| 「川口大三郎君虐殺事件」考 |

(最新見直し2007.5.5日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 「党派間ゲバルト」考上極めて貴重な、革マル派が文字通りの大衆的糾弾を受けた初事例がある。早大キャンパスで巻き起こった「川口君虐殺追及集会」の一部始終の経過がそうである。どなたが考察したか不明であるが、インターネット上に「川口事件」がサイト化されている。著作権等のこともありリンク紹介に留めていたが、「70年代『内ゲバと爆弾』の時代と 語られてしまうことへの異和感1」、「70年代「内ゲバと爆弾」の時代と 語られてしまうことへの異和感2」、「70年代「内ゲバと爆弾」の時代と語られてしまうことへの異和感・資料編」のようにいつのまにか消えてしまうこともある。そこで、れんだいこが手を加えつつ取り込んでおくことにした。 「川口君事件」から得る示唆と教訓は多すぎるほど多い。川口君リンチ死を媒介にして数千人規模の学生が怒り、一党派を糾弾してしかも徹底的に吊るし上げた例、「早大行動委」が反撃に転じた革マル派と半年に及ぶ死闘戦を継続した例、革マル派の窮地を救うためかくも露骨に大学当局、機動隊が加勢した例は他にはないのではなかろうか。これは学生運動史上に伝えられていくべき貴重な体験ではなかろうか。 だがしかし、そうした貴重な意義を持つ「川口君事件」が本格的に取り上げられることは少ない。いつも決まって仕舞いには饒舌がはびこる。これは何を意味しているのだろうか。 「川口君事件」を通じて見えてくる教訓は、革マル派の暴力に対抗するのに何も難しい理屈は要らなかったということではなかろうか。少なくとも、大学当局と機動隊の力を後ろ盾とする革マル派の暴力支配に立ち上がった大勢の学生が、終局やはり暴力で捻じ伏せられたという史実は、これに抗する戦線構築に失敗したという苦い教訓であり、それ以外の方向へ認識が向かうべきだろうか。 早大学生運動史は、戦前戦後を通じて赫赫たる実績を見せている。その様は、官立の雄としての東大に在野の雄早稲田が一歩もひけをとることなく渡り合ってきた観があり、このスタイルが支持され、早稲田の「左」の伝統ともなっていた。それは、政治的イデオロギー以前のいわば各人各様の生き様として、互いに自由・自主・自律的な生き方を認め合い保障しあってきた土壌があればこそ生み出された史実であると思われる。学生運動史上輝く早大出の多くの活動家はこの土壌から生まれたのではなかったか。ところが、革マルの派暴力支配はこの伝統の圧殺という役割を意図的に引き受けており、これが大学当局をして安堵せしめ、ある種の密約さえ窺わせるものとなっていた。 「川口君事件」で決起したそれまで一般学生でしかなかった早大生の多くは、革マル派がこの伝統を理不尽に踏みにじって恥じないそのこと故に立ち上がったのではなかったか。あの怒りは凄まじかった。「早稲田民族主義」ではあったが、大事にしたい怒りであった。しかし、早大生万余の決起は結局潰された。これをどう総括するのか、これを為さない限り「川口君事件」は単に川口君の無念の死でしかなかろう。 今日、第四インター系の声明がインターネット上で公開されているのでこれをも検証してみたいと思う。が、同派の声明が、中立そうな見識のひけらかしは別として、かの局面に何がしか有効な処方箋を提示し得ていたのだろうか。もしそうであると云うなら、人類はここでは早大生は、現に暴力で立ち現われる勢力に抗するのに、暴力以外の方法で対処しえるような知恵を獲得する絶好機会であったということになる。 が、れんだいこは今もってそのような知恵を見たことも嗅いだことも無い。ギリギリの戦闘が要求されている時、「内ゲバ反対」のくさびで割って入る役割が客観的に何を意味するのか、「元の木阿弥」に戻ったキャンパスを見れば自明ではなかろうか。それでも「内ゲバ反対の唯一の党派」的な自画自賛するのは一種のヌエ論法ではないのか。れんだいこは憤然としてそう問いかけたい。この連中とは百年話し合っても通じ合わないに違いない。 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝 |
| 【事件の発端】 | ||||||
|
||||||
| 【川口君の拉致前後の様子】 |
| 「内ゲバの時代」に、川口君が捕捉される状況に付き貴重な情報が開示されている。これをれんだいこ風に纏め紹介する。 |
| 川口君は、死亡後に、中核派によって「川口君はシンパだが構成員ではない」と明らかにされており、実際には特定の左翼党派に所属していた訳ではなかった。いうなれば政治意識の高いノンセクト状態であったことになる。 その彼が、事件の1週間ほど前に、第一文学部2年J組のクラス討論会で、「革マル派の運動方針は日和見的でおかしい。中核派の方がいい」などと発言。この情報が革マル派に伝わる。革マル派は当時学内にこういう諜報網を敷いていた。川口君はこの時から革マル派に「危険分子」として付け狙われるようになった。 1970(昭和45).8.4日に中核派により革マル派の東京教育大生・海老原俊夫(21歳)君が法政大構内で殺害されて以来の両党派の対立の激しさを知れば、川口君の発言はかなり危うい発言であったことになる。逆に云えば、川口君は当時、その情況が分からないほどの未だノンポリであったことになる。 1972(昭和47).11.8日昼頃、早稲田構内で革マル派の集会が開かれていた。午後2時頃、川口君は体育の授業を終え、テレビ研究会の部室から友人3名と教室へ向かっていた。話しながら文学部前の校庭を通リ抜けようとしていたところへ革マル派の学生5名が駆けつけ、「話があるから来てくれ」と川口君を取り囲んだ。川口君が断ると、両腕を掴んで127教室に連れ込まれた。 友人3名が連れ戻そうとして教室前に駆けつけると、革マル派学生3名が立ちはだかり、「これは階級闘争のレベルの問題だ。階級闘争を担っていないお前達には関係ない」などと怒鳴り、押し問答となった。革マル派学生10名が援軍に駆けつけ、「がたがた言うな」と川口君の友人に殴りかかった。この様子は多くの学生や教授に目撃されていたが、係わり合いになるのを恐れて眺めるだけだった。 その後、テレビ研究会の部室にまで革マル派は押しかけてきて、「二文自治会はテレビ研を認めない、自己批判しろ」と脅迫、暴力でキャンパスを支配する革マル派に一般学生が手出し出来る訳もなく、川口君と親しいクラスメイトの中には自分も革マル派に殺されるのではないかと帰郷する者もいた。 犯行に関与したとみられる革マル派は7名で、ほかにカローラ運転の1名を加えた8人が関わっていたとされる。川口君は127教室とつながっている128教室で縛られて角材などで殴打され続けられ、推定時間午後9時から午後11時の間に絶命した。 この間、川口君の友人の通報を受けた久米助教授と学生副部長が127教室を4度訪れたが中に入れないようになっていた。翌11.9日午前0時半、127教室の前にカローラが止まり、ようやく教室の不法占拠が解除されたが、誰も残っていなかった。 |
| 【事件後の革マル派の対応、大学当局の対応】 |
| 11.9日、午前12時半、革マル派が声明を発表し、「川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」と事実上、殺害への関与を示唆する内容の声明を発表した。これにより、川口君は、内ゲバ殺人に巻き込まれて殺されたことが判明した。 11.11日、革マル派の馬場委員長が、「全学連の歴史に汚点を残した」と述べ辞任表明。しかし、「権力側の裁きを受けるようなことはしない」と述べ司直の手にかかる事は拒否した。 同日、革マル派は、いかにも同派らしい対応であるが、大隈講堂前に「川口君追悼」の立て看板を出しビラを配り、「川口の死を追悼する」などアジ演説を開始した。しかし、正午頃から一般学生300名が革マル派学生20名を取り巻き始め、革マル派学生の胸ぐらを掴んで涙声で怒る者も現れた。 この時、「党派抗争なら人を殺してもいいのか」と糾弾が為されると、革マル派は、「我々の町田君、海老原君も殺された」などと居直り論争となった。一般学生が、「問題をすり替えるな」、「川口君は中核派ではなかったというではないか」、「してみれば、自治会委員が自治会員を殺したということになる。その責任をどうとるのか」等々と詰め寄った。 11.13日、大学当局は、革マル派学生2人を除籍、5人を停学処分とすると発表した。 |
| 【早大生万余の決起】 |
| 【11月13日正午、早大の一般学生怒り、革マル派を捕捉し大衆糾弾集会開く】
(「内ゲバの時代」、1.14日付け毎日新聞等を参照する) |
![]() |
| 事件が伝えられるや、早大生は「もはや我慢なら無い」と立ち上がった。急遽設営された本部キャンパス前での革マル派糾弾集会に続々と集まり始めた。積年の怨みが堰を切ったかのような動きが巻き起こった。それほど一般学生をも含めた怒りが凄まじかった。それまでの革マル派の暴力支配が音を立てて崩れる瞬間であった。 11.13日正午頃、革マル派系の第一文学部自治会、全学中央自治会が文学部校舎中庭で事件後初めて「11.13反省集会」を開いていた。ヘルメットを脱いだ長髪の学生が「川口君の死に深く反省し、自己批判する」と何度もスピーカーで繰り返す。事件の責任をとって、革マル全学連委員長を辞任した馬場素明(第一文学部4年)が、「徹底的に自己批判し、深く反省する」と訴えた。約100名の同派系学生が黙りこくって耳を傾けていた。 同時刻、本部大隈銅像前キャンパスで、民青系の「革マル糾弾、暴力追放集会」が開かれていた。午後1時頃、「正義派一般学生」(まさに一般学生であった!)約300名が革マル派の集会になだれ込み、革マル派幹部に本部校舎で集会を開くべきだと要求、革マル側はそれを拒否し文学部構内の記念会堂前広場なら応ずると回答した為、やむなく記念会堂前広場で「川口君追悼、事件謝罪集会」が始まった。この時、約2000名が集まっていた。事件への関心の高さが分かる。 次第に、「これは全学的問題であり、本部キャンパスで集会を開くべきだ」との声が出始め、これに対し、革マル派の最高責任者・田中敏夫全学中央自治会委員長が「その必要はない」と拒否したため、押し問答となった。一般学生の怒りは凄まじく、革マル派幹部をムリヤリ連れ出そうとし始めた為、革マル派はキャンパスを逃げ回り始めた。一般学生がこれを追い駆け捕捉、取り押さえるという事態となった。 この頃既に、一般学生が早稲田通り馬場下交差点まであふれだしており、その中を革マル派幹部6名の両脇を押さえたまま本部キャンパスに連行した。早大学生は、革マル派の拠点・文学部構内での「11.13反省集会」を許なかったことになる。この過程で、吉本孝男など革マル派学生2名が三週間のけがをしている、と云う。 |
| 【11月13日深夜、「革マル派糾弾集会」が夜を徹して続行される】 | |
| 11.13日午後2時過ぎ、急遽本部キャンパス大隈銅像前(図書館前)で革マル派に対する前代未聞の大衆的糾弾集会が始まった。約3000名の早大生が取り囲み、更に増えていった。革マル派幹部6名が壇上に立たされ、自己批判せよの罵声が浴びせられていった。日頃の怒りが爆発した吊るし上げ集会となった。 怒号が一段落したことにより議長団が選出され、順序立てて責任追及していくことになった。議長団の一人が、改めて川口君を殺したことの釈明を求めた。田中委員長はしどろもどろになりながら、「川口君の死は意図しないものだった。二度とこのようなことはしない。今はこれだけしか言えない」と返答した。これに対し、「その程度の反省で済むか」、「二度と一般学生を殺さないとの確約書を書け」、「人殺しと革命にナンの関係があるのか」などヤジが飛び交う。 議長団は、日頃の革マル派による暴力支配を縷々糾弾し始め、「川口殺害の責任を取ると言った以上、革マル派は自治会、文連すべての役職を辞任すべきだ」と迫った。革マル派が「こういう形で責任を取る事を拒否する」などとしたため、更に激しく罵声を浴びることになった。 マイクを突きつけられ発言を求められる革マル派幹部は頭をたれたまま青ざめ、マイクに手も出さなくなった。催促されてしゃべり始めるや、たちまちヤジに包まれた。6名はもはや発言もならず壇上に立たされ続けた。次々と一般学生が発言を求め、日頃の革マル派の暴力支配の実態を批判していった。 夕方になって学生の数はますます増え、図書館の屋上や教室の窓にも鈴なりとなった。本部校舎図書館前での「革マル派糾弾集会」は容易に鎮まらず、夜を徹して続行された。各党派の代表による革マル派批判が為されたが、日頃の鬱憤を晴らそうとする一般学生の発言が引きも切らず相次ぎ、同感の拍手がうねりだした。 警視庁機動隊員200人が待機する中、抗議集会は夜を徹して続いた。結局、革マル派糾弾、責任追及集会は14日朝まで延々18時間続いた。徹夜組約500名その他入替わりの者も含め約1000名が取り囲んでいた。 この間大学側は、「6人の生命に危険がある」として機動隊の出動を再三要請している。初めは「学生を刺激するだけ」としてしぶっていた警察当局も、大学側の4度目の要請に応え、14日午前8時、早大構内に入り、革マルは幹部学生6名と一般学生にまじっていた1名の計7名を“救出”した。警察当局は、6名を取り囲んでの徹夜集会は不法監禁の疑いがあるとして捜査を始めた。 ここに、警察当局が、学生運動内政治党派の一セクトを「救出」するという珍芸が刻印された。この「栄誉」にあずかった第一号として革マル派が刻まれた。これは長い学生運動の歴史の中で初めての出来事ではなかったか。積年の暴力支配の元凶革マル派、あっさり機動隊導入に踏み切った大学当局、これを援軍する警察という相互関係が露呈した。 早大生は、今度は大学に対する抗議集会を続けていった。以降、キャンパス内に、「KKT連合」(革マルのK、権力のK、大学当局のT)の認識が広がっていくことになる。 |
|
| 【革マル派の自己批判声明が為され、そのマヌーバーに学生が更に怒る】 | |
革マル派は、自己批判声明を発表した。しかし、その内容が更にキャンパスに怒りを呼んだ。声明の内容(『』部分が怒りを呼んだ)は次のようなものであった。
この弁明は、それまで革マル派が口にしていた「革命的暴力論」とも整合しておらず、というかそのご都合主義をあからさまにしており、自派のゲバルトは聖であるが、今回はヘマをやったのでその限りで反省するという論理でのトカゲの尻尾切り総括にしか過ぎなかった。学生大衆はそのペテン性を見破り、更に怒り、追及していくことになった。 |
|
|
革マル派と宮顕との直接関係は無かろうが、特高当局の弁明とも酷似していることを考えれば、何やら納得させられるものもある、というのがれんだいこ見解だ。そういう意味でも、「宮顕の戦前の小畑中央委員査問致死事件」は徹底的に解明され、我々は宮顕論法批判に習熟しておかねばならない、とつくづく思う。 ちなみに、11.23日付け朝日新聞は、革マル派の最高幹部・土門肇の記者質問に答えての次の談話を記事にしている。
この嫌らしい論法を見よ。次のような論理構造とお見受けする。1・革マル派は正しい。2・故に、敵対党派に対する武装反撃は是認される。3・我々の暴力はイデオロギー闘争を補助するためのものである。4・相手を反省させるため補助的方法である。5・この論法を他の党派が使うことは許されない。6・なぜなら、他の党派は正しくないからである。 この論法に辟易しない者がいるとしたら相当オツムがヤラレテイル。しかしそれにしても左翼には異筋な権力論法である。 2005.3.30日再編集 れんだいこ拝 |
| 【各党派が続々入り込む】 | |
| この頃、早大キャンパスには久々に各党派が現われ、一般学生と見受けられていた学生の一部が歓呼の声でこれを迎える場面が見られた。 特に、それまで政経学部を拠点とし、69年のゲバルトで敗退して以来革マル派の暴力支配の前にキャンパスを追われていた社青同解放派の登場を歓迎する動きが目立った。中核派、ブント諸派のレポとおぼしき学生も相当数入り込んできていた。以降、革マル支配を崩そうとする党派闘争も絡み、三つ巴、四つ巴の死闘が演じられていくことになる。 |
|
| 【11.15日、再々度「革マル派糾弾集会」が開かれる】 | |
| 11.15日、糾弾集会。午後2時から事件後三回目の革マル糾弾集会を民青系および一般学生約1000名で行う。革マル派の全学中央自治会前委員長・田中敏夫は、「ある特定の政治力学上の条件下では暴力もやむえをえない」と述べ、政治的に利用されるとして、学生側の要求する「暴力をふるわない」との確約書にサインすることを拒否。翌日の集会に必ず出ることを確約させて集会を終わる。 田中前委員長は、「川口君の両親にあやまれ」と男女学生4人に涙声で詰め寄られ、壇上にひざまづいて深々と頭を下げる一幕もあった。 |
|
| 【11.16日、革マル派が糾弾集会で「党派間ゲバルト不行使確認書」にサインさせられる】 | |
11.16日、田中前委員長は糾弾集会で、次のような内容の確認書にサインさせられた。
学生は拍手で受けとめた。 |
|
| 【11.17日、川口君追悼集会】 | |
![]() |
|
| 11.17日、川口君追悼集会(於:大隈講堂)が開かれた。川口サトさんも、「大学当局の怠慢と暴力をなくすためにみなさんといっしょに終生闘っていきます」と挨拶、これに対して大学は「11.17告示」なる管理強化を内容とする告示を発表した。 |
| 【各学部自治会で革マル派のリコール運動始まる】 | |
11.18日、引き続き糾弾集会が開かれ、馬場全学連前委員長らが次のような内容の確認書にサインさせられた。
これにより、各学部でリコール署名がスタートする。 |
|
| 【革マル派の反攻作戦が始動する】 | |
| 11.22日、革マル派数十名が「民青の自治会乗っ取り策動粉砕」「三役処分粉砕、自治会室奪還」を叫んで、文学部に乱入する。 | |
| 【革マル糾弾派と革マル派のせめぎ合いが始まる】 | |
|
11.24日、革マル約70名が「当局処分撤回、民青による自治会乗っ取り粉砕、自治会室奪還」の集会を開く。一方革マル派の居座りを糾弾する決起集会を開いていた学生が革マル派の集会を取り囲み、牛蒡抜きにして排除、その際田中前委員長がけがをしたほか、数名の負傷者を出した。 11.25日、革マル派250名(全都動員)が、田中敏夫のけがを口実に反撃。 11.27日、革マル派全国動員の300名が本部前で集会。 |
|
| 【革マル派の牙城第一文学部で、革マル執行部がリコールされる。他学部にも波及する】 | |
| 11.28日、大学当局のロックアウト措置、革マル派の文学部181教室占拠という事態の中で、一文学生大会が革マル派や大学当局の妨害をはねのけ、15号館で1410名を集めて開催された。他学部学生4000名が対革マル派警戒にあたり支援した。大会は、1369名の支持で革マル派の自治会からの追放、革マル執行部リコール、臨時執行部9名を選出、暫定規約を採択した。 この日夜、社会科学部も学生大会を開催。革マル派が400名で学大粉砕を叫ぶ中、646名中614名の賛成で自治会からの革マル派追放を決定した。 |
|
| 11.29日、同じくロックアウトの中、教育学部の学生大会開催。大隈講堂前で報告集会の後、数千人規模のデモ。革マル鶴巻公園に500名。 | |
| 11.30日、検問体制のなか、政治経済学部学生大会、夜には二文も学生大会、川口サトさんも参加。 | |
| 12.1日、商学部学生大会。法学部でも学生大会が行われたが、法学部自治会、民青執行部がリコールされそうになり、10名足らずの不足を理由に学生「集」会に切り替えられた。 |
| 【革マル派の個人テロが始まり、これに抵抗する「一文行動委員会」が結成される】 | |
| 12.2日、一文で各クラス代表によるクラス協議会が発足。革マルの反撃は個人テロにエスカレート、これに対して一文行動委員会が結成された。 | |
| 【川口君の両親が、革マル派への擁護姿勢を見せる大学当局の責任追及に乗り出す】 | |
12.4日、川口サトさんらが清水・竹内両理事に対して当局の責任を追及した。川口サトさんは位牌を理事に突きつけ、次のように訴えた。
大学は村井総長への面会を拒否した。 |
|
| 12.5日、川口殺害に関与したとして5名の革マル派学生に逮捕状が出された。 | |
| 【反革マル派共同戦線が「総長団交総決起集会」を挙行する】 | |
|
12.5日、本部前で総長団交総決起集会を1500名で開催したが、総長は出席せず。大学側はこれまで革マル派に及び腰で、むしろ「革マル派とグル」と見られる動きを繰り返していた。先の学生大会の決議も大学側は認めようとせず、革マル派の肩を持つような発言を繰り返して学生の怒りを買っており、この日の総長の対応にも批判が高まった。 12.6日、村井総長は団交拒否。 |
|
| 【政経学部で反革マル派系の新執行部が誕生する】 | |
|
12.7日、政経学部、新執行部。 12.8日、臨時執行部主催で「寒い冬を越すための大コンサート」が開かれる。 |
|
| 【冬休みに入り、小休止に入る】 | |
| 12.9日、冬休みに入る。 |
| 【年明けを迎え、反革マル派連合=早大行動委が結成され、革マル派との本格的抗争に入った】 |
| 1.7日、全学前段階総決起集会。 |
| 1.8日、全学総決起集会が開かれ、全学行動委員会(早大行動委)が結成される。以降、黒ヘル着用。 |
| 【民青同の行動が急速に沈静化する】 |
| 全学行動委員会(早大行動委)が結成された頃から、民青同の革マル派糾弾運動が潮を引き始めた。これも奇怪な動きであった。 |
この現象を如何に見るべきか。れんだいこの日共党中央批判は、この時の動きの変調さ等々から下地が醸成されている。 |
| 【早大行動委が、各学部で自治会の革マル支配から奪権運動に取り組み始める】 |
| 1.11日、政経学部、学部団交。 |
| 1.12日、団交要求集会。 |
| 1.13日、一文で自治委員選挙告示、革マル派のバリケード突破し、選挙。 |
| 1.16日、政経学部、学部団交。 |
| 【革マル派の反攻とテロにより「早大行動委」から負傷者が続出し始める】 |
| 1.17日、一文、革マル派の自治委員総会。それに対抗した「早大行動委」部隊が革マル派の攻撃を受け、十数名が負傷する。 |
| 【大学当局が文学部ロックアウトで革マル派の窮地救出】 |
| 1.18日、文学部、ロックアウト。これに抗議する「早大行動委」などが機動隊と衝突、一名逮捕。夕刻、中核派700名が革マル派と本部正門前で衝突、約20分の激闘最中機動隊が介入し、中核派60名逮捕、革マル派逮捕者無し。 |
| 【「早大行動委」が革マル派と武闘、追い詰める】 |
![]() |
| 1.19日、革マル派の文連総会。政経学部学生大会。11号館に追いつめられた革マル派が投石などで対抗、政経学部生一名、頭蓋骨陥没の重傷。その後の乱闘でも30数名が負傷。 |
| その後「早大行動委」と革マル派とのゲバルトが続く。 |
| 【大学当局、本部キャンパス全額ロックアウト措置に入り、非勢の革マル派に息継ぎを与える】 |
| 1.20日、理工学部をのぞき全学ロックアウト。革マル・ノンヘルテロ部隊が2J生などを襲撃。 |
| 1.22日、政経学部、試験阻止。機動隊導入、15名逮捕。 |
| 【「早大行動委」が、各学部自治会の奪権闘争本格化に向かう】 |
| 1.23日、一文学生大会、1500名で開催。期末試験をストライキで阻止することを採択。1週間ストライキを決定。 |
| 1.24日、一文行動委員会中心にピケスト突入。革マル派とこぜりあい。大学当局、試験延期。 |
| 1.25日、教育学部、学生大会。一文では自治委員総会成立のための定足数を突破。 |
| 1.27日、一文、新執行部、自治委員総会開催。 |
| 1.29日、一文、第二回学部団交。教育学部スト突入。 |
| 1.30日、一文、学生大会。第二波の1週間スト可決。 |
| 1.31日、社会科学部、学生大会。一文自治委員総会。 |
| 【「早大行動委」系が次々学生大会、団交に漕ぎ着ける】 |
| 2.1日、一文学部団交。 |
| 2.2日、政経、学生大会で3カ月ストライキ可決。社学団交、教育団交。 |
| 2.3日、政経、教育で学生大会。 |
| 2.5日、一文、学部団交。十人委員会総長団交を実現するよう教授会に要請する旨の確約書にサイン。 |
| 2.6、7日、一文で学部集会。一文団交実行委員会、二文新入生歓迎委員会結成。 |
| 2.8日、一文、卒業予定者分離試験実施。10号館で、総長団交要求総決起集会、ストに反対する法学部執行部に法学部行動委員会などから反論。 |
| 【春休暇に入る。入学試験】 |
| 2.23日、48年度入学試験開始(3/2まで)。受験生へのビラ配り、機動隊と衝突。 |
| 【新学期始まる】 |
| 4.1日、新入生連帯と総長糾弾闘争への全学総決起集会。 |
![]() |
| 4.2日、早稲田大学入学式で、総長挨拶の最中、黒ヘルが壇上に乱入。午前の部の段階で入学式中止となった。革マル派は式場外で集会。 |
| 【革マル派による「早大行動委」に対するテロが満展開し始め、「早大行動委」系に負傷者続出する】 |
| 4.4日、革マル派が鉄パイプで「早大行動委」を襲撃。「早大行動委」に負傷者30数名、うち重傷10名。 |
| 4.5日、本部前で、「4.4革マル鉄パイプ襲撃弾劾集会」。偵察に来た革マル派一名が包囲される。 |
| 4.9日、二文で小競り合い。 |
| 4.10日、革マル派が、代々木駅で集団登校中の「早大行動委」に鉄パイプ攻撃。負傷10数名、重傷3名。 |
| 【革マル派が再び支配権を確立し始める】 |
| 4.11日、革マル派「統一行動」集会(約100名)、続いて一文で「4.9告示」糾弾集会。 |
| 4.13日、教育学部学生大会、革マルの妨害で成立せず。 |
| 4.14日、新入生連帯討論集会、革マルの妨害で出来ず。 |
| 4.21日、一文学生大会。革マルの妨害行動。 |
| 4.23日、二文学生大会後、高田馬場まで500名でフランスデモ。教育学生大会、革マルの妨害で流会。 |
| 4.24日、一文自治委員協議会 |
| 4.28日、革マル派220名、「4.28全国集会」のため集会。 |
| 5.2日、一文、学部団交。革マル10数名壇上に乱入。これにより、学部側が団交継続拒否。 |
| 5.4日、一文、自治委員協議会で5.2団交の総括。 |
| 5.7日、一文団交を妨害するために、革マルが全都的動員をかけ、文学部で衝突(2名負傷)。 |
| 【「早大行動委」が、非常手段で総長を拉致し団交に及ぶ】 |
![]() |
| 5.8日、総長拉致団交。「早大行動委」は理工学部で講義を行っていた村井総長を法学部8号館301教室に拉致。約2000名の学生が集まる。村井総長は、5.17日に正式団交(再団交)を約束させた。革マル派との衝突が予想された。 |
| 【革マル―大学当局―機動隊連合で「早大行動委」潰される】 |
| 【学費値上げ反対闘争を行っている慶応大学生との連帯化が企図されるが、機動隊−革マル派連合によって阻まれる】 |
| 5.12日、早慶交流集会。慶應義塾で、学費値上げ反対闘争を行っている慶応大学生と連帯、第三次早大闘争を全国的に闘うことを決議。早朝、革マル派は慶応大学スト団交実行委に無差別鉄パイプテロ(5名負傷)。早慶学生300名が早稲田に向かったが、機動隊に阻まれ、東大で集会。夜、革マル派30名が8号館を鉄パイプで襲撃、4名負傷。 |
| 【革マル派の武装襲撃頻出する】 |
| 5.14日、革マル派が、4、8、16、22号館などに7度の襲撃。この日、法学部学生大会がはじめて開かれたが、民青執行部リコールが可決されるや、10名の定員不足を理由に流会とされる。夕方、一文自治会委員長が法学部8号館前で革マル派に鉄パイプで襲撃され、重傷。 |
| 【革マル派が総長団交粉砕を企図して全国動員】 |
| 5.15日、革マル派全国動員(500名)で本部集会。 |
| 5.16日、5.17総長団交粉砕を叫ぶ革マル派の集会。 |
| 【革マル派-機動隊連合により、総長団交流産する】 |
| 5.17日、革マル派、早稲田一帯を制圧。「早大行動委」など500名が夕方正門前で集会。校内に入ろうとするや、革マル派が鉄パイプ攻撃。1000名に膨れた学生は再度構内突入を図ろうとしたが、機動隊に規制され、500名が外堀公園に連行された。かくて、「5.17日総長再団交」ならず。 |
| 【革マル派が再びキャンパスの支配権を確立する】 |
| 「早大行動委」の奮戦もここで力尽きた。以降、キャンパスに再度革マル派が支配権を確立することになった。大学当局と機動隊に守られてのなりふり構わぬ制圧であったことは、当時の一連の史実であろう。 |
| 残念ながら、インターネットに残されている情報は以上で終わっている。当時の資料を集めれば、更にドキュメントが精緻化されるだろう。 |
| * 革マル派の事件関係者が警察の取り調べの際に事件を自己批判し、「謝罪声明」したはずであるが、該当資料が入手できない。どなたかご教示いただければ追加致します。 |
| * 結局、この時の「早稲田における革マル派による暴力支配追放運動」は頓挫する。それにしても、早大総長が一貫して反革マル共同戦線派により結成された自治会の承認を渋り、団交への出席も最終的に拒否し、革マル派の肩を持ち続けた事は意味深であろう。「平成6年、奥島孝康が早大総長に就任するまで、大学当局と革マル派の蜜月は続いた」とある。 |
| (関連資料一) | |
|
ところで、早大に革マル派を跋扈させた責任が早大当局自身にもあることは、知っている人なら知っていることだ。そのことを記した岸沼秀樹氏の文章が「彼方」というミニコミ誌に掲載されているので、その一部を引用させていただく。時代は1972年から73年、大学を舞台にした内ゲバ闘争が激しく行なわれていた頃のことである。
|
|
|
(関連資料二) |
|
|
|
| (関連資料三) | |
|
| (関連資料四) |
| 「遊撃隊TOP、97年早稲田祭に行ってきたぞ」より抜粋 |
|
2.血塗られたキャンパス 革マル派は、67〜68年にかけて、暴力的にサークル自治会「文連」を乗っ取り、これを機に解放派などの早大内に残る反対派を放逐し、「革マル暴力支配」を完成させていった。因みに、今日でも政経学部には自治会がないが、それは、かつて早大から追放された解放派の拠点が、政経学部自治会であったからである。 「革マル暴力支配」の極致とも言うべき事件は、70年における民青活動家の山村政明君の自殺と、中核派シンパ川口大三郎君のリンチ殺人事件である。 当時の革マル派は、常時キャンパスをパトロールし、革マル派に反対する人々が早大内に登場できないようにしていた。もしも彼等に捕捉されたら、革マル派に足腰が立たなくなるまで暴力的に叩きのめされるのである。事実、かつて「文連」などに勢力を保持していた解放派のメンバーの中には、かくして具体的には片目をえぐり取られるなどの生涯消えない傷を負わされた者も存在する。因みに、当時解放派の放逐に力を注いでいた革マル全学連の大幹部藤原隆義氏は、後に解放派によって、車に乗っていたときにその中に閉じ込められ、他の3人の仲間とともに車もろとも焼き殺されるというあまりにも無惨な最期を遂げている。 山村君は、民青活動家であり、革マル派に顔を知られているために、登校すると革マル派に半殺しにされかねないという危険に、彼は常にさらされていた。かくして、彼は1年以上にわたり、登校の自由を奪われていた。思い詰めた山村君は、抗議の意味を込めて、70年10月6日、焼身自殺という悲痛な道を選んだ。 因みに、当時の民青は暴力的な面もあったし、革マル派と民青との内ゲバでは死者も出ているのではあるが、そのことを抜きとしても、革マル派の党派闘争の激しさ、他党派に対する徹底した残酷さは、明記しておかなければならない。 そして、72年11月8日に殺害された川口君は、中核派のシンパであったと言われている。少なくとも、革マル派に対しては批判的な学生ではあった。そんな彼は、自治会が行う「クラス討論」にて、革マル派を批判したために白昼革マル自治会に拉致され、6時間あまりに及ぶ凄絶なリンチを受け、殺害された。同事件は、本郷の東大病院前にて、彼の死体が遺棄されたことが判明することによって公になった。もっとも彼は、時々デモに参加したという、どちらかというと一般学生に近かった人物のようであったらしい。民青、日向派(現「BUND」、ロフトプラスワン事件でお馴染み)などはこの点を重視して、「一般学生」と見なしたが、リンチの課程で川口君自身が中核派活動家の名を白状したので、必ずしも中核派とは無縁ではなかったようである。 もっとも、川口君が弄した反革マル的な言辞は大した内容ではなく、ともすれば、早大内にて革マル派に睨まれることが何を意味するかということを誰もが敏感に感じとったのである。 そう、「もしかしたらボクも....」[「朝日」]という恐怖は、ともすればすべての早大関係者が長年の間抱いていた恐怖でもあった。実際、最近は人の死を伴うようなリンチ、内ゲバは沈静化してはいるものの、少なくとも早大に於いて圧倒的な勢力を保持している革マル派に反抗することは、その報復としての吊し上げ、監禁、暴行などの事件は未だに後を絶たない以上、革マル暴力支配の恐怖は現存していると言ってよい。 早大内における「革マルタブー」とは、具体的に言えば、こういうものである。 とりわけ川口君事件は、後の学生運動、内ゲバの趨勢に多大な影響を与えた。後に、その下手人と見なされたものの中には、中核派によって重傷を負わされた者はおろか、廃人と化せられた者も存在する。引用してみよう。どれだけ恨まれているかが分かるはずである。「川口同志虐殺者に血の報復〜遂に早稲田カクマルをせん滅〜....川口、辻、正田同志虐殺を「許してくれ」とは何たることだ!我が部隊は原田の命乞いに対して無慈悲なツバを吐きかけ、虐殺下手人にふさわしいやり方で徹底的な鉄槌を加えたのである。一撃、一撃に三同志の悔しさを込め、わが戦士は自らの体内に三同志の遺志をよみがえらせおびただしい流血を強制した。/三同志の命を奪い去った憎むべき虐殺者の手や腕を粉々に打ち砕き、つづいて頭や足、そして全身に反革命的罪科にみあったバール五十数発を念入りに刻み込んだのであった。部屋の中は原田のどす黒い血で一杯になり、原田は物言わぬ物体となって血の海に浮かんだのである。」[中核派機関紙「前進」第666号] 「川口君虐殺下手人逃亡分子を関西で摘発〜早大田原を徹底せん滅〜民家への逃げこみを粉砕〜....わが戦士が「田原」と呼びかけたとたん、この反革命分子の顔からサッと血の気が引き、ひざがガクガクとふるえだしたのである。すかさず、打ち下ろされたわが戦士の鉄槌の前に、田原はよろめきながら、目の前にあった民家めがけて、家の前にいた女の子を突きとばしてころがりこみ、コタツの掛けぶとんの中へ頭の先だけもぐりこませ、何ら抵抗することなくガタガタとふるえていたのである。....この卑劣分子をズルズルとコタツの中から引きずり出し、川口同志虐殺に対する怒りと憎しみの一切を込めて、肩、手足に対する的確な打撃を加え、三ヶ月の重傷という壊滅的な打撃を与え、二度と反革命的罪業を重ねることができないまでに打ち沈めたのである。」[「前進」第719号] 川口君事件を機に、さすがに革マル派に対する批判がうずまき、革マル派は何度も吊し上げなどの制裁や、反対派セクトの武装襲撃を受けている。 その衝撃の大きさから、革マル派は社会的に孤立し、革マル系の自治会はリコールを受け、消滅の危機にたたされた。しかし、革マル派の勢力範囲である「早稲田祭実行委員会」はリコールを免れた。革マル派は追放されなかったのだ。相も変わらず、早大は革マル派本丸であり続けた。 そして、川口君事件1周年を間もなく迎えようとしていたときに、例年この時期に行われていた「早稲田祭」の問題が持ち上がった。そう、再び革マル派が「早稲田祭」を執り行う時期が来たのだ。 革マル派と激しく対立しているセクト、特に解放派と中核派とはこのことを重視し、「早稲田祭粉砕」を掲げていた。彼等は、とりわけ当時の「早稲田祭」が、川口君の命日である「11月8日」に行われる予定であったことから、「革マル早稲田祭(革マル祭)粉砕!」とか、「お望みどおり、「虐殺者の祭典」をコナゴナに打ち砕いてやろうではないか!」などと絶叫していた。結局、当初の期日はあまりにも露骨なため、早稲田祭は日程をずらして行われたが、このこともまた、革マル派と当局との動揺を示すものであり、解放派や中核派を喜ばせるものであった。又、民青の勢力が強い法学部では、革マル派主導の「早稲田祭」に反対、独自に「法学部祭」を行うに至った。それは現在でも続いている。 かくして、内ゲバ戦争はますますエスカレートし、その死者は100人近くにのぼる。少々調べただけでも、今では考えられない、ものすごい歴史である。是非とも、当時の人々の話が聞きたいものである。 |
| 【第四インター系の対応】 |
| 第4インター系が当時如何に「川口事件」をリードしようとしていたのかの資料が情報開示されている。云いたいこともあるが、とりあえずノーコメントで取り込んでおく。(後日検証したいところを太字にしておく) |
|
声明・早大生・川口大三郎君虐殺に抗議し、戦闘的・民主的学生運動の再建を訴える |
| 「革命的暴力と内部ゲバルト」――プロレタリア民主主義の創造をめざして――内ゲバを追放せよ 11・8早大闘争を全国の闘う学生の力で勝利しよう 9月15日、神奈川大学で革マル派と解放派が醜悪なゲバルトを展開し、二名が死亡し、二十数名が病院に収容された。つづいて翌日には革マル派が三越デパート屋上で早大のノンセクト活動家を鉄パイプで襲い、さらに次の日鷺谷駅で革マル派と中核派が「衝突」した。こうして9月17日早大新学期明けをピークとして時と所を選ばずに異常なまでに新左翼党派は内ゲバを激化させている。 われわれは、内ゲバ主義を大衆闘争の発展の観点から常に厳しく批判してきたが、今日の局面にいたってわれわれは強く主張せねばならない。内ゲバ主義はこの悪無限の袋小路に陥いり、ついに文字通り「殺し合い」にまで発展した。そして、その内ゲバは「党派闘争」のベールを捨てて、大衆闘争に向けられている、と。そしてまたわれわれは全ての闘う労働者、学生によびかける。内ゲバを実力で大衆運動から追放しよう。 ●内ゲバは利敵行為であり戦闘的人民への犯罪である 田中自民党政府をとらえ、追いつめた広範な戦闘的労働者・人民が一層多くの仲間を集め、拡げ、闘いを発展させ、彼ら自身の赤旗を高く掲げようとするこの瞬間に革マル派を元凶とする内ゲバ主義者どものゲバルトが連続的に行われている。十五日から連続してなされた三つの内ゲバは、あまりにも醜悪であった。十五日には二名が殺され、二十数名が入院した(重体が三名いるといわれている)。 そして十六日には白昼公然とデパート屋上で凶行がなされ、十七日には、スト処分粉砕闘争をまさに準備していた国鉄労働者の闘いの眼前で「荒れる国電」とブルジョアジーが宣伝したゲバルトが駅構内で行われた。春闘によって国家権力とブルジョアジーを心底から恐怖させた労働者人民が、ミッドウェー号寄港阻止に立ち上ったその特に内ゲバがなされた! 神奈川県評青婦協がミッドウェー闘争に職場の仲間とともに決起しようとしたその時に、この内ゲバは闘いに水をさした。全国の労働者が職場の闘いを全国的に交流し学びあい、それを職場で実践しようとしたその時に、スト処分粉砕・スト権奪還の力強い闘いを労働者が職場で担おうとしたその時に、そしてまた、チリ・クーデターを「利用」して最左派狩りをなそうとする機会を共産党と人民戦線派がねらっていたその時に、そして新学期とともに不死鳥の如く大衆的な決起を準備していた早大生が公然と登場しようとしたその時に内ゲバがおこなわれたのである。 内ゲバ主義者は、こうして真の戦闘的潮流の建設をめざす労働者人民に事実として重大な敵対行為を働いた。これほど明白な利敵行為があろうか! 内ゲバ主義者のこの行為は、百パーセント権力の意図に奉仕し、二重の意味で戦闘的人民を苦境に立たせている。一つは、国家権力の弾圧の強化をうながし、一つは人民戦線の枠に労働者をつなぎとめる役割を積極的にはたしたのだ。われわれは、怒りをもって階級闘争の損益計算書に記入しなければならない。この内ゲバは権力を歓喜させ、戦闘的労働者人民にたいして決定的な犯罪を犯した、と。われわれは絶対に内ゲバ主義者を許してはならない。戦闘的人民の階級的怒りで内ゲバ主義を絶滅しなければならない。 ●革マル派の内ゲバは大衆に向けられている 神奈川大学でのゲバルトと二名の死亡について、革マル派はこう説明している。「彼ら二人は非戦闘員だった。その非戦闘員を殺した青ムシはリンチ殺人の実行者である」「青ムシを撲滅せよ」と。彼らはいつもこうだ! ゲバルトの経緯を詳細に説明し「手を出したのは相手の方だ」と弱々しく「いいわけ」する。しかもきまって彼らがゲバルトに「負けた」時にのみこうした「事実関係」を強調するのだ。 われわれは革マル派による川口君虐殺(彼は早大のごく普通の大衆の一人だった)を決して忘れはしない。そして川口君虐殺について革マル派が説明したことも決して忘れはしない。彼らはこういった「川口君はスパイだった。革マル派に敵対するスパイだった。」と。「非戦闘員」川口君を虐殺したのは革マル派だ! しかも明らかに党派的な私的なリンチによって! 内ゲバ主義の元祖であり元凶である革マル派はその本質をはからずも暴露した。彼らにとって問題なのは、彼らがゲバルトに「負けた」ことだけで、「戦闘員の死亡は、ゲバルトの中ではあり得る」と、その内ゲバの目標を明らかにしているのだ。そして革マル派は川口君虐殺によって、そのゲバルトを「党派闘争」の手段から、明らかに大衆闘争に向けた。革マル派は血に飢えた鉄パイプを大衆に向けているのだ。山村政明(梁政明)君は七十年革マル派の連日のテロに憎しみを炎と燃やして焼身抗議自殺というあまりにも悲惨な死をとげた。川口君は革マル派の、「拷問部屋」と化した自治会室につれこまれ、鉄パイプで、キリで、言語に絶するリンチのすえに殺された。誰が誰を殺したのか! 革マル派が大衆を殺したのだ。何のために! 内ゲバの「神話」を維持するために、つまり革マル派の「力」に無理矢理屈服させるために。 そして今なお早大の先進的学友は革マル派にねらわれている。尾行され、脅迫電話をうけ、「殺してやる」と鉄パイプをちらつかせながらどう喝され……。革マル派はこうして川口君虐殺糾弾闘争の中心的活動家の「ブラック・リスト」を作り上げているのだ。内ゲバ主義の元凶革マル派は、ついにその体系を行きつく所まで推し進めている。大衆闘争の力強い発展から必死で身を守るために見さかいなく大衆に襲いかかる牙、この牙だけが革マル派の党派的命綱となってしまった。 革マル派は必死に内ゲバのため武器をそろえ、一人でも多くの大衆を傷つけ、殺そうとさえする。彼らは内ゲバの「勝敗」だけが気になる。勝ったときの口実と、負けたときの「被害者」を装う理由を、いまから注意深く準備している。内ゲバは至上目的とされ、この目的のために、全てを従属させている。武器をどううまく準備し、[どのように不意打ちを浴せ、内ゲバの戦果を「革マル派は恐しい」という心理を強制させるためにその思考の全てが回転する。だから、内ゲバによってその双方が犠牲を払うことを喜んでいる国家権力の作る筋書きに完全にはまりこんでしまっている。機動隊の弾圧体制の中でなぜ「思いどうり」に事が運ぶのか、事後弾圧がなぜ「思いの外に」軽いのか、革マル派にとって、この疑問は頭のスミにも上ってこない。何故か! 「敵」は対立党派であり、大衆なのだから。 だが国家権力の筋書きは、革マル派にとっての「敵」「味方」を一拳に壊滅することにある、国家権力にとって、階級闘争内部の内ゲバほど好都合なことはない。国家権力にとっても、階級闘争の代表する「顔役」の要請にもとづいて、さっそうと登場する願ってもない舞台なのだから。事のついでに国家権力は内ゲバ主義者だけではなく、「平等」に全労働者人民の闘いに襲いかかり、その「顔役」にまで手をのぱす。これこそ国家権力の隠れた本心である。 動は反動をよびおこす。テロは報復テロを招く。殺人が殺人を呼び、内ゲバの論理はこうして無限の敵対関係に双方をつかせて袋小路をかけまわる。内ゲバを実力で追放せよ。内ゲバに対し武装して大衆闘争を防衛せよ。この闘いはまず何よりも腹黒く徴笑えんでいる国家権力に向けられ、そしてまた内ゲバ主義の元凶革マルに向けられねばならない。 ●内ゲバ主義党派はすべて同罪である だが、革マル派の「あまりにも度し難い堕落」をもって、あと一つの内ゲバ主義者を免罪してはならない。中核派、社青同解放派そして多くのノンセクト主義の諸君による内ゲバの論理にもとづいた革マル派とのゲバルトもまた、多くの労働者学生に絶望と不信をまきちらしているのだ。 解放派の諸君は神大における革マル派とのゲバルトについて、労働者学生には一言も説明してはいない。また中核派も、彼らの隊伍にたいしては多くを語っているものの、あらゆる戦線で闘っている広範な人民にはほとんど何も語っていない。もちろんわれわれは詳しい事実は知らないし、知ることにどのような興味ももっていないのだが、「革マルせん滅」を第一義として打ち出しているならばこれはあまりにも「虫が良すぎる」というものではないか。 こうした諸君が何故堂々と、内ゲバの戦果をではなく、革マル派の本質を大衆に明らかにしないのか。何故、大衆に闘いの任務を訴え、ともに進むべく働きかけないのか。彼らは決して語ることは出来ない。革マル派との抗争のなかで「革マル化」しているからであり、お互いに「内ゲバ」を交換しあっているからなのだ。自らのキャンパス支配を、内ゲバ=理不尽な暴力でしきり、この風潮を大衆闘争に流しこみ、それによって、学生大衆の学生運動への不信と絶望感を作り出しているからなのだ。革マル派の凶暴なテロに恐怖し、革マル派から組織を防衛せんがために対抗的手段をとり、革マル派のやり方を身につけ、大衆には「革マルを支持するのか否か」=「われわれのやり方を認めるのか否か」という思い上りもはなはだしい最後通牒的な「前衛主義」は、内ゲバがもたらす階級闘争への大衆の不信を助長しているのである。これらの諸君が「戦果△名、負傷者△名」と自分だけに通用する損益計算書にしがみつくならば革マル派と同列である。 無条件に戦闘的人民に自己批判し、戦闘的人民の大衆闘争とともに革マル派を追放するのか、それとも麻薬のように組織をむしばみ人民をむしばむ内ゲバの論理に身をおくのか、彼らにとって選ぶ道は二つに一つである。だが、決定するのは戦闘的人民の大衆闘争である。彼らはすでに、人民にたいして、革マル派と同じ罪を犯しているのだから! ●内ゲバ追放――それは国家権力との闘いである 今日内ゲバ主義者たちの果てしないエスカレーションは、戦闘的潮流を人民戦線派に対抗してしっかりと建設しようとする人々にとって、絶対に許すことが出来ない大衆闘争をむしばむ病原菌となっている。大衆を信頼し、その力によって勝利をかちとろうとする人々は、決して内ゲバの「華々しさ」や悲憤な「決意」に心を動かされることはないが、また、内ゲバ主義者に親切に批判と自己批判をすすめるだけでは、内ゲバの恐怖の絶頂にあるこれら内ゲバ主義者が絶対にその楯をすてないことも知っている。内ゲバは、まことに大衆闘争の発展にとって決定的な障害物となっているのだ。 だから、大衆闘争を国家権力から防衛し、より発展させようとする人々にとって、内ゲバを大衆的に追放する願いは、(非生産的なことであるが)今日の任務となってきている。内ゲバについて第三者の立場をとるだけでは、これを利用して労働者人民の闘いを押し潰す国家権力の企みに手をこまねいてしまう結果になるからである。 内ゲバを利用して国家権力は、労働者階級人民が国家権力に向ける暴力を一斉に取り締るべく、一切の報道機関を動員し、そしてその裏では、左翼の暴力に対し、右翼の暴力を準備するのだ。早大で右翼体育会が虎視旦々と学内制圧を目論んでいるのは、四〜七月の過程ですでに明らかになっているではないか! 闘う広範な戦闘的人民が正しく内ゲバを階級闘争内部から追放するのか、それとも右翼の暴力によって階級闘争総体の拠点が潰されるのか。内ゲバを正しく追放する闘いは、かくして今日の課題となっているのである。 われわれは、内ゲバを今日の如くにまで放置してきた責任の多くはわれわれにあると思っている。わがフランス支部の同志たちは、新左翼各派の暴力的敵対に幾度も遭遇しながら、それを監視する大衆的な闘いを作り上げた。のみならずその大衆的な闘いを積極的に共産党・人民戦線派の隊伍にまで波及させ、右翼ファシストの工場スト襲撃にたいし大衆的な武装を実現させている。そしてわれわれは、内ゲバを大衆闘争から追放する闘いの全権を責任をもって担うことを戦闘的人民に誓う。世界にはりめぐらされたスターリニストの個人と組織に向けられたテロと暗殺にたいし、数十万にものぼる戦士たちがその凶弾によって生命を奪われつつも、敢然と立ち向い今日力強くその力を階級闘争に根づかせた第四インターナショナルとトロツキズムの歴史をかけて、われわれは階級闘争と大衆運動の全利益を内ゲバから防衛し、国家権力から防衛して闘うことを誓う。その闘いは諸君によって担われ、その勝利する功績は、諸君自身に与えられる。 内ゲバを大衆的に追放する闘い、それは、内ゲバ主義者の「寝ぐら」と「補給路」を断つことである。それは、労働者民主主義にもとづいて、反対派の存在を認めようとしない彼らの市民権を奪うことである。内ゲバ主義者を大衆の前で糾弾せよ。無条件の自己批判か、さもなくば追放か! 労働者民主主義に背を向ける彼らの罪は重い。徹底的に糾弾し、内ゲバの土壌を職場から学園から完全に打ちこわせ。戦闘的人民の団結を強化するために! 戦闘的人民を国家権力の前で放り出す共産党・人民戦線派の目論みを大衆的に暴露するために! そしてなによりも国家権力の弾圧と右翼の暴力的支配にたいして戦闘的人民の武装をかちとるために! ●早大闘争勝利――それが今日の決定的な闘いである。 すでに、この戦いは多くの大学で開始されている。「殺したのは解放派だ」と首をとったように宣伝する革マル派をとりまき、糾弾する闘いが開始されている。「お前たちが二人を殺したんだ」「内ゲバが殺したんだ」「内ゲバを続けるのか」と革マル派に向って大衆の怒りはするどく発せられている。革マル派は立往生し、糾弾する中心メンバーになぐりかかっている。だが、ここにすでに内ゲバの土壌は破られ、「補給路」は断ち切られはじめている。彼らが最もおそれる事態は、こうして開始されている! 内ゲバに一歩もひるまずに展開される大衆的糾弾は、彼らをしてその部隊を大学から引き上げさせ大衆と断絶させることによって一層内ゲバ主義に純化させようとする。だがそこに「力関係」は表現される。彼らのキャンパス支配の内ゲバの論理は大衆自身によって「無視」され、彼らの影響力は急速に一掃される。他方、この大衆的糾弾の前に彼らの「脱落者」は急速に増す。すでに早大の革マル派は昨年に比べ実に半数以上が「脱落」しているのだ。 大衆から孤立した彼らは「一点突破」に望みをかけ、狂暴さを増す。大衆的糾弾の闘いもまた息つぎを与えないで彼らを追う。そして早大闘争は、決定的な闘いとなっているのだ! 内ゲバ主義の最後の拠点として彼らが早大に居残るのか、それとも全国の闘いで早大から追放するのか! 革マル派追放! 当局徹底糾弾・早大学生運動再建!を鮮明に掲げた早大闘争の全国的全人民的な闘いの質はここにあるのだ。われわれはかつて川口君に誓った。「もし、われわれの決起が、あと一日、あるいはあと二日早かったならば、彼の死は避け得たのだ。弔旗をかかげよ! 前進せよ!」 そしていま、全国の闘いによって、まさに実現するのだ! 早大闘争勝利! 川口君虐殺糾弾! 当局糾弾・革マル派追放・11・8闘争勝利! 真に大衆的で戦闘的民主的な学生運動の再建・統一を! 「世界革命」紙一九七三年一〇月一日第三二〇号より所収 |
![]()
(私論.私見)