アフリカ侵略史 ボーア戦争考

 (最新見直し2007.11.4日)

 関連サイトは「世界植民地化考

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこはこれまでボーア戦争の歴史的意義について皆目知らなかった。世界史的に重要な事件であることが判明してきたので、本サイトで考察する。れんだいこが要約すれば、「ボーア戦争」(Boer War,Anglo-Boer War、別名南ア戦争、南アフリカ戦争、ブール戦争とも云われる)とは次のような戦争であった。「南部アフリカ解放運動の歴史年表」その他を参照する。
 南アフリカのケープ地域に帝国主義的に殖民した先行するオランダ系ボーア人自治国家(トランスヴァール共和国とオレンジ自由国)に対して、地政学上の要衝地であることに加えて世界最大の金鉱及びダイヤモンド資源が発見されたことにより、ネオ・シオニズムに仕立てられた英帝が簒奪を目論み、強引に仕掛けた帝国主義戦争であった。

 第一次ボーア戦争(1880年〜1881年)ではボーア人国家が勝利し、第二次ボーア戦争(1899年〜1902年)では英帝が多大な損害を追いながらも勝利し、1902年、プレトリアで講和条約を結びイギリス国王の支配下に組み入れた。イギリスの典型的な帝国主義的侵略戦争となり、この戦争で登場した強制収用所がその後戦争に常態化することになった。この戦争で、ボーア人のみならず、先住民黒人、カラードと云われる奴隷層住民も巻き込まれ犠牲となった。

 このボーア戦争こそ、ナチスのホロコースト譚、日本軍国主義の南京大虐殺事件譚に比して勝るとも劣らぬ典型的な帝国主義による大虐殺事件だったのではなかろうか。戦後左派運動及びその反戦平和運動が、ボーア戦争を語らぬままに、ナチスのホロコースト譚、日本軍国主義の南京大虐殺事件譚に執心するのは不正ではなかろうか。本来は三点セットで語らねばならないところを二点セットで語り続けるところが臭いと云うべきではなかろうか。

 2006.4.2日 れんだいこ拝


【南アフリカの原住民】
 アフリカの南部には数千年の昔から、狩猟採集民のサン人(ブッシュマン)と牧畜民のコイコイ人(ホッテントット)、あわせてコイサン人が住んでいた。紀元300年頃までに現代の南アフリカ人の多数派の祖先に当たるバンツー諸語を話す混合型農民がリンポポ川南部(南アフリカ東部)に定住を開始した。地域によりコーサ人、ングニ人、ムボンド人、ソト人、ズールー人、ツワナ人、ツォンガ人、ペディ人、ベンダ人などと呼ぶ(「歴史道楽南アフリカの歴史」)。

【西欧によるアフリカ探検−希望峰の発見まで】

 1847年、ポルトガルのバルトロメオ・ディアス率いるポルトガル遠征隊がが南アフリカ南端のモッセル湾にたどりついた。

 1488.2.3日、ポルトガル人航海者のバーソロミュー・ディアスが南端の岬「嵐の岬」を発見し、のちに「喜望峰」と改名された(「喜望峰発見」)。

 1497年、ポルトガルのバァスコ・ダ・ガマがナタールを発見した。ガマは、喜望峰を周回してインドに達し、「インド航路」が開かれた。


【オランダ系ボーア人による植民地化時代】

 1652年、オランダ東インド会社は、インド航路の補給基地として現在のケープタウンに最初の移民を送り込んだ。同社のヤン・ファン・リーベックが、「らくだ号」など4せきの船に乗り、現在のケープタウンに上陸し、ヤン・ファン・リーベックの指導で四稜郭で五門の大砲を備えた「喜望砦」と呼ばれる砦を建設してオランダ東インド会社の東洋貿易の中継基地とした。これが、西欧列強によるアフリカ入植の始まりとなる。

 1657年、オランダ東インド会社のオランダ人が会社をやめ、ケープに定住した。これを機にオランダの農民が入植・開拓が開始された。この時、先住民として狩猟採集民のサン族や牧畜民のコイコイ族がいた。オランダ人はサン族をブッシュマン、コイ族をホッテントットと呼んだ。当然のごとく「侵入者」との間に土地の所有をめぐる衝突が起こった。

 コイ族は、彼らの下で働くことを嫌がったので、オランダの評議会は数百人の奴隷をケープに送った。こうして奴隷を労働力とし、農業経営を行った。ここから南アフリカの白人社会が始まる。南アフリカで生活を始めたオランダ人は、オランダ語で農民の意であるボーア人(ブーア人とも呼ばれる(以下、ボーア人と記す)。ボーア人は、居留地を拡大していき、やがてアフリカーナーと呼ばれるようになる。こうしてケープ植民地が作られた。先住民族は次第にボーア人社会に吸収されて、カラードと呼ばれる階層を形成する。


【ボーア人による植民地時代】

 1688年、ナント勅令の廃止によって弾圧を受けたフランスの清教徒農民ユグノーの2000家族がケープに移り住み始めた。それにより、内陸への入植が進む。入植者の増加に伴い植民地は内陸に向けて拡大ししばしばバントゥ系アフリカ人の一部族のコサ族と衝突した。この頃、マレイ半島やマダカスカルから奴隷が連れてこられ、原住コイコイ人と共にカラードを形成していくことになる。これにより、白人入植者とアフリカの土着民、アジアからの奴隷の間の混血が始まった。

 1789年、ボーア人が農地拡大のために、バンツーのコザ族と戦闘するというケープで力ッフル戦争が発生した。バンツー系民族(黒人)と白人との最初の戦争となった。この後、たびたび戦いが行われ、そのたびに黒人の土地が白人に奪われた。


【イギリスのケープタウン支配とボーア人、原住民との三者抗争】 
 18世紀になると、産業革命を終えたイギリスは、その勢力を世界各地へとのばしていった。

 1795年、ヨーロッパでナポレオン戦争が起こると、強大な軍事力を持っていたイギリスは喜望峰をインド航路の重要拠点と認識し、フランスの手に落ちることを危惧して、海軍を送ってこの地を占領した。これにより、同じ白人のオランダ系移民の子孫であるボーア人アフリカーナーとイギリス人が対立するようになる。

 1796年、オランダ東インド会社が破産した。

 1803年、アミアンの和約に基づきオランダに返還されたが、再び英仏が開戦するとフランスと同盟を結ぶオランダの制海権を抑えるため、1806年にイギリスが再度占拠した。1814年のウイーン会議でオランダからイギリスヘ正式譲渡され、イギリス領となる。結局イギリスの植民地となった。

 1814年、イギリスが宗主権を握ったことによりイギリス式制度が施行されていった。大量移民や英語の公用語化が始まり、イギリス国教会が進出した。

 1816年、南アフリカ北東部のズールー人が、大王シャカを中心にズールー王国を作った。ズールー王国は、強力な軍事国家を築いたことにより、周辺部族を次々と支配下に置いていった。ズールー王国を恐れた部族は奥地へと逃れ、その影響は今日のジンバブウェ、モザンビーク、タンザニアにまで及んだ。

 1820年、イギリスから大量の移民が到着し、総督がおかれて本格的なイギリス支配が始まった。この間、奴隷としてインドネシア人やマレー人などのアジアから連行され黒人や白人との間にカラードと呼ばれる混血が出現した。インドやパキスタンからも強制移住させられた労働者が多数に及んだ。

 1820年、人種差別の撤廃をうたうホッテントット条令が発布された。

 1832年、イギリスの司法制度が持ち込まれる。ボーア人が二等国民として差別されようになった。この頃よりボーア人は自らをアフリカーナーと呼ぶようになる。

 1833年、イギリス本国で奴隷制度が廃止され植民地にも適用され、奴隷3万5745人が解放される。多くの奴隷労働力に依存してきたボーア人は大きな打撃を受け、反発して紛争が発生した。

 1834年、グラハムタウンでの有力者会議で新天地を求めての北方の内陸部への移動が決定された。1837年、移動の趣旨を述べた「フォルートレッカーズ宣言」が発せられた。

 1835年、ケープ地方がイギリスに支配されていることに反発し、内陸で新天地開拓を決心した何千人ものボーア人が、牛車を連ねて北方の内陸部への移動が始まった。これを「グレートトレック」(家財を詰め込んだ牛車による移動)と云う。

 1836年、グレートトレックで移動したボーア人とアフリカのバンツー系部族と各地で衝突が起こった。

 1838.12.16日、ボーア人の幌馬車隊は、ナタールで、ズールー王ディンカーンに率いられたズールー族と衝突した。ズールー軍約2万人とボーア人464人の死闘戦となったが、ズールー軍の3千名が戦死するという大敗北を喫した。戦場の川が血の色に変わったと伝えられている。これを「ブラッドリバー」(Blood River、”血の戦い”)と云う。

 1839年、戦いに勝利したボーア人は、ズールー族を駆逐してナタール共和国を建国した。ズールー王国は、オレンジ共和国の成立は許したが海岸線沿いの土地は死守するのに成功した。この後は、イギリスと闘っていくことになる(「ズールー人の戦争」参照)。

 イギリスがボーア人を追撃し、ボーア人はこれに破れさらに内陸に移動した。1843年、イギリスはナタール共和国を併合した。

 1852年、ボーア人は更に内陸部へ移動し、ランスバール共和国(現在の南アフリカ共和国の首都プレトリアの周辺)を、1854年にはオレンジ自由国(バール川南岸のブルームフォンテン周辺)を建国し、イギリスも両国を承認した。

 1856年、東部海岸沿いのナタール地方が正式にイギリスの植民地となった。これにより、ナタール地方とケープ地方はイギリス系白人が支配し、トランスバール共和国とオレンジ自由国はアフリカーナーが支配することになった。最も人数の多いバンツー系民族の支配地はどこにもなくなった。

 1860年、ナタール地方でさとうきび栽培をさせるため、イギリスは多くの農業労働者をインドから呼び寄せた。その結果、多くのインド人が南アフリカで生活することになった。


【金鉱、ダイヤモンド鉱山が相次いで発見される】

 1867年、オレンジ自由国のバール川とオレンジ川の合流点の近くのキンバリーでダイヤモンドが発見された。ボーア人の少年がオレンジ川の川岸でキラキラ光る美しい石を見つけたことがきっかけであった。この石をもらいうけた行商人が鑑定してもらったところ、21カラットもあるダイヤモンドであった。この噂がたちまち広がり、数千人の人びとがオレンジ川流域に殺到した。「ダイヤモンド=ラッシュ」のなかで、各地に多くのダイヤモンド鉱が発見された。

 1869年、キンバリー鉱山で、青色の硬い岩石(キンバリー岩と呼ばれるようになった)のなかから大量のダイヤモンドが見つかったため、大勢の山師たちが群がり、ダイヤモンドの採掘(さいくつ)が始まった。以降、それまでの農業・牧畜を主にしていた南ア共和国の経済は一変し、鉱業が経済の中心となっていった。白人の鉱山技師が大量に流入し始め、たくさんの鉱区が形成されていった。以降、1914年の閉山までの約半世紀の間に、2000万トンの土が掘り出され、直径500m、深さ365mという巨大な穴(ビッグ・ホール)が出現した。この穴は「人力が掘った世界最大の穴」であるといわれている。


【セシル=ローズの登場】
 1870年、17歳の少年セシル=ローズが兄を頼って南アフリカにやって来てデ・ビアズというボーア人の農場のなかのダイヤモンド鉱区で働きはじめた。ダイヤ探しに行きづまったローズは、地下水に悩む鉱山所有者に蒸気ポンプを売り込むことを思いつき、これが当たって大もうけをした。その金でローズは次々にダイヤモンド鉱区を買収し、わずか10年間でキンバリー最大のダイヤモンド鉱山所有者となる。

【セシル=ローズ派英帝とアフリカーナ、原住民との新たな抗争始まる】

 アフリカーナは、これらの外国人に投票権を与えず、金産業に対しても重税を課した。これにより、外国人および英国人の鉱山主からボーア人政府打倒の圧力が高まった。

 1870年、もともとここにいたグリカ族がキンバリーの土地の権利を主張すると、イギリスは現地の技師たちの保護を大義名分として参入し、領土とし、続いてトランスバール共和国の首都プレトリアまで軍隊を進めた。1871年、オレンジ自由国を領有化する。この技師たちの中には、後のデ・ビアス社の創設者にしてケープ植民地の首相となるセシル・ローズも含まれていた。この時の戦いにおいてボーア人たちはカーキ色の農作業服姿であったのに対して、英国軍の軍服は鮮紅色であったため、ボーア人狙撃手の格好の標的となったという。

 1872年、トランスバール東部で金が発見された。草原だったその地に生まれた町がヨハネスブルグである。

 1877年、イギリスはさらに、各地で金が発見されていたトランスバール共和国を財政的困窮に追い込み併合した。トランスバールのボーア人は、ポール・クルーガーらを使節としてロンドンに代表団を送って独立の回復を主張したが拒絶された。


【第1次ボーア戦争】

 内陸にあったトランスバール共和国は、海を求めてズールー王国方面へ進出しようとした。しかしこの動きを警戒したイギリスは、トランスバール共和国の併合を宣言した。

 1879年、イギリスは、セテワヨ率いるズールー王国を攻撃したが、ナタールのイサンドルワナの戦いで敗北を喫した(ズールー戦争)。

 1880.12.16日、トランスバールのボーア人はズールー族の善戦に勢いを得、1877年にイギリスに併合(へいごう)されたトランスバール共和国の独立をめざして、第1次ボーア戦争を仕掛けた。ポール・クルーガーを司令官として大英帝国に宣戦を布告。両国は戦争状態へ突入する。トランスバール戦争(Transvaal War)とも呼ばれる。

 1881.2.27日、マジュバ・ヒルの戦いで英軍は大敗した。同3.23日、ボーア人の抵抗を抑えるのに失敗した英国は、プレトリア条約トランスヴァール共和国を承認した。ボーア人は、勝利して主権を回復した。大英帝国の面目は丸つぶれとなった。この経緯を第一次ボーア戦争と云う。

 1883年、ポール・クルーガーがトランスバール初代大統領に選ばれた。


【セシル・ローズがケープ植民地の首相に就任】
 1880年、セシル・ローズは、ロンドンのユダヤ人財閥ロスチャイルドの融資をとりつけて、デ・ビアズ・マイニング社を設立した。マイニング社は以降、世界のダイヤモンドの30%を生産していくことになる。ロスチャイルドの資金をバックにさらに鉱山の買収を行ってゆく。してみれば、ボーア戦争の背後にロスチャイルドの動きがあったということになる。

 セシル・ローズ併行して対抗するかのように“バーネット・バーナート”の設立したバーナート・ブラザースが、キンバリー鉱床の数多くの鉱山の優先採掘権を獲得した。1881年、バーネット・バーナートはバーナート・ダイヤモンド・マイニング社を設立し、やがて彼は「キンバリー・セントラル」と呼ばれる地域一帯を支配する大会社の主要株主になった。同年、セシル・ローズも「デ・ビアス・マイニング社」を設立し、両者は熾烈な経営戦争を繰り広げていくことになる。

 1886年、ダイヤモンド鉱発見の10年後、トランスバール共和国の中南部プレトリア南方のヨハネスブルグ近くのヴィラトヴァタースランド(Witwatersrand)で、世界最大規模の金鉱山が発見された。ダイヤモンドと金の大鉱脈が発見されたことで、南アフリカはロスチャイルド帝国主義の餌食にされていくことになった。イギリス系白人がゴールドラッシュでなだれ込んで来て、会社を建て、アフリカ人の労働者をたくさんやとい、ヨハネスブルグという大都市ができた。但し、ボーア人の反英感情に直面して鉱山開発を思いどおりにすすめられなかった。

 1888年、鉱山経営者としてのセシル・ローズは奥地ジンバブウェに目をつけ、ヌデベレ族のローベングラ王と協定を結び、金銭やライフルと引き換えに鉱物資源採掘権を得る。

 1888.3月、ローズが勝ってキンバリーのダイヤモンド鉱山の多くを「デ・ビアス」に統一合併することに成功した。ここに「デ・ビアス・コンソリデーテッド・マインズ」が誕生した。これはデ・ビアス・マイニング社と強大なキンバリー・セントラル社が合併したものである。その後「デ・ビアス社」は次々に南アフリカ中の鉱山を手に入れ、20世紀の始めには世界中のダイヤモンド生産の90%をコントロールするまでになり、ダイヤモンド貿易を独占することになる。

 1889年、セシル・ローズは英本国政府の特許を得て、採掘のため英国南アフリカ会社を設立し、南アフリカに渡ってわずか10年間でキンバリー最大のダイヤモンド鉱山所有者となった。

 1890年、セシル・ローズはケープ植民地の首相となった。首相となったセシル・ローズは英国本国政府の監督下という条件で軍隊も持ち、金鉱脈を持つトランスバールへの侵入を試みたが失敗した。本国イギリスでは、ヴィクトリア女王と宰相ディズレリーが大英帝国の領土拡大政策を推進していた。野心家のセシル・ローズはイギリス国旗のもとで南アフリカ連邦建設を描いて、領土拡張政策も推し進める。

【第2次ボーア戦争直前の動き】
 イギリスのケープ州の首相セシル・ローズは、一帯の併合を企て、選挙で攻めようとした。が、トランスヴァール大統領のポール・クルーガーはその思惑を見抜き、1893年に(外国人労働者である)イギリス人鉱山事業従事者の選挙権を制限する。政府と鉱山経営者との間に決定的な対立が発生した。

 1893年、セシル・ローズの個人的欲望、それは大英帝国ヴィクトリア女王とその政府の領土拡大の野望でもあった。セシル・ローズの野望はエスカレートし、ジンバブウェの鉱物資源採掘権のみならず全地域の支配権をもローベングラ王に要求していくことになる。ここにいたって現地部族はセシル・ローズの国内支配に反対しヌデベレ族が蜂起したが鎮圧された。

 1893年、この頃インドのガンディーが弁護士として南アフリカに渡っている。ガンジーは、インド人が居住・職業・乗り物・宿屋・交際・便所に至るまで、ヨーロッパ人から完全に差別されているのを知り、インド人の地位向上に努力し始める。

 1895年、ローズの友人リアンダー・ジェームス(Jameson Raid)がトランスバールへ奇襲攻撃をしたが(ジェームソン事件)、ポール・クルーガーの率いるボーア人の民兵によって阻まれ失敗、1996年、セシル・ローズは引責辞任する。以後彼は南アフリカ会社の経営に打ちこんだ。

 英帝は引き続き様々な内部干渉をし、ボーア人の武力蜂起誘発を画策した。英国人に対しての不平等な待遇は、ケープ植民地への軍事力の大幅な増強を正当化するための口実として用いられた。ケープ植民地の知事(高等弁務官)アルフレッド・ミルナー卿、英国植民地相ジョセフ・チェンバレン、鉱業シンジケートのオーナーたち(アルフレッド・バイト、バーニー・バルナート、ライオネル・フィリップスら)などがキーマンとして、ボーア人攻略謀略が廻らされていった。

 1896ー97年、ヌデベレ族とショナ族が合同し反乱を起こしたが、圧倒的な軍事力に鎮圧され、大英帝国の支配化に組み込まれた。現地議会は、侵略の功労者ローズに因んで、ジンバブウェをローデシア(セシル・ローズの国)と命名した。かくして優れた中世のアフリカ民族文化国家のひとつが消滅した。ボーア戦争に敗れたボーア人は、イギリス人とともに原住黒人をきびしく搾取することによって豊かな生活を維持しようとして、悪名高い徹底した人種差別政策(アパルトヘイト)をとった。

セシル・ローズは、財力をバックに露骨な侵略政策を推進した。南アフリカでは、ダイヤモンド鉱山と金鉱山は主としてイギリス系ロスチャイルド資本に抑えられていた。英国政府は、ダイヤモンドと金を産出するオレンジ自由国とトランスバール共和国を、大英帝国が併呑しようと狙った。

 1899.5.30日、オレンジ自由国の大統領Martinus Steynは、ブルームフォンテイン(Bloemfontein)で、英国のミルナー卿とトランスバール共和国の大統領クルーガーとの会議を開いたが交渉はあっというまに決裂した。

 9月、英国首相チェンバレンは、トランスバール共和国に対して大英帝国市民への完全に同等な権利を付与することを要求する最後通告を送り、本国から軍隊を送った。クルーガー大統領もまた、チェンバレンからの最後通告を受信する前に、彼の方からも最後通告を出していた。これは、48時間以内にトランスバール共和国およびオレンジ自由国の全域から全て英国軍を退去するように求めるものであった。


【第二次ボーア戦争】

 1899.10.12日、危機感を強めたトランスバール自由国とオレンジ自由国と同盟し、イギリスに宣戦布告し、第2次ボーア戦争が始まった。

 10.13日、南部アフリカのトランスヴァールで突然、ボーア軍約1万余が、レディスミスマフェキングロバート・ベーデン・パウエル指揮下の軍隊によって防御されていた)およびキンバリーを包囲した。英国軍は数週間にわたる籠城生活を余儀なくされた。

 12.10日、ストームベルグの戦いにおいて、英国軍の司令官、Sir William Gatacre将軍は、オレンジ川の50マイル南での鉄道ジャンクションを取り戻そうとしたが、オレンジ共和国軍の抵抗にあい、死傷者135名、捕虜600名という大損害を被った。

 12.11日、マゲルスフォンテインの戦いでは、ポール・サンフォード・メシュエン男爵メシュエン3世)が指揮する1万4千名の英国軍が、キンバリーを救出に向った。ボーア軍指揮官であったデ・ラ・レイ(Koos de la Rey)とクロンジェ(Piet Cronje)は、英国軍の作戦行動を逆手に取り、軍事教則にとらわれない場所に塹壕を掘り、射手(ライフルマン)を配置する作戦を実行した。これが図に当たり、キンバリー、そしてマフェキングを救出するはずだった英国軍は死者120名、負傷者690名を出す壊滅的な打撃を受けた。 

 12.15日、レディスミス救出のためにツゲラ(Tugela)川を渡ろうとしたレッドバース・ビューラー(Redvers Buller)の指揮する2万1千名の英国軍が、ルイス・ボタ(ボーサ)の指揮する8千名のトランスバール共和国軍に待ち伏せさせれた。砲撃と正確なライフル射撃の組合せにより、ボーア軍は川を渡ろうとした英国軍を撃退した。ボーア軍の犠牲者40名に対して英国軍は1127名の犠牲者を出し、退却の際に放置した大砲10門を捕獲された。こうして、英国軍は、「暗黒の一週間」(Black Week)と呼ばれる一週間でマゲルスフォンテイン(Magersfontein)、ストームベルグ(Stormberg)、コレンゾー(Colenso)において続けざまに壊滅的な打撃を被った。

 これらの戦いに於いて、スマッツ、ルイ・ボタ将軍、デ・ラ・レイ将軍、デ・ヴェット将軍らに率いられたボーア軍民兵が活躍した。ボーア軍民兵は正規軍のような編制をもたず、コマンドー(Commando)と呼ばれる臨機応変の部隊で編成され、巧妙なゲリラ戦を展開してイギリスに大苦戦を強いた。彼らは、当時としては最新の連装式ライフル銃を装備した騎乗歩兵を主体としており、特定の陣形を組まずに分散して展開し、敵に近づくと馬を降りて、草原地帯のブッシュや地形の起伏を巧みに利用して身を隠し命中精度の高い射撃を行なった。英軍はボーア軍の新しい戦い方に翻弄され敗北に敗北を重ねた。

 後にイギリス首相となるウィンストン・チャーチルは、モーニング・ポスト紙の特派員としてボーア戦争に従軍。戦闘に巻込まれ捕虜となった。プレトリアの捕虜収容所から脱走し、この脱走の成功で一躍国民的人気者となった彼は帰国した際には、英雄として迎えられる。この人気をうけて保守党下院議員となり、政治家への道を歩むことになる。


 1900.1.19ー24日、英国軍は反転攻勢に出るが、レディスミスを救出するためのSpion Kopの戦いで再び破れ、ビューラーは再度コレンゾーのツゲラ川西側を渡ろうとして、ボタ率いるボーア軍との激戦の末、1千名の犠牲者を出した(この時のボーア軍側の犠牲者は約300名)。

 2.5日、ビューラーは、Val Krantzで再びボタの軍を攻撃して又も敗北する。2.14日に増援が到着するまで、ロバーツ卿指揮下の英国軍が駐屯軍を救い出すための反攻を開始することはできなかった。

 このためイギリスは、約2万(総兵力は約8.3万)のボーア軍に対し初期にはわずか2.5万であったが、カナダ・オーストラリア・ニュージーランドなどから兵員を調達し最終的に45万人という空前の大兵力を投入した。現地の黒人から見ると、この戦争は英国とアフリカに居付いたボーア人移住者たち(Bore settlers)の間の、「白人たちの戦争」(Whitemen'sWar)であったが、この間現地の黒人たちは両軍に強制的に徴兵され犠牲者となった。

 ボーア戦争に機関銃や無煙火薬が投入されたことにより世界最初の近代戦争となった。日本は観戦武官を送り込み、日露戦争を準備していくことになった。

 2.15日、英国ジョン・フレンチ将軍率いる騎兵部隊によってVal Krantzが陥落した。2.18ー27日、ロバーツ卿は、パールデベルグ(Paardeberg)の戦いで遂にボーア軍を打ち破り、クロンジェ将軍と4千名の兵士を捕虜とした。これによりボーア軍は弱体化し、レディスミス陥落へと駒を進めることが可能となった。

 英国は2つの共和国に進軍し、3.13日にオレンジ自由国の首都ブルームフォンテインを、6.5日にはトランスバール共和国の首都プレトリアを占領した。2つの首都占領によって終戦に至るだろうと考えられたが、ボーア軍は新たな拠点Kroonstadで会合し、英国の供給網および通信網を寸断するゲリラ戦を立案した。

 3.31日、クリスチャン・デ・ウェット(Christian De Wet)が指揮する1500名のボーア軍がSanna's Post(ブルームフォンテインの東23マイルにある給水設備)において、英国軍が厳重に警護するキャラバンを待ち伏せし、155名の犠牲者、428名の捕虜、7丁の銃、117台のワゴンを捕獲した。

 5.18日、マフェキングが陥落し、イギリス全土に熱狂的な祝賀を引き起こした。このお祭り騒ぎを表現するためにマフェック(maffic)という単語が作られたほどであった。5.31日、トランスバール共和国の首都プレトリアも陥落する。こうして、ブルームフォンテン、ヨハネスブルク、トランスバール共和国の首都プレトリアといった主要都市が陥落し、イギリスの勝利が確定した。

 6.11ー12日、最後の“フォーマルな”戦いは、ロバーツ卿がプレトリア近郊でボーア軍野戦兵の残党を攻撃したダイアモンド・ヒル(Diamond Hill)の戦いであった。これに勝利した英国はボーア戦争の勝利を宣言した。

 ロバーツ卿がダイアモンド・ヒルからのボーア軍の排除に成功したにもかかわらず、ボーア軍の指揮官ボタはそれを敗北とみなさなかった、なぜならば、ボーア軍の犠牲者が約50名であったのに対し英国軍に162名の犠牲者を出させたからである。こうして、“フォーマルな”戦争は終わりを告げ、戦争は新たなステージに移ることとなった。ボーア人たちの更に2年7ヶ月間にわたるゲリラ戦が続いた。英国がボーア戦争に本当に勝利して平定したのは1902.5.31日であった。

 1900年、トランスバール初代大統領ポール・クルーガーが、ボーア人の窮状を訴えるためにヨーロッパに向かう。

 9月、英国はトランスバール北部を除く両方の共和国を管理した。しかし、軍事力による支配は日昼に限定された。軍隊が去るとすぐにその領域での英国の制御は消えた。25万人の英国軍兵士では二つの共和国が有する巨大な領域を効果的に制御するのは不可能であった。英国軍の分隊同士に巨大な距離があるため、ボーア軍の特別攻撃隊(コマンド)はかなり自由に動き回ることができた。

 ゲリラ戦が採用され、英国人に対して、可能なときはいつでも行動してよいとの命令が与えられた。特別攻撃隊が組織され、それぞれ自身の出身地区に派遣された。彼らの戦略は、敵に可能なかぎりの損害を与え、敵の増援が到着する前に移動するというものであった。1901.9月以後、西トランスバールのボーア軍特別攻撃隊がに活発に活動した。

 いくつかの重要な戦いが1901.9月から1902.3月の間に起こった。1901.9.30日、Moedwilで、10.24日、ドリエフォンテイン(Driefontein)で、デ・ラ・レイ将軍の軍は英軍を攻撃するが、強い抵抗にあい、退却を余儀なくされた。

 1902.2.25日、デ・ラ・レイが、Wolmaranstadの近くのYsterspruitで英軍を襲撃した。 デ・ラ・レイは敵の分隊を捕虜とし、彼の率いる部隊が相当の長期間にわたって活動できるだけの大量の弾薬を鹵獲することに成功した。デ・ラ・レイのボーア軍は、メシューエン卿(Lord Methuen)に率いられた英国軍をVryburgからKlerksdorpまで追跡した。

 2.28日、イギリスのレドバース・ブラー将軍、ボーア軍に包囲されていたイギリスの3拠点の1つレディスミスを解放。ムラビヨフ・ロシア外相、ボーア戦争(第2次ブール戦争・南ア戦争)を終結させるため仏・独に対し、イギリスに圧力をかけることを提案>

 3.7日、ボーア軍はTweeboschで移動しているメシュエンの後衛を攻撃した。これにより英軍は混乱に陥り、メシュエンは負傷しボーア軍の捕虜となった。Tweeboschの戦いは、デ・ラ・レイの勝利のうちの1つであったが、ボーア軍のこの勝利は、英軍のより強い反応を引き出すこととなった。

 3月後半、英軍の大規模な増援が西トランスバールに送られた。4.11日、英国軍が待ちに待った機会がRooiwalで訪れた。ここでGensの軍と合流した。Grenfell、Kekewich、Von Donopは、ケンプ将軍の軍と接触した。 英軍兵士は山の側に配置され、ボーア軍の騎馬攻撃を十分な距離を持って迎撃し、存分に打ち倒した。これは、西トランスバール戦争、更にはアングロ・ボーア戦争の最後の大きな戦闘であった。5月、最後のボーア人が降伏した。

 1902.5.31日、フェリーニヒング(Vereeniging)で条約が締結され(「フェリーニヒング条約」)、第二次ボーア戦争が終結した。これにより英国はトランスバール共和国とオレンジ自由国を併合した。英国は南アフリカを支配下においたが、典型的な英国帝国主義侵略であった。しかし、軍隊が大損害させられ、非人道的ともいえる収容所、焦土作戦などによって国際的な批判を浴びる等英国が失ったものも大きかった。

 第2次ボーア戦争による戦死者は英国兵2万2千名、ボーア兵2万名、黒人兵1万4千名と推定されている。民間人を含めると7万人の人命が犠牲となった。

 1902年、「アフリカのナポレオン」ともいわれたセシル・ローズが没した(享年49歳)。「ローデシア」という国名が残った。生涯独身で相続人がいなかったので全財産は母校オクスフォード大学に遺贈された。


【強制収容所】 

 英国の勝利で戦争は終わったが、1900.6月頃より、英軍司令官のキッチナーがゲリラとなったボーア軍支配地域で強制収容所(矯正キャンプ、concentration camp)戦略を展開しはじめた。ボーア戦争でイギリス軍が発明したのが強制収容所であり、その後の戦争に付き纏うことになった。

 イギリス軍は、ゲリラへの対抗手段として農場を焼き払う焦土作戦を敢行し全地域を掃討し、老人婦女子などの非戦闘員も含む12万人のボーア人が強制収容所に入れられた。ゲリラは劣悪な環境に押し込められ、14ヶ月間に2万人以上が死亡したとされる。

 戦争の様相は悲惨を極め、世界の世論は英国を非難した。当時のイギリスの高名な歴史学者ゴールドウィン・スミスは、のちの駐米大使ジェームズ・ブライスに次のような手紙を書いた。

 「この戦争は、チェンバレンとセシル・ローズ以外の誰にとっても不必要な戦争だ。しかしこの戦争のおかげで。イギリスは世界中から忌み嫌われている。私はイギリスが(百年戦争で)ジャンヌ・ダルクを焼き殺して以来、これほど道徳的に間違ったことをしでかしたことはないと確信する」(出典・中西輝政「大英帝国衰亡史」、出所・「ボーア戦争が終わる(1902)……強制収容所が発明された」)

 ヒトラーは後年イギリスへの「当てこすり」のためにユダヤ人収容所に「強制収容所」という英語をドイツ語にしてそのまま使った、イギリスのボーア人強制連行による収容がナチスのユダヤ人強制収用戦略の原型になった、と云われている。

 「ボーア戦争が終わる(1902)……強制収容所が発明された」氏は次のように述べている。貴重な指摘と思われるので引用しておく。

 「ボーア戦争の頃が、大英帝国が一番盛りであった頃だ。漱石が見たロンドンである。しかし結局、この国内世論の分裂が元で、イギリスの指導者は自信を失って行く。今のアメリカもそういうことになるのではないか。

 ちなみに、ボーア戦争の大義を演出するのに、本当の目的は金とダイヤモンドだったがそれには触れず、「ボーア人は黒人奴隷を虐待しているから、ボーア人の専制体制から黒人を救うのだ」という信じられない詭弁が使われた。この点も今のイラク戦争に似ている」。

(私論.私見) ボーア戦争時の強制収用所に於ける虐殺について

 「ボーア戦争時の強制収用所に於ける虐殺」が案外語られていない。ホロコースト、南京大虐殺については虚実織り交ぜて指弾される割には腰が引けているのではないのか。これについて追って更に検証していくことにする。

 2006.4.4日 れんだいこ拝


【100年後の英国王室の謝罪】

 (「エリザベス女王、ボーア戦争に遺憾の意を表明」参照)

 そして100年が経ち、英国を代表して王室が、迷惑を蒙った現地黒人の犠牲者たちに対して、「黒人の権利の無視が2度と有ってはならない」と、英国の非を率直に認めた。

 「英国史上最も不人気な戦争」とまで呼ばれたこの戦争は、大義もなければ正義もなく、さらにボーア人に対する非人道的行為などから親ボーア・反植民地主義を唱える勢力を盛り立て、大英帝国の正当性に対する深刻な疑念を呼び起こした。

 会議に出席のため南アフリカを訪問中のエリザベス女王とエディンバラ公は、女王は10日開催された大統領官邸でのパーティで次のように述べた。

  「私たちは、ボーアや英国の兵士たちだけでなく、この戦争に巻き込まれた、黒人も白人も、男も女も子供達も、全ての人々を含めて人命の損失や傷害を負ったことを悲しみをもって想起せねばなりません」。
 (We should remember with sadness the loss of life and suffering, not only of Bore or British soldiers, but of all those who caught up in the war-black and white, men,women and children)

 女王は、「ボーア戦争は歴史の悲劇の章(tragic chapter in history)である」と、ボーア戦争に遺憾(regret)の意を表明した。が、この紛争の間に大英帝国が行った残虐行為については殆ど謝罪の言葉はなかった。(falls short of apologising for British atrocities during the conflict)

 女王を歓迎したThabo Mbeki大統領は、次のように述べた。

  「人種差別主義によって長い間両国は分離されてきましたが、今や団結する機会と可能性を持つに至りました。女王とともに私はこう言います。この国が戦争の犠牲になるような事があってはならないと」。
 (Long divided by racism, we now have the opportunity and possibility to unite and together say never again should our country fall victim to war)
  「私たちは英国および英国民とともに、心の奥底から湧く友情をもってボーア戦争百年記念式典を迎えています」。
 (We also approach the commemoration in a true spirit of friendship with the United Kingdom and its people)

【ボーア戦争が帝国主義論を生み出す。その他の逸話】
 ボーア戦争の従軍記者であったボブソンは、この戦争を見て「帝国主義論」を書いた。これが、レーニンの帝国主義論の原基となる。その他いろんな意味で、ボーア戦争の歴史に占める影響は思われているよりずっと高い。

 1902.10月、イギリス留学のためロンドンを訪れていた文壇の夏目漱石は、ボーア戦争に勝利したイギリス兵隊達のパレードの日を目撃して、日記に「非常の雑(ざっ)踏(とう)にて、困却(こんきゃく)せり」と書いている。

【第二次ボーア戦争その後】
 第二次ボーア戦後、イギリスはボーア人との和解をはかり、1906―1907年、イギリスはどちらの州にもボーア人の自治権を与えた。

 1910(明治43).5.31日、トランスバール州、オレンジ自由州、ナタール州、ケープ州の4州からなる南アフリカ連邦を設立し、大英帝国内(英連邦)の自治領となる。初代首相に政治的結束を強めたボーア人からルイ・ボータが就任した。連邦政権のもとで白人は圧倒的な優位を確保した。南ア連邦の主導権はボーア人たちが握ることになった。

 イギリス側はボーア人に大幅な自治権を認め、ボーア人たちは新国家誕生の後、民族主義意識を強め「アフリカーナー」と称して民族主義意識を強め権利を主張した。経済はイギリス人、政治はアフリカーナーが独占し、オランダ語を母体として生まれたアフリカーンス語を英語とならんで公用語にした。

 戦争後、鉱山での労働者条件の改善を要求するボーア系白人労働者のストライキが起こり、政府はその対策に着手した。1911年、原住民に対して、鉱山における白人黒人間の職種区分と人数比を全国的規模で一般化する、白人労働者保護のための最初の人種差別法、鉱山・労働法が制定された>当時アフリカ人400万、カラード50万、インド人15万、白人127.5万人であった。


 1912年、南アフリカ原住民民族会議が結成され、後にアフリカ民族会議(ANC)となる

 1913年、「原住民土地法」といった人種差別法が立法化された。

 第1次世界大戦中、南アフリカはイギリス同盟国につき参戦。1916年にドイツ領ナミビアを獲得した。第2次世界大戦でも同盟国側で戦った。

 アフリカーナーと黒人、鉱山経営者と白人鉱山労働者の間に対立が生じた。

 第一次世界大戦後時、工業の発達につれて人口の都市集中が進んで、とくにボーア戦争によって農場を破壊され都市に流れたボーア人農民を労働市場でアフリカ人との競合から守るため、政府はさまざまな産業・労働上の人種差別法を制定した。大戦後、ボーア人ナショナリズムを唱えるヘルツォ−ツ国民党内閣の成立で、ボーア人保護のための産業調停法、賃金法などさらに差別が進められた。

 1922年、英国南アフリカ会社は経営不振を理由に、統治権を放棄した。英国政府はローデシアが南アフリカ連邦に併合されることを望んだが、現地の白人社会は南アフリカ連邦への併合を嫌い、自立の道を選んだ。英国政府は現地白人社会の意向を認めざるをえなかった。

 ローデシアは南北二つに分かれた。1923年、英国の自治植民地南ローデシア(現ジンバブウェ)、1924年、英国の直轄植民地北ローデシア(現ザンビア)とにわかれる。しかしいずれも現地の白人支配であった。現地議会の人種差別法により土着のアフリカ人は政治参加できず、経済的にも従属していた。

 1923年、原住民法が制定される。原住民の都市流入を規制し、都市黒人を郊外の専用居住区に登録・居住させるもの。

 1929年、デ・ビアズ社の社長になったドイツ系のオッペンハイマーは、ロスチャイルド財閥の支援を受けて、南アフリカばかりでなく、世界の金・非鉄金属、ウラン、貴金属生産を支配下に収める巨大な多国籍企業・オッペンハイマー財閥をつくりあげた。このオッペンハイマー財閥は、ロンドンの「ダイヤモンド・シンジケート」(中央販売機構)を通して世界のダイヤモンドの80〜90%を支配下におくようになる。

 1934年、イギリス連邦内で独立。

 1936年、原住民代表法を制定。共通選挙人名簿から黒人有権者を除外。

 1936ー53年、白人政府によって「原住民土地法」「雑婚禁止法」「集団地域法」「人口登録法」など、人種ごとの権利を区別する法律がつぎつきと作られました。

 1943年、アフリカ民族会議 (ANC) に結集する青年がANC青年同盟を結成。請願活動主体の行動から、直接行動組織への移行。

【第二次世界大戦後の南アフリカ連邦】
 第二次世界大戦後、アフリカ、アジア各地で独立運動が展開されはじめると、南アフリカ内でも反人種主義闘争が繰り広げられるようになった。

 1948年、政権を握った国民党(アフリカーナーの農民や都市のプアー・ホワイトを基盤とする政党)は、マラン国民党政府は、第2次世界大戦後のアジア、アフリカに起こった反植民地運動と国内のアフリカ人民族運動の高まりに対し、全人口比率では少数になる白人擁護のためアパルトヘイト(人種隔離)の必要性を訴え、アフリカ人による民族運動を弾圧した。人口比率で15%の少数派の白人は、オランダ語で分離、隔離といった意味の”アパルトヘイト”制度を制定した。これにより、南アフリカ共和国民は、白人、カラード、アジア人、黒人に四大区分された。

 非白人には参政権がなく、最近までは労働組合の登録を認められていなかったため、団体交渉権がなく、白人との労働条件の差は大きかった。また人種間の婚姻も禁止され、教育は人種別に分けられた。598万人の白人が2724万人の非白人(カラード、アジア系、アフリカ系)を政治・経済・社会のあらゆる面で支配する為の政策が採用されていった。

 アパルトヘイトを支えた法律は350以上にも及ぶ。そのうち、特に基本となる4つの法律を根幹法と呼び(下表中*を付した法律)、それ以外の法律を関連法と呼ぶ。それらのうち、主なものは、1936年の原住民土地法(全土の87%にあたる土地を白人が独占する)を初めとして1949年の人種間通婚禁止法(異人種間の結婚禁止)、1950年の背徳法(異人種性行為の禁止)、同年の人口登録法(人種登録の義務づけ)、集団地域法(人種別の居住区指定)、共産主義弾圧法、1953年のバンツー教育法(人種ごとに異なる教育システムを定める)、分離施設留保法(列車やバス、公共施設など諸施設の設置・利用に関する人種分離)などさまざまな人種差別法を制定し、反政府運動を弾圧していった。

 アパルトヘイト政策に対する国際的な批判が高まる中、ヨハネスブルグを中心に不穏な空気に包まれた。南アフリカはアパルトヘイト政策のため諸外国から嫌悪政策を受けたり、イギリス系財界人が海外へ流出するなどなどして、経済的に苦境にたたされた。この南ア政権の苦境にたいしていちはやく手をさしのべたのは日本であった。日本と南アの貿易量はアパルトヘイト政策に関わりなく今日までつねに上位を維持している。

 1949年、異人種間結婚禁止法が成立。1950年、人民登録法制定。すべての南アフリカ人を白人、カラード、インド人、アフリカ人という四つの人種に分けられた。

 1953年、南北ローデシアとニヤサランド(現マラウイ)がローデシア・ニヤサランド連邦を形成した。

【アパルトヘイト反対闘争高まる】
 1955年、すべての人たちが平等に生活できる社会をめざした「南アフリカは、黒人、白人をとわず、そこに住む全ての人々に属する。」という文言ではじまる「自由憲章」が白人政府に反対する人たちの手で作られた。

 1960.3.21日、アパルトヘイトの廃止を要求する黒人たちがヨハネスブルグ郊外のシャープヴィル警察に集まり抗議し始めたのに対し、白人警官が一斉に発砲し、死者67名、負傷者180名を出した(シャープヴィル事件)。これに対する全国的な抗議行動に対して、政府は非常事態宣言を発し、非合法組織法(1960年)を制定してアフリカ人民族会議(ANC、1912年結成)を非合法化(1962年)、その指導者ネルソン・マンデラは投獄される。また、この事件を契機に国際的な非難も高まり、国連やイギリス連邦が激しい南ア非難を行う。

【アパルトヘイト反対闘争高まる】

【英連邦から脱退して国名が「南アフリカ共和国」になる。日本の対応】
 1961年、英連邦から脱退して国名を「南アフリカ共和国」に変え共和国に移行する。アパルトヘイトに対する国際的非難が高まる中、唯一日本だけは、南アに対して救いの手を差し伸べる。日本にとって南アは、アパルトヘイトの国、というよりも、豊富な鉱物資源を有する貿易相手国だった。

 1962年、 南アは日本人を法的白人とすると発表した。いわゆる「名誉白人」で、南アフリカ政府や南アフリカ企業と深いつながりを持つことになる。これにより、有色人種の日本人は白人地域に居住し、白人向けの最高級ホテルやレストランを利用することができた。

【その後の「南アフリカ共和国」】
 1960年代になると、黒人学生がアパルトヘイト廃止の運動に加わってくる。その代表的な指導者がナタール大学の医学生スティーブ・ビコだった。彼は、黒人であること、すなわち肌の色や黒人固有の文化に誇りを持とうと訴え、「黒人意識運動」を展開した。彼の運動は瞬く間に南ア中に広がっていった(「遠い夜明け」)。

 1963年、ローデシア・ニヤサランド連邦は、南ローデシアが、北ローデシアの銅資源とニヤサランドの安くて豊富なアフリカ人労働者を利用したものであり、白人社会は富裕になったが、現地アフリカ人の生活水準は向上しなかったので、アフリカ人社会に民族主義運動と連邦離脱運動が起こり、連邦は10年で解体した。 翌1964年、北ローデシアはザンビア、ニヤサランドはマラウイとして独立した。

 1976.6.16日、ヨハネスブルグの南西にある最大の黒人居住区ソウェト(South-Western Townshipの略)で暴動が起こった。発端は、黒人の高校におけるアフリカーンス語の義務化に反対する小・中・高校生を中心とした約1万人のデモだった。これに対し、警察はついに子どもにまで銃を向ける。その結果、政府発表で死者176人、負傷者1139人を出す南ア最大の悲劇となった(ソウェト事件)。その後、暴動は全国に広がり、10代から20代の若者を中心とする多くの犠牲者を出した。ビコは、これらの蜂起を直接指導することはなかったが、彼の存在を恐れた政府は、1977.8.18日、彼を逮捕、同年9.12日、拷問死させる(享年30歳)(「遠い夜明け」)。

 1980年代、反体制運動は激しくなり、国際的に経済制裁を受け、南アフリカ各地で反アパルトヘイト運動が高まり、アパルトヘイト関連法の廃止、人種差別の法律の全廃を決定する。1983年、憲法を改正し、三院制議会(白人、カラード、インド人からなる議会)を成立させた。しかしここでも黒人は除かれたままだったため、国連総会はこの議会を無効と宣言し、国連安全保障理事会も各国による経済制裁を決議した。これにより窮地に立った南ア経済界は、政府にアパルトヘイト廃止を要求、1985年、雑婚禁止法や背徳法が廃止された(「遠い夜明け」)。

 1987年、総選挙で国民党が勝利を収める。国としての将来に見切りをつけたイギリス系財界人が海外に流出し南アはますます苦境に立たされました。

 1988年、アメリカの仲裁を受けアンゴラ撤兵、ナミビアの独立。

 1989年、政治的、経済的に孤立したボタ大統領に代わってフレデリック・デ・クラークが大統領に就任し、黒人との対話路線が一気にすすんだ。

 1990年、1957年の反逆裁判で逮捕、拘留されていたネルソン・マンデラが無条件釈放された。マンデラはANC議長に就任、デ・クラーク大統領との交渉を進めた。日本政府は1990年秋のANCという「政治組織」のマンデラ氏訪問の際の資金援助の要請に対しては、政治組織には金は出せないと回答して、これに応じなかった。

 1991.2月、フレデリック・デ・クラーク大統領は、国会開会演説で、全アパルトヘイト法の廃止を宣言、同年6月までに、最後まで残っていた人口登録法、集団地域法、土地法の3つの根幹法を廃止した。

 1991.6月、アパルトヘイト関連法の廃止がデクラーク政権によって発表された。日本政府は、これは歓迎すべき出来事であり、「『制裁』は相当程度の役割を果たした」(朝日新聞1991.4.14朝刊)と発言した。これにより外国による全ての制裁処置がとかれ、オリンピックに復帰し、海外からの観光客で賑わうことになった。

 1992年、オリンピックへの参加を果たした。

 1993年、南アに対する経済制裁が解除された。

 1993年、1970年代から1980年代にかけて密かに核兵器を製造・配備をしていたが、核拡散防止条約加盟前に全て破棄していたことを発表した。

【マンデラ議長の大統領就任から現在に至るまで】
 1994.4月、同国史上初めての全人種参加による南アフリカ共和国の総選挙がおこなわれ、第一党ANC、第二党国民党、第三党インカタ自由党となった。アフリカ民族会議(ANC)が勝利し、ネルソン・マンデラ議長が黒人最初の大統領に就任した。副大統領に、同じくANCのターボ・ムベキと国民党党首のデクラーク元大統領が就任し、黒人と白人の連合政権がここに誕生した。 

 こうして、法秩序によって黒人の基本的人権が公然と否定されている唯一の国だった南アは新しい歴史を刻み始める。イギリス連邦と国連に復帰。新しい憲法を作るための制憲議会が始まる。

 1996年、新憲法を採択。国民党は政権から離脱した。

 ネルソン・マンデラは全人種融和路線を推進し、白人たちからも信頼された。ネルソン・マンデラは”私の仕事は終わった”と言って、一期で大統領をやめ政界から引退した。

 1999.6.2日、第2回総選挙で、ムベキ元副大統領が当選し、高齢のマンデラ氏に替わって政権を握った。マンデラ氏ともに打ち出した新政府の体制維持と発展、今後アフリカ諸国の中でリーダーシップをどう取って行くか期待されている。

 2004年春、3度目となる総選挙を実施。与党ANCが70%を超える得票率で圧勝。ターボ・ムベキ大統領が再選された。





(私論.私見)