4481 パレスチナ問題を解くための歴史1、古代史篇

 (最新見直し2005.12.17日)

 ユダヤ人問題正太郎のイスラエルを調べよう、「世界に拡がるユダや・聖書伝説」(新人物往来社の別冊歴史読本)その他も参照しつつ以下書き付けた。

 シオニズムの文言的由来は次の通り。ヘブライ語の“ツィオン(シオン)”が原意であり、イスラエルの首都エルサレム市旧市街周辺の丘陵地帯にある小高い山「シオンの丘」の別称である。旧約聖書「列王記」によれば、紀元前1000年頃、イスラエル王国第二代王・ダビデが、先住民エブス人の城塞都市を攻め落とし、イスラエル王国の首都と定めた後、その息子ソロモン王が荘厳な神殿を築き、モーゼが神から与えられたとされる十戒が刻まれた石版(アーク)を安置して以来、この地はユダヤ民族の信仰の中心となった。

 こうして、「シオンの丘」は、ユダヤ人(民族)を象徴する「かっての栄光の地」であり、ユダヤ精神の鼓舞地となってきた。旧約聖書は、パレスチナを「約束の大地」、「乳と蜜の流れる地」と書かれており、国家を持たないユダヤ人にとって「シオンの丘」を含むパレスチナ一帯は「回帰すべき安住の地」として憧憬され続けていくことになった。

 
 他方、
「シオンの丘」は、キリストが処刑された場所でもあり、イスラム教ではマホメットが昇天した地とされており、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖地になっている。


 2004.2.13日 れんだいこ拝
 


【紀元前40世紀、アブラハムの時代】
 約4000年前(紀元前2000年)、古代バビロニア王国が隆盛を誇っていた時代、メソポタミア地方に一つの家族が住んでいた。家族の長の名はアブラム(後に、アブラハムと呼ばれることになる)。ユダヤの民史はこれより始まる。このことにより、アブラハムがユダヤ史上「民族の父」と云われる。

 アブラムの時代の古代バビロニアでは偶像崇拝と多神教が流行していた。家の中にも外にも様々な神が祭られ、人々は様々な神を信じていた。その時代に、アブラムが唯一神「エホバ」を信じた。アブラムはある日、その神の声を聞いた。神はアブラムにこう言ったと聖書に記されている。「この地をでて私の示すところへ行け」と。その時75歳のアブラムは躊躇することなくパレスチナへ向けて一家で旅立った。

 アブラハム一族は広大なメソポタミアの平原を羊とともに移動しながら暮らしていた。そのため地元のメソポタミアの人々は、彼らのことを「移動する人々」という意味で「ハビル人」と呼んだ。後に、彼らはユーフラテス川地域からパレスチナ地方、エジプトへ移動したため、「川の対岸からやって来て彷徨する人」という意味でハビル人→ヘブル人→ヘブライ人と呼ばれる。その言葉通りアブラムとその家族は長い間彷徨し続けた。

 使徒言行録第7章」には次のように記されている。「わたしたちの父がメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました」。これによれば、メソポタミアからハランに移ったことになる。

 このハランに住んでいる時、神がアブラハムに次の託宣をしている。「カナンの地へ移れ。いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる。彼の子孫は、外国に移住し、四百年の間、奴隷にされて虐げられる。彼らを奴隷にする国民は、わたしが裁く。その後、彼らはその国から脱出し、この場所でわたしを礼拝する」。神は次のようにも宣べたと伝えられている。「あなたがたは神と契約により結ばれた子である。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』」。ユダヤの民の選民思想はここに由来する。神とアブラハムのこの契約は、割礼によって証された。この割礼がユダヤの民の証となった。


 アブラハムは神の命令に従い、約束の地カナン(今で言うパレスチナ)に着いた。この時、「財産を何も与えられず、一歩の幅の土地さえも無かった」。アブラムは、ヘブロンに家を造った。ヘブロンはエルサレムの南40キロにあり、ダビデが王となったユダ王国の首都で、後にエルサレムへ遷都する。その故事により、太祖アブラハムの墓所「マクベラの洞窟聖堂」が祀られている。旧約聖書は、アブラハムがカルデアのウル(メソポタミア)からカナン(パレスチナ)へ導かれ民族の祖先に選ばれ、唯一神の信仰者となった経緯を記している。

 アブラムには子供がいなかった。妻のサライとの間には子供がなく、子孫が絶えようとしていた。そこで、女奴隷のハガルとの間に一子をもうけた。イシュマエルである。子供の出来ないサライの悲しみはイシュマエルが成長するにつれ、ますます大きくなっていった。

 時が流れ、アブラムが99歳になったある日。天使達が現れ、崇高なる神を信じるアブラムに対して国民の始祖となるため今より名前を「アブラハム」と名乗るように申しつけた。アブラムは神の勅命によりアブラムをアブラハムに改名した。妻サライも「サラ」と名を変えるよう勅命され、神は彼女を祝福する意味も含めて男の子を授けると伝えた。「サラ」はその時かすかに微笑んだ。それ故サラから生まれる子供はイサク(彼は笑う)と名付けるようにと天使達は申し伝えた。

 アブラハムの子供イシュマエルは、その後バランの砂漠に行き、妻を娶り、強い部族アラビア人達を誕生させた。この部族からアラブの人々が生まれていくので、イシュマエルは「アラブ民族の父」となる。

 「サラ」は晩年に予言通りイサクを生んだ。こうして、アブラハムは、イシュマエルとイサクという2人の息子をもうけた。 イサクは、アブラハムにより生後八日目に割礼を施された。イサクは、成長してエサウとヤコブという双子の息子をもうける。イサクはヤコブに割礼を施した。ヤコブの方が家を継いだ。

 このヤコブには不思議な話が残っている。ある夜のこと、ヤボク川(死海の北45キロ地点でヨルダン川に東から合流する支流の一つ)の川岸で、ヤコブは見知らぬ男と格闘になった。ヤコブとその男の格闘は激しく長く続いた。わずかにヤコブのほうが男を上回り遂に男を打ち負かした。すると男はヤコブにこう言った。ヤコブよ、私に勝ったしるしに「イスラエル」という名前をお前にやろう。神(エル)と争って勝つ(イスラ)神より強い者という意味の言葉であった。ヤコブは、お前は誰だ!と男にたずねた。男は天使だった。それ以来、ヤコブは神の勅命によって名前を「イスラエル」と名乗るようになった。この名前が民族の名称になっていく。彼が旧約聖書に登場する「イスラエル民族の父」となる。

 ヤコブ(イスラエル)は4人の妻に12人の息子を生ませ、生まれた順にルベン、シメオン、レビ、ユダ、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル、イッサカル、ゼブルン、ヨセフ、ベニヤミンと名付けた。ヤコブは神との契りにより12人の子供にそれぞれ割礼を施した。その12人の子供がそれぞれユダヤの12部族になった。神の託宣「いつかその土地を所有地として与え、死後には子孫たちに相続させる」通り、アブラハムの子孫は次第に土地と財産を増やしていった。


【紀元前40世紀、ユダヤ十二支族の時代】
 ユダヤ民族の歴史として、族長アブラハムとその子イサク、孫のヤコブによってその幕が開かれたと、創世記に書かれている(「族長時代。アブラハム〜ヤコブ」)。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれている。この時代は族長の時代と云われ、彼らの遊牧生活の様子は、紀元前2000年〜1500年頃と思われるメソポタミアから発掘された文書に語られている。

 
父ヤコブの死後、それぞれ皆一族の長となり、ルベン族、シメオン族……という支族が誕生した。但し、レビ族だけは祭祀を司る専門職であるため、通常、イスラエル12支族には数えない。レビ族だけを抜いて数える場合、11男ヨセフの二人の息子であるマナセとエフライムを独立させ、それぞれマナセ族、エフライム族とする。

【紀元前30世紀、カナン人がパレスチナに定住】
 紀元前3000年前後、シュメール人がどこからともなく現れ、人類最初の高度な都市文明を築く(シュメール初期王朝)。この頃、カナン人がパレスチナに定住する。

【紀元前18世紀、ハンムラビ王がハンムラビ法典を制定】
 紀元前1792年、バビロン帝国にハンムラビ王が第6代皇帝として即位。王は、ハンムラビ法典を制定する。

【紀元前17世紀、ヨセフのエジプト行き】
 父ヤコブに最も可愛がられていた11男ヨセフは、一番下の弟ベニヤミンを除いた兄たちの嫉妬をかい、エジプトに売られてしまう。しかし、神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出して、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵を授けになった。遂には、ファラオかせヨセフをエジプトと王の家全体とをつかさどる大臣(エジプト首相)に任命するまでになった。

【紀元前17世紀、ヤコブ一家がエジプト移住】
 その頃、カナン(パレスチナ)の全土に飢饉が起こり、ヤコブ一族は困窮した。大きな苦難が襲った。ヤコブはエジプトに穀物があると聞いて、一族の者を向わせた。ヨセフは、血縁の兄弟たちに自分の身の上を明かし、ファラオもヨセフの一族のことを知り、ヨセフが一族をエジプトへ呼び寄せることを了承した。そこで、ヨセフは人を遣わして、父ヤコブと12人の息子達、75人の親族を招いた。

 
こうして、ヤコブ一族はエジプトに移り住む。そこで彼らを迎えたのは、ファラオに次ぐ地位であるエジプト首相に就いていた11男ヨセフだった。 ヨセフは兄弟たちを許した。しかし、待ち受けていたのは奴隷としての生活だった。毎日毎日れんがづくりをする生活となり、このれんがが当時のエジプトの都市を造った。ユダヤ人がいなければエジプトの都市建設は成り立たなかった。エジプト人はユダヤ人にれんがづくりを過酷なまでに強制し続けた。とはいえ、イスラエル一族はエジプトの地で子孫を増やして大いに栄えていくことになる。

 この間、ヤコブとその親族が死に、彼らの遺骸はシケムに移され、かってアブラハムがシケムでハモルの子らから幾らかの金で買っておいた墓に葬られた。

【紀元前15世紀、新エジプト王ファラオがユダヤの民を敵対視し始める】
 紀元前1500年前後 、ヨセフの死後、ヒクソス人が駆逐された。新しいエジプト王ファラオは、ヘブライ(ユダヤの民)の勢力を恐れ、次のように警告した。
 「イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて我々と戦い、この国を取るかもしれない」。

 ファラオは、イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待し始めた。こうして、彼らの子孫はエジプト人の奴隷となり、約400年間にわたって過酷な強制労働に苦しむことになった。
しかし、虐待されればされるほどユダヤの民は増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。

【紀元前14世紀、フェニキア文字出現】
 1300年頃、フェニキアにABC文字が出現する。

【紀元前13世紀、モーゼの出現】
 紀元前13世紀、ユダヤの民の史上最大の預言者にして指導者モーゼが出現し、歴史を一変させる。モーゼの概略についてはモーゼ考にて記すことにする。旧約聖書の出エジプト記は次のように記している。

 イスラエルの民がエジプトで奴隷の身に落ちて約400年経過した頃、モーゼが生まれた。神の目に適った美しい子で、三か月の間、父の家で育てられ、その後、捨てられたのをエジプト王ファラオの王女が拾い上げ、自分の子として育てた。モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、有能な士として成長した。

 モーゼが40歳になったときのある時、兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立った。モーゼは、ユダヤの同胞の一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺した。又次のある時、モーセは、イスラエル人が互いに争っているところに来合わせ、仲直りをさせようとして言った。「君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ」。すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言った。「誰が、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。かってエジプト人を殺したように私を殺そうとするのか」。モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せた。

 モーセは、す遊牧民の祭司の娘と結婚し、この土地で羊飼いとして静かに暮らし始めた。その間に、二人の男の子をもうけた。


 四十年たったとき、モーゼは神の託宣を受けた。概要「シナイ山に近い荒れ野において、柴の燃える炎の中で、天使がモーセの前に現れ、驚くモーセがもっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえた。『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。履物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる土地である。わたしは、エジプトにいるわたしの民の不幸と耐え難い苦悩を確かに見届け、また、その嘆きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう』。乳と密の流れるカナンの地(パレスチナ)に連れ戻せ」。

 モーゼは神から選ばれ、「私はあなたを遣わしてイスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」という啓示を受けた。これにより、モーゼは立ち、イスラエルの民の解放者となり出エジプトの指導者となる。以降、偉大なる大預言者となり、苦境の中にあったイスラエル人が待ち望んでいたメシアの地位を獲得する。

 モーゼは、イスラエルの子らに次のように宣べた。「神は、あなたがたの兄弟の中から、あなたがたのために私を預言者に立てられた。主が宣べられた。『彼が語りかけることには、何でも聞き従え。この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる』」。

【紀元前1290年、出エジプト】
 紀元前1290年、モーセは、ユダヤの民を率いてエジプトから連れ出す。パロは脱出させまいと軍隊を送った。モーセと民が紅海に達したとき、パロの軍勢が近づいていた。しかしモーセが祈り、海に向かって両腕を天に伸べたとき、海の水は左右に別れて水の壁をなし、彼らの前に乾いた道が現れた。ユダヤの民はこの乾いた道を通ってアラビア半島に渡った。全員が渡り終えると、水の壁は崩れ、追ってきていたパロの兵は全員おぼれ死んでしまった。

 こうして、モーゼは、神の示した数々の奇跡の助けを受けながら、彼らをエジプトから救いだした。奴隷の身となって400年後、ユダヤの民はモーセに率いられて、神が祖先に約束した土地エレツ・イスラエル目指してエジプトを出ることに成功した(「出エジプト」)。モーゼは、エジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導くことになる。

【紀元前1290年、モーゼがシナイ山で十戒を授かる】
 モーセはカナンに向かう途上シナイ山に登り、この時神から十戒を授けられた(「モーゼの律法考」)。十戒とは、1・我以外を神と呼んではならない。2・偶像を造って拝むな。3・神の名をみだりに唱えるな。4・安息日を守れ。5・父母を敬え・6・殺すな・7・姦淫するな・8・盗むな。9・偽証するな・10・人の物を欲するなの十箇条の律法のことを云う。モーセがシナイ山で「神との契約(旧約)」を成立させ、ここに明文化された「ヘブライ教(原ユダヤ教)」が確立される。

 この律法がユダヤ人を一つの民族として結ぶ事になった。モーセは約束の乳と蜜の地」に辿り着く直前に死んだ。
「出エジプト」は、ユダヤ人の民族の記憶に忘れられない刻印を残し、自由と解放のシンボルとなった。

 
しかし、モーゼの預言者資格を疑う者も生まれていた。彼らは、モーゼの指導を退け、エジプトをなつかしく思い、アロンに願っていた。「私達の先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです」。つまり、モーゼを疑っていたことになる。彼らは、若い雄牛の像を造り、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものを祀っていた。

 モーゼは、この連中に顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれた。それは預言者の書にこう書いてあるとおりである。「イスラエルの家よ、お前たちは荒れ野にいた四十年の間、わたしにいけにえと供え物を献げたことがあったか。お前たちは拝むために造った偶像、モレクの御輿やお前たちの神ライファンの星を担ぎ回ったのだ。だから、わたしはお前たちをバビロンのかなたへ移住させる」。

 モーゼは、荒れ野に証しの幕屋を設け、偶像崇拝を斥け、信仰の場所としていた。この幕屋は後のダビデの時代までそこにあり、ダビデの「ヤコブの家のために神の住まいが欲しい」との願いを請けて、ソロモンが「神のために家」を建てることになる。しかし、それは、教義的には次のように理解される。「主は云われる。天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか」。その意は、ソロモンが神殿を建築したけれども、ソロモンが建てたのではない。全て神の御心によって建てられたと拝すべきである、ということになる。 


 ユダヤの民は、以後40年間にも及ぶ集団放浪生活を送った。「神は、民の堕落と不信の故に、ユダヤの民を約40年間に亘って荒野や砂漠を彷徨わせた」。カナンには既に他の部族、民族が多くの国を作って暮らしており、容易には戻ることが出来なかった。イスラエルの民はシナイ砂漠を40年間流浪し続けたが、「一つの民族としての結束」は揺るがなかった。

 この間に“神”は、イスラエル民族に「十戒石板」・「マナの壷」・「アロンの杖」という三種の神器と、それを入れる「契約の聖櫃(アーク)」を授けた。これは“神”とイスラエル12支族との契約の証しで、
古代ヘブライ教(原ユダヤ教)の成立を意味した。

【紀元前1290年、ヨシュア率いるイスラエル人がカナン侵攻】
 紀元前1250年、大預言者モーセの後を引き継いだヨシュアは、イスラエル12支族を率いてヨルダン川を横断し、 約束の地カナン(パレスチナ地方)へと侵入した。イスラエル12支族は、神が約束した土地であるという大義のもとで先住民と戦い、瞬く間に征服し、七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させた。支族ごとに12の領地に分割した。この時代が約450年続く。

【紀元前11世紀、イスラエル王国の基礎が築かれる】
 それから200年間、イスラエル人はその土地のほとんどを征服(「カナンの征服」)し、それまでの遊牧生活を捨てて農民や職人となった。そして人々はある程度、経済的社会的に統合されていった。比較的平和な時代が続くが、時には戦闘も起きた。戦争が起こると、人々は、「士師」と呼ばれる指導者の下に集結した。政治的軍事的能力や信頼を集める能力のある人物が士師に登用されたが、士師は外敵と戦う必要がある時にだけ指導者として働いた。

 ここにイスラエル王国の基礎が築かれたわけだが、当初は戦争の英雄がイスラエル12支族を統治していた(士師時代)。


 その後、ペリシテ人(海岸平野に足場を持つ小アジアから移住した海洋民族)の脅威にさらされたが、この時イスラエルの部族組織が持つ本質的弱点が露わになった。人々は部族を統一し、民族を恒久的に治める支配者を求めるようになった。
紀元前1020  預言者サムエルが、ユダヤの最初の王としてサウル(初代、ベニヤミン族の者で、キシュの子)を即位させる。こうして、古代イスラエル王国が建国された。サウルは、部族組織がまだばらばらの時に王政を敷いた。
紀元前1004年  サウルが、ペリシテ軍と戦い、ギルボア山で戦死する。
紀元前1004年  羊飼いの青年ダビデ(紀元前1004−965年)がサウルの後継者として二代目王になり、へブル王国の王政を固めた(王都へブロン、「ダビデ時代」)。「私は、エッサイの子で私の心に適う者、ダビデを見いだした。彼は私の思うところをすべて行う」の言葉が為されている。

 ダビデは、士師記(ししき)の前のヨシュアの始めたカナン征服を完全に成し遂げ、12部族の統一を回復し完全な君主政治を築きあげた。ここに歴史に名を残す「イスラエル統一王国」が誕生する。

 ダビデ王は、ペリシテ人を撃破するなど軍事遠征を成功させ、近隣王国と友好同盟を結び、イスラエルをその地方の強力な勢力に作り上げた。その結果、ダビデ王の威勢はエジプトや紅海の境界からユーフラテス川岸にまで及ぶようになった。国内でもダビデは新しい統治を始めた。エルサレムを首都に定め、イスラエルの12部族を一つの王国に統一し、エルサレムと君主政治を民族の支柱においた。


 
聖書の言い伝えでは、ダビデには多彩な才能が備わっていたようだ。彼の詩の才能、音楽の才能などは、「ダビデの作」と言われている詩篇の中にうかがうことができる。
紀元前967  ダビデの息子ソロモン王(紀元前965−930年)が三代目として即位。ダビデ王の時代に隆盛した古代イスラエル王国は、ソロモン王の御代になってますます栄えた(「ソロモン時代」)。ソロモン王の時代、イスラエル史上最大の栄華を誇り良き時代となった。かくて、2500年以上前にユダヤ王国がこの地に栄えていたということになる(カナーン人の時代)。「ユダヤの民がその4000年の歴史の中で、独立国家のもとで繁栄と平和を享受できたのは、この90年のみであったことは特筆に値する」。

 ソロモン王は、近隣王国と条約を交わし、政略結婚を重ね、国内に平安を確立し、王国を当時の世界の列強国に並ぶ国に育てあげた。ソロモン王は外国との交易を広げ、銅の採鉱や金属精錬など大きな事業を進めて国の経済を発展させた。また、政略上、経済上重要な町の防備を堅め、新しい都市の建設も始めた。
紀元前965  ソロモンの建築事業で冠たるものは新都エルサレムに王宮と神殿(世に言う「ソロモン第一神殿」)を建築したことである。紀元前965年から928年にかけて建立された。これらはユダヤ人の民族生活、宗教生活の中心となった。

 旧約聖書のなかの箴言と雅歌は、ソロモンの手によるものといわれている。ソロモン王は賢人王と称されるが、派手な建設をやりすぎて国庫を使い果し、重い租税と賦役を課すという悪政に陥った。 また自分の出身部族を優待したことも他の部族を憤慨させ、君主政治と部族分離主義者との対立が次第に大きくなった。
紀元前930年  ヤラベアムを支持するルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、エフライム族、マナセ族の10支族、そしてレビ族の一部が、サマリアを首都とする「北イスラエル王国(北朝)」(首都サマリア)の建国を宣言した。イスラエル王国の南北対立が始まった。
紀元前928  ソロモン王が生没した。王の死後不満が噴出した。ソロモンの息子レハベアムが即位したが、国民に過酷な労働や重税を課した。エラフイム族のヤラベアムが反乱を開始した。戦火は王国内に拡大し、内乱へと発展した。結局、優秀な後継者に恵まれなかったため国家の衰退と分裂を招いた。古代イスラエル王国は、イスラエル王国とユダ王国の形成に向けて最終的に分裂した。予言者イザヤの時代。
紀元前925年  3代目イスラエル王ソロモンの後継者を廻って遂に「イスラエル統一王国」が大分裂し、サマリア地方の北方部族が分離する。
紀元前922年  一方、ソロモンの息子を正統と考えるユダ族、ベニヤミン族の2支族、そしてレビ族の一部は、エルサレムを首都とする「南ユダ王国(南朝)」(首都エルサレム)の建国を宣言した。こうして、古代イスラエル王国が北王国のイスラエルとユダ王国(南王国)に分裂した(王国は分裂=南北王国時代)。

 北王国(イスラエル)と南王国(ユダ)は互いに抗争した。その後、350年間分裂し続け、遂に分裂したまま南北両国共々に全滅する。

  イスラエル王国は、イスラエルの10部族が治め、サマリアを首都とする地域に、19代の王の下に200年以上の統治が続いた。一方、ユダ王国はユダとベンヤミンの2部族が治めエルサレムを首都として、ダビデ直系の王によって400年間統治された。 しかし、アッシリア帝国、バビロニア帝国が拡張を始め、先にイスラエル王国を、次にユダ王国をその支配下におさめていくことになる。
 イスラエル統一王国の分裂は、単に政治的な面にとどまらず、宗教的な面においても分裂を引き起こしてしまった。南ユダ王国は、以前と同じようにソロモン神殿で「絶対神ヤハウェ」を信仰していた。それに対して北イスラエル王国は、黄金の子牛像を作り、これを礼拝、偶像崇拝に陥ってしまった。これは「ヤロベアムの罪」と呼ばれている。

 北イスラエル王国の偶像崇拝は、日ごとに激化し、パレスチナ地方の異教の神々をも礼拝し始めた。そして、ついには本来の古代ユダヤ教とは全く異質な信仰と化してしまったのであった。これがまずかった、と『旧約聖書』では指摘されている。偶像崇拝がイスラエル10支族の霊的堕落の大きな原因となったのである。

 “神”は北イスラエル王国にエリヤ、エリシャ、ホセアといった預言者を送り、民族の霊的回復を図ったが、この預言者たちの必死の呼びかけも空しく、もはや信仰的回復は不可能となっていた。

紀元前917年  経済的に疲弊した二つの国家は外的の侵入を防ぎきれずに首都エルサレムがエジプト王シェションク1世によって陥落し、これ以降ユダヤの民はバビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマなどに移り住みイスラエルの名前は歴史の表舞台から姿を消す。エジプトの衰退後はローマ帝国が支配することになる。
紀元前908年  ユダ王国でアサが即位。偶像礼拝などを宗教的不道徳として排斥し、祭儀改革を断行。
紀元前874年  この頃、預言者エリヤとエリシャが、バール信仰と闘う。
紀元前753年  ローマが建国される。
紀元前746年  この頃、預言者アモス、ホセアが活躍。
紀元前733年  この頃、預言者イザヤが活躍。
紀元前732年  北イスラエル王国最後の王・ホシュアが即位。同国は、メソポタミア地方に勢力を急速に拡大してきたセム系遊牧民のアッシリア帝国の攻撃を受け始める。
紀元前721年  北イスラエル王国は、アッシリア帝国サルゴン2世により滅ぼされる。これにより、国土の半分がアッシリアの支配を受けることになった。エフライム族を中心とするイスラエル10部族がアッシリア帝国のバビロニアに連れ去られ、捕囚される(「 ニネベ捕囚」又は「バビロン捕囚」)。アッシリア王サルゴンの年代記によれば、「サマリア(北イスラエル王国の首都)の貴族階級2万7290人をアッシリアに連行した」とある。この系譜はそのまま消息を絶つことになる。
紀元前701年  アッシリア王センナケリブが南王国に侵攻、南王国は属国となる。この頃、預言者ミカが活動。
紀元前690年  預言者イザヤが政治犯として逮捕され、殺害される。
 北のイスラエル王国を滅ぼしたアッシリアは、新バビロニアに征服される。この二代目のネブガドネザルの建築事業で有名なのが旧約聖書の「バベル(ヘブライ語でバビロン)の塔」の記述となっている。
紀元前626年  この頃、預言者エレミヤが活躍(〜585年頃まで)。
紀元前621年  ユダ王ヨシャが民の代表をエルサレム神殿に集め、律法書の一部を読み聞かせ、宗教法を国家法に高める。
紀元前598年  ネブカドネツァル王が、エルサレム攻略。
紀元前597年  第1回バビロン捕囚。
紀元前588年  ユダ王ツェデキヤが、預言者エレミヤの助言に背き、バビロニアへの臣属関係の破棄を宣言。
紀元前587年  新バビロニア王国が、イスラエル王のセデキを捕えて、目の前で息子達を殺し、王の両目を潰した。これにより、イスラエル王が居なくなった。これによりユダ王国滅亡。第2回バビロン捕囚。
紀元前586年  北イスラエル王国滅亡を目の当たりにした南ユダ王国のユダ族中心のイスラエル2支族たちは、改めて偶像崇拝はいけないことだと自戒し、「ダビデ王統」を守り続けていった。
 北イスラエル王国滅亡136年後、残ったユダ王国も新バビロニア帝国(under Nebuchadnezzar)に征服された。ソロモン神殿が破壊され、南朝のイスラエル2支族の指導者層はバビロン(現在のイラク)に連れ去られた(「バビロン捕囚」)。この時、不滅と言われた「ソロモン神殿」が破壊された。かくて、ユダヤ民族は国も神殿も王も失うことになった。「バビロン捕囚」は50年続く。
紀元前583年  第3回バビロン捕囚。
(解説)

 「バビロン捕囚」は、ユダヤ人離散の始まりとなった。バビロニアにおいてユダヤ教は、特殊な思想体系として、国外での生活様式として非常な発展を始めた。ユダヤ人が離散の間も民族として生き残り、精神的な帰属意識を確認できたのはこのためであった。そして、一つの民族として結ばれた人々の未来を築くため、非常な勢いで浸透していったのである。 預言者は、宗教的思想家であり、神から啓示を授けられる人であると認められたカリスマ的人物であった。

  彼らは、王政時代からエルサレム崩壊後の100年間まで(紀元前586年)、神の告知の叫びを上げた。宗教、モラル、政治に関して王の相談者であり、ある時は王の批判者ともなった。 人々と神の間に立つ預言者は、正義が行われるべきだという堅い信念に動かされ、ユダヤの民族的倫理について説得力ある解説を述べた。預言者たちの行いは、神の啓示を受けて書かれた詩や散文の著作に残っており、その多くは聖書におさめられている。
 
紀元前560年  この頃から預言者イザヤが活躍し、「悲しみのメシア」の到来を予言。
紀元前538年  南ユダ王国を滅ぼした新バビロニア王国が、アケメネス朝ペルシア帝国キュロス2世によって滅亡する。それぞれの聖所に神々の像を返還する。ペルシア帝国(キュロス王)の寛容な宗教政策によって、バビロンに捕囚されていた南朝のイスラエル2支族(ユダ族とベニヤミン族)は「バビロン捕囚」より半世紀後、エルサレム(カナン)に帰還した。
紀元前520年  ユダヤ州第2代総督ゼルバベルが、ソロモン第二神殿の再建に着手する。
紀元前515年  帰還した南朝のイスラエル2支族は、かつての南ユダ王国の首都エルサレムにあって、タビデ王統のシンボルであったソロモン神殿の荒廃を嘆き、ソロモン神殿を再建する(「第二神殿」)。以後、イスラエル2支族が、祭司の指導による神政共同体を形成し、ユダヤの民は異国の支配下で堅固な城壁を廻らし国づくりを始めた。
紀元前509年  ローマで共和制が始まる。
紀元前444年  ユダヤの民はこの頃、律法を精査し、徹底した契約厳守の律法主義に基づく「新ユダヤ教」を作る。こうしてユダヤ教義を整えた。 「モーセ五書(トーラー)」が正典化され「旧約聖書」が成立したのもこの時期であると云われている。かくて、この頃ユダヤ教義を整え、これが現在のユダヤ教へと至ることになる。

 この時、ユダヤ人は神から選ばれた「選民」、エルサレム(シオン)を「聖地」、ヨルダン川西岸は神がユダヤ人に与えた「約束の地」とされた。(これにより民族的結束を固めた。今日のイスラエル政府がエルサレムの領有に固執し、シャロン首相らの右派勢力が西岸のユダヤ人入植地の拡大に拘る理由がここに遡る)
 ところで、南朝のイスラエル2支族が故郷の地に帰還したのに比べ、アッシリア帝国に捕囚されていたイスラエル10支族は帰還しなかった。帰還した者はごく一部で、大部分が帰って来なかった。滅亡したアッシリア帝国の地にも彼らの姿は無かった。かくて、ユダ2支族よりも神から多くの祝福を受けていたはずのイスラエル10支族がいつの間にか歴史の表舞台から消えてしまったことになる。イスラエル10支族の行方は世界史最大の謎の1つとされている。

 これについて、紀元1世紀の著名な歴史家フラビウス・ヨセフスは、「ユダヤ古代誌」の中で概要「イスラエル10支族は膨大な数になっていて、ユーフラテス川の彼方に広がっている」と述べている。聖書外典の「第二エズラ書」は次のように記している。概要「イスラエル10支族は絶対神ヤハウェを信仰し、過去と同じ過ちを犯さないために、信仰の邪魔する者が存在しない土地を目指した」、「これらは、ヨシア王の時代に捕らえられ、その領土から連れ出された支族である。アッシリア王シャルマネセルがこれを捕虜として連れて行き、河の向こうへ移した。こうして彼らは異国へ連れて行かれた。しかし彼らは異邦人の群れを離れ、かつて人のやからが住んだことのない更に遠い地方へ行こうと相談した。それは自分の国では守っていなかった律法をそこで守るためであった。こうして彼らはユーフラテス川の狭い径を通って入って行った」。
 ペルシアがバビロニアを滅ぼしたあと、ユダヤ人は祖国に帰ることができたが、その後も次々とペルシア、マケドニア、エジプト、シリア、ローマの支配を受けることになった。
紀元前330年  アレクサンダー大王が、イッソスの戦いでペルシャ軍に勝利する。
紀元前330年  アレクサンダー大王がアケメネス朝ペルシア帝国を滅ぼす。これによりオリエント古代史が終幕した。パレスチナの地はギリシア系の若きアレクサンダー大王の遠征によって蹂躙された。アレクサンダー大王は、ギリシャ法によって支配したが、イスラエル2支族を重用する。
紀元前323年  大王の急死により、その後継を巡って帝国はエジプトのプトレマイオス王朝とシリアのセレウコス王朝に大分裂した。セレウコス1世はアレクサンダー大王の没後、5人の将軍によって分割されていた大帝国の東部を手中に収め、同時にユダヤ教を全面禁止にした。パレスチナの地はギリシア系のプトレマイオス朝に支配され、以後ユダヤの民をギリシア化すべく狂奔する。ところが、ギリシア文明は多神教に基づいており、一神教のユダヤとは全くなじまなかった。パレスチナ地方はエジプトのプトレマイオス王朝とシリアのセレウコス王朝の覇権争いの影響をまともに受けるようになった。

 このギリシア化とユダヤ教禁止と言う上からの圧力に対して、ついにユダヤ人は王に反旗を翻して独立戦争を始め、程なく勝利を得て、ハスモン王朝を建てた(ディアドコイ戦争)。
紀元前304年  エジプトにプトレマイオス朝が建国され、パレスティナを支配する。
紀元前250年  この頃、アレクサンドリアで、旧約聖書のギリシャ語訳がほぼ完成。
紀元前198年  シリアのセレウコス朝アンティオコス3世が、プトレマイオス5世からパレスティナ、フェニキアの支配権を奪う。ユダヤ教徒は、シリアのセレウコス朝(ギリシャ系)の支配下になる。ユダヤ教上層部にギリシアへの傾倒者が増える。
紀元前167年  セレウコス朝シリアのアンティオコス4世・エピファネスは、ユダ州とサマリア州の全面的なギリシア化を宣言し、エルサレムを完全制圧。彼はソロモン第二神殿にゼウスの偶像を置き、ユダヤ人にゼウス崇拝を強要。そして反抗するユダヤ人を徹底的に弾圧。8万人のユダヤ人が虐殺され、4万人が捕囚となり、更に4万人の女・子供が奴隷として売り払われた。
紀元前165年  ハスモン家のマタテヤ(マカベヤ一族)が、セレウコス朝シリアの圧制に憤慨し、ユダヤ独立運動を開始する。
紀元前164年  ハスモン家のマタテヤ(マカベヤ一族)が反乱し、エルサレムへ進撃、ついに首都を解放した。この出来事をヘンデルが「ユダス・マカベウス」というオラトリオ(祈りの場所の意味で、聖書などのテーマからつくられた音楽劇のこと。聖譚曲ともいう)にしたしんだ。その中で「勇者を迎える歌」が歌われる。
紀元前143年  マカベヤ一族のシモンはユダヤの独立に成功(政治的独立)。シモンの孫アリストブロスがハスモン朝の独立祭司王国を開く。しかし内部抗争が絶えない。
紀元前130年  この頃、クムラン教団が創設される。
紀元前63年  ローマ帝国がシリアを征服し、ローマ軍(ポンペイウス将軍)がエルサレムに入城し、ユダヤのハスモン朝は短期間で終わり、ローマの属州シリアに組み入れられた。ユダヤは新興ローマ帝国に支配される時代に入った。ユダヤに王は存在したものの、ローマの支配下にある属国となった。ローマの支配はAD313年まで続くことになる。
紀元前47年  ユリウス・カエサルの援助を得て、クレオパトラ7世が王位を確定する(〜30年)。ヘロデず、ローマ帝国の属領ガリラヤの総督に就任する。
紀元前44年  ユリウス・カエサルが殺害される。
紀元前37年  ローマ帝国が台頭し、ローマ帝国から派遣された非ユダヤ人・エドム人のヘロデがローマ帝国の庇護のもとにローマの傀儡として即位しユダヤ王(在位前37から前4年)となる。33年間エルサレムを統治(ヘロデ王朝)する。ヘロデ王は、ユダヤ人に皇帝礼拝を強要し、エルサレム神殿を大改築している。
 この時代に、「死海文書」が書かれている。(死海文書は、イスラエルの荒野とヨルダンの砂漠にはさまれた死海のほとり、クムランの洞窟から発見された。壺に入った800本以上の洋皮紙の巻物と無数の断片には、2000年前と推定される古代ヘブライ語による文章がびっしり書き込まれていた。死海文書と新約(キリスト教)聖書との関係は、旧約聖書とユダヤ教徒の関係よりも深い、との証拠もあるとされている)。
紀元前34年  ヘロデ大王が、ローマからユダヤ人の王に任命される。
紀元前29年  オクタビアヌスが、ローマ初代皇帝となり、ここに帝政ローマが始まる。
紀元前31年  ユダヤに大地震、クムラン教団壊滅される。
紀元前30年  アントニウスとクレオパトラ7世が、オクタヴィアヌスに敗北。クレオパトラ7世自殺する。クレオパトラ7世の自害によって「プトレマイオス王朝」が滅亡する。
紀元前29年  オクタビアヌスがローマ初代皇帝となり、ここに帝政ローマが始まる。
紀元前20年  ヘロデ王が、エルサレム神殿の大改修に着手。
紀元前7年  ローマのアウグストゥス帝の勅令によりシリア全住民の戸籍登録。
紀元前4年  BC8年とも云われているが、この頃、イエスが誕生している。「マリアとヨセフの長男として、ベツレヘムの馬小屋で生まれる」とあるが、ベツレヘム誕生説は無理筋で、ガリレアのナザレで誕生したと推測される。

 “ユダヤの王”として君臨していたヘロデ王は「ユダヤの救世主誕生」の噂を耳にすると、それを阻止するために実子殺しを強行。それを恐れたイエスの両親は、イエスを連れてエジプトに逃れる。ヘロデ王の死と同時に、イエスと両親はナザレ村に帰ってきて、イエスはナザレ村で少年時代を過ごす。

紀元前4年  ヘロデ王が他界する。ローマのアウグストゥス帝の命令により王国を3分割する。ガリラヤは、ヘロデ王の第2子ヘロデ・アンティパスが相続する。
 古代ローマ帝国でユダヤ独立戦争があり、大敗を喫したオリジナル・ユダヤ人(東洋系ユダヤ人)たちは徹底的に追放された。この迫害により離散したユダヤ人のうち、イベリア半島(スペイン)に移住した東洋系ユダヤ人(セム系民族)の子孫を「スファラディ系ユダヤ人」という。

 彼らは中世において世界のユダヤ人の約半数を占め、ラディノ語を話しアラブ・イスラム文化とも同化し最も活動的であった。ちなみにこの頃、既に彼らの間では「ハザール人のユダヤ教改宗」はよく知られており、有名なユダヤ人の詩人・哲学者であるユダ・ハレビは、ハザール人の改宗について「ハ・クザリ」という詩で歌っていたという。

 しかし1492年に、スペインでキリスト教への改宗を拒否したユダヤ人に対して、徹底的な追放政策がとられると、約25万人が北アフリカ、イタリア、オスマン帝国に移住。オスマン帝国はユダヤ人を喜んで受け入れたので、「コルドバ」に代わって「テサロニケ」がスファラディ系ユダヤ人の中心地となった。 

紀元1世紀前後  選民としての誇り高いユダヤ人たちの多くは、統治者であるローマ帝国に従おうとしなかった。ユダヤ人の間でもローマ支持者と不支持者との争いが絶えず、「スカイリ(短剣党員)」という過激な集団もはびこった。当時のユダヤ教には祭司を頂点とした「サドカイ派」や「パリサイ派」、「エッセネ派」といった宗派が存在し、ユダヤ人社会は宗教的にも政治的に分裂して相争っていた。
紀元6年頃  ユダヤのイスラエルの地がローマ帝国の属州となり支配下に置かれた。ローマのアウグストゥス帝の勅令によるユダヤ人の住民登録。
18年頃  カヤパが大祭司に就任。
26年頃  ローマ人ポンティオ・ピラトがユダヤ総督に就任。
27年  この頃、洗礼者ヨハネが活動を開始する。イエスはヨハネより洗礼を受け、良き訪れと呼ぶ宣教活動を開始する。
 イエス青年が登場し、新しい神の法を説き始めた。イエスは、モーセがシナイ山で授かった神との契約(旧約)に基づく「律法主義」に固執していたパリサイ派の教義と鋭く対立した。 パリサイ派はイエス派と真っ向から激しく対立した。パリサイ派のユダヤ商人は当時のソロモン第二神殿をマーケット広場として利用し、のさばっていた。そのため、ソロモン神殿に入城したイエスに激しく罵られた。イエスはパリサイ派ユダヤ人に対して「マムシの子らよ」とか「偽善者なるパリサイ人」とか常々語っていた。そして極めつけは以下のような言葉であった。「あなたたちは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しである」(「ヨハネ伝」8章)。

 イエスを廻って、ユダヤ教各派は対応に苦慮した。
28  洗礼者ヨハネが逝去する。
30  イエスがエルサレムのゴルゴタの丘で十字架磔刑される。イエスの使徒達が三日後の復活を宣べ、キリスト教を形成し始める。ペテロ、ゼべタイの子ヤコブ、ヨハネがエルサレムに最初の教会を設立する。
32  ステパノが宗教裁判中に殺害される。
33  パウロが回心する。
35  又は36、ステファノが石打ちの刑で死にキリスト教の最初の殉教者となる。迫害者パウロ(本名サウロ)がイエスの幻を見て回心する。
38  ローマ帝国支配下のアレクサンドリアで、「ディプロストーン破壊事件」が起き、ユダヤ人迫害が起り、全市にユダヤ人の血が流れた。  
39  ヘロデ・アンティパスがガリアに追放され、他界する。
41  ユダヤ、サマリア、イドマヤが、ヘロデ王の孫のアグリツパ1世の領地となる。
42  アグリツパ1世のキリスト教迫害により、ゼべタイの子ヤコブが殉教する。ユダヤ人がローマから追放される。
46  サウロがバルナバとともに第1回伝道旅行(キプロス小アジア)に出発し、途中で名をパウロと改める。
47  宣教方針をめぐってエルサレムで使徒会議が開かれ、異邦人への宣教が認められる。ペテロ、パウロにより伝道活動が開始される。
48  又は49、パウロの第2回伝道旅行。小アジア・ギリシャに出発し、途上でテサロニケ人への第1・第2の手紙が書かれる(〜51)。
52  又は53、パウロの第3回伝道旅行。小アジア・ギリシャに出発し、途上でコリント人への第1・第2の手紙が書かれる。
54  クラウディウス帝が暗殺される。ネロがローマ皇帝に即位する(〜68)。
 この頃、マルコによる福音書が書かれる。
55  この頃、「ローマ信徒への手紙」、「コリントへの手紙」が成立する。
56  この頃、パウロがエルサレムに到着する。エルサレムにで熱心党、シカリ派が暗躍する。
57  パウロはユダヤ人に訴えられて逮捕されるが、ローマ市民であるとして皇帝に上訴する。
60  パウロはローマに到着し、以降数年を過す。フィリピ人・コロサイ人・フィレモンなどへの手紙を書く。この頃、ルカによる福音書が書かれる。続いて同じ著者によって、使徒言行録が書かれる。マタイによる福音書もこのころ成立。パウロが、ローマで監禁される。
61  エルサレムの教会を指導していたイエスの兄弟ヤコブ)殉教する。
62  この頃、イエスの弟ヤコブが殉教する。
63  パレスチナを支配するローマ帝国にユダヤ人民族派が叛乱をおこした(「ローマの圧制に対するユダヤの反乱」)。「シカリオリ(短剣党)」なる地下運動が組織され、反ローマ帝国運動に参加しない者が片っ端から暗殺された。
64  ローマ市で大火発生。ローマ皇帝ネロが、これを口実にキリスト教を迫害する。これによりイエスの直弟子ペテロ、パウロらが殉教する。ペトロは、ローマで逆さ張り付けの刑を受けて殉難した。ペトロの刑死場跡を記念して建てられた寺院がバチカンのサン・ピエトロ寺院である。エルサレムのキリスト教徒はペラへ移住する。
66  イエスが公開処刑されてから約30年後、ユダヤの地の統治者の暴虐をきっかけに熱心党(ゼロテ党)というユダヤ人レジスタンスグループがローマの守備隊を襲い、ユダヤ人とローマ軍は本格的な戦い(ユダヤ独立戦争)を開始した。ローマ帝国内のほとんどのユダヤ人は武装蜂起し、ユダヤ人の独立を試みた。

 66年から70年にかけて約5年間、第一次ユダヤ戦争と呼ばれる戦争が続いた。ローマ帝国は、シリア総督ガルルスに鎮圧を命じ、ガルルスは第12軍団を中心とする軍隊をエルサレムに送り込んだが、エルサレムの民はこれを迎撃し勝利した。
68  ネロ皇帝は、将軍ウェスパシアヌスの大軍を派遣し、ローマ軍は圧倒的軍事力によってユダヤ人の大反乱を制圧した。この戦争のユダヤ人犠牲者数は60万人とも100万人ともいわれている。以降、エルサレムはローマの直轄領植民地となり、徹底的な弾圧政策を敷いていった。ネロが自殺。
70  ローマ皇帝タイタス(ティトゥス将軍)がエルサレムを完全制圧、エルサレムのソロモン第二神殿(ユダヤ教エルサレム神殿)を完全に破壊した。この時、ローマ軍によって破壊されたユダヤ神殿の壁跡の一部が現在「嘆きの壁」と呼ばれるユダヤ人の礼拝場になっている。「嘆きの壁」には。現在も多くのユダヤ教徒が巡礼にやってきて、この壁に向かって祈りを捧げている。

 この時、エルサレム神殿の多くの聖典と宝物がクムランの洞窟をはじめとする洞窟に隠されたと言われている。(死海文書は、イスラエルの荒野とヨルダンの砂漠にはさまれた死海のほとり、クムランの洞窟から発見された。壺に入った800本以上の洋皮紙の巻物と無数の断片には、2000年前と推定される古代ヘブライ語による文章がびっしり書き込まれていた。死海文書と新約(キリスト教)聖書との関係は、旧約聖書とユダヤ教徒の関係よりも深い、との証拠もあるとされている)。
70  この頃、マルコ福音書成立。
73.5月

 クムランの施設もローマ軍に攻撃され破壊された。クムラン信徒達は死海の南西岸で抵抗を続けるマサダ要塞(死海南西部の高台にあるイスラエル最大の遺跡。ヘロデ王が離京として建設したが、後に要塞に改築された。ヘロデ大王没後はローマ軍が駐留したが、その後ユダヤ過激派が奪回し、籠城。紀元73年、ローマ軍の攻撃を前にユダヤ過激派960名全員が自決した)に合流し、ローマに対抗し続けた。

 反乱軍の一部は岩山の難攻不落の要塞「マサダの砦」に立てこもり、2年間にわたって抵抗を続けた。967名のユダヤ人が籠城し続けた。

 ローマ帝国軍8000が総攻撃。追いつめられたユダヤ人は、その最後は、960名のうち二人の女性と5名の子供を残し、全員が自決するという悲劇で幕を閉じることになった。この砦は現存し、イスラエル軍新兵は、ここで国家への忠誠を宣誓することになっており、今日のイスラエル国家独立のシンボルとして歴史化されている。ユダヤ人最後の抵抗であった「バルコホバ戦争」もハドリアヌス帝下のローマ軍に殲滅された。

 多くの命が失われ、エルサレムの占領と神殿の破壊によって、第一次ユダヤ戦争は事実上終わりを告げた。ユダヤ人は、神殿の消失により民族の精神生活の支えを失った。荒廃の中で復興に向う。

80  この頃、マタイ福音書が成立。
90  この頃、ルカ福音書、ヨハネ福音書、使徒行伝が成立する。
95  ドミティアヌス帝がキリスト教徒迫害する。この頃、第一ペテロ書、ヨハネ黙示録成立する。
100  この頃までにヨハネによる福音書ヨハネの黙示録が完成する。
 この頃、ユダヤ教徒ヤムニア会議旧約聖書正典を決定。
130  この頃、キリスト教の異端グノーシス派が、アリクサンドリア中心に活躍する。
132  再び独立戦争を起こす。ユダヤの民はバル・コホバを指導者として再びローマの圧制に蜂起する(「第二次ユダヤ戦争、バル・コホバの乱」)。れをもってユダヤ独立戦争は事実上終結し、ローマ帝国は「ユダヤ州」を「シリア・パレスチナ州」に変名。皇帝ハドリアヌス、ユダヤ教を徹底的に弾圧、大迫害開始。 パックス・ロマーナ(ローマの平和)と言われたローマ帝国絶頂期、ハドリアヌス皇帝の時のことである。 第二次ユダヤ戦争では、第一次ユダヤ戦争の時のように戦争の記録を書き残した者がいない。とにかく言い伝えによれば、ユダヤ人の最強砦50がローマ人によって破壊され、彼らの最も重要な居住地985が完全に破壊されたという。58万人のユダヤ人が殺され、ユダヤ全土が荒廃した。

 ユダヤの対ローマ戦争は事実上終結し、ローマ帝国は「ユダヤ州」を「シリア・パレスチナ州」に変名。 ユダヤ人はローマ帝国から徹底的に追放されることになる。ユダヤ人はエルサレム内に住むことを禁止されはしたが、1年に一回、城壁内を訪れることが許され、その時神殿の廃墟で祈りを捧げることとなった。
135

 ユダヤ人最後の抵抗運動第2次ユダヤ戦争(バル・コクバの乱)が敢行されるが結局失敗に終わる。その結果、ローマは、ユダヤ全土の名称をユダヤの仇敵ペリシテ人にちなんで「パレスチナ」と土地名を変更した。地名の変更のみならずユダヤ人のエルサレム立ち入りが禁止され、パレスチナの地からユダヤ人を追い払うことを決定した。

 かくて、ユダヤ人たちはパレスチナの土地から追放された。ユダヤ人の離散(ディアスポラ)はここから始まる(「流浪の民となる」)。ある者はエジプトに、ある者はバビロニアに、ある者は小アジアに、またある者は南ヨーロッパへと流浪していった。このユダヤ人の離散は「民族離散=ディアスポラ」と呼ばれている。 以降、ユダヤ人は国を持たない流浪の民族として世界各地で生きていくことになる。

(解説)
 
イスラエルの民は、この間祖国を失い、欧州やロシアに離散した。但し、イスラエルの民の特徴として、律法書(トーラ)や歴史書、詩編などを含む聖書や口伝書(タルムード)を肌身は為さず、極めて濃密なユダヤ人社会を各地につくっていった。しかし、ユダヤ人は、「キリストを売ったユダの子孫=キリストの殺外者」というレッテルを貼られ、その後のヨーロッパを支配したキリスト教国社会で絶えず、蔑視され、迫害され続けて来た。土地の所有は禁止され、頭に三角帽子をかぶされるという虐待を受け、やむなく当時の裏稼業的商業や金融業につかざるをえなかった。こうして、中世期を通じて長く差別と迫害に苦しめられることになった。

 この「ディアスポラ」は1948年にユダヤ人が自らの国家イスラエルを建国するまで、実に1900年近く続くことになった。そしてその間、ほとんどどの時代にもそしてまたどの国に住みついても、排除され、差別され、そして迫害された。
 流浪していったユダヤ人のうち、二つのグループが特に重要である。すなわちスファルディとアシュケナジである。スファルディはスペインあるいはポルトガルに住んでいたユダヤ人である。彼らはラディノ語を話し、「世間ずれしていて物わかりがよくコスモポリタン(国際人)である。彼らは例えば商人、医者、高利貸し、哲学者、王やキリスト教司祭のアドヴァイザーとして器用に立ちまわる。」それに対して、アシュケナジはドイツや東欧に住み、イディッシュ語を話す。「彼らは行商人、農奴、プロレタリアであり、赤貧洗うがごとき生活を送り、信仰においては原理主義者、正統派の伝統を固守し、救世主を熱望し、その到来を夢みる。信仰心が篤く、神に対する無限の愛があり、屈辱と迫害にじっと耐える。」(「」内はユダヤ学の研究者ロステン)
 第二次世界大戦前までは世界のユダヤ人の90%がアシュケナジであった。今では50%をわずかに上回る程度にすぎない。もちろんスファルディもアシュケナジも共に迫害された。

 この続きは「パレスチナ問題を解くための歴史2、中世史篇」に記す。





(私論.私見)

「ウィキペディアキリスト教年表