昭和時代史3、2.26事件までの流れ(1931年から1935年)


 更新日/2019(平成31→5.1日より栄和改元).12.16日

 【以前の流れは、「昭和時代史2、満州事変騒動(1931年から1932年)」の項に記す】

 (「あの戦争の原因」)からかなり引用しております。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 この頃既に「満・蒙は日本の生命線である」と認識するのが時代の空気となっていた。満州とは、中国の東北三省をひっくるめた総称で、これに内蒙古の東部を加えて「満・蒙」と呼んでいた。その一部-南満州一帯の権益を関東軍が後生大事に守っていた。いわば中国大陸への足がかりであり、橋頭堡でもあった。次第に全満州を掌握したいという欲求が強まっていったとしても、それが既に時代の流れとなっていた。

 他方、中国国内では、対支21カ条要求以来、排日から抗日へと気運が醸成されつつあった。日本外交は、幣原喜重郎的な国際協調派路線を目指したり、帝国主義的な植民地主義を目指したり、時計の振り子のように揺れ、「ダブル・スタンダード」下に陥る。


【5.15事件】
 5.15日、午後5時過ぎ、海軍将校と陸軍士官候補生9名による首相官邸襲撃事件が発生。白昼堂々、犬養毅首相が射殺(享年77歳)された。これを5.15事件と云う。この時の犬養首相と将校達とのやりとり「話せば分かる」、「問答無用、撃て!」は特に有名で、この後の政治家と軍部との関係を象徴する事になる。この「5.15事件」をきつかけに、国内情勢は以後軍国主義化の途を一直線に突き進んでいくことになった。

 5.15事件青年将校らの檄文は次の通り。

 「日本国民に檄す。日本国民よ! 刻下の祖国日本を直視せよ、政治、外交、経済、教育、思想、軍事! 何処に皇国日本の姿ありや。政権党利に盲ひたる政党と之に結托して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育と腐敗せる軍部と、悪化せる思想と塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と! 日本は今や斯くの如き錯騒せる堕落の淵に死なんとしている。革新の時機! 今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ。国民諸君よ。武器を執って! 今や邦家救済の道は唯一つ『直接行動』以外の何物もない。国民よ! 天皇の御名に於いて君側の奸を葬る屠れ。国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ! 横暴極まる官憲を鷹懲(ようちょう)せよ! 奸賊、特権階級を抹殺せよ! 農民よ、労働者よ、全国民よ! 祖国日本を守れ。 而して、陛下聖明の下、建国の精神に帰り、国民自治の大精神に徹して人材を活用し、朗らかな維新日本を建設せよ。民衆よ! この建設を念願しつつ先ず破壊だ! 凡ての現存する醜悪な制度をぶち壊せ! 」。

 この事件により、戦前の政党内閣制は終止符を打つ。事件首謀者には翌年、軍法会議により禁固15年の判決が下るが全国で減刑運動が展開されることになる。つまり、財閥と結びついた金権政治の横行、大局を見ず単に政敵を倒すためやっている国会論議、対策が打てない不況問題、などのために政党政治そのものが国民の信を全く失ってた。以後、国民の支持を失った既存政党は、終戦までじり貧状態。(首相に対するテロがあいついだため、なり手が無くなった点も大きい)

 「血盟団事件、10月事件、5.15事件と相次ぐテロリズムに恐怖し、政治は萎縮し、険悪な空気は日本を戦争へと一歩ずつ追いやる結果となった」(川合貞吉「ある革命家の回想」215P)。

【「憲政の常道」(けんせいのじょうどう)】
 「憲政の常道」(けんせいのじょうどう)とは、西園寺公望ら「奏薦集団」が戦前の政党内閣期(1924-1932)に積み重ねた政権交代方程式「ある内閣が倒れたとき、その後継として内閣を担当するのは野党第一党である」とする慣例を云う。しかし、内閣が倒れた理由が総理大臣のテロによる横死や病気などの場合は政権交代は政党の間では起らない。政権交代が起るのはその内閣が失政によって倒れたときだけである。
内閣名 政権与党/野党 内閣総辞職理由
24 第一次加藤高明内閣 憲政会・政友会・革新倶楽部/ 政友・革新閣僚による閣内不統一。
25 第二次加藤高明内閣 憲政会/政友会 加藤首相病死。
26 第一次若槻礼次郎内閣 憲政会/政友会 緊急勅令案否決。
27 田中義一内閣 政友会/憲政会(民政党) 張作霖爆殺事件処理の不手際。
28 濱口雄幸内閣 民政党/政友会 濱口首相テロで重傷。
29 第二次若槻礼次郎内閣 民政党/政友会 安達内相による閣内不統一。
30 犬養毅内閣 政友会/民政党 五・一五事件による犬養首相横死。

 犬養首相がテロで倒れたとき、西園寺公望は、憲政の常道原則にとらわれず中間内閣を奏請することによって状況の改善を企図した。西園寺にとって「中間内閣」はあくまでも緊急避難的な措置であった。結局、戦前期において再び政党内閣が復活することはなかった。

【犬養毅内閣→斎藤内閣】
 犬養首相の兇変直後、高橋是清蔵相が首相を臨時に兼任し内閣総辞職を行う。

 5.26日、次の首相に斉藤実海軍大将が就任し斎藤内閣が成立した。「自立更生」をスローガンに発足した。政友会から3人、民政党から2人を閣僚に入れ「挙国一致内閣」と呼ばれる。この人事は「現状打破派」(陸軍)と「現状維持派」(元老、政党、財閥)のバランスの上で成立。蔵相には高橋是清が留任。

 この人事に反対だった近衛は次のように評している。
 「政治の責任者は責任をとれる者でなければ駄目だ。軍部がその善悪は別として事実上の政治推進者であるのに責任をとらない。従って、軍部に責任を負わせて組閣させるか、そうでないのならあくまで政党内閣を貫くべきだ。どっちつかずの中間内閣は不可だ」。

 議会側では政党内閣が後退し、憲政の危機と認識、政党のあり方をはじめ議会政治の改革のため、秋田清衆院議長の提唱により「議会振粛委員会」が設置された。副議長の複数制や委員会制度の改革、明治以来の議会慣行の改革が議論されたが、成果を得るに至らなかった。この議会改革が実らなかったことが、戦時体制へと進む要因のひとつとなった。


 6.29日、警視庁特高課が特別高等部に昇格。


【リットン委員会が再度現地調査】
 7.4日、リットン委員会は再度来京して、北京に向かった。

 7.18日、日本軍が熱河浸入。


 7月、朝陽寺事件―または石本権四郎事件。満州国」の阿片専売のため良質の「熱河アヘン」入手のキーマンとして任命された(関東軍嘱託)石本権四郎が朝陽寺付近で拉致される。もと大連市長の兄鏆太郎(かんたろう)の手で捜索、遺体発見。下関から東京まで遺体搬送列車の行く先々で朝野を挙げて追悼集会。石本権四郎の履歴は次の通り。高知県出身、日清日露戦争で通訳。大正5年の第2次満蒙(まんもう)独立運動に参加。台灣總督府鴉片煙膏製藥所をへて、清国関東州でアヘンを製造。大正4年衆議院議員、大連市長。


 7月、合法的社会主義政党である社会大衆党結党。


【政府が満州国を承認】
 9.15日、斎藤実内閣は、日満議定書に調印して満州国を承認している。日本軍が満州国内に駐留するようになる。

【リットン委員会が、現地調査報告書を日本政府と国際連盟に提出】
 9.1日、リットン報告書が日本政府に手渡される。

 10.1日、リットン委員会が現地調査報告書を国際連盟に提出、10.2日、発表される。満州事変の契機となった日本軍の行動を正当な自衛権と認めないことを中心とする報告書を提出。国際連盟は19カ国委員会を設け、ジュネーブ特別総会での採択を待つ状況となった。

 リットン報告書には、「満州は他に類例の無い地域であり、満州事変は一つの国が他の国を侵略したとか、そういう簡単な問題ではない」とも書かれており、報告書そのものの内容は日本の満州における特殊権益の存在を認める等、日本にとって必ずしも不利な内容ではなかったが、日本国内の世論は硬化した。

 10.6日、赤色ギャング事件。共産党員による銀行強盗事件だが、共産党側は当局のスパイによって扇動された謀略と主張。


 10.30日、司法官赤化事件東京地裁尾崎陞判事らを共産党シンパとして検挙される。


【松岡首席全権の国連総会演説】
 10月、松岡洋右が首席全権として国連総会に向け派遣された。その類まれな英語での弁舌を期待されての人選であった。12.8日、到着早々の松岡は、1時間20分にわたる原稿なしの演説を総会で行った。それは「十字架上の日本」とでも題すべきもので、概要「欧米諸国は20世紀の日本を十字架上に磔刑に処しようとしているが、イエスが後世においてようやく理解された如く、日本の正当性は必ず後に明らかになるだろう」との趣旨のものだった。この演説は逆効果であったともいわれるが、松岡演説が史実に刻んだ意味は大きい。

 11.3日、共産党中央委員の岩田義道が虐殺させられる。


 12.8日、山海関で日華両軍衝突。


 11.12日、熱海事件[共産党全国代表者会議の直前に一斉検挙]。


【皇道派と統制派の対立】
 この頃、陸軍内部では「一夕会」の活動が実り、昭和6年12月、荒木貞夫が陸相に、翌年7年1月、真崎甚三郎が参謀次長、柳川平助が陸軍次官、林銑十郎が教育総監に就任している。そして同時に、若い尉官クラスの隊付将校たちによる国体改革運動が盛んになっている。彼らの運動は「青年将校運動」と呼ばれている。これが皇道派となる。

 他方、皇道派に対抗する格好で統制派が生まれた。統制派とは、1931(昭和6)年10月に橋本欽五郎ら桜会の中堅将校が計画して未遂に終わった「10月事件」以降、そのグループの流れを引いており、新官僚と結び、政財界に接近して作り上げた派閥である。彼らは、皇道派幹部の派閥人事や青年将校によるクーデター計画は軍の秩序を乱すと攻撃し、軍の統制を主張したことから統制派と呼ばれた。

 皇道派の社会・政治の現状認識も桜会と共通したものであるが、民間右翼、北一輝の思想の影響を強く受けている。彼の著書「国家改造案原理大綱」の内容を要約すると、「天皇は国民の総代表であり、天皇の大権によって憲法を3年間停止し、その間に在郷軍人を主体にして、日本を改造する」と言うものであった。その具体的手法として、私有財産の制限、土地の国有化等々の一見社会主義的政策を掲げていた。なお、一旦天皇を中心に独裁体制を引き、これらを実現した後、通常に戻そうと構想していた。北一輝は右翼だが、若い頃「国体論及び純正社会主義」と言う本も自費出版しており、共産主義と国粋主義を結合させた独特の理論を展開していたことになる。

 北一輝に影響を受けた青年将校たちの考えでは、当時の日本の現状と、自分達の取るべき態度は、「現在の混乱は天皇の周りにいる奸臣共(軍上層部や政府高官達)が引き起こしているのであり、その奸臣逆賊を取り除き天皇しいては国家を守護するのは軍人としての責務である」としていたようである。彼らは陸軍省のエリートたちとは違い、実働部隊の将校たちであり、その部隊の兵士も徴兵された貧しい一般市民・農民出身者がほとんどであった。現実の国民の窮乏を肌身で感じ取っており、北一輝に共鳴する土壌があったということになる。とはいえ、20代,30代の青年の集まりで、やたらと観念的で理想主義に燃えている運動に過ぎなかったという恨みがある。

 荒木・真崎の両将軍も青年将校運動に理解を示し、彼らも両将軍を支持していた。両将軍は階級の差など構わず、青年将校たちと直に合って彼らの主張に耳を傾けたからである。「五・一五事件」が起きた時、荒木は次の言葉で彼らを弁護している。
 「本件に参加したのは、若者ばかりである。こうした純真な青年たちがこうしたことをやった心情を考えると、涙の出る思いがする。彼らは名誉や私欲のためにやったのではない。真に皇国のためになると信じてやったことである。だからこの事件を事務的に処理すべきではない」。

 両将軍はことあるごとに「世界に冠絶せる」国体と皇道の理念を説き、国軍を「皇軍」と読んだため、この荒木・真崎を頂点とする陸軍内の派閥は皇道派と呼ばれた。このほかのメンバーには小畑敏四郎・山下泰文などがいた。

 これに対して、青年将校運動は仰圧すべきとしたグループが統制派であった。彼らは、次のように主張していた。
 「軍人の政治活動は軍人勅諭によって禁じられた事であり、軍人は全て組織の統制に従うべきである。そんなことを認めれば国家のためになるなら、上官の命令に反抗しても良いことになる。これでは軍の規律が緩んでしまう。厳しく統制することにより、国家の危急に備えなければならない」。

 皇道派の運動に憂慮を募らせていた。メンバーは永田鉄山・東条英機・武藤章などで、陸軍省エリート幕僚を中心としていた。

 永田は皇道派を次のように批判している。
 「近世物質的威力の進歩の程度が理解出来ず、清竜刀式頭脳、まだ残って居ること、及び過度に日本人の国民性を自負する過誤に陥って居る者の多いことが危険なり。国が貧乏にして思う丈の事が出来ず、理想の改造が出来ないのが欧米と日本との国情の差中最大のものなるべし、此の欠陥を糊途するため粉飾するために、負け惜しみの抽象的文句を列べて気勢をつけるは、止むを得ぬ事ながら、これを実際の事と思い誤るが如きは大いに注意を要す」。

 陸軍統制派は、暴力革命を放棄して、陸軍全体が統制を持って、陸相を通じて改革を行って行こうとする路線を取っていた。

 陸相になった荒木は政治力が弱く、予算・政策で永田ら幕僚の要求するものを内閣で押し通すことはできず議論に負けることも多かった。これで永田ら省部幕僚の支持を失った。さらに、これまでの陸軍内主流派であった宇垣系の軍人を、軍中枢ポストから排除したまでは良いが、その空いたポストを自分達に近い人脈で占めた。この実務能力に基づかない人事は永田たちだけでなく、多くの軍人の反発を買った。また、国家改造を掲げて、反体制に走る青年将校運動と、それを煽る皇道派に対しては、陸軍以外の政治勢力(重臣・内閣・政党・財界)も憂慮を募らせていた。

 新官僚と言われたの者達の中には、国維会グループ、岸信介などの満州組グループ、平沼騏一郎の国本社に集まった司法官僚を中心とするグループ、松井春生を中心とする資源局官僚グループ、その他、各省内にも色々なグループが出来ていた。基本的に国維会と同じように「復古」的であり、かつ「革新」的性格を持ち、「現状打破」論者の集まりであった。彼ら新官僚たちは、この後、国家総動員体制の確立を目指す陸軍統制派と結びついてゆくことになった。(「あの戦争の原因」)

1933(昭和8)年の動き

(この時代の総評)

 重臣・財閥・政党の指導者を一斉に暗殺して、軍政府樹立を企画した、右翼団体によるクーデター計画が発覚する。「神兵隊事件」

 1月、中国で、中華ソビエト共和国臨時中央政府が紅軍に対して抗日戦線の構築を命じる指令を下達。しかし、この頃国民党政府は抗日戦争には向かわず、江西省瑞金に築かれていた朱毛紅軍の本拠地へ攻撃を開始し始めたため、抗日戦の構築は進まなかった。


 1月、大塚金之助、河上肇の検挙。


 1.30日、ヒットラーが首相に就任。


 2.4日、教員赤化事件長野県下で共産党シンパとされた教員の一斉検挙開始。4月までに65校138名検挙。


 2月、昭和天皇が、「近衛文麿と共に平泉澄博士と会食、大学の赤化状況を聞く」(木戸幸一日記)。


 2月、近衛は、「世界の現状を改造せよ」と題する論文を発表し、文中次のように述べている。

 「今や欧米の世論は、世界平和の名に於て日本の満洲に於ける行動を審判せんとしつつある。或は連盟協約を振りかざし或は不戦条約を盾として日本の行動を非難し、恰も日本人は平和人道の公敵であるかの如き口吻を弄するものさへある。然れども真の世界平和の実現を最も妨げつつあるものは、日本に非ずしてむしろ彼等である。彼等は我々を審判する資格はない。ただ、日本は此の真の平和の基礎たるべき経済交通の自由と移民の自由の二大原則が到底近き将来に於て実現し得られざるを知るが故に、止むを得ず今日を生きんが為の唯一の途として満蒙への進展を選んだのである」。

 2.20日、斉藤実内閣が、リットン報告書が採択された場合は代表を引き揚げ、国際連盟脱退も止むなしと決めた。


 2.20日、小林多喜二が検挙され警視庁築地署で虐殺される。


 2.24日、国連総会で、リットン報告書の採択が為され、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ国)、投票不参加1国(チリ)の圧倒的多数で可決、松岡洋右は、予め用意の宣言書「十字架上の日本」を朗読した後、日本語で「さいなら!」と叫んで国際連盟総会会場を退場した。


 2.23日、日本軍、熱河省侵攻。2.25日、関東軍が熱河討伐声明。


 3月、満洲国が阿片専売制度。


 3.4日、ルーズベルト大統領就任。「ニューディール政策」[救済(Relief)・復興(Recovery)・改革(Reform)の3R政策]を掲げた。


【国際連盟が、リットン報告書を採択】
 3.24日、国際連盟が、42対1(反対は日本のみ)でリットン報告書を採択。

【日本が国際連盟を脱退】
 3.8日、日本政府は、国際連盟脱退を決定。

 3.27日、日本は国際連盟を脱退。ジュネーブで国際連盟臨時総会が開かれた。日本代表の松岡洋右は、満州事変は日本の自衛権の発動であり、非は中国側にある、リツトン調査団の報告は一方的なものであり、それに基づく連盟の勧告案は不当であると熱弁をふるっている。遂に席を蹴って退出した。連盟脱退の瞬間であった。

 翌日の新聞には、「連盟よさらば!/連盟、報告書を採択 わが代表堂々退場す」の文字が一面に大きく掲載された。英雄として迎えられた帰国後のインタビューでは、「私が平素申しております通り、桜の花も散り際が大切」、「いまこそ日本精神の発揚が必要」と答えている。

 4.22日、滝川事件の始まり。鳩山一郎文相が京都帝大法学部教授滝川幸辰の辞職を要求。


 4月、米国が金本位制停止。


【関東軍が華北に侵入】
 5月、関東軍は華北に軍を進めた。「時あたかも、ヨーロッパにおいてナチス・ドイツの目覚しい躍進があり、それに比べて、あまりにも情けない日本の現状-深刻な農業恐慌と政治の腐敗-にうんざりしていた国民は、勇敢で、且つ歯切れのよい軍部の行動に、大きな拍手を送った」。華北に攻め込んだ日本軍は、続いて北京・天津の近くまで兵を進めた。この頃から、世界が日本軍の侵略行為を非難するようになる。

【「京大(滝川)事件」】
 「京大(滝川)事件」を参照(転載)する。
日本が国際連盟を脱退した1933(昭和8)年に京都大学で起きた学問の自由および思想弾圧事件。ことの発端は、のちに天皇機関説問題で美濃部達吉を攻撃する貴族院の菊池武夫議員が貴族院で、京大法学部の刑法学者滝川幸辰(ゆきとき)教授の「トルストイの『復活』に現はれた刑罰思想」と題する講演内容(犯人に対して報復的態度で臨む前に犯罪の原因を検討すべき、という意味)を「赤化教授」、「マルクス主義的」と攻撃したことにはじまる(「自由主義は共産主義の温床」との思想がその背景にあった)。

これを受けて当時の鳩山一郎文相(戦後公職追放されるが、その後解除され、1954年に首相となる)は、滝川教授の著書『刑法読本』を危険思想として批判、大学の最高法規「大学令」に規定した「国家思想の涵養」義務に反すると非難した。1933年4月10日には、内務省が滝川教授の著書『刑法読本』と『刑法講義』を発売禁止処分とし、同年4月22日には、文部省は小西重直京大総長に滝川教授の辞職を要求する。

 これに対し京大法学部では学問の自由・思想信条の自由(基本的人権)の侵害であるとして抗議するが、文部省は同年5月26日、京大法学部の意見を無視、滝川教授の休職処分を強行する。

 当時、治安維持法を基礎法とする権力による苛酷な弾圧体制が確立され、その体制下で権力は、容赦ない取り締まりと厳しい反共宣伝を、あらゆるメディアを媒介に行っていたが、そうした状況下の京大では、宮本英雄法学部長・佐々木惣一・末川博両教授を筆頭に15人の教授の内8人の教授と、18人の助教授内13人が文部省に抗議の意思を貫き、「死して生きる途」(恒藤恭教授の言)を選び辞任し、一部の京大法学部の学生は、教授を支援する戦いを展開した。だが、京大の他学部教官をはじめ全国の大学の教員や学生は、権力の強権政治の前に屈伏して沈黙を守った。もっとも、東大の美濃部逹吉・横田喜三郎両教授らごく少数の教授は、京大法学部教官支持の論陣をはった。しかし東大法学部としてはなんの態度表明も行わなかった(敗戦後、東大総長に就任し、講和条約締結に際して全面講和論を展開して、当時の吉田首相から「曲学亞世(きょくがくあせい)の徒」と批判された南原繁博士は、このことを「終生遺憾」とした)。そのため全国的運動に発展せず、京大事件は教授辞職で終結をむかえることとなった(なお、滝川教授は36年弁護士を開業)。

さて、戦後教育界の民主化政策の下での1945(昭和20)年11月19日、京都大学法学部は、全学生を法経第1教室に集め、「京大(滝川)事件」に関して、黒田法学部長が、時の鳩山文相が、京大法学部教授会の意向を無視、さらに小西総長の文部省に対する教授辞職の具申もないままに、法学部の滝川幸辰教授に辞職を迫った(形の上ではは休職処分)ため、ついに時の京大法学部全教授も辞表提出を見るにいたったという全貌を説明するとともに、学内自治による清新な京大再建の方針を明らかにし、すでに定年年令をすぎていたため、名誉教授として復帰の佐々木愡一教授と南方にいる宮本英雄教授を除く滝川幸辰(後京大総長に就任)、恒藤恭、田村徳治教授と立命館大学の学長に就任していた末川博教授に対して、直ちに大学への復帰を懇請した(また、同月21日には九州帝大法学部教授会が、向坂逸郎、石浜知行、高橋正雄、佐々弘雄、今中次麿教授ら5人の復職を、東北帝大は服部英太郎と宇野弘蔵両教授の、23日東京産業大学〔後の一橋大学〕は大塚金之助教授の復帰をそれぞれ決定した)。

ただ京大(滝川)事件の真相に関しては、たとえば、その真相にせまる一つの資料である滝川教授の処分を決定した「文官高等分限委員会」の議事録が、国立公文書館に保管されているが、政府はその公表を、事件からすでに70年近くが経過しているにもかかわらず、拒否し続けている。それはそこに、これまでの研究で明らかになったものとは異なる事実が記載されており、今日においても、権力を維持してきた一定の勢力にとって問題になるほどに重要な内容を含んでいるとしか思えない措置である。それにしても、国民としての知る権利が、政府によって閉ざされている現実は、戦後半世紀しか経過していない日本における民主主義の歴史の軽さと、その成熟度の程度を見せつけている。

 京大事件の結末そのものは、強大な天皇制国家権力の前に敗北という形で終結したが、京大教授や学生のかかる権力に対して行った教授支援運動が、敗戦後、誤った歴史とそれに抗して運動を学ぶ契機となり、それが学問の自由と大学の自治法理確立の礎になった。

 憲法第23条が保障する学問の自由の原理と、教育公務員特例法第4条~第12条が明記する採用、昇任、転任、降任、免職、休職、懲戒、勤務評定等々関しては、大学の管理機関の審査が必要としたことに代表されるような大学自治の原理は、歴史的には、京大事件の顛末がその起源といえる。

 5月、昭和天皇が、「十一会にて赤の問題、滝川事件等論議する」(木戸幸一日記)。


 6月、昭和天皇が、「池田克司司法書記官より、学習院赤化事件の様子を聞く」(木戸幸一日記)。


 6.7日、共産党幹部佐野学および鍋山貞親が獄中で転向声明。これ以後共産党被告の転向が続く。


 8.11日、桐生悠々信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤う」を掲載。その後問題化し、桐生は退社に追い込まれた。


 9.13日、日本労農弁護士団の検挙。


 10月、国民党の兵力50万人が約100機の航空機に支援されて、共産党の根拠地江西省瑞金への第5次攻撃を開始。四方から包囲された共産党軍10万は、瑞金の放棄を余儀なくされることになる。


 10.14日、ドイツ、国際連盟脱退。


 11.28日、共産党委員長野呂栄太郎の検挙[翌1934年2月19日:獄死]。


 この年、ハンガリー出身の物理学者・レオ・シラードが、ロンドンの道路を横断中、中性子による核分裂の連鎖反応が原子爆弾の仕組みになり得るとひらめく。(リチャード・ローズ「原子爆弾の誕生」)


1934(昭和9)年の動き

 (この時代の総評)


 1.15日、日本共産党スパイ査問事件が発覚。


 1.23日、陸相が荒木から統制派の林銑十郎に交代し、軍務局長には永田が抜擢された。この時の人事で、皇道派は陸軍省中枢ポストから排除されている。参謀次長から教育総監に転じていた真崎もこの時罷免された。

 基本的には皇道派・統制派の両派ともに、国体改革が必要な点では一致していたが、この時点で改革の方針を巡り、陸軍内部の改革派は二つに分裂したということになる。これ以降、二・二六事件まで陸軍内部では、怪文書が飛び交う皇道派と統制派の激しい対立が続くことになる。

 この頃軍は、軍隊内務書を改訂し規律強化をはかる。しかし現場を知らない軍上層部の作成のため、上司への絶対服従・細かい規則の積み重ねを増やしただけの内容。結局、軍隊内務は厳格化・硬直化の方向に進んだ。内務規定があまりにも厳しくなり、現実からの隔たりが大きくなれば、逆に実際には守れない規則を形式上守ったことにするため、外面的辻褄合わせが横行する。内務規定厳格化は全くの逆効果になっていた。


 1月、米国でドル通貨の40.94%切り下げ。


【溥儀が初代の満州国皇帝に擬せられる】
 3月、溥儀が初代の満州国皇帝に即位。「五族(日・満・漢・蒙・朝)協和」が奏でられた。この満州国創設が「八紘一宇」の足がかりとなった。

【「帝人事件」発生で斉藤内閣総辞職】
 昭和9年には政財界を巡る疑獄事件「帝人事件」が起きる。 時事新報の記事で帝国人造絹糸会社(帝人)株をめぐる贈収賄疑惑が浮上し、4月、検察が、台湾銀行所有の帝国人絹株の売買に背任、贈収賄の疑惑があるとして、台湾銀行幹部や帝人重役河合良成(かわいよしなり)、永野護(ながのまもる)らを逮捕起訴した。5月、大蔵省幹部も収賄の疑いで相次いで逮捕され、政治家や官僚16人を起訴し政財界に大きな衝撃を与えた。

 7月、斎藤実内閣は総辞職に追い込まれた。内閣総辞職後、斎藤内閣の中島久万吉(くまきち)商工相、三土忠造(みつちちゅうぞう)鉄道相らも検挙された。この事件は、帝国人絹株式会社の売り渡しを巡り、大蔵省幹部と財界との間で背任・汚職があったとする大疑獄事件となった。しかし事件そのものが検察による全くのでっち上げであった。検挙当局の被検挙者に対する取調べ状況が明らかになるにつれ、その不当性を非難する声が高まり、司法ファッショのことばが生まれた。事件当時から検察ファッショ・司法ファッショであるとして批判されている。1935年に公判が開始され265回にわたる公判のすえ、1937(昭和12)年、全員に無罪判決が下っている。

 この事件の背後には、前年末以来中島商工相、河合良成ら財界グループ「番町会」のメンバーが推進していた政民連携運動を挫折(ざせつ)させ、斎藤内閣を倒壊させることをねらった政友会久原房之助(くはらふさのすけ)派、司法界の長老平沼騏一郎(きいちろう)枢密院副議長、軍部、右翼の策謀があったとされている。右翼勢力の倒閣運動と、大蔵省と司法省の政治的対立にその原因があった。

 事件の黒幕とされている平沼騏一郎は、明治43年の大逆事件で、検事として社会主義者、幸徳秋水らに死刑を求刑。大本教弾圧にも指揮をとっている。 

 しかし本来なら司法内部の責任問題に発展すべきところが、当事者の検事正には何のおとがめもなく、後には司法次官に栄転する。「これを見るに当時は軍部・官僚だけで司法でも身内優先、事なかれ主義という腐敗が蔓延していた様です」とコメントされている。
 「★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK79」の新世紀人 氏の2010.2.3日付け投稿「帝人事件、1934年(昭和9年)」を転載しておく。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/ya-fuian/29_framepage.html

【◎】 番町会事件(帝人事件、1934年)
【参考】『角川 日本史辞典』(1966.12)


 一九三四年、番町会の会員が検挙された事件。一九三三年ごろから、郷誠之助の番町私邸に集まった財界若手実業家水野護、長崎英造、河合良成、小林中、正力松太郎らのグループを番町会という。一九三三年、帝国人絹株高騰で番町会メンバーが台湾銀行から鈴木商店担保株を買い受け、これをスキャンダルとして武藤山治が「時事新報」で暴露。平沼騏一郎、政友会久原房之助派らはこれを政民連携運動の破壊に利用。一九三四年、帝人事件として番町会メンバー、中島知久平商相らは検挙されたが、一九三七年、全員無罪となる。【参考】大内力著『ファシズムへの道』(中公文庫・日本の歴史 )

 この本では、この事件に4ページ近く費やされている。大事件であったらしい。〝齋藤内閣打倒の動き〟 昭和九年に入ると、そろそろ齋藤内閣も人々にあきられ、いろいろな方面から政局の転換を促す動きが現れはじめた。たとえば軍部は、さらに強力な内閣を出現させて、自分たちの政策をもっとおしすすめようという意図を露骨に持ち始めていた。高橋(是清)蔵相の財布のひもが案外かたく、軍備拡張がおもうにまかせないこともその一つの理由であった。とくに海軍は一九三五~六年の危機をさかんに唱え、軍縮条約の破棄を主張していたが、財政上の理由もあって、齋藤はそれを抑えるほうにまわっていた。陸軍は華北への進出をあせっていたが、昭和八年九月、広田弘毅が外務大臣になってからは、多少ともブレーキがかけられた。イギリスとの話し合いによって中国問題の打開をはかろうというのが、広田の基本方針だったからである。(中略)

 このころ政党の内部にも、また官僚の一部にも軍部の横暴にたいする反発があったが、そういうことも軍部を刺激する要素となった。(中略)。政党も軍部の進出を抑えるべく財界とも共同して戦線統一をはかりはじめていた。河合良成、郷誠之助、永野護など若手財界人の結成する番町会が肝煎りになって、政民両党(立憲政友会、立憲民政党)の連合運動をすすめ、議会政治擁護の気勢をあげたのは昭和八年(1933)末から九年一月にかけてであった。第六十五議会では、珍しく政民両党から軍部にたいする攻撃がさかんにおこなわれた。

 とくに、陸軍省調査部長の東条英機の主張でだされたといわれる、軍民分離を促す言動にたいする警告という陸海軍の共同声明(1933年12月9日)は、議会の攻撃のまととなり、それは軍部の狼狽を現すものだとか、軍人の政治介入であるとかといった批判やら非難が軍部大臣に集中した。(中略) しかし政党のほうは、軍と対立することで統一されていたわけではむろんない。軍と提携して勢力を伸ばそうとするもの、もう一度政党に政権をとり戻そうと考えるものなど、さまざまの動きが渦をまいていた。またこの軍部に対する攻撃にしたところで、むしろそれによって政治を窮地に追い込むことが目的だったのであって、かならずしもファシズムから日本を守ろうとするほどの意識の高いものではなかった。

 したがって同じ第六十五議会では、中島商相にたいする「足利尊氏問題」とか、鳩山文相にたいする樺太工業問題とかの追及がおこなわれた。(中略)。こうした一連の事件は、とくに政友会の久原房之助の画策にでたものだが、この 各個撃破によって齋藤内閣は大いによろめいた。

 もう一つ、この内閣の大きな敵役になったのは枢密院の平沼だった。これより先、昭和九年(1934)五月に枢府議長の蔵富勇三郎が辞任したが順調に行けば副議長の平沼が昇格するところだった。ところが西園寺(公望)が平沼を嫌っていたこともあって、齋藤は一木喜徳郎(前宮相)を議長にすえた。このことから平沼は大いに齋藤にふくみ、久原と結んで倒閣運動にのりだすのである。中島や鳩山の問題も平沼の差し金だというし、やがておこる帝人事件は、検察のボス平沼のうった大芝居であった。

〝帝人事件〟 帝人事件の発展は、当時、鐘紡をやめた武藤山治が社長をしていた『時事新報』が、一月十六日から「番町会を暴く」という記事をのせはじめたことにある〔これを書いたのが和田日出吉氏〕。これは、・ 政党と政商の結託暗躍はあらゆる社会悪の源となり、つひに五・一五事件の洗礼を受けた非常時内閣下において政党政商等はしばらくその爪牙をかくして世の指弾を避くるに汲々たる折柄、ここにわれらは、わが政界財界のかげに奇怪な存在をきく。曰く『番町会』の登場がそれである。すなはち彼等はいまや、その伏魔殿にたてこもり、かつて政党政商がなせるが如き行為、紐育(ニューヨーク)『タマニー』者流にも比すべき吸血となしつつ政界財界を毒しつつあるといふ。しかもこの『番町会』のメムバーとして伝えられるものに、某財界の巨頭(郷誠之助)を首脳としこれを囲繞するものに現内閣の某大臣(中島久万吉)あり、新聞社員(正力松太郎)あり、政権を笠に金権と筆権を擁して財界と政界の裏面に暗躍する異常は眼にあまるものあり・・


 という書き出しのように、一種の暴露ものであった。武藤がなぜこういう記事をのせはじめたのかは、かならずしもはっきりしないが、長く少数党(実業同志会)を率いて政界にあり、しかも番町会の外にあった武藤には、筆誅をくわえたいという意図も動いていたことはたしかだろう。それに新聞の販売政策がからんでいたのである。

 この記事は、番町会の罪悪をたくさん並べたてて暴露していたが、その一部として帝人問題がとりあげられた。帝人=帝国人絹というのは鈴木商店系の人絹会社であるが、このころの人絹ブームにのって、営業成績は向上をつづけていた。ところが金融恐慌以来、この会社の株二十二万株あまりが台銀の担保に入っていた。この株価の上昇が見込まれていたので、金子直吉(鈴木商店)らは、このさい台銀からそれを買い戻そうということになり、その斡旋を番町の面々に依頼した。とくに水野護がその中心になり、正力が永野の依頼で活躍したといわれているが、かれは、そこで鳩山一郎・黒田英雄大蔵次官らに働きかけ、島田茂台銀頭取を動かして、ついに十一万株の払い下げを実現させた。

 そのさい、株価の問題で金子らと折り合いがつかなかったので、永野らは別に買受団をつくり、一株百二十五円でこれを買い取った。だが、それと同時に帝人が増資を決めたので、この株はたちまち百四十ー五十円にあがり、永野らは大儲けをした。・・これが、暴露されたことのおおよその内容であった。

 この記事がでたあと、検事局が動き出し、四月十八日には台銀の島田頭取、帝人の高木復亨社長および永野、河合良成、長崎英造など番町会メンバーが召喚された。そして五月に入ると大蔵次官黒田英雄、銀行局長大久保偵次らが収賄容疑で拘引され、やがて起訴された。また中島も召喚されたが、そのとき参考人としてよばれた三土忠造は、検事の主張する事実を否認したので偽証罪に問われた。こうして、帝人事件は空前の大疑獄となったが、齋藤内閣は黒田次官の起訴確定後、七月三日、ついに責任を取って辞職した。倒閣がここに成功をみたわけである。

 ところで、この帝人事件の裁判は昭和十年(1935)六月からはじまり、十二年十月までかかったが、結果は全員無罪であった。(中略)。この事件は、一方では明らかに倒閣を目的とした政治疑獄であり、それとしては十分目的を達していた。その張本人が平沼であった。かれは、その主催していた右翼団体国本社の一員であった検察の大物塩野季彦(第一次近衛内閣の法相)を使って、この事件をデッチあげさせたといわれている。事実、このときの検事の取調べは猛烈で、中島以下にも拷問に近いことまでし、虚偽の自白を強要した。検察ファッショという言葉が生まれたのもこのときからである。平沼の背後にはむろん右翼や軍部があったし、平沼は、今度こそ政権は自分のところに転がりこむと読んでいた。それをまたかついでいたのが久原の一派であった。(中略)

 なお、この事件の最中の昭和九年(1934)三月九日には、武藤山治が北鎌倉の自宅から駅に向う途中、福島某なる青年にピストルで撃たれて死ぬという事件がおこった。これは一時は背後に番町会があるのではないかとして騒がれたものだったが、実は武藤の恐喝に失敗した肺患の青年がやった単なる偶発事件にすぎなかった。

◎関連人物と『長篇 人絹』の登場人物(【・・・】は作中変名)。以下のリストは仮テキストで調べ切れていません。
武藤山治(「時事新報」)【武藤山治。実名で登場】/報知新聞記者(和田日出吉)【輪田、大森山人】/報知の森田久
金子直吉【兼子】/郷誠之助【谷請之介男爵】/水野護【長井】/長崎英造 /河合良成【相川】/正力松太郎【羽戸】 
島田茂台銀頭取【田島頭取】/高木復亨帝人社長【木谷帝人社長】
平沼騏一郎(枢密院、検察のボス)/中島知久平商相/中島久万吉商工相【嶋中九萬吉商工大臣、政民連携運動】/鳩山一郎/久方日銀総裁/黒田英雄大蔵次官【目黒次官】/久原房之助(政友会)/検察の大物塩野季彦/銀行局長大久保偵次【久保銀行局長】/三土忠造鉄道大臣【三浦鉄相】
福島某【福馬進市】

 5.2日、出版法改正公布[皇室の尊厳冒涜・安寧秩序妨害への取締強化]。


 6.1日、文部省に思想局を設置。


【斎藤内閣→岡田啓介内閣】
 7.8日、海軍大将岡田啓介が内閣を組織、岡田啓介内閣が成立。蔵相には高橋是清が再び留任。

 8.2日、ヒットラー総統に就任。


 9月、昭和天皇が、「今西京子と中条百合子の件」(木戸幸一日記)。


 10月、陸軍パンフレット事件。陸軍省がパンフレット「国防の本義とその強化の提唱」を作成し、「広義国防」論を主張する。これは、「対ソ連戦を想定した戦力の強化」と「資本主義の修正による国民的基盤の強化」を訴えたものであった。これを全面的に支持したのが社会大衆党の麻生久であった。これに結合したのが新官僚(後の革新官僚)たちであり併走することになる。


【中国共産党紅軍が長征開始】
 中国共産党紅軍は、8月より36年(昭和11)の10月にかけて約1万キロの長征に成功している。毛沢東と朱徳、周恩来らに率いられた紅軍は、西に向かって大きく迂回した後、チベットの高山地帯を通過して北へと転じ、一年後の35.10月には甘粛省と*西町の境界に位置する新たな根拠地・呉起鎮へと辿りついた。後に「長征」と呼ばれることになるこの脱出行は、全行程約1万2500キロに及ぶ苛酷極まりない徒歩行軍であり、紅軍はその道程で兵力の約9割を失ったと云われている。だが、これによって生き延びた共産党勢力は、新天地の呉起鎮を拠点として、勢力を扶植拡大させていくことになった。

【「11月事件」(「士官学校事件、士官学校生クーデター未遂事件」とも云う)発生】
 11月、陸軍の皇道派と統制派の厳しい派閥対立下、「11月事件」(「士官学校事件」、「士官学校生クーデター未遂事件」とも云う)が起こる。後の2.26事件の首謀者村中孝次・磯部浅一ら陸軍皇道派青年将校が、クーデターを企図した容疑で、士官学校生徒とともに逮捕された事件で、証拠不十分で不起訴になった。これが2・26事件の出発点となった。

【日本政府がワシントン海軍軍縮条約の破棄通告】
 12.29日、日本政府は、ワシントン海軍軍縮条約の破棄を閣議決定し、通告。

 1934年:南北朝正閏論足利尊氏を過去に評価した商工大臣中島久万吉菊池武夫や右翼から攻撃を受け、辞任に追い込まれる。


1935(昭和10)年の動き

 (この時代の総評)


【東大教授・美濃部達吉氏の「天皇機関説」が非難される】
 2.28日、帝国議会の貴族院で、東大教授・美濃部達吉(1873-1948)の「天皇機関説」が非難され、右傾軍国主義のスピードを増した。この問題では、政党が進んで軍部のお先棒を担ぎ、学問と言論の自由圧殺に加担した。

 天皇機関説は美濃部達吉が東大教授時代に主張した学説で、明治の終わり以降、通説となっていたが、1935年頃、陸軍皇道派や民間右翼はこれを批判し始めた。美濃部は貴族院議員として弁明したが批判はやまず、不敬罪で起訴され貴族院議員を辞職、二・二六の数日前に暴漢に襲われている。美濃部は当時次のように述べて天皇大権としての統帥権を批判している。

 「統帥大権の作用が国務大臣の責任の外におかれることは…不当にその範囲を拡張すれば、法令二途に出でて二重政府の姿をなし、軍隊の力を以て国政を左右し、軍国主義の弊きわまるところなし」。

 1935〔昭和10〕年2月25日、第67回帝国議会貴族院で、美濃部議員(63歳)は、近衛文麿議長の指名で天皇機関説に関するいわゆる「一身上の弁明なる弁明演説をした。次のように述べている。貴族院議員菊地武夫、美濃部達吉の議員辞職を要求。4月9日:主著の発禁。9月18日:美濃部の議員辞職。
 「・・・日本の憲法の基本主義と題しましては其の最も重要な基本主義は、日本の国体を基礎とした君主主権主義である。之は西洋の文明から伝はつた立憲主義の要素を加へたのが日本の憲法の主要な原則である・・・我々は統治の権利主体は、国体としての国家であると観念いたしまして、天皇は国の元首として、言換えれば国の最高機関として此国家の一切の権利を総攬した給ひ、国家の一切の活動は立法も行政も司法も総て、天皇に其最高の源を発するものと観念するのであります。所謂機関説と申しまするのは、国家それ自身を一つの生命あり、その自身に目的を有する恒久的の国体、即ち法律上の言葉を以て申せば一つの法人と観念いたしまして、天皇は此法人たる国家の元首たる地位に在(まし)まし、国家を代表して国家の一切の権利を総攬し給ひ、天皇が国法に従つて行はせられます行為が、即ち国家の行為たる効力を生じると云ふことを言ひ現すものであります」。

 昭和天皇「独白録」は次のように記している。
 「天皇機関説が世間の話題となった。私は国家を人体にたとえ、天皇は脳髄であり、機関というかわりに器官という文字を用うれば、わが国体との関係はすこしもさしつかえないではないかと本庄武官長に話して真崎に伝えさしたことがある。真崎はそれで判ったといったそうである。また現神の問題であるが、本庄だったか、宇佐美だったか、私を神だというから、私はふつうの人間と人体の構造が同じだから神ではない。そういうことをいわれては迷惑だといったことがある」。

 3.4日、袴田里見の検挙[共産党中央委員会の壊滅]。


 3.16日、ドイツ再軍備宣言。


 5.29日、華北問題重大化。


 5月、岡田内閣の後藤文夫[新官僚の元締め的存在]内務大臣の提唱により内閣調査局設置。これによって「陸軍統制派・新官僚・社会大衆党」のラインが完成した。これに対して、議会軽視に憤懣を募らせていた政友会政友会は陸軍皇道派とが結びつき対立した。更に、陸軍皇道派に右翼結社である国本社を率いる平沼騏一郎・枢密院副議長が結びつき、「陸軍皇道派・平沼系右翼・政友会」のラインが完成した。帝国議会で第二党となっていた民政党は、「陸軍統制派・新官僚・社会大衆党」のラインに近い存在でした。更には重臣たちもこちらのラインでした。政友会は議会第一党でありながら、政権を担当できず(政党内閣ではなかったこと)、これに不満を募らせていました。


 6.28日、フランス人民戦線結成。


 6月、選挙粛正中央連盟成立。「新官僚」が中心となった「選挙粛正」運動を社会大衆党・民政党が支持。


 7.25日、第7回コミンテルン大会。


【統制派による皇道派排斥の動き】
 統制派の巨頭である軍務局長・永田鉄山の勢力は、皇道派の柳川兵助陸軍次官を超えて全陸軍に号令するまで強力になった。永田は、皇道派の一掃に乗り出した。

 7月、統制派にかつがれていた参謀総長閑院官が、林銑十郎陸軍大臣、統制派の永田鉄山軍務局長とつるんで、皇道派が首領と仰ぐ真崎甚三郎(まざきじんざぶろう)教育総監の更迭問題が起こる。教育総監・真崎甚三郎は軍事参議官に転出させられ、統制派の渡辺錠太郎が教育総監になった。

 7.19日、相沢中佐がこの人事に強い異議を持ち永田少将を訪問する。この時、相沢中佐は、林陸相の処置に誤りが多いのは軍務局長の責任であるとして永田少将に辞職を勧告したといわれる。この後、相沢中佐の上司であった連隊長・樋口大佐がこの相沢の行動を警戒して、相沢の台湾赴任を申請したといわれる。8.11日、相沢中佐は、伊勢神宮に参拝し、当夜、東京に着いた。東京に着くとまっすぐ明治神宮に向かい参拝している。その夜、相沢中佐は親交のある西田税の家に泊まり、そこで大蔵大尉と歓談した。西田、大蔵共にその後の2.26事件の中心人物である。この時、相沢中佐は、大蔵大尉に、「ときに大蔵さん、いま日本で一番悪い奴は誰ですか?」と聞き、大蔵が「永田鉄山ですよ」と答え、「やっぱりそうでしょうなあ」と相沢はうなずいたという(児島襄「天皇」?、244頁)。皇道派の相沢三郎中佐は、永田軍務局長が「重臣、財閥、政党の手先となり皇軍を私兵化」している統制派の元凶であると考え、永田殺害を決意する。

 7月、渡辺錠太郎(61歳)が陸軍教育総監に就任する。陸軍では陸軍省の大臣、参謀本部の参謀総長、教育総監部の教育総監を「三長官」と呼び、行政上の重要問題や主要な人事につき、この三者の合議で決めていた。陸軍省は軍政(軍隊の維持管理)、参謀本部は軍令(軍隊行動に関する命令)、教育総監部は軍隊教育を担っていた。


 8.1日、中国共産党が抗日救国声明。


 8.3日、第1次国体明徴声明。政府が天皇機関説を公式に否定(「国体明徴」宣言)。


【相沢事件発生】
 8.10日、陸軍内部では皇道派と統制派の対立が頂点に達し、この日陸軍省内部で白昼堂々、統制派リーダ―にして東条英機の兄貴分だった永田鉄山(軍務局長・少将)が、皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件が起きた(「相沢事件」)。相沢は翌1936年7月死刑になったが、この事件が2・26事件へと発展する。

 後に2.26事件に連座して4年の禁錮刑になった大蔵栄一大尉は次のように述べている。
 「私は相沢さんが心の底から怒ったことを二度知っている。その一つは、(相沢が)池田純久(11月事件を辻政信らと図る。のち関東軍参謀副長、内閣総合計画局長官)に会った直後、相沢さんは『池田はまず、お前たちで勝手にやるがいい。あとは俺たちがひきうけると、とんでもないことをいった』と顔を青くして怒った」。
(私論.私見)
 この言は、相沢が単独でテロを働いたのは事実としても、相沢を教唆するグループがあったことを窺わせる。

 9.5日、川島陸相就任。


 10.6日、グルー駐日米国大使は日本政府に対して抗議の書簡を送る。日本は門戸解放・機会均等の原則を守らず、中国におけるアメリカの正当な権益を侵していると抗議。これに対して近衛首相は二度の声名を発し、「帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り、今次征戦究極の目的亦此に存す」また国民政府といえども、「従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来たり参ずるに於いては、敢えて之を拒否するものにあらず」と述べた。つまり日中戦争の目的とは、アジアから欧米の影響を排して、日本主導による新秩序を作り出すことである、というもの。いわゆる「東亜新秩序」宣言。


 10.15日、第2次国体明徴声明。


 10.末、土肥原華北派遣。


 11.12日、関東軍兵力を山海関に集中。


【昭和天皇が、陸軍特別大演習を統括するため鹿児島、宮崎両県を訪問】
 11月、昭和天皇が、陸軍特別大演習を統括するため鹿児島、宮崎両県を訪問。11.16日、後の地方巡視で、鹿児島の霧島神宮を参拝。鈴木貫太郎侍従長、本庄繁侍従武官長が随行した新聞聯合写真部の内山林之助氏撮影の写真が遺されている。約100日後、2.26事件に巻き込まれ、鈴木貫太郎侍従長は銃撃され瀕死の重傷を負った。妻たかの「とどめはやめてください」との懇願で、軍刀を持っていた安藤輝三大尉が引き下がり、一命をとりとめた。本庄繁侍従武官長は反乱軍の鎮圧に動いた。天皇は連日十数回も本庄を呼び状況を尋ねている。本庄は、青年将校らの思いを分かって欲しいと訴えたが、天皇は聞く耳をもたず「自ら近衛師団を率い、これが鎮圧に当らん」(「本庄日記」)と断固鎮圧の意志を示した。事件は2.29日、将校らの投降で幕を閉じた。鈴木は退任し、本庄は引責辞任した。その後、鈴木は1945.4月、天皇の懇請に応じ首相に就任。難しい国政の舵取りをして戦争終結を実現した。本庄は、満州事変の際に関東軍司令官だっことで同年11月、連合国軍総司令部から戦犯として逮捕命令が出たため、自決した。

 12.5日、ソ連で新憲法が制定される。


 12.8日、第二次大本事件。大本教の出口王仁三郎ら幹部30余名逮捕。翌1936年3月13日:結社禁止。


【積極財政行き詰まる】
 積極財政以降この頃まで日本は恐慌に喘ぐ世界を後目にめざましい発展を遂げていた。昭和6~11年間に軍需品を中心とする全工業製品の生産額は2.5倍に増え、輸出も3倍に増えている。この間にインフレは卸売物価が1.4倍になった程度。しかし昭和10年頃から積極財政の継続が困難になり始める。これは次のようなプロセスで起きている。

①・景気回復により、公債の市場消化を成功させていた銀行融資が、軍需産業の設備投資に回る。
②・このため低金利の公債に資金が向かなってくる。
③・さらに好況が続き、市中資金が逼迫してくる。
④・これにより一般貸し出し金利が上昇する。
⑤・このため政府の低金利政策の維持が困難になってくる。
⑥・低金利の国債は、価格維持も難しくなる。

この様にして公債市中消化率が急激に悪化。昭和9年度のには128%だった消化率が、10年度末には消化率は77%に急落。

 この市中未消化公債が増えることは、日銀の公債引き受けが増える事を意味する。これは日銀の通貨発行量を増やすことにつながる。つまり、経済的裏付けの無い市中通貨量増大によるインフレ、という悪性インフレの危険性が現実化し始める。公債増発の結果、国債未償還額も累積し、総額は昭和6年末の64億円から、昭和10年度103億円まで、6割の増大。(参考までに昭和10年の国民所得推計額は144億円)

 昭和10年下半期には深井日銀総裁が、「悪性インフレの懸念が出てきた。もう危ない。日銀引き受けの赤字国債と軍事費の増大はもうやめるべきだ」と進言。高橋蔵相はこれを受け、11年度予算編成から公債漸減方針を打ち出す。つまり、歳出の膨張を押さえ、税収の自然増を目安に公債を削減しようとした。時局匡救予算を9年度限りでうち切り、軍事費も削減しようとした。この事は軍事費増額を要求する軍部の反発を買い激しく対立。結局、11年度予算でも軍事費の増額追加を認めざるを得なくなる。(「あの戦争の原因」)

 【以降の流れは、「昭和時代史4、2.26事件以降の流れ(1936年から1939年)」の項に記す】






(私論.私見)