1955年 | 【戦後学生運動史第3期】 |
「六全協」の衝撃、日共単一系全学連の組織的崩壊 |
(最新見直し2007.7.3日)
これより前は、「第2期」に記す。
(れんだいこのショートメッセージ) |
戦後学生運動の第3期は、武井系全学連の権威失墜、玉井系全学連の破産を受けてのその後の動きから始まる。この期を学生運動論だけで概括するのは困難なので「この時期の学生運動、日本共産党との関係」と合わせて検証してみることにする。 この時期、党と学生運動も含む青年運動組織との信頼関係が基本的に崩壊した。ここにこの期の特質がある。ここまでの戦後学生運動論を概括すると次のように云えるのではなかろうか。当初は、戦後直後の日共は、徳球系党中央に指導される形で始まった。紆余曲折を経て武井系全学連が生み出された。その経緯を記せば長くなるので割愛するが、党中央のあまりな変調指導により武井系全学連は次第に党中央に反発していくことになった。ところが、武井系全学連は徳球系日共に反発する余りに最も警戒すべきだった宮顕に掴まり、その急進主義運動性が反徳球運動に利用されていく事になった。 こうした折、丁度「50年党中央分裂」が発生し、日共は徳球ー伊藤律派とこれに反発する反党中央派に真っ二つに分かれ抗争し始めた。徳球ー伊藤律派は自主独立的な性格を持つ所感派と云われ、反徳球ー伊藤律派はスターリンの指導に従うべしとする立場から国際派と呼ばれた。武井系全学連は、それまでの誼もあり、宮顕の指導する国際派に組み込まれていった。宮顕派と春日(庄)派の連合で分派組織「統一委員会」が結成されると、武井系全学連の過半が馳せ参じていった。 ところが、中共が徳球ー伊藤律派を支持し続け、1951.8月、「50年党中央分裂」を裁定したスターリンが所感派を支持し、党の統一を図るよう勧告した。スターリンは、朝鮮動乱が勃発している折柄であり、日本は米帝の後方重要基地として重要な役割を果たしていることを見据え、これに抗する運動こそ国際共産主義運動の任務であることを指示していた。結果、「統一委員会」その他の分派が自主的に解散していくことになった。 所感派の下に再団結した日共は、武装闘争に突入した。ところが、武井系全学連は宮顕に篭絡され続け、それまでの急進主義的主張を翻し穏和的な反戦平和運動に逃げ込んだ。これに苛立った全学連内のもう一つの急進主義派が台頭し、武井系執行部を追放し、玉井系新指導部の下で党中央の呼びかける武装闘争に呼応していった。 しかしながら、武装闘争の経験を持たない日本左派運動は建前的言辞の威勢良さは別にして実際の運動はことごとく鎮圧され、散発的漫画的な決起を歴史に刻んだのみで総破産していった。やがて朝鮮動乱も膠着し、スターリンも死去し徳球も北京で客死し伊藤律は幽閉された。 この間、所感派内では志田派が登竜していた。志田派は、宮顕派と内通した当局奥の院のスパイであり、急進主義的性格を憑依させ暴力革命を呼号しつつ伊藤律派を駆逐していった。志田派の又しても変調指導により武装闘争にのめりこんでいった玉井系全学連は、正確には1954(昭和29)年初頭時点で命脈尽きており、自壊状況を現出させていった。 1954年から55年にかけて、志田派と宮顕派、野坂派の手打ちが進められていった。その間隙で、全学連は再び宮顕の指導下に入る。注目すべきは、こたびの宮顕指導は、武井系全学連時代に見せた「左」指導ではなく、本来のそれである「右」指導へと地金を表して行ったことにあった。 1954.6.13日、全学連第7回大会が開かれた。大会は、「生活と平和の為に」を打ち出し、政治運動から召還し、一転代わって没政治主義方針を確立し「自治会サービス機関論」に転換した。 「六全協」直前の1955.6.10日、全学連第8回大会が開かれ、「自治会サービス機関論」を再確認した。基地反対闘争と原水爆禁止運動に取り組むことを決議したものの、議論らしい議論も為されず、運動方針も「話し合い路線」という一般学生の自然成長性に依拠させた穏和化を明確にさせ、日常要求主義とサークル主義という没政治主義に陥ることになった。この種のことに鋭敏な感覚を持つ青年運動が「失意」に陥った。 |
【1955年の動き】(当時の関連資料) |
お知らせ |
当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1955年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。 |
1.1日、党が、赤旗で10.1方針=極左冒険主義との絶縁を宣言。「方向の転換を感じさせるものがあった」。
1.29日、日本共産党早大細胞.〃総選挙に我々の要求をかかげて斗おう〃。
1月、宮顕が、早稲田学生へのあいさつ。
2月、共産党の志賀氏が地下活動よりこ公然化で出現し、選挙に当選した。
3月、党中央指導部が選出され、春日正一議長、志賀、宮顕、米原の4名がその任に就いた。
5.8日、東京都砂川町議会が立川飛行場の滑走路拡張に反対の決議を行い、砂川.立川基地拡張反対決起大会が開催され砂川闘争始まる。
5.10日、北富士.座り込み農民を無視、射撃演習開始.各地に基地反対闘争激化。
【全学連第8回大会】 |
6.10日、全学連第8回大会が開かれた。89自治会237名の代議員とオブザーバー800名が参加した。大会では、基地反対闘争と原水爆禁止運動に取り組むこと、文化サークル活動の全国的.地域的交流、世界青年学生平和友好祭に参加することによる国際的交流、芸術家の合同公演を大学当局側と協力して行うなどを決めた。 |
日共党中央は、「六全協」開催にあたり、砂間一良中央委員を公式代表として全学連に派遣し、「日本共産党は、全学連に対して迷惑をかけた。自己批判する」と頭を下げ、更に同年12月には、紺野与次郎中央委員、松本惣一郎統制委員が改めて全学連に対し、リンチ事件について謝罪するとともに「反戦学同」との統一行動を約束した。この時、学生共産党員は、「共産党から自由になった」(1971.1.1〜8付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」)との伝がある。
【党が「第6回全国協議会(「六全協」)開催】 | |
7.27日、共産党が「第6回全国協議会(「六全協」)」を開き、自己批判と再出発のための新方針を発表。志田主流派と宮顕国際派の手打ちで宮顕派、野坂派、志田派が招集し、新指導部に治まった。戦後直後から続いた徳球系党中央所感派から宮顕系党中央への宮廷革命式転換が為された。「六全協」は、宮顕ー野坂ー志田派連合より成るグロデスクな党中央を創出させた。「六全協」が戦後日共運動の質転換の画期となった。これにより、日共運動の解体請負士・宮顕が有りもしなかった「戦前非転向の唯一人士的聖像」で又もや何食わぬ顔で党中央に登壇することになった。
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![]() 云ってよければこれは、野坂ー宮顕ー志田というスパイ同盟による党中央乗っ取りであった。 |
【六全協後の大混乱】 |
「日共六全協」は「50年分裂」を終息させたところに意義があったが、宮顕系党中央らしさとして徳球系党中央所感派が朝鮮動乱時代に採用した軍事方針に対して「極左冒険主義」と口を極めて批判していた。これにより、武井派を放逐した玉井系全学連が断罪された。これにより旧党中央徳球系の指示に従って武装闘争に青春を賭けてき学生党員達には「青天の霹靂」となり、大混乱に陥った。今度は逆に旧国際派系から自己批判と総括が迫られることになり、「六全協ショックとノイローゼ現象」が生まれていった。 |
【武井系の復権】 |
この頃、「50党中央分裂」の煽りで党を除名され、全学連中執を追われていた武井元委員長行らが除名を取り消されて復党してくることになった。ところが、武井氏は、「六全協」後の清算主義的傾向と「自治会サービス論」に攻撃を加え、「政治課題を取り上げて、全国一斉に統一行動を起す」学生運動の必要を力説し始めた。このスタンスが宮顕との確執の始まりとなる。 |
【全学連第7回中央委員会】 | ||
9.2日、「六全協」を受けて全学連第7回中央委員会が開かれ、宮顕式路線に従って、この間の党の極左冒険主義と全学連指導部の動きを批判することとなった。「層としての学生運動論」とは打って変わって学園内没化主義的いわゆる「歌ってマルク
ス、踊ってレーニン」というレクリエーション路線」として揶揄される穏和化方向へ振り子の針を後戻りさせることとなった。これを「7中委イズム」と言い表すことになる。
かくて、政治闘争から総退却する右派系全学連が跋扈し始め、戦闘的学生運動派には倦怠感のみが残った。 |
【砂川闘争始まる】 | ||
「7中委イズム路線」はそうは長くは続かなかった。歴史の摩訶不思議なところであるが、宮顕が学生運動を右派的に手なずけたその瞬間に、砂川闘争が始まった。政府は9月から警官隊を導入して測量を実施し、労働者と農民が当局と激しく衝突した。所感派・国際派の別を問わず、宮顕式穏和化路線に反発する急進主義派の学生たちが「平和と民主主義」の根幹に関わる政治闘争として砂川闘争に取り組んで行くことになる。これを第一次砂川闘争と云う。翌56年秋口には流血の事態を向かえることになる。
砂川闘争とは次の通りである(東京平和運動センター「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」参照)。
高見圭司「五五年入党から六七年にいたる歩み」は次のように記している。
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9.14日、党中央が伊藤律を除名。
9.19日、原水協、結成。吉田嘉清が事務局長常任。
アカハタ11.5日付けで、概要「政府の挑発と分裂の政策に乗ぜられることなく、いわゆる『条件派』の人々わも含め、一切の住民の具体的要求を統一するよう」主張していた。現地で戦う労働者と農民の怒りと不信を買った。
12月、授業料値上げ問題が起るが、全学連や自治会はこれを取り組む指導を示さなかった。為に、全学連再建を目指す動きが出始める。
12月、全学連が第7回拡大全国委員会を開いて、政治闘争を通じて学生運動を盛り上げるとの方針を打ち出した。通説は、概要「六全協後、日共国際派の勢力挽回とともに反戦学同も急速に勢力を盛り返し、全学連にも着々と進出し、影響力を強めて行った」としているが、国際派=善、所感派=悪式の観点から捉えることには眉唾せねばなるまい。
(この時期の学生運動、日本共産党との関係) |
注目すべきは、55年の暮れより56年の春にかけて、東大細胞の島成郎・森田実・中村光男・生田浩二・古賀康正らが中心になって全学連の再建に乗り出していくことになった動きであろう。同じ思いで呼応したのが関西の星宮○生らであった。早大の高野秀夫も新路線を模索し始める。このメンバーが協働しつつ対立しつつ新しい波を創っていくことになる。 |
これより後は、「第4期」に記す。
(私論.私見)