社青同解放派内「内ゲバ」事件について 社青同解放派考

 (最新見直し2005.12.29日)

 れんだいこサイトとして「社青同解放派考」を設け考察した。その社青同が今日現在複雑な党内対立状態にあり、且つまさしく内ゲバを演じているようである。以下、手に入った資料を断片的に書き付けておく。但し、何がどのようにこんがらがっているのか分からないので列挙方式を採り、概要が判明次第整理することにする。

 「社青同解放派内『内ゲバ』事件について」考察する意味は、党派間絶対戦争に突き進んだ中核派、革マル派、社青同のうちなぜこの党だけがかくも無残な言葉そのものの意味での「内ゲバ」に突き進んだのか、その要因を明らかにする為である。この場合、この党派の主体的力量不足をその原因の一に挙げねばならないだろう。その二として、この党派にどういう混乱の種が蒔かれそれが煽られていったのかを検証せねばならないだろう。その三として、分裂後の主流派と反主流派がどこで理論対立していたのかを俎上に乗せて切開せねばならない。

 部外者のれんだいこがやることではないけれども、左派運動にお見舞いされがちな不幸な事象の再発を防ぐために他山の石とせねばならない、それぐらいの根拠はあるだろう。既に「宮顕=異筋な闖入者論」を公開しているれんだいこの眼には、同じような動きが為されているのかいないのか調べてみたい気持ちもある。

 2003.9.16日 れんだいこ拝


最高指導者・中原一(笠原正義)氏殺される 

 1977(昭和52).2.11日、革命的労働者協会(革労協会=社青同解放派)の書記長・解放派筆頭総務委員の中原一(本名・笠原正義)氏が、革マル派の襲撃に遭い死亡。茨城県取手市の国鉄常磐線取手駅西口前付近で車に乗っていたところを車で挟み撃ちされ、降りてきた6人の革マル派テロ集団に鉄パイプでめった打ちにされて殺害された。

 事件後、革命マル派は、次のように声明した。

 「革労協の最高指導者である中原一に対して、革命的鉄槌を下した。これはあくまでも、我々労働者、学生への彼らの反階級的な襲撃を未然に防ぐための防衛的戦いである」。

 革マル派の機関紙「解放」(77.2.21日付け)は次のように報じている。

 「中原一派の盲動を未然に粉砕」の見出しで、「『人殺し、助けてくれ』という消え入りそうな萎えきった声がお前の最後の言葉となった」。

【「解放派が革マル派に対して全面戦争宣言」】
 解放派は復讐戦を誓い、革マル派に対して全面戦争に突入する。

 最高指導者を殺された社青同解放派の怒りは凄まじく、次のように声明した。
 「2.11反革命をとおして、わが革労協と反革命革マル派とは、彼我いずれかの絶滅をもってのみ決着のつく不可逆的な『戦争』関係に突入した」。

 以降、中核派をも凌ぐ対革マル派戦争の全面に踊り出ることとなった。4.15日の革マル派4名殺害がその第一弾となった。77年中に7人の革マル派活動家を殺害した。

党内対立発生 

 「反革命―革マルによる同志中原虐殺に対する正面突破をかけた闘い」が始まったが、この時党内が分裂する。次のような弱点が露呈した。

 「60年代以来の積み残した組織問題、革労協と社青同の関係整理、『独自党=革労協(解放派)か、分派闘争路線=革労協(社会党・社青同解放派)か』等々について何一つとして解決済みのものがない。わが解放派全協との党内闘争に突入して十年近くもたつにもかかわらず、何も作業が進んでいない」。

 この時、「革マルによる同志中原虐殺の真相究明(いわゆるヨーロッパ問題)過程で、党内に「スパイ問題」が発生している。事の経緯は不明であるが、「事実に反して同志をスパイに仕立てあげ組織制圧をはからんとした動き」が生まれた。これにつき、次のような解説が為されている。

 「より詳しく言えば、2・11以降、『革マルのスパイ』の潜入の可能性をめぐって疑心暗鬼が生み出され、それが『同志殺し』にまで走っていったということでしょう。80〜81年の労対派との分裂にしても、解放派全学連初代書記長だった狭間が、解放派全学連初代委員長だった石橋に『革マルのスパイ』の疑いをかけ、これも分裂の原因になっていることは、有名な事実でしょう 」(「★革労協★永井殺害が時効★解放派★」bV0)。

 これにつき次のような批判が為されている。

 概要「主流派は、同志をスパイにデッチあげ、反階級的抑圧を加え、さらに党中央機能停止、『スパイ問題』をもって77年革労協大会開催停止を策動する解党主義へ転落した。以来宗派グループは『歴史的大会をかちとることを期す』(解放88年新年号)と宣言するが、党大会開催をいかに期しようとも根底を規定する解党主義ゆえに不可能事になってしまった」。
 概要「レーニンは1909年の『解党主義の清算』において、『党中央委員会を破壊し、この機関の機能を停止させようとした事例』を『解党主義の特にはっきりした例』としてあげているが、この通りの動きをした」。
(私論.私見)

 話は双方から聞いて見ないと分からないが、いずれにせよ、解放派は対革マル派戦に向かう最中で党内スパイ問題を浮上させ、これにより求心力を失い始めたことになる。

【「1976年、「9.14―15公判闘争」を廻って、路線的対立」が発生】
 1976年、「9.14―15公判闘争」を廻って、路線的対立が発生している。「凶準の騒乱罪的通用粉砕・致死デッチ上げ粉砕」を掲げ、対権力・対革マルの正面対峙・突破作戦をとる急進派路線と、合法的法廷闘争を押し進めようとする応法派路線との重大な岐路であった。
(私論.私見)

 この種のことで対立が更なる対立へと向うように煽られた経緯が見て取れる。

「1978.10月、目上委差別ビラ事件問題」が発生
 この時、党内に「1978.10月、目上委差別ビラ事件問題」が発生している。東京・目黒上映実行委員会の差別ビラ執筆と配布を廻って、党内が混乱した。この時主流派は、党内整風運動を押し進め、「目上委差別ビラ事件」対応を通じて、「組織内部糾弾闘争〈内糾〉路線」を満展開し、反主流派を「反解放派差別主義脱走グループ」と規定することにより、「この差別主義グループを解体することが目上委差別ビラ事件の自己批判」なる統制主義路線を敷いて行った。

 反主流派は、次のように批判している。
 「1978.10月の全組織をあげての自己批判−実践的克服への路(風車差別事件の自己批判の闘い)をとるのではなくて、差別問題を政治利用することによって組織制圧をはからんとした問題は、これまでの解放派の共通の確信をゆるがし、革労協−社青同−解放派潮流組織への決定的打撃となってしまった」。
 「目上委差別ビラ事件の全組織的自己批判―党の自己批判の否定、居直りの結果として宗派グループは差別問題把握のおどろくべき誤謬を犯した」、「『党の地平』を絶対化=無謬化し、『党の地平』を階級闘争―党員の活動から分離し外在化させ宗派主義へ転落した」。
(私論.私見)

 話は双方から聞いて見ないと分からないが、いずれにせよ、解放派は対革マル派戦に向かう最中で、この種のことで対立が更なる対立へと向うように煽られた経緯が見て取れる。

【「解放派組織分裂(第一次分裂)」】
 1980(昭和55)年、解放派は、学生武闘派を中心とした主流派の狭間派、労働者組織重視の反主流派の労対派(滝口弘人、高見圭司ら)に組織分裂した。これを仮に「第一次分裂」とする。(その狭間派が分裂に分裂を重ねていくことになる)成田空港闘争では、狭間派は反対同盟・北原派を、労対派は反対同盟・熱田派を支援した。

 この時、「4.20グループ事件」が発生している。
「内ゲバ廃絶・社会運動研究会 掲示板」(9.17日付「4.20グループの件」、投稿者・Giya)等々の投稿文から概要を整理する。
 労対派に与する神奈川大の学生グループが4.20集会を開いているところへ狭間派が襲撃している。「4・20」グループは、この時の襲撃現場の写真を自分たちの発行するパンフに載せた。写真には襲撃者たちの素顔が写されており、目線を施すなど顔から個人が特定されないような処置をしていなかった。真相は定かではないが、このパンフが神奈川大学当局に郵送され、大学当局はこれを警察に渡して、狭間派メンバーが逮捕されるという経過を見せることになる。これに対して、狭間派が、「大学当局及び警察への売り渡し」と批判し喧伝した
(私論.私見)

 解放派は、文字通りの内ゲバを発生させていった。そのお粗末さ、それを権力に売りつけるお粗末さ、襲撃者が襲撃行為を不問にした構図で権力売り渡し行為をなじるお粗末さ、というお粗末づくしの話しとなっている。

三里塚9.15襲撃事件
 1980.9.15日、「三里塚9.15襲撃事件」が発生している。三里塚において狭間に与するグループが滝口に与するグループを武装襲撃。これによって、解放派・革労協の組織的分裂が決定的となる。この後も狭間派は武装襲撃を繰り返し、負傷者まで出した。

 「『解放の通信』発行にあたって 」
は次のように批判している。
 「総務委員会の停止を宣し、組織の原則的統一、組織内に現われた宗派政治の全面的克服の闘いの呼びかけにもかかわらず、宗派主義に陥った一部のグループは、『総務委員会』をデッチ上げ、形式的・実質的組織分裂に突き進んだ」

解放派反主流派の動き
 1980秋、SP大会に向けたSP有志の集りがもたれ、「公然派閥」作りの話しが開始される。

 1980.12月、在京Ky会議を開催し、組織方針の討論に入る。第二回会議開催要求にたいし、一部から「事前討論」という方向が出されて討論に応じる。ここで「KRK再建」と「KRK再建反対」の意見が正面から対立。総務委員有志、L中央再建委共同呼びかけの「二・一五KF政治集会」について討論開始。

 1980.12月、関西現代杜、宗派グループを排除。

 1981.1月、総務委員有志会議(Ky会議内)がもたれ、とくに「二・一五中止提案」をめぐって討論された。

 1981.2月、2.15政治集会は、Lの方針変更で活動家討論集会となった。この日、社会党の活動者会議が同時に行なわれた。

 1981.3月、ヨーロッパ問題に関する総務委員会有志声明。

 1981.6月、この頃までに永井、狭間、けん(いわゆる「NHK」)らの狭間派(学生の半分と労働者の一部)と、滝口、高見ら通称「労対派」(後の革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会、通称解放派全協)(学生の半分と労働者の多数)に分裂。


 1981.8月、第1回KRK全国代開催。

 1981.9月、「日本社会党社会主義同志会呼びかけ文」全国発送。

 1981.9.1日、テロ。


 1982.1、同志会会議開催。革労協再建全国連絡会議発足までの経緯は次のように述べている。

 概要「KRK再建か、再建反対かという対立が進んだ。しかし、同志会については、当初の主旨である、公然党内グループとして形成していくことで、その対立をこえて結集して出発した。その中には、私たちと路線的に一致している人々、及び、「社会党変革論」グループが混在していることが前提的な事実としてあげられる。私たちは、行動委員会運動を否定したり、社会党以外の闘争を否定したりする「変革論」の傾向と異なり、分派闘争としてSPにかかわる方針でいる」

 1981.4月「革労協再建首都圏活動者会議への呼びかけ」が発表され、次のように述べている。

 「9・15襲撃を行なった宗派的政治グループは、今日、総務委員会を僭称し、組織の官僚的乗っ取りに走っている。9・15襲撃−12・12党内闘争勝利宣言−2・8集会=総務委員会僭称の過程は、組織内論争の原則的推進を放棄し、一方的に組織を分裂させ、革労協中央を名乗り、階級闘争の、敵対物へと自己形成しつつ、階級闘争の革命的推進から集団脱走していく全過程であった」。

 「宗派的政治グループの登場と脱走の全過程は、同時に、革労協の労働者階級の階級政党としての革命の党への形成の不成功ということを条件としていること、そして彼らにより組織が荒廃せしめられてきたこと、そして組織の中央部を僭称していること、このことの判断の上に、我々は革労協の再建を決意した。全国の同志と共に組織的作業に入るために、とりあえず首都圏の再建を志す同志の結集をもって討論を開始し、宗派的政治グループを生み出したことの階級的自己批判、歴史的総括−80年代総路線形成の作業に入ることを呼びかけるものである」。
 「労働者階級の党の建設を目指して結成された革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)の再建こそ緊急の任務である、解放派が築き上げてきた共産主義的プロレタリア革命運動の発展のために、革労協の革命的再生こそが不退転の決意で闘い取られねばならない」。

 1982.4月、「『解放の通信』発行にあたって 」が発表され、次のように述べている。

 「総務委員会議長の『9.15声明』に続いて、総務委員7名の『ヨーロッパ問題に関する声明』を発し、又、東京、関西をはじめとする全国の同志の組織再建へのアピールが出され、革労協再建へ向けた全国代が開始された。我々は、全国代を重ね、革労協の歴史的総括を深化してきた。この討論の積み上げの上に、全国的再建運動の組織的推進の為に、今年四月、全国代において『革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)再建全国連絡会議』を結成し、革労協再建への本格的活動を展開することを決定した。『解放の通信』発行をテコに、革労協再建へ総進撃しよう!」。

 1983.1.15日、「殺人」襲撃。


 1983年、いわゆる三里塚「三・八分裂」。最大の争点となったのは「一坪再共有化=大地共有運動」。これをどう論ずるのかで混乱。


 1984年末〜85初頭、宗派グループは、永井公判闘争において、永井の致死無罪を証明する為にとして、あろうことか当の12号館前のいわゆる第二現場で、致死で起訴されている木戸同志に、永井のアリバイ立証を行ってほしいとの『要請』を弁護士ルートを通じて公式に行っている。「この話に、我々は、わが眼を疑い耳を疑った」(「プロレタリア革命」1月号)とある。


 1984.6.20日、「革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)再建全国連絡会議」名で、「全国の同志諸君!全協を推進しよう! 解放派を再生しよう! 労働者革命を目指し前進しよう!」アッピールが出されている。


 1984.7.1日、「呼びかけ 革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会(仮称)準備会」名で、「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会(仮称)へ結集せよ!」アッピールが出されている。


 1984.10月、「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」名で、「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会(仮称)の結成宣言、全協第一回総会に結集しよう」アッピールが出されている。


 1985年、宗派「解放」新年号で、「革命をとおして大地を含む生産手段の共有化をもった“生産者の自由で平等な連合”があらわれてくるのである」と主張し、革命ののちの「大地共有化」を承認する。


 1985.6.15日、「革命的労働者協会(社会党・社青同解放派)再建全国連絡会議」名で、「全国の同志へ、ともに革命的労働者党建設をめざし奮闘しよう!!」アッピールが出されている。


 1987.9.21日、文筆主体が分からないが、「反対同盟六戸の脱退―分裂に対する見解と決意」が声明されている。この声明は次のように述べている。

 概要「彼らは、『闘う農民相互の連帯や農民や労働者人民との連帯のもとでの土地の共有化への様々な過渡的な試みを積極的に支持し、目的意識的に推進していくことである』と述べている。宗派グループの“おどろくべき”ジグザグである。確かに路線は不動のものではなく、路線の再編はある。しかし路線はわが団結の命運=未来であり、死活をかけたものである。従って『手直し』=再編する場合には死活をかけた総括―自己批判が前提として立てられるはずである。党の自己批判の否定―党の『地平』の絶対化―自己無びゅう化で糊塗してはならない」。

【「主流派(狭間派)のbQ永井啓之氏が除名される(第二次分裂)」】

 1988(昭和63).1月、社青同解放派の指導者の一人として位置していた狭間派No.2の地位にあった永井啓之氏(永井啓之獄中書簡集「仁王のように立ちて」)が除名されている。これにより、解放派の主流派を形成してきた狭間派が主流派、反主流派の永井派に組織分裂した。これを仮に「第二次分裂」とする。

 この背景には次のような事情があったようである。
「狭間派活動家の自殺」は次のように述べている。

 「1987年に北原派の農民の一部が中核派の引き回しに反発して、小川派を結成。狭間派内部では、中核派に同調した狭間派と、小川派に同情的なNO.2の永井派の対立が深まり、88.1月に永井啓之が指導部から追放される」

 この対立の背景が分からない。いずれにせよbPと2がそれぞれの派を結成して分裂したことになる。「永井幹部は狭間派の中で狭間最高幹部に次ぐ地位にあったが、大衆闘争も重視すべきだと主張したことなどから63年に除名され、独自の機関紙を発行するなど分派活動を行っていた」とある。「前年に成田闘争の北原派から分離独立した小川派に同調した総務委員・永井啓之を中心とする永井グループが分裂した」ともある。 

 主流派は、その理由として次のように述べている。

 概要「永井は、長期投獄−重刑攻撃に屈服し、歴史的な9.14―15戦闘の意義を否定し、同志―組織と闘い(革命)を売り渡した。無罪・減刑を裁判所=権力に嘆願し、放免に値することを売り込むことを目的にした党と革命への攪乱=破壊活動を続けた」。

 これに対し、山岡論文「内部粛清殺人テロを兇行した宗派グループの最期的腐敗を弾劾せよ!」は次のように批判している。

 概要「『永井無罪』方針なるものは、一人永井のみに責任が追及されるようなものではなく、宗派グループ全体の責任問題だったはずである。言うまでもなく『永井公判闘争』は宗派グループの“組織ぐるみ”の意志一致の下に推進されたのであり、従ってこの総括は宗派グループ全体の問題であり、永井個人の責任だけでなく、永井を含む宗派グループの責任問題であり、一切を永井におしつけ、ついには永井を除名するということは宗派『内糾路線』の“党の自己批判の否定”の誤謬を再生産しているにすぎない」。
 「つけ加えれば、これが宗派グループの手口にほかならない。共にスクラムを組んでいる時には同志的相互批判すら原則的にやらず、お互いをかばい、傾向主義的に『左派』防衛のためと称して黒を白と言いくるめてまでかばいぬき、相互論戦を通して党的飛躍をなしとげていくことを否定し、ところが一たん対立・敵対が発生するや、当面の党内対立・党内闘争の課題を無視した上で、『軍事反対派、合法主義、サンディカリスト、社民、反党分子、投降主義、差別主義、日和見主義、親革マル…』とあらん限りのひぼうを加えるというわけである。それならそうと最初から言えばいいのに、対立発生時の暴露ネタのように隠し持つのである。共にスクラムを組んできたという限りでは宗派グループ自身の総括も当然問われるにもかかわらず、そんなことも忘れて、一切を『対立者』におしつけ居直るのである。そしてこうすることによって、例えば『労働運動』と『革命的活動』はいつの間にか対立させられ、党的全体を構成する諸要素をそれぞれ対立させ、単位に分解させてしまうのだ。『革命的活動を労働運動に結びつけて渾然一体化する能力』、『「人民の興奮の水滴と細流をことごとく寄せ集め、単一の巨大な流れに結合されなければならない』(レーニン)こそが問われているにもかかわらずである」。

【「永井派幹部の辻美喜・氏が狭間派によりリンチ殺害される」】

 1989.2.5日、永井派の元軍事指導部、辻美喜が狭間派によりリンチ殺害される、とある。

 「★革労協★永井殺害が時効★解放派★」bV6は、概要次のように書き込んでいる。

 警察は、「自己批判をせまられ、発作的に飛び降り自殺した」見解を発表。解放派、彼の死について、機関紙で「追悼文」を掲載している。革マル派は、「辻は窓から突き落とされたに違いない」との見解を発表。

 これ以上のことは分からない。


【「永井氏が狭間派による殺される」】
 1989(昭和64).6.25日、永井啓之氏が内部粛清で殺害された。川口市の自宅から拉致された。武南署員が駆けつけたところ、付近の電話線ケーブル三本が切断され、アパート二階に住む永井幹部がヘルメット姿の七、八人の男に襲われワゴン車で連れ去られたことが判明。埼玉県牛久市の県道トンネル内に放置された寝袋の中に突っ込まれて死んでいる状態で発見された。

「6.25永井内部粛清に関する声明」
 狭間派は事件の三日後に声明「6.25永井内部粛清に関する声明」を発表し、次のように正当化弁明している。
 「今回の事態の全責任は、権力に屈服し売り渡しをおこなったのみならず、逃亡・破壊をくりかえした永井本人にある」。
 「永井をめぐる組織防衛上の過程で肉体的に変調をきたし放した」、「マスコミ報道によると死亡した」、「死という結果は、目的としてはなかったが、当人の思想的脆弱性と反革命的所業の強さと深さによる動転を主因として、その他の身体的条件が重なって生じたものと考えられる」。
 「永井への必要な措置は階級闘争の前進と解放派にとって不可欠だった」。

(私論.私見) 「6.25永井内部粛清に関する声明」について

 れんだいこは解放派の党史ないし分裂理由、当時の情況に対する知識が無いので判断しにくいが、「6.25永井内部粛清に関する声明」の論法の酷さ変調さについてはすぐ指摘することが出来る。「世界史的意義を万人に説明することのできる人民の護民官」(レーニン)的迫力を全く喪失しており、この声明のこの論理が権力側の常套話法であり、この論理に馴染む者の背景の胡散臭さが見えてくる。

 1・被害者がスパイであると指弾され、2・テロ被害の責任が被害者に被せられ、3・加害者が、死という結果に対して言い逃れし、4・死んだ責任は当人の思想的脆弱性と反革命的所業の強さと深さによる動転を主因とすると責任転嫁し、5・テロの正当性を居直る、という論法はどこかで聞いたことがある。これに、「蘇生しなかったのは本人の責任」なる冷や水を浴びせれば、紛う事無き「戦前日共の小畑中央委員リンチ致死事件」を廻る宮顕話法そのものである。

 れんだいこは、解放派の主流派、反主流派のそれぞれの論理に通じていないので弁論できないが、この論法については左派ないし革命派としては許し難きものであることを指摘することが出来る。そういう意味で、「この執筆者を洗え」ということになる。いずれにせよ、批判の知恵を得る為にも宮顕に対する特殊な考察が是非とも必要ということにもなる。なかなか理解されないが。

 2005.3.2日 れんだいこ拝

 永井氏は次のように追悼されている。
 「60年安保以後、革共同、ブンドに対抗した東大、早大を中心とした、社青同全国学生班協議会の運動の流れがある。そして一方の東京地本の労働者運動の流れとが合流、合体して解放派は労学の統一した組織として飛躍していった。学協の中からは以後、五辻活、笠原正義君等のすぐれた指導者が輩出して東京地本、革労協の中核を担っていった。笠原君が1977.2.11日、革マルのテロルに倒れたとき、『学協の流れを絶やしてはならん』と心に誓った。その学協の正統な継承者こそが永井啓之君である。

 生前彼と『ぜひ解放派の歴史を整理し、書き浅さねば』と共に語り、具体的作業を開始しようとした直後の無念の死であった。しかしいかなる暴虐も歴史の真実を消すことはできない。私はいつかは個人史を書き、解放派の闘いの歴史を明らかにする作業の一端に役立てたいと常々思っていた。その具体化の第一歩が出来たのは、まさに本集の出版が契機であった。このことこそ永井君の今なお生ける意志であり、また彼の遺業である。続きは厳密に今後書いていきたいと思う。最後に永井雅子さんの協力に感謝し、今後も助力を願いたいと思っている」(樋口圭之介「六〇年安保・三池闘争の高揚と社青同結成」)。

 永井氏の殺害後、永井派は分解した。旧永井派が集団脱走したため、狭間派労働者組織が崩壊。さらに関西グループも狭間派から離脱する。


 11.7日、北海道帯広市の列車内で、狭間派の女性活動家が、包丁で腹を切って自殺するという事件が起きている。


 11月、「永井殺害事件」から4ヵ月後、狭間派最高指導者・狭間嘉明が、「永井啓之殺人事件」容疑で逮捕される。警視庁公安部は、6年にも詐欺容疑で逮捕したが、永井幹部殺害事件の手掛かりを得ることはできなかった。


 1990.11.1日、東京都新宿区の警視庁独身寮「清和寮」に2つの爆弾を仕掛け、寮を爆破。警察官1人を殺害し、8人に重軽傷を負わせる。


 1991.1月、関西の西原学を中心とする西原グループが分裂。


 ここに10年のブランクがある。この間の歩みがわからない。青解派が千木良派と山茂派に分裂し激烈な抗争をつづけている。



【「明大ゴスペル・ヘブン研襲撃事件」】
 1998.5.26日、明治大学和泉校舎で、革労協系の学生ら7人の活動家が「国際へブライ文化研究会」「ゴスペルソング愛好会」を名乗る反共系団体と衝突し、革労協系の生協職員ら4人が高井戸署により傷害などの疑いで現行犯逮捕された。さらに6.1日には、別件でもう1名が逮捕された。

 革労協は、学生会中央執行委員会、学苑会中央執行委員会名で次のように声明した。
 「こうした事態に対し、われわれは再度次のことを明らかにする。反共ファシスト『国際へブライ文化研究会』、『ゴスペルソング愛好会』の武装襲撃と国家権力への売り渡しを断じて許さない。国家権力のデッチ上げ不当弾圧を弾劾する。反共ファシスト宗団の襲撃を利用した大学当局による明大学生運動、生協運動の破壊攻撃を許さない」、「明大ゴスペル、ヘブン研に対する無制限・無制約の撃滅戦への突入を宣言する!」。

【「韓国人牧師襲撃事件」】

 1998.10.18日、東京都新宿区戸山二丁目、プロテスタント教会牧師の金圭東・氏(49歳)が襲撃され重傷を負う。革労協狭間派の仕業とみられる。

 
同派機関紙「解放(1998.11.1日付け680号)は、革命軍よりの軍報として「国際反共ファシストの頭目=金圭東に革命的鉄槌―徹底せん滅 ファシスト解体・絶滅戦の歴史的突破口切り開く」なる見出しで次のように声明している。

 「『ウェスレアン・ホーリネス淀橋教会韓国部担当牧師』・金圭東(キム・キュウドン)に対して、革命的鉄槌を下し、徹底せん滅する大戦果をもぎとった」、「淀橋教会韓国部(ヨハン早稲田キリスト教会)に巣食う国際ヘブライ文化研究会傘下の明大ゴスペルソング愛好会を名乗る反共ファシスト宗団は、五・二五―二六、労働者人民の革命的拠点=明治大学において闘う学生・労働者に武装襲撃をかけ、さらに国家権力へのデッチあげ売り渡しを行なった。本戦闘は、こうした断じて許しえない悪行に対する革命的報復である」、「わが軍は、日帝政治警察による十・三反革命弾圧にひるむことなく、キリスト教原理主義者(ファンダメンタリスト)、統一協会・勝共連合、シオニスト、天皇主義右翼どもを革命的テロルでなぎ倒す。全世界の反共ファシストの跳梁跋扈を一切許さず、プロレタリア国際主義のもと全世界労働者人民と共に、ファシスト解体・絶滅戦に連続的に決起する」、「すべての労働者人民、被差別大衆は、闘う朝鮮労働者人民、在日朝鮮労働者人民と連帯し、反革命革マル解体・絶滅戦とともに対ファシスト解体・絶滅戦に総決起せよ!」。

 「解放(1998.11.1日付け681号)は、革命軍の戦闘詳報を掲載している。同じく「国際反共ファシストの頭目=金圭東に革命的鉄槌―徹底せん滅 ファシスト解体・絶滅戦の歴史的突破口切り開く」なる見出しで次のように声明している。
 「せん滅した金圭東こそ、五・二五〜二六明大拠点武装襲撃―売り渡し指揮の総責任者であり、第一級の下手人なのだ。とりわけ、明大武装襲撃を居直り、逆に『民族差別だ』、『留学生の身の安全が脅かされる』とばかりに『被害者』としてデッチあげ、韓国大使館や文部省、さらに日本や韓国のマスメディアへの卑劣な政治工作をおこなった極悪の首謀者なのだ」。

 「10・18戦闘の革命的意義」なる見出しで、次のように声明している。
 「本戦闘の革命的意義の第一は、五月二十五日〜二十六日「淀橋教会韓国部(ヨハン早稲田キリスト教会)」に巣くう国際ヘブライ文化研究会」傘下の「明大ゴスペルソング愛好会」を尖兵に、革命的学生運動や闘う労働者人民の最大拠点=明治大学において闘う学生・労働者に武装襲撃をかけ、国家権力へのデッチあげ売り渡しをおこなったことに対する、革命的報復を断固として貫徹したことである」。

 「10・18の戦果を拡大し、反共ファシストせん滅へ総進撃せよ」なる見出しで、次のように声明している。
 「革命的意義の第三は、完黙―非転向で闘いぬく五戦士の裁判が九月十一日に開始され十一・四第二回公判において武装襲撃の下手人ども三名が検察側証人として出廷し、自らの反革命襲撃を居直りさらに権力のデッチあげ反革命弾圧を全面支援するという、反共ファシスト宗団の第二次攻撃ともいうべき戦局に対して先制的テロルの断固たる”宣戦布告”を発したことである。われわれは、権力と一体となった一切の反共謀略策動を許さず、完黙―非転向で闘う獄中五戦士と連帯して『ゴスペル』、『ヘブン研』、『淀橋教会韓国部』もろとも、ファシスト宗団解体・絶滅の血の海にたたきこむ」。

 「反革命革マルをせん減し、権力闘争の飛躍を闘いとれ」なる見出しで、次のように声明している。
 「革命的意義の第五は、反革命革マルを恐慌状態におとしいれ、白色テロル策動への決定的打撃を強制したことである」、「わが軍は、権力といっそう結託を深め、革命的党派・戦闘的労働者人民への白色テロルに起死回生の展望を見いだそうとする反革命革マルに対してファシストもろとも革命的テロルの嵐で総せん滅する。中枢危機にのたうつ黒田、松崎、土門、西條、朝倉、植田ら政軍中枢を二・一一反革命報復の革命的テロルで打倒し、JR総連革マルをせん滅し、敵戦闘主力―反革命テロ部隊特行を総せん滅せよ」。


【「狭間派が主流派と反主流派に分裂(第三次分裂)」】

 1999.5.6日、解放派は1980年に主流派の狭間派、反主流派の労対派に組織分裂(第一次分裂)、1988(昭和63).1月、主流派の狭間派、反主流派の永井派に組織分裂(第二次分裂)しているが、主流派の狭間派内で戦術方針をめぐって狭間派が主流派(中執系千木良派)と反主流派(明大系山茂派)に分裂する。

 次のように云われている。

 「中執が、現代社(下高井戸にある鉄壁拠点。機関紙解放の発行元)から明大グループ(生協と全学連)を追放した。法対は中執グループにつき、山谷労働者グループ、障害者戦線グループは追い出されたグループについた」。

 反共主義ファンダメンタリズムを掲げる「明大ゴスペル愛好会」(ゴスペル研究会、ヨハン早稲田教会系列)との闘争への対応をめぐり、穏健派である総務委員会内多数派の現代社派(主流派、千木良派=狭間派)と強硬派で少数派の木元派(赤砦社派、反主流派、明治大学系、山茂派)が対立。その際、後者は主流派によって杉並区高井戸の「現代社」社屋内でメンバーが次々と査問される課程にあったが、ひそかに彼らはこの革労協のシンボルであるビルの「乗っ取りXデー」をゴールデンウィ−クの「社防隊が手薄となるタイミング」に狙い定め、クーデターをかけるが失敗。逆に外部へと放遂される形で追い出され、現在の台東区下谷の賃貸マンションに「赤砦社」を置き、山田茂樹をリーダーとして新拠点を構え、分裂が決定的となった」とある。

 かくて、主流派(狭間派=千木良派、「ハザマ私兵グループ」と批判されている)は現代社、反主流派(山茂派、後に木元派、「ミニスターリン主義集団」と批判されている)は赤砦社を根拠地としつつ、双方が「相手をせん滅するまで」と機関紙誌で主張し、内ゲバ事件が相次ぐことになる。都内の大学構内や駅ホームなどで内ゲバが発生する。


【「山茂派の指導者・山田茂樹(50)がテロられる」】
 1999.6.4日、主導権争いなどから内部対立が激化、「解放派(革労協狭間派)千木良派(党中央グループ)による内々ゲバ」。狭間派のテロ部隊が、山茂派の指導者・山田茂樹(50)に対し東京都北区で4、5名が「死を狙った襲撃」をかけ、鉄パイプで重傷を負わせた。新聞報道で、「同派内部では、路線対立や主導権争いなどから、学生中心のグループと労働者側が対立を深めていた。山田幹部は学生側のリーダー格とみられていた」とある。(氏は現在もその後遺症により、単独での歩行に困難を強制されている)

【「千木良派と山茂派の攻防」】
 6.8日、山茂派が、襲撃に備え搬入していた伸縮式鉄パイプや特殊警棒、金属バット類を好日として中心メンバー17名が凶準で逮捕された。6.11日、山茂派が、明大駿河台の学生会館内の革労協の拠点を占拠し、6.12日、狭間派は「私服部隊で武装潜入」をかけ奪還を図るが、襲撃開始寸前未遂に終わった。堪忍袋の緒を切った山田派は翌日「6.13軍声明」を出し、狭間派に対し事実上の「解放派内全面戦争」を宣言した。死の淵から帰還した山田は幹部小沢(従来彼らは「革労協の「軍事部門」の担当」だったキャリア?)らと、巻き返しのための「革命軍」を早速強化、全国で報復に乗り出す。

革マル派論文「青解両派の「相互絶滅戦」を演出する国家権力」

 革マル派は、「青解両派の「相互絶滅戦」を演出する国家権力」論文で、「両派それぞれの中心人物どもが何者かに襲われ、死亡あるいは重傷を負うという事件が相次いでいる」として、その背景事情を次のように分析し披瀝している。

 「移動中のターゲット≠的確に捕捉し、白昼公然・衆人環視のもとで確実に殺害するというこの手口は、まさしく殺しのプロ≠フものであり、全国からかき集めても三十数名の千木良派や、同じく五十名程度の山茂派などにはとうていなしうることではない。明らかに、これらの殺人襲撃事件は、青解両派じしんが重々承知しているとおり、権力内謀略グループの手兵が手を下したものにほかならない。権力内謀略グループは、すでに走狗として使いものにならなくなった青解両派を最後的に使い捨てるための解体的再編を狙って、両派の抗争を煽りたてようとしているのだ。それだけではない。このような青解両派の抗争という装いをとって、謀略グループとのつながりをもち謀略の構造の一端を知っているスパイ分子どもを、用済みのスパイ≠ノたいする当然の措置として処分≠オようとしているのである」

【主流狭間派=千木良派幹部の長田佳比古氏(50)がテロられる】
 1999.7.2日、反主流派(明大系山茂派)が主流派(狭間派、千木良派)」狭間派古参幹部・明大生協理事・長田佳比古(50、荻野)氏をテロ、「千葉県松戸市岩瀬の市道をオートバイで走行していた際に待ち受けていた襲撃隊にテロられ、脳挫傷で死亡した」。

 革命的労働者協会総務委員会名は、「解放(1999.7.15日付697号)」で「7.2長田虐殺抗議声明」を出し、概要次のように述べている。

 「長田氏は、60年代以来の学生指導部幹部であり、68年東大教職員会館戦闘における「特警隊」をはじめとする歴戦の士としての経歴を持つ。明大―首都圏―全国の学生出身OBの組織化、出身校である明大の生協理事・生協労働者として活動してきた。7.2当日も7.4三里塚現地闘争への決起を準備しつつ、明大5.26被弾圧獄中被告の防衛のために奔走していた。対革マル戦での争命建軍の創成期からの中心的な推進力となり、5.4〜5以降反解放派―党・軍破壊分子と断固対決して、建軍闘争に心血をそそいでいた」。

 つまり、解放派が、権力・革マル闘争の過程で分裂し、明大生協グループが徹底抗戦派として位置していた如くである。次のような観点が披瀝されている。

 「彼らは反党・反軍(反プロ統)宣言=6.13『革命軍声明』において複数の同志の実名をあげて殺害を宣言しあるいは権力・革マルの弾圧・テロルを要請し、さらにまた山田執筆『討議資料』など一連の文書で複数の同志の名前を連呼してきた。これらに含まれていない同志長田を彼らは殺害した。彼らは、一連の助命嘆願を条件として、官許の凶行におよんだのだ」。

 「ファシストと同様の手口である。この間幾多の困難を抱えながらも格闘し推進してきた解放派の党派闘争―『党内闘争』の路線とは縁もゆかりもないものである。そしてこれは、非公然・非合法部門の原則の解体であり、公然・合法部門による非公然・非合法部門の従属化と双方の腐敗を必然とするものである」、「革命的隊列の内部からこれに呼応し促進し加重し、解放派の歴史的地平の破壊を図っている」、「この攻防は、プロレタリア革命に対するあらゆる敵対勢力への助命嘆願のために、路線転換=解放派への破壊・攪乱をはかる破壊分子と、あらゆる敵の集中砲火を引き受けひたすら永続革命・世界革命の勝利のために戦略・路線の堅持・発展を貫く解放派との、あらかじめ勝敗の決した対決である。しかし、破壊分子の反党性・反階級性はきわめて深い」。

 「7.2襲撃・虐殺の首謀者―山田・土肥をせん滅する。下手人・同調者を決して許さず、解体・根絶戦の一環として、せん滅戦―容赦ない報復の鉄槌をたたきこむ」、「 同志中原虐殺報復―反革命革マル解体絶滅戦になんとしても勝利する。ファシストせん滅戦の本格的着手―前進を切り開く」、「この反解放派―党・軍破壊分子を根絶・解体・一掃することを宣言する」。

(私論.私見)「長田氏の党内位置」について

 長田氏が党内でどういう立場に位置していたのか、錯綜していて部外者のれんだいこには分からない。


 1999.7.7日、東京都中央区茅場町の地下鉄日比谷線茅場町駅のホームで男女がもめ、男の1人が止めにはいった駅助役(58)の顔を殴った。駅員らが男を取り押さえ、警視庁中央署が逮捕した。逮捕されたのは、過激派「革労協狭間派」非公然活動家、秋山祐一郎容疑者(45)。警視庁は内ゲバ事件とみて捜査している。


【「反主流山茂派の相川一郎氏が襲われて二日後に死亡」】
 1999.7.21日、主流派の狭間派(千木良派、党中央グループ)が、反主流派(山茂派)の相川一郎(中山)氏を襲い、相川氏は二日後に死亡。7.22日、狭間派は、明大生田キャンパスに再度、全国動員公然ゲバ部隊を差し向け、構内の山田派に白昼の襲撃。狭間派の37名は凶準と建侵で構内に入った全員が検挙・起訴された。この大量逮捕がたたり、拠点の明治をはじめ山谷や福岡、九州大など「同派のシンボル」から狭間派が一掃され、山田派一色に塗り替えられることになった。

 「内ゲバ廃絶・社会運動研究会 掲示板」の「ハザマ私兵グループその2 、投稿者:すえいどん、 投稿日9.18日」を参照する。
 「革命的労働者協会(解放派)」は、「同志中山(相川一郎)虐殺に報復を」声明を出し次のように述べている。「同志中山への虐殺襲撃が、ハザマ私兵グループの自己の延命のみの衝動から必死となった、あせりにかられた自暴自棄的なものであることを示している」、「この7.21反革命虐殺襲撃は、ハザマ私兵グループが追い詰められるなかで自暴自棄的に凶行したものとはいえ、6.4反革命−6.12明大襲撃と続く一連の『T内T』=『TT』(ハザマ自身の用語、「党内闘争」=「党派闘争」)路線に基づき準備されていたものである。この間、中山同志に対して、『長田さん殺しを手引き』などという誹謗中傷が浴びせられていたが、ハザマは、当初から『撹乱者(=スパイ)』規定を行い、中山同志虐殺を示唆していたのだ。ハザマ私兵グループがどのような理由をこじつけようと、あるいは死の沈黙を通そうと、同志中山虐殺の責任は、直接の指示・責任者ハザマを筆頭に、直接の下手人、手引き者、そしてこの賛同者にいたるまで、必ずとってもらう。われわれは、この日本階級闘争の最悪の陰謀集団を解放派の中からうみだした責任において、ハザマ私兵グループの最後の一兵まで打ち倒し解体・一掃することを同志中山に誓う」。

 
中山氏の履歴は次の通り。
 1975年神奈川大学に入学し、神大反帝学評に結集。以降解放派の拠点としての神奈川大学の展開を担い、反内糾脱走グループとの対決をたたかいぬく。社青同への入盟以降、神奈川の地区展開においても、くり返しの組織脱落・破壊とたたかいぬいてきた。革労協の入党以降何よりも、同志中山は、「障害者」解放戦線の責任的任務を担い、解放派の「障害者」解放闘争の組織化・推進の最先頭でたたかいぬいてきた。また98年からは明大生協に就職し、明大生協従業員労組の一員としてたたかいぬいていた。今回のハザマ私兵グループによる「分裂」=組織破壊に対して同志中山は、怒りを燃やして闘いぬいてきた。とりわけ、「障害者」解放戦線への破壊に対して、「『障害者』襲撃」のでっち上げを含めた宇都宮病院糾弾闘争の破壊と対決し、7.18現地闘争の実現に尽力し、ハザマ私兵グループに破産を強制した。

 次のように述べられている。

 (二)
 今回のハザマ私兵グループによる「分裂」=組織破壊は、六・二〇弾圧と『治安フォーラム』で「明白な形でこれを取り除く」と名指しされたハザマと、これと結託した「革労協中央」を名乗る陰謀主義集団が、権力・革マルへの投降=路線転換をはかったことによるものである。これは、彼らが「分裂」の最大の「理由」とした五・二六弾圧公判がどうなっているのかをみれば明白である。七月六日の公判では、彼らの唯一の「公判方針」であった野次さえ飛ばせず、それどころか動員数がゴスペルを下回り、逆に公判廷をゴスペルに制圧されるという体たらくとなっている。彼らは、「ゴスペル解体・一掃」もやる気などなく(実際、ビラ等でもこれは消えている)、ただただ「分裂」(=組織破壊)のためだけに五・二六弾圧公判を利用したのである。このことは、彼らの「軍事」がゴスペルではなく、六・四反革命として発動されたことの中に端的に示されている。

 揚げ句の果てが、この間の最大の動員が、彼らが機関紙で騒ぎ立てていた「七・一八宇都宮病院闘争」でもなければ、狭山再審棄却への闘いでもなく、ただただ七・二一反革命と一体の明大自治会破壊のためだけの七月二十二日の明大和泉キャンパスへの登場の際だったということである。大衆闘争−階級闘争を推進しようという気などさらさらなく、かれらの「党内闘争」=「党派闘争」路線に基づく破壊のための破壊のみが存在するのだ。その上で権力に対する徹底した武装解除ぶりは、すでに自分たちが権力に対して路線転換=投降を表明した以上、決して弾圧されることなどないと確信していたことを示している。彼らは、大衆闘争−階級闘争の廃墟の上に自らの延命を考えているだけなのである。そしてその手段は、テロと陰謀である。このような集団の存在を許すこと自体が、階級闘争の桎梏となりつつある。われわれは、このような集団を解放派の中から生み出した責任において、このような集団を一刻も早く解体・一掃する闘いを推し進める。このことが、同志中山の闘いに応える道である。

 (三)
 ハザマ私兵グループの発生は、世界恐慌情勢の進行過程で朝鮮反革命戦争に突撃する日帝足下階級闘争の激化から逃亡しようというエネルギーによるものである。結局のところ、二〇〇〇年天皇訪韓阻止決戦時に激化する天皇主義右翼ファシストとの血戦から何とか逃亡し、破防法弾圧から何とか逃亡しようというものである。ハザマ私兵グループは、そのために同志中山を虐殺したのだ。これに対する共産主義者の回答がいかなるものか、ハザマ私兵グループの一人ひとりが体をもって思い知るがよい。われわれは、“反革命戦争とファシズムの危機を蜂起−革命戦争に転化し、プロレタリア・ソビエト権力を樹立せよ”の解放派の転化スローガンを現在直下の任務としてとらえ返し、プロレタリア世界革命−共産主義革命へと進撃する。その中での避けて通ることのできない任務として、ハザマ私兵グループの解体・一掃を貫徹する。同志中山よ、同志の闘いを引継ぎ、同志の無念を必ずや晴らすことを誓う。同志の思いと闘いはわれわれとともにある。最後の血の一滴までプロレタリア解放のために捧げた同志中山とともに、われわれは闘いぬく。

【「主流狭間派幹部・安部利昭氏がテロられ死亡」】

 1999.11.14日、反主流派(山茂派)が、主流派幹部安部利昭さん(当時50)を襲撃し、安部氏は「福岡市城南区で革労協狭間派のがハンマーなどで頭を殴られて殺される」。

 これに関連して、11.21日革命的労働者協会日本社会主義青年同盟名で、「11.14反革命テロに対する報復宣言」を発表している解放派機関紙『解放』706号、99.12.1日)。

 「この権力の十・九弾圧に小躍りしたのが、土肥・山田らである。権力は七・二二大量逮捕―起訴弾圧によって、日韓の治安機関と結託するミニスターリン主義集団を擁護するのみならず、大量拘束によって土肥らにテロ・破壊の条件を提供し、隠然公然とテロを誘導したのである。これは七・二二弾圧におけるミニスターリン主義集団の擁護と解放派への選別弾圧から本格的に開始されていた。こうして、権力は七・二二に続いて、十・九弾圧を強行し、解放派九州組織とわが同志へのテロのサインを送ったのである。これを即座に実行に移したのがミニスターリン主義集団である。土肥らは十・九弾圧を合図に九州の戦闘的運動破壊に乗り出した。戦闘的大衆団体や九州支社にナーバスをかけるなどし、諸運動破壊を繰り返していた。また、これと連動して九州支社をはじめとする解放派の活動拠点周辺で虐殺目的テロのための調査活動を展開していた」。

 「このテロは「党内闘争」における虐殺目的のスタ的私的「軍」を動員した七・二同志長田虐殺の凶行をへて、彼らの反階級的反革命的転落を刻印するものとなった。それは彼らが解放派に敵対するのみならず、戦闘的大衆団体の破壊者となり、現実の階級闘争に敵対するにいたったことに起因している。つまり、十一・一四反革命テロは三里塚などの戦闘的闘争の外からの闘争破壊の一環をなすテロである。しかも、このテロはファシストとの蜜月、権力機関との癒着の上に立つ小ブル集団によるテロであり、権力・ファシストの革命派抹殺攻撃を底流にして凶行されたものに他ならない。これこそ、日韓の治安機関と癒着するミニスターリン主義集団ならではの反革命所業である。こうして、彼らとの「党内闘争」=「党派闘争」はこの決着をかけたプロレタリア革命派と親ファシスト・ミニスターリン主義集団との党派闘争へ転化しつつある」


 「虐殺目的の反革命テロに対するプロレタリア革命派の回答は革命的報復戦の貫徹以外ない。十一・一四反革命テロを計画立案・実行し、これを賛美し同調する部分に革命的報復戦を貫徹し、労働者階級の普遍的共同利害の名において、階級的革命的責任をとらせることを強制するのみである。マルクスはパリコミューンが反革命の側のコミューン戦士の虐殺に対して、報復措置を留保したことを「あまりにもお人好し」と総括した。われわれはこれを革命的に継承し、革マルによる同志石井・中原虐殺への報復戦を貫徹し、同時に憎しみの集中点に対する革命的テロルを思想的実践的に定立してきた。われわれは十一・一四反革命テロへの革命的報復戦を貫徹し、ファシストと連合し、日韓の治安機関と結託し、プロレタリア革命派のみに反革命テロを加えるミニスターリン主義集団を解体する。解放派四〇年の歴史的蓄積の一切をかけて、ミニスターリン主義集団の反革命テロに対する防衛・迎撃態勢を強化しつつ、報復戦貫徹のために党・軍・拠点建設の一大飛躍をかちとる」。

【「反主流山茂派活動家・片岡知和氏がテロられ死亡」】
 2000.2.8日、主流派の狭間派(千木良派、党中央グループ)が、反主流派(山茂派)の活動家・片岡知和(25、福井大生)氏が襲い、片岡氏は、福岡・博多区の駐車場で襲撃され死亡した。その翌朝、狭間派の襲撃キャップ柿沼忠氏とサブの女性が山田派の追っ手によって捕捉され、神奈川県真鶴で殺害・重傷を負った。柿沼忠氏は死亡、女性幹部は電車内で血の海に沈み失血死寸前を救われる(同列車は最寄りの総合病院のある2つ先の小田原まで救急車より早いという判断でこのままこの列車で小田原駅まで搬送し、結果それが生命の分水嶺へとはたらいた)。

 昨年11月の安部テロに対する報復の模様。狭間派の内ゲバとみられる事件は、昨年6月から全国で発生し、片岡さんを含む4人が死亡している。

 福岡県警公安3課などの捜査本部は9日、主流派の活動拠点である同市中央区鳥飼の現代社九州支社を殺人容疑で家宅捜索し、主流派活動家の藤井智佳容疑者(31)=福岡市中央区今川=ら7人を凶器準備集合の現行犯で逮捕した。


 2000.2.9日、解放派(革労協狭間派)山茂派による刺殺内々ゲバ。神奈川県真鶴町のJR東海道線真鶴駅の上りホームで、男女2人刺され死傷、容疑の3人組逃走。


 2000.8.30日、革労協の女性活動家で明大生協従業員組合書記長・片山美恵子さん(48)がJR山手線鶯谷駅前で刺され死亡。


 2,000.12.10日、革労協狭間派主流派・タクシー運転手・仲野茂樹さん(52)が、テロられ死亡。革労協狭間派の主流派と反主流派抗争で既に6人が死亡しており7人目の犠牲となる。
 2001.4.9日、警視庁が、過激派:活動家死亡事件で明大を捜索 武器押収。東京都清瀬市で昨年12月、過激派「革労協」主流派の活動家(52)が、反主流派とみられるグループに襲われ死亡した事件で、警視庁公安部は9日、殺人容疑で川崎市多摩区の明治大生田校舎学生会館内を家宅捜索し、凶器等約160点を押収した。

 2001.5.16日、革労協狭間主流派幹部で会社員、矢野義孝さん(49)が襲われ脳挫傷で死亡。千葉県八街市八街ほ九四五の飲食店駐車場。矢野義孝さん(49)は成田市三里塚を活動拠点に県内では最高幹部の一人だったという。反主流派は昨年二月、三里塚芝山連合空港反対同盟北原派から絶縁されている。


 2001.5.16、県警公安三課と佐倉署は、革労協反主流派活動家の小堺正博容疑者(48)を逮捕し、東京都荒川区内など三カ所の同派活動拠点を捜索した。小堺容疑者は黙秘している。調べでは、小堺容疑者は昨年四月と今年2月の二回、東京都練馬区の東京陸運支局で、車のナンバーから矢野さんの住所や所有車両を特定して殺人を助けた疑い。矢野さんは5.16日、出勤途中に八街市八街ほの駐車場で数人に鉄パイプなどで襲われ殺害された。小堺容疑者が殺害現場にいたかは分かっていない。既に死者8人、けが26人の犠牲者が出ている。


 2001.7日、狭間派が「学合中執正・副委員長声明」を明大当局に差し出す、とある。


 2002.5月、狭間派が明大和泉学館への「放火ゲリラ」の手引きを行い、二度にわたって九九%手中に収めた明大攻防のぶち壊しを謀った、とある。


 2002.10.30日、JRうぐいす各駅南口で、片山美恵子同志がテロられ死亡している(享年48歳)。「内ゲバ廃絶・社会運動研究会 掲示板」の「ハザマ私兵グループ、投稿者:すえいどん、投稿日9.18日」を参照する。革命的労働者協会(解放派)の赤砦社「解放」の「ハザマ私兵グループによる8.30片山美恵子同志虐殺に大報復を叩きつけよ!」には、「ハザマの私兵どもの凶刃に、全身17ケ所をメッタ刺しにされ」とある。
 
 片山美恵子氏の履歴は次の通り。

 1952.5.3日誕生、1971年明治学院大に入学。事情で中退し、片山在根氏を出産。その後アルプス電気に就職、在職中に子連れで三里塚闘争に決起。1983年明大生協に就職。明大生協労組分裂以後、明大生協従業員労組委員長。この間片山在根氏が沖縄で死去するも悲しみをこらえて闘いを継続。1999年の北条千秀氏の死去の際には「1.22北条千秀追悼集会」の最先頭で闘い抜く。1999.5月の解放派分裂に対して、ハザマ私兵グルーブとの闘いを毅然として闘い抜く。2002.6.8日の凶準弾圧に始まる解放派に対する組織破防法型弾圧に対しては、弾対活動の中心を担い不眠不休の闘いを展開していた。死の直前にも、8.26国労続開臨大闘争に、明大従業員労組と東京・山谷日雇労働組合を率いて決起。8.30当日も下馬生協争議の支援に向かう途上であった。

 この時の声明で、「ハザマの私兵ども」として、ハザマ、外園、八十島らが名指しされている。「裏切り六人組」として荒井、荒木、袴田、柳川、田中、小林が名指しされ、「お前たちも、われわれの第一級のターゲットとなった」とある。


 「裏切り六人組」(荒井、荒木、袴田、柳川、田中、小林)が明大生協理事長宅に押しかけ自宅周辺にビラをまき散らし、「就労の安全を保障しろ」などと迫る、とある。


 2003.12月、狭間嘉明最高幹部が病死(享年55歳)。


 2004.6.2日、「東京・台東区の路上で内ゲバ?2人死亡1人けが」。革労協の反主流派の活動拠点のある東京都台東区三ノ輪の路上で、通報によれば「ヘルメットをかぶりマスクをした4人が、男性を鉄パイプで殴っている」とのことで、同派系全学連委員長・五十嵐章浩さん(31)、他に身元不明の2名が死亡。小山元全学連副委員長とその防衛役五十嵐氏の2名が出血多量などで即死。1名が負傷。目撃者によると、「音がするので窓を開けたところ、黒い目出し帽をかぶった4人組が、『このやろう』などとどなりながら、男性を殴りつけていた。殴られた男性は頭から血を流し、まったく動かなかった」、「4人の男たちは3人を襲った後、ワゴン車に乗って逃走した」、とある。

 「革命的マル共連フォーラム」の2004.6.22日付すえいどん氏の情報によると被害者は武本、高山氏の二名でその略歴は次通り。
武本   1973年、埼玉県に生まれる。1992年、千葉大学に入学。1994年、千葉大学反帝学評に結集。1996年、全学連委員長に就任。2004.6.2日、戦時下の革命的学生運動の創出に奮闘中、ハザマ私兵グループの白色襲撃により死去。享年31歳。
高山  1965年、長野県に生まれる。1984年、東京理科大学に入学。1985年、三里塚闘争に決起。1986年、千葉大学に入学。1993年〜1996年、全学連書記長として、学生運動を指導。1997年、駒沢大学に入学。2004.6.2日、戦時下の革命的学生運動の創出に奮闘中、ハザマ私兵グループの白色襲撃により死去。享年38歳。

 2006.3.28日、革労協反主流派の幹部・岸本修(54)が拠点「赤砦社」(東京都台東区)から救急搬送されたが死亡した。

 同志三浦(岸本修)を追悼する

 同志三浦は、二〇〇六年三月二十八日、東京都台東区のわが革命党本部において、 入浴中に突然心臓麻痺におちいり、同志たちの全力の救命措置と医師の「救急救命治療」の努力の甲斐もなく、三月二十八日夕刻、緊急搬送先の病院において死亡が確認された。享年54歳であった。

 同志三浦は、革命党の新たな飛躍に向けて昼夜を分かたず多忙な組織任務を全力で担っていた。肉体的精神的疲労が蓄積し急激な入浴ゆえに、突然肉体的変調をきたし「心臓突然死」(心臓麻痺)したものである。

 日帝国家権力はすぐさまこの事態を、唯一の武装闘争勢力であるわが解放派壊滅の絶好の機会ととらえ、事故死を百パーセント承知の上で同志三浦の死因を意図的に「内内ゲバ」なるものにデッチ上げ、ブルジョワマスコミを総動員した反解放派攻撃を仕掛けてきた。われわれは同志三浦の闘いに、悪罵を投げかけ蹂躙せんとする一切の敵対を許さず粉砕する。
 (中略)
 同志三浦は、一九五一年五月二十七日に岡山県真庭郡久世町に生まれた。一九七〇年台初頭の激闘の真っ只中、医師を志し一九七一年大阪医大に入学する。狭山闘争をはじめとするあらゆる闘いに決起し、とりわけ反革命革マル絶滅戦の最先頭で闘い抜く。一九七三年に社会主義青年同盟に加盟。
(中略)
 一九八〇年革労協関西地方委員会に結集。
 一九八〇年反解放派脱落グループ(反内糾脱党グループ)と対決し、関西地方委員会の旗を敢然と守り抜き闘う。
(中略)
 同士三浦は、一九八八年三・一七、三里塚空港爆砕・パイプライン爆破戦闘を先端とする本格的権力闘争の飛躍への反動として生起した、路線転換グループと全面対決し関西地方委員会の旗を守り抜いた。そして、一九九九年ハザマ私兵グループによる革命党(軍)破壊−脱落に煮えたぎる怒りをもって解体戦に決起し、とりわけ党内闘争を「利用」した日帝国家権力の解放派壊滅攻撃を粉砕するべく、党の弾対部活動を主要に担った。
(中略)
 闘い途上、倒れた三浦同志の意思を引き継ぎ、革命勝利の日まで更に闘いぬくことを宣言する。


1.解放派=革命的労働者協会=現代社=狭間派
2.解放派=革命的労働者協会=赤砦社=木元
3.解放派全国協=労対派



【社青同解放派内ゲバ被害資料】


年度 死亡者 同負傷者 死亡者 同負傷者
68
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(私論.私見)