ハワイ諸島侵略史

 (最新見直し2006.9.3日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「NHKシリーズ番組その時歴史が動いた」の2006.8.30日付け第260回「幻のハワイ日本連合  〜カラカウア王・祖国防衛に賭けた生涯〜」がハワイ王国のカラカウア王を採りあげて、NHKなりに「ハワイ諸島侵略史」を報じていた。れんだいこには初耳の話であった。これに興味を覚えたので本サイトで検証することにする。

 いつものやり方であるが、ネット検索で出てきた「カイウラニ王女1」、「カイウラニ王女2」、「23.カラカウア王の提案〜幻に終わった日本・ハワイ連邦構想 (1998.2.21)」、「明白な運命(ハワイ王国の消滅)」 、「ハワイの歴史」、「ウィキペディア(Wikipedia)カラカウア (ハワイ王)」等々を参照し、れんだいこ風に纏めた。著作権云々に煩(うるさい)い者はご遠慮頼む。そうでない者は見てたもれ。

 2006.9.3日 れんだいこ拝


【ハワイ侵略史1、カメハメハ王扇動によるハワイ諸島統一】
 太平洋の真ん中に位置しているハワイ諸島は。近くには大陸や島は存在せず、東京から6200km, サンフランシスコから3900km、シドニーからは8000kmの位置にある。

 1779年、イギリスの探検家ジェームズ・クック(Captain James Cook)船長がハワイ島のケアラケクア湾に到着した。「西欧夷人」の触手がハワイ諸島に伸びた瞬間となった。以降、ハワイの運命やいかに。

 この時代、ハワイ諸島は3つの王国に別れていた。ポリネシア系住民が住んでいた。クック一行の上陸に対し、原住民は歓待した。ところが、クック一行は、既にアフリカやカリブ海諸国でそうしたように原住民をゴイム扱いし奴隷化支配せんとし始めた。首長や神官の権威を損ねたため、両者は抗争に突入した。クック始め数人の船員が惨殺された。

 クックの後に続いて現れた「西洋夷人」サイモン・メトカーフが、原住民を100人以上虐殺した。これに対し、ハワイ島とマウイ島東側を統べていたカメハメハ王(King Kamehameha)が闘いに起ち上がり、激戦の末勝利した。戦後、王は、「西洋夷人」に取り込まれた。カメハメハ王は、その甘言教唆に従いハワイ諸島全域の支配に向かい始めた。1795.4月、オアフ島へ侵攻し、ヌウアヌパリの戦いで大勝利を納めた。西洋武器を駆使しての勝利であった。

 1804年、王宮をマウイのラハイナから一時ホノルルに移し、カウアイ島の侵攻を計ったが失敗した。1810年、カウアイ島のカウムアリイ王と講和条約を結ぶことにより、ハワイ全諸島を統一した。この時、「西洋夷人」がカメハメハ王権力に食い込んでおり、これがその後の王朝の崩壊につながっていくことになる。それは余りにも高過ぎる以上の代価を支払わされることになるが、カウムアリイ王は、この時点ではまだそれを知る由もない。

(私論.私見) 「ハワイ侵略史1」について

 カメハメハ王が「西洋夷人」を取り込んでハワイ諸島を天下布武したことを、日本の戦国武将・織田信長のそれに比すると、やはり脇が甘かったことになるのではなかろうか。織田信長は、南蛮交易を押し進めたが、権力内に「西洋夷人」を取り込むことはしなかった。それが為かどうか本能寺の変で不慮の死を遂げることになるのであるが、「西洋夷人」への対応差が大きい。このことは重要であると思われる。ちなみに、ここで云う「西洋夷人」とは、例の改宗ユダヤ人というネオ・シオニストと考えれば良い。一般的に西欧人と表記するのはゴマカシで、正式には西欧ネオ・シオニストとすべきではないかと思う。


 2006.9.2日 れんだいこ拝


【ハワイ侵略史2、欧化政策の強権導入】
 カメハメハ大王の王朝政治が始まった。併行して外国貿易が盛んになり、ハワイ産物が国外に持ち出された。王は、外国貿易の実態を横目に見ながら、生活習慣や宗教の伝統を重視せんとした。ハワイの伝説に基づく古来の神々を崇拝し、祭祀場であるヘイアウを建立している。カメハメハ王は、ハワイ島ヒロ、マウイ島ラナイナ、ハワイ島カイルア・コナと首都を移した。1819.5.8日、統一からわずか9年後、逝去した。死因の様子は分からない。 この時が、同王朝の最盛期となった。

 カメハメハ大王が死んだこの年、「西洋夷人」宣教師、捕鯨船、商人が次々現われ、それと共にハワイ諸島の資源が乱獲された。この間、ハワイアンの大らかな民族的気質もあってか「西洋夷人」と和合的で急激に混血が産まれていった。ハワイ人には、もともと土地を所有するという考えは無かった。「西洋夷人」は土地制度をつくり、ハワイの3/4の土地を自らのものとした。タロ芋畑に代わってサトウキビが栽培され始めた。

 この頃、伝染病が流行り、ハワイ人は新しい病気に対する免疫力が無かった為、カメハメハ大王11世時代に30万人いたハワイ人の人口は、50年後には数万人にまで落ち込むことになる。人口に占めるハワイ人の割合は減り続け、白人と労働力としてのアジア人が増加していった。

 1819年、1世の息子リホリホが後継し2世を名乗った。カメハメハ2世の摂政(クヒナ・ヌイ)となった前王妃カアアフマヌ(Kaaafumanu)は「西洋夷人」に取り込まれており、1世時代の伝統尊重政治を改めハワイ固有の制度や宗教やタブー(カプ)を廃止する政策に転じた。これによりハワイの伝統的文化秩序が廃れていき、西欧文化もどきが幅をきかせる社会へと変質していくことになった。

 アメリカのプロテスタント伝道師団が来訪し、布教活動をはじめた。宣教師達は、ハワイ島に最初のキリスト教会となるモクアイカウア教会を建て、やがてハワイ語に文字を当てはめ聖書を印刷し、キリスト教の布教を始めた。蛇足ながら、ここで云うキリスト教とは、開祖イエスの事蹟を慕うものではなく、ネオ・シオニズム的ユダヤ教化された改宗ユダヤ人らによる変種キリスト教を意味している。当時世界史的に、この種の「変種キリスト教」がキリスト教の名の下に広められていき、植民地化の先兵的役割を果たしていった。

 2世の王妃ケオプラニが、ハワイ最初の「この種のキリスト教徒」となった。続いて、カアフマヌやマウイの女酋長カピオラニが改宗した。これにより、多くのハワイアンがこの種のキリスト教」に帰依することとなった。伝道師は、半裸のハワイアンに服を強制し、フラダンスやサーフィンを禁止するよう働きかけた。1821年、オアフ島のホノルルにカワイアハオ教会が建設され、宣教師たちの保護や水・食料の補給のためと称してアメリカ合衆国の軍艦がホノルル港に投錨するようになった。「悪魔は、懐と背後に剣を秘め、善人の囁きと言葉を持ってやってくる」見本だろう。

 2世は、王妃とともにロンドンではしかにかかり、在位わずか5年で亡くなった。2世の弟カウイケアオウリ(当時10才)が即位し、3世となった。先王の後見人カアフマヌ王妃が引続き摂政(クヒナ・ヌイ)となり、その権力と発言権が彼女が亡くなる1932年まで続いた。3世の治世は王朝の中では最長の約30年間続いた。この間、ハワイの植民地化が進んだ。「国が溶解するのは、無能宰相による売国奴政策を通してである」という格好事例だろう。

 1840年、カメハメハ3世の御世に憲法が制定された。立憲君主制の体裁を伴って近代国家もどきの体制を固めたことになる。1843年、カメハメハ3世の時代に、イギリスのジョージ・ポーレット卿が武力によりハワイをイギリス領とした。1845年、ホノルルがハワイ王朝の首都となった。1849年、フランス人ギョーム・ディヨンの指揮で、ハワイ政府の建物がフランス軍により占拠されるという事態が起こった。つまり、ハワイ王国は、イギリスに始まりフランス、スペイン、アメリカというハゲタカに次々と狙われ、最終的にアメリカに併合されていくことになる。この間、ハワイ王朝は辛うじて存続し、西欧列強に独立主権国家として承認はさせていたが、欧米列強のハワイ植民地化の動きは止む事が無く、内実はどんどん空洞化していった。

 当時、投票権を持つ男性はハワイ王国の全男性中30%に過ぎず、 そのほとんどが白人であった。投票権を持つためには3千ドル以上の財産または年収500ドル以上とされていたため、王国の実権は少数の白人土地所有者たちの手に握られていた。ハワイの内閣はほとんど英米系の帰化白人で占められていた。

 1848年、「グレート・マヘレ法」が施行され、これにより権利関係に無頓着だったハワイアンは土地を手放してしまい、ハワイの土地が次々と白人の手に渡っていった。国土のほとんどが白人のものになった。白人所有の土地には砂糖キビ耕地が広がり、やがて砂糖プランテーション化し、労働力として数多くのアジア人が移民連行され始めた。中国、日本、韓国、フィリピン、・ポルトガル、プエルトリコなどからの移民が流入した。日本移民は、1868(明治元)年に始まり、以降年々増加し、1890(明治23)年にはハワイ総人口の40%が日本移民という迄になっていた。これが偶然という訳ではなかろう。この政策を推進した背後勢力がある筈であるが、その検証は為されているのだろうか。

 1854年、3世の死後、1855.1.11日、3世の甥・初代の孫アレキサンダー・リホリホが即位し4世となった(20歳)。4世はアメリカの野望を見抜き、閣僚からアメリカ人を排除した。通商・貿易におけるアメリカへの依存を低めるよう努め、またイギリスを初めとするヨーロッパの国々との取引を模索した。4世はイギリス贔屓(ひいき)で、英国式正装に身を包み、舞踏会をひらき、乗馬・クリケットを愛した。王妃エンマは病院の創設など社会福祉への貢献で名高くその美貌も有名だった。4世は親英政治と優雅な王宮風俗をつくりあげたが、1863.11.30日、在位9年の短さで夭折した(享年29歳)。エンマ女王はこの後も活発に政治活動を続け、1874年の国王選挙に立候補するが、カラカウアに敗れる。

 この頃、「バーニス騒動」が持ち上がっている。皇位継承資格者バーニス(Princess Bernice Pauahi Bishop)は、カメハメハ1世の孫にあたるロッド王子と婚約していた。しかしニューヨーク生まれのチャールズ・R・ビショップ(Charles Reed Bishop)と出会い、婚約を破棄してビショップと結婚した。ビショップは王室の一員待遇となった。
 1863年、4世の弟ロッド・カプイワ王子が即位し5世となった。兄同様アメリカのハワイ併合を危惧し、親英政治を行った。

【ハワイ侵略史3、米帝の介入と支配権の確立】
 この間、米墨戦争(1846年ー1848年、アメリカ合衆国とメキシコの間で戦われた戦争)、南北戦争(1861年ー1865年)を経たアメリカが、本格的に帝国主義的植民地化競争へと参入し始めた。19世紀、西欧列強に伍して俄かに台頭し始めた米帝国主義が、ハワイを太平洋戦略の拠点として位置づけハワイ王国に侵略を開始した。米帝国主義は、政治・経済・軍事と次々にハワイ王国の主権を蹂躙(じゅうりん) していった。19世紀後半、ハワイ王国は米帝国主義の餌食にされる目前にあった。ハワイ王国は、これに能く対応しきれるだろうか。

 1872年、5世42歳の時、死の床で初代王直系のただ一人の血統者である末裔の女性バーニスに王位を継承しようとした。しかし、ビショップと結婚しているバーニスは王位継承を断った。1873年、5世が死去した。生涯独身で過ごした5世には子供がいなかった為に跡継ぎが無く、カメハメハ王朝の直系は5代で途絶えることになった。カメハメハ5世は後継者を決めることが出来ぬまま世を去った。

 王族の中から選挙による王が選出されることになり、1872年、国王選挙が行われた。第6代として王族のルナリオが王国議会で選出された。しかし、ルナリオ王も在位僅か2年の1874.2.3日、後任を指名せぬまま死去した。再び王国議会で国王選出選挙が行われ、王族に連なるデービッド・カラカウアが、故カメハメハ4世の未亡人であるエンマ元女王を破り国王に選出された。この選挙でエンマ女王の支持者が暴動を起こし死者を出している。カラカウアは米英軍の力を借りてこの暴動を鎮圧した。

【ハワイ侵略史4、カラカウア王の抵抗】
 1874年、デビット・カラカウアが王位に就いた。カラカウア王は弟のウィリアム・ピット・レレイオホクを跡継ぎに指名した(但し、レレイオホクはリューマチ熱のためカラカウアより先に世を去る)。

 カラカウア王(King Kalakaua)は、即位当初より米帝国主義と在ハワイ米国人による政経両面に亙る圧力に悩まされた。1874.11月、カラカウア王は、自らワシントンに出向きグラント大統領と会談した。1875.3月、アメリカとの間に通商互恵条約を締結した。これにより、ハワイの産品である砂糖や米が無関税の輸入自由化商品となった。ハワイ産の砂糖が大量にアメリカに出荷され、外貨利益は莫大なものになった。が、アメリカ依存を強める結果ともなった。

 カラカウア王は、主権を護ろうとして民族意識を覚醒させ始めた。カメハメハ2世の時代に禁止されていたフラ・ダンスやハワイアン音楽・サーフィンなどを復活・振興させ、民族の誇りを取り戻すことに努めた。1874年、 カラカウア王は、地方行脚の際に国民に次のように語りかけている。
 「どんなに国が荒れ果てても決してあきらめないで。ハワイは新たな生命を吹き込まれ、きっと再び育ち始めるのだから」。

 カラカウア王は白人と共生するハワイを目指したが、甘かった。「西洋夷人」は「共生」なぞ眼中に無く、1・王制廃止、2・共和国体制化、3・アメリカとの合併を画策していた。カラカウア王は、次第に「西洋夷人政治」のリアリズムを感じ取り、形勢利有らずの状況下で必死に状況打開策を講じようとした。遂に、小国ハワイの延命策として「ハワイ・アジア連合構想」なる秘策を発案するに至った。ハワイの置かれている状況はハワイ単独では解決し得ない、これを全アジアの問題とし、と同じ状況にあるアジア諸国の連合によって以外切り抜けられない、というのが結論となった。即ち、「アジア諸国連合による欧米列強対抗計画」に辿りついた。

 カラカウアはその実現に向け、自ら交渉の旅に出る。カラカウア王の留守のあいだは妹のリリウオカラニを摂政として統治にあたらせた。1881年、カラカウア王は、移民問題について学びまた外交関係を改善するためとの名目でハワイを発ち、サンフランシスコを経て日本、中国、シャム、ビルマ、インド、エジプト、イタリア、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、スペイン、ポルトガル、イギリスを歴訪し、アメリカを経由してハワイに戻った。カラカウアはこの時、日本の明治天皇、清国の西太后、イタリアのローマ教皇、イギリスのヴィクトリア女王と会見している。

 カラカウア王の外遊は世界一周旅行と見せかけながら、その真意は「ハワイ・アジア連合構想説得行脚」にあった。王は、構想の要として日本に白羽の矢を立てていた。王は、日本移民の共生能力を高く評価し、我が物顔でのさばる白人移民に比べて勤勉実直な日本移民に好意を抱いていた。カラカウアは、幕末維新以降近代化を成功裏に押し進め、欧米列強と伍する発展を見せつつある日本に憧憬していた。聞くところに拠ると、明治政府も欧米諸国との不平等条約の打開に向けて苦しんでおり、両国は胸襟開いて話し合えば必ず通ずるものがあると信じていた。

 当時の日本の国内世論として「アジアとの連帯を訴える声」があった。明治時代の自由党左派の雑誌「近時評論」の1881(明治14). 4月の記事は次のように書いている。
西欧列強の植民地化に抗するアジア連盟の時機が熟していたことが分かる。
 「今はアジア全州を合従(がっしょう) して欧米の権力から日本を防御 (原文は“防遏[ぼうあつ]”) すべき時である」。

【「明治天皇とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談顛末」】
 1881(明治14)年、カラカウア王一行が来日した。予定の行事をこなしながらの或る日、王は、付き纏う米国随行員の目をくらまして赤坂離宮を訪ね、明治天皇(当時29歳)との極秘会談の挙に及んだ。カラカウア王のこの行為は、外国の国家元首の最初の明治天皇訪問となった。

 王は、その場で、次のように訴えた。
 意訳概要「我が国は、主権を持つ独立国家である。その我が国に対し、アメリカが太平洋上の拠点にしようという野心を抱いている。今や列強諸国は利己主義に走り、相手国の立場を尊重する気持ちが微塵も無い。アジア諸国は列強の支配を受けながら、互いに孤立を深め無策である。この状況を抜け出すには、各国が一致団結して欧米列強諸国に対峙することが急務です。日本の進歩には実に驚くべきものである。アジア連合を起こすとすればその盟主には日本以外に無く、天皇陛下こそが相応しい。日本は今、列強諸国に治外法権を認めさせようとして苦労していると聞きます。連合実現により容易にできるはずです。どうか協力してアジア諸国連合を結び、その盟主となっていただきたい。そうなれば私は陛下を支え、大いに力をお貸ししましょう。私は、その証として、姪であり皇位継承資格を持つカイウラニ(Kaiulani)王女を差し出します。日本とハワイの絆の為、是非もらってもらいたい。私は貴国の良い返事を待ち続けます」(「明治天皇紀」のカラカウア王の言葉)。

 ハワイそしてアジア諸国との連合を訴えかけるカラカウア王の提案は、考えようによれば後の「大東亜共栄圏構想の先駆的なプラン」でもあった。こうして、日本は決断を迫られた。

 人身御供されんとしたカイウラニ王女(Princess Kaiulani)とは、1875年、アーチボルド・クレゴーンというスコットランド人の設計家を父、カラカウアの妹ミリアム・リケリケを母として生まれていた。生まれてすぐカラカウア家に養女に出され、そこでプリンセスとして養育されていた。カラカウア王が縁談を申し出た時、彼女はまだ5歳であった。

 ところで、「明治天皇とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」は、カラカウア王お目付け役として随行した「西欧夷人」側近には寝耳に水であった。同じく監視役を務めていた当時のハワイ国務長官アームストロングの手記「AROUND THE WORLD WITH A KING」は次のように記している。
 「間違えば国際問題に発展しかねない」。
 「我々はこの裏切り行為にてこずらされた」。

 さて、顛末はどうなったか。「明治天皇とカラカウア・ハワイ国王の極秘会談」は直ちに外務卿・井上馨に伝えられた。井上馨こそ誰あろう、伊藤博文を後継し明治政府内の売国奴派ネオ・シオニズムのエージェントとしての政府内頭目であった。よって、その御仁に極秘会見情報が伝わった時点で全ては水泡に帰す運命になった。カラカウア王は、既に日本の統治機構中枢がネオ・シオニストのエージェント達によって支配されていることに気づかなかったのだろうか。仮にそうだとしても、迂闊と責めるのは酷であろうが。否、事前情報によりその事に気づいていても、国王間直訴による事態可能性に望みを繋ごうとしていたのかも知れない。その辺りの真相は分からない。

 1882(明治15).3.22日、ハワイ国王・カラカウアによる日本との連合計画提案に対し、明治政府の回答がカラカウア王に届いた。「政府にはそこまでの余力はない」と認められていた。カイウラニ王女と日本の皇族の結婚に関しても最終的にはウヤムヤとなり幻に終わった。井上馨は、「カイウラニ王女の話はうまく運ぶだろう」という見解を示し、伏見宮邦家親王第17王子の山階宮定麿親王(当時15歳、後に海軍兵学校卒業後、英国プレスト海軍兵学校留学、小松宮依仁親王となる))との「将来の御成婚」が画策された。が、アメリカとの関係の悪化を懸念する意向を踏まえ幻に終わる。かくて、「カラカウア王の秘策」は全て潰えた。

 カイウラニ王女のその後はどうなったか。1889年、カラカウア王の指示でイギリスに留学する。留学中にカラカウアは死去し、叔母のリリウオカラニから王位継承権第1位に指名された。美貌の彼女はヨーロッパ社交界の教養を身につけ、英仏社交界の華になった。政変が続くハワイの事情から帰国が延び続けた。

【ハワイ侵略史5、カラカウア王の非業の死】
 「カラカウア王の秘策」がかくも早く漏洩し失敗に帰したことで、王の立場は更に不利となった。ハワイ王国の運命は、王が危惧した通りに進んでいくことになる。

 1882年、カラカウア王が妹リケリケの夫・アーチボールド・クレゴーンに設計を依頼した「オラニ宮殿」(Iolani Palace)が、後期ヴィクトリア朝風の堂々たる威風で完成した。

 1884年、カメハメハ5世の後継指名を受けながら拒否したバーニスがガンのため他界した。夫ビショップは、ハワイ人の教育と女性の地位向上のために尽くした妻の業績を記念して1889年、ビショップ博物館(Bishop Museum)を作る。当初はハワイの芸術品と王室の家宝を展示していたが、現在はポリネシア文化圏の学術的収集品が展示されている。 

 1886年、カラカウア王はポリネシア連合形成のために3万ドルの予算を確保し、サモアのマリエトア王とポリネシア連合成立の合意に至った。しかし、このことがハワイの植民地化を狙う米帝国主義を刺激した。

 1887年、ハワイに移り住み冨を築いたアメリカ系移民が中心となって改革党を組織し、カラカウアの退位もしくは王政自体の廃止とアメリカ合衆国への併合を求める運動を開始した。同年、英国女王ヴィクトリアの在位50周年祝典への招待を受け、ハワイ王妃と王の妹リリウオカラニが国王の名代としてヴィクトリア女王に謁見した。この機に、改革党は、武装集団「ホノルル・ライフルズ」を擁してクーデターを起こし、カラカウア王に銃剣を突きつけ署名させた。この憲法は、武力により新しい憲法を制定させた経緯による「Bayonet Constitution」(「銃剣憲法」)と呼ばれた。これにより、カラカウア王のポリネシア連合運動は息の根を止められた。ハワイ人ロバート・ウィルコックスによる抵抗もあったが失敗に終わった。王政派のW・ギブソン首相も国外追放された。

 「銃剣憲法」により、王の権限は大幅に制限され、お飾り的なものになった。国家権限が議会に委譲されたが、ハワイ住民の70%を占めるハワイ人やアジア系住民には選挙権を与えず、少数派富裕層である白人のみが選挙権を持つこととなった。それはすなわち、ハワイを白人が自由に支配するための憲法となった。

  カラカウア王のその後を想像するのは容易である。王に対する手かせ足かせが更に厳しくなり、こうして自由をもぎ取られた王はアルコール中毒患者にさせられた。1890年、体調を崩し、医者の薦めでサンフランシスコへ移る。1891(明治24).1.20日、カラカウア王は失意の内にこの世を去り、在位17年の生涯を閉じた。日本来日から10年後のことであった。

【ハワイ侵略史6、ハワイ王朝の滅亡】
 カラカウア王没後、妹のリリウオカラニリ(Liliuokalani)王女が王位を継承した。リリウオカラニは、1838年、ホノルルに生まれ、1860年、米国出身の白人で後にオアフ島知事となるジョン・O・ドミニスと結婚していた。ドミニスは、リリウオカラニが即位した7か月後に死去する。リリウオカラニ女王は即位後、「ハワイ人のためのハワイ」を標語にハワイ原住民の持つべき権利を取り戻そうとした。音楽を愛好したことでも知られ、ハワイ民謡として有名な「アロハ・オエ」は彼女の作である。しかし、ネオ・シオニストの画策する米帝国主義のハワイ奪取(アメリカ併合)計画は無慈悲に押し進められた。

 リリウオカラニ女王は、共和制派との対決姿勢を強めた。1892年、ハワイ人らの新憲法制定の請願を受け、1893.1.14日、不公平憲法改正(国王権限を強化する憲法草案)のための法案を閣議に提出したが否決された。1.16日、王政派と共和制派が共に大集会を開くなど騒然とする中、危機感を募らせた米帝国主義は、スティーブンス米国公使の要請によりホノルル港に寄港中だったアメリカの軍艦ボストン号の海兵隊兵士たちに大砲・機関銃で武装させ、イオラニ宮殿をはじめ政府の主要な建物を占拠した。共和制派のハワイ最高裁判事サンフォード・ドール、ローリンサットンら在ハワイ米国人達が、女王はじめ側近の者たちを拘束、王制打倒クーデターを決行した。女王らは幽閉された。ネオ・シオニズム史学はこれを「ハワイ革命」と称している。

 1893.1.17日、暫定政府が樹立宣言。翌日、政府側委員としてローリンサットンが承認を求めてワシントンに向かった。王室側も暫定政府樹立を不服としてワシントンに特使を派遣しようとしたが、ローリンサットンらが同船を拒否、王室側は2週間遅れてホノルルを出航した。カイウラニ王女(当時18歳)は、1.31日、事件の知らせを受けるや否や即断即決、イギリスを発ってアメリカに向かった。

 ニューヨーク港では、新聞記者達が「野蛮なハワイ人の娘」が嘆願にやってくるらしい、ということで待ち構えていた。ところが、カイウラニ王女の洗練された容姿と感動的なスピーチに度肝を抜かれた。ニューヨークのマスコミはハワイ王朝に対する偏見の正義を失った。しかし、王室側の特使コアは、時の大統領クリーブランドとの面会を許されず途方に暮れた。そうこうしているうち、カイウラニ王女に、大統領夫妻の昼食会招待状が届いた。カイウラニ王女から事情を聞いた大統領はその日のうちに、暫定政府側委員ローリンサットンらの主張を退け、事情を徹底調査する旨約束した。

 1893.8月、大統領指示により創設された調査団は、「アメリカ公使スティーブンスが国際犯罪を犯したと確信する。アメリカは国の名誉と威信をかけて誤りを正さなければいけない」との結論を下した。アメリカ公使スティーブンスは解任された。代わって着任したウイリスがリリウオカラニ女王と面談し、公使は女王に「アメリカは、女王の復位を認めます。女王におかれても、今回の首謀者にはできるだけ寛大な処置をお願いしたい」と申し出た。しかし、リリウオカラニ女王は、首謀者に対しては死刑及び財産没収を主張して譲らなかった。暫定政府は、カイウラニ王女を女王に即位させようとし始めたが、リリウオカラニ女王は、「カイウラニはまだ若すぎる」という理由でそれを一蹴した。カイウラニ王女に対しても、「女王就任のオファーがあっても決して受けないように」指示した。

 1894.2月、調査団は最終的に共和制派を支持する報告書をまとめた。同7.4日、ハワイ人による反対集会が繰り返される中、臨時政府はハワイ共和国の独立宣言をした。1895.1.6日、王党派が反乱を起こしたが数日の銃撃戦の後に新政府軍に鎮圧された。1.16日、リリウオカラニの私邸より、あるいはイオラニ宮殿の庭からたくさんの銃器が見つかったとして、リリウオカラニ女王が反乱の首謀者の容疑で逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。これによりハワイ王国は滅亡した。リリウオカラーニ女王はハワイ王国第8代の王にして最後のハワイ王となった。

 ハワイ王国軍や王族・国民達はこぞって徹底抗戦の構えを示し、リリウオカラニ女王奪還を企図した。が、女王は、「無駄な血を流させたくない」として、1.22日、抗戦派の反乱者たち約200名の罪を軽くすることと引き換えに退位を署名した。2.27日、リリウオカラニは、反乱に加担した罪で5000ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けた(9.6日釈放される)。

【ハワイ侵略史7、ハワイ共和国の誕生】
 1893.3月、サンフォード・ドールを大統領とする「ハワイ共和国」が誕生し、ハワイ王国は滅亡した。「ハワイ共和国」とは名ばかりの「共和国」で、実態は在ハワイ米国人による独裁国家に過ぎず、アメリカのハワイ併合の地均しをする任務を帯びていた。リリウオカラニ女王はその後、1917.11.11日まで延命した(享年79歳)。ハワイ王国の王位後継資格者バーニス(Bernice Pauahi Bishop)王女と結婚していた米国人ビショップは、共和国になってサンフランシスコに引退し、1915年に亡くなるまで静かに暮らした。リリウオカラニ女王夫妻は子供に恵まれなかったため、姪のカイウラニが王位継承者となったが、カイウラニはハワイ併合の翌年、死去した。

 1897年、指導力を欠く共和国では、白人社会の世論でも「カイウラニが女王になってくれればハワイは再び希望が持てる」という意見が噴出、新聞の論調もカイウラニ女王を期待するようになった。1897.11月、カイウラニ王女は8年ぶりにハワイに帰国した。ホノルル港は黒山の出迎えに埋まり、演奏禁止となっていた国歌ハワイ・ポノイがカイウラニの前では何度も 演奏され、共和国政府も「ミス・カイウラニをプリンセス・カイウラニと呼んでかまわな い」という正式コメントさえ出した。

 1898年、米西戦争で、スペインは、太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失った。米帝国主義がキューバ、フィリピン、グアム、プエルトリコ等々スペイン植民地のほとんどすべてを獲得した。これにより、スペインに代わってアメリカが世界の覇権を手に入れることになった。

 続いて太平洋戦略に基づきハワイ併合を決意した。1898(明治31).8月、連邦議会は併合決議を可決、ハワイはアメリカの準州として併合された。ネオ・シオニストの操る米帝国主義は不遜にも、ハワイを併合したことを「Manifest destiny(「明白な運命に基づく宣言」)」と居直った。

 1899(明治32)年、カイウラニ女王はわずか23歳5ヶ月の生涯を閉じた。 ハワイ最後の希望の星が消え、ハワイの新政府には、ハワイ市民のみならず、全米から非難と抗議の手紙が殺到した。

【ハワイ侵略史8、日米戦争】
 1900年頃、日米紳士協定により新しい移民の渡航は禁止され、在留日本人労働者の近親者と写真結婚者のみが呼び寄せられることになった。互いに写真を取り交わし、話しがまとまれば日本で入籍して3ヶ月後にハワイに呼び寄せるという写真花嫁が1908年頃から大挙して海を渡った。

 1941.12.7日早朝、日本軍のパールハーバー奇襲で太平洋戦争が始まった。ハワイ社会での基盤を築いていた日系社会では日米開戦により敵性国民のレッテルをはられ、ジャップとののしられ、コミュニティのリーダーや各会社の代表者、日本語学校の教師などの男性は収容所に入れられた人が多かった。日系人の財産は没収された。真珠湾攻撃以降戦中・戦後を通して日系人のの苦労は想像を絶するものだったと伝えられている。

 ハワイ生まれの日系2世たちはハワイ在住の日本人社会のために自ら従軍し第100大隊と本土とハワイ出身者で構成された第442部隊はヨーロッパ戦線の最前線で命がけで戦績を残し米陸軍史上比類なき功績を打ちたて、最高勲章である紫心章を数多く受賞し、トルーマン大統領は「前アメリカの誇り」と敬意を表した。 以降白人の日系人社会に対する偏見の減り社会進出も飛躍した。

【ハワイ侵略史9、ハワイがアメリカに併合される】
 1959.8月、ハワイ併合の61年後、ハワイはアメリカ合衆国の50番目の州となった。

【米国大統領の謝罪】
 1993.11.23日、アメリカ大統領ビル・クリントンにより謝罪法案130−150法案が調印された。これはアメリカ合衆国がハワイ王朝の転覆に対して策謀が存在したことを公式に認め、先住民でありその王国を構成していたハワイアンに正式に謝罪したものである。

(私論.私見) 【米帝及びネオ・シオニストのハワイ侵略史総評】

 カメハメハ大王の後継者達は、ハワイ王国の衰退を指をくわえて見ていたわけではない。しかしハワイを自分達の手に取り戻すことは出来なかった。それほどにネオ・シオニストの狡知が勝っていたということである。思えば、世界は、16世紀頃よりネオ・シオニストの餌食にされっぱなしで今日まで至っている。日本がその悪魔の手から逃れえたのはまことに有り難いことであった。

 思えば、日本民族は、戦国期の「バテレン危機」を凌ぎ、幕末期の「黒船来航危機」を潜り抜け、大東亜戦争敗戦時の「国家崩壊危機」を遣り過ごし、稀有な独立国ぶりを獲得してきたことになる。しかし、やはり敗戦の傷跡は深い。戦後、ネオ・シオニストが大手を振って闊歩し始め、政官財学報の五者機関の中枢を押えた事によりこの支配構造から抜けだすことは如何ともし難い。

 ロッキード事件の脳震盪で旧田中ー大平連合の活動が封じ込められて以来、旧福田ー中曽根連合のネオ・シオニスト・エージェント派が、我が政界を恣にしつつある。小泉政権になって以来狂態とも云えるスピードで国家溶解が押し進められつつある。世の論者は、まもなく任期満了の5年余の小泉政権を表面的には批判する向きも有るが、内実は提灯ばかりである。知の衰微が甚だしい。これを如何せんか。

 2006.9.3日 れんだいこ拝




(私論.私見)