獄中転向時の経緯、山本玄峰老師との関り

 (最新見直し2009.2.9日)

 田中清玄・氏の獄中転向に当たって貴重な指摘がなされているので紹介しておく。出典は、「回想−山本玄峰」所収の楢橋渡「老師と新憲法秘話」である。冒頭次のように書かれている。「終戦後、私が内閣書記官長をしているときに、田中清玄君がやってきて、こんな話をした。『自分らが共産党から転向したのは、実は玄峰老師の教えによって転向したんだ。初め老師が、刑務所へ教戒(*言毎)師としてきて、話をされたけれども、このくそ坊主、何をいうかと。こっちは、こちこちのマルクス・レーニン主義者だから、頭から馬鹿にしておったが、あの人が帰ると、妙に寂しくなってくる。そのうち、段々と老師の来るのを楽しみに待つようになった。それで、とうとう転向したんだ』、ということだった」。

 これにより、「転向」した田中清玄は、1941(昭和16).4.29日、11年10ヶ月の刑期を終えて小菅刑務所を出獄。5.1日、清玄は老師の下を訪ね、6月より修行の身となる。以上のように「田中清玄・氏の獄中転向契機」が明かされている。貴重な情報であるように思われる。

 れんだいこは、戦前共産党員の獄中転向の実態をもっと精密に資料化しておきたいと思っている。何分畑違いのオマンマ稼業をしており余裕は無いが、次の点を明らかにしておかないといけないと考えている。その一つは、「1933(昭和8)年の共産党幹部佐野学・鍋山貞親による共同被告同志に告ぐる書」の衝撃と作用についてである。その内容の吟味まで立ち入らないといけないと考えている。

 しかし、「共同被告同志に告ぐる書」が吟味されることは無く、当時も今も罵倒のみされている。インターネット・サイトで検索してみても、原文は見当たらない。これはネットの限界なのか、意図的に秘匿されようとしているのか分からない。日本左派運動はこういうところでも無能、狭量を見せている。れんだいこは、覚束ないながらも「転向、偽装転向、「大量転向」の背景と生態様子」の稿で言及している。

 もう一つは、獄中下の共産党員と特高警察及び検事達との「思想問答」の様子についてである。差し障りがあるのだろう、未だにその時の問答が公開されていない。れんだいこは、当時の党運動は強権的弾圧によって粉微塵にされたばかりではなく、「思想問答」によっても敗北せしめられた、のではないのかと推測している。こういうことが問われていないのは解せないことである。

 2004.8.28日 れんだいこ拝




(私論.私見)