中東の民族解放闘争とイスラム「原理主義」運動

 全部転載。そのうち整理します。暫く転載させてください。

労働者による
マルクス主義研究

試論 中東の民族解放闘争とイスラム「原理主義」運動

目次
はじめに
1.現代イスラム「原理主義」運動の起点
2.タリバーンとアルカイダ
3.イスラム「原理主義」運動の階級的位相
おわりに

はじめに

2001年の9・11事件はアメリカ帝国主義を痛撃するとともに、様々な民族を含む3000人をこえる人々の犠牲をだした。
しかし、人類の真の悲劇は、むしろその約1ヶ月後に開始されたアメリカ(USA)のアフガニスタンへの戦争とともにはじまったように思われる。アフガンへの空爆は、暫定行政機構が発足した後も続いている。東部地域で結婚式場が誤爆され、60人が死亡、120人が負傷した。人生の至福の時に、最愛の家族丸ごと殺されたアフガン人たちの悲しみと憤りはどれほどのものであろう。すでに、アフガンでは、1000人を超える一般市民が空爆の犠牲となったと言われており、タリバーン兵たちの犠牲を含めると万を超える人命が失われているであろう。後述するが、タリバーン全体が9・11に関わったわけでは全然ないのだ。アメリカの戦争を止めることは急務である。
ブッシュ大統領は、「アメリカの側につくか、テロリスト(原理主義者)の側につくか」と言っている。しかし、アメリカ国家とイスラム原理主義運動は、このように常に、二者択一的に対立してきたものであろうか。
9・11が、アメリカの中東地域への侵略と抑圧に深く根差した事件であり、それへの怒りの爆発であったことは明らかだ。前述の結婚式場の誤爆のようなことはパレスチナでも、イラクでも無数に繰り返えされてきた。イラク戦争でのアメリカの劣化ウラン弾の使用などは、すでに取り返しのつかない惨事を引き起こしている。第一に非難されるべきは、アメリカ帝国主義であると言っていい。しかし、その上で、アルカイダたちが、中東地域の人民大衆の利益を代表し支持されているかと言えば、そうとはいえない。
中東の政治情勢については解らないことも多いが、左右両陣営からあまりにも乱暴な決めつけが横行しているように思われる。そこで、この試論ではイスラム原理主義運動の現代史を簡単に振り返り、原理主義運動の階級的位相について考えていく。

注)「原理主義」というのは元来キリスト教の用語で適当でない面もあるが、イスラム復興運動の最も極端な翼として、広範に使われている「原理主義運動」という用語を使った。

1.現代イスラム「原理主義運動」の起点

イスラム復興運動は、20世紀初頭のエジプトのムスリム同胞団を起源としているといわれる。帝国主義の侵略に対して、イスラム教を拠り所に迎え撃っていく運動である。それは本来、民族運動や共産主義運動に次第に歴史の席を譲っていくものとしてあったといえる。ところが、昨今イスラム原理主義運動が急速に拡大した。その起点といえば、1979年ということになるであろう。

79年2月、イランでアメリカの傀儡・パーレビ政権を打倒する革命が勝利した。パーレビの圧政に対する民衆の怒りが総蜂起となって爆発したこの革命は、クーデタとは違い、社会の根底的変革のエネルギーが宿っていた。しかし、イラン革命は、アメリカの経済封鎖やイラン・イラク戦争といった困難を背景に、国内ではホメイニ派による反対派や左翼勢力への血の弾圧によってイスラム原理主義体制(ベラヤチファギーフ)として反動的反共的に固定化されていく。弾圧は、処刑した人々をブルトーザーで埋めなければならないような過酷なものだったという。因みに、最近でもイスラム権力は批判的なジャーナリストやインテリゲンチャを次々暗殺して非難を浴びている。
ホメイニ派の伝統的宗教勢力が革命に大きな役割を担ったのは事実であるが、ホメイニらははじめからイスラム原理主義を掲げて蜂起したわけではなかった。革命は、左翼勢力や民族的リベラリストなど様々な勢力が参加して実現し、武装闘争はイスラム系を含む左翼勢力が中心を担った。したがって、イスラム原理主義体制は、むしろ革命権力が反動的に固定化される過程で形成されたといえる。
アメリカは、イスラム革命の波及を阻止するために、イラン・イラク戦争においてはイラク政府(当時すでに化学兵器を所有していた)に軍事情報や生物兵器を供給して支援した。他方、当初は(ソ連のペレストロイカまでは)、ホメイニ・イランをソ連の側に追いやらないためにイランにも兵器を売却して関係をつくっていた(イラン・コントラ事件)。
しかし、総じてイランのイスラム革命が周辺に巨大なインパクトを与えたことは事実である。(『アーヤトッラーたちのイラン』富田健次、『イスラム原理主義の復活』サラージャーベル参照)

同じ79年、ソ連はイラン革命を好機とし、それまでの人民民主党を押し立てた支配の破綻をとりもどそうとアフガニスタンに侵攻する。それは民族自決権を踏みにじる暴挙であり、アフガン人民がこぞって民族解放のたたかいに立ち上がったのは当然であった。しかし、対ソ戦を主導したムジャヘディンとアラブ義勇兵運動は、はじめからアメリカの支援を受け、アフガン人民の自己解放を裏切っていくものとしてあった。アメリカはアフガン人民の決起を反ソ反共的に利用しようと、パキスタンなどを使い膨大な武器と金の援助をイスラム勢力に提供した。また、これに呼応したアラブ義勇兵運動は、サウジアラビアなどアラブ支配階級にとっては、ビンラディンのようなフィクサーを媒介に不満分子をアフガンに厄介払いしてしまおうという思惑があったと思われる。
今の北部同盟諸派やヘクマティアル派が当時のムジャヘディンであり、タリバーン登場以前はかれらがイスラム原理主義者と言われた。

79年(78ー9年)、アラブではキャンプデービット合意があり、「アラブ民族運動の旗手」=エジプト政府が、アメリカとイスラエルに屈服していく。そして、サダト大統領はイスラム原理主義者によって射殺される。このようにアラブ世界では、左翼勢力の後退と民族主義勢力の裏切りの中で、イスラム原理主義勢力が人民の不満と反帝的エネルギーを吸引していくことになる。89年には、アルジェリアでイスラム救国戦線(FIS)が総選挙で勝利するが、アルジェ政府はこれを無効として弾圧、以降武装イスラム集団(GIA)など原理主義組識のテロルが活発化する。
エジプトやアルジェの原理主義者たちは、植民地的な貧困のどん底と政府の過酷な弾圧の中で決起しているのであるが、そのあまりに極端な思想に民衆が大きく離反しているといわれている。他方、パレスチナでは、イスラエルの暴圧に対し民族主義勢力とハマスなどのイスラム原理主義勢力、左翼勢力の民衆レベルでの統一戦線が成立している。

以上、イスラム原理主義運動は、単純にイラン革命の革命的波及としてあったわけではなく、動と反動のきわめて複雑なベクトルが伝播したものとしてあったことがわかると思う。それは、被抑圧民族の宗教として民衆の反帝的エネルギーを吸引している面と、宗教としての反共的反動的面をあわせもっているといえる。

注)アラブは、イラク以西、アラビア半島から北アフリカに至るアラビア語を話す地域であり、一つの民族がこれだけ多数の国家に分断されているのも珍しい。また、北アフリカのソマリア、スーダン、アルジェリアではアイデンティティーをイスラムに求めるアラブの部分とブラックアフリカに求める部分の内戦を含む対立がある。イラクの東の隣イランは、ペルシア人を中心にアゼルバイジャン人、クルド人などの他民族国家。アラブはスンニ派、イランはシーア派が多い。

2.タリバーンとアルカイダ

@タリバーン

89年のソ連軍撤退、92年の親ソ・ナジブラ政権崩壊後、アフガンは、イスラム勢力が民族別・宗派別に分裂して抗争を繰り広げた。それに周辺国が介入し、内戦が激化した。タジク人(ペルシア系)のラバニ派をイランとタジキスタンが、ウズベク人(トルコ系)のドスタム派をウズベキスタンが、シーア派のハザラ人勢力をイランが、パシュトゥン人のヘクマティアル派をパキスタンが支援した。

タリバーンは、94年パキスタンの神学校出身の新興勢力として同じパシュトゥン人のヘクマティアル派に替わって一挙に台頭し、96年にはアフガンの首都カブールを制圧する。
タリバーンの台頭は、旧ムジャヘディンの堕落を厳格な戒律をもって糾弾したタリバーンが民衆に支持されたという面もあるが、その快進撃を支えたのは、パキスタンとサウジアラビアを媒介になされたアメリカの支援であったといえる。アメリカは、この地域におけるロシア(ウズベキスタン・タジキスタン)とイランの影響を嫌ってタリバーンを支援した。
9・11以降は、アメリカがタリバーンを支援していたことはほとんど言及されなくなったが、それ以前は公知の事実だった。米ユノカル社と伊藤忠商事はタリバーンとパイプライン契約を結んでいた。また、タリバーンは、シーア派のイラン政府とは宿敵関係であり、イラクとも国交はない。タリバーンが国交を樹立していたのはパキスタンとサウジの二か国だけであり、このふたつの国は、それぞれ南アジアとアラブにおけるアメリカの戦略的パートナーなのである。
アメリカなどの支援を受けたタリバーンは次第に変質し、アフガン人民に対する圧政者となっていく。アフガン女性革命協会などは、「原理主義政党は、人々への裏切り、犯罪性、反民主主義、女性抑圧のいずれをとっても最悪である」と北部同盟とタリバーン、それを支援するアメリカを非難している。

では、タリバーン政権が、97年以降、次第にアメリカと疎遠になり、そのコントロールをはずれていったのはなぜであろうか。おそらく、タリバーンの後ろ盾=パキスタンが次第にアメリカから疎遠になっていったのと一体であると思われる。
戦後南アジアの大国=インドがソ連と友好関係にあったため、アメリカはパキスタンとの同盟関係を重視してきた。しかし、ソ連崩壊後、年がたつにつれアメリカにとってインドの経済的重要性が増し、印パ政策におけるパキスタン支援の立場をなし崩し的に転換し、アフガンへの関与も9・11までは、後景化していったのであろう。アメリカはアフガンを再び放置していたのである。

最後に、タリバーンと9・11の関係について若干考察したい。
タリバーンの一部がアルカイダにリンクしていたのは間違いないが(97年にアルカイダをタリバーンに引き合わせたのはパキスタンの当局者だといわれる)、タリバーン自身はアフガンのひとつの政治権力であり、その全体が、「反米聖戦」のような綱領をもっていたわけではない。一部の報道では、オマール師は「9・11はイスラエルとインドの謀略だ」と語っているとのこと。9・11直後のアメリカのビンラディン引き渡し要求に対するタリバーンの回答は、「9・11では無実のイスラム教徒も亡くなったので、ビンラディン氏の関与が証明されればイスラム諸国会議に引き渡す」というものであった。これはイスラム政治の筋を通しつつ、アメリカの要求を受け入れたものともいえる。しかし、アメリカはこれさえ拒否し、タリバーンを追いつめた。はじめからタリバーン壊滅という結論があったようなものだ。タリバーン総体が「反米テロリスト」であったかのように言うのがどれほど虚構であるか、明らかであると思う。

Aアルカイダ

アルカイダは、アフガンのアラブ義勇兵を母体とし、各国の原理主義組識の一部をリンクした組識であるとされる。ではなぜ、かつてアメリカの全面的バックアップで対ソ戦をたたかったアラブ義勇兵が反米ゲリラをたたかうようになったのだろうか? ビンラディンは、「湾岸戦争で米軍がサウジに駐留したから」というが、首肯できない。アメリカーイスラエルのパレスチナーアラブへの侵略行為と暴虐はそれ以前から繰り返されていたのだから。ここでは対ソ戦後のビンラディンたちアフガン義勇兵の足跡をたどってみる。

92年ナジブラ政権が崩壊すると、アフガンのイスラム勢力は分裂して権力闘争を繰り広げた。内戦の中でアラブからの義勇兵たちは各勢力から敬遠されるようになったという。想像するに、かれらはアラブ諸国に帰国しても生活を再建するのは困難であったろう。イスラムの英雄として送りだされたかれらは冷遇され、次第にアラブ支配階級とアメリカに不満と怒りを募らせていったと思われる。

そのような中で、ビンラディンに強い思想的影響を与えたのは、元エジプト・ジハード団(原理主義者の中心的組識)議長のアイマン・ザワヒリであった。ザワヒリは、対ソ戦をたたかうためにアフガンに来たというより、弾圧によって国内活動ができなくなり義勇兵運動にまぎれてアフガンに亡命してきたようだ。ザワヒリは、反共産主義・反帝国主義・反西欧民主主義を掲げ、エジプトにおけるイスラム政府の樹立をめざしていた。
ザワヒリの影響を受けたビンラディンは、「地球規模でのアメリカに対する聖戦」を主張するようになる。しかし、ジハード団としてエジプト政府との闘争を優先するザワヒリは、ビンラディンの主張を簡単には受け入れられなかった。
ところが転機はザワヒリの側にもやってきた。ザワヒリは眼下の敵である諜報機関としての在パキスタン・エジプト大使館を爆破する。これは大規模な戦闘であったようで金と偽造パスポートを使い果たしてしまう。そこでビンラディンの資金と組識に合流したとみられている。アルカイダとジハードの組識統一については、エジプト・ジハード団本体は、エジプトでのイスラム政府樹立を放棄するものとして、ザワヒリと決別している。(NHKヨーロッパ支局編集『追跡アルカイダ』参照。)

以上みてきたように、アルカイダの誕生は、アメリカの中東地域への侵略とその政策の破産の表現といえる。他方、アラブでのイスラム原理主義運動は次第に行き詰まり、武装闘争を放棄する翼が現れたりするなど様々な分岐をみせている。ザワヒリは欧米民主主義を否定して、「人間が社会秩序をきめること自身が堕落を招いた」としているが、このような民衆の自己解放闘争という思想を欠落した原理主義運動が国内で限界にぶつかり、その打開をビンラディンの資金と組識に求めたものがアルカイダの一連の反米ゲリラの動力であったといえる。したがってそれは、本来の意味での民族解放闘争とは次元がちがうものと思われる。

ところで、アルカイダの戦闘員がヨーロッパのイスラム系移民の青年たちであることが明らかになっている。かれらは失業とヨーロッパの排外主義のるつぼの中で、「すべての出口がふさがれている」と思えるような閉塞にある。アルカイダのような組識に思いを託さざるをえないほど追いつめられているのだ。先進国の排外主義は、後進国への植民地的支配と一体だ。あらゆる民族の人が平等に当たり前に生活できるようにならなければ、「テロル」はなくならないであろう。

(追記。アルカイダの拠点がある旧ソ連・旧ユーゴのイスラム運動にもアフガンと同じ構図が歴史的にみてとれる。すなわち、スターリン主義の民族抑圧に対するムスリムの決起に帝国主義が介入したという構図である。)

3.イスラム「原理主義」運動の階級的位相

イスラム政治運動の階級的基盤について考察したい。イスラム政治運動はイスラム圏の広範な大衆を引き込んできた(パキスタンなどでは今も大きな支持がある)。しかし、その指導層は、イスラム僧(XX師)という元来保守的なインテリゲンチャやバザールなどを仕切る小ブルジョアジーである。

帝国主義は後進国の発展を一世紀にも渡って押しとどめてきた。民族ブルジョアジーは先進国型の発展の道を閉ざされ、その中で非近代的的な生産関係も解消されずに温存されてきた。帝国主義が後進国の民族を丸ごと抑圧しているような体制の中で、抑圧される民族の側ではあらゆる階層の人々が反帝国主義的契機をもつのは当然といえる。しかし、他方イスラム運動の指導層は、本来のプロレタリアートや勤労大衆とはやはり違い、体制や帝国主義と妥協していく傾向を常にもつといえる。イスラム原理主義運動の二面性は、宗教的インテリや小商人という指導層の階級的基盤に基づく思われる。

注) 因みに、中東・アフリカ地域の政治的特徴は、ブルジョア民族主義勢力やイスラム宗教勢力、部族勢力といった大資本に対して距離を置いた中間的権力が群雄割拠していることにあると思われる。それらは、帝国主義の傀儡ではないが、また勤労大衆に依拠した反帝・革命勢力でもない。だから、親米か、反米かということでもかなり流動的である。かつてアメリカの支援を受けたイラク政権やタリバーン政権がアメリカと全面的な対立に入ったり、反米の急先鋒と思われていたソマリアのイスラム勢力や部族連合、スーダンの原理主義政権が親米を志向していたりといった具合である。

ところで、やはり二面性をもった民族ブルジョアジーに対するマルクス主義政党の立場は、自らは大衆的基盤に依拠しつつ、政治的局面によっては統一戦線を形成するというものであるべきであった。しかし、アラブ各国の共産党の主流は、ソ連外交の利害からある時はブルジョア民族運動に全面的に対立し、またある時はそれに無防備に迎合することで不意の弾圧をくらい、大衆的影響力を喪失していったという。また、パレスチナではソ連がイスラエルをいち早く承認したため共産党主流は存在できなかった。(第四インター世界大会『アラブ革命』参照)
79年のイラン革命では、共産党(ツデー党)はホメイニ派を反帝国主義的と評価を誤り、革命後大弾圧を受けた。アフガンの人民民主党はソ連の後ろ盾の下、強引な社会主義化と宗教弾圧により民衆の支持を失った。
中東の民族解放闘争とって、勤労者大衆自身の利害を代表する左翼勢力が新たに登場することが大きなテーマであると思われる。

中東ではアメリカとイスラエルの暴虐に、多くの人々がイスラムを拠り所に反撃に立ち上がっている。他方、イランなどではイスラム権力に対してあらゆる人々が自由を求めて命懸けでたたかっている。様相は単純ではない。
イスラムは現代において抑圧されたものの宗教、慣習、文化として尊重されねばならない。しかし、イスラム教に基づく政治となると、普遍性がなく行過ぎであろう。

おわりに

アメリカの中東での戦争拡大に反対していくことが何よりも大切なことと思う。
戦争への扇動が、中東地域への無知やデマゴギーを利用しておこなわれている。イスラム原理主義運動への誇大視や「アメリカ対原理主義」という単純化は事実を歪めるものと考え、イスラム原理主義運動の階級的位相について踏み込んで論じてみた。
アメリカによる戦争の危機、従属的な経済の破綻、独裁的な政府の下、苦悩する中東地域の民衆の生活と思いに少しでも肉薄できればと思う。

2002年9月

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