昭和時代史5、ノモンハン事件以降の流れ(1936年から1940年)



 更新日/2020(平成31→5.1日より栄和改元/栄和2).8.7日
【以前の流れは、「昭和時代史4、2.26事件以降の流れ(1936年から1939年)」の項に記す】

 (「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「昭和時代史3、2.26事件以降の流れ(1936年から1940年)」を確認しておく。「日本近現代史」その他参照。

 2006.5.7日 れんだいこ拝



1939(昭和14)年の動き

【ポーランド情勢緊迫 】
 4.28日、ドイツが1934年締結のドイツ・ポーランド不可侵条約を破棄。ポーランド情勢が緊迫し始めた。

【ノモンハン事件】
 5.11日、関東軍が越境してノモンハンでソ連・外蒙古軍と戦った。「約90名の外蒙古軍兵士がハルハ河を渡河してきた。これに対し、関東軍が射撃した。それを起点として飛行機、戦車を繰り出す両軍の死闘が開始された」ともある。政府と大本営は不拡大方針を示したが、これに対し現地関東軍の辻正信少佐と服部卓史郎中佐が独断専行。彼らはソ連軍の能力を過小評価し、関東軍の実力を思い知らせて国境侵犯再発を防止するとして、この紛争に関東軍を本格投入。ソ連軍と関東軍の大規模な武力衝突となる「ノモンハン事件」に発展した。(当時のモンゴルとソ連との関係は、日本と満州国の関係に似たような関係です。)

 この間ソ連軍は西側の技術者を雇い軍事技術の革新に取り組んでいた。「今日のソ連軍は帝政ロシア軍とは違う」との警告が為されていたが、その危惧通り関東軍はいやというほど技術革新の差を思い知らされることになった。

 ソ連の空軍と戦車のキャタピラに蹂躙され、日本陸軍はこの戦闘で出動兵力の7割を失うという惨敗を喫した。スターリンがヒトラーと突然「不可侵条約」を結んだのは、この戦闘の最中のことである。

 石原莞爾の心配が的中し、ソ連軍の圧倒的兵力、強力な火砲と戦車の前に、派遣された関東軍は壊滅的打撃を受ける。戦闘の主力となった小笠原第第23師団では、人員1万6000名のうち戦死・戦傷・戦病が1万2000を越えた。連隊長クラスでも戦死・戦場での自決が相次いだ。ソ連軍の優秀な戦車に対して日本軍の戦車は全く歯が立たず、対戦車兵器として最も有効な兵器は火炎瓶だったと言うから酷いありさま。

【ノモンハン事件考】
 「★阿修羅♪ > 議論31 」の仁王像 氏の 2018 年 8 月 17日付投稿「ノモンハン 責任なき戦い~敵を知らず己を知らず先に進んだ/Nスペ」。
 NHKはロシアの国立映像アーカイブ(モスクワ)で2時間の未公開フィルムを含む2時間の映像を新たに発見(戦車や飛行機等のカラー映像)。

 元兵士・柳楽林一(101歳)は、身を隠す物のない草原に塹壕を掘り、ソ連軍と対峙した。戦車や航空機による猛攻を受け、166人いた柳楽さんの部隊はほぼ全滅したという。柳楽「自分の鉄砲で引き金を足で自分の喉元でやって、そこで戦死したという人もいた。夜いよいよ最後だなと思う人が”天皇陛下万歳”って言って…今あの人の声だ、今度はわしだなっていうような切迫感というかそんな突き詰めたような気持ちでね、いやな感じです」。

 ソ連の周到な準備を知らないまま、歩兵中心の部隊で地上戦に臨んだ日本軍。陰惨な戦は4か月に及び(1939年5~9月)、最終的に日本軍はソ連ーモンゴルの主張する国境線の外に追いやられることになる。2万人の死傷者を出した日本軍は主力部隊の8割を失う壊滅状態、当時としては日本陸軍最大の敗北となった。柳楽さんは、ノモンハン事件を起こした軍の上層部に対する憤りを79年間、抱え続けてきた。柳楽「兵隊は”鉄砲の弾”だと。腹が立つんです。なんであんなことをさせられたんだ。死んだ者は生き返ることができないんだから、死んだ者への思いはどうなるんだ、と」。

 ノモンハンでの未曽有の敗北を日本陸軍はどう受け止めていたのか。今回、その手掛かりとなる音声記録を南カリフォルニア大学(米)で発掘した。日本陸軍の将校たちの音声記録である。陸軍幹部の150時間にわたる肉声であった。米国の軍事研究家が1950年代から30年にわたってインタビューした記録である。さらに日本国内に残された音声記録も入手した。

 今回発見された音声記録で、ノモンハン事件を主導したと異口同音に名指しされた人物がいる。和田正純大佐(参謀本部作戦課長)「あのノモンハンちゅうのをやったのは”辻”ですよ」。三好康之中佐(関東軍虚空う参謀)「”辻”に引き回されたかもわからん。けれども彼は天才だもの」。関東軍作戦参謀、辻正信少佐である。もっとも若い参謀で、本来意思決定を下す立場ではなかった。ところが、辻少佐が立てたある方針がノモンハン事件の引き金になって行く。「満ソ国境紛争処理要綱」には、国境線が不明確な地域では現場の司令官が自主的に国境線を認定、侵入された場合には一時的に越境してでも敵を封殺するという極めて強硬な内容だった。

 〔敵を知らず己を知らず先に進んだ日本軍〕

 ノモンハン事件の1か月ほど前、「満ソ国境紛争処理要綱」を示した辻は、国境紛争が拡大しかねない極めて強硬な方針・考えであったが、参謀らから慎重な意見はあまり上がらず他の参謀たちも辻の意見に同意して行く。最終的に、辻が起案した処理要綱は関東軍内で承認された。実はノモンハン事件が起きた時、偶然、幹部の一人が関東軍を訪れていた。稲田正純大佐(参謀本部作戦課長)である。稲田作戦課長は、これ以上事を荒立てないよう伝えながらも、事実上、関東軍の行動を黙認していたのである。30万を超える兵力を擁した関東軍は日本陸軍の直組織でありながら、参謀本部が容易に口出しできない存在になっていた。(中略) 何故、若手の一参謀の意見が関東軍全体を動かしていく事態に至ったのか。辻は上層部の一部から高く評価されていた。陸軍内の「情実」が優先され、昭和天皇が問題にした参謀本部の許可のない越境爆撃は不問にされた。主力組織で陸軍の曖昧な意志決定は結果として、多くの兵士の命を奪い、国を危うくさせていった。柳楽「壕の後にはずらりと戦車が並んで、これには驚いたんです。その戦車を見た時はもうわれわれはだめだと思ったんです」。柳楽さんは、塹壕から飛び出し旧式の小銃一つで立ち向かったという。8月に入ってソ連軍の大攻勢が始まる。北、中央、南の陣地を三方から囲み日本軍の殲滅を計った。この時のソ連軍の兵士は日本軍の2万5千に対し、2倍以上の5万7千人に達していた。

 援軍も補給も断たれて行く中、持ち場を維持するよう命ぜられていた。その一つ、北部のフイ高地の井置部隊は、わずか800人の兵士で5千を越える部隊と戦っていた。ソ連軍の200両の戦車に対して、数台の対戦車砲で対抗した。補給もなく戦う事5日間、兵員は1/3に減った。フイ高地の死守は不可能を考えた井置中佐は撤退を決断し、兵士たちに「支隊は本夜23時 陣地を徹し師団主力に合わせんとす」と伝えた。日本軍は総崩れとなり、23師団長、小松原中将も全軍に撤退を指示した。主力部隊の8割を失う壊滅状態となった。日本は国境と主張していたハルハ河から後退し敗北を喫した。

 〔押し付けられた責任〕

 当時の日本陸軍にとって未曽有の敗北、しかし責任の大半は現場へと押し付けられて行く。その矛先を向けられた一人が井置中佐であった。思わぬ電報が届いた。「9月17日、井置栄一、将軍廟南約12キロにおいて死亡」とあるだけで詳しい状況は分からなかった。井置正三道(次男)「鋭敏にうちの母親(いく)は感じていた。”これはふつうの死に方とはちがうな”という気があったでしょう」。戦場から撤退し生き延びたはずの井置中佐に異変が起きていた。中佐は、撤退の翌日、辻正信に非難された。また小松原師団長も、部下の参謀たちが集まった会合で、「自分の命令の前で無断撤退した」と糾弾、「自決を勧告するが至当だと思うがどうか」と言ったが、出席した参謀たちは再考を求めた。だが小松原は同じ発言を繰り返すばかりだった。関東軍は井置中佐を軍法会議にかけることもなく密かに自決を促していた。責任を問われたのは井置中佐だけではなかった…捕虜まで自決を迫られていた。(以下、略)
 

ノモンハン 責任なき戦い ~予告動画
 http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20180815

 79年前、モンゴル東部の大草原で、日ソ両軍が激戦を繰り広げたノモンハン事件。ソ連軍が大量投入した近代兵器を前に、日本は2万人に及ぶ死傷者を出した。作家・司馬遼太郎が「日本人であることが嫌になった」と作品化を断念した、この戦争。情報を軽視した楽観的な見通しや、物量より優先される精神主義など、太平洋戦争でも繰り返される“失敗の本質”が凝縮されていた。しかし軍は、現場の将校には自決を強要した一方で、作戦を主導した関東軍のエリート参謀たちはその後復帰させ、同じ失敗を重ねていった。今回NHKは、ロシアで2時間に及ぶソ連軍の記録映像を発掘。4Kで精細にスキャンした映像を「AIによる自動カラー化技術」で鮮やかに着色し、戦場の実態を現代によみがえらせる。さらに軍の判断の経緯が証言された、150時間を超える陸軍幹部の肉声テープも入手。敗北はどのようにして隠され、失敗は繰り返されたのか。映像と証言から迫る。

コメント
2. 仁王像[2358] kG2JpJGc 2018年8月18日 09:33:41 : ElnQCM9ekw : EBm5zjiVKCE[2] 報告
 軍の上層部は卑怯者揃いである。一例を挙げると、井置中佐の妻いくさんが夫の亡くなった状況を知りたいと何人かに手紙を書いたが、知らぬ存ぜぬの逃げの一手であった↓。こんな体質の軍隊は長い日本史の中で、この時期だけの偶然性から生まれたのだろうか?(ノモンハンとそっくりの事例はインパール作戦やミッドウェー等々数えられるだろう) そうとも考えられないのが現安部政権と二重写しになってくるからである。日本人の体質なのか? 今後のすっきりした解明が望まれる。筆者はオプティムズムの世界観を持っているはずだが、この点では暗い気持ちにならざるを得なかった。

 (番組の最後から)
 井置中佐の妻いくさんは、本当の事を教えて欲しいと軍の関係者に訴え続けた。元参謀たちからの手紙が井置家に遺されたいた。元関東軍作戦課長の手紙「ノモンハン事件についてのご質問の権、小生全く記憶いたしあらず」。元関東軍作戦主任の手紙「全く知らない。強要されたのかどうかも知らない」。井置正道(次男)「無念だったと思いますよ。そう思いますわ」。いくさんは真実を知らされることなく70歳で亡くなった。

3. 仁王像[2362] kG2JpJGc 2018年8月19日 11:17:10 : qcPGohweOs : s9p668ZJ@dQ[1] 報告
 (本文最後の方補足)

 小松原中将は、井置中佐に自決を勧告するのが至当であると思うが、と語る前に次のように語っていた。「壊滅的打撃を受けたのは、井置中佐がフイ高地を捨てたためである」。音声記録の中に小松原中将の側近の証言もあった。鈴木善康少佐(23師団参謀)は、井置中佐の死に関わっていたと告白していた。

 ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK274」の仁王像 氏の 2020 年 8 月 07 日付投稿「歴史を動かしたノモンハン事件 第2次大戦の「起点」に/朝日新聞」。
 歴史を動かしたノモンハン事件 第2次大戦の「起点」に/朝日新聞
 編集委員・永井靖二
 2020年7月31日
 https://www.asahi.com/articles/ASN7W3K0HN6RPLZU001.html?iref=comtop_8_08

 (一部の段落が、前後している可能性有り)

 アジア、モンゴル東部に広がる草原。かつてそこで日本軍が旧ソ連の機械化部隊と衝突し、壊滅的な被害を受けた。その紛争は、日本では地名から“ノモンハン事件”と呼ばれている。

 線引きが不明瞭だった国境をめぐるこの戦いが、ユーラシア大陸の東西両端を図らずも連動させ、1939年9月1日の第2次世界大戦の勃発へとつながった――。欧米の歴史家が近年こう評する事件を、いま一度ひもとく。

 第1章 隠れた発火点

 極東の内陸部で戦われたこの知名度の低い紛争が、アドルフ・ヒトラーによるポーランド侵攻やその後に続いたあらゆる出来事の導火線になりました。「第2次大戦の起源」という複雑なジグソーパズルで、ノモンハン事件は小さくはあるけれど大切なピースです。そのピースをはめると、全体の図柄が非常にわかりやすく見えてくるという役割を持っています。

 スチュアート・ゴールドマン/米歴史研究者

 欧州は一触即発の情勢にあった。ポーランドにダンツィヒ(現グダニスク)の割譲を求めるヒトラーへの対処をめぐり、ファシズム陣営側と、英仏などが対立。ドイツと英仏はともにソ連を味方に付けようと、水面下で外交戦を繰り広げていた。互いを憎悪していたはずの独ソは、一転して不可侵条約を結ぶ。これにより英仏とソ連からの挟撃、とりわけ当面ソ連に備える必要がなくなったドイツは、条約を結んでから1週間後にポーランドへ侵攻した。半年前にチェコスロバキアを保護領化した時と同様に、英仏は静観するだろう──。このヒトラーの読みは外れ、両国はドイツに宣戦を布告。欧州は戦火に包まれていく。独ソが急接近したのはなぜか。背景には、極東で起きた小さな国境紛争があった。

 1932年にできた傀儡(かいらい)国家・満州国の軍事を掌握する日本陸軍の関東軍にとって、ソ連は当初から仮想敵国だった。歴史的経緯もあり、〝線引き〟が不明瞭な部分も多い4800キロもの国境線。これに接したソ連との紛争は、軽微なものから流血が伴うものまで、32~39年で優に1千件を超す。32年末に第1次5カ年計画を完了して工業力を伸ばしたソ連は、37年末までの5年間で極東の兵力を倍増させていた。

 37年6月、北部国境アムール河の中州、乾岔子(カンチャーズ)島をめぐる紛争は外交交渉で終結。だが38年7~8月にソ連、満州、朝鮮の境界が交わる山、張鼓峰で日ソは砲撃戦に至る。広がりかけた紛争は天皇や陸軍中央の強い意向で停戦に至ったが、関東軍の主戦派には中央への遺恨が残った。そして翌39年5月11日、〝導火線〟に小さな火花が飛ぶ。

 「こんな土地に5ドルだって払うつもりはないね」。日ソ両軍が奪い合った、琵琶湖ほどの広さの荒地が広がるノモンハン一帯。日ソの衝突が拡大するなか、取材のため現地を訪れた外国特派員はそう評したという。発端は満州国軍警備隊とモンゴル騎兵部隊が1939年5月11日に起こした小競り合いだったが、戦闘が激化したのには伏線がある。この前月、国境が侵犯されたと認めた場合、「急襲殲滅(せんめつ)」を指示した「満ソ国境紛争処理要綱」が、満州の各部隊に示されていた。起草者は関東軍作戦参謀の辻政信。早速、ノモンハン一帯を管轄とする第23師団は装甲車や航空機でモンゴル軍を排除する。これに対しモンゴル駐留ソ連軍は砲兵や装甲車を投入。第23師団の捜索隊と第64連隊が28日、ソ連軍を挟み撃ちにしようとしたが、情報が共有されず、先着した捜索隊は結果的に戦線で孤立。包囲されて29日夕方に壊滅した。その裏側では、独ソ不可侵条約締結へ向け交渉が進んでいた──。

 第2次世界大戦の〝起点〟と評されるノモンハン事件、〝終止符〟となったソ連の対日侵攻。幾重にも連なるくぼみが、草原一面に広がる。モンゴルの首都ウランバートルから東へ約1200キロ。「鳥の視点」で見て初めて、この場所の地政学的意味が理解できる。ここで1939年に起きた国境侵犯をめぐる紛争は、日本ではその地名からノモンハン事件と呼ばれる。日本・旧満州国の連合軍が旧ソ連・モンゴル連合軍と衝突し、日本側が大打撃を受けた。ソ連側が物資の貯蔵に使ったとみられる径約10メートルの円形壕(ごう)が今も碁盤の目状に200基近く並ぶ。中国との国境に接した一帯は、航空機の接近が今も禁じられている。39年8月、圧倒的な物量を誇るソ連軍の前に、日本軍は壊滅。両軍合わせた戦死者は1万6千人を超えた。この戦いを近年歴史家の一部はこう捉えている。

 5.22日、ヒトラー、ロシアがドイツに対抗する措置をとるなら、(ドイツと)日本との関係がいっそう緊密になる可能性を示唆。


 6.1日、ドイツのポーランド侵攻まで92日のこの日、スターリン、動く。モンゴル辺境の紛争にソビエト国家の意思が及び始めた。5月下旬、ミンスクの白ロシア軍管区にモスクワから緊急電話が入った。ゲオルギー・ジューコフ将軍が呼び出され、翌日、急ぎ出頭した彼は、スターリンの意向を受けてノモンハンへ赴くよう国防相から命じられる。現地司令官に着任したジューコフは、早々に兵力増強を要請。モスクワの首脳はそれを上回る増派を決める。


 6.14日、日本、天津の英仏領租界封鎖。


 6.21日、灯台社への弾圧。明石順三ら計130名の一斉検挙。同年8月27日結社禁止。1942年5月30日:懲役12年の判決。


 6月中旬、ソ連軍が国境近くの貯蔵庫などを爆撃。辻らは7月初頭の大規模攻勢を立案する。「事態不拡大」を前提の陸軍参謀本部は関東軍が隠していたモンゴル領内の爆撃計画を知って中止を求め、説得のため使者を送り込もうとする。だが、辻らは予定を早め、使者の到着を待たずに6.27日、タムスクとサンベースのモンゴル領内のソ連軍基地を爆撃した。敵情の精査もなく関東軍は暴走を重ねた。


 7.3日、ドイツのポーランド侵攻まで60日、関東軍が1万5千人で攻撃を開始。二手に分かれハルハ河の東岸と西岸を攻略する作戦だったが、西岸へ渡る舟橋は1本のみだった。幅2.5メートル、長さ60メートルの橋を渡った歩兵を中心とした部隊は、ソ連軍の戦車部隊と遭遇。関東軍の兵士は速射砲(対戦車砲)と火炎瓶で立ち向かった。給水や弾薬補給の計画もなく、渡河した部隊は押し戻されて7月5日早朝に撤退。追撃するソ連軍を振り切るため、舟橋は撤退直後に爆破された。

 東岸でソ連軍陣地を攻撃した関東軍の戦車部隊は、相手に損害を与えながらも、主力の戦車67台のうち半数を失う。関東軍司令部は残った「虎の子」を温存する方針をとり、戦車部隊は帰還を命じられた。

 7.23日、関東軍は砲撃戦を挑んだ。86門の重砲を集めて攻撃を開始。だが、ソ連側は数倍に及ぶ弾薬で応戦。射程もソ連側の方が長く、3日間で砲撃は中止に。長期戦の覚悟を固めた関東軍は、陣地強化と越冬準備を命じた。

 ノモンハン事件で関東軍に打撃を与えたジューコフは、独ソ戦の分岐点となった攻防戦の指揮官としてその作戦手法を生かし、母国の勝利に貢献した。一方、モンゴル東部では、スターリンの対日進攻に向けた策略が動き始めようとしていた。


 7.23日、ソ連のモロトフ外相、英仏に対独戦争を想定した軍事協定への署名を要求。


 8.2日、独リッベントロップ外相が、ソ連在独大使館を通じポーランド分割を極秘提案。


 8、12日、ドイツのポーランド侵攻まで20日、スターリンはドイツとの不可侵条約へとかじを切る。その一方で、同時期に〝背後〟にいる関東軍をたたくため、ジューコフに総攻撃の許可を出す。偽電文や様々なカムフラージュの下、物資の集積を進めた。


 8.20日午前5時45分、ソ連軍の総攻撃が始まる。航空機数百機による爆撃に火砲500門に及ぶ砲撃が続いた。すでにハルハ河周辺の戦車部隊を引き揚げていた日本軍は、包囲を受けながらも頑強に応戦する。スターリンは日本に痛撃を加えつつ、〝正面の敵〟ドイツとは当面手を握るべく、独ソ不可侵条約に向けて詰めの交渉を進める。防共協定を結んでいた日独両国を離間させ、挟み撃ちを避ける狙いもあった。


 8.23日、独ソはモスクワで独ソ不可侵条約に調印。ソ連とドイツは、形式上同盟関係に入った。付属する秘密協定は、両国によるポーランド分割を約していた。

 同じ頃、ノモンハンでは関東軍の諸部隊が壊滅の危機にあった。戦域北端のフイ高地と呼ばれた陣地は同日午前4時に無線機も破壊され、周囲は200台に及ぶソ連軍戦車で包囲された。第23師団の捜索隊を率いる井置栄一中佐は、水も食料もない4日間の戦闘を強いられた。自決を図ったが部下に止められ、撤退を試みる。部隊の759人中、269人だけが脱出できた。その後井置は「独断撤退」を責められ、自決を強要された。


【平沼騏一郎内閣→阿部伸行内閣】
 8.30日、平沼内閣が、「独ソ不可侵条約調印」を見抜けなかった為、「欧州情勢は複雑怪奇なり」の迷言を残して総辞職。

 9.1日、替わって組閣されたのが次の首相は陸軍大将(予備役)の阿部伸行内閣である。彼は政治的には何のキャリアも無かったが、とにかく陸軍を押さえ込むための起用された。特に何にもしないで総辞職することになる。

【ドイツ軍がポーランドに浸入、第二次世界大戦が勃発】
 9.1日、不可侵条約により、当面ソ連と戦う心配がなくなったドイツ軍がポーランドに浸入し、第二次世界大戦が勃発した。ドイツ軍機械化部隊の目の醒めるような電撃作戦が、日本陸軍と国民を狂喜させた。この日は「第2次世界大戦」が始まった日となった。 この後、ヨーロッパでは世界大戦が本格化する。

  9月3日、ヒトラーの予測に反し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告。

【ノモンハン停戦協定成立】
 9.15日、ノモンハン停戦協定成立。アジア方面にかまってられなくなったソ連との停戦協定が成立する。モスクワで東郷大使とモロトフ外相との間で、両軍の現在線での停戦に合意して停戦協定が結ばれた。この事件は日本側の参加兵力約6万、戦死・戦傷・生死不明者約2万の大事件だったにも関わらず、国民にはなにも知らされず闇に葬られる。

 この事件は当時の日本軍が、近代的軍隊としてはどの程度の実力か知らしめたものだった。この敗戦の責任をとらされ、関東軍では軍司令官と参謀長、大本営では参謀次長と作戦部長、実戦に参加した部隊でも軍指令官、師団長、連隊長が予備役になっている。しかしその真の敗戦原因の徹底究明は成されず、独断専行した辻・服部らの将校に対しても軍法会議も開かれず左遷のみ。

 最前線で戦い壊滅した第23師団の生き残った将校たちは自決を強いられ、またソ連軍に投降し停戦後に送還された将校達にも自決用のピストルを渡された。つまり関東軍参謀たち、及び関東軍上層部は、自らの責任は棚に上げ、日本軍の実力を直視することなく、第一線指揮官達がまともに働かないのが敗因である、と考えていたようです。

 9.17日、東京に送り込んだスパイ、リヒャルト・ゾルゲの情報で日本がソ連と全面戦争をする意志がないことを承知のスターリンは、9.16日のノモンハン停戦の成立を待って、独ソ不可侵条約の密約によってポーランドへ進駐。モンゴル東端で暴走の末に戦線を拡大した関東軍は、世界大戦の「スイッチ」を押す役回りを演じたことになる。


 9.27日、ワルシャワ陥落。


 1939年、重慶爆撃。


 11月、元憲兵大意・甘粕正彦が満映の二代目理事長に就任。甘粕は、関東大震災時に大杉栄、内縁の妻伊藤野枝、甥の橘宗一少年を虐殺し、軍法会議で懲役十年の判決を受けていた。が、2年10ヶ月服役後に出獄。その後、軍の資金でフランスに出向く。帰国後満州に渡り、清朝の廃帝・溥儀を天津から満州へひそかに護送し、情報・治安活動などを通じて満州国建国の功労者となっていた。満州国唯一の政党協和会の総務部長に就任し、「満州の甘粕」の異名をとっていた。

 この頃、上海に「中華電影公司」が日中折半出資で設立された。軍が満州以外の占領地対策として作った初の映画会社で、実質的な責任者は川喜多長政氏であった。「新京(長春)にテロリストと言われた元憲兵大尉率いる満映があり、憲兵に父親を殺された映画人が率いる中華電影が上海にできた。私は満映の女優でありながら上海で活動するようになる」(2004.8.13日付け日経新聞「私の履歴書」、山口淑子⑫)


 この年、アインシュタインが、「米国に於ける原爆開発」をルーズベルト大統領に進言する手紙を送る。ハンガリー出身の物理学者・レオ・シラードも署名。


1940(昭和15)年の動き

 (この時代の総評)


 海軍が、「零式戦闘機(ゼロ戦)」を完成させた。「ゼロ戦」も中国で使用され威力を発揮することになった。開発技師は堀越二郎。


 1.8日、東条陸軍大臣名で「戦陣訓」が出る。内容は、本訓その一、皇国・皇軍・軍紀・団結・協同・攻撃精神・必勝の信念。本訓その二、敬神・孝道・敬礼挙措・戦友道・率先躬行・責任・生死観・名を惜しむ・質実剛健・清廉潔白。本訓その三、戦陣の戒め・戦陣の嗜み、となっている。特に「名を惜しむ」の中の、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ」の部分が有名。京都師団の石原莞爾はこれ読んで、「バカバカしい。東条は思い上がっている」と批判。東条は大いに怒り、石原は3月に予備役に編入された。


 1.11日、津田左右吉氏が右翼の攻撃により早大教授辞任。2月12日:主著『神代史の研究』など発禁。3月8日:起訴。


【阿部伸行内閣→米内光政内閣】 
 1.14日、阿部内閣総辞職。欧州戦争による物価の騰貴、対米交渉に失敗し、結局、阿部内閣は様々な問題に対して無為無策のまま首相の座は現役海軍大将の米内光政に交替する。 

 1.16日、米内光政内閣成立(米内(よない)光政)。

 しかし、やはり軍事同盟を巡って陸軍と対立。海軍としては、アメリカと戦争をして勝てる見込みがつかない。当時、海軍の仮想敵国はアメリカであり、その実力を良く認識していた。それに対して陸軍の仮想敵国はソ連、アメリカに対してはなめてかかっていた模様です。この間の目まぐるしい内閣の交替の間にもインフレと事変は泥沼化する。

 1.26日、日米通商航海条約期限切れ、無条約時代に入る。マレー沖海戦。


【斎藤隆夫の斎藤隆夫代議士「反軍演説」事件、除名問題発生
 2.2日、米内内閣成立直後の当時民政党の衆議院議員であった斎藤隆夫は、第75帝国議会2日目米内(よない)内閣の施政方針演説に対する代表質問で、丁度満3年目を迎えようとする日中戦争に関して、米内内閣の対応を問い、政府の日中戦争処理方針を巡って約1時間半に及ぶ大演説をぶった。戦争の終結条件は何なのか、政府に展望を示すように要求。支那事変の戦争目的と見通しについて明らかにせよと迫った。日中戦争が聖戦とされ、国民に無限の犠牲を要求していることを批判。東亜新秩序とは何か、それは空虚な偽善であると決めつけた。演説の後には拍手喝采が起こり多くの議員が賞賛した。しかしこれは聖戦を冒涜するものであるとの問題になり、斉藤は衆議院から除名される。これが特に陸軍から、「聖戦目的の侮辱、10万英霊への冒涜(ぼうとく)」であり、「非国民」と攻撃され、衆議院議員の除名へと発展した。この経過は、政党の分解作用に深刻な影響を与えた。

 この時の斎藤議員の質問要旨は、軍部が主導する戦争政策全体への批判で、その要旨は、「①・1938(昭和13)年1月の近衛声明が「支那事変」処理の最善をつくしたものであるか否か、②・いわゆる東亜新秩序建設の具体的内容とはいかなるものか、③・江兆銘援助と蒋介石政権打倒を同時に遂行できるのか、④・「事変」勃発以来すでに戦死者10万、国民にさらに犠牲を要求する十分な根拠を示せ」というものであった。「すべての戦争は力と力との衝突である。そうした戦争観を鏡とすれば、国際正義、道義外交、共存共栄、世界の平和等の美名を掲げて聖戦などと称することは、単なる虚偽にすぎない」。

 締めくくりを次のように述べている。
 「事変以来、我が国民は実に従順であります。言論の圧迫に遭うて国民的意思、国民的感情をも披歴することができない。政府の統制に服するのは何が為であるか。政府が適当に事変を解決してくれるであろう。これを期待しておるが為である。然るにもし一朝この期待が裏切られることがあったなら国民は実に失望のどん底に蹴落とされるのであります。総理大臣はただ私の質問に応えるばかりではない。この議会を通して全国民の理解を求められるのであります。私の質問はこれをもって終わりとします」。

 斎藤の演説は拍手喝さいで終わったが、軍部のみならず、議会内でも、時局同志会、政友会革新派、社会大衆党が斎藤を非難、憂慮した小山松寿衆院議長と斎藤が所属する民政党幹部は、斎藤に演説速記録中の以下の「不穏当」部分の削除を要求、斎藤も議長に一任、議長は職権で演説の後半部分すべてを速記録から削除した。なお、新聞社へは内務省から斎藤を英雄視するような記事の掲載は「まかりならん」との通達があった(「歴史のページ 」)。

 さらに軍部の攻撃を恐れた民政党幹部は、翌日3日早朝、小泉又次郎(党常任顧問)や俵孫一(党主任総務)が斎藤に離党・謹虞を勧告、事態収拾を図った。斎藤は党に影響を及ぼすのであれば、やむをえないとして受諾。同日党籍を離脱する。斎藤はまた総裁町田忠治の意向を受けていたとされる同僚議員から自発的に議員辞職をするよう促されたが断固拒否した。反軍演説の翌日の院内の様子を、斎藤はこのように描写している。「政友会中島派、時局同志会、社民党は懲罰賛成に結束し、政友会久原派の多数は反対にみえる。民政党は秘密代議士会を開いて討議しているが、大多数は反対に傾き、幹部攻撃に激論沸騰して容易に収拾すべくみえない」。

 斎藤非難の動きは収まらなかった。後日、斎藤は衆議院懲罰委員会に出席することとなる。次のように記している。「劈頭私は起って質問演説をなすに至りたる経過とその内容の一般を述べ、さらに進んで政友会中島派より提出したる七ヵ条の懲罰理由を逐一粉砕し、かつ逆襲的反問を投じたるに、提出者は全く辟易して一言これに答うること能わず」、「委員会は全く私の大勝に帰し…翌日の新聞紙上には、裁く者と裁かれる者が全く地位を顛倒し、私が凱旋将軍の態度をもって引き上げたと記載したほど」。衆議院懲罰委員会は満場一致で除名を決定、

 3.6(7?)日、衆議院本会議が開かれたが
議場には167名と3分の1弱の空席を出した。民政党は除名賛成に党議拘束をかけたが、斎藤と親しかった岡崎久次郎が除名に反対し、脱党。民政党で唯一の反対票を投じた。残り170名のうち4割強の69名が欠席または棄権をした。政友会は、久原派が71名中27名が棄権・欠席、全会派中最多の5名が反対。軍部寄りの中島派も97名中16名、中立派は10名中4名が棄権・欠席した。軍部寄りの社会大衆党は34名中、賛成であった病欠の麻生を除き10名が棄権・欠席し、時局同志会は30人中5人が棄権。無所属議員は10名のうち、反対1名、棄権・欠席が7名であった。投票結果は以下の通り。
賛成 296名  浅沼稲次郎河上丈太郎河野密三輪寿壮三宅正一三木武夫星島二郎松野鶴平など。
空票 144名
(棄権) 121名  尾崎行雄鳩山一郎水谷長三郎西尾末広犬養健若宮貞夫安達謙蔵など
(欠席) 23名  安部磯雄片山哲鈴木文治(以上社会大衆党)など
反対 7名  牧野良三名川侃市芦田均宮脇長吉丸山弁三郎(以上政友会久原派)・岡崎久次郎(民政党)・北浦圭太郎第一議員倶楽部

 以上、除名賛成296票、反対7票、棄権144票で可決した。
これにより斎藤は衆議院議員を除名された。この投票結果や経緯は、ただ単に軍部の政治介入による結果だけではなく、政党自体が議会制民主主義を破壊したとする「自壊」の面があることも斎藤自身や様々な歴史家らも厳しく指摘している。なお、議長の小山は在職中「スターリンのごとく」発言の西尾末広についで、2人の除名決議の議事に携わったことになる。その後、民政党は斎藤を見捨てたとして、内外の信用を失い、町田の求心力は落ち、後の解党への流れとなる。政友会久原派も反対した5名に離党勧告、総裁の久原房之助は除名を強行しなかったものの、結果として解党へと向かう。社会大衆党は、書記長麻生久により、党首の安部や片山ら除名に賛成しなかった8名に離党勧告を出し、安部ら8人は離党を拒否し、除名処分を強行、反対派を追放することにより、軍部に従順な態度をより鮮明にした。親軍部の政友会中島派、時局同志会、社大党の主張通り、革新運動が加速し、戦争遂行のための協力体制と称し、大政翼賛会への流れへと直結した。

【斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」全文】
 斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」(昭和十五年二月二日、第七十五議会における演説、いわゆる斉藤隆夫の反軍演説)は次の通り(斎藤隆夫著「回顧七十年」、中公文庫)。

 「斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」全文

 2.6日、生活綴方運動への弾圧開始。村山俊太郎ら検挙。運動関係者・『生活学校』関係教員約300名を検挙。
【汪兆銘を主席とする南京政府樹立】
 3月、上旬臼井大佐(参謀本部主務課)と鈴木中佐が重慶政府代表の宋子良と香港で会談(桐工作)。3.12日、汪兆銘、和平建国宣言を発表。3.30日、重慶にいた汪兆銘を連れ出して、彼を主席とする親日的な南京政府を樹立。この建国手法は満州国のそれに倣った。但し、米国のハル国務長官は南京政府否認声明を出している。

【支那事変処理として撤退方針が決定される】
 3.30日、支那事変処理に関する極めて重要な事項が、参謀本部の提案に基き、この日、陸軍中央部で決定された。それは、「昭和15年中に支那事変が解決せられなかったらば、16年初頭から、既取極に基いて、逐次支那から撤兵を開始、18年頃までには、上海の三角地帯と北支蒙彊の一角に兵力を縮める」というもので、事変処理の大転換であった。もともとこの撤兵案は陸軍省の発案になるものであり、陸軍省側では今すぐからでも、撤兵を開始するような剣幕であった。予算面からも間接的に参謀本部を抑制しようとした。事変解決に、参謀本部も陸軍省も手を焼いていることが分かる。当時参謀本部としても、内々黙認した形であった。昭和15年度の臨時軍事費は、こんな前提の下に確定せられていた。 [種村佐孝「大本営機密日誌」(ダイヤモンド社,昭和27年)P12-14] この本は公式の日記ではなく、元大本営参謀戦争指導班長の種村佐孝氏が、同僚の助けを得て書いた日記と記憶によって書かれたものです。開戦前から終末期まで、時間を追って具体的に書かれた貴重な資料としてしばしば引用される本です。

【日本軍が重慶爆撃開始】
 5月上旬、重慶爆撃開始。無差別爆撃となった。海軍航空隊の指揮官として、重慶爆撃に参加した巌谷二三男氏の証言「1940.6月上旬頃までの爆撃は、もっぱら飛行場と軍事施設に向けられていたが、重慶市街にも相当数の対空砲台があり、そのため味方の被害も増大する状況となったので、作戦指導部は遂に市街地域の徹底した爆撃を決意した。すなわち市街東端から順次A、B、C、D、E地区に区分して、地区別に絨毯爆撃をかけることになった」、「建物が石材や土などでできている中国の街は、一般に火災は起こしにくかったのであったが、重慶の場合はよく火災の起こるのが機上から見えた。これは市街中央部の高いところは、水利の便が悪かったのであろう。また使用爆弾も、戦艦主砲弾(四〇センチ砲弾)を爆弾に改造した八〇〇キロ爆弾から、二五〇キロ、六〇キロの陸用爆弾、焼夷弾などをこのごも使用した」、「六月中旬以降の陸攻隊は連日、稼働全兵力をあげて重慶に攻撃を集中した。その都度偵察写真が描き出す重慶市街の様子は、次第に変わり、悲惨な廃墟と化していくように見えた。何しろ殆ど毎日、五十数トンから百余トンの爆弾が、家屋の密集した地域を潰していったのだから、市街はおそらく瓦れきと砂塵の堆積となっていったことだろう」、「ことに[八月]二十日の空襲は陸攻九〇機、陸軍九七重爆十八機、合わせて百八機という大編隊の同時攻撃で、これまた一連空が漢口からする最後の重慶攻撃となった。この日、爆撃後の重慶市街は各所から火災が起こり、黒煙はもうもうと天に沖し、数十海里の遠方からもこの火煙が認められた」(巌谷二三男 「海軍陸上攻撃機」朝日ソノラマ)。

 陸軍航空隊独立第一八中隊(司令部偵察飛行隊)の一員として重慶爆撃に参加した河内山譲氏の証言「五月末迄2連空は夜間爆撃を主としていたが、途中で1連空と共に昼間に切換え、目標も重慶の軍事施設だけを選別していたのを改め、市街地をA・B・C・D・E地区に区分した徹底的な絨毯爆撃に変更した」。 

 5.11日、有田外相、蘭印現状維持を各国駐日大使に申し入れる。


 5.18日、御前会議で対支処理方策を決定。


 5.25日、有田外相、バブスト駐日蘭大使に対蘭印13項目の要求を送る。


【ヨーロッパ戦線で独軍が進撃開始】
 5.10日、欧州で、ドイツ軍が華々しい実力を行使しはじめ、5月にはオランダ、ルクセンブルク、ベルギーを侵略、更にマジノ線を突破してフランス軍を席捲し、イギリス軍は「ダンケルクの悲劇」に追い詰められた。

 5.16日、イギリスにチャーチル内閣成立。


【ヨーロッパ戦線で伊軍が独軍側で参戦】
 6.10日、伊軍が独軍側で参戦し、イギリス・フランスに宣戦布告。

 6.14日、独軍がパリ入城、6.22日、独仏休戦条約調印。イギリスへの空爆も激しくなる。そのためイギリスのチェンバレン内閣、フランスのレイノー内閣が崩壊。

【支那事変処理として戦線拡大方針が決定される】
 この独軍の戦果拡大が陸軍部内の大転換をもたらすことになった。『バスに乗り遅れるな』的ムードがはやり出し、「撤兵」のはずが、「大東亜戦争」に拡大していくことになった。欧州情勢の急変転が陸軍内部の考え方を180度大転換させた。「わずか2ヶ月前、さる3月30日には、専ら支那事変処理に邁進し、いよいよ昭和16年から逐次撤兵を開始するとまで、思いつめた大本営が、何時しかこのことを忘れて、当時流行のバスに乗り遅れるという思想に転換して、必然的に南進論が激成せられるに至ったのである」(種村佐孝「大本営機密日誌」・ダイヤモンド社・昭和27年・P14)。

 東南アジアの植民地は事実上、無主の土地となり、南進論が現実味を増してきた。ドイツは、外相リッベントロップの信任厚いシュターマーを特使として派遣し、日本がアメリカをできる限り牽制するために、日独伊三国同盟を打診した。

 5.13日、第1回報国債券発売。


 6.3日、工作機械の対日輸出禁止。


 6.9日、ノモンハン国境確定交渉成立。


 6.12、日タイ友好条約締結。


 6.18日、米下院海軍委員会で海軍拡張案(両洋艦隊法案)が可決。


 6.24、ビルマおよび香港経由による蒋介石政権援助物資輸送停止をイギリスに申し入れる。


【基本国策要綱」が立案される】
 6.25日、「基本国策要綱」が立案され、7.27日、「連絡会議」で決定、上奏された。

 7.7日、商工、農林両省令で、「奢侈品等製造販売制限規則」(7.7禁止令)が公布され、国民生活に大きな影響を与えていくことになった。


 結局、7月16日、畑陸相の単独辞職に伴い陸軍では陸相を出さず内閣総辞職。


【米内光政内閣→第二次近衛内閣】
 7.16日、米内内閣総辞職。結局、米内光政内閣も陸軍に振り回され放しで終わる。国民は官僚にも政党政治にもいやけがさし、「もう近衛しかいない、もう一度近衛に力を」の声が高まり、再度近衛が登場してくることになった。


 7.17日、第二次近衛内閣が組閣された。外相に松岡洋右、陸相に東条英機、海相に吉田善吾が起用された。「ウィキペディア松岡洋右」は次のように記している。

 松岡は、近衛が松岡、陸海軍大臣予定者の東条英機陸軍中将、吉田善吾海軍中将を別宅荻外荘に招いて行ったいわゆる荻窪会談で、外相就任受諾条件として、外交における自らのリーダーシップの確保を強く要求、近衛も了承したと伝えられている。20年近く遠ざかっていた外務省にトップとして復帰した松岡はまず、官僚主導の外交を排除するとして、赴任したばかりの重光葵(駐英大使)以外の主要な在外外交官40数名を更迭、代議士や軍人など各界の要人を新任大使に任命、また「革新派外交官」として知られていた白鳥敏夫を外務省顧問に任命した(「松岡人事」)。更に有力な外交官たちには辞表を出させて外務省から退職させようとするが、駐ソ大使を更迭された東郷茂徳らは辞表提出を拒否して抵抗した。

 松岡の外交構想は、大東亜共栄圏(この語句自体、松岡がラジオ談話で使ったのが公人の言としては初出)の完成を目指し、それを北方から脅かすソ連との間に何らかの了解に達することでソ連を中立化、それはソ連と不可侵条約を結んでいるドイツの仲介によって行い、日本―ソ連―独・伊とユーラシア大陸を横断する枢軸国の勢力集団を完成させれば、それは米英を中心とした「持てる国」との勢力均衡を通じて日本の安全保障ひいては世界平和・安定に寄与する、というものではなかったかと考えられている。こうして松岡は日独伊三国軍事同盟および日ソ中立条約の成立に邁進する。

 ①・日・独・伊枢軸の強化、②・東亜にある英・仏・蘭・ポルトガルの植民地の占領、③・アメリカの実力交渉排除、を重要政策に掲げ、これが開戦へのお膳立ての動きとなった。

 政治の新体制、経済の新体制実施を目標とする。折からの政治の刷新を求める国民の期待を受けて革新官僚の拠点、企画院を中心に官吏制度をはじめとして各界の新体制案を立案し始める。

 「昭和12(1937)年6月の第一次近衛内閣成立の1ヶ月後に日華事変が勃発している。第一次近衛内閣の後、平沼、阿倍、米内内閣はドイツとの距離をとり、第2次大戦には不介入の姿勢を保っていた。ところが、第2次近衛内閣が成立した昭和15(1940)年7月以降、日本は日独伊の三国同盟締結、仏印進駐とアメリカとの全面対決に向かって決定的な道を歩み始める。不思議なことに近衛内閣の登場のたびに、日本は大きく戦争へと向かっている。近衛は、その当時を振り返って、『見えない力にあやつられてゐたような気がする』と述懐している」(ゾルゲ事件

 7.25日、ルーズベルト大統領、石油と屑鉄を対日輸出許可品目に加える。


 7月、麻生久率いる社会大衆党が解党。麻生は、近衛が選任した新体制準備委員26名中の1人に選ばれる。但し、大政翼賛会の結成直前の9月に病死する。


【大本営が南進を旨とする「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定】
 7.26日、閣議で大東亜新秩序と「基本国策要綱」を決定し、翌7月27日政府は2年ぶりに大本営政府連絡会議を開き、南進を旨とする「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を決定した。ドイツの勝利に乗り遅れまいとする心裡が強く働いていた。これに基づき仏印進駐が企図されていくことになった。

 8月には東京市内に「ぜいたくは敵だ!」の看板が立てられる。


 8.25日、キリスト教会に対する弾圧と迫害も日増しに強まり、賀川豊彦が反戦思想を宣伝したという理由で憲兵隊に拘引、投獄された。


【「新体制準備会」発足】
 近衛文麿はこの難局を打開するため、右派・左派・軍部までをも含めた「革新」勢力の結集を目指し新党構想を練る。国民組織を基盤とした強力な政権を作り、軍を取り込んで統制し、政治を刷新して政治新体制を建設を目指した。この運動は新官僚たちが中心となって進められ、やがて「新体制運動」と云われようになった。 

 8.23日、自由主義者も体制派社会主義者も、革新右翼も観念右翼も、東大総長も愛国団体代表も含まれ、衆参両院、言論界、経済界一致の新体制準備会が発足し、8.28日、声明文が発表された。各党はこの新党に合流する為「バスに乗り遅れるな」と、先を争って既成政党が全て解党した。この流れが「大政翼賛会」に向かうことになる。

 そのスローガンは「下意上達」であった。つまり、この事態に対して無為無策の腐敗する政界・財界・内務官僚たち保守派の「上」の既成勢力を一掃して、「下」の国民の意見を代表する革新勢力を結集した政治を実現し、この難局から国を救おうというものであった。但し、参加した勢力を見ても、麻生久の社会大衆党や赤松克麿の日本革新党(もと社会主義者グループ)、橋本欣五郎の大日本青年党(革新右翼)、民政党、政友会内の一部(保守政党内の改革派)、岸信介などの新官僚、武藤章など革新的軍部、その他色々な勢力が混交していた。さらに尾崎秀実(国際的共産主義者)までもが推進というまさにごった煮状態で、それぞれ意見が異なり紛糾する。

 「大政翼賛会」には、直前に没した麻生の遺志を継ぐかのように、近衛総裁、有馬事務局長のもと、総務に川上丈太郎、連絡部長に三輪寿壮、東亜部長に亀井貫一郎、制度部長に赤松克麿、議会局審査部副部長に河野密、議会局臨時選挙制度調査部副部長に浅沼稲次郎(部長は清瀬一郎)、同調査委員に平野力三等々旧社民党及び社会大衆党の面々が幹部として乗り込んでいった。

 ちなみにこの頃、右翼は「革新右翼」と「観念右翼」の2派に分かれて対立している。革新右翼は統制派と結びついた親独派でナチス流の一国一党を目指していた。一方、観念右翼の方は、純正日本主義を唱え、国体明徴を重視し、共産主義を最も嫌っており、ナチスやファシズムも国体に相容れないとしていた。

 その後の経過は次の通り。右派も左派も軍官僚も近衛イヤになり、なげやりな言動が目立つようになる。企画院(革新官僚)の作成した「経済新体制確立要項」を軍官僚や平沼騏一郎がアカ思想として攻撃し、革新官僚は治安維持法違反容疑で検挙される。こうして革新官僚も力を失う。近衛に国内の意見をを纏める力はもはや無く、戦争回避にむけたルーズベルト米大統領との会談も実を結ばず、近衛はやる気を失い辞職していくことになる。

 9.3日、米英防衛協定調印。


 9.13日、重慶攻撃。この時、27機の陸上攻撃機と13機のゼロ戦が漢口飛行場を発進して重慶へ向かった。上空で交戦となり、ゼロ戦が倍する中国機(ソ連製「I15」、「I15」)の全27機を撃墜するという戦果を挙げている。


 9.16日、米で選抜徴兵制公布。


 9.19日、支那派遣軍総司令部、桐工作(対重慶和平工作)の一時打ち切りを決定。


 9.22日、日・仏印軍事協定成立。この協定で、仏領インドシナ北部への日本軍進駐を仏国に認めさせた。


 9.23日、日本、北部仏印進駐。


 日本軍はただちに南進を開始、北部仏印を占領した。


 9.25日、米陸軍通信隊、日本海軍の暗号解読に成功。米、重慶政府に2500万ドルの借款供与。


【「日・独・伊の三国同盟」を締結】
 9.27日、松岡外相の音頭で「日・独・伊の三国同盟」を締結。

 「よって日本国政府、ドイツ国政府及びイタリア国政府は左の通り協定せり。第一条 日本国はドイツ国及びイタリア国の欧州における新秩序建設に関し、指導的地位を認め且つこれを尊重す。第二条 ドイツ国及びイタリア国は日本国のアジアにおける新秩序の建設に関し、指導的地位を認め且つこれを尊重す。第三条 日本国、ドイツ国及びイタリア国は前記の方針に基づく努力につき相互に協力すべきことを約す。更に、三締約国中何れかの一国が、現に欧州戦争又は日支紛争に参入し居らざる一国によって攻撃せられたるときは、三国はあらゆる政治的、経済的及び軍事的方法により相互に援助すべきことを約す」。

 10.8日、極東の米国人の引き揚げ勧告。


【「大政翼賛会」発足】
 10.12日、新体制準備会は、「大政翼賛会」に結実した。「挙国政治体制の確立」のため、既成政党が自主解党、新党設立の準備組織として「大政翼賛会」が発足した。総裁は総理の兼任ということになり近衛が就任した。但し、右翼から左翼までを集めた「革新」勢力の呉越同舟的な寄合い世帯であり、近衛首相もまた「本運動の綱領は大政翼賛、臣道実践というにつきる。これ以外には綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において奉公の誠を致すのみである」と述べるなど掛け声倒れの代物でしかなかった。

 近衛演説は失望を誘い、後藤隆之助は、「もうこれで大政翼賛会は駄目だと思った。成立と同時に死児が生まれてきたのと同じだと思った」と回顧している。内部が一本化せず政党系の参加者は相次ぎ離脱。近衛も意欲を失う。最終的には「大政翼賛会」は内務省の補助機関に転落する。

 その後、内閣改造において近衛は、平沼を内相に迎え、側近の風見を追って、柳川を法相に据えた。彼らは翼賛会を一地方行政組織に改組することに躍起となり、一方で平沼内相は、「翼賛会は政治結社でない、公事結社である」と声明し、まったく死児どころか、死児の骨まで抜かれてしまった。近衛新体制は、当初の意図としては、まったく失敗した。

【「企業合同、トラストの結成」】
 三国同盟締結を契機として「企業合同又はトラスト」の結成が急速度に進行し、巨大資本による中小企業、新興財閥の整理が進められていった。大資本の論理は、物資の不足を企業統合により免れようとし、①・当該物資の生産企業と直接に結合し、これを支配する。②・より大なる物資の配給割当を獲得するために他の企業と結合し、その実績分の配給権を掌握する。③・事業の新設拡張が困難なため、他の企業を吸収合併する、というところにあった(中村静治「日本産業合理化研究」)。

 10.14日、ルーズベルト大統領、レインボー計画(陸海軍統合戦争計画)を承認。


 10.15日、松岡外相、グルー駐日米大使と会談。


 10.16日、米国、屑鉄と鋼鉄の対日輸出禁止。コーデル・ハル国務長官は、日本に対する屑鉄の輸出を禁止し、アメリカの対日締め付けが強化されていくことになった。このようななアメリカの動きに対して、英米協調を重ねて主張してきた西園寺は苦悩をかさねた。その中で、西園寺は逝去した。九十歳であった。


 10.30日、日ソ交渉開始。


 10月、日本軍が燼滅作戦(三光作戦)を開始する。


 10月、岸信介が東条内閣で商工大臣に就任する。(「里見の私有財産は当然莫大になり、岸信介が昭和16年の国会選挙に出る費用など、多方面に提供」
 http://www.ne.jp/asahi/cn/news/text/culture/mayaku.html )


 11.6日、ルーズベルト、大統領に三選される。


 11月、アメリカが、中国の蒋介石政権への軍事援助開始決定。


 11.12日、ソ連のモロトフ外相がベルリン訪問。ヒットラー、リッペントロップと4回にわたって会談。この時、ヒットラーは「独ソが協力すれば収穫は大きく、対立すれば小さい。独ソが手を握れば世界無敵ではないか」、「新しい勢力圏の設定がまとまれば、4ヶ国は今後、百年どころか数百年の計を立てる事ができる」と「四国同盟案」の提携を持ちかけているが、モロトフ外相は応ぜず。


【御前会議で「支那事変処理要綱」が決定される】
 11.13日、御前会議で、日華基本条約案と「長期戦方略」への転換を定めた「支那事変処理要綱」が決定された。

 15年11月、企画院より「経済新体制確立要項」が提出される。これはより強力な戦時統制経済の確立を目指した内容。企画院原案では、・企業の公共化、・「指導者原理」にもとずく統制機構の確立・資本と経営との分離、・利潤の制限などが盛り込まれていた。これに対し自主統制を主張する財界が猛反発。右翼・内務官僚たちもこれに同調。この案をアカ思想の産物として激しく攻撃。近衛内閣内でも小林商工相の反対もあり、結局、軍部が間に入って資本と経営の分離を削除した上で12月7日に閣議決定される。

 このアカ攻撃は、この後内相に就任した平沼騏一郎(観念右翼)によってさらに強まり、翌年4月の「企画院事件」につながる。これは企画院原案に関与した革新官僚を、共産主義者だとねつ造して治安維持法違反容疑で検挙された事件。これにより企画院も力を失い軍部の御用団体と化す。

 「下意上達」だったスローガンも国体に背くとして「下情上通」に改められた。結局、新体制運動は目標だった強力な政治体制を作ることに失敗、ましてや軍を統制する力を持つことは出来なかった。しかもこれに対する国民の期待を利用して政党・労働組合などを自主的に解散させ、国民を完全に政治統制下に置く道を開いた形となった。

 11.29日、帝国議会開設50年記念式典が行われた。


 11.30日、南京政府(汪兆銘政権)承認し、日華基本条約調印。


 12月、近衛新体制で第76回議会が召集される。大政翼賛会に参加した衆院議員435名で「衆院議員倶楽部」が結成された。不参加議員が7名いた。欠員24名で98%が参加した。一国一党である。日本での議会政治は姿を消すことになる。


 12.5日、ウォルシュ司教、ドラウト神父、松岡外相を訪問。12月28日ウォルシュ、ドラウト帰米。


 12月、イギリスが、中国の蒋介石政権への軍事援助開始決定。


 12月、政府は、内閣情報局主導下に設立された日本出版文化協会に加入しない者には用紙の割当が受けられないことにした。これにより、言論統制がますます強化され、抵抗が踏み潰された。

 


 このころから政府の戦時経済政策の矛盾が、決定的になり始める。日本銀券の保証準備発行限度は10億円から、昭和13年4月に17億円に、昭和14年4月に22億円に拡張されている。公債を日銀に買わせているため、どうしても、この必要があった。それだけ「金」の裏付けの無い、インフレマネーが発行可能となっている。さらに物資不足もこれに追い打ちを掛け、不況の中で物価だけが高騰してゆく、悪性インフレが深刻な問題になってくる。

 この悪性インフレを押さえるため、政府は公定価格を決めインフレを抑えようとする政策を採る。昭和14年には価格統制令(九・一八ストップ令)が公布・施行。これは9月18日時点の価格で強制的に物価を固定すると言うもの。同時に地代家賃統制令・賃金臨時措置令・会社職員給与臨時措置令も公布・施行。地代・家賃・賃金・給与もストップあるいは統制下に置かれる。はっきり言って市場原理を全く無視した無茶苦茶な経済政策。ヤミ取引・買いだめ・売り惜しみが横行して国民生活がますます困難になる。

 この間に支那事変は拡大を続けており、昭和14年までに、ほぼ20個師団が新設され、中国には85万人の兵員が展開されている。これにより多くの成人男性が徴兵で兵役に取られる事に。このため拡大する軍需産業でも労働力不足が慢性化。兵隊と軍需産業に男子を取られた農業・軽工業・商業では女子労働力が増加。この事により農村までもが人手不足に陥る。さらに昭和14年は、朝鮮及び西日本が干害に見舞われており、米の生産が低下。食糧不足までもが深刻化する。

 ここで政府が取った政策は、「国家総動員法」に基づく、物資の生産・配給・消費統制の強化。昭和14年12月の木炭を皮切りに、昭和15年10月頃までには、生活必需品である米・麦・衣料品・砂糖・マッチ・練炭・大豆等々の配給統制が実施される。これによりヤミ取引がますます盛んになる。政府は経済警察を設立し取り締まるが全く効果なし。「物価のなかで動かぬのは指数だけ」と言われるほどの有様となる。この時点で日本経済は明らかに縮小再生産の過程を歩み始める。


【以降の流れは、「大戦直前の動き」の項に記す】







(私論.私見)