中曽根康弘プロファイル/国鉄他の民営化

 更新日/2017(平成29).9.30日

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 2004.8.9日、2012.1.3日再編集 れんだいこ拝


中曽根康弘プロファイル/国鉄他の民営化
 2020.1.21日、現代ビジネス中曽根元首相が私に語った「国鉄解体」を進めた本当の理由」。
“戦後昭和”の解体

 その日(2019年11月29日)の夕方、私(筆者)は東京・新宿の寿司店で開かれた一足早い忘年会に出席していた。国鉄分割・民営化を旧国鉄内部から推し進めた「改革三人組」の一人、井手正敬氏(元JR西日本社長)ら旧国鉄関係者とその過程を取材したジャーナリストとの会である。その席に飛び込んできたのが、元首相・中曽根康弘氏死去の知らせだった。101歳での大往生である。時の総理として「国鉄分割・民営化」の先頭に立った中曽根氏の「狙い」は何だったのか――酒の勢いもあって忘年会の席は俄然、盛り上がった。

 中曽根氏の思いは、国鉄を分割することによって、闘争至上主義の国労(国鉄労働組合)、動労(国鉄動力車労働組合)など組合勢力を分断し、最大勢力の国労を解体、国労という大組織が支えてきた戦後政治の一方の旗頭、総評・社会党も崩壊に追い込むことにあった。それが彼の言う「戦後政治の総決算」だった。国鉄分割・民営化によって「昔陸軍、今総評」と言われた戦後の政治体制は一変する。「中曽根氏の存在抜きに国鉄改革は語れない。国鉄分割・民営化はまさに“戦後昭和”の解体だった」――これが集まっていた一同の一致した見解だった。

 1986年6月の「死んだふり解散」によって304議席を獲得した中曽根首相は、第三次中曽根内閣を組閣するや否や猛然と堰を切ったように国鉄改革に向け走り出す。そして5か月後の11月末、国鉄改革8法案が国会で可決され、翌年4月1日の「国鉄解体」が決まった日、中曽根氏は官邸日誌にこう記した。

 「二百三高地がついに落ちた。第二臨調(1981年)以来六年、決意する者の汗と涙と忍耐の成果である。一年前には夢にも思わぬ秩序の中の静かな成立であった。当時はゼネスト、国会の強行採決、暴力、犠牲を覚悟していた。国民世論の勝利であり、民主主義の一大前進である。国労崩壊に前に社党はなすすべもなき、茫然たる日々であった。第二臨調以来の委員、参与に謝電を打つ」

 この日の中曽根氏の高揚ぶりが伝わってくる。彼にとって「国鉄分割・民営化」は日露戦争で勝敗の分かれ目となった「二百三高地の攻防戦」だったのである。“風見鶏”と揶揄され続けた中曽根氏だったが、それは自民党内の少数派閥だった中曽根派の領袖としての表向きの顔であり、その本質は、“本音”を隠しながらも自分の政治姿勢を貫く彼一流の戦略・戦術だった。

 98歳の中曽根氏にインタビュー

 社会部記者として長年、鉄道業界を取材してきた私は3年ほど前の2017年3月、『昭和解体 国鉄分割・民営化の真実』(講談社)を上梓した。

 国鉄分割・民営化は、国鉄内部では「改革三人組」と呼ばれた井手正敬、松田昌士、葛西敬之氏ら若手職員の蜂起が重要な要因であったが、これを陰に陽に背後から支えたのが中曽根康弘元首相であったことは間違いない。彼が国鉄改革に取り組んだ動機や、それを実現するための戦略・戦術は何だったのか――私はこれを直接、彼に会って問い質したいと思った。

 インタビューを申し込むと、中曽根氏は事前に質問事項を提出することを条件に快く引き受けてくれた。インタビューが実現したのは2016年3月14日のこと。中曽根氏は当時98歳。まだ元気だったが、秘書によると耳は遠く、質問者の声が聞き取りにくいのだという。しかし、質問状を見ながら一つ一つの項目に、丁寧にかつ明快に答えてくれたのである。

 政治部記者のインタビューでは彼の政治理念や政治抗争に重きが置かれ、「国鉄改革」の具体的な内容などはほとんど話題にならない。彼にしてみれば「首相在任中、見事に成功した具体的政策が“国鉄改革”だった」という思いが強かったのだろう。「よく聞いてくれた」と言うかのように、どの質問にも歯切れのよい回答が返ってきた。以下ではインタビューを元に国鉄解体の経緯を振り返る。

 「国鉄の若手に火の手をあげさせたい」

 1980年7月、大平正芳首相急逝の後を受けて“万年総務会長”と呼ばれていた鈴木善幸氏が政権の座に就いた。「大平の後は自分だ」と思っていた中曽根氏の心境は、穏やかではなかったに違いない。鈴木首相は中曽根氏に入閣を要請する。中曽根氏は「副首相・蔵相」を希望した。

 鈴木首相は「この内閣の大きな仕事は行革だから、副首相格で行政管理庁長官をやってくれないか」と頭を下げた。中曽根派の幹部たちは強く反対した。しかし、中曽根氏は「今は尽瘁(じんすい)の時だ。行政改革は時の流れだ。ここは大死一番、行革でいこう」と腹を決める。この時、彼は言葉には出さなかったが「国鉄改革をやり遂げよう」と決意したという。

 中曽根氏は1975年11月末から12月初めにかけて国労、動労が一体となって全国の列車を8日間にわたって全面ストップさせた「スト権奪還スト」の際の自民党幹事長。スト権付与に傾く当時の三木武夫首相に抵抗し、労組へのスト権付与を食い止めた。

 スト収拾後、「ストは労組の敗北、国民の勝利となった。社共まだ労組に媚態し、国民を忘れる。大衆を守る会を作り、国鉄の若手に内部改革の火の手をあげさせたいと思う」と日記に記した。中曽根氏は鈴木首相から打診を受けた際、この時の国鉄労使の荒廃ぶりを思い出していたのである。

 行管庁長官に就任すると、すぐさま、“第二臨調”(臨時行政調査会)設置を決断する。長官就任2か月後の9月には閣議で臨調設置が了承され、11月の国会で臨調設置法案が可決される。第二臨調は異例の速さでスタートに漕ぎつけた。

 土光敏夫、瀬島龍三の起用

 この第二臨調のトップには経団連会長を退いたばかりで「荒法師のようで、太っ腹で、非常に頑固な」土光敏夫氏に要請する。

 第二臨調は翌1981年3月に発足する。土光氏は第二臨調の経済界出身のメンバーとして迷わず伊藤忠商事の前会長、瀬島龍三氏を指名した。かつて関東軍参謀だった瀬島氏は当時、中曽根氏の参謀役でもあった。

 瀬島氏は第二臨調の事実上の“参謀長”として、臨調内の“戦略会議”を主宰、臨調の議論をまとめる役割を担い、“臨調の官房長官”と呼ばれるようになる。後にこの瀬島氏と国鉄内部の若手改革派を繋ぐ連絡役を果たしたのが「改革三人組」の一人、葛西敬之氏(後にJR東海社長)だった。

 第二臨調が鈴木首相に基本答申を提出したのは2年後の1982年7月のことである。この答申には「国鉄分割・民営化」が具体的に次のように盛り込まれていた。

 「国鉄を七ブロック程度に分割する。分割は以下の基準を参考にする(1)分割体は独立の経営体にふさわしい業務の内容を有すること(2)地域経済の単位に対応したものであること(3)経営の適正な管理限界内の規模であること。分割は五年以内に速やかに実施する」

 さらに答申は「分割民営・民営化のための再建計画の企画・審議・決定のために『国鉄再建監理委員会』を総理府に置き「強力な実行推進体制を整備する」との方針を打ち出したのである。

 「田中曽根内閣」の真意

 この答申を受けた3か月後の同年10月、鈴木首相は引退を表明、後継総裁選挙で中曽根氏は田中派と鈴木派の後押しもあって圧勝する。中曽根氏は11月25日、首相の座に就いた。“風見鶏”がついに総理となったのである。

 総理・総裁となった中曽根氏は党幹事長に田中派の二階堂進氏を、発足した内閣には竹下登(蔵相)、後藤田正晴(官房長官)、内海英男(建設相)氏など閣僚20人中、田中派から6人を入閣させた。

 そればかりではない。法務大臣には無派閥ながら田中派に近い秦野章氏(元警視総監)を、国土庁長官には運輸族のボスで、国鉄改革反対派の加藤六月氏を起用したのである。閣僚名簿が発表されると「まるで第三次田中内閣ではないか」と猛烈な中曽根批判が巻き起こった。

 この組閣の真の狙いはどこにあったのか。第二臨調の「参与」として審議に参加した屋山太郎氏(時事通信編集委員)は雑誌「諸君」(昭和58年新年号)に「毒をもって毒を制す中曽根人事の凄み」と題する評論を掲載する。屋山氏は「一見すればヤクザ内閣だが、よくよく考えれば中曽根の読みの深さと強烈な狙いが秘められている」として、「特に行革の目玉である国鉄改革に限ればこの人事の狙いは一層明らかになる」と次のように記している。

 「国鉄の分割・民営化に反対しているのは、国労、動労、国鉄当局、運輸官僚、運輸族である。前任の小坂徳三郎運輸相はこうした反対派の代弁者にすぎなかった。このポストに長谷川峻を起用した。起用に当たって首相は『臨調の答申を実行してくれるか』と念を押し『かしこまりました』との返事をとったうえで任命している。長谷川は中川派の長老で、中川派は数は少ないが破壊力抜群だ」

 「これに関連して絶妙なのは加藤六月の処遇だ。加藤を“灰色高官”との非難には耳をふさいで、あえて国土庁長官に起用したのは明らかな寝技封じである。加藤の選任について首相は『ラストチャンスを与えた』と言ったが、この言い方は『いうことをきかなければお前はおしまいだ』といっているようで凄みがある」

 こうした屋山氏の“人事解説”に中曽根氏は「図星を突かれた」と思ったのだろう。「洞察に敬意を表す。この深みに来ると、評論も読むに耐える」と日記に記したほどである。中曽根首相の具体的な標的は「国鉄の分割・民営化」に向けられていた。

 首相就任直後の同年12月には、政府内に「国鉄再建対策推進本部」を設置して自ら本部長に就任する。推進本部がまず取り組んだのが「国鉄再建監理委員会設置法案」の成立だった。1983年5月、同法案は通常国会で成立、同年6月、再建監理委員会は中曽根首相のもとで発足に漕ぎつけた。

 角栄にすがった「国体護持派」

 中曽根内閣の国鉄分割・民営化の急ピッチの動きに、国鉄内部では大きな反発が起きた。仁杉巌総裁、縄田国武副総裁を始めとする常務理事会メンバーだけでなく、キャリア官僚の大部分は強硬に分割・民営化に反対する。彼らは「国体護持派」と呼ばれた。

 「改革三人組」を中心にした改革推進派は若手職員の総勢二十数名にすぎない。国体護持派は田中角栄元首相の力に頼ろうとした。仁杉総裁らは密かに田中邸を訪ね、国体護持派がまとめた「自主再建案」を田中氏に示し説得する。田中氏は「世論もいろいろあることだし、四国、北海道の分離はやむを得ないとしても、本州、九州の切り離しはいかん」と語ったと言う。

 仁杉総裁、縄田副総裁らは、田中元首相の“お墨付き”を得たとばかりに政府関係者を次々と訪問、分割・民営化反対の説明をして回った。国鉄内部で国体護持派と改革派のせめぎ合いが続く中で1985年2月、衆院予算員会で国体護持派にとってはショッキングな中曽根発言が飛び出す。「けじめ発言」と呼ばれるこの発言の要旨はこうである。

 「国鉄当局の自主再建案を私も拝見したが、まだ親方日の丸から改まっていない。世の中というのはそう甘いものではないし、我々が国鉄などの行革をやろうとしているのは生易しい気持ちでやっているのではなく、異常な決意でやっているのである。総裁以下幹部、あるいは職員に至るまで、その気持ちを体してやってもらいたい。およそ臨調の線に背くような考えを持っている人がいたら、これはけじめを付けなければならない。私はそう思っています」

 中曽根首相はそれまで第二臨調や再建監理委員会の動きや国鉄側の対応を慎重に見つめながら対外的な発言を控えてきた。そんな首相から飛び出した厳しい発言である。その真意をめぐって様々な憶測を引き起こした。中曽根氏は、ロッキード事件の一審判決で有罪判決を受けた田中角栄氏が率いる田中派の動向を慎重に見極めようとしてきた。

 田中派はボスの有罪判決にもかかわらず、130人の国会議員を抱える大派閥に膨れ上がっていた。弱小派閥の領袖である中曽根氏が首相の座につけたのも、田中派の支援があったからでもある。中曽根氏は田中氏が国鉄分割・民営化の否定的なことも知っていた。

 この“けじめ発言”の翌日、田中派の実力者、金丸信氏が竹下登氏を擁立して新派閥「創政会」の発会式を開くという情報を、中曽根氏は既に入手していたのである。「田中派の分裂」は田中元首相の権力喪失につながる。“けじめ発言”から20日後の2月20日、田中氏は脳卒中で倒れた。田中元首相が再起不能であることが明らかになると、中曽根首相は、一気に公然と、国鉄分割・民営化に向けて走り始める。

 幹部14人を辞任に追い込む

 分割・民営化に反対する仁杉総裁、縄田副総裁ら国鉄幹部を中心とする「国体護持派」の総退陣を迫る決定的な“事件”が、「けじめ発言」から3か月後の同年5月27日に起きた。縄田副総裁の“腹心”である常務理事がこの日、改革派に近いとされる朝日新聞記者を神楽坂の小料理屋の呼び出し、「オフレコだ」と断って酒を飲みながら、威勢よく国鉄の現状と将来について“本音”を曝け出したのである。

 酒を飲ませて本音を語れば、新聞記者も容易に国体護持派になびく、と考えていたのかも知れない。記者はテープレコーダーでこの常務理事の発言をすべて録音していた。

 彼の発言の要旨は、しばらくは中曽根政権の出方を見ながら「面従腹背」で通せば、国鉄再建監理委員会から分割民営化の最終答申が出ても、いずれ法案作成の過程で巻き返し、法案を骨抜きにできる、というものだった。記者はこのテープを文字起こしする。

 このコピーを入手したのが「改革三人組」の一人の葛西敬之氏である。葛西氏はこれを第二臨調参与の屋山太郎氏に届ける。屋山氏は深夜、首相公邸を訪れ中曽根氏にこの文書を手渡した。一読して中曽根氏は激怒する。すぐに「総裁以下常務理事全員の辞表を提出させよ」と指示した。「激怒した」と言うのは表向きで「国体護持派を解体するチャンス到来」と内心では“にんまり”としていたのだろう。

 中曽根政権の強硬姿勢に抵抗できず、仁杉総裁以下14人の常務理事全員が辞表を提出、中曽根氏は待ち構えていたようにこれを受け取った。そして総裁、副総裁、技師長を含め半数の7人の解任を決めたのである。国鉄史上最大でかつ異例の首脳刷新人事である。

 中曽根氏はすでに後任の新総裁には、分割・民営化の推進論者である前運輸事務次官の杉浦喬也氏を決めていた。解任された常務理事の後任も改革派が占めることになる。まさに「国体護持派」に対する衝撃的な“けじめ人事”だった。以後、杉浦新総裁をトップに井手正敬、松田昌士、葛西敬之氏ら若手改革派が中心になって、分割・民営化後に発足するJR移行後の準備が急ピッチで進むことになる。

 「総評も崩壊する」ことを意識していた

 中曽根氏はインタビューで「この更迭人事こそ、国鉄分割・民営化の天王山だった」と振り返る。そしてこう語った。

 「国鉄分割・民営化によって国鉄労組が分解し、総評が潰れた。それが社会党の生存基盤を奪った。私は国労が崩壊すれば総評も崩壊するということを明確に意識してやったのです」

 インタビューの最後に「“風見鶏”という中曽根評をどう思いますか」と質問した。「政治とは結果を出すことですよ。常に慎重に風向きを読み取り、その時々で最適な手を打っていく。それが政治というものですよ」。“風見鶏”であることは中曽根康弘という政治家の確固たる政治信条だったのである。「国鉄改革は“風見鶏”中曽根でなければ成し遂げられなかった」という自信にあふれていた。


























(私論.私見)