キリスト教史その2、中世キリスト教

 (最新見直し2006.8.5日)

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【キリスト教が、ローマ・カトリック系と東方正教会に分裂する】

 ローマ帝国の分裂後、東ローマ帝国領域内と西ローマ帝国領域内で、キリスト教はそれぞれ違った展開をみせる。この相違は、元々両地域がそれぞれギリシア語圏とラテン語圏に分かれ、元来異なる文化圏に属したことに由来すると考えられよう。

 こうした状況下で、
イスラム帝国が活況し、ウマイヤ朝カリフのもとに大征服戦争を進め、北アフリカを経てイベリア半島を占領し、ピレネー山脈を越えて西ヨーロッパに迫った。732年、既にアリウス派からアタナシウス派へと改宗し、西ヨーロッパの覇権と中央集権化を進めていたフランク王国の宮宰カール・マルテルが、トゥール・ポワティエの戦いにおいてイスラム教徒軍を撃退した。

 その結果、西欧キリスト教世界という地政学的・宗教的な共通認識が強化された。東ローマ帝国で皇位の簒奪があり、皇帝の血統による継承が途絶えたことを機に、ローマ教皇レオ3世は、西暦800年、クリスマスの日に、カール・マルテルの孫のフランク王カール1世を「ローマ皇帝」として戴冠した。このことと、その後のオットー1世の戴冠による神聖ローマ帝国の成立により、ローマ教皇は、東ローマ帝国の行政上の代理人としての立場から解放され、聖俗が緊密な関係で統治を分かち合うという、西ヨーロッパ独特の政治宗教体制が出現した。

 一方、東ローマ帝国では皇帝による聖俗両方の支配が完成し、教会は「キリストに忠実なる支配者」、「神の代理人」として統治する皇帝の下で国家宗教として発展を続けた(ただし、法律上では皇帝と総主教は並立して一致協力するものと規程されていた)。9世紀以降、キュリロスメトディオス兄弟などによって東ヨーロッパのスラヴ人への布教が進められ、10世紀には皇帝ニケフォロス2世フォカスの後援でアトス山の修道院共同体が成立した。

 古代からローマ司教は自らの権威をペトロパウロに由来するものとして、全教会における首位性を主張していた(『クレメンスの書簡』など)が、ローマ帝国が東西に分裂することで帝国西方の中心地としてローマの地位も高まっていった。西方ではラテン教父と呼ばれる一群の神学者たちがあらわれ、ギリシア語で生み出された神学を継承し、ラテン語によって高度な神学を展開した。こうしてギリシア語を使う東方との相違は政治・宗教の両面で深まっていった。

 こうして互いに独自の発展を遂げたコンスタンティノポリス総主教庁ローマ教皇庁は、フォティオス問題など何度かの対立を経て、決定的に対立する局面を迎えることとなった。1054年、ローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教は互いを破門し合った(大シスマ)。この相互破門によって、「聖なる一つの公の使徒の教会」はカトリック教会東方正教会とに分裂することになった。しかし、その後も西方では東方教会との再統合を求める声は根強く残り、公会議などで幾度か統合の道が模索されることになるが、成功しなかった。

 
一方、古代末期に成立した東方諸教会は、イスラム教勢力の拡張とともに、シリア・パレスチナ・エジプトでの勢力を失い、この地方でのキリスト教は少数派となってゆく。


【教会組織の発達】

 東ローマ帝国において宗教上の最高決定権は皇帝の手に握られるようになった。これを『皇帝教皇主義』という。東西教会が教理上の問題で分裂したのちは、首都コンスタンティノポリスの総主教は「世界総主教」としての格式を持つようになり、他の東方三管区を指導することとなった。

 西方ではフランク王国ピピン3世による土地の寄進以降、ローマ教皇庁が北イタリアに徐々に自前の領土と勢力圏を持つにいたった。こうして成立したのが教皇領である。また11世紀グレゴリウス7世など一連の有能な教皇たちが現れ、弛緩していた教会の規律を正し、世俗領主たちに握られていた聖職叙任権を取り戻していくことで、カトリック教会の影響力を宗教面のみならず、世俗政治の世界においても強めることになった。王権を超える権威として西欧に影響力を強めるカトリック教会と、聖職叙任権や教会財産の問題をめぐって各地の権力者たちとの対立が起こるようになった。これが叙任権闘争である。


【修道院の誕生と発達】
 修道制度の歴史は古代にまでさかのぼる。古代には洞窟や砂漠で1人修行し、隠者の生活を送るキリスト教徒たちがいたとされ、伝承では聖アントニウスがその始祖であるという。このような人々は独居し、他人と最低限の接触しか持たなかった。しかし、完全に一人で生きていくことには多くの困難が伴ったため、このような修道士たちが集団で暮らす制度が生まれた。これが修道制度の起源である。

 ローマ帝国による迫害が終わり、信仰の自由が保障されると、キリスト教徒として、より禁欲的な生活を求めた人々もこの砂漠や人里はなれたところで求道的な生活を行うという運動に加わった。このような生活スタイルはやがてアイルランドにも伝わり、同地で盛んになった。アイルランドの修道者たちはイングランドやヨーロッパ本土に渡って、キリスト教の布教につとめた。

 その後、ヨーロッパの東西で修道制度は異なった展開を示す。東方では、個人での信仰を重んじる修道士は時に対立し、組織化されない民衆のいわば代弁者として機能した。聖像破壊運動に対する聖像擁護などはその一例である。修道士はだんだんに発言権を増していき、高位聖職位を独占するに至る。帝国もまた修道士を保護し、アトスメテオラなどの山岳地には大規模な修道院が発達した。

 西欧的修道制度はヌルシアのベネディクトゥスが創始することになった。彼の生み出した修道制度の最大の特徴は、同じグループに属するすべての修道者たちが会憲・会則という形で同じ精神を共有することにある。こうして生まれたのがベネディクト会である。ベネディクトゥスにならい、同じ精神と生活スタイルを持った女性たちも集まり、女子修道院が生まれた。「祈り、働け」をモットーにしたベネディクト会は、信仰生活だけでなく労働を重視、荒れた土地を開墾し、農業技術やそれに伴う醸造・製造技術を発展させた。さらに修道院では写本製作によってギリシア・ローマ以来の古典が保存され、旅行者や病人への世話をおこない、ラテン語教育を施すことで中世を通じて文化的・社会的拠点となり、古代の文化を保存し、後世に伝えるという重要な役割を果たした。その後、ベネディクト会の確立したスタイルにならって多くの男女修道会が生まれていった。


【イスラムの台頭と聖像破壊運動】
 東地中海世界のキリスト教は新約聖書の頃にその起源を有するギリシア語典礼を保持するとともに、聖像崇敬を独自の仕方で発展させていった(この反動が聖像破壊運動となる)。当初は腰ほどの高さであった聖職者と一般信徒の間の区切り、イコノスタシスは、やがて教会の床から天井までをさえぎる壮麗な聖画の集まりへと発展し、その配列についての神学また聖像の描き方についての神学および技法上の進展がみられた。

 一方、7世紀イスラム教アラビア半島で生まれ、急速に拡大してイスラム帝国を築いた。これは単性論論争で分裂していた東方諸教会にとって大きな痛手となった。7世紀前半にはシリア地方、パレスチナエジプトがイスラム帝国の版図となる。キリスト教徒は、庇護民(ズィンミー)として一定の権利を保障されたが、ハラージュ(地租)・ジズヤ(非改宗者に課せられる税)を徴収され、アラブ人ムスリムの下位に置かれた。このことは教会分立によって弱体化していたこの地方で、多くのイスラムへの改宗者を出すことにつながった。

 638年にはムスリムによりエルサレムが征服された。ウマル1世は征服後エルサレムに入り、エルサレムがイスラム共同体の管理に入ったことを宣言するとともに、エルサレム総主教ソフロニオスと会談して、聖地におけるキリスト教徒を庇護民(ズィンミー)として保護することを確認した。

 イスラム教徒からはキリスト教の聖像使用に対して批判があり、これに影響された東ローマ帝国の知識人の間に8世紀には聖像破壊主義がおこった。これは帝国を二分する争いとなり、さらに東ローマ皇帝が聖像破壊主義を支持したことにより、東ローマ帝国とローマ教皇の間に疎遠を生ずることにつながった。最終的に、第3コンスタンティノポリス公会議において聖像崇敬が教義として確立され、聖像破壊論争は終結した。


【十字軍と東方教会の停滞】

 

ローマ帝国の西方では皇帝の不在が続いていたが、神聖ローマ帝国(フランク王国)が成立したことで、教皇は東ローマ帝国から政治的に独立するようになる。しかし、世俗権力の介入の問題は解決せず、聖職者の叙任権をめぐって神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世が争ったカノッサの屈辱で有名な叙任権闘争問題で神聖ローマ帝国の皇帝や君主との対立が生じた。この対立は第1ラテラン公会議におけるヴォルムス協約の承認により、世俗介入を否定する教皇側の勝利で解決する。またこの公会議によって十字軍が承認される。

11世紀テュルク(トルコ)系イスラム王朝セルジューク朝パレスチナを占領した。小アジアの領土回復を望む東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス1095年、ローマ教皇に援軍を要請。これに答えた教皇ウルバヌス2世は同年、イスラム教徒の手からの「聖地奪回」を訴えた。これが一連の十字軍運動の始まりである。教皇はキリスト教徒の聖地巡礼がイスラム教徒によって阻害されていると考えていた。ウルバヌス2世はクレルモンでの教会会議の終わりに、十字軍への参加によって罪の償いが行われると宣言、諸侯への従軍を呼びかけた。フランスでは多くの諸侯がこの呼びかけに応じて立ち上がった。ドイツを支配していた神聖ローマ帝国と教皇庁との関係は当時、それほど良好ではなかったが、聖地奪回という呼びかけを聞いたドイツ諸侯も奮起し、従軍者が多く現れた。

こうしてドイツ・フランスの諸侯を中心とした第1回十字軍エルサレムの占領に成功。パレスチナとシリア地方を侵略して、エルサレム王国など十字軍国家とよばれる一群のキリスト教国家を建設した。このとき、東方正教会のエルサレム総主教は追放され、カトリック教会のエルサレム司教が立てられた。

十字軍将兵の従軍理由はしばしば領地や褒賞目当てだけであったかのように語られることが多い。たしかにそれも原動力の一つであっただろうが、当時の人々にとって聖地への憧れなど宗教的情熱も強かったことを忘れてはならない。ただ、一部の十字軍将兵による略奪や暴力、虐殺行為が行われたこともまた事実である。このような暴力の対象はイスラム教徒だけでなく、ヨーロッパ在住のユダヤ人たちも含まれた。ドイツのヴォルムスで約800人が、マインツで約1000人が殺害された。十字軍は1099年エルサレムを占領するが、ここでもユダヤ人やアラブ人の非戦闘員を虐殺しており、市民の犠牲者数は約7万人と伝えられる。

十字軍国家はイスラム教徒の巻き返しに会い、14世紀初めまでに全てが滅ぼされ、ヨーロッパ人は西アジアを追われた。最終的に十字軍の「聖地をキリスト教徒の手に」という目標は達成されなかった。一方、その過程で、聖地巡礼者を防衛する騎士修道会、イスラム教徒に伝道を行う托鉢修道会、捕虜交換と傷病者治療の修道会が誕生して、西欧キリスト教世界の文化的変革の触媒となった。そのひとつであるドミニコ会は、アラビア語文献の輸入と翻訳を通してアリストテレス哲学を再発見し、スコラ学を開花させた。

長きに渡った十字軍遠征への従軍によって騎士階級は疲弊没落し、西ヨーロッパにおいて封建領主の力が弱まり、農奴に対して貨幣地代の納入を認めた結果、富農、さらに独立自営農民の出現を促し、経済構造が変化した。また、封建領主の相対的地位低下によって、国王は中央集権化を有利に進め、ヨーロッパ絶対王政出現の端緒となった。

他方で東方教会にとって、十字軍ならびにそれに対抗するイスラム勢力の動きは甚大な影響を与えた。第4回十字軍により首都コンスタンティノポリスを占領(1203年 - 1261年)されてしまった東ローマ帝国は、その後もイスラム教徒の西方進出に伴って衰退し、1453年、最終的にオスマン帝国に滅ぼされた。

オスマン帝国はキリスト教徒の信仰の自由を認めたが、キリスト教徒は信仰の代償として貢納ならびにイェニチェリに子供を差し出すことを求められ、またオスマン帝国領内での神学教育や布教などの教会活動は著しく制約された。帝国の滅亡によりコンスタンティノポリス総主教が全東方正教会に及ぼしていた権威は揺らぎ、16世紀にはロシアモスクワ総主教が誕生してロシア正教会が独立した。


信徒活動の展開と異端審問

10世紀以降、カトリック教会内に信徒活動という新しい形の運動が生まれた。その中には村落内の信心会のようなものから始まって、やがては周辺地域をまきこむ大規模な運動に進展したものもあった。それは一般信徒たちが初めて自発的に、真にキリスト教的な生活を目指した運動であった。その背景には、当時広く流布した終末思想や、妻帯(ニコライズム)や聖職売買(シモニア)などが横行していた聖職者たちへの批判がこめられていた。そのうち、11世紀に盛んになったカタリ派12世紀に現れたワルドー派異端のレッテルを貼られて弾圧を受けることになる。ワルドー派は「リヨンの貧者」と名乗り、創始者ワルドーがイエスのようの清貧の生活を目指して始めた信徒運動であった。彼らは自分たちで福音の精神を学んで説教を行い、信徒による説教の許可をもとめて第3ラテラン公会議に代表を送ったが認められず、やがて異端とされることになった。不思議なことに同じ時期に、同じ清貧の精神で人々に説教を行っていたある青年の活動は教皇のお墨付きを得ることになった。彼こそがアッシジのフランチェスコであり、これがフランシスコ会の起源である。同じ頃、やはり説教を使命とする一群の人々が現れ、教皇の認可を受けてドミニコ会が生まれた。

12世紀以降、西欧の王室や権力者たちは中央集権化を推し進め、その一環として地域に割拠する勢力の制圧を図った。このような行動はしばしば宗教的正当性の名目を借りて行われた。その代表的なものが南仏におけるアルビジョア十字軍の活動である。カトリック教会にとっても増え続けるカタリ派やワルドー派といった異端への対策が急務となっており、ここに世俗の王権との利害が一致した。こうして教皇庁が任命した審問官が各地に赴いて裁判を行い、世俗の権力がそれをひきとって処罰するという異端審問が盛んに行われるようになった。宗教界の権威者が裁き、世俗の支配者がこれを処罰するというシステムを共同で生み出したのは教皇グレゴリウス9世と皇帝フリードリヒ2世であった。この時期の異端審問を後のスペイン異端審問やローマでの異端審問と区別して「中世異端審問」という。

カタリ派とワルドー派の殲滅を目的に始められた異端審問は、同派が活発だった北イタリアと南フランスを中心に行われた。このシステムは欧州各地へ輸出されたが、北欧、ドイツイングランドなどではほとんど行われることはなかった。このように12世紀から13世紀にかけて行われた中世異端審問は後世の人々が想像していたほど大規模なものではなかったことが研究によって明らかになっている。もっとも有名な異端審問官ベルナール・ド・ギーは16年にわたってその職についていたが、在職中に扱った多くのケースのうち、死刑を宣告したのは40件にすぎなかった。


カトリック教会の混乱

叙任権闘争以降、カトリック教会の中で教皇権は世俗の王権を超越する権威であるという認識が強まった。教会法のエキスパートであり、政治家として有能だった教皇インノケンティウス3世は欧州諸王家とたくみに駆け引きし、名実ともに教皇権の優越性を示すことに成功した。

しかし、フランスイングランドなどで王権が伸張すると、この教皇権の優越という概念をめぐって教皇庁と激しい争いが行われるようになった。具体的には教会財産の所有権の問題や聖職者裁判権、司教任命権などが争われた。この状況の中で教皇の顧問団であるはずの枢機卿会は国家の利益の代弁者のようになっていき、互いに国益を優先して争うことで混乱し、教皇庁の権威を低下させていった。枢機卿団内の争いで優位にたったのはフランスだった。フィリップ4世は枢機卿団によって教皇庁をコントロールすることに成功、ついにはフランス出身の教皇クレメンス5世を出すに至った。王の意を受けた教皇はフランス以外の枢機卿団の反対を無視して教皇庁をフランスのアヴィニョンに移転。古代、ユダヤ人が強制的にバビロンへ移されたバビロン捕囚にならい、これは「アヴィニョン捕囚」であると非難された。

教皇庁がアヴィニョンに居座ったことでローマに残っていた枢機卿団は独自の教皇を立て、その正統性を主張するに至った。ここに2人の「正統」教皇が現れるという事態になった。事態を収拾しようとピサで開かれた教会会議は、ローマとピサの2人の教皇の廃位を宣言して、新しい教皇ヨハネス23世を選出したが、2人が廃位を認めず、それぞれの支持者を集めたため、3人の教皇が立つという異常な事態になった。

このような前例のない混乱の中で、教皇の権威は低下し、聖職者たちの中に公会議こそが教会の至上決定権を持つべきであるという考え方が強まった。これが公会議主義である。その中心人物であった神学者ジャン・ジェルソンは神聖ローマ皇帝ジギスムントの後ろ盾を得て、3教皇問題の解決を狙ったコンスタンツ公会議の開催にこぎつけた。この背景には、教会政治に強い影響力を持ったフランス王へのジギスムントの対抗心もあった。

この公会議においてついに3人の教皇を退位させることに成功し、マルティヌス5世教皇を選出した。また、教会の抜本的な改革の必要も叫ばれており、コンスタンツ公会議も教会改革の実施を宣言して閉会した。しかし、コンスタンツ公会議の宣言した教会改革は結局行われず、公会議によって教会を変えていくという理想も失われていくことが結果的に宗教改革の伏線となっていく。


魔女狩りの発生と終焉

しばしば異端審問の一部として語られることが多い魔女狩りであるが、実際にはその時期・地域ともに異端審問と重なる部分がほとんどないことがわかっている。というのも異端審問が盛んに行われたのは12世紀から13世紀の南フランスおよび北イタリアであったが、魔女狩りは16世紀から17世紀にかけてドイツフランスイングランドスコットランドなどで起こっているからである。魔女狩りは本来、農民や一般市民の間で私刑のかたちで行われていたが、15世紀の終わりになって魔法を用いるものは悪魔と契約していると考えが広まったことで聖俗両権力者たちも迫害に乗り出すようになった。

魔女狩りが行われた理由や急速に衰退した理由については多くの説が提示されているが、確実とされるものはまだない。19世紀には金銭目的、あるいはひそかに生き残っていた古代宗教への弾圧といった説も出されたが、現在では受け入れられていない。魔女狩りはカトリック・プロテスタントを問わず行われたが、ヨーロッパ全域で長期にわたって起こったわけではなく、実際には特定の地域で、特定の時期に集中して発生したことがわかっている。また異端審問所が魔女狩りを推し進めたという言い方も不正確で、15世紀の終わりに設立されて16世紀に盛んに活動したスペイン異端審問では魔女は審議の対象にならず、同じく16世紀にローマに教皇庁直属の異端審問所が設けられたにもかかわらず、イタリアではほとんど魔女狩りは起こらなかった。

魔女狩りは中世というよりはむしろ近世初期に突如として沸騰した社会現象であった。かつて魔女狩りでは数百万人が虐殺されたといわれた時期もあったが、現代の歴史家たちの研究によって全期間を通じての犠牲者数は多くて四万人と見積もられている。


近世

西欧における近世のキリスト教史は激動の時代であった。東ローマ帝国滅亡の後、亡命したギリシア人学者が携えてきたギリシア語古写本や十字軍によってもたらされたギリシア語古写本は、西方にそれまで知られていなかった古代ギリシア思想を伝えた。これによってイタリアを中心にギリシア語古典の研究が盛んになり、その研究者たちは人文主義者と呼ばれるようになった。主にフィレンツェを中心に展開された新プラトン主義はキリスト教とその他諸々の宗教や哲学との融合を図り、新しい思想が生まれる土台となった。

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[編集] 宗教改革

かつてコンスタンツ公会議で宣言されたカトリック教会の「頭と体の改革」は結局行われず、教会の諸問題は解決されないままであった。16世紀初頭、ドイツでマルティン・ルター贖宥状の問題を提起すると、神学的な問題から政治的な問題へと発展することになった。これが宗教改革の始まりとなる。宗教改革によってカトリック教会が唯一のキリスト教であった西欧はさまざまな教派に分かれていくことになる。ルターの訴えた教会改革はやがてドイツ諸侯の争いとからんで政治問題化、ルターは期せずして新しい教派を創始することになる。こうして「プロテスタント」とい呼ばれる諸教会が生まれた。同じころフランスのジャン・カルヴァンも、二重予定説を唱え、長老制に基づく教会をたてて、ジュネーブを拠点に宗教改革を指導した。

カトリック教会も決して手をこまねいていたわけではなかった。かつて「宗教改革に対して、カトリック教会は対抗改革を行った」と考えられていたが、カトリック教会における改革の動きはルター以前からみられることから「対抗改革」をより広い意味で「カトリック改革」と呼ぶこともある。いずれにせよ、カトリック教会内で弛緩した規律の矯正と信仰教義の再確認の動きが強まった。1545年に始まったトリエント公会議ではプロテスタントとの和解とカトリック教会の綱紀粛正を狙ったが、前者は達成されなかった。一連の改革の中で従来の修道会のスタイルにとらわれない新しい会がいくつも生まれた。特に有名なものはイグナチオ・ロヨラの率いたイエズス会であり、ヨーロッパ各地の再宣教と並行して、大航海時代に連動するようにアジア、アフリカ、アメリカへと多くの宣教師を送った。こうしてフランシスコ・ザビエル1549年に鹿児島に到着、キリスト教が日本にももたらされることになった。イエズス会は日本や中国をはじめ、世界各地で地域の文化や伝統を尊重する政策をとったため、多くの信徒を獲得することに成功した。

カトリックとプロテスタントの対立は17世紀初頭にドイツ三十年戦争に発展する。これにより西ヨーロッパは荒廃し、その反省から、人格神、キリストの神性、奇跡を否定し、聖書を合理的に解釈しようとする「理神論」が知識階級に普及した。理性的な神が機械論的宇宙を創造したとする理神論は、近代科学の発展に世界観的前提を与えた。理神論の次の段階として、理性そのものを最高原理とした啓蒙主義は、普遍言語、普遍道徳、普遍原理を追求し、歴史を理性の発展または体現と捉える進歩主義ヘーゲル哲学に結実した。

北ドイツのルター派地域では、三十年戦争後に形骸化した宗教改革に対して、ドイツ敬虔主義が教会刷新を行った。回心運動であったドイツ敬虔主義は、聖書のテキストよりも、生きた宗教体験を最重要視した、この時期聖書への批判的研究が開始され、ハレ大学が高等批評の中心地となった。また宗教体験の分析研究は、自由主義神学カント哲学の発展の前提となった。また宗派対立や教会が異常に権力を持ってしまったり、王権などの権力と結びついっていろいろな弊害をもたらしたことに対する歴史的反省から、現代に続く政教分離原則が起こったのもこの時代である。

対抗改革は、東欧や東地中海地方にも影響を与えた。ローマ教皇庁は東方教会に統合を働きかけて、合意を得るにいたった。これらの教会では自らの伝統的な典礼を保持しながらもローマの教皇の権威を尊重し、東方典礼カトリック教会と呼ばれるようになった。その結果、古代5大総主教座のうちアンティオキア・エルサレム・アレクサンドリアには、あらたにカトリックの総司教座がおかれ、東方正教会・東方諸教会・カトリックの総主教座が並立することになる。

[編集] ピューリタン

イングランドでは、ヘンリー8世が離婚問題を機に、カトリック教会から国内の教会を独立させイングランド国教会とした(1534年)。これ以降、イングランドでは、国王の交代の度に宗教政策がプロテスタントとカトリックの間を揺れ動いたが、エリザベス1世の治世において「中道政策」(via media)が採られ、エリザベス朝ルネッサンスが開花した。

これに対し、カルヴァンの影響を受けた改革派があくまで徹底的なプロテスタント改革を要求した。清教徒と呼ばれた彼らは政治的弾圧を受け、その一部は宗教的政治的理想の実現のために北アメリカに移民し、残りは国内で国教会から分離し、非国教諸派長老派、改革派、バプテスト派会衆派クウェーカー派)を形成した。

清教徒は次のステュアート朝において清教徒革命を起こして王権を打倒し、一時的に共和国を樹立するが、結局王政復古する。しかし王権に対する議会の優位は決定的となり、名誉革命を経て「君臨するが統治しない」国王の下での議会政治という立憲君主制が確立して、その後の議会的重商主義自由主義産業革命帝国主義に対応し得る政治環境を用意することとなる。

[編集] 近世の東方正教会

ロシア正教会は国家によって保護され、ロシア帝国内で特権的な立場を得たと一般に考えられているが、反面、教会に国家の絶えざる干渉が行われ、時に教会の停滞さらには荒廃を招いた。イヴァン4世は、初期には信仰篤い君主として知られ、モスクワに聖ワシリー大聖堂を建立したが、晩年、暴力化した政策に反対したモスクワ府主教フィリップを側近が殺害することを黙認した。さらに、ピョートル1世以降の、国家による教会への介入と統制は、正教会史上類をみない厳しいものとなった。ピョートル1世は西欧化政策を教会にも及ぼし、北欧のプロテスタント国の国教制度にならう統制制度を導入した。1700年にモスクワ総主教アドリアンが没すると、後任をおくことを禁じ、皇帝が直接任命する聖務会院をおいて、そのかわりとした。また1721年には総主教制を廃止し、聖務会院が教会と修道院を管理するとした。この体制はロシア革命が起こる1917年まで続いた。国家の介入は高位聖職者にもおよび、また修道院の閉鎖と財産の国有化が推し進められた。ドイツ出身のエカチェリーナ2世は、プロテスタントからロシア正教に改宗したものの、教会への統制を厳しくした。この統制のもとで、ロシア教会は精神的に荒廃したとしばしばいわれる。この荒廃の時期は18世紀末まで続き、後述する『フィロカリア』の紹介を中心とした静寂主義が修道院を拠点に広まったことで、ロシア正教会の信仰生活は復興したといわれる。

一方、オスマン帝国はキリスト教の信仰の自由を認め、教会財産を尊重したが、教会の活動は布教を中心に制限され、信徒は庇護民としてイスラム教徒より社会的に劣った身分におかれた。また帝国領内での神学教育は禁止された。このため聖職者の養成のために、ローマなど西方に留学して神学を学ぶことが行われた。これは東方正教会のなかにカトリックの影響を強めることになった。

[編集] 近代以降

[編集] 北アメリカ

北アメリカでは、西ヨーロッパで弾圧を受けた非国教諸派が多数移民して自治共同体を設立し、アメリカ合衆国の成立において国教制度の否定と信教の自由を根幹とする「政教分離原則」を確立した。

ニューイングランドでは、非国教諸派を横断するかたちで、回心運動である大覚醒Great Awakening)あるいは信仰復興Revival)が起こった。これにより、宗教体験を最重要視し、聖書を字義通り受け取り、神学を含む学問全般を軽視する傾向が、キリスト教諸教派に共通して見られた。個人の宗教体験が最重要視されたことから、プラグマティズムの母体となるニューイングランド経験主義や、ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』に代表される宗教学が誕生した。大覚醒がイギリスに波及した結果、メソジスト派が生まれた。

また1800年代から再臨運動が起こり、これを契機としてメソジスト教会からホーリネス運動フリーメソジスト教会が誕生した。合衆国中西部から南部では、野外のテントの集会で「聖霊のバプテスマ」や「神癒」の体験を得ようとするキャンプミーティングが数千ヶ所で開催され、熱狂的な礼拝やゴスペルソングの歌唱などが行われて、黒人教会の霊性(スピリチュアリティ)に対して決定的な影響を与えた。1904年には、異言を伴う聖霊のバプテスマを強調する信仰復興がロサンゼルスで始まり、北アメリカに急速に広まり、さらに、イギリスや北欧諸国にも及んで、新たにペンテコステ派が誕生した。

[編集] 西ヨーロッパ

遅れて近代化に着手したドイツとイタリアでは、近代化政策の過程でカトリック教会に厳しい締め付けが行われ、中世以来のカトリック教会の権益が大きく損なわれた。この危機の中でカトリック教会は保守色を強め、中世から近世にかけて議論の的となっていたいくつかの教義を、公式の教義として布告するに至る。また近代思想や進化論などの近代科学に対する敵対をあらわにし、教義に反するとされた書物を読むことを信者に禁じるため、たびたび禁書目録を発行した。 1864年に教皇ピウス9世近代思想の中に生まれた啓蒙主義自由主義共産主義を排斥するため「誤謬表」(sillabo、シッラボ)を回勅とともに公布した。1860年に国家統一を果たしたイタリアでは、国土中央部に広がっていた教皇領がローマ市周辺にまで狭められてしまう。このため、ピウス9世はイタリア国王と閣僚を破門した。1869年から1870年にかけて開催された第一バチカン公会議では教皇首位説教皇不可謬説を公式教義として布告した。教皇権の強化に対して、カトリック教会内部のリベラル派から強い反発が起こり、同調出来なかった司教区や教会は、ローマ・カトリック教会から離脱するに至った(復古カトリック教会)。

しかし、19世紀後半から、英語圏諸国でカトリック教徒に対する政治的差別条項が順次廃止され、また、アイルランド大飢饉が原因でカトリック教徒のアイルランド人が世界各地、特に北アメリカに大量に移民したことにより、カトリック教会の教勢は拡大に転じた。

[編集] 東ヨーロッパ

1782年、ギリシアで聖歌集『フィロカリア』が出版された。アトス山の修道士ニコディム・アギオリトとコリント主教マカリーの編纂したこの聖歌集は、神秘思想である静寂主義に基づく神への賛美集である。タイトルはギリシア語で「美を愛する」を意味し、ここでいう美とは神のことである。これは各国の言語に訳され、全東方正教会に広まり、停滞していた教会内で信仰の再興につながった。『フィロカリア』は現在でも東方正教会が共有する精神財として、世界各地の正教会で使われている(日本語の翻訳はない)。

フランス革命後のヨーロッパでの民族主義の高揚は、正教世界にもおよび、19世紀半ばからヨーロッパのオスマン帝国領内では独立運動が相次いだ。これは教会においては、オスマン帝国の統制下にあるコンスタンティノポリス教会の干渉を受けない、独立教会を志向する動きを生んだ。1833年ギリシャ正教会が独立教会を宣言したのにつづき(コンスタンティノポリスは1850年に承認)、セルビア正教会(1879年)、ルーマニア正教会(1885年)、ブルガリア正教会(1860年)が独立教会となった。

また19世紀半ばにはロシア正教会内に東方伝道への積極的な取り組みが生まれた。ロシア領となったシベリアやアラスカでの伝道が積極的になされた。シベリア中部の都市イルクーツクには大主教座と神学校がおかれ、シベリアにおける活動の拠点となった。イルクーツク近郊出身の神父イヴァン・ベニアミノフは、アリューシャン列島に妻とともに伝道した。ベニアミノフは文章語としてのアリュート語を確立した人物として知られている。伝道のため、文字をもたなかったアリュート語の正書法を確立し、はじめての文法書を出版し、アリュート人の協力者とともに聖書をはじめとする宗教文書を翻訳した。日本にも、19世紀半ばの開国後、はじめ在函館ロシア領事館付司祭として来日したニコライ司祭により、日本ハリストス正教会が建てられた。

[編集] 現代

20世紀以降のキリスト教についてはキリスト教の該当箇所を参照せられたい。



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イスラムは「邪悪」と発言=ローマ法王発言に怒り広がる
http://www.asyura2.com/0601/holocaust3/msg/454.html
投稿者 木村愛二 日時 2006 年 9 月 16 日 21:14:31: CjMHiEP28ibKM

イスラムは「邪悪」と発言=ローマ法王発言に怒り広がる [時事通信]

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060915-00000114-jij-int

 【ニューデリー15日時事】ローマ法王ベネディクト16世が、イスラム教が本質的に暴力を容認する宗教であるかのような発言をし、イスラム諸国から怒りの声が相次いでいる。2001年9月の米同時テロ以来、欧米の一部にはイスラムの教義そのものに暴力の原因を求める議論があり、イスラム教徒の神経を逆なでしてきた。パキスタン議会は15日、法王に発言の撤回を求める非難決議を全会一致で採択した。
 ローマ法王は12日、訪問先の母国ドイツの大学で行った講義で、東ローマ帝国皇帝によるイスラム批判に触れ、「(イスラム教開祖の)預言者ムハンマドが新たにもたらしたものを見せてほしい。それは邪悪と残酷だけだ」などと指摘。その上で、イスラムの教えるジハード(聖戦)の概念を批判した。 

(時事通信) - 9月15日19時2分更新
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ローマ法王発言に謝罪要求広がる [AFP=時事]

 http://news.www.infoseek.co.jp/afp/society/story/20060915afpAFP008684/

【パリ15日】ローマ法王ベネディクト16世≪写真≫が、イスラム教が本質的に暴力を容認する宗教であるかのような発言をし、イスラム諸国から謝罪を求める声が相次いでいる。パキスタン議会は15日、法王に発言の撤回を求める非難決議を全会一致で採択。同国外務省当局者は法王を無知だと非難した。
 ローマ法王は12日、訪問先の母国ドイツの大学で行った講義で、イスラム教と暴力の関係について言及した上で、とくにジハード(聖戦)の概念を批判。さらに、イスラム教開祖の預言者ムハンマドが新たにもたらしたものを見せてほしい。それは邪悪と残酷だけだなどと発言した。
 ローマ法王庁スポークスマンはその後、声明を出し、ローマ法王はイスラム教には敬意を払っているが、宗教によって動機付けられた暴力は拒否すると強調した。
 これに対してフランス・イスラム評議会最高幹部は、教会は法王の発言に対して直ちに彼らの立場を明らかにするべきだと指摘。クェートやエジプトのイスラム指導者は法王に対して早急な謝罪を求めている。

[2006年9月15日20時17分]
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[ローマ法王]「聖戦」批判演説にイスラム社会の反発広がる (毎日新聞)

 http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2451346/detail?rd

 【ローマ海保真人】ローマ法王ベネディクト16世がイスラム原理主義の「聖戦」を批判した演説に対してイスラム社会で法王を非難する動きが拡大している。パキスタン下院議会が15日、法王に発言撤回を求める決議を採択したのをはじめ、イラン、インドネシア、トルコなどでもイスラム教指導者が反発し、一部が抗議行動を呼び掛けた。ローマ法王庁(バチカン)は釈明し、火消しに躍起になっている。
 法王はドイツ訪問中の12日、大学での演説で「ジハード(聖戦)は神に反する」と述べ、テロの宗教的根拠を否定。さらに、イスラム教の預言者ムハンマドが「戦いの指揮により邪悪と残酷さをもたらした」という14世紀のビザンチン帝国皇帝の言葉を引用した。
 ムハンマドに関する発言が特にイスラム社会で反発を招き、パキスタン下院議会は決議で「法王発言はイスラム教徒の感情を傷つけた」と発言の撤回を要求。また、イランの有力なイスラム教指導者は「法王はイスラム教を侮辱した」と非難した。
 さらにロイター通信によると、インドネシアのイスラム教指導者は「法王はイスラム教を正しく理解していない」と指摘し、信徒に抗議行動を起こすよう呼び掛けた。トルコ政府の宗教担当高官も発言について「極めて遺憾だ」と述べ、11月末に予定されている法王のトルコ訪問に疑問を呈した。エジプトやヨルダンなどでも法王に謝罪を求める声が高まっている。
 一方、パレスチナ自治区ガザ市にあるギリシャ正教会の施設では15日、小規模の爆発が起きたが、法王発言に対する反発によるものかどうかは分かっていない。
 バチカンのロンバルディ報道官は声明で「法王はジハード思想について深く踏み込むつもりはなく、イスラム教徒の感情を害する気持ちもない。ただ、暴力のために宗教を動機とすることを明確に否定したいだけだ」と述べた。報道官は法王がイスラム教との調和を求める姿勢に変わりがないことを強調した。
 だが、今年初めにはデンマークの新聞が掲載したムハンマドの風刺画をきっかけにイスラム教徒が世界規模で抗議行動を起こす騒ぎとなった。今回もキリスト教徒に対する反発がイスラム社会で膨らむ恐れがある。

2006年09月15日21時31分
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●問題となっているローマ教皇演説の全文
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http://www.zenit.org/english/visualizza.phtml?sid=94748

ZENIT - The World Seen From Rome


Code: ZE06091209

Date: 2006-09-12

Papal Address at University of Regensburg

"Three Stages in the Program of De-Hellenization"

REGENSBURG, Germany, SEPT. 12, 2006 (Zenit.org).- Here is a Vatican translation of the address Benedict XVI delivered to scientists at the University of Regensburg, where he was a professor and vice rector from 1969 to 1971.

This is the version the Pope read, adding some allusions of the moment, which he hopes to publish in the future, complete with footnotes. Hence, the present text must be considered provisional.

* * *

Faith, Reason and the University
Memories and Reflections

Distinguished Ladies and Gentlemen,

It is a moving experience for me to stand and give a lecture at this university podium once again. I think back to those years when, after a pleasant period at the Freisinger Hochschule, I began teaching at the University of Bonn. This was in 1959, in the days of the old university made up of ordinary professors. The various chairs had neither assistants nor secretaries, but in recompense there was much direct contact with students and in particular among the professors themselves. We would meet before and after lessons in the rooms of the teaching staff. There was a lively exchange with historians, philosophers, philologists and, naturally, between the two theological faculties.

Once a semester there was a "dies academicus," when professors from every faculty appeared before the students of the entire university, making possible a genuine experience of "universitas": The reality that despite our specializations which at times make it difficult to communicate with each other, we made up a whole, working in everything on the basis of a single rationality with its various aspects and sharing responsibility for the right use of reason -- this reality became a lived experience.

The university was also very proud of its two theological faculties. It was clear that, by inquiring about the reasonableness of faith, they too carried out a work which is necessarily part of the "whole" of the "universitas scientiarum," even if not everyone could share the faith which theologians seek to correlate with reason as a whole. This profound sense of coherence within the universe of reason was not troubled, even when it was once reported that a colleague had said there was something odd about our university: It had two faculties devoted to something that did not exist: God. That even in the face of such radical skepticism it is still necessary and reasonable to raise the question of God through the use of reason, and to do so in the context of the tradition of the Christian faith: This, within the university as a whole, was accepted without question.

I was reminded of all this recently, when I read the edition by professor Theodore Khoury (Muenster) of part of the dialogue carried on -- perhaps in 1391 in the winter barracks near Ankara -- by the erudite Byzantine emperor Manuel II Paleologus and an educated Persian on the subject of Christianity and Islam, and the truth of both.

It was probably the emperor himself who set down this dialogue, during the siege of Constantinople between 1394 and 1402; and this would explain why his arguments are given in greater detail than the responses of the learned Persian. The dialogue ranges widely over the structures of faith contained in the Bible and in the Koran, and deals especially with the image of God and of man, while necessarily returning repeatedly to the relationship of the "three Laws": the Old Testament, the New Testament and the Koran.

In this lecture I would like to discuss only one point -- itself rather marginal to the dialogue itself -- which, in the context of the issue of "faith and reason," I found interesting and which can serve as the starting point for my reflections on this issue.

In the seventh conversation ("di?esis" -- controversy) edited by professor Khoury, the emperor touches on the theme of the jihad (holy war). The emperor must have known that sura 2:256 reads: "There is no compulsion in religion." It is one of the suras of the early period, when Mohammed was still powerless and under [threat]. But naturally the emperor also knew the instructions, developed later and recorded in the Koran, concerning holy war.

Without descending to details, such as the difference in treatment accorded to those who have the "Book" and the "infidels," he turns to his interlocutor somewhat brusquely with the central question on the relationship between religion and violence in general, in these words: "Show me just what Mohammed brought that was new, and there you will find things only evil and inhuman, such as his command to spread by the sword the faith he preached."

The emperor goes on to explain in detail the reasons why spreading the faith through violence is something unreasonable. Violence is incompatible with the nature of God and the nature of the soul. "God is not pleased by blood, and not acting reasonably ("syn logo") is contrary to God's nature. Faith is born of the soul, not the body. Whoever would lead someone to faith needs the ability to speak well and to reason properly, without violence and threats.... To convince a reasonable soul, one does not need a strong arm, or weapons of any kind, or any other means of threatening a person with death...."

The decisive statement in this argument against violent conversion is this: Not to act in accordance with reason is contrary to God's nature. The editor, Theodore Khoury, observes: For the emperor, as a Byzantine shaped by Greek philosophy, this statement is self-evident. But for Muslim teaching, God is absolutely transcendent. His will is not bound up with any of our categories, even that of rationality. Here Khoury quotes a work of the noted French Islamist R. Arnaldez, who points out that Ibn Hazn went so far as to state that God is not bound even by his own word, and that nothing would oblige him to reveal the truth to us. Were it God's will, we would even have to practice idolatry.

As far as understanding of God and thus the concrete practice of religion is concerned, we find ourselves faced with a dilemma which nowadays challenges us directly. Is the conviction that acting unreasonably contradicts God's nature merely a Greek idea, or is it always and intrinsically true?

I believe that here we can see the profound harmony between what is Greek in the best sense of the word and the biblical understanding of faith in God. Modifying the first verse of the Book of Genesis, John began the prologue of his Gospel with the words: "In the beginning was the 'logos.'"

This is the very word used by the emperor: God acts with logos. Logos means both reason and word -- a reason which is creative and capable of self-communication, precisely as reason. John thus spoke the final word on the biblical concept of God, and in this word all the often toilsome and tortuous threads of biblical faith find their culmination and synthesis. In the beginning was the logos, and the logos is God, says the Evangelist. The encounter between the biblical message and Greek thought did not happen by chance.

The vision of St. Paul, who saw the roads to Asia barred and in a dream saw a Macedonian man plead with him: "Come over to Macedonia and help us!" (cf. Acts 16:6-10) -- this vision can be interpreted as a "distillation" of the intrinsic necessity of a rapprochement between biblical faith and Greek inquiry.

In point of fact, this rapprochement had been going on for some time. The mysterious name of God, revealed from the burning bush, a name which separates this God from all other divinities with their many names and declares simply that he is, already presents a challenge to the notion of myth, to which Socrates' attempt to vanquish and transcend myth stands in close analogy. Within the Old Testament, the process which started at the burning bush came to new maturity at the time of the Exile, when the God of Israel, an Israel now deprived of its land and worship, was proclaimed as the God of heaven and earth and described in a simple formula which echoes the words uttered at the burning bush: "I am."

This new understanding of God is accompanied by a kind of enlightenment, which finds stark expression in the mockery of gods who are merely the work of human hands (cf. Psalm 115). Thus, despite the bitter conflict with those Hellenistic rulers who sought to accommodate it forcibly to the customs and idolatrous cult of the Greeks, biblical faith, in the Hellenistic period, encountered the best of Greek thought at a deep level, resulting in a mutual enrichment evident especially in the later wisdom literature.

Today we know that the Greek translation of the Old Testament produced at Alexandria -- the Septuagint -- is more than a simple (and in that sense perhaps less than satisfactory) translation of the Hebrew text: It is an independent textual witness and a distinct and important step in the history of Revelation, one which brought about this encounter in a way that was decisive for the birth and spread of Christianity. A profound encounter of faith and reason is taking place here, an encounter between genuine enlightenment and religion. From the very heart of Christian faith and, at the same time, the heart of Greek thought now joined to faith, Manuel II was able to say: Not to act "with logos" is contrary to God's nature.

In all honesty, one must observe that in the late Middle Ages we find trends in theology which would sunder this synthesis between the Greek spirit and the Christian spirit. In contrast with the so-called intellectualism of Augustine and Thomas, there arose with Duns Scotus a voluntarism which ultimately led to the claim that we can only know God's "voluntas ordinata." Beyond this is the realm of God's freedom, in virtue of which he could have done the opposite of everything he has actually done.

This gives rise to positions which clearly approach those of Ibn Hazn and might even lead to the image of a capricious God, who is not even bound to truth and goodness. God's transcendence and otherness are so exalted that our reason, our sense of the true and good, are no longer an authentic mirror of God, whose deepest possibilities remain eternally unattainable and hidden behind his actual decisions.

As opposed to this, the faith of the Church has always insisted that between God and us, between his eternal Creator Spirit and our created reason there exists a real analogy, in which unlikeness remains infinitely greater than likeness, yet not to the point of abolishing analogy and its language (cf. Lateran IV).

God does not become more divine when we push him away from us in a sheer, impenetrable voluntarism; rather, the truly divine God is the God who has revealed himself as logos and, as logos, has acted and continues to act lovingly on our behalf. Certainly, love "transcends" knowledge and is thereby capable of perceiving more than thought alone (cf. Ephesians 3:19); nonetheless it continues to be love of the God who is logos. Consequently, Christian worship is "logic latre誕" -- worship in harmony with the eternal Word and with our reason (cf. Romans 12:1).

This inner rapprochement between biblical faith and Greek philosophical inquiry was an event of decisive importance not only from the standpoint of the history of religions, but also from that of world history -- it is an event which concerns us even today. Given this convergence, it is not surprising that Christianity, despite its origins and some significant developments in the East, finally took on its historically decisive character in Europe. We can also express this the other way around: This convergence, with the subsequent addition of the Roman heritage, created Europe and remains the foundation of what can rightly be called Europe.

The thesis that the critically purified Greek heritage forms an integral part of Christian faith has been countered by the call for a de-Hellenization of Christianity -- a call which has more and more dominated theological discussions since the beginning of the modern age. Viewed more closely, three stages can be observed in the program of de-Hellenization: Although interconnected, they are clearly distinct from one another in their motivations and objectives.

De-Hellenization first emerges in connection with the fundamental postulates of the Reformation in the 16th century. Looking at the tradition of scholastic theology, the Reformers thought they were confronted with a faith system totally conditioned by philosophy, that is to say an articulation of the faith based on an alien system of thought. As a result, faith no longer appeared as a living historical Word but as one element of an overarching philosophical system.

The principle of "sola scriptura," on the other hand, sought faith in its pure, primordial form, as originally found in the biblical Word. Metaphysics appeared as a premise derived from another source, from which faith had to be liberated in order to become once more fully itself. When Kant stated that he needed to set thinking aside in order to make room for faith, he carried this program forward with a radicalism that the Reformers could never have foreseen. He thus anchored faith exclusively in practical reason, denying it access to reality as a whole.

The liberal theology of the 19th and 20th centuries ushered in a second stage in the process of de-Hellenization, with Adolf von Harnack as its outstanding representative. When I was a student, and in the early years of my teaching, this program was highly influential in Catholic theology too. It took as its point of departure Pascal's distinction between the God of the philosophers and the God of Abraham, Isaac and Jacob.

In my inaugural lecture at Bonn in 1959, I tried to address the issue. I will not repeat here what I said on that occasion, but I would like to describe at least briefly what was new about this second stage of de-Hellenization. Harnack's central idea was to return simply to the man Jesus and to his simple message, underneath the accretions of theology and indeed of Hellenization: This simple message was seen as the culmination of the religious development of humanity. Jesus was said to have put an end to worship in favor of morality. In the end he was presented as the father of a humanitarian moral message.

The fundamental goal was to bring Christianity back into harmony with modern reason, liberating it, that is to say, from seemingly philosophical and theological elements, such as faith in Christ's divinity and the triune God. In this sense, historical-critical exegesis of the New Testament restored to theology its place within the university: Theology, for Harnack, is something essentially historical and therefore strictly scientific. What it is able to say critically about Jesus is, so to speak, an expression of practical reason and consequently it can take its rightful place within the university.

Behind this thinking lies the modern self-limitation of reason, classically expressed in Kant's "Critiques," but in the meantime further radicalized by the impact of the natural sciences. This modern concept of reason is based, to put it briefly, on a synthesis between Platonism (Cartesianism) and empiricism, a synthesis confirmed by the success of technology.

On the one hand it presupposes the mathematical structure of matter, its intrinsic rationality, which makes it possible to understand how matter works and use it efficiently: This basic premise is, so to speak, the Platonic element in the modern understanding of nature. On the other hand, there is nature's capacity to be exploited for our purposes, and here only the possibility of verification or falsification through experimentation can yield ultimate certainty. The weight between the two poles can, depending on the circumstances, shift from one side to the other. As strongly positivistic a thinker as J. Monod has declared himself a convinced Platonist/Cartesian.

This gives rise to two principles which are crucial for the issue we have raised. First, only the kind of certainty resulting from the interplay of mathematical and empirical elements can be considered scientific. Anything that would claim to be science must be measured against this criterion. Hence the human sciences, such as history, psychology, sociology and philosophy, attempt to conform themselves to this canon of scientificity.

A second point, which is important for our reflections, is that by its very nature this method excludes the question of God, making it appear an unscientific or pre-scientific question. Consequently, we are faced with a reduction of the radius of science and reason, one which needs to be questioned.

We shall return to this problem later. In the meantime, it must be observed that from this standpoint any attempt to maintain theology's claim to be "scientific" would end up reducing Christianity to a mere fragment of its former self. But we must say more: It is man himself who ends up being reduced, for the specifically human questions about our origin and destiny, the questions raised by religion and ethics, then have no place within the purview of collective reason as defined by "science" and must thus be relegated to the realm of the subjective.

The subject then decides, on the basis of his experiences, what he considers tenable in matters of religion, and the subjective "conscience" becomes the sole arbiter of what is ethical. In this way, though, ethics and religion lose their power to create a community and become a completely personal matter. This is a dangerous state of affairs for humanity, as we see from the disturbing pathologies of religion and reason which necessarily erupt when reason is so reduced that questions of religion and ethics no longer concern it. Attempts to construct an ethic from the rules of evolution or from psychology and sociology, end up being simply inadequate.

Before I draw the conclusions to which all this has been leading, I must briefly refer to the third stage of de-Hellenization, which is now in progress. In the light of our experience with cultural pluralism, it is often said nowadays that the synthesis with Hellenism achieved in the early Church was a preliminary inculturation which ought not to be binding on other cultures.

The latter are said to have the right to return to the simple message of the New Testament prior to that inculturation, in order to inculturate it anew in their own particular milieux. This thesis is not only false; it is coarse and lacking in precision. The New Testament was written in Greek and bears the imprint of the Greek spirit, which had already come to maturity as the Old Testament developed.

True, there are elements in the evolution of the early Church which do not have to be integrated into all cultures. Nonetheless, the fundamental decisions made about the relationship between faith and the use of human reason are part of the faith itself; they are developments consonant with the nature of faith itself.

And so I come to my conclusion. This attempt, painted with broad strokes, at a critique of modern reason from within has nothing to do with putting the clock back to the time before the Enlightenment and rejecting the insights of the modern age. The positive aspects of modernity are to be acknowledged unreservedly: We are all grateful for the marvelous possibilities that it has opened up for mankind and for the progress in humanity that has been granted to us. The scientific ethos, moreover, is the will to be obedient to the truth, and, as such, it embodies an attitude which reflects one of the basic tenets of Christianity.

The intention here is not one of retrenchment or negative criticism, but of broadening our concept of reason and its application. While we rejoice in the new possibilities open to humanity, we also see the dangers arising from these possibilities and we must ask ourselves how we can overcome them.

We will succeed in doing so only if reason and faith come together in a new way, if we overcome the self-imposed limitation of reason to the empirically verifiable, and if we once more disclose its vast horizons. In this sense theology rightly belongs in the university and within the wide-ranging dialogue of sciences, not merely as a historical discipline and one of the human sciences, but precisely as theology, as inquiry into the rationality of faith.

Only thus do we become capable of that genuine dialogue of cultures and religions so urgently needed today. In the Western world it is widely held that only positivistic reason and the forms of philosophy based on it are universally valid. Yet the world's profoundly religious cultures see this exclusion of the divine from the universality of reason as an attack on their most profound convictions.

A reason which is deaf to the divine and which relegates religion into the realm of subcultures is incapable of entering into the dialogue of cultures. At the same time, as I have attempted to show, modern scientific reason with its intrinsically Platonic element bears within itself a question which points beyond itself and beyond the possibilities of its methodology. Modern scientific reason quite simply has to accept the rational structure of matter and the correspondence between our spirit and the prevailing rational structures of nature as a given, on which its methodology has to be based.

Yet the question why this has to be so is a real question, and one which has to be remanded by the natural sciences to other modes and planes of thought -- to philosophy and theology. For philosophy and, albeit in a different way, for theology, listening to the great experiences and insights of the religious traditions of humanity, and those of the Christian faith in particular, is a source of knowledge, and to ignore it would be an unacceptable restriction of our listening and responding.

Here I am reminded of something Socrates said to Phaedo. In their earlier conversations, many false philosophical opinions had been raised, and so Socrates says: "It would be easily understandable if someone became so annoyed at all these false notions that for the rest of his life he despised and mocked all talk about being -- but in this way he would be deprived of the truth of existence and would suffer a great loss."

The West has long been endangered by this aversion to the questions which underlie its rationality, and can only suffer great harm thereby. The courage to engage the whole breadth of reason, and not the denial of its grandeur -- this is the program with which a theology grounded in biblical faith enters into the debates of our time.

"Not to act reasonably (with logos) is contrary to the nature of God," said Manuel II, according to his Christian understanding of God, in response to his Persian interlocutor. It is to this great logos, to this breadth of reason, that we invite our partners in the dialogue of cultures. To rediscover it constantly is the great task of the university.


[Translation of German original issued by the Holy See; adapted]
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(私論.私見)