「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」考


 阿修羅戦争版70」にバルセロナより愛を込めて氏が2005.5.13日付で「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」からの翻訳(1)」を投稿している。これを参照しれんだいこ風に意訳し紹介しておく。

 
ユダヤ人達の中にもシオニズムとイスラエルに反対する人々が少なからず存在している。その中で最も活動的な団体の一つが「シオニズムと対決するユダヤ人たち」(Jews Against Zionism)である(http://www.jewsagainstzionism.com/index.cfm)。

 但し、彼らは、「ホロコースト(ガス室)はあった」論を前提にして、ニュルンベルグ裁判の「判決」を検証抜きでそのまま信じ込んでいる。その上で、ネオ・シオニズム及びそのシオニスト達に反対しており、彼らの跋扈によって尊敬するラビたちが預言していた通りに「神の怒りがユダヤ人全体への懲罰へ向うことになる」と危惧している。それは、真摯な宗教的信念から来ている。

 バルセロナより愛を込めて氏は次のように述べている。

 今回翻訳しました記事は、『ホロコーストにおけるシオニズムの役割(THE ROLE OF ZIONISM IN THE HOLOCAUST)』と題されています。かなりの長文です。前半は宗教的な叙述、後半がシオニストとナチとの関係についての具体的・歴史的な記述になっています。

 内容をお読みになれば明らかですが、題名とは裏腹にこれは『アウシュビッツ』『ガス室』の話ではなく、第2次世界大戦とイスラエル建国の中でシオニズムが果たした役割に関するものです。したがって戦争板に貼ることにしました。「ホロコーストは神の怒りだった」とこられたのではホロコースト板に貼っても意味がないでしょう。彼らの宗教的信念は尊重しますが。

 またこれには「ユダヤ教とは何か」という宗教の問題も絡んでおり、カルト板にも深く関わるものです。(関連事項はカルト板にもいずれ投稿するつもりにしています。)

 ホロコーストにおけるシオニズムの役割
 ラビ、ゲデルヤ・リーバーマン(Gedalya Liebermann:オーストラリア)による記事(  http://www.jewsagainstzionism.com/antisemitism/holocaust/gedalyaliebermann.cfm ) 
 【以下、ユダヤ教では「神」の名を直接示すことは差し控えられ母音抜きで表記されるため、それを尊重して「神」と訳さずに原文通り「G-d」と表記する】

 『霊的そして物質的責任』

 その初めから多くのラビたちがシオニズムの潜在的な危険性を警告した。そして彼らは、すべてのユダヤ人のG-dに対する忠誠が、人が火から離れるように、それから離れているべきである、と大々的に宣言した。彼らは会衆に対しまた一般の公衆に対してその意見を明らかにした。彼らのメッセージは、シオニズムがユダヤ教とは決して相容れない好戦的・排他的な人種主義である、ということだった。

 彼らは、シオニズムがユダヤ人たちと異教徒たちの良い人生にとって決定的に有害であること、およびユダヤの信仰に及ぼす影響は破壊的以外の何物でもなくなるだろう、ということを公に表明した。さらに、それはユダヤ民族に対する評判を完全に汚し、そしてユダヤ人と非ユダヤ人の社会に全面的な混乱をもたらすだろう、と。ユダヤ教は人種でもなければ国籍でもない。それは昔も今もラビ達の間の合意なのだ。

 我々は、妨害されることなくトーラーを学び聖なる土地の外で成し遂げることの困難な聖性のレベルを手に入れることができるように、G-dからあの聖なる土地を与えられた。我々はその恩恵を悪用しそしてそこを追い払われた。それはまさにユダヤ人のすべてがあらゆるユダヤの祭典で祈る言葉の中にある"Umipnay chatoenu golinu mayartsaynu"「我々の罪のために我々は自らの土地を追われた」ということである。

 我々はG-dによって「予言される時が満ちる以前にあの聖なる土地に一団となって入ってはならない」、「居住する国々に対して反乱を起こしてはならない」と禁じられ続けている。忠実な市民でありなさい、どんな国の意図にも逆らって行動してはならない、復讐、不和、賠償、補償を求めてはならない、「時が来る前に追放の身から逃れようとしてはならない」と。そうではなくて、我々は謙虚に追放のくびきを受け入れなければならない。この誓いを犯すならば、それは「あなたの肉体が藪の中の鹿やカモシカのようにいけにえにされることをもたらすだろう」。そして救済は遅らされることになるだろう。(Talmud Tractate Ksubos p. 111a).

 その誓いを犯すことは単に罪であるだけではない。それは、我々の信仰の根本に逆らうがゆえに異端なのだ。完璧な悔い改めを通してのみ、全能の存在だけが、どのような人間の努力や介入も無しに、我々を追放者の身からあがなってくれるのだ。それはG-dがすべてのユダヤ人に完全な悔い改めを起こさせる預言者エリヤ(Elijah)とモシアク(Moshiach)を遣わしてくれる後になるだろう。そのときにはすべてに平和があることだろう。

 その時代のユダヤ教の指導的幹部全員が、シオニズムの結果として、人類全体、とりわけユダヤ人に、大きな苦難が降りかかるだろうと予言した。ユダヤ人であるということは、母親がユダヤ人であることか、あるいは、彼または彼女がユダヤの律法に無条件で従うという条件でこの教えに改宗することかの、どちらかである。

 不幸なことにあらゆるユダヤの義務に対して何の気付きも無いユダヤ人たちが数多くいる。その多くは非難されるべきではない。多くの場合ユダヤの教育としつけを受けていない。しかし中には個人的な必要性に合わせるために我々の伝統による教えを意図的にねじ曲げる者たちがいる。誰でもが哲学やある宗教の教えに従って決定を為す権利も能力も持っていない、と身勝手に理解される。特にその人物が何の資格も持たないような場合である。それならばすぐに、ユダヤ教は国籍であると「決意した」人々は無視されあるいは非難すらなれなければならない。

 シオニズムの創始者たちがユダヤの律法を全く学んだことがなく我々の神聖なる伝統に興味を示したことすらない、ということは秘密でもなんでもない。彼らはおおっぴらにラビたちの権威を無視し自分たちをユダヤ人の「国」のリーダーであると自己指名した。ユダヤ人の歴史の中では、このような動きは常に呪われた災厄をもたらしてきた。ユダヤ人であるのにあからさまに権威への不従順を示すことは、あるいはユダヤの霊的指導者たちが公式に指名する人たちとまず相談すること無しに「修正」あるいは「刷新」を取り入れることは、すなわちそれに見合った破局へ導く思想である。

 昔からの伝統や規則を「近代化する」決定を下すことは、誰一人としてできない。正統派ラビとしてよく知られる現代ユダヤ教の霊的指導者たちは、ユダヤ教信仰に関する事柄を判断し解釈する叙階を受けている。これらのラビたちはその権利と責任を与えられており、全能のG-d自身からトーラーを授かったモーゼにまでさかのぼるあらゆるユダヤの伝統の途切れることの無い鎖のつながりを形作っている。まさにこのようなラビたちが、シオニズム運動が作られた時代に、疑いもなくそれと結び付いた破滅的な結果を予想した。シオニズムに関するユダヤの姿勢を高らかに宣言する者は、傑出したユダヤの本性を所有し比類なき聖性のレベルを持つ人間である。

 このカリスマを与えられた人、サトマールのラビ、ジョエル・テイテルバウム(Joel Teitelbaum)大ラビは、どのような言葉も和らげて言うことをしなかった。彼はシオニズムを「悪魔の作業」、「冒涜」、「聖なるものを汚す行為」と率直に指摘した。彼はシオニズムに、たとえ間接的にでも、関わるすべての事柄に参加することを禁止した。そして言った。シオニズムはユダヤ人に対するG-dの懲罰を招くことになる、と。彼は、ハンガリーにいる間からニューヨークで彼が何十万人もの集会を率いたときに至るまで、不退転の勇敢さでシオニズムの攻撃からこの姿勢を守りぬいた。テイテルバウム大ラビ、神聖なる奥儀の遺産とハシッド【18世紀中葉にポーランドで創設された神秘主義的なユダヤ教の一派:訳注】の指導者たちの若枝は、不幸なことに自分の預言を成就させてしまった。我々は6百万もの兄弟、姉妹、息子、娘たちを実に恐るべき仕方で失った。この6百万人を超す聖なる人々は、シオニストの愚かさによる懲罰を経験しなければならなかったのだ。彼は嘆いた。ホロコーストはシオニズムの直接の結果、G-dの懲罰だったのだ、と。

 【次の1段落は、原文ではすべて大文字で強調されている:訳注】

 ヒトラーが登場した当時のヨーロッパでのあらゆる賢人と聖人たちが、ヒトラーは神の怒りのメッセンジャーであり、やがて来るメシアによる救済という信念に敵対するシオニズムの苦々しい背教によってユダヤ人たちを懲らしめるために遣わされた、と明言したことは誰でも知っている。

 しかしそれだけでは終わらない。シオニストのリーダーたちにとってはこのG-dの怒りを招いただけでは十分ではなかった。彼らは、その絶滅作戦に積極的に参加しながら、常にユダヤの兄弟・姉妹たちに最悪の侮蔑をぶつけ続けたのである。シオニズムの思想だけなら、これはラビたちが彼らが大きな破壊をもたらすだろうと知らせてきたものだが、彼らにとっては十分ではなかった。彼らはすでに燃えている炎に油を注ぐ努力をしたのである。

 彼らはこの死の天使、アドルフ・ヒトラーをそそのかさなければならなかった。そして勝手に自分たちが世界のユダヤ人を代表している、と世間に告げた。これらの者たちを誰がユダヤ人の指導者に指名したというのだろうか? これらのいわゆる「指導者たち」がユダヤ教について無知であったことは不思議ではない。無神論者であり人種主義者であったことも。1933年にドイツに対して無責任なボイコット運動を組織した「政治家たち」がいる。このボイコットが、象を攻撃するハエ程度にはドイツを傷つけた。しかしそれはヨーロッパのユダヤ人に大災厄をもたらした。米国と英国が狂犬ヒトラーと平和な関係を持っていた当時、シオニストの「政治家たち」は見せかけだけの政治的な従順さという手段を捨てた。そして彼らのボイコットがドイツのリーダーを逆上させてしまったのだ。虐殺が始まった。しかしこの人々は、彼らは本当に人類のメンバーに分類できるのかどうか、ふんぞり返っていた。

 『恥知らず』

 1938年にロウズベルト大統領がユダヤ人難民問題を取り扱うために、エヴィアン会議を招集した。ゴルダ・メィアー(メィアソン)【Golda Meir (Meirson):後のイスラエル首相:訳注】に率いられたユダヤ人委員会代表団は、ユダヤ人一人につき250ドルで他の国に移住することを許すというドイツの提案を無視した。そしてシオニストたちは、ドイツとオーストリアのユダヤ人に居住の許可を与えるためにその会議に出席していた米国や他の32カ国に働きかける努力を全くしなかった。

 1940年の2月1日、ユダヤ要求連合(the United Jewish Appeal)の副会長であるヘンリー・モンター(Henry Montor)は、ドナウ川で立ち往生していたユダヤ難民を乗せた船のために介入することを拒んだ。そして次のように述べた。「パレスチナは・・・、年寄りどもや望まれない者たちで、満たされてはならない」。

 1941年とそして1942年に、ドイツのゲシュタポが、すべてのヨーロッパのユダヤ人に対して、もしも彼らがドイツと占領フランスにあるすべての資産を放棄するのなら、スペインへ移動させると提案したことは歴史的事実である。次のような条件である。
(a)、追放された者たちは誰もスペインからパレスチナに向かわないこと、
(b)、すべての被追放者はスペインから米国または英国植民地に行きそこに留まること:当地に住むユダヤ人によって準備された入国ビザを使用する、
(c)、1家族につき千ドルの代償金が当局者によって提供される:それは1日につき1千家族の割合で、スペインの国境線に到着した家族に対して支払われる。

 シオニストの指導者たちはスイスとトルコでこの提案を受け取り、パレスチナが被追放者たちの行き先から除外されていることがゲシュタポとムフティ【Muftiは一般的にはイスラム学者を指すがここでは具体的に誰のことなのか不明:訳注】の間での合意の基本であったことを明らかに悟った。

 シオニスト指導者たちの回答は否定的であった。それには次のようなコメントが付けられていた。
(a)、ただパレスチナだけが、被追放者の行き先として考えられるだろう。
(b)、ヨーロッパのユダヤ人たちは他の国に行くくらいなら苦しみと死を受け入れなければならない。そのほうがずっと良い。それはこの戦争が終わるときに勝利国が「ユダヤ人の国」に同意するようにである。
(c)、いかなる代償金も支払われない。

 ゲシュタポの提案に対する以上の返答は、それに代わる提案がガス室であったことを十分に知りながらなされたものであった。

 これらの不忠実なシオニスト指導者たちは自らの肉体と血を裏切った。シオニズムは断じてユダヤ救済の一つのオプションでは無かった。正反対に、数多くの無法者たちが権力へと上り詰めるために野獣の爪として使用される一つの人間の公式だったのだ。背信だ! 言い表すこもできないほどの裏切りだ!

 1944年、ハンガリーでの国外追放のときに、同様の提案がなされた。それですべてのハンガリーのユダヤ人たちが救われたかもしれない。そしてまたしてもあのシオニストがこの提案を拒否した。(すでにガス室が何百万人もの犠牲者を作った後なのだが。)

 英国政府は、トルコを通っての避難者たちと一緒に、300名のラビとその家族にモーリシャス植民地へのビザを発給した。その計画がパレスチナに対して不忠実であると見て取った「ユダヤ機関」のリーダーたちはその計画を妨害した。そして300人のラビたちとその家族はガスで殺されなければならなかった。

 1942年の12月17日に英国議会両院は危険の迫る人々に対して一時的な難民とみなす用意があることを宣言した。英国議会はドイツとの外交交渉の一部として、50万人のユダヤ人をヨーロッパから避難させ、彼らを英国植民地に住まわせるという提案を出した。この動議は2週間で合計277名の議員の署名を集めた。そして1月27日に100名以上の下院と上院の議員たちによって次のステップが踏まれようとしていたときに、シオニストのスポークスマンは、パレスチナが無視されているからユダヤ人たちはこの動議に反対する、と発表した。

 1943年の2月16日には、ルーマニアがTrans-Dniestriaの7万人のユダヤ難民に一人50ドルの費用でそこから出発させるという提案をした。このことはユーヨークの新聞で報道された。テル・アヴィヴにあるシオニスト代表会議にあったユダヤ機関救出委員会の委員長イツァーク・グリーンバウム(Yitzhak Greenbaum)は、1943年2月18日に次のように言った。「彼らが私に『ユダヤ要求連合の資金からヨーロッパのユダヤ人を救うためにお金を出せないのですか』と聞かれたとき、私は『だめだ!』と、そしてもう一度『だめだ!』と言った。誰でも、シオニズムの活動を最重要ではないことに向けさせていく動きには抵抗すべきである」。

 1943年2月24日に、米国ユダヤ人会議議長で米国シオニストのリーダーであったステファン・ワイズ(Stephen Wise)は、この提案への公式な反対を発表しどのような資金集めも正当とは見なされないことを宣言した。1944年にユダヤ人救出緊急委員会が米国政府に戦争難民規定を確立させるように呼びかけた。ステファン・ワイズは議会の特別委員会で証言しこの提案に反対した。

 上記の交渉の過程で、最初の「ユダヤ人国家元首」となるチャイム・ワイツマンは述べた。「ユダヤ人国家の最も重要な部分はすでにパレスチナにある。そしてパレスチナの外に住むユダヤ人は大して重要ではないのだ。」ワイツマンの共謀者であるグリーンバウムは、この宣言を拡大して次の所見を述べた。「パレスチナにいる1頭の牛はヨーロッパ中のユダヤ人よりも値打ちがある」。

 そしてそれから、ユダヤ人の歴史で最も苦しい出来事の後で、これらのシオニスト「政治家」たちはボロボロになった難民たちをDPキャンプに誘い込んで飢えと欠乏の中に止めた。そして、彼らの国を建設する目的以外では、パレスチナ以外のどのような場所にも移動することを禁止した。

 1947年に議員のウイリアム・ストレイション(William Stration)は40万人の移民が米国に入るための費用を緊急に与える議案を提出した。その議案は、シオニストのリーダーたちによって公に非難された後、議会を通過しなかった。

 これらの事実は驚愕と耐えがたい恥辱をもって読まれる。この戦争の最終段階の間にこれがどうやって説明できただろうか。そのときナチスはお金と引き換えに取引を望んでいたのだ。その一つの理由は、彼らがユダヤの影響下にあると信じていた西側勢力との接触を確立したいという強い願望であった。あの自称「ユダヤ人指導者」たちが自分たちの兄弟の最後の生存者を救うために全く指一つ動かそうともしなかったことについて問うことが、どうやって可能だったろうか。

 1956年2月23日J.W.ピッカースギル(Pickersgill)移民局長官がカナダ下院で「ユダヤ人難民に対してカナダのドアは開かれるだろうか」と質問を受けた。彼は「政府はこの方面に関しては何の前進もしてこなかった。なぜならイスラエル政府が、・・・、我々がそうすることを望まないからだ。」

 1972年にシオニスト指導者は、米国議会が2万〜3万人のロシアからの難民が米国に入ることを許可する努力に反対してうまくそれを潰した。ユダヤ人救済組織は、HIAS(the Hebrew Immigrant Aid Society)と共に、ウイーン、ローマや他のヨーロッパの都市にいる難民たちを見捨てるように圧力をかけられていた。

 そのパターンははっきりしている!!!  人間的な救助の努力は壊滅させられ偏狭なシオニストの利益に変えられたのだ。

 「ユダヤの政治家たち」として知られているこれらのあさましい堕落者どもによって犯されたショッキングな犯罪行為がもっともっとある。我々は他の多くの例もリストに挙げることができるだろう。しかし当面の間は上記の事実に対する適当な言い訳を誰にでも言わせておこう。

 ホロコーストに対するシオニズムの責任は3重である。
1. ホロコーストは「三つの誓約」を軽視したことに対する懲罰であった。(タルムードのTractate Kesubos p. 111aを見よ。)
2. シオニスト指導者たちは、彼らの兄弟と姉妹たちを惨い死から救うための、経済的そしてその他の援助を、あからさまに押し止めた。
3. シオニスト運動の指導者たちはヒトラーとその共謀者たちに、多くの機会に多くの方法で協力した。


 [シオニストたちはヒトラーとの軍事同盟を提案する]

 シオニスト運動の指導者たちが死にかけている兄弟、姉妹たちの苦境を無視してふんぞり返っていたということが宣言されるのであれば、それは望ましいことなのだろう。彼らは公にその救出の援助を拒否しただけでなく、彼らはヒトラーとナチ政権に積極的に参加したのだ。

 1935年の初期に、一つの客船がドイツの港ブレメルハーヴェン(Bremerhaven)の港からパレスチナのハイファに向けて出航した。その船尾にはヘブライ語で「テルアヴィヴ」の名前が書かれており、マストには鍵十字の旗がひらめいていた。そして、その船がシオニストの所有であるにも関わらず、その船長は国家社会主義(ナチ)のメンバーだった。

何年も後になってその船の乗客の一人が、このシンボリックな連携を「形而上学的な不条理」だった、と思い出した。不条理か否かはともかく、これは歴史の中でほとんど知られていない箇所の挿絵などではないのだ。シオニズムとヒトラー第3帝国の間には幅広い協力が存在した。

 1941年1月の初旬、ある小さいが重要なシオニストの組織が、ベイルートでドイツの外交官たちに対して、戦時下のドイツとの政治・軍事同盟を公式な申し出を提起した。この提案はラジカルな地下組織『自由イスラエル戦闘団(Fighters for the Freedom of Israel)』によってなされたものだった。これはレヒ(the Lehi)あるいはスターン・ギャング(Stern Gang)としてより有名である。そのリーダーはアヴラハム・スターン(Avraham Stern)であり、その以前に、ラジカルなナショナリストである『国民軍事組織("National Military Organization" (Irgun Zvai Leumi - Etzel))と英国に対する態度をめぐって対立・分派したものである。英国はパレスチナへのこれ以上のユダヤ移民を上手に禁止していたのだった。スターンは英国をシオニズムの最大の敵だと見なした。

 この注目すべき「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の解決、およびこの戦争でドイツ側へのNMO(Lehi)の積極的な参加のための」提案は、ある長さで引用する値打ちがある。すなわち、

 『ドイツ国内におけるシオニスト活動およびシオニストの移民計画に対するドイツ帝国政府とその首脳たちの好意に極めて精通するNMOは、以下のような見解を持つ。すなわち:1.ドイツのコンセプトに基づいたヨーロッパの新秩序と、NMOによって体現されるユダヤ人の国家的熱望との間には、共通の利益が存在する。2.新たなドイツと刷新された民族国家としてのユダヤとの間に協力が可能である。3.国民的・全体主義的な基盤に立つユダヤ国家の確立と、ドイツ帝国との条約によるつながりは、近東地域における将来のドイツの軍事的地位を維持し強化するという利益に含まれるであろう。』

 『これらの認識に基づいて、そしてドイツ帝国政府が上に述べたイスラエル自由運動の国家的願望を認めるという条件に基づいて、NMOはパレスチナにおいてドイツ側に立ってこの戦争に積極的に参加することを申し出る。』

 『このNMOによる提案は、パレスチナにおける軍事面、政治面、そして情報活動面を含むものであり、ある組織的な処置の後にはその外部でも行われる。これに伴って、ヨーロッパの「ユダヤの」男たちはNMOの指導と命令の元に軍事的に訓練を受け軍隊に組織化されるだろう。彼らはパレスチナ征服という目的のための戦いに参加するだろうし、そのような前線が形作られるべきである。』

 『このヨーロッパ新秩序へのイスラエル自由運動の間接的な参加は、すでに準備段階に入っているのだが、上に述べたユダヤ民族の国家的願望の基盤に立ったヨーロッパ・ユダヤ問題の積極的で抜本的な解決と結び付いており、あらゆる人間の視点でこの新秩序の道徳的な基礎を大きく強化するだろう。』

 『このイスラエル自由運動の協力はドイツ帝国相当による最近の演説とも一致するものであろう。その中でヒトラーは、英国を孤立させ打ち破るためにあらゆる連携と共闘を利用するであろうと強調した。』

 (このドイツでの原文資料はAuswertiges Amt Archiv, Bestand 47-59, E224152および E234155-58である。完全な原文テキストは次で出版された。: David Yisraeli, The Palestinian Problem in German Politics 1889-1945 (Israel: 1947) pp. 315-317)

 その民族排外主義、国家主義についての類似したイデオロギーを基盤にして、国家社会主義者とシオニストたちは、各々が自分たちの国家的な利益になると信じることのために共に働いた。

 これは、パレスチナの小さな土地への支配権を手に入れる目的のために、シオニスト運動が行ったヒトラーへの協力の一例に過ぎない。

 そして何よりも悪いことは、洗脳である!

 この信じがたいシオニストの陰謀がどれほどユダヤ人大衆を虜にしてきているか、そして他の異なる考え方が彼らの心に入っていくのがいかに困難であるか、ということは、どのような批判に対しても、ほんのわずかの評価への指摘に対してさえも、彼らが示す気違いじみた反応の中に見て取ることができる。盲目の目と閉ざされた耳をもって、我々の抵抗と告発の中で示されるいかなる声もすぐさま押さえつけられ黙らされてしまう。何千回も響くの『裏切り者』『ユダヤ人の敵』という叫びによって。

 【翻訳終り】


Re: 「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」からの翻訳(1)
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/274.html
投稿者 岩住達郎 日時 2005 年 5 月 14 日 11:44:23: TcNSd0ZB71Ujg

(回答先: 「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」からの翻訳(1) 投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 5 月 13 日 23:09:23)

日本人に限らず何処の国の人でもユダヤ人を典型化して、全てのユダヤ人が強欲で図々しくて陰謀を巡らし世界支配を企んでいる、と考える傾向があります。強欲で図々しくて陰謀を巡らす人は何処の国にも沢山居ますが、ユダヤ人は偶々金儲けに才能のある人が多いのでどうしても嫌われるのです。

私の友人も大学関係者が多いので大半はアシュカナーゼ系ユダヤ人ですが金儲けに興味を持たない人達ですから強欲で図々しいのは居りません。でも彼らもイスラエルに関しては特別の感情をもっている事は確かです。それは外国に住む日本人又は日系人が日本に対し特別の感情を持つのと同じです。

シオニストのやっている事はこの望郷の念を自分達の政治的野望に利用しているわけで、自分達の目的のために手段を選ばぬ質の悪い連中です。更に悲劇なのは殆どのシオニストはセム系ユダヤ人でなくアシュカナーゼ系なので元々捲土重来を主張する権利の無い連中がその権利を主張している事なのです。

イタリア人を見れば皆マフィヤと思うのは間違いであるようにユダヤ人と見れば皆強欲で図々しいと思うのも間違いです。問題は誰が悪人かを見極める事にあり、少数の悪人の故に或る民族を典型化するのを防ぐためにも正しい情報を日本人に広く公開する事が必要で、貴方の努力を私は高く評価いたします。

だからと云って世界の可哀想なユダヤ人を日本に大量に移民させようなどと馬鹿な事を主張する日本人に耳を貸してはなりません。どの人が善良でどの人が悪党なのかを事前に判断する事は不可能ですから移民の数%は悪党である事は避けられず、世界一のお人好しで性善説が身に染みついている日本人がこれらの悪党に完全に支配され奴隷化されるのは目に見えています。アングロサクソンで固めていたアメリカ政府ですらシオニストに乗っ取られたのですから日本政府を乗っ取るのは10年もかかりません。


   5月8日に思ふ                      19      しかし、サック氏のこの本が、ドイツでは、何と、発禁と成った事を付     け加えておきます。一体何故、「民主主義国家」である筈のドイツで、こ     の本が発禁と成ったのでしょうか?いや、いかなる内容であれ、本が発禁     に成る様な事が、「自由に成った」筈のドイツで起きるのでしょうか?     −−答えは、皆さんに委ねます。     核時代60年5月8日(日)     ブッシュ大統領が、ヤルタ協定を批判した歴史的な日に
ジョン・サックについて:残念ながら欧州に『自由になった国』は存在しません
http://www.asyura2.com/0505/holocaust2/msg/111.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 5 月 10 日 19:59:24: SO0fHq1bYvRzo

(回答先: ドイツでは、ジョン・サック著「目には目を」は、今も発禁でしょうか?  西岡昌紀 投稿者 西岡昌紀 日時 2005 年 5 月 09 日 17:42:44)

ジョン・サックについて:残念ながら欧州に『自由になった国』は存在しません


西岡さん、始めまして。私もジョン・サックについてあまり詳しくなく、他の人々から学ばせていただきたいことが多いのですが、私がスペインでの出版に関して調べた限りでは、スペインでは彼の本は発禁本になっています。それどころか、ジョン・サックの名前を冠する本すら見当たりません。恐らくドイツやフランス、オランダなどでも同様でしょう。

これは各国の第2次世界大戦、ナチス、ユダヤ関連の法律が全面改正されない限り、決して変わることは無いでしょうし、シオニストは、もし各国でそんな法改正が問題になったとしたら、脅迫、破壊活動、殺人、その他あらゆる手段を使用して阻止すると思います。それがイスラエルという国家の存立基盤の、最も深いところに届くものだからです。

もし私がこのようなことをスペイン語で書けば、即刻、立派な犯罪者の一人として国外退去になるでしょうね。(もっとも、何かの投稿欄であれば、事前にチェックされて表に出ないように初めから削除されるでしょう。)

他のこのような法律が無い国でも、西岡さんご自身がご経験なさったように、サイモン・ヴィセンタール・センターやADLなどの暴力団があらゆる妨害行為を行うでしょう。そしてそれを誰も止めることはできません。残念ながら欧州には「自由になった国」は存在しません。

私は、彼ら自身が「嘘だ」と知っているからこそ、また「嘘をつきとおす」以外に存立できないことを知っているからこそ、彼らはどのような不当・不法な行為でも残虐な行為でも行うのだ、と思います。それがイスラエルの残忍・残虐な行為を正当化させる唯一のものだからです。


下のジョン・サック自身の言葉("Inside the Bunker"からの抜粋)で、ホロコーストとアウシュビッツの「正史観」に疑義をはさむことそのものが犯罪とされている国として、ドイツ、オランダ、ベルギー、フランス、スペイン、スイス、オーストリア、ポーランド、イスラエルの名が挙げられています。

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http://www.fpp.co.uk/online/01/01/Esquire1.html

Esquire Magazine Publishes Breakthrough Report on Revisionism

【抜粋、引用】
(excerpts from John Sack's "Inside the Bunker")
Sixteen ...(revisionist) speakers spoke...and I'd counted six who'd run afoul of the law because of their disbelief in the Holocaust and the death apparatus in Auschwitz. To profess this in anyone's earshot is illegal not just in Germany but in Holland, Belgium, France, Spain, Switzerland, Austria, Poland and Israel, where denying the Holocaust can get you five years, while denying God can get you just one. One speaker, David Irving, had been fined $18,000 for saying aloud in Germany that one of the cyanide chambers at Auschwitz is a replica built by the Poles after the war. A replica it truly is, but truth in these matters is no defense in Germany. Another speaker, a Frenchman, had been fined in France, and another speaker, a German, had been sentenced to fourteen months...Another speaker, an Australian, had come from seven months in a German jail for writing in Australia...that there were no cyanide chambers in Auschwitz...

【引用終り】

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ユダヤ人であるジョン・サック自身はホロコースト否定派ではありませんが、どうやら「ホロコースト産業」の著者フィルケンシュタインと同様に、シオニストからは最大級の「要注意人物」、「ホロコースト肯定派の一種」と見なされているようです。


一つご質問させていただきたいのですが、このAn Eye for An Eyeの日本語版は日本で出版されているのでしょうか。日本語の検索で見た限りでは見当たらなかったのですが。


なお、以下は、西岡さんはすでにご存知でしょうが、もしご存知の無い方がおられたら、次のページをご参照ください。(ただし、歴史的修正主義研究会による試訳以外はすべて英語の資料です。)

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http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/sack_01.htm
『目には目を』の背景  歴史的修正主義研究会試訳
http://www.ihr.org/jhr/v20/v20n1p-9_Sack.html
(原文)Behind An Eye for An Eye 

http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/sack_02.htm
否定派の巣窟にて  歴史的修正主義研究会試訳
(この原文が載せられているはずのジョン・サックのホームページは現在不通)

http://www.vho.org/GB/c/JS/an_eye_for_an_eye_corroboration.htm
An Eye for an Eye  Corroboration

http://www.fpp.co.uk/online/04/04/wywfor.html
John Sack Passes ? Author Of 'An Eye For An Eye'

http://en.wikipedia.org/wiki/John_Sack
John Sack  Wikipedia

http://www.ety.com/HRP/jewishstudies/crimesafterwwII.htm
Jewish War Crimes and Crimes Against Humanity
http://www.ety.com/HRP/jewishstudies/McLellanLetter.htm
Jewish War Crimes(総合)






(私論.私見)


「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第1部)
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/454.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 5 月 18 日 09:42:51:

【シオニズムとユダヤ研究の一助として・・・】

今から60年近く前、イラクには2600年前のバビロン捕囚のころからの由緒正しいユダヤ人たちが多く住んでいました。シオニズム・テロリストたちは彼らを脅しや殺人、特に「シオニストの爆弾」と呼ばれる爆弾テロを使って、騙してイスラエルに連れて行きました。そこで彼らを待っていたものは、アシュケナジ・ユダヤによる「カースト制度」、細菌攻撃を含むあらゆる残虐な手口でパレスチナ人を殺し追い払う、現実のイスラエルの姿でした。

今回ご紹介する話は、1940年代後半から50年代前半にかけてイラクで同胞をイスラエルに追い立てた元シオニズム地下活動家による「内部告発」、苦渋に満ちた回想です。ただし原文は非常に長いので、4回ほどに分けて投稿させていただきます。

もし訳文の中で誤訳や不適切な訳などを発見された際にはご遠慮なくご指摘ください。

(参照)
http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/257.html
「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」からの翻訳(1)(およびそのレス・フォロー投稿)


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http://www.jewsagainstzionism.com/zionism/impact/iraqijews.cfm

イラクのユダヤ人   by Naeim Giladi


一人のイラク系ユダヤ人が、イスラム諸国からイスラエルに来たユダヤ人たちが決して喜んで移住したのではなかった、という、シオニスト活動家たちについての話を語る。強制的に立ち退かすためにユダヤ人がユダヤ人を殺した。そしてより多くのアラブの土地を没収する時間を稼ぐために、ユダヤ人たちは数多くの機会をつかんで、アラブの隣人たちから与えられた本来の平和の主導権をはねつけた。

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私はこの記事を、私の本を書いたのと同じ動機で書く。米国の人々に、そして特に米国のユダヤ人たちに、イスラム諸国から来たユダヤ人たちが決して喜んでイスラエルに移住したのではないことを語るためである。強制的に立ち退かすためにユダヤ人がユダヤ人を殺した。そしてより多くのアラブの土地を没収する時間を稼ぐために、ユダヤ人たちが数多くの機会をつかんでアラブの隣人たちから与えられた本来の平和の主導権をはねつけた。私は初代のイスラエル首相が『残酷なシオニズム』と呼んだことについて書く。私は、私がその一部だったからこそ、それについて書く。

私の話

もちろん私は、自分がそのときそれをすべて知っていると思っていた。私は若い理想主義的な、そして私の信念のために喜んで命を危険にさらすことも平気な人間だった。イラク当局者が私を捕らえたのは、1947年、私はわずかに18歳にもなっていなかった。私は、私同様の若いユダヤ人をイラクからイランに「密輸」した容疑である。彼らはそこから、じきにイスラエルとして確立される約束の土地に運ばれるのである。

私はシオニストの地下活動に携わるイラク系ユダヤ人だった。イラクの刑務官たちは、私の同志の名前を聞き出すためならどのようなことでもした。50年後になっても、その痛みは私の右のつま先を走る。これがこの拘束者がプライヤーを使って私の足の爪を剥がした日を思い出させる。別の場合には、彼らは私を監獄の床に引きずり出し、凍える1月の日に私を裸にしてそしてバケツの冷たい水を私にかけた。私は鎖につながれて何時間もそこに放っておかれた。しかし私は一度も彼らのほしがる情報を彼らに与えなかった。私は本物の信念の持ち主だった。

自分で「2年間の地獄」と呼ぶ期間に私が関心を持ったことは、生き延びることと逃亡することだった。私はそのときにはイラクでのユダヤ人の歴史を、たとえ私の家族が最初からその一部であったにしても、一掃してしまうことに注意を払わなかった。我々は元々はHaroons、つまり「バビロンの離散」の大きく重要な一族だった。私の先祖は、2600年以上も前に、キリスト紀元の600年前、イスラム紀元の1200年前に、イラクに定住した。私は、聖書以前の時代のユダヤ預言者であるYehezkelの墓を建てたユダヤ人の子孫である。私が1929年に生まれた町はHillahであり、古代のバビロンの場所からさほど離れていなかった。

元々のユダヤ人たちは、豊かなチグリスとユーフラテスを持つバビロンを、本当にミルクと蜂蜜と、そしてチャンスにあふれた土地だと分かった。ユダヤ人たちが、イラクにやってきた他の少数民族と同様に、時の権力者次第で抑圧と差別の時代を経験したにも関わらず、彼らの2500年間の軌跡は概して上向きであった。例えば後期オスマンの支配下で、ユダヤ人社会と宗教施設、学校と医療施設は何の妨害も無しに栄えた。そしてユダヤ人たちは政治と経済で重要な位置にいた。

死刑の宣告がじきに下されるとも気付かずに独房に座っていたとき、私は私の家族が政府やイスラムの有力者に対して申し立てたであろう個人的な請願を列挙して言い立てることなどありえなかったかもしれない。私の家族は良い待遇を受け繁栄していた。まず5万エーカーほどの土地で米とナツメヤシとアラブ馬を育てていた。次に、オスマンの元で我々は金を買って精錬し、それはイスタンブールに運ばれて貨幣となった。トルコ人たちは我々の職業から実際に我々の名前を変える責任を負った。我々は「純金作り」という意味のKhalaschiになった。

私はシオニスト地下運動に加わったことを父には話したくなかった。彼は私が逮捕される何ヶ月も前に、私がヘブライ語を書き彼にとって見慣れない言葉と表現を使っているのを見たとき、それを悟った。彼はそれを、そう、私が自らイスラエルに向かう決意をしたことを知って非常に驚いた。彼はさげすんだ。「お前はすぐに尻尾を巻いて戻ってくるだろう。」そう預言した。

1940年代の後半から1952年にかけて、およそ12万5千人のユダヤ人がイラクを去ってイスラエルに向かった。その大部分が騙されて、また、これは私が後に知ることになるのだが、シオニストの爆弾によるパニックに引きずられて、であった。しかし私の父と母は決してイスラエルに行かなかった6千人の中にいた。肉体的には私は二度とイラクには戻らなかったし、私とイラクを結ぶ橋はことあるごとに焼き払われたが、私の心は何度も何度もそこに旅をしている。父は正しかった。

私はバグダッドから7マイルほど離れたAbu-Greibの軍基地に囚われていた。軍法会議が私に絞首刑の判決を下したとき、私にとっては脱獄することによって失うものは何も無かった。私はもう何ヶ月も計画を練っていたのだ。

それは脱獄のための奇妙なレシピだった。バターの一塗り、オレンジの皮、そして私が友人に蚤の市で買ってくれるように頼んだ軍服だった。私が18歳になる日の前までに、脂肪をつけるために私はわざとできる限り多くのパンを食べた。18歳になれば彼らは正式に私を罪人として、通常の囚人と同様に50ポンドの鉄球と鎖で拘束できたのである。

そして私の足に鉄枠がはめられた後、しばしばくじけそうになったが、私は食事をとらずに飢えてやせていった。一塗りのバターは鉄枠から私の足を抜けさせるための潤滑剤となった。オレンジの皮は脱獄計画の夜に私がこっそりと鍵にはさんでおいた。どのようにそれを入れればこのように鍵を閉じないようにできるかを研究していたのである。

看守が鍵を閉めて戻って行ったとき、私は古い軍服を着た。それは彼らが着ているものと見分けがつかないもので、長い緑色のコートと編み上げ帽でありそれを顔を覆うように引き下げた(そのときは冬だった)。そして私は静かにドアを開け交代の兵士が広間を降りて外に出るときにその中に紛れ込み、立ち去るときに衛兵に「おやすみ」と声をかけた。そして車で待っていた一人の友人が私を大急ぎで連れ去ったのだ。

その後に私は新しい国イスラエルに向かい1950年5月に到着した。私のパスポートにはアラビア語と英語で私の名前が書かれてあった。しかし英語では"kh"の発音が表せないため単純にKlaskiと訳されていた。国境線で移民たちは英語版を用いたのだが、その名前には東ヨーロッパのアシュケナジであるかような響きがあった。ある意味でこの「ミステイク」が、イスラエルのカースト制度がどのように機能しているのかを、じきに私が発見する鍵となった。

彼らは私に、どこへ行きたいのか、そして何をしたいのかを尋ねた。私は農民の息子であった。私は農業についてのあらゆる問題に通じていた。そこで私はガリラヤの奥にある農業キブツであるDafnahに行くことを志願した。私は2,3ヶ月しかもたなかった。新たな移民たちはすべての面で最悪のものを与えられた。食べ物もそうだが、それは唯一誰にでも共通な普通のことだった。しかし移民たちには悪質なタバコ、よりひどい歯磨き粉が与えられた。私はそこを去った。

次に、ユダヤ機関によって、私はガザから9マイルほどにある地中海に近いアラブ人の町al-Majdal(後にAshkelonと改名されるが)に行くように勧められた。イスラエル政府はそこを農業としに変えようと計画していたのだ。そこで私の農民としてのバックグラウンドが値打ちを持つと思われた。

私がal-Majdalの労働局に書類を提出したとき、彼らは私がアラビア語とヘブライ語を読み書きできると知り、そして私に、軍事長官の役所で給料の良い仕事が見つかるだろうと言った。アラブ人たちはイスラエルの軍事長官たちによって支配されていたのだ。一人の事務員が私にアラビア語とヘブライ語で書かれた書類の束を手渡した。そして私には事の意味が分かり始めた。イスラエルがその農業都市を作り上げる前に、元から住んでいたパレスチナ人たちをal-Majdalから追い出さなければならなかった。これらの書類は、イスラエルからガザへの移住を求める、国連の査察官に対する請願だった。ガザはエジプトの支配下にあった。

私はその請願に目を通した。そのパレスチナ人は、彼は心身ともに健康であり圧迫と苦しみから逃れて移住できるように要求している様子であった。もちろん彼らが出て行くように圧力をかけられなければそこを離れることはありえない。これらの家族は何百年間も、農民として、昔風の職人として、紡ぎ手として、ここに住んでいたのだ。軍事長官は彼らの生活のつてを求めることを禁止し、彼らが普通の生活を過ごせる希望を失うまで封じ込めておいた。こうして彼らは立ち去ることに同意のサインをしたのである。

私はそこにいて彼らの嘆きを聞いた。『私たち自身の手で植えたオレンジの木を見るたびに私たちの心は痛みます。どうか私たちを行かせてこれらの木に水を与えさせてください。神はもし我々が立ち去ったらお喜びにならないでしょう。彼の木が世話をされないからです。』私は軍事長官に彼らを解放するように頼んだが、彼は「だめだ。我々は彼らをここから立ち去らせたいのだ。」と答えた。

私はもはやこのような抑圧の一部となっていることができなかった。私は立ち去った。移住を拒むパレスチナ人たちは軍によって捕らえられ、トラックに詰まれゴミのようにガザに放り込まれた。4千人もの人々がal-Majdalからあちこちに追い払われた。イスラエル当局者に協力するものがわずかに残っただけである。

その次に、私はどこかで政府の仕事を手に入れるために手紙を書いた。そしてすぐに面接に来るように求める多くの返事が戻ってきた。そして彼らは常に、私の顔がポーランド/アシュケナジ的な名前【Klaskiという英語つづり:注釈】と一致しないことを発見した。彼らは私にイーディッシュ語かポーランド語をしゃべるかと尋ねた。そして私ができないと答えると、彼らは私のポーランド的な名前がどこから来たのか聞いた。良い仕事が絶望的になると感じながら、私はいつも私のひいじいさんがポーランドから来たと思うと答えたものだった。私は常に「また後で電話する」と言われただけだった。

結局、イスラエルに来てから3年か4年たって、私は名前をGiladiに変えた。この名前は私がシオニスト地下活動をやっていたときに持っていたコード・ネームであるGiladに近いものである。Klaskiの名前は私にとって何も良いことは無く、そして私の東欧出身の友人たちは、この名前が私のイラク出身のユダヤ人である出自と合わないことを、いつもなじっていた。

私はこの約束の地で発見したことに失望した。一人の人間として失望し、制度として確立された人種主義に失望し、そして私が知り始めたシオニズムの残虐さに関して失望した。イスラム諸国からやってきたユダヤ人に対してイスラエルが持っている第一の関心事は、安い労働力の供給であった。特に、都会化された東ヨーロッパ出身のユダヤ人の下に位置する農業の労働力であった。ベン・グリオンは、1948年にイスラエル軍によって追い払われたパレスチナ人が残した何千エーカーもの土地を耕すために、"Oriental"のユダヤ人【アラブ諸国出身のユダヤ人を指す:訳注】を必要としたのだ。

そして私は、この生まれたばかりの国からできる限り多くのパレスチナ人を取り除くのに使われた、野蛮なやり口を知り始めた。世界は現在、細菌戦争を考えてしり込みしているが、しかしイスラエルこそがおそらく中東で最初にこの方法を使っただろう。1948年の戦争で、ユダヤの軍はアラブの村々の人口を空白にしていった。しばしば脅迫によって、時には見せしめとして数名の丸腰のアラブ人たちを銃で殺すことによって。そしてアラブ人たちがこれらの村で新たな生活のために戻ることを確実にできなくするために、イスラエル人たちは井戸の中にチフスと赤痢の細菌を放り込んだのである。

イスラエル防衛軍の公式歴史記録者の一人であるUri Mileshtinは、バクテリア性の武器を使用したことについて書き、また話している。Mileshtinによると、当時の師団長Moshe Dayan【メイア政権の時の国防相:訳注】1948年にアラブ人を彼らの村から取り除くために彼らの家をブルドーザーで押しつぶし、そしてチフスと赤痢の細菌を使って井戸の水を使えなくした。

Acre【現在はAccoあるいはAkkoとつづる地中海岸の町:訳注】は実際に一つの大砲で守ることができる絶好の位置にあった。そこでHaganah【イスラエルの自衛軍:訳注】はその町を潤す水源の中にバクテリアを放り込んだ。その水源はCapriと呼ばれあるキブツに近い北の方から流れてきていた。Haganahはチフス菌をAcreに向かう水の中にまき、人々は病気にかかり、そしてユダヤ軍がAcreを占領した。この作業が非常にうまくいったので、彼らはHaganahの1部隊にアラブ人の服を着せてガザに送り込んだ。そこにはエジプトの軍隊がいたのだが、エジプト人たちは、彼らが一般住民のことを不当にも無視して、2つの缶に入ったチフスと赤痢のバクテリア水源に放り込んでいるところを逮捕した。「戦争では感傷は無用だ」これが、一人の逮捕されたHaganahの一人が言った言葉である。

私のイスラエルでの政治行動は私が社会主義/シオニスト政党からアラブ語の新聞読解を手伝ってくれるようにという手紙を受け取ったすぐ後から始まった。私がテル・アヴィヴにある中央本部のオフィスを訪れたときに、私はどの部屋に行くべきなのかを尋ねて回った。私が2名の人にその手紙を見せると、彼らはそれを見ることもせずに、次の言葉で私に出て行くように合図するだけだった。「8号室だ」。彼らが手紙を読むこともしないのを見たときに、私は他の多くのことを質問した。しかし返事は同じだった。「8号室だ」。私が彼らの目の前に置いた書類をチラッとでもみることすらなかった。

そこで私が8号室に行ってみると、そこはイスラム諸国出身ユダヤ人用の係であった。私は嫌悪し怒った。私がその党のメンバーであろうとなかろうと。私がアラブ系のユダヤ人だから異なった思想や政策を持っている、とでもいうのか? これは、黒人用の係と同様の人種隔離だ、と私は考えた。私は後ろを向いて歩いて出て行った。それが私のおおっぴらな抵抗の始まりだった。同じ年に私はAshkelonでベン・グリオンの人種主義政策に反対するデモを組織した。そして1万人が街頭に出た。

イスラエルが外の敵との戦争を続ける間は、2級国民である我々にはこれ以上のことをする機会は多くなかった。1967年の戦争の後、私は陸軍に志願し、スエズ運河近辺で戦闘が続いているときにシナイ半島で軍務に着いた。しかし1970年のエジプトとの戦争の終了が我々の活動を開始させた。我々は街頭に繰り出し同等の権利を要求して政治的にまとまった。もしここが本当に我々の祖国なら、もし我々が国境での戦争で命をかけることを求められるのなら、我々は同等の処遇を求める、と。

我々が非常に粘り強く闘い多くの人気を得たため、イスラエル政府は我々を『イスラエルのブラック・パンサー』と呼んで、我々の運動の信用を落とそうと試みた。彼らは、イスラエルの世論が米国での黒人過激主義者のもの同種の思想を持つ組織を拒否するであろうと計算しながら、実際に人種主義の言葉で考えていたのだ。しかし我々は、我々のやっていることが、米国で黒人たちが人種隔離と差別と不平等な扱いに対抗して戦っていることと、何の違いも無いことを知っていた。そのレッテルを拒否するかわりに、我々はそれを誇り高く採用した。私はマーティン・ルーサー・キング、マルコムX、ネルソン・マンデラとその他の公民権活動家のポスターを、私の事務所中に貼った。

イスラエルのレバノン侵略とイスラエルによって起こされたサブラとシャティラの大虐殺【1982年にシャロンの命令で行われたパレスチナ難民に対する襲撃で3千人が虐殺された事件:訳注】を見て、私はイスラエルはもう御免だ、と思った。私は米国市民となりイスラエル国籍を放棄した。私はイスラエルで本を書いて出版したことは無かった。彼らが課した検閲のためにできなかったのだ。

米国内でさえ出版社を見つけることが非常に難しかった。多くの出版社にはイスラエルとその友人たちからの様々な種類の圧力がかけられているからである。私は「ベン・グリオンの恥辱(Ben Gurion's Scandals)」を出版するのに自分のポケットから6万ドルを出すはめになった。それは、Haganahとモサドがどのようにユダヤ人を殺したのか、という本だが、イスラエルで私の家を売り払った収入のすべてに当たる金額をつぎ込んだ。

私はずっと、印刷会社が戻してくるのではないか、または法的な手続きが出版を差し止めるために行われるのではないか、と恐れていた。ちょうどイスラエル政府が、元モサド情報員のVictor Ostrovskyがその最初の本を出す際にそれを食い止めようと試みて行ったように、である。「ベン・グリオンの恥辱」は二つの言語から英語に翻訳しなければならなかった。私がこの本をイスラエルで出版したいと願ったときヘブライ語で書いた。そして私がこの本を米国に来てから完成させる際にはアラビア語で書いた。しかし私は何かがその出版を止めさせるのではないかと非常に心配だったので、印刷会社には翻訳が完全にチェックされ構成されるのを待たないようにと言った。今になって私は、訴訟の公示がこの本に対する興味をかきたてるだけだったのかもしれない、と気付いている。

私は書いたものを裏付ける大切な文書を保管するために銀行の金庫を使っている。これらの文書にはYad Vashemの資料から非合法にコピーしたものもいくつかあるが、私自身が見たこと、私が他の証人から聞いたこと、そして著名な歴史家や他の人たちが書いたことを裏付けるものである。それは、イスラエルをつくるという目的で行われた、イラクにおけるシオニストの爆弾攻撃、アラブの平和復活に対する拒絶、そしてユダヤ人によって起こされたユダヤ人に対する暴力と殺人事件に関する事柄なのである。

(続く)

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Jews Against Zionism(Torah-True Jews) ホームページ
http://www.jewsagainstzionism.com/

(他の反シオニスト・ユダヤ運動のホームページ)
NETUREI KARTA AROUND THE WORLD
http://www.nkusa.org/index.cfm