「川口大三郎君虐殺事件」考

 (最新見直し2007.5.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「党派間ゲバルト」考上極めて貴重な、革マル派が文字通りの大衆的糾弾を受けた初事例がある。早大キャンパスで巻き起こった「川口君虐殺追及集会」の一部始終の経過がそうである。どなたが考察したか不明であるが、インターネット上に「川口事件」がサイト化されている。著作権等のこともありリンク紹介に留めていたが、70年代『内ゲバと爆弾』の時代と 語られてしまうことへの異和感170年代「内ゲバと爆弾」の時代と 語られてしまうことへの異和感2「70年代「内ゲバと爆弾」の時代と語られてしまうことへの異和感・資料編のようにいつのまにか消えてしまうこともある。そこで、れんだいこが手を加えつつ取り込んでおくことにした。

 「川口君事件」から得る示唆と教訓は多すぎるほど多い。川口君リンチ死を媒介にして数千人規模の学生が怒り、一党派を糾弾してしかも徹底的に吊るし上げた例、「早大行動委」が反撃に転じた革マル派と半年に及ぶ死闘戦を継続した例、革マル派の窮地を救うためかくも露骨に大学当局、機動隊が加勢した例は他にはないのではなかろうか。これは学生運動史上に伝えられていくべき貴重な体験ではなかろうか。

 だがしかし、そうした貴重な意義を持つ「川口君事件」が本格的に取り上げられることは少ない。いつも決まって仕舞いには饒舌がはびこる。これは何を意味しているのだろうか。

 「川口君事件」を通じて見えてくる教訓は、革マル派の暴力に対抗するのに何も難しい理屈は要らなかったということではなかろうか。少なくとも、大学当局と機動隊の力を後ろ盾とする革マル派の暴力支配に立ち上がった大勢の学生が、終局やはり暴力で捻じ伏せられたという史実は、これに抗する戦線構築に失敗したという苦い教訓であり、それ以外の方向へ認識が向かうべきだろうか。

 早大学生運動史は、戦前戦後を通じて赫赫たる実績を見せている。その様は、官立の雄としての東大に在野の雄早稲田が一歩もひけをとることなく渡り合ってきた観があり、このスタイルが支持され、早稲田の「左」の伝統ともなっていた。それは、政治的イデオロギー以前のいわば各人各様の生き様として、互いに自由・自主・自律的な生き方を認め合い保障しあってきた土壌があればこそ生み出された史実であると思われる。学生運動史上輝く早大出の多くの活動家はこの土壌から生まれたのではなかったか。ところが、革マルの派暴力支配はこの伝統の圧殺という役割を意図的に引き受けており、これが大学当局をして安堵せしめ、ある種の密約さえ窺わせるものとなっていた。

 「川口君事件」で決起したそれまで一般学生でしかなかった早大生の多くは、革マル派がこの伝統を理不尽に踏みにじって恥じないそのこと故に立ち上がったのではなかったか。あの怒りは凄まじかった。「早稲田民族主義」ではあったが、大事にしたい怒りであった。しかし、早大生万余の決起は結局潰された。これをどう総括するのか、これを為さない限り「川口君事件」は単に川口君の無念の死でしかなかろう。

 今日、第四インター系の声明がインターネット上で公開されているのでこれをも検証してみたいと思う。が、同派の声明が、中立そうな見識のひけらかしは別として、かの局面に何がしか有効な処方箋を提示し得ていたのだろうか。もしそうであると云うなら、人類はここでは早大生は、現に暴力で立ち現われる勢力に抗するのに、暴力以外の方法で対処しえるような知恵を獲得する絶好機会であったということになる。

 が、れんだいこは今もってそのような知恵を見たことも嗅いだことも無い。ギリギリの戦闘が要求されている時、「内ゲバ反対」のくさびで割って入る役割が客観的に何を意味するのか、「元の木阿弥」に戻ったキャンパスを見れば自明ではなかろうか。それでも「内ゲバ反対の唯一の党派」的な自画自賛するのは一種のヌエ論法ではないのか。れんだいこは憤然としてそう問いかけたい。この連中とは百年話し合っても通じ合わないに違いない。

 2003.7.16日再編集 れんだいこ拝


【事件の発端】
「リンチ殺害された川口大三郎君」 1972(昭和47).11.9日付け毎日新聞、東大に遺棄された事件の最初の報道
 1972.11.8日、東大病院に一人の死体が遺棄された。9日朝、東京文京区の東大付属病院構内で、パジャマ姿の若い男が死んでいた。病院に氷を届けにきた配達人が発見、直ちに警察に通報された。入院患者に該当者がなく、全身に棒で殴られたような傷跡があった。本富士署ははだしの足の裏がきれいであることなどから、別の場所で殺されて運ばれた疑いが強いとして、警視庁の応援を求め捜査を開始した。男は25、6歳、身長170センチぐらい、鼻が高く、髪が長い。真新しい紺と薄緑の縦縞のパジャマを着ていた。胸、腹、背中に20数カ所の擦過傷、内出血があり、首に6カ所、右腕にも1カ所同じような傷があった。(毎日72.11.9)

 この遺体の身元は直ぐに判明し、中核派のシンパであった早大文学部2年生の川口大三郎(20歳)氏が早大文学部キャンパスで革マル派の防衛隊のパトロールで捕まり、リンチ致死されたことがキャンパスに伝わった。その詳報として、「中核派シンパとして補足され、革マル派の自治会室である文学部の教室へ連れ込まれ、イスに針金で両手首を縛られ、タオルで目隠しされた上、角材、バット、竹ざおなどで7時間以上リンチを受けた挙げ句死亡」したことが伝わってきた。

【川口君の拉致前後の様子】
 「内ゲバの時代」に、川口君が捕捉される状況に付き貴重な情報が開示されている。これをれんだいこ風に纏め紹介する。
 川口君は、死亡後に、中核派によって「川口君はシンパだが構成員ではない」と明らかにされており、実際には特定の左翼党派に所属していた訳ではなかった。いうなれば政治意識の高いノンセクト状態であったことになる。

 その彼が、事件の1週間ほど前に、第一文学部2年J組のクラス討論会で、「革マル派の運動方針は日和見的でおかしい。中核派の方がいい」などと発言。この情報が革マル派に伝わる。革マル派は当時学内にこういう諜報網を敷いていた。川口君はこの時から革マル派に「危険分子」として付け狙われるようになった。

 1970(昭和45).8.4日に中核派により革マル派の東京教育大生・海老原俊夫(21歳)君が法政大構内で殺害されて以来の両党派の対立の激しさを知れば、川口君の発言はかなり危うい発言であったことになる。逆に云えば、川口君は当時、その情況が分からないほどの未だノンポリであったことになる。

 1972(昭和47).11.8日昼頃、早稲田構内で革マル派の集会が開かれていた。午後2時頃、川口君は体育の授業を終え、テレビ研究会の部室から友人3名と教室へ向かっていた。話しながら文学部前の校庭を通リ抜けようとしていたところへ革マル派の学生5名が駆けつけ、「話があるから来てくれ」と川口君を取り囲んだ。川口君が断ると、両腕を掴んで127教室に連れ込まれた。

 友人3名が連れ戻そうとして教室前に駆けつけると、革マル派学生3名が立ちはだかり、「これは階級闘争のレベルの問題だ。階級闘争を担っていないお前達には関係ない」などと怒鳴り、押し問答となった。革マル派学生10名が援軍に駆けつけ、「がたがた言うな」と川口君の友人に殴りかかった。この様子は多くの学生や教授に目撃されていたが、係わり合いになるのを恐れて眺めるだけだった。

 その後、テレビ研究会の部室にまで革マル派は押しかけてきて、「二文自治会はテレビ研を認めない、自己批判しろ」と脅迫、暴力でキャンパスを支配する革マル派に一般学生が手出し出来る訳もなく、川口君と親しいクラスメイトの中には自分も革マル派に殺されるのではないかと帰郷する者もいた。

 犯行に関与したとみられる革マル派は7名で、ほかにカローラ運転の1名を加えた8人が関わっていたとされる。川口君は127教室とつながっている128教室で縛られて角材などで殴打され続けられ、推定時間午後9時から午後11時の間に絶命した。

 この間、川口君の友人の通報を受けた久米助教授と学生副部長が127教室を4度訪れたが中に入れないようになっていた。翌11.9日午前0時半、127教室の前にカローラが止まり、ようやく教室の不法占拠が解除されたが、誰も残っていなかった。

【事件後の革マル派の対応、大学当局の対応】
 11.9日、午前12時半、革マル派が声明を発表し、「川口は中核派に属しており、その死はスパイ活動に対する自己批判要求を拒否したため」と事実上、殺害への関与を示唆する内容の声明を発表した。これにより、川口君は、内ゲバ殺人に巻き込まれて殺されたことが判明した。

 11.11日、革マル派の馬場委員長が、「全学連の歴史に汚点を残した」と述べ辞任表明。しかし、「権力側の裁きを受けるようなことはしない」と述べ司直の手にかかる事は拒否した。

 同日、革マル派は、いかにも同派らしい対応であるが、大隈講堂前に「川口君追悼」の立て看板を出しビラを配り、「川口の死を追悼する」などアジ演説を開始した。しかし、正午頃から一般学生300名が革マル派学生20名を取り巻き始め、革マル派学生の胸ぐらを掴んで涙声で怒る者も現れた。

 この時、「党派抗争なら人を殺してもいいのか」と糾弾が為されると、革マル派は、「我々の町田君、海老原君も殺された」などと居直り論争となった。一般学生が、「問題をすり替えるな」、「川口君は中核派ではなかったというではないか」、「してみれば、自治会委員が自治会員を殺したということになる。その責任をどうとるのか」等々と詰め寄った。

 11.13日、大学当局は、革マル派学生2人を除籍、5人を停学処分とすると発表した。


【早大生万余の決起】
【11月13日正午、早大の一般学生怒り、革マル派を捕捉し大衆糾弾集会開く】
 「内ゲバの時代」、1.14日付け毎日新聞等を参照する)
 事件が伝えられるや、早大生は「もはや我慢なら無い」と立ち上がった。急遽設営された本部キャンパス前での革マル派糾弾集会に続々と集まり始めた。積年の怨みが堰を切ったかのような動きが巻き起こった。それほど一般学生をも含めた怒りが凄まじかった。それまでの革マル派の暴力支配が音を立てて崩れる瞬間であった。

 11.13日正午頃、革マル派系の第一文学部自治会、全学中央自治会が文学部校舎中庭で事件後初めて「11.13反省集会」を開いていた。ヘルメットを脱いだ長髪の学生が「川口君の死に深く反省し、自己批判する」と何度もスピーカーで繰り返す。事件の責任をとって、革マル全学連委員長を辞任した馬場素明(第一文学部4年)が、「徹底的に自己批判し、深く反省する」と訴えた。約100名の同派系学生が黙りこくって耳を傾けていた。

 同時刻、本部大隈銅像前キャンパス、民青系の「革マル糾弾、暴力追放集会」が開かれていた。午後1時頃、「正義派一般学生」(まさに一般学生であった!)約300名が革マル派の集会になだれ込み、革マル派幹部に本部校舎で集会を開くべきだと要求、革マル側はそれを拒否し文学部構内の記念会堂前広場なら応ずると回答した為、やむなく記念会堂前広場で「川口君追悼、事件謝罪集会」が始まった。この時、約2000名が集まっていた。事件への関心の高さが分かる。

 次第に、「これは全学的問題であり、本部キャンパスで集会を開くべきだ」との声が出始め、これに対し、革マル派の最高責任者・田中敏夫全学中央自治会委員長が「その必要はない」と拒否したため、押し問答となった。一般学生の怒りは凄まじく、革マル派幹部をムリヤリ連れ出そうとし始めた為、革マル派はキャンパスを逃げ回り始めた。一般学生がこれを追い駆け捕捉、取り押さえるという事態となった。

 この頃既に、一般学生が早稲田通り馬場下交差点まであふれだしており、その中を革マル派幹部6名の両脇を押さえたまま本部キャンパスに連行した。早大学生は、革マル派の拠点・文学部構内での「11.13反省集会」を許なかったことになる。この過程で、吉本孝男など革マル派学生2名が三週間のけがをしている、と云う。

【11月13日深夜、「革マル派糾弾集会」が夜を徹して続行される】
 11.13日午後2時過ぎ、急遽本部キャンパス大隈銅像前(図書館前)で革マル派に対する前代未聞の大衆的糾弾集会が始まった。約3000名の早大生が取り囲み、更に増えていった。革マル派幹部6名が壇上に立たされ、自己批判せよの罵声が浴びせられていった。日頃の怒りが爆発した吊るし上げ集会となった。

 怒号が一段落したことにより議長団が選出され、順序立てて責任追及していくことになった。議長団の一人が、改めて川口君を殺したことの釈明を求めた。田中委員長はしどろもどろになりながら、「川口君の死は意図しないものだった。二度とこのようなことはしない。今はこれだけしか言えない」と返答した。これに対し、「その程度の反省で済むか」、「二度と一般学生を殺さないとの確約書を書け」、「人殺しと革命にナンの関係があるのか」などヤジが飛び交う。

 議長団は、日頃の革マル派による暴力支配を縷々糾弾し始め、「川口殺害の責任を取ると言った以上、革マル派は自治会、文連すべての役職を辞任すべきだ」と迫った。革マル派が「こういう形で責任を取る事を拒否する」などとしたため、更に激しく罵声を浴びることになった。

 マイクを突きつけられ発言を求められる革マル派幹部は頭をたれたまま青ざめ、マイクに手も出さなくなった。催促されてしゃべり始めるや、たちまちヤジに包まれた。6名はもはや発言もならず壇上に立たされ続けた。次々と一般学生が発言を求め、日頃の革マル派の暴力支配の実態を批判していった。

 夕方になって学生の数はますます増え、図書館の屋上や教室の窓にも鈴なりとなった。本部校舎図書館前での「革マル派糾弾集会」は容易に鎮まらず、夜を徹して続行された。各党派の代表による革マル派批判が為されたが、日頃の鬱憤を晴らそうとする一般学生の発言が引きも切らず相次ぎ、同感の拍手がうねりだした。

 警視庁機動隊員200人が待機する中、抗議集会は夜を徹して続いた。結局、革マル派糾弾、責任追及集会は14日朝まで延々18時間続いた。徹夜組約500名その他入替わりの者も含め約1000名が取り囲んでいた。

 この間大学側は、「6人の生命に危険がある」として機動隊の出動を再三要請している。初めは「学生を刺激するだけ」としてしぶっていた警察当局も、大学側の4度目の要請に応え、14日午前8時、早大構内に入り、革マルは幹部学生6名と一般学生にまじっていた1名の計7名を“救出”した。警察当局は、6名を取り囲んでの徹夜集会は不法監禁の疑いがあるとして捜査を始めた。

 ここに、警察当局が、学生運動内政治党派の一セクトを「救出」するという珍芸が刻印された。この「栄誉」にあずかった第一号として革マル派が刻まれた。これは長い学生運動の歴史の中で初めての出来事ではなかったか。積年の暴力支配の元凶革マル派、あっさり機動隊導入に踏み切った大学当局、これを援軍する警察という相互関係が露呈した。

 早大生は、今度は大学に対する抗議集会を続けていった。以降、キャンパス内に、「KKT連合」(革マルのK、権力のK、大学当局のT)の認識が広がっていくことになる。
【革マル派の自己批判声明が為され、そのマヌーバーに学生が更に怒る】
 革マル派は、自己批判声明を発表した。しかし、その内容が更にキャンパスに怒りを呼んだ。声明の内容(『』部分が怒りを呼んだ)は次のようなものであった。
 概要「我が全学連の諸君の川口君に対する自己批判要求は正しかった。が、この追及過程で『我々の意図せぬ事態』が現出した。川口君は『ショック的症状』を突然起こし、死亡した。『一部の未熟な部分』によって、今回の事態は生み出された。『このような意味において』、我が全学連は率直な自己批判を行う。その責任の一端を『全学連委員長の辞任』をもって示し、革命的学生運動の前進に向けて闘い続けることを表明する」。

 この弁明は、それまで革マル派が口にしていた「革命的暴力論」とも整合しておらず、というかそのご都合主義をあからさまにしており、自派のゲバルトは聖であるが、今回はヘマをやったのでその限りで反省するという論理でのトカゲの尻尾切り総括にしか過ぎなかった。学生大衆はそのペテン性を見破り、更に怒り、追及していくことになった。

(私論.私見) 「この時の革マル派の弁明について」

 ところで、下手人がその行為を明らかにせず、被害者が突如「ショック的症状」を起こし死亡したなる論はどこかで聞いたことがある。宮顕の戦前の査問リンチ事件での小畑中央委員死亡に纏わる見解と瓜二つである。

 革マル派と宮顕との直接関係は無かろうが、特高当局の弁明とも酷似していることを考えれば、何やら納得させられるものもある、というのがれんだいこ見解だ。そういう意味でも、「宮顕の戦前の小畑中央委員査問致死事件」は徹底的に解明され、我々は宮顕論法批判に習熟しておかねばならない、とつくづく思う。

 ちなみに、11.23日付け朝日新聞は、革マル派の最高幹部・土門肇の記者質問に答えての次の談話を記事にしている。

 「こうした我々に対する暴力的敵対に対し我々の自己武装は不可避である。イデオロギー闘争を補助するために暴力的行使は存在する。相手に自分の行為の犯罪性を自覚させ、反省させるための補助的方法である」

 この嫌らしい論法を見よ。次のような論理構造とお見受けする。1・革マル派は正しい。2・故に、敵対党派に対する武装反撃は是認される。3・我々の暴力はイデオロギー闘争を補助するためのものである。4・相手を反省させるため補助的方法である。5・この論法を他の党派が使うことは許されない。6・なぜなら、他の党派は正しくないからである。

 この論法に辟易しない者がいるとしたら相当オツムがヤラレテイル。しかしそれにしても左翼には異筋な権力論法である。

 2005.3.30日再編集 れんだいこ拝

【各党派が続々入り込む】
 この頃、早大キャンパスには久々に各党派が現われ、一般学生と見受けられていた学生の一部が歓呼の声でこれを迎える場面が見られた。

 特に、それまで政経学部を拠点とし、69年のゲバルトで敗退して以来革マル派の暴力支配の前にキャンパスを追われていた社青同解放派の登場を歓迎する動きが目立った。中核派、ブント諸派のレポとおぼしき学生も相当数入り込んできていた。以降、革マル支配を崩そうとする党派闘争も絡み、三つ巴、四つ巴の死闘が演じられていくことになる。
11.15日、再々度「革マル派糾弾集会」が開かれる】
 11.15日、糾弾集会。午後2時から事件後三回目の革マル糾弾集会を民青系および一般学生約1000名で行う。革マル派の全学中央自治会前委員長・田中敏夫は、「ある特定の政治力学上の条件下では暴力もやむえをえない」と述べ、政治的に利用されるとして、学生側の要求する「暴力をふるわない」との確約書にサインすることを拒否。翌日の集会に必ず出ることを確約させて集会を終わる。

 田中前委員長は、「川口君の両親にあやまれ」と男女学生4人に涙声で詰め寄られ、壇上にひざまづいて深々と頭を下げる一幕もあった。
11.16日革マル派が糾弾集会で「党派間ゲバルト不行使確認書」にサインさせられる】
 11.16日、田中前委員長は糾弾集会で、次のような内容の確認書にサインさせられた。
 「自治会活動を進める上で意見の対立は、イデオロギー闘争によって解決し、異なった意見に対して暴力による解決は認められない。現在の学生運動にありがちな暴力行為は使わず、正常な自治会活動をすすめるよう努力したい。しかし、支配階級と被支配階級の間における国家権力の暴力には対決していく」。

 学生は拍手で受けとめた。
11.17日、川口君追悼集会】
 11.17日、川口君追悼集会(於:大隈講堂)が開かれた。川口サトさんも、「大学当局の怠慢と暴力をなくすためにみなさんといっしょに終生闘っていきます」と挨拶、これに対して大学は「11.17告示」なる管理強化を内容とする告示を発表した。

【各学部自治会で革マル派のリコール運動始まる】
 11.18日、引き続き糾弾集会が開かれ、馬場全学連前委員長らが次のような内容の確認書にサインさせられた。
 「リコール運動には暴力的敵対はしない。リコールされれば辞任する」。

 これにより、各学部でリコール署名がスタートする。
【革マル派の反攻作戦が始動する】
 11.22日、革マル派数十名が「民青の自治会乗っ取り策動粉砕」「三役処分粉砕、自治会室奪還」を叫んで、文学部に乱入する。
【革マル糾弾派と革マル派のせめぎ合いが始まる】

 11.24日、革マル約70名が「当局処分撤回、民青による自治会乗っ取り粉砕、自治会室奪還」の集会を開く。一方革マル派の居座りを糾弾する決起集会を開いていた学生が革マル派の集会を取り囲み、牛蒡抜きにして排除、その際田中前委員長がけがをしたほか、数名の負傷者を出した。

 11.25日、革マル派250名(全都動員)が、田中敏夫のけがを口実に反撃。

 11.27日、革マル派全国動員の300名が本部前で集会。

【革マル派の牙城第一文学部で、革マル執行部がリコールされる。他学部にも波及する】
 11.28日、大学当局のロックアウト措置、革マル派の文学部181教室占拠という事態の中で、一文学生大会が革マル派や大学当局の妨害をはねのけ、15号館で1410名を集めて開催された。他学部学生4000名が対革マル派警戒にあたり支援した。大会は、1369名の支持で革マル派の自治会からの追放、革マル執行部リコール、臨時執行部9名を選出、暫定規約を採択した。

 この日夜、社会科学部も学生大会を開催。革マル派が400名で学大粉砕を叫ぶ中、646名中614名の賛成で自治会からの革マル派追放を決定した。
 11.29日、同じくロックアウトの中、教育学部の学生大会開催。大隈講堂前で報告集会の後、数千人規模のデモ。革マル鶴巻公園に500名。
 11.30日、検問体制のなか、政治経済学部学生大会、夜には二文も学生大会、川口サトさんも参加。
 12.1日、商学部学生大会。法学部でも学生大会が行われたが、法学部自治会、民青執行部がリコールされそうになり、10名足らずの不足を理由に学生「集」会に切り替えられた。

【革マル派の個人テロが始まり、これに抵抗する「一文行動委員会」が結成される】
 12.2日、一文で各クラス代表によるクラス協議会が発足。革マルの反撃は個人テロにエスカレート、これに対して一文行動委員会が結成された。
【川口君の両親が、革マル派への擁護姿勢を見せる大学当局の責任追及に乗り出す】
 12.4日、川口サトさんらが清水・竹内両理事に対して当局の責任を追及した。川口サトさんは位牌を理事に突きつけ、次のように訴えた。
 「これまでの大学の発言には何の誠意もない。弔慰金なんか受け取らない。お金より大三郎を返して」。

 大学は村井総長への面会を拒否した。
 12.5日、川口殺害に関与したとして5名の革マル派学生に逮捕状が出された。
【反革マル派共同戦線が「総長団交総決起集会」を挙行する】

 12.5日、本部前で総長団交総決起集会を1500名で開催したが、総長は出席せず。大学側はこれまで革マル派に及び腰で、むしろ「革マル派とグル」と見られる動きを繰り返していた。先の学生大会の決議も大学側は認めようとせず、革マル派の肩を持つような発言を繰り返して学生の怒りを買っており、この日の総長の対応にも批判が高まった。

 
文学部では、181教室で、浅井・一文学部長ら教授3名の出席で大衆団交が行われた。学部長は「村井総長に団交への出席を要請する」旨の確約書にサイン。

 12.6日、村井総長は団交拒否。

【政経学部で反革マル派系の新執行部が誕生する】

 12.7日、政経学部、新執行部。

 12.8日、臨時執行部主催で「寒い冬を越すための大コンサート」が開かれる。

【冬休みに入り、小休止に入る】
 12.9日、冬休みに入る。

【年明けを迎え、反革マル派連合=早大行動委が結成され、革マル派との本格的抗争に入った】
 1.7日、全学前段階総決起集会。
 1.8日、全学総決起集会が開かれ、全学行動委員会(早大行動委)が結成される。以降、黒ヘル着用。

【民青同の行動が急速に沈静化する】
 全学行動委員会(早大行動委)が結成された頃から、民青同の革マル派糾弾運動が潮を引き始めた。これも奇怪な動きであった。
(私論.私見) 「民青同の戦線撤退」について

 この現象を如何に見るべきか。れんだいこの日共党中央批判は、この時の動きの変調さ等々から下地が醸成されている。

【早大行動委が、各学部で自治会の革マル支配から奪権運動に取り組み始める】
 1.11日、政経学部、学部団交。
 1.12日、団交要求集会。
 1.13日、一文で自治委員選挙告示、革マル派のバリケード突破し、選挙。
 1.16日、政経学部、学部団交。

【革マル派の反攻とテロにより「早大行動委」から負傷者が続出し始める】
 1.17日、一文、革マル派の自治委員総会。それに対抗した「早大行動委」部隊が革マル派の攻撃を受け、十数名が負傷する。

【大学当局が文学部ロックアウトで革マル派の窮地救出】
 1.18日、文学部、ロックアウト。これに抗議する「早大行動委」などが機動隊と衝突、一名逮捕。夕刻、中核派700名が革マル派と本部正門前で衝突、約20分の激闘最中機動隊が介入し、中核派60名逮捕、革マル派逮捕者無し。

【「早大行動委」が革マル派と武闘、追い詰める】
 1.19日、革マル派の文連総会。政経学部学生大会。11号館に追いつめられた革マル派が投石などで対抗、政経学部生一名、頭蓋骨陥没の重傷。その後の乱闘でも30数名が負傷。
 その後「早大行動委」と革マル派とのゲバルトが続く。

【大学当局、本部キャンパス全額ロックアウト措置に入り、非勢の革マル派に息継ぎを与える】
 1.20日、理工学部をのぞき全学ロックアウト。革マル・ノンヘルテロ部隊が2J生などを襲撃。
 1.22日、政経学部、試験阻止。機動隊導入、15名逮捕。

【「早大行動委」が、各学部自治会の奪権闘争本格化に向かう】
 1.23日、一文学生大会、1500名で開催。期末試験をストライキで阻止することを採択。1週間ストライキを決定。
 1.24日、一文行動委員会中心にピケスト突入。革マル派とこぜりあい。大学当局、試験延期。
 1.25日、教育学部、学生大会。一文では自治委員総会成立のための定足数を突破。
 1.27日、一文、新執行部、自治委員総会開催。
 1.29日、一文、第二回学部団交。教育学部スト突入。
 1.30日、一文、学生大会。第二波の1週間スト可決。
 1.31日、社会科学部、学生大会。一文自治委員総会。

【「早大行動委」系が次々学生大会、団交に漕ぎ着ける】
 2.1日、一文学部団交。
 2.2日、政経、学生大会で3カ月ストライキ可決。社学団交、教育団交。
 2.3日、政経、教育で学生大会。
 2.5日、一文、学部団交。十人委員会総長団交を実現するよう教授会に要請する旨の確約書にサイン。
 2.6、7日、一文で学部集会。一文団交実行委員会、二文新入生歓迎委員会結成。
 2.8日、一文、卒業予定者分離試験実施。10号館で、総長団交要求総決起集会、ストに反対する法学部執行部に法学部行動委員会などから反論。

【春休暇に入る。入学試験】
 2.23日、48年度入学試験開始(3/2まで)。受験生へのビラ配り、機動隊と衝突。

新学期始まる
 4.1日、新入生連帯と総長糾弾闘争への全学総決起集会。
 4.2日、早稲田大学入学式で、総長挨拶の最中、黒ヘルが壇上に乱入。午前の部の段階で入学式中止となった。革マル派は式場外で集会。

【革マル派による「早大行動委」に対するテロが満展開し始め、「早大行動委」系に負傷者続出する】
 4.4日、革マル派が鉄パイプで「早大行動委」を襲撃。「早大行動委」に負傷者30数名、うち重傷10名。
 4.5日、本部前で、「4.4革マル鉄パイプ襲撃弾劾集会」。偵察に来た革マル派一名が包囲される。
 4.9日、二文で小競り合い。
 4.10日、革マル派が、代々木駅で集団登校中の「早大行動委」に鉄パイプ攻撃。負傷10数名、重傷3名。

【革マル派が再び支配権を確立し始める】
 4.11日、革マル派「統一行動」集会(約100名)、続いて一文で「4.9告示」糾弾集会。
 4.13日、教育学部学生大会、革マルの妨害で成立せず。
 4.14日、新入生連帯討論集会、革マルの妨害で出来ず。
 4.21日、一文学生大会。革マルの妨害行動。
 4.23日、二文学生大会後、高田馬場まで500名でフランスデモ。教育学生大会、革マルの妨害で流会。
 4.24日、一文自治委員協議会
 4.28日、革マル派220名、「4.28全国集会」のため集会。
 5.2日、一文、学部団交。革マル10数名壇上に乱入。これにより、学部側が団交継続拒否。
 5.4日、一文、自治委員協議会で5.2団交の総括。
 5.7日、一文団交を妨害するために、革マルが全都的動員をかけ、文学部で衝突(2名負傷)。

「早大行動委」が、非常手段で総長を拉致し団交に及ぶ】
 5.8日、総長拉致団交。「早大行動委」は理工学部で講義を行っていた村井総長を法学部8号館301教室に拉致。約2000名の学生が集まる。村井総長は、5.17日に正式団交(再団交)を約束させた。革マル派との衝突が予想された。

革マル―大学当局―機動隊連合で「早大行動委」潰される】
【学費値上げ反対闘争を行っている慶応大学生との連帯化が企図されるが、機動隊−革マル派連合によって阻まれる】
 5.12日、早慶交流集会。慶應義塾で、学費値上げ反対闘争を行っている慶応大学生と連帯、第三次早大闘争を全国的に闘うことを決議。早朝、革マル派は慶応大学スト団交実行委に無差別鉄パイプテロ(5名負傷)。早慶学生300名が早稲田に向かったが、機動隊に阻まれ、東大で集会。夜、革マル派30名が8号館を鉄パイプで襲撃、4名負傷。
【革マル派の武装襲撃頻出する】
 5.14日、革マル派が、4、8、16、22号館などに7度の襲撃。この日、法学部学生大会がはじめて開かれたが、民青執行部リコールが可決されるや、10名の定員不足を理由に流会とされる。夕方、一文自治会委員長が法学部8号館前で革マル派に鉄パイプで襲撃され、重傷。
【革マル派が総長団交粉砕を企図して全国動員】
 5.15日、革マル派全国動員(500名)で本部集会。
 5.16日、5.17総長団交粉砕を叫ぶ革マル派の集会。

【革マル派-機動隊連合により、総長団交流産する】
 5.17日、革マル派、早稲田一帯を制圧。「早大行動委」など500名が夕方正門前で集会。校内に入ろうとするや、革マル派が鉄パイプ攻撃。1000名に膨れた学生は再度構内突入を図ろうとしたが、機動隊に規制され、500名が外堀公園に連行された。かくて、「5.17日総長再団交」ならず。
【革マル派が再びキャンパスの支配権を確立する】
 「早大行動委」の奮戦もここで力尽きた。以降、キャンパスに再度革マル派が支配権を確立することになった。大学当局と機動隊に守られてのなりふり構わぬ制圧であったことは、当時の一連の史実であろう。

 未完(つづく)
 残念ながら、インターネットに残されている情報は以上で終わっている。当時の資料を集めれば、更にドキュメントが精緻化されるだろう。
* 革マル派の事件関係者が警察の取り調べの際に事件を自己批判し、「謝罪声明」したはずであるが、該当資料が入手できない。どなたかご教示いただければ追加致します。
* 結局、この時の「早稲田における革マル派による暴力支配追放運動」は頓挫する。それにしても、早大総長が一貫して反革マル共同戦線派により結成された自治会の承認を渋り、団交への出席も最終的に拒否し、革マル派の肩を持ち続けた事は意味深であろう。「平成6年、奥島孝康が早大総長に就任するまで、大学当局と革マル派の蜜月は続いた」とある。


(関連資料一)

 ところで、早大に革マル派を跋扈させた責任が早大当局自身にもあることは、知っている人なら知っていることだ。そのことを記した岸沼秀樹氏の文章が「彼方」というミニコミ誌に掲載されているので、その一部を引用させていただく。時代は1972年から73年、大学を舞台にした内ゲバ闘争が激しく行なわれていた頃のことである。

 「(一九七二年)十一月八日、中核派シンパの早大生川口大三郎が革マル派の防衛隊につかまり、リンチによって殺害された。早大構内では常に革マル派の防衛隊が、他党派の活動を封じるためにパトロールしていた。

 中核派は報復を宣言した。長年の革マル派の暴力支配に対し一般学生も立ち上がり、革マル派活動家への大衆的追及は翌朝にまで及んだ。(当時、革マル派と良好な関係にあった早大当局は、機動隊を導入して革マル派活動家を救出した)。」

 「一九七三年五月七・八日WAC(注・早大行動委。早大生の反革マル大衆組織で黒ヘルメットを着用。ノンセクトが主体であったが、解放派や中核派などセクトも加わっていた)を中心とした反革マル系部隊は、革マル派を打ち破り、村井早大総長を引き出して大衆団交し、五月十七日の再団交を確約させ、一時、反革マル系が勝利するかと思われた。だが、十七日当日、総長は団交の約束を破棄し、集まっていた反革マル系学生は導入された機動隊によって多数の負傷者を出して追い散らされた。この日をもって早大での革マル派の勝利は確定した。」

(引用文献:岸沼秀樹「左翼名鑑」〜「彼方」編集部発行「彼方」5号所収)

(関連資料二)

 僕らが生まれる前に起こったことについて、当事者でない、しかも学園闘争に対する知識に乏しい僕が、「もしあのとき…ならば」といったような無神経な発言をすることは慎むべきだろう。また、当時の大学当局が行なった選択に対する判断を、ここで下すことも僕にはできない。だが、これだけは大学当局に対して主張したい。革マル派の存在を30年も許してきた自らの責任に対する反省のないまま、ただ革マル派という”負の遺産”を精算するため、一般学生を学内政治に巻き込み、さらに早稲田祭不開催をはじめとする”ツケ”をわれわれ学生に支払わせるのは、全く間違ったことである。もう大学と革マル派の、醜い争いに振りまわされるのはうんざりだ。この状況を変えられるのは、大学の主役である学生の、爆発的なエネルギーしかない!

(なお、大学と革マル派(系学生)との間には、73年以降90年代初頭まで密接な関係があったと言われているが、僕には詳しいことはわからない。まあ、そのような過去の問題は大学当局の偽善性を知るのに役立つだけで、新しい早稲田祭作りを目指す新時代の学生はもはや気にする必要のないことかも知れないなあ。)

(関連資料三)
命の重さ(おぞましき事件)

★僕の学校嫌いに拍車をかけた事件が起こった。大学1年生の早稲田祭で、川口大三郎君という学生が核マルの手によって文学部のキャンパスで殺されたのだ。核マルは「川口君が中核派のシンパ」とし、「スパイ行為をとがめて、詰問しているうちに死んでしまった。だからあくまでも事故」という釈明をしたが、多数の男たちがリンチを加えて、死に至らしめたことは動かせない事実で、川口君が中核派だとかそんなことで殺される理由は微塵もないのである。

 事件が明らかになると、破廉恥にも語学の授業に核マルのメンバーがやってきて事件の正当性を説いていく。無論、彼らは総スカンを食うわけだが、何を勘違いしてか、今度は事件を利用した反核マルのセクトが早稲田に徘徊して、内ゲバはエスカレート、毎日のようにキャンパスで血が流された。反核マルといわれるセクトは川口君事件を利用して、核マルの後退と自分たちの勢力拡張を図っただけ。命の重さなど、彼らにはまったく関係のないことだった。あいつらは反戦という言葉をよく口に出す。しかし、反戦って何だろう。イデオロギーが違うという理由で、同世代の人間同士がいがみ合い殺し合うことなのだろうか。人一人殺してはいけない、これが反戦の精神ではないだろうか。僕は核マル派のシンパにこの質問を叩きつけたが、無論、答は返ってこなかった。それどころか、数日後、差出人不明の、しかも切手を貼っていない脅迫状が送られてきた。

★早稲田が内ゲバの巣になってから機動隊が常駐するようになった。時として、およそ学生には見えない私服警官がキャンパスの溜まり場を巡回している。もともと授業の半分くらいしか出ていなかった僕は、出席をとる授業しか出ないようになっていった。学校に行っても、喫茶店か雀荘でたむろしているだけ。暇を見てはアルバイトに精を出すようになった。現実逃避、そのための放浪資金を貯めたかったからである。


(関連資料四)
 遊撃隊TOP、97年早稲田祭に行ってきたぞ」より抜粋

2.血塗られたキャンパス

 そもそも、早稲田大学は、革マル派最大の拠点として知られている。事実、革マル全学連のビラは早大ではかなり頻繁に見ることが出来るし、早大キャンパスでは、革マル派と熾烈な内ゲバを繰り広げていることで知られる中核派、及び解放派との間で、実際に何度も武装衝突が発生している。

 革マル派は、67〜68年にかけて、暴力的にサークル自治会「文連」を乗っ取り、これを機に解放派などの早大内に残る反対派を放逐し、「革マル暴力支配」を完成させていった。因みに、今日でも政経学部には自治会がないが、それは、かつて早大から追放された解放派の拠点が、政経学部自治会であったからである。

「革マル暴力支配」の極致とも言うべき事件は、70年における民青活動家の山村政明君の自殺と、中核派シンパ川口大三郎君のリンチ殺人事件である。

 当時の革マル派は、常時キャンパスをパトロールし、革マル派に反対する人々が早大内に登場できないようにしていた。もしも彼等に捕捉されたら、革マル派に足腰が立たなくなるまで暴力的に叩きのめされるのである。事実、かつて「文連」などに勢力を保持していた解放派のメンバーの中には、かくして具体的には片目をえぐり取られるなどの生涯消えない傷を負わされた者も存在する。因みに、当時解放派の放逐に力を注いでいた革マル全学連の大幹部藤原隆義氏は、後に解放派によって、車に乗っていたときにその中に閉じ込められ、他の3人の仲間とともに車もろとも焼き殺されるというあまりにも無惨な最期を遂げている。

 山村君は、民青活動家であり、革マル派に顔を知られているために、登校すると革マル派に半殺しにされかねないという危険に、彼は常にさらされていた。かくして、彼は1年以上にわたり、登校の自由を奪われていた。思い詰めた山村君は、抗議の意味を込めて、70年10月6日、焼身自殺という悲痛な道を選んだ。

 因みに、当時の民青は暴力的な面もあったし、革マル派と民青との内ゲバでは死者も出ているのではあるが、そのことを抜きとしても、革マル派の党派闘争の激しさ、他党派に対する徹底した残酷さは、明記しておかなければならない。

 そして、72年11月8日に殺害された川口君は、中核派のシンパであったと言われている。少なくとも、革マル派に対しては批判的な学生ではあった。そんな彼は、自治会が行う「クラス討論」にて、革マル派を批判したために白昼革マル自治会に拉致され、6時間あまりに及ぶ凄絶なリンチを受け、殺害された。同事件は、本郷の東大病院前にて、彼の死体が遺棄されたことが判明することによって公になった。もっとも彼は、時々デモに参加したという、どちらかというと一般学生に近かった人物のようであったらしい。民青、日向派(現「BUND」、ロフトプラスワン事件でお馴染み)などはこの点を重視して、「一般学生」と見なしたが、リンチの課程で川口君自身が中核派活動家の名を白状したので、必ずしも中核派とは無縁ではなかったようである。

 もっとも、川口君が弄した反革マル的な言辞は大した内容ではなく、ともすれば、早大内にて革マル派に睨まれることが何を意味するかということを誰もが敏感に感じとったのである。

 そう、「もしかしたらボクも....」[「朝日」]という恐怖は、ともすればすべての早大関係者が長年の間抱いていた恐怖でもあった。実際、最近は人の死を伴うようなリンチ、内ゲバは沈静化してはいるものの、少なくとも早大に於いて圧倒的な勢力を保持している革マル派に反抗することは、その報復としての吊し上げ、監禁、暴行などの事件は未だに後を絶たない以上、革マル暴力支配の恐怖は現存していると言ってよい。

 早大内における「革マルタブー」とは、具体的に言えば、こういうものである。

 とりわけ川口君事件は、後の学生運動、内ゲバの趨勢に多大な影響を与えた。後に、その下手人と見なされたものの中には、中核派によって重傷を負わされた者はおろか、廃人と化せられた者も存在する。引用してみよう。どれだけ恨まれているかが分かるはずである。

「川口同志虐殺者に血の報復〜遂に早稲田カクマルをせん滅〜....川口、辻、正田同志虐殺を「許してくれ」とは何たることだ!我が部隊は原田の命乞いに対して無慈悲なツバを吐きかけ、虐殺下手人にふさわしいやり方で徹底的な鉄槌を加えたのである。一撃、一撃に三同志の悔しさを込め、わが戦士は自らの体内に三同志の遺志をよみがえらせおびただしい流血を強制した。/三同志の命を奪い去った憎むべき虐殺者の手や腕を粉々に打ち砕き、つづいて頭や足、そして全身に反革命的罪科にみあったバール五十数発を念入りに刻み込んだのであった。部屋の中は原田のどす黒い血で一杯になり、原田は物言わぬ物体となって血の海に浮かんだのである。」[中核派機関紙「前進」第666号]

「川口君虐殺下手人逃亡分子を関西で摘発〜早大田原を徹底せん滅〜民家への逃げこみを粉砕〜....わが戦士が「田原」と呼びかけたとたん、この反革命分子の顔からサッと血の気が引き、ひざがガクガクとふるえだしたのである。すかさず、打ち下ろされたわが戦士の鉄槌の前に、田原はよろめきながら、目の前にあった民家めがけて、家の前にいた女の子を突きとばしてころがりこみ、コタツの掛けぶとんの中へ頭の先だけもぐりこませ、何ら抵抗することなくガタガタとふるえていたのである。....この卑劣分子をズルズルとコタツの中から引きずり出し、川口同志虐殺に対する怒りと憎しみの一切を込めて、肩、手足に対する的確な打撃を加え、三ヶ月の重傷という壊滅的な打撃を与え、二度と反革命的罪業を重ねることができないまでに打ち沈めたのである。」[「前進」第719号]

 川口君事件を機に、さすがに革マル派に対する批判がうずまき、革マル派は何度も吊し上げなどの制裁や、反対派セクトの武装襲撃を受けている。

 その衝撃の大きさから、革マル派は社会的に孤立し、革マル系の自治会はリコールを受け、消滅の危機にたたされた。しかし、革マル派の勢力範囲である「早稲田祭実行委員会」はリコールを免れた。革マル派は追放されなかったのだ。相も変わらず、早大は革マル派本丸であり続けた。

 そして、川口君事件1周年を間もなく迎えようとしていたときに、例年この時期に行われていた「早稲田祭」の問題が持ち上がった。そう、再び革マル派が「早稲田祭」を執り行う時期が来たのだ。

 革マル派と激しく対立しているセクト、特に解放派と中核派とはこのことを重視し、「早稲田祭粉砕」を掲げていた。彼等は、とりわけ当時の「早稲田祭」が、川口君の命日である「11月8日」に行われる予定であったことから、「革マル早稲田祭(革マル祭)粉砕!」とか、「お望みどおり、「虐殺者の祭典」をコナゴナに打ち砕いてやろうではないか!」などと絶叫していた。結局、当初の期日はあまりにも露骨なため、早稲田祭は日程をずらして行われたが、このこともまた、革マル派と当局との動揺を示すものであり、解放派や中核派を喜ばせるものであった。

 又、民青の勢力が強い法学部では、革マル派主導の「早稲田祭」に反対、独自に「法学部祭」を行うに至った。それは現在でも続いている。

 かくして、内ゲバ戦争はますますエスカレートし、その死者は100人近くにのぼる。少々調べただけでも、今では考えられない、ものすごい歴史である。是非とも、当時の人々の話が聞きたいものである。



【第四インター系の対応】
 第4インター系が当時如何に「川口事件」をリードしようとしていたのかの資料が情報開示されている。云いたいこともあるが、とりあえずノーコメントで取り込んでおく。(後日検証したいところを太字にしておく)

 声明・早大生・川口大三郎君虐殺に抗議し、戦闘的・民主的学生運動の再建を訴える

   日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)中央政治局

 革マル派のテロ団によってなされた川□大三郎君の虐殺に直面して、早稲田大学の学友達は、いまはげしい糾弾の叫びをあげ、革マル派官僚によって簒奪されて久しい学生自治会を、たたかう全学友の手にとりもどす闘争に決起している。全国の先進的学友諸君! 青年労働者諸君!川口大三郎君が、わずか二十年の夢多き青春を“革命家”を自称する腐敗し切った職業的暗殺者集団の手で奪い去られるというあまりにも高価な犠牲と引きかえにではあるが、早稲田のキャンバスにいま復活しつつあるたたかう学友達の真に自主的で戦闘的な息吹きに、諸君達の熱い注視と固い連帯を送ることは、緊要な任務なのである!

 川口大三郎君は何故殺されなければならなかったのか。年老いた母親を愛し、数多くの仲間達の友情に包まれながら、自らの生きた青春を、生きるに値いする青春を日本学生運動の戦闘的伝統の最先端に位置して来た早稲田大学にきずきあげようとした川口君の無限の可能性に満ちた生命が、まるで虫ケラのように踏みつぶされなければならなかったのは何故か? 聞こう、彼はいかなる「罪」を犯したというのか?

 だが、川口大三郎君は、断じていかなる「罪」をも犯しはしなかった。彼は、三百万部落大衆の解放のためにたたかおうと決意していた。彼は狭山差別裁判糾弾のたたかいに参加して来た。彼は自らの信ずる正義を人々の前で公然と主張する勇気をもっていた。自分と異った音調で歌う者をすべて処刑する権利を有すると狂信している革マル派魔女狩り審問の席上においても、川口君は主張を撤回する卑屈に甘んじようとはしなかった。

 まさにこの勇気のために、彼の生命は絶たれた。それゆえ彼の遺骸は、プロレタリア世界革命の壮途に殉じた無数の墓標の群に加えられなければならない。生き残りまた新しく生れ出るすべての解放戦士達が、戦闘の半ばに口ずさむ葬送の歌によって、葬られなければならない。彼の老母と友人達の悲しみを、彼の果せなかったたたかいを引き継ぐことを決意するわれわれすべての進撃のなかでなぐさめ、彼を虐殺したテロリスト集団革マル派とその真実の雇用者たる大学当局=国家権力の打倒によって償なわなければならない。

 然り、川□君虐殺の真の元凶は国家権力=大学当局である。六八年以降の全国大学闘争の波のなかで、ほとんどすべての公私立大学が、全共闘運動によって包囲され一時的にではあっても解体され、機動隊常駐体制と数千の先進的学友を投獄することによってかろうじて切り抜け、大学の「権威」の全てを犠牲にしてただ骨だけになってしまった「機構」をようやく救い出すという始末であった時期に、早大当局は、この大学のレッド・パージ反対闘争、六〇年安保闘争、そして六六年早大闘争の戦闘的伝統と比較して信じられないほどの軽微な「損害」で支配の安泰を誇ることができた。そしてこの功績の第一は、合法的自治会運動の枠を一歩でも踏み出そうとする学友達を、たちまちキャンパスの外に、しかも肉体と精神の双方に深い傷を負わせて追放して、大学当局の恐怖をとりのぞいて来た革マル「自治会」に帰さなければならない。戦闘的学友を例外なく排除して来た革マル派の暴力は、大学当局の暗黙の了解に支えられた公認の暴力だったのである。

 このようにして日本急進主義学生運動の荒々しい昂揚を、早大キャンパスにおいて未然に防ぎとめた革マル派は、申し分のない民同の役割を果していた。だがこの「民同」は、ほんのちょっとの叛乱に出会っただけでガタガタになつてしまうようなかよわい「民同」ではなかった。訓練ズミのゲー・ペー・ウー(スターリンの秘密警察)を常時配置して、教室のスミズミに眼を光らせ、すこしでも不穏な言動がおこなわれてはいないか、背教の火種がくすぶりはじめてはいないかと、さがしまわり消しまわる立派な「民同」であった。さらにはこうした「消火作業」だけではおさまりがつかない程に学生大衆のエネルギーが蓄積しはじめたと見るや、代行的に、因果を含められた「行動隊」を登場させ大衆に変わって急進的闘争をやってのけ、たまったエネルギーを定期的に発散させてキャンパスの「平和」をとりもどすというはなれわざをも演じ切っていた点でも、実に見事な民同であったのだ。早大当局が、このように役に立つ民同革マル派に多大な援助を惜しまなかったというのもまことに根拠のある話しである。

 だが諸君、とりわけ早稲田大学の全学友諸君! かかる革マル派と大学当局の、資本と武装した民同の関係は、いま劇的にバクロされてはいないだろうか。総長は大学当局を代表して、革マル派の川口君虐殺を、「これは派閥抗争であって、勇気のある人が自分の思想を表明したために殺された事件ではない」とか、虐殺に抗議して立ち上がった早大四千の学友を「これはセクトの動きであって一般学生の要求とは見ない」とか主張し(十五日付毎日新聞朝刊)、さらには、川口君虐殺を徹底的に糾弾しようとした早大学友の包囲のなかから、革マル派を救出するために、機動隊の出動を要請することまでやっている。そしてこの大学当局は、一文、二文自治会を「解散」させ、学友達自身が革マル派執行部をリコールして自らの手で再建をかちとろうとしている矢先きに、当局の思惑をこえて決起する戦闘的自治会が生れ出る危険を、あらかじめとりのぞこうとしているのだ。当局は民同革マル派との癒着が明るみに出ることを恐れて学友達の追求から身をかくそうとしているが、しかも同時に、この革マル派の「失敗」をも利用して、大学の反動的秩序との根底的な対決をやりぬく能力をもった新しい学生自治会を絶対につくらせまいと決意してもいるのだ。

 諸君、とりわけ全早大の学友諸君! 腐敗した民同に糾弾を向けるだけであってはならない。革マル派の暴力支配を解体するだけでとどまってはならない。 大学当局に怒りをぶつけよ!彼らこそ元凶である。彼らこそ革マル派を飼育して、学友達の決起を予防しようとして来た背後の真実の敵である。そして今大学当局は、民同支配の破産のあとに機動隊支配を導入しようとしているのだ。

 彼らを退陣させよ! 彼らに償いをさせよ! 彼らの間接支配方式を白日の下にあばけ! 彼らの腐敗をさらけ出せ! ロックアウト粉砕! 機動隊管理粉砕! 大学当局の自治会処分を粉砕せよ! 全学友の手によって、戦闘的で民主的な自治会を再建せよ! まさにこの自治会再建は、国家と資本に忠実な下僕のマスプロ、ベルトコンベアーたる早大秩序の根底的解体・解放をめざし、新しい全国大学闘争の不死鳥のごとき再生を切り拓く、第一歩でなければならない。全早大の学友諸君! 「先陣」の名誉は諸君が担うべきである!

 だがここでわれわれは、語気強く言わなければならない。革マル派の果した役割りが、結局大学当局に奉仕する「民同」の役割りにすぎなかったという事実は、なんら革マル派を免罪するものではない、ということを。革マル派の自治会権力掌握以降いったいどれ程の先進的学友諸君が、彼らのためにその肉体と戦闘力を台無しにされて来たことだろうか。この人々は、ただ革マルの勅許するのとはちがった思想のもち主であったというだけで、そして革マルのどうかつに屈しない勇気をあわせもっていたためになぐられ、蹴られ、手足を折られ、半身不随にされていった。この人々は登校の権利を奪われ、発言の機会を封じられた。革マル派の犯罪の最大のものがここにある。革マル派があらゆる学友達から憎まれさげすまれてきた根拠がここにある。革命を語る者において絶対にあってはならない最低の逸脱を、彼ら革マル派は日常の支配手段として組織していたのである。革マル派を生涯許さない決意を固めている人々の数とうらみの深さを、とうていはかり知ることはできない。

 革マル派が早大キャンパスを支配した論理は、だが、教会秩序の崩壊を恐怖する中世カソリックの宗教裁判の論理であり、人民と活動家の全てがトロツキズムの潜在的シンパに見えて大粛清に駆り立てられていったスターリンのモスクワ裁判の論理であった。もし自らの思想に不動の確信を持っているならば、誰が反対派の登場におびえようか? もし反対派の登場におびえるのでなかったならば、誰が反対派の肉体的抹殺を試みるであろうか?

 訓練されたゲー・ペー・ウーをもって、自らの単独政権を固守しようとした革マル派は、実は自らの支配の階級的道義性と強い大衆的支持基盤の存在を、一日といえども確信できなかったのである。彼らが、支配の手段としての「内ゲバ」に頼れば頼るほど、彼らの腐敗と孤立はそれだけ深まり、彼らの「支配」の本当の危機がそれだけ進行していたのである。川口大三郎君の死は、早大全学友の劇的な決起による糾弾の嵐となって彼らにはね返り、革マル専制十年の歴史の結着を迫っている。

 彼ら革マル派は、「やりすぎた」と後悔しているかもしれない。この後悔を、とりあえず心にもない「自己批判」として発表したかもしれない。だが彼らは、この「自己批判」のなかで「死」にさえしなければ良かったということ、「廃人」にする時点でとめておけばよかったということだけを、ほんとうは言っているにすぎない。その「自己批判」とは、廃人が「死」にかわる限界を、このほんのすこしの区別をつけかねた政治的暗殺技術の未熟さについての自己批判にすぎない。そして、事実、「廃人」にさせて殺さないですんだ数多くの「成功例」を、彼らはひそかに思い起していることであろう。そうした事例を、われわれも知っているし早大の学友諸君も知っている。そして同時に彼らが「やりすぎた」のは、けっして川口君が最初でもなければ、それほど少ない数ではないこともまた周知の事実であるのだ。

 このキャンバスで起った「やりすぎ」が、彼らにもたらす政治的マイナスをできるかぎり割引くために彼らは「死人に口なし」とばかりに川口君を「スパイ」に仕立て上げようとしており、中核派との「特殊な緊張関係」を強調しようとしてみたりする。早大総長もまた革マル派のこの努力を助けようとして、問題を「派閥抗争」へすりかえようとする。

 だが、すべてこのような姑息な手段は無駄である。川口大三郎君虐殺は、ついに全早大学友の怒りの決起をひき出した。革マル専制の崩壊が、はっきりとはじまった。この潮流の変化は逆転しない。「内ゲバ主義者」が「内ゲバ」で自分自身を崩壊させるであろうことを、われわれは幾度となく警告して来た。事実はこの警告の正しさを証明した。

 革マル派の諸君の前には、鮮明な二者択一がつきつけちれている。ただちに、無条件に、川口君虐殺を自己批判し、未来永劫にわたって、階級闘争の内部における暴力行使を放棄すること、彼らのいう「特殊な手段」は、ただ厳密に国家権力に向けてのみ行使すること、このことを公然と誓い誠実に実行する道をとるか、それとも言いのがれと居直りをつづけて、スターリンの歩んだ道の後を追おうとするのか。選ぶのは彼らである。だが決定するのは大衆である。

 全学友の手で学生大会をかちとり、戦闘的民主的自治会を再建せよ!全自治会、文連、早稲田祭実行委員会等からすべての革マル指導部を引きずりおろせ!十一・一三〜一四糾弾集会九項目決議を貫徹せよ!

 さらにわれわれは次の事実に全国の学友諸君の注視を呼びかけたい。いま早大において白日の下にさらけ出されたこの革マル派の支配のカラクリが、およそすべての革マル派の「拠点」校において全く同一の論理で展開されているのだという事実がある。北大において然り、千葉大において然り、その他全ての革マル派の暴力支配が、早大革マルのやり方を「学び」、模倣して、すでに長い間採用されている。

 それだけではない。この革マルと対立する他の左翼諸セクトもまた、革マルとの抗争のなかでこの面で「革マル化」し、たがいに「内ゲバ」を交換し合ってきているというもう一つの事実がある。民青然り、中核派然り、社青同解放派然り、ブント各派もまた同じである。このようにして全国の大学のキャンパスを、革マル派のいる所でもいない所でも、「内ゲバ」=暴力によるキャンパス支配の論理と風習がまかり通っている結果として、学生大衆の学生運動にたいする絶望と不信が普遍化し、本来的に統一戦線運動としてあるべき全学連運動は完全に解体してしまっている。

 それゆえ、いま早大において問われている問題は、一早大学生運動の再建のみならず、全国学生運動の再建の突破口をひらくものである。全早大学友だけでなく、全国の先進的学友と青年労働者の諸君が、早大における大学当局と革マル暴力支配を弾劾するたたかいに熱い注視を送るべきなのはこのゆえであり、固い連帯を形成することは同時に、自らの学園においてもかならず見出される学生官僚や諸セクトの大衆運動に敵対する暴力支配の構造、「内ゲバ」主義の悪習に決然とたたかいを挑むことを意味するのである。それを通じて、六〇年安保闘争以後、真の意味では一日たりとも存在したことのなかった日本全学連をつくりあげる巨歩を踏み出すことなのである。

 すべてのセクトは、革マル派の川口君虐殺を弾劾する権利をもってはいない。彼らもまた、革マル派と同様の暴力支配、「内ゲバ」と魔女狩りの論理と無縁ではなかった。彼らが革マル派と区別されるのは、革マル派ほど執拗に、系統的に暴力行使を組織できなかったというだけのことである。

 ただわれわれ、第四インターナショナル派だけが唯一の革命的例外である。
われわれだけが公然と「内ゲバ」主義の本質を明らかにして、これとのたたかいを継続して来た。われわれだけが大衆運動のプロレタリア民主主義を擁護し発展させようとして来た。だから早大学友達のいまのたたかいに馳せ参じ、それを全国学生運動再建のたたかいへと引き継ぐべき責務をにないうる党派は、唯一わが第四インターナショナルの旗のもとに結集する部分のみであるという現実を、われわれはしっかりと受けとめ、臆することなくこの責務をひきうけるであろう。

 われわれは断固として、プロレタリア民主主義につらぬかれた全国学生運動の再建、全学連再建の課題に挑戦するであろう。われわれは断固として、真実に革命的な学生大衆運動をつくりあげるであろう。大衆運動は、無数の「行きすぎ」や「試行錯誤」をともなうものである。大衆運動は、全能の指導者に統制されて、教え導びかれ、「誤ち」をおかさず、「逸脱」を経験せず、鞭と番犬の群に追われてしずしずと歩む羊の行進のようにして発展することは決してできない。大衆運動は時にはいくつもの敗北からも学びながら、荒々しく曲りくねった道筋を走破するであろう。この道程を自らも試行錯誤をともにしつつ成長していこうとする党派のみが、大衆を主体とする革命的大衆運動を領導するのであって、大衆運動が無数に、豊かに登場させるであろう「行きすぎ」や「誤ち」からあらかじめ身を遠ざけていると過信する「党派」どものために教壇を提供する場所はないのだ。

 革マル派は、このような大衆運動を恐れたがゆえに、彼ら固有の暴力支配の体系をつくりあげた。彼らは大衆を従順な羊の群に見たて、自分自身を、ひとり目的地とそこへの道順を知っている羊飼いに見たてた。だから彼らは、群をはなれる羊を煮て食おうと焼いて食おうと、彼らの勝手であると思い込んでいたのだ。だが、彼らの専横は、これ以後早大において復活しないであろう。そしてやがては全国のすべての大学において、早大と同じ革命的大衆運動の復活がみられ、彼らの宗教的大衆操作を駆逐するであろう。革マル派よ恐れるがよい。だが君らの蒔いた種は君らが刈らねばならないことを忘れるな!

 全国の先進的学友諸君、青年労働者諸君! とりわけ全早大の学友諸君! たたかいははじまった。あらゆる妥協を排して、革命的学生運動の大衆的再建にたどりつくまで、はじまったたたかいの手綱をにぎりしめ、行きつくところまで行こうではないか。全国の学生自治会を戦闘的学生大衆の手にとりもどすこと、これはたたかいの武器をきたえることである。だが、たたかいの武器をきたえることなしには、たたかいに勝利することができない。自主的で創意に満ちた学生大衆運動の創造をなしとげることなしには、国家権力と大学当局の最終的な解体・解放へ突き進むことができない。

 一切の妥協と中間主義をのりこえて、いまはじまった早大「文化大革命」をなしとげ、全国化すること、ただこれだけが川口大三郎君の遺志を継ぐことである。もし、われわれの決起が、あと一日、あるいは二日早かったならば、彼の死は避け得たのだ。川口君の「死」にわれわれすべてが責任を分ちもっている。だから、われわれはひとしく、川口君の墓前に決意をこめて起たねばならない。 隊列をかため、不退転の進撃を開始せねばならない。学生諸君! 弔旗をかかげよ! 前進せよ! 第四インターナショナルは、諸君とともに進む。

     一九七二年一一月一五日       「世界革命」紙一九七二年一一月二一日第二九〇号所収

 「革命的暴力と内部ゲバルト」――プロレタリア民主主義の創造をめざして――内ゲバを追放せよ

 11・8早大闘争を全国の闘う学生の力で勝利しよう

 9月15日、神奈川大学で革マル派と解放派が醜悪なゲバルトを展開し、二名が死亡し、二十数名が病院に収容された。つづいて翌日には革マル派が三越デパート屋上で早大のノンセクト活動家を鉄パイプで襲い、さらに次の日鷺谷駅で革マル派と中核派が「衝突」した。こうして9月17日早大新学期明けをピークとして時と所を選ばずに異常なまでに新左翼党派は内ゲバを激化させている。

 われわれは、内ゲバ主義を大衆闘争の発展の観点から常に厳しく批判してきたが、今日の局面にいたってわれわれは強く主張せねばならない。内ゲバ主義はこの悪無限の袋小路に陥いり、ついに文字通り「殺し合い」にまで発展した。そして、その内ゲバは「党派闘争」のベールを捨てて、大衆闘争に向けられている、と。そしてまたわれわれは全ての闘う労働者、学生によびかける。内ゲバを実力で大衆運動から追放しよう。

●内ゲバは利敵行為であり戦闘的人民への犯罪である

 田中自民党政府をとらえ、追いつめた広範な戦闘的労働者・人民が一層多くの仲間を集め、拡げ、闘いを発展させ、彼ら自身の赤旗を高く掲げようとするこの瞬間に革マル派を元凶とする内ゲバ主義者どものゲバルトが連続的に行われている。十五日から連続してなされた三つの内ゲバは、あまりにも醜悪であった。十五日には二名が殺され、二十数名が入院した(重体が三名いるといわれている)。

 そして十六日には白昼公然とデパート屋上で凶行がなされ、十七日には、スト処分粉砕闘争をまさに準備していた国鉄労働者の闘いの眼前で「荒れる国電」とブルジョアジーが宣伝したゲバルトが駅構内で行われた。春闘によって国家権力とブルジョアジーを心底から恐怖させた労働者人民が、ミッドウェー号寄港阻止に立ち上ったその特に内ゲバがなされた! 神奈川県評青婦協がミッドウェー闘争に職場の仲間とともに決起しようとしたその時に、この内ゲバは闘いに水をさした。全国の労働者が職場の闘いを全国的に交流し学びあい、それを職場で実践しようとしたその時に、スト処分粉砕・スト権奪還の力強い闘いを労働者が職場で担おうとしたその時に、そしてまた、チリ・クーデターを「利用」して最左派狩りをなそうとする機会を共産党と人民戦線派がねらっていたその時に、そして新学期とともに不死鳥の如く大衆的な決起を準備していた早大生が公然と登場しようとしたその時に内ゲバがおこなわれたのである。

 内ゲバ主義者は、こうして真の戦闘的潮流の建設をめざす労働者人民に事実として重大な敵対行為を働いた。これほど明白な利敵行為があろうか! 内ゲバ主義者のこの行為は、百パーセント権力の意図に奉仕し、二重の意味で戦闘的人民を苦境に立たせている。一つは、国家権力の弾圧の強化をうながし、一つは人民戦線の枠に労働者をつなぎとめる役割を積極的にはたしたのだ。われわれは、怒りをもって階級闘争の損益計算書に記入しなければならない。この内ゲバは権力を歓喜させ、戦闘的労働者人民にたいして決定的な犯罪を犯した、と。われわれは絶対に内ゲバ主義者を許してはならない。戦闘的人民の階級的怒りで内ゲバ主義を絶滅しなければならない。

●革マル派の内ゲバは大衆に向けられている

 神奈川大学でのゲバルトと二名の死亡について、革マル派はこう説明している。「彼ら二人は非戦闘員だった。その非戦闘員を殺した青ムシはリンチ殺人の実行者である」「青ムシを撲滅せよ」と。彼らはいつもこうだ! ゲバルトの経緯を詳細に説明し「手を出したのは相手の方だ」と弱々しく「いいわけ」する。しかもきまって彼らがゲバルトに「負けた」時にのみこうした「事実関係」を強調するのだ。

 われわれは革マル派による川口君虐殺(彼は早大のごく普通の大衆の一人だった)を決して忘れはしない。そして川口君虐殺について革マル派が説明したことも決して忘れはしない。彼らはこういった「川口君はスパイだった。革マル派に敵対するスパイだった。」と。「非戦闘員」川口君を虐殺したのは革マル派だ! しかも明らかに党派的な私的なリンチによって!

 内ゲバ主義の元祖であり元凶である革マル派はその本質をはからずも暴露した。彼らにとって問題なのは、彼らがゲバルトに「負けた」ことだけで、「戦闘員の死亡は、ゲバルトの中ではあり得る」と、その内ゲバの目標を明らかにしているのだ。そして革マル派は川口君虐殺によって、そのゲバルトを「党派闘争」の手段から、明らかに大衆闘争に向けた。革マル派は血に飢えた鉄パイプを大衆に向けているのだ。山村政明(梁政明)君は七十年革マル派の連日のテロに憎しみを炎と燃やして焼身抗議自殺というあまりにも悲惨な死をとげた。川口君は革マル派の、「拷問部屋」と化した自治会室につれこまれ、鉄パイプで、キリで、言語に絶するリンチのすえに殺された。誰が誰を殺したのか! 革マル派が大衆を殺したのだ。何のために! 内ゲバの「神話」を維持するために、つまり革マル派の「力」に無理矢理屈服させるために。

 そして今なお早大の先進的学友は革マル派にねらわれている。尾行され、脅迫電話をうけ、「殺してやる」と鉄パイプをちらつかせながらどう喝され……。革マル派はこうして川口君虐殺糾弾闘争の中心的活動家の「ブラック・リスト」を作り上げているのだ。内ゲバ主義の元凶革マル派は、ついにその体系を行きつく所まで推し進めている。大衆闘争の力強い発展から必死で身を守るために見さかいなく大衆に襲いかかる牙、この牙だけが革マル派の党派的命綱となってしまった。

 革マル派は必死に内ゲバのため武器をそろえ、一人でも多くの大衆を傷つけ、殺そうとさえする。彼らは内ゲバの「勝敗」だけが気になる。勝ったときの口実と、負けたときの「被害者」を装う理由を、いまから注意深く準備している。内ゲバは至上目的とされ、この目的のために、全てを従属させている。武器をどううまく準備し、[どのように不意打ちを浴せ、内ゲバの戦果を「革マル派は恐しい」という心理を強制させるためにその思考の全てが回転する。だから、内ゲバによってその双方が犠牲を払うことを喜んでいる国家権力の作る筋書きに完全にはまりこんでしまっている。機動隊の弾圧体制の中でなぜ「思いどうり」に事が運ぶのか、事後弾圧がなぜ「思いの外に」軽いのか、革マル派にとって、この疑問は頭のスミにも上ってこない。何故か! 「敵」は対立党派であり、大衆なのだから。

 だが国家権力の筋書きは、革マル派にとっての「敵」「味方」を一拳に壊滅することにある、国家権力にとって、階級闘争内部の内ゲバほど好都合なことはない。国家権力にとっても、階級闘争の代表する「顔役」の要請にもとづいて、さっそうと登場する願ってもない舞台なのだから。事のついでに国家権力は内ゲバ主義者だけではなく、「平等」に全労働者人民の闘いに襲いかかり、その「顔役」にまで手をのぱす。これこそ国家権力の隠れた本心である。

 動は反動をよびおこす。テロは報復テロを招く。殺人が殺人を呼び、内ゲバの論理はこうして無限の敵対関係に双方をつかせて袋小路をかけまわる。内ゲバを実力で追放せよ。内ゲバに対し武装して大衆闘争を防衛せよ。この闘いはまず何よりも腹黒く徴笑えんでいる国家権力に向けられ、そしてまた内ゲバ主義の元凶革マルに向けられねばならない。

●内ゲバ主義党派はすべて同罪である

 だが、革マル派の「あまりにも度し難い堕落」をもって、あと一つの内ゲバ主義者を免罪してはならない。中核派、社青同解放派そして多くのノンセクト主義の諸君による内ゲバの論理にもとづいた革マル派とのゲバルトもまた、多くの労働者学生に絶望と不信をまきちらしているのだ。

 解放派の諸君は神大における革マル派とのゲバルトについて、労働者学生には一言も説明してはいない。また中核派も、彼らの隊伍にたいしては多くを語っているものの、あらゆる戦線で闘っている広範な人民にはほとんど何も語っていない。もちろんわれわれは詳しい事実は知らないし、知ることにどのような興味ももっていないのだが、「革マルせん滅」を第一義として打ち出しているならばこれはあまりにも「虫が良すぎる」というものではないか。

 こうした諸君が何故堂々と、内ゲバの戦果をではなく、革マル派の本質を大衆に明らかにしないのか。何故、大衆に闘いの任務を訴え、ともに進むべく働きかけないのか。彼らは決して語ることは出来ない。革マル派との抗争のなかで「革マル化」しているからであり、お互いに「内ゲバ」を交換しあっているからなのだ。自らのキャンパス支配を、内ゲバ=理不尽な暴力でしきり、この風潮を大衆闘争に流しこみ、それによって、学生大衆の学生運動への不信と絶望感を作り出しているからなのだ。革マル派の凶暴なテロに恐怖し、革マル派から組織を防衛せんがために対抗的手段をとり、革マル派のやり方を身につけ、大衆には「革マルを支持するのか否か」=「われわれのやり方を認めるのか否か」という思い上りもはなはだしい最後通牒的な「前衛主義」は、内ゲバがもたらす階級闘争への大衆の不信を助長しているのである。これらの諸君が「戦果△名、負傷者△名」と自分だけに通用する損益計算書にしがみつくならば革マル派と同列である

 無条件に戦闘的人民に自己批判し、戦闘的人民の大衆闘争とともに革マル派を追放するのか、それとも麻薬のように組織をむしばみ人民をむしばむ内ゲバの論理に身をおくのか、彼らにとって選ぶ道は二つに一つである。だが、決定するのは戦闘的人民の大衆闘争である。彼らはすでに、人民にたいして、革マル派と同じ罪を犯しているのだから!

●内ゲバ追放――それは国家権力との闘いである

 今日内ゲバ主義者たちの果てしないエスカレーションは、戦闘的潮流を人民戦線派に対抗してしっかりと建設しようとする人々にとって、絶対に許すことが出来ない大衆闘争をむしばむ病原菌となっている。大衆を信頼し、その力によって勝利をかちとろうとする人々は、決して内ゲバの「華々しさ」や悲憤な「決意」に心を動かされることはないが、また、内ゲバ主義者に親切に批判と自己批判をすすめるだけでは、内ゲバの恐怖の絶頂にあるこれら内ゲバ主義者が絶対にその楯をすてないことも知っている。内ゲバは、まことに大衆闘争の発展にとって決定的な障害物となっているのだ。

 だから、大衆闘争を国家権力から防衛し、より発展させようとする人々にとって、内ゲバを大衆的に追放する願いは、(非生産的なことであるが)今日の任務となってきている。内ゲバについて第三者の立場をとるだけでは、これを利用して労働者人民の闘いを押し潰す国家権力の企みに手をこまねいてしまう結果になるからである。

 内ゲバを利用して国家権力は、労働者階級人民が国家権力に向ける暴力を一斉に取り締るべく、一切の報道機関を動員し、そしてその裏では、左翼の暴力に対し、右翼の暴力を準備するのだ。早大で右翼体育会が虎視旦々と学内制圧を目論んでいるのは、四〜七月の過程ですでに明らかになっているではないか! 闘う広範な戦闘的人民が正しく内ゲバを階級闘争内部から追放するのか、それとも右翼の暴力によって階級闘争総体の拠点が潰されるのか。内ゲバを正しく追放する闘いは、かくして今日の課題となっているのである。

 われわれは、内ゲバを今日の如くにまで放置してきた責任の多くはわれわれにあると思っている。わがフランス支部の同志たちは、新左翼各派の暴力的敵対に幾度も遭遇しながら、それを監視する大衆的な闘いを作り上げた。のみならずその大衆的な闘いを積極的に共産党・人民戦線派の隊伍にまで波及させ、右翼ファシストの工場スト襲撃にたいし大衆的な武装を実現させている。そしてわれわれは、内ゲバを大衆闘争から追放する闘いの全権を責任をもって担うことを戦闘的人民に誓う。世界にはりめぐらされたスターリニストの個人と組織に向けられたテロと暗殺にたいし、数十万にものぼる戦士たちがその凶弾によって生命を奪われつつも、敢然と立ち向い今日力強くその力を階級闘争に根づかせた第四インターナショナルとトロツキズムの歴史をかけて、われわれは階級闘争と大衆運動の全利益を内ゲバから防衛し、国家権力から防衛して闘うことを誓う。その闘いは諸君によって担われ、その勝利する功績は、諸君自身に与えられる。

 内ゲバを大衆的に追放する闘い、それは、内ゲバ主義者の「寝ぐら」と「補給路」を断つことである。それは、労働者民主主義にもとづいて、反対派の存在を認めようとしない彼らの市民権を奪うことである。内ゲバ主義者を大衆の前で糾弾せよ。無条件の自己批判か、さもなくば追放か! 労働者民主主義に背を向ける彼らの罪は重い。徹底的に糾弾し、内ゲバの土壌を職場から学園から完全に打ちこわせ。戦闘的人民の団結を強化するために! 戦闘的人民を国家権力の前で放り出す共産党・人民戦線派の目論みを大衆的に暴露するために! そしてなによりも国家権力の弾圧と右翼の暴力的支配にたいして戦闘的人民の武装をかちとるために!

●早大闘争勝利――それが今日の決定的な闘いである。

 すでに、この戦いは多くの大学で開始されている。「殺したのは解放派だ」と首をとったように宣伝する革マル派をとりまき、糾弾する闘いが開始されている。「お前たちが二人を殺したんだ」「内ゲバが殺したんだ」「内ゲバを続けるのか」と革マル派に向って大衆の怒りはするどく発せられている。革マル派は立往生し、糾弾する中心メンバーになぐりかかっている。だが、ここにすでに内ゲバの土壌は破られ、「補給路」は断ち切られはじめている。彼らが最もおそれる事態は、こうして開始されている!

 内ゲバに一歩もひるまずに展開される大衆的糾弾は、彼らをしてその部隊を大学から引き上げさせ大衆と断絶させることによって一層内ゲバ主義に純化させようとする。だがそこに「力関係」は表現される。彼らのキャンパス支配の内ゲバの論理は大衆自身によって「無視」され、彼らの影響力は急速に一掃される。他方、この大衆的糾弾の前に彼らの「脱落者」は急速に増す。すでに早大の革マル派は昨年に比べ実に半数以上が「脱落」しているのだ。

 大衆から孤立した彼らは「一点突破」に望みをかけ、狂暴さを増す。大衆的糾弾の闘いもまた息つぎを与えないで彼らを追う。そして早大闘争は、決定的な闘いとなっているのだ! 内ゲバ主義の最後の拠点として彼らが早大に居残るのか、それとも全国の闘いで早大から追放するのか! 革マル派追放! 当局徹底糾弾・早大学生運動再建!を鮮明に掲げた早大闘争の全国的全人民的な闘いの質はここにあるのだ。われわれはかつて川口君に誓った。「もし、われわれの決起が、あと一日、あるいはあと二日早かったならば、彼の死は避け得たのだ。弔旗をかかげよ! 前進せよ!」 そしていま、全国の闘いによって、まさに実現するのだ! 早大闘争勝利! 川口君虐殺糾弾! 当局糾弾・革マル派追放・11・8闘争勝利! 真に大衆的で戦闘的民主的な学生運動の再建・統一を!

     「世界革命」紙一九七三年一〇月一日第三二〇号より所収




(私論.私見)