4482 パレスチナ問題を解くための歴史5現代史篇2
イスラエル建国、第一次中東戦争からシャロン政権誕生まで

 (最新見直し2006.8.6日)

【イスラエル独立宣言】
 1948.5.14日の夕刻、イギリス軍がパレスチナ撤退した直後の流動下で、ユダヤ国民評議会のメンバー300名がテルアビブの美術館のホールに集まり、デビッド・ベングリオンが先の国連決議に基づき国家独立を宣言した(「イスラエル国と称されるユダヤ人国家のエレツ・イスラエルにおける樹立」)。パレスチナの3分の2を支配(7%の土地しか持っていなかった民族が一瞬にして突如57%の土地を獲得した)することになった。

 ベングリオンは、ホールに掲げられたテオドール・ヘルツルの肖像の前に立ち、厳かにイスラエルの独立宣言を読み上げた。「我々、ユダヤ市民およびシオニズム運動の代表たる国民評議会は、イギリスによる委任統治が終わるこの日、自然的および歴史的権利、そして国連総会決議に基づいて、ここパレスチナに「イスラエル国」と号するユダヤ人国家の建設を宣言する。(後略)」

 独立宣言書のサインの筆頭には、ダビッド・ベングリオンの名前があった。(ちなみに、イスラエル第二代大統領のイツハク・ベンツビは4番目で、ゴルダ・メイヤは25番目。ほとんどはマパイ党かヒスタドルートのメンバーであり、イルグンのような極右組織のメンバーは勿論、ハイム・ワイツマン博士も独立宣言にはサインしていない)。初代大統領にはハイム・ワイツマン博士が就任し、首相にはダビッド・ベングリオンが任命された。

 当時の米大統領トルーマンは宣言のあと、わずか11分後に国連代表に通知せずに承認発表。大統領選でユダヤ人票を確保するためという動機であったとされているが、ユダヤ人ロビイストによるアメリカ政府への圧力が奏効したものと思われる。

 ソ連もアメリカ、グアテマラにつづき三番目の承認国となっている。スターリンがなぜこのような行動をとったかについては 明白でないが、イスラエルの成立はイギリス帝国主義の力が中東から後退すると読みこれを歓迎した、と考えられている。

 この時の独立宣言に、「イスラエル国はユダヤ人移民並びに離散民の集合のために門戸を開放する」とあり、これが帰還法となる。帰還法は、全てのユダヤ人にイスラエルに居住する権利を認めている。従って、帰還法は、離散状態にある(イスラエル以外の外国に住む)全てのユダヤ人に自らの歴史的郷土に帰り帰化する権利を与えています。この法律はイスラエル国民を対象としてはおらず、イスラエルの非ユダヤ系国民を差別的に扱うものではない、非ユダヤ系の人々のイスラエルヘの帰化を妨げるものでもない、その場合は別の法律の下で可能となる、という。

 国名はイスラエルと名づけられ、父祖の言葉であるヘブライ語を2000年ぶりに復活させて公用語とした。


【第一次中東戦争(パレスチナ戦争)勃発】
 1948.5.14日、イスラエル建国宣言3時間後、アメリカはイスラエルを承認する(ソ連と東欧諸国は4日後に承認する)。その直後、第一次中東戦争に突入した。「イスラエルが戦争を仕掛けた説」と「エジプト空軍によるテルアビブ空襲説」とがある。いずれにせよ、イスラエルとアラブ5ヶ国軍(シリア、エジプト、レバノン、トランス・ヨルダン、イラク)が戦争状態に入った。それは、イスラエルからする「独立戦争」、アラブ側からする「パレスチナ戦争」となった。1948.5月から1949.3月まで続く戦争となった。

 アラブ連盟の事務総長アサム・カン氏は、「我々の攻撃はモンゴル人や十字軍の蛮行と並び称されるような徹底的な虐殺と根絶の戦いになるだろう」と宣言した。トランスヨルダンのグラブ中将のアラブ軍団は、5.17日までにテルアビブとエルサレムの連絡線を遮断し、エルサレムを包囲した。イルグンとハガナーの合同部隊300人は、ユダヤ人市民と共に旧市街に立て篭もったが、5.28日に陥落。残ったユダヤ人は新市街に移って抵抗を続けた。その間の5.23日、ハガナーは補給路を奪回すべく、テルアビブ−イスラエル間の要衝、要塞化されていたラトルン警察署を攻撃するが、アラブ軍団に撃退されている。

 一方、南部のネゲブ砂漠でもエジプト軍の攻撃が始まっていた。エジプトのファルーク国王は宣戦布告と同時に早くも戦勝記念切手を発行した。戦車や大砲まで持ち出した1万人のエジプト軍に対し、イスラエル軍はわずか3800人で、イスラエル軍の防衛線はやすやすと突破され、エジプト軍は首都テルアビブへ驀進する。5.19日、エジプト軍はヤッハ・モハルディというキブツに到達した。このキブツを守るのは75人の住人とわずか70人のハガナー兵士であったが、英雄的な抗戦により5.24日まで阻止した。

 この間に待望の重装備がテルアビブに到着し、ハガナーは首都の守りを固めることができた。5.29日、4機の戦闘機(機種はBf109のライセンス版。Bf109は第二次世界大戦におけるナチス空軍の主力戦闘機だった)が南部戦線の近接支援に出動する。さらに、イスラエル空軍はチェコスロバギアを通じて購入した50機のスピットファイア9型(第二次世界大戦中のイギリスの主力戦闘機)と、B17、モスキート(1942年に登場した英国の双発爆撃機。非常に優秀な飛行機で同時期のドイツ空軍のいかなる戦闘機よりも高速であり、空戦性能もほぼ互角だった)などの爆撃機を中心に、短期間で中東最大の空軍力を作り上げた。対して15機のスピットファイアしかないエジプトは不安を感じ、エジプト陸軍は前進を止めて占領地の防衛体制に入った。

 北部では5.18日からシリア軍の攻撃が開始されたが、イスラエル軍の重火器により撃退された。南部でもイスラエル軍は攻勢に転じ、エジプト軍を押し戻し始めた。しかし、ヨルダンのアラブ軍団にはどうしても勝てず、ラトルンへの攻撃も失敗を繰り返し、エルサレムとテルアビブは分断されたままであった。

 ベングリオンは、ラトルン警察署の攻略を最優先事項と位置付け、元アメリカ陸軍のダビッド・マーカス大佐(休戦の前日、歩哨にヘブライ語で誰何されたが、言葉が分からなかったために射殺された。彼の活躍を元に「巨大なる戦場」という映画が作られている)を作戦指揮官に任命した。大佐はラトルンを攻撃せず、突貫工事で向かいの丘の斜面を崩して道路を切り開き、エルサレムへの補給路を確保した。おかけで新市街のユダヤ人は休戦まで街を守り抜いた。

 5.28日、ベングリオンはハガナーを中心とするイスラエル国防軍(IDF)設立を決定し、イルグンやレヒにも国防軍の指揮下に入るように命じた。しかし、イルグンは命令を受け入れず、国防軍とイルグンの間で緊張が高まった。

 5.29日、4週間の休戦と休戦監視機構の設置を定めた国連決議題50号が発効された。スウェーデン赤十字社総裁、フォルケ・ベルナドット伯爵の仲介により、アラブ・イスラエル間で6.11日から7.8日までの4週間の休戦が合意に達した。イスラエルにとって、まさに「地獄に仏」となった。

 ベングリオンはこの4週間を利用して最大限の形成挽回を図る。6.21日、イルグンの仕立てた輸送船「アルタレナ号」が、約1000人の兵士と多量の武器弾薬を載せてテルアビブに到着した。ベングリオンは、休戦中の武器輸入は禁止されていたにも拘わらず武器類を直ちに国防軍に引き渡すよう命じた。が、イルグンの司令官メナム・ベギン(後、イスラエル首相)は命令を拒否。

 ベングリオンはこれまで極右を大目に見てきましたが、今度ばかりは許さず、国防軍にイルグンを攻撃させる。元はハガナーである国防軍の兵士は、それまでの鬱憤を晴らすように撃ちまくり、アルタレナ号は積荷ごと撃沈され、一週間の戦闘の末イルグンは降伏、国防軍の指揮下に入り、レヒは解散した。

 こうしてベングリオンは全軍の統一に成功した。が、反対にアラブ諸国では対立が表面化した。特に、ヨルダン川西岸地区を併合しようとするトランスヨルダンの意図が明らかになったため、他のアラブ諸国はヨルダンの勢力拡大に利用されるのではという疑いを抱き、イスラエルのような戦力強化策を取ることが出来なかった。

 7.9日の深夜、休戦期限切れと同時にイスラエル軍は攻勢をかけ、テルアビブ周辺のアラブ軍を撃破した。イスラエルは占領地を奪還するまで「停戦」するつもりはなかった。アラブ側も休戦の延長を拒否していたので、7.15日、国連は新たに、パレスチナにおける無期限の軍事行動の停止とエルサレムの非武装化を定めた国連決議第54号を採択する。イスラエルもアラブも一応この決議を受諾し、18日には再度の休戦となったが、イスラエル軍は初期の失地を回復すると共に、後々の国土の安全を考えて可能な限りの領土を確保しようと攻撃を続けた。このため、国際世論はイスラエルの制裁に傾き始める。

 9.17日、ベルナドット伯爵がエルサレムで暗殺された。レヒ派の仕業とされ、この事件後、国際世論はイスラエルを批判を強め、国連はイスラエルに対して再三停戦勧告を出す。しかし、ユダヤ人社会の力が強いアメリカのおかげでイスラエルは制裁を免れた。しかし、イスラエルは無視ぶっちぎりで攻勢を続けた。ヨルダン軍に勝つ自信がなかったのか、攻撃は専らエジプトとシリアに向けられ、1948年末まで、181号決議で規定されたユダヤ人地区をはるかに逸脱する地域を占領した上、更にシナイ半島のエジプト領になだれ込んだ。

 この事態に1949年の元旦、エジプト領からイスラエル軍を撤退させるよう、ついにイギリスが最後通牒を発する。ベングリオンは、イギリスの恫喝に屈し、シナイ半島からイスラエル軍を撤退させた。1949.1.12日から和平交渉が開始された。
1948.11  1948.11月、国連安全保障理事会の休戦決議が発効した。
1949.5.14  イスラエル共和国、国連の正式加盟国となる。
1949.2〜7月  ギリシャのロードス島で第一次中東戦争停戦協定が締結された。イラクのみ停戦協定を結ばず撤兵し、7月までにイラクを除く交戦国(エジプト、レバノン、トランスヨルダン、シリア)との個別の休戦協定により停戦が成立した。ユダヤ人はようやく祖国を手に入れた。イスラエルの機略が成功し、アラブ各軍の準備不足もあり、次第に優勢になり勝利した。

 休戦協定により、パレスチナはイスラエル・エジプト・ヨルダン三国に分割された。トランス・ヨルダンは、ヨルダン川西岸および東エルサレムを自国領に編入し、国名を「ヨルダン・ハシミテ王国」に変更した。またガザ地区はエジプトに編入された。イスラエルの領土が確定され、パレスチナ全土の約3分の2(全パレスチナの75%)を占めることになった。これは、国連によるパレスチナ分割決議でのパレスチナ全土の57%とした地域を大きく上回った。

 イスラエルとトランス・ヨルダンは休戦協定により、エルサレムは東西に分割された。旧市街地を含む東エルサレムはトランス・ヨルダンの支配下に、西エルサレムはイスラエルの支配下に入った。

 トランス・ヨルダンのヨルダン西岸地区併合は、土地を得たことにより、いわゆるパレスティナへの裏切りとなった。今回の戦争でにが汁を飲んだのはパレスティナだけとなった。

 イスラエルの建国と膨張により70万−100万のパレスチナ・アラブ人が父祖の地を追われることになり、かつてのユダヤ人のように、流浪の民として辛酸をなめることになる。
(解説)

 
第一次中東戦争に戦勝したイスラエルは、対アラブの戦略的重要性から、欧米、特に多数の強力なユダヤ人勢力を抱える米国の支援により、独立後次第にパレスチナ地域に不動の位置を定め、パレスチナ地域全域を手中に治めるに至る。

 中東戦争により非難していたパレスティナ人が戻ってくると、そこには非情が待っていた。イスラエル政府に帰還の拒否をされた。難民たちは国外に移民したくてもパスポートが無いため、出国さえ出来ないことになった。彼らはイスラエルに対して、「イスラエル軍が強制的に排除した」と主張した。がイスラエル側は「みずからの意志で出ていったのはアラブの指示である。だからわれわれには責任が無い」といい、難民を無視した。それだけでなく、避難民の残した土地は、放棄されたものとみなされ、次々に接収していった。実に、パレスティナ人の村の47%にも及び、これによってパレスティナ難民が生み出された。この数、数十万人。


 
イスラエル建国は、アラブ側から見ると「欧州のユダヤ人差別のつけをどうして自分たちが払わされるのか」という憤りになったが、国際世論はこの声を掻き消し、パレスチナ難民の悲劇が晒されていくことになった。そのような中でパレスチナ人の地位向上のために立ち上がりる組織が生み出されていくことになる。

1950年代末 【「ファタハ」(自由将校団)が結成される】
 エジプトのカイロ大学のパレスチナ学生の組織「パレスチナ学生連合」の主要メンバーを中心にして「ファタハ」が結成された。「ファタハ」は、パレスチナ解放を目的とし、イスラエルに対してゲリラ闘争を挑んだ。そのリーダーがヤセル・ アラファト(現PLO議長)だった。
1951  エルサレムのエル=アル=サ=モスクに巡礼に来ていたトランス・ヨルダン国王が暗殺された。
1951  イランで、民族主義的なモサデグ政権が誕生した。イランの石油を独占しているイギリス資本のアングロ・イラニアン石油会社を接収して石油国有化宣言を発した。これが後にナセルのスエズ運河国有化宣言にも影響した。欧米諸国は海上封鎖やイラン石油ボイコットなどで対抗した。モサデグはさらに反欧米的・社会主義的政策を推進。これに危機感を覚えたアメリカはCIAを使ってイランの国王派にクーデターを起こさせ、モサデグ政権を打倒した。後、イランではアメリカの援助を受けた国王の親政が始まる。
1952 【エジプト王政打倒される】
 シオニストの手による各国軍の敗退に大きな衝撃を受けた若者はパレスチナの解放以前にエジプトの改革が必要であると考えた。そうした青年将校の一人にアブドル・ガマル・ナセルがおり、その内部の『自由将校団』にはナセルの後継者となるアンワル・サダトもいた。この年、ナセル率いる自由将校団が王宮を占拠し、ファルーク国王を追放、エジプト王制を打倒した。エジプト共和国が成立する。

  ナセルの掲げた政策は、スエズ運河地帯へのエジプトの主権回復、ナイル河にダムを建設してエジプトの農工業の振興等々であった。
(解説)
 スエズ運河は1869年にフランスの指揮のもと開通し地中海とインド洋を結ぶ要とされていた。しかし1875年にイギリスがスエズ運河株式会社の株を買い占め、支配者となり、ここはエジプトのなかにありながら主権の及ばない地域となる。ナセルはこの地域への主権回復を目指した。

 しかしイギリスはスエズ運河一体地域の管理・防衛を死守しようとした。運河の通行収入をアスワン・ハイ・ダムの建設費用に充当しようとしたナセルに対して、イギリスはフランス・イスラエルと共謀して軍事干渉を計った。フランスは当時、アルジェリアの独立戦争に悩んでいたが、ナセルがこれを支援していると思っていた。イスラエルは、エジプトがソ連と親しくなり兵器が輸入されるのを恐れた。
1953  ベングリオンは、1953年まで国防大臣兼任の首相を勤めた。その間、教育制度の整備と国土の開拓(恐らく占領地域の支配の既成事実化のため)に政策の重点をおいた。また、移民政策を推進し、60万人だった人口を建国4年目で倍増させ、イスラエルは驚異的な発展を遂げる。外交では、西ドイツと賠償協定を結んだ上、英仏と同盟関係を結ぶ。

 1953年、ベングリオンは突然「公務に疲れた」と大臣職を辞し、ネゲブ砂漠のキブツに引っ込む。この時、涙を流して別れを惜しむマパイ党員達を「泣くくらいなら、俺と一緒に来い!」と怒鳴りつけたとか。しかし、ベングリオンは政界から引退したわけではなく、ネゲブ砂漠のキブツで農業に従事しながらも、マパイとヒスタドルートに対する影響力を保ち続けた(ただし、ベングリオンはネゲブ砂漠の開拓にも並々ならぬ情熱を抱いていた)。


 ベングリオンが大臣職を辞した時、国防大臣の後任にはピンカス・ラヴォンという人物が選任された。ラヴォン氏は1950年から52年までベングリオン内閣の農業大臣を努めていた人物であった。
1954  イスラエル情報部は、対立の深まっていたエジプトをスポンサーから切り離そうと、エジプトに反英、反米テロ組織が存在するように思わせる作戦を立案した。7月、イスラエルの破壊工作部隊がカイロのアメリカ、イギリス関連の施設を爆破し、エジプト警察が13人のスパイの内、11人を逮捕する。

 カイロで裁判が始まると、イスラエル首相モシェ・シャレットは「でっちあげ」とエジプトを非難したが、11人がまさしく実行犯であることが証明され、2人は処刑、残りは10年以上の懲役刑になった。

 イスラエルでこの大失敗が問題になった。問題は、ラヴォン国防相が作戦を認可していなかったことであり、ラヴォンはモシェ・シャレット首相に対して調査を要求した。それを受けてアイザック・オルシャン最高裁判所長官と、イスラエル国防軍のヤーコブ・ドリ将軍からなる調査委員会が開かれたが、ベンヤミン・ジブリ情報局長官は、作戦はラボン承認を得ていたと主張、モシェ・ダヤン将軍とシモン・ペレス国防次官(どちらもベングリオンの忠実な部下だった)もジブリ主張を裏付けた。

 ラヴォン氏はジブリの証拠をでっちあげと主張し、ジブリ、ダヤン、ペレスのクビを要求する。エジプトの裁判で、作戦が国防大臣の承認を得ていたことが証明されていた(エジプト側が入手した証拠では確かにそうだった)ので、ラヴォンの立場は著しく不利となった。調査委員会の結論は「誰が責任者かよく分からん」という頼りない物であったが、シャレット首相はラヴォン氏を辞めさせる。ただし、ラヴォン氏はヒスタドルート総裁になった。ラヴォン氏は情報局の失敗のスケープゴートにされた。

 1960年になって、上司から調査委員会への偽証を命じられたという情報局員から地方裁判所に告発がありました。その結果、ラヴォン氏が作戦に無関係なことが証明されたので、ラヴォン氏はベングリオンに対して名誉回復を要求します。しかし、何を思ったかベングリオンは拒否。事件の隠蔽に加えて、マパイ党内におけるベングリオンの影響力が議会の外務委員会と国防委員会で問題となり、「ラヴォン事件」として知られる政界全体を巻き込む一大スキャンダルに発展しました。新たな調査委員会が開かれ、全員一致で1954年の作戦にラヴォン氏は無関係であると結論しました。  

 ベングリオンは委員会の結論に対して声を大にして反対する。更に、1961年2月4日のマパイ党総会では、明らかにベングリオンの圧力により、ラヴォン氏のヒスタドルート総裁解任が決定されました。しかしながら、テルアビブとエルサレムではラヴォン支持のデモが起きた。「ベングリオン、Sde Boker(ベングリオンのキブツ)へ帰れ。ダヤンとペレスも行け!」。

 ベングリオンと子分二人は徹底的に糾弾された。それでもベングリオンは政権の座に留まっていたが、マパイ党でもヒスタドルートでもベングリオンの支配力は完全に失われていた。
1955.2

【バグダード条約機構が設立される】


 社会主義的な反欧米革命が1952年にエジプトで起こり、同様の革命がアラブ地域全域に波及することを恐れた欧米は、反革命の軍事機構設立を画策した。それが1955年2月のトルコ・イラク軍事協力条約を始めとする一連の諸条約によって成立した、バグダード条約機構である。参加国はアメリカ・イギリス・トルコ・イラク・パキスタン・イラン。本部はバグダードにあったが1958年に革命が起こったイラクが脱退、トルコのアンカラへ移る。1979年のイラン革命でイランも脱退してバグダード条約機構は崩壊する。

1955.2  エジプトとイスラエルの関係は、パレスチナ・ゲリラの活動をめぐって緊張していた。アリエル・シャロン大佐(当時27歳)率いるコマンド部隊がガザ地区を攻撃した。
1955.9  ナセル大統領は、イスラエルのインド洋への玄関口、チラン海峡の封鎖を宣言した。イスラエルはイラン(当時はまだパーレビ王朝で親アメリカ=親イスラエル)からの原油輸入ルートが危機に瀕した。
 1955年、ベングリオンは国防大臣として政界に復帰し、同年中に再度首相に就任します。彼は翌年の「シナイ作戦(第二次中東戦争、スエズ動乱)」を主導する。
1956.7.26 【エジプトのナセル大統領がスエズ運河国有化を宣言】
 エジプトは1952年の革命後にアメリカとの関係が悪化し、アスワンハイダム建設の費用援助を打ち切られた。そのためマール・アブデル・ナセル大統領は新たな財源としてスエズ運河株式会社を国有化することにした。スエズ運河はヨーロッパとアジアをつなぐ要衝であったため英仏の支配下に置かれていたが、7.26日、ナセルの演説の中の「レセップス」(スエズ運河を作ったフランス人の名前)を合言葉に特殊部隊が迅速に株式会社事務所を接収した。

 それまで運河の経営権を有していたイギリスとフランスが、支配権を取り戻そうとする。国際的非難を避けるため、英仏はまずイスラエルに戦端を開かせ、前線がスエズ運河に迫ったところで「運河の安全を守る」と調停者面してスエズ運河を奪還する計画をたてた。ベングリオンは英仏の話に乗り、英仏の後ろ盾のもと、シナイ半島のパレスチナゲリラの基地を掃討するチャンスとみなした。
10.23  ハンガリー動乱発生。
1956.10.29  アリエル・シャロン大佐の空挺旅団が、シナイ半島の要衝ミトラ峠に降下した時から戦争が始まった。なお、シャロン大佐の任務はあくまで峠の確保であったが、独断で近くのエジプト軍に攻撃をかけて大損害を出した。小さな躓きがいくつかあったものの、イスラエルの作戦は順調に進展した。
10.31  英仏の空軍機がエジプト各地の空軍基地を空襲した。。しかし、英仏両国はアメリカの強い非難を受けてたじろぐ。アメリカはハンガリー動乱を非難しようとしていた矢先であり、西側諸国の似たような暴挙に怒った。さらにソビエトに至っては核攻撃までちらつかせて英仏両国に脅しをかけた。
11.6  英仏は国連の停戦勧告を受諾、2日後、イスラエルも停戦を受諾してシナイ半島から撤兵した。露骨な侵略に失敗して大恥かいた英仏両国に対し、大損害を受けながらも国土とスエズ運河を守りぬいたエジプトは一躍、アラブの盟主となった。

 ナセル率いるエジプトがスエズ運河を巡る戦いで英国やフランスに勝利し、ナセルの指導のもとに全アラブ世界を統一しようとする汎アラブ主義、いわゆる『ナセリズム』(ナセル主義)が広がった。

 もっとも、すぐにイエメン派兵の失敗で権威は地に落ちる。

 イスラエルの方もチラン海峡の封鎖を打破した上、シナイ半島のゲリラ基地も破壊し、おまけにエジプト軍から戦闘機、戦車、トラックなどソ連の最新兵器を多量に捕獲した上、7000トンの弾薬となんと200万トンもの燃料を分捕り、軍事作戦は大成功であった。
 1956  カフム・カシム村でパレスチナ住民虐殺。

 西ドイツで良心的兵役拒否が容認される。イギリス聖公会、スコットランド聖公会、メソディスト教会が相互聖餐の関係を樹立する。


【第二次中東戦争(スエズ動乱)勃発】
 1956.10.6日、エジプトでの利権を失いたくない英仏は第二次中東戦争に向かった。それに対し、イスラエル軍がシリア方面に集結しているという情報が伝えられたナセルは、対抗上エジプト軍のシナイ半島への集結を命じた。さらにチラン海峡の封鎖を命じたことで、イスラエルは唯一のインド洋へ通じるルートを遮断される。10.6日昼過ぎ、エジプト・シリア両軍がイスラエルを奇襲したことから第二次中東戦争始まった。1956.10月から1957.3月まで続く戦争となった。イスラエルの戦車は、エジプト軍歩兵の操作する対戦車ミサイルによって敗れた。緒戦は、イスラエル初の敗退となった。
1956.10.29  イギリス・フランス両国はイスラエルとともにエジプトに対する共同作戦を取った。イスラエルは、ガザおよびシナイ半島に進撃した。これと同時にイギリス・フランス軍がエジプトへの攻撃を開始した。イスラエルは、エジプト・シリア・ヨルダンの空軍基地を攻撃し、空軍を全滅させた。

 米ソ両国が介入し、英仏に圧力をかけ、両国は2カ月後撤退、イスラエル軍も翌年3月撤退し終息した。
(解説)
 第二次中東戦争に戦勝したイスラエルは、パレスチナ地域への基盤をますます強固なものにした。
1958  イラクでも、ファイサル2世に対する不満が高まり、カセム准将らによるクーデターが成功し、現政権党であるバース党も革命政権の一部となった。イラク革命はその後紆余曲折していくことになる。
1958  レバノン内戦始まる。
1959  ローマ教皇がプロテスタントに再一致を呼びかける。
1962  ローマ教皇ヨハネ23世第2ヴァティカン公会議を開催する。
1963  選挙の時、ベングリオンは新政党「Rafi」を旗揚げする。Rafiはベングリオン自身も含む10議席を獲得し、1970年まで議席を保ち続けたが、ベングリオンの政治生命はもう終わっていた。なお、ベングリオンと共に槍玉に挙げられた他の二人は、皮肉にもベングリオンとは対照的な日のあたる人生を歩み始める。シモン・ペレスは後にイスラエル首相となり、ダヤン将軍は、1967年の第三次中東戦争では見事な三正面作戦を成功させ、わずか6日で10倍のアラブ軍を撃破する大勝利を収めました。
1964  第一回アラブ首脳国会議。
1964.5 【パレスチナ民族解放機構(PLO)結成される】
 アラブ諸国の肝いりで、穏健派のパレスチナ解放機構(PLO)が結成された。メンバーは以前から知られていた政治指導者たちであり、エジプトのナセル大統領のコントロール下にあった。あくまで政治勢力であり、結成当初は武装闘争組織ではなかった。パレスチナ国民憲章制定。
1965 【「急進派ファタハ」が結成される】
 「急進派ファタハ」が結成され、シリアに支援されて、イスラエルに対するゲリラ攻撃を開始した。以降、ゲリラ活動が発生し、他ののパレスチナゲリラも攻撃を行うようになった。このゲリラ活動により、アラブとイスラエルの緊張は高まった。
1965  バチカンが、「第二回バチカン公会議」において、「イエス処刑に責任があるのは直接関与したユダヤ人だけだ」との公式声明を出し、ユダヤ勢力に歩み寄りの姿勢を示した。
 西方教会のローマ教皇パウロ6世と東方教会のコンスタンティノープル総主教が和解し、東西教会の対立解消する。
1967.2 【パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が結成される】
 マルクス主義者ジョルジュ・ハバシュ氏らがパレスチナ解放人民戦線(PFLP)を創設。反主流派で最大のPLO内の第二勢力となった。シリアとリビアの支援を受け、兵力800名規模。
1967.5.22  アラブ側は戦争の準備を着々と進めていった。対イスラエル強行派のエジプトのナセル大統領が、突如紅海とアカバ湾を結ぶチラン海峡封鎖を宣言。軍を差し向けシナイ半島に進駐させた。
 (解説)

 
1922年のイギリス支配時代、66万8000人のアラブ人がパレスチナの土地の98%を所有していたのに対し、8万4000人のユダヤ人は2%の土地を所有しているに過ぎなかった。

 1948年のイスラエル共和国建国の時になると、76万人に膨らんだユダヤ人がパレスチナ領土の75%以上を支配するようになり、135万人のアラブ人がパレスチナから追い出されてしまったのである。

 1967年に第三次中東戦争が勃発すると、236万人のユダヤ人がパレスチナ全土を支配するようになり、パレスチナ難民は約300万人にまで膨らむ。

【第三次中東戦争(六日間戦争)勃発】
 1967.6.5日、イスラエルにとって、アカバ湾はインド洋への唯一の航路だった。イスラエル空軍はエジプト各地の空軍基地を電撃的に攻撃し、第三次中東戦争が勃発した。これによりエジプト空軍は壊滅的打撃を受けた。ダヤン国防相の指揮するイスラエル軍は、東部でヨルダン、北部でシリア、南西部でエジプトという「三正面」で交戦し、全てに勝利した。アラブ側はイスラエルに制空権を握られ、ゴラン高原、ヨルダン領の東エルサレムとヨルダン川西岸、エジプト領のガザ地区、シナイ半島などを占領された。

 エジプト、ヨルダン、シリアは停戦を受け入れた。この戦争はアラブ側の敗北で、6日間で終わった(1967.6.5日〜6.10日)。故に6日間戦争(第三次中東戦争)と呼ばれる。イスラエルが、ガザやゴラン高原を獲得した。ナセル大統領(エジプト)による汎アラブ民族主義が失墜した。中東革新陣営諸国によるアラブ統一・社会主義路線も敗北した。
(解説)
 第三次中東戦争は、イスラエルの圧倒的勝利に終わった。イスラエルはこの戦勝により更に領土を拡大した。東エルサレムを含むヨルダン川西岸、エジプトの領土だったガザ地区とシナイ半島をも支配下においた(エジプトはシナイ半島全域を失ったことになる)。

 右派政党リクードの「大イスラエル主義者」らによる西岸とガザ地区への入植地建設が始まった。

 約40万人のパレスチナ人が難民となり、ヨルダン川東岸に逃げ込んだ。ヨルダンの人口約200万人の内74万人がパレスチナ人となった。この人口構成により、ヨルダンでは大きな政治勢力としてパレスチナ人を抱え、国内政治情勢は不安定となった。

 イスラエルは統一されたエルサレムを「首都」と宣言した。しかし、各国(日本を含め)はこれを認めていない。あくまでテルアビブが首都であるとして、大使館はテルアビブにおいている。 国連総会は、イスラエルによる東エルサレム併合に対する撤回決議を採択したが、イスラエルはこれに拒否し今日に至っている。


 東エルサレムは以降イスラエルに占領されることになったが、中心部の「旧市街」にはイスラム、ユダヤ、キリスト各教の聖地があり、パレスチナ人約21万人が住む状態の中での占領であり、この宗教上の聖地問題が「パレスチナ問題」の複雑さに更に輪をかけていくことになる。


 (日本を含め)これを認めていない。あくまでテルアビブ首都であるとして、大使館はテルアビブにおいている。 国連総会は、イスラエルによる東エルサレム併合に対する撤回決議を採択したが、イスラエルはこれに反論した。
1967.11 【国連安保理、イスラエルの占領地撤退を求めた安保理決議242を採択】
 この決議は、占領地からのイスラエル軍の即時撤退と、イスラエルを含む中東地域の全ての国の生存権をうたっている。アラブ側は決議をボイコッ ト。PLOの穏健化、これに飽き足らないPFLPが結成されることになる。
1968  アル・カラーメの戦い。
1969 アラファト氏がパレスチナ解放機構(PLO)執行委員会議長に就任
 議長に就任したアラファトは、「西岸とガザ地区に東エルサレムを首都とするパレスチナ独立国家を樹立する」との目標を掲げ、イスラエルの当該占領地域からの撤退を要求、パレスチナ人自身による解放闘争を目指すことになり、現在の紛争の基本形が出来上がった。

 
その後、アラファト議長はPLO内現実派として国際交渉に活躍、国連でパレスチナ人の権利を認めさせるのに成功した。それと共にPLOはイスラエルの抹殺という当初の目的を変更し、イスラエルとの共存をはかるようになる。

 ファタハはPLOの最大勢力となった。
1970年  ヨルダン空港に到着した4機が同時にハイジャックされ、人質は全員解放後爆破された(黒い9月・Black September)。ヨルダン内戦。これによりヨルダンで活動していたPLOメンバーはレバノンに移動した。
 急死したナセルの後を継いで、アンワル・サダト氏がエジプト大統領になる。ナセルが行ってきた社会主義的政策を覆し彼は保守的政策を志向した。
1971.7 【ブラックセプテンバー事件】
 全てのパレスチナ・ゲリラ組織がヨルダンから追放される。PLOは本部をレバノンのベイルートに移し、抵抗運動を続けることになった。
1971.11  エジプトのカイロを訪問中のヨルダン首相・ワシフィ・タル氏が暗殺される。PLO傘下のテロ組織ブラックセプテンバーの犯行であった。
1972.5  テルアビブのロッド国際空港(現在のベングリオン空港)で、日本赤軍の岡本公三ら三人が自動小銃を乱射する事件が起こった。
1972.9  イスラエルのオリンピック選手団が、ドイツ・ミュンヘンで人質に取られ、交渉不成立で11名が殺される。ブラックセプテンバーの犯行で、200名の革命戦士の解放を要求していた。
1973  ダビッド・ベングリオンはSde Bokerのキブツで、六度の戦争を目の当たりにする波乱の生涯を閉じた。人生の最後にもまた一波乱あり、彼が病床にあったのはヨム・キップル戦争の真っ最中で、エジプト軍の大攻勢にイスラエル軍が撃破されつつあった時でした。

 カリスマ的指導者」とされていますが、実際のところ、それほどカリスマがあったわけではありません。少なくとも、ワイツマン博士よりもカリスマ性はずっと劣っていました。人々がベングリオンに従ったのは、常にベングリオンが正しい判断を下してきたからです。だから、ラヴォン事件のたった一度のミスで彼の政治生命は終わりました。とは言え「建国の父」であることには変わり無く、イスラエル国民から相応の尊敬を受け続けました。現在、テルアビブのダビッド・ベングリオン空港(旧ロッド空港)で、彼の名を偲んでいます。

【第4次中東戦争勃発】
 1973.10.6日、サウジアラビアは、アメリカが中東の抱える諸問題を解決しようとせずイスラエルを軍事支援するアメリカを激しく非難した。10.6日、エジプト軍がスエズ運河東岸を、シリア軍がゴラン高原に進撃して、アラブ諸国対イスラエルの第四次中東戦争が勃発した。1973.10.6日〜10.26日まで続く戦争となった。

 10.15日には、サウジアラビア軍も参戦して、アラブ側参戦国は10ケ国に達しましたが、アメリカの巨大な軍事力を背景にしたイスラエル軍がアラブ側を圧倒した。
1973.10.17  OAPEC(アラブ石油輸出国機構、クウェート、リビア、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、アルジェリア、カタール、バーレン、イラク、シリア、エジプトの十カ国)は、いわゆる「石油戦略」を発動した。これは、親イスラエル国に対して石油輸出禁止や削減政策を断行するというものであり、原油価格を70%値上げするというものだった。世界に「オイルショック」が襲い、アラブの石油に頼っていた日本では、トイレットペーパーが店頭からなくなるというほどのパニックを引き起こした(「石油危機」)。

 その後も次々と原油生産削減、石油禁輸が実行に移され、この政策によりアラブ側はそれまでの圧倒的不利な状況を覆した。ところが、皮肉なことに石油危機に乗じた原油値上げによりメジャーは空前の利益をあげ、このことがイスラム諸国の大衆に一層の貧困をもたらすという現象となった。しかし、原油価格は1972年末と比較して3$/Bから12$/Bと約5倍近くに値上がり、世界経済に大打撃を与えることになった。

 その後エジプトが単独でイスラエルとの共存路線を模索し始めたこともあり、アラブ諸国全体の占領地返還などにはつながらなかった。

 国連安保理決議338号採択。
(解説)

 第四次中東戦争も、イスラエルの勝利に終わった。但し、エジプトのサダトは、サウジなど保守陣営諸国との対立を解消・協力することによって、イスラエルとの第4次中東戦争を引き分けに持ち込んだとも云える。
1974 【国連総会でアラファトが演説】
 国連総会でパレスチナ人の民族自決権利承認。アラ ブ首脳会議と国連総会(3236号決議)でPLOがパレスチ ナ人の唯一の代表と承認され国連総会でアラファトが演説。国連総会はPLOに国連オブザーバー資格を付与した。 パレスチナ国家創設の歴史的決定が為された。
1975  レバノン内戦起こる。シオニズムは人種差別が国連総会で決議される。
1976  シリア軍の介入、レバノン右派軍へ参戦《黒い六月》、タル・ザータルの虐殺起こる(シリア軍がレバ ノンのパレスチナ人キャンプの攻撃で多数殺害レバノン内戦終結。
1976.6.27  フランスのエール・フランス機139便がPFLPによりハイジャックされ、ウガンダのエンテベ空港に着陸。イスラエルの特殊部隊が救出成功する。
1977  イスラエル総選挙で右派連合政権誕生。占領地への入植政策強化。
1977.11.19  エジプト大統領アンワール・サダトは、アラブ首脳初のイスラエルを訪問した。中東和平へ向けた模索が始まる。 
1977  イスラエル、「リクード」が第一党に。ベギン内閣成立。
1978  イスラエル軍のレバノン侵攻。
 ヨハネ・パウロ2世がポーランド人として、またスラブ人初のローマ教皇となる。
1978.9 【キャンプ・デービッド合意】
 米・カーター大統領、エジプト・サダト大統領とイスラエル・ベギン首相を招き会談(キャンプ・デービッド合意)。会談の内容は、
イスラエル・エジプトの平和条約を求める。→両国関係を正常化させる。
パレスチナ人の自治に関する規定。→イスラエルはパレスチナ人の自治について交渉することを約束。
イスラエルはシナイ半島から撤退し、代わって国連軍が駐留することを約束。それによって生ずる石油供給への不安をアメリカがカバーする
等々であった。

 アラブ諸国は、エジプトの非難の声をさらに高め、大半のアラブ諸国がエジプトとの外交関係を絶った。

1979.2 【イランでイスラム革命起こる】
 イランで、ホメイニ師による革命が起こり、パーラビ王朝が倒れ、シーア派が権力を握った。

 1960年代から、アメリカの援助を受けたイラン国王による近代化政策(白色革命)によって、市民の政治的自由は奪われ貧富の格差も増大、市民の不満は募っていた。そこで市民は反国王色を明確にしていたイスラム教勢力の下に結集、反国王運動を繰り広げた。遂に国王は国外へ退避、続いて宗教指導者ホメイニの帰国によってイラン・イスラム革命が達成された。以後、イランではイスラム教が国家のイデオロギーとなる。当然、国王を援助していたアメリカとの関係は悪化していく。
1979.7  イラクで、度重なるクーデターを経て政権を掌握したバース党が、42歳のサダム・フセインを大統領に就任させた。
1979.3 【イスラエルとエジプトが平和条約調印】
 サダトは、欧米諸国との関係改善を積極的に行い、イスラエルとも1978年のキャンプデービット合意にて和平を達成して、1979年には平和条約を結んだ。エジプト政府は、他のアラブ諸国の反対を押し切ってイスラエルと真っ先に和解し、それ以来親米−イスラエル路線に立って中東和平の仲介役に乗り出すことになった。エジプトへのシナイ半島全面返還が約束される。
1979.5  シナイ半島がエジプトへ返還される。アラブ諸国とPLOがエジプトと断交。
1979  ソ連がアフガニスタンに侵攻、アフガニスタンで内戦始まる。
1980  イスラエルのエルサレム恒久首都化宣言。占領地入植を強化。
1980 【イスラエルとエジプトが国交回復】 
 エジプトとイス ラエルが国交樹立。イスラエル軍がシナイ半島より撤退開始。

1980.9.17 【イラン・イラク戦争勃発】
 宗教抗争やイラン・イラク間の国境線対立に不満を持っていたイラクのサダム・フセイン大統領が、欧米やアラブ保守国の援助を受けて隣国イランに武力侵攻。その後両国の泥沼戦争は9年続くことになった。欧米や保守的アラブ産油国(サウジアラビア)は、1979年のイラン・イスラム革命以来、他国にもイスラム革命が波及することを恐れ、イラクのサダム・フセイン大統領に対イラン戦争をけしかけた、と云われている。

 1988.7.18日に停戦したが、 イラクはこれらの国々からの援助によりアラブ最大の軍事大国となり、フセインの野望は後の湾岸戦争へとつながることになる。

 イスラエル国会、東西エルサレム首都宣言可決。
1981 【エジプトのサダト大統領暗殺される】 
 サダトの中東和平化路線が「イスラム原理主義者」の怒りをかい、暗殺された。イスラム急進派「ジハード」のテロリストの犯行であった。サダトの左翼勢力を押さえつけるためのイスラム教推奨政策が、かえって仇となった。後任に副大統領のホスニ・ムバラクが就任。
 ファハド国王(サウジ)、八項目提案。
1982  イスラエル軍シナイ半島から完全撤退、返還される。但し、イスラエルは、ゴラン高原、東エルサレムを併合した。
1982.6.3  ロンドンで駐英イスラエル大使がパレスチナゲリラに狙撃され、重傷を負う事件が発生。イスラエルは報復として、ベイルート及び南レバノンのPLOの拠点を攻撃。
1982.6.6 【イスラエル軍機甲部隊がレバノン領内に電撃的侵攻】
 イスラエル軍が、PLOの攻撃がイスラエル北部のガラリア地方の安全を脅かすということで、大挙レバノン国境を越えて北上し首都ベイルートへ進軍し、 PLOとシリア軍を包囲した。イスラエル軍のこの包囲は2カ月間続いた。サブラとシャ ティーラ難民キャンプでパレスチナ人の大量虐殺発生(サブラ・シャティーラの大虐殺)。

 PLOはやむなくベイルートから撤退し、チュニスへ移動した。このイスラエルの動きに欧米だけでなく、他のアラブ諸国までも黙認した。アラブ諸国の保守的な支配層は、イスラエルとの対立を先鋭化することで欧米諸国との関係を悪化させたくなかったという事情から黙過した。エジプトはイスラエルとの和平交渉を行っていた。

 6月11日の停戦時、エジプトは、ガザ地区とシナイ半島を、ヨルダンは西岸地区全域を、シリアは、オラン高原をイスラエルに奪われた。
1982.8.9  国連安全保障理事会がイスラエルの非難決議を採択。但し、ソ連が提出した対イスラエル制裁決議案は、アメリカの反対によって否決された。
1982.8.18  イスラエルの要求に基づいて、PLOとレバノン政府の政治交渉が続けられ、ハビブ米国特使の根回しにより、PLO勢力のベイルート退去問題に関する最終調停案が締結された。
1982.9.16 【レバノンのパレスチナ難民キャンプで大虐殺発生】
 この時、2000人から3000人に及ぶパレスチナ人が虐殺されたと云われている。ベイル-トを本拠地としていたPLOはベイルート撤退。
1982  アメリカの調停により、PLO本部はチュニジアの首都チュニスへ、約7000名のゲリラは各アラブ諸国へ移動した。
 イスラエル軍に対するレジスタンスが活発になる。その中心を親シリアのシーア派民兵組織「アマル」が担った。
1983  ヘブロンでユダヤ人入植者がパレスチナ人4 人射殺。
1983  PLO、内部対立激化。
1984  レバノン左派勢力がベイルートを奪回。イスラエルでリクードと労働党連立内閣発足。
1985.1  イスラエル政府がレレバノンからの一方的撤退を決定。
1985  レバノンのキャンプ戦争。占領地での弾圧と 入植地建設強化。
1986  イスラエル国民および東エルサレム在住のパ レスチナ人のPLOとの接触を禁じる法律制定。
1987  PLO、再統一。レバノンのキャンプ戦争深刻化。
 イスラエルでシャミル政権発足。

1987.12.8 【「インティファーダ」闘争始まる】
 ガザ地区での交通事故をきっかけにガザ地区とヨルダン川西岸で、パレスチナ人による全面的な民衆蜂起(インティファーダ)が発生した。「インティファーダ」とはアラビア語で大衆蜂起を意味する。パレスチナ人とイスラエル軍が衝突し、パレスチナ人は石や火炎ビンでイスラエル軍に立ち向かい、多数の負傷者や逮捕者を出した。以降、ゼネストも頻繁に行われるようになる。
1988  ヨルダン川西岸およびガザ地区の統治権放棄をヨルダンが宣言。
1988 【PNCがパレスチナ国家独立宣言】
 アルジェでPNC(パレスチナ民族評議会・PLOの国会)が開催され、パレスチナ国家独立を宣言した。そしてアラファト議長は、テロの放棄、イスラエルの生存権の承認、国連安保理決議242、338の受諾を表明した。アメリカ、PLOとの対話を正式に決定した。

 この独立宣言はパレスチナ全領土の解放よりも、ミニ・パレスチナ国家の現実的な枠組みを主張したという事でイスラエルとの交渉を持つ妥協点となった。こうしたことからP LOの内部対立が激化した。
 イランのホメイニ師は国連の停戦決議を受諾せざるを得なかった。これに対してフセイン大統領は、イラン革命をアラブに波及させなかったことで一躍アラブの盟主となった。
 インティファーダを指導する「民族蜂起統合司令部」が結成された。ヨルダン、西岸地区との関係を断絶すると宣言。
【「ハマス」が結成される】
1989  旧ソ連のユダヤ人移民急増。
 アルアクサ・モスクでのパレスチナ人21人の虐殺という事態を契機にして、インティファーダの中での自爆決起が開始された。
 東西ドイツ間のベルリンの壁が崩壊する。(共産主義国家の解体開始)
1990  米国がPLOとの直接対話中断。イス ラエルで右翼連立内閣成立。
1990  パレスチナ人グループによるテロ未遂事件。アメリカはこれを機にPLOとの対話停止発表。「湾岸危機」始まる。

1990.8.2 【イラクのクウェート侵攻】
 サダム・フセイン大統領の指揮するイラク軍のクウェート侵攻が始まった。この背景の一つに、石油生産枠調整に対する対立があった。イラクは、1990.7月に開かれたオペック総会での生産枠を守らせようとし、クウェートがアラブ首長国連邦と共に増産したことで対立が深まった。フセイン大統領には、イランの脅威からサウジ、クウェートを守る為に血を流して戦ったという自負があり、そのクウェートが石油価格の引き下げに繋がる増産で、イラク経済に打撃を与えることを「恩知らず」と罵倒した。クウェート侵攻は、「恩知らずへの報復」であった。とはいえ、真意は、クウェートは元々イラク領土という認識に拠っており、地政学的に貴重なペルシャ湾への出口を求めたことにあった。

 8.6日、国連の安全保障理事会は緊急に会議を開きイラクを非難するとともに速やかにクウェートから撤退するよう強く勧告。国連安保理は、イラクに対し決議660で撤退を要求したのを手初めに、決議661で経済制裁、決議678条で対イラク期限付最後通牒(クウェート支援国に武力行使権限付与)で撤退を迫った。イラクは撤退せず、国連の軍事的強制行動として多国籍軍が編成されていくことになった。

 8.8日イラクは、パレスチナ解放のためのクウェート制圧であると声明しクウェートの併合を宣言した。国際世論は認めなかったが、パレスチナ問題を浮上させたことと、産油国に対する反感から、パレスチナでのサダム・フセインの人気は高まった。
 嘆きの壁発砲事件で国連安保理 がイスラエル非難決議。シリア軍レバノンへ軍事侵攻。国連安保理「適当な時期に 適切な構成で中東和平会議を開催する」を決議。
1990.10  東エルサレムテンプル山でパレス チナ人22人を射殺(10月)。
1991.  安全保障理事会がイスラエルのパレスチナ人追放の非難決議採択。
1991.1.17 【「湾岸戦争(the gulf war)」始まる】

 国連は1991.1.15日までの撤退を改めて決議したが、期限切れとなるやアメ リカのブッシュ大統領が攻撃を決断し、派遣されていたアメリカを核とする多国籍軍が、国連の決定のないままイラク軍への攻撃を開始した。この作戦全体を指揮したのはアメリカのノーマン・シュワルツコフ陸軍大将 とコリン・パウエル統合参謀本部議長(現・国務長官)である。こうして湾岸戦争が勃発した。この戦争の真因は、中東の支配権を廻るフセィンの野望と米英イスラエル連合の思惑との衝突にあった。

 当初はイラク軍と軍事施設へのミサイルや航空機による大規模な攻撃であったが次第にエスカレートし、雨あられのミサイルがイラクの首都バグダッドに投下されるようになった。この時の砲爆は、軍事施設非軍事施設の識別を問わない無差別なものであったこと、テレビゲーム戦争とも呼ばれる最新軍事兵器の実験場となったこと等々によりいくつもの課題を残した。

1991.2.24

 戦局は、2.24日地上戦へ突入、フセイン大統領が徹底抗戦を呼びかけたが2.26日、イラク軍撤退宣言、クウェートの併合無効と賠償責任請求の2決議受け入れを国連に通告した。2.27日、米大統領が勝利宣言。3.3日、停戦協定が締結される結果となった。米国などでは、フセイン政権打倒まで攻撃を加えるべきという意見もあったが、周辺諸国とのバランスなども考慮され、フセイン政権は維持された。 

 停戦の合意の効力が発した時、イラクの死傷者は市民を含めて10万人を超えた。特に、イラク南部では、米英の部隊が劣化ウランによる放射性武器を使用したとされている。其の為に子供を含めた市民達は白血病やその他関連した障害の為に命を失ったといわれている。

 米英は否定。しかし、米国の部隊の退役軍人にも放射能後遺症が認められ、多くの日本のジャーナリストがイラク市民特に子供のウラン後遺症を検証している。イラクでは湾岸戦争終結10年を迎え自国民の劣化ウラン爆弾による被害を国際世論に切手で訴えている。

1991.4.3  安保理は休戦条件の決議687を発し、侵略者イラクにその受諾を迫った。イラクは4月11日、国連事務総長と安保理にその受諾を通告して来た。この休戦条件により、対イラク軍事的強制行動参加国とイラクとの間に正式の休戦が成立した。クウェートの領土保全は回復された。世界的集団安全保障機構国連の軍事活動の成果として記録された。

 この時の休戦条件で、イラクの核・非核大量破壊兵器(射程150キロ以上のミサイルを含む)の破壊、将来にわたる不保持が規定され、それを確実ならしめるための国連特別(査察)委員会の主体的一方的広範な査察が規定されている。イラクは国連査察に条件をつけたり拒んだりできる立場にはないが、その後の査察は容易には進展せず、折に触れ米英軍が空爆を繰り返しており現代史の火薬庫になっている。 
 湾岸戦争終結後、日本政府は海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾へ派遣し、国際的責務を果した。但し、湾岸戦争の戦費調達に約150億ドル(1兆3千億円)もの血税を支出している割には、「日本は血を流さず金だけ出す」等と言われ、貢献度が評価されず、その後の軍事協力化への道が敷かれることになった。

 国連総会が1975年のシオニズム決議 撤廃決議を採択。イスラエル入植地建設に着手。
1991.10.30 【マドリードで中東和平国際会議開かれる】
 アメリカのベーカー国務長官が和平仲介を主導、シャトル外交を推進。PNCが中東和平会議参加を決定。アメリカとロシア(形式的に)の主導でイスラエル、ヨルダン、レバノン、シリア、そしてパレスチナ代表団とともにスペインのマドリードで中東和平会議が開催された。
 ソ連解体。
1991.12.  中東和平第二段階の二国間交渉ワシントンで開始。
1992 【イスラエル、労働党とメレツを中核としたラビン内閣誕生】
 PLOとの接触を合法化。イスラエルがバチカ ンを公式訪問し教皇と会見。南レバノンの国連レバノン暫定軍(UNIFIL)襲われ兵士 死傷。
1992.12  イスラエルがパレスチナ人418人を国外追放。
1993  米国、クリントン民主党政府発足。
1993.8  オスロでイスラエル政府とPLO間の秘密交渉が為される。ガザ地区と西岸のエリコでの先行自治の実施、パレスチナ警察の設置、パレスチナ評議会の設置と選挙の実施などが合意された。
1993.9.13 【イスラエルとPLO間でパレスチナ暫定自治宣言(オスロ合意)調印】
 ラビン・イスラエル首相とアラファト・PLO議長との間において、ワシントンのホワイトハウスで「原則の宣言」に調印・握手した。これにより、 PLOは「イスラエルが国家として、平和と安全の内に存在する権利を認める」、イスラエルは「PLOをパレスチナ人の代表として認める」ことになった。

 その見返りとして、 イスラエルは、PLOがイスラエルが占領していたヨルダン川西岸とガザ地区にミニ・パレスチナ国家を作り、パレスチナ人の自治区とすることを認めた。

(解説)

「暫定自治に関する原則宣言」に調印で、パレスチナの和平に向けた歴史的和解の第一歩が踏み出された。国際的な支援体制が作られ急ピッチで作業が進められていった。先進諸国のほとんどが対パレスチナ援助の拠出学の公表をし、10月にワシントンで開かれた援助国会議では5年間に20億ドルを超える資金援助がヨルダン川西岸・ガザ地区だけでも行われることが取り決められた。ラビン・ペレス・アラファト三氏の指導者としての地位が高まったが、アラブ急進派はアラファトの対イスラエル屈服とみなした。

1993.12  イスラエル軍が12.13日期限のヨルダン川西岸およびガザ両地区からの撤退開始を延期。
1993.12

 湾岸戦争後に大きな動きを見せたのはカトリックの総本山であるバチカン(ローマ法王庁)です。バチカンは独自の外交権を駆使して、イスラエル共和国との国交を樹立させました! 新聞では「2000年がかりの和解」という見出しが踊っていましたが、両国の国交締結はイスラエル政府が不法占拠し続ける「聖地エルサレム」の帰属問題をユダヤとアラブだけの問題ではなく、全世界的な宗教問題として広げることになったといえます。

1994.1  ユダヤ人入植者がヘブロンでパレスチナ人へ銃乱射で死傷者多数。
1994.2  ユダヤ人によるパレスチナ人39名の射殺事件発生。「和平気運」が危機に瀕した。
1994.5 【ガザ・エリコ先行自治実施協定(カイロ協定)で5年間の暫定自治が開始される】
 ガザとヨルダン川西岸のエリコを手始めとして、5年間の先行自治が開始した。パレスチナ暫定自治政府が創立され、7月アラファト議長はガザに帰還する。
1994.10.14  ビン(イスラエル)首相、ペレス(イスラエル)外相、アラファト(PLO)議長がノーベル平和賞を受賞。中東の平和への尽力が評価された。
1994.10.19  ハマスの自爆テロで、テルアビブのバスの乗客が死傷。ハマスが犯行声明。
1994.10.26  イスラエル・ヨルダンが平和条約に調印。イスラエルとヨルダンはクリントン大統領らの立ち会いのもと、両国国境のアラバで外交関係樹立などをうたった平和条約に調印した。
 ラビンとアラファト、暫定自治合意(カイロ調定)に調印。アラファト、ガザ入り。イスラエル政府、入植地建設凍結を一部解除。イスラエル・パレスチナ双方の過激派がこれらに反対、テロや虐殺事件激化。ガザとヨルダン川西岸のエリコを手始めとして、5年間の暫定自治開始。
1995 【「オスロ2」協定調印される】
 PLOとイスラエルは、ヨルダン川西岸地区への自治拡大協定に調印した。ベツレヘム、ラマラーなど6 都市が自治区へ。年末にはイスラエル軍が西岸の6主要都市(ラマラ等)から撤退し、ヘブロンを除くヨルダン川西岸からの撤退が完了した。

1995.11.5 【イスラエルのラビン首相暗殺される】
 テルアビブで平和集会が開催され、その帰りに暫定自治合意に反対していたイスラエルの極右青年,イガル・アミールが、演説を終えたイツハック・ラビン首相(享年73歳)を殺害。彼の犯行理由は”ユダヤ人への裏切り者の殺害”であったことを堂々表明しており、現在も彼の裁判は続いている。  
【イスラエル、ペレス政権発足
 ペレス政権発足、「オスロ2」の実施を早める。
1996.1 【パレスチナ暫定自治政府が初めての首長選を実施、アラファト議長が選出される】
 「オスロ2」によりパレスチナ評議会とパレスチナ自治政府が代表を決定する初めての首長選を実施し、アラファトが当選した。かくて、PLOのアラファト議長が自治政府首長に就任した。

 選挙の結果、自治政府の内閣は5月に組閣され、立法府、行政府を含めた政治機構が整えられていった。この国政選挙では故小渕元首相をはじめ選挙監視団の派遣と80万ドルの支援を行っている。
 
1996.2.26  イスラエルで連続爆弾テロが起こる。イスラム過激派が二年前のパレスチナ人虐殺への報復として、テロを実行した。25人死亡、80人けが。
1996.5 【イスラエルで、「リクード」党首ネタニヤフが首相に選出される】
 超タカ派で、双方の歩み寄りは途絶えがちになる。入植地の拡張や新しい入植地の建設に対する制限廃止。
1996.  エルサレム旧市街のトンネル完成で衝突
1996.9月末  アフガニスタンでイスラム教の聖職者を中心としたゲリラ組織「タリバン」が、ゲリラどうしの内戦に勝ち、首都カブールを占領したことで、79年のソ連の侵略で始まったアフガニスタン内戦は、一つの区切りを迎えた。
1997.1 【へブロン合意】
 イスラエル軍が西岸へブロンから部分撤退開始。
1997  イスラエルによる東エルサレム南部への大規模な入植地「ハル・ホマ」建設工事開始。 国連総会は「ハル・ホマ」反対決議を二度採択するがアメリカの拒否権発動により葬られる。イスラエルとパレスチナの衝突、激化。
1997.10ー11.1  バチカンで開かれた「キリスト教世界での反ユダヤ主義の起源」セミナーで、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が、「反ユダヤ主義は弾劾されるべきだ」、「ヨーロッパでユダヤ人迫害が起きた時、キリストの教えに基づく精神的な抵抗は十分ではなかった」との見方を示した。
1997.11  エジプト・ルクソールで観光客に対するテロ事件発生。
1998.4.30  建国50周年式典がエルサレムで開催される。アルバート・ゴア副大統領がアメリカ政府を代表して、「アメリカとイスラエルの結びつきは永遠です」と祝辞演説している。
1998.10 【ワイ・リバー合意】
 クリントン米大統領の介入によりワシントンで調印された。イスラエル軍の追加撤退交渉が合意され、ヨルダン川西岸からのイスラエル軍の13%の追加撤退となった(ワイ・リバー合意)。西岸地区での暫定自治区が拡大したが、パレスチナ人の自治区は、ユダヤ人入植地を除いたガザ地区と西岸の40%にとどまった。これはパレスチナ全域(2万6300平方キロ)の僅か9.6%であり、しかもイスラエル軍の監視下に置かれて実現する変則となった。

 
「ワイ・リバー合意」の評価は、イスラエル側からもパレスチナ側からも芳しくなかった。アラファトは、パレスチナ人たちに約束した政治的な希望も成就させていない。彼らはエルサレムを首都とすることも、1967年の戦争で失ったウエストバンク(ヨルダン川西岸地区)全域の返還も見ていない。オスロ合意で予告されたはずの経済的ユートピアは、イスラエル、パレスチナ双方に未だに訪れていない。パレスチナ紛争の根本的解決にはならず、以降も相互の継続的テロとパレスチナ住民の暴動が繰り返されていくことになる。
 ガザ国際空港開港。パレスチナ国民憲章の「改訂」確認。
1998.11  クリントンが、ガザ、イスラエルを訪問。ネタニヤフ政権に和平交渉圧力をかける。
1999.
 ヨルダンのフセイン国王は死の数日前に,米国のマヨ・クリニックから急きょ帰国し、王位継承者であった実弟のハッサン皇太子を解任し、代わりに息子のアブドラ(36歳)を王位継承者に任命した。かくてアブドラ2世が後継者となったが、新国王アブドラ2世は、イスラエル政府幹部と会談し、父親時代の和平を継続すると約束した。が、前皇太子であった叔父のハッサンが、今後どう行動するか不気味であり、ヨルダン情勢は流動局面に入ったと見られる。
1999.  ヨルダンのフセイン国王死去。
1999.5.4  PLOが独立宣言延期を決定。が、ヤセル・アラファトはオスロ合意から5年目にあたるこの日に、「パレスチナ国家独立宣言を行う」と言明。イスラエル政府は、「アラファトの宣言は、オスロ合意を無視するものだ」と応酬している。アリエル・シャロン外相は「パレスチナ支配下にしないように、ウエストバンク全域の領土併合をする」と警告。
 
1999.5  「オスロ合意」における暫定自治の期限切れ。
1999.5 【イスラエルで、和平推進派の労働党バラク政権が誕生】
 「平和的手段によるイスラエル・アラブ紛争の解決」を訴える。レバノンからのイスラエルの撤退とシリアとの交渉の推進、西岸地区の自治拡大を約束したワイ・リバー合意の完全実施を提案した。
1999.9  エジプトのシャルム・エルシェイクでバラク・アラファト会談が行われる。
1999.12  アメリカでイスラエル・シリアの首脳級協議を開催。ロス特使が頻繁に現地入りしたクリントン外交の成果であった。
2000  大聖年(ジュビリー、ミレニアム)、バチカンの「聖なる扉」(聖年にのみ開かれる扉のこと)が開かれる。ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が聖地エルサレムを訪問し、ユダヤ教の指導者と会談する。(カトリックとユダヤ教の和解)
2000.6  シリアのアサド大統領が死去。
2000.7 【三者首脳会談】
 クリントン大統領の仲介下、アメリカのキャンプ・デービッドで、クリントン、バラク、アラファト会談が開かれ、パレスチナの最終的地位に関する交渉が行われるが決裂。
(解説)
 この時の会談の眼目は、パレスチナの暫定自治を決めた93年の「オスロ合意」で協議することが約束されたが、ずっと棚上げされてきた事柄であり、@・イスラエル・パレスチナ双方が「首都」と主張する聖都エルサレムの帰属問題、A・パレスチナ人の悲願である新国家の国境・領土を謳っての「一方的な独立宣言」、B・1948年と67年の中東戦争で離散したパレスチナ難民の帰還等々を廻っての大詰め談判にあった。

 会談では、バラク・イスラエル首相は、占領地であるヨルダン川西岸のうち、現状では「自治区」として42%の「領土」しかないパレスチナに対し、約90%の返還を申し出るなど、国境・領土、ユダヤ人入植地の存廃、治安問題で歴代の政権では考えにくい大幅な譲歩姿勢を見せたと言われている。

 しかし、エルサレムの帰属を廻って、アラファト自治政府議長は、「(東)エルサレムを首都とする国家の独立はパレスチナ人のみならず他のアラブ・イスラム諸国に対する公約だ」とし、一方、バラク首相も「東西統一エルサレムの首都維持は国民への公約であり、断じて譲れない」として暗礁に乗り上げた。アラファト議長はイスラムの聖地のある「神殿の丘」の主権獲得にこだわり、バラク首相は、丘の地下にはかつてのユダヤ王国の神殿跡が眠るとして譲らなかった。クリントン大統領は主権共有案などの妥協策を提示し、強引にパレスチナへの経済援助凍結まで示唆したが、アラファト議長は「絶対に聖地とエルサレムをあきらめない」と拒絶したという。

 エルサレムは民族の宗教的、感情的な問題をはらむ。パレスチナの民間調査研究所長のマハディ・アブドラ・ハーディ氏は「タブーだった問題は首脳会談ですべて机上に上げられた。だが、宗教にまで触れてしまうと、話が終わることはない」と語り、妥協点を見いだすことは難しいと指摘する。

 会談後、イスラエル国内の右派と宗教政党は、バラク首相が譲歩し過ぎたと反発、政権は崩壊の危機に立たされている。一方のアラファト議長は9月13日へ向け外遊を続けてきたが、ほとんどの訪問国から「一方的独立宣言を自制するように」とクギを刺されている。クリントン大統領は会談再開と合意達成を目指しているが、任期終了を5カ月後に控え、どれだけの指導力があるか疑問もある。会談が再開されても三者三様に力が弱まる中での開催となる。

 バチカンの教皇ヨハネ・パウロ2世が中東を訪問。
2000.7.18  イスラエルによるレバノン領空侵犯がほとんど連日遂行された。(〜2001.1.18日)
2000.9.28  イスラエルのアリエル・シャロン・リクード党首がエルサレム旧市街の宗教聖地(イスラーム第3の聖地「ハラム・アッシャリフ」)を訪問。パレスチナ側とイスラエル軍の衝突に発展、死傷者多数発生。
2000.10.17  イスラエルのゼエビ観光相が暗殺される。
2001.1.23  イスラエル機がほぼ連日ブルーラインを侵犯し、レバノン領空深く侵入した。それらの中でも、低空を飛行し、人口稠密地域の上で音速の壁を破るイスラエル機は、特に挑発的であり、一般市民に大きな不安を与えた。イスラエル当局への再三の抗議にも関わらず、領空侵犯は続行し続けた。(〜2001.7.20日)




(私論.私見)