4481−3 パレスチナ問題を解くための歴史3、近世史篇

 (最新見直し2006.2.9日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 19世紀後半になると、西欧ではキリスト教の影響力が減退するにつれて、ユダヤ人の社会的地位が向上して行く。その中で、1743年にドイツのフランクフルトで生まれたマイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(ロスチャイルド1世)の動向が注目される。ある意味で、その後の歴史は、「ロスチャイルド革命」に入ったと看做しても差し支えない。ロスチャイルド1世は、人類史にそれほど大きな影響を与えていくことになる。案外このことがこのこととして指摘されていない。

 「ロスチャイルド革命」の懐は深い。1・土着の諸国家・王朝に対しては金融支配を通じての政府中枢コントロール、2・基幹産業ないし資源及び将来的有望事業全般の支配、3・シオニズムによるイスラエル国家創出と大イスラエル帝国の野望、4・国際グローバル化促進。その流れに与する立場からのマルクス主義運動への肩入れとコントロール、5・ワンワールド化促進。これらのいずれもが、「ロスチャイルド革命」の青写真に映じていた。してみれば、ロスチャイルド1世こそ以降の歴史創造の仕掛け人と云えるだろう。

 問題は、その「ロスチャイルド革命」の正邪であろう。必要にして合理性があるのか、遣りすぎなのか、狂人の白昼夢なのか、その見極めが肝心だ。

 2005.3.20日 れんだいこ拝


1727  ロシアからユダヤ人追放。
1730  ニューヨークに公認シナゴーグが建設される。
1734  ニューイングランドで大覚醒が起きる。
1739  メソディスト派が誕生する。
1743

 マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(ロスチャイルド1世)がドイツのフランクフルトで生まれた。彼は少年時代にユダヤ教のラビとして教育され、商人であった父親からは商売を仕込まれた。最初、ハノーバーの「オッペンハイム銀行」に見習いで入ったが、やがて独立して両替屋である「フランクフルト・ロスチャイルド商会」を営む。

 26歳の時に、フランクフルトの領主であるヘッセン侯爵家のウィリアム皇太子(のちのウィリアム9世)に金貨を売ったことがきっかけで御用商人に登録され、そのうちにヘッセン侯爵家の財政や国際的な資金調達の仕事に深くかかわるようになり、「宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)」の一人となった。

 ハプスブルク時代に金融力によって宮廷ユダヤ人(ホフ・ユーデン)となり、本来ならユダヤ人が絶対にもらえない「男爵位」を得た。ユダヤ金融資本のシンボルとなり、世界に散らばったユダヤ人の力が全てロスチャイルドに糾合された。このファミリーは無数に婚姻しており一大閨閥をも為している。その様は、シェークスピアにも悪く書かれた“ユダヤ商人”たちの面貌を備えている。彼らには国境はないに等しく、まさしく世界をまたにかけた商売をしている。(「ロスチャイルド考」)

1747  ロシアからユダヤ人追放。
1755  ニューイングランド経験主義哲学が始まる。
1775  アメリカ独立戦争が始まる。
1776  アメリカ合衆国が建国される。
1781  ドイツで信仰寛容令が布告され、修道院が閉鎖される。
1784  リチャード・レイクスが日曜学校を始める。
1785

 ヘッセン侯爵が亡くなり、その子ウィリアム9世が4000万ドルもの財産を相続する。これは当時のヨーロッパで最大の私有財産と言われている。更にウィリアム9世は、自国の国民を全ヨーロッパの君主に「傭兵」として貸し付け、莫大な富に莫大な利益を加算させていった。その背後にロスチャイルド1世がいた。

 アメリカで政教分離法と宗教税禁止法が施行される。
1789  「自由・平等・博愛」を掲げるフランス革命が勃発する。国王派とみなされた聖職者や修道士多数が迫害される。
1791  フランス革命から2年後、 「自由・平等・博愛」を掲げるフランス議会はユダヤ人に平等の権利を認め、法的にユダヤ人差別の撤廃が決定された。これはユダヤ史上、画期的な出来事であった。

 ナポレオンがその人権宣言を基に、ユダヤ人を隔離してきたゲットーを解体解体し始める。すると、その潮流はヨーロッパ各国に広がっていき、世界的にユダヤ解放政策が行なわれた。伝統的に教育を重視するユダヤ人は、それまでのゲットーでの隔離生活から解き放たれると、水を得た魚のように爆発的に各界に進出し勢力を得ていくことになった。
解放されたユダヤ人たちは一世代のうちに、政治家、将軍、前衛的な知識人・芸術家となる。
 (この時代のれんだいこ解説)
 西欧は、自由、博愛、平等を詠ったフランス革命以降、近代社会を開花させた。この流れは長い間封建制社会の下で不自由を強いられてきたユダヤ人の社会的政治的地位の上昇をもたらすことになった。

 中世期の長いあいた、ユダヤ教を信奉するユダヤの民は、流浪はしていても生活習慣を変えようとはせず、土着の文化と交じり合う事を拒絶する傾向にあった。ヨーロッパ各国とユダヤの民との抗争史は歴史的に根深く、反セム主義傾向にあった。ヨーロッパ各国がキリスト教国家として形成されて以来、イエス・キリストを磔に追いやった民族であるとして排斥する意識が加わり、公民化の道を閉ざしてきた。その為、ユダヤ人は、土地所有も不自由で、医師、弁護士、芸術家などの頭脳労働職や金融業に就業し、いわば一種「よそ者扱いの民」を余儀なくされていた。

 この均衡が、中世ヨーロッパでの十字軍の遠征によって破れ始めた。突如、キリスト教徒が「聖地奪還」を叫び行動に移したところからイスラム教徒との宗教戦争が勃発した。これがイタリア・ルネサンスを生み、そのルネサンス運動が西欧のキリスト教国に拡がり、各国の支配権力を揺るがしていくことになった。この波に、それまでゲットーに閉じ込められていたユダヤ人達の政治意識を覚醒させた。ユダヤ人は次第にゲットーから自由になり、社会的進出を進めていった。

 ところが、ユダヤ人の社会的進出は却って紛争をあちこちに生んでいくことになった。魔女狩り、異端狩り、テロと虐殺、アンチセミティズム(反ユダヤ主義)がこのユダヤ人の社会的進出に関わって引き起こされている。ロシアや東欧ではユダヤ人の排斥(ポグロムと呼ばれる)が激増する。

 この時、ユダヤ社会は二つに割れた。ユダヤ人は二つの選択肢の岐路に立った。一つは、独特の教義を捨て、それぞれの国の国民として同化の道を辿るべきだとする同化主義により当該国家の市民化を目指そうとしていた。これは、ユダヤ人は民族としては最早存在せず、ユダヤ教を精神のあり方を律する宗教としてのみ受け入れ、それぞれの国の中に同化し、その国の市民として平等の権利を享受しながら、その国家に貢献する道であった。ユダヤ人の同化運動の系譜から社会主義思想が生み出されていくことになり、労働運動と結合することにより社会の根本的変革思想へ辿り着いたのが正統マルクス主義とみなすことができる。この思潮及び運動が19世紀から20世紀にかけての主流となっていくが、ロスチャイルドのネオ・シオニズムの指揮下でのマルクス主義も発生しており、非常に複雑になる。

 もう一つの道は、反同化主義であった。反同化主義は、あくまで教義の純潔を護りつつ市民的権利の獲得を目指そうとしていた。しかし、時流は、同化主義であった。つまり、この時期、ユダヤ人社会が大きく揺れていたことになる。

1792  ウイリアム・ケアリがバプテスト伝道協会を設立する。合衆国憲法修正箇条により、信教の自由と、国教制度の否定が明記される。
1798  フランスの皇帝ナポレオンがエジプトに遠征。エジプト全土を支配下に置く。目的はイギリスと当時イギリスの植民地だったインドとの間に楔を打ち込む為だった。ナポレオン、パレスチナ侵攻に失敗する。
1799  イギリス国教会宣教協会が設立される。
1801

 ロスチャイルド1世がヘッセン侯爵家の「銀行事務弁理人」に任命される。当時のヨーロッパ最大の資本国の金庫の管理を任された。

 フランス、ローマ教皇コンコルダートを締結。フランスにカトリックが復活する。
1804

 ロスチャイルド1世には5人の息子がいた。それぞれをヨーロッパ列強の首都に派遣して次々と支店を開業させ、それぞれがロスチャイルドの支家となった。三男ネイサン(ロスチャイルド2世)は1804年にロンドンに派遣され、そこで支店「ロンドン・ロスチャイルド商会」を出した。次男サロモンはウィーンに、五男ジェームズはパリに、四男カールはナポリに支店を開業し、長男アムシェルはフランクフルト本店に残った。彼ら5人の息子はそれぞれの国の政府と癒着して“貴族”の称号を得て、政治的にも活躍し、今日の“ロスチャイルド金権王朝の基礎を作った。

 パリの五男とウィーンの次男は協力して、ヨーロッパ全体をカバーする通信と馬車輸送のネットワークを作り上げた。そしてそこから誰よりも早く得られる情報を利用して、ロンドンの三男が金や通貨の投機をして大儲けするという兄弟ならではの連携プレーをし、今日の“多国籍金融ビジネス”の原型を作り上げた。

 イギリス聖書協会が設立される。
 ナポレオン1世がローマ教皇より戴冠されフランス皇帝に即位する。
1805  マケドニア生まれのアルバニア人傭兵隊長モハメッド・アリが、ナポレオン遠征の混乱に乗じエジプト総督に就任する。1811年に支配権を確立し事実上の独立を果たす。アリはフランスの援助を受け、エジプトの近代化と富国強兵策を進める。
1806

 ナポレオン1世のヨーロッパ遠征により、フランクフルトのウィリアム9世は領土を放棄しなければならなくなった。ロスチャイルド1世はこの時、その巨万の財産を安全に保管するよう命じられて、それを安全地帯であるロンドンに送って息子に管理させることとなった。このヘッセン侯爵家の財産こそロスチャイルド家の巨万の富の出発点となった。

 神聖ローマ帝国が崩壊する。
1807  ウィルバーフォースが奴隷売買廃止運動を開始。
1808  アメリカで奴隷貿易が禁止される。
1810

 ロンドン証券取引所の支配者フランシス・ベアリングが亡くなり、ロスチャイルド家ロンドン支店の三男ネイサン(ロスチャイルド2世)が新しい支配者となり、「世界一の金融王」として台頭した。

 アメリカン・ボードが設立される。
1814  東インド会社のインド貿易独占権が廃止されると、ロスチャイルド家が利権支配するようになった。
1815  ロスチャイルド2世が通信網を駆使し、ナポレオンのワーテルローでの敗北をネタにして「ナポレオン勝利」のニセ情報をイギリスにタレ流し、大暴落した株を買いまくった。証券取引所が午後に閉まった時、彼は取引所に上場されている全株の62%を所有していたという。そして後に「ナポレオン敗北」という真情報が公になり株が急騰したとき、彼は300万ドルの自己資産を75億ドル、すなわち2500倍に増やしたとも云う。ちなみにこの日、イギリスの名門の多くが破産した。
 ロスチャイルド2世の死後、五男のジェームズ(パリ支店)が当主をついでロスチャイルド3世となった。
1816  アメリカ聖書協会が設立される。
1819

 ユダヤ人文化科学協会が創立される。

1827  イギリスで審査律が廃止される。
1830  フランスがアルジェリアを支配。
1832 〜1840、Muhammad 'Ali Pasha of Egypt occupies Palestine. Ottomans subsequently reassert their rule.
1833  オックスフォード運動。
1835  ロックフェラー家は石油業がきっかけで成長したが、ロスチャイルド家は銀行業がきっかけであった。ロンドン支店はあくまでも金融中心に発展を遂げていった。それに対してロスチャイルド3世のパリ支店は金融だけではなく、やがて新しい交通手段として登場した鉄道の将来性に着目して鉄道事業に進出し、「ヨーロッパの鉄道王」としてそれを支配した。

 また南アフリカのダイヤモンド・金鉱山に投資し、更にはロシアのバクー油田の利権を握って「ロイヤル・ダッチ・シェル」をメジャーに育て上げるなど、情報・交通・エネルギー・貴金属を中心とした実業中心の膨張を遂げていくこととなった。

1837  ギュツラフによる日本語聖書の作成。
1839  オスマン・トルコ帝国が、ユダヤ人に市民権を与える。
 チャーティスト運動。
1844  YMCAが設立される。
1846  福音主義連盟(現世界福音同盟)が設立される。
1848  マルクス、エンゲルス共著「共産主義者の宣言」が発表される。
1849  キリスト教社会主義運動が始まる。
1850  イギリスのユダヤ人モンテフィオーレ卿が、エルサレム城外のユダヤ人定住地に援助を与える。
1854  カトリック教会が聖母無原罪教義を決定。
1856  イギリスにユダヤ大学が創立される。
1859  シナイ写本が発見される。
1860  世界イスラエル民族連盟(本拠はパリ)が創設される。
1861  南北戦争始まる。
1862

 ロスチャイルド家を訪問したナポレオン3世と金融提携。

1862  ドイツ系ユダヤ人、モーゼス・ヘスがその著書の中で、祖国再建によりユダヤ人のエルサレム帰還を説く。但し、さほど注目されなかった。
1864  教皇が「誤謬表」を発表して、近代思想を非難する。フランス聖書協会が設立される。
1865  中国内地伝道会が設立される。
1869  フランスの指揮のもとスエズ運河が開通し、地中海とインド洋を結ぶ要となった。
 第1回ヴァティカン公会議が教皇無謬説を宣言する。
1870

 ロスチャイルド家がバチカン融資を開始し、ロスチャイルド家がカトリック教を金融支配するという事態になった。

1870  バチカン公会議が開かれ、教皇不謬性を宣言。
1871  ドイツで体制側とカトリック教会側が対立し、文化闘争が行われる。教皇無謬説が原因でドイツの一部のカトリック教会が復古カトリック教会として離脱する。
1873  日本でキリシタン禁制の高札が撤去される。
1875  エジプトは財政難のためスエズ運河会社の株(全て!)をイギリスに売却、イギリスがスエズ運河株式会社の株を買い占め、支配者となった。ロスチャイルド資本の融資によってイギリス政府がスエズ運河会社最大の株主となり、ロスチャイルド家はイギリス政府&ヨーロッパ王室との癒着を更に深めていった。
 (スエズ運河の英国所有に関するれんだいこ解説)
 こうして、スエズ運河は、エジプトのなかにありながら主権の及ばない地域となった。その背景にはイギリスの植民地政策があり、インドへの最短通行の確保の為に運河の安全を確保したいという狙いがあった。その他、メソポタミア北部に発見された油田からのパイプラインの出口として地中海沿岸の権益を確保するという事情があった。

 この頃、燃料が石炭から石油に切り替わる移行期であり、石油の確保が植民政策の重要な柱になりつつあった。19世紀の後半になると、ヨーロッパ列強諸国が、世界中を植民地化しようと、触手をのばし始める。してみれば、帝国主義の発生過程はこの辺りから論ぜねばならないように思える。

1876 〜1877、Palestinian deputies from Jerusalem attend the first Ottoman Parliament in Istanbul, elected under a new Ottoman Constitution.
1876  エジプトの国家財政は破綻しイギリス、フランスなどの欧州各国の財政管理下に置かれることになる。
1878  The first modern Zionist agricultural settlement of Petach Tiqwa established (click here to learn more about Zionist and its impact on the Palestinian people).
1879  日本聖書協会が設立される。
1880  1880−1925年の間にアメリカへ400万人のユダヤ人が移住していった。
1880

 ロスチャイルド家が世界三大ニッケル資本の1つである「ル・ニッケル(現イメルタ)」を創設。

1881  フランスがチュニジアを占領。

 ロシアで「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が波状的に発生。ユダヤ人十数万人が犠牲になる。
1881
 19世紀初頭から、ドイツを中心に反ユダヤ暴動が起こっているが、これはユダヤ人を諸悪の根源とみなす過激な反ユダヤ主義運動にまで発展し、1870年代頃から顕著になってきた。ロシアでは1881年から「ポグロム」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が波状的に起こり、十数万人がその犠牲になった。 〜84年まで、ロシアとポーランドでポグロム(ユダヤ人の大量殺戮と略奪のことをロシア語で「ポグロム」という)と呼ばれるユダヤ人排斥運動が発生。

 この事件の原因は皇帝アレキサンドル二世の暗殺事件で、実行した革命集団に一人のユダヤ人女性が関与していたことによる。ポグロムは4年間続き、襲われた地域は100カ所を越えた。ロシア政府はポグロムを抑え込むどころか、数万のユダヤ人を虐殺する民衆に経済的支援さえ与えている。政府は、ポグロムが、圧制への民衆の不満のはけ口になることを望んでいたためである。

 ロシアおよび東ヨーロッパではくり返しポグロムが発生し、その厳しさから逃れるため、1881年から1914年までの約30年のうちに、200万人を越えるユダヤ人が主としてアメリカに移住した。ユダヤ人の台頭が西欧社会に危機感をもたらしていく。民族主義の興隆とともに、ユダヤ人を自分たちの国から排除しようとする強烈な反ユダヤ主義勢力(ナチスなど)が台頭するという事態をも生み出すことになる。
1881

 ロスチャイルド家が亜鉛・鉛・石炭の発掘会社「ペナローヤ」を創設し、スペインからフランス、イタリア、ギリシア、ユーゴスラビア、北アフリカ、南アフリカまで事業を拡大している。

1882 〜1903、First wave of 25,000 Zionist immigrants enters Palestine, coming mainly from eastern Europe.
1882
Baron Edmond de Rothschild of Paris starts financial backing for Jewish settlement in Palestine.
1882  イギリスがエジプトを支配。
 平等と自由を求める「ホバベイ・ジオン」や「ビールー」という団体に組織されたユダヤ移民の第一波がパレスチナに到着。
1882  第一回目のユダヤ人イスラエル帰還。1882年以来、ロシアではユダヤ人の虐殺(ポグロム)の嵐が吹き荒れていた。西欧に経済的・政治的影響力を持つユダヤ系大資本家ロスチャイルドの指図で、主として東欧のユダヤ人がパレスチナに送り込まれ、この人々は約20のコロニー(集団居住地)をつくった。
1887  -1888、Palestine divided by Ottomans into the districts (sanjaks) of Jerusalem, Nablus, and Acre. The first was attached directly to Istanbul, the others to the wilayet of Beirut.
1888

 ロスチャイルド資本によって世界最大のダイヤモンド・シンジケートである「デ・ビアス社」を創設。更に、南アフリカ最大の資源開発コングロマリットである「アングロ・アメリカン」=オッペンハイマー財閥と提携した。今さら言う事でもないが、つい最近まで南アフリカを騒がしていたアパルトヘイトの真犯人はロスチャイルド家の代理人たちであった。

 (ロスチャイルド財閥に関するれんだいこ解説)

 19世紀末にはロスチャイルド家が「世界最大の財閥」にのし上がった。とりわけ、非鉄金属を中心とする資源の分野への進出ぶりは目覚ましいものがあった。20世紀は重化学工業の世紀であり、そこでは非鉄金属や石油を含む地下資源を押さえたものが世界を制するという大戦略が国家規模で発動され、ロスチャイルドのビジネス戦略と密接に連動して動いた時代でもあった。

 20世紀末期を迎えている今、ロスチャイルド財閥はもはや単なる一財閥ではなくなった。現在、パリ分家とロンドン分家を双頭とするロスチャイルド財閥は、金融と情報という21世紀の主要メディアを支配し、また、そのあり余る力をアフリカ大陸をはじめ、全世界の金やダイヤモンドやウランをはじめとする地下資源の確保に注ぎ込む、巨大な先端企業連合体でもある。現在、世界最大最強の巨大財閥を誇っている。

 ロスチャイルドは、現代文明をリードしてきたという強い自負を持っている。彼らの文化的事業は非常に国際的でアクティブである。映画産業界、ファッション業界は言うに及ばず、各種国際研究所、ノーベル財団などなどという学術面においても、全く輝かしい業績を挙げている。彼らのビジネスは、国際政府機関&各国の王室&国際報道機関&国際諜報機関などと密接に結び付いている。世界中にのさばっている“死の商人(兵器商人)”の多くは、ロスチャイルド財閥と何かしらの関係を持つ者たちであることは事実である。戦争あるところにロスチャイルドの姿ありと言われている。してみれば、帝国主義の発生過程はこの辺りから論ぜねばならないように思える。


1888  ロシア系ユダヤ人のレオン・ピンスケルが、著書「自力解放」の中で、祖国再建によりユダヤ人が安心して暮らせる「故郷」の必要性を説く。但し、あまり注目されなかった。
1890  「シオニズム」という名称が使われ始め、エルサレム(ユダヤ人の間では「シオンの丘」)に、ユダヤ人国家を再建しようという運動が始まる。
1891

 英・仏の内政支配に我慢ならなくなったエジプトの軍人アラビ・パシャ率いる軍が蜂起。イギリスが単独でこれを鎮定、イギリスはこれを口実(?)にエジプトを「保護国」とし、支配することになる。

1891  モスクワとペテルスブルグからユダヤ人追放。ユダヤ人モレヒバが「シオンを愛する人々」を創立。
1892  「シオンを愛する人々」の理論的指導者ピンスケルが、「自力解放」に共鳴して、パレスチナに最初のユダヤ人コロニーを成立させる。

【ドレフェス事件】「反ユダヤ主義」菅野賢治「ドレフュス事件史再考」その他参照)
 1894.12月、フランスで“ユダヤ禍”を宣伝した「ドレフュス事件」発生。フランスの陸軍参謀将校(大尉)にしてユダヤ人であったアルフレッド・ドレフェス(1859−1935)が、ドイツに軍事機密を売り渡したとの容疑で逮捕され、軍法会議にかけられた結果、軍法機密漏洩罪で有罪(終身刑?)を宣告されるという事件が起こった。パリ駐在ドイツ武官シュワルツコッペンが所持していた売り渡し機密の明細書の文字が、筆跡鑑定でドレフェスのものと判定されたのが、有罪の根拠であった。これが、世に云う「ドレフュス事件」の始まりである。

 愛国主義的反ユダヤ主義系新聞がすぐさまこの事件を取り上げ一大キャンペーンを展開した。こうして事件は忽ちのうちに世に知られるところとなった。他方、ドレフェス大尉の無罪を主張する動きも始まった。大尉の兄マチューは、ユダヤ人ジャーナリスト、ベルナール・ラザールの助力を得て救援活動を開始した。軍の情報部長ピカール中佐は真犯人は別にいると主張したが、逆に左遷されてしまった。

 当時のフランスには、相次ぐ疑獄事件で、現存する共和体制に不満を持つ人々が多くいた。国内の政治に不満を抱いていた人々(反ユダヤ主義者、愛国主義的右翼、軍部による対独復讐を主張する軍国主義者など)が、反ユダヤ主義を合言葉に「反ドレフェス」という旗の下に結集し始めた。「これは、あらゆる時代に見られる反ユダヤ主義運動の典型である。何か問題が起こると、それをユダヤ人の責任(スケープゴート)にするという傾向は、今も死に絶えてはいない」(反ユダヤ主義)。

 「ドレフュス事件」は、フランスの文化人・政治家などを巻き込んで世論を二分する大論争を巻き起した。1899.1月、作家のエミール・ゾラが「我弾劾す」で冤罪を告発した。大統領あて公開書簡をオロール紙上に発表し、それがきっかけとなって、ドレフェス大尉の冤罪説が高まっていった。後の首相クレメンソーもドレフュスを擁護した。真犯人の詮索問題も派生させた。ドレフュスを擁護したのは進歩的な政党で、これに反対の立場を採ったのは保守政党であった。

 有罪の根拠となった文書を偽造したのは、アンリ大佐であった。彼はそのことを自白し、その直後に獄死をとげている。権威の失墜を恐れた軍上層部は、1899年8月末からレンヌで開かれた再審軍法会議で、再び有罪を宣告した。事態の進展を憂慮した大統領ルーベは、ドレフェス大尉に恩赦を与えることで、問題の解決を図った。ドレフェス大尉は一貫して無実を主張したが、それが認められ、最終的に無罪が確定した。彼が完全に復権するのは1906年になってからであった。大佛次郎が「ドレフュス事件」(19355年)を著している。

 ドレフュス事件は、ヨーロッパ史上最大の冤罪事件と云われている。事件の背景にあるのは、次第に強まるユダヤ人のフランス社会への公的進出であったように思われる。この頃東欧ユダヤ人の西欧流入が起こっており、新たな社会問題を発生しつつあった。これが、西欧での反ユダヤ主義の新たな契機となっていくことになる。

 「ドレフュス事件」は、ユダヤ人社会にも大きな影響を与えていくことになった。フランス革命以降ユダヤ人の解放が各地で達成されつつあると考え国々での同化を目指していた流れが変わり、ユダヤ人社会に危機意識を募らせていくことになった。
 (ドレフュス事件のれんだいこ解説)
 ドレフュス事件は今日新たな論争を生み出しつつある。菅野賢治「ドレフュス事件史再考」に次のように記されている。
 概要「本国フランスでは、ドレフュス大尉の逮捕からちょうど一世紀を経た1994年を皮切りに、事件百周年を記念するエクスポジション、学術会議、出版活動などが盛んに行われる一方、国防省のある幹部がドレフュスの無罪に疑義を差し挟んで物議をかもすなど、事件の現代性がクローズアップされた。事件に対する評価をめぐって、論争は、二十世紀のユダヤ問題、対独協力の歴史、共和国の存亡、宗教と政治の分離の問題などに直結し、予断を許さない状況を呈している」、「近年、本国フランスで相次いで公表された新資料と、フランス以外にもイギリス、アメリカ、イスラエルなどで進められている最新の研究成果が注目されつつある」。
 意訳概要「結論として、ドレフュス事件にとどまらず、ディアスポラ、反ユダヤ主義、同化主義、シオニズム、ユダヤ・アイデンティティーなど、古代から現代までに至る『ユダヤ人問題』の再検証に向かう必要が生まれつつある。十九、二十世紀の歴史そのものを問い返すような、まったく新しい視点からの事件論が求められている。日本人にはなかなか理解することの困難なイデオロギー、思想潮流であるが、それらの根本に横たわるヨーロッパの反ユダヤ主義に関して正しく認識する必要がある」。

【ヘルツェルが「ユダヤ人国家−ユダヤ人問題の現代的解決への試み」を出版】
 1896.2月、 「ドレフュス事件」にショックを受けたオーストリア・ハンガリー帝国出身のユダヤ人青年ジャーナリスト、テオドール・ヘルツェル(1860-1904)が、首都ウィーンで一冊の本「ユダヤ人国家−ユダヤ人問題の現代的解決への試み」を出版し世に問うた。政治的シオニズム運動の始まり。

 ヘルツェルはドレフェス事件に衝撃を受け、次のように主張し始めた。
 概要「ユダヤ人の異邦人社会同化政策は誤りであり、ユダヤ人迫害は、ユダヤ民族の団結と各国政府の協力によってパレスチナにユダヤ人国家が建設 されるまでは止むことがない。ユダヤ人問題解決のための唯一の道は、ユダヤ人の独立国家の創設である。聖書の記述『私はこの地をあなたの子孫に与える。エジプトの川から、かの大川ユフラテまで』(聖書・創世記第15章)に基づきユダヤ人国家を建設しよう」。
 概要「ユダヤ人を収容するために十分な土地が欲しい。その土地ではユダヤ人に主権が与えられる。その主権の及ぶ土地で、ドージュ(総督の意か、王の意か)としてロスチャイルドが選出されるべきである。土地を獲得するための長征があることになる。首都はベネチアがモデルとなろう。王宮が作られ、戴冠式が行われ、軍隊が創設されるであろう」(鬼塚英昭「20世紀のファウスト」199P)。

 これが「シオニズム運動の嚆矢」とされており、テオドール・ヘルツェルは、「近代シオニズム運動の父」としての歴史的地位を獲得している。

 「ユダヤ人国家」の意義は、当時、ヨーロッパに住むユダヤ人の間に宗教的戒律を守りつつあるいはキリスト教への宗旨替えしつつの住居地国家への帰化(ユダヤ人同化論)が進みつつあったのに対し、自由、平等をうたったフランス革命の後でも、ドレーフェスのようにユダヤ人差別が続くことを指摘、「ユダヤ人にはユダヤ人の国家が必要」との意識を覚醒させ、シオニズム運動を提唱していったことにある。

 
こうして、1896年、「テオドール・ヘルツェルの提唱に基づくシオニズム(ユダヤ民族祖国再建運動)が始まる」。
 (パレスチナに関するれんだいあこ解説)
 イスラエル建国前は現在のイスラエルのある地域全体をパレスチナと呼び、長い間イスラム教徒によって治められていた。ユダヤ人も少数ながらキリスト教徒と共にイスラム政権下のもと共存していた。第一次世界大戦以前、東アラブ地域(現在のレバノン、シリア、パレスチナ、イスラエル、イラク、ヨルダン)はオスマン トルコの領土だった。当時オスマン トルコの弱体化により、西欧の列強が同地域、特にエルサレムに注目し始めていた。エルサレムをイスラム教徒の手から奪還するというのは十字軍のとき以来のキリスト教徒にとっての悲願であった。そこにユダヤ教徒も祖国再建運動で参入することになった。

1896  Theodor Herzl, an Austro-Hungarian Jewish journalist and writer, publishes Der Judenstaat, advocating establishment of a Jewish state in Palestine or elsewhere.
1896
Jewish Colonization Association, founded in 1891 in London by German Baron Maurice de Hirsch, starts aiding Zionist settlements in Palestine.
1897.8月
【第1回世界シオニスト会議】
 テオドール・ヘルツルが、出版から一年半後の1897.8.27日、スイスのバーゼルで第1回世界シオニスト会議がヘルツェルの主催で開催され、政治的シオニスト運動の国際組織「世界シオニスト機構」が創設された。以降、シオニズム運動の国際認知のために、精力的な外交活動を展開していった。

 「シオニズムはユダヤ民族のために、公法で保証された(世界が承認し合法的な)ユダヤ人のホームランドをパレスチナに創設すること」が宣言された。以降、「土地無き民に民無き土地を」プロパガンダが喧伝されていった。シオニスト(シオニズム活動家)178人が集まったこの会議上でヘルツェルを議長とする「シオニスト機構(後にシオニスト世界機構と改称)」が設立され、シオニズム運動の目標を「パレスチナの地にユダヤ人のための国家を設立する」といった内容を掲げた「バーゼル綱領」が採択される。

 ヘルツルの予想では、計画通り行けば、50年後にパレスチナにユダヤ人国家が誕生するはずであった。この予想は的中する。バーゼル会議の51年後、1948年5月24日、ユダヤ人達の国、イスラエルの独立が宣言された。この時、ヘルツルの肖像の前で独立宣言を読み上げた人物がダビット・ベングリオン。

【れんだいこのシオニズム考】シオニズム運動中東戦争全史(1)その他参照)
 近代ヨーロッパ社会において、ユダヤ人の解放と脱ユダヤ化(キリスト教社会への同化現象)が進むようになってからも、ユダヤ人に対する弾圧や差別は依然として解消されなかった。ユダヤ人社会に同化主義が進行しつつあったこの時期、ユダヤ人が同化するに応じてヨーロッパ諸国でアンチセミティズム(反ユダヤ主義)を発生させていった。

 その反動として、ユダヤ人の間に伝統への回帰指向が強まり、ユダヤ人の故地シオン(Zion)の丘にユダヤ人の独立国家を作ろうとするユダヤ版民族主義即ち「シオニズム(シオン/Zion主義)」が盛んになっていった。“シオンの丘”とは、かつてソロモン神殿があった聖地エルサレムを中心にしたパレスチナの土地を意味している。従って、シオニズムとはユダヤ人の民族主義運動で、パレスチナの地にユダヤ民族国家の再興を目指す政治的運動と規定することができる。

 その歴史事情は次の通り。概要「紀元70年、ローマ帝国によってエルサレム神殿が破壊され、ユダヤ人には所払い令が発布され、民族離散の憂き目に遭った。その後数十年の間に、エレツ・イスラエル(イスラエルの地)にいたユダヤ人は、その大半が郷里を追われた。しかし、ユダヤ人の帰郷への願いは絶えることがなく、その思いは祈祷や文学の中で悲願が吐露され続けた。毎年ユダヤ人は『過越しの祭り』の食事の最後に「来年はエルサレムで」と祈り、結婚式では新郎は『エルサレムよ、もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい』(詩編137)と唱えることで、その熱情のほどが分かる」。

 「シオニズム」は、ユダヤ人の悲哀を民族国家が無いことに求め、その根本的解決の道としてユダヤ人の独立国家の建国を目指すべきだとする。そこで白羽の矢が立てられたのは古代ユダヤ王国が在った聖地カナーンの地であった。当時パレスチナと云われており、ここに人工的にイスラエル国家をつくろうとした。これがシオニズムであり、これがパレスチナへのユダヤ人入植をもたらし、アラブ人との衝突が始まり、「パレスチナ問題」を発生させ、パレスチナ紛争の直接の起源となる。

 シオニズムのシオンとは、聖地エルサレム南東にあるシオンの丘の名から命名されていた。ユダヤ人がその地を追放されて離散の歴史をたどる「旧約聖書」の記述中の<シオンの地>は、宗教的迫害を味わってきたヨーロッパのユダヤ教にとって解放への希求と合わさって象徴的意味を持っていた

 シオニズム運動の先駆者にはモーゼス・ヘスなどがいたが、政治的シオニズム運動に決定的な役割を果たしたのは、オーストリアの新聞記者であった「テオドール・ヘルツェル」がこれを公言した最初の人とされている。従って、シオニズムとは、ユダヤ民族による失われた“シオンの地”を取り戻し、自前のユダヤ人国家を創る運動及び帰還運動であり、ユダヤ民族の歴史的復権運動、祖国回帰運動、父祖の地パレスチナの奪還運動ということになる。

 「ユダヤ人国家」の意義は、当時、ヨーロッパに住むユダヤ人の間に宗教的戒律を守りつつあるいはキリスト教への宗旨替えしつつの住居地国家への帰化(ユダヤ人同化論)が進みつつあったのに対し、自由、平等をうたったフランス革命の後でも、ドレーフェスのようにユダヤ人差別が続くことを指摘、「ユダヤ人にはユダヤ人の国家が必要」との意識を覚醒させ、シオニズム運動を提唱していったことにある。

 ユダヤ国家再建のためのシオニズム運動は、厳密には「政治的シオニズム運動」と称されるものであり、その他に、離散ユダヤ人のためにパレスチナに精神的中心機関を設置し、ユダヤ固有の文化を興隆させようとする「文化的シオニズム運動」もある。更には、ユダヤ人は国家を失っても固有の宗教民族性を保持できたのであるから、あらゆる国の中にユダヤ人の精神的国家を樹立すべきだという「修正シオニズム運動」や、土地の開拓に基礎をおいた「実践シオニズム運動」などもあった。

 近代における反ユダヤ主義と民族主義の台頭が、シオニズム運動形成への大きなベクトルとなったことは疑いがない。ユダヤ人は迫害されればされるほど民族的結束を強めていき、自分たちの民族的独立を夢見た。そのため、各種シオニズム運動の中で主流となったのは、政治的シオニズム運動と実践シオニズム運動を統合した「総合シオニズム運動」であった。

 「文化的シオニズム運動」を提唱していたアハド・ハアムは、ヘルツルの「政治的シオニズム運動」を批判していた。また、ユダヤ教の主流ともいうべき伝統にのっとった「ユダヤ教正統派」は、シオニズム運動そのものが世俗的なものであるとして支持しなかった。ユダヤ人社会主義組織「ブント」のメンバーも、シオニズム運動を“反動ブルジョア的”と決めつけ非難していた。更に「ユダヤ教改革派」も、ユダヤ人は民族ではなく宗教集団であるから、国家を樹立する必要はないとして反対していたのである。

 他にも、ユダヤ人の苦境は神が与えた試練なので人為的な祖国再建は神の意思に反すると考える者も居た。実際、現在でも、イスラエル国家に対して、旧約聖書の言う「神の国」では無いとして容認しないユダヤ教超正統派の高位聖職者や原理主義者もいる。この超正統派ユダヤ人は「聖都の守護者」を意味する「ナトレイ・カルタ」と呼ばれ、現在のイスラエル共和国はユダヤ教の本質を完全に逸脱した世俗的な寄せ集め集団に過ぎない、として徹底的に批判している。超正統派のユダヤ人の主張によれば、メシア(救世主)が出現して初めて真の栄光に満ちたイスラエル国家が誕生するという。従って彼らは、メシアの出現を待望してやまず、祈りと戒律を厳守した極めて求道的な生活を日々送り続けている。

 が、しかし、興味深いことに、シオニズム運動は、第一次と第二次にわたる「世界大戦」を通じて急激な展開を見せていく……。


 このシオニズムの運動と社会主義派の結合も見逃せない。社会主義派の一部は、シオニズムに従いパレスチナに入植し、キブツに代表される「土に帰れ」運動を実践していくことになる。


1897  First Zionist Congress in Switzerland issues the Basle Program calling for the establishment of a "home for the Jewish people in Palestine." It also establishes the World Zionist Organization (WZO) to work to that end.
1898  シオニズム計画実行の経済的支援の為のユダヤ殖民信託が設立された。
1901  Jewish National Fund (JNF) set up by fifth Zionist Congress in Basle to acquire land for WZO; land acquired by JNF to be inalienably Jewish, and exclusively Jewish labor to be employed on it, click here to read to Zionist apartheid & racist quotes.
1901.6月  ヘルツェルはイスタンブールのスルタンであるアブタル・ハミード2世に謁見し、パレスチナでのユダヤ人国家の設立を願い出たが却下される。その後ギリシャのキプロス島や東アフリカのウガンダでの国家設立を目論むも失敗する。
1901  テオドール・ヘルツルが、オスマン帝国のスルタン、アブダル・ハミード二世と会見し、ユダヤ人国家の建設について話し合う。スルタンはヘルツルの人となりにかなり感銘を受け、彼を「ユダヤのプリンス」と呼び、更にはヘルツルの印象を「キリストとは彼のような男だったに違いない」とまで語る。

 スルタンは、トルコ領内へのユダヤ人の移住に関しては協力的だっが、パレスチナへのユダヤ人移住は認めようとしなかった。但し、この時オスマン帝国の財政は逼迫していたので、1000万ドルの融資と引き換えに、パレスチナへのユダヤ人移民受け入れを許可するという約束が、ヘルツルとスルタンの間で交わされた。これは西欧のユダヤ人社会の経済力をもってすれば十分に可能な計画であり、ヨーロッパに戻ったヘルツルは、ユダヤ系の銀行を歩き回り、オスマン帝国への融資話を持ちかける。

 
シオニズム計画実行の経済的支援の為のユダヤ民族基金が設立された。パレスチナの土地を買い求め、ユダヤ人移民に貸し与えた。その土地をパレスチナ人に貸与することは禁止された。
しかし、行く先々で断られたあげく、最後の訪問先のパリでは、一回目の心臓発作に見舞われた。その後、ドイツのカイザーや英国政府とも話し合いを持ったもののはかばかしい成果は得られなかった。

 もともとパレスチナにこだわっていなかったヘルツルは、パレスチナへの固執はユダヤ人国家建設を遅らせると考えて、イギリスの政治家達の協力の下に、他の入植地を探しはじめた。最初の候補はキプロス島であったが、ここは歴史的にギリシア系住民とトルコ系の対立が激しく、ユダヤ人の入植は話をよけいにややこしくすると却下された。次に候補に上がったのはシナイ半島であったが、そこは掛け値無しに不毛の砂漠であり、とても人の住める場所ではない、とイギリス政府から止められる。

 そうしている間にもロシアや東欧の「ポグロム」は激化の一途をたどり、入植地探しはもはや猶予ならない状況となった。一部のユダヤ人達は、シオニスト機構とは別にパレスチナ移住を開始した。「アリヤー(ヘブライ語で上昇の意味)」と呼ばれた彼らは、1901年のシオニスト会議で設立された土地購入のための基金、「ユダヤ民族基金」や、ロスチャイルド家その他、西欧の富裕なユダヤ人からの援助によって、パレスチナの土地の「買い占め」をはじめた。パレスチナの土地の大部分は不在地主の所有地だったので、地主達は案外と容易にユダヤ人に土地を売った。こうした「アリヤー」達は、20世紀初頭の数年間だけでもおよそ一万人にのぼる。映画「スターリングラード」でも、ヒロインが「パレスチナに土地を買うために父親が貯金していた」と語る場面があることでも確かめられる。。

 やがて、ユダヤ人の大富豪たちは豊富な資金を元手にパレスチナの土地を買い漁りはじめ、ユダヤ人をどんどんパレスチナへ移住させ合法的な既成事実を作り始めた。1901年から数年で1万人近いユダヤ人がパレスチナの地を踏むことになった。当然、大量にやってくる移民に不安を持つパレスチナ人と、独自の生活スタイルを崩さないユダヤ人との間にはあらゆる種類の摩擦と対立がおきてきた。

 (ヘルツルに関するれんだいあこ解説)
 木村愛二氏は、ヘルツルに関して、「偽ユダヤ人カザール問題の解決法(8) シオニストを憎むよりもその悲劇を憐れむ」の中で次のように解説している。

 今回は、世界シオニスト機構の創始者、テオドール・ヘルツルが、ユダヤ人国家をパレスチナに建設するに至る経過を振り返り、その岐路の誤りの悲劇を憐れむことにする。経過を子細に見ると、ヘルツルは、フランスのロスチャイルド家(ロートシルト)に誘導されて、アラブ人国家のど真ん中に、ユダヤ人国家を割り込ませるという悲劇的な決定に至ったのである。
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 http://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-6.html
 『偽イスラエル政治神話』
 著者はしがき
 [中略]
 政治的シオニズムの創始者、ヘルツル[訳注]は、いかなる宗派に属すると主張したこともなく、『回想録』には、《私は宗教的衝動に従うことはない》《私は不可知論者である》(同前)と記している。

 [訳注]:ヘルツルには、彼に先行するシオニスト運動が格好の看板指揮者として途中で迎え入れたタレントの要素がある。彼は、オーストリア=ハンガリー二重帝国のハンガリー側首都、ブタペストで、裕福なユダヤ人の子として生れ育ち、ユダヤ教の信者にはならず、ウィーンのドイツ語新聞のパリ特派員となった。一八九四年に発生したドレフュス事件(フランス軍ユダヤ人大尉のスパイ容疑・冤罪による流刑判決事件)の衝撃を受ける以前には、ヨーロッパ社会への融和を考えていた。『ユダヤ人国家』の初版は一八九六年。第一回シオニスト会議(のち世界シオニスト機構)の開催が一八九七年。だが、すでにそれ以前の一八七八年に締結のベルリン条約で、パレスチナ地方がフランスの支配下に入って以後、本訳書二四二頁以下にも記されているように、フランスのロスチャイルド家(ロートシルト)による土地買収とユダヤ教徒の移住勧誘が始まっていた。本訳書巻末の訳者解説三五六頁で紹介した資料によれば、さらにそれ以前の一八六七年、つまりは、第一回シオニスト会議が開催されるより三〇年も前に、「開発資金を集めた創世期のシオニスト運動組織は、パレスチナの天然資源を調査」を行い、「数百万の人口を移住させる可能性」を確かめていたのである。

 彼は聖地に特別な関心を抱かなかった。彼は、国家主義を実現する目的地として、ウガンダ、トリポリ、キプロス、アルゼンチン、モザンビーク、コンゴの、どこでも同じく受入れようとしていた(同前)。しかし、ユダヤ教徒の友人の反対に直面し、彼が「力強い伝説」(mighty legend)(同前)と呼んだものが、《逆らい難い力を持つ同志糾合の号令となっている》(『ユダヤ人国家』)ことを認めた。

 この動員力のあるスローガンは、すぐれて現実主義的な政治家である彼にとって、見逃せないものだった。彼は、この「復古的」な「力強い伝説」を歴史の現実に置き換えようと宣言し、こうも語った。

 《パレスチナは我々の忘れ難い歴史の一部である。……この地名のみが我々の仲間にとっての力強い同志糾合の号令になり得る》(同前)
  《ユダヤ人問題は、私にとって社会的問題でもなければ、宗教的問題でもない。……それは国家の問題だ》
[後略]

1903  イギリス政府はユダヤ人の民族的郷土を創設するため、ウガンダの領土を充てることを第6回シオニスト会議で提案。会議は賛成295票、反対175票でこの「ウガンダ案」を受諾した。
1903.3  ロシアで大規模なユダヤ人虐殺事件が発生。この結果、ユダヤ人のロシアからの流出が増大し、国境を接していて、かつパレスチナを支配するオスマン・トルコにユダヤ人難民が集中しますが、トルコ側では、くだんの融資話が、当のユダヤ人銀行家達の非協力で頓挫したため、スルタンはかなり機嫌を損ねており、ユダヤ人の入国禁止が発令されました(それでも、少数のユダヤ人達は、パレスチナにもぐりこむ事に成功している)。もはや悠長に入植地候補を探している場合ではなくなります。

1900  プロテスタント教会内でエキュメニカル運動が始まる。
1903  ロシアの新聞に「シオン賢者の議定書」(「ユダヤ・プロトコール」)が掲載される。但し、「シオン賢者の議定書」の存在真偽は今も未定。
 社会的福音が提唱される。

1904 〜1914Second wave of about 40,000 Zionist immigrants increases Jewish population in Palestine to about 6% of total. Since the inception of Zionism it has been claiming that Palestinian was an empty country, click here to read our rebuttal to this argument.
1904

 英仏協商が締結。イギリスはフランスをエジプトから追い出す。

1904  第7回シオニスト会議、「ウガンダ案」で紛糾し、この案を白紙撤回する。
1904.4  この危機の中で、救いの手を差し伸べたのはイギリス(だけ)でした。ネヴィル・チェンバレン(当時、植民地大臣)は、財務省や現地のイギリス人の反対を押し切って、東アフリカ、ウガンダでのユダヤ人入植地建設をヘルツルとシオニスト機構に提案しました。しかし、この三番目の候補地も、パレスチナに固執するシオニストの過激派の反対に遭い(3月の虐殺の生き残りまでが反対した!)、シオニスト会議で否決されました。シオニスト達にとって、祖国とはあくまで「シオンの丘」とパレスチナであり、開いている土地ならどこでも良い、と言うわけでは無かったのです

 
1904.7.3  疲労困憊したヘルツェルは失意の内にこの世を去る(享年44歳)。
1904  二回目のイスラエル帰還。ヘルツェルの死によって求心力を失いつつあったシオニスト機構には頼らずに、独自で資金を調達してパレスチナに移り住むものが現れ始めた。彼らはアリヤーと呼ばれ、ロスチャイルド家を始めとするユダヤ人富裕層からの援助を元にパレスチナの土地を購入し、合法的にパレスチナへの浸透を図った。その数は20世紀初頭だけでも約1万人に及びその後も続々と増え続けた結果、アラブ人との間に徐々にではあるが感情的対立が生まれ始めた。彼らの不安と反感は年を経るにつれ増大し、互いが先鋭化していく。このわだかまりが爆発し、対立と混迷の時代へと導く事件が起る。第一次世界大戦とイギリスの介入である。

 ヘルツルが亡くなると、もともと入植地探しで分裂寸前だったシオニスト機構はユダヤ人社会に対する影響力を失ってしまい、著名な化学者ハイム・ワイツマン博士(後、イスラエル初代大統領)が登場するまで、シオニズムの主流は、ヘルツルのような政治的運動から、「アリヤー」による単純な土地の買占めや、合法、非合法を問わない移住に変わっ(これはヘルツルの「政治的シオニズム」に対して「実践シオニズム」と呼ばれる)。

 しかし、アリヤーの強引なやり方は、やはりトラブルを招いた。パレスチナでは、買占めとアリヤー流入により、失業したアラブ人小作農が大量に発生する。その上、いつもの事ながらユダヤ人達は、現地の価値観や習慣を無視してアラブ人の反感を買い、更に、もともとパレスチナには、「セファルディム系」と呼ばれるユダヤ人が、エルサレムを中心に2万人ほどいた。彼らはユダヤ教の信仰以外はアラブ社会に同化していたため、アリヤーとの間でも摩擦が生じた。現在までも続く宿命の対決が始まった。宗教対立の様相を帯びているが、その根源は「生活圏」の奪い合いにあるとも云える。
 異言を強調するペンテコステ派が誕生する。
1905  ユダヤ移民の第二波、主にロシアより到着。
1905
 ロシア・ペテルブルクで、神秘家・セルゲイ・ニルスが「世界の終末は近い。反キリストは全地球上にサタンの支配を確立する為、やがて現れるだろう」と添え書き付きで「卑小なるもののうちの偉大 政治的緊急課題としての反キリスト」」を出版した。その中に「フランスにあるシオンの中央秘密倉庫にいる私の通信員によって入手したユダヤ教徒の陰謀計画書」として「シオンの議定書」が付録で収録されていた。
1905  〜06年、東ヨーロッパでポグロムの嵐。
1907

 シオニスト会議でワイツマン博士は、政治的な働きかけとパレスチナ移住の両方を推進するという提案を示し、「政治的シオニズム」と「実践シオニズム」の統一に成功している。これを「統合シオニズム」と呼ぶが、まだ名前だけの統一で、実際に足並みがそろうのは1920年代からとなる。

1908 1908年、オスマン・トルコ帝国では、エンヴェルを中心とする若手将校達によるクーデターが発生、いわゆる「青年トルコ党の革命」です。日本の教科書では誉められているこのクーデターですが、現実のエンヴェルは「大トルコ主義」を掲げる民族主義の過激派(後の大英雄ムスタファ・ケマルもクーデターに参加していたが、下っ端でありエンヴェルと仲が悪かった)でした。当然、ユダヤ人にもいい顔をするはずは無く、1903年以来の反シオニズム路線に変更はありませんでした。それでも、オスマン帝国に議会が設置されたため、

 1912年、ベングリオンら「シオンの労働者」の若手幹部はイスタンブール大学に留学します。議会にユダヤ人議員を送り込むべく、トルコの法律を勉強するためでした。これはオスマン帝国の反シオニスト政策を変更させるためにも重要な布石と考えられていたのですが、そんな中で、第一次世界大戦が勃発しました。トルコ自体、この戦争に参加する理由は大してなかったのですが、オスマン・トルコの実権を掌握していたエンヴェルら軍部の大物(ムスタファ・ケマルは、この時もまだ下っ端だった)は皆揃って親独派であり、ロシアや英仏の蚕食を受けていたこともあって、中央帝国側に立って宣戦布告します。
1909  ユダヤ人最初の町「テルアビブ」が創設される。Establishment of the first kibbutz, based exclusively on Jewish labor. Tel Aviv founded north of Jaffa.
1910  最初のキブツ(共産村)である「デガニア」がガリラヤ地方にできる。
 エジンバラ世界宣教会議が開催される。
1913  第11回世界シオニスト会議がオーストリアのウィーンで開かれた。
1914  サラエボ事件が発生し、第一次世界大戦勃発する。
 この時、パレスチナを支配していたオスマン・トルコ帝国が、ドイツ・オーストリアの同盟国側につき英国やフランスと戦うことになった。シオニズムの意向を受けたイギリスはオスマン帝国の後方撹乱をねらい、東アラブ地域(現在のレバノン、シリア、パレスチナ、イスラエル、イラク、ヨルダン)での反乱を起こさせた。オスマン・トルコの領土だったアラブ地域で、イギリス、フランス両軍とオスマン・トルコの間で戦闘が繰り広げられた。

 イギリスとフランスは、戦後に東アラブ地域を両国で分割する条約を秘密裏にかわした。
1914  第一次世界大戦下において、イギリスはスエズ運河防衛を大義名分に掲げ、またもやエジプトを保護国だと宣言する。
1915.10 【「フセイン・マクマホン協定」】
 大英帝国がトルコ支配下のアラブ人に「アラブ国家樹立」を約束する(フセイン・マクマホン往復書簡)。東地域からトルコの勢力を駆逐するため、イギリスの高等弁務官(カイロ駐在弁務官)ヘンリー・マクマホン卿は、マホメットの血を引く名門ハーシム家の当主で、アラブ人のリーダー、フセイン・イブン・アリー(ヨルダン国王の祖先、彼の三男が映画「アラビアのロレンス」でもおなじみのファイサル王子です)にイギリスへの協力を求めた。

 
英国のエジプト・スーダン高等弁務官・ヘンリー・マクマホン卿とメッカの守護職(シャリフ)ハーシム家のフセイン間で書簡が遣り取りされた(1915.7〜1916.1)。英国は、アラブ人がオスマン トルコとの戦いへ協力する見返りに、勝利した暁には「アラブ人の独立を承認し支持する用意がある」として東アラブ地方(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)及びアラビア半島にアラブ王国建設を支持する事を約束した。

 つまり、アラブに対しパレスチナでのオスマントルコ支配からの独立を約束したということになる。そのアラブの独立領土には当然パレスチナが含まれていた。しかし、この約束はイギリス出先機関が結んだもので、ロンドンの英国政府の保証は無かった。


 フセインは、「ダマスカス、ホムス、ハマ、アレッポを結ぶ領域内(地図で確認して下さい)をアラブ人国家として独立させる」ことを条件に出し、1915年10月、マクマホン卿はフセイン師の要求受け入れを約束した。このことに関する十通の書簡がいわゆる「フセイン・マクマホン書簡」です。

 ここで注意しなければならないのは、フセイン師の要求する線には、地理学的にパレスチナが含まれていないことである。フセイン師は、聖地アル・ドゥクス(エルサレム)の重要性を考えて、わざわざ要求するまでも無くパレスチナはアラブ国家に含まれると考えていたようで、パレスチナに関するイギリスの考えを確認しなかった。それに、マクマホン卿もフセイン師も、イギリスの残り二枚の舌に関する動きは全く知らなかった。

 「バルフォア宣言」が発表されると、パレスチナのアラブ社会に衝撃が走った。イギリス政府のフセイン師に対する釈明は要領を得ないものであったが、フセイン師は、ユダヤ人のパレスチナ入植は、迫害から逃れるための緊急避難で過渡的な措置であろうと釈明を受け入れたので、アラブ社会も、疑いつつこの線で納得した。しかし、この時もまたフセイン師は、将来的にパレスチナの領有権はどうなるのかという問題を突っ込まなかったため、後々に大きな禍根を残すことになった。
1916.1.30  Husayn-McMahon correspondence between Sharif Husayn of Mecca (leader of the Arab Revolt against the Ottomans) and Sir Henry McMahon (British High Commissioner of Egypt) ends in agreement for postwar independence and unity of Arab provinces of Ottoman Empire.
1916.3.16  Sykes-Picot Agreement secretly signed, dividing Arab provinces of Ottoman Empire between Britain and France. Agreement revealed by Bolsheviks in December 1917.
1916.5月 【「サイクス・ピコ協定」】
 大英帝国が戦後の中東をフランスとロシアで山分けするための秘密条約(サイクス・ピコ条約)に調印。1915年から1916年にかけて、イギリス政府の中東問題担当顧問マーク・サイクスとフランスの外交官シャルル(ジョルジュ)・ピコが何度か会見し、1916年5月、英仏間でレバノンとシリアをフランス領に、イラクをイギリスの支配圏として、パレスチナは英仏露で共同管理するという秘密協定「サイクス・ピコ協定」が成立した。広瀬隆氏の著書「赤い楯」によると、サイクスもピコも、ロスチャイルド系の人物である。  

 英国は、仏、ロシアと「サイクス・ピコ協定」を結び、オスマントルコ帝国崩壊を前提としてその領土の分割統治につき東アラブ地域(シリア・パレスチナとメソポタミア)を三国で分割する条約を秘密裏にかわした。北(北部パレスチナを含むシリアの大部分)をフランス、南(エルサレムを含む南パレスチナ)をイギリスが支配し国際管理下に置くことを決めた。つまり、オスマントルコに勝利した後の「遺産ぶんどり」協定であり、戦後アラブの独立を承認していた先の「フセイン・マクマホン協定」を空約束にするものであった。 これに基づき、北の仏領にはシリアとレバノンが作られ、南の英領にはイラク、ヨルダンとイスラエルが作られた。


 シオニズム運動の指導者だったハイム・ワイツマン(のちにイスラエルの初代大統領になったポーランド出身の科学者)は、1915−16年に、サイクスと何回も会っており、サイクスはシオニズムに対する強い支持を表明していたが、ワイツマンに対し、サイクス・ピコ協定の交渉が進んでいることについて、一言も話さなかった。ワイツマンの手記によると、フランスのシオニストは同時期にピコと会い、ピコの口からもシオニズム支持の言葉を聞いたが、サイクスとの秘密協定については、一言も聞いていなかった。(「イスラエルとロスチャイルドの百年戦争」)(関連記事
1916.6月

 イギリス情報部員ローレンスの指導下に「アラブの反乱」が起きる。

1916.6.10  フセイン師は自ら先頭に立ってトルコに対する蜂起を決行した。これ以後の指揮はファイサル王子が執った。オスマントルコに対するアラブの反乱が開始された。また、この後の戦いで活躍したのが「アラビアのロレンス」ことトマス・エドワーズ・ロレンスである。ワイツマン博士もシオニズムへの理解と支援を求める政界工作を精力的に行っていたのですから、かなり哀れです。
1916年末  イギリスで、ロイド・ジョージの新内閣が成立すると、ワイツマン博士の長年の友人であるバルフォア卿が外務大臣に就任した。ワイツマン博士は、ぐずぐすすればドイツが親シオニズム宣言を出し(実際、ドイツ帝国は検討していた)、スエズ運河に近いパレスチナが一気に親ドイツに傾いてしまうだろう、今、シオニズムを擁護すれば、パレスチナは親英的になる、と最後の一押しをする。
1917  ロシア革命の真っ只中で、「シオン賢者の議定書」が改題され、出版される。「それは真近に来ている。反キリストが来る。悪魔の地上支配が迫っている」、「この『プロトコール』は世界を征服し、世界を神の敵対者イスラエルの元の下に置く為の戦略プランに他ならず、長年離散していたユダヤ人指導者の手で練り上げられ、1897年バーゼルで開かれた第1回シオニスト会議の期間中、追放者の帝王テオドール・ヘルツェルによって賢者会議に上申されたもの」との説明文が付けられていた。
1917.11.2  大英帝国がユダヤ人大富豪家のライオネル・ロスチャイルド卿に「ユダヤ国家樹立」を約束する書簡(バルフォア宣言)が取り交わされる。
1917.12月  イギリス軍が、エルサレム入城。オスマン・トルコ帝国による約400年のパレスチナ支配を終結させる。
1917.11.2 【「バルフォア宣言」】
 外務大臣バルフォア卿から、英国シオニスト連合会長、ロスチャイルド卿宛ての書簡。英国のアーサー・バルフォア外相が、ユダヤ人の有力者にしてイギリス・シオニスト連盟会長のエドモンド・ロスチャイルド卿宛に、「イギリス政府はパレスチナでのユダヤ人のナショナルホームを設立を支持し、努力する」事を確約する書簡を出した。これを「バルフォア宣言」と云う。第一次大戦時のユダヤ人の支持と協力を求めてパレスチナでのユダヤ人国家建設支持を表明した。以降、イギリスは、ユダヤ民族郷士(ナショナル・ホーム)の建設の後ろ盾となった。「バルフォア宣言」は、シオニスト運動を大きく前進させた。

 この宣言の背景には、当時ヨーロッパに散在していた300万〜400万人のユダヤ人に「民族的郷土」を与え、「イギリスの忠実なユダヤ人国家をエジプトやスエズ運 河の近くに設置する」(ハーバート・サムエル初代パレスチナ高等弁務官)というイギリス帝国主義の目標が秘められていた。これにより事態はますます複雑化した。



  つまりイギリスは、同じ札をフランス、アラブ、イスラエル三者に出したのである。これが現在のパレスチナ、イスラエルの争いの出発点となった。

 また「バルフォア宣言」と同時に、中東地域での作戦のため、イギリス軍におけるユダヤ人部隊創設も発表された。ユダヤ人だけの軍隊の編成は、実にローマ時代以来の出来事であり、イギリス在住のユダヤ人は勿論、アメリカやカナダのユダヤ人達からの志願が殺到した。ドイツ帝国は勿論、近代シオニズム発祥の地、オーストリアのユダヤ人達は志願出来ず、ただ祖国を持たない民族の悲哀を感じるしかなかった。

(解説)
 第一次世界大戦中、英国は自国に有利にことが運ぶように以下のような三枚舌外交を展開した。今日の複雑な中東情勢をつくりだしたもとは、第一次世界大戦中の英国のこの三枚舌外交に発し、戦後、実際には英国が同地域を植民地支配し、ユダヤ人入植を促進させたというアラブ人愚弄政策から始まる。

アラブ人への約束 フセイン・マクマホン書簡で、東アラブ地方(イラク、シリア、ヨルダン、レバノン、パレスチナ)およびアラビア半島でのアラブの独立、王国建設を支持する事を約束し、オスマントルコに対して反旗を翻させた。
ユダヤ人への約束 バルフォア宣言で、ユダヤ人の協力を得るために「英国政府がパレスチナでのユダヤ人の民族郷土を建設を支持し、努力する」事を約束した。
フランスへの約束 「サイクス・ピコ協定」を結び、 イギリスとフランスは、戦後に東アラブ地域を両国で分割する条約を秘密裏にかわした。

 つまりイギリスは、パレスチナのトルコからの独立を廻って、同じ札をフランス、アラブ、イスラエル三者に出したということである。これが現在のパレスチナ、イスラエルの争いの出発点となった。イギリスの目的として、当時の世界史的情勢から石油利権の確保も含めパレスチナ地域の確保が必要だったという事情があった。

 この当時のパレスチナ地域の人口は、アラブ系65万人、ユダヤ系5万6000人。

1917.12.1  バルフォア宣言のわずか一月半後、アレンビー将軍率いるイギリス軍がエルサレムに突入。ユダヤ人部隊の最大の活躍の場はて失われた。
1918 【イギリスとフランスが、アラビア半島を分割支配】
 第一次世界大戦が終わった。イギリスとフランスは、アラビア半島を両国で分割した。
イギリス イラク北部の一部地域、中部、南部、ヨルダンを統治圏とした。後にパレスチナも手に入れた。
フランス イラク北部、シリア、レバノンを自国の統治、勢力圏に編入した。

 パレスチナはイギリスの委任統治領となった。国際連盟もこれを追認した。
(解説)
 第一次世界大戦終了後パレスチナはイギリスの委任統治領となったが、英国はその三枚舌外交、アラブ人愚弄政策の代償を払わなければならなくなる。約束が違うと怒るアラブ人の大反乱が起こり、なお第一次世界大戦終了後からユダヤ人移民がパレスチナへ大量流入し続け、各地で紛争が止む事が無かった。

1918、6月  中東を訪問したハイム・ワイツマン博士は、イギリスの仲介によりヨルダンでファイサル王子と会見した。「バルフォア宣言」と「フセイン・マクマホン書簡」の矛盾点を解決するためであった。ファイサル王子はユダヤ人に好意的であり、会談の結果、パレスチナの非ユダヤ人の権利や利益を損なわない、というくだりを確認して「バルフォア宣言」を受け入れた。ファイサル王子との会見の帰り、ワイツマン博士は念願のパレスチナ訪問を果たす。そこでアレンビー将軍を含めた多くの士官達が「バルフォア宣言」の発表を知らないこと、さらに、イギリス軍の兵士達が「シオン議定書」の英語版を持っているのを見て唖然とする。
1918 【アラブ臨時政府の樹立】 
 ワフド党による独立運動が起こり、メッカの大守フセインの3男ファイサルはロレンス(アラビアのロレンス)とともに、1918年ダマスカスを攻略すると、アラブ臨時政府を樹立した。

【アラビアのロレンス考】

 英国の特務機関のロレンスの物語(アラビアのロレンス)は、アラブ人の利用を廻ってこの波間で翻弄されたそれである。アラビアのロレンスは、ウェールズ生まれのイギリス人、トマス・エドワード・ロレンス(1888〜1935)のことで、第一次世界大戦中「アラブの対トルコ独立運動を指導した英雄」として名を残している。

 第一次大戦時代、ロレンスの中東経験が買われ、カイロの英軍司令部に情報将校として勤務する。1916年6月、イスラムの聖地メッカの太守フセイン(フサイン)がイギリスとの約束を信じてトルコへの反乱を起こすと、両者間の連絡将校を努める一方、17年3月以降、アラブ不正規軍を指揮、フセインの息子ファイサルの北部軍に加わって、18年10月、トルコ軍の中東司令部のあったダマスカスに入城した(軍人、ゲリラ指導者としてのロレンス)。

 しかし、ロレンスは、親アラブだった事実にもかかわらずシオニスト運動に対する態度にも好意的で、「ユダヤ人がアラブ人に大きな助けとなり、パレスチナにおけるユダヤ人の郷土はアラブ世界に多くの利益をもたらす」と言う理想的なものであった。1919年初め、イギリス政府の親シオニスと政策に抗議するあるグループに対して、「反シオニストはイギリスの国益に沿わないため、自分は反シオニスト集会には出席しない」との抗議の書簡を送っている。つまり、英国の国益を何より優先させていたということが判明する。

 ロレンスは国益に奉仕する愛国者、言い換えれば、英帝国主義の忠実な先兵であった。第一次世界大戦末期、イギリスの”三枚舌外交”が明るみにでてアラブ軍は動揺した。このとき、アラブ側が対英不信から、トルコへの兵を収めてしまっては一大事だから「勝までは彼らをだまし戦わせ、勝った後で裏切るしか道はなかった」と語ったのは他ならぬロレンス自身であった。すなわち彼はアラブのためでなく、終始祖国イギリスのために戦ったと云える。

 彼は、アラブの中世期における大帝国建設の歴史には全くの無知であり、、アラブは軽薄で、政治的未熟であり、自治能力にかけると言う、一見差別的な眼で見ていた観がある。だから、ロレンスは「英国統治下での自治領を築くべきだ」と考えていた不死がる。

 1921年3月、チャーチル植民地相が中東専門家を召集してカイロ会議を開いたとき、ロレンスは彼の特別顧問として参加し、第一次大戦後の中東政治地図の作成に重要な役割を果たしている(官僚、政治家としてのロレンス)。ちなみにロレンスは、終戦後間もない頃からアラブの反乱の記録「知恵の七柱」の執筆を始め26年の12月、限定版として出版している(作家としてのロレンス)。

 その様なロレンスを「英雄」に仕立てたのは、1918年4月、パレスチナ戦線を取材した従軍記者ローウェル・トマスだ。彼は帰国後、ロレンスを主人公とした映画と後援会「アラビアのロレンスと共に」を催して大当たりをする。彼はこれを見たイギリスの興行師に招かれ渡英するが、1ヶ月の予定が4年にも及びロンドンだけで100万人もの観客を動員した。こうしてロレンスはトマスによりイギリスの国民的英雄になった(つくられた英雄としてのロレンス)。

 要するに「アラビアのロレンス」とは、西洋人が西洋でつくった西洋向けのお話の主人公で、そこでは反乱の主体であるアラブの存在が当然のことながら無視されている。アラブの視座から見れば、ロレンスとは「祖国とアラブとの間で悩む悲劇の人」ではなく、チャーチルの指令に忠実に従ってパレスチナをユダヤ人に与え、アラブ世界を分割する政策に協力した、英帝国主義の先兵に外ならなかった(帝国主義者としてのロレンス)。

 この政策が、今世紀における最大・最長の地域紛争の記録を持つアラブ・イスラエル紛争の原因になったのだから、その「種まき」の一人になったロレンスの責任は重い。しかし、中東を離れてからオートバイにより事故死するまでの13年間における彼の奇怪な行動は何を物語るか。彼は仮名を使って一兵卒となり、最後には戸籍を抹消し、トマス・エドワード・ショーとして死んだ。ロレンスという虚名を恥じての行動としか思われない。しかし、現在でも彼は西洋人を引きつけてやまぬそうだ。(「正太郎のイスラエルを調べよう」参照) 

 第一次大戦後の中東の石油利権をめぐって、英米は対立する。米国は現地勢力のうちサウド家を援助したが、英国は現地諜報員トマス・E・ロレンス大尉(いわゆる「アラビアのロレンス」)の進言に基づきハシム家を推して、両者は死闘を展開。結果は「ロレンスが負け」サウド家が勝ってサウド家のアラビア、サウジアラビア王国が誕生した。

1918 September
Palestine occupied by Allied forces under British General Allenby.
1918.10.1  ファイサル王子のアラブ軍がダマスカスを占領、さらにアラブ軍の協力のもとイギリス軍がホムス、ハマ、アレッポを攻略。
10.30  「フセイン・マクマホン書簡」の都市の全てが陥落し、オスマン・トルコ帝国と連合国は休戦し、中東における第一次世界大戦は終わった。これはベングリオンの部隊がパレスチナに到着したのとほぼ同時であり、彼は結局、実戦に参加することはなかった。
1918.11月

 第一次世界大戦終了。

1919.1  「ワイツマン・ファイサル協定」がパリ平和会議で結ばれる。アラブ代表ファイサル、バルフォア宣言を了解。パレスチナにおける信仰の自由の保証、イスラム教の聖地(つまりエルサレム市内の一画)のイスラム教徒による管理、「フセイン・マクマホン書簡」で約束されているアラブ人の新国家へのシオニスト機構からの経済援助、ユダヤーアラブ間のいかなる紛争もイギリス政府が責任をもって調停する、という内容の協定が締結され、パリで正式調印された。「サイクス・ピコ協定」がありながら調停を申し出たイギリスと、調印の場を提供したフランスの面の皮の厚さ。しかしこの協定をパレスチナのアラブ人社会が拒否したので、調印はされたものの履行されることはなかった。ファイサル王子は翻弄された。

 第三波ユダヤ移民、戦時中断のあと到着し、9万人に達する。アラブ人の反英・反ユダヤ闘争開始。
1919  世界シオニスト機構の代表団がパリ講和会議に参加し、国際的正統性を高めた。
 カール・バルトが『ローマ書』を発表。

1919-1923
Third wave of over 35,000 Zionist immigrants increases Jewish population in Palestine to 12% of total. Registered Jewish landownership (1923) totals 3% of area of country.
1919
27 January-10 February
First Palestinian National Congress in Jerusalem sends memoranda to Paris Peace Conference rejecting Balfour Declaration and demanding independence.
28 August
Paris Peace Conference sends Commission of Inquiry to Near East, led by U.S. commission members Henry C. King and Charles Crane. England and France decline to participate. Commission recommends "serious modification" of idea of "making Palestine distinctly a Jewish Commonwealth."

1920
April
Disturbances in Palestine; 5 Jews killed, 200 wounded. British appoint Palin Commission of Inquiry .Commission report attributes troubles to none fulfillment of promises of Arab independence and fear of political and economic consequences of Zionism.
25 April
Palestine Mandate assigned to Britain by Supreme Council of San Remo Peace Conference.
May
British prevent Second Palestinian National Congress from convening.
1 July
High Commissioner, Sir Herbert Samuel, an Anglo-Jewish politician, inaugurates British civilian administration.
December
Third Palestinian National Congress, meeting in Haifa, elects Executive Committee, which remains in control of Palestinian political movement from 1920 to 1935.

1920.4 【サンレモ平和会議】
 国際連盟の最高会議で、パレスチナではイギリスによる委任統治が行われること以外、「サイクス・ピコ協定」の内容が再確認された。

 イギリスとフランス及びロシアの第一次世界大戦戦勝国間で、敗戦国となったオスマントルコ領を分割する協定を結んでアラブ独立の約束を反故にし、イギリスがイラクを委任統治する、パレスチナを国際連盟の委任統治領として自らが委任統治権獲得すること等を決定した。
イギリスとフランスの間に委任統治領に関する協定が成立し、パレスチナはイギリスに委ねられる。また、トルコとの平和条約「セーヴル条約」に「バルフォア宣言」を挿入することが決まる。

 ユダヤ地下軍事組織「ハガナ」設立。
6.25  フランス軍がダマスカス入城、ファイサル王子を追い払い、シリアの支配権を確保した。ファイサル王子はイギリスに亡命する破目になり、アラブ社会は激昂する。幸か不幸か、イギリスは「フセイン・マクマホン書簡」と「バルフォア宣言」により、フランスのような強行策を取ることが出来なかったため、アラブ人の敵意は主としてフランスへ向けられたが、明らかになった裏切り行為にイギリス国内の世論が沸騰する。それでもイギリスは、「サイクス・ピコ協定」で得た利権だけは手放したくもなく、その中東政策は支離滅裂な状態に陥った。これらはアイルランドの反乱と同時期の出来事であり、戦勝国と言えどもイギリスはかなり悲惨な状態にあった。

 紆余曲折の末、事態打開のための会議がカイロで開催され、当時の植民地大臣、ウインストン・チャーチルは中東の次のように色分けした。1・メソポタミア地域はイラク王国として独立させ、ファイサル王子を国王に就任させる。2・ヨルダン川東岸からイラクまでの地域は、トランスヨルダン王国として独立させ、反仏運動の指導者、アブドゥッラー(ファイサル王子の兄)を国王とする。3・パレスチナでは委任統治を継続。「バルフォア宣言」に基づいてユダヤ人移民は受け入れる。

 これで「フセイン・マクマホン書簡」の約束は守られた上に、親英派のファイサル国王かイラクを支配した事で念願だった石油利権を確保出来たイギリスは大満足。反仏運動のリーダーに独立国を与えた事で、フランスとアラブ社会の対立も沈静化に向かった。ユダヤ人達はと言うと、イギリスの委任統治下で「バルフォア宣言」の路線が踏襲されたので何の文句もなかった。しかし、パレスチナに住むアラブ人に対する配慮はカケラも無かった。このため、パレスチナのアラブ社会は反イギリス、反シオニズムの姿勢を強めることになる。この重大なミスこそが、現在も続くパレスチナの戦いの発端となる。
 委任統治が開始される前、パレスチナのイギリス軍政庁の顧問官に、ハジ・アミン・アル・フセイニという人物がいた。彼はパレスチナの名門、フセイニ家の当主で、事実を無視した過激な記事で有名なジャーナリストであり、アラブ民族主義の過激派だった。

 アル・フセイニとその信奉者達は、モスクをユダヤ人が乗っ取ろうとしているとして、1920年のパス・オーバーの日、モスクを守れ、とアラブ人のデモ隊が、旧市街のユダヤ人地区になだれ込んだ。ユダヤ人部隊の生みの親ジャボチンスキーは、このような事態を見越し、ユダヤ人部隊の元兵士による自警団を復活させていた。暴動の発生を知ると直ちに自警団は駆けつけ。旧市街の城門でイギリス軍に阻止されたが、押し問答の末、ようやく自警団が旧市街に突入した時、ユダヤ人地区は暴徒の略奪に遭っていた。この騒動の結果、四人のユダヤ人が殺され、二人の女性がレイプされた。また、自警団との乱闘で五人のアラブ人が殺された。殺人とレイプの容疑者であるアラブ人達とジャボチンスキーら自警団メンバー19名は逮捕され、全員一括で懲役15年を言い渡された。更に、暴動の後に逃亡していたアル・フセイニは、欠席裁判で10年の懲役刑を宣告された。

 1920年7月、委任統治政府の初代高等弁務官、ハーバート・サミュエル卿が着任すると、アラブ人もユダヤ人も、逮捕者はまとめて釈放(ただし、逃亡中のアル・フセイニは恩赦の対象外だった)された。これで対立は沈静化したかに見えた。

 8月に未確定の国境を越えてきたフランス軍が、何を思ったかガリラヤ地方のアラブ人の村を攻撃。このどさくさの中で、「フランス兵をかくまった」という噂がたったキブツがアラブ人に攻撃され、6人のユダヤ人が死ぬ事件が発生した。しかしこれは、アル・フセイニの差し金では無かった。

 高等弁務官サミュエル卿は、実はユダヤ人で熱心なシオニズムの信奉者であった。当時、委任統治区域の人口は75万人。その内ユダヤ人は7万人程度であったが、8月、40年ほどで人口比が半々になるという計算の元、彼はユダヤ人の移民枠を年間16500人と設定した。本来、高等弁務官は公平であるべきだが、このシオニストの代理人的な行動はアラブ人社会の反発を買う。

 この不満を静めるため、委任統治政府はパレスチナのヨルダン川東岸地区を、トランスヨルダン王国領とする決定を下した。シオニスト側もこの分割案を了承(もともと東岸地区にユダヤ人は多く無かった)したため、アラブ人が委任統治政府に対して抱いていた不公平感を静めることが出来た。

 しかし、ここでサミュエル卿はやりすぎた。アラブ人社会の不満を完全に抑えるため、アル・フセイニの特赦を決定した。アル・フセイニの暴力的なやり方と、暴動の後にさっさと逃げ出した態度は大顰蹙を買っており、アラブ人達の人気を失っていたが、イギリスは、彼を懐柔するためエルサレムの「ムフティ」という宗教指導者の地位につかせようとした。選挙の上位三人の中から高等弁務官がムフティを任命出来るという規則を作り、更に選挙権のある聖職者に露骨な圧力もかけたが、それでもアル・フセイニは第四位・・・・・・。得票一位の人に辞退してもらって、なんとかアル・フセイニをムフティの地位に就けた。

 アル・フセイニは早速「大ムフティ」を自称。エルサレムのイスラム評議会議長にもなり、社会福祉活動の資金をプロパガンダとテロリズムに流用して、またぞろ反ユダヤ主義を煽動した。

 その結果、1921年の四月から五月にかけてアラブ人の反ユダヤ暴動が頻発し、300人の死傷者が発生する事態となる。慌てたサミュエル卿はユダヤ人移民受け入れを一時凍結した。この決定で、アラブ側の不満は一応鎮まったが、同胞たるサミュエル卿の裏切りとも言える行為に、ユダヤ人社会は驚愕した。イギリスは、パレスチナの委任統治を成功させるには、ユダヤ人国家が建設された場合、失う物が多いアラブ人社会をコントロールすることが重要だとようやく気がついた。

 委任統治政府があまりあてにならないと気がついたベングリオンは、自前の防衛組織の必要を痛感する。そこで、ヒスタドルートが音頭を取り、「ショメール」を中心にいくつかあった自警団が統合されて、新たな自警団「ハガナー(Haganah 防衛の意)」が設立された。こういう私的な武装組織はどこの国でも非合法なものであり、「ハガナー」も地下組織であった。従って、表向きハガナーはベングリオンやヒスタドルートと関係ない事になっていたが、指導者の中にはイツハク・ベンツビの名前が入っており、説得力ゼロであった。

 「ハガナー」の発足により、ユダヤ人社会は自分達を守る「軍隊」を持った。それからというもの、1929年まで騒動は鎮静化した。むしろ、この1921-1929年の8年間はパレスチナ現代史において最も平和な時代だったことになる。
 1920年代、ユダヤ民族基金が始まっている。これで、移民者の土地、住居、労働必要品等を提供。約8万人が移民。
1920  パレスチナ・アラブの反英・反ユダヤ闘争起こる。
1920  アメリカの自動車会社フォード社社長のヘンリー・フォンダが「シオン賢者の議定書」を手引きとした「国際的ユダヤ人」を出版し、ベストセラーになる。ユダヤ人が世界を裏で操っているという反ユダヤ主義の観点から書かれており、それをアメリカ財界の大物が書いたことにより物議を醸した。

 この本に刺激され、アドルフ・ヒットラーが「我が闘争」の中で、フォードの「国際的ユダヤ人」から転写したような論調で反ユダヤ主義を書き上げていた。これがホロコーストの伏線となる。
1920  アラブ臨時政府がフランスの攻撃によりダマスカスより追放され、シリアはフランスの統治下に入った。この時フセインの次男アブドゥラーはシリアへ向けて進軍したが、途中イギリスの妥協案ーイギリス委任統治領となったパレスチナの東半分、つまりヨルダン川以東をアブドゥラーの領土とする事を提案した。アブドゥラーはこの案を受け入れ、パレスチナのヨルダン川以東は、トランス・ヨルダン首長国となり、アブドゥラーが初代首長となった。こうしてイギリスの委任統治領として現在のイスラエル、パレスチナの領土が決定された。
(解説)
 イギリスの委任統治30年の間、パレスチナはイギリス帝国主義の庇護を受けたユダヤ人の参入が続いて行くことになった。
ユダヤ人は『ナショナルホーム』の樹立を目指し。パレスチナに入植し国家建設の礎を築き始めた。そのため、パレスチナの小作農は排除され、同地域の不在地主達も土地を売却迎合した。パレスチナに入って来たユダヤ人は、ヨーロッパ、ロシアでのポグログ(ユダヤ虐殺)やナチ・ドイツのユダヤ人撲滅の被害者たちであったが、パレスチナではアラブの民を追い払う加害者として立ち現れた。

 
ヨーロッパからパレスチナへの移民は、20世紀に入り急増した。1930年代にはパレスチナのユダヤ人口は16万人に達した。土地所有規模も1920年代に約2倍に拡大した。
1920.12  ベングリオンは「シオンの労働者」をはじめとする労働者グループを統合して、ヒスタドルート(Histadrut 労働者同盟の意)を結成、その書記長に選出された。このヒスタドルートは、労働組合を名乗っていたが、失業対策として雇用機会を創出するために作られた組織であり、その活動は道路工事の請負、セメント工場の経営、キブツ(イスラエル特有の集団農場)の整備、農業機材のリース業など、実質はパレスチナ最大の「企業」であった。現在でも、ヒスタドルートは建設、ホテル経営、海運などの事業を行っているが、この時に作られた企業群や農場は、後にイスラエルの産業と経済の屋台骨を支えることになる。

 さらにヒスタドルートは、ヘブライ語の新聞の発行や、文学作品のヘブライ語訳の出版などを通じて教育制度の基盤を作り、病院建設を通じて、医療制度の基礎を作った。ヒスタドルートは、1920年代を通じてイギリスの委任統治下のパレスチナにおけるユダヤ人社会の「政府」となっていた。その結果、1920年代のパレスチナは、労働組合の影響が強い、社会主義的な社会が形成されました(そのため、テルアビブのヒスタドルート本部は「クレムリン」と呼ばれた。ベングリオンの指導の下、アラブ人の暴動、突然の移民制限やユダヤ人人口の減少傾向に悩まされながらも、ユダヤ人社会は1920年代を通じて飛躍的な発展を遂げ、「国家」としての体裁を整えることが出来た。
1921
March
Founding of the Haganah, the Zionists' illegal underground military organization.
1 May
Disturbances in Jaffa protesting large-scale Zionist immigration; 46 Jews killed, 146 wounded. British Haycraft Commission of Inquiry (October) attributes disturbances to fears of Zionist mass immigration.
8 May
Haj Amin al-Husayni appointed Multi of Jerusalem.
May-June
Fourth Palestinian National Congress, convening in Jerusalem, decides to send a Palestinian delegation to London to explain the Palestinian case against the Balfour Declaration.
1921  「世界に拡がるユダヤ・聖書伝説」(別冊歴史読本、2004.3.13日付け発行)参照。イギリスの新聞社タイムズのコンスタンチノーブル駐在員であったフリップ・グレーブスの調査によって、「シオン賢者の議定書」の大部分が、フランス人弁護士・モーリス・ジョリのナポレオン3世の独裁政治を批判するパンフレット「モンテスキューとマキャべりの地獄の対話」の写しであることが指摘された。

 更に後に、「シオン賢者の議定書」研究家・ノーマン・コーンによれば、概要「シオン賢者の議定書は160の節のうち、5分の2がジョリからの盗用、ひどいものになると一章まるごと盗用。これほど明々白々な偽造はありえないというほどの典型的な事例である」と、切って捨てられている。
1921

 アラブの反撃。フセインの次男、アブドゥッラー、シリアへ進軍、アンマン入城。

1921.4

 イギリスの妥協策。W.チャーチル(植民地相)、イギリス委任統治領のパレスティナを東西に分け、東半分をアラブに(1921.4)。これで、アラブはトランス・ヨルダン首長国の首長になる。 1922年 イギリス委任統治を承認。

 イギリスはアブドゥラーを「トランスヨルダン」の首長とする(第一次パレスチナ分割)。アラブの暴動が繰り返される(ヤッフォ、エルサレム、テルアビブ、ハイファへと拡がる)。

1922
3 June
British colonial secretary Winston Churchill issues White Paper excluding Transjordan from scope of Balfour Declaration. Ignoring political criteria, White Paper authorizes Jewish immigration according to "economic absorptive capacity" of the country.
24 July
League of Nations Council approves Mandate for Palestine.
August
Fifth Palestinian National Congress, meeting in Nablus, agrees to economic boycott of Zionists (see 1901 entry on JNF).
October
First British census of Palestine shows population of 757,182 -78% Muslim Arab, 11% Jewish, 9.6% Christian Arab. It is often claimed that Palestine was empty until Zionist Jews made the Palestinian desert bloom, click here to read our response to this argument.
1922

 イギリスが保護権廃止を宣言、形式上エジプト王国が成立する。1936年、エジプト・イギリス条約により、ほぼ完全な独立を達成することになる。

1922.7月

 国際連盟(1920年1月に成立)がイギリスのパレスチナ支配を正式に承認。イギリスは全パレスチナの77%を占めるヨルダン川東岸のパレスチナを、イギリスの傀儡アブドゥラ王(現フセイン国王の祖父)に与え、トラスヨルダンと名付けた。

 また、イギリスはパレスチナへの移民を1年間に7万人と制限したが、これにユダヤ人は激しく反発。この移民制限が、結果的にやがて台頭してきたナチス・ドイツにユダヤ人の大量虐殺を許す原因になった。

1923
29 September
British Mandate for Palestine comes officially into force.
.

1923

 「反ユダヤ主義」のことを「anti-semitism」すなわち「反セム主義」と表記し、反ユダヤと反セムを混同してしまっているのだが、非常に紛らわしい言葉使いであるといわざるをえない……。一説には誤った印象を作り出すために故意に広められた表現だと言われているが、真相は不明である。ウェブスター女史によれば、この表現が実際に使われたのは、1923年に発行されたユダヤ系の新聞であるという。

 弁証法神学(危機神学)が生まれる。アメリカでメイチェン論争により、ファンダメンタリズム自由主義神学が対立する。
1924-1928
Fourth wave of 67,000 Zionist immigrants, over 50% from Poland, increases Jewish population of Palestine to 16% of total. Registered Jewish landownership (1928) totals 4.2% of area of country. Click here to view a map illustrating a breakdown of Palestinian-Zionist landownership per district as of 1945.
1925
Revisionist Party, founded in Paris by Polish Zionist Vladimir Jabotinsky, demands establishment of Jewish state in Palestine and Transjordan and stresses military aspects of Zionism.
October
Sixth Palestinian National Congress convenes in Jaffa.
1925  エルサレムにヘブライ大学が創立された。
 エキュメニカル運動の成果としてカナダ合同教会が成立する。
1928
June
Seventh Palestinian National Congress convenes in Jerusalem.
1928  ユダヤ人の移民制限はすぐに解除されたが、暴動の余波でパレスチナへのユダヤ人移住者は年間5000人以下にまで激減、反対に将来を悲観してパレスチナを脱出するユダヤ人が増大した。1928年には脱出者が移住者を上回る事態となり、ベングリオンは大いに頭を悩ませたが、国外のユダヤ人からの資金援助もあって、それでもパレスチナのユダヤ人社会は順調に発展していった。
1929-1939
Fifth wave of over 250,000 Zionist immigrants increases Jewish population in Palestine to 30% of total. Registered Jewish landownership (1939) totals 5.7% of area of country.
1929
August
Riots arise out of dispute between Jews and Palestinians over claims to Wailing (Western) Wall in Jerusalem, a site holy to Muslims and Jews. In resulting clashes 133 Jews killed and 339 wounded, 116 Palestinians killed and 232 wounded, the latter mainly by British military .
October
General Palestinian conference meets in Jerusalem to formulate position on Wailing Wall controversy.
1929  ワイツマン博士により非シオニスト(イスラエル国家建設を支援したいがパレスチナには住みたくない、もしくはシオニズムが嫌いなユダヤ人)とシオニストの両方を含んだ、つまりユダヤ人なら誰でも参加出来る評議会、「ユダヤ機関」が結成された。チューリッヒで開催された設立会議には、シオニスト機構のメンバーとともにアインシュタイン博士、レオン・ブルム(後のフランス人民戦線内閣首班)など、多方面からも非シオニストの著名人なユダヤ人が出席した。米英の政府はわりと好意的であったが、シオニズムは過激な民族運動であり一般受けするものではなかった。。しかしながら、非シオニストのユダヤ人達が「ユダヤ機関」に参加した事で、国家再建はユダヤ人全ての願望であることを世界に印象付けることが出来た。

 ハジ・アミン・アル・フセイニ師は、「ユダヤ人はみんな同じ穴のムジナだ」と考えていた。彼は確かに、ユダヤ人の入植に不満を抱く一部のパレスチナ人の支持を受けていたが、その頑固さと独裁制、猪突猛進型の政治手法はいいかげん人気を落としており、アラブ人社会では、ユダヤ人との共存をめざすエルサレム市長、ラギブ・アル・ナシャシビを指導者とするグループが勢力を拡大していた。1921年の騒動の後で平和が続いたのは、アル・フセイニがナシャシビ市長派との勢力争いに忙しく、ユダヤ人にかまっている暇が無かったからであった。アラブ人社会の方も、整備された教育制度やよりよい職、整備されたインフラによる快適な生活条件(概してヒスタドルートの努力の結果である)を求めて、ユダヤ人移民以上のアラブ人が周辺諸国から流入して人口が増加し、アラブ人社会のリーダー達にとっては満足すべき状況であった。

 しかし、アル・フセイニはここで状況をぶち壊した。チューリッヒ会議を「世界のユダヤ人の陰謀者」が集まったと宣伝し、エルサレムのモスクを破壊しようとしている、と騒ぎ立てた。
1929.8  またも暴動が発生。アラブ人の暴徒が、エルサレム旧市街やヘブロンのユダヤ人地区に乱入した。こういう事態に備えて作られた「ハガナー」でしたが、なぜか旧市街を守っていなかったため(ただし、郊外のキブツやテルアビブはしっかり守っていた)、旧市街で140人のユダヤ人が殺された。

 委任統治政府は直ちに公聴会を開催したが、その席ではアル・フセイニの主張が全面的に受け入れられ、ユダヤ人の移住と土地取得に制限が加えられた。ベングリオンらシオニストは落胆しましたが、それでもアラブ側の不満はなんとか鎮まり、事態は沈静化する。しかし、ここでベングリオンは、アラブ社会との対話を怠るというミスを犯した。彼はあくまで自身を「シオニスト」と位置付け、自分は政治家とは考えていなかったようで(それに、民族間の紛争の調停は委任統治政府の任務でした)、ベングリオン自身は勉強家で大変な読書家であり、宗教から政治学までその蔵書は2万冊を越えていたが、その知識はもっぱらユダヤ人社会の発展にのみ用いられた。もっとも、ここでアラブ人社会のことを静に切り捨てたからこそ、イスラエルという国家が今あるわけなのですが。それはともかく、1929年の暴動の後、またアル・フセイニも大人しくなりしばらく平和が続いた。
1929  ラテラン条約で、バチカン市国の独立が確定。
1929  パレスチナにおいてユダヤ人を公式に代表するユダヤ機関が創設された。
1929.8  嘆きの壁でパレスティナ人とユダヤ人の武力対立が起こる。 ← 事実上初の武力衝突である。
1929

 ユダヤ人のパレスチナ入植を進めるため、現地での警備から世界的な農業輸出、ニューヨークでの資金調達までを行なう「ユダヤ機関(JAFI)」という強力な組織が作られ、これが臨時政府として最大の役割を担うことになる。

 エルサレムの「嘆きの壁」にユダヤ人移民がZion主義の旗を飾ったことに端を発して、アラブ人とユダヤ人の大規模な衝突が起こる。衝突は他の地域にも飛び火し、10日間のうちにユダヤ人133人、アラブ人116人の死者が出る。そのユダヤ人の死者の最大のものは、ヘブロンに長く住んできたユダヤ教徒67人に対する殺戮だった。(アラブとユダヤの本格的な抗争の始まり)

 ローマ教皇ピウス11世がイタリア政府とラテラノ条約を締結する。(バチカン市国の成立)
1930
14 January
League of Nations appoints international commission to investigate legal status of Arabs and Jews at Wailing Wall.
March
British Shaw Palestinian Commission of Inquiry attributes 1929 disturbances to Palestinian fears of Jewish immigration "not only as a menace to their livelihood but as a possible overlord of the future."
October
British Hope-Simpson report on land settlement, immigration, and development in Palestine concludes that there is not sufficient agricultural land for substantially increased numbers of Jewish settlers.
British Colonial Secretary , Lord Passfield, issues White Paper which takes note of views of Hope-Simpson and Shaw commissions of inquiry.
1930  ベングリオンとベンツビは、委任統治政府の評議員のための労働シオニズム政党、「マパイ(Mapai 社会主義労働党)」結成した。スタドルートが政府なら、マパイは立法府といった役柄(そしてハガナーが軍隊・・・・・・)であり、マパイは、本来なら委任統治政府の任務である教育制度や社会保障を整備していった。ここに至ってようやく政情も安定の兆しを見せ始め、パレスチナにも平和が訪れるかに見えた。しかし1933年、ドイツの首相となったちょび髭の男が、パレスチナの運命を大きく変えてしまう。
1931
Irgun Zvai Leumi (National Military Organization), Irgun or IZL for short, founded by Revisionist groups and dissidents from Haganah, advocates a more militant policy against Palestinians. Valdimir Jabotinsky is commander-in-chief.
14 February
British prime minister Ramsay MacDonald in a letter to Zionist leader Chaim Weizmann virtually retracts Passfield White Paper.
18 November
Second British census of Palestine shows population of 1,035,154-73% Muslim Arab, 16.9% Jewish, 8.6% Christian Arab.
December
Lewis French, British director of development for Palestine, publishes report on "landless Arabs," caused by Zionist colonization
1931  アメリカのオハイオ州コロンバスで開かれた聖書研究者の大会の決議により「エホバの証人」という名称が採択される。
1933
14 July
British Secretary of State issues statement on resettlement of Palestinian farmers displaced from land acquired by Zionists.
1933.1月
 ヒトラー政権の誕生。ユダヤ人への組織的迫害政策が強まり、大量のユダヤ人がドイツから流出。ヨーロッパからパレスチナへの移民は、20世紀に入り急増した。1930年代、 約16万人が移民。この頃から民族衝突が生まれ始める。
 ちょび髭が政権の座についた当時、ドイツ国内には53万人のユダヤ人が住んでいました。迫害が始まった1933年から、ユダヤ人の出国が禁じられた1941年までに30万人のユダヤ人がドイツから脱出し、必然、パレスチナへ流入するユダヤ人も増大します。
 1935年、ダビッド・ベングリオンはヒスタドルート書記長を退任すると、マパイ党の後押しで、ワイツマン博士の後を受けてユダヤ機関委員長に任命されました。ベングリオンは、ここで初めて「政治家」としての自覚を持ち、かつ世界の外交の舞台に初登場したわけですが、ドイツでの迫害に加え、アラブ人社会との対立も再燃した時期でもあったので、ベングリオンに課せられた任務には容易ならざるものがありました。
 もちろん、委任統治政府のユダヤ人移民枠は頑として存在していましたし、1934年からはユダヤ人移民に一定額以上の資産を要求して無制限な流入を阻止しようと図ります。委任統治政府がこうした対応に出る事は充分に予想されていたことですが、ユダヤ機関は失望しました。さらに、上陸を拒否された難民船が沖合いで沈没するという悲劇も発生しました。
「もしイギリス政府が難民に門を閉ざすなら、我々はイギリスによる委任統治を認めない。」
 ベングリオンは公然と委任統治政府への敵対を宣言すると、ユダヤ機関は非合法の移民船を使って、ドイツおよびオーストリアからユダヤ人救出を図りました。1938年にはハガナーに非合法移民(と言うか救出作戦)のための部局が開設されます。ここのエージェントはドイツとオーストリアにも派遣され、ベルリンではゲシュタポと取引して数千人のユダヤ人をドイツから合法的に出国させることに成功しました。さらにウィーンの「ユダヤ人対策室」を訪れた一人は、あのアドルフ・アイヒマンを買収してこれまた数千人のユダヤ人を脱出させることに成功しています(ちなみにアイヒマンは、裁判でこの事を持ち出したのですが、当然、減刑されませんでした)。
 委任統治政府は非合法移民に対して厳しく対処し、逮捕されたユダヤ人移民は遠慮なく収容所にぶち込まれました(でも、ナチの収容所に比べれば天国でした)。それでも監視の目をかいくぐって、多くのユダヤ人がパレスチナの地に降り立ちます。その結果、ユダヤ人迫害が始まった1933年当時、23万人だったパレスチナのユダヤ人人口は、3年後の1936年には40万人、アラブ人の三分の一、までに増加しました。
 パレスチナのアラブ社会にも迫害のニュースは伝わっており、当初はアラブ人達も(アル・フセイニ一派を除いて)ユダヤ人移民に対して同情的でした。しかし、1935年末頃から、流入したユダヤ人達が国外からの資金援助によって土地の買占めをはじめると、アラブ人社会にはまたもやパレスチナを乗っ取られるという危機感が募り始め、同情論はいっぺんに吹き飛んでしまいました。20世紀初頭にも「アリヤー」の土地買収でアラブ人の小作人が耕地を奪われるという問題が生じていましたが、今度のそれは規模が大きく、また、過激な民族主義が存在していた事は20世紀初頭と決定的に異なる点でした。ユダヤ人社会としては、確かに増大した人口の生活基盤を確保する必要に迫られていましたが、しかし、やり方がいささか強引に過ぎます。1936年4月頃から、テルアビブ近辺で暴力沙汰が頻発します。
 更に1936年5月7日、アル・フセイニらアラブの過激派がエルサレムで会合を開き、ユダヤ人の移住を実力で阻止することを決定しました。イギリスとしてもユダヤ人移民の流入を阻止する方針でしたが、ここに至ってようやく、ハジ・アミン・アル・フセイニが危険人物であると気がついたらしく、民族主義過激派に対して警告します。しかし勿論、アル・フセイニは完全無視。それどころか「サイクス・ピコ協定」の古い裏切りを持ち出して反英感情を煽り立てはじめます。同時にユダヤ人社会に対する大規模なテロ作戦を開始しました。
 とは言え、確かにユダヤ人社会への反発が高まっていたものの、まだアル・フセイニは少数派だったので、テロの実行にあたっては、シリアの民族主義者ファウジ・エル・カブーキとその私兵を呼び寄せました。ユダヤ人社会への襲撃とともに、ライバルの暗殺も忘れず、ナシャシビ前イスラエル市長をはじめ、アル・フセイニと対立する多数のアラブ人社会のリーダー達が暗殺されました。キブツやユダヤ人入植地の攻撃は勿論、テロ攻撃は社会のインフラにまで及び、電柱は引っこ抜く、植林された森は切り倒す、舗装道路はほじくりかえすと、アル・フセイニ一派はやりたい放題で、イギリスの軍も警察も全く対処できませんでした。9月22日、アル・フセイニは反ユダヤ闘争を反英闘争に拡大し、イギリス政府からシオニズムが排除されるまで戦うと宣言します(アル・アセイニはあからさまにナチスとイタリアから資金援助を受けていました)。委任統治政府は、民族主義過激派の牙城イスラム評議会を解散させ、アル・フセイニを逮捕しようとしましたが、彼はシリアへ逃れ、そこから闘争の指揮を執り続けました。
 一方、こうしたテロに対し、ベングリオン、ベンツビら「ハガナー」の指導者達は「防衛はするが、報復はしない」という従来の方針を堅持し続けます。また、非合法組織であるが故にあまり派手な行動に出る事も出来ませんでした。しかし、アル・フセイニ一派がイラクからパレスチナのハイファに至る石油パイプラインを攻撃目標に加えると、さすがにイギリスは慌てだし、急遽、ハガナーを合法化して軍事協力を行います。
 1936年、イギリス陸軍の情報将校オード・ウィンゲート(当時は大尉)の指導の下で、ハガナー内部に特別夜戦部隊(SNS)が設置されました。ウィンゲート大尉は、SNSを率いてガリラヤにあるエル・カブーキ一派の隠れ家を急襲し、壮絶な銃撃戦の末、シリアへ追い払うことに成功しました(ちなみにウィンゲート准将の部隊は、太平洋戦争中、日本軍占領下のビルマに潜入して日本軍に大打撃を与えています。そしてこの時、ウィンゲートの部隊がインパールを出発し、踏破不能のジャングルを突破してきたことが、悲劇の「インパール作戦」のヒントになりました)。
 「報復はしない」と言いつつも、ベングリオンら「ハガナー」の指導部は、ウィンゲートの協力でやるべき事はきっちりやりました。しかしそれでも、「ハガナー」の穏健?な姿勢に不満を抱く人々は、ウラジミール・ジャボチンスキー(こういう争い事には燃える男)に従って、テロにはテロで対抗するという方針の下、極右的な「ハガナーB」という武装組織を設立しました。ハガナーBは1937年4月、「イルグン(Irgun Zva'i Leumi 英語ではNational Military Organization)」と名を変えますが、この「イルグン」はその過激さで大いに悪名をはせます(独立戦争時の「残酷なユダヤ人」は、概ね「イルグン」メンバーと見て間違いはありません)。何にせよ、これが現代まで続く暴力の連鎖の始まりと言えるでしょう。ベングリオンはこの動きを抑えようとはしませんでしたが、後で激しく後悔することになります。
1937年7月、イギリスは事態解決のため、ロバート・ピール卿を長とする諮問委員会を設置します。ピール委員会は、パレスチナで何度か公聴会を開いた後、政府に対して以下の勧告を提出しました。
  1. 委任統治政府は廃止し、パレスチナはユダヤ人地域とアラブ人地域に分割する
  2. ヤッファからエルサレムに至る地域は、緩衝地帯として英国の統治下もしくは国際管理の下に置く
  3. パレスチナの北西部をユダヤ人国家とし、南部地域はアラブ人国家として独立させる。領域外に居住する住民は、それぞれの地域に移住させる
  4. 両国が独立するまで、ユダヤ人がアラブ人地区に土地を購入することを禁止する
 厳密な国境の設定は後回しにされましたが、議会はピール委員会の勧告を承認しました。
 ユダヤ人社会は、与えられた領域が狭い上にエルサレムが含まれていないことに不満で、勧告案への反対意見が強力でした。しかしベングリオンは、勧告案がとにかくユダヤ人国家設立を明記していることから、祖国再建の最初の足がかりとなると考え、勧告案受け入れを主張します。激論の末、ベングリオンは反対派を強引に説得し、ユダヤ機関も(かなりしぶしぶながら)勧告案を受け入れました。しかし、一方のアラブ人社会はと言うと、ピール委員会の勧告案が、ユダヤ人移民の増大がアラブ人社会に与える経済的な不利益について言及していない上、移民制限に関する提案もなかったため、完全に受け入れを拒否しました。
そんなこんなで結局、ピール委員会の勧告案は棚上げになりました。それどころか、アラブ側の勧告案に対する不満から、一時は沈静化していた暴動がまた再燃してしまいます。
 第二次世界大戦も間近い1939年5月、イギリスは新たな解決策を提示しました。「マクドナルド白書」として知られるこの声明の内容は、
  1. 10年以内の、アラブ人主導によるパレスチナ国家の設立
  2. ユダヤ人移民は今後5年間で75000人に制限し、それ以上の移民についてはアラブ側の承認を必要とする
と、ほぼアラブ側の要求を満たしたものでした。このマクドナルド白書、イギリス国内でも受けが良かったわけではなく、ウィンストン・チャーチルをはじめとする親シオニズム派は勿論、バルフォア宣言の矛盾を指摘する者まで反対論が続出します。しかし、委任統治政府から異論が出なかったこともあり(委任統治政府のイギリス人職員は、概してアラブ人と親しかった)、結局、マクドナルド白書はパレスチナ政策の基本方針として受け入れられました。
マクドナルド白書の背景には、ドイツとの戦争が必至となったこの時期に、中東の産油国との関係を悪化させるのは危険だという判断があったからです。イギリスがそうした判断を下すのも、ある種やむを得ないところがありますし、実際、暴動は沈静化しました。しかしながら、このようなイギリスの態度の豹変ぶりは、かつての三枚舌外交を彷彿とさせるものであり、結局は、ユダヤ、アラブ両民族の対立の解決に何の役にも立たなかったばかりか、却って両者からの不信を買う結果になりました。
1935
October
Revisionists quit World Zionist Organization (WZO) to form New Zionist Organization with aim of "liberating" Palestine and Transjordan.
November
Shaykh 'Izz al-Din al-Qassam, Muslim cleric from Haifa, leader of first Palestinian guerrilla group fighting British policy in Palestine, killed in action against British security forces.
1936
25 April
Leaders of Palestinian political parties form Higher Arab Committee under Chairman Haj Amin al-Husseini.
8 May
Conference of Palestinian National Committees in Jerusalem calls for no taxation without representation. Great Rebellion begins.
25 August
Lebanese guerrilla leader Fawzi al-Qawuqji enters Palestine leading 150 volunteers from Arab countries to help fight British.
11 November
Royal Commission headed by Lord Peel arrives in Palestine.
1936.4月  「アラブ高等委員会」が設立され、アラブ人の独立を求める反英ゼネストを指導。このゼネストは6カ月続いた(世界最長のゼネスト)。
1936.8月  軍事活動を伴うアラブの激しい反シオニズム運動「アラブの大蜂起」が発生(〜1939年8月)。アラブはユダヤ共同体をテロ攻撃し、ユダヤ人517人惨殺さる。イギリス政府、農村部での統治能力を失う。

 アメリカに「世界ユダヤ人会議」が設立される。
1930年代後半  英国は、アラブの弾圧と共にシオニストへの牽制策もとる。ユダヤ人の英国への信頼失墜。
1937
18 January
Royal Commission leaves Palestine.
April
IZL/Irgun, linked to Revisionist movement under Ze'ev Jabotinsky, reorganizes and advocates armed attacks on Palestinians.
7 July
Royal (Peel) Commission report recommends partitioning Palestine into Jewish state comprising 33% of country including Haifa, Galilee, and coastal plain north of Isdud; Arab state in rest of country (to become part of Transjordan); and British mandatory enclaves including Jerusalem. Part of Palestinian population to be forcibly transferred, if necessary, from Jewish state, click here to learn how deeply the concept of "transfer" (Ethnic Cleansing) is entrenched in the Zionist theology.
23 July
Arab Higher Committee rejects Royal Commission proposal and demands independent unitary Palestine with protection of "legitimate Jewish and other minority rights" and the safeguarding of British interests. Rebellion intensifies.
September
Arab National Congress at Bludan, Syria, attended by 450 delegates from Arab countries, rejects partition proposal, demands end to Mandate, a stop to Zionist immigration, and prohibition of transfer of Palestinian lands to Zionist ownership.
1 October
British dissolve Arab Higher Committee and all Palestinian political organizations. Five Palestinian leaders deported. Haj Amin al-Husayni escapes to Lebanon.
11 November
British establish military courts to counter Palestinian rebellion.
1937  イギリスが、アラブとユダヤの二国家建設を促すパレスチナ分割案を提唱する。

 イギリスは「アラブ高等委員会」を非合法化したが、パレスチナの騒乱状態は拡大。この頃、パレスチナ支配に手を焼くイギリスを尻目に、アメリカの「スタンダード社」や「テキサコ社」は、バーレーン、クウェート、サウジアラビアに油田を発見。中東に足場を築きつつあった。
 エジンバラで信仰と職制世界会議が開催される。
1938
April-August
IZL/Irgun bombings kill 119 Palestinians. Palestinian bombs and mines kill 8 Jews.
June
British officer Orde Wingate organizes Special Night Squads of British and Haganah personnel for operations against Palestinian villages.
18 October
British military commanders take over administration from district commissioners to help suppress rebellion. Reinforcements brought from England.
19 October
British recapture Old City of Jerusalem from Palestinian rebels.
9 November
Report of British Woodhead technical commission of inquiry (January-April 1938) declares impracticability of Royal Commission's partition proposal. British call for general conference on Palestine in London attended by Arabs, Palestinians, and Zionists.
1938  秘密移民組織「アリヤB」機関が組織される。この機関の任務は、イギリスの移民制限(1年間に7万人まで)の監視の目をくぐり、諸外国のユダヤ人たちをパレスチナへ密かに入国させることにあった。この機関はイスラエル建国後、解散。
1938.11.9   ドイツ全土でユダヤ人迫害開始(「水晶の夜」)。
1939
7 February
London Conference starts.
27 March
London Conference ends without agreement.
22-23 May
British House of Commons votes 268 to 179 in favor of White Paper issued by Colonial Secretary of State Malcolm MacDonald. White Paper calls for conditional independence for unitary Palestinian state after ten years; admission of 15,000 Jewish immigrants annually into Palestine for five years, with immigration after that subject to "Arab acquiescence" ; protection of Palestinian land rights against Zionist acquisition. British official estimates of Palestinians killed or executed by British military and police during Arab Rebellion is over 2,000 for 1936 and 1938 alone. Total for all years is estimated at 3,500-4,000. About 500 Jews killed in same period.
1 September
World War 11 begins.
October
Stern Gang or Lochemay Herut Yisra'el (LEHI; "Fighters for the Freedom of Israel") formed by dissident IZL members led by Avraham Stern.
1939  アラブ人多数派の下での単一国家構想打ち出される。
1939  イギリスは、パレスチナにおけるユダヤ人の土地購入の制限や5年間の猶予を設け、その後はパレスチナへのユダヤ人移住を停止させる計画を発表。しかし、ユダヤ人はこれに反発する。次第に新米化していくことになった。
1939.5月
 ナチスのホロコーストから逃れようとしたユダヤ人は、次々とパレスチナに押し寄せ1936年には合計40万人近くのユダヤ人が住み付いていた。祖国を乗っ取られると危機感を抱いたパレスチナ人はこれ以上の移民受け入れ禁止をイギリスに求め武力闘争をはじめる。そして、中東の石油を求めるイギリス政府は反英感情の悪化を防ぐためアラブ・パレスチナ人有利の政策「マクドナルド白書」(10年以内にパレスチナ人主導の国家を作る。ユダヤ人移民数を制限する。というバルフォア宣言と正反対の内容)を発表する。かっての「サイクス・ピコ協定」を思い起こさせるものであり、これもイギリスの場当たり的な外交政策となった。

 その結果、今度は裏切られたと感じたユダヤ人移民たちが、自衛のための武力闘争をすることになる。委任統治が始まってからと言うもの、アラブ社会との紛争が持ち上がる度に、委任統治政府は、ユダヤ人の移民制限やヨルダン川東岸地区の割譲などアラブ寄りであった。ベングリオンをはじめとするユダヤ人の指導者達が委任統治政府の決定に従ってきたが、それはイギリスはユダヤ人社会の最大の味方であると信じて疑わなかったからである。しかし、「アラブ人主導によるパレスチナ国家」設立というマクドナルド白書の内容は、シオニズムに対する裏切り以外の何物でもなく、当然、パレスチナのユダヤ人の間には「イギリス許すまじ」の声が高まり、イルグンなどはイギリスと戦う腹をくくった。


 「マクドナルド白書」は結果として、ハジ・アミン・アル・フセイニをはじめとするアラブ民族主義の過激派を懐柔することは出来なかった。「マクドナルド白書」がいかに親アラブをうたっていたところで、イギリス政府を信用するわけもなかった。
1939.5月

 イギリス、ユダヤ人側とアラブ人側の代表者を招き、和平会談を開催。しかしアラブ人側はパレスチナ全土にわたるパレスチナ・アラブ独立国を主張し、ユダヤ人側との全面対立に終わった。

 イギリス、パレスチナ独立国家樹立を約束する白書を提出し、アラブ側に歩み寄りの意を示す。しかしアラブ側はこれを拒絶。また、この白書はバルフォア宣言を白紙撤回する内容を持っていたため、ユダヤ人側はこれをイギリスの裏切りと見た。シオニズム運動の中で反英活動が活発化し、テロも頻発するようになる。

 ドイツ告白教会がナチス政権に対して抵抗運動を行う。イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる。
1939.9.1  第二次世界大戦開始(45年8月集結)ドイツがポーランドの西半を占領、新たに20万人規模のユダヤ人がドイツの支配下に組み込まれた。「ホロコースト」の始まりとされており、ユダヤ人のパレスチナ移住が加速した。

 第二次世界大戦が始まると、ユダヤ人達は困惑した。ナチスは明確な民族の敵であったが、イギリスも今や民族の敵であった。しかし、両方とも無視する事は出来ないし、両方と戦うことも不可能。ベングリオンは、動員可能なパレスチナ・ユダヤ人の人数をイギリスに報告するとともに、断固とした口調で声明を発する。「我々は、白書が存在しないかのようにドイツと戦う。そして戦争が存在しないかのように白書と戦う」。それは、イギリスではなく「マクドナルド白書」を敵として位置付けていることを意味する。実際、マクドナルド白書にはイギリス政府内にも反対意見が多く、ベングリオンの考えは充分に現実的でした。

 ベングリオンの宣言に多くのユダヤ人は迷いを振りきり、ナチとの戦いに身を投じました。過激派のイルグンでさえも、テロ作戦を中止してイギリス軍への協力を表明した。第二次世界大戦が勃発すると、ハガナーはテルアビブに総司令部を設立するとともに、医療、通信などの支援部隊や情報部などを整備して軍隊としての体裁を整えた。


 ヨーロッパで本格的なユダヤ人虐殺(ホロコースト)が開始される。パレスチナのユダヤ人は連合国側についてナチス・ドイツと戦う(〜1945年)。 アラブ人の蜂起は沈静化し、下火になった。パレスチナ人は方向を見失い、アラブ最高委員会の指導者アミーン・アル・フセイニーはベルリンに亡命し、「敵の敵は味方」という論理で、イギリスの敵であるナチスを支援。しかし、ナチスの敗北とともに、フセイニーの指導力も名声も地に落ちることとなる。
(解説)

 ナチズムの台頭とともにアメリカ・イギリスが移民の流入を制限したことから、パレスチナへの移民はさらに数が増した。当然のことながら、こうしたシオニスト・ユダヤ人と土着のパレスチナ人との抗争は次第に激化した。1936年から39年までパレスチナ人の大反乱が続いたが、当時のイギリスの軍隊の3分の1を投入してやっと鎮圧されたほどだった。
1940-1945
Arrival of over 60,000 Zionist immigrants, including 20-25,000 who have entered the country illegally (April 1939-December 1945), increases Jewish population in Palestine to 31% of total. Registered Jewish landownership rises to 6.0% of area of country.
1940
28 February
Land Transfers Regulations, suggested by 1939 White Paper to protect Palestinian land rights against Zionist acquisition, enter into force.
1940.8  マクドナルド白書を呪いつつもイギリスへ協力するという方針は、ベングリオンに限らず、パレスチナのユダヤ人社会の主流であった。しかし、マクドナルド白書を許しがたい裏切りとして、親英派と目されるベングリオンとハガナーに指揮される事を拒み、ナチスというあからさまなユダヤ民族の敵が存在するにもかかわらず、イギリスに対する武力闘争を開始したグループも存在した。

 一部のイルグンのメンバーがそうで、彼らに加えて、1940年8月、イルグン過激派の中でも最も凶悪な連中が集まって「Lohamei Herut Yisrael(英語ではFighters for the Freedom of Israel)」通称レヒ(Lehi)という新組織が作らている。イルグンはもともとハガナーの分派なので嫌だ、というのが新組織旗揚げの理由でした(しかし、レヒもハガナーの分派の分派じゃないか?)。創設者アブラハム・シュテルン(職業は詩人・・・)の名を取って「シュテルン」とか「シュテルンギャング」の方が通りの良いこの組織、メンバーは100人ほどでしたが、その過激さはイルグン以上であり、資金調達のために銀行強盗までやらかしたため、委任統治政府からは勿論、ハガナーからも敵視されました。
1941.4月  イスラム教の最高指揮官ハジ・アミン・・アル・フセイニは、明確にヒトラー支持を表明した上、ユダヤ人入植への反対運動の先頭に立ちイラクでクーデターを決行、政権を奪取する。この機にナチスはイラク国内に空軍を進出させたので、ほんの一時的ながら、イラクの油田はナチスの手に落ちる事態となった。また、反乱鎮圧後も、同様の事態に備えて、北アフリカのイギリス軍は後方警備に兵力を割かざるを得なくなり、間接的にロンメル将軍の快進撃を助けることにもなった。

 しかし、シオニズムとシオニストの入植を可能にしているイギリスへの抵抗は失敗。→イラクへ亡命。反イギリス運動失敗→ドイツへ亡命。
  SNSを中核とした3000人の兵士を擁する新たな戦闘部隊「パルマッハ(Palmach 攻撃隊の意)」が創設され、以後、パルマッハはハガナーの軍隊(「ハガナー」本体が管理組織化したので)として、第二次世界大戦は勿論、後に独立戦争をも戦うことになる。ちなみに、後にイスラエル首相となり、1995年に凶弾に倒れたイツハク・ラビン氏はパルマッハの出身である。パルマッハはビシー・フランス支配下のシリア制圧作戦で初陣を飾った。なお、片目の名将として日本でも良く知られるモシェ・ダヤン将軍が片目を失ったのが、このシリアの戦いである。

 一方、イルグンの方も、戦争勃発と同時に指導者ダビッド・ラジエルが釈放され、イラクで勢力を蓄えつつあったアル・フセイニを排除する作戦を行っている。(ただし、失敗してラジエルも戦死した。パルマッハやイルグンのメンバー以外にも、多くのユダヤ人がスパイとしてナチス支配化のヨーロッパ各地に潜入した。

 連合国への協力とは別に、ユダヤ機関はナチ支配下のヨーロッパに残された同胞の救出に向った。そのため、ハガナーは独自のルートでヨーロッパにスパイを潜入させる。ゲシュタポやSSに潜りこんだ者もいると云われている。最初に「死の収容所」の情報を連合国にもたらしたのは彼らであったが、「あまりにも現実離れしている」と言うことで、連合国が真剣に取り上げることはなかった。それでもハガナーは、ルーマニア(ナチの同盟国だが、ナチほどユダヤ人を嫌ってはいない)やトルコ(中立国)経由で多数のユダヤ人を救出する。しかし、マクドナルド白書のな壁が立ちはだかり、難民船がパレスチナ沿岸で追い返されるという事態もしばしば発生している。

 ベングリオンは第二次世界大戦中においては対英協力の姿勢を崩さなかった。しかしながら、パレスチナへのユダヤ国家創設という大目的に関して言えば、スポンサーとしてのイギリスをもはや見限っており、ワイツマン博士と共に政治的な働きかけの対象をアメリカに移していた。1940年と42年にベングリオンはアメリカを訪問して、ルーズベルト大統領(ユダヤ系。ただしそれほどシオニズムに好意的ではなかった)と会見し、パレスチナ国家建設への支援を要請した。アメリカの世論はユダヤ人に同情的であり、議会も自ずとシオニズム支持に傾いて行く。
 ナチスの勝利によって戦後世界の同情がシオニストに集まる。シオニストは戦勝後に予想されたパレスチナをめぐるアラブとの衝突に備えるため、ユダヤ人部隊の創設を求める。

(解説)

 ナチズムの台頭とともにアメリカ・イギリスが移民の流入を制限したことから、パレスチナへの移民はさらに数が増した。当然のことながら、こうしたシオニスト・ユダヤ人と土着のパレスチナ人との抗争は次第に激化した。1936年から39年までパレスチナ人の大反乱が続いたが、当時のイギリスの軍隊の3分の1を投入してやっと鎮圧されたほどだった。1940年当時のロスチャイルド一族は約5000億ドル、アメリカの全資産の2倍、全世界の富の50%を支配していたと推定されている。彼らの富は創業以来230年にわたって確実に増殖している。彼らの勢力範囲は、まずヨーロッパ、ついでアメリカ、アジア、そしてアフリカ、オーストラリアに広がり、戦争と革命、そして経済恐慌、あらゆる動乱のたびごとに膨張して現在に至っているわけだ。

 ロスチャイルド家は近代・現代ビジネス史上、最も成功したファミリーであることは誰も否定しようがないと思う。ほとんど世界中に張り巡らされていると言っても全く過言ではない“ロスチャイルド金権王朝”の実態を知れば知るほど、こちらは尻込みしそうだ。しかし、私は彼らの異常資本蓄積状態 & 異常政略結婚がそんなに長く続かないと思っている。異論があると思うが。

 いずれにせよ、ロスチャイルド家の存在を無視しては、20世紀も21世紀も、そして地球の戦争も平和も語ることができないということだけは確かなようである。

 アメリカが参戦。
 アメリカ教会協議会が設立される。日本がアメリカを攻撃し、太平洋戦争が始まる。
1942
February
Avraham Stern killed by British police. It should be noted that the Stern gang received extensive financial and military support from the Nazi Germany and Fascist Italy to terrorize the British Mandate in Palestine. Click here to learn more about the subject.
May
Biltmore Conference in New York attended by Zionist leaders from U.S. and Palestine, urges that "Palestine be established as a Jewish commonwealth."
1942  アブラハム・シュテルンはテルアビブで警察との大銃撃戦の末に射殺された。が、レヒの活動はやむ事はなかった。
1942.5  アメリカのシオニスト大会、「ビルトモア綱領」を採択し、これが世界シオニズム運動の公式綱領として採択された。これは全パレスチナをユダヤ国家として独立させることを宣言し、移民と土地取得の自由を求めていた。この大会の決定は、ユダヤ人が自分たちの後ろ楯として、イギリスからアメリカに乗り換え始めたことを意味した。
1942.5.11  アメリカが参戦した翌年、全米のシオニスト組織の代表がニューヨークのビルティモアホテルで会議を開いた。そのとき「ビルトモア綱領」が採択され、国家建設に必要な権限のユダヤ機関への委譲、戦後にパレスチナ地域へのユダヤ人国家の樹立を求めることとなった。パレスチナへの移住と土地取得の自由が謳われ、これが世界シオニズム運動の公式綱領となった。

 アメリカ国内のスポンサーから多額の資金援助を得たベングリオンは、(将来の戦いに備えて)武器製造のために多数の工作機械を買い込んでパレスチナへ送った。
1943
November
Five-year limit on Jewish immigration (expiring April 1944) extended so all 75,000 visas permitted in 1939 White Paper can be filled.
1944
January
Stern Gang and IZL join to conduct terror campaign against British.
6 November
Stern Gang murders Lord Moyne, British resident minister of state, in Cairo.
1945.3月  イギリス政府の後押しで「アラブ連盟」成立。
5.6日

 ヨーロッパに於ける第二次世界大戦が終了した。

 1945 エジプトのナグ・ハマディでグノーシス主義関連の文書が大量に発見される。(ナグ・ハマディ文書)。




(私論.私見)


「14話・民族的存在か宗教的存在か?」

「13話・キリスト教社会の勝手な都合?」

パレスチナ問題の構図・12話「シオニズムとは?」

まずはユダヤ人について

中東関係その3 中東関係その2 中東関係その1

アラビアのロレンス 英国の三枚舌外交 ユダヤ・ゲットー

富裕なユダヤ人 フランス革命

ロスチャイルド 差別・迫害
比較文化論 

ユダヤ機関の成立