補足1 「黒寛・大川スパイ事件」

 (最新見直し2006.10.15日)

 (れんだいこのショートメッセージ) 
 この頃、革共同の指導者の一人黒寛にまつわる胡散臭い事件が明るみにされている。「黒寛・大川スパイ事件」の重要性が見えてきたので、本サイトでより詳しく考察することにする。黒寛が後に日本左派運動に与えた諸影響を考慮すれば、この時の事件の持つ意味は大きいと考える。西京司論文集の「日本トロツキズム運動の形成」(柘植書房、1976.6.25日初版)は、冒頭のまえがきで、「黒寛・大川スパイ事件」について言及している。これを引用及び転載して事件の経過を再検証する。

 2005.9.28日 れんだいこ拝


【「黒寛・大川スパイ事件」】
 この時期「黒田―大川のスパイ事件」が露見し、これが問題となり、事実上分裂していた黒寛派の組織分裂を推進する契機となった。以下これを考察する。「黒寛・大川スパイ事件」とは次のようなものである。
 概要「大川なる者が、埼玉の民青の情報を入手できる立場を利用して、民青の情報を警察に提供することによって資金を稼いだらどうだろうか、と考えつき、大川はこのことを黒寛に相談したところ、黒寛はそれを支持した。二人は新宿の公衆電話から警視庁公安に電話し、用件を伝えた。公安の方は公衆電話の場所を聞いてすぐ行くからそこで待っていてくれと応答し、かれらはその場所でしばらく待っていた。が、“世界に冠たるマルクス主義者”である黒寛の小心によってか、大川の動揺によってか分からないが、かれらは次第につのってくる反革命的所業の罪深さを抑えることができなくなった。『おい、逃げよう!』といったのはどちらが先かは不明である。かれらは一目散にその場を逃げ出した。これが事件のてん末であるとされている事件である」。

 これにつき、「れんだいこの左往来人生学院掲示板」に2003.1.14日付「今は名を秘す」の投稿で次のように述べられている。
 「時期としては、西派、まあこれが後の第四インター日本支部になっていくわけですが、この西派と探究派は、『労働者国家無条件擁護』か、あるいは『反帝反スタ』かをめぐって、鋭い対立関係が形成され、三池闘争をめぐるスローガンをめぐっても対立は激化し、第二次分裂に向かうんですが、この黒田・大川スパイ問題は、両者が事実上分裂関係になり、形式上の組織分裂に向かう、そのさなかに発生しているわけです。

 黒田は、自己の行為を西派に対してだけでなく、探究派のメンバーにも当初は内密にしようとしています。が、結局は黒田は探究派のメンバー、さらには西派に対しても自己の行為を認めていきます。黒田の行為は西派からはもちろんのこと、探究派の内部でも強い批判にさらされており、当時を知る人によると、この事件での黒田への不信感が探究派内部で形成されたことが、後の中核派と革マルの分裂という形で尾を引いたというそうです」。
(私論.私見) 「黒寛・大川スパイ事件」考

 れんだいこは、こういう事件を見過ごさない。この事件が公にされたのは事件経過後数十年経ってからであることを思うと憤然とせざるを得ない。本件は、たまさか尻尾が掴まれたという話であるが、「黒寛の公安当局との通謀性」をれっきとして証していることに重要性がある。そういう意味でもっと解明されねばならない。本来なら、当時の関係者はこの事件を広報し、黒寛派を左派戦線から追放せねばならない義務があったと考える。遅きに失した観があるが、明るみにされないよりはましだ。「黒田寛一氏の公安当局との通謀性」を証するのにまだ他にもあるのかないのか、この事件を唯一手がかりにして云われているのか、判明させたいところである。

 この事件の真偽は不明且つ詳細不詳であるが、れんだいこは、上記の事件経過から「黒寛の小心さによる未遂事件」を結論として導き出すような観点を持たない。この事件は、宮顕の胡散臭さが「戦前党中央委員小畑氏のリンチ致死事件」で露見したように、黒寛という人物のそれを露見させている貴重な事件であるとして凝視する。黒寛の胡散臭さを問うにはやや矮小な事件であるが、宮顕の胡散臭さを証する「戦前党中央委員小畑リンチ致死事件」に匹敵する事件であり、黒寛派のその後の左派運動に対する責任の重さから判ずれば、この事件は殊のほか大きな意味を持っていると考える。

 その理由として、この時期の黒寛は結成されて間もない頃とはいえ革共同の指導者の一人であり、その代表的イデオローグでもあった。その黒寛の行為は、下っ端活動家の行為と同じ水準で評されてはならない。つまり、指導者資質の問題として)「黒寛・大川事件」を見つめなければならないということである。

 本件は民青情報の警察売りであるが、民青情報であろうが他の党派情報であろうが、「他党派の組織情報を警察に売る行為」なぞ許されようか。一般に左派運動にあっては「他党派の組織情報を警察に売る行為」は、厳禁中の厳禁事項であろう。果たして、有り得て良いことであろうか。本件は、黒寛が、党派指導者資質としてあるまじき「敵対党派の情報を公安に売りつけようとした事件」として是非が論ぜられねばならない。

 ところで、この事件の主役は黒寛か大川か、そのどちらであろうか。この種の場合、文面をその通りに読むだけでは真相が見えてこない。真相を読み取らなければならない。事件経過として、大川が資金稼ぎ目的で黒寛に相談したことになっているが、それは脚色ではないのか。それは表相のことであって事実はどういう謀議であったのか分かりはしない。

 宮顕の「戦前党中央・小畑査問リンチ致死事件」の場合もそうだったが、宮顕ー袴田ラインが仕組んだのに秋笹が呼びかけたという風にすりかえられている形跡がある。それを思えば、「黒田―大川のスパイ事件」は大川主犯説で伝えているが、れんだいこが見るところ、黒寛が仕掛けて大川を誘い一旦は納得させていたが、直前になって大川が動揺し、これは具合が悪いとトンズラしたというのが真相ではないのか。

 勘ぐるのに、大川を引き込むために「反革命的所業」に手を染めさせようとした事件ではなかったか。やくざの世界では良く行われる脛に傷を持たせる仕掛けである。これが首尾よく運んだが直前で大川の動揺が激しく、黒寛は機を見るに敏で結局未遂事件に終わったのではなかろうか。れんだいこは、黒寛を宮顕同様にそれほど異邦人的であると見ているから、こういう推測が生まれる訳である。

 仮にそういう風に見立てると、そのようなことを仕組んだ黒寛は、この時点で左派戦線から追放されねばならなかった。本件の考察は、その当然の処置が如何にして為されなかったかにある。この当たり前のことができない日本左派運動の貧困を知れ。思えば、日本左派運動は、宮顕と云い黒寛と云うトンデモを崇め奉ってきたことよ。れんだいこは関わりなく生きてきたことを誇りに思う。

 いずれにせよ、かような人物であることが判明した以上、黒寛はこの時点で党派の指導者としての資格を喪失しており、取り巻きの者も引き摺り下ろすべきであった。だが、史実は、ますます黒寛を教祖的地位へ祭り上げていくことになる。その結果、日本左派運動が如何なる致命的損失を蒙ることだろうか。

 2005.9.28日、2006.9.21日再編集 れんだいこ拝

【「黒寛・大川スパイ事件その後」】
 「黒田・大川事件その後」について、「国際革命文庫の日本革命的共産主義者同盟小史」の「第三章 最初の試練」の「黒田、大川の除名と分裂」で論述されている。次のように記されている。
 概要「黒田・大川事件」のその後の経過は次の通りである。当初、この事件の当事者たちは事を内密にしておこうとした。しかし、小心な黒田は大川が先にこのことを暴露してしまったら自分の立場がなくなると考えたのであろう、何人かの側近に「大川はスパイである、このことは他言するな」と打ちあげたのである。この話は未だ書記局にいた遠山の耳に届き、遠山はこの話を聞いて直後にトロツキスト同志会に移っていったのである。この事件を遠山から聞いた太田は西に報告すべきだと指示した。遠山は西に報告し、太田はJRがすぐ処置しないと、自分の方で暴露すると西に通告した。

 西はそんなことがあるとは信じられなかったが、関東の中野をはじめとする数人のメンバーを調査委員会に指名し、早速調査することを命じた。中野の招集に応じて査問に出てきた黒田と大川は、先の事件を自供し、認めた。

 黒田・大川のスパイ行為は「未遂」で終った。しかし、当時のJRやICPのメンバーがどれほどスターリニストを憎み、非難したとしても、帝国主義権力との関係においてはスターリニストといえども階級闘争のバリケードのこちら側であるというのは議論の余地ない原則であり、それはことさら取上げて論ずることでもなかった。だから「未逐」に終ったとはいえ、バリケードのこちら側の情報をバリケードの向う側へ売ることは階級的裏切りである。

 JRはこの原則を防衛するため、調査委員会の報告にもとずいて、五九年八月の第一回大会に大川の除名、黒田の権利停止を提案することにした。しかし、問題は組織処分ではなく、黒田派の分裂という事態にまでつき進んでいくことになる。(中略)

 黒田グループとの対立はまず関東ビューロー総会で展開された。五九年八月に全国大会を前にして開かれたこの会議で、黒田派の中心となってきた本多が「田宮テーゼ」をもって綱領草案反対を展開し、これに対して、鎌倉、中野ら関東ビューロー指導部が綱領草案防衛の立場から反撃した。関東ビューローの会議は黒田派分裂の序曲であった。

 八月二十九日、第一回全国大会の初日において、黒田・大川スパイ事件問題が調査報告され、大川の除名、黒田の権利停止が提案されると、本多を先頭とする黒田派は、組織処分に引っかけて綱領論争を弾圧し、反対派を排除するものである、といって退場した。その後大会は黒田、大川の除名を決定した。これが黒田派が「革共同第二次分裂」というところの黒田派の分裂である。

 黒田派は分裂を準備して大会に臨んだ。このことは、退場してすぐ、黒田派は革共同・全国委員会なる正体不明の組織をでっち上げ分裂を“完成”させたことによって明確であろう。第一回大会は黒田派分裂という混乱をのりこえて、綱領を採択決定し、中央委員を選出することによって成功をかちとった。
(私論.私見) 「黒寛・大川スパイ事件その後」考

 これによると、日本革命的共産主義者同盟の調査委員会が黒寛と大川を査問したところ、「先の事件を自供し、認めた」とある。ならば、日本革命的共産主義者同盟は、その時点で日本左派運動全体に対し回状を廻し、黒寛派を追放すべきであったのではないのか。「黒寛の権利停止提案、除名」などという措置があまりにも手ぬるすぎる。黒寛派がその後、他党派解体路線を敷き、日本学生運動戦線に甚大な被害を与えたことを思えば。今も、誰彼の党派に対しスパイ呼ばわりして「正義」の鉄拳を振るっているが、噴飯ものではないか。宮顕も誰彼掴まえてはスパイ呼ばわりしてきたが、何やら共通項が臭って仕方ない。

 2005.5.14日 れんだいこ拝

【「黒寛の居直り論理」】
 黒寛は、「黒寛・大川スパイ行為未遂事件」を次のような論法で居直っている。黒寛の著書「革命的マルクス主義とは何か?」の39頁には次のように書かれている。
 「一般に革命的政治運動というものは、現象的には(本質的にはではない)極めてヨゴレタものであり誤解にみちたものであって、政治的、あまりにも政治的な“陰謀”をすら活用しないかぎり(この点ではレーニンの右にでることのできる革命家はない)、そもそも政治そのものを止揚しえないのだという、このパラドックスが、ぜひとも自覚されなければならない。だから、赤色帝国主義論者をすら活用して、動揺と混乱の渦巻のなかにある日共指導部を瓦解させる一助たらしめるという“陰謀”をたくらむべきである」。
(私論.私見) 「黒寛のスパイ行為居直り論法」考

 黒寛の居直りテーゼは、自己目的のためにはすべてが正当化されるという黒寛マキアベリズムの醜悪な本質を垣間見せている。この理論は、反対派抹殺の為のゲバルトを権謀術数の限りを尽くして遂行するという革マル主義の論拠をなす。これを「黒寛はまさに反スターリニズムのためにスターリニスト的手段を容認するのである」と評する向きもあるが、むしろネオ・シオニスト的残忍非道さを特徴としていると云うべきではなかろうか。 

 2006.9.21日再編集 れんだいこ拝

【当時の同盟委員長・西氏の「黒寛・大川スパイ事件証言」】
 当時の同盟委員長・西氏は、西京司論文集の「日本トロツキズム運動の形成」の中で概要次のように述べている。

 西京司氏は、「黒寛・大川スパイ事件」に対し、それを公にしなかった事情を末尾で次のように述べている。
 「当時の状況下で、我々は種種の事情を考慮し、事実の経過を公けに明るみに出すことを差し控え、ただ必要に応じて、『黒田一派の呆れ果てた階級的裏切り行為』とのみ報ずるにとどめた。振り返ってこれが正しい処置であったか否かは大いに問題の有るところであろうが、その後黒田派が我々に対し繰り返し『政治的な意見の相違を規律問題にすり替えた』と非難したことの実際の内容は、凡そ以上のようなものであった」。
 「私は当時の事情について、改めて別のしかるべき機会に明白にしたいと考えているが、今日まで幾つかの文書の中に、当時の事実について誤り伝えられていたり、又黒田派の主張を一方的に受け入れている人々が見受けられたりする(もちろん我々が語らなかったからでもある)ので、この機会にその概略を述べさせて貰った」。
(私論.私見) 「西派が『黒寛・大川スパイ事件』を公にしなかった事情」について

 れんだいこは、この時の西派の対応は「大いに問題があった」と考える。どういう事情か分からないが、1976年と云えば「中核派対革マル派の絶対戦争」、「社青同解放派対革マル派の絶対戦争」が熾烈な頃で、中核派の最高指導者本多氏、社青同解放派の中原氏が虐殺された後のことである。

 この時、左派運動圏は、「どっちもどっち的対応での内ゲバ反対」を是としていた。しかし、西派が「黒寛・大川スパイ事件」を公にして、黒寛派のそもそもの胡散臭さを告げていれば、左派運動圏の対応は異なったものになり、事態はもう少しは局面を変えていたのではなかろうか。それを思うと、如何なる事情で公表を差し控えたのか分からないが、激しく自己批判せねばならない失態と考える。

 2005.9.28日 れんだいこ拝

 「黒寛・大川スパイ事件」の概要は上述の通りであるが、西京司氏は、それが明るみにされた過程を次のように記している。
 1959.3月頃(?)、もと黒田グループの一員から太田グループへと移った一人のメンバーから、私のもとへ関東の最高指導メンバー(元黒田グループ)の一員の過去のスパイ容疑行為とそれへの黒田の協力について通知がなされ、太田氏からはそれを暴露する用意が有る旨の手紙が届いた。
 即ち、この一人物は、かって民青内で活動していたが、金を得るために民青の内部情報を警察に売ることを計画し、黒田に相談、黒田はこれを承認して計画したが未遂に終わった事実があるというのであった。

 これにどう対応したのか、次のように記されている。
 これは極めて重大な問題であった。我々は黒田の「トロツキズム克服」その他の大げさな理論や、事実上帝国主義とスターリニズムの差異と関係を無視する「反帝反スターリニズム」戦略なるものの一つ覚えのような繰り返しにはうんざりしていたが、いずれにせよこれらは凡そ理論的批判にたえるような代物ではないし、これに集まっているかなり多くの若いメンバーに対しては時間をかけて説得して行こうと考えていた。
 しかしここに報告されたスパイ云々の行為は、理論との関連がどうあろうと、問題にならない階級的裏切り行為であった。いうまでもなく我々トロツキストは当時、猛烈な代々木スターリニストからの中傷を受けていた。(私なども共産党周辺ではアメリカから金を貰っているとほのめかす中傷を受けていた。) この中でこうした事実の暴露がどれだけ我々の組織を傷つけるかはかりしれなかった。しかも一体この報告だけでこの問題をいかに処理することが可能であろうか。本人が自認しない限りどこにも客観的証拠なるものは存在しないし、差し当たってそうした自信が得られる可能性もまずないと考えられた。(我々は一応本人に確かめたが、勿論彼はそれを否認した。) そこで止むを得ず我々は、まず太田に対し防衛の為の手紙をもって答えた上、組織の若干の指導的メンバーに警告を促したのみで、事態を静観したのである。

 つまり、事態のあまりにもの重大性、発足まもない組織への打撃的悪影響、調査能力の不足を理由に「事態を静観した」ということになる。

 ところが、西派の指導者西と岡谷が上京した際に、再度この問題が蒸し返され、正しく対応をするよう迫られた、として次のように記している。
 だが多分5、6月頃であったか、今度はやはり元黒田グループ(「探求グループ」)にあった三人の同盟員が、上京した岡谷と西に面会を申し入れ、上述の事件は明らかな事実であり、自分からも会合の場などで聞いた、と証言し、事態を放置することなく早急に処理せよと要求してきた。そして又以上の経過を知った関東の組織のメンバーの中から一層強く早急な処理の要求がなされたのである。

 こうなった以上、調査せざるを゜得なくなった。その結果、「黒田の自認するところとなった」として次のように記している。
 そこで中央書記局は成否に自信をもてなかったが、関東のメンバーの中から調査委員会を組織して調査に当たらせることを決定した。ところがその結果これらの事実は黒田の自認するところとなったのである。そこで当然の事として同盟は、この調査に基づいてこれらのメンバーについて一定の処分を行わなければならないことになった。
(私論.私見) 「黒寛の自認の重み」について

 この下りで、「黒寛の自認」が証言されている。調査による具体的内容が記されていないが、「黒寛の自認」の持つ意味は大きい。 

 2006.9.21日再編集 れんだいこ拝

 処分にのりだそうとしたところが黒寛派の組織的抵抗が始まった、として次のように記している。
 ところが不可解なことにこの頃から黒田寛一を中心とする自称「革命的マルクス主義者グループ(RMG)と名乗る一群のメンバーは、ことごとに同盟中央の方針に抵抗を試み始め、しかもそれは具体的な戦略戦術や組織方針上の理論闘争というには程遠く、全く抽象的な哲学的装いをまとった議論をもって、「反帝反スターリニズム」の戦略といった観念論的テーゼを旗印に掲げて、一々討論を阻害する行動に出てきた」。
 ただ一つ具体的方針上の対立として現われたものは炭鉱国有化のスローガンを廻る討論であったが、それとて彼らにあっては、筆者が本書中で批判の対象としているように、炭労闘争の現状から出発して闘争に如何なる方向を与えるべきかということではなくて、『資本主義の下での国有化』は是か非かといった議論でしかなかった。勿論我々は会議の席上彼らを繰り返し批判し、一歩も退く必要を感じなかった。しかし我々に関する限りこうした黒田一派の『理論』は絶対に受け入れられないものであったけれども、初期の組織に於いて免れ得ない多くの若いメンバーの一面性や観念的傾向と性急に分裂する気は毛頭無かった。

 西派率いる同盟中央の処分方針と内容について次のように記している。
 しかしことスパイ類似行為に関しては、明白にされた事実だけからしても黙認できるものではなかった。8月に予定された第一回全国大会はこの問題をめぐる処分を明確にせねばならない事態に迫られていた。中央書記局は当初大会に臨むに当たっては、事実経過の報告に基づいて、事件は途中で中止され未遂に終わっており、黒田は一応誤りを認めている点を考え、事件の中心人物大川(仮名)の除名(彼はその時点までに既に同盟の活動から逃亡してしまっていた)と、黒田の一定期間の活動停止処分を提案するつもりであった。

 いよいよ処分を決定する党大会の場がやってきた。その時の様子を次のように記している。
 しかるに大会に向けて黒田派の人々は既にこれらの事件の概要を明白に知りながら、黒田を大会代議員として関東の組織から選出したばかりでなく(当時関東の同盟は黒田派のメンバーが3分の1以上であったと思う。) 大会冒頭から一切の処分に抵抗する構えを示し、二日目この問題が日程に上せられるや大会会場から一斉に退出したのである。

 この時の黒寛派の若きリーダーが本多氏であったことを次のように記している。
 大会討論に於いてこの黒田派の先頭に立っていたのが、当時関東地方委員会の書記局員であったが、今は革マル派の手にかかって命を落とした前中核派書記長の本多延嘉氏であった。

 黒寛派の「理論問題を規律問題にすり替えた論」を次のように批判している。
 私は黒田グループの諸君が、ここに至るまで何をいかに考えてセクト的に結集したのか詳細は勿論知らない。関東の調査委員会は何一つ不当な調査を行ったとは考えられないし、彼からはそれに対する抗議は勿論無かった。その上、この調査委員会には分裂に向って黒田派として行動し別れていったメンバーが加わっていたし、それどころか彼はその中心メンバーであって、当初私たちに対し早急な処理をもっとも強く訴えた一人であった。そしてまた本多も関東の中心メンバーとして事態の経過はことごとく知っていたはずなのである。

 (そして処分提案は全くこの調査委員会の報告に基づいていたのである。) これらの人々までが何故に処分反対に結集し得たのかは、我々にとっては全く不可解であり、まして事実を全て知りながら、我々に対し、理論問題を規律問題にすり替えたと言うのは全く鉄面皮という外はなく、恐らくは分派的セクト的利害に目がくらんだ結果だろうと考えざるを得ない。

【革共同が、「大川除名、黒田権利停止」処分に附す」】
 革共同は、59.8月の第1回大会で、「黒寛―大川のスパイ事件」の責任を取らせ、「大川を除名、黒寛を権利停止」処分に附した。
(私論.私見) 革共同の黒寛処分とその際の観点の甘さについて

 この時、如何なる観点で処分したのか。つまるところ、黒寛マキアベリズムであるとの観点からの批判で済ませている。れんだいこはこれを大いに疑問とし、かような観点からこたびの黒寛の悪行を隠蔽してきた革共同の責任まで疑惑的に追求したい。革共同は、この事件により黒寛の胡散臭さを徹底的に暴露し周知徹底させていく政治責任があった、と考える。その後のあまりにも不幸な事象の発生を思えば。この点、革共同には次のような不満を覚える。彼らはいつも正論を述べているようで、いつも要点を外している。「万年モラリスト左翼」としての地位に憧れているように見える。しかしてモラリストであるかどうか分かったものではない。

 2006.9.21日再編集 れんだいこ拝




(私論.私見)