大正天皇のお歌考



 (最新見直し2007.10.31日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「大正天皇御集おほみやびうた」(邑心文庫.2002.10月)が発行された。日本教文社から、小田村寅二郎・小柳陽太郎両氏の共編になる「歴代天皇の御歌(みうた)―初代から今上陛下まで二千首―」が発行された。この中に、大正天皇の御製118首(総数465首の内)が謹選されている。近代の天皇方の中で、明治天皇、昭和天皇の御製は御製集等によって一般に知られている。しかし、大正天皇の御製は目に触れる機会も少なかった。その意味で、大正天皇の御歌の公開には意義が深い。

 インターネット・サイト「天皇と短歌(二)大正天皇の御製」、2002.10.27日付毎日新聞書評欄近代の帝はなぜ恋歌を詠まない?を参照しながら以下のように整理してみた。(評はほぼそのまま転写させていただいている、ご容赦をば請う)

 丸谷才一氏の評が紹介されている。これによると、その代表的秀歌を論じながら大正天皇その人を次のように評している。
 「大正天皇は御水尾院以来最高の帝王歌人である」。
 「とにかく傑出した力量の持主で、もしもこの才能を自在に発揮させたならば、吉井勇、斎藤茂吉、北原白秋などと並ぶ、あるいは彼らを凌ぐ、大歌人となったに相違ない」。
 「ひょっとすると、大正という十数年間の憂愁と古典主義との結びつきを最もよく代表する文学者はこの帝だったという想念を抱かせるかも知れない」。

 五木寛之氏も又「大正天皇の短歌を絶賛し、「彼こそ歴代天皇の中で最高の歌人」と評価しているとのことである。


【大正天皇のお歌考】
 大正天皇の歌には次のようなものがある。これをジャンルごとに編集してみる。

 「軍事歌」として次のようなものがある。 
千歳艦上にて  「みるかぎり波もさわがず大ふねに 心ものりて進む今日かな」(明治33年)
(評) 皇太子であられた御年22歳の時の御歌である。拝誦する者をして思はず大海原に誘はれるやうな気がする。そして「心ものりて」といふご表現には、若き皇太子のあふれるやうなご感動が伝ってきて、天皇といふ御位につかれるべきお方の天稟さへうかがはれる。
戦中新年  「軍人(いくさびと)国の為にと打つ銃(つつ)の 煙のうちに年立ちにけり」
(評) 新春と来れば普通なら霞みなのに銃の煙に取りなしている。歌としてこの奇想が素晴らしいが、大正天皇の時代への憂愁さえ見て取れるように思われる。
飛行機  「軍人力尽くして鳥船(とりふね)の 大空かける時となりにき」
(評) 飛行機を鳥船と歌う奇想と優雅な構図が素晴らしい。且つ、この歌にも又大正天皇の時代への憂愁さえ見て取れるように思われる。
演習  (高槻停車場を出でて演習地に向かう)
 「いざ行かむ かなぢの車乗り捨てて 手馴れの駒にむちをあげつつ」
(評) 車をかなぢの車と詠む着想が面白い。且つ、この歌にも又大正天皇の時代への憂愁さえ見て取れるように思われる。

 「情景歌」として次のようなものがある。
 「鳴神のおと近づきぬ山のはに 一村雲の立つとみしまに」(大正4年)
(評) 鮮やかに夏を歌ひ上げられた叙情詩である。「夕立」の御歌が目に見る静寂の余韻を感ぜしめるのと対照的に、ここには耳と目で捉へられた緊迫の感動がある。「鳴神(なるかみ)」といふご表現もさはやかである。
夕立  「庭木みなぬらしもはてず晴れにけり 待ちにまちつる夕立のあめ」(大正5年)
(評) 一瞬にして走り去った夕立の口惜しさ。それを「庭木みなぬらしもはてず」と詠まれた心憎いばかりのご表現に、そのお気持ちがよく伝わって来る。

 「国見の叙情歌」として次のようなものがある。
 「誰が為に花は咲くらむ みむ人はすまずなりぬる 故郷の花」 
(評)
 「乗る汽車の窓より見れば秋草の 花盛りなり 毛野の国はら」 
(評)
 「あたたけき沼津の野辺を辿りつつ 霞みの奥の 富士を見るかな」 
(評)
 「釣り舟もあまた浮かべり近江の海 比叡の高峯(たかね)の晴れわたる日は」 
(評)
 「よさの海の霞みの奥になりにけり さみやかに見えし天の橋立(はしだて)」
(評)いずれも構図が大きく且つ繊細優雅であり、技量が並でない。

 「人生歌」、「政情歌」として次のようなものがある。
読書  「いとまえてひとりひもとく書(ふみ)の上に 昔のことを知るがたのしさ」(大正5年)
(評) 政務多端なご生活の中で、わづかの暇を得て読書にいそしまれるひとときは、いかばかりかお心を慰められるひとときであられたらう。そしてまた、いにしへの御世を心の支へにされたのであらう大正天皇のお心がしのばれる。(ここで併せて思ひ起こされるのが、明治天皇の「歌」と題された「ひとりつむ言の葉ぐさのなかりせばなにに心をなぐさめてまし」の御歌である。
夕雨  「かきくらし雨降り出ぬ人心 くだち行く世をなげくゆふべに」(大正9年)
(評) 時あたかも前年(大正8年)のベルサイユ条約調印の後、欧米列強の日本に対する圧迫は強められ、翌大正10年には、ワシントン会議に於いて既得権益の返還や、軍備の縮小を迫られるに至るのであった。また国内に於いては、政府の英米屈従・軟弱外交を糾弾する世論の次第に高まる中に於いて、大正天皇はいかばかりかお心を 悩まされたことであらう。この「夕雨」といふ御歌には、さういふ大正天皇の人知れぬお苦しみがしのばれるのである。また、さういふご心労のご政務が、大正天皇のご病気を重くしていったのであらう。

 家庭団欒、子供好きな様子が窺われる次のような歌もある。
海水浴  こどもらの手を取りながら親もまた しほあみすなり 浦の遠あさ(大正4年)
(評)
わらはべ  「汐(しお)引けば葉山の裏の岸づたひ あしがに取りて遊ぶわらはべ」
(評)
学舎(まなびや)  「学舎(まなびや)は遠くやあるらむ 朝まだき野道を急ぐうなゐ子の群れ」
(評) 読み人の温かいご気性が知られる歌である。

 かたつむりや蛍などの生物に関心が深かった様子が窺われる次のような歌もある。
蝸牛(かたつむり)  「這(は)ひし跡さやかにみせて蝸牛(かたつむり) いづこに今は影を潜める」
(評)
 「夕闇の空に乱れて飛ぶ蛍 遠き花火を見るここちする」
(評) 読み人の天真爛漫なご気性が知られる歌である。

 「恋歌」が少ないことが惜しまれる。その理由として、明治10年頃より軍人達が天皇を大元帥に持ち上げていく過程で、恋歌を邪視し禁歌したことによる。丸谷氏曰く「近代日本最悪の文芸統制であり、古代以来の宮廷詩に対する不遜極まりない蛮行であった。それまでは、代々の天子は恋歌を詠み続けたし、元々日本文学の中心にあるものは帝の相聞歌だったのである。『古今』、『新古今』、『伊勢』、『源氏』も、それが無ければ有り得なかった。とすれば、御製の主題を制約した者たちの不心得は明らかだろう。好んで忠を説く人々の中にこれを咎める者の一人もなかったことは不思議である」という。
 (妃・九条節子(さだこ、後の貞明皇后)に贈る)
 「今ここに君もありなば共々に 捨はむものを松の下つゆ」
(評) 松の下つゆとは、高級トリュフとして知られる幻のキノコの松露のことであろう。信愛する妃と松露を一緒になって探し求めることへの憧れ、それが出来ない哀愁が見事に表現されている。

【「大正天皇『押し込め』時の大正天皇と皇太子の御歌」考】
 大正10年、大正天皇が押し込められ、今上陛下(昭和天皇)が摂政として政務をお執りになられることになった時の御製と思われる貴重な次の御歌が明らかにされている。「社頭暁」と題して、大正天皇が次のように詠んでいる。
 「神まつるわが白妙(しろたえ)の袖の上に かつうすれ行くみあかしのかげ」

 これを評するのに、「白妙の袖」と「みあかしのかげ(御神殿のともし火)」といふ対照が、幽寂な美しさを点じている。「かつうすれ行く」といふご表現は厳粛にして寂しい。あたかも、この時点まで一身にもちこたへられた大正天皇のお心そのものが、この「みあかしのかげ」といふみ言葉に映ぜられてゐるかのやうである。

 「天皇と短歌(二)大正天皇の御製は、次のように評している。
 「この御歌からは少なくとも、世に伝へられるやうな狂気であられたなどといふことは、さらにうかがひ知れぬことであるし、また事実そのやうなご病気であられたとすれば、そのご病気と渾身の力で対峙されながら、かくまでお心を統一された御歌を詠まれたといふことは、驚くべきことと言ふほかはない」。

 興味深いのは、同じ時期に摂政となられた裕仁皇太子(後の昭和天皇)が同じく「社頭暁」と題し詠まれた次の御歌である。

 「とりがねに夜はほのぼのとあけそめて 代々木の宮のもりぞみえゆく」

 これを評するのに、「とりがね(鶏の声)」とともに「夜はほのぼのとあけそめて」と、さらに「代々木の宮のもりぞみえゆく」と、大正天皇の御世から皇太子の御世への交代が厳かに歌われている。

 「天皇と短歌(二)大正天皇の御製」は、次のように評している。

 「この2首の御歌が同じ日に詠まれたものであるか否かは不明であるが、「あたかもお二方が早朝の神事に並び立たれてのご感慨であるかのやうに思はれてならない。たとへさうでなかったにしても、単に題材が似通ってゐることにとどまらず、お二方のご心境が対照をなしながらも、深淵なところで一つに溶け合ってゐるやうに思はれてならない。この時お二方の置かれてゐた内外の情勢は実に厳しい。ここに大正天皇のご病気のこともあって、天皇としてのご政務の委譲が行はれたのであらうが、それは単に政治的なご決断と見るべきものではない。天皇としてのつとめを譲らうとされる方も、またそれをお受けになる方も、共に敬虔な祈りによって受け継がれてゐることを見落としてはならないと思ふ」。












(私論.私見)