1950年〜1954年 【戦後学生運動史第2期】
「50年党中央分裂」による(日共単一系)全学連分裂期の学生運動

 (最新見直し2007.7.3日)

 この前は、「第1期」に記す

 (れんだいこのショートメッセージ)
 戦後学生運動第2期は1950年から始まるが、日共の指導下にあった全学連は、日共の党内分裂の影響を受けて四分五裂する。この経緯を纏めるのは難しい。

 1950(昭和25)年初頭、戦後日本革命は流産したと見立てたスターリンは、野坂理論に縛られている徳球系執行部を批判した。「スターリン」批判を廻って党に内部対立が発生し、反主流派が一斉に批判の合唱を開始した。4.30日、党中央委員会が分裂し、党中央所感派は反主流国際派を排除した党組織の再編に向い始める。これを「50年党中央分裂」と云うが、その後の歴史の流れから見て本質的に徳球系と宮顕系の日本左派運動の主導権抗争であり、この時期両派の対立が非和解的な状態に至ったということを意味している。

 全学連武井執行部は、既に宮顕派に篭絡されており、党中央に対し国際派を援護射撃する形で「全学連意見書」を提出した。それまでの党中央の引き回し、戦略・戦術上の右翼的偏向、学生運動に対する過小評価に対する公然とした批判を「左」から展開していた。

【1950年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1950年上半期」、「1950年下半期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

【コミンフォルム批判】
 年頭の1.7日、モスクワ放送は「日本の情勢について」を放送し、日本共産党の平和革命式綱領路線に痛烈な批判を行った。露骨に野坂を名指し、マルクス・レーニン主義とは縁の無い路線提唱者であり、野坂式路線からの転換を図るよう指図していた。この批判がスターリン直々の論評であることが判明し、党内は大混乱に陥った。徳球書記長らの不手際が相乗して党中央の責任問題へと発展していき、党の中央委員会内に明確な亀裂が走ることになった。

 1.10日、全学連中執は、世界情勢の変化、極東情勢の緊迫化を受けて、「一切を全面講和闘争に結合」するよう指示して、教育防衛闘争から全面講和と平和擁護闘争へ闘争の中心目標をシフト替えさせた。


 1.21日、「国際青年学生植民地闘争デー」が全国各地で催された。


 3.10‐11日、全学連の第2回都道府県代表者、新制大学代表者会議が開催され、「反帝平和闘争」に取り組み、全国的規模における統一行動、デモ、ゼネストを組織化させることを決定した。


 3.23日、九大が全国初の「反戦学生同盟(反学同)」結成。「反帝平和闘争」への決起の狼煙となった。翌1951.6月には第1回全国協議会を開くまでになる。


【全学連中央が、「全学連意見書」を党中央に提出】

 3月、全学連中央が、「最近の学生運動」という論文を党中央に提出した。これを「全学連意見書」という。それまでの党中央の引き回し、学生運動に対する過小評価、戦略・戦術上のに対する公然とした批判を書き連ねていた。この意見書は、宮顕統制委議長の「ボルシェヴィキ的指導」を賛美し、野坂.伊藤律などの所感派の指導を右翼日和見主義であると批判していた。

(私論.私見) 「全学連意見書」考

 
「全学連意見書」は、宮顕と呼吸を合わせていた。この時国際派宮顕系は、一見「左」的な反米闘争を志向させようとしていたが、これは徳球系党中央の吉田内閣打倒方針に対する「左からのすり替え」であった。当時の全学連中央はこのからくりを見抜けず、国際派宮顕系の「左」性を評価し、党中央に叛旗を翻すことで革命性の証とした。


宮顕派が東大細胞を掌握する】
 木村勝三氏は、この当時、宮顕派が東大細胞を掌握していたことを「東大細胞の終わり―『戸塚事件』の記憶」(「1.9会文集」2号)の中で次のように証言している。
 概要「50年当時の東大細胞には国際派中の正統派宮本顕治に直結した秘密の中核組織、『ゲハイムニス・パルタイ』(通称ガー・ペー)、つまり、秘密の、とくに権威ある党エリート組織が恒常的に存在し、これが「全細胞の指導権を握っていた」。

 安東氏の「戦後日本共産党私記」は次のように記している。
 「私たち東大細胞内部での批判活動は急速に結晶して、分派的形態をとるに至った。その名称は、『G・P(Geheimnis Parteiの略称)』を名乗るもので、最初のメンバーは戸塚・高沢・銀林・不破哲三・佐藤経明・大下勝造、そして私といった顔ぶれで、逐次に竹中一雄・福田洋一郎・長谷川らを加えていった。その上部組織として『E・C(エグゼキューティブ・コミッティーの略称)』を名乗って力石と武井がいた。この他にも富塚文太郎らの全学連書記局グループが加わっていたはずであるが、書記長の高橋は宮本について九州に赴いた」、「この『G・P』がいつ頃結成されたのか記憶に定かではないが、かなり早い時期−1月の末頃ではなかったかと思う」。
 「メンバーは厳選され、完全な秘密が求められた。‐‐‐ある夜、私(と戸塚もか?)は力石と武井に連れられて一夜、そのメンバーに引き合わされることになった。いかなる人物が姿を現わすか、緊張して待ち受けていた私の前に、小野義彦がにこやかな笑顔で現れた。(その後、小野と同じくアカハタの編集部にいた内野壮児、全金属の西川彦義、そして平沢栄一がそのメンバーであることが判った」。「従来の関係から私たちが最も期待していたのは宮本であるが、百合子夫人も止めたと伝えられた九州への『都落ち』に応じた彼の態度を、武井や力石は『デブ顕』の公式主義、日和見主義と批判していた」。

 この過程で、東大細胞内で党中央派と反対派の亀裂が深まり、党中央派寄りであったL・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任されている。戸塚が後釜に座った。戸塚は49年に経済学部に入学し、一学期は本富士署の通訳をしていたが、夏頃から細胞活動に専念し、精力的に活躍していた。たちまちのうちにL・Cに推されていた。

【早大も「早大意見書」を提出。早大細胞は百家争鳴】

 4.10日、早大細胞による細胞総会が開かれ「早大意見書」を可決した。提出の理由を次のように述べている。

 「圧倒的多数を以て党が右翼日和見主義とブルジョア民族主義への道を辿りつつあることを確認し、中央委員会に意見書を提出することとなった」。

 当時、早大内の党中央派(徳球−伊藤律執行部擁護派)は小林央(商)、藤井誠一(政)、水野(教)、横田(教)10名たらずで、圧倒的多数がコミンフォルムの論評を支持し国際派に流れた。いちはやく分派活動を開始したのが、津金に代わって新しく細胞キャップになった都委員会学生対策委員・本間栄二で、志賀意見書を精神的支柱として「国際主義者団」を組織、「早稲田大学細胞意見書」を提出した。


 4月、島成郎が東大駒場に入学。


【反イールズ闘争】

 4月頃より全学連は反イールズ闘争に立ち上がっている。イールズは、CIE教育顧問であったが、49.7月、新潟大学の講演を皮切りに全国各地の大学で「共産党の合法性を認めず」、「共産主義者の教授を大学から追放すべきである」という講演をして歩いていた。各地でアメリカン民主主義を賞賛しつつ共産主義教授の追放を説いて廻っていたが、その講演会を中止に追い込む戦果を挙げている。

 4.10日、九大.イールズ講演会、学生の追求で混乱、秘密会議となる。

 4月、早大.文学部401教室でイールズ声明反対の学生大会。

 5.2日、東北大で、イールズの講演を学生約千名が公開を要求して中止させ、学生大会にきりかえた。東北大学は彼の28回目の講演であったが、ここで初めて激しい攻撃を受ける事になった。この経過は、全学連中央に「『イ』ゲキタイ。ハンテイバンザイ」と電信された。


 5.4日、日比谷で、都学連が中国学生の反軍閥闘争を記念する「5.4記念アジア青年学生蹶起大会」を開催、1000名が結集した。この時、本間の「われわれはトルーマンの傭兵になるな!」のプラカードが敵に弾圧する機会を与えたとされた。この挑発プラカードと意見書が党中央主流派による早大細胞解散の理由となる。


【党中央が国際派の拠点東大細胞、早大第一細胞に対し解散命令を下す

 5.5日、党東京都委が、「国際派」支持の中心勢力であった全学連書記局細胞、東大細胞に対し解散命令を下す。分派活動、挑発的行動をしたというのが解散処分の理由であった。以降、全学連内部に国際派と所感派の対立が強まり、所感派が指導権奪取に向かうことになる。

 5.6日、党東京都委が、同じく「国際派」支持の中心勢力であった早大第一細胞に対し解散命令を下す。

 5.7日、早大細胞による細胞総会が出席者111名で開催され、圧倒的多数で「解散反対」を決議(解散賛成=2、保留4)した。大金氏の発案で、党中央の要請に応えて「再登録」に応じ、再建委を組織しようとした藤井、水野、横田らが逆に除名された。大金らは、教育学部党員らを教室より追放、それに抗議した戸口(露文)もその場から追放した。

 大金久展氏の「神山分派顛末記」は当時の事情を次のように述べている。

 「たしか、五月六日の午後、新宿地区委員長の岩崎貞夫(のち小河内山村工作隊で活動中病死)が一号館の地下にあった細胞の部屋にやってきて口頭でこれを伝えた。私(大金)と津金が応対したが、早口で理由をのべると脱兎のように窓から飛び出していった。(ドアのカギはしめられていた)。解散処分という事態に対処するための緊急細胞総会が開かれたのは五月七日のことで、百余名が出席して圧倒的多数で『解散反対』を決議し、『再登録』に応ずるとした藤井たちを逆に除名した。除名を提案したのは私で藤井たちに『出ていけ』とドナったそうだが、よく覚えていない。この『解散反対細胞』は五月二一日(日)の細胞総会で分裂した。本間たちのグループが『独自の途を歩む』と宣言して退場していったのである。

 この日の討論での最大の争点は、本間たちグループの分派活動だった。雑誌『真相』に掲載された早大細胞意見書の表紙は細胞総会で配布され、全部が回収されたものとは明らかに違うもので、ひそかに本間たちが全国にバラまいたものだった。解散理由の一つになった『挑発ビラ』も本間たちが細胞指導部の討議を経ずに独断でつくったものだった。また、吉田たちの自治会中執にたいしても『帝国主義者の手先』呼ばわりをするなど、その極左的行動が問題になった。結果として早大細胞は『再建細胞』、『団』と『解散反対細胞』の三つに分裂することになったのである」。


 大金氏は、「早稲田通信第3号」(2004.8月)の「松下清雄の書き下ろし小説『三つ目のアマンジャク』について」で、次のように記している。
 旧制新潟県立長岡中学から海兵(昭和20年4月入学の78期)を経て1948年第二早大露文 科に進んだ松下清雄のことはたいていの人が記憶していることだろう。1950年5月に 解散処分を受けた旧早大細胞最後のLCの一人で、全学連書記局にも出ておおいに活躍 していた。
 
 5.9日、アカハタ紙上に「東大細胞、早大第一細胞、全学連書記局の解散について」の東京都委員会の声明を発表した。

 5.11日付け東大新聞は、党中央による東大細胞に対する「細胞側見解」談話を発表した。

 「解散しても、マルクス・レーニン主義とその下にある日本共産党を支持し、再建東大細胞を支援する、‐‐‐分派活動はやるべきではないし‐‐‐、必ず復党の日をもたらすことを確信している」。

 以降反党中央派は、反戦学生同盟という大衆的活動家団体に結集しつつ、活動していくことになった。安東氏の「戦後共産党私記」では、この時期(3,4月頃)宮顕との接触が頻繁に為されていたことを明らかにしている。

 「宮本との接触がいつ、どのように回復されるようになったかは分からない。だが力石と武井が宮本と連絡を取り始めたことは明らかであった。『デブがこう言っていた』という言葉がしばしば聞かれるようになった。それと共に分派闘争の否定、正規の党内闘争ということが俄かに強調されるようになった」。

 つまり、別党コースに向かうのではなく、党にとどまって党中央攻撃をもっとやれと煽っていたということになる。


 5.16日、北大でもイールズ講演会を中止させ、のち帝国主義打倒など決議。他方、東京.日比谷では都学連が5000名を集めて「自由擁護都青年学生蹶起大会」を開いた。この集会で初めて「全占領軍の撤退」、「帝国主義打倒」、「イールズ声明反対図」などアメリカ帝国主義に公然と反対するプラカードを掲げてデモ行進した。モスクワ放送、新華社電が「日本最初の反帝デモ」と評価し、詳しく報道した。


【全学連第4回臨時全国大会】
 5.20日、反米闘争の高まりの中で、全学連が第4回臨時全国大会を開いた。120校、代議員202名、評議員131名、その他オブザーバーが参加していた。全学連執行部はこの大会で、先の共産党の除名処分に対し、自分たちの意見こそが正しく、共産党中央委員会の多数派は右翼日和見主義に陥っているとみなし、執行部の下での全学連の団結を訴えた。

 大会は、中央執行部の提案を圧倒的多数で支持し、「全面講和締結、占領軍撤退を宣伝のスローガンから行動のスローガンに発展させる。学生自治会を平和と民主主義と独立のための行動的組織とする。レッド.パージ反対闘争を強力に展開する」運動方針を採択し、中執の反帝平和路線を信任した。「平和擁護闘争」の歴史的意義を確認し、第二次世界大戦後の新しい世界情勢における第一義的な大衆闘争とする視点の確立は、全学連中央の理論的功績であり、先駆的役割を果たした。この大会で「労学提携」も打ち出されており、「平和擁護闘争」とともに戦後学生運動の到達点を証左している。

 この時、「身の回り主義と地域人民闘争主義を最終的に粉砕した」として、共産党中央の指導に対抗する姿勢を明確にさせた。全学連指導部と共産党機関との対立は、はじめは学生運動の戦術上の意見の対立であったが、コミンフォルムの批判を契機として、政治方針上の対立になり、遂には組織上の対立になり、党機関の側では全学連の活動家を「極左的跳ね上がり」、「挑発分子」として攻撃し、全学連の側は党機関の方針を「身の回り主義の右翼日和見主義」、「ブルジョア選挙党への転落」と罵倒し、敵対的な抗争にまでなっていた。こうして、当初は戦術上の意見の対立であったものが政治方針上の対立に進み、そこにコミンフォルムの指摘が重なり、事大主義的傾向も発するというまことに複雑な条件の下での「不幸な対立」となっていくことになった。 

 5.25日、早大11中委で吉田嘉清(法学)委員長を「合法性獲得の最後のライン」として選出。


 5月、東大除名組、解散命令に抗議しつつも、GPの下部組織としての反戦学生同盟(AG=反学同)を組織。「『全面講和と全占領軍の撤退』を基本目標にかかげた当時の全学連の核たるべく組織された反戦学生同盟」とある。


 5月、東大で、この頃武井・力石と宮顕が連絡。


 5.30日、「5・30人民決起大会」。民主民族戦線東京準備会主催、全面講和をかかげ、4万余の労働者、学生、婦人を集めて、使用禁止令を蹴って皇居前の人民広場で決起大会。この時8名の青年.学生.市民が逮捕検束され、即日軍事裁判にかけられた。

 概要「マッカーサーを(弾圧に)踏み切らせたのは、米軍の将校・兵がデモに参加した労組員に殴られた事件であった。ほとんど即決といってもいい軍事裁判によって被告全員が有罪となり、重労働十年から五年の刑に処せられた」。

 6.1日、党が、都委員会声明「全党員及び学生に訴える」でトロツキスト全学連中央追放を発表。


 6.2日、警視庁が都内での集会・デモを6.5日まで禁止すると発表した。


【全学連が労学ゼネスト】

 6.3日、労学ゼネストト、青年祖国戦線参加を決定。早稲田、東大、外大、都立大など8校がスト。但し、党の切り崩しにあって不発となったと言われている。

 この経過について、春日庄次郎は次のように述べている。

 「この学生闘争を労働者及び一般人民大衆の反戦平和の闘争と結合し、強力に発展せしめるのではなく、むしろ学生の闘争を孤立せしめるような指導が行われた。たとえば、実質上学生運動の全国的な闘争の指導の中心をなしていた全学連中央執行委員会および書記局を、スパイ挑発者の手によっておどらされているものとし、我が党中央指導部及び東京都委員会は無責任な非難を公然とあびせ、又、全労連と全学連との共同闘争を拒絶せしめるように全労連グループに指示を発した。

 更に学生闘争が全国的に高まってきつつあるこの重要な時に、しかも全国学生闘争の中心となりつつあった東京大学、早稲田大学細胞、全学連書記局細胞の解散をおこない、客観的にはこれらの細胞を弾圧せんとして虎視眈々としていた当局と協力し、学生運動の高まりを阻害した。かくて学生運動をほかの人民層の闘争に結合発展することを妨害したのである。勿論学生運動の中には極左冒険主義的傾向のものがあることは事実である。しかしイールズ闘争以後急速に高まってきた学生運動が、当面の平和、反戦、反米の民族解放の全体の闘争の上に占める重要な意義を過小評価し、これを全体の人民闘争と結合発展せしめることを阻止するが如きは、完全な誤謬であった」。


【マッカーサーが日共党中央委員24名全員の公職追放を指令】
 6.6日、マッカーサーは吉田首相に書簡を送り、日共党中央委員24名全員の公職追放を指令した。吉田内閣はこの書簡を受け、同日の閣議で即日追放を通達した。これを予見していた党中央所感派幹部は国際派の宮顕・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。翌6.7日、名代として椎野悦郎を議長とする「臨時中央指導部」が設置された。

【全学連は党中央派と反主流各派に分裂する】
 全学連もこの煽りを受け、党中央派と反主流各派に分裂する。ちなみに、当時の派閥は次の通りである。党中央派は、徳球ー伊藤律派、野坂派、志田派。反主流派は、宮顕派、志賀派、国際共産主義者団、神山派、春日庄派。その他中西派、福本派。

 全学連武井執行部派は宮顕派と一蓮托生し続けていくことになる。東大細胞が宮顕系により掌握されたのに比して、当時の早大細胞は、こまかく数えると20以上の分派が生まれ四分五裂していた。1.国際共産主義者団=志賀義雄、野田弥三郎(哲学者)、2.神山派、3.再建細胞派(党中央所感派)、4.統一委員会派(宮本、袴田、蔵原、春日庄らの国際派)等々に分岐していた。

 大金久展氏の神山分派顛末記は次のように述べている。

 概要「50年分裂当時、早大細胞は基本的には主流派と国際派の二つに分かれた。国際派は様々に分岐しており東大のように宮顕派一色ではなかった。国際主義者団、相対的に独自の立場をとった神山グループ、およびその他多様なグループが存在したことは、東大をはじめ他大学にはみられない大きな特色であったろう。早稲田とは伝統的にそういう大学であった」。

 6.6日、早大.文学部学生30名、共産党中央委員追放・集会禁止に抗議して学内デモ。


 6.7日、アカハタ編集幹部17名が追放された。


 6.7日、全学連中執委、声明「反帝闘争を阻害する者に断乎抗議す」を発して、日共「6.1声明」に反駁。東大.学生1500名が抗議集会。


 6.13日、天野貞祐文相が、「最近の学生の政治活動について」談話を発表する。


 6.17日、「学生の政治・集会・デモの禁止」の次官通達が出された。


 6.22日、早大で、当局の集会禁止命令を蹴って自由と平和を守る会強行。東大でも平和請願集会が挙行された。この頃 GHQと日本警察による反戦言論の取り締まり。主に在日朝鮮人、共産党員、学生対象。逮捕者500人以上。


朝鮮動乱勃発
 6.24日、朝鮮動乱勃発。当時どちらが先に仕掛けたかという点で「謎」とされた。双方が相手を侵略者と呼んで一歩も譲らなかったからである。今日では北朝鮮側の方から仕掛けたということが判明している。

 「朝鮮人民は李承晩一味に反対するこの戦争で、朝鮮民主主義人民共和国とその憲法を守り抜き、南半部にたてられた売国的かいらい政権を一掃して、わが祖国の南半部に真の利人民政権である人民委員会を復活し、朝鮮民主主義人民共和国の旗のもとに祖国統一の偉業を完成しなければなりません」と、南半部全面開放を目指す戦争に、全人民が総決起するよう呼びかけ、北朝鮮軍の南下が始まりこうして全面的な内戦が始まった。

 北朝鮮軍は戦車と重砲を持つ人民軍部隊により韓国軍を打ち破り、たちまち38度線を突破しソウルを火の海にした。北朝鮮軍の奇襲は成功し、7.8日、北朝鮮軍が「怒涛のごとく南下」し、一挙に南朝鮮側を追いつめた。アメリカ軍は釜山周辺に追い詰められた。

 6.26日、マッカーサーが、共産党機関紙アカハタの30日間停刊指令。朝鮮動乱の勃発で東アジアは一気に緊迫し、マッカーサーが、いわゆるレッドパージを開始した。警察予備隊(自衛隊の前身)7万5千名の創設を指令し、労働組合内でも「民同派」が中心になって日共系産別会議に対抗する総評が結成された。

 この頃、徳球系党中央系所感派の主要幹部は中国に逃れ、北京機関と称される指導部を構築し、国内の「臨中」と呼吸を合わせた。 国際派の動きはまばらの野合であったが、宮顕を中心に党統一会議としてまとめられていった。


 7.2日、東大.反全学連組織、学生運動総協議会結成。5大学6組織加盟。


 7.3日、早大.東京都平和擁護大会。約1千名参加。平和投票コンクールで5万6千票集まる。


 7.8日、マッカーサーが、警察予備隊(自衛隊の前身)7万5千名の創設を指令。


 7.11日、労働組合内の「民同派」が中心になって、産別会議に対抗する日本労働組合総評議会(総評)が結成された。総評の結成は、戦後労働運動の主流を形成した産別指導との訣別を意味していた。社会党とともに「朝鮮問題不介入」の方針をとった。


 7.13日、全学連、都学連など全国50カ所一斉捜索。戦後最初の全国的規模に及ぶ全学連傘下の大学の家宅捜査となった。東大、早大などで前夜相当量の書類を焼いた痕跡があったと報道された。〃軍事基地の実態を見よ !〃の勅令311号違反容疑であった。


 7.18日、マッカーサーが、共産党機関紙アカハタの無期限発行停止指令。


 この頃世情は騒然とし始めており、朝鮮戦争の拡大、警察予備隊創設、共産党と全労連の解散、出版・報道関係のレッドパージが進む状況に直面していた。この頃党内情勢の分裂事態が深刻で、党非合法化に対処する過程で、徳球計執行部党主流派(所感派)は国際派の宮顕・志賀らを切り捨てたまま地下に潜行した。 この党中央分裂が全党末端にまで及んでいった。党主流派の主要幹部は中国に逃れ、国内の指導はその指揮下の「臨時中央指導部」に委ねられていた。 国際派の動きはまばらの野合であったが、宮顕を中心に党統一会議としてまとめられていくことになった。全学連グループはこの流れに属したことは既述した通りである。


【全学連中執が「レッドパージ反対闘争」を指令】
 8.30日、全学連は、緊急中央執行委員会を開いて「レッドパージ反対闘争」を決議、各大学自治会に指示を発した。9.1日、全学連.中執は、レッドパージ粉砕を声明、「レッド.パージ阻止の為、夏休み中の学生は急遽学校へ戻れ」の檄を出した。こうしてレッド・パージ反対闘争が開始された。9〜10月にかけて各地でレッドパージ粉砕闘争と結合させて試験ボイコット闘争を展開した。

【早大の「反レッド・パージ闘争」】

 大金久展氏の「神山分派顛末記」は、早大における「反レッド・パージ闘争」の特質を次のように述べている。

 「東大と違って早稲田は宮本系一色ではなく、さまざまなグループが存在し、相互に激しく対立するという側面もあったが、基本的にいって反レッド・パージ闘争に関するかぎり全く意見の相違はなく、それぞれが自分の信ずる方法でこれに参加した。これとどのように闘うかがそれぞれのグループの試金石だと信じられていた。党内論争に明け暮れるのではなく、学内での実際活動のなかでその正否を検証しよう、いうのが当時の支配的な空気だったろう。そして、こうした立場からある種の相互協力関係も生まれていた。これが安東仁兵衛などから『早稲田民族主義』とからかわれたり、羨ましがられたりするところなのだろう」。

 概要「細胞解散によって党の上からの決定で動くのではなく、自分の頭で考え、実践でこれを試す。いろいろな潮流があったし、激しい議論もやったが、みんな素晴らしい連中だった。コミンフォルム批判の是非とか朝鮮戦争の評価とか、いまの時点からいえばいろいろあろうし、その当時の個々の行動のいくつかについての悔いはあるにしても、全行動の結果についてはいまも悔いはない、と坂本尚が発言していたが、これが反レッド・パージ闘争を闘い抜いた早稲田の活動家共通の実感ではなかろうか」。
 「本間たちが去ったあとの解散反対細胞指導部には石垣辰男と堀越稔があたらしく加わった。二人とも党派的には統一委員会系統の『革命的(正統派)中央委員会の周りに結集しよう』というスローガンを支持していたようだが、こうした立場を押しつけるようなことはせず、早大学生自治会委員長吉田嘉清を扶けて幅広い学内での統一行動の組織化に努力していた」。
 「一九五〇年のレッド・パージ反対闘争の全期間を通じて、少なくともこれに関しては、主流派も含めてそのすべての勢力が一致して早大自治会を中心にこの闘争を闘い抜き、全国学生運動の最大拠点校のひとつとしての役割を果たしたのである。(もちろん犠牲も大きかった)」。

 9.6日、全学連代表、CIE ルーミス課長と会見。


 9.16日、早大で反戦学同結成(政経自治委員会室で約60名)。


 9.17日、第2回新制大学協議会が開かれ、全国40数校100名の代表者によって全国ゼネストによるレッド・パージ闘争を圧倒的多数で決議した。少数の「右翼反対派」は、日常闘争、地域権力闘争論を主張し、北海道学連、関西学連を中心に全学連の改組を要求していた。


 9.20日、早大.自治会、反レパ闘争に蹶起を呼びかけるアピール〃全早稲田の学生諸君に訴う〃を発す。この頃東大でも試験ボイコット闘争に入る。


 9.24日、早大細胞、9・3建議に基づき細胞各派、一堂に会し、建議を全面的に承認、委員を選出。中執の石垣ら、レッド・パージ闘争の具体的戦術を提案、満場一致確認。


 9.25日、法政大学が試験ボイコットに突入した。


 9.26日、早大.中執委員長、吉田嘉清、レッド・パージについての意見交換を島田総長に申し入れ。


 9.26日、全学連中執は、「緊急事態宣言」を発し、「いま、躊躇し、拱手することは6.26以来本年6.3闘争に至る日本学生の愛国的伝統を自ら放棄し、自らを戦争の魔手に委ねることに他ならない、即刻決起せよ、全力をレッド・パージ計画粉砕へ!」と檄を飛ばした。


 9.27日、天野文相が、「教職員のレッド・パージは、10月旬、政令62号によって行う」と談話発表。


 9.28日、早大.全学学生蹶起大会「早稲田の伝統を守る会」に都下5千の学生参加、集会の後の学内デモに警官隊乱入、9名逮捕。戦後最初の警官の学園への侵入となった。警官隊と衝突。開会宣言、 柳田謙十郎、宇野重吉、山本薩夫の挨拶.パージ粉砕など3項目を決議後、津金(政経自治会議長)の動議を採択、学内デモにうつる。この日、早大全学共闘は、武井昭夫全学連委員長らの指導介入を拒絶。


 9.29日、東大.全都学生蹶起大会。参加4500名。出隆教授メッセージの朗読。


 9.29日、早大.政経学部学生大会.潜入した戸塚署私服.田中警部を摘発。


 9.30日、東大教養学部で矢内原学部長警官を導入、学生の団結粉砕される。


 9.30日、早大.文学部自治会が闘争宣言、150人の闘争委員会を選出、バリケードを作る。


 10.1日 「学生評論」第7号が武井委員長の「日本学生運動における反帝的伝統の堅持と発展のために」掲載。


 10.1日、全学連都道府県代表者会議が開かれ、10.5ゼネスト方針を確認。

 10.5日、天野文相、参議院において「職をとしても、レッド・パージは一カ月内に行う」。


 10.5日、都学連は、デモが禁止されたため東京大学構内で「全都レッドパージ粉砕総決起大会」を開いた。都学連11大学2000人が参加、 これが契機となり全国の大学に闘争が波及した。この時の大会に対して装甲車を先頭とする約千五百の警官隊が学内侵入を試み、東大正門で吉田嘉清のひきいる1千の早大生と激突。吉田金治負傷、十月闘争の山場となった(真偽不明とのこと)。都下11大学によりストライキがゼネスト的に行われた。参加者39600名。この日天野文相は、参議院文教委員会で全学連の解散に団体等規制令の適用を法務総裁に申請した。が、実施には至らなかった。


 10.5日、早大全学集会の直後、全学連中執は都下主要大学の活動家を全国オルグとして各地方大学へ派遣。早大より大金、由井ら北陸へ、柴田詔三、早坂茂三ら関西へ。


 10.6日、全学連の中央闘争委員会は、「全国遊説隊」、「民族解放目覚まし隊」の編成を決定し、順次各要員が送り出されていった。

 10.8日、天野文相、島田総長会談。文相、早大自治会の全学連脱退と自治会非合法化を要望。早大自治会活動家会議.再建細胞が授業料問題を闘争目標とせよと主張、早くも対立。共産主義者団の諸君は10.17日まで、ほとんど学内に現れなかった。 


 10.17日、全学連はゼネストを決行せよ指令を出した。


 10.18日、全学連緊急中闘委が二〇スト戦術転換、全都集会中止、各大学で戦線整備を図る。全国ゼネストを中止、戦術転換を全国に指示。
 10.20日、早大.数千の警官の包囲下にあって文学部闘争委員会は50名のデモを敢行。

 この間、各大学で活動家学生の大量処分攻勢が始まっていた。10.12日、中大10名、10.16日、法政大31名、10.17日、東大2名(武井委員長ら)、早大25名、10.28日、早大86名という風に根こそぎの徹底処分が見舞われた。安東氏の「戦後共産党私記は次のように記している。

 「10月闘争の終焉とともに東大細胞は沈滞期に入る。それは沈滞期と言った静的な感じのものではなく、精魂を使い果たした疲労といっても良い。だが、11月に入ってから掘れ惚れの活動は重かった」。


【「第1次早大事件」発生】
 10.17日、この時早大で、第1次早大事件といわれる闘争が取り組まれ、全学連はゼネストを決行せよ指令を出し、全学連の呼びかけで早大構内で全都集会が開かれる。大学当局と警察は学生の「平和と大学擁護大会」を弾圧し、学生143名が逮捕された。10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。

 この経過は次の通り。学生大会開催中に、全学連中執(東大・武井、力石)らの意をうけた高沢、戸塚、木村、熊倉、不破=レポ係、早大は吉田嘉清ひとり)が大隈講堂控室で大会後の戦術を協議し、吉田の反対を押し切り、学生処分を協議中の学部長会議粉砕のため大学本部の占拠を決定した。早大全学共闘(吉田、津金、井川、坂本、岩丸ら)は「占拠は無謀」として、学部長会議に抗議ののち文学部校舎に籠城を主張(中島誠は全学連中執支持)。吉田は、第二執行部・石垣(吉田証言)を用意して本部に向かう。本部に座り込んだ学生たちは吉田の指導に従わず、東大と「国際主義者団」の指導下に占拠を継続。坂本、井川、岩丸ら囮のデモ隊を警官隊の前にくりだし、その隙に本部に座り込んだ学生たちを外に誘導しようとしたが徒労におわる。12時頃からの座り込み集会に、朝鮮学生同盟メンバーに引率された朝鮮小中学生、朝鮮語で〃にくしみのるつぼ〃を歌って激励。

 200名の学生が学部長会議開催中の本部をとりまいていたところへ、早大当局の要請で出動した約900名の警官隊と衝突、双方で20数名の重軽傷者が発生した。東大活動家群は木村の合図に一斉に逃げた。143名の学生(女子1名をふくむ)が不法侵入、不退去、暴行、傷害、公務執行妨害などの容疑で検挙された。検挙された学生は〃手錠をかけられて背中に番号を書かれて〃バスにのせられ、戸塚署ほか19署に分散留置された。


 この時の、全学連中執の指導が疑惑されることになり、次のように証言されている。これが1952.2.14日の国際派東大細胞内査問・リンチ事件の遠因となる。
 「夜おそく早大に駆けつけた私は、腰紐で文字通り数珠つなぎにされた同志たちを見て容易ならざる状態であることを知った。木村とともにこの日の無理な〃突撃〃を命じた戸塚の指導が後の査問の理由のひとつとなる」。

  10.17闘争は大会戦術の手違いと、予想以上に凶暴化した警察の手によって、かってない官権との大衝突事件となった。10.17以降、早大に武装警官が学内に常駐、自治会室を釘付け閉鎖。

 10.18日、全学連緊急中闘委が二〇スト戦術転換、全都集会中止、各大学で戦線整備を図る。全国ゼネストを中止、戦術転換を全国に指示。


 10.20日、全学連中執は、緊迫した情勢の分析の結果、急遽この日のゼネストの中止を指令、こうして10月反レッド・パージ闘争は幕を閉じた。この間の闘いは、モスクワ・北京の両放送のみならず、世界の通信報道機関により日本の学生闘争として伝えられた。


 10.20日、早大.数千の警官の包囲下にあって文学部闘争委員会は50名のデモを敢行。


 11月、東大.駒場時計台下.ケルン・メンバー集合.戸塚、沈滞した武井を批判、武井の謝罪.終始無言の吉田嘉清。


 11月、全学連中央、右翼反対派も、所感派地下指導部の指令により、突如左旋回、一揆的闘争に走り出す。


【1951年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1951年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.24日、早大で、「早稲田大学新聞」の記事が反戦的であるとして発禁処分。


 1.26日、関西学連は、この間右翼反対派を退け統一を勝ち取っていたが、この日一斉に平和集会を開催した。


 2月、早大で、自治会規程、廃止。自治会が非合法化された。(6月以降、学部長指導下の「学友会」が順次組織化されるが定着せず、52年には全学協=全学自治組織連絡協議会という各学友会、学生会の協議機関が結成される)。この頃の闘争課題は、「ダレス請願」、「反植民地デー参加の呼びかけ」、「学友諸君 ! 諸君は授業料を全納しているか !」、「全面講和と反植民地斗争デー参加呼びかけ」、「授業料未納者の追放を反植民地デーで粉砕せよ」、「再軍備、単独講和反対、占領軍撤退の要望.……教育関係法案改悪反対」。


 2.7日、衆議院で、天野貞祐文相が「私はかって共産主義者を学校から追放しようとしたことはない。大学の自治、大学の独立を尊重し、これを守るために独立を阻害する人をやめさせたのだ」(民主党・井出一太郎の質問に答えて)。


 2.9日、都学連が、全面講和締結要求・再軍備三法反対で国会誓願デモ.ダレスあて公開状提出。 和締結要求・再軍備三法反対で国会誓願デモ.ダレスあて公開状提出。


 2.21日、植民地闘争デー、各大学自治会は集会禁止令を蹴って強行。


【共産党が、四全協で武装闘争方針を提起】
 2.23日、共産党が四全協を開催し武装闘争方針を提起した。これ以降,国際派と所感派の左派関係が逆転する。宮顕らが四全協の結果を見て全国統一会議を再建していくことになる。

 3月、伊藤.紺野.椎野らの自己批判続く。


 3月下旬、早大に神山分派が結成され、大金ら11名の活動家が神山茂夫のもとへ結集した(→再度の国際批判により5ヶ月たらずで解散)。


 4.2日、早大.平和懇談会、ベルリン・アピールの拡大・出隆教授推薦等を決議。


 4.5日、東大.飯田橋で出隆都知事候補選挙運動中の東大生ら16名が逮捕されている。


 4.11日、マッカーサーが罷免され、後任にリッジウエイが就任した。


 4.27日、リッジウエイは、政府のメーデー皇居前広場の使用禁止を支持。


 4.28日、総評.中央メーデーは中止と決定。


 4.30日、都知事選挙で安井誠一郎当選.出隆惨敗。


 5.1日、総評.芝公園など分散メーデー。


 5.3日、リッジウエイ、公職追放解除。


【日本民主青年団(民青団)が発足】

 5.5日、日本民主青年団(民青団)が発足している。民青団は、党主流所感派の系列で生み出されたものであり、全学連活動家のその多くが連なった。彼らは党の方針を信じ、党の軍事方針の下で工作隊となり、積極的に参加していくことになった。東京周辺の学生たちは、「栄養分析法」・「球根栽培法」等の諸本を手にしながら三多摩の山奥にもぐり込んだ。結果的にこの時期の党の武装闘争路線は破綻していくことになり、民青団も大きな犠牲を払うことになった。

 今日「中国の人民戦争の経験の機械的適用であった」、「民族解放革命を目標として、街頭的冒険主義に陥り、セクト化を強め一面サークル主義になった」(「日本共産党の65年」)と総括されている。

 5〜6月、共産党所感派幹部の自己批判の評価めぐり、国際派内部において、宮本は自己批判を欺瞞とする否定的対応に終始し、春日は肯定的に評価したことから対立が深まり、決別した。


 5.22日、原爆禁止・ストックホルムアピール署名運動開始。


 5.24日、東京都反戦学生同盟早大支部委員会ビラ「東大生十三名釈放さる〜更に三名の救援と平和祭を !」。


 6.13日、全学連中執委、5回大会中止を決定、リッジウエイによる禁止。


【共産党が「51年綱領」を採択】

 8月上旬、共産党.モスクワ会議が開かれ、スターリン.徳球.野坂.西沢.袴田らで「51年綱領」を採択している。こうして中国に渡った徳球指導部は、「51年綱領」で、従来の平和革命式議会主義から一転して武装闘争路線へと転換せしめることになった。この方針は、長期にわたる武装闘争によって勝利を獲得した中国共産党の経験を学び、中国革命方式による人民革命軍とその根拠地づくりを我が国に適用しようとしたものであった。

 
その狙いは、朝鮮戦争の後方兵站基地として機能している日本での後方撹乱により、朝鮮戦争を優位に進めようとする当時の国際共産主義運動の方針があったようにも思われる。「山村根拠地建設」が目指され、 「山村工作隊」・「中核自衛隊」等が組織され、各地で火炎ビン闘争を発生させることになった。中核自衛隊の組織、戦術等が指示された武装闘争支援文書「栄養分析法」・「球根栽培法」等が配布された。同書にはゲリラ戦・爆弾製造の方法も書かれていた。


【共産党の武装闘争に対する全学連の対応】
 学生党員は、共産党の新方針によって、これを支持する党中央系と宮顕の指導する国際派に分かれていくことになった。
(私論.私見)

 
党中央所感派が武装闘争に転換するや、それまで党中央を右翼日和見主義として批判してきていた国際派が途端に日和見始める。宮顕派は、党中央所感派が武装闘争を呼号し始めるやそれまでの「左性カムフラージュ」が剥げ落ち、右翼日和見主義し始めた。武井系全学連中央派はそれに追随した。このことが様々な軋轢を生むことになる。党の新方針によって、党中央派学生党員は急進主義化したが、逆に宮顕派の指導する全学連武井派が穏和化していくという逆転構図となった。

 8.10日、共産党.コミンフォルム機関紙「恒久平和」が4全協の「分派主義者にたいする闘争にかんする決議」を支持的に報道、続いて14日には第4回全国協議会の決議を掲載した。この結果、最左派= 国際主義者団が降伏し、団結派も解散大会開催。統一協議会も解散と自己批判を余儀なくされた。統一派=春日はゴマスリ的自己批判をし、宮顕は抵抗しつつ復党したとされている。こうしてスターリンとコミンフォルムの権威によって、反徳球派の圧倒的多数の人々は徳球派に屈服することを余儀なくされた。これにより、日共党中央の全学連中執派のメンバーは非常に衝撃を受け、これを契機に再び多くの学生活動家は党中央の指導に服していくようになった。


 しかし、全学連委員長武井ら20数名は国際派の首領格であった宮本顕治グループと行動を共にする道を選んだ。本来であれば、その論に忠実であれば、武井系全学連は武装闘争路線への転換を歓迎する立場であった筈であるが、今度は平和闘争への転換に逃げ込み始める。どこまでいっても顕系との一蓮托生組でしかなかったことが判明する。この両者の縁が切れるのは、1955年の六全協で宮顕系が党中央に登壇しその右翼的本質を満展開することによってである。それ故に今暫くは蜜月振りを見せられることになる。

 8.26日、全学連は中央委員会総会を開き、50年以来の闘争の総括し、分裂主義者にたいする決議と闘争宣言、「全日本学生へのアピール」を採択している。武井委員長が再選された。


 9.8日、サンフランシスコ平和条約、安保条約が締結された。


 大金氏は、「早稲田通信第3号」(2004.8月)の「松下清雄の書き下ろし小説『三つ目のアマンジャク』について」で、次のように記している。
 1951年夏の再度のコミンフォルム批判で学内での活動拠点を失った松下は東大の安東仁兵衛や柴山健太郎などとともにその年の秋頃、山口武秀率いる常東農民組合でオ ルグ生活に入った。その活躍ぶりは伝説的で流石の安仁が「松下の真似はとてもでき ない」と完全に脱帽していた。


 9.8日、サンフランシスコ平和条約、安保条約が締結された。


 9月中、早大細胞は、上石神井にて早大細胞政経班会議を開いた。細胞キャップ・松本哲男は、新綱領草案(=日本共産党の当面の要求=日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのは間違いである)を提示、新方針による分派の完全粉砕と党の統一をうたった。この時新綱領=51年綱領を全員が支持を表明したと伝えられている。


【全学連執行部内の所感派と国際派の指導権争い】

 51年秋から、党中央は、トロツキスト追放キャンペーンの激しさをました。51年の暮れから52年を迎える頃には、全学連内の対立は国際派から所感派へ優位が移行していった。安東氏は次のように証言している。

 「グランド地下の隣の都学連の部屋は既に所感派の諸君に占領されていた」。

 10.6日、都学連において国際派執行部が辞任させられ、反対派に指導権を渡した。しかし、この時点では、全学連中執は国際派が掌握していた。10月頃より、武井派が排斥され始め、武装闘争に向う徳球系党中央派の学生党員が指導権を握っていった。


 10.16日、早大の大隈小講堂で学生生協設立総会。


 10.26日〜 明大.全国主要自治会代表者会議。


 11月、都学連が「〃学生戦線の統一.全国学生の要求31項目」を発表。この時、全学連中執排除を決議している。


 11.7日、「第一回京都人民解放物故者慰霊祭」が開かれたがこの時「水谷長三郎代議士宅襲撃事件」が発生している。これは、約1000名のデモ隊に参加していた京大、立命、同志社大の民青団系の学生が、水谷長三郎邸前を通ったとき「山宣を裏切った水長を倒せ」と野次りながら乱暴狼藉を働いた事件であった。


 11.12日、京大で、京大学友会が天皇への公開質問状を突きつけ、約一千の学生が天皇裕仁の車を取り囲み、一個大隊の警官隊が学生を襲撃するという事件が発生した。これは京大細胞=所感派の準備と指導で取り組まれた。この事件に対する二つの見解が発生し、全学連中執は、概要「京大事件の本質は、最大の目標を再軍備におきその一切の政治的、経済的イデオロギー的手段を動員した、戦争放火者に対する日本学生の真情と良心を代表した闘いである」とした。日共主流は、概要「天皇事件を天皇制との闘いとし、戦後権力構成の一つとして戦略的打撃論に結びつけるべし」とした。


 11.12日、徳球系党中央派の学生党員京大細胞の準備と指導により、約一千の学生が天皇の車を取り囲み、一個大隊の警官隊が学生を襲撃した(「天皇事件」)。この事件に対する見解が対立し、全学連中執=京大事件の本質は、最大の目標を再軍備におきその一切の政治的、経済的イデオロギー的手段を動員した、戦争放火者に対する日本学生の真情と良心を代表した闘いであるとした。日共主流=天皇事件を天皇制との闘いとし、戦後権力構成の一つとして戦略的打撃論に結びつけて宣伝した。

 これにより京大同学会は解散させられ、京都の学生戦線に露骨な弾圧が始まった。こうした状況下で、11月、同志社に民主青年団同志社班が組織された。


 11.23日、東京都学生自治会連合執行委員会(都学連)は、武井系全学連中執を批判し、絶縁宣言を声明した。「全学連中央執行委員会不信任決議(案)」を可決し、〃反帝闘争偏重、出隆かつぎだし、青年祖国戦線へのヒボーなど全学連中執の独善的指導にたいする非難.絶縁宣言〃をしている。11月から12月にかけて、北海道学連、関西学連、東京都学連が相次いで全学連中執の不信任を決議し、この流れが翌年へと続いていくことになる。


 11月、共産党.このころ「球根栽培法」「栄養分析表」など武装準備のための非合法出版物ぞくぞくと刊行し、11月共産党はこのころより山村工作隊を組織し始めた。


 12.2日、都学連.新執行部による大会を開き、全学連中執不信任案、可決。11月から12月にかけて、北海道学連、関西学連、東京都学連が相次いで全学連中執の不信任を決議し、この流れが翌年へと続いていくことになる。


 12.10日、早大で全学学生協議会が発足。昭和27年に、全学協=全学自治組織連絡協議会という、各学友会、学生会の協議機関(理工学部を除く)が結成されたが、念願の公認問題を解決できなかった。


【反戦学生同盟(反戦学同)の結成】

 12.15日、武井派の音頭で反戦学生同盟全国準備委員会総会が開催された。全国委員32名、評議員・オブザーバー30余名が出席し、民青団による反戦学生同盟の解体提案をめぐって議論を白熱させた。民青団の提案は、当時の共産党中央徳球系指導による武装闘争路線を背景にしており、1・革命的情勢に応じて学生も武装闘争に参加しなければならない、2・反戦学生同盟の存在は分裂的であり、解体させ民青団に合同させねばならない等々と主張していた。当時の学生運動の危機的な分裂状態を背景にしていたことになる。採決の結果、賛成4、反対18、保留2の多数決で否決した。これにより、反戦学生同盟(反戦学同)が結成されることになった。

 
この時の武井委員長の意見書に「層としての学生運動論」が展開されているとのことである。それまでの党の指導理論は、「学生は階級的浮動分子であり、プロレタリアに指導されてはじめて階級闘争に寄与するものに過ぎない」と学生の闘争エネルギーを過小評価しているのが公式見解であった。武井委員長は、意見書の中で、「学生は層として労働者階級の同盟軍となって闘う部隊である」という学生運動を「層」としてみなすことにより、社会的影響力を持つ一勢力として独自的に認識するよう働きかけていったようである。その後の全学連運動は、この「層としての学生運動論」を継承していくことになり、武井委員長の理論的功績であったと評価されている。


 12.24日、早大.社研、小河内村に農村調査隊派遣。この年の暮れから正月かけて全党のトップをきるように早大の社研グループが小河内の農村調査にいった。


【1952年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1952年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 武井全学連委員長は、新年メッセージで、「我々の間の思想、信仰の幾多の相違にも拘らず、相互の理解を一層深め団結をかたくし、我々の共通の目的がより有効に勝ち取られるよう、最大限の誠意と努力とを、以前のどの年よりもはらうよう」と述べた。  

 51年の暮れから52年を迎える頃には、全学連内の対立は国際派から所感派へ優位が以降していった。「グランド地下の隣の都学連の部屋は既に所感派の諸君に占領されていた」と安東氏は証言している。


 1.12日、全学連中執会議が開かれ、激しい論争が為された。


 1.26日、都学連.全国自治会代表者会議が開かれ、63校が集まり、「学校当局、警察権力の弾圧に対して徹底的闘うことなくして、経済的諸要求はかちとれない」ことを決議、全学連中執不信任が決議された。


【国際派東大細胞内の査問・リンチ事件
 2.14日頃、国際派東大細胞内で査問・リンチ事件が発生している。早大細胞が東大生のスパイ=オマタを摘発し、早大細胞キャップの松下清雄氏が東大細胞キャップに連絡し、松下氏立ち会いの上で戦後学生運動の初のリンチ拷問事件を起している。国際派東大細胞の指導的メンバーの一員であった戸塚秀夫・不破哲三・高沢寅男(都学連委員長)の3名が「スパイ容疑」で監禁され、以降2ヶ月間という長期の査問が続けられた。最終的に宮顕が介入し査問解除されたが、「スパイ容疑」の真相は未だ解明されていない。これを「国際派東大細胞内の査問・リンチ事件」と云う。国際派東大細胞内の査問・リンチ事件」で更に考察する)。
(私論.私見)

 
この事件を考察する意味は、これが戦後学生運動の初のリンチ拷問事件となったということと、この時査問された不破がその後日共の最高指導者として登場するに至ったという意味での重要性に有る。

 2.17日、津金の指揮する日本共産党早大傘下の中核自衛隊が、早朝より牛込警察署長官舎を襲撃。


 2月、早大の津金、由井ら20名ほどが党の山村工作隊を名乗って(小河内に)乗り込む。


【東大でポポロ座事件発生】

 2.20日、東大でポポロ座事件が発生した。劇団「ポポロ座」の演劇発表会に警視庁本富士警察署の私服警官数名が潜入していることが判明、事件となった。多数の学生が取り囲み一部暴力もふるわれ、警察手帳を奪った。押収した警察手帳には学生・教職員・学内団体の思想動向と活動に対する内偵の内容が記されていた。手帳押収に際して暴行があったとして学生が起訴された。

 この事件に対して、「大学の自治」を強調して「不法に入場した警官にも責任がある」とする見解と、「いかに学内であっても、暴行を受ければ警察権を行使するのは当然だ」とする田中栄一警視総監談話を廻って各方面に論争が繰り広げられることに鳴った。そういう意味で問題となった事件であった。

 第一審・第二審はともに被告人の行為は大学自治を護るための正当行為に当たるとして無罪判決。しかし最高裁は原判決を破棄、大学の学問の自由と自治は直接には教授をはじめとする研究者の研究・発表・教授の自由とそれらを保障するための自治であると限定的に解釈した上で、当日の集会は「真に学問的な研究と発表のためのものでなく」、大学の学問の自由と自治の範疇外にあるから警官の行為は違法でないとした。


東大農学部拡大中執で、所感派による国際派追放大会
 3.3日、全学連の拡大中執が東大農学部で開かれ、所感派による国際派追放大会が開催された。高沢、家坂、力石らの「君子豹変」。土本、安東、柴山、二瓶、下村らが〃国民の敵〃として非難、追放され、新しい中執が選出された。これにより、1948年の全学連結成以来日本学生運動の反帝・平和の伝統を担ってきた武井指導部は辞任することとなった。武井派は、「学生戦線統一の観点から辞任することとなった」と、総括している。指導権を握った所感派は、中核自衛隊の編成に着手し、山村工作隊を組織した。早大、東大、お茶大らに軍事組織が結成され、火炎瓶闘争を実践していくことになる。
(私論・私観) 武井執行部の辞任について

 この経緯を「反帝・平和の伝統を担ってきた武井指導部の引き摺り下ろし」とみなして、この時の政変を疑惑する史論が為されているが、れんだいこはそうは見ない。この頃武井指導部は宮顕論理に汚染され、既に闘う全学連運動を指揮し得なくなっていたのであり、歴史弁証法からすれば当然の経過であったと拝察したい。 

 3月、早大細胞が畠中山村工作隊へ。


 3月、破防法国会提出。この頃、破防法反対闘争なども取り組まれている。


 3.28日、非合法機関紙「平和と独立」の印刷所、配布先など全国1850ヶ所が捜索された。


 3.29日、山村工作隊の一斉手入れ。小河内村・山村工作隊23名が 検挙された。
【武井グループの四散】
 4月、全学連の安東、柴山、松下らが常東農民組合へ。武井は文芸評論を志す。「文学のブの字も口にしたことのなかった武井昭夫は『文学の批評でもやってみたい』といって私をおどろかせた」とある。

 4月、早大の由井が学内で中核自衛隊「民族解放早稲田突撃隊」(.隊長=由井.各学部の党員10人ほど)の編成に着手。早大からの学生工作隊は弱まりながらも続き、延べ千人近くに及んだという。


 4.12ー18日、総評が破防法反対のゼネストを展開。強力な実力闘争を展開した。


 4.28日、講和条約(サンフランシスコ平和条約、日米安保条約)が発効した。「GHQ」の廃止が発表され、実質的にアメリカ帝国主義の全面軍事占領であったものが終結し、軍事基地が要衝に残置された。


 4.30日、東大内にあった全学連事務所の強行閉鎖が行われた。


【「第23回血のメーデー事件」発生】

 5.1日、第23回統一メーデーが全国470カ所で約138万名を集めて行われた。東京中央メーデーは「流血メーデー」となり、「血のメーデー事件」として全世界に報道され衝撃が走った。

 1952.5.1メーデーは、全国470カ所で約138万名を集めて行われた。東京中央メーデーでは、「講和、安保二条約粉砕」、「民族の独立を闘いとれ」、「朝鮮即時休戦」、「破防法反対」などのスローガンが掲げられていた。復刊されたアカハタ第1号が配布された。由井らが岩田英一の指示によりメーデー会場にて赤旗を販売、とぶように売れた。

 デモ隊の一部から誰言うともなく「人民広場に行こう」の声があがり、数万のデモ隊が人民広場に向かっていった。この時、デモ隊の一部が暴徒化していたとも云われているが前後の絡みが不明である。「メーデー事件は、党の軍事方針にもとづく計画的騒乱だというのは考えられな い」とする見方が正確のようである。

 これに対し、警察当局は、デモ隊を広場へ引き入れた後数千人の武装警官隊によって襲撃させた。戦後初めての公権力によるデモ隊襲撃の阿修羅図となり、デモ隊も応戦して「まるで市街戦のような真昼の流血」となった。労働者.学生2000名の応戦も激しく4時間にわたる大乱闘の白兵戦となったと云われている。

 翌5.2日、田中警視総監は、「警察官の重傷68名、軽傷672名」と発表している。5.6日、木村法務総裁が「外国人の負傷は13名、暴徒側の負傷者は200人と推定、デモ側に死者1名、奪われたピストル3丁、焼失した米軍車両14台、損傷した車両101台」であることを確認している。最高検察庁は、騒擾罪を適用して、1100名の大検挙を行った。

 法政大学学生含む2名が射殺され5人が死亡し、300名以上が重傷を負い、千人をこえる負傷者がでた。当局は、事件関係者としてその後1230名(学生97名)を逮捕した。最高検察庁は、騒擾罪を適用して、1100名の大検挙を行った。 早大生は夕方から夜にかけて200名ばかりで演説会を行い、学内をデモ行進、早大から千人近く参加。キャンバスは騒然とした雰囲気であった。包帯を顔に巻いた学生たちが集会を開いていた、とある。

 予想外の大事件の勃発に対して、総評指導部は、「共産分子が行った集団的暴力行為」、「メーデーを汚した反労働者的行為である」と激しく非難した。党が武装闘争方針を明確にしていたことから党の軍事組織がこれを計画し実行したかのように受け取られたということである。

 党は、徳球書記長が地下から「最も英雄的行為、日本における革命運動の水準がいかに高いかを示した」と機関紙で評価し、「人民広場を血で染めた偉大なる愛国闘争について」(組織者6.1日第11号社)では、大衆の革命化が党の組織的準備を上回っており、党の実践のほうがむしろ立ち遅れているとみなした。党中央は、この群衆のエネルギーのなかに、武装闘争を推進させる条件が存在していると判断し、火炎ビン闘争を推進した。それは党にとっての史上初の武装闘争の道であったが、当然当局の取締り強化とのせめぎ合いであり、いかんせん党内でさえ足並みが揃わぬままの突っ走りとなったこともあり、結局は徳球党中央を自壊させる道となった。

(私論・私観) 「血のメーデー事件」の背景について

 今日なお、「血のメーデー事件」の背景が見えてこない。はっきりしていることは、1・数千人の武装警官隊があらかじめ配置されていた。2・党中央の軍事方針にもとづく計画的騒乱ではなかった、の二点だけである。この間隙を埋めるのは、3・急進派の用意周到な裏工作に拠る挑発、4・当局スパイ派に拠る挑発、のどれかであろう。


 5.7日、由井ら「民族解放早大突撃隊」が、騒乱罪適用で萎縮した活動家たちにむけ(上部の勧告により)軍事組織の存在をアピールするため「武器をとって戦おう-民族解放早大突撃隊」の隊員募集ビラを作成配布した。

 「我が隊は民族解放の為に、米帝売国奴と死を賭して闘う軍事組織である。我が隊はこの輝かしい5.1を記念して、巨大な闘いを更に発展させ世界の平和と民族の解放を闘いとるため諸君の入隊を期待する」。

【「第2次早大事件」発生】
 5.8日、早大で第2次早大事件が発生した。神楽坂署私服・山本昭三巡査を文学部校舎に監禁。救援の警官隊と座り込み学生1500名が10時間にわたる対峙となった。9日午前1時過ぎ、武力行使。未明、吉田嘉清ら多くの活動家たちの再結集.都下大学の学生をまじえ数千人の抗議集会。党は、「座り込み」を「消極的で敗北主義的な戦術」と批判。メーデー参加者逮捕にきた刑事を監禁、奪還にきた警察と衝突、学生に多数の負傷者がでた。

 5.9日、午前1時すぎ武力行使。未明、吉田嘉清ら多くの活動家たちが再結集し、都下大学の学生をまじえ数千人の抗議集会を開いた。党は「座り込み」を「消極的で敗北主義的な戦術」と批判。メーデー参加者を逮捕にきた刑事を監禁、奪還にきた警察と衝突。学生の負傷。

 浅沼稲次郎ら、仲裁に入る。「昭和二十七年,早稲田大学事件というのがありまして、例の警官隊が乱入して大変な騒ぎになったときであります。私も夜遅くまで校庭に残って、仲間と一緒に『警官帰れ』、『警官帰れ』と言って声を嗄らしていた一人でありましたが、あのとき、川崎秀二代議士や、石田博英代議士や先輩の代議士が来られて、『感情的になるな』、『暴力を振るうな』、『話し合いできちっとしろ』と、いろいろお諭しを受けたことを覚えております。そして、『早稲田大学の校歌を歌って帰れ』と言われて、帰ったことも思い出します」(海部総理大臣演説集,618−632)。


 この時のことは、次のように回顧されている。
 「昭和二十七年,早稲田大学事件というのがありまして,例の警官隊が乱入して大変な騒ぎになったときであります。私も夜遅くまで校庭に残って,仲間と一緒に『警官帰れ』、『警官帰れ』と言って声を嗄らしていた一人でありましたが、あのとき、川崎秀二代議士や、石田博英代議士や先輩の代議士が来られて、『感情的になるな』、『暴力を振るうな』、『話し合いできちっとしろ』と、いろいろお諭しを受けたことを覚えております。そして、『早稲田大学の校歌を歌って帰れ』と言われて、帰ったことも思い出します」(海部総理大臣演説集,618−632)。

 5.14日、同志社大で、破防法反対共同闘争委員会が結成される。以降、京都を「破防法反対」の全国的中心地にたらしめる闘いを繰り広げていった。


 5.28日、同志社大が、全額学生大会で全学連への加入を決議する。


 5.30日、全国各地で「5.30記念集会」。新宿,早大,東大,お茶大らの軍事組織がはじめて火炎瓶闘争。「破防法粉砕総蹶起大会」。「三方向から各10人ぐらい、一人2本ずつの火炎瓶。〃私のあずかり知らない火炎瓶闘争が新宿駅を皮切りに出現した〃」とある。


【党中央青年学生対策部が「学生運動の方針(案)」を発表】

 5月、「学生運動の方針(案)」が共産党中央青年学生対策部によって発表され、直後の全学連第5回大会の指導方針となった。


 6月中旬、早大.土本ら3人の活動家、除籍、退学処分。


 6.10日、全国統一行動。早大.破防法反対総決起大会、10月争以来はじめて全都の学生4千結集。


 6.17日、再度全国統一行動。


 6.20日、日本共産党早大細胞が「〃6千5百の学生・市民を結集し破防法粉砕全都総決起大会、教授有志による破防法反対声明文、日本共産党学生運動テーゼ発表〃」とある。


 6.25日、早大細胞軍事組織が、朝鮮戦争勃発2周年で、地区委員会と共同して米軍司令部にテルミドール爆弾を投擲した。この頃、早大理工学部党員らが在日米軍総司令部(市ヶ谷)襲撃を計画。テルミット法を研究し、「米軍総司令部への攻撃を指示された」とある。(梅雨の切れ目のある日)理工学部屋上で中核自衛隊の緊急会議が開かれ、地区より「パルチザン闘争=独立遊撃隊」の提起と「隊員供出」の指令が有り、地区内の各隊からひとりずつ5人で編成、 6月に出発することとなった。早大から由井,小林.Kが参加した。「私は市ヶ谷の米軍総司令部への攻撃など、当時の極左路線から惹き起こされたほとんどの事件にかかわってきた札付きの武闘派であった」とある。目標のドラム缶の集積が空で失敗、その夜小林勝が新宿駅周辺の衝突で逮捕。小林は改造モデルガンを所持、30人逮捕。


全学連第5回大会
 6.25〜27日、全学連.第5回大会が2年ぶりに開かれた。54大学の代議員197名、20大学のオブザーバーら400名が参加し、所感派が国際派から指導権を奪い取ることになった。武井ら旧中執20数名の除名追放が決議された(この除名決議は55.11月になって、誤った措置として取り消されることになる)。

 大会は、「反ファッショ行動組織」の結成を訴え、結語として「国会の即時解散、吉田政府打倒、民主的日本政府樹立」を宣言した。反戦学生同盟の解散決議、「27名の国民戦線からの追放」(武井委員長、安東仁兵衛、吉田嘉清、津島薫、山中明ら旧中執系20数名の除名追放)が決議された(この除名決議は、六全協後の55.11月になって、誤った措置であったとして取り消されることになる。

 大会は、新たに委員長・玉井仁(京大)、副委員長・妹尾昭(東京外大)、早川正雄(立命大)、書記長・斉藤文治(東大)らを選出した。つまり、国際派に占拠されていた全学連中執を党中央系が奪い返したことになる。こうして党内の大激震下で徳球系執行部を支持する所感派学生党員は、52年の全学連第5回大会で武井委員長ら旧執行部を追放し主導権を握った。


 玉井新執行部は、党の武闘路線の呼びかけと「農村部でのゲリラ戦こそ最も重要な闘い」とした新綱領にもとづき、農村に出向く等武装闘争に突き進んでいくことになっ た。こうして戦闘的な学生達は大学を離れ、農村に移住していった。この間、国際派学生党員グループは、自己批判し武装闘争に向った者、反戦学同的運動を継承しつつ主に平和擁護闘争を取り組んだ者、自己批判を拒絶して戦線離脱した者という具合に分岐したようである。留意すべきは、どちらの動きにせよ党指導下のそれであったことであろう。
 1970.3.22付朝日ジャーナル「激動の大学・戦後の証言」では、概要「国際派系代議員は、人民警察隊と名乗る所感派系の中核自衛隊の学生党員に鉄棒、焼きゴテなどによる凄惨なテロ、リンチを加えられた」とあるが、真偽不明。

【全学連.立命館地下室リンチ事件】

 6.26日、全学連第5回大会の最中で、全学連による立命館地下室リンチ事件が発生している。徳球系日共京都府委員会の指導する学生党員(「人民警察」)による、反戦学同員に対する3日2晩にわたるリンチ査問事件となり、被害学生は関大、立命館、名大、東京学芸大、教育大、津田塾の反戦学生同盟員ら延べ11名に及んだ。自己批判と「スパイ系図」作成が強要された、と伝えられている。

 
この事件に関して、山中明・氏は、次のようなことを明らかにしている。

 「ちなみに彼らの示した『CIC のスパイ系図』なるものには宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫の各氏が中心人物にすえられてあった。これはいまでこそ噴飯ものにすぎぬことであったが、当時そのことが血で血を洗う事件となり、皮肉なことだが、党内闘争は『武装闘争』の如き観を呈していたのである。この13校27名にわたる追放リストには武井昭夫、安東仁兵衛、吉田嘉清、津島薫の諸氏及び山中明が含まれていた」。

(私論・私観) 「CIC のスパイ系図」について

 
この事件の重要性は、「スパイ系図」にある。山中明氏の著作「戦後学生運動史」(青木新書、1967年)を参照すると、この時指摘された「宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫」スパイ説の根拠と当否は今に至るまで検討されていない。というか、今日この時の「CIC のスパイ系図」が完全に闇に葬られている。

 れんだいこから見て、「『CIC のスパイ系図』なるものには宮本顕治、春日庄次郎、神山茂夫の各氏が中心人物にすえられてあった」とはかなり貴重な資料になり得るように思われる。これを明らかにしている山中氏自身が「噴飯ものにすぎぬ」としているが、れんだいこはそうは見ない。それは余程の確証によった作成されたものではなかろうか。貴重なこの「CIC のスパイ系図」の具体的中味を更に知りたいがこれ以上は分からない。

 付言すれば、武井昭夫、安東仁兵衛、吉田嘉清、津島薫(飯島、教育大)、山中明らはいずれも、宮顕の息の掛かった学生グループであり、宮顕が党中央を簒奪するや順繰りに切り捨てられていった面々である。


 5回大会以後、全学連は極左的傾向を漸次改め、内灘、妙義、浅間などのアメリカ軍事基地反対闘争に取り組み、浅間闘争では東大でクラス討論を重ねて3000名の学生を動員して戦った。


 52―53年頃の東大本郷は、「吉川勇一、武藤一羊、中島武敏の3人衆により指導されていた」とある。


 7.4日、破防法成立。


 7月、全学連が各地で農村調査工作活動を開始する。


 7.17日、早大.滝沢林三、榊原喜一郎、破防法粉砕全都蹶起大会、早大責任者として、無期停学。


 8月、党はこの夏、井汲塾スタート。常連は上田兄弟,力石ら。 


【1953年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1953年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 2.21日、反戦学生同盟第2回全国委員会開催。


 3.5日、スターリン没。


 3.16日、東京都学生自治会連合執行委員会ビラ「総選挙に際し全都の学友諸君に訴える」、〃アピールと裏面に選挙対策会議への招請状〃。


 4.19日、総選挙で共産党当選1名。


 4月、沖縄で、米民政府のルイス民政官が日本留学生(契約学生)で赤化した者は解約すべきとの書簡。


 5.17日、早大.一政学友会ら18名、3日間にわたり図書館前でハンスト。経済闘争と政治闘争の対立。


 5.19日、早大.一政学友会、第2回総会.全学協加入を決議。


 6.9日、日本共産党早大細胞ビラ新聞「日刊真理 No.2」.〃重ねて六・一〇ゼネストを訴う〃。


全学連第6回大会
 6.11日、全学連第6回大会開催。70大学140自治会の代議員165名とオブザーバー500名が参加した。この頃基地反対闘争が中心課題となっていた。委員長に阿部康時(立命館大)、副委員長・大橋伝(横浜国大)、松本登久男(東大)、書記長・斎藤文治(東大)が選出された。

 大会は、基地反対闘争を中心として「反吉田反再軍備統一政府の樹立」を闘いとることを宣言し、「学生は民族解放の宣伝者になろう」が強調された。この大会決議に基づいて、大会後全学連は、進歩派教授と協力して、憲法改悪反対の講演会を開き、夏休みには一斉に「帰郷運動」で農村に入った。
 

 6.13日、内灘座り込み闘争開始。6.15日、早大が内灘闘争報告。


 6.15日、この日より金沢市郊外の内難村海岸で米軍の試射演習が開始された。これは52.11月に米軍より申し入れがあり、村民の反対にも関わらず12.2日政府は施設提供を閣議決定していたことによる。反対派住民は浜辺に小屋を建てて座り込み抵抗闘争に入った。いわゆる内難基地闘争と云われる。結局、政府は試用期間を3年以内とし、住民には補償金を出すことで収拾した。


 6.18日、自治庁、「学生の選挙権を原則として郷里におく、止宿先きにはない」と地方選挙管理委員会に通達、学生が反発して問題化。


 7.4日、早大で、全学協軍事基地対策委員会発足。


 8.18日、全学連中執が開かれ、自治相通達反対を決議し、「選挙問題対策委員会」の組織化と宣伝署名活動の開始を指令した。


 9.3日、早大で、学生選挙権につき全学協議長声明。「以後1年半の運動。54.10の最高裁判決をもって全面勝利。左派活動家の政治路線との対立」。


 9.4日、全学連拡大中執が開かれ、自治相通達反対闘争の推進を決議し、反対署名運動、労組・文化人への働きかけを行うことを確認した。東京都学連が学生選挙権についての抗議集会を開いた。MSA受諾反対、再軍備体制反対で清水谷公園に都内各大学学生2千名が東京駅八重洲口までデモをかけた。


 9.12日、早大.全学協総会.基地対、正式承認。


 9.14日、東京 都学連が「自治相通達撤回学生決起集会」を開いた。MSA受諾反対、再軍備体制反対で清水谷公園に都内各大学学生2千名が東京駅八重洲口までデモをかけた。 9.22日 早大.大隈講堂.学生選挙権問題についての全学一体の集会.参加2500名。警察の反対を押し切り清水谷公園「自治庁通達撤回全都学生総決起大会」へ。


 9.22日、早大の大隈講堂で、学生選挙権問題についての全学一体の集会が、参加2500名で開かれる。警察の反対を押し切り清水谷公園「自治庁通達撤回全都学生総決起大会」へ。 


 10.5日、日本共産党早大細胞が「本当の敵がわかった、警視庁、全学協代表に始末書書かす〃」。


 10.13日、早稲田大学全学々生協議会ビラ「妙義周辺基地化反対・現地学生センター建設について」。


 10.14日、共産党.北京=徳田球一没.59才。


 10.14日、日本共産党基地対策委員会・横川細胞ビラ「裏切り者に大会を運営させるな・基地絶対反対はこうすればできる」、〃アメリカ占領軍、吉田内閣、農協組合長非難〃。


 10.25日、早大.芹澤ほか4人、警視庁の呼び出し.詫び状提出.以降、全学協と早大細胞の軋轢。日本共産党早大細胞.〃ここで負けたら徴兵だ ! !、伊藤律夫人について〃。


 10.28日、全学連.四谷公園.豪雨のなか、学生選挙権全国学生総決起大会。北海道、九州の代表を含め約5千、日比谷公園脇までデモ。10. 共産党.「前衛No.85」不破論文=独占資本重視.のちに批判をあびて転向.(安東・続-102)。


 10月、共産党.「前衛No.85」不破論文=独占資本重視、のちに批判をあびて転向。


 12.1日、都学連.ゼネスト.四谷外堀公園.「自治庁通達撤回要求、再軍備、徴兵反対全都学生大会」議長=芹澤、金沢、松本(東大).学生約5千.国会請願デモ。


 12.5日、選挙制度調査会が、学生の選挙権は居住地にあると答申し、自治省はこの答申を受けて立法化した。こうして自治省通達反対闘争は、全学連の勝利に帰している。


【1954年の動き】(当時の検証資料)

 お知らせ
 当時の政治状況については「戦後政治史検証」の「1954年通期」に記す。本稿では、当時の学生運動関連の動きを記す。特別に考察したい事件については別途考察する。

 1.15日、憲法擁護国民連合結成大会が開催された。全学連、反戦学生同盟が加盟し、統一戦線の一角に入った。


 1.16日、早大.全学協総会で芹澤議長辞任し、後任=境栄八郎。


 1月、党が赤旗,セクト主義克服を主張。志田の終戦準備の体制堅めの兆しとなった。春頃、安東復党。


 2.22日、教育二法が国会に上程された。これは教員の政治活動の規制、教育の政治的中立確保という名目で「愛国心と自衛精神」を培養しようとする復古的な動きであった。3.26日成立。


 この頃、徳球系所感派の武装闘争は破産し、「臨中」も機能停止した。党中央派内では志田派が伊藤律派を駆逐し始め、国際派の中から宮顕派が台頭し始めた。志田派と宮顕派が裏提携し、「50年分裂」解消に向けて始動し始めている。玉井系全学連も自壊し、宮顕系の指導による穏和運動への転換が促進されていった。


 3.1日、アメリカがビキニで第1回水爆実験。死の灰が福竜丸の乗組員に降りかかり、三度目の原水爆の犠牲をもたらした。これ以降、吉田嘉清は原水爆禁止運動に参加。


 4.2日、全学連第5回中委が開かれ、「学生の幅広い統一行動」を推進するために「学生の状態のより一層正確な把握」が確認された。学生生活の向上と教育文化の発展の為にとして、健康を護る、食生活の改善、住宅問題、アルバイト問題の解決、授業料の値下げ等々の没政治主義的観点が打ち出された。この時、委員長に松本登久男(東大)、副委員長・増田正一(同志社大)、大沼正七(東北大)が選出された。


 5.2日、全学連は、東京で全日本学生平和会議を開いた。これには学生YMCA、仏教学生会、ユネスコ学連、沖縄学生会などが共催し、1600名の学生が参加した。原水爆禁止の署名運動が展開された。東大生は学内外で約2万の署名を集めた。全国で集められた署名総数は3365万に達した。


 5.21日、都学連.清水谷公園で、全都学生選挙権擁護決起大会、参加=1300名。土橋までデモ。


 5.28日、都学連.全都学生総決起大会。参加=4500名。スローガン=1.自由党修正案を粉砕せよ.2.自治庁通達を撤回せよ.3.学生選挙権を無条件で修学地に置け.4.ファシズム反対、民主主義をまもれ.5.全都全国の学生団結せよ。国会請願デモをかけた。


全学連第7回大会
 6.13日、全学連第7回大会が開かれた。大会は、「生活と平和の為に」を打ち出し、政治運動とか大衆運動から召還し、一転代わって没政治主義方針確立した。学科別のゼミナール運動を行う方針が決められた。また、サマーキャンプ、大学祭、歌声運動などの運動が強められるようになった。後の自治会サービス機関論を生み出すことになった原点であり、後に「学生運動としては完全に体を失い、俗悪化した大衆追随主義に転落した」と批判されている。人事で、委員長・松本登久男(東大)、書記長・子田耕作(大阪市大)を選出した。

(私論.私見)

 誰にも指摘されていないが、全学連のこの急激な穏和化の背景に何があったのか。れんだいこには容易に透けて見えてくる。この頃既に、宮顕と志田の裏交渉が始まっており、宮顕が事実上復権し始めていたと云うことになる。宮顕の指導するところ必ず穏和化になる。武井全学連との蜜月時代の左派的言辞は、徳球執行部に対する揺さぶりのためであり、いわばマヌーバーでしかなかった。このことも判明しよう。


 7月、全学連代表がIUSの副委員長に選ばれた。


【「原水爆禁止全国協議会(原水協)」結成】
 8.8日、全国的な原水爆禁止運動の高まりの中で、「原水爆禁止全国協議会(原水協)」が結成された。全国から400名が集まり、法大教授・安井郁氏が事務局長に就任した。日本の平和擁護運動に新しい流れが生まれた。翌55年第一回の原水爆禁止世界大会が開催されることになる。

 9.13日、日本共産党早大細胞が〃平和への挑戦を団結で粉砕.原水爆禁止運動弾圧に対する学生・市民の斗い.ほか〃。この頃精力的に平和運動に取り組んでいる。


 11.18日、早大で全学協議長交代(境栄八郎→菅卓二)。細胞キャップ・坂田紋三の境に対する査問。日本共産党早大細胞「〃学問の自由と生活の敵吉田政府を打倒し平和と独立の平和共存政府を樹立しよう〃」。


 12.13日、 日本共産党早大細胞ビラ新聞「真理 No.105」、〃平和・生活・自由を守る話し合いと行動を工場・農村・家庭に起こそう……冬休みを前にして〃。



 (この時期の学生運動、日本共産党との関係)

 1950年初頭の全学連運動は、依拠する党中央の分裂により股裂きされた。ここまで急進主義的に全学連運動を指導してきた武井系執行部派は宮顕派に篭絡され、あまりにも密接に付随した。

 東大細胞と早稲田細胞の反応差が興味深いので触れておく。東大細胞主流派は国際派の頭目・宮顕派に追従した。宮顕指導の結果、東大細胞間に秘密機関「ゲハイムニス・パルタイ」(通称ガー・ペー)が組織され、これが東大細胞の指導権を握った。その上部組織に「E・C(エグゼキューティブ・コミッティーの略称)」に力石と武井が据わり、安東・戸塚・高沢・銀林・不破哲三・佐藤経明・大下勝造、竹中一雄・福田洋一郎・長谷川らを加えていた。この過程で、東大細胞内で党中央派と反対派の亀裂が深まり、党中央派寄りであったL・Cキャップの小久保が「獅子身中の虫」として解任されている。後釜に戸塚が座るが、戸塚は後に「スパイ容疑」で査問されることになる。

 早大細胞はむしろ百家争鳴的であった。基本的には所感派と国際派の二つに分かれたが、国際派は様々に分岐しており東大のように宮顕派一色にはならなかった。他にも国際主義者団、神山グループ、その他多様なグループが存在し、それぞれが自己主張していた。当時早大細胞は、こまかく数えると20以上の分派が生まれ四分五裂していた。1.国際共産主義者団=志賀義雄、野田弥三郎(哲学者)、2.神山派、3.再建細胞派(党中央所感派)、4.統一委員会派(宮本、袴田、蔵原、春日庄らの国際派)等々に分岐していた。

 朝鮮動乱の直前に非合法に追いやられた徳球−伊藤律系党中央は中国へ亡命し北京機関を創設する。徳球−伊藤律党中央は、「51年綱領」により野坂式平和革命路線を放棄し武装闘争路線に転じた。この時、武井系執行部派は宮顕の意向に従い、それまでの急進主義の主張を引き込めて日和見的態度を取りはじめ、いわゆる反戦平和闘争に逃げ込み全学連運動全体の指導責任を放棄する。急進主義派に転じた党中央派は武井系執行部派を追い出し、武装闘争路線に呼応する玉井仁新執行部を誕生させた。

 しかし、武装闘争は線香花火に堕しことごとく失敗した。徳球が北京で客死し、伊藤律が幽閉されるに及び徳球−伊藤律系党中央は指導者を失い漂流し始める。志田派が伊藤律派を駆逐しながら党内支配権を掌握する。この志田派が宮顕派と通謀し、党中央再建に向っていくことになる。この間、徳球−伊藤律系党中央に従ってきた全学連急進主義派は茫然自失し始める。

 かく情況が推移していったのが1950年から54年末までの全学連運動であった。分かりやすく云えば、この時期全学連運動は手綱を失い、日共の政争に振り回されることになった。いずれも「日共指導偏重による歪み」と考えられよう。「日共のチグハグ指導と変調指導に対する進発」、これがこの後の全学連運動に対するキーワードとなる。

 この後は、「第3期」に記す。





(私論.私見)