金丸信の中曽根嫌い考、金丸失脚考

 (最新見直し2014.06.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここでは、「日本一の中曽根嫌い」を公言していた金丸信の中曽根嫌いについて確認しておくことにする。

 2013.10.11日 れんだいこ拝


【金丸信の履歴考】

 れんだいこのカンテラ時評bP175  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月13日
 金丸信の中曽根嫌い考その1

 金丸信を急に知りたくなった。理由は定かではない。恐らく三島事件の検証で、また一つ中曽根の悪事を確認したところから、そう云えば金丸が中曽根嫌いだったことを思いだし、それはどういう理由だったのだろうと疑問を湧かしたことによるのだろう。以下、「金丸信の中曽根嫌い」を検証するが、ここでも中曽根の人間失格的尋常でない策士ぶりが判明する。恐らく近代日本政治史上随一のサイコパス政治家ではなかろうか。こういう御仁を名宰相だの大勲位などと持ち上げる評論氏の神経が理解不能である。

 もとへ。れんだいこから見て金丸は嫌いではない。何となく原日本人風の風貌と愛嬌があって良い。但し好きでもない。その理由は、これから述べるところで自ずと判明しよう。ここで金丸信を取り上げる理由は、中曽根に甘言を持って対角栄掃討戦に徹底利用される形で登用され、角栄殲滅を成し遂げるや暫くの間は泳がされる形で栄耀栄華を極めたものの、その挙句に用済みとして無慈悲に処分された政治履歴を持つ凡愚の右代表と思うからである。政治家たる者は金丸を他山の石、反面教師として見据え教訓を得るべきであろう。これを確認するのが本稿の狙いである。

 政治家・金丸信の政治履歴は別稿「金丸信の履歴考」で確認する。元々は「日本一の中曽根嫌い」を公言する政治家であった。その由来を知りたいが、この辺りの情報はどこにも出てこない。政界風見鶏として動き回る中曽根に対する不快感を理由に挙げるのは容易であるが、それは表面的なものに過ぎない。もっと他に中曽根の人間性、根っからの国際ユダヤ奴隷であり、その意を受けて立ち働く中曽根政治の本質を嗅ぎ取って嫌っていたのではなかろうかと思われるが、これを証する言は出てこない。今からでも遅くない。旧田中派の生き証人は歴史に語りを遺すべきである。れんだいこは、金丸の中曽根嫌いにはよほどの根拠があったと推理する。その金丸が中曽根に取り込まれ、やがて使い捨てにされるのが金丸の後半の政治履歴となる。

 ここで、以下の考察に絡むのでロッキード事件の経緯について確認しておく。1976(昭和51).2月、三木政権下でロッキード事件が勃発する。7月、前首相の田中角栄が逮捕される。翌1977(昭和52).1月、東京地裁でロッキード裁判が始まる。この裁判を通じて、角栄は一貫して5億円収賄容疑を認めなかった。今日の角栄擁護者の中には、角栄の政治的貢献からして5億円容疑なぞ微々たるものとして、5億円収賄を認めたうえで角栄を擁護する者が居るが、れんだいこに云わせれば一知半解の角栄擁護論でしかないない。真の角栄擁護者は、角栄の政治的貢献、稀有の政治能力を認めたうえでなお且つ5億円収賄容疑を否定する。れんだいこともなると、あれは児玉−中曽根ラインの犯罪の角栄への無理やりのすり替えと断定している。補足しておけば、角栄は金権政治家の代名詞として批判されるが、確かに政治闘争に金は使ったが私事的には案外身ぎれいでさえある。理屈の合わない金を貰うことはなかった。このことを知って日共流、立花(隆)流の「諸悪の元凶論」に対峙すべきである。

 もとへ。この間、政権は三木、福田、大平、鈴木と移行する。中曽根政権直前の鈴木政権史を確認すると、1980(昭和55).5月、初の衆参同日選挙。大平首相が遊説中に急逝する。7月、宏池会会長・鈴木善幸が第70代総裁に選ばれ鈴木政権が誕生する。1982(昭和57).10月、突然に総裁選不出馬を表明。後継争いが始まる。「金丸の日本一の中曽根嫌い情報」が出てくるのは、この時のポスト鈴木総裁選を廻る田中派の中曽根擁立を廻るやり取りの際である。派閥のドン角栄は中曽根を支持した。その理由を推理するのにロッキード事件が大きく関係していた。角栄は、ロッキード事件に於ける贈収賄容疑は元々児玉−中曽根系のものであり、お前らが訴追されねばならないところ何で俺が罪をかぶされねばならんのか。裏で大きな力が動いているので難しかろうが、お前に関係していることなんだからお前の責任で何とかしろとの言い分で中曽根と談判した形跡がある。これに対し、中曽根が、首相になった際には政権責任で角栄を救済するので、こたびはぜひ後押ししてほしいと懇願したものと思われる。これを仮に「角栄−中曽根の角栄無罪放免密約」と命名する。

 金丸は当初、「あんなおんぼろ神輿担げない」として急先鋒的地位で反対していたが最終的に中曽根支持に転換し次のように述べている。
 「このシャバはキミたちの思うようなシャバではない。親分が右と言えば右、左と言えば左なのだ。親分が右と言うのにいやだと言うなら、この派閥を出て行くしかない。オヤジが中曽根というからには、それなりの義理があるからだろう。私もこの年でもう派閥を出るわけにはいかない。オヤジについて中曽根を応援していく。中曽根嫌いでは日本一の金丸信だ。その私が言うのだから間違いない」。

 この頃、鈴木内閣の末期に開かれた中曽根派と田中派の料亭会合の際に、中曽根と金丸が表向き和解したとの伝が遺されている。その際、中曽根が金丸を評して、「腹も太いし三木武吉以来の大物だ」と持ち上げている。この頃より中曽根の金丸取り込みが始まったと思えばよい。これが上述の金丸語録を生んでいると思えばよい。

 かくして1982(昭和57).10月、少数派閥の長でしかなかった中曽根が党内最大派閥の田中派の後押しを得て第71代首相に就任する。ここまでは良い。問題はこれからである。その後、中曽根の猛烈な金丸取り込みが始まっている。それは「角栄−中曽根密約」を反故にする背信であり、それどころか角栄訴追への鞭打ちと云う逆攻勢に向かったことを意味している。常識的には信じられない、これが中曽根の人間性である。

 この頃のこと、銀座の料亭で土下座をし「あなたを必ず幹事長にする」と約束したとの伝が遺されている。ここで窺うべきは、この逸話の背後に宿る密約であろう。こういうものは表に出てこないので推理するしかない。こういう推理は外れるのが常であるが、れんだいこ推理は一味違う。持前の霊能力で的を射るのを得意とする。何も幸福の科学の代表・大川隆法の如く死者の霊を呼び出しての臭い対話を嘯く必要がない。その後の史実をトレースさせて浮かび上がるものに相応しい判断を下せば良いだけのことである。

 「中曽根−金丸密談」とはどういうものであったのか。れんだいこ推理は、「金丸さん、あなたを見込んで云う。悪いようにはしない。角栄の政治的影響力を殺ぐ為に協力してくれ。見返りに竹下を必ず首相にし且つあなたを重用する。この話しを信じてくれ」ではなかったか。これを仮に「中曽根−金丸の竹下政権創出密約」と命名する。金丸はこの甘言に乗った。ここから金丸の栄光が始まる。但し、その果てに「用済み災難」が待ち受けていることを知る由もなかった。こう解する必要がある。

 れんだいこのカンテラ時評bP176  投稿者:れんだいこ  投稿日:2013年10月14日
 金丸信の中曽根嫌い考その2

 その後の金丸は、「中曽根−金丸の竹下政権創出密約」通り、「日本一の中曽根嫌い」だったにも拘わらずトントン拍子に第2次中曽根内閣で自民党総務会長、第2次中曽根改造内閣で幹事長、第3次中曽根内閣で副総理と重用されて行くことになる。

 この間の流れは次の通りである。1983(昭和58).10月、第一審判決で角栄に懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下る。1984(昭和59)年、自民党総裁任期満了に伴う中曽根再選を阻止するため、鈴木前首相、福田元首相らが野党の公明党(竹入委員長)、民社党(佐々木委員長)をも巻き込んで田中派大番頭の二階堂進・自民党副総裁を擁立しようとする事件が起こる。この裏にあったのは、「角栄−中曽根の角栄無罪放免密約」を一向に守らないばかりか逆に角栄を政治訴追する方向に舵を切り始めた中曽根に対する不信であったであろう。加えて民営化と云う名の国富ないしは国家機密の外資売りに勤しみ始めた中曽根政治に対する不信だったであろう。

 この二階堂擁立劇を潰したのが田中派内の金丸−竹下連合であった。結局、中曽根が再選され、11月に第2次中曽根改造内閣が発足する。この年の12月、金丸信が中心となり竹下、小渕恵三、梶山静六との間で後の創政会の発会式が行われる。1985(昭和60).2.7日、田中派内に創政会が結成される。その20日後の2.27日、角栄が突然、自宅で倒れる。病名は脳梗塞であった。この日以来、田中は、政治の表舞台に復帰することなく政界を去ることになる。

 1987(昭和62).7.4日、創政会が経世会(竹下派)として正式に独立する。残存した二階堂らの田中派は形成利あらず、次第に解体していくことになる。7.29日、角栄の控訴が棄却され上告する(この裁判は1993(平成5).12月、角栄の死により公訴棄却となる)。11月、竹下が第74代首相に就任する。金丸が竹下の後を受けて経世会会長に就任し、自民党のドンと呼ばれ絶頂期を迎える。「中曽根−金丸密約」はかく完璧に守られた。しかし密約が単に守られたのではない。首相指名の見返りに竹下は「世界に貢献する日本論」を名目として引き続きの国富の外資売り政策即ち消費税増税、国債刷りまくりを通じての日本の経済成長頓化策、在日米軍経費の負担増を請負する政治を誓約させられた。

 1989(平成元).6月、リクルート事件の煽りを受け竹下内閣が総辞職を余儀なくされる。宇野政権が後継するも僅か69日で退陣する。8月、海部政権が誕生する。海部首相は党内最小派閥の河本派であったこともあり、この政権を党内最大派閥・経世会の竹下、金丸、小沢一郎が牛耳る。二人三脚で歩んできた金竹関係がこの頃から隙間風が吹くようになる。この時、金丸は、竹下らの反対を押し切って小沢を47歳の若さで自民党幹事長に就任させる。1990(平成2)年、金丸は、日本社会党の田辺誠らと訪朝団を編成、団長として北朝鮮を訪問する(金丸訪朝団)。1992(平成4).1月、ポスト海部に宮澤政権が誕生する。金丸は自民党副総裁に就任し宮澤政権を後見する。ここまでが金丸絶頂期の流れである。

 金丸のその後の結末がどうなったか。これについては別稿「金丸信の失脚考」で検証する。要するに、金丸−竹下は角栄を葬るための当て馬として利用され、これを首尾よく成し遂げた後、竹下政権実現で一応の約束を果たした後、見事なまでに用済みとして処理されて行くことになる。こうして、あらゆる不祥事に顔を出す中曽根は生き延び、中曽根のそれに比べれば取るに足りない容疑で在地土着系の政治家が潰されていくことになる。この流れをマスコミが言論大砲力で後押しする。ここでは金丸を問うているが、これは金丸だけのことではない。旧田中派−大平派系の者は皆な竹下、宮沢、橋本、小渕ら首相経験者は無論、党内実力者まで然りである。旧福田派−中曽根派系の者は元々が国際ユダ屋系と云う事情により成敗されることはない。

 この史実から学ぶべきは、在地土着系の政治家たる者は国際ユダ屋系の栄耀栄華の甘言に乗るべきではないと云うことであろう。政界遊泳上、離合集散はつきもので、時に反目系と組むのは良いとしても相手次第であり、根っからの国際ユダ屋の雇われでしかない者と組むのは碌なことにならないことを知り、ご法度とする戒めを獲得すべきであろう。「国際ユダ屋に雇われた者は用済み後、始末される。始末されない者は中曽根のようなよほど懐深くに入り込んだ者だけである」と云う教訓を得る必要があろう。金丸にそういう「もののふ的矜持」がなかったことが金丸の晩節汚しによる落涙の因ではなかろうか。

 補足しておけば、 国際ユダ屋に悪の誓約をしなかった数少ない政治家はどうなったかである。本当に多くの者が潰された。ここでは一々挙げない。小沢どんが国際ユダ屋にどの程度取り込まれているのか自律しているのかは定かではないがほとんど唯一の生き残りであることに驚かされる。その小沢どんの最後の置き土産的政治活動が続いているが、あっと驚く為五郎式の小沢政権誕生が成るだろうか。このところ目立つ国政選挙での選挙不正を衝かないなど穏和過ぎる面はあるが、れんだいこは少なくともこの系からでしか日本の未来は開けないと確信する。これを逆に云う政論家とは百年議論を費やしても無駄である。そっちもそっちで立論すれば良し、我は我で言論し抜くことを誓う。

【金丸信の失脚考】

 1992(平成3).8月、朝日新聞の報道により東京佐川急便からの5億円のヤミ献金が発覚。同年8.27日、自由民主党本部で緊急記者会見を行い、副総裁職の辞任を表明する。

 東京地方検察庁特別捜査部は金丸に事情聴取のための出頭を求めたが、金丸はこの要請に応じずに政治資金規正法違反を認める上申書を提出するにとどまった。結局、東京地検は金丸に事情聴取せずに1992.9月、同法違反で略式起訴し、金丸は東京簡易裁判所から罰金20万円の略式命令を受けた。逮捕もなく事情聴取すらせず、5億円の賄賂に対する僅か罰金20万円というこの決着に、地検は国民から凄まじい批判を受け、検察庁の表札にはペンキがかけられた。当時、札幌高等検察庁検事長だった佐藤道夫が朝日新聞に検察の対応を批判する読者投稿をし、異例ともいえる身内の検察からも批判的な意見が公にでた。刑罰の軽さに批判が大きかったものの前科一犯が確定したため叙勲を受ける資格を失った。10月、衆議院議員を辞職。竹下派「経世会」会長も辞任する。

 一方、東京国税局は、金丸信の妻が死亡した際に受け取った遺産に着目、日本債券信用銀行(日債銀。現あおぞら銀行)の割引金融債「ワリシン」の一部が申告されていないという事実を突き止めた(日債銀内では、金丸を“蟷螂紳士”のコードネームで呼び、申告漏れに協力していた)。1993.3.6日、東京地検は金丸本人と秘書を任意に呼び出して聴取を行い、同日脱税の容疑で逮捕。後に、自宅へ家宅捜索を行ったところ、数十億の不正蓄財が発覚する。捜索の中、時価1千万円相当の金塊が発見された。”金丸が訪朝の際、金日成から受領した無刻印のもの”と風評されたが、実際には刻印のあるフォーナイン(純度99.99%の金)であったとされる(朝日新聞記者の村山治『特捜検察VS金融権力』)このフォーナインは「麻原彰晃が上九一色村の本部に隠し持っていた金塊と、刻印番号が接近している」との噂もあった。金丸は、来るべき政界再編に備えた軍資金であると述べたが権威は地に堕ちた。逮捕されて2年後あたりから金丸の体調は持病の糖尿病により悪化し、左目は白内障によりほぼ失明しながらも、本人は最後まで裁判を続けるつもりで月に1度から2度、裁判のために甲府市から東京地方裁判所へ通っていた。しかし、金丸のあまりの体調の悪化に心配する家族の申し出により1996年3月に裁判は停止し、その1週間後の28日に金丸は脳梗塞で死去した。







(私論.私見)