4481−4 パレスチナ問題を解くための歴史4、現代史篇1(イスラエル建国史

 (最新見直し2005.12.27日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第二次世界大戦を「ファシズム対民主主義の闘い」なる構図で捉えようとすると、現代史の激動が読めなくなる。「資本主義対社会主義の闘い」という面もあるだろうし、何より「シオニズムのイスラエル建国過程史」として見なければならないのではなかろうか。不思議なことは、歴史家は99%までシオニズムの流れを見ようとしていない。故意か偶然かは分からない。そのことで歴史を観る眼が凡俗で役に立たない。その分齧(かじ)ってもおいしくない。

 2005.3.19日 れんだいこ拝


(解説)

 第二次世界大戦後、ナチス・ドイツにユダヤ人約600万人が虐殺されたとされる「ホロコースト」の全容が判明した。ナチスの蛮行批判と併行してシオニストが国際的に認知され、パレスチナへの祖国建設運動が世論で擁護されるようになった。
1944  ワイツマン博士の提案により、イギリス陸軍内に「ユダヤ旅団」が編成され、イタリア戦線で戦った。この時、ユダヤ旅団は、現在イスラエル国旗となっている白地に青いダビデの星を使用している。最終的にナチスに対する軍事行動に参加したユダヤ人は13万人にのぼった。
1944.11.6  カイロを訪問中のイギリスの中東担当大臣ウォルター・モイン卿がレヒのメンバー二人に射殺された。1941年末にモイン卿が入港を禁止した難民船が、帰り道に沈没して760人のユダヤ人が死亡するという事件があって以来、モイン卿はレヒに付け狙われていた。犯人二人は翌年早々に絞首刑に処されたが、この事件の真の問題はモイン卿がチャーチル首相の親友だったことにあった。チャーチルはマクドナルド白書にも反対を唱えていた長年にわたるシオニズム支持者で、折からもユダヤ人国家建設案を構想中だったが、親友を殺されて怒り心頭、一変して反シオニズムに転じた。

 さらにイギリス政府自体もパレスチナ問題収拾の意思を無くしてしまった。パレスチナ紛争の発端がもともとイギリスであることを考えるとはなはだしく無責任であったが、レヒの無謀なテロリズムが、イギリスの対パレスチナ政策をぶち壊しにした。統治者たるイギリスが手を引いたため、平和的解決の道が閉ざされ、パレスチナ問題は一気に地獄への坂道を転がり始めた。
 第二次世界大戦の帰趨が連合国側の勝利で確定し始めるのに応じて、ユダヤ人難民問題が表面化し始める。1944年末頃、ユダヤシオニズムとイギリスが、「マクドナルド白書」を廻って対立し始めた。ベングリオンは、ナチスの迫害によって生じた10万人のユダヤ人難民のパレスチナ移住を求めたが、イギリス政府の管掌する委任統治政府は受け入れを拒否する。ハガナーが救出したユダヤ人難民達はパレスチナやキプロスの難民収容所に押し込まれた。
1945.8月  第二次世界大戦終了。ナチスによるユダヤ人大虐殺のことが明るみに出るにつれ、世界中の国々はユダヤ人が国を持つ権利を認めるようになる。
1945

 アラブ連盟が結成され国際連合へ加入を果たす。

 シオニズム・ユダヤは、祖国建設の願いをイギリスに託すのは諦め、自力で祖国を建設すべく本格的な反英闘争を開始した。当時のパレスチナには約60万人のユダヤ人と90万人のアラブ人が住んでいた。先頭に立ったのはイルグン派とレヒ派であった。イルグンはアメリカの新聞界に人脈を持ち、その活動を派手に宣伝していった。特に1945.5.4日、アッコー刑務所の壁をぶち破って収監中のメンバーを救出した事件がアメリカ世論に受け、おかげでスポンサーが大勢ついてイルグンの活動はますます派手になった。
1945.8.31  イルグン派とレヒ派の両過激派が次第に支持を増し始め、このままではシオニズムが極右化することを恐れた元社会主義者でもあったベングリオンは負けてはならじと反英闘争を開始した。ベングリオンは、武力行使の一方、パレスチナ問題解決のため独自の外交を進めた。その甲斐あってアメリカのトルーマン大統領(ルーズベルト以上にシオニズムに好意的だった)の後押しにより、パレスチナ問題解決のための米英合同の調査委員会が開かれた。
1945.10月  ベングリオンは、ハガナーの司令部を用心深くもパリに移し、自身もパリへ移動してから(このため、彼は逮捕や暗殺から逃れることが出来た)、パルマッハにイギリス軍に対するテロ攻撃を命じた。パルマッハは、イルグン派やレヒ派のような闇雲な破壊や暗殺は行わず、難民収容所の解放を主要な作戦目標としていたが、イギリス軍から見れば新たな強敵の出現となった。ハガナーは、引き続き難民救出作戦(=不法移民)を継続し、難民船と臨検しようとするイギリス艦艇との間で衝突を重ねた。
1946.5月  第二次大戦後パレスチナを調査していた米英合同調査委員会が現地を視察し、ナチ・ドイツの迫害を逃れたユダヤ人難民10万のパレスチナへの即時受け入れを勧告したが、イギリスのベバン外相は、現地での抵抗は必死として反対した。ベバンは「アメリカはユダヤ人を入国させたくないのでパレスチナへの移住をすすめている」と拒否した。この頃すでにユダヤ人の国家基盤は労働総同盟やユダヤ基金、ユダヤ機関を中心に、ほぼ完成していた。
1946.5月  米英合同調査委員会は、1・国際連合によるパレスチナの暫定統治。ただし分割はしない。2・10万人の難民受け入れ(ベングリオンが要求していた問題)。3・マクドナルド白書以来の、ユダヤ人の土地取得制限の撤廃。 を骨子とする報告書を発表しようとしていた。ところが、報告書発表の直前、6人のイギリス兵がレヒ派に殺害される事件が発生し、委任統治政府は難民受け入れに難色を示し、イギリスの議会もテロ組織の武装解除の方が先決だということで報告書を承認しなかった。

 この一件で、シオニズム派ユダヤ人とイギリスとの間に和解の可能性が無くなった。1946年も半ばになると、ユダヤ人の反英テロに加え、アラブ過激派の対ユダヤテロも頻発し始めた。テルアビブのユダヤ機関ビルが爆破される事件も発生した。一部イギリス軍人が無差別テロにはしり、パレスチナはさながら地獄の釜を開けたような悲惨な状態に陥った。
1946.6.29日  イギリス軍は、パレスチナの治安を回復すべく精鋭の第6空挺師団をテルアビブに派遣して、、「ブロードサイド作戦」を発動、ユダヤ機関やヒスタドルートも含めたユダヤ人団体の家宅捜索と幹部の逮捕に乗り出した。安息日のこの日、ユダヤ側は完全に不意をつかれ、パレスチナ全土で2700人のユダヤ人が逮捕された。ベングリオンはパリに居て無事だったが、武器類と武器製造用の工作機械が根こそぎにされ、ハガナーは大打撃を受けた。ユダヤ地下闘争組織「イルグン」のメンバー7人を処刑。
1946.7月  ブロードサイド作戦の一ヵ月後、ユダヤ地下闘争組織「イルグン」は警告を発した後、委任統治政府の臨時庁舎や駐留軍司令部などの重要施設が置かれていたエルサレムのキング・ダビデ・ホテル爆発事件が起こり、91人が死亡(ただし、内17人はユダヤ人だった)、100人以上が負傷する大惨事となった。犯人はイルグン。ブロードサイド作戦の報復だった。
1946.9月  イギリス政府はもう一度、問題解決の主導権獲得を試みるため、和平会議を呼びかける。しかし、ユダヤ人側は出席を拒否。パレスチナは騒乱状態となる。
1947  死海文書発見される。
1947.2.19  英国はついに匙を投げ、手におえなくなったパレスチナ問題の解決を国連に委ねると一方的に宣言した。パレスチナ紛争に対するイギリスの場当たり外交の頓挫であった。これにより、パレスティナ内の対立は激化し、ユダヤ人による対イギリステロが大量に発生し、国際世論にまでおよんだ。
1947.5月

 国連はイギリスの無責任な要請を受けいれ、「パレスチナ問題特別委員会」が開設された。委員会はテロの応酬の中、12回の現地調査を行なう。しかし、パレスチナをユダヤ、アラブ間で分割するかどうかについて明確な結論を下すことが出来なかった。しかし、アメリカとソビエトが分割案支持を表明したため、委員会もパレスチナ分割の方向に傾いて行く。ここに奇妙な米ソの一致が見られた。

 問題はその分割案の内容であった。1946年の段階で、ユダヤ人の所有地はテルアビブ周辺とガリラヤを中心に全体の10%程度に過ぎなかったが、分割案ではユダヤ人地区はパレスチナの半分に及んでいた。アラブ側にとっては不公平極まりなく、アラブ諸国は激しく反発した。

1947.7月  イギリス艦隊は、4530人のユダヤ移民を満載した秘密移民船「エクソダス1947」号を捕まえ、フランスに追い返し、ドイツのイギリス隔離地区に収容する。しかしこの模様は逐一ラジオで全世界に伝えられ、ユダヤ人への熱い同情を集め、国連パレスチナ分割決議への心情的な推進力となった。

 映画「栄光への脱出」で有名な「エクソダス号」事件が発生した。ベングリオンは、パレスチナに到着すればそれでよし、失敗してもキプロスの収容所をパンクさせられという両面作戦で、大型船を使った数千人単位の不法移民を計画した。この計画に基づき、5000人収容可能なアメリカの老朽客船ウォーフィールド号が用意され、マルセイユに入港した。ここでウォーフィールド号は「エクソダス号」と名を改め、4515人の難民(ほとんどはナチの強制収容所の生き残りであるドイツ系ユダヤ人)を乗せると、7.11日、フランスの出港禁止命令(勿論、イギリスが圧力をかけた)を無視してパレスチナに向かって出港した。しかし、港を出たとたんに座礁した上、出港翌日には巡洋艦1隻、駆逐艦6隻からなるイギリスの艦隊(第二次世界大戦後では最大の艦隊行動)に捕捉された。一週間後、パレスチナ沖22マイルの公海上で駆逐艦がエクソダス号に体当たり攻撃をかけて臨検を強行(国際法上は違法行為)したため、大騒動になった。


 イギリス兵の銃撃に対して、難民達は空き缶や腐った野菜を投げつけて応戦。三時間の戦闘の末、アメリカ人の船長を含めた三人の犠牲者を出しながらも、難民達は臨検隊を海に叩き込みました。エクソダス号に乗り込んでいたアメリカ人牧師がイギリス軍を説得し、それ以上の暴力沙汰にはならなかったが、体当たり攻撃で浸水していたエクソダス号は降伏。難民達は三隻の船に分けられた後、パレスチナを離れた。

 ハガナーの目論見は甘すぎたか、三隻はキプロスの収容所には寄らず、まっすぐマルセイユに向かった。フランス政府は難民受け入れを表明したが、病気の数人を除いて難民達は、「船を下りる場所はパレスチナのみである」と、下船を拒否する。マルセイユで24日間がんばった後、あきらめた三隻は、難民を乗せたまま出港した。しかしイギリスは、ハンブルグに誘導し、ここで難民達は強制的に下船させられ、リューベックの収容所に入れられた。ナチの手から逃れてきたユダヤ人達を、再びドイツの収容所に入れたこの行為に、国際世論は勿論、イギリス国内からも非難の声があがり、イギリスは今後、難民をヨーロッパには戻さないと約束せざるを得なくなった。

 エクソダス号事件により、際限の無いテロで好意的なものばかりではなかった国際世論は、ここで一気にユダヤ人側に好転した。また、事件が注目を集めたおかけで、パレスチナ問題は国際連合の最優先課題となった。ベングリオンはこの機会を逃さず、テロも含めた実力行使を停止して外交で事態を解決すべく行動を開始した。ちょうどこの時、ルーマニア政府がパレスチナに親類の居るユダヤ人の出国を認めた。またイギリスが強行策に出るかもしれないと、ベングリオンは新たな不法移民には反対だったが、15000人のユダヤ人はハガナーの用意した二隻の船でパレスチナに向かった。この二隻は拿捕されたが、エクソダス号事件の直後なので、イギリスは難民をルーマニアに戻すわけには行かず、仕方なくキプロスへと送ったた。キプロスの収容所は定員オーバーとなり、イギリスは難民を阻止する意図も放棄した。
1947.9月  これに対処すべく、国連は委任統治領パレスティナの分割決議案を提出した。

国連が、パレスチナ分割案を決議(「1947年国連決議」)】
 1947.11.29日、 イギリスの調停を受けて国連は、米ソの合意の元で国連総会を開き、国連パレスチナ特別委員会(UNSCOP)のパレスチナをアラブ、ユダヤの2ヶ国に分割し、エルサレムおよび周辺地域を国際管理下におくというパレスチナ分割案(「国連決議第181号」)を提議し、アラブ諸国の猛烈な反対にもかかわらず、賛成多数(33票、米ソ両国は賛成)で採択した。何故かソ連のウクライナとベラルーシも別の国として賛成票を投じている。

 留意すべきは、ヤルタ会談体制で東欧などでの利権を取り引したソ連がここでもアメリカに同調していることである。これは、スターリンが、米帝に同調していたというより、ネオ・シオニズムの指揮下にあったと理解すべきであろう。スターリニズムの本質はここにあると云うべきであろう。

 アラブ諸国は共同して反対(13票)を投じ、決議に対し強く反発した。棄権10。棄権に回ったのは、それまでの委任統治国イギリス、ユーゴスラビアを除く東西ヨーロッパの加盟国全部、カナダ、オーストラリア、ニュージランド、南アフリカ連邦(みんな宗主国には従わなかった)、パナマ、ブラジルなど多くの中南米諸国、カリブ海からハイチとドミニカ、そして何故かフィリピン。反対票を投じたのは、アフガニスタン、エジプト、ギリシア、インド、キューバ、イラン、イラク、イエメン、トルコ、レバノン、パキスタン、サウジアラビア、シリア(国連に加盟していなかったのか、トランスヨルダンの名前が見当たらない)。

 分割案それ自体の作られ方にも重大な問題があった。パレスチナの地を、アラブ地区、ユダヤ地区の二つの国に分け、エルサレムおよび周辺地域を国際管理下に置くという三分割案であった。当時シオニストが所有していた土地は、パレス チナの7%にすぎなかったのに、決議案は57(56.4)%をユダヤ人に割り当てていた。最も農地である地中海沿岸地区と、将来有望なネゲブ砂漠が丸ごとユダヤ人地区に編入されていた。特に、ヨルダン川の水利を押える狙いと、地中海からアラビア湾に抜ける回廊を確保するという、スエズ運河制圧の意図が露骨に現われていた。アラブ国家に42.88%、エルサレム国際地帯に0.65%であった。

 この間、世界のマスコミを支配するネオ・シオニストが、ホロコーストプロパガンダを煽り、ユダヤ人に対する同情論が喚起された。かくて、国際世論がユダヤ人国家の建設に同意した風となった。ユダヤ人の祖国立国運動、シオニズムの波に乗って東欧からのパレスチナへの移民が続いた。

 これにより、1917年のバルフォア宣言の「英国政府は、パレスチナにユダヤ人のナショナルホームを建設することに賛意を表する」に基づく、1922年の国際連盟による英国へのパレスチナ委任統治負託が終わった。6ヶ月後、イギリスがパレスチナから撤退する。シオニズム : 一応の解決。さらに翌年 5.14 独立宣言。 アラブ諸国により構成されていたアラブ連盟は、ユダヤ人国家を武力で阻止すると宣言した。アラブとユダヤは武力衝突に突入した。

 アラブ人社会の怒りは大きく、イギリスに協力的だった穏健派も態度が一変、11月29日を「服喪と圧政の日」として、大々的な反英反ユダヤ闘争の開始を呼びかけた。反応はすばやく、翌30日には7人のユダヤ人が殺され、決議案に賛成票を投じた国の領事館がデモ隊に襲撃された。決議案発表後の12日間で32人のアラブ人と79人のユダヤ人が殺された。こうした事態にイルグンやレヒが黙っているはずも無く、たちまちパレスチナ全土をテロと流血が覆った。アラブ側も負けてはおらず、12月17日、アラブ連盟は国連によるパレスチナ分割を断固阻止するという声明を発し、ユダヤ人に対するジハードの遂行を訴えました。

 決議案からイスラエルの独立宣言までの約半年間は「非公式のパレスチナ戦争」と呼ばれている。その「戦争」の最中、この上パレスチナに関わる気の無いイギリス軍は、(キングダビッドホテル爆破事件に懲りて)要塞化されたビルに立て篭もって何もしようとはせず、あまつさえイギリス政府は、国連決議に定められた撤退期限8月1日を5月15日まで繰り上げてしまう。イギリスは、最後の最後まで無責任であった。

 頻発するテロで、周辺諸国へ脱出するアラブ人が増加しました。「パレスチナ難民」の始まりであった。このため、周辺国では難民に対する同情論が高まり、本格的な軍事介入を求める声が強まり、1948年の1月には、シリアとトランスヨルダンから約一万人の義勇兵がパレスチナに入った。

 ベングリオンは、アラブ諸国の中で最大の軍事力を持つトランスヨルダンのアブドゥッラー国王と交渉を続けた。アブドゥッラー国王は父親(フセイン師)や弟(ファイサル国王)と同じくユダヤ人には好意的で、常々、ベングリオンやワイツマン博士の祖国再建の情熱に敬意を表していた。そのため決議案採択直前、ゴルダ・メイヤとの会見の場で、彼は国連の決議案がどのような物であっても従うこと、および、この上の暴力沙汰を阻止するためにヨルダン川西岸地区を(何故か独立の動きが無いので)トランスヨルダンに併合すると約束した。

 その一方、本格的な戦争に備えて、ベングリオンは体制強化を急いだ。パレスチナ在住の17歳−23歳の男女に召集がかけられ、外国の第二次世界大戦に従軍したユダヤ系兵士(=この中の1人、アメリカのダビッド・マーカス大佐は伝説的な活躍を果たします)もかき集め、ハガナーを中心に7万5千人の兵士をそろえた。さらに1948年2月、ベングリオンはハガナーを6つの軍管区に分け、それぞれに旅団規模の部隊が編成させ、パルマッハからも三個旅団を編成した。

 

 元エジプト国防相・サル・ハルプ・パシャがカイロの寺院前で2万人の聴衆に向かって、「我々に残されたものは、この銃とコーランだけだ」とジハード(聖戦)を訴えた。これに応えて、アラブ人3300万人が立ち上がった。

 アラブ諸国により構成されていたアラブ連盟は、国連決議を不服としてユダヤ人国家を武力で阻止すると宣言した。アラブとユダヤは武力衝突に突入した。以降今日に至る長きの中東戦争へと突入することになった。

 南インド合同教会が設立される。

1948.1月

 アラブ解放軍の第一弾が、シリア及びヨルダンより、パレスチナ進撃。

1948.2.9  アラブ側のアラブ連盟(1945年3月22日結成)総会で、パレスチナのユダヤ人国家建設を断固阻止するという決議を採択し、パレスチナではハジ・アミン・アル・フセイニ(イラクでの反乱失敗後はナチの庇護を受けていたが、アラブ諸国の反発を恐れて連合国は訴追しなかった)の元に再び過激派が結集した。アル・フセイニ自身はパレスチナから追放処分をうけていたので(一応、まだパレスチナはイギリスの統治下だった )レバノンにとどまりましたが、そこで「アラブ救世軍」を結成し、二人の甥に指揮を執らせました。

 この甥は二人とも、ナチの武装SS(←ナチ民族主義の牙城のようだが、外国人の方が多い師団もあった)で経験を積んだベテランで、特にアブドゥル・カデルという人物は、勇者として兵士の尊敬を集めていた。シリアではエル・カブーキが「アラブ解放軍」という義勇兵組織を創設した。また、ヨルダンにはイギリス人グラブ中将率いる「アラブ軍団」がいた。このアラブ軍団は、一万人のエリート兵士からなる師団で、戦車や重砲も備えた中東で最大の戦力を持つ戦闘部隊であった。ハガナーは7万5千人の兵士を擁していたが、アラブ諸国もその気になれば数十万人単位で動員可能なので、アラブ諸国は軍事力でユダヤ側を圧倒していた。しかし、アラブ側に実戦経験のある指揮官が少ない、というかアル・フセイニの甥二人とグラブ将軍以外にはいない事が問題だった。また、パレスチナでのアル・フセイニ派とナシャシビ派の対立はここに至っても解消されておらず、祖国防衛で結束するユダヤ人に対し、アラブ側の足並みは乱れがちだった。でした。


 4.9日、ベギン率いる「イルグン」とシャミル率いる「シュテルン」両ユダヤ武闘組織が、中立を表明していたデイル・ヤーシーン村を総攻撃。無抵抗の住民254人が虐殺され、生き残った者は血だらけの服のままエルサレムで「勝利の行進」をさせられた。(悪名高い「デイル・ヤーシーン事件」)。中立の村でさえこんな目に合うと知った他の村々は、ユダヤ移民の凶暴さにパニックに陥った。4.13日、エルサレムのスコーパス山病院へ向かうユダヤ側の病院職員が、「デイル・ヤーシーン」と叫ぶアラブ人グループの報復テロに合い、40人惨殺される。5.12日、進攻したアラブ軍によって、ユダヤ人移民200人の住むクファル・エチオンが全滅。アイン・アッゼイトネ村では、37人の少年がユダヤ人の軍隊に引き立てられたまま消えた。サフサの村では4人の少女がユダヤ人に強姦され、70人が目隠しされて射殺された。ドワイマ村では女子供を含む80〜100人が、ユダヤ人にこん棒で頭を割られて処刑された。5.14日、イギリスの高等弁務官がパレスチナを去り、イギリスによるパレスチナ支配が終結。この日、ベン・グリオンの臨時政府が「イスラエル共和国誕生」を宣言。5.15日、アラブ6カ国軍(エジプト・トランスヨルダン・シリア・イラク・レバノン・サウジアラビア)がイスラエル共和国へ侵攻開始。以降8カ月間戦闘続く(第一次中東戦争)。5.17日、米ソ両国がイスラエル共和国を承認。

1948.3  テルアビブでユダヤ人国家の臨時政府「ユダヤ国民評議会」が発足し、ベングリオンはその長に任じられた。同時に、ハガナーが、181号決議で定められたユダヤ人地区を防衛すべく、(テロではない)組織的に軍事行動を開始した。これに対して、アブドゥル・カデルのアラブ救世軍がエルサレムのユダヤ人地区を包囲し、いよいよ本格的な戦いが始まった。

 ハガナーは、「ダレット計画」を発動した。これは大規模な破壊活動で181号決議で定められたユダヤ人地域内のアラブ社会を破壊し、住人を全て追い払おうという計画であった。これは、ユダヤ人が迫害者に変わった瞬間となった。
1948.4.1  テルアビブ−エルサレム間の連絡線の奪還を目指す「ナハション作戦」が開始された。これはハガナー初の大規模軍事行動であったが失敗。しかし、アブドゥル・カデルの首級を挙げる大戦果もあった。
1948.4.9  4.9日から10日にかけて、ハガナーがアラブ救世軍と戦っているこの頃、イツハク・シャミル率いるシュテルンとベギングループ軍事組織「イルグン」とレヒの合同部隊が、エルサレム付近のアラブ人の村、デイル・ヤーシンを襲撃し、パレスチナ人の老人や女子供も含めた254人を殺害する事件が発生した(「ディール・ヤシン事件」)。ふたりとも、後にイスラエルの首相となっている。

 デイル・ヤーシンの虐殺事件にベングリオンは驚愕し、慌ててトランスヨルダンのアブドゥッラー国王に謝罪の手紙を送ったが、アブドゥッラー国王が抱いていたシオニズムへの好意が切れた。デイル・ヤーシン事件後、イルグンの宣伝でアラブ人社会はパニックになり、事件後から一ヶ月ほどの間に10万人のアラブ人が「パレスチナ難民」として周辺諸国に脱出した。

【英国のパレスチナ委任統治終わる】
 1948.5.1日、英国のパレスチナ委任統治終わる。

 イルグンとレヒのうとましい行為は国際世論の非難を浴びた上に、ユダヤ−アラブの最後の絆を打ち砕きましたが、結果として「ダレット計画」を成功に導いた。「非公式の戦争」の間も、ユダヤ人国家の独立に向けた動きはやむことはなかった。イギリス軍の撤退期限が1948.5.14日になっており、ベングリオンはこの日にユダヤ人国家の独立宣言を予定していた。周辺アラブ諸国は、独立宣言を延期するように繰り返し警告したが、ユダヤ人達にとって、独立を延期するなど到底考えられないことであった。

 戦争必至情勢となった。独立宣言は、それまでの「義勇兵」や「武装組織」レベルではない、周辺国の正規軍による一斉攻撃を招くのは明白であったので、ベングリオンは武器の調達を急ぐ一方、全面戦争を防ぐ最後の努力を続けた。

 5.12日、アブドゥッラー国王とゴルダ・メイヤの会見が行われたが、アブドゥッラー国王の言い分は、ユダヤ人地区を含むパレスチナ全域で自分の王権を認めろというものであったが、その交渉も決裂した。




(私論.私見)



Palestinian History, A Chronology


September
Large-scale illegal Jewish immigration into Palestine resumes under Haganah control.
13 November
British foreign secretary Ernest Bevin issues White Paper announcing continued Jewish immigration into Palestine after exhaustion of 1939 White Paper quota.
1946
6 March
Anglo-American Committee of Inquiry, proposed in 1945 White Paper, arrives in Palestine.
May
Anglo-American Committee report estimates size of Jewish armed forces at around 61-69,000 people (Haganah: 58-64,000; IZL: 3-5,000; Stern: 2-300) and declares "private armies" illegal. Recommends admission of 100,000 Jews into Palestine and abolition of Land Transfers Regulations. Palestinians strike in protest.
11-12 June
Arab League meeting in Bludan, Syria, adopts secret resolutions warning Britain and U .S. that disregard for Palestinian rights will damage their oil and commercial interests in Arab world.
July
British White Paper on terrorism in Palestine accuses Haganah of cooperating with IZL and Stern Gang in acts of sabotage and violence.
22 July
Ninety-one British, Palestinian, and Jewish civil servants and visitors killed when IZL blows up wing of King David Hotel in Jerusalem housing British government secretariat.
31 July
Anglo-American Conference in London produces Morrison-Grady Plan proposing federal scheme to solve Palestine problem. Zionist and Palestinian leaders reject the plan.

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1947


26 January
London Round Table conference reopens.
7-10 February
British foreign secretary Ernest Bevin proposes variant of Morrison-Grady Plan to London Conference and Jewish Agency. Arab delegates in London and Jewish Agency reject proposal.
18 February
Bevin announces submission of Palestine problem to United
Nations.
28 April-15 May
UN General Assembly special session on Palestine problem leads to appointment of eleven-member Special Committee on Palestine (UNSCOP).
8 September
Publication of UNSCOP report. Majority of members recommends partition, minority recommends federal solution.
16-19 September
Arab League denounces UNSCOP partition recommendation, and appoints Technical Military Committee to supervise Palestinian defense needs.
26 September
Arthur Creech Jones, British colonial secretary, announces Britain's decision to end Palestine Mandate.
29 September
Arab Higher Committee rejects partition.
2 October
Jewish Agency accepts partition.
7-15 October
Arab League meets at Aley, Lebanon. Iraqi General Isma'il Safwat, chairman of Technical Committee, warns of dangers posed by Zionism at end of Mandate and urges Arab states to mobilize their utmost force and efforts to counter Zionist intentions." One million pounds sterling allocated to Technical Military Committee.
29 October
Britain says it will leave Palestine in six months if no settle-
ment reached.
27 November
Report by Safwat warns of virtual impossibility of overcoming Zionist forces with irregulars; urges prompt Arab action in organizing military force; advocates training Palestinians to defend themselves.
29 November
UN General Assembly recommends variant of UNSCOP partition plan allocating 56.5% of Palestine to Jewish state and 43% to Arab state with international enclave around Jerusalem; 33 votes for, 13 against, 10 abstentions. Arab representatives walk out (Click here to read more why Arabs rejected the U.N. partition plan).
30 November
Haganah calls up Jews in Palestine aged 17-25 to register for military service.
December
Arab League organizes Arab Liberation Army (ALA), a voluntary force of Arab irregulars under guerrilla leader Fawzi al-Qawuqji to help Palestinians resist partition.
2 December
Palestinians start three-day strike protesting UN Partition Resolution. Intercommunal clashes leave 8 Jews and 6 Palestinians dead.
8 December
Britain recommends to UN that Palestine Mandate be terminated on 15 May 1948 and independent Jewish and Palestinian states be established two weeks later.
8-17 December
Arab League Political Committee meeting in Cairo declares partition illegal and resolves to provide 10,000 rifles, 3,000 volunteers (including 500 Palestinians) and a further 1,000,000 pounds sterling to Technical Military Committee.
15 December
British announce intention to hand over policing in Tel Aviv-Petach Tiqwa area to Jews and in Jaffa to Palestinians.
17 December
Jewish Agency Executive reports that American Jews will be asked for $250 million to help Jewish community in Palestine.
21 December-late March 1948
Haganah and IZL attack villages and Bedouin settlements of coastal plain north of Tel Aviv in first coastal "clearing" operation.
31 December
Haganah and IZL paramilitary gangs perpetrate Balad al-Shaykh (Haifa) massacre, in which more than 60 civilians are murdered.
December 1947-January 1948
Arab Higher Committee organizes 275 local committees for defense of Palestinian towns and villages.

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1948


January
Palestinian guerrilla leader 'Abd al-Qadir al-Husayni secretly returns to Palestine after ten-year exile to organize resistance to partition.
8 January
First contingent of 330 ALA volunteers arrives in Palestine.
10 January
ALA assault on Jewish settlement of Kefar Szold repulsed with help of British.
14 January
Haganah concludes arms deal with Czechoslovakia for $12,280,000 worth of arms including 24,500 rifles, 5,000 light machine guns, 200 medium machine guns, 54 million rounds of ammunition, 25 Meserschmitts. By end of Mandate at least 10,740 rifles, 1,200 machine guns, 26 field guns, and 11 million rounds of ammunition arrive in Palestine. Rest of arms arrive by end of May.
16 January
British report to UN estimates 1,974 people killed or injured in Palestine from 30 November 1947-10 January 1948.
20 January
British administration announces that predominantly Jewish or Palestinian areas will be gradually handed over to local majority group in every area concerned.
21 and 28 January
Second and third contingents of 360 and 400 ALA irregulars arrive in Palestine.
January-March
JNF leaders encourage evictions from villages of Haifa area Haganah attacks villages near Lake al-Hula. Palmach attacks Negev Bedouin.
16 February
ALA mounts unsuccessful attack on Jewish settlement of Tirat Zvi north of Baysan.
18 February
Haganah calls up men and women aged 25-35 for military service.
24 February
U.S. delegate to UN says Security Council role should be to keep peace in Palestine, not enforce partition. Syrian delegate suggests appointing committee to explore possible Jewish Agency-Arab Higher Committee agreement.
March
Transjordanian prime minister Tawfiq Abu al-Huda secretly meets British foreign secretary Bevin. They agree that Transjordanian forces will enter Palestine at end of Mandate but will restrict themselves to area of Arab state outlined in partition Plan. (Click here to read our response to the Zionist claim that seven Arab armies attempt to annihilate the newly emerging "Jewish State")
5-7 March
Qawuqji enters Palestine and assumes command of ALA units in Jinin-Nablus-Tulkarm triangle within area allotted to Arab state.
6 March
Haganah declares general mobilization.
10 March
British House of Commons votes to end Mandate on 15 May. Plan Dalet finalized by Haganah. Plan provides for military conquest of area allotted by UN Partition Plan to Jewish state and of substantial Palestinian territories beyond this state's boundaries. Plan contains a series of interlocking operations.
18 March
President Truman secretly receives Chaim Weizman and pledges support for declaration of Jewish state on May 15.
19-20 March
U.S. delegate asks UN Security Council to suspend action on partition plan and to convene General Assembly special session to work on a trusteeship plan. Arabs accept limited trusteeship and truce if Jews also accept. Jewish Agency rejects trusteeship.
25 March
President Truman calls for immediate truce and says U.S. will share responsibility for temporary trusteeship.
30 March-15 May
Second coastal "clearing" operation carried out by Haganah Alexandroni brigade and other units. Attacks and expulsions drive out almost all Palestinian communities from coastal area from Haifa to Jaffa prior to British withdrawal.
1 April
Delivery of first consignment of Czech arms deal: Ship "Nora" arrives in Haifa from Yugoslavia with 4,500 rifles, 200 light machine guns, 5 million rounds of ammunition. Two hundred rifles, 400 machine guns and further ammunition ferried in by airplane. UN Security Council resolutions call for special session of General Assembly and agree to U.S. proposal for truce to be arranged through Jewish Agency and Arab Higher Committee.
4 April
Haganah launches Plan Dalet.
4-15 April
Battle of Mishmar ha-'Emeq: ALA repulsed by Haganah from Jewish settlement of Mishmar ha-'Emeq. Haganah, Carmeli, Alexandroni, and Palmach units occupy villages in Marj ibn 'Amir.
6-15 April
Operation Nachshon: In first operation of Plan Dalet Haganah Giv'ati Brigade and other units capture villages along Tel Aviv-Jerusalem road from local Palestinian militia.
8 April
'Abd al-Qadir al-Husayni, charismatic Palestinian militia commander, Jerusalem district, is killed leading counterattack to recover al-Qastal village.
9 April
IZL and Stern Gangs massacre some 250 inhabitants in village of Dayr Yasin near Jerusalem.
12 April
General Zionist Council decides to establish independent state in Palestine on 16 May.
13-20 April
Operation Har'el under Plan Dalet launched at conclusion of Operation Nachshon. Villages along Jerusalem road attacked and demolished. All subsequent Haganah operations until 15 May 1948 undertaken within framework of Plan Dalet.
15 April-25 May
Operation Yiftach: Palmach captures Safad from ALA and local militia (9-10 May). Attacks and psychological warfare used to empty villages of eastern Galilee and Galilee panhandle. Operation Matate (Broom) drives out Bedouin and villagers from area south of Rosh Pinna to Jordan River.
16-17 April
Haganah Golani brigade and Palmach units capture Tiberias as it is evacuated by British. Palestinian inhabitants flee.
17 April
Security Council resolution calls for military and political
truce.
20 April
U.S. submits Palestine trusteeship plan to UN.
21 April
Operation Misparayim (meaning scissor): British forces suddenly withdraw from Haifa precipitating all-out Haganah dawn offensive against city's Palestinian population. Offensive accompanied by heavy mortar shelling of Palestinian residential quarters.
22 April
Resistance of local Palestinian militia in Haifa collapses. Haifa's Palestinian population flees under combined Haganah shelling and ground offensives.
25 April
IZL starts massive mortar shelling of Jaffa's residential quarters; simultaneously launches ground offensive to cut off northern Manshiyeh quarter from rest of city.
26-30 April
Haganah Har'el and Etzioni brigades launch Operation Yevussi in and around Jerusalem; attack East Jerusalem residential quarter of Shaykh Jarrah but are forced to hand it over to British; capture West Jerusalem residential district of Qatamon from Palestinian irregulars. Flight of Palestinian inhabitants.
27 April-5 May
Operation Chametz: Haganah launches major ground offensive against eastern Jaffa suburbs and neighboring villages to cut off city from its hinterland. Some 50,000 civilians flee under combined IZL and Haganah attacks.
30 April
All Palestinian quarters in West Jerusalem occupied by Haganah and residents driven out.
1 May
The Zionists forces occupied and massacred more than 70 civilians from 'Ayn al-Zaytun (Safad).
3 May
175-200,000 Palestinian refugees reported to have fled from areas taken by Zionists.
8-16 May
Haganah Har'el and Giv'ati brigades undertake Operation Makkabi. Capture villages on al-Ramla-Latrun road.
9 May-1 June
Operation Barak: Strikes by Haganah Giv'ati and Negev brigades south and West of al-Ramla.
10-15 May
Golani brigade occupies Baysan, attacks villages of Baysan Valley south of Lake Tiberias.
12-14 May
Arrival of second and third Czech arms consignments for Haganah: 5,000 rifles, 1,200 machine guns, 6 million rounds of ammunition.
13 May
Arab Legion, ALA, and local militia attack and capture Jewish settlements of Etzion bloc, retaliating for attacks on Hebron road. Jaffa formally surrenders to Haganah.
13-21 May
Operation Ben-Ami: Carmeli brigade occupies Acre and coastal area north of city .
14 May
Haganah launches Operation Qilshon (Pitchfork), occupying strategic areas in Jerusalem evacuated by British and taking Palestinian residential quarters outside Old City from Arab irregulars.
Haganah launches Operation Schfifon to take Old City of Jerusalem.
State of Israel proclaimed in Tel Aviv at 4:00 P.M.
President Truman recognizes state of Israel.
15 May
British Mandate ends. Declaration of State of Israel comes into effect.
15-17 May
Lebanese regulars cross border and temporarily retake villages of Malikiyya and Qadas from Haganah, but are forced out of fortress of Nabi Yusha'.
15-28 May
Transjordanian Arab Legion troops cross River Jordan and move towards Jerusalem capturing Jewish settlements of Atarot and Newe Ya'aqov north of city (17 May). In Jerusalem, Legion retakes Shaykh Jarrah quarter (16 May), fails to capture stronghold in Notre Dame monastery (17-25 May), and takes control of Jewish Quarter of Old City (28 May).
On the 23th of May 1948, al-Tantura was perpetrated against 250 civilians and POWs.
15 May-4 June
Iraqi units cross Jordan River, are repulsed from Crusader fortress of Belvoir , and besiege settlement of Gesher for a week. Iraqi regulars move into Nablus-Jinin- Tulkarm triangle 24 May). Haganah advances on Jinin, evicting villagers (28-31 May); it attacks and briefly occupies Jinin before being repulsed (3-4 June).
15 May-7 June
Egyptian regular troops cross border, move up coast to Isdud and capture Jewish settlements of Yad Mordechai (24 May) and Nitzanim (7 June) in Negev. Another column of Egyptian irregulars moves to Bethlehem linking up with Arab Legion. In battle with IDF (21-25 May), Jewish settlement of Ramat Rachel south of Jerusalem changes hands several times and is finally retained by Jews.
16 May-10 June
Syrian columns advance over border and temporarily capture Jewish settlement of Zeniach (18-20 May), are repulsed from twin settlements of Degania (20 May), and capture settlement of Mishmar ha-Yarden (10 June). Syrians, Lebanese, and ALA recapture Malikiyya (6 June).
16-30 May
IDF Operation Ben-Nun: Israeli Sheva' and other brigades fail to capture al-Latrun from Arab Legion in attempt to open Jaffa-Jerusalem road, but occupy villages in vicinity.
20 May
UN Security Council appoints Count Folke Bernadotte as its mediator in Palestine.
22 May
UN Security Council resolution calls for ceasefire.
9-10 June
IDF Operation Yoram, launched against Arab legion by Har'el and Yiftach brigades, fails to capture al-Latrun.
11 June-8 July
First Truce.
28-29 June
Count Bernadotte suggests economic, military, and political union of Transjordan and Palestine containing Arab and Jewish states: Negev and central Palestine to go to Arabs; Western Galilee to Jews; Jerusalem to be part of Arab state with administrative autonomy for Jews; Haifa and Jaffa to be free ports and Lydda free airport. Rejected by both sides.
7 July
Security Council calls for prolongation of truce.
7-18 July
IDF Operation Dani: Capture of Lydda and al-Ramla from local militia. Population of both cities expelled. Three or four IDF brigades occupy villages along Jerusalem-Jaffa road and cluster of villages east of Jaffa. Yiftach brigade's assault on Arab Legion in al-Latrun (17 July) ends with Second Truce.
8-14 July
IDF Operation Dekel: Carmeli and Sheva' brigades push east and south from Acre, capture Nazareth from ALA under Qawuqji and occupy Lower Galilee.
8-11 July
IDF Operation An-Far: Giv'ati brigade, moving against Egyptians, empties villages south of al-Ramla in an arc between Hebron hills and coast.
9-18 July
IDF Carmeli Brigade fails to recapture the Zionist settlement of Mishmar ha-Yarden, south of Lake Tiberias, that had been occupied by Syrian troops.
15 July
UN Security Council resolution calls on governments and authorities concerned to issue indefinite ceasefire orders to their forces in Palestine to take effect within three weeks.
17 July
IDF Operation Qedem against Old City of Jerusalem is repulsed.
18 July-15 October
Second Truce.
24-26 July
IDF Operation Shoter: Carmeli, Alexandroni, and Golani brigades attack and capture three villages of Little Triangle south of Haifa.
16 August-end of September early October
Negev and Yiftach brigades attack and expel Bedouins and inhabitants of villages in Negev.
24-28 August
IDF Operation Nikayon (Cleansing): Giv'ati Brigade occupies coastal area west of Yibna and north of Isdud.
16 September
Report by UN mediator Count Bernadotte proposes new partition of Palestine: Arab state to be annexed to Transjordan and to include Negev, al-Ramla and Lydda; Jewish state in all of Galilee; internationalization of Jerusalem; return or compensation of refugees. Rejected by Arab League and Israel.
17 September
UN mediator Count Bernadotte murdered in Jerusalem by Stern Gang. Replaced by his American deputy Ralph Bunche.
15 October-9 November
IDF Operations Yo'av and ha-Har: Negev, Giv'ati, and Yiftach units move against Egyptians to capture Beersheba, Isdud, Majdal, and coastal strip as far as Yad Mordechai, and villages of Hebron Hills. Har'el brigade captures southern Jerusalem corridor.
29-31 October
IDF Operation Hiram: Upper Galilee pocket, held by Qawuqji's forces, occupied and emptied by Giv'ati, Oded, and Sheva' brigade troops. Tens of thousands flee. Israeli forces move into southern Lebanon as far as Litani River. On the 29th of October 1948, the IDF commits the famous Safsaf (Safad) massacre in which more than 60 civilians are murdered.
November
IDF Har'el Brigade expels several communities in Jerusalem corridor along border with Transjordanian forces. 4 November UN Security Council resolution calls for withdrawal of forces to positions occupied prior to 14 October and establishment of permanent truce lines.
Second week November-mid 1949
IDF expels inhabitants from villages 5-15 km inside Lebanese border, followed by expulsions from other Galilee villages.
22 December-6 January 1949
Operation Horev launched to drive Egyptians out of southern coastal strip and Negev. Asluj and al-'Awja captured. Israeli troops move into Sinai until British pressure forces withdrawal. Golani and Har'el brigades attack on Rafah ended by ceasefire (7 January).
27 December
IDF Alexandroni brigade's attack on isolated Egyptian forces in Faluja pocket is repulsed.

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1949

24 February
Israeli-Egyptian Armistice: Egypt keeps coastal strip Gaza Rafah and evacuates Faluja pocket; Asluj-al-'Awja area demilitarized.
End of February
IDF units intimidate 2-3,000 villagers into leaving Faluja pocket in violation of Israeli-Egyptian Armistice Agreement.
March
IDF Negev and Golani brigades complete occupation of Negev as far as Umm Rashrash/Eilat.
23 March
Israeli-Lebanese Armistice: Frontier of Mandate Palestine accepted; Israel withdraws from most of Lebanese territory.
3 April
Israeli-Jordanian Armistice: Jordan takes over Iraqi-held Nablus-Jinin- Tulkarm triangle but is forced to cede area around Wadi 'Ara; Israel controls Chadera-'Afula road; existing status quo in Jerusalem accepted by IDF and Arab Legion.
20 July
Syrian-Israeli Armistice: demilitarized zones established around 'En Gev and Dardara (including Mishmar ha-Yarden).

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 ●また、プレズビテリアンの 「旧約聖書学」教授オーバイド・セラーも、このことを次のように結論づけている。

「現代のパレスチナにあるユダヤ国家は、聖書や聖書預言によって正当化されるものであるというZionistたちの主張を支持するものは、『旧約聖書』にも『新約聖書』にもないということに私とともに研究している者たち全てが同意している。更に聖書預言という“約束”は、ユダヤ人やZionistだけではなく全人類に適用されるべきものである! “勝利”“救い”という言葉は本当の聖書の意味としては宗教的・霊的なものであって、政治的な敵を征服するとか崩壊させるとかいう意味のものではない。」

「『新約聖書』を信じるキリスト教徒であるならば、もともとそこに住んでいた人々から政治的、また軍事的力によって奪い取ってつくった現代のイスラエル共和国を、キリスト教徒の信仰の神の“イスラエル”と混同させてはならない。これら二つのイスラエルというものは完全に対立しているものなのである。」


●厳格な反シオニズムで超正統派ユダヤ教徒グループ「ナトレイ・カルタ」の指導者であるラビ・モシェ・ヒルシュは、1992年に以下のような声明を発表した。ちなみに彼は自らを“パレスチナ人”と呼んでいる。アシュケナジー系ユダヤ人なのであるが、パレスチナ人と同じ心を持っているという意味なのである。

 「敵であるZionistと私たちの戦いは、妥協の余地のない、まさに “神学戦争”なのである。」

 「ユダヤ人たちが全世界に追放されたのは、神の意志によるのであって、彼らが神の律法を守らなかったためである。あらゆる苦難をへて、メシア(救世主)が到来するまでそれは続く。メシア到来によってのみそれが終わるのである。それゆえに、Zionistあるいはその関係機関が神を無視して世界中からユダヤ人たちに帰ってくるように強要するのは、ユダヤ人たちをいよいよ危険に陥れる“不敬の罪”を犯していることになる。」

 「もしZionistが神を無視し続けるならば事は重大である。ここ、すなわちイスラエルは地上で最も危険な場所となろう。」 


●ところで、ジオニストのシンパはアメリカに大勢いる。

 世界中のユダヤ人の人口は約1350万人で、そのうちの約半分の580万人ものユダヤ人がアメリカに居住しているわけだが、この数は皮肉にもイスラエル共和国のユダヤ人口(460万人)を大きく上回っている。そもそもアメリカのユダヤ人たちは、1948年から1952年までのイスラエル建国にとって最も大切な時期に、わずか4000人しか移住しないという、これまた一般人には理解しがたい歴史を刻んでいる。

 ジオニスト団体の中で最も強力に組織されているのが「アメリカ・イスラエル広報委員会(AIPAC)」という親イスラエルの圧力団体である。AIPACは「アメリカ・ジオニスト評議会」を母体として1953年に創設されたものだが、政府や議会の多くの要人たちと常に連携して、アメリカの政策をイスラエルの利益と合致させるように努めている。このため、アメリカ外交全体に与える影響力は無視できないものがある。

 AIPACは“ワシントン最強のロビー”として有名であるが、議員の言動に少しでもイスラエルに批判的なところがあれば、容赦なく「反ユダヤ主義者」と決めつけ、その人物の政治生命さえ危うくしてしまう。「反ユダヤ主義者」呼ばわりされることは、ヒトラーと同類と見なされるから、アメリカでは致命的である。 


●AIPACはユダヤ人・非ユダヤ人からカンパを募り、イスラエルに送金したり、アメリカの政治家に献金したりする仕事も行なっている。ちなみに、アメリカにおいてイスラエルを援助するための献金には一切税金をかけてはならないと法律で定められているが、パレスチナ難民に献金しようものなら、たちまち税金がかけられてしまう。

 また、アメリカ政府は世界最大の借金国となった今でも、アメリカ国民の税金を使ってイスラエル共和国に毎年30億ドル以上の無償援助を続けている。


 1996年初頭のアメリカ大統領予備選において、ブキャナン候補は「今、アメリカは自分の国のことで手が一杯である。アメリカ国民の税金はアメリカ人の幸せに使われるべきであり、イスラエルへの無償援助は削減すべきだ」と主張した。するとたちまち世界中の親イスラエル団体は「反ユダヤ主義者」「過激な人種差別主義者」「ヒトラーの再生!」と非難合唱した。


 ちなみに、ロシアからパレスチナに移住して来たゴルダ・メイアという女性は第5代イスラエル首相になった時、次のように言ったといわれている。「我々ユダヤ人は、ほとんどが無神論者であることをお互いよく知っている。しかしアメリカやイギリスから多くの援助を得なければならない。ゆえに我々は信仰を持っているふりをしなければならない。」


  『新約聖書』の預言には次のような一文がある。これは高慢なジオニストたちのことを指摘しているのであろうか?
「ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たち……」(「ヨハネの黙示録」第2章 )


●さて、1992年8月20日付の朝日新聞夕刊は、アシュケナジー系ユダヤ人の由来まで踏み込まなかったものの、以下のような驚くべきニュースを報じている。「6世紀から11世紀にかけてカスピ海と黒海にまたがるハザールというトルコ系の遊牧民帝国があった。9世紀ごろ支配階級がユダヤ教に改宗、ユダヤ人以外のユダヤ帝国という世界史上まれな例としてロシアや欧米では研究されて来た。 (中略) この7月、報道写真家の広河隆一氏がロシアの考古学者と共同で一週間の発掘調査をし、カスピ海の小島から首都イティルの可能性が高い防壁や古墳群を発見した……」 ボルガ川はかつて“イティル川”と呼ばれ、カスピ海は今でもアラビア語やペルシア語で“ハザールの海”と呼ばれている。この地に残る巨大帝国の遺跡群は、ジオニストたちに「おまえたちの故郷はパレスチナ地方ではなく、カスピ海沿岸のステップ草原である」ということを訴えているようだが……


ユダヤ問題特集
 
(全10章まとめて掲載)
第1章
はじめに
(最初に読んでね)
第2章
世界史のタブーである
東洋系ユダヤ人と白人系ユダヤ人のルーツ
96/7/01投稿
第3章
世界史最大の謎の1つ
失われたイスラエル10支族の謎とは?
96/7/01投稿
第4章
イエス登場を境に大分裂してしまった
イスラエル2支族
96/7/02投稿
第5章
世界の嫌われ者になった
ユダヤ人の苦難
96/7/02投稿
第6章
ユダヤ人の世界的解放と
ユダヤ民族主義(シオン主義)の台頭
96/7/02投稿
第7章
現在も続くシオニストたちの
反セム主義活動
96/7/06投稿
第8章
栄華を極める世界最大最強の
ロスチャイルド財閥
96/7/11投稿
第9章
イスラエル共和国建国の背後にひそむ
十字軍の亡霊
96/8/12投稿
第10章
ユダヤ教徒の世紀末メシア待望運動と
失われた10支族探し
96/7/01投稿
 

 そもそも初期のジオニストたちの間では、新国家をどこに建国するかで、もめていたのです! 

 また、イギリスのユダヤ人作家イスラエル・ザングウィルは、テキサス州とオクラホマ州の一部の土地を購入して「ユダヤ州」を作ろうという提案をしていました。

 なお、ユダヤ長老議会で正式に不採用となったヘルツルの「マダガスカル移住案」は、その後、ポーランド政府が自国内のユダヤ人を移住させるための計画として採用しました。また、1933年まで、ドイツ社会党の重要な綱領の一つとして、同党はパンフレットを作ってその問題を宣伝し続け、1940年には、ヒトラーが400万人のユダヤ人をマダガスカル島に移住させるための具体的な計画を立てていたと言われていますが、戦局が困難に陥ったため、2年後に放棄されてしまったとのことです。

 ●十字軍時代以降のパレスチナ地方を20世紀初頭まで400年間支配し続けたオスマン・トルコ帝国を解体したのは、「石油を制するものが世界を制する」ことに目覚めた大英帝国をはじめとする欧米列強であったわけですが、彼らが世界一の石油埋蔵地を確保したいがために、アラブの意向を全く無視した身勝手な中東支配戦略(植民地政策)を開始してしまったことこそが、現在のパレスチナ問題を発生させた最大原因であったと私は見ています。そして、欧米列強は中東戦略をより円滑に進める駒として、ちょうどその頃に台頭してきたジオニスト勢力のシオニズム活動を最大限に“利用”したものと見ています。

 この件について、ユダヤ人イラン・ハルヴィが著書『ユダヤ人の歴史』の中で以下のような興味深い見解を示しています。

「もともと19世紀のヨーロッパには“東方問題”というものがあった。ユダヤ人問題は徐々に東方問題の一部となった。ナポレオン3世の副官であるエルネスト・ラハランは、ヨーロッパにおけるユダヤ人問題を憂慮し、『東方の新しい問題─エジプト及びアラブ帝国=ユダヤ人の再編成』という小冊子を出していた。 (中略)“変革”という高圧的な面を持つ政治的シオニズムと西欧列強は強く結び付いた。既に達成されていた事実と既に進行していたプロセスに基づき、ヨーロッパ各国、特にイギリスは、ユダヤ人を東方に移すことによって、ヨーロッパのユダヤ人問題とヨーロッパにおける東方支配の問題を一挙に解決できると確信したのである。」

 ユダヤ原理派の最終悲願。1、ソロモン第三神殿建設。2、「ユダ家」を筆頭とする2支族と「エフライム家」を筆頭とする失われたイスラエル10支族との再統合。3、メシア(救世主)到来である。4、ハルマゲドン(人類最終戦争)の日、神が全てのユダヤ人を再び一つにまとめる。5、ハルマゲドン後のメシア到来によって本格的な祝福の時代(至福千年王国)へと入っていく

 ユダヤ人たちは2000年間に及ぶ離散生活(ディアスポラ)を余儀なくされ続けたが、第二次世界大戦後の1948年、自分たちの国家、イスラエル共和国が建国されたことによって、自分たちはやっと祝福の時期に入ったのだと認識することとなった。と同時に、近い将来起こるハルマゲドンは、ユダヤ人に対する最後の呪いの時で、そのとき全人類の3分の1、ユダヤ人の4分の3が死滅するということを覚悟している。

 機は既に熟しており、いつメシアが来てもおかしくない。

●イスラエルにある「神殿研究所」では「ソロモン第三神殿の再建予想図」を、コンピュータ・グラフィックなどを使って細部にわたって仕上げている。それは『旧約聖書』や『タルムード』や聖書考古学などの、正確な情報のインプットから生まれたものであるという。この神殿研究所では他に、来たるべき日に用いられる祭司服や神具などの製作を行ない、本格的な準備を進めているのである。

 『旧約聖書』によると、神殿の頂点に立つ大祭司には、“アロン家”の血筋でないとなることができない、と言及されているため、ちゃんとアロン家の子孫のための「祭司養成所」が設立されている。そこでの生徒数は約150人で、そのうちの15人が純粋なアロン家の子孫であるという。

●『旧約聖書』のメシアについての預言は340ヵ所あるが、キリスト教徒は、その全てがイエス・キリストに当てはまると主張している。しかし、ユダヤ教徒は絶対にそれを認めようとはしない。
そもそもユダヤ教徒の厳しい戒律生活(タルムード的生活)の中に、イエス・キリストの教えで構成されている『新約聖書』の入り込める余地はない。そのため、イエスがメシアであるという説は認められない。

 ユダヤ人はイエスを信じないので、もちろんAD(Anno Domini:キリスト紀元)という年号は使用しない。その代わりに、BCE(Before the Common Era:共通1年以前)およびCE(Common Era:共通1年以後)という年号を用いる。このユダヤ暦は西暦に3760年を足したもので、今年(1996年)は5756年になる。 

●ユダヤ人は『新約聖書』を完全に無視するが、「ヨハネの黙示録」だけは特別に信仰している。「ヨハネの黙示録」によれば、終末の日、自らをメシアだと名乗って登場する人物は「反キリスト」で、“獣”“滅びの子”“666”とも呼ばれ、世界動乱の時に愛と分かちあいを訴えて登場し、新生ローマ(国連?)の指導者として華々しい平和的活躍をするという。

 しかしある日突然、 反キリストとしての本性をあらわにし、自分こそがメシアであり神であると世界に宣言し、世界統一政府に君臨し、人類を壊滅的な大戦争に巻き込むという。『旧約聖書』の「ダニエル書」では、反キリストが聖なる場所(ソロモン神殿)に入るとき、人類史上かつてない大艱難が訪れ、その期間が短縮されないならば、人類は一人として生き残れなくなると預言しているという(-_-)。

●ユダヤ人たちは「律法」に生きるとともに、「預言」にも生きてきたわけだが、失われたイスラエル10支族に対する捜索は、単なるロマンではなく、具体的な作業に入っており、多くの学者たちも一般の人達も興味を持って進めているのは、知る人ぞ知る事実である。彼らは世界の多くの国々に対してスポットライトを当てて、厳密な民族調査をしており、風俗習慣や言語、性格などの細かい点にまで関心を払って、失われたイスラエル10支族の謎を説き明かそうと努力している。


た。シオニストは「ユダヤ人の商品だけを買う運動」などをくりひろげた。これはパレスチナ人の商店への襲撃や、そこで品物を買うユダヤ人の嫌がらせなどを導いた。

 ヘルツルが「政治外交路線」や「難民救済博愛路線」を取っていると批判して、ワイツマンの「実践シオニズム」がパレスチナに根を下ろして主流となり、やがてこれはベングリオンの「建国強硬路線」にとってかわられていく。

 ベングリオンの指導のもとに、ユダヤ人の独立国家をつくる基盤は着々と準備された。彼はシオニスト労働党マパイの指導者で、労働総同盟代表、ユダヤ人代表機関議長を経て、やがて初代イスラエル首相になる。このマパイ、労働総同盟に基盤を持つシオニストの主流の潮流が、そののち長くイスラエルを牛耳ることになるのである。

 これに対するもう一つのシオニズムの潮流のことにもふれておきたい。それは修正派シオニストである。これはジャポチンスキーに指導され、ユダヤの武装、パレスチナ人の追放、イギリス人との非妥協、ヨルダン川東西の岸を含む大イスラエル復活などを唱え、やがてベギン首相のイングルや、イツハック・シャミール(1987年の首相)のシュテルンなどの、ユダヤ人テロ組織を生み出していく。

参考文献・広河隆一著「パレスチナ」岩波新書より。

次回は、「キリスト教社会の勝手な都合?」

 フランス革命を契機として、ヨーロッパの各国はユダヤ人を解放したかに見えた。ユダヤ系のキリスト教社会への同化の動きが大きくなった。ナチス台頭前のドイツでは、その様な人々が圧倒的に主流になっていったのである。

 しかし、シオニズムは同化に反対した。ヘルツルは、ヒットラーが権力を握るはるか前に、「反ユダヤ主義者は、我々の最も頼りになる友人」であるとか、「反ユダヤ主義的な国家は、我々の同盟者」であるとか言う発言をしたという。まるで、のちのシオニストとナチス政府の、一時の協力関係を予言するような発言である。

 シオニストとナチス政府の協力の代表的なものは、ユダヤ系の人々の輸送計画「ハヴァラー」であった。ナチスのアイヒマンが捕らえられたとき、こうした詳細が明らかとなり、彼が殺した人より、助けた(つまりドイツ支配地域外に移送した)人の方が圧倒的に多い、と言ったのはこのことだった。このほか、シオニズムの側からユダヤ系住民の名簿をナチスに渡し、一部金持ちのユダヤ系の人だけを助けようとした記録が残っている。

 ところで、ユダヤ系の人々を迫害したのは、ナチスだけに見られた現象ではない。差別の長い歴史を持つヨーロッパの各国は、「ナチスのあと生き残ったユダヤ系の人を自国で引き受けようとはしなかった」

 アメリカのように、収容所のユダヤ系の人の引き受け計画を、同国のユダヤ系住民が反対して潰した例もあった。また自国で引き受けようとしたユダヤ系団体と、それに反対するシオニストが激しく対立したこともあった。そしてほとんどの場合、ヨーロッパの各国は、ナチスが敗れたあとも、口では人道的なことを言っていながら、ユダヤ系住民を邪魔者にし、「追放先」としてパレスチナを考え、そこに国家をつくるシオニズムを支援したのであった。ユダヤ人国家イスラエルは、キリスト教社会にとっても必要な存在だった。


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