松永久秀(キリシタン武将)考



 (最新見直し2013.11.22日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、松永久秀を確認する。

 2013.10.22日 れんだいこ拝


【松永久秀の履歴】
 ここで「松永久秀考」しておく。新たに戦国大名考サイトを設けたが「松永久秀考」が手始めとなる。「ウィキペディア松永久秀」その他を参照する。
 1510(永正7)年?−1577(天正5).10.10日(1577年11月19日) の戦国時代の武将。大和国の戦国大名。斎藤道三・宇喜多直家と並んで日本の戦国時代の三大梟雄とも評されている。「久秀の三悪事」として「三好家乗っ取り、永禄の変、東大寺大仏殿焼き討ち」が知られる。名は、松永久秀・弾正久秀と名乗る(通称)。道意(号)。霜台。
 1510(永正7)年頃?、誕生している。父母は不明。出身地は阿波国・山城国西岡(現在の西京区)・摂津国五百住の土豪出身など諸説ある。前半生には不明な点が多く確証はない。弟に長頼、嫡男に久通、養子に永種(貞徳の父)が居る。 

 1540(天文9)年から細川氏の被官・三好長慶の右筆(書記)として仕える。(長慶が家督を継いだ天文2年(1533年)か天文3年(1534年)とも)。1542(天文11)年、三好軍の武将として山城南部に在陣した記録があり、この頃には武将としての活動も始めていたようである。1549(天文18)年、長慶が細川晴元、13代将軍足利義輝らを近江へ追放して京都を支配すると、長慶に従って上洛し三好家の家宰となる。三好長慶に従い幕政にも関与するようになる。

 1551(天文20).7.14日、上洛して相国寺に陣取った細川晴元方の三好政勝、香西元成らを弟の長頼と共に攻めて打ち破っている(相国寺の戦い)。

 1553(天文22)年、長慶が畿内を平定する。久秀が摂津滝山城主に任ぜられる(弘治2年(1556年)7月とも)。同年9月、長頼と共に丹波の波多野晴通を攻め、波多野氏の援軍に訪れた三好政勝、香西元成の軍と再び戦っている。この戦いで味方の内藤国貞を失うも長頼が挽回、国貞亡き後は長頼が丹波平定を進めていった。

 1556(弘治2)年、奉行に任命され、弾正忠に任官し、弾正忠の唐名である「霜台」(そうだい)を称する(霜台を称したのは1960年からともされる)。長慶は後に自分の娘を久秀に嫁がせている。上洛後しばらくは他の有力部将と共に京都防衛と外敵掃討の役目を任される。

 1558(永禄元).5月、義輝・晴元が近江から進軍して京都郊外の東山を窺うと、一門衆の三好長逸と共に将軍山城と如意ヶ嶽で幕府軍と交戦する。11月、和睦が成立すると摂津へ戻る(北白川の戦い)。

 1559(永禄2).5月、河内遠征に従軍、戦後は長慶の命令を受けて残党狩りを口実に大和へ入る。8.8日、滝山城から大和北西の信貴山城に移って居城とする。

 1560(永禄3).6月から10月までの長慶の再度の河内遠征では大和に残り、信貴山城で河内からの退路を塞ぎつつ7月から11月にかけて大和北部を平定する。11月、信貴山城に四階櫓の天守閣を造営する。こうして三好家中の有力部将として台頭していった。この頃、久秀は長慶と「相住」の関係(『厳助大僧正記』)にあり、長慶の側近として特に重用されていた。同年からは六角氏への対応のため、三好軍の主力を率いてしばしば交戦している。この年、興福寺を破って大和一国を統一する一方、長慶の嫡男・三好義興と共に将軍義輝から相伴衆に任じられ、2.4日に従四位下・弾正少弼に叙位・任官されている。

 1561(永禄4).1.28日、従四位下に昇叙される。2.1日、義輝から桐紋と塗輿の使用を許されている。これは長慶父子と同等の待遇であり、既にこの頃には幕府から主君・長慶と拮抗する程の勢力を有する存在として見られていた事がわかる。2.4日、それまで称していた藤原氏から源氏を称するようになる。同年11月、義興と共に六角義賢と京都付近で戦う(将軍地蔵山の戦い)。

 1562(永禄5)年、三好軍を結集させ河内へ出陣。5月、義賢と結んだ河内の畠山高政を打ち破り(久米田の戦い、教興寺の戦い)、紀伊へ追放する。6月、義賢と和睦。9月、長慶に逆らった幕府政所執事の伊勢貞孝、貞良父子を討伐するなど功績を挙げる。同年、大和と山城の国境付近に多聞山城を築城・移住する。大和国人十市遠勝を降伏させる。

 1563(永禄6).12.14日、家督を嫡男久通に譲る(厳助往年記)。但し隠居したというわけではなく、以後も前線で活躍する。

 久秀が勢力を増加させていく一方で、主君長慶は弟の十河一存、実休(義賢)、嫡男義興の相次ぐ死去などの不幸が重なり、覇気を失くしていった。十河一存や義興については久秀による暗殺説もあるが、一存の死因は落馬、義興は病死とされている。1564(永禄7).5.9日、長慶の弟である安宅冬康の死去する。これにより三好家では久秀に並ぶ実力者は阿波で国主を補佐していた篠原長房のみとなる。この頃、久秀は主家を凌駕する実力を持つに至った。7.4日、長慶が死没する。しばらくは三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)らと共に長慶の甥三好義継を担いで三好家を支えた。

 1565(永禄8)年.5.19日、三好・松永の排除を狙う義輝を三好三人衆と共に攻め滅ぼした(永禄の変)。「キリシタン宣教師を追放する」とあるが、事件との関連性が分からない。

 同年8.2日、弟長頼が丹波で敗死して三好家は丹波を喪失する。久秀が畿内の主導権をめぐり三人衆と対立するようになる。11.16日、義継を担いだ三人衆が久秀と断交、両者は三好家中を二分して争い、これが内乱の幕開けとなった。

 1566(永禄9)年、三好康長や安宅信康ら一門衆も三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ14代将軍足利義栄からも討伐令を出されるなど、三好家中で孤立する。2月、畠山高政・安見宗房と同盟を結び、根来衆とも連携して義継の居城高屋城を攻撃するなど何とか勢力の挽回を図ろうとするも、三人衆は和泉堺へ襲撃する。2.17日、三人衆と同盟者の大和国人筒井順慶と堺近郊の上芝で戦い(上芝の戦い)。両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退する。一旦多聞山城に退却して5月に再度出陣。かつての領国摂津で味方を募り堺で畠山軍と合流したが、高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため5.30日に逃亡し、数ヶ月行方不明となった。高政は三人衆と和睦、摂津・山城の松永方の諸城は篠原長房・池田勝正などの援軍を加えた三人衆に次々に落とされ、留守中の多聞山城は久通が守っていたが、筒井順慶が大和を荒らし回るなど劣勢に立たされた。

 1567(永禄10).2.16日、三人衆のもとから義継が久秀を頼って出奔してきたため、これを契機に勢力を盛り返し、4.7日に堺から信貴山城に復帰する。4.18日、三人衆が大和へ出陣する。10.10日、長い対陣の末に三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、久秀は畿内の主導権を得た(東大寺大仏殿の戦い)。この時久秀が大仏殿に火を放ったとも言われるが、ルイス・フロイスの「日本史」によれば、この出火は三好方のキリシタンの放火によるものであると記述されている。しかし、この時点で久秀に味方したのは畠山高政や根来衆、箸尾高春ら一部の勢力だけで、畿内と四国に強い地盤を持つ三人衆とは大きな勢力の開きがあり、終始三人衆との戦いは劣勢であった。

 1568(永禄11)年、三人衆は軍を大和に駐屯させたまま久秀の監視体制を継続した。6.29日、信貴山城が三人衆に落とされるまでになった(信貴山城の戦い)。多聞山城に籠城していた久秀が打開策として考えていたのが織田信長の上洛で、永禄9年の段階で既に信長と交信していて、信長も大和国人衆に久秀の助力を伝えている。

 1569(永禄12)年、9月、織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛してくると義継・久通と共にいちはやく降伏し、人質と名茶器といわれる「九十九髪茄子」を差し出して恭順の意を示し信長に降伏して家臣となる。久秀が兄の仇である義昭の反対はあったものの、久秀の利用価値を認めた信長が義昭を説得し、幕府の直臣(名目上は信長の家臣ではなく、義昭の家臣)となり、大和一国を「切り取り次第」とされた。三人衆は信長に抵抗して9月に畿内から駆逐され、義栄も上洛出来ず急死したため義昭が15代将軍となり、畿内は信長に平定された。

 10月、この頃、大和の有力国人はほとんどが筒井順慶に属していたが、信長が家臣の佐久間信盛、細川藤孝、和田惟政ら2万の軍勢を久秀の援軍として大和に送ると、この軍勢と協力して次第に大和の平定を進めていく。一段落した12.24日、岐阜へ赴き、さらに「不動国行の刀」以下の諸名物を献上する。

 1569(永禄12)年、大和平定を継続する。対する順慶は没落を余儀なくされていた。

 1570(元亀元)年、信長の朝倉義景討伐に参加し、信長が妹婿・浅井長政の謀反で撤退を余儀なくされると、近江朽木谷領主・朽木元綱を説得して味方にし、信長の窮地を救っている(金ヶ崎の戦い)。同年11月から12月にかけて信長と三人衆の和睦交渉に当たり、久秀の娘を信長の養女とした上で人質に差し出して和睦をまとめている。以後も信長の家臣として石山本願寺攻めに参加するが、次第に信長包囲網が形成されてゆくにつれて義昭に通じたと見られる。1571(元亀2)年時点で甲斐の武田信玄から書状が送られており、この時点で既に信長に対する不穏な動きが見て取れる。


 1572(元亀3)年、ついに久秀は信長に対する叛意を明らかにし、義継・三人衆らと組んで信長に謀反を起こした。

 1573(元亀4、天正に改元).4月、包囲網の有力な一角である信玄が西上作戦中に病死する。7月、義昭が信長に敗れ追放される(槇島城の戦い)。11月、義継も信長の部将佐久間信盛に攻められ敗死する(若江城の戦い)。12月末、余勢を駆った織田軍に多聞山城を包囲され、多聞山城を信長に差し出し降伏した。三人衆も信長に敗れ壊滅し包囲網は瓦解した。

 1574(天正2).1月、岐阜に来て信長に謁見する。この頃、筒井順慶も信長に服属している。以後、久秀は対石山本願寺戦(石山合戦)の指揮官である信盛の与力とされたが目立った動きはない。

 1577(天正5)年、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。信長の命令に背き、大和信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったという(信長公記)。信長は、嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、10月、信貴山城を包囲させ、所有していた名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると命ずるが久秀はこれを拒絶、信長のもとに差し出していた22人の孫は京都六条河原で処刑された。

 10.10日(11.19日) 、織田軍の総攻撃が始まると平蜘蛛を天守で叩き割り(一説には茶釜に爆薬を仕込んでの自爆)爆死した。享年68歳。奇しくも10年前に東大寺大仏殿が焼き払われた日と同月同日であった。戒名は妙久寺殿祐雪大居士。墓所は、京都市下京区の妙恵会総墓地、奈良県北葛城郡王寺町本町の片岡山達磨寺、奈良県生駒郡三郷町に供養塔。

 武将としての力量は当時高く評価され、宿敵・筒井氏の家老であった島清興が関ヶ原の戦いの際に、「今時の諸侯は明智光秀や松永久秀のような果断にかけている」とぼやいたといわれる。

 茶人としての松永久秀

  • 武野紹鴎に師事しており、茶人としての交流は広い。平蜘蛛茶釜の所持者として有名だが、他に九十九髪茄子(現在静嘉堂文庫所蔵)を一時所持していた。その他にも名物を多数所持しており、当時の茶人としての位置づけは高いものであった。古くから三千家の祖である千少庵の父とする説がある。

 子孫

  • 俳人の松永貞徳は久秀の孫という。儒学者の松永尺五は彼の曾孫に当たる。帝国海軍中将松永貞市(太平洋戦争初期、マレー沖海戦で英東洋艦隊を壊滅させた航空隊指揮官)とその孫松永真理(NTTドコモのiモードの生みの親)は久秀の嫡男久通の子で筑前博多にて質屋を開業し豪商となったという松永彦兵衛(一丸)が先祖との事。

 家臣


【れんだいこの松永久秀考その1、久秀はキリシタン武将にして信長以前のバテレン御用聞き天下取り本命筋ではないのか】
 新たに戦国大名考サイトを設け、手始めが「松永久秀考」となった。松永久秀(以下、単に久秀と記す)について気になることがあり前から確認しておこうと思っていた。少しばかりスケッチしておく。気になることとは、久秀に今でいう親ネオシオニズム、当時でいうバテレン走狗の臭いを嗅ぐからである。しかるにこの線からの考察が皆無であるように思うからである。これを文章化しサイトアップするのは、今日の政界が良く似た状況であり「久秀亜流」がごまんと居り、決して4、5百年前の昔話しではないと思うからである。これを検証する。

 「ウィキペディア松永久秀」は次のように記している。
 「三好三人衆らと争っていた永禄9年、日本で最初に降誕祭(クリスマス)を理由に休戦を命じた(あるいは応じた)という記録が残っている」。

 これは久秀がキリシタンであったことを窺わせる。他にロレンソを語る「キリスト教布教に生涯をささげる」の中に次の一文がある。
 「ロレンソは生まれたときから片目が不自由であり、そのため琵琶法師として生計を立てていました。ですが1551年、ロレンソはイエズス会宣教師・フランシスコ=ザビエルに師事。洗礼を受け、ロレンソという洗礼名を授かりました。ロレンソはコスメ=デ=トルレスやガスパル=ヴィレラらと共に日本での布教活動に務め、1559年には、時の将軍足利義輝に謁見。正式にキリスト教布教の認可を受けたのです。更に松永久秀がヴィレラを招いた際は、ロレンソがヴィレラの代わりに久秀の下に赴き、清原枝賢と宗論を行いこれを論破。これに感心した高山友照の招きを受け、やがて友照はロレンソより洗礼を受けたのです。それだけでなく、結城忠正・清原枝賢などの有力人物らが、ロレンソの影響を受けキリスト教に入教していったのです。その功績が認められ、ロレンソは1563年に正式にイエズス会に入会。日本人最初のイルマン(修道士)となり、また宣教師の通訳として、キリスト教布教に力を入れていったのです。当時は畿内を活動領域としていましたが、1565年〜1569年にかけて九州に赴き、布教活動を行いました。1569年、ルイス=フロイスと共に織田信長に謁見。信長の寵愛を受けていた日蓮宗の僧・朝山日乗と論戦を行い、これを論破しました。それにより信長は、彼らにキリスト教布教の許可を与えたのです。この時日乗は逆上し刀を抜き、信長の家来に取り押さえられたといいます。その後も、ロレンソは畿内を中心に布教活動を行っていましたが、1587年に豊臣秀吉が伴天連追放令を出すと九州に隠遁。1592年に長崎で亡くなったのです」。 

 「日本布教 イエズス会 世の光 日本の宣教に貢献したキリシタン大名」に次の一文がある。

 結城忠正(不明)洗礼名:エンリケ

 山城守、松永久秀の家臣。1563年久秀の命でキリスト教の取調べを行うため日本人修道士ロレンソ了斎を尋問するが、ロレンソより話を聞くうちその教義に同感し、忠正自身が堺から来たビレラにより洗礼を受ける。畿内で最も早くキリシタンとなりキリスト教を保護した。彼の改宗によって畿内のキリスト教布教は大きく進展した。
 久秀の旗下に高山右近の父の友照(飛騨守を自称)が居た。高山友照−右近父子は1564(永禄7)年、右近12歳の時、居城の沢城で半盲の琵琶法師にしてイエズス会宣教師のロレンソ了斎の受洗を受けている。1565(永禄8).5.19日、三好・松永連合軍が13代将軍・足利義輝を攻め滅ぼした(永禄の変)が、高山父子が久秀軍下に居たことは間違いない。その久秀は明智光秀と親しい。高山右近が牧村正春、蒲生氏郷、黒田如水(にょすい)孝高、大友吉統、小西行長らをキリシタン大名にし、細川忠興、前田利家などに影響をおたえている。
 他にもいろいろあろうが、これらの例でも十分に久秀がキリシタン武将&大名の束ね筋であったことを知ることができよう。

 ところが、ネット検索で「日本人の思想とこころ」の「(2)ザビエルとフロイスの日本」に出くわした。次のように記述されている。
 「フロイスは、翌年、平戸を出発して上洛の途につき、永禄8(1565)年京都へ上り、正月には、将軍足利義輝に年賀の挨拶に伺候することが許された。しかしこの年、将軍義輝は彼に代わって権勢を振るっていた松永久秀に殺害されるという事件が起こった。将軍義輝は先にキリスト教伝道を許していたが、松永久秀はキリスト教を嫌うのみか、キリスト教の天敵ともいえる日蓮宗徒と親しくしており、キリスト教の信徒の迫害に出る事が懸念された。将軍・義輝の後ろ盾を失ったフロイスたちは都から追放され、戦国時代の混乱期にある日本の中を、宣教師にも拘らず腰に刀を差し、摂津、河内と流転することを余儀なくされた」。

 ここでは、久秀は「松永久秀はキリスト教を嫌うのみか、キリスト教の天敵ともいえる日蓮宗徒と親しくしており、キリスト教の信徒の迫害に出る事が懸念された」と記述している。れんだいこが確認しているところの「松永久秀はキリシタン武将にして信長以前のバテレン御用聞き天下取り本命筋」とする見立てと逆になっている。

 こういう例は多々ある。明らかに見解が違う。こういう場合、論旨が違う書物を雑多に詰め込み式に読むだけでは何の役にも立たない。むしろ判断がつかなくなる。そこで読み手の我々自身が持論を生み出す必要がある。その際、「長文で如何にも精密そうな研究」に騙されてはならない。長文故に教えられることは多いだろうが、解釈の分かれそうな肝の部分では読み手自身の責任で書き手の論理論法の是非判断せねばならない。「長文で如何にも精密そうな研究」は誤った結論を植え付けるための小道具に過ぎないと云う場合が少なくないからである。「長文で如何にも精密そうな研究」に基づく正解なぞは滅多にお目にかかれるものではない。例えば邪馬台国論がその最たる例である。そういう訳で、以下、れんだいこは、「松永久秀はキリシタン武将にして信長以前のバテレン御用聞き天下取り本命筋」と立論しつつ更に久秀論を詰めていくことにする。

 2013.10.22日 れんだいこ拝

【れんだいこの松永久秀考その2、久秀の黒幕としてのガスパ ル・ヴィレラ神父−フロイス神父考】
 ルイス・フロイスは、著書「日本史」において、1561(永禄4)年の頃の久秀の権勢を次のように記している。
 「天下の最高の支配権を我が手に奪ってほしいままに天下を支配し、五畿内では彼が命令したこと以外に何事も行なわれないので、高貴な貴人たちが多数彼に仕えていた」。
 「(久秀は)偉大なまた稀有な天稟(てんぴん)をもち、博識と辣腕をもち、腕利きであるが、狡猾である」。

 他にも、1567(永禄10)年の三好三人衆との「東大寺大仏殿の戦い」に於ける大仏殿放火につき、「この出火は三好方のキリシタンの放火によるものである」とわざわざ註釈し久秀と東大寺大仏殿焼失との関わりを免責している。これらの記述は、ルイス・フロイスが久秀を相当注視し庇護していたことを物語っていよう。問題は、ルイス・フロイスが何故に久秀を見初めていたかにある。これを詮索せねばなるまい。

 「久秀の三悪事」として「三好家乗っ取り、永禄の変、東大寺大仏殿焼き討ち」が知られる。これについて思うことは、悪事の着想が日本人離れしていることである。宣教師バテレンの教唆による所業と思えば腑に落ちる。「三好家乗っ取り」は「主家殺し」であり、「永禄の変」は「王家殺し」であり、「東大寺大仏殿焼き討ち」は「在地宗教権力殺し」である。いずれも16世紀頃から活発化する国際金融資本帝国主義ネオシオニズム勢力(以下、単に「国際ユダ屋」と命名する)の世界植民地化の際の常套手段であり日本だけの例ではない。久秀が「国際ユダ屋」に引き立てられ、「国際ユダ屋」と呼吸を合わせながら悪事に手を染めていたと思えば合点がいく。

 ここで、「イエズス会日本布教史年表」とバテレンの日本上陸以降の久秀との重なり合いを確認しておく。
1538(天文7)年 ロヨラの聖イグナチオ、ザビエルらがパりでイエズス会を結成する。
1542(天文11)年 ザビエル(35歳)がポルトガル国王ジョアン3世、ローマ教皇の要請に応えてリスボンを出港しインドのゴアに到着する。
1543(天文12)年 ポルトガル人 乗船のシナ・ ンヤンク船が種子島に漂着し鉄旭が伝来する。
1544(天文13)年 改宗ユダヤ人マラノにして貿易商ピントと二人のポルトガル人の仲間が種子島に鉄砲を伝えたともある。
1549(天文18)年 8.15日、鉄砲伝来の6年後のこの日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルがヤジロウの案内で二人のイエズス会士、コスメ・デ・ドーレスとジョアオ・フェルナンデスと共に薩摩(鹿児島)の山川へ上陸する。
この年、三好長慶が細川晴元、13代将軍足利義輝らを近江へ追放して京都を支配する。久秀が長慶に従って上洛し三好家の家宰となる。
1551(天文20)年 ザビエルが京都に上る。
この頃より久秀が戦国武将としての頭角を現し、摂津滝山城主に任ぜられたり信貴山城に四階櫓の天守閣を造営する等、三好家中の有力部将として台頭する。
1559(永祿2)年 ガスパ ル・ヴィレラ神父が京都で宣教を開始する。当時京都に勢力を張る三好長慶や松永久秀と交渉している。
1560(永祿3)年 室町幕府第13代征夷大将軍・足利義輝がヴィレラに布教許可状を交付する。
この年、久秀が興福寺を破って大和一国を統一する。この頃より久秀が勢力を増加させていく一方で、主君三好長慶の弟の十河一存、実休(義賢)、嫡男義興が相次ぎ死去する。久秀による暗殺説がある。
1564(永祿7)年 高山右近がキリスト教に改宗する。
1564(永禄7)年 三好長慶の弟である安宅冬康死去により、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波で国主を補佐していた篠原長房のみとなる。これによって久秀は主家を凌駕する実力を持つに至る。続いて長慶が死没する。
1565(永祿8)年 松永久秀が三好三人衆と共に将軍義輝を攻め滅ぼす(永禄の変)。勅命 「大うすはらい」によりヴィレラ、フロイス神父らが京都から追放される。(この 「大うすはらい」について知りたいがネット情報には出てこない) 
この頃、久秀と信長と交信していて、信長も大和国人衆に久秀の助力を伝えている。その後、三好家三人衆と対立し始める。
1567(永禄10)年 三好三人衆が陣取る東大寺の奇襲に成功し、久秀が畿内の主導権を得る(東大寺大仏殿の戦い)。この時の戦いで、奈良の大仏殿に火が放たれ焼失する。
1568(永禄11)年 三好三人衆が反攻し、久秀が居城する信貴山城が落城する。

 以上、バテレンの日本上陸以降、バテレンの布教活動と久秀の台頭ぶりの重なり合いを確認してみた。この期間は、1510(永正7)年生まれの松永久秀の青年期から壮年期に当たる。久秀の異常な出世の裏にバテレンの後押しがあり、松永久秀の異常な振る舞いの裏にバテレンの教唆があったと見たてたい。この見立てが当たっているならば、久秀は、当時のバテレン勢力に白羽の矢を立てられた「次期国王候補」だったのではなかろうか。「信長に先立つ最初の戦国天下人としての三好長慶、松永久秀」と見立てての「下剋上の梟雄」と評されているが、単に「戦国下剋上の梟雄」ではなかった。その裏にバテレン勢力の後押しがあったのではなかろうか。してみれば、久秀を筆頭のキリシタン武将と見立てない久秀論は意味をなさないことになる。しかるにこの方面の考察が全くなされていない。れんだいこには、世上の歴史家の眼力が堪らなく陳腐で納得できない。

 ここでキリシタン大名を確認すれば、「特に有名なものとして大友宗麟、大村純忠、有馬晴信、結城忠正、高山友照および高山右近親子、小西行長、蒲生氏郷などがいる」としているのが通説である。妙なことに松永久秀、明智光秀が出てこない。これは松永久秀、明智光秀ラインがキリシタン大名として最も重要な活動をしていたことを意図的故意に隠しているのではなかろうかと思える。通説だけでは歴史の真相が見えてこない好例の一つであろう。ちなみにキリシタン大名には共通項がある。それは神社仏閣を焼き討ちし、国宝的重要文化物を盗品したり破壊することである。これを思えば逆に神社仏閣に寄進したり建立支援するなどの大名は在地土着型の大名と云える。

 2013.10.22日 れんだいこ拝

【れんだいこの松永久秀考その2、久秀と信長の相関考】
 1568(永禄11)年、久秀の居城する信貴山城が落城する。この頃、中央政界に織田信長が登場してくる。この年9月、織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛する。久秀−久通父子はいち早く信長に降伏し家臣となる。この時、人質と名茶器といわれる「九十九髪茄子」を差し出して恭順の意を示している。15代足利将軍・義昭が「主家殺し」(13代足利将軍・義輝殺し)の履歴を嫌って難色を示したのを信長が説得し、幕府の直臣とさせ、大和一国の「切り取り次第」を許可している。この当時、大和の有力国人の多くが筒井順慶と組んで久秀と対立していたのに対し、信長は久秀に援軍を送り大和平定を進めている。1569(永禄12)年、織田−久秀軍が大和平定戦を継続、筒井順慶派が没落を余儀なくされる。

 この流れから何を窺うべきか。思うに、当時のバテレン勢力は、織田信長が台頭する時までは松永久秀を押し立てて天下取りさせようとしていたのではなかろうか。松永久秀を上回る傑物の織田信長が登場することにより同盟させ、次第に久秀が用済みにされたのではなかろうか。久秀の晩年の叛旗はこの線で読むと理解できる。この間、久秀は武野紹鴎に師事しており茶人としても一級の人物であった。平蜘蛛茶釜の所持者として有名だが、他に九十九髪茄子(現在静嘉堂文庫所蔵)を一時所持していた。その他にも名物を多数所持する等、単なる戦国武将ではない。

 信長が久秀の裏切りを何度も許しているが信長政治には異例中の異例である。久秀の有能性、信長と久秀の人間的な相性も考えられるが、この背景にバテレンの意向が働いていたと考えられないだろうか。その信長も室町幕府第15代将軍・足利義昭追放の「王家殺し」、比叡山焼き討ちの「在地宗教権力殺し」に精励させられている。但し、信長は、安土城を築城した頃よりバテレン離れをし始める。その回答が本能寺の変であり、信長が討ち取られる。れんだいこは、これが本能寺の変の真相と見立てている。こうなると信長を葬った明智光秀とバテレンとの繋がりが詮索されねばならない。光秀も又キリシタン大名の線を疑う必要がある。このくだりについては別途「れんだいこの八切止夫氏の『信長殺し、光秀ではない』書評」で言及している。

 かく見立てるとバテレン介入以来の日本政治史への容喙ぶりが見えてくる。戦国時代の裏の動きが良く見えてくる。と云うことは、この見方が正解と云うことではなかろうか。時は16世紀の出来事であるが、帰路舟来航以降のバテレン再介入以来、今も事態は変わっていないのではなかろうか。

 2013.10.22日 れんだいこ拝







(私論.私見)