第9期その21971年以降の学生運動 未整理書きなぐり

 (最新見直し2006.10.15日)

(戦後学生運動第9期その2、1971年以降の動き)


【1971年の動き】 「戦後史71年当時」

 1.25日、赤軍派・日共左派共同政治集会(東京・千代田公会堂)”蜂起−戦争勝利”を確認。


 2.17日、京浜安保共闘が、栃木県真岡市の銃砲店を襲い銃と銃弾を強奪した。赤軍派もМ作戦を展開し7月にかけて8件の郵便局、銀行などへの資金奪取作戦を敢行した。


 2.22日、千葉県・公団、三里塚第一次土地収用強制代執行。この日、三里塚農民は、決死隊が立木に自らの体を鎖で縛り付けて抵抗した。実に、三週間にわたって機動隊との闘いが続けられた。逮捕者は400名を越し、負傷者も重傷者41名を含む千名に及んだ。


 2.22日、赤軍派、資金徴発闘争、千葉辰巳郵便局襲撃。
 2.27日、赤軍派、資金徴発闘争、千葉高師郵便局襲撃。
 3.4日、赤軍派、資金徴発闘争、千葉夏見郵便局襲撃。
 3.9日、赤軍派、資金徴発闘争、横浜銀行相武台支店襲撃。
 3.22日、赤軍派、資金徴発闘争、仙台銀行黒松支店襲撃。


 4.28日、沖縄闘争、12.18ブントと戦旗派衝突。


 5.15日、赤軍派、資金徴発闘争、横浜銀行阪東支店〜横浜南吉田小学校襲撃。


 6.17日、この日全国で「6.17闘争」が繰り広げられた。東京では中核派.第四インターを中心とした約1万名が明治公園で、反帝学評、フロント、ML派など反中核派系約1万名が宮下公園で集会を開いた。両者とも、乗用車、材木、看板などで街頭バリケードや、線路上への座り込み、機動隊への火炎ビン攻撃などを展開したが、これにたいして、機動隊もガス銃などで応戦し、熾烈な攻防戦が展開された。

 集会終了後の午後8時50分頃、明治公園原宿付近で鉄パイプ爆弾が投げつけられ隊員37名が負傷した。赤軍派の仕業だった。集会後各派が街頭闘争に移り機動隊との熾烈な攻防戦が展開された。
この事件の容疑者として、赤軍派中央軍の少年(17歳)ら二人が、殺人未遂容疑などで逮捕されたが、証拠不十分で処分保留となった。6月15日からこの17日までの3日間の闘争での逮捕者は 1,061人にものぼった。


 6.19日、沖縄人民党が琉球大生・町田宗秀を虐殺。埴谷雄高、対馬忠行、高知聴ら九氏が「日共スターリン主義者に対する抗議と糾弾のための思想戦線統一を訴える共同 声明、とある。


 6.24日、赤軍派、資金徴発闘争、横浜銀行妙蓮寺支店襲撃。


 7月、竹下登内閣官房長官。


 7.9日、キッシンジャーが北京へ忍者外交。周恩来と会談。頭越し外交で日本に衝撃。


 7.15日、赤軍派・日共左派、「統一赤軍」(のち連合赤軍)結成を宣言。連合赤軍は南アルプスでの軍事訓練、新党理論の形成に向かったが、その過程でリンチ殺害事件を起こしていくこととなった。


 7.23日、赤軍派、資金徴発闘争、松江相互銀行米子支店襲撃。


 7月、三里塚の農民放送塔撤去などの強制執行。5日間にわたって死守戦が闘われ、逮捕者292名、負傷者500名を越えた。


 8.6日、広島反戦集会。統一赤軍結成のビラ。


 8.15日、ニクソンがドル防衛のため新経済政策発表。「ニクソン.ショック」といわれる。金とドルの交換一時停止。10%の輸入課徴金など東京外国為替市場はドル売り殺到。円高、ドル安となる。


 8.21日、赤報隊、埼玉県の陸上自衛隊朝霞基地に侵入、自衛官を殺害、腕章などを盗む。菊井良治ら9名が実行犯として、後に滝田修こと竹本信弘.元京大助手が共犯として逮捕される。


 沖縄返還協定調印


 9.14日、統一赤軍結成集会、500名結集。


 9.16日、成田空港建設第二次強制代執行。ヤグラや鉄塔に決死隊が立てこもって抵抗した。東峰十字路での反対派学生集団と機動隊の衝突で堀田大隊機動隊員3名が火炎瓶や角材による攻撃で死亡、一小隊全滅、全員負傷。逮捕者375名。


 9.25日、沖縄国会のヤマ場を前に、中核派らの沖縄青年委員会のメンバー4人が、皇居内、宮内庁にレンタカーで乗りつけ、発煙筒、火炎ビンを投げつける事件があった。


 10月、中華人民共和国が国連で代表権を得た。その結果、中華民国(台湾)が脱退することになった。


 10.16日、沖縄国会開会のさなか、東京など全国各地で、集会、デモが行われ、機動隊との衝突、交番への火炎ビン攻撃がおこった。


 10.20日、革マル派の水道橋美術学院生水山敏美が、横浜国大富士見寮で中核派に殺され、他数名重傷。革マル派は「中核派絶滅」宣言を行い、予告通リ攻勢にでることになる。この時、中核派は海老原君事件の時と同様に沈黙している。(これにたいして中核派も、「無条件かつ全面的な宣戦布告、カクマルに対する全面的せん滅戦争」を宣言、両派の全面的なテロ戦争が開始されたともある。


 10.23日、黒ヘル、RG派、都内連続交番爆破(代々木・清水橋、杉並・四面道、板橋・仲宿、同・養育院前、中野警察署、本郷・弥生町)、爆発二ヵ所、発見四ヵ所。


 10.23日、革マル派が、首都圏の中核派拠点大学に対する一斉テロ攻撃。


 11.1日、革マル派が、中核派の長谷川英憲杉並区議事務所を攻撃。


 11.8日、革マル派が、京都大学前でビラ配りをしていた中核派20名を襲撃。


 11.5日、赤軍派・日共革左などの10名初の特別公開指名手配。


 11.10日、破防法違反容疑で松尾真中核派全学連委員長が逮捕されている。


 11.10日、沖縄現地で、全軍労、県教組、官公労などによる、協定粉砕、批准阻止の空前といわれる島ぐるみのゼネストが行われたが、これに呼応して、本土でも、各地で集会、デモ、機動隊との衝突がおこった。


 11.14日、国会で強行採決のきざしがみえたこの日、全国32都度府県、80ヶ所に、10万人が集まって、阻止闘争が展開された。この日、宮下公園での集会を禁止された中核派は「渋谷大暴動」を叫んで、渋谷に進撃、各所で機動隊と衝突した。200人の中核派部隊の火炎ビン攻撃をうけた渋谷署神山交番では、警備にあたっていた警官が、火炎ビンで火だるまになり、病院で死亡した。また、午後2時ごろには、国電池袋駅で、中核派の学生、労働者がもちこんだ火炎ビンが、満員の山手線電車内で炎上、乗客らが重軽傷を負い、火炎ビンを浴びた中核派反戦青年委の女教師が、病院で死亡した。深夜まで7時間にわたって渋谷駅や繁華街でのゲリラ戦が続き、この日の衝突で、313人が凶器準備集合罪などで逮捕された。


 11.17日、沖縄返還協定は衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発して、社会.共産両党と総評は国会請願デモ。新左翼各派は19日1万9000名が日比谷公園などに集まり、機動隊と衝突。この時公園内の松本楼炎上。この日の逮捕者は1886名の大量逮捕となった。


 11月、「烽火」派から赤報派分裂。 左派グループも、内部での指導責任をめぐる対立などから、「関西派」「右田派」「神奈川左派」「赤報派」に分裂した(この頃合同関西派3分裂)。 


 11.17日、沖縄返還協定は衆議院沖縄特別委で強行採決された。これに反発して、社会.共産両党と総評は国会請願デモ。

 11.19日、沖縄批准反対闘争。新左翼各派1万9000名が日比谷公園などに集まり、日比谷公園の各入り口に阻止戦をはって封鎖した機動隊と衝突。この時公園内の松本楼が炎上全焼した。中核派の犯行。さらに、国電有楽町駅周辺から銀座一帯、大手町のオフィス街などで、火炎ビンを投げ、バリケードを築くなどのゲリラ戦が展開された。日比谷、丸の内周辺以外でも、各派によるバリケード市街戦が、都内各地で行われ、この日の逮捕者は1886名の大量逮捕となった。
1969年11.16、17日の佐藤首相訪米阻止闘争時の1985名につぐ大量逮捕となった。

 11.20日、中核派の集会デモに対し、全面的な禁止措置が取られた。

 
11.24日、沖縄返還協定法案が衆院本会議で強行採決され、自然成立した。


 12.4日、革マル派のテロにより、中核派の活動家・辻敏明(京大)、正田三郎(同志社大)が死亡。以降、中核派も「無条件且つ全面的に宣戦布告、カクマルに対する全面的殲滅戦争」を宣言。両派の全面的なテロ戦の展開となった。この時点から、中核派は、革マル派をカクマルと呼ぶようになり、権力と一体となって中核派掃討戦に乗り出している「K=K連合」と認識し始めた。


 12月、円レートが一ドル360円から308円に切り上げられた。


 12月、RG派の竹内毅特別公開指名手配。


 12.15日、革マル派のテロにより、中核派の三重県委員長・武藤一郎が三重市でビラ配り中に襲撃され死亡。この時、革マル派は、病院の医者のコメントを引いて「これは持病の結核と風邪により、急性肺炎を起こして死んだ」と声明している。


 12.24日、東京新宿三丁目の交番でクリスマスツリーに見せかけた時限爆弾が爆発、警官.通行人ら7名が重軽傷。

 1971年末ころには、共産同は、四分五裂の状態となった。

 秋頃、共労党は、沖縄闘争や武装闘争の在り方をめぐって「労働者党派」、「プロレタリア革命派」、「赤色戦線派」の三つに分裂した。 



【1972年の動き】 「戦後史72年当時」

 1.3日日米繊維協定をワシントンで調印。


 1.6日サンクレメンテで佐藤.ニクソン会談。


 2月赤軍派中央委員重信房子が奥平と共にパレスチナ入り。PFLP(パレスチナ解放人民戦線)との連帯共同。


 2.17日連合赤軍最高指導者森恒夫.永田洋子が逮捕された。群馬県妙義山アジト付近。


 2.19日連合赤軍メンバー坂口弘ら5名が長野県軽井沢の「浅間山荘」に乱入し、管理人夫人牟田泰子(31才)を人質にしてたてこもった。 あさま山荘事件発生。警察1500名が出動し、10日間にわたる銃撃戦の末逮捕した。この救出作戦中、警官2名が死亡、23名の負傷者が出た。この経過が現場中継され国民の多くが釘付けとなった。2.28日銃撃戦の末陥落。


 2.21日ニクソンが訪中して毛沢東首席と会談、27日米中共同声明を発表。二度目の「ニクソン.ショック」といわれる。


 3.7日連合赤軍メンバー12名のリンチ殺人遺体が発見される。京浜安保共闘時代の2名を含めて犠牲者14名。新左翼にショックを与える。


 革マル派対反革マル派ゲバ事件多発。


 民青同12回大会で新日和見主義者処分


 1972.3.30日大阪地評青年協集会の場で、解放派と革マル派との衝突がおこり、集会が一時的に混乱した。解放派は、組合青年運動の現段階及び共闘の現段階に配慮が足りなかった点があったとして、自己批判し、地評青年部段階へ提出した。4.20日同じく大阪地評青年部段階で、集会がもたれたが、この集会・デモは何の混乱もなく終った。4.21日、東京日比谷公園において、全青協の集会デモがもたれ、この時解放派と革マル派は一触即発状態にあったが、解放派は衝突回避の労をとっていた。が、『革マル派は突然、卑劣にも、水道・反戦・全学連を背後から襲撃してきた』。

 これは、「4.21は、3.30問題を政治的に利用して、地青協・全青協への宗派的敵対の全面化にふみきった」ことを意味する。4.28日沖縄、東京、大阪で労学業会が持たれたが、大阪集会で解放派と革マル派との衝突が発生、この中で革マル派系の木下氏が死亡するという事件が発生。この事件発生後、革マル派全都の部隊約三百が解放派全学連に攻撃を加え、寮に閉じこもる解放派と対峙状態に入った。結局、革マル派は攻撃をやりきれずに終った。

 4月、キッシンジャー国家安全保障担当大統領補佐官が来日。「今日米関係は第二次世界大戦後で一番難しい時期にあると言わざるを得ない」。


 4.28日、青解派が大阪三者協集会を襲撃、京都外語大生・木下正人を虐殺、とある。


 5.13日共産同戦旗派約600名が、神田周辺で、火炎瓶闘争を敢行しました。「御茶の水解放区闘争」と言われているものです。この闘争で、128名もの逮捕者が出ました。これを契機として、戦旗派内に闘争の指導責任をめぐっての内紛が激化していくことになる。


 5月田中派結成。東京.柳橋の料亭いな垣に佐藤派81名が結集。


 5.30日(日本時間5.31日)イスラエルのテルアビブ国際空港で日本赤軍3名が乱射事件。24名の死者、80名以上の負傷者発生。襲撃した奥平剛士(26才.京大)、安田安之(24才.京大)の2名はその場で射殺された。岡本公三(24才.鹿児島大)は逮捕され軍事法廷で終身刑の判決を受け収容された。パレスチナ入りした日本赤軍の旗揚げ的な意味を持った軍事行動となった。


 6.17日佐藤引退声明。機密文書。「佐藤の後継者選出がそれまでの自民党総裁選と違う理由は、それまでは主流対反主流派の戦いが一般的であったが、今回はほぼ絶対この中から総裁が決まると思われる三人は、全員主流派であり、それだけに後任選びの過程で主流派の結束に永久的な亀裂を生む可能性がある」と認識した上で、総裁候補の福田と特に精緻に田中を、更に大平についてコメントしている。概要「基本的には三人の中で誰が総裁になっても、いずれとでも上手くやっていけるだろう。日米関係の行方は、福田が一番良い影響を与えるであろう。大平が一番影が薄い。田中の態度が最も未知数だ。日本の政治家の中では、田中だけが海外との絆を発掘するどころか、海外との接点すら持つていない。彼の素養が最も不明である」。以降も特に田中についての驚くほど詳細なレポートが発信されていった。特徴は、「コンピューター月ブルドーザー」としての能力と政治手法を高く評価しており、そうした優秀さを危惧している節のあるレポートとなっていた。


 7.5日自民党臨時党大会が日比谷公会堂で開催。第一回投票結果は、田中156票、福田150票、大平101票、三木69票となった。この結果、攘夷二人の決選投票になり、田中は282票、福田190票と、圧倒的な大差で福田赳夫を破って第6代自民党総裁に選出された。


 6月情況派、政治闘争から撤退。      


 7月全国社研、マルクス主義労働者同盟(マル労同)へ改称。

 この経過につき分かりやすくまとめた一文があるので掲載しておく。(社労党機関紙「海つばめ」第783号 町田 勝)
 「ブントはセクト的な分裂と統一、離合と集散を目まぐるしく繰り返しながら、全共闘運動や反戦青年委員会運動などとも結び付き、日韓闘争、ベトナム反戦、学園闘争、70年安保、沖縄闘争、三里塚闘争などを繰り広げてきた。しかし、彼らやってきた運動は60年ブントの急進主義的な政治闘争をいっそう急進化させた『革命ごっこ』以上のものではなかった。それは社共の平和主義的、民族主義的、民主主義的な政治(労働組合運動では組合主義や経済主義)の水準を本質的に一歩も超えるものではなかった。彼らの運動はせいぜいのところ、ブルジョア的な腐敗と堕落を深める社共の日和見主義に対する“左”からの“罰”、あるいは補完物としての意義を持ったに過ぎなかった。

 70年代半ばにさしかかるや、彼らはその空虚な急進主義の生命を使い果たした挙げ句、一方ではマンガチックな連合赤軍による浅間山荘銃撃事件に行き着いたこと、そして革共同両派や社青同解放派が陰惨な内ゲバ、テロルにのめり込むに至ったこと、さらに最近では第四インターやブント戦旗派の諸君が情けなくも完全に市民主義者の尻尾に成り下がってしまったこと――これこそ新左翼運動の不毛性と破産を最終的に暴露するものでなくて何であろう。

 レーニンはロシアの革命運動を始めるにあったって『正しい革命理論なくして、革命運動はありえない』と喝破し、終生それを強調したが、社共はもとより、ブントの、そしてブントの亜流の新左翼運動の破綻はマルクス主義的な革命理論を軽視したことの報いである。そして、これこそは戦前、戦後を通じての日本社会主義運動百年の歴史が繰り返しわれわれに教えている貴重な教訓でもある。

 (全国社研以来)この10年近くに及ぶ集団的研究の成果は七二年に結成されたマルクス主義労働者同盟(マル労同)の綱領となって結実した。そして、ここに日本の社会主義運動史上初めて真にマルクス主義的な革命理論と現実の科学的な分析の上に立脚した綱領を持つ労働者の革命的政治組織が誕生したのであった。

 マル労同は「左右の日和見主義反対!」のスローガンのもと(すなわち社共の右の日和見主義はもちろんのこと、急進派の左の日和見主義にも反対して)、工場・職場、地域において、また労働組合運動をはじめとする労働者の大衆運動のなかで、労働者階級の現実的な利益を守る闘いの先頭に立つとともに、機関紙誌を武器に宣伝、扇動、組織化の粘り強い闘いを展開していった。

 それとともにまた、結成二年後の七四年、参議院選全国区に候補者に立てて闘ったのを皮切りに、その後も、七七年参院選、八〇年衆参同日選挙に参加。資本と日和見主義者の政治と具体的に切り結ぶなかで、彼らを徹底的に暴露し、公然たる革命的社会主義的な呼びかけを貫徹していった。議会選挙を利用して労働者の階級的自覚と組織化を促す闘いもまたブルジョア民主主義国家の下で、それに適応した労働者党の革命的政治闘争の重要な一環であることはいうまでもあるまい。

 一九八四年、労働者大衆といっそう緊密に結びついた労働者政党の建設をめざしマル労同を発展的に改組して結成された社労党(社会主義労働者党)のもとでも労働者大衆の中で機関紙誌を軸とした原則的な闘いを推し進めるとともに、引き続き地方選や国政選挙への参加が積極的に取り組まれ、確認団体として参加した八六年および八九年の参院選挙では、比例区で一五万票を獲得した。

 社労党は組織的には今だ眇(びょう)たる存在でしかない。しかし、社会党の消滅、共産党の底知れないブルジョア的な堕落の深化、新左翼運動の退廃と衰滅といった現状を見るならば、労働者階級とその幾多の先駆者たちが営々として築いてきた日本社会主義運動百年の歴史の大道に立っているのが誰であるかは明白であろう。
 


 7.7日第一次田中内閣発足。橋本幹事長、竹下副幹事長。事実上の竹下幹事長であったと云われている。福田に入閣を求めたが、福田は拒否した。


 8月旧ML同盟系を中心に、解放委員会結成。


 8.31日ハワイで田中.ニクソン会談。アメリカ側は、ニクソン、キッシンジャー、日本側は田中、牛場信彦駐米大使。その後、ロジャーズ国務長官、大平外相が加わっている。


 9.4日反戦相模原闘争が主催されたが、この時中核派と革マル派がゲバルト会戦している。

 9.25日田中首相と大平外相が中国へ。「不正常な状態(戦争状態)の終了、中国が唯一の合法的政府であることを認める」など共同声明に、29日調印。「日中国交回復」。日中国交回復に反発した若手タカ派が「青嵐会」を結成した。


 10月鉄の戦線派、蜂起派へ改称。


 11.9日、早大で革マル派による「川口君リンチ殺害事件」が発生した。東京.本郷の東大構内付属病院前にパジャマ姿の川口氏が放置されていた。した意には全身アザだらけの殴打の跡があり、骨折した腕から白い骨がのぞいていた。革マル派による早大文学部2年生の川口大三郎(20才)君を中核派とみなしたリンチ殺害事件であることが判明した。


 革命マル派は、事件に対し、「追及過程での意図せぬ事態、ショック症状による死亡---党派闘争の原則から実質的にはみ出す行為に走ったといわざるを得ない---一部の未熟な部分によって起こった事態---率直な自己批判を行う」と表明した。


 12.22日第二次田中内閣発足。



【1973年の動き】 「戦後史73年当時」

 1.1日連合赤軍最高指導者森恒夫が東京拘置所で首吊り自殺。


 1.27日米、南.北ベトナム、臨時革命政府の4代表がベトナム和平協定と議定書に調印。


 3月赤軍東京都委員会派、赤軍派第一回臨時総会を開催。臨時総会派結成。


 4月前衛派、共産主義者党に改称。


 4月「共産同」中間派の「荒派」でも、1972年の「5・13神田解放区闘争」で大量検挙されたことに対する責任追及をめぐって、党建設を重視する荒岱介派と武闘路線を重視する反荒岱介派が対立、翌1973.4月には、反荒岱介派の一部が「国際主義派」を名乗って分裂し、次いで同年6月には、反荒岱介派の多数を占める「大下敦史派」が分裂した。


 4.27日ウォーターゲート事件が政治スキャンダルに発展。


 5月赤軍武装路線堅持派、赤軍派(革命戦争編集委員会)と赤軍派再建準備委員会派に分裂。


 6月戦旗派が、日向派(荒派)・西田派(両川派)・プロレタリア戦旗派(本多派)・国際主義派に分裂。


 7.20日テルアビブ事件1年2ヶ月後日本赤軍丸岡修とパレスチナ.ゲリラ4名が日航ジャンボ404便をオランダ.アムステルダム空港離陸後ハイジャックした。「日本とパレスチナの革命を結合する世界革命戦争」を唱えた。3日間各地を転々としてリビア・ベンガジ空港で人質解放、期待を爆破。


 7.31日ワシントンで田中.ニクソン会談。


 8.22日ロジャーズ米国務長官辞任、ヘンリー.キッシンジャーが後任。


 9.15日、青解派が、神奈川大で革マル派の金築寛(東大生)と清水徹志(国際基督教大生)君を虐殺、とある。


 9.21日、中核派が、革マル派の学生・労働者の闇討ち襲撃を開始、とある。


 9月、蜂起派から、蜂起左派分裂。「右田派」も、1972.5月の「自衛隊西部方面総監部爆弾事件」や同年7月の「自衛隊市ケ谷駐屯地火炎車事件」の総括をめぐって紛糾を続け、翌1973.9月には、「誤りの責任は非公然軍事指導部にある」とする右田昌人議長派に反対する佐藤秋雄派が「蜂起左派」を名乗って分裂したほか、中間派も存在し、現在、三つのグループに分れている。


 10月「マルクス主義者青年同盟」(マル青同)が結成されている。「ML同盟」の残存者である「全都解放委員会」と、元共産同政治局員の指導下にあった「レーニン研究会」とが、組織合同して発足した。


 10.17日第一次オイルショック。OPECが原油価格21%引き上げを発表。


 10.22日、中核派が国学院大の女子活動家をバールで襲撃、とある。


【第12回党大会】
 「民主連合政府綱領案」提案。決定。上田耕一郎。  
○期日.会場.代議員数について  10.24−30日第10回党大会を開く。世田谷区民会館、太田区民会館。957人の代議員が参加した。10.26日会場への盗聴器摘発。10.27日政府などに抗議。
○大会の眼目  大会の眼目は、
○採択決議について
○新執行部について  
 中央委員は、前回の67名から88名、同候補は42名から49名、中央統制監査委員  は9名から7名を選出した。新しい中央委員会は、議長に野坂.書記長に宮本.幹部会員に野坂.宮本.袴田.岡.春日.河田.蔵原.紺野.西沢.松島.米原の9人、同候補に岩林虎之助.内野竹千代.大淵生気.下司順吉.砂間一良.高原晋一.藤原隆三.吉田資治を、書記局員に宮本.袴田.岡ら16人、書記局員候補8名を選んだ。   宮本−袴田体制の継続確立   宮本体制確立 70年当時の党の方針の特質と要点 ○〈本党大会までの執行部評価〉について  
@〈世界情勢に対する認識〉について   
A〈国内情勢に対する認識〉について  
B〈党の革命戦略〉について
C〈党の革命戦術〉について
D〈党の具体的な運動方向〉について  
E〈党の大衆闘争指導理論〉について  
F〈党の機関運営〉について  
G〈左翼陣営内における本流意識〉について  
H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について  


現代古文書研究会 | 共産同系 > 戦旗西田派 > 1973年 >

初出は、『戦旗』340号(1973年12月5日号、戦旗社)。『共産主義 共産主義者同盟(戦旗派)重要論文集』1巻(戦旗社、1983年)から。


七三年日向カクマル主義者の組織的脱落に関する声明
日向カクマル主義―解党派粉砕し、同盟の革命的再生を

共産同(戦旗派)中央委員会_

 六月十二CC以降日向一派を先頭とする諸グループは同盟より脱走と逃亡を開始た。「中央委員会の開催など何の意味もない」(日向)として、中央指導部を分裂させ(六月)、更に党協議会設置の提起(八月)に一貫して反対し、連絡会議をもってこれに代行させ(九月下旬)、今日に至っては、この「連絡会議」からも逃亡している(十一月)。中央学生組織委員会のボイコット(八月)による反帝戦線の分断、部落解放組織委員会のボイコット(七月)による「克服すべき課題」に対する反動的居直りと大衆闘争機関の分断を強行し、その他の一切の党機関から逃亡。「編集局会議の決定なしには戦旗は発行しない」との確認(十月下旬)にもかかわらず勝手に発行し(戦旗・三三八号)、われわれの批判によって自己批判し(十月下旬)その結果、戦旗・三三九号が「合同編集局」によって発行されたにもかかわらず、今度はこの編集局会議をボイコットし(十月二十九日)編集局からも、最終的に逃亡。日向一派の「中央指導部の解体」に始まり、「戦旗編集局の分断」に終る解党的行為を断じて許すことはできない。わが共産主義者同盟戦旗派中央委員会(多数派)は、ここに公然と声明を発表し、一切の合法主義、一切の「左」右の解党主義と闘い抜く。わが同盟の一部に発生したカクマル主義者・経済主義者の連合を打ち破り、中央集権党を堅持し、七〇年代階級闘争を担う。

全ての人民に訴える
―同盟は健在であり同盟は不滅である

  わが同盟はいま、同盟建設三年間の闘いの中で最も重大な試練に直面している。この「党の試練」は、同盟建設三年間の闘いを清算するのか、同盟建設三年間の闘いを堅持し発展させるのか、社会排外主義者=カクマルに屈服し、共産主義者同盟十余年の歴史を清算するのか、社会排外主義者=カクマルと闘い共産主義者同盟十余年の歴史を防衛・継承するのか、という根本的にしてかつ本質的な問題をわれわれに突きつけている。
 七二年六月、日向一派の中央派結成に始まる戦旗派内分派闘争に示される事態は、わが同盟内の一部日和見主義者―日向一派、城山―篠沢グループ、そして渋谷グループ(いわゆる国際主義派)。帝国主義に屈服しカクマル主義に屈服した経済主義者・カクマル主義者。
 革命勢力の「武装遊撃戦を端緒とする戦略的反攻を戦取」せんという、極めて厳しく、同時にわれわれにとっては、光栄ある闘いの現段階に突入しつつある。わが同盟が十・八羽田闘争以降の武装闘争を継承し「死闘の七〇年代」を真に指導しうるのか否かということなのであり、もっと積極的にいうならば、わが同盟をこの武装闘争の最前衛として創りあげ打ち鍛えていく「決意」があるのかどうなのか、「能力」があるのかどうなのかということなのである。
 党建設―非合法党建設からの脱走を許さず、党の統一をかちとろう。

カクマル主義を粉砕せよ
―二つの解党派とわれわれの道

 わが同盟は、六九年七・六第二次共産主義者同盟の崩壊以降、「党の革命」をかかげ、一切のメンシェビキ的・ローザ的前衛党組織観と闘い、真の前衛党組織建設をめざして闘い抜いてきた。レーニン・ボルシェビキ党組織建設に向け、分派闘争を非和解的に推進してきた。党内日和見主義分派=赤軍派、叛旗派、情況派、野合右派(関地区派、左派、蜂起派)と他ならぬ党組織建設を巡って闘い抜き、これら諸雑派を同盟外に放逐し、党内闘争に勝利してきた。
 わが同盟は、「軍事を孕み共産主義を組織する党」、「武装闘争の前衛部隊としての党」を掲げ、権力に対して武装しきることと、同時に政治闘争・武装闘争を結合させ、労働者階級を組織的実体としたところの革命勢力を創出させることを二つの重大任務と設定し闘いを強化してきた。党組織建設のための闘い(党のための闘い)と、革命勢力を強化・拡大していく闘い(党としての闘い)という、党組織にとっての二つの闘い、二重の任務を組織してきた。
 同盟の一部に発生した主体形成主義、その発展としてのカクマル主義。われわれはこの党内闘争を通じて9CC、10CC、11CCを主体形成主義・カクマル主義との訣別の組織的集約環としてかちとってきた。
 つまり、第二次ブンの破産という歴史的現実に規定された、主体形成主義的傾向・サークル主義的傾向からの主体的訣別、その到達点としての不動の前衛的立場の確立、前衛党的位置への発展。この前衛党的位置からえ返しての主体形成主義的傾向、サークル主義的傾向の克服。いかに「戦う党」を創り出すのかということであった。つまり、「第二次ブンは戦術左翼集団だった」として総括した同盟理論(とりわけ「編集局への手紙」のなかに見られる日向理論)の中では、戦術左翼集団の否定、カクマルにも通じる本質的に日和見主義であるこの体質、この思想といかに闘い抜くのかという問題であったのである。日向より日向的であった同盟内活動家(S・S・Aら)が最もカクマル的=最右派であったことは、このことを如実に示している。戦術左翼集団であった第二次ブンをのり越えんとしたとき、この方法において、二つの傾向が同盟内には常に潜在的・顕在的に存在していたのである。すなわち一方には、学習会と主体形成のみを問題とするカクマル主義・サークル主義であり、他方においては、革命的党的立場からこの「戦術」をえかえし物質化していくレーニン主義の立場である。まさに問われていたことは、カクマル式党建設と闘うことであったのだ。
 このわれわれ的党建設の仕方とカクマル式党建設の異なりは、戦旗派内部に構造的対立をもたらしていった。9CC政組、10CC政組、11CC路線という形で一部の誤まった傾向・カクマル主義的党建設の傾向は徐々に克服されてきた。特に11CCでは、カクマル主義発生の根拠たる恒武闘争論(その理論的根拠としての日向イズム・スコラ的観念論、党組織と階級組織の同一化)の誤りを克服し、「戦う党」への端緒をつくりあげた。だが、われわれの闘いの不徹底さ故に、彼らのカクマル主義への成長・転化を許してしまった。
 
 日向一派は、軍事問題に対する完全なる日和見主義故に、一切軍事問題を清算し軍事清算派へ転落し、政治闘争、武装闘争まで清算する腐り切った経済主義にまで純化発展をとげている。日向一派は「上からの解党主義」として党の合法化を推し進め、わが同盟の非合法党建設に敵対している。城山グループは「下からの解党主義」として同盟の解散を求め、日本階級闘争を清算し、同盟を風化・解体させようとしている。城山グループの最右派篠沢グループはいまではほんもののカクマルの手先となり、戦旗派内に初期より存在した偏向との闘いの重大さをわれわれに痛感させている。日向一派―城山グループとは、カクマル主義・経済主義では共通し、「第二次ブンは余りにも左翼的・戦闘的であった」と総括する点で、非合法党建設に反対する点では共通であり、政治闘争・武装闘争の継承と発展の全面的清算というところで共通している。違いといえば、たかだか日向一派が城山グループほどほんもののカクマルに純化できないだけであり、同盟を城山グループが「下から」解体させようとしているのに対して、日向一派は同盟を「上から」解体させようとしていることぐらいである。
 戦旗派内分派闘争の本質的意義は中央集権党建設・全国単一党建設、「軍事を孕み共産主義を組織する党建設」「武装闘争を組織する党建設」の目的意識的闘いの継承、発展をなしとげるということであり、これを巡る闘いの中での二つのカクマル主義者の逃亡ということである。

同盟の革命的団結を
―解党派と闘い戦列を強化せよ

 ところで、われわれは、(1) 戦旗派三年間の歴史的意義を確認し、(2) 戦旗派建設の歴史的前進の結果としての二つのカクマル主義の発生の事実問題を明らかにし、(3) 戦旗派建設の意義のおし進めと、共産同の全歴史を二つのカクマル主義から防衛するものとしての、わが分派の結成とその後のわが分派による党内―分派闘争の組織化の全経過を全プロレタリアート人民共通の問題として明らかにしたい。

同盟の闘いと日和見主義

 わが同盟は、六九年七・六第二次共産同の崩壊以降、「戦術指導部の党」という第二次共産同の歴史的限界を克服するものとして、党組織建設の独自的闘いをおし進めてきた。五・二九外務省突入をもって切り開かれた「党としての闘い」は、六・一七宮下公園における武装闘争の展開、秋期十・二一、十一・一九「公―非闘争の推進」と沖共闘の左翼的牽引、更に翌年三・一三西部方面隊突入闘争、三月全関東叛軍を動員しての現地北熊本闘争の確固とした指導、そして又、これらの全成果をかけての五・一三神田武装遊撃戦と七・一五北熊本闘争、息つくひまもない連続的な敵権力との死闘の闘いであった。とりわけ、五・一三武装遊撃戦は、「七〇年代が機動隊せん滅戦の時代」「武装遊撃戦を通じて戦略的反攻を戦取する闘いの時代」として七〇年階級闘争の基軸的方向性を提起し、一切の中間諸派の権力による「火炎ビン立法」によるどう喝の前での逃亡をのりこえ闘い抜かれたのである。党としての闘いの全成果をかけて、権力の一二九名にも及ぶ大量逮捕―大弾圧をものともせず闘い抜いた同盟の精神こそ、七〇年代階級闘争を闘うわれわれの確信である。
 
 ところで同盟は、鉄火の七〇年代階級闘争の中におけるこの党組織建設の独自の闘いと、革命勢力を強化、拡大させていく闘いという二つの任務を遂行するなかで、多くの試練と困難につき当った。
 それは第一に、わが同盟が、軍事武装闘争をいかに組織していくのかという問題であり、第二に、かかる政治的性格を有したものとしての党組織建設の独自的建設の問題であり、第三に革命勢力を創出していくうえでの問題であり、第四に、七〇年代における戦略的総路線に基礎づけられた「総路線」の確立の問題であった。この四つの課題の中で、革命的傾向と日和見主義的傾向は明らかとなったのである。すなわち、革命的部分は、生起した課題が、われわれの全同盟の活動の勝利的前進ゆえの「当然の帰結に」他ならないと把握し、この四つの課題をガッチリと主体的にえ返し、前進せんとしたのである。「恒武闘争論(路線)」に孕まれた悟性主義的・カクマル主義的偏向の克服、つまり論理主義・スコラ的観念性の克服の必要性であり、路線問題、戦術問題に対するカクマル主義的無方針の克服ということである。
 これに対する日和見主義(主要には党内カクマル主義)は、生起した課題を、わが同盟の全活動の勝利的前進の成果として見るのではなく、同盟の破産・敗北の結果として見ること、つまり同盟活動に対する不確信と動揺にその本質的性格を有しているのである。
 すなわち日和見主義的部分は第一に、わが同盟の軍事武装闘争組織化の苦闘を一切清算し、軍事問題、武装闘争の問題を語ることすらしない完全なる合法主義に転落し、第二に、非合法党建設、中央集権党建設を否定し、「広汎な民主主義要求派」として党を合法化させ、党組織を階級組織と混同し解党主義の思想を持ち込み、第三には、鉄火の階級闘争の中で革命勢力を構築するのではなく、この現実的任務の重大性と緊急性を見ないで「運動と組織の弁証法的理解」とかいうスコラ論議でお茶を濁して闘いから逃亡しようとし、第四には、現実に展開されている労働者人民の闘いに接近し、確固とした「計画としての戦術」による指導ということを全く放棄し、小ブル的自己確認に党的立場をしこめ、その結果として、一切階級的責任を負わないセクト主義的傾向として立ちあらわれたのである。 

11CCの日向中央派の性格

 日向一派は、第一に、わが同盟の軍事闘争・武装闘争の組織化について口先だけで認め、その裏では清算し、第二に、非合法党建設・中央集権党を語りながら、その実、「上からの党の合法党への改組」を企て、第三に、革命勢力の強化・拡大の任務においては、政治闘争・武装闘争にあいまいな態度をとり、階級との結合に対してスコラ的理論をもっての啓蒙主義におちいり、その裏返しとしてセクト主義、排外主義を構造化させ、第四に、実践的な「総路線」の確立の追求に対して、「党的世界」なるスコラ的自己充足の世界を対置せんとしたのである。
 わが同盟は(1) 軍事武装闘争の推進、(2) 非合法党、中央集権党建設の推進、(3) 革命勢力の強化・拡大のための指導の強化、一切の排外主義の克服、(4) 「総路線」の確固とした確立、という四点の問題に直面し、この解決を目的意識的に追求せねばならなかった。
 七二年一月、当時の最高責任者の日向の「入院」という名目での逃亡の中。この中で中央指導部は二つの傾向に分岐した。同盟の全成果の上に四つの課題を推し進めんとする部分と、旧来のスコラ的「恒武闘争論」に固執、これに内包されている論理主義的傾向を防衛・固執せんとした自己保身的部分である。その後、前者の部分=四人委員会による断固たる党内闘争の組織化によって「11CC路線」は確立されたのである。すなわち11CC路線の確立によってカクマル主義的偏向を内包していた恒武論は敗北し、わが同盟にとって画期的路線が採用されたのである。
 11CC路線においては、軍事武装闘争推進上における戦役主義克服の方向性と同時に、政治闘争と武装闘争との結合の方向性の鮮明化、(2) 党組織建設における「水増し化」の克服の方向性、同盟=KIM論に見られる解党主義、合法主義組織論―組織路線の克服の方向性、そして又、中央指導部から末端細胞まで、革命党の党員は正規軍的質で武装されねばならないことの鮮明化、あくまでも現実に接近し現実の階級闘争の中で革命党と革命勢力の任務を明らかにしていくという態度の堅持と強化、つまり「理論主義的偏向」「論理主義的偏向」又「前衛ショービニズム」の克服の方向性を鮮明化せんとしたのである。だがしかし、四人委員会の闘いによって、11CC路線という「左派路線」が確立されつつも、にもかかわらず四人委員会はこの意義を徹底化し、意識化し、日和見主義、主体形成主義の完全なる克服をなしとげることができず、党内闘争は中途挫折し妥協的形態へと変質せしめられた。
 ところで日向は、この「11CC路線」の意義の徹底化―「恒武論」の敗北の原因の本質的え返しが、当然にも自己の全論理体系の破産につながるのではないかと直感し、その予防措置として分派結成に踏みきったのである。
 その後、日向中央派は、路線的には「セクト的実行委員会方式」の採用を目論み、軍事闘争はもちろんのこと政治闘争までをも清算し始めたのである。日向一派は、11CC路線を清算して右派路線を採用する際に、城山―篠沢があまりにも右派で日和見主義であったのとわれわれの闘いにはばまれ難行し、結局、「右派を批判しながら右派路線をとる」といったスターリン型党運営に走ったのであった。
 七月、I、Sの九州・北海道への追放(これは四人委員会の闘いの不徹底さ故の必然の結果であるが)七月、九州での地区代表者会議の席上における「怪文書」の配布等を公然と推し進めつつ、裏ではH―NOによる「Sを除名するための確証を!!」として○CAP・Oをオルグしたり、NTが「○○○○は反対派の拠点だからいつでもゲバルトをやれる体制をつくれ」と言ってオルグしたり、果てはNAに至っては、○において、「四人委員会が金が使い込んだ」などという全く見えすいた信じられるはずもない、うそとデタラメでオルグするという形で「反対派狩り」という名の下に自己の分派への分派的オルグを強行したのである。
 七二年六月〜十一月までの期間は日向中央派内の「左翼バネ」として機能していたNTの動向によって、それなりに11CC路線の物質化という表象を党活動に与えていたわけであるが、七二年十一月以降は、「キム凍結」をメルクマールに、11CC路線を清算し、党内右派路線を構造化させたのである。とくに、地域主義的傾向を色濃く有した○○方式が全同盟に普遍化されるに至っては、路線的にも経済主義、カクマル主義に屈服したということであった。だから、日向中央派のデマを軸とした分派的同盟運営に疑問を抱き、○○型セクト的実行委方式の全同盟的採用に反対する部分によって、同盟内反日向中央派分派活動は開始されたのである。

われわれの分派闘争

 かかる党的混乱の事態の中で、われわれは七三年三月末、日向中央派の分派的組織運営=分裂主義と対決すべく、戦旗派内左派分派として自己を形成したのである。第一に党組織建設の独自活動を通じて機関の確立を、非合法党、中央集権党を建設しきること、第二に「路線問題に対する態度」、路線の内容に関して、「スコラ的観念論」「論理主義」と闘い、11CC路線を堅持し、より一層の深化、発展をかちとること。第三に軍事武装闘争の一切の清算に反対しきること、つまり「公―非の展開」を主体的に受けとめきること、第四に日向中央派の分派的意志統一が相当「堅い」ことを根拠として、来る拡大中央委員会の開催までは非公然の分派闘争形態を基軸とした分派活動を考えること、第五に、当時の反日向中央派と目されていた部分が色濃く有していた反官僚主義、反中央集権主義的傾向、つまり解党主義的傾向と闘い、これを克服すること。組織的には城山―篠沢を中心に当時結成されていた「反ブン主義カクマル主義フラクション」と断固として闘い、政治・組織上において勝利すること、第六に、城山・篠沢グループ解体の組織戦術の一環として合同討論の場を設定し、又、12CC獲得のための戦術協定を行うこと等であった。
 
 12CCにおいて、われわれは日向一派の「予防反革命」としての分派結成の事実問題、日向一派による軍事武装闘争の身をもっての清算―同盟の権力への合法化の事実を明らかにし、その後の分派闘争の全同盟的方向性を責任をもって提起したのである。
 ところで、12CC以降の分派闘争の同盟内部での公然たる展開の中で、わが分派は本格的分派建設、党建設に突入したのである。
 城山―篠沢グループは七二年秋期より七三年春期にかけて、同盟より脱落した解党主義グループ=渋谷グループに対する態度において常に中間主義的態度をとり続け、彼らの解党主義を擁護さえしたのである。
 七三年六月12CC以降は、戦旗派内部に様々な傾向性をそれとして純化させた。すなわち、革命的なものはより一層革命的となり、日和見主義的なものはより一層日和見主義的なものとなった。まず日向中央派は、中間派連合故に「左翼バネ」たるNT、「重鎮」たるNOが脱落し文字通り然たる「上からの解党派」、「小ブル排外主義者」に純化したし、又、城山―篠沢グループは「カクマルへの参加の仕方」をめぐって分裂したのである。

革命的党組織建設を
―日向カクマル主義を粉砕せよ

 七〇年代中期「支配階級との激突の時代」を控えて、日和見主義者は「同盟活動の全成果」に対する不確信故の逃亡を計り、清算をおし進めた。日向一派は非合法党建設を清算し、又もや、あの古き「妖雲亭フラク」に党を解体させようとしている。城山グループは党建設そのものを清算し、共産主義者同盟の全歴史を清算し、完全なるカクマル主義へ転落した。ゆる党機関から逃亡し、ゆる戦線から脱走している。ゆる党機関からの逃亡、ゆる階級指導からの召還という現実の中にこそ彼らの解党主義としての本質があるのであり、レーニン主義的原則からの逃亡があるのだ。
 日向一派がいっているように「党建設を言いすぎた」。むしろ、日向一派の如く「戦旗派の党建設は小ブル急進主義だった」として、また、結果解釈し、合法主義カクマル主義(それもフロント化した)に屈服し、脱走を計る清算主義分子を許してはならないということなのだ。われわれは必ずや、「軍事を組織する党」「労働者階級の党」という観点をマルクス・レーニン主義の諸原則で正しく統一し、戦旗派内カクマル分子の掃討をなしとげ、第二次共産同の分裂を止揚し、社共に変る日本における唯一の前衛党を創り出すであろう。
   一九七三年十二月十八日

共産主義者同盟戦旗派中央委員会(多数派)_

〔『戦旗』第三四〇号(一九七三年十二月五日)に掲載〕_

合赤軍事件に関する特別報告

はじめに

 共産主義者同盟赤軍派としての結成以来の歩み――とくに連合赤軍の歩み――を総括。
 連合赤軍の同志殺害に関する問題。同志殺害という行為は、当時の政治思想上、路線上の問題ときってもきりはなせない。軍事第一主義・観念的共産主義・大衆からの召喚主義等々の誤まった政治・思想上、路線上の問題にその起因があることはいうまでもない。同志殺害の行為の責任を問うことと、亡き一二名の同志(日共革命左派神奈川県常任委員会系の同志たちも含めて)の名誉回復を確認する。

〔1〕 連合赤軍同志殺害の事実経過とその分析

 連合赤軍のゲリラ戦は、大衆闘争の武装闘争への転化をある程度促進した。その指導性を軍事のエスカレートに求め、その活動は軍事活動に一面化していった。戦術的には大衆運動から召喚し、人民から孤立し、山岳アジトへの撤退を余儀なくされていった。我々は軍事第一主義的な建軍革命戦争路線の根本的な路線転換が要求されていた。この要求に赤軍派・日共革命左派神奈川県常任委の指導部がこたえられなかったため、両組織は自らの内部矛盾を激化させていき、それは中央軍・人民革命軍、連合赤軍に最も集中して現われた。 結論からいえば、我々は一連の同志殺害を同志殺害という形をとった連合赤軍指導部と「下部」兵士との党内闘争であり、又指導部による党内闘争の暴力的圧殺であると分析する。
 連合赤軍同志殺害は七一年夏、向山茂徳同志・早岐やす子同志に対して人民革命軍指導部によって行なわれた事に端を発している。この理由は、両同志の戦線離脱による権力への通報を恐れたものだった。これは七一年一二月二六日の以後の一連のいわゆる「総括」→同志殺害の直接のきっかけをなすものであった。

 だが、この理由は一二名の同志殺害にとっては外因として作用していたにすぎない。真の内在的理由は別の処にある。
 七一年一二月二〇日、共産同赤軍派の中央軍と日共革命左派神奈川県常任委の人民革命軍は組織合同を決定した。その政治的・軍事的基調は以下である。(1) 合同軍事訓練を展開し、新党建設・銃によるせん滅戦をかちとる。(2) かかる飛躍を短期間に果たすために厳しい自己批判―相互批判を通して兵士の小ブル性を払拭し、隊内共産主義をかちとる。革命左派の加藤能敬同志・尾崎充男同志がまずこの方針に反対した。加藤同志は爆弾闘争の多発化による大衆闘争の武装化と武装闘争派の統一を主張し、尾崎同志は反米愛国路線の堅持を主張した。連赤指導部は戦術的には爆弾闘争の重視を右翼日和見主義、思想的には反米愛国の堅持を毛沢東教条主義と批判し、軍―共産主義の母胎論の思想を対置した。だが、彼らは思想(綱領)・戦術・組織全般にわたる党内矛盾を解決するのではなく、反対派を暴力的に圧殺していく、銃をもてる軍隊への飛躍、兵士の小ブル性の払拭という隊内共産主義論はすでに赤軍派にあっては七〇年秋第二次綱領論争において路線化されているが(新聞『赤軍七号』)、実践的にはこれは自分の反対派を暴力的に圧殺していく口実以外の何物でもなかった。何か個人の禁欲主義的修養によって小ブル性が克服され、しかも暴力的に行えばより徹底して行えると考えるのである。この「共産主義論」はマルクス主義とは縁もゆかりもない。連赤指導部はあるべき共産主義的人格を我流に規定し、それに適応しない点を恣意的に並べたて、あるべき人格と違うからといって暴力をふるい、次々と同志を殺害していくのである。森・永田両名は、この「共産主義化の闘い」の中で全く自己の小ブル性は問わないのである。ということは、彼らは資本主義社会が必然的に刻印するブルジョアイデオロギー、習慣等から完全に超越している「共産主義的」人格である、ということになる。森は、この点を上申書で自己批判し、自己批判―相互批判の作風がなかった、病を治して人を救うという観点がなかったからだといっているが、何故そのような大原則をふみにじったのか? それは、相互批判をすれば永遠の相互告発運動になり、その過程で路線をめぐる意見の対立が拡大していく以外にないからだ。したがって、一方的な糾弾になっていくのである。このとき、党内論争を圧殺するためにそのような誤まった共産主義観をおしつけたのか、それとも逆なのかというのはさして問題ではない。誤まった共産主義観と党内闘争の圧殺は密接に結びついていることを確認しておけばよい。
 加藤同志に対しては、パクられたとき権力と雑談した。尾崎同志には「総括」されているが、加藤同志をなぐったとき口走った言葉が問題だ。小嶋和子同志に対しては加藤同志に接吻されたことを報告するときにうれしそうなそぶりをした、等々の理由で、まず自己の小ブル性の総括を要求し、次に全員でなぐり、ロープでしばり死亡させていくのである。
 かくして、連赤指導部は、銃によるせん滅戦という極左的戦術に対する批判とまともに論争せず、マルクス主義と全く無縁な隊内共産主義論という小ブル的修養思想を対置し、指導部の指導放棄からくる連合赤軍の行きづまりの責任を被指導部兵士の人格的欠陥になすりつけ転嫁していくのである。
 以下、同志殺害を通して連赤の内部矛盾がどのように拡大し、内部崩壊していくかをあとづけてみよう。
 ◎進藤同志に対して 彼が横浜寿町で活動していたことをとりあげルンプロ的個人主義的であると批判し、暴行を加える過程で死亡。(赤軍派最初の処罰)
 ◎遠山同志に対して 彼女は女性であることに甘えていて兵士の自覚が足りないと批判され、暴力を加えられ、七二年一月七日死亡。
 ◎行方同志に対して (1) いつも第二線にいる、(2) 女性関係がルーズ等の理由で七二年一月三日から九日にかけて暴力的に批判され死亡。
 (この三人の同志は森らの「共産主義論」にだまされ、その要求に必死になって応えようとしながらその過程で殺害された。だが、内部矛盾は更に拡大していく。)
 ◎寺岡恒一同志に対して 彼は野心家であり、女性を蔑視している、という理由で中央委員でありながらそのような小ブル性の責任は大きいとして、一月七日森によって死刑宣告され、殺害される。
 ◎山崎順同志に対して 優等生的である。女性関係がルーズであると総括を要求。(一・一八)(一九日某同志が戦線離脱=いわゆる「脱走」)その時、彼が「六名を殺した。自分も殺される。」といった事を把え、総括―共産主義化の意義が他の殺害された同志に比べて全然分っていない。だから脱走して敵権力に通報する可能性がある、とし、彼も死刑宣告され殺害。(この二同志の場合、進藤、遠山、行方同志の場合と比べて内部矛盾に質的違いがある。この過程で(1) 某同志の戦線離脱があり、(2) 二同志とも死刑という事で意識的に殺害されている。これは指導部は人民的内部の矛盾を「通報する恐れ有り。」の理由で意識的に敵対矛盾にまで転化したこと。被指導部の方からは、一つは戦線離脱という形で、もう一つは「殺される」とはっきり言った事で、「総括」が「共産主義化」でも何でもなく同志殺しの口実にすぎない事を意識し始めたということ、を意味している。加藤同志の戦線問題を巡る指導部批判は今や、無意識的ではあれ思想的批判にまで深刻化しだしたのである。党内闘争・内部矛盾は客観的には、指導部の共産主義に対する思想的立脚基盤を巡る対立に発展していった。)
 ◎金子みちよ同志に対して 妊娠中であるにもかかわらず兵士として山岳ベースに結集した彼女に対して「妊娠をたてにとって甘えている」と総括を要求し、その過程で暴力を加えられ、死亡寸前になっている彼女の胎内から子供を取り出す事まで検討するが、二月四日死亡。
 ◎大槻節子同志に対して (1) 戦術上は右翼日和見主義 (2) 服装等趣味がブルジョア的として総括を迫るが、終止反抗的な中で死亡、一月三〇日。(指導部に対する思想的批判を正しく党内論争として解決できず、又、する気もない連赤指導部は、矛盾が拡大すれば益々その解決方法は醜悪なものになり、且つ、殺害される方はそれに対する批判的姿勢を強めていく。)
 ◎山本順一同志に対して 彼は初めて総括―同志殺しが誤まりである事を政治主張として述べる(一・二二〜二六)。指導部は、殊ここに至っても自己の誤りを認めず、逆エビにしばり総括を要求。一月三〇日死亡。
 ◎山田孝同志に対して 一月三一日に実践能力がない、理論主義的、官僚主義的として総括を要求。→二・二中央委員辞任。二・一二死亡。(山本同志の真正面からの批判にも答え様としなかった指導部は益々思想的堕落を深め、同志殺しは寺岡同志に続き、中央委の側にまで波及し始めた。連赤は今や内部崩壊を起こし始めたのだ。)

〔2〕 亡き一二名の同志たちの名誉回復について

 以上の同志殺害の事実経過をもとに、以下の一二名の同志たちの名誉回復を提案し、決議するよう要請する。
 殺害された同志たちの名誉回復については次のとおりである。
(イ) 進藤隆三郎同志について 進藤同志は革命的兵士であって、いわゆる「総括」の「革命兵士の資質」に関する「個人主義的」とか
「ルンプロ的」とかの恣意的な口実は全くあてはまらない。進藤同志は革命兵士として闘い、連合赤軍指導部の誤まった指導のために
二十二歳の若き生涯を終えた。
(ロ) 遠山美枝子同志について 遠山同志は赤軍派結成当初からのきわめて献身的で革命的な同志であった。遠山同志の「総括」理由
にのべられた「服装や化粧や態度」に「女性としてのブルジョア性」がみられることとか、「戦士としての独立性、行動力に欠けている」等
の恣意的な口実はすべてあてはまらない。遠山同志は、革命兵士としてたたかい、連赤指導部の誤まった指導のために二十五歳の若
き生涯を終えた。
(ハ) 行方正時同志について 行方同志は、革命的な兵士であって、連赤指導部が下した「革命兵士の資質」に欠ける云々の理由は全
く恣意的であり、全くあてはまらない。行方同志は、革命兵士として闘い、連赤指導部の誤まった指導のために二十二歳の若き生涯を
終えた。
(ニ) 山崎順同志について 山崎同志は、革命的な兵士であって、同志殺害に関して批判的な観点にたとうとしていた。山崎同志の「革
命兵士の資質」に欠ける云々の連赤指導部の恣意的判断は全くあてはまらない。山崎同志は革命兵士として闘い、連赤指導部の誤ま
った指導のために二十一歳の若き生涯を終えた。
(ホ) 山田孝同志について 山田同志は連合赤軍指導部の一員として同志殺害に関する責任はまぬがれないが、山田同志自身、後に
連赤指導部の誤まった指導のために二十七歳の若き生涯を終えた。山田同志になされた「革命兵士の資質」に欠ける云々や、「官僚主
義」云々の恣意的な判断・口実は全くあてはまらない。山田同志は、一九六七年以降一貫して共産同の献身的な一員であり分裂前は
中央委員・京都府委員会委員長であった。又、赤軍派結成以降の革命家・革命兵士であった。
(ヘ) 日共革命左派神奈川県常任委員会・人民革命軍の七名の同志たち(加藤能敬同志・尾崎充男同志・寺岡恒一同志・金子みちよ
同志・大槻節子同志・小嶋和子同志・山本順一同志)について 七名の同志とも革命家・革命兵士としての道を歩んだ。連赤指導部の
誤まった指導のために若き生涯をおえた。

〔3〕 同志殺害を指導した部分と、
  同志殺害に加担した部分に対する組織処分について

 同志殺害の事実経過をもとにして、以下のことを提案し、決議するよう要請する。
(イ) 森恒夫は、連合赤軍における一連の同志殺害を組織し、呵責なく実行した最高責任者であり、その責任はまぬがれることはできない。彼は一九七三年一月一日東京拘置所において死去した。
(ロ) 坂東国男は連合赤軍の中央委員会の一員として同志殺害を指導し参加した。この行為を厳しく弾劾し、彼を共産同赤軍派より除名する。
(ハ) 植垣康博は、連合赤軍の一員として同志殺害に加担した。この行為を厳しく弾劾し、彼を共産同赤軍派より除名する。
(ニ) 青砥幹夫は、連合赤軍の一員として同志殺害に加担した。かつ、彼は警察に逮捕後、思想的に屈服し、極めて多くの自供により、諸同志を国家権力に売りわたした。こうした行為を断固として厳しく弾劾し、彼を共産同赤軍派より除名する。
(ホ) 坂東国男、植垣康博両名は、現在拘置所にあり、日々ブルジョア政府の仮借ない攻撃の下におかれている。また彼らは、獄中闘争・公判闘争における同志殺害の自己批判を通じ、革命的観点にたつべく努力している。
(ヘ) 青砥幹夫は、現在拘置所にあり、日々、ブルジョア政府の仮借ない攻撃の下におかれている。同盟は、この攻撃から彼を防衛し、彼が国家権力に屈服している状態から脱却するよう援助する。

附記

 右の特別報告は、一九七三年×月×日、共産同赤軍派臨時総会において採択され、決議された。
 なお、この決議と同時に、共産同赤軍派結成時の中央委員(臨時総会現在、獄外で再建活動に組織的に従事している中央委員)の、自らの政治的責任を明らかにした辞任も採択され、決議された。

共産主義者同盟赤軍派中央委員会_

(「臨時総会報告集」)



【1974年の動き】 「戦後史74年当時」

 1.13日、 検察・警察が、勾留中の革マル派全学連の熊本商大生・松永憲治を架空の事実をふきこむ精神的拷問により、死に追い込む、とある。


 1.15日、中核派が、革マル派の九州地方委員会議長・吉川文夫を襲撃、瀕死の重傷を負わす、とある。


 1.19日、何者かが革共同議長黒田宅に放火、バール一本を遺棄、とある。


 1.24日、 中核派が、横浜国立大学の食堂で革マル派の神奈川大生・矢崎知二を虐殺。世田谷区内でも引越し中の東大生・宮山隆、四宮俊治を虐殺、とある。


 1.27日京都大学レーニン研と解放委員会が統合し、マルクス主義青年同盟(準)結成。


 1.31日日本赤軍、パレスチナ.ゲリラとの共闘ゲリラ作戦第二弾。和光春生.山田とパレスチナ.ゲリラ2名がシンガポール島のシェル石油タンクを爆破。


 2.6日パレスチナ.ゲリラ5名がクウェートの日本大使館占拠、和光らの送還を日本政府に要求、政府はこれを呑み日航機を出し、日本赤軍.パレスチナ.ゲリラメンバー9名を南イエメンに運んだ。


 2.8日、中核派が、琉球大学で授業中の教室に乱入し、一般学生・比嘉照邦を革マル派と誤認し虐殺、とある。


 4.7日パリの米大使館邸で、田中.ニクソン会談。


 5.13日、「法政大会戦に革マル派全学連が大勝利」とある。


 6.7日、中核派が、大阪産業大の革マル派シンパの一般学生・小野正裕を虐殺、とある。


 6.20日、中核派が、権力の情報提供にもとづき革マル派の機関紙「解放」を印刷していた東京商工を襲撃、とある。


 6.30日、警視庁第四機動隊河尻中隊が、革マル派の機関紙「解放」を印刷していたホヲトク印刷に投石。中核派を偽装した謀略の開始、とある。


 7.4日、革マル派の解放社の車が放火される。事件後現場に来た本庁公安の望月某が偽装のため鉄パイプを置く、とある。


 7.11日、革マル派の国学院大生の下宿が黒装束・黒塗り竹竿の異様な集団に襲撃される、とある。


 7.13日、襲撃指令中の中核派調査隊キャップ倉石庸が革マル派に反撃される。革マル派が、奪取した権力「柳田」との密通メモを公表、とある。


 7.20日、中核派が東京目黒区で無党派の教育労働者を誤爆、とある。


 7.29日、権力と連携した中核派が革マル派の創造社を襲撃。マサカリが初めて使用される、とある。


 7月パリで赤軍派の山田が逮捕された。


 8.3日、権力の全面支援のもとに、中核派が反戦集会からの帰途にあった早大生の隊列を襲撃、とある。


 8.5日、中核派が九州の革マル派の学生を襲撃、とある。


 8.5日ニクソン辞任。「ウオーターゲート事件」。


 8.5日情況派より左派分裂。游撃派結成。


 夏頃、全国委員会派より、全国委マルクス・レーニン主義派が分派。


 8.9日ジェラルド.フォードが第38代大統領に就任。副大統領はロックフェラーが指名された。


 8.15日、権力が″面割り″した革マル派の早大生を中核派が襲撃、とある。


 8.24日、権力から「襲撃計画書」をもらいうけ、中核派が革マル派の日大生の下宿を襲撃、とある。


 8.30日東アジア反日武装戦線、東京丸の内の三菱重工を爆破、死者8名、負傷者385名。以降この種の爆弾テロが続く。


 9.5日、中核減が在日朝鮮人・徐ひろ子を誤爆事攣。「十日開戦争」と称する中核派の独自襲撃は、8.27日、北海道大学附属放射線技師学校講師、8.27日、愛大農構の女子学生、8.31日、佐賀大など誤爆に終始、とある。


 9.13日先に逮捕された赤軍派メンバーの奪還目指して、和光.奥平純三、西川純がオランダ.ハーグのフランス大使館占拠、同年7月パリで逮捕された山田義昭の釈放を求め、奪還に成功した。日本赤軍単独の「独立作戦第一号」となった。


 9.21日ワシントンで田中.フォード会談。


 9.23日、革マル派の全学連委員長・前川健ら二名がマサカリで襲われる、とある。


 9.26日、狭山闘争解散過程の革マル派全学連・反戦青年委員会の部隊が東京神保町で襲撃され、自治体労働者・笠掛正雄が実質上虐殺される【神保町事件】、とある。


 9月赤軍派の武装堅持派、赤軍派(革命戦争編集委員会)を中心に赤軍派日本委員会結成。


 10.3日、革マル派の全逓荏原支部書記長・山崎洋一が屠殺銃で殺される、とある。

 10.7日、川崎市内で革マル派の日大生が襲われる。襲撃者の一人はこの日大生の動向を嗅ぎ回っていた成城署のデカときわめて似ていた、と母親が証言、とある。


 10.8日、大阪で革マル派全学連・反戦青年委員会の闘争解散過程をつけねらっていた私服警官を中核派が誤爆襲撃、とある。


 10.9日、横浜市で革マル派の戦闘的労働者と通勤経路が同じ会社員・長野健一氏が誤爆される、とある。


 10.15日、革マル派全学連が中核派に送り込まれた権力のスパイ分子を代々木で打倒。権力はこの男の氏名秘匿に狂奔、とある。


 10.17日、広島で革マル派の革命的労働者が襲撃される、とある。


 10.19日、革マル派の機関紙「解放」を印刷していた秋田印刷(板橋区)が契約解除の翌日に襲撃される、とある。


 10.25日、大阪の革マル派の戦闘的労働者が襲われ重傷、とある。


 10月雑誌「文芸春秋」11月号で、立花隆「田中角栄−その金脈と人脈」が掲載された。これが以降の田中政界追放の狼煙となった。


 10月赤軍・プロレタリア革命主義派結成。


 「共産同」右派の「情況派」では、1972.6月以降、街頭闘争への取組みを避けていたが、こうしたことが組織の低落を招く原因だとし、行動する党への転換を図ろうとする古賀暹らが指導部内で次第に力を強め、遂に1974.10月、高橋良彦議長ら主要幹部を組織指導部から追い出して、自らは「游撃派」を名乗るようになった。


 11.6日、国学院大構内で革マル派が二十数名の襲撃部隊を撃退。権力は重傷の襲撃者を警察病院に秘匿、とある。


 11.8日、愛知大学名古屋校舎で革マル派系社研部室が襲われ、女子学生が重傷、とある。


 11.15日、革マル派の横浜市立大生と東京外語大生が襲われる、とある。


 11.18日東京.迎賓館で田中.フォード会談


 11月内閣官房長官(田中内閣)


 11.26日田中退陣表明。在任期間2年4ヶ月で終わった。金脈追求で行き詰まる。河野洋平らが離党して新自由クラブを結党。


 後継総裁選びが難航した。「三角大福」と云われていた福田、大平、三木、中曽根が予想された。調停役は副総裁の椎名悦三郎。椎名の最低で三木が指名された。


 11.27日、福岡で中核派が警察の援助下で革マル派学生を襲撃するも、撃退される、とある。


 12.9日三木内閣発足。


 12統一労組懇結成。共産党系の労組。20単産。


 「関西派」は、1974年に入ると、それまで中央指導部が大衆闘争路線を重視してきたことに反発する動きが、首都圏委員会と東北地方委員会の一部に現われ、これが「共産同マルクス・レーニン主義派」を名乗って分派行動に走った。


、『赤軍』再刊準備1号(1974年11月号、共産主義者同盟赤軍派(赤軍プロ革))結成総会政治・組織報告 (抜粋)
プロ革派結成の歴史的意義

 闘う対象
 敵階級や「左」右の清算主義の小ブル派の清算抹殺策動。
@.孔子孟子の儒教思想を核とするブルジョア思想、孔孟思想の反動的自己権力運動。
A.小ブルジョア革命主義の反スタ・トロツキズム。抽象的世界革命一般を大言壮語して、真のプロレタリア国際主義路線を放棄する反スタ・トロツキズム。
B.トロツキー式一挙的社会主義の従来の新左翼の偏向。
C.反米愛国の毛沢東教条主義。反米愛国の人民民主主義革命と、その小ブル民族主義、民主主義路線は断乎粉砕。
D.清算主義の小ブル日和見主義

 堅持する対象
 第三世界の民族解放―社会主義革命の闘いを正当に評価し、民族解放―社会主義革命と継続革命をしっかりと結合する、プロ独の第一段階たる過渡的綱領をもった、反帝反米の社会主義革命路線を確立する。真のプロレタリア思想と毛沢東思想を評価したプロ独―社会主義革命の革命戦争と、新党を追求せんとするマルクス・レーニン主義のプロレタリア革命派の形成。
@.過渡期世界論を止揚する方向性を持った、マルクス・レーニン主義のプロレタリア革命思想
A.第三世界の民族解放―社会主義革命と、これを支えるプロレタリア国家の根拠地化と継続革命との結合
B.先進資本主義国で、これら第三世界とプロレタリア国家の革命運動の指導思想たる毛沢東思想を掲げた、プロ独・社会主義革命路線を追求し、この思想・政治路線の下での、プロレタリア革命戦争の反帝反米の攻撃的蜂起を追求する、プロレタリア新党創建の闘い

 日本革命的左翼が初めて到達した前人未踏の地平で形成され、新たな条件の中で発生した銃による殲滅戦と、プロ独の規律を真に追求せんとし、この為に全生命を捧げ尽した一二名のプロレタリア革命家の、この輝しい同志達の闘いの遺志を引き継ぎ、前進してゆかなければならない! 我々は“粛清”に胚胎していた課題を担い抜く思想路線、政治路線と党建設を闘いとらなければならぬ。新党が思想問題、思想闘争に着手し、マルクス・レーニン主義のプロレタリア思想たる弁証法的唯物論、史的唯物論、資本主義批判によって生み出されようとしていた政治路線は、真にプロ独・社会主義の革命戦争の追求をめざさんとする場合に、必然的に到達する歴史的、革命的必然性があったのだ。この新党志向は断じて清算されてはならないものなのだ。

 だが、新党指導部派はこの思想的・政治的・理論的課題に応えきれず、毛教条主義の批判と反スタ・トロツキズムの真実の批判を曖昧にしたまま、奴隷主階級の思想を基礎とする武士道精神、皇軍思想等の日本的儒教思想に依拠し、この思想と照応する思想運動と自己権力運動を組織し、思想問題、路線問題に挫折し、一挙に変質、反動化していったこと。そして皇軍や右翼、体育会まがいのシゴキ運動の暴力的「援助」を出発点とする反動的思想整風運動の泥沼にころげこんでいった。

 連赤新党の遭遇した思想、政治問題、「新党」内党内路線闘争と、一二名のプロレタリア革命派の存在に触れることはせず、前述した「飢狼共食い同志殺し」論、「野合」論に屈服してゆく事態が生まれたこと。しかし、この反動的風潮の中で、我々赤軍派のプロレタリア革命派は、孤立させられ、政治的に抹殺される危機に一時的にさらされたが、武闘堅持と赤軍派の実践と理論の断乎たる防衛という点で、革左と断乎たる一線を引きつつ、他方で連赤問題の本質が、小ブルジョア革命主義の思想、政治、組織面でのプロレタリア革命主義への止揚の挫折、反動化にあると把え、連赤問題発生後の、小ブルジョア革命主義の残存とその教条化に対して、これと徹底して闘争し、これを止揚せんとしたのであった。そして、この闘争を通して、他面でこの寄生物たる清算主義を一掃する党内―党派闘争の路線を敷いたのであり、この「左」右の清算主義(教条主義)の一個二重の闘いの中心基軸に思想問題と毛沢東思想の評価と、反スタ・トロツキズムと毛沢東教条主義の同時相互止揚をおき、この解決の要に、マルクス・レーニン主義の弁証法的唯物論、史的唯物論、資本論、帝国主義論、現代帝国主義論、共産主義論、過渡期論、社会帝国主義論の獲得を据えたのである。このことは、マルクス主義を基礎にして、すなわち、弁証法的唯物論、史的唯物論、資本論と帝国主義論を踏まえて、現代帝国主義論と過渡期社会―共産主義論を把え返して、過渡期世界論の革命路線の体系を系統的に再構成してゆくことによって可能となったのである。

 連赤―「新党」の事実調査の進展の中で、粛清の本質が反スタ・トロツキズムと毛沢東教条主義の同時相互止揚の中途放棄、政治的危機と相まった思想的危機を孔孟の道に代行せんとしていったこと、これに抗して英雄的に闘った一二名のプロレタリア革命派の党内路線闘争があり、これと銃撃戦の関連が明らかになり、「左」右の清算主義が事実の面でも打破られ、プロ革派の対清算主義の闘いや、形だけは「左」派の革左(獄中)派や、反スタ・トロツキズムの千葉君、赤報派、仏派との三面党内―党派闘争が飛躍的に前進したこと。かかる主客の情勢の中で、七一年秋の情勢を上まわる形で一時期の右の八・二五共闘と「左」の仏や革左、赤報等のノサバリ、中核の内ゲバ闘争等の構図が崩壊し始め、より深く広く、国際的・国内的進攻気運が拡大しつつある。この様な事態の中で、赤軍派(プロ革)が一大結集し、これに基いて、赤軍派再建の事業を急速に飛躍させることは、歴史的に重大なことであることを確認し、我々は、その第一歩を踏み出そうとしているのである。
(「赤軍」再刊準備一号)



出は、『赤軍』再刊準備1号(1974年11月号、共産主義者同盟赤軍派(プロ革))。
査証編集委員会編『「赤軍」ドキュメント』(新泉社、1975年)から。


全国、全世界のすべての同志は
プロレタリア革命主義の同盟再建に
総結集せよ!
プロ革派結成宣言


 全国・全世界の同志諸君! 革命的労働者諸君!
 七一年秋から七二年初頭における、プロレタリア革命戦争とプロレタリア革命主義の党への飛躍をかけた連合赤軍―「新党」の闘いが
挫折し、敗北した後の二年半の間、わが同盟は深刻な動揺、混乱、分解の中で激しいイデオロギー的理論的戦闘の時期を経験してき
た。この中で、わがプロレタリア革命派創生の闘いは、なだれをうって洪水のように押し寄せた「左」右の清算主義、日和見主義に対す
る、同志塩見議長を中心とする果敢なイデオロギー的理論的戦闘によって貫徹され、つくりだされてきた。
 連合赤軍―「新党」の前進飛躍をかけた闘いの挫折と敗北の根底を、なによりも思想問題としてえぐりだし、マルクス主義に固く立脚し
て今日の共産主義革命運動の基本的思想―政治路線をうちたて、それを更に党建設の組織路線・プロレタリア革命戦争の武装と陣型
、当面する日本革命の政治綱領にまで具体化していく闘いは、まぎれもなく、連赤―新党志向の歴史的意義を継承し、「新党」にあって
プロレタリア革命主義を体現しつつあった殺された一二名の立場と「銃によるせん滅戦」の地平を継承し、発展させ、再新党へときたえあ
げていく闘いであった。この闘いは、いうまでもなく一方では連赤―「新党」の革命戦争と非合法党建設の闘い、そのプロレタリア革命主
義への前進・飛躍の苦闘そのものを清算し、逃亡していく、右からの清算主義・日和見主義に対する闘いなしにはありえなかった。かつ
同時に、他方では、連赤―「新党」の苦闘と挫折の教訓をなんら総括することもなく、なにひとつ学ばず、その根底にある思想問題を切開
せず、ブルジョア、小ブルジョア思想を温存し、反スタ・トロツキズムやスターリン主義―毛教条主義(エセ毛派)に回帰し、一二名の同志
を政治的に抹殺していった「左」からの清算主義・日和見主義―エセ武闘派に対する闘いなしにはありえなかった。
 とりわけ、この半年有余「左」右の清算主義・日和見主義の思想的、政治的、組織的破綻が明白となり、白日のもとにさらけ出され、中
間主義も行き詰まり、それに照応して、同志塩見議長を中心とするプロ革派創生の闘いの基本的正しさと勝利的前進が明らかになっ
た。我々の批判の武器はおおいにみがきあげられ、真に先進的な革命的階級―プロレタリア階級を偉大な解放闘争へ導く、真に前衛的
な革命的理論が打ちきたえられ、確固たるものとなった。これは、真の戦闘のための不可欠の前哨戦たるイデオロギー的戦闘であった
のであり、真の戦闘のための武器―批判の武器をうちきたえる闘いであったのだ。この闘いは、根本的にブルジョア世界観とプロレタリ
ア世界観、資本主義の道と社会主義の道、ブルジョア階級独裁の道とプロレタリア階級独裁の道の二つの道の闘争にほかならず、前者
のブルジョア的な種々の変種、種々の中間形態、種々の残存形態と闘い、後者をうちきたえ、発展させ、革命的プロレタリアートの党的
独立を確保しぬく闘いであったのだ。
 かくて今、我々は、赤軍派(プロ革)の結成によって、この闘いに最初の巨大な勝利を闘いとったことを報告し、宣言する。もはや動揺と
混沌、混迷の時は終った。今、我々は「左」右の清算主義・日和見主義の沼地から截然と自己を分離しぬき、確固たる地盤の上に立っ
たのである。我々はこの勝利をしっかりと握りしめて前進しなければならない。
 我々は、今やここから次の闘いに出陣しなければならない。批判の武器を武器の批判へと物質化する闘いへ、真実の戦闘へ出征しな
ければならない。
 今、我々の課題となっているのは、連赤―「新党」の挫折、敗北を実践的にのりこえてゆくこと。新党志向――一二名の立場――銃に
よるせん滅戦の地平を実践的に継承し、発展させ、再新党へときたえあげていく闘いである。すなわち、プロレタリア革命主義の同盟再
建―非合法党建設の大道をきりひらき、実践的にきたえあげていくことである。
 この二年半余、同盟赤軍派と連合赤軍の闘いを継承し、教訓化し、発展させる闘いは、アラブ赤軍の同志達をはじめ地下と獄中で苦
闘を続けている革命的なプロレタリア戦士達によってねばり強くおし進められてきた。我我はこれらの同志達と単一の党とプロレタリア革
命戦争の戦列への結束を必らず闘いとらねばならない。
 折りしも今日の世界情勢は、世界革命戦争の持久的対峙の闘いの前進を示している。中国をはじめとするアジア三国の継続革命、根
拠地化の闘いと、第三世界の民族解放―社会主義革命戦争、両者の結合された世界社会主義革命戦争の発展と一大進攻態勢の前
進を明らかにし、帝国主義、社会帝国主義の諸矛盾の激成、危機の深まりと争奪戦の激化という、天下大動乱をくっきりと浮きぼりにし
ている。この情勢は、帝国主義諸国のプロレタリア革命派に対して〈自己を反帝反社帝世界プロレタリア革命戦争の隊列として打ち固
め、反スタ・トロツキズムと毛教条主義を止揚し、革命的マルクス主義に立脚した非合法党建設と、プロレタリア革命戦争の正規の進攻
―建軍・攻撃的蜂起の陣型の組織化〉を緊急の任務として課し、その有利な条件をつくりだしている。
 事実、日本においても、日帝は国際帝国主義の危機を集中的に、先行的に受け、戦後日本の政治・経済体制の歴史的破綻と根底か
らの動揺・危機の成熟をあからさまにし、労働者階級と勤労大衆の闘いは広範に、不屈に燃え広がり、進攻の気運が発展しつつある。
日帝の矛盾を労働者大衆へ犠牲的に転嫁することによってのりきらんとする、国際=国内反革命と一体のなしくずしファシズムの大攻撃
の策謀は、一層激烈で根本的な階級的諸衝突を煮つめざるをえない。このことは、それだけ、日本の革命的プロレタリアート=プロレタリ
ア革命派に、アジア三国の継続革命―根拠地化の闘い、第三世界の民族解放―社会主義革命戦争としっかりと団結し、プロレタリア革
命党を創建し、プロレタリア革命戦争を再開し、正規の進攻―建軍・攻撃的蜂起の道を大胆に切りひらき、その陣型をきたえあげていく
任務を焦眉のものとしているのだ。
 我々はこれらの歴史的任務を自己の双肩に担って、堅忍不抜におし進めていく闘いを開始した。我々は「左」右の清算主義の小ブル日
和見主義に対する闘争を一層敢然とおし進め、反スタ・トロツキズムと毛沢東教条主義(エセ毛派)を批判改造する党派闘争を一層、敢
然とおし進めていくであろう。
 我々はマルクス・レーニン主義を一層しっかりと学びとり、我々の思想的政治的水準を高めて、正しい思想的政治的組織的作風をかち
とるマルクス主義整風運動を貫き、自己をマルクス主義党として純化し、うちきたえていくであろう。
 我々はマルクス主義にしっかりと立脚した全国政治新聞によって、革命的プロレタリア政治を組織し、領導していくだろう。
 そして何よりも、我々の綱領―戦略的総路線の集中的な、かつ実践的な体現として、マルクス主義非合法党の思想的・政治的・軍事
的・組織的中核体たる中央軍=職業革命家の軍隊を組織し、きたえあげ、これと一体に、思想・政治・軍事・経済闘争を担う地下細胞を
労働者階級の深部に組織し、革命戦争の根拠地を築きあげ、反帝反米社会主義革命戦争を推進していくであろう。
 我々はこの実践体系をもって、今日の自然発生的労働運動の昂揚、ありとあらゆる革命勢力の闘いを支持、支援し、かつ、それをこの
実践体系に結合させていくであろう。
 かくして我々は、第三世界の民族解放・社会主義革命戦争、プロレタリア諸国の共産主義継続革命―根拠地化の闘いと固く手を携え
て、反帝反社帝世界プロレタリア革命戦争を発展させ、世界党・世界赤軍・世界革命戦線の陣型を組織しぬき、帝国主義、社会帝国主
義を打倒・絶滅し、世界プロレタリアート独裁・世界共産主義を実現しぬくであろう。
 ☆ 労働者階級の経済的隷属賃金奴隷制からの解放!
 ☆ プロレタリア共産主義革命万歳!
 ☆ マルクス・レーニン主義万歳!
 ☆ 帝国主義打倒! 社会帝国主義打倒!
 ☆ 世界共産主義、世界プロ独樹立!
 ☆ 万国のプロレタリア、被抑圧民族・人民は団結し、プロレタリア共産主義世界革命に勝利せよ!
 ☆ 帝国主義と社会帝国主義の侵略・抑圧・反革命=階級危機を反帝・反社帝世界革命戦争で打ち破れ!
 ブルジョアジー諸君!
 我々は五年前の六九年秋、君達に戦争を宣言した。我々のそれは決して空文句ではなく、ホラでもなく、実際に果敢にそれをおし進
め、君達を震撼させた。君達の恐怖、君達の残虐さは歴史の中に刻みつけられた。
 我々はこの戦闘において、自身の弱さと未熟さのために一敗地にまみれた。しかし、この我々の敗北を、君達がどのようにあげつらい、
けたたましくわめきたてようとも、まかれた種子は確実に新しい芽を吹き、はぐくみ、新たな軍勢をよびおこし、革命的なプロレタリア戦士
たちによってひき継がれてきたのだ。そして、我々もまた敗北から学び、自らを容赦なく点検し、むち打ち、打ちきたえてきた。かくて今、
一層力強く再起しつつある。
 それだけではない。
 この二年半余は、君達ブルジョアジーにとって決して息つぎではなかった。君達の内外における歴史的破綻と没落はくっきりと烙印さ
れ、君達の危機は一層広く深く、公然とさらけだされてきたではないか。だから、それはただ、一層広範で、大規模で、激烈な戦闘の一
時代を準備し、君達自身のための墓穴を更に深く掘り進め、墓掘人を結集して教育したものにすぎなかったのだ。
 今や、天下大動乱の時であり、天と地がくつがえるような、湧きたつ革命の時代である。搾取され、抑圧され、圧迫されて奴隷の境遇
に縛りつけられてきた労働者階級と勤労大衆が、全世界で鎖を打ち砕き、歯まで武装した搾取者、抑圧者、暴圧者を力づくで打ち倒し、
一掃し、絶滅し、自己の根本的解放を闘いとっていく時代である。これはなにものによっても押しとどめることができない。たとえ前途が、
なおどのように困難と迂余曲折にみちていようとも、革命戦争は尽きることのない人民大衆の力でもって発展していくであろう。我々はた
だ、この意識的表現者、組織者、領導者たらんとしているにすぎない。我々は、労働者階級の階級的苦悩を自己の苦しみとし、労働者
階級の自己解放をなにものにもかえることのできない自己の目的とし、マルクス主義の武器をもって、犠牲をおそれず献身しぬき、戦い
ぬくであろう。
 我々は硝煙のたちこめる君達の廃墟の上に、解放の砦と新しい世界を築きあげるであろう。
(「赤軍」再刊準備一号)



【1975年の動き】 「戦後史75年当時」

 3.5日スウェーデン.ストックホルムのレバノン大使館付近で、赤軍派メンバー西川.戸平の2名が逮捕され、日本へ送還された。逮捕の際日高敏彦は逃走に成功した。


 3.14日未明中核派最高指導者本多延嘉書記長革マル派にテロられ死亡。革マル派は、「我々の同志難波力が襲撃されたことへの報復であり、権力と癒着している中核へのみせしめ」、「殺害を目的としたものではなかった。わが戦士の燃えたぎる怒りが激しくて、結果として死亡ということになった」と声明した。中核派の怒りは凄まじく、「革マル派一人残らずの完全殲滅、復讐の全面戦争への突入」を宣言した。


 4月ベトナム戦争終結。解放戦線がサイゴンに無血入城した。アメリカの戦死者.事故者約6万人、戦費1389億7400万ドルと発表された。


 5.19日東アジア反日武装戦線の佐々木則夫、大道寺将司ら8名逮捕、うち斎藤和は取調室で青酸カリ自殺。桐島聡ら2名を指名手配。


 5月マル青同分裂。


 5月全国委員会派分裂。全国委ボリシェビィキ派結成。


 5月赤軍臨総派、赤軍派プロ独編を結成。


 5月マル青同、岡山大学学生寮襲撃。寮生一名虐殺、一六名負傷。


 7月警察当局は、国際刑事警察機構(ICPO)に対し、「日本赤軍は思想犯ではなく、刑事犯である」と国際手配を要請、同8月末、ICPOは、日本赤軍メンバー重信房子はじめ、和光晴生、奥平純三、吉村和枝、丸岡修の5名を加盟120ヶ国に国際手配した。その後、国際手配は16名となった。


 7.19日反日武装戦線が、北海道警察本部爆破。


 8.4日日本赤軍によるクアラルンプール事件発生。和光.奥平.日高と他の3名の6名でマレーシア・クアラルンプールの米、スウェーデン両大使館を占拠、アメリカ領事などを人質にし、同年3月スェーデンのストックホルムで逮捕され、日本に強制送還された西川純ら2人と他の獄中赤軍メンバーの釈放を要求、政府は超法規的に5人を釈放、クアラルンプルに送る。の釈放を要求した。日本政府はこれに応じ「超法規的措置」で獄中7名の釈放が決められた。西川.戸平.元赤軍派坂東国男.松田久.東アジア反日武装戦線佐々木則夫らが釈放され、リビア入りした。


 8月赤軍派プロ革分裂。赤軍マルクス・レーニン主義派結成。


 8.5-6日ワシントンで三木.フォード会談。


 9.24日叛旗派から、三上治離脱。のちに乾坤社設立。


 11.15日第一回サミット(主要先進国首脳会議)がフランスのランブイエ城で開催。


 12.17日戦旗派(西田派)、沖縄訪問の皇太子夫妻に「ひめゆりの塔」で火炎ビンを投擲。



【1976年の動き】 「戦後史76年当時」

76毛沢東死去
1月竹下登建設相(三木内閣)
2.4日アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会で、ロッキード社の贈収賄工作が証言された。日本の場合、小玉、丸紅、全日空、小佐野賢治らを通じて、約36億円の工作資金が流れたといわれた。「ロッキード事件発覚」。
 3月赤軍派プロ独編と全国委ボリシェビィキ派が統合し、紅旗派を結成。
 3.2日北海道庁爆破、死者2名、負傷者74名。反日武装戦線犯行声明。
6.30日ワシントンで三木.フォード会談。
7.27日田中が為替法違反、受託収賄罪で東京地検特捜部に逮捕された。1  
7月第13回臨時党大会「自由と民主主義宣言」。    
○期日.会場.代議員数について  10.24−30日第10回党大会を開く。世田谷区民会館、太田区民会館。957人の代議員が参加した。10.26日会場への盗聴器摘発。10.27日政府などに抗議。 ○大会の眼目  大会の眼目は、 ○採択決議について ○新執行部について    中央委員は、前回の67名から88名、同候補は42名から49名、中央統制監査委員  は9名から7名を選出した。新しい中央委員会は、議長に野坂.書記長に宮本.幹部会員に野坂.宮本.袴田.岡.春日.河田.蔵原.紺野.西沢.松島.米原の9人、同候補に岩林虎之助.内野竹千代.大淵生気.下司順吉.砂間一良.高原晋一.藤原隆三.吉田資治を、書記局員に宮本.袴田.岡ら16人、書記局員候補8名を選んだ。   宮本−袴田体制の継続確立   宮本体制確立 70年当時の党の方針の特質と要点 ○〈本党大会までの執行部評価〉について   @〈世界情勢に対する認識〉について    A〈国内情勢に対する認識〉について   B〈党の革命戦略〉について C〈党の革命戦術〉について D〈党の具体的な運動方向〉について   E〈党の大衆闘争指導理論〉について   F〈党の機関運営〉について   G〈左翼陣営内における本流意識〉について   H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について

 12.17日三木が辞任表明。総選挙敗北。
 12.19日叛旗派、「叛旗解体」政治集会。
 12.24日福田内閣発足。 



【1977年の動き】 「戦後史77年当時」

 1.20日ジミー.カーターが第39代大統領に就任。


 2.11日革労協書記局長で解放派筆頭総務委員中原一こと笠原正義氏が、茨城県取手駅付近で革マル派に襲われた。車に乗っていたところを乗用車に挟み撃ちされ、降りてきた6名に鉄パイプでメッタ打ちにされて翌12日頭蓋骨骨折で死亡した。事件後革命マル派は「革労協の最高指導者である中原一に対して、革命的鉄槌を下した。これはあくまでも、我々労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的戦いである」と声明した。これに対し解放派は、「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」と声明し、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の全面に踊り出ることとなった。


 3月紅旗派分裂。


 3.21日ワシントンで福田.カーター会談。


 4.15日解放派が、埼玉県浦和市内で、革マル派4名の乗った車を前後からはさみ打ちにして襲い、金網付の窓ガラスをつるはし、鉄パイプ等で破壊して車内にガソリンをまき、中に閉じ込めたままガソリンで焼殺した(「浦和市内ゲバ殺人事件」、「警察白書」参照)。

 「警察白書」には、「52年の内ゲバ事件をセクト別に分析すると、図8−3のとおりで、極左暴力集団相互間が26件(63.4%)と最も多く、そのなかで革マル派対中核派が14件(34.1%)、革マル派対革労協が10件(24.4%)であり、この3セクトで全体の半数以上(58.5%)を占め、殺人事件もこの3セクトの間で敢行されたものであった」とある。


 5.7日ロンドンで福田.カーター会談。


 6.11日叛旗派、『<叛旗>解体』刊行により、<解体>作業完了。


 7.23日文部省は新学習指導要領で、君が代を国歌と規定、告示した。


 8.3日77年原水爆禁止世界大会が14年ぶりに統一大会として開催された。広島。


 9.28日丸岡.和光.佐々木.坂東.戸平の5名の赤軍メンバーが、パリ発東京行き日航機をインド.ポンペイ上空でハイジャック。ヨルダンで拘置中自殺したとされる日高の虐殺への抗議と日本へ強制送還された奥平純三の奪還を目指したものだった。日本政府の「超法規的措置」により奥平.元赤軍派城崎勉.東アジア武装戦線大道寺あや子、浴田由起子、一般無期懲役囚泉水博、懲役10年の刑を受けて控訴中の殺人犯仁平映らが釈放された。泉水.仁平は、獄中で待遇改善要求闘争などを展開している「獄中者組合」のメンバーであった。バングラデシュのダッカ空港で獄中犯6人と身代金600万ドルを日本政府から奪取、6日間の飛行ののちアルジェリアで人質全員を釈放。


 10.9日三里塚空港粉砕、ジェット燃料阻止集会。


 10 第14回党大会 上田副委員長  
○期日.会場.代議員数について
 10.24−30日第10回党大会を開く。世田谷区民会館、太田区民会館。957人の代議員が参加した。10.26日会場への盗聴器摘発。10.27日政府などに抗議。 ○大会の眼目  大会の眼目は、 ○採択決議について ○新執行部について    中央委員は、前回の67名から88名、同候補は42名から49名、中央統制監査委員  は9名から7名を選出した。新しい中央委員会は、議長に野坂.書記長に宮本.幹部会員に野坂.宮本.袴田.岡.春日.河田.蔵原.紺野.西沢.松島.米原の9人、同候補に岩林虎之助.内野竹千代.大淵生気.下司順吉.砂間一良.高原晋一.藤原隆三.吉田資治を、書記局員に宮本.袴田.岡ら16人、書記局員候補8名を選んだ。   宮本−袴田体制の継続確立   宮本体制確立 70年当時の党の方針の特質と要点 ○〈本党大会までの執行部評価〉について   @〈世界情勢に対する認識〉について    A〈国内情勢に対する認識〉について   B〈党の革命戦略〉について C〈党の革命戦術〉について D〈党の具体的な運動方向〉について   E〈党の大衆闘争指導理論〉について   F〈党の機関運営〉について   G〈左翼陣営内における本流意識〉について   H〈この時期の青年戦線.学生運動〉について   野坂引退


 怒涛派、中央委派・都委員会派・神奈川県委員会派・臨中派に四分解。



【1978年の動き】 「戦後史78年当時」

1.27日解放派は、「2.11反革命一周年決戦へ全党全軍総決起」をうたい、勝田市.水戸市などの茨城県下で革マル派3名を殺害、3名に重症を負わせた。
2.1建国記念日の祝賀行事に「総理府後援」の名義使用を認めた。
 2.6日三里塚、横堀、要塞攻防戦。二日間にわたる激闘。45名逮捕。
 3.26日開港予定日を4日後に控えた成田空港の管制塔に第四インターなどのゲリラ部隊が突入、三里塚空港内に地下排水溝から侵入、管制塔内部を破壊、開港を二ヶ月遅らせる。
5.3日ワシントンで福田.カーター会談。カーター大統領と三度目の日米首脳会談。
6.21日防衛庁が有事防衛研究着手を表明。
 6月ベトナムがカンボジアに侵入。 8月中国がベトナムに侵入。 
7.16日ボンのサミット会場で福田.カーター会談。
7.27日福田首相、防衛庁に有事立法と民間防衛の研究を指示。
 8.12日日中平和条約調印。
8.15日福田首相が内閣総理大臣の肩書きで靖国神社参拝、署名した。
10.23日日中平和友好条約の締結。1972年に田中内閣で成し遂げられた日中国交回復の総仕上げとなった。ケ小平中国副首相がやってきた。
11.1日初の自民党予備選が告示された。これが自民党を二分させる福田と大平の争いの勃発となる。自身万万だった福田は、「予備選の結果を尊重せねばならない。二位のものは本選挙で降りるのが筋だ」と発言する。11.26日投票、27日開票。結果は、大平55万0891票、福田47万2503票、中曽根29万0987票、河本8万8091票。二位に終わった福田は自らの発言に縛られ本選挙を辞退した。ここに大平が総裁に確定した。
12.7日第一次大平内閣発足。竹下登衆院予算委員長。大平首相の政治哲学が次の様に明かされている。「政(まつりごと)は小魚を煮るが如し」。「政治は小魚を丁寧に煮る慎重さがなければいけない。ともすれば、丁寧に政治をする部分が欠けることになる。自戒せねばならない」。
 12.11日米中国交正常化。
 袴田里見除名。



【1979年の動き】 「戦後史79年当時」

 1.1日米中が国交回復。米は台湾と断行、相互防衛条約を破棄。
 3月連合赤軍分離公判組の吉野雅邦と事件当時の少年に対しては無期懲役と懲役13年の判決が言い渡された。
 3月赤軍派(プロ革)分裂。塩見グループが「日本社会科学研究所(マルクス・レーニン主義・毛沢東思想)」を結成。
 5.2日ワシントンで大平.カーター会談。
 6.6日元号法制化実現。新憲法施行に伴って法的根拠を失い、「事実たる慣習」(法制局見解)にとどまっていた元号が、これにより法的根拠を再建した。
 6.25日東京で大平.カーター会談。
 6.28日東京サミットが元赤坂の迎賓館で開幕。出席者の顔ぶれは、カーター米大統領、ジスカールデスタン仏大統領、シュミット英首相、アンドレオッティ伊首相、クラーク加首相、ジェンキンスEC委員長。
 7月游撃派とマルクス・レーニン主義派と統合して、革命の旗派を結成。
 7.17日防衛庁が防衛力整備五ヵ年計画を発表した。問題は、国防会議や閣議決定を経る事無く決定.発表されたことにあつた。
 9月、労共委(怒涛派)が日共(ML)を統合した。 
 11.2日戸村一作成田空港反対同盟委員長死亡。
 11.19日第二次大平内閣発足。竹下登蔵相。
 12月ソ連もアフガニスタンに侵入。



【1980年の動き】 「戦後史80年当時」

 春、遠方から派、活動停止。
 2月、「戦旗派(荒派)」は、名称が他と紛らわしいとして「戦旗・共産同」と改称しました。
 5.2日ワシントンで大平.カーター会談。
 5.18−26日韓国全羅南道の中心都市.光州で反政府蜂起暴動発生。18日未明、全土戒厳令が敷かれた。金大中連行される。市民ぐるみの蜂起に発展、連日市街戦が展開された。数千人が犠牲になった。
 5.30日大平正芳.鈴木善幸の交代。大平は80.5.30日、新宿駅前で参院選初日の演説中、のどの痛みを訴え、31日未明、東京.虎ノ門病院に入院。6.12日心筋梗塞のため死去。同日伊藤正義官房長官が首相臨時代理に就任した。後継候補は本命中曽根康弘、対抗河本敏夫、ダークホース宮沢喜一が下馬評だった。自民党総務会は西村英一副総理に後継指名を一任したものの、3候補の調整がつかなかった。
 6月初の「衆参同日選挙」。

 7.9日東京で伊藤臨時首相代理.カーター会談。7.17日意外な候補であった鈴木善幸が急浮上、首相指名された。鈴木内閣発足。

 7月国際主義派、日共(プロ革)と統合し、日共(行動派)結成。

 8月竹下登自民党選挙制度調査会長

 8月、鈴木首相以下18閣僚で靖国神社参拝。

80.9鈴木38.21
82.12中曾根39.31
87.12竹下30.20
89.6宇野22.40
89.9海部31.27
91.12宮沢31.22
93.8細川75.9
94.4羽田43.23
94.7村山40.31
96.1橋本59.16
98.8小渕25.48
2000.4森40.24



【1981年の動き】 「戦後史81年当時」

1.20日ロナルド.レーガン第40代大統領に就任。
 9月革命の旗派と紅旗派が統合し、赫旗派を結成。
81年以降革労協.反帝学評は学生の武闘主義グループを中心とする狭間派と労働者組織を重視する労対派に分裂。



【1982年の動き】 「戦後史82年当時」

 82党名誉議長就任 戦後党史(二)【ミニ第C期】  以降82年に宮本が党名誉議長に就任して以降志井書記長が誕生するまでの間を戦後党史二期の【ミニ第C期】となる。 84日本原水協大鉈、幹部大粛清。代表幹事吉田嘉清.草野信男追放。江口朴郎.小笠原英三郎.古在由重ら党歴30数年の学者党員たちを「党中央の指示に従わぬ」という理由で、除名。 85ゴルバチョフ書記長就任 91ソ連崩壊  宮本む.袴だ.戎谷春松.高原晋一.岡正芳.松島治重.蔵原惟人.米原    出席するが発言はしない。全て宮本議長の意見に賛成。こういう幹部。     志が.鈴木市蔵   .................. 昭和3.3当時の党中央委員会は渡辺委員長.市川正一、佐野学、鍋山差立ちか、国了.山本懸蔵.杉浦啓一.中尾勝男の8名。

6.18日東京地裁で連合赤軍メンバーに判決が為された。永田洋子死刑、坂口弘死刑、植垣康博懲役20年。

11月竹下登蔵相(中曽根内閣)
83年度予算案では、一般歳出がマイナスの中、防衛費だけは6.5%の突出、聖域化を強めた。



【1983年の動き】 「戦後史83年当時」

 2.27日成田空港反対同盟(三里塚芝山連合空港反対同盟)が北原派と熱田派に分裂。支援党派も系列化される。中核派が北原派を、第四インターは熱田派を支援。

 9月赫旗派中央委少数派、首都圏協議会を結成。
83年度政府予算案  一般歳出が前年比マイナスの中で、防衛費だけ6.5パーセント突出。中曽根内閣。  82党名誉議長就任   3.24マッカーサーは、「中国本土の攻撃も辞せず」と発言し、大統領権限を無視したことから、4.11日罷免される。後任にリッジウェー中将が任命された。傷リlZd@+jZt¥x¥f 戦後党史(二)【ミニ第D期】  志井書記長が誕生してから現在までの間を戦後党史二期の【ミニ第D期】となる。  72年……30万党員 ・73年……30数万党員 ・76年……38万党員 ・77年……40万党員 ・80年……44万党員 ・82年……48万党員 ・85年……48万党員 ・87年……49万党員 ・90年……50万党員 ・94年……36万党員毎日新聞世論調査
9.24日原水協全国常任理事会、原水爆禁止運動連絡委員会問題、意見不一致。83世界大会準備委員会の組織問題についての「5項目の確認」。
9.26日83世界大会準備委員会、原水爆禁止運動連絡委員会の組織化、原水協、平和委の反対で不成立。

10月田中元首相一審実刑判決



【1984年の動き】 「戦後史84年当時」

 「原水協で何がおこったか」(長崎肇.日中出版)
 この年、原水協事件が発生している。解明を要する事件であるにも関わらず、正確な事件の概要が伝えられていない。1955年の原水協設立以来、一貫して平和運動の先頭で精力的に戦ってきた吉田嘉清代表理事がその座を解任されるという事件が起こった。これから見るとおり、党より為す大衆団体への人事に対する公然たる介入であり、ここでも宮本氏の号令一下の音頭取りが見られ、胡散臭さが付き纏っている。宮本という御仁は一体ほんとに何をしてくれるのだろう。毎度述べているが、この御仁が左翼運動の前進のために寄与したことがあれば、一つでもよいから教えて欲しい。私には少しも見当たらない。左翼運動に場違いな人物のように思われる。
 事件の経過はどうだったのか。吉田氏はれっきとした党員であったが、何故に赤旗で非同志的に掣肘され続けられたのか。70年代初頭の新日和見主義事件同様に赤旗キャンペーンだけでは到底真実に辿れない。見誤ってならないことは、吉田氏の主張こそが正義で有ろうとも同氏のパージは行われたであろうということである。なぜなら、同氏らのリーダーシップが戦う自主的な主体性を維持した団体構築運動であったが故に。原水協事件は、ここでも戦闘的左翼あるいは又そうでなくてもその可能性を秘めた大衆団体の「双葉の芽を摘む」事件であったのではなかろうか、という観点から以下考察する。
 1977年「5.19合意」により、1963年以来の14年間の運動の亀裂を解消することに成功していた。
2.6日核巡航ミサイル.トマホークくるな国民連絡センター発足。原水協、平和委員会、安保破棄中央実行委員会が提唱。
3.30日84原水爆禁止世界大会準備委員会発足。
4.5日赤旗無署名論文「統一の路線と分裂の路線」。
4.8日日本平和委員会第4回常任理事会、次期大会で役員は留任を原則と決定。
4.9日84世界大会準備委員会第一回運営員会。平和行進の名称、主催、コース、スローガン等の確認。実施方法については不一致。
4.12日世界大会準備委員会事務局会議。平和行進実施方法について協議、案作成。事務局案は結局まとまらなかった。特に団体旗を認めるのかどうかで議論が白熱した。総評と原水禁が団体旗の取下げを主張し、平和委員会と原水協が自由を主張してデッドロックに乗り上げた。特に問題になったのは、統一労組懇の旗であり、総評.県評がこれに強硬に反対するという背景があった。つまり、労働運動内部の問題が、反核平和運動にそのまま持ちこまれたという事態になった。
4.24日生協連や地婦連などの7市民団体が、平和行進実施方法に団体旗自粛を織り込むことを含む調停案で合意。翌25日、原水協−平和委員会、原水禁−総評に申し入れた。事務局団体会議も、この申し入れを検討。
4.26日原水協−平和委員会は無条件受諾。大同につき小異を捨て、出来るだけ一致点を拡大するという政治的観点から対応した。4.27日原水禁−総評も受諾。
4.28日84世界大会準備委員会事務局会議。5.8日84世界大会準備委員会第二回運営員会。
5.14−15日原水協第52回定期全国理事会。市民団体の申し入れの受諾を満場一致で可決。原水協の役員は任期一年で毎年開かれる全国理事会で選出されるというのが会則第8条であった。これに基づき、草野信男代表委員、吉田嘉清代表理事らを満場一致で選任した。この時のこととして、佐藤行通問題も発生している。同氏は、反核平和戦略研究会を主催していたが、小森氏からこれが分派だと執拗に攻撃され、それが翌日の赤旗に出るという状況があった。問題は、果たして、大衆運動の中に分派問題なぞ原理的に問い得るのかということになるが、赤旗がこれを支援していることを考えれば代々木ではそう解釈しているということになる。暫し各自瞑して愚考せよ。
5.15日、日本共産党個人選出理事、津川久義から小森良夫に交代。
5.18日共産党幹部会、原水協に「誤りや否定的傾向」があり、「その克服が内外で急務」と指摘。
 5月マル労同、社会主義労働者党に改称。
 5.20日赤旗、「原水爆禁止運動の根本問題」。5.26日統一労組懇、新婦人ら原水協に団体旗自粛の撤回要求。
5.27日核トマホークくるな全国統一行動、横須賀中央集会など9箇所。
5.28日84世界大会準備委員会第三回運営員会。団体旗問題で激論。
5.29日国民平和大行進実行委事務局団体会議で、「口頭了解事項」破棄通告を決定。
6.1日日本平和委員会運営員会の森賢一事務局長が突然辞意表明した。この時森氏は再任が予定されており、定期大会を目前にした前日に辞表を提出することになった。これを「森解任劇」と云う。その経過はこうであった。森氏は、党中央委員会に呼ばれ、小島優常任幹部会員.書記局次長から、概要「平和委員会などの大衆団体の役員を一切辞め、それは自分から辞めた形を取れ」と申し渡された。公然たる大衆団体への人事の介入であった。
6.2日日本平和委員会第34回定期全国大会。小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長辞意。三役空席のまま閉会。この時、憲法学者の長谷川氏は、「判決が先にあって後からそれを取り繕うというようなことは、大衆団体としての自殺行為ではないか」との感慨を述べていた。小笠原氏は、「会長.理事長にまったく何の相談もなく、何かこういった状況の中で突如としてこういったことになることにつきましては、やはり、とても会長としては責任を持てない」と辞意の理由を明らかにした。
6.5日国民平和大行進実行委員会総会。
6.8日赤旗、「平和運動の新しい脱皮への一歩−平和委員会大会論議にみる」で、森事務局長の辞意は当然と論評。
6.9-10日平和委員会第二回全国理事会。人事問題だけの会議として二日間招集された。非公開で44都道府県から代表が参加した。貴重な報告が為されている。概要「あまり顔を見たことのない、出てきたことの無いような人が、非常に多く出てきており、森氏斬るべしと気炎をあげていた」。小笠原英三郎会長、森賢一事務局長が出席していたところ、近藤一雄安保破棄中央実行委員会事務局長や小森良夫党中央委員が「任務放棄をした会長、事務局長をなぜ呼んだのか」等々発言を繰り返し、退席を求めた。女性事務局員が「森解任劇」について発言を求めると、日高教の幹部理事が「従業員黙れ」と発言したと伝えられている。見識の疑われる日高教幹部の発言ではある理事長に福山秀夫副理事長、事務局長に宇藤義隆事務局自重選出、会長空席。
6.13日原水協全国担当常任理事会、団体旗自粛口頭合意のまま破棄通告の経過承認。
6.24日反トマホーク行動デーについて原水協不一致を確認。
6.15日84世界大会準備委員会第四回運営員会。平和行進をめぐり激論、反トマホーク行動デーについても一致せず。
6.16日赤旗記事、「吉田氏が重大発言−平和行進の団体旗問題で」を掲載し、吉田代表理事の発言を批判。
6.17日市民団体7団体が合意破棄は認められぬを内容とする、「市民団体の見解」発表。
6.19日原水協草野代表委員、日本共産党を離党。総評「総評の見解」文書発表。
6.21日原水協常任理事会。「代表理事を辞任するよう」党の決定が為され、小森氏より概要「党の決定としてであること。対外折衝をやめること。準備委員会の役員をやめること。代表理事をやめること」が言い渡された。これより吉田代表理事に辞任要求カンパニアが発生した。未だ党員でもあるにも関わらず、草野.小森と呼び捨ての糾弾が始まった。この非同志的非愛精神はどこから由来しているのだろう。同氏はこれを拒否した。
6.22日原水協、代表委員名で第53回全国理事会開催案内発送。規約上、会則第14条で、全国理事会の招集権は9氏の代表委員に有ったが相談も承諾何もない投函であった。既に5月の段階で定期全国理事会が開催されたばかりであるということと、雲行きが吉田の解任問題であったことから、代表委員の大半は「現状況下での開催には反対」の立場を明確にしていた。しかし、少なくとも開催に同意した代表委員が一人たりともいなかったにも関わらず、代表委員全員の連盟を騙って会が招集された。異常事態の発生であるが、この民主主義的手続きが踏みにじられたやり方自体胡散臭い。
6.23日草野氏ら代表委員6名の名で、今回の全国理事会召集は会則の重大な侵犯であり、違法行為であり、文書の偽造であるとして、「開催案内」を無効とする「第53回全国理事会について」発送。
6.24日反トマホーク行動デー。
6.26日原水協(赤松事務局長)、84世界大会準備委員会田中里子責任者に公開質問状。
6.28日原水協第53回全国理事会。こうして、先の定期の理事会からわずか一ヶ月余で変則理事会が招集された。会則を改正し、代表委員制を廃止し、役員を改選するという暴挙が決行された。吉田代表理事が解任された。これをクーデターといわずしてどういいえよう。広島県原水協の理事長佐久間澄氏は、「政党(共産党)が大衆団体へ過剰な介入をした結果が今回の事態だと思う」と述べたが至当というべきであろう。長崎県原水協の理事長森正雄氏も同様の態度を見せたが、原水協理事に推薦されないという形でポストからパージされていくことになった。
6.29日84世界大会準備委員会田中里子責任者名で原水協(赤松事務局長)に回答。
7.7日長崎.広島間平和行進スタート。
7.9日赤旗、「原水禁運動で、なぜ一部の党員が重大な誤りにおちいったか」。
7.10日84世界大会準備委員会運営委員会、原水協二つの代表問題で紛糾。
7.13日市民団体の一部が草野.吉田両氏と赤松事務局長それぞれと会談。
7.16日赤旗に宮本議長の「原水禁運動と我が党の立場」談話が掲載された。これを見るに、概要「残念ながら今起こっている問題というのは、民主運動にあるまじき問題です。いろんないきさつはありますが、原水協の全国理事会で選んだ新執行部、それらを認めるか認めないかが問題にされ、選任されなかった一部の者が乗り込んで、自分が真の代表だといって頑張っている」という認識を示している。以上見てきた経過からすれば、まるで盗人猛々しい説教強盗の論理であることが知れる。「他の団体の人事問題に干渉して、これを認めないという議論をもてあそんで事実上の干渉を続けることは、自分が持ち上げた石で、大きく自らの足をくだく、そういうことになるということを私は率直に警告したい。そこから起こる一切の困難、一切の紛糾、それは、そういう不当な干渉をやった人が自ら負うべきものである、ということも付け加えたい」とも云う。こういう事実逆転の詐術的物言いが再びここにも登場しており、あまつさえ品の悪い例えで恫喝さえしている。この恫喝も勝てば官軍式の言いたい放題の感がある。実際にそれなりのことをすることを思えば、この権力の由来はどこからきているのであろうと、私は訝る。
7.17日原水協常任理事会が「草野、吉田両名に対する問責決議採択」。
7.20日84世界大会準備委員会運営委員会、「草野、吉田両氏、同委員会の代表委員、運営委員につき『辞意』を中野好夫代表委員を通じて表明。


参考までに、84年の日本原水協事件(吉田代表辞任キャンペーン)のノートを写しておきます。未整理ですが参考になります。ひどい経過を見せています。「原水協で何がおこったか」(長崎肇.日中出版)参考。
 この年、原水協事件が発生している。解明を要する事件であるにも関わらず、正確な事件の概要が伝えられていない。1955年の原水協設立以来、一貫して平和運動の先頭で精力的に戦ってきた吉田嘉清代表理事がその座を解任されるという事件が起こった。これから見るとおり、党より為す大衆団体への人事に対する公然たる介入であり、ここでも宮本氏の号令一下の音頭取りが見られ、胡散臭さが付き纏っている。宮本という御仁は一体ほんとに何をしてくれるのだろう。毎度述べているが、この御仁が左翼運動の前進のために寄与したことがあれば、一つでもよいから教えて欲しい。私には少しも見当たらない。左翼運動に場違いな人物のように思われる。

 事件の経過はどうだったのか。吉田氏はれっきとした党員であったが、何故に赤旗で非同志的に掣肘され続けられたのか。70年代初頭の新日和見主義事件同様に赤旗キャンペーンだけでは到底真実に辿れない。見誤ってならないことは、吉田氏の主張こそが正義で有ろうとも同氏のパージは行われたであろうということである。なぜなら、同氏らのリーダーシップが戦う自主的な主体性を維持した団体構築運動であったが故に。原水協事件は、ここでも戦闘的左翼あるいは又そうでなくてもその可能性を秘めた大衆団体の「双葉の芽を摘む」事件であったのではなかろうか、という観点から以下考察する。

 1977年「5.19合意」により、1963年以来の14年間の運動の亀裂を解消することに成功していた。1984.2.6日核巡航ミサイル.トマホークくるな国民連絡センター発足。原水協、平和委員会、安保破棄中央実行委員会が提唱。3.30日84原水爆禁止世界大会準備委員会
発足。4.5日赤旗無署名論文「統一の路線と分裂の路線」。4.8日、日本平和委員会第4回常任理事会、次期大会で役員は留任を原則と決定。4.9日84世界大会準備委員会第一回運営員会。平和行進の名称、主催、コース、スローガン等の確認。実施方法については不一致。4.12日世界大会準備委員会事務局会議。平和行進実施方法について協議、案作成。事務局案は結局まとまらなかった。特に団体旗を認めるのかどうかで議論が白熱した。総評と原水禁が団体旗の取下げを主張し、平和委員会と原水協が自由を主張してデッドロックに乗り上げた。特に問題になったのは、統一労組懇の旗であり、総評.県評がこれに強硬に反対するという背景があった。つまり、労働運動内部の問題が、反核平和運動にそのまま持ちこまれたという事態になった。4.24日生協連や地婦連などの7市民団体が、平和行進実施方法に団体旗自粛を織り込むことを含む調停案で合意。翌25日、原水協−平和委員会、原水禁−総評に申し入れた。事務局団体会議も、この申し入れを検討。4.26日原水協−平和委員会は無条件受諾。大同につき小異を捨て、出来るだけ一致点を拡大するという政治的観点から対応した。4.27日原水禁−総評も受諾。4.28日84世界大会準備委員会事務局会議。5.8日84世界大会準備委員会第二回運営員会。

 5.14−15日原水協第52回定期全国理事会。市民団体の申し入れの受諾を満場一致で可決。この大会で、原水協の役員は任期一年で毎年開かれる全国理事会で選出されるというのが会則第8条であったのに基づき、草野信男代表委員、吉田嘉清代表理事らを満場一致で選任した。この時のこととして、佐藤行通問題も発生している。同氏は、反核平和戦略研究会を主催していたが、小森氏からこれが分派だと執拗に攻撃され、それが翌日の赤旗に出るという状況があった。問題は、果たして、大衆運動の中に分派問題なぞ原理的に問い得るのかということになるが、赤旗がこれを支援していることを考えれば代々木ではそう解釈しているということになる。暫し各自瞑して愚考せよ。

 5.15日、日本共産党個人選出理事、津川久義から小森良夫に交代。5.18日共産党幹部会、原水協に「誤りや否定的傾向」があり、「その克服が内外で急務」と指摘。5.20日赤旗、「原水爆禁止運動の根本問題」。5.26日統一労組懇、新婦人ら原水協に団体旗自粛の撤回要求。5.27日核トマホークくるな全国統一行動、横須賀中央集会など9箇所。5.28日84世界大会準備委員会第三回運営員会。団体旗問題で激論。5.29日国民平和大行進実行委事務局団体会議で、「口頭了解事項」破棄通告を決定。

 6.1日日本平和委員会運営員会の森賢一事務局長が突然辞意表明した。この時森氏は再任が予定されており、定期大会を目前にした前日に辞表を提出することになった。これを「森解任劇」と云う。その経過はこうであった。森氏は、党中央委員会に呼ばれ、小島優常任幹部会員.書記局次長から、概要「平和委員会などの大衆団体の役員を一切辞め、それは自分から辞めた形を取れ」と申し渡された。公然たる大衆団体への人事の介入であった。6.2日、日本平和委員会第34回定期全国大会。小笠原英三郎会長、長谷川正安理事長辞意。三役空席のまま閉会。この時、憲法学者の長谷川氏は、「判決が先にあって後からそれを取り繕うというようなことは、大衆団体としての自殺行為ではないか」との感慨を述べていた。小笠原氏は、「会長.理事長にまったく何の相談もなく、何かこういった状況の中で突如としてこういったことになることにつきましては、やはり、とても会長としては責任を持てない」と辞意の理由を明らかにした。

 6.5日国民平和大行進実行委員会総会。6.8日赤旗、「平和運動の新しい脱皮への一歩−平和委員会大会論議にみる」で、森事務局長の辞意は当然と論評。6.9-10日平和委員会第二回全国理事会。人事問題だけの会議として二日間招集された。非公開で44都道府県から代表が参加した。貴重な報告が為されている。概要「あまり顔を見たことのない、出てきたことの無いような人が、非常に多く出てきており、森氏斬るべしと気炎をあげていた」。小笠原英三郎会長、森賢一事務局長が出席していたところ、近藤一雄安保破棄中央実行委員会事務局長や小森良夫党中央委員が「任務放棄をした会長、事務局長をなぜ呼んだのか」等々発言を繰り返し、退席を求めた。女性事務局員が「森解任劇」について発言を求めると、日高教の幹部理事が「従業員黙れ」と発言したと伝えられている。見識の疑われる日高教幹部の発言ではある。理事長に福山秀夫副理事長、事務局長に宇藤義隆事務局自重選出、会長空席。

 6.13日原水協全国担当常任理事会、団体旗自粛口頭合意のまま破棄通告の経過承認。6.24日反トマホーク行動デーについて原水協不一致を確認。6.15日84世界大会準備委員会第四回運営員会。平和行進をめぐり激論、反トマホーク行動デーについても一致せず。6.16日赤旗記事、「吉田氏が重大発言−平和行進の団体旗問題で」を掲載し、吉田代表理事の発言を批判。6.17日市民団体7団体が合意破棄は認められぬを内容とする、「市民団体の見解」発表。

 6.19日原水協草野代表委員、日本共産党を離党。総評「総評の見解」文書発表。6.21日原水協常任理事会。「代表理事を辞任するよう」党の決定が為され、小森氏より概要「党の決定としてであること。対外折衝をやめること。準備委員会の役員をやめること。代表理事をやめること」が言い渡された。これより吉田代表理事に辞任要求カンパニアが発生した。未だ党員でもあるにも関わらず、草野.小森と呼び捨ての糾弾が始まった。この非同志的非愛精神はどこから由来しているのだろう。同氏はこれを拒否した。6.22日原水協、代表委員名で第53回全国理事会開催案内発送。規約上、会則第14条で、全国理事会の招集権は9氏の代表委員に有ったが相談も承諾何もない投函であった。既に5月の段階で定期全国理事会が開催されたばかりであるということと、雲行きが吉田の解任問題であったことから、代表委員の大半は「現状況下での開催には反対」の立場を明確にしていた。しかし、少なくとも開催に同意した代表委員が一人たりともいなかったにも関わらず、代表委員全員の連盟を騙って会が招集された。異常事態の発生であるが、この民主主義的手続きが踏みにじられたやり方自体胡散臭い。6.23日草野氏ら代表委員6名の名で、今回の全国理事会召集は会則の重大な侵犯であり、違法行為であり、文書の偽造であるとして、「開催案内」を無効とする「第53回全国理事会について」発送。

 6.24日反トマホーク行動デー。6.26日原水協(赤松事務局長)、84世界大会準備委員会田中里子責任者に公開質問状。6.28日原水協第53回全国理事会。こうして、先の定期の理事会からわずか一ヶ月余で変則理事会が招集された。会則を改正し、代表委員制を廃止し、役員を改選するという暴挙が決行された。吉田代表理事が解任された。これをクーデターといわずしてどういいえよう。被災地広島県原水協の理事長佐久間澄氏は、「政党(共産党)が大衆団体へ過剰な介入をした結果が今回の事態だと思う」と述べたが至当というべきであろう。被災地長崎県原水協の理事長森正雄氏も同様の態度を見せたが、原水協理事に推薦されないという形でポストからパージされていくことになった。

 6.29日84世界大会準備委員会田中里子責任者名で原水協(赤松事務局長)に回答。7.7日長崎.広島間平和行進スタート。7.9日赤旗、「原水禁運動で、なぜ一部の党員が重大な誤りにおちいったか」。7.10日84世界大会準備委員会運営委員会、原水協二つの代表問題で紛糾。7.13日市民団体の一部が草野.吉田両氏と赤松事務局長それぞれと会談。7.16日赤旗に宮本議長の「原水禁運動と我が党の立場」談話が掲載された。これを見るに、概要「残念ながら今起こっている問題というのは、民主運動にあるまじき問題です。いろんないきさつはありますが、原水協の全国理事会で選んだ新執行部、それらを認めるか認めないかが問題にされ、選任されなかった一部の者が乗り込んで、自分が真の代表だといって頑張っている」という認識を示している。(私のコメント)以上見てきた経過からすれば、まるで盗人猛々しい説教強盗の論理であることが知れる。更に宮本は云う。「他の団体の人事問題に干渉して、これを認めないという議論をもてあそんで事実上の干渉を続けることは、自分が持ち上げた石で、大きく自らの足をくだく、そういうことになるということを私は率直に警告したい。そこから起こる一切の困難、一切の紛糾、それは、そういう不当な干渉をやった人が自ら負うべきものである、ということも付け加えたい」。(私のコメント)こういう事実逆転の詐術的物言いが再びここにも登場しており、あまつさえ品の悪い例えで恫喝さえしている。この恫喝も勝てば官軍式の言いたい放題の感がある。実際にそれなりのことをすることを思えば、この権力の由来はどこからきているのであろうと、私は訝る。

 7.17日原水協常任理事会が「草野、吉田両名に対する問責決議採択」。7.20日84世界大会準備委員会運営委員会、「草野、吉田両氏、同委員会の代表委員、運営委員につき『辞意』を中野好夫代表委員を通じて表明。


中核派による第四インターへの内ゲバ事件が発生している。これは成田空港反対同盟の分裂による支援党派の二分解に起因していた。中核派が北原派を応援していたが、熱田派を支援する第四インターを脱落派と決め付けての攻撃だつた。



【1985年の動き】 「戦後史85年当時」

(1985年の動き)

 2月竹下登創政会旗揚げ。田中角栄元首相脳梗塞で倒れる。
 5.7日戦旗・共産同、千葉県山田町の運輸省航空局のレーザーサイトに約五十メートル離れた山中から時限式発射装置により火炎ビン三発を発射、二発が防護壁に命中。埼玉県所沢市の運輸省東京航空交通管制部ビルに約九十メートル先から火炎ビン二発発射、敷地内の樹木をこがした。
 5.20日、日本赤軍岡本公三、パレスチナ・ゲリラとイスラエル側双方の捕虜交換によって、イスラエルの刑務所から14年ぶりに釈放され、日本赤軍のもとへ。
 7月よど号赤軍から、中曽根首相、藤波官房長官あて「無罪帰国」について政府側の意向打診の書簡届く。
 9.4日よど号赤軍メンバー吉田金太郎、ピョンヤンで肝臓病のため死亡。
 12月赫旗派、建党協議会推進グループ(生田グループ)追放。



【1986年の動き】 「戦後史86年当時」

(1986年の動き)

 1月赫旗派首都圏協議会、赫旗派規約・綱領を清算し、赫旗派首都圏委員会と改称。
 1月京大教養学部構内でオルグ活動中の中核派全学連委員長代行福島慎一郎氏が革マル派数名に襲われて後頭部乱打により死亡。
 2.25日ひそかに帰国していた日本赤軍メンバー山田義昭が警視庁出頭、逮捕。
 3.25日戦旗・共産同、東京・千代田区内路上に駐車中の乗用車のトランクに設置された時限式発射装置から皇居に向け火炎弾が発射され、二発が皇居内に落下、一発が発火した。皇居への初の直接的ゲリラ事件。また、港区の路上の乗用車のトランクからもアメリカ大使館へ向けて火炎弾三発が発射されたが、被害なし。
 4月創政会解散。
 5月赫旗派・生田グループら、「共産主義の建党協議会」を発足させる。     
 5月インドネシア・ジャカルタのカナダ、アメリカ、日本大使館への反帝国主義国際旅団の迫撃弾攻撃で、現場近くのホテルの部屋から日本赤軍城崎勉の指紋検出。

 7月竹下登党幹事長。

 9.1日中核派が革マル派且つ真国労大阪地本書記長を兵庫県伊丹市で就寝中を襲い乱打死亡させた。夫人にも全身打撲の重傷を負わせた。

 9.26日東京高裁は連合赤軍メンバーに対する判決。控訴を棄却し一審通りの永田.坂口死刑、植垣懲役20年を言い渡した。

 10.14日戦旗・共産同、東京・千代田区の検察庁合同庁舎南側に駐車中の乗用車のトランクの時限式発射装置から火炎弾三発が国会方向に発射され、その周辺や約二百五十メートル先の路上に落下。また、首相官邸方向にも別の乗用車から三発発射され、約二百メートル先のビル屋上などに落下したが、いずれも被害なし。
 12月松本礼二死去により「遠方から」派消滅。
 旧蜂起左派や旧神奈川左派の活動家を中心にプロレタリア通信派結成



【1987年の動き】 「戦後史87年当時」


(1987年の動き)

 3.6日戦旗・共産同、千葉県芝山町から新東京国際空港公団工事局に向け時限式発火装置から火炎弾二発が発射されたが、工事局まで届かず被害なし。
 7月経世会結成
 7.12日戦旗・共産同、千葉、茨城、大阪など全国13ヵ所の成田工事関係の建設会社に時限発火装置を仕掛け、ダンプカーなどを30数台を焼く。
 10月竹下登、中曽根康弘首相から後継総裁指名を受ける。
 10.29日戦旗・共産同、三里塚空港と空港公団工事局に向け千葉県芝山町から金属塊弾各二発が発射された。被害なし。         11月竹下内閣発足。
 11.24 日本赤軍丸岡修を東京都内で逮捕。四ヵ月前から帰国していた。


1987年現在、新左翼は、5流27、8派。その活動家総数は約14400名、動員総数約19900名、シンパ層を含めた総勢約35000名と公安当局調査。各党派別勢力は、中核派3420名、革マル派1930名、第四インター1010名、共産同諸派系1640名、革労協解放両派1100名、その他5330名。
革共同系−中核派、革マル派、第四インター
ブント.共産同系−戦旗.共産同、共産同戦旗派、蜂起派、社会主義労働者党、赤軍派
革労協系−解放.狭間派、同ろうたい労対派、
構造改革派系−プロ青同、フロント、日本の声
日共左派系−日本労働党、日本共産党行動派



【1988年の動き】 「戦後史88年当時」

(1988年の動き)

 1月マル青同解散、民主統一同盟結成。

 3月群馬県渋川市で革マル派且つ東日本旅客鉄道労組高崎地本委員長を就寝中を襲い死亡させた。

 5.10日3年前からひそかに帰国していた赤軍メンバー柴田勝弘、神戸市内で逮捕。

 6.7日本赤軍泉水博をフィリピン・マニラで逮捕。

 6月自民党税調が3%の消費税導入を決定。

 7月海老原事件以来の死者。計83名。
 7月リクルート.コスモス未公開株疑惑表面化。
 11月自民党が衆院税特別委で税制改革法案を単独強行採決。
 11.10 赫旗派首都圏委員会、赫旗派の分派に終止符を打ち、首都圏委員会派と改称する。
 12月消費税などの税制改革法案が成立。竹下改造内閣発足。



【1989年の動き】 「戦後史89年当時」

(1989年の動き)
1月昭和天皇逝去
2月江副リクルート前会長らを逮捕。
2.28日中核派が、茨城県那珂町の路上でJR東鉄労水戸地本組織部長を襲い死亡させた。
2月昭和天皇の大喪の礼
4月消費税導入
 竹下登秘書青木伊平が自殺。

6.25日解放派狭間派の幹部永井啓之が自宅から連れ出され、茨城県牛久市の県道下のトンネル内に寝袋に入れられて死んでいるのが発見された。解放派内の内々ゲバと判明。
7月参院選で自民惨敗
 7月三里塚芝山連合空港反対熱田派の最大支援党派戦旗・共産同、熱田派と決別。
 11.9日ベルリンの壁崩壊。
 11月解放派最高幹部狭間嘉明が他のゲリラ事件などの容疑とともに逮捕された。同派では内部対立が深刻化。11.7日北海道帯広市で同派の女性活動家が列車内で腹を切って死亡自殺した。

72.9田中支持率53.不支持13
74.12三木47.12
77.6福田27.38
79.3大平27.24

80.9鈴木38.21
82.12中曾根39.31
87.12竹下30.20
89.6宇野22.40
89.9海部31.27
91.12宮沢31.22
93.8細川75.9
94.4羽田43.23
94.7村山40.31
96.1橋本59.16
98.8小渕25.48
2000.4森40.24



12.2日解放派が埼玉県大宮市の路上でJR総連総務部長を襲い、死亡させた。

89.12.27日赤軍派元議長塩見孝也刑期満了で出所。



第52部 90年当時
第53部 91年当時
第54部 92年当時
第55部 93年当時
第56部 94年当時
第57部 95年当時
第58部 96年当時
第59部 97年当時
第60部 98年当時
第61部 99年当時

(1990年の動き)

90.6月現在、70年の海老原事件以来のゲバによる死者計83名。70−1、71−5、72−2、73−2、74−11、75−20、476−3、77−10、78−7、79−8、80−8、81−2、82−1、83−0、84−0、85−0、86−2、87−0、88−1、89−3。党派別の死者は中核派による革マル派殺害46名、解放派による革マル派殺害23名、革マル派による両派殺害15名、その他2名。但し、重傷負傷者数も調査されねばならない。

 1990.赤軍派(プロ革)消滅(?)。


(1991年の動き)

1.17日湾岸戦争勃発
4.26日海上自衛隊の掃海艇がペルシャ湾へ


(1992年の動き)

6.15日国連平和維持活動(pko)協力法成立

読売憲法問題調査会が第一次提言

 11.23日社会主義労働者党から、新しい労働者党をめざす全国協議会(ワーカーズ)分裂。

野坂失脚。ソ連共産党の保管文書から、野坂が戦前、同志を密告し、銃殺に至らしめたとされる手紙が見つかった。除名された。翌93.11月に101歳で亡くなった。


(1993年の動き)

衆院選挙前、自民党の羽田.小沢派の43名が離脱、新生党を結成。竹村正義ら10名も自民党を離党して新党さきがけを旗揚げ。

8月細川連立政権成立


(1994年の動き)

6月村山内閣成立

7.20日村山首相、衆院本会議で自衛隊は合憲と答弁

11.3日読売新聞が憲法改正試案発表


(1995年の動き)

1月阪神大震災

1995.11.30 よど号赤軍、田宮高麿死亡

12    建党協議会より建党同盟分裂


(1996年の動き)


(1997年の動き)

5.23日超党派の憲法調査委員会設置推進議員連盟(憲法議運)発足
9.23日日米両政府が新たな日米防衛協力の指針(ガイドライン)を決定

11月山一證券破綻


(1998年の動き)


(1999年の動き)

5.24日ガイドライン関連法成立

6.6日建党協議会、ワーカーズ、『国際主義』編集会議などとともに「共産主義協議会・未来」を発足。
6月赫旗派、日共ML派と統合。労働者共産党結成。

7.29日衆参両院に憲法調査会を設置する改正国会法成立

10月自自公連立


(2000年の動き)

1.20日衆参両院の憲法調査会が発足

4月自公保連立





(私論.私見)