的に掌握することは、実現不可能な課題である。たとえそうした事態が可能になるほど、情勢がゆっくりと進んで、恵まれたチャンスが与えられたとしても、党内の既成派閥は、協会派の全面的指導権を認めるよりは分裂をえらぶであろう。社会党という独特の組織は、一分派の覇権を絶対に承認しない体質で染め上げられている。社会党には、連合政権以外に成立できない伝統と構造が存在している。だからこそ、社会党は、日本の大衆の雑多な政治傾向を代表して、議会の第一野党の座を占めているのである。社会党は一方では民同労働運動に依拠して、組織労働者の利益を代表し、他方では地域・議会活動を通じて、広汎な未組織労働者、都市と農村の小ブルジョア大衆の利益を代表する。本質的に労働組合主義以上でも以下でもない協会派が社会党を全面的に掌握することは、社会党を支えてきた片方の足を失なうことを意味する。そうなれば、すでに社会党ではなくなるのである。
 だがいっそう確実な展望は、そうしたチャンスを協会派に与えるほどゆっくりと情勢は進まないだろうということである。大衆の戦闘化・急進化は、そしてその基盤である日本帝国主義の全般的危機の成熟は協会派と社青同の組織づくりのテンポよりも、幾百倍も早い。いかなる官僚的な防衛と保身の術策よりも情勢の成熟によってつくり出される大衆のナダレの方がはるかに強力である。こうしたナダレに直面すると、社会党内の既成の議員派閥の方がずっと敏感に反応する。協会派は、理論の力で情勢を押しとどめようとこころみる。だが議員派閥は理論を持たないだけ、情勢にのろうとする。
 こうして来るべき情勢のなかで、協会派の位置は、党内で次第に右に移行していくであろう。しかも、危機の成熟は誰よりも先に青年達をとらえる。急進化する青年達は、いかなる“誤解”の余地も残さないほど平和革命と労働組合主義で理論的にも組織的にも統制されているこの組織のなかで争うよりは、それを易々と見捨てることを選ぶであろう。つまり社青同は、急進的な青年運動から孤立するのである。六七年から七〇年にいたる青年・学生の大衆運動のなかで、彼らはみごとに孤立した。
 こうして、来るべき危機の情勢で、わが社青同とその指導分派たる協会派は、一番最初に孤立し、立ち遅れていく。これだけが、唯一の現実的な展望である。社青同の指導部諸君は、その決定的な瞬間をむか
えるまで、せいぜい組織づくりに精を出すが良い。諸君の積み上げる小石の塔を、何度目かの鬼がやってきて土台から突きくずしてしまう日は、それほど遠いわけではない。


「社会主義協会派批判」
槇 慎二

はじめに

 東大斗争がそのピークに登りつめつつあった頃、東大法研トイレに落書。「ある朝、突然革命が起った際の各派対照表」が出現した。落書の中で「民青 動転仰天、とるものもとりあえず代々木へ電話するが、何もわからないので、家財道具をまとめて家中にカギをかけ、押入にかくれる」「革マル 『俺たちがやったんではない革命は実存的でないから、人間を疎外から解放しはしない』といってカッコよく空をみあげる」等々と各派の態様が皮肉られている。闘争が深化し、拡大し、戦線に大衆が参加し、るつぼが熱く沸く中で優れた詩、歌や風刺が生み出されてくる。
 わが社会主義協会(向坂派)は、残念なことに、風刺の的にされるという栄誉に浴してはいない。これは、あの全国をゆるがした全国学園闘争――全共斗運動に彼ら協会向坂派がブラスであれマイナスであれ何の寄与もしなかったという冷厳たる事実、彼らを色濃く染めあげた体質として度しがたいまでの政治的鈍感さがあるという事実、を証明するものである。ありえないことを仮定すること自体、ナンセンスなことだが、もしも、向坂派が全国学園斗争に参加していたとしたら、彼らはたちまち、次のように皮肉られたであろう。
 協会向坂派 「反合理化斗争をくぐりぬけていないのに革命が起るはずはない。革命なんてずっとずっと先のことだ」とマルクス、レーニンの言葉で粉飾して、“総評民同の強化”を伝導しつづける。
 平和共存論によってインターナショナリズムを拒絶し、平和革命論によって議会主義にのめりこみ、社会党強化論によって党建設への日和見主義をあらわにし、実践的には「反合斗争だけ論」を展開する向坂派は、先の日本社会党批判の西山論文で明らかにしたように、いまや社会党内最大派閥にまでのしあがり、労働者人民を革命を流産させる人民戦線路線に誘いこむ役割をますます強めようとしている。日本共産党につぐ人民戦線派として登場しつつある向坂派の路線、役割を暴露し徹底的に批判を展開することは、わが革命派を労働者人民の中に確固としてうちたてるための最低の作業であろう。
 この小論では、@向坂派の母斑となる労農派マルクス主義の批判、A向坂派の路線批判、B向坂派の実践的役割の批判を展開し、彼らがいかにマルクス・レーニン主義と無縁の集団であるかを明らかにしていこう。

第一章 天皇制との斗争を放棄した合法主義
   ――協会派向坂の母斑「労農派」

 協会向坂派の源流は、労農派マルクス主義である。彼らは労農派マルクス主義を「戦前から、日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用を一貫して追求してきた……思想」(註1)と規定し、彼らの総帥たる向坂逸郎氏は労農派の中心的メンバーであった故山川均に「共産党員のデマゴギーを批判しながら、つねにマルクス、レーニンの正しい理論を持続していられた。私はこの点で山川さんの冷徹な性格に感心し、社会主義者として一段とすぐれた人であると思った」(註2)と思慕の情を隠そうとはしていない。かつて一時期、社会主義協会に席を置いた清水慎三氏ですら一九六一年の早くから労農派理論を「組織論的展開をつきつめて見ると労働組合を『組合として階級的に』強化することという答案以外に出てこない」(註3)、「労農派マルクス主義は……革命にいかにして接近してゆくのかという移行過程の組織諭と政策体系に乏しく、革命の客観的条件が熟するまでは学習会を組織し、労働組合を強化し、政治的には当面の改良的政策要求を闘うことが主張されているだけ……。マルクス主義中央派ときわめて類似したカテゴリーと見なされるべき」(註4)とカウツキー主義の一変種として批判していたにかかわらず、わが向坂派は、頑固なまでに労農派によりかかってやまない。
 向坂派が「日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用を一貫して追求してきた」と称揚してやまず、その嫡流であることを自認する労農派とは、いったいどんな集団であったのか。このことを検討することから、現在の向坂派の姿をうかがい知ることは決して無駄なことではあるまい。

 国際階級斗争に無縁な存在

 一九一七年の偉大なロシア革命は、ブルジョア世界を震憾させるとともに、全世界のプロレタリアートにかぎりない勇気と確信を与え、日本でも、大衆的反乱たる米騒動(一九一八年)を経て、一九二二年第三インターナショナル日本支部・日本共産党を結実させる。第三インター日本支部がどのような堕落と腐敗の道を辿るかは、本稿の目的ではないので一切捨象するが、労農派なる集団が、日本共産党との対抗関係の中で生み出されてきたこと、ロシア革命からの独自性の強調の中から発生したことは重要である。
 一九二二年、日本共産党の建設に参加した山川均は、早くも同年「方向転換論」を主張、少数の社会主義者の集団が、労働者の中で活動するために、労働者の組織と結びつかなければならないとして、党建設の独自的重要性を否定する日和見主義・解党主義的立場を公然とうち出した。
 一九二七年、山川らは、雑誌「労農」を発行し、この年共産党から除名されるに及んで、世に「労農派」と呼ばれる日本革命闘争史上の日和見主義的翼を形成していく。一方共産党系の学者たちも「日本資本主義発達史講座」に依って、「労農派」対「講座派」の論争が、戦前の革命闘争の中の軸となってくりひろげられる。
 講座派と労農派の対立は次のようなものであった。
 講座派と共産党は日本資本主義の政治経済の全構造におけるつよい封建制の残存を強調し、経済構造のうち特に農業面に寄生地主的土地所有下の半封建的生産関係が支配的であることをみとめ、これを物質的基礎とする絶対主義天皇制の相対的独自性と権力的ヘゲモニーを強調したものであった。ここから彼らは天皇制打倒と農業革命の遂行を軸とするブルジョア民主主義革命路線を結論づけ、ブルジョア民主主義革命を経て、社会主義革命を遂行するという段階革命論の立場に立った。一方、明治維新をブルジョア革命であったとする労農派は、日本資本主義における封建的要素を認めることに反対し、農業生産関係における封建制の残存はもはや支配的でなくなり、政治上でも天皇制は遺制化し、ブルジョアジーが全権力を握っていると主張、革命路線を帝国主義ブルジョアジー打倒の社会主義革命であると規定した。
 この両者の対立は、一見してわかるように基本的には、段階革命論の枠内におけるそれであり、永久革命の観点を完全に欠落させているのが特徴である。レーニン死後、スターリン主義に歪曲されつつあったコミンテルンと戦前の日本共産党は、大地主と商工ブルジョアジーのある部分とのブロックの手ににぎられている国家権力に対して、労働者、農民、小ブルジョアジーだけでなく、自由主義ブルジョアジーの広い層をも結集して、ブルジョア民主主義革命を達成し、その後、プロレタリア独裁を目標とするプロレタリア革命へと転化する(「日本共産党綱領草案」=一九二七年テーゼ)と規定し、これを基本的に修正し、「きたるべき日本の革命の性質は、ブルジョア民主主義的任務を広汎に包容するプロレタリア革命である」「日本プロレタリアートの当面の闘争目標は、金融資本を先頭とする天皇制のブルジョア・地主権力の転覆――プロレタリア独裁の樹立、これである」とした三一年4月の「政治テーゼ草案」も、翌三二年テーゼで「ブルジョア民主主義革命の任務の第一義性」へと振り戻されてしまうのである。この反封建=ブルジョア民主主義革命路線への労農派への批判は、段階革命論の立場に立ったものであったがために、およそ迫力を欠くものであった。
 つまり、共産党が日本の構造を半封建制・絶対主義だからブルジョア民主主義革命と主張したのに対し、労農派の批判なるものは、絶対主義ではなく資本主義だから社会主義革命だと主張したにすぎない。
 この労農派の立場は、戦後の日本共産党第七回大会から第八回大会にかけて共産党主流派を批判した構造改革派の立場に酷似するものである。一九六一年前後の構造改革派は、主流派のアメリカ帝国主義の支配と抑圧の一面協調からくる民族民主革命に対して、日本は基本的に独立をなしとげており日本は独占ブルジョアジーに支配された国だから、社会主義革命だと主張したにすぎない。すでにわれわれは、この論争に対して、「一般に『従属』国とか『独立』国とかいう規定から全然異なった戦略規定が出てくるという考えは、どこから来ているのか? それは両者の革命の間に万里の長城を築いたスターリンの図式から来ている。――第二次大戦後の実際の革命、特に中国革命の経験はこの二段階の図式を全く破産させてしまった――二段階論が破産したということは、ブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命との二つの内容が結合され、不断に発展させられる革命としてとらえられねばならぬ」(註5)と明確にトロツキーの永久革命論の正しさを論証した。
 われわれは、「独立」「従属」論争の不毛さを主張し、日本とアメリカ両帝国主義間に当然ながら強力・共同と対立の両側面が存在することの自明の事実の上に、日本の革命とはアジア社会主義革命の一環として、日本の場におけるいっさいの帝国主義の支配の環をプロレタリア独裁権力の樹立によって叩き切る事業であることを明らかにしている。
 構造改革派の立場と同様に、戦前の労農派の主張は、共産党の民主主義革命への反射的批判にすぎず、ロシア革命の歴史的教訓とは、全く無縁のしろものであった。
 周知のように、ロシア革命の全過程は、ツァーの圧制のもとでのブルジョア民主主義革命を達成し、社会主義革命へという段階的発展では決してなかったし、ましてや労農派のようにツァー体制との斗争を捨象した単純な社会主義革命ではなかった。すでに、一九〇五年の革命を総括して、一九〇六年、トロツキーは「革命は、その最初の任務についてはブルジョア革命として始まったとしても、やがて間もなく強力な階級闘争を呼びおこし、被抑圧大衆の先頭に立つことのできる唯一の階級、すなわち、プロレタリアートの手に権力が移行する場合にのみ、最後的な勝利を得ることができるであろう」(註6)と予見し、事実、十月革命はレーニンとトロツキーの党のもとで、予見が現実となったのである。ロシア革命は、革命のダイナミズムを全世界のプロレタリアートに提示し、世界革命の一環としての永久革命への発展こそが、革命の生成と発展を保障するというテーゼをわれわれに教えた。厳密にいって永久革命論の立場とはほど遠いにしても、段階革命論を越えようとしたのは日本共産党三一年テーゼであった。
 労農派の立場と路線は、ロシア十月革命の路線とも、三一年テーゼの立場とも全く無縁なものであり、スターリン支配下の日本共産党の段階革命論に対して、何ら優位性を誇りうるものでないことは明らかなことであろう。
 労農派の共産党に対する独自性は、たかだか現状分析の違いを主張するという水準を越えるものではなかった。彼らの独自性は、世界を個々のブルジョア国家の総和であるかのようにモザイク的にとらえ、個個の国家の条件の違いによってそれぞれ独自に革命は発展するという一国主義的な把握にしがみつくという誤りに裏打ちされたものにすぎなかった。
 しかしながら、労農派路線の評価を以上にとどめておくならば、彼らの歴史的役割への誇大広告であることのそしりをまぬかれることはできない。

 労農派の四つの犯罪

 わが労農派は共産党に対して優位性を誇り得ないと消極的に評価することは不充分である。彼らは、戦前の日本革命闘争において、修正主義、日和見主義、敗北主義の翼を形成したと積極的にこの犯罪性を明らかにしなければなるまい。
 第一に、彼らは天皇制との闘争、寄生地主との闘争に自らが決起しなかったばかりか、労働者人民の闘争を嘲笑し、天皇制の前にプロレタリアートを武装解除するという積極的役割を担った。三三年六月、佐野学、鍋山貞親らは革命への裏切り声明を発し、「天皇は民族的統一の中心であるから、それを攻撃するのは、労働者大衆を党からひきはなす」(註7)と広言したが、事実上、労農派の立場は、佐野、鍋山らに紙一重で接するものであった。労農派が、ことさらブルジョア権力との闘争を強調し、「反帝国主義的国民運動」(猪俣澤南雄、三一年三月)などと日和見主義路線を提起したのは、天皇制との闘争を回避することを正当化する詭弁以上を出るものではなかった。事実、彼らは「天皇制廃止」を一度も口にしようとはしなかったことによっても証明されるし、さらに、彼ら労農派も参加した戦後の社会党結成大会(一九四五年)が「天皇陛下万歳」の三唱によって飾られたことも傍証となるであろう。,
 第二に、労農派は天皇制打倒をかかげないことによって権力に媚を売り、権力に認知される合法共産党=共同戦線党づくり(それすら時の権力は容認せず、結局、これは権力に壊滅させられるが)に狂奔し、解党主義の立場を明らかにした。
 当時の労農派が革命党を建設すること自体にためらいを見せたことを山川均は、以下のように述べている。
 「現実にブルジョアジーの利害に対立した利害をもっているすべての社会層を、反ブルジョア戦線に結集する大衆的な政党を組織しなければならない。……この政党は、合法的に存在する政党でなければならない」
 「無産政党樹立以来、共同戦線的な性質をもった単一な無産政党の実現を主張した。多くの無産政党の分立した時期には、すべてこれら諸政党は、本質的に異なるところのない、単一な反ブルジョア戦線に組織されうる社会的要素から成立っているものとみて、無条件に合同する運動を推進した」(註8)。
 ここにいたって、彼ら労農派の日和見主義・中間主義は、完全に暴露される。山川の整理によれば、労農派は「一般大衆にとっては、資本主義か社会主義かの二者択一はまだ当面の現実の問題になっていない」、だから、合法政党、共同戦線党をと、主張したというのである。なるほど日本共産党のブルジョア民主主義革命に対して、労農派は社会主義革命を提起した。マルクス主義の党なしに(マルクス主義の党は必然的に世界党でなければならないが、それはさておくとしても)、あの戦前の弾圧体制のもとで体制に是認され、しかも寄せ集めの疑似党で、彼らの社会主義革命をやろうと夢想したというのである。事実は逆である。さしせまった現実的課題として社会主義革命など毛頭考えたことはなかったということを、党不要論によって自己告白していると考えなければならない。
 「大衆にとって社会主義は現実の課題になっていない」から革命党をつくらないという発想は、レーニンが「何をなすべきか」で批判した党建設の独自的重要性を認めず、大衆の自然発生性に拝跪した経済主義者と同一のものである。
 目的意識的に、革命の綱領のもとに結集した非合法の革命党の建設を拒否し、一般大衆が社会主義を当面の現実の課題とするまで、合法活動に限定するという路線は、彼らがおずおずと掲げた「社会主義革命」を永遠に彼岸化する道であり、仮に彼らが社会主義革命を本気に考えていたとしても、必然的に敗北を結果させる路線といわなければならない。
 第三に、労農派はロシア十月革命の世界史的意義に背を向け、ボルシェヴィキの闘争と路線を特殊ロシヤ的と矮小化し、自らを日本における修正主義の集団(党ではない)へと純化させてしまった。
 ボルシェヴィズムの評価について、労農派の立場を山川は「レーニン主義はマルクス主義の理論から出発し、ロシアの特異な条件に適応した実践のなかから発展させられた理論であって、……多分にロシア的性質をもつものである。……ボルシェヴィズムがマルクシズムの発展であるというのは、……マルクスの基本理論をロシア革命の特殊な条件に対応して、革命運動の実践のなかで発展させたものだという意味においてである。……わが国の社会主義運動の任務は、われわれ自身の革命的実践の理論を発見し確立することで」(註9)ある、という。
 周知のように、レーニン、トロツキーら当時のボルシェヴィキの指導者たちは、労農派が矮小化するように、特殊ロシア的理論にもとづいて、特殊ロシアの革命に勝利したのではない。ボルシェヴィズムは、世界のプロレタリアート勝利のための理論であり、勝利したロシア革命は、特殊ロシアの場において自己完結するものではなく世界革命の壮大な序曲であり、ロシア革命は世界革命の壮大な舞台の中でのみ、生命力をもち発展するものであった。ロシア革命が、ひとりロシアのプロレタリアート、農民、兵士の未来を決めたのみならず、全世界のプロレタリアート、農民、兵士の(そして同時にブルジョアジーをも)辿るべき道を決めたという点において、ロシア革命は世界史的な偉業であり、ボルシェヴィズムは闘う全世界プロレタリアートの闘いの指針であり、共通の財産であるということは言を俟たない。実に、ロシア十月革命は、全世界の革命的プロレタリアートに次のことを提示した。
 「大衆が意識にめざめた一切の国々では労働者、兵士、農民の代表者ソヴィエトが設立し続けられるであろう。ソヴィエトを強化し、彼らの権威を高め、これをブルジョアジーの国家機関に対立させる――これこそ今日、万国の階級意識ある正直な労働者の最も重要な任務である。……ソヴィエトが労働者の大多数を糾合しうる一切の国では、労働者階級はソヴィエトを通じて最も確実にかつ容易に、権力に到達しうるであろう。権力を奪取した労働者階級はソヴィエトを通じて、現在ロシアで行なわれているように、経済的および文化的生活の全局面を管理するであろう」 (註10)。
 ロシア革命は、「毎年、日和見主義者のために汚されていた社会主義的信条を、その本源たるマルクス主義に還元するための大革命、古いブルジョア世界に代って道義的および知識的文化とひとしく、政治的、経済的、および社会的生活の団体的または個人的な物質面においても、新共産主義秩序を創造するため」(註11)の大革命だったのである。
 だが、労農派は新秩序の創造に参加しなかったばかりか、ロシア革命を特殊ロシアの革命に矮小化し、ボルシェヴィズムを特殊な革命理論だと強弁してしまった。
 このことによってさらに彼らは、「一、労働者階級の広範な大衆に、新プロレタリア民主主義(=ソヴィエト民主主義―筆者)がブルジョア民主主義と議会主義とに代らねばならぬ、実際的意義を説明すること。二、産業の全部門、陸海軍、および農業労働者と小農民との間にも、労働者評議会を拡大しかつ樹立すること。三、評議会内に確信的、意識的な共産主義多数派を獲得すること」 (註12)という革命の勝利のための具体的、実践的闘争から完全に逃亡し、社会主義への暫進的推移のための穏健な実践を労働者に訴えつづける日和見集団であることを自己暴露したのである。
 したがって、第四に第三インターナショナル(=コミンテルン)についても、労農派は徹頭徹尾、日和見主義であり、一国主義的対応をとった。
 「条件を異にするそれぞれの国の社会主義革命は、その国の土壌に根ざして発生し成長した社会主義運動の自主的な行動により、その責任において達成されるべきものであって、世界の一中心から指導されるべきものではない。社会主義運動の国際主義は、単一な世界党というかたちで実践されるものではなく、自主性をもった各国の社会主義運動の緊密な国際的協力によって成り立つべきものである」 (註13)。
 ボルシェヴィズムに対して日和見的評価を下した労農派は、インターナショナルに対して、反動的態度をあらわにし、ボルシェヴィズムが基軸になってインターナショナルが再建されたその矢先に、第三インターを民族共産党の単なる寄せ集めにすることを主張した。もともと、世界革命=永久革命の立場に立ちえない彼らにしてみれば、「プロレタリア独裁のための闘いは、この政綱を採用する全共産主義分子の統一にあり、断乎たる国際的組織を必要とする」(註14)と高らかに宣言されたように、世界党の建設こそが革命の勝利のために不可欠の条件であることを理解できないのはけだし当然であった。世界党建設に前進を開始した全世界の革命的プロレタリアートの闘争に対して、あろうことか、「労働者運動の重力中心はまったく国民的土壌の上にとどまり、国民的産業の上に建設されかつ国民的議会主義の範囲内に局限された民族国家の枠内に、まったくとどまっていた」(註15)第二インター、しかも、第一次大戦によってブルジョア補助機関に堕落してしまっていた姿があばかれ死を宣告された第二インターに戻ることを労農派は主張したのである。彼らには、「いわゆる国民的利害を国際革命の利害に従属させるこのインターナショナルは、諸国のプロレタリアートの相互扶助を具体化するものであろう。なぜなら、経済的およびその他の相互扶助なくしては、プロレタリアートは新社会を組織すべき位置にないからである」(註16)というインターナショナリズムは一カケラも見出すことはできない。
 「世界の一中心から指導される」という言葉の中に、インターナショナルに対する労農派の水準がいかんなく暴露されている。それは、各国プロレタリアートは自らの闘争に勝利するためにも、不断にインターナショナル建設に能動的、主体的に参加することが共通の責務であることを全く理解していないこと、さらに、第三インターの歪曲と官僚化に抗して、トロツキーを先頭とする左翼反対派の闘争があったことについて何一つ知らなかったことを示している。いったい第三インター内の論争に示される国際共産主義運動の歴史を知らない共産主義者が存在しうると労農派は本気に考えていたのであろうか。(このことは、現在の協会向坂派が、スターリニズムの犯罪性について全く無自覚で「モスクワの声」の役割を果していることと決して無関係ではない)。

 実に、向坂氏とわが協会派が「日本におけるマルクス・レーニン主義の適用を一貫して追求してきた」と最大級の讃辞を送る労農派の正体は以上のようなものであった。ブルジョア社会において、賃労働と資本の非和解的対立を基礎に、ブルジョアジーとプロレタリアートとの抜きさしならぬ対立があり、これは革命によってしか止揚できない、というごく当然のことを理解した以外に、どこでマルクス・レーニン主義と共通するものがあるのかと疑問に思う。
 「……における」「……の適用」の言いまわしは、中間主義、日和見主義共通の用語だが、いずれにしても、以上のような労農派路線をマルクス・レーニン主義と称揚してやまないことに彼ら協会向坂派の本質が明らかにされていると考えなければなるまい。協会向坂派の誇大宣伝にかかわらず、労農派は、「ロシアではプレハーノフ、ポトレソフ、ブレシコフスカヤ、ルパノヴィッチ、つぎにすこしばかり隠蔽されたかたちではツェレテリ、チェルノフ氏らの一派、ドイツではシャイデマン、レギーン、ダヴィットその他、フランスとベルギーではルノーデル、ゲード、ヴァンデルヴェルデ、イギリスではハインドマン、フェビアン派、等々」 (註17)世界中のどこにでもころがっていた日和見主義と同列の集団にすぎなかったことは明らかである。

 註1 「社会主義協会テーゼ」学習のために―「社会主義協会テーゼ」P一三九。
 註2 同上P一三九。
 註3 情水慎三「日本の社会民主主義」P七五。
 註4 同上P一一〇。
 註5 沢村義雄「レーニン主義の綱領のために」―国際革命文庫3P五五。
 註6 トロツキー「結果と展望」一九一九年のモスクワ版への序文―現代思潮社刊P六。
 註7 小山弘腱「日本資本主義論争史」上―青木文庫P二八。
 註8 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一三三〜四。
 註9 同上P一三〇。
 註10 「全世界のプロレタリアートに対する共産主義インターナショナルの宣言」
     ―「コミンテルンドキュメント」TP四六。
 註11 「万国の労働者に対する共産主義インターナショナル第一回大会のアピール」―同上P三四。
 註12 「コミンテルン第一回大会で採択されたブルジョア民主主義とプロレタリア独裁に関するアピール」
     ―同上P二四。
 註13 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一三〇〜一。
 註14 「第一回大会で可決した共産主義インターナショナル設立の決議」―「コミンテルンドキュメント」T二五。
 註15 「全世界のプロレタリアートに対する共産主義インターナショナルの宣言」―同上P四七。
 註16 「第一回大会で採択された共産主義インターナショナルの政綱」―同上P三〇。
 註17 レーニン「国家と革命」―国民文庫P一一。


「社会主義協会派批判」
槇 慎二

はじめに

 東大斗争がそのピークに登りつめつつあった頃、東大法研トイレに落書。「ある朝、突然革命が起った際の各派対照表」が出現した。落書の中で「民青 動転仰天、とるものもとりあえず代々木へ電話するが、何もわからないので、家財道具をまとめて家中にカギをかけ、押入にかくれる」「革マル 『俺たちがやったんではない革命は実存的でないから、人間を疎外から解放しはしない』といってカッコよく空をみあげる」等々と各派の態様が皮肉られている。闘争が深化し、拡大し、戦線に大衆が参加し、るつぼが熱く沸く中で優れた詩、歌や風刺が生み出されてくる。
 わが社会主義協会(向坂派)は、残念なことに、風刺の的にされるという栄誉に浴してはいない。これは、あの全国をゆるがした全国学園闘争――全共斗運動に彼ら協会向坂派がブラスであれマイナスであれ何の寄与もしなかったという冷厳たる事実、彼らを色濃く染めあげた体質として度しがたいまでの政治的鈍感さがあるという事実、を証明するものである。ありえないことを仮定すること自体、ナンセンスなことだが、もしも、向坂派が全国学園斗争に参加していたとしたら、彼らはたちまち、次のように皮肉られたであろう。
 協会向坂派 「反合理化斗争をくぐりぬけていないのに革命が起るはずはない。革命なんてずっとずっと先のことだ」とマルクス、レーニンの言葉で粉飾して、“総評民同の強化”を伝導しつづける。
 平和共存論によってインターナショナリズムを拒絶し、平和革命論によって議会主義にのめりこみ、社会党強化論によって党建設への日和見主義をあらわにし、実践的には「反合斗争だけ論」を展開する向坂派は、先の日本社会党批判の西山論文で明らかにしたように、いまや社会党内最大派閥にまでのしあがり、労働者人民を革命を流産させる人民戦線路線に誘いこむ役割をますます強めようとしている。日本共産党につぐ人民戦線派として登場しつつある向坂派の路線、役割を暴露し徹底的に批判を展開することは、わが革命派を労働者人民の中に確固としてうちたてるための最低の作業であろう。
 この小論では、@向坂派の母斑となる労農派マルクス主義の批判、A向坂派の路線批判、B向坂派の実践的役割の批判を展開し、彼らがいかにマルクス・レーニン主義と無縁の集団であるかを明らかにしていこう。

第一章 天皇制との斗争を放棄した合法主義
   ――協会派向坂の母斑「労農派」

 協会向坂派の源流は、労農派マルクス主義である。彼らは労農派マルクス主義を「戦前から、日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用を一貫して追求してきた……思想」(註1)と規定し、彼らの総帥たる向坂逸郎氏は労農派の中心的メンバーであった故山川均に「共産党員のデマゴギーを批判しながら、つねにマルクス、レーニンの正しい理論を持続していられた。私はこの点で山川さんの冷徹な性格に感心し、社会主義者として一段とすぐれた人であると思った」(註2)と思慕の情を隠そうとはしていない。かつて一時期、社会主義協会に席を置いた清水慎三氏ですら一九六一年の早くから労農派理論を「組織論的展開をつきつめて見ると労働組合を『組合として階級的に』強化することという答案以外に出てこない」(註3)、「労農派マルクス主義は……革命にいかにして接近してゆくのかという移行過程の組織諭と政策体系に乏しく、革命の客観的条件が熟するまでは学習会を組織し、労働組合を強化し、政治的には当面の改良的政策要求を闘うことが主張されているだけ……。マルクス主義中央派ときわめて類似したカテゴリーと見なされるべき」(註4)とカウツキー主義の一変種として批判していたにかかわらず、わが向坂派は、頑固なまでに労農派によりかかってやまない。
 向坂派が「日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用を一貫して追求してきた」と称揚してやまず、その嫡流であることを自認する労農派とは、いったいどんな集団であったのか。このことを検討することから、現在の向坂派の姿をうかがい知ることは決して無駄なことではあるまい。

 国際階級斗争に無縁な存在

 一九一七年の偉大なロシア革命は、ブルジョア世界を震憾させるとともに、全世界のプロレタリアートにかぎりない勇気と確信を与え、日本でも、大衆的反乱たる米騒動(一九一八年)を経て、一九二二年第三インターナショナル日本支部・日本共産党を結実させる。第三インター日本支部がどのような堕落と腐敗の道を辿るかは、本稿の目的ではないので一切捨象するが、労農派なる集団が、日本共産党との対抗関係の中で生み出されてきたこと、ロシア革命からの独自性の強調の中から発生したことは重要である。
 一九二二年、日本共産党の建設に参加した山川均は、早くも同年「方向転換論」を主張、少数の社会主義者の集団が、労働者の中で活動するために、労働者の組織と結びつかなければならないとして、党建設の独自的重要性を否定する日和見主義・解党主義的立場を公然とうち出した。
 一九二七年、山川らは、雑誌「労農」を発行し、この年共産党から除名されるに及んで、世に「労農派」と呼ばれる日本革命闘争史上の日和見主義的翼を形成していく。一方共産党系の学者たちも「日本資本主義発達史講座」に依って、「労農派」対「講座派」の論争が、戦前の革命闘争の中の軸となってくりひろげられる。
 講座派と労農派の対立は次のようなものであった。
 講座派と共産党は日本資本主義の政治経済の全構造におけるつよい封建制の残存を強調し、経済構造のうち特に農業面に寄生地主的土地所有下の半封建的生産関係が支配的であることをみとめ、これを物質的基礎とする絶対主義天皇制の相対的独自性と権力的ヘゲモニーを強調したものであった。ここから彼らは天皇制打倒と農業革命の遂行を軸とするブルジョア民主主義革命路線を結論づけ、ブルジョア民主主義革命を経て、社会主義革命を遂行するという段階革命論の立場に立った。一方、明治維新をブルジョア革命であったとする労農派は、日本資本主義における封建的要素を認めることに反対し、農業生産関係における封建制の残存はもはや支配的でなくなり、政治上でも天皇制は遺制化し、ブルジョアジーが全権力を握っていると主張、革命路線を帝国主義ブルジョアジー打倒の社会主義革命であると規定した。
 この両者の対立は、一見してわかるように基本的には、段階革命論の枠内におけるそれであり、永久革命の観点を完全に欠落させているのが特徴である。レーニン死後、スターリン主義に歪曲されつつあったコミンテルンと戦前の日本共産党は、大地主と商工ブルジョアジーのある部分とのブロックの手ににぎられている国家権力に対して、労働者、農民、小ブルジョアジーだけでなく、自由主義ブルジョアジーの広い層をも結集して、ブルジョア民主主義革命を達成し、その後、プロレタリア独裁を目標とするプロレタリア革命へと転化する(「日本共産党綱領草案」=一九二七年テーゼ)と規定し、これを基本的に修正し、「きたるべき日本の革命の性質は、ブルジョア民主主義的任務を広汎に包容するプロレタリア革命である」「日本プロレタリアートの当面の闘争目標は、金融資本を先頭とする天皇制のブルジョア・地主権力の転覆――プロレタリア独裁の樹立、これである」とした三一年4月の「政治テーゼ草案」も、翌三二年テーゼで「ブルジョア民主主義革命の任務の第一義性」へと振り戻されてしまうのである。この反封建=ブルジョア民主主義革命路線への労農派への批判は、段階革命論の立場に立ったものであったがために、およそ迫力を欠くものであった。
 つまり、共産党が日本の構造を半封建制・絶対主義だからブルジョア民主主義革命と主張したのに対し、労農派の批判なるものは、絶対主義ではなく資本主義だから社会主義革命だと主張したにすぎない。
 この労農派の立場は、戦後の日本共産党第七回大会から第八回大会にかけて共産党主流派を批判した構造改革派の立場に酷似するものである。一九六一年前後の構造改革派は、主流派のアメリカ帝国主義の支配と抑圧の一面協調からくる民族民主革命に対して、日本は基本的に独立をなしとげており日本は独占ブルジョアジーに支配された国だから、社会主義革命だと主張したにすぎない。すでにわれわれは、この論争に対して、「一般に『従属』国とか『独立』国とかいう規定から全然異なった戦略規定が出てくるという考えは、どこから来ているのか? それは両者の革命の間に万里の長城を築いたスターリンの図式から来ている。――第二次大戦後の実際の革命、特に中国革命の経験はこの二段階の図式を全く破産させてしまった――二段階論が破産したということは、ブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命との二つの内容が結合され、不断に発展させられる革命としてとらえられねばならぬ」(註5)と明確にトロツキーの永久革命論の正しさを論証した。
 われわれは、「独立」「従属」論争の不毛さを主張し、日本とアメリカ両帝国主義間に当然ながら強力・共同と対立の両側面が存在することの自明の事実の上に、日本の革命とはアジア社会主義革命の一環として、日本の場におけるいっさいの帝国主義の支配の環をプロレタリア独裁権力の樹立によって叩き切る事業であることを明らかにしている。
 構造改革派の立場と同様に、戦前の労農派の主張は、共産党の民主主義革命への反射的批判にすぎず、ロシア革命の歴史的教訓とは、全く無縁のしろものであった。
 周知のように、ロシア革命の全過程は、ツァーの圧制のもとでのブルジョア民主主義革命を達成し、社会主義革命へという段階的発展では決してなかったし、ましてや労農派のようにツァー体制との斗争を捨象した単純な社会主義革命ではなかった。すでに、一九〇五年の革命を総括して、一九〇六年、トロツキーは「革命は、その最初の任務についてはブルジョア革命として始まったとしても、やがて間もなく強力な階級闘争を呼びおこし、被抑圧大衆の先頭に立つことのできる唯一の階級、すなわち、プロレタリアートの手に権力が移行する場合にのみ、最後的な勝利を得ることができるであろう」(註6)と予見し、事実、十月革命はレーニンとトロツキーの党のもとで、予見が現実となったのである。ロシア革命は、革命のダイナミズムを全世界のプロレタリアートに提示し、世界革命の一環としての永久革命への発展こそが、革命の生成と発展を保障するというテーゼをわれわれに教えた。厳密にいって永久革命論の立場とはほど遠いにしても、段階革命論を越えようとしたのは日本共産党三一年テーゼであった。
 労農派の立場と路線は、ロシア十月革命の路線とも、三一年テーゼの立場とも全く無縁なものであり、スターリン支配下の日本共産党の段階革命論に対して、何ら優位性を誇りうるものでないことは明らかなことであろう。
 労農派の共産党に対する独自性は、たかだか現状分析の違いを主張するという水準を越えるものではなかった。彼らの独自性は、世界を個々のブルジョア国家の総和であるかのようにモザイク的にとらえ、個個の国家の条件の違いによってそれぞれ独自に革命は発展するという一国主義的な把握にしがみつくという誤りに裏打ちされたものにすぎなかった。
 しかしながら、労農派路線の評価を以上にとどめておくならば、彼らの歴史的役割への誇大広告であることのそしりをまぬかれることはできない。

 労農派の四つの犯罪

 わが労農派は共産党に対して優位性を誇り得ないと消極的に評価することは不充分である。彼らは、戦前の日本革命闘争において、修正主義、日和見主義、敗北主義の翼を形成したと積極的にこの犯罪性を明らかにしなければなるまい。
 第一に、彼らは天皇制との闘争、寄生地主との闘争に自らが決起しなかったばかりか、労働者人民の闘争を嘲笑し、天皇制の前にプロレタリアートを武装解除するという積極的役割を担った。三三年六月、佐野学、鍋山貞親らは革命への裏切り声明を発し、「天皇は民族的統一の中心であるから、それを攻撃するのは、労働者大衆を党からひきはなす」(註7)と広言したが、事実上、労農派の立場は、佐野、鍋山らに紙一重で接するものであった。労農派が、ことさらブルジョア権力との闘争を強調し、「反帝国主義的国民運動」(猪俣澤南雄、三一年三月)などと日和見主義路線を提起したのは、天皇制との闘争を回避することを正当化する詭弁以上を出るものではなかった。事実、彼らは「天皇制廃止」を一度も口にしようとはしなかったことによっても証明されるし、さらに、彼ら労農派も参加した戦後の社会党結成大会(一九四五年)が「天皇陛下万歳」の三唱によって飾られたことも傍証となるであろう。,
 第二に、労農派は天皇制打倒をかかげないことによって権力に媚を売り、権力に認知される合法共産党=共同戦線党づくり(それすら時の権力は容認せず、結局、これは権力に壊滅させられるが)に狂奔し、解党主義の立場を明らかにした。
 当時の労農派が革命党を建設すること自体にためらいを見せたことを山川均は、以下のように述べている。
 「現実にブルジョアジーの利害に対立した利害をもっているすべての社会層を、反ブルジョア戦線に結集する大衆的な政党を組織しなければならない。……この政党は、合法的に存在する政党でなければならない」
 「無産政党樹立以来、共同戦線的な性質をもった単一な無産政党の実現を主張した。多くの無産政党の分立した時期には、すべてこれら諸政党は、本質的に異なるところのない、単一な反ブルジョア戦線に組織されうる社会的要素から成立っているものとみて、無条件に合同する運動を推進した」(註8)。
 ここにいたって、彼ら労農派の日和見主義・中間主義は、完全に暴露される。山川の整理によれば、労農派は「一般大衆にとっては、資本主義か社会主義かの二者択一はまだ当面の現実の問題になっていない」、だから、合法政党、共同戦線党をと、主張したというのである。なるほど日本共産党のブルジョア民主主義革命に対して、労農派は社会主義革命を提起した。マルクス主義の党なしに(マルクス主義の党は必然的に世界党でなければならないが、それはさておくとしても)、あの戦前の弾圧体制のもとで体制に是認され、しかも寄せ集めの疑似党で、彼らの社会主義革命をやろうと夢想したというのである。事実は逆である。さしせまった現実的課題として社会主義革命など毛頭考えたことはなかったということを、党不要論によって自己告白していると考えなければならない。
 「大衆にとって社会主義は現実の課題になっていない」から革命党をつくらないという発想は、レーニンが「何をなすべきか」で批判した党建設の独自的重要性を認めず、大衆の自然発生性に拝跪した経済主義者と同一のものである。
 目的意識的に、革命の綱領のもとに結集した非合法の革命党の建設を拒否し、一般大衆が社会主義を当面の現実の課題とするまで、合法活動に限定するという路線は、彼らがおずおずと掲げた「社会主義革命」を永遠に彼岸化する道であり、仮に彼らが社会主義革命を本気に考えていたとしても、必然的に敗北を結果させる路線といわなければならない。
 第三に、労農派はロシア十月革命の世界史的意義に背を向け、ボルシェヴィキの闘争と路線を特殊ロシヤ的と矮小化し、自らを日本における修正主義の集団(党ではない)へと純化させてしまった。
 ボルシェヴィズムの評価について、労農派の立場を山川は「レーニン主義はマルクス主義の理論から出発し、ロシアの特異な条件に適応した実践のなかから発展させられた理論であって、……多分にロシア的性質をもつものである。……ボルシェヴィズムがマルクシズムの発展であるというのは、……マルクスの基本理論をロシア革命の特殊な条件に対応して、革命運動の実践のなかで発展させたものだという意味においてである。……わが国の社会主義運動の任務は、われわれ自身の革命的実践の理論を発見し確立することで」(註9)ある、という。
 周知のように、レーニン、トロツキーら当時のボルシェヴィキの指導者たちは、労農派が矮小化するように、特殊ロシア的理論にもとづいて、特殊ロシアの革命に勝利したのではない。ボルシェヴィズムは、世界のプロレタリアート勝利のための理論であり、勝利したロシア革命は、特殊ロシアの場において自己完結するものではなく世界革命の壮大な序曲であり、ロシア革命は世界革命の壮大な舞台の中でのみ、生命力をもち発展するものであった。ロシア革命が、ひとりロシアのプロレタリアート、農民、兵士の未来を決めたのみならず、全世界のプロレタリアート、農民、兵士の(そして同時にブルジョアジーをも)辿るべき道を決めたという点において、ロシア革命は世界史的な偉業であり、ボルシェヴィズムは闘う全世界プロレタリアートの闘いの指針であり、共通の財産であるということは言を俟たない。実に、ロシア十月革命は、全世界の革命的プロレタリアートに次のことを提示した。
 「大衆が意識にめざめた一切の国々では労働者、兵士、農民の代表者ソヴィエトが設立し続けられるであろう。ソヴィエトを強化し、彼らの権威を高め、これをブルジョアジーの国家機関に対立させる――これこそ今日、万国の階級意識ある正直な労働者の最も重要な任務である。……ソヴィエトが労働者の大多数を糾合しうる一切の国では、労働者階級はソヴィエトを通じて最も確実にかつ容易に、権力に到達しうるであろう。権力を奪取した労働者階級はソヴィエトを通じて、現在ロシアで行なわれているように、経済的および文化的生活の全局面を管理するであろう」 (註10)。
 ロシア革命は、「毎年、日和見主義者のために汚されていた社会主義的信条を、その本源たるマルクス主義に還元するための大革命、古いブルジョア世界に代って道義的および知識的文化とひとしく、政治的、経済的、および社会的生活の団体的または個人的な物質面においても、新共産主義秩序を創造するため」(註11)の大革命だったのである。
 だが、労農派は新秩序の創造に参加しなかったばかりか、ロシア革命を特殊ロシアの革命に矮小化し、ボルシェヴィズムを特殊な革命理論だと強弁してしまった。
 このことによってさらに彼らは、「一、労働者階級の広範な大衆に、新プロレタリア民主主義(=ソヴィエト民主主義―筆者)がブルジョア民主主義と議会主義とに代らねばならぬ、実際的意義を説明すること。二、産業の全部門、陸海軍、および農業労働者と小農民との間にも、労働者評議会を拡大しかつ樹立すること。三、評議会内に確信的、意識的な共産主義多数派を獲得すること」 (註12)という革命の勝利のための具体的、実践的闘争から完全に逃亡し、社会主義への暫進的推移のための穏健な実践を労働者に訴えつづける日和見集団であることを自己暴露したのである。
 したがって、第四に第三インターナショナル(=コミンテルン)についても、労農派は徹頭徹尾、日和見主義であり、一国主義的対応をとった。
 「条件を異にするそれぞれの国の社会主義革命は、その国の土壌に根ざして発生し成長した社会主義運動の自主的な行動により、その責任において達成されるべきものであって、世界の一中心から指導されるべきものではない。社会主義運動の国際主義は、単一な世界党というかたちで実践されるものではなく、自主性をもった各国の社会主義運動の緊密な国際的協力によって成り立つべきものである」 (註13)。
 ボルシェヴィズムに対して日和見的評価を下した労農派は、インターナショナルに対して、反動的態度をあらわにし、ボルシェヴィズムが基軸になってインターナショナルが再建されたその矢先に、第三インターを民族共産党の単なる寄せ集めにすることを主張した。もともと、世界革命=永久革命の立場に立ちえない彼らにしてみれば、「プロレタリア独裁のための闘いは、この政綱を採用する全共産主義分子の統一にあり、断乎たる国際的組織を必要とする」(註14)と高らかに宣言されたように、世界党の建設こそが革命の勝利のために不可欠の条件であることを理解できないのはけだし当然であった。世界党建設に前進を開始した全世界の革命的プロレタリアートの闘争に対して、あろうことか、「労働者運動の重力中心はまったく国民的土壌の上にとどまり、国民的産業の上に建設されかつ国民的議会主義の範囲内に局限された民族国家の枠内に、まったくとどまっていた」(註15)第二インター、しかも、第一次大戦によってブルジョア補助機関に堕落してしまっていた姿があばかれ死を宣告された第二インターに戻ることを労農派は主張したのである。彼らには、「いわゆる国民的利害を国際革命の利害に従属させるこのインターナショナルは、諸国のプロレタリアートの相互扶助を具体化するものであろう。なぜなら、経済的およびその他の相互扶助なくしては、プロレタリアートは新社会を組織すべき位置にないからである」(註16)というインターナショナリズムは一カケラも見出すことはできない。
 「世界の一中心から指導される」という言葉の中に、インターナショナルに対する労農派の水準がいかんなく暴露されている。それは、各国プロレタリアートは自らの闘争に勝利するためにも、不断にインターナショナル建設に能動的、主体的に参加することが共通の責務であることを全く理解していないこと、さらに、第三インターの歪曲と官僚化に抗して、トロツキーを先頭とする左翼反対派の闘争があったことについて何一つ知らなかったことを示している。いったい第三インター内の論争に示される国際共産主義運動の歴史を知らない共産主義者が存在しうると労農派は本気に考えていたのであろうか。(このことは、現在の協会向坂派が、スターリニズムの犯罪性について全く無自覚で「モスクワの声」の役割を果していることと決して無関係ではない)。

 実に、向坂氏とわが協会派が「日本におけるマルクス・レーニン主義の適用を一貫して追求してきた」と最大級の讃辞を送る労農派の正体は以上のようなものであった。ブルジョア社会において、賃労働と資本の非和解的対立を基礎に、ブルジョアジーとプロレタリアートとの抜きさしならぬ対立があり、これは革命によってしか止揚できない、というごく当然のことを理解した以外に、どこでマルクス・レーニン主義と共通するものがあるのかと疑問に思う。
 「……における」「……の適用」の言いまわしは、中間主義、日和見主義共通の用語だが、いずれにしても、以上のような労農派路線をマルクス・レーニン主義と称揚してやまないことに彼ら協会向坂派の本質が明らかにされていると考えなければなるまい。協会向坂派の誇大宣伝にかかわらず、労農派は、「ロシアではプレハーノフ、ポトレソフ、ブレシコフスカヤ、ルパノヴィッチ、つぎにすこしばかり隠蔽されたかたちではツェレテリ、チェルノフ氏らの一派、ドイツではシャイデマン、レギーン、ダヴィットその他、フランスとベルギーではルノーデル、ゲード、ヴァンデルヴェルデ、イギリスではハインドマン、フェビアン派、等々」 (註17)世界中のどこにでもころがっていた日和見主義と同列の集団にすぎなかったことは明らかである。

 註1 「社会主義協会テーゼ」学習のために―「社会主義協会テーゼ」P一三九。
 註2 同上P一三九。
 註3 情水慎三「日本の社会民主主義」P七五。
 註4 同上P一一〇。
 註5 沢村義雄「レーニン主義の綱領のために」―国際革命文庫3P五五。
 註6 トロツキー「結果と展望」一九一九年のモスクワ版への序文―現代思潮社刊P六。
 註7 小山弘腱「日本資本主義論争史」上―青木文庫P二八。
 註8 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一三三〜四。
 註9 同上P一三〇。
 註10 「全世界のプロレタリアートに対する共産主義インターナショナルの宣言」
     ―「コミンテルンドキュメント」TP四六。
 註11 「万国の労働者に対する共産主義インターナショナル第一回大会のアピール」―同上P三四。
 註12 「コミンテルン第一回大会で採択されたブルジョア民主主義とプロレタリア独裁に関するアピール」
     ―同上P二四。
 註13 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一三〇〜一。
 註14 「第一回大会で可決した共産主義インターナショナル設立の決議」―「コミンテルンドキュメント」T二五。
 註15 「全世界のプロレタリアートに対する共産主義インターナショナルの宣言」―同上P四七。
 註16 「第一回大会で採択された共産主義インターナショナルの政綱」―同上P三〇。
 註17 レーニン「国家と革命」―国民文庫P一一。


「社会主義協会派批判」
槇 慎二

はじめに

 東大斗争がそのピークに登りつめつつあった頃、東大法研トイレに落書。「ある朝、突然革命が起った際の各派対照表」が出現した。落書の中で「民青 動転仰天、とるものもとりあえず代々木へ電話するが、何もわからないので、家財道具をまとめて家中にカギをかけ、押入にかくれる」「革マル 『俺たちがやったんではない革命は実存的でないから、人間を疎外から解放しはしない』といってカッコよく空をみあげる」等々と各派の態様が皮肉られている。闘争が深化し、拡大し、戦線に大衆が参加し、るつぼが熱く沸く中で優れた詩、歌や風刺が生み出されてくる。
 わが社会主義協会(向坂派)は、残念なことに、風刺の的にされるという栄誉に浴してはいない。これは、あの全国をゆるがした全国学園闘争――全共斗運動に彼ら協会向坂派がブラスであれマイナスであれ何の寄与もしなかったという冷厳たる事実、彼らを色濃く染めあげた体質として度しがたいまでの政治的鈍感さがあるという事実、を証明するものである。ありえないことを仮定すること自体、ナンセンスなことだが、もしも、向坂派が全国学園斗争に参加していたとしたら、彼らはたちまち、次のように皮肉られたであろう。
 協会向坂派 「反合理化斗争をくぐりぬけていないのに革命が起るはずはない。革命なんてずっとずっと先のことだ」とマルクス、レーニンの言葉で粉飾して、“総評民同の強化”を伝導しつづける。
 平和共存論によってインターナショナリズムを拒絶し、平和革命論によって議会主義にのめりこみ、社会党強化論によって党建設への日和見主義をあらわにし、実践的には「反合斗争だけ論」を展開する向坂派は、先の日本社会党批判の西山論文で明らかにしたように、いまや社会党内最大派閥にまでのしあがり、労働者人民を革命を流産させる人民戦線路線に誘いこむ役割をますます強めようとしている。日本共産党につぐ人民戦線派として登場しつつある向坂派の路線、役割を暴露し徹底的に批判を展開することは、わが革命派を労働者人民の中に確固としてうちたてるための最低の作業であろう。
 この小論では、@向坂派の母斑となる労農派マルクス主義の批判、A向坂派の路線批判、B向坂派の実践的役割の批判を展開し、彼らがいかにマルクス・レーニン主義と無縁の集団であるかを明らかにしていこう。

第一章 天皇制との斗争を放棄した合法主義
   ――協会派向坂の母斑「労農派」

 協会向坂派の源流は、労農派マルクス主義である。彼らは労農派マルクス主義を「戦前から、日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用を一貫して追求してきた……思想」(註1)と規定し、彼らの総帥たる向坂逸郎氏は労農派の中心的メンバーであった故山川均に「共産党員のデマゴギーを批判しながら、つねにマルクス、レーニンの正しい理論を持続していられた。私はこの点で山川さんの冷徹な性格に感心し、社会主義者として一段とすぐれた人であると思った」(註2)と思慕の情を隠そうとはしていない。かつて一時期、社会主義協会に席を置いた清水慎三氏ですら一九六一年の早くから労農派理論を「組織論的展開をつきつめて見ると労働組合を『組合として階級的に』強化することという答案以外に出てこない」(註3)、「労農派マルクス主義は……革命にいかにして接近してゆくのかという移行過程の組織諭と政策体系に乏しく、革命の客観的条件が熟するまでは学習会を組織し、労働組合を強化し、政治的には当面の改良的政策要求を闘うことが主張されているだけ……。マルクス主義中央派ときわめて類似したカテゴリーと見なされるべき」(註4)とカウツキー主義の一変種として批判していたにかかわらず、わが向坂派は、頑固なまでに労農派によりかかってやまない。
 向坂派が「日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用を一貫して追求してきた」と称揚してやまず、その嫡流であることを自認する労農派とは、いったいどんな集団であったのか。このことを検討することから、現在の向坂派の姿をうかがい知ることは決して無駄なことではあるまい。

 国際階級斗争に無縁な存在

 一九一七年の偉大なロシア革命は、ブルジョア世界を震憾させるとともに、全世界のプロレタリアートにかぎりない勇気と確信を与え、日本でも、大衆的反乱たる米騒動(一九一八年)を経て、一九二二年第三インターナショナル日本支部・日本共産党を結実させる。第三インター日本支部がどのような堕落と腐敗の道を辿るかは、本稿の目的ではないので一切捨象するが、労農派なる集団が、日本共産党との対抗関係の中で生み出されてきたこと、ロシア革命からの独自性の強調の中から発生したことは重要である。
 一九二二年、日本共産党の建設に参加した山川均は、早くも同年「方向転換論」を主張、少数の社会主義者の集団が、労働者の中で活動するために、労働者の組織と結びつかなければならないとして、党建設の独自的重要性を否定する日和見主義・解党主義的立場を公然とうち出した。
 一九二七年、山川らは、雑誌「労農」を発行し、この年共産党から除名されるに及んで、世に「労農派」と呼ばれる日本革命闘争史上の日和見主義的翼を形成していく。一方共産党系の学者たちも「日本資本主義発達史講座」に依って、「労農派」対「講座派」の論争が、戦前の革命闘争の中の軸となってくりひろげられる。
 講座派と労農派の対立は次のようなものであった。
 講座派と共産党は日本資本主義の政治経済の全構造におけるつよい封建制の残存を強調し、経済構造のうち特に農業面に寄生地主的土地所有下の半封建的生産関係が支配的であることをみとめ、これを物質的基礎とする絶対主義天皇制の相対的独自性と権力的ヘゲモニーを強調したものであった。ここから彼らは天皇制打倒と農業革命の遂行を軸とするブルジョア民主主義革命路線を結論づけ、ブルジョア民主主義革命を経て、社会主義革命を遂行するという段階革命論の立場に立った。一方、明治維新をブルジョア革命であったとする労農派は、日本資本主義における封建的要素を認めることに反対し、農業生産関係における封建制の残存はもはや支配的でなくなり、政治上でも天皇制は遺制化し、ブルジョアジーが全権力を握っていると主張、革命路線を帝国主義ブルジョアジー打倒の社会主義革命であると規定した。
 この両者の対立は、一見してわかるように基本的には、段階革命論の枠内におけるそれであり、永久革命の観点を完全に欠落させているのが特徴である。レーニン死後、スターリン主義に歪曲されつつあったコミンテルンと戦前の日本共産党は、大地主と商工ブルジョアジーのある部分とのブロックの手ににぎられている国家権力に対して、労働者、農民、小ブルジョアジーだけでなく、自由主義ブルジョアジーの広い層をも結集して、ブルジョア民主主義革命を達成し、その後、プロレタリア独裁を目標とするプロレタリア革命へと転化する(「日本共産党綱領草案」=一九二七年テーゼ)と規定し、これを基本的に修正し、「きたるべき日本の革命の性質は、ブルジョア民主主義的任務を広汎に包容するプロレタリア革命である」「日本プロレタリアートの当面の闘争目標は、金融資本を先頭とする天皇制のブルジョア・地主権力の転覆――プロレタリア独裁の樹立、これである」とした三一年4月の「政治テーゼ草案」も、翌三二年テーゼで「ブルジョア民主主義革命の任務の第一義性」へと振り戻されてしまうのである。この反封建=ブルジョア民主主義革命路線への労農派への批判は、段階革命論の立場に立ったものであったがために、およそ迫力を欠くものであった。
 つまり、共産党が日本の構造を半封建制・絶対主義だからブルジョア民主主義革命と主張したのに対し、労農派の批判なるものは、絶対主義ではなく資本主義だから社会主義革命だと主張したにすぎない。
 この労農派の立場は、戦後の日本共産党第七回大会から第八回大会にかけて共産党主流派を批判した構造改革派の立場に酷似するものである。一九六一年前後の構造改革派は、主流派のアメリカ帝国主義の支配と抑圧の一面協調からくる民族民主革命に対して、日本は基本的に独立をなしとげており日本は独占ブルジョアジーに支配された国だから、社会主義革命だと主張したにすぎない。すでにわれわれは、この論争に対して、「一般に『従属』国とか『独立』国とかいう規定から全然異なった戦略規定が出てくるという考えは、どこから来ているのか? それは両者の革命の間に万里の長城を築いたスターリンの図式から来ている。――第二次大戦後の実際の革命、特に中国革命の経験はこの二段階の図式を全く破産させてしまった――二段階論が破産したということは、ブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命との二つの内容が結合され、不断に発展させられる革命としてとらえられねばならぬ」(註5)と明確にトロツキーの永久革命論の正しさを論証した。
 われわれは、「独立」「従属」論争の不毛さを主張し、日本とアメリカ両帝国主義間に当然ながら強力・共同と対立の両側面が存在することの自明の事実の上に、日本の革命とはアジア社会主義革命の一環として、日本の場におけるいっさいの帝国主義の支配の環をプロレタリア独裁権力の樹立によって叩き切る事業であることを明らかにしている。
 構造改革派の立場と同様に、戦前の労農派の主張は、共産党の民主主義革命への反射的批判にすぎず、ロシア革命の歴史的教訓とは、全く無縁のしろものであった。
 周知のように、ロシア革命の全過程は、ツァーの圧制のもとでのブルジョア民主主義革命を達成し、社会主義革命へという段階的発展では決してなかったし、ましてや労農派のようにツァー体制との斗争を捨象した単純な社会主義革命ではなかった。すでに、一九〇五年の革命を総括して、一九〇六年、トロツキーは「革命は、その最初の任務についてはブルジョア革命として始まったとしても、やがて間もなく強力な階級闘争を呼びおこし、被抑圧大衆の先頭に立つことのできる唯一の階級、すなわち、プロレタリアートの手に権力が移行する場合にのみ、最後的な勝利を得ることができるであろう」(註6)と予見し、事実、十月革命はレーニンとトロツキーの党のもとで、予見が現実となったのである。ロシア革命は、革命のダイナミズムを全世界のプロレタリアートに提示し、世界革命の一環としての永久革命への発展こそが、革命の生成と発展を保障するというテーゼをわれわれに教えた。厳密にいって永久革命論の立場とはほど遠いにしても、段階革命論を越えようとしたのは日本共産党三一年テーゼであった。
 労農派の立場と路線は、ロシア十月革命の路線とも、三一年テーゼの立場とも全く無縁なものであり、スターリン支配下の日本共産党の段階革命論に対して、何ら優位性を誇りうるものでないことは明らかなことであろう。
 労農派の共産党に対する独自性は、たかだか現状分析の違いを主張するという水準を越えるものではなかった。彼らの独自性は、世界を個々のブルジョア国家の総和であるかのようにモザイク的にとらえ、個個の国家の条件の違いによってそれぞれ独自に革命は発展するという一国主義的な把握にしがみつくという誤りに裏打ちされたものにすぎなかった。
 しかしながら、労農派路線の評価を以上にとどめておくならば、彼らの歴史的役割への誇大広告であることのそしりをまぬかれることはできない。

 労農派の四つの犯罪

 わが労農派は共産党に対して優位性を誇り得ないと消極的に評価することは不充分である。彼らは、戦前の日本革命闘争において、修正主義、日和見主義、敗北主義の翼を形成したと積極的にこの犯罪性を明らかにしなければなるまい。
 第一に、彼らは天皇制との闘争、寄生地主との闘争に自らが決起しなかったばかりか、労働者人民の闘争を嘲笑し、天皇制の前にプロレタリアートを武装解除するという積極的役割を担った。三三年六月、佐野学、鍋山貞親らは革命への裏切り声明を発し、「天皇は民族的統一の中心であるから、それを攻撃するのは、労働者大衆を党からひきはなす」(註7)と広言したが、事実上、労農派の立場は、佐野、鍋山らに紙一重で接するものであった。労農派が、ことさらブルジョア権力との闘争を強調し、「反帝国主義的国民運動」(猪俣澤南雄、三一年三月)などと日和見主義路線を提起したのは、天皇制との闘争を回避することを正当化する詭弁以上を出るものではなかった。事実、彼らは「天皇制廃止」を一度も口にしようとはしなかったことによっても証明されるし、さらに、彼ら労農派も参加した戦後の社会党結成大会(一九四五年)が「天皇陛下万歳」の三唱によって飾られたことも傍証となるであろう。,
 第二に、労農派は天皇制打倒をかかげないことによって権力に媚を売り、権力に認知される合法共産党=共同戦線党づくり(それすら時の権力は容認せず、結局、これは権力に壊滅させられるが)に狂奔し、解党主義の立場を明らかにした。
 当時の労農派が革命党を建設すること自体にためらいを見せたことを山川均は、以下のように述べている。
 「現実にブルジョアジーの利害に対立した利害をもっているすべての社会層を、反ブルジョア戦線に結集する大衆的な政党を組織しなければならない。……この政党は、合法的に存在する政党でなければならない」
 「無産政党樹立以来、共同戦線的な性質をもった単一な無産政党の実現を主張した。多くの無産政党の分立した時期には、すべてこれら諸政党は、本質的に異なるところのない、単一な反ブルジョア戦線に組織されうる社会的要素から成立っているものとみて、無条件に合同する運動を推進した」(註8)。
 ここにいたって、彼ら労農派の日和見主義・中間主義は、完全に暴露される。山川の整理によれば、労農派は「一般大衆にとっては、資本主義か社会主義かの二者択一はまだ当面の現実の問題になっていない」、だから、合法政党、共同戦線党をと、主張したというのである。なるほど日本共産党のブルジョア民主主義革命に対して、労農派は社会主義革命を提起した。マルクス主義の党なしに(マルクス主義の党は必然的に世界党でなければならないが、それはさておくとしても)、あの戦前の弾圧体制のもとで体制に是認され、しかも寄せ集めの疑似党で、彼らの社会主義革命をやろうと夢想したというのである。事実は逆である。さしせまった現実的課題として社会主義革命など毛頭考えたことはなかったということを、党不要論によって自己告白していると考えなければならない。
 「大衆にとって社会主義は現実の課題になっていない」から革命党をつくらないという発想は、レーニンが「何をなすべきか」で批判した党建設の独自的重要性を認めず、大衆の自然発生性に拝跪した経済主義者と同一のものである。
 目的意識的に、革命の綱領のもとに結集した非合法の革命党の建設を拒否し、一般大衆が社会主義を当面の現実の課題とするまで、合法活動に限定するという路線は、彼らがおずおずと掲げた「社会主義革命」を永遠に彼岸化する道であり、仮に彼らが社会主義革命を本気に考えていたとしても、必然的に敗北を結果させる路線といわなければならない。
 第三に、労農派はロシア十月革命の世界史的意義に背を向け、ボルシェヴィキの闘争と路線を特殊ロシヤ的と矮小化し、自らを日本における修正主義の集団(党ではない)へと純化させてしまった。
 ボルシェヴィズムの評価について、労農派の立場を山川は「レーニン主義はマルクス主義の理論から出発し、ロシアの特異な条件に適応した実践のなかから発展させられた理論であって、……多分にロシア的性質をもつものである。……ボルシェヴィズムがマルクシズムの発展であるというのは、……マルクスの基本理論をロシア革命の特殊な条件に対応して、革命運動の実践のなかで発展させたものだという意味においてである。……わが国の社会主義運動の任務は、われわれ自身の革命的実践の理論を発見し確立することで」(註9)ある、という。
 周知のように、レーニン、トロツキーら当時のボルシェヴィキの指導者たちは、労農派が矮小化するように、特殊ロシア的理論にもとづいて、特殊ロシアの革命に勝利したのではない。ボルシェヴィズムは、世界のプロレタリアート勝利のための理論であり、勝利したロシア革命は、特殊ロシアの場において自己完結するものではなく世界革命の壮大な序曲であり、ロシア革命は世界革命の壮大な舞台の中でのみ、生命力をもち発展するものであった。ロシア革命が、ひとりロシアのプロレタリアート、農民、兵士の未来を決めたのみならず、全世界のプロレタリアート、農民、兵士の(そして同時にブルジョアジーをも)辿るべき道を決めたという点において、ロシア革命は世界史的な偉業であり、ボルシェヴィズムは闘う全世界プロレタリアートの闘いの指針であり、共通の財産であるということは言を俟たない。実に、ロシア十月革命は、全世界の革命的プロレタリアートに次のことを提示した。
 「大衆が意識にめざめた一切の国々では労働者、兵士、農民の代表者ソヴィエトが設立し続けられるであろう。ソヴィエトを強化し、彼らの権威を高め、これをブルジョアジーの国家機関に対立させる――これこそ今日、万国の階級意識ある正直な労働者の最も重要な任務である。……ソヴィエトが労働者の大多数を糾合しうる一切の国では、労働者階級はソヴィエトを通じて最も確実にかつ容易に、権力に到達しうるであろう。権力を奪取した労働者階級はソヴィエトを通じて、現在ロシアで行なわれているように、経済的および文化的生活の全局面を管理するであろう」 (註10)。
 ロシア革命は、「毎年、日和見主義者のために汚されていた社会主義的信条を、その本源たるマルクス主義に還元するための大革命、古いブルジョア世界に代って道義的および知識的文化とひとしく、政治的、経済的、および社会的生活の団体的または個人的な物質面においても、新共産主義秩序を創造するため」(註11)の大革命だったのである。
 だが、労農派は新秩序の創造に参加しなかったばかりか、ロシア革命を特殊ロシアの革命に矮小化し、ボルシェヴィズムを特殊な革命理論だと強弁してしまった。
 このことによってさらに彼らは、「一、労働者階級の広範な大衆に、新プロレタリア民主主義(=ソヴィエト民主主義―筆者)がブルジョア民主主義と議会主義とに代らねばならぬ、実際的意義を説明すること。二、産業の全部門、陸海軍、および農業労働者と小農民との間にも、労働者評議会を拡大しかつ樹立すること。三、評議会内に確信的、意識的な共産主義多数派を獲得すること」 (註12)という革命の勝利のための具体的、実践的闘争から完全に逃亡し、社会主義への暫進的推移のための穏健な実践を労働者に訴えつづける日和見集団であることを自己暴露したのである。
 したがって、第四に第三インターナショナル(=コミンテルン)についても、労農派は徹頭徹尾、日和見主義であり、一国主義的対応をとった。
 「条件を異にするそれぞれの国の社会主義革命は、その国の土壌に根ざして発生し成長した社会主義運動の自主的な行動により、その責任において達成されるべきものであって、世界の一中心から指導されるべきものではない。社会主義運動の国際主義は、単一な世界党というかたちで実践されるものではなく、自主性をもった各国の社会主義運動の緊密な国際的協力によって成り立つべきものである」 (註13)。
 ボルシェヴィズムに対して日和見的評価を下した労農派は、インターナショナルに対して、反動的態度をあらわにし、ボルシェヴィズムが基軸になってインターナショナルが再建されたその矢先に、第三インターを民族共産党の単なる寄せ集めにすることを主張した。もともと、世界革命=永久革命の立場に立ちえない彼らにしてみれば、「プロレタリア独裁のための闘いは、この政綱を採用する全共産主義分子の統一にあり、断乎たる国際的組織を必要とする」(註14)と高らかに宣言されたように、世界党の建設こそが革命の勝利のために不可欠の条件であることを理解できないのはけだし当然であった。世界党建設に前進を開始した全世界の革命的プロレタリアートの闘争に対して、あろうことか、「労働者運動の重力中心はまったく国民的土壌の上にとどまり、国民的産業の上に建設されかつ国民的議会主義の範囲内に局限された民族国家の枠内に、まったくとどまっていた」(註15)第二インター、しかも、第一次大戦によってブルジョア補助機関に堕落してしまっていた姿があばかれ死を宣告された第二インターに戻ることを労農派は主張したのである。彼らには、「いわゆる国民的利害を国際革命の利害に従属させるこのインターナショナルは、諸国のプロレタリアートの相互扶助を具体化するものであろう。なぜなら、経済的およびその他の相互扶助なくしては、プロレタリアートは新社会を組織すべき位置にないからである」(註16)というインターナショナリズムは一カケラも見出すことはできない。
 「世界の一中心から指導される」という言葉の中に、インターナショナルに対する労農派の水準がいかんなく暴露されている。それは、各国プロレタリアートは自らの闘争に勝利するためにも、不断にインターナショナル建設に能動的、主体的に参加することが共通の責務であることを全く理解していないこと、さらに、第三インターの歪曲と官僚化に抗して、トロツキーを先頭とする左翼反対派の闘争があったことについて何一つ知らなかったことを示している。いったい第三インター内の論争に示される国際共産主義運動の歴史を知らない共産主義者が存在しうると労農派は本気に考えていたのであろうか。(このことは、現在の協会向坂派が、スターリニズムの犯罪性について全く無自覚で「モスクワの声」の役割を果していることと決して無関係ではない)。

 実に、向坂氏とわが協会派が「日本におけるマルクス・レーニン主義の適用を一貫して追求してきた」と最大級の讃辞を送る労農派の正体は以上のようなものであった。ブルジョア社会において、賃労働と資本の非和解的対立を基礎に、ブルジョアジーとプロレタリアートとの抜きさしならぬ対立があり、これは革命によってしか止揚できない、というごく当然のことを理解した以外に、どこでマルクス・レーニン主義と共通するものがあるのかと疑問に思う。
 「……における」「……の適用」の言いまわしは、中間主義、日和見主義共通の用語だが、いずれにしても、以上のような労農派路線をマルクス・レーニン主義と称揚してやまないことに彼ら協会向坂派の本質が明らかにされていると考えなければなるまい。協会向坂派の誇大宣伝にかかわらず、労農派は、「ロシアではプレハーノフ、ポトレソフ、ブレシコフスカヤ、ルパノヴィッチ、つぎにすこしばかり隠蔽されたかたちではツェレテリ、チェルノフ氏らの一派、ドイツではシャイデマン、レギーン、ダヴィットその他、フランスとベルギーではルノーデル、ゲード、ヴァンデルヴェルデ、イギリスではハインドマン、フェビアン派、等々」 (註17)世界中のどこにでもころがっていた日和見主義と同列の集団にすぎなかったことは明らかである。

 註1 「社会主義協会テーゼ」学習のために―「社会主義協会テーゼ」P一三九。
 註2 同上P一三九。
 註3 情水慎三「日本の社会民主主義」P七五。
 註4 同上P一一〇。
 註5 沢村義雄「レーニン主義の綱領のために」―国際革命文庫3P五五。
 註6 トロツキー「結果と展望」一九一九年のモスクワ版への序文―現代思潮社刊P六。
 註7 小山弘腱「日本資本主義論争史」上―青木文庫P二八。
 註8 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一三三〜四。
 註9 同上P一三〇。
 註10 「全世界のプロレタリアートに対する共産主義インターナショナルの宣言」
     ―「コミンテルンドキュメント」TP四六。
 註11 「万国の労働者に対する共産主義インターナショナル第一回大会のアピール」―同上P三四。
 註12 「コミンテルン第一回大会で採択されたブルジョア民主主義とプロレタリア独裁に関するアピール」
     ―同上P二四。
 註13 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一三〇〜一。
 註14 「第一回大会で可決した共産主義インターナショナル設立の決議」―「コミンテルンドキュメント」T二五。
 註15 「全世界のプロレタリアートに対する共産主義インターナショナルの宣言」―同上P四七。
 註16 「第一回大会で採択された共産主義インターナショナルの政綱」―同上P三〇。
 註17 レーニン「国家と革命」―国民文庫P一一。


「社会主義協会派批判」
槇 慎二

はじめに

 東大斗争がそのピークに登りつめつつあった頃、東大法研トイレに落書。「ある朝、突然革命が起った際の各派対照表」が出現した。落書の中で「民青 動転仰天、とるものもとりあえず代々木へ電話するが、何もわからないので、家財道具をまとめて家中にカギをかけ、押入にかくれる」「革マル 『俺たちがやったんではない革命は実存的でないから、人間を疎外から解放しはしない』といってカッコよく空をみあげる」等々と各派の態様が皮肉られている。闘争が深化し、拡大し、戦線に大衆が参加し、るつぼが熱く沸く中で優れた詩、歌や風刺が生み出されてくる。
 わが社会主義協会(向坂派)は、残念なことに、風刺の的にされるという栄誉に浴してはいない。これは、あの全国をゆるがした全国学園闘争――全共斗運動に彼ら協会向坂派がブラスであれマイナスであれ何の寄与もしなかったという冷厳たる事実、彼らを色濃く染めあげた体質として度しがたいまでの政治的鈍感さがあるという事実、を証明するものである。ありえないことを仮定すること自体、ナンセンスなことだが、もしも、向坂派が全国学園斗争に参加していたとしたら、彼らはたちまち、次のように皮肉られたであろう。
 協会向坂派 「反合理化斗争をくぐりぬけていないのに革命が起るはずはない。革命なんてずっとずっと先のことだ」とマルクス、レーニンの言葉で粉飾して、“総評民同の強化”を伝導しつづける。
 平和共存論によってインターナショナリズムを拒絶し、平和革命論によって議会主義にのめりこみ、社会党強化論によって党建設への日和見主義をあらわにし、実践的には「反合斗争だけ論」を展開する向坂派は、先の日本社会党批判の西山論文で明らかにしたように、いまや社会党内最大派閥にまでのしあがり、労働者人民を革命を流産させる人民戦線路線に誘いこむ役割をますます強めようとしている。日本共産党につぐ人民戦線派として登場しつつある向坂派の路線、役割を暴露し徹底的に批判を展開することは、わが革命派を労働者人民の中に確固としてうちたてるための最低の作業であろう。
 この小論では、@向坂派の母斑となる労農派マルクス主義の批判、A向坂派の路線批判、B向坂派の実践的役割の批判を展開し、彼らがいかにマルクス・レーニン主義と無縁の集団であるかを明らかにしていこう。

第一章 天皇制との斗争を放棄した合法主義
   ――協会派向坂の母斑「労農派」

 協会向坂派の源流は、労農派マルクス主義である。彼らは労農派マルクス主義を「戦前から、日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用を一貫して追求してきた……思想」(註1)と規定し、彼らの総帥たる向坂逸郎氏は労農派の中心的メンバーであった故山川均に「共産党員のデマゴギーを批判しながら、つねにマルクス、レーニンの正しい理論を持続していられた。私はこの点で山川さんの冷徹な性格に感心し、社会主義者として一段とすぐれた人であると思った」(註2)と思慕の情を隠そうとはしていない。かつて一時期、社会主義協会に席を置いた清水慎三氏ですら一九六一年の早くから労農派理論を「組織論的展開をつきつめて見ると労働組合を『組合として階級的に』強化することという答案以外に出てこない」(註3)、「労農派マルクス主義は……革命にいかにして接近してゆくのかという移行過程の組織諭と政策体系に乏しく、革命の客観的条件が熟するまでは学習会を組織し、労働組合を強化し、政治的には当面の改良的政策要求を闘うことが主張されているだけ……。マルクス主義中央派ときわめて類似したカテゴリーと見なされるべき」(註4)とカウツキー主義の一変種として批判していたにかかわらず、わが向坂派は、頑固なまでに労農派によりかかってやまない。
 向坂派が「日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用を一貫して追求してきた」と称揚してやまず、その嫡流であることを自認する労農派とは、いったいどんな集団であったのか。このことを検討することから、現在の向坂派の姿をうかがい知ることは決して無駄なことではあるまい。

 国際階級斗争に無縁な存在

 一九一七年の偉大なロシア革命は、ブルジョア世界を震憾させるとともに、全世界のプロレタリアートにかぎりない勇気と確信を与え、日本でも、大衆的反乱たる米騒動(一九一八年)を経て、一九二二年第三インターナショナル日本支部・日本共産党を結実させる。第三インター日本支部がどのような堕落と腐敗の道を辿るかは、本稿の目的ではないので一切捨象するが、労農派なる集団が、日本共産党との対抗関係の中で生み出されてきたこと、ロシア革命からの独自性の強調の中から発生したことは重要である。
 一九二二年、日本共産党の建設に参加した山川均は、早くも同年「方向転換論」を主張、少数の社会主義者の集団が、労働者の中で活動するために、労働者の組織と結びつかなければならないとして、党建設の独自的重要性を否定する日和見主義・解党主義的立場を公然とうち出した。
 一九二七年、山川らは、雑誌「労農」を発行し、この年共産党から除名されるに及んで、世に「労農派」と呼ばれる日本革命闘争史上の日和見主義的翼を形成していく。一方共産党系の学者たちも「日本資本主義発達史講座」に依って、「労農派」対「講座派」の論争が、戦前の革命闘争の中の軸となってくりひろげられる。
 講座派と労農派の対立は次のようなものであった。
 講座派と共産党は日本資本主義の政治経済の全構造におけるつよい封建制の残存を強調し、経済構造のうち特に農業面に寄生地主的土地所有下の半封建的生産関係が支配的であることをみとめ、これを物質的基礎とする絶対主義天皇制の相対的独自性と権力的ヘゲモニーを強調したものであった。ここから彼らは天皇制打倒と農業革命の遂行を軸とするブルジョア民主主義革命路線を結論づけ、ブルジョア民主主義革命を経て、社会主義革命を遂行するという段階革命論の立場に立った。一方、明治維新をブルジョア革命であったとする労農派は、日本資本主義における封建的要素を認めることに反対し、農業生産関係における封建制の残存はもはや支配的でなくなり、政治上でも天皇制は遺制化し、ブルジョアジーが全権力を握っていると主張、革命路線を帝国主義ブルジョアジー打倒の社会主義革命であると規定した。
 この両者の対立は、一見してわかるように基本的には、段階革命論の枠内におけるそれであり、永久革命の観点を完全に欠落させているのが特徴である。レーニン死後、スターリン主義に歪曲されつつあったコミンテルンと戦前の日本共産党は、大地主と商工ブルジョアジーのある部分とのブロックの手ににぎられている国家権力に対して、労働者、農民、小ブルジョアジーだけでなく、自由主義ブルジョアジーの広い層をも結集して、ブルジョア民主主義革命を達成し、その後、プロレタリア独裁を目標とするプロレタリア革命へと転化する(「日本共産党綱領草案」=一九二七年テーゼ)と規定し、これを基本的に修正し、「きたるべき日本の革命の性質は、ブルジョア民主主義的任務を広汎に包容するプロレタリア革命である」「日本プロレタリアートの当面の闘争目標は、金融資本を先頭とする天皇制のブルジョア・地主権力の転覆――プロレタリア独裁の樹立、これである」とした三一年4月の「政治テーゼ草案」も、翌三二年テーゼで「ブルジョア民主主義革命の任務の第一義性」へと振り戻されてしまうのである。この反封建=ブルジョア民主主義革命路線への労農派への批判は、段階革命論の立場に立ったものであったがために、およそ迫力を欠くものであった。
 つまり、共産党が日本の構造を半封建制・絶対主義だからブルジョア民主主義革命と主張したのに対し、労農派の批判なるものは、絶対主義ではなく資本主義だから社会主義革命だと主張したにすぎない。
 この労農派の立場は、戦後の日本共産党第七回大会から第八回大会にかけて共産党主流派を批判した構造改革派の立場に酷似するものである。一九六一年前後の構造改革派は、主流派のアメリカ帝国主義の支配と抑圧の一面協調からくる民族民主革命に対して、日本は基本的に独立をなしとげており日本は独占ブルジョアジーに支配された国だから、社会主義革命だと主張したにすぎない。すでにわれわれは、この論争に対して、「一般に『従属』国とか『独立』国とかいう規定から全然異なった戦略規定が出てくるという考えは、どこから来ているのか? それは両者の革命の間に万里の長城を築いたスターリンの図式から来ている。――第二次大戦後の実際の革命、特に中国革命の経験はこの二段階の図式を全く破産させてしまった――二段階論が破産したということは、ブルジョア民主主義革命とプロレタリア社会主義革命との二つの内容が結合され、不断に発展させられる革命としてとらえられねばならぬ」(註5)と明確にトロツキーの永久革命論の正しさを論証した。
 われわれは、「独立」「従属」論争の不毛さを主張し、日本とアメリカ両帝国主義間に当然ながら強力・共同と対立の両側面が存在することの自明の事実の上に、日本の革命とはアジア社会主義革命の一環として、日本の場におけるいっさいの帝国主義の支配の環をプロレタリア独裁権力の樹立によって叩き切る事業であることを明らかにしている。
 構造改革派の立場と同様に、戦前の労農派の主張は、共産党の民主主義革命への反射的批判にすぎず、ロシア革命の歴史的教訓とは、全く無縁のしろものであった。
 周知のように、ロシア革命の全過程は、ツァーの圧制のもとでのブルジョア民主主義革命を達成し、社会主義革命へという段階的発展では決してなかったし、ましてや労農派のようにツァー体制との斗争を捨象した単純な社会主義革命ではなかった。すでに、一九〇五年の革命を総括して、一九〇六年、トロツキーは「革命は、その最初の任務についてはブルジョア革命として始まったとしても、やがて間もなく強力な階級闘争を呼びおこし、被抑圧大衆の先頭に立つことのできる唯一の階級、すなわち、プロレタリアートの手に権力が移行する場合にのみ、最後的な勝利を得ることができるであろう」(註6)と予見し、事実、十月革命はレーニンとトロツキーの党のもとで、予見が現実となったのである。ロシア革命は、革命のダイナミズムを全世界のプロレタリアートに提示し、世界革命の一環としての永久革命への発展こそが、革命の生成と発展を保障するというテーゼをわれわれに教えた。厳密にいって永久革命論の立場とはほど遠いにしても、段階革命論を越えようとしたのは日本共産党三一年テーゼであった。
 労農派の立場と路線は、ロシア十月革命の路線とも、三一年テーゼの立場とも全く無縁なものであり、スターリン支配下の日本共産党の段階革命論に対して、何ら優位性を誇りうるものでないことは明らかなことであろう。
 労農派の共産党に対する独自性は、たかだか現状分析の違いを主張するという水準を越えるものではなかった。彼らの独自性は、世界を個々のブルジョア国家の総和であるかのようにモザイク的にとらえ、個個の国家の条件の違いによってそれぞれ独自に革命は発展するという一国主義的な把握にしがみつくという誤りに裏打ちされたものにすぎなかった。
 しかしながら、労農派路線の評価を以上にとどめておくならば、彼らの歴史的役割への誇大広告であることのそしりをまぬかれることはできない。

 労農派の四つの犯罪

 わが労農派は共産党に対して優位性を誇り得ないと消極的に評価することは不充分である。彼らは、戦前の日本革命闘争において、修正主義、日和見主義、敗北主義の翼を形成したと積極的にこの犯罪性を明らかにしなければなるまい。
 第一に、彼らは天皇制との闘争、寄生地主との闘争に自らが決起しなかったばかりか、労働者人民の闘争を嘲笑し、天皇制の前にプロレタリアートを武装解除するという積極的役割を担った。三三年六月、佐野学、鍋山貞親らは革命への裏切り声明を発し、「天皇は民族的統一の中心であるから、それを攻撃するのは、労働者大衆を党からひきはなす」(註7)と広言したが、事実上、労農派の立場は、佐野、鍋山らに紙一重で接するものであった。労農派が、ことさらブルジョア権力との闘争を強調し、「反帝国主義的国民運動」(猪俣澤南雄、三一年三月)などと日和見主義路線を提起したのは、天皇制との闘争を回避することを正当化する詭弁以上を出るものではなかった。事実、彼らは「天皇制廃止」を一度も口にしようとはしなかったことによっても証明されるし、さらに、彼ら労農派も参加した戦後の社会党結成大会(一九四五年)が「天皇陛下万歳」の三唱によって飾られたことも傍証となるであろう。,
 第二に、労農派は天皇制打倒をかかげないことによって権力に媚を売り、権力に認知される合法共産党=共同戦線党づくり(それすら時の権力は容認せず、結局、これは権力に壊滅させられるが)に狂奔し、解党主義の立場を明らかにした。
 当時の労農派が革命党を建設すること自体にためらいを見せたことを山川均は、以下のように述べている。
 「現実にブルジョアジーの利害に対立した利害をもっているすべての社会層を、反ブルジョア戦線に結集する大衆的な政党を組織しなければならない。……この政党は、合法的に存在する政党でなければならない」
 「無産政党樹立以来、共同戦線的な性質をもった単一な無産政党の実現を主張した。多くの無産政党の分立した時期には、すべてこれら諸政党は、本質的に異なるところのない、単一な反ブルジョア戦線に組織されうる社会的要素から成立っているものとみて、無条件に合同する運動を推進した」(註8)。
 ここにいたって、彼ら労農派の日和見主義・中間主義は、完全に暴露される。山川の整理によれば、労農派は「一般大衆にとっては、資本主義か社会主義かの二者択一はまだ当面の現実の問題になっていない」、だから、合法政党、共同戦線党をと、主張したというのである。なるほど日本共産党のブルジョア民主主義革命に対して、労農派は社会主義革命を提起した。マルクス主義の党なしに(マルクス主義の党は必然的に世界党でなければならないが、それはさておくとしても)、あの戦前の弾圧体制のもとで体制に是認され、しかも寄せ集めの疑似党で、彼らの社会主義革命をやろうと夢想したというのである。事実は逆である。さしせまった現実的課題として社会主義革命など毛頭考えたことはなかったということを、党不要論によって自己告白していると考えなければならない。
 「大衆にとって社会主義は現実の課題になっていない」から革命党をつくらないという発想は、レーニンが「何をなすべきか」で批判した党建設の独自的重要性を認めず、大衆の自然発生性に拝跪した経済主義者と同一のものである。
 目的意識的に、革命の綱領のもとに結集した非合法の革命党の建設を拒否し、一般大衆が社会主義を当面の現実の課題とするまで、合法活動に限定するという路線は、彼らがおずおずと掲げた「社会主義革命」を永遠に彼岸化する道であり、仮に彼らが社会主義革命を本気に考えていたとしても、必然的に敗北を結果させる路線といわなければならない。
 第三に、労農派はロシア十月革命の世界史的意義に背を向け、ボルシェヴィキの闘争と路線を特殊ロシヤ的と矮小化し、自らを日本における修正主義の集団(党ではない)へと純化させてしまった。
 ボルシェヴィズムの評価について、労農派の立場を山川は「レーニン主義はマルクス主義の理論から出発し、ロシアの特異な条件に適応した実践のなかから発展させられた理論であって、……多分にロシア的性質をもつものである。……ボルシェヴィズムがマルクシズムの発展であるというのは、……マルクスの基本理論をロシア革命の特殊な条件に対応して、革命運動の実践のなかで発展させたものだという意味においてである。……わが国の社会主義運動の任務は、われわれ自身の革命的実践の理論を発見し確立することで」(註9)ある、という。
 周知のように、レーニン、トロツキーら当時のボルシェヴィキの指導者たちは、労農派が矮小化するように、特殊ロシア的理論にもとづいて、特殊ロシアの革命に勝利したのではない。ボルシェヴィズムは、世界のプロレタリアート勝利のための理論であり、勝利したロシア革命は、特殊ロシアの場において自己完結するものではなく世界革命の壮大な序曲であり、ロシア革命は世界革命の壮大な舞台の中でのみ、生命力をもち発展するものであった。ロシア革命が、ひとりロシアのプロレタリアート、農民、兵士の未来を決めたのみならず、全世界のプロレタリアート、農民、兵士の(そして同時にブルジョアジーをも)辿るべき道を決めたという点において、ロシア革命は世界史的な偉業であり、ボルシェヴィズムは闘う全世界プロレタリアートの闘いの指針であり、共通の財産であるということは言を俟たない。実に、ロシア十月革命は、全世界の革命的プロレタリアートに次のことを提示した。
 「大衆が意識にめざめた一切の国々では労働者、兵士、農民の代表者ソヴィエトが設立し続けられるであろう。ソヴィエトを強化し、彼らの権威を高め、これをブルジョアジーの国家機関に対立させる――これこそ今日、万国の階級意識ある正直な労働者の最も重要な任務である。……ソヴィエトが労働者の大多数を糾合しうる一切の国では、労働者階級はソヴィエトを通じて最も確実にかつ容易に、権力に到達しうるであろう。権力を奪取した労働者階級はソヴィエトを通じて、現在ロシアで行なわれているように、経済的および文化的生活の全局面を管理するであろう」 (註10)。
 ロシア革命は、「毎年、日和見主義者のために汚されていた社会主義的信条を、その本源たるマルクス主義に還元するための大革命、古いブルジョア世界に代って道義的および知識的文化とひとしく、政治的、経済的、および社会的生活の団体的または個人的な物質面においても、新共産主義秩序を創造するため」(註11)の大革命だったのである。
 だが、労農派は新秩序の創造に参加しなかったばかりか、ロシア革命を特殊ロシアの革命に矮小化し、ボルシェヴィズムを特殊な革命理論だと強弁してしまった。
 このことによってさらに彼らは、「一、労働者階級の広範な大衆に、新プロレタリア民主主義(=ソヴィエト民主主義―筆者)がブルジョア民主主義と議会主義とに代らねばならぬ、実際的意義を説明すること。二、産業の全部門、陸海軍、および農業労働者と小農民との間にも、労働者評議会を拡大しかつ樹立すること。三、評議会内に確信的、意識的な共産主義多数派を獲得すること」 (註12)という革命の勝利のための具体的、実践的闘争から完全に逃亡し、社会主義への暫進的推移のための穏健な実践を労働者に訴えつづける日和見集団であることを自己暴露したのである。
 したがって、第四に第三インターナショナル(=コミンテルン)についても、労農派は徹頭徹尾、日和見主義であり、一国主義的対応をとった。
 「条件を異にするそれぞれの国の社会主義革命は、その国の土壌に根ざして発生し成長した社会主義運動の自主的な行動により、その責任において達成されるべきものであって、世界の一中心から指導されるべきものではない。社会主義運動の国際主義は、単一な世界党というかたちで実践されるものではなく、自主性をもった各国の社会主義運動の緊密な国際的協力によって成り立つべきものである」 (註13)。
 ボルシェヴィズムに対して日和見的評価を下した労農派は、インターナショナルに対して、反動的態度をあらわにし、ボルシェヴィズムが基軸になってインターナショナルが再建されたその矢先に、第三インターを民族共産党の単なる寄せ集めにすることを主張した。もともと、世界革命=永久革命の立場に立ちえない彼らにしてみれば、「プロレタリア独裁のための闘いは、この政綱を採用する全共産主義分子の統一にあり、断乎たる国際的組織を必要とする」(註14)と高らかに宣言されたように、世界党の建設こそが革命の勝利のために不可欠の条件であることを理解できないのはけだし当然であった。世界党建設に前進を開始した全世界の革命的プロレタリアートの闘争に対して、あろうことか、「労働者運動の重力中心はまったく国民的土壌の上にとどまり、国民的産業の上に建設されかつ国民的議会主義の範囲内に局限された民族国家の枠内に、まったくとどまっていた」(註15)第二インター、しかも、第一次大戦によってブルジョア補助機関に堕落してしまっていた姿があばかれ死を宣告された第二インターに戻ることを労農派は主張したのである。彼らには、「いわゆる国民的利害を国際革命の利害に従属させるこのインターナショナルは、諸国のプロレタリアートの相互扶助を具体化するものであろう。なぜなら、経済的およびその他の相互扶助なくしては、プロレタリアートは新社会を組織すべき位置にないからである」(註16)というインターナショナリズムは一カケラも見出すことはできない。
 「世界の一中心から指導される」という言葉の中に、インターナショナルに対する労農派の水準がいかんなく暴露されている。それは、各国プロレタリアートは自らの闘争に勝利するためにも、不断にインターナショナル建設に能動的、主体的に参加することが共通の責務であることを全く理解していないこと、さらに、第三インターの歪曲と官僚化に抗して、トロツキーを先頭とする左翼反対派の闘争があったことについて何一つ知らなかったことを示している。いったい第三インター内の論争に示される国際共産主義運動の歴史を知らない共産主義者が存在しうると労農派は本気に考えていたのであろうか。(このことは、現在の協会向坂派が、スターリニズムの犯罪性について全く無自覚で「モスクワの声」の役割を果していることと決して無関係ではない)。

 実に、向坂氏とわが協会派が「日本におけるマルクス・レーニン主義の適用を一貫して追求してきた」と最大級の讃辞を送る労農派の正体は以上のようなものであった。ブルジョア社会において、賃労働と資本の非和解的対立を基礎に、ブルジョアジーとプロレタリアートとの抜きさしならぬ対立があり、これは革命によってしか止揚できない、というごく当然のことを理解した以外に、どこでマルクス・レーニン主義と共通するものがあるのかと疑問に思う。
 「……における」「……の適用」の言いまわしは、中間主義、日和見主義共通の用語だが、いずれにしても、以上のような労農派路線をマルクス・レーニン主義と称揚してやまないことに彼ら協会向坂派の本質が明らかにされていると考えなければなるまい。協会向坂派の誇大宣伝にかかわらず、労農派は、「ロシアではプレハーノフ、ポトレソフ、ブレシコフスカヤ、ルパノヴィッチ、つぎにすこしばかり隠蔽されたかたちではツェレテリ、チェルノフ氏らの一派、ドイツではシャイデマン、レギーン、ダヴィットその他、フランスとベルギーではルノーデル、ゲード、ヴァンデルヴェルデ、イギリスではハインドマン、フェビアン派、等々」 (註17)世界中のどこにでもころがっていた日和見主義と同列の集団にすぎなかったことは明らかである。

 註1 「社会主義協会テーゼ」学習のために―「社会主義協会テーゼ」P一三九。
 註2 同上P一三九。
 註3 情水慎三「日本の社会民主主義」P七五。
 註4 同上P一一〇。
 註5 沢村義雄「レーニン主義の綱領のために」―国際革命文庫3P五五。
 註6 トロツキー「結果と展望」一九一九年のモスクワ版への序文―現代思潮社刊P六。
 註7 小山弘腱「日本資本主義論争史」上―青木文庫P二八。
 註8 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一三三〜四。
 註9 同上P一三〇。
 註10 「全世界のプロレタリアートに対する共産主義インターナショナルの宣言」
     ―「コミンテルンドキュメント」TP四六。
 註11 「万国の労働者に対する共産主義インターナショナル第一回大会のアピール」―同上P三四。
 註12 「コミンテルン第一回大会で採択されたブルジョア民主主義とプロレタリア独裁に関するアピール」
     ―同上P二四。
 註13 「協会テーゼ」学習のために―「協会テーゼ」P一三〇〜一。
 註14 「第一回大会で可決した共産主義インターナショナル設立の決議」―「コミンテルンドキュメント」T二五。
 註15 「全世界のプロレタリアートに対する共産主義インターナショナルの宣言」―同上P四七。
 註16 「第一回大会で採択された共産主義インターナショナルの政綱」―同上P三〇。
 註17 レーニン「国家と革命」―国民文庫P一一。