神武天皇東征神話考

 (最新見直し2011.08.23日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 日本神話上の必須教養として国譲り譚と神武東征譚を知っておかねばならない。戦後教育は、皇国史観を斥けると同時に日本神話そのものを盥(たらい)ごと流してしまった。これにより、現代日本人は恐ろしいほどまでに祖国と民族の歴史を知らないままの拝金病者に成り下がっている。その挙句が根なし草的コスモポリタンと云う「在りもしない市民」を気取っている。れんだいこは、2011.8月現在の政治と政局を見るにつけ、日本史の断絶の感を深くする。今からでも遅くはない、この一文を届けねばと云う思いから発信する。 

 2011.8.22日 れんだいこ拝
 れんだいこの2011古代史の旅は、出雲王朝の国譲り、邪馬台国史の書き換えへと歩を進めた。これで落着としたかったのだが、先の「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考」に対し、れんだいこのツイッターに「miyuki」さんから「こんばんわぁ! れんだいこさんの『古代史の旅』。画面で無くて紙の印刷物でゆっくり読みたかったのでプリントアウトさせて頂きました。明日、お茶しながら、ゆっくりまったり読ませて頂きまァーす」の最上級のお誉めの言葉をいただき、意を強くした。邪馬台国滅亡史の裏面の流れであったと思われる高天原王朝の「神武東征、神武の橿原宮即位譚」を再確認して見たくなった。

 れんだいこ史観によれば、アマテラスの曾孫(4代目)の代になって高天原王朝は、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、東国の美(う)まし国「葦原中国」平定遠征に向かう。この時の「葦原中国」が邪馬台国ではないかと窺っている。古事記と日本書紀にほ、神武東征軍が日向を立って橿原に都を定めるまでのいろんなエピソードをほぼ同じ内容で記している。つまり、ここの記述が相当に規制されていたことを窺わせる。この伝説か史実か未だ不詳との論もあるが、れんだいこはある程度史実に基づいているのではなかろうか、骨格的にはほぼ間違いない史実ではなかろうかと推理している。

 一行は日向を発し、大分県の宇佐や福岡県の遠賀郡芦屋に寄り豊後水道を東進し、吉備、難波、熊野と経由して大和に入る。難敵の諸豪族を討ち取った末に大和を平定して、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築く。こうして神武天皇は我が国最初の天皇となり、大和朝廷を建国する。この天皇家が理論上万世一系として平成の現在まで続いているということになっている。皇国史観は、この経緯を是として、平定される側に対する平定する側の正義を説く。しかし、れんだいこは、この時、神武軍にヤラレタのが在地土着系の元々の日本の諸豪族であり、その連合国家としての出雲王朝系邪馬台国連合が理想的な神人和楽政治を敷いていたのであり、これを征伐する戦争は決して聖戦ではなかったと見立てる。

 ここでは、両者の正義を平衡的に取り上げ、両派の聖戦と手打ちぶりを確認してみたい。これが国譲り譚に続く日本政治の原型となっており、これが日本の「元々の国の形」であり、これを大事にしたいと思うからである。国体論を云うのなら、ここに戻らねばならない。北一輝は早熟の天才であったが、国体論に於いて皇国史観に被れており、ここの元一日に戻っての国体論を創り直すべきであった。北に後少しの余命があれば、この地平に向かう可能性があったのではないかと惜しんでいる。「プレ大和王朝」、「08 神武天皇」その他を参照する。

 2006.12.4日、2011.8.22日再編集 れんだいこ拝


【天孫族の東征宣明譚】
 日向国高千穂宮に住居していた高天原王朝天孫族の東征の時の様子が次のように記されている。
 「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」

 「美(う)まし國」とは、後の大和のことであり、万葉集第一巻第二首に次のように歌われている。
 「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち、国見をすれば、国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」。

 万葉集第二十巻四四八七番は、次のように詠んでいる。
 「いざ子ども たはわざなせそ 天地の 堅めし国ぞ 大和島根は」。

 ここで歌われている大和がどこを指しているのかは議論の余地がある。但し、このように歌われる大和に向かって、高天原王朝天孫族の東征が為されたという神話的史実は間違いなかろう。

 日本書紀の神武東征の下りに次のように記されている。
 「昔、タカミムスビ(高皇産霊尊)とアマテラス(天照大神)が、この豊葦原瑞穂国を祖先のニニギ(瓊瓊杵尊)にさずけた。ニニギは天の戸をおし開き、路をおし分けて進んだ。そのときの倭地は暗黒の世であったが、ニニギが正しい道を開き世を治めた。以来、父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨して一七九万二四七〇余年になる。しかし、遠い所の国ではまだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長が境を設け相争っている」。
 「塩土老翁(しおつちのおじ)に聞きしに、『東に美(うま)き地(くに)有り。青山四(よも)に周(めぐ)れり。その中に又、天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降りる者有り』と云えり。余(あれ)謂(おも)うに、彼の地は、必ず以って天業(あまつひつぎ)をひらき弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちお)るに足りぬべし。けだし六合(くに)の中心(もなか)か。その飛び降りると云う者は、これニギハヤヒと謂うか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ」。

 これによれば、高天原王朝天孫族は、出雲王朝系のニギハヤヒが先行して「東の美(う)まし國」とも云われる「葦原中国」に降臨し、日の本王朝を形成したのを知り、我らも向かわんとして東征に向かったことになる。行軍したのは、皇族のイツセ(五瀬)の命、イナヒ(稲飯)の命、ミケイリ(三毛入野)の命、ワケミケヌの命、子のタギシミミ(手研ミミ)の命、護衛のミチオミ(道臣)の命、大久米、途中で随行してきたシイネツ(椎根津)彦等々であった。
(私論.私見)
 「天孫族の東征宣明譚」は、天孫族の東征がいよいよ始まったことと、東征軍団の主領格を伝えている。

【天孫族の東征出航譚】
 かくて、天孫族は日向の浜を発す。東征の旅程は古事記と日本書紀で異なっている。古事記 では、速吸の門を通過し筑紫の豊国の宇佐に着く。ウサツ彦とウサツ姫が服属して、足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を建てもてなした。次に、豊後水道を経て、筑紫国の岡田宮に1年、安芸国の多祁理宮(たけりの宮)に7年、吉備国の高島宮に8年過ごした。日本書紀では、速吸之門(豊予海峡)を通り筑紫国の宇佐に到る。その次に筑紫国の岡水門に到る。その次に安芸国の埃(え)の宮に到る。その次に吉備国の高嶋宮に到り三年暮らす。つまり、筑紫国の岡田宮と岡水門の違いが認められる。後のコースはほとんど同じであるが滞在期間が異なっている。
 筑紫=現在の福岡県が比定されている。豊国=現在の大分県が比定されている。安芸国=広島県。たけりの宮=多祁理宮。吉備国=岡山県。キタカネツ日子=木高根津日子、さお根津日子とも記す。

【天孫族の難波津に到着譚】
 速水の門(はやすいのと)に至った時、国津神のキタカネツ彦が現れ、一行を先導した。浪速の渡りを経て、河内国の難波津に到着した。

【天孫族と河内王朝の激戦譚】
 河内国の難波津に到着した天孫族は、ニギハヤヒの命率いる国津族出雲系王朝軍と闘うことになった。難波の日下でナガスネ彦軍と闘い敗れる。その時の様子が次のように記されている。
 「難波の日下で、天孫軍は、国津系の豪族ナガスネ彦軍と闘い、長兄のヒコイツセ(五瀬)の命が敵の放った矢に射抜かれて負傷するなど手痛く敗れた。天孫軍は南海道に兵を募り再び戦闘するも、弟のヒコイナイ(稲飯)の命が討ちとられた。第三皇子なるミケイリノ(三毛入野)の命は行方不明となった。第四皇子のワケミケヌの命が統率し、南海道、韓兵、淡路等の兵合わせて再度攻略する。今度はナガスネ彦が重傷を負い、東国に退く。アビ彦は越に退く。天孫族は、四男のワケミケヌの命の指揮に入ることよって辛うじて初勝利することができた」。
 日下=現在の大阪府東大阪市の日下町、善根寺町近辺に比定されている。石切神社の近くである。ヒコイツセの命=。ヒコイナイの命=。ワケミケヌの命=。ワケミケヌの命=。アビ彦=。紀州熊野=現在の和歌山県新宮市)に比定されている。
(私論.私見)
 「天孫族と国津族の激戦譚」は、天孫族と国津族の戦いが凄まじく、摂津で重大な敗北を喫したことを伝えている。この時の戦いで、長兄のヒコイツセの命が負傷、弟のヒコイナイの命が戦死、第三皇子なるワケミケヌの命は行方不明となった。

【天孫族の紀州熊野迂回上陸譚】
 第四皇子なるワケミケヌの命が天孫族を率いて、紀州熊野に上陸する。この時、長兄のヒコイツセの命が没した。その時の様子が次のように記されている。
 「長兄のヒコイツセの命の『日の神の御子が日に向って戦うのが良くない。今よりは行き廻りて日を背に負うようにして戦うことにせよ』の言に従い、天孫軍一行は撤兵した。ナガスネ彦軍は、これを追わなかった。天孫軍は南へ下り茅渟(ちぬ=和泉の海)の山城水門に着いた。続いて、紀の国の男の水門に上陸した。そこで、長兄のヒコイツセの命が『賎しい奴に手傷を負わされて死んでしまうのか』と口惜しがりながら死んだ。さらに南下して、名草邑に着き、ナクサトベ(名草戸畔)と名乗る女賊を討伐した。一行は熊野村の浜に舟を着け、そこでニシキトベ(丹敷戸畔)という女賊を誅(ちゅう)した。その後、徒歩で北に向かった。道中、大きなクマが現れたかと思うと姿を消した。佐野を越えて熊野の神邑(みわのむら)に辿り着いた。この時、大熊が現われてすぐに消えた。ワケミケヌの命は俄かに病に襲われ、軍人達も倒れて臥してしまった」。
 この時上陸した熊野は、熊野速玉大社が鎮座している新宮市と推定されている。

【タカクラジ(高倉下)帰順譚】
 天孫族が疲弊困憊していた時、熊野のタカクラジ(高倉下)が、タケミカヅチが出雲王朝を平定した時の太刀を献上して来る。次のように記されている。
 「天孫軍が絶望の淵に追いやられていたこの時、熊野のタカクラジが、一振りの太刀を持ってやって来て奉った。曰く、アマテラスとタカギの神が夢に現れ、タケミカヅチに『葦原中つ国はまだ騒がしい。お前が行って平げなさい』と、苦戦する天孫軍支援を命じた。タケミカヅチは、『私が行く代わりに先に私が葦原の中つ国を平定した時のフツノ御魂の太刀を天降りさせ、タカクラジの倉の屋根に穴を開け、そこから落とし入れてくだされば良いでせう。国は平ぎましょう』と答えた。続いて、『タカクラジよ、私の剣は名をフツノミタマという。あなたの倉の中に置こう。その太刀を天つ神の御子に差し上げるように』と仰せられた。タカクラジの目が覚めた。夢のままに庫を開けると、はたして剣が庫の底板に逆さに突き刺っていた。その太刀を差し上げに参りました。(この太刀はミカフツ神又はフツノミタマと云い、その後石上神宮に納められている) タカクラジの言を聞いたワケミケヌの命は忽ち精気を取り戻した」。
(私論.私見)
 この神話は、タカクラジ一族が最も早く天孫族に帰順したことを隠喩していよう。タカクラジ一族とは何者か、はっきりしない。

【ヤタガラス帰順譚】
 天孫族が再度大和侵攻を画策している時、ヤタガラス(古事記で「八咫鳥」、日本書紀で「頭八咫鳥」)が現われ、その協力を得て天孫軍は熊野から大和の宇陀に至った。その時の様子が次のように記されている。
 「この頃、ワケミケヌの命は夢を見た。アマテラスがワケミケヌの命に伝えた。『ヤタガラスを遣わすから、これに案内させなさい』。はたして、ヤタガラスが大空から舞い降りてきた。ワケミケヌの命は、『まさに夢の通りだ。アマテラスが私たちを助けてくれている』。ヒノオミ(日臣命=大伴氏の先祖)は、オオクメ(大来目)を率いて、カラスの導くままに山を越え、路を踏み分けて、ついに宇陀(うだ)の下県(しもつこおり)に着いた。そこを宇陀の穿邑(うかちのむら)と名づけ、ヒノオミをほめた。 『お前は忠勇の士だ。よく導いてくれた。お前の名を改めてミチオミ(道臣)としよう』」。
(私論.私見)
 これを仮に「ヤタガラス帰順譚」と命名する。「ヤタガラス」をどう理解すべきだろうか。独眼流れんだいこ観点は、八という数字で表徴される「かなり多くの」、「タ」は分からないが、「鳥」という言葉に表象される情報に長けた部族と解する。つまり、「ヤタガラス」に寓意されるような相当数の現地部族が靡き、道案内を買って出たということであろう。即ち、「天孫降臨譚」の「サルタ彦の水先案内」と相似している。このグループも後々神武王朝の枢要の地位を得ることになる。天孫族にとって、「ヤタガラス」の出現は有り難かったようで、「熊野の神使」即ち天皇を始め貴人を先導する霊鳥「ミサキガラス」として称えていくことになる。

 ヤタガラスを豪族名と考えると、この一族とは何者か。旧事紀は、大国主命(大己貴命)と多紀理姫との間に生れた子にしてニギハヤヒの使いをしたタケツノミ(建角身命)としているとのことである。逸話の内容から判ずるに託宣祭祀系の者であろうが「大国主命(大己貴命)と多紀理姫との間に生れた子」とするのは如何なものだろうか。延喜式神名帳に「八咫烏は賀茂県主建角身命なり」とあり、新撰姓氏録には「鴨県主と賀茂県主は同祖で、神武が大和に入ろうとして熊野山中で路に迷ったとき鴨建津見命が烏と化して先導した功によって八咫烏の称号を賜わった」とある。これよりすれば、ヤタガラスは出雲系の有力豪族である賀茂氏の一族ということになる。即ち、出雲系の有力豪族である賀茂氏の一族が寝返って、天孫系に誼を通じたことになる。この功績で、賀茂氏一族は大和王朝の重臣の一員となり命脈を保つことになる。奈良県宇陀郡榛原町高塚字八咫烏には八咫烏神社が鎮座し、祭神は建角身神である。

【シキヒコ攻略譚】
 天孫族は、ヤタガラスを使ってシキヒコ(磯城彦)兄弟攻略に乗り出し成功する。その時の様子が次のように記されている。
 「十一月、天孫軍は、師木(磯城)邑の兄(エ)シキ、弟(オト)シキのシキヒコ(磯城彦)兄弟の攻略に向かった。使者を送って兄のエシキを呼んだが返答がなかった。そこでヤタガラスを遣わした。ヤタガラスは、エシキに誘いをかけた。『天神の子がお前を呼んでおられる。さあさあ』 。エシキは、『天神が来たと聞いて憤(いきどお)っている。何の用があって呼びだすのか」 と怒声を浴びせ、弓を構えて射た。ヤタガラスは弟のオトシキの家へ行った。『天神の子がお前を呼んでいる。さあさあ』。オトシキは、『天神が来られたと聞いて朝夕畏れかしこまっていました。ヤタガラスよ、お前が呼びに来てくれて嬉しいよ』。オトシキはヤタガラスの来訪を歓迎し、平な皿八枚に食物を盛ってもてなした。

 オトシキはヤタガラスに導かれてワケミケヌの命の軍営に参上した。『わが兄は、天神の御子がおいでになったと聞いて、ヤソタケルを集めて武器を整え決戦する構えです。速やかに準備されるのがよいでしょう』。ワケミケヌの命は云う。『エシキはやはり戦うつもりらしい。呼んでも来ない。どうすればいいか』。このワケミケヌの命の問いに諸将は答えた。『エシキは悪賢い敵です。まずオトシキをやり、そのときエクラジ(兄倉下)とオトクラジ(弟倉下)も一緒にやって説得すれば、いかがでしょう。どうしても従わないなら、それから兵を送っても遅くはないでしょう』。

 オトシキは兄を説得したが効果はなかった。シイネツ彦は一計を案じた。『まず女軍を遣わして忍坂の道から行くのがいいでしょう。敵は必ず精兵を出してくるでしょうから、こちらは強兵を墨坂に向かわせ、宇陀川の水で敵軍の炭の火にそそぎこめば敵は驚くはずです。その不意をつけば、敵を討ち取ることができるでしょう』。

 ワケミケヌの命は、シイネツヒコの計略を採用して二手に分かれる作戦をたてた。まず女軍を送った。すると、敵は大兵が来たと思い、総力で反撃してきた為、少なからずの被害を受け、甲冑の兵士も疲労した。ワケミケヌの命は、将兵を鼓舞するために歌を詠んだ。『伊那嵯(いなさ)の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我は腹が空いた。鵜飼いをする仲間達よ。いま、助けに来てくれよ』。強兵の男軍が墨坂を越え、手筈通りに後方から挟み討ちにして敵を破り、エシキを斬った。天孫軍は、待望の磐余や磯城の地に進出することができた」。
(私論.私見)
 これを仮に「シキヒコ兄弟攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍の来襲により国津軍内に亀裂が入り始めたことを物語っていよう。天孫軍の計略が記されている。留意すべきは、兄(エ)シキ、弟(オト)シキのシキヒコ(磯城彦)兄弟の素姓であろう。兄(エ)シキ、弟(オト)シキと云うのは古日本語であり、アイヌ的蝦夷(えみし)語ではないかと思われることである。つまり、神武東征とは、在地土着のアイヌ的蝦夷(えみし)軍の攻略であったと云うことになる。続くウカシ兄弟、ヤソタケル(八十梟帥)も然りであろう。

【ウカシ兄弟攻略譚】
 天孫族がヤタガラスに導かれて宇陀(うだ)の下県に着いた時、国津神系の幾つかの豪族が帰順した。中でも、ウカシ兄弟の兄(エ)ウカシを殲滅し、弟(オト)ウカシを帰順させたのは大いなる手柄となった。その時の様子が次のように記されている。
 「この時、ヤタガラスが現れ道案内することになった。天孫族は、一行荒ぶる神々のひしめく中を行軍し、吉野川の下流に着いた。国つ神のニエモツノコ、イヒカ、イワオシワクノコが恭順した。宇陀に着いた時、ウカシ兄弟と対峙することになった。ヤタガラスが説得に向ったが、兄(エ)ウカシは鳴鏑(なりかぶら)で応え敵対の意志を明確にさせた。ところが、軍勢が予期したより集まらなかったウカシ兄弟は一計を廻らし、偽りの降伏で誘って落し入れようとした。ところが、弟が内通し仕掛けられた罠を教えた。『兄は、天孫がおいでになると聞いて、兵を率いて襲わんとしています。仮宮を造り、もてなすはずですが、仮宮の中には仕掛けがしてあり、また兵を隠してこっそり襲おうとしています。この計りごとを知ってよく備えて下さい』。

 事前に偽計を知った大伴の連の祖になるミチノ臣と久米の直の祖になるオホクメが、兄(エ)ウカシを呼び出し、『おのれが作り、お仕え申すという大殿の内に、おのれがまず入れ』と、太刀の柄(つか)を握り締め、矛を突きつけ矢をつがえて殿の内に追い入れた。兄(エ)ウカシは、おのれが作った落とし仕掛けに掛かって潰されて死んだ。引き出して斬ると、血が溢れたので、そこを宇陀の血原と名づけた。弟ウカシは、天津神の御子へ恭順を誓い、沢山の肉と酒を用意して天孫軍をねぎらいもてなした」。
(私論.私見)
 これを仮に「ウカシ兄弟攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍、国津軍双方が計略、謀略の限りを尽していたことを物語っていよう。ウカシ兄弟の素姓は分からないが前述したように蝦夷(えみし)系と思われる。

ヤソタケル攻略譚ワケミケヌの命の神夢譚】
 天孫族はヤソタケル攻略に乗り出し、遂に本格的な軍事戦に向かう。苦戦する天孫族に次々と神託が下されている。次のように記されている。
 「九月、ワケミケヌの命は宇陀の高倉山に登り敵情を望見した。国見丘にはヤソタケル(八十梟帥)がいた。女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭を置いていた。またエシキ(兄磯城)の軍が磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地で、道は塞がれ、通るべきところがなかった。ワケミケヌの命は打つ手に窮し、神に祈って寝た。夢に天神が現れて神託を下した。『天の香具山の社の中の土を取って平瓦八十枚を造り、同じく御酒を入れる瓶を造り天神地祇(てんじんちぎ)を祀れ。身を清めて呪詛せよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう』 。ワケミケヌの命が、夢の教えにかしこまっているとき、オトウカシが奏上した。『倭の国の磯城邑に磯城のヤソタケル(八十梟帥)がいます。葛城邑にも赤銅のヤソタケル(八十梟帥)がいます。この者らも皆、皇軍に逆らい戦おうとしています。そこで、天の香具山の赤土で平瓦を造り、天神地祇をお祀り下さい。そうすれば敵を討ち払いやすくなるでしょう』。 

 ワケミケヌの命は、夢の教えとオトウカシの言葉が一致したことを喜び、早速密使を走らせ、神託の通りに行動した。シイネツヒコに古い服と蓑笠をつけさせ老人の姿にし、オトウカシに箕を着させて老婆の姿にして言った。『お前ら二人、香具山に行って、頂きの土をこっそり取ってこい。事の成否はお前らにかかっている。しっかりやってこい』。しかし、道は敵兵が塞いでいた。シイネツヒコは、『わが君が、この国を定められるものならば行く道が自ら開け、もしそうでないなら敵が道を塞ぐだろう』と神意に占い、出発した。道を塞ぐ敵兵は二人の様子を見て、『汚らしい老人どもだ」とあざけり笑い、道を開けて行かせた。二人は無事、香具山について土を取って帰った。

 ワケミケヌの命は大いに喜び、この土で多くの平瓦や手快(たくじり=丸めた土の真中を指先で窪めて造った土器)、厳瓮(いつへ=御神酒瓷=おみきかめ)などを造り、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀った。そして神意を占った。『私は今、沢山の平瓦で、水なしで飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで天下を居ながらにして平げるだろう』。飴はたやすくできた。また神意を占った。『御神酒瓷を丹生の川に沈めよう。魚が酔って浮き流れるようであれば、私はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければことを成し遂げられぬだろう』 。瓷を川に沈めると、その口が下に向き、しばらくすると魚は皆浮き上がって口をバクバク開いた。シイネツヒコはそれを報告した。

 ワケミケヌの命は大いに喜び、丹生の川上の沢山の榊を根こそぎにして、諸々の神を祀った。この時から祭儀の御神酒瓷の置物が置かれるようになった。ワケミケヌの命がミチオミに命じた。『タカミムスビを私自身が顕斎しよう。お前を斎主とし、女性らしく厳媛(いつひめ)と名づけよう。そこに置いた土瓮を厳瓮(いつへ)とし、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、食物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまづち)、草の名を厳野椎(いつののづち)とする』。

 冬になると、ワケミケヌの命は厳瓮の供物を食し、兵を整えて出陣した。まず国見丘のヤソタケルを撃ち斬った。そして歌った。『伊勢の海の大石に這いまわる細螺(しただみ)のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ、細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう』 。残党はなお多く、その情勢は測りがたかった。そこでミチオミに命じた。『お前は大来目久米)部を率いて、大室を忍坂邑に造り、盛んに酒宴を催して、敵をだまし、討ち取れ』。ミチオミは、忍坂邑の大室に強者を選んで侍らせた。『酒宴たけなわになった頃、私は立って舞うから、お前らは、私の声を聞いたら一斉に敵を刺せ』。 敵を誘いこみ、座について酒を飲んだ。

 陰謀のあることを知らない敵は、心のままに飲み、酔った。ミチオミは頃を見計らって、立って歌った。『忍坂の大きい室屋に人が多勢入っているが、入っていても御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢の頭椎(くぶつつ)、石椎(いしつつ)の剣で敵を討ち敗かそう(
ちてしまん)。今こそそ撃つべし』。この歌を聞いて一斉に頭椎の剣を抜き、敵を皆殺しにした。こうして葛城邑のヤソタケル(八十梟帥)を攻め滅ぼした。ワケミケヌの命軍は大いに悦び歌った。『今はもう今はもう敵をすっかりやっつけた。今だけでも今だけでも、わが軍よわが軍よ』。来目部が歌って大いに笑うのは、これがそのいわれである。また歌っていう。『夷(えみし)を、一人で百人に当る強い兵だと人はいうけれども、抵抗もせず負けてしまった』。その時、ワケミケヌの命が言った。『戦いに勝っておごることのないのは良将である。今、大きな敵は滅んだが、その仲間は多い。その実状は分からないから、同じ所にいては危険だ』。ワケミケヌの命軍は、その地を捨てて別の所に移った」。
(私論.私見)
 これを仮に「ヤソタケル(八十梟帥)攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍の計略、謀略が優り、国津軍のヤソタケル(八十梟帥)殲滅経緯を物語っている。これに相当文量費やされていることは、よほどの難事であったことと、ヤソタケル(八十梟帥)征伐戦がよほど重要な地位を占めていたと云うことであろう。ヤソタケルは、漢字の八十梟帥が意をそのまま表しており、武勇ある者の集団に対して名づけたものと推定され、国津族の正規軍だったと思われる。梟帥は、「コソ」、すなわち「許曽」、「居西」などに通じる烏丸系集団の頭目の称号とする説もある。

 300年前後の大和にもっとも大きな集落があったのは桜井市の初瀬川の流域即ち磯城(師木)のヤソタケルの一族が支配していた地であったとされる。葛城邑(今の御所市付近)のヤソタケルは、忍坂邑(今の桜井市付近)の俄作り大室でだまし討ちにされた。これが宴会に誘われ騙し討ちされる初見であり、その後も蝦夷討伐の際に常用される。その意味で興味深い。

 ニギハヤヒが降臨したのは哮峯は葛城山中であり、綏靖朝や孝昭朝の都は葛城であったことからも分かるように、葛城の地は二ギハヤヒ系の重要な拠点であったと思われる。その拠点のヤソタケルが滅ぼされたことになる。大和王朝史は葛城の地を押さえることに腐心しているが、元々国津族の拠点であったと云うことが関係していると思われる。

【土クモ族攻略譚】
 天孫族の国津族狩りは続いた。次のように記されている。
 「天孫軍は、国津神族の内部分裂を誘いながら進撃し、平伏しなかった土クモ族を攻め滅ぼした。神武天皇即位前紀己未年二月、大和国(奈良県)の 新城戸畔(にいきとべ)等の土蜘蛛が帰順せず討たれた。これが土蜘蛛の初見となる」。
(私論.私見)
 これを仮に「土クモ族攻略譚」と命名する。この下りは、天孫族が引き続き各地の土クモ族討伐に向かったことを明らかにしている。この時征伐されたツチグモ族とは何者か。漢字では「土蜘蛛」、「都知久母」と表記される。日本書紀は「高尾張邑(たかおはりのむら)に土蜘蛛有り、其の 為人(ひととなり)身短くして手足長し」と記し、まさに「蜘蛛」的に描いている。記紀の記述は卑しく描いているが、逆に勇猛果敢な土着勢力の姿を髣髴とさせている。察するに、「蜘蛛」とは蔑称であり、出雲の雲と読み、出雲系の流れを汲む各地の豪族と読むべきではなかろうか。ツチグモ族の最強軍団は大和葛城山を根城にしていたと思われ、葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚がある。これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる。

【金鶏譚】
 ニギハヤヒの義父にして在地の豪族の盟主的地位にあったナガスネ彦(登美彦)を棟領とする国津軍の抵抗は引き続いており、決着が着かず戦線は膠着していた。 天孫軍と国つ軍の闘いは長期戦化した。この時、金鶏譚が遺されている。次のように記されている。
 「遂に二ギハヤヒ―ナガスネ彦が登場し、両軍が対峙することになった。この時、急に空が暗くなり雹(ひょう)が降り始め、そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできてワケミケヌの命の弓の先にとまった。鵄は光り輝き雷光のようであった。そのため、ナガスネヒコ軍の軍卒は眩惑され、力戦できなかった。

 ワケミケヌの命は、歌を歌った。『御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮(山椒)が一本混じっている。その韮の根本から芽までつないで抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう』。ワケミケヌの命は兵を放ち、ナガスネヒコの軍勢に急迫させた」。
(私論.私見)
 これを仮に「金鶏譚」と命名する。この下りは、天孫族と国津族の正規軍の最後の決戦場面を伝えている。両軍対峙で膠着する中、「金色の不思議な鵄(とび)が飛んできてワケミケヌの命の弓の先にとまった」とある。これは陰喩であろうから、天孫族によほど強力な助っ人が登場したと解すれば良い。これが誰であるのかは判明しない。

【天孫軍とニギハヤヒの命軍の王権誇示譚】
 こうした局面のどの時点のことか定かではないが、天孫族のワケミケヌの命と国津族のナガスネ彦が次のように遣り取りしている。
ナガスネ彦  「ナガスネ彦は使いを送って言上した。昔、天津神の子が天磐船に乗って天より降りてきた。名を櫛玉ニギハヤヒの命と申す。私の妹のミカシギヤ姫を娶り、ウマシマデの命を生んでいる。私はこのニギハヤヒを君主として仰ぎ奉(つかえ)てきた。あなたは自らを天津神の子と称し、この国を奪おうとしているが、そうなると天津神の子が二人いることになる。なぜ天津神の子が二人いるのか。思うに、あなたは末必為信(いつわり、ウソ)をついている。どうしてまた天神の子と名乗って人の土地を奪おうとするのですか。私が思うのに、あなたは偽物でしょう」。
天孫族  「天津神の子は多く居る。もしニギハヤヒの命が本当に天津神の子であるというのなら、必ずやその印となるものを持っている筈である。それを見せてみろ」。
 この後、ナガスネ彦が証拠の天羽羽矢(あまのははや)と歩ゆぎ(矢箱)を見せて示した。ワケミケヌの命は、「偽りではない」と答え、ワケミケヌの命も同じように見せ譲らなかった。ナガスネヒコは恐れ畏まったが徹底抗戦の構えを崩さなかった。
(私論.私見)
 これを仮に「天孫軍とニギハヤヒの命軍の王権誇示譚」と命名する。この下りは、国津系のニギハヤヒの命と天孫系のワケミケヌの命が王権の正統性誇示しあっているところが興味深い。決着がつかなかったと云うことは、ニギハヤヒの命の王権が確かなものであったことを寓意していよう。ナガスネ彦が、ニギハヤヒの命を天津神の子として位置づけ問答している下りは脚色であろう。本当は、「なぜ天津神の子が二人いるのか」と問うたのではなく、こう問うたのではなかろうか。「ニギハヤヒの命こそ皇統の命である。あなたがたも皇統だと自称している。どちらが本当の皇統なりや」。記紀はこの真問答を記せず、ここでも捻じ曲げて記述しているように思われる。

【天孫族と国津族の第二の国譲り譚】
 天孫族と国津族の第二の国譲り譚が次のように記されている。この下りの神話は、物部氏の伝承「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)その他の古史古伝によれば、次のように記されている。れんだいこが意訳する。
 天孫軍と国津軍の戦闘は長期化し、天孫軍優位のまま膠着状態に入った。国津軍の実権は、ニギハヤヒの子のウマシマチに移っていた。ウマシマチは、天孫族新王朝の要職の地位の約束を得ることでナガスネ彦を殺し、抵抗を終息させた。ウマシマチが「汝の反逆天地も容れず、我に欺かれるはまた命なり。須らく我に斬られよ」と述べ、ナガスネ彦は「事ここに至る。なんぞ汝を煩わさんや」と自ら命を断った。ここに両者が大和議し、天孫軍と国津軍の合体による大和王朝が創始されることになった。「大和」の由来はこれによる。ウマシマチはその後物部氏として大和朝廷の第一豪族として枢要の地位に有りついていくことになる。

 大野七三氏の「古事記、日本書紀に消された皇祖神・ニギ速日大神の復権」は、「神武天皇とウマシマジの命の盟約」と題して次のように記している。
 「ウマシマジの命は、父・ニギ速日の尊より継承した大和国の統治権を神武天皇に譲るに当たり、天皇との間に重大な盟約を交わされたことが推察される。
 宮中に皇祖神として、元大和国の大王であり、皇后イスケヨリ姫の父であるニギ速日の尊の御魂を奉斎すること。そして、その祭祀はウマシマジの命及びその子孫が司祭者として行うこと。
 大和朝廷の歴代の皇后は、ウマシマジの命の子孫・磯城県主(しきのあがたぬし、後の物部氏)の関係者の女性から出自させること。更に、その皇后より誕生した皇子のみが次期天皇になれること。
 大和朝廷の最高職(足尼すくね、大連おおむらじ、大臣おおおみ)は、ウマシマジの命の子々孫々が永久にその職を継承すること。

 これらの盟約は、『先代旧事本紀』の物部氏系譜と天皇家系譜によって確かめることができる」。
(私論.私見)
 これを仮に「天孫族と国津族の第二の国譲り譚」と命名する。この下りは、前半でニギハヤヒの子のウマシマチが「ナガスネ彦を殺し、抵抗を終息させた」としている。後段では、「神武天皇とウマシマジの命の盟約」が記されている。この盟約は記紀には登場せず先代旧事本紀のみが記しているところが興味深い。

 ところで、殺されたとされるナガスネ彦は他の古史古伝の東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)では、この経緯の面貌が異なる。ナガスネ彦側が再三にわたって平和を求めたのに対し、神武東征側が和睦の使者を斬っている。ナガスネ彦は死んでおらず戦闘で重傷を負った。その後、兄の安日彦(あびひこ)と共に東北に逃げ落ち、そこで態勢の立て直しを図っている。征討軍の追撃を打ち破り、荒覇吐(あらはばき)族を名乗って津軽地方の王となった云々と伝えている。東日流外三郡誌の真贋論争は置いといて、この記述は興味深い。大和王朝以降の皇統が後々東北蝦夷征伐に向かう流れが見えてきそうな話である。

 古史古伝の真贋論争に願うのは、徒な入り口論としての真贋論に留まるべきではなく、よしんば偽書であったとしても内容に於ける吟味も必要ではなかろうかと思うことである。体裁等の形式的な偽書認定に止まるべきではなく、内容における偽書認定の両面から向かうべきではなかろうか。目下の偽書認定が入り口段階の話にされ、一向に中身の精査に向かわないのは疑問である。中身の精査に向かわない為のワナ理論ではないかと義憤することがあるぐらいである。

【天孫族の国津族残党狩り譚】
 天孫族と国津族の手打ちにより、戦争状態が集結した。天孫族は引き続き各地の豪族を平定して行った。次のように記されている。
 「翌年の春、天孫軍は、諸将に命じて兵卒を選抜させ訓練させた。添県(そほのあがた)の波の丘岬(おかざき)にニイキトベ(新城戸畔)という女賊がおり、和珥(わに)の坂下にはコセハフリ(居勢祝)、臍見(ほそみ)の長柄の丘岬にはイハフリ(猪祝)という者がいて、その三ヶ所の土賊は勢力が強く帰順しなかった。ワケミケヌの命は、精兵を遣わして皆殺しにした。また高尾張邑(たかおわりのむら)にツチグモ(土蜘蛛)がいて、身丈が短く手足が長く侏儒(しゅじゅ)と似ていた。ワケミケヌの命軍は葛の網を作って覆い捕えて殺した。そこでその邑を改めて葛城とした。磐余の地の元の名は片居または片立という。天孫軍が敵を破り兵が溢れたので、磐余と改称した。ある人がいうのには、『イワレヒコが昔、厳瓮の供物を食し、出陣して西片を討った。そのとき磯城のヤソタケルがそこに屯娶(いわ)みし、天孫軍と戦ったがついに滅ぼされた。それで屯娶み、つまり兵が多いという意で、磐余邑という』」。
(私論.私見)
 これを仮に「天孫族の国津族残党狩り譚」と命名する。この下りは、いわば最終戦を記していることになる。女賊が平定されたことを記している。これまで触れなかったが、国津軍には女軍が組織されており、中には女酋長の豪族も居たことが明らかにされている。如何にも卑弥呼を盟主とする邪馬台国―女王国連合にありそうな記述ではなかろうか。

カムヤマトイワレ彦命とイスケヨリヒメの結婚譚】
 神武天皇は正妃を定め、旧出雲王朝系のヒメタタライスケヨリ姫を貰い受けている。次のように記されている。
 「ワケミケヌの命は、アヒラ姫を妻にしていた。タギシミミの命とキスミミの命という日向で生まれたお子もいた。或る時、三輪の大物主の神と関係の深い事代主の命の大女(えむすめ)とされるヒメタタライスケヨリ姫(比賣多多良伊須気余理姫、後のイスケヨリ姫)を見初め、二人は結婚することになった。大神神社の北を流れる狭井川のほとりにあったイスケヨリヒメの家で一夜を過ごすことになった。こうして生まれた子が、ヒコヤイ(八井)の命、カムヤイミミカ(神八井耳)の命、カムヌナカワミミ(神沼河耳、後の綏靖天皇)の命である」。

 古事記の「七乙女譚」が次のように記している(「神武天皇(5)結婚 后と大后」参照)
 ある日、七人の乙女たちが高佐士野(たかさじの)で、野遊びをしている中に、イスケヨリ姫がいた。大久米の命が、イスケヨリ姫を見つけて、歌を作って、イワレビコの命に言った。「倭(やまと)の高佐士野を 七人の乙女たちが通って行きます。あなたは誰と共寝をしますか」。この時、イスケヨリ姫は一番前に立っていた。イワレビコノ命はその乙女たちをご覧になって、歌で返事をされた。「まあそうだな。一番前に立っている可愛い人と共寝をしよう」。そこで、大久米の命はイワレビコノ命のお気持ちをイスケヨリ姫に伝えた。イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして鋭い目に見えるのを見て、歌にして返事をした。「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの」。それを聞いて、大久米命も歌を返した。「ただあなたに会いたいと探し求めて大きな目になりました」。その歌の意を汲み取った乙女は「お仕えしましょう」と述べ、后になる事を承知した。

 イスケヨリ姫の家は狭韋河(さいがわ)のほとりにあった。イワレビコノ命はイスケヨリ姫の家にお出ましになって、一夜、共寝した。(その川を狭韋河と言う訳は、その川辺に山百合の花がたくさん咲いていたからである。サイとは山百合の花を云う) のちに、イスケヨリ姫が入内された時に、イワレビコノ命が歌を詠んだ。「葦がいっぱい生えている所の、粗末な小屋で、菅で編んだ敷物を清らかに敷いて、私とそなたと一緒に寝たなあ」。二人の間に生まれた御子の名前は、日子八井命(ヒコヤイノ命)。次に神八井耳命(カムヤイミミノ命)、次に神沼河耳命(カムヌナカワミミノ命)の三人である」。
 アヒラ姫=阿比良比賣。タギシミミの命=多芸志美美命。キスミミの命=岐須美美命。オオモノヌシの神=大物主神。ヒメタタライスケヨリ姫=姫タタラ五十鈴姫、比賣多多良伊須気余理比賣、ホトタタライススキ姫。ヒコヤヰの命=日子八井命。カムヤヰミミの命=神八井耳命。カムヌナカハミミの命=神沼河耳命。
(私論.私見)
 「神武天皇とイスケヨリヒメの結婚譚」は、ワケミケヌの命が、東征について6年目の頃、出雲王朝―邪馬台国系のイスケヨリ姫と結婚し正妃としたことを伝えている。イスケヨリ姫は、事代主の命の娘とも大物主の子であるとも云われている。

 これは、天孫族と国津族の同盟を暗喩していると悟らせていただく。逆に云えば、出雲王朝―邪馬台国派が依然として隠然と勢力を蓄えていたこと、その皇統の協力なくしては大和を平定できなかったこと、出雲王朝―邪馬台国系の帰順派が大和王朝に入り込み勢力を温存して行ったこと等を暗喩しているのではなかろうか。相聞歌が教養になっていたことも分かり興味深い。

カムヤマトイワレ彦命即位譚】
 第四皇子なるワケミケヌの命がカムヤマトイワレ彦命となり、初代天皇として即位した。日本書紀は月日を全て干支で記しており、「神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てた」と記述し、古事記には年月が記されていない。次のように通説されている。
 「こうして、ワケミケヌの命が大和を平定してカムヤマトイワレ彦命となり、畝傍山東南の橿原に宮殿造営を開始した。かくて、大和朝廷を創始した。カムヤマトイワレ彦命は後に神武天皇と称名したので、神武天皇が大和朝廷初代天皇となる。神話上は、この皇統が平成の現在まで続くという事になっている」。

 新唐書日本伝は次のように記している。
 「みな尊を以って号となし、筑紫城に居る。彦の子神武立ち、さらに天皇を以って号となし、移りて大和州に治す」。

 「先代旧事本紀」、「天孫本紀」が次のように記している。
 「大歳(おおとし)辛酉(しんゆう)正月(むつき)庚申(こうしん)の朔(ついたち)に、天孫イワレ彦命、橿原宮に都を造る。初めて即皇位(あまつひつぎしろしめ)す。号(なづけ)て元年(はじめのとし)と曰(い)う。皇妃、姫タタライスズ姫を尊(とうとび)て立てて皇后と為す。即ち、大三輪の神女なり。宇摩志麻治の命、先ず天瑞宝(あまのみつのたから)を献(たてまつ)る。叉神楯(かんたて)を堅(たて)て以って斎(ものいみ)します。五十櫛(いそくし)と謂う。叉は今木を布都主剣(ふつのぬしのつるぎ)に刺しめぐらし、大神を都内(みあらかのうち)に奉斎(いわいまつ)る。即ち、天璽瑞宝(あまのしるしみづのたから)を蔵(おさめ)て以って天皇(すめらみこと)の為に鎮(しず)め祭る」。
 タカクラジ=。葛城地方の土豪と推測されている。オワリ氏の祖。 ヤタガラス=八咫烏。葛城のカモ氏の祖。ウカシ=宇迦斯。カムヤマトイワレ彦命=神倭伊波礼毘古命。
(私論.私見)
 これを仮に「神武天皇即位譚」と命名する。この下りは、天孫族がやむなく迂回して紀州熊野に上陸し、国津族の内部分裂を誘いながら大和に侵入し、ワケミケヌの命が即位してカムヤマトイワレ彦命となり大和王朝を創始した経緯を伝えている。神武天皇の即位日を「辛酉の年の春正月庚辰朔」とし、それが西暦の紀元前660年に当たることへの疑問については「皇紀2600年考」で述べたので繰り返さない。

【八紘一宇詔勅発令譚】
 神武天皇は、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築き、橿原宮に遷都した。この時、「掩八紘而爲宇」(「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為す」)の八紘一宇詔勅を発令した。日本書紀巻第三、神武天皇の条(「橿原遷都の詔 皇宗 神武天皇」)は、次のように記している。
 「我、東(ひんがしのかた)を征(う)ちしより、ここに六年となりたり。頼(こうぶ)るに皇天(あまつかみ)の威を以ってして、兇徒(あだども)就殺(ころ)されぬ。辺(ほとり)の土(くに)未だ清(しづま)らず、余(のこ)りの妖(わざわ)い尚あれたりと雖(いえど)も、中洲之地(うちつくに)、復(また)風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都をひらき郭(ひろ)めて、大壮(おおとの、みあらか)を規(はか)り摸(つく)るべし。而(しか)るを今、運(よ)、この屯(わか)く蒙(くらき)に属(あ)いて、民(おおみたから)の心素朴(すなお)なり。巣に棲(す)み穴に住みて、習俗(しわざ)惟(これ)常となりたり。それ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随(したが)う。苟(いやしく)も民に利(さち)有らば、何ぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)わん。まさに山林をひらき払い、宮室(おおみや)を経営(おさめつく)りて、つつしみて宝位(たかみくら)に臨みて、もって元々(おおみたから)を鎮(しづ)むべし。

 上(かみ)は則(すなわ)ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(みうつくしび)に答え、下(しも)は皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養いたまいし心を弘めん。然(しこう)して後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせんこと、亦(また)可(よ)からずや。観(み)れば、夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)の橿原(かしはら)の地(ところ)は、蓋(けだ)し国のもなかの区(くしら)か。治(みやこつく)るべし」。

 八紘の由来は、淮南子(えなんじ)巻七 精神訓の「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」とされている。淮南子(えなんじ)とは、前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年―紀元前122年)が学者(劉安・蘇非・李尚・伍被ら)を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。「淮南鴻烈」(わいなんこうれつ)ともいう。10部21篇。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。

 「八紘」は「8つの方位」、「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する語となった。「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味する。「八紘を掩(おほ)ひて宇とせん」とは、天下を一家の如く覆い、和気藹々(あいあい)たるものたらしめんとする意味で、家族的な絆によって統合される世界平和建設を指針させている。「敷島の大和の国は言霊の助ける国ぞ真幸くありこそ」(万葉集・柿本人磨呂)とあるような言霊で「八紘一宇」を祈念していることになる。
(私論.私見)
 「八紘一宇詔勅発令譚」は、出雲王朝―邪馬台国勢力の協力を得た大和王朝が「八紘一宇」を掲げ、これまでの戦争手法によってではなく和合による全国平定に乗り出した事を伝えていると悟らせてていただく。日本政治史の要諦として、この戦争政策と和合政策が縄をなうように混ざり合い、古代より時に好戦派が時に和合派が舵取りしつつ暗闘していると読むべきではなかろうか。

 日本書紀の「八紘爲宇」につき、明治から大正、昭和初期に活動した日蓮系国柱会の田中智学が「八紘一宇」に作り直して、これを日本民族の世界戦略の大目標とすべきであると提言した。戦前の1940(昭和15).7.26日、第2次近衛内閣が基本国策要綱を策定し、大東亜共栄圏の建設を基本政策とした際に、根本方針として「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」と掲げたことでも知られている。続く大東亜戦争で、八紘一宇は「天皇にまつろわぬものを平らげ(殺し)る」精神として称揚された。当時の皇国史観は、「尽忠報国、挙国一致、神州不滅、鬼畜米英、勇戦力闘、無敵皇軍、一億玉砕、忠君愛国、滅私奉公、堅忍持久、忠勇無双、八紘一宇、天穣無窮」の四字熟語を多造していた。

【補足、建国記念日考】
Re::れんだいこのカンテラ時評534 れんだいこ 2009/02/11
 【建国記念日考】

 今日は建国記念の日であった。これを機会に建国記念日の歴史を確認しておく。

 日本書紀は、神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てたと記している。明治維新政府は、この記述を、カムヤマトイワレ彦命即ち神武天皇が即位した日と読み取り、日本国創建日として称え祝日とすることにした。但し、時の明治政府は、旧正月を日本国創建日と定め祀ることを良しとしなかった。なぜなら、和暦から西欧暦への転換を押し進めており、旧正月を祝うのではなく西洋式の正月を祝わせようとしていたからである。

 ちなみに、日本が西暦を導入したのは、1872(明治5)年で、この年の12月2日で太陰太陽暦法(月の満ち欠けを基準にした暦)の天保暦を打ち切り、翌日を1873(明治6)年1月1日とした。これにより、太陽暦が使われるようになった。この時導入したのはグレゴリオ暦ではなく、ユリウス暦であった。日本がグレゴリオ暦に移行するのは27年後の1900(明治33)年である。

 これにより、月の満ち欠けと密接に結びついていた農業や漁業などのサイクルや、七夕や十五夜などといった生活習慣がうまく対応できなくなり、旧暦が生まれることにもなった。旧暦は天保暦の計算方法を用い、実際の計算に使う数値(1太陽年など)はグレゴリオ暦に使われる値を使って計算したものを云う。つまり、旧暦とは過去に用いられた天保暦を太陽暦と折衷したカレンダーということになる。正式な暦ではないが、現在まで重宝されている。

 もとへ。旧正月と日本国創建日が重なることは、西欧暦に転換させ旧正月を廃止せんとする政府の意向に添わなかった。そこで、水戸家の「大日本史」編集員・藤田一正氏に命じて、日本書紀の期日を西欧暦に当てはめ換算させた。これにより、「神武天皇の辛酉の年の春正月庚辰朔」は「BC660.2.11日」とされた。1872(明治5)年、2.11日を紀元節祝日とする法が制定された。1873(明治6).11.15日、紀元前660年を元年として「皇紀○年」という年の数え方が制度化された。

 これによれば、紀元節の創設そのものが、明治維新政府の西欧暦導入に象徴されるような欧化主義、その奥に潜んでいる国際金融資本のシナリオに沿って創設されたものに過ぎない、少なくとも明治維新政府の目指す天皇制国家主義が国際金融資本の植民地主義のシナリオ下に於いて機能させられていたという政治性が見て取れよう。ここまで窺うのは窺い過ぎだろうか。 

 戦後、1948(昭和23)年に制定された「祝日に関する法律」附則2項で、戦前の「休日ニ關スル件」(昭和2年勅令第25号)が廃止された。これに伴い日本国憲法の精神にそぐわないとして紀元節その他皇国史観に基くとみなされた諸祝日、大正天皇祭(12.25日)が廃止された。

 ところが、1951(昭和26)年頃から紀元節復活の動きが見られ、1957(昭和32)).2.13日、自由民主党の衆院議員らによる議員立法として建国記念日制定に関する法案が提出された。しかし、当時野党第一党の日本社会党が、建国記念日の制定を「戦前回帰、保守反動の最たるもの」との理由により反対したため廃案となった。以降9回の議案提出、廃案を繰り返す。結局、名称に「の」を挿入した「建国記念の日」とすることで、“建国されたという事象そのものを記念する日”であるとも解釈できるように修正し、社会党も妥協した。

 1966(昭和41).4.6日、法86により「建国記念の日」を国民の祝日として追加した。同6.25日、「建国記念の日」を定める祝日法改正案が成立した。「国民の祝日に関する法律(祝日法)」第2条で、建国記念の日の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定している。

 但しこの時、同附則3項は、「内閣総理大臣は、改正後の第二条に規定する建国記念の日となる日を定める政令の制定の立案をしようとするときは、建国記念日審議会に諮問し、その答申を尊重してしなければならない」と定め、日附の確定を審議に委ねた。

 内閣は「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41年政令第376号)を定め、建国記念日審議会を発足させた。議論の末、委員9名中7名の賛成により戦前の紀元節と同日の2.11日とする答申を纏め、同年12.8日に提出され、翌日政令が公布された。これにより、1867(昭和42).2.11日より施行されることになった。

 概略以上のような流れが確認できる。れんだいことしては、憲法記念日同様、単に祝日とするのではなく、祝日の内容の中身を検証する日にしたいと思う。日本がどのような国家的社会的歩みをしているのか、その元一日を尋ねる日にしたい。もっとも「神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てたと」のは元一日にならない。それより以前の国の成り立ちをも視野に入れて、この国及び民族の過ぎ越しこの方、行く末を考える祝日としたい。以上コメントしておく。

 2009.2.11日 れんだいこ拝

カムヤマトイワレ彦命の統治譚】

 神武天皇2年、功を定め、道臣命は築坂邑に大来目を畝傍山の西に居住させ、椎根津彦を倭国造に、弟猾を猛田邑の県主、弟磯城を磯城の県主に任じ、高皇産霊尊の子孫の剣根を葛城国造に任じた。併せて八咫烏を「幸を運ぶ鳥」と褒賞した。神武天皇4年、天下を平定し海内無事を以て詔し、鳥見山に皇祖天神を祀った。


【「秋津洲(あきつしま)」由来譚】

 神武天皇31年夏4月1日、天皇の御巡幸があった。大和(やまと)一帯を見下ろすことができる腋上(わきがみ)のほほ間の丘に登り、国の形をながめて言った。

 「なんと素晴らしい国を得たものだ。狭い国ではあるが、蜻蛉(あきつ)がとなめ(後尾)しているように山々が連なり囲んでいる」。

 これによって秋津洲(あきつしま)の名ができた云々。「あきつしま」の「秋津」はトンボの古名で、トンボが多数飛び回るほど作物が豊かに実る国という意味が込められている。トンボの呼び名の由来の歴史は、あきつ→かげろう、えんば→とんばう→とんぼと変わったと推定されており、トンボと呼ぶようになったのは平安時代以降のことらしい。「あきつしま」は漢字で「秋津島」、「秋津洲」、「蜻蛉洲」と書かれる。「大倭豊秋津島」(おおやまととよあきつしま)、「豊秋津島」(とよあきつしま)は大和を中心とする国。転じて日本国の美称となっている。


【「神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)後継譚】

 神武天皇42年、皇后媛蹈鞴五十鈴媛命の皇子の神渟名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)を皇太子と定めた。神渟名川耳尊が後の綏靖天皇になる。


カムヤマトイワレ彦命の崩御考】
 カムヤマトイワレ彦命(神武天皇)が崩御する。次のように記されている。
 カムヤマトイワレ彦命(神武天皇)は137歳まで生き崩御し畝傍山の北に葬られた。諡名(おくりな)はハツクニシラススメラミコト(始馭天下之天皇)と付けられた。

 カムヤマトイワレ彦命(神武天皇)の寿命につき、古事記は137歳、日本書紀は127歳と記している。埋葬地につき、古事記は「御陵在畝火山之北方白檮尾上也」、日本書紀は「葬畝傍山東北陵」と記している。御陵は、古事記では「畝傍山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあり」、日本書紀では、「畝傍山の東北陵に葬る」と記している。壬申の乱の際に大海人皇子が神武陵に使者を送って挙兵を報告したという記事がある。延喜式によると、神武天皇陵は平安の初め頃には東西1町、南2町で大体100m×100mの広さであった。977(貞元2)年には神武天皇ゆかりのこの地に国源寺が建てられたとある。但し、中世には神武陵の所在が分からなくなった。江戸時代の初め頃から神武天皇陵を探し出そうという動きが起り、現在では奈良県橿原市大久保町洞の山本ミサンザイ古墳が畝傍山東北陵(うねびのやまのうしとらのすみのみささぎ)だと宮内庁により定められている。畝傍山からほぼ東北に300m離れており、東西500m、南北約400mの広大な領域を占めている。

【諡名「ハツクニシラス」天皇考】
 「神武天皇」は、762(天平宝字6)年~764(天平宝字8)年に淡海三船(奈良時代後期の文人。弘文天皇の曽孫で内匠頭・池辺王の子。現存最古の漢詩集「懐風藻」の撰者とする説もある)により選定され追贈された漢風諡号である。

 和風諡号につき、日本書紀の神武紀には「始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといはれびこほほでみのすめらみこと)と曰す」とある。また、神代紀第十一段の第一の一書に「次に狭野尊(さののみこと)。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有(しろしめ)す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す」とある。第二の一書に「次磐余彦尊、亦號神日本磐余彦火火出見尊」、第三の一書に「次神日本磐余彦火火出見尊」、第四の一書に「次磐余彦火火出見尊」と似た名を挙げている。古事記には、「若御毛沼命(わかみけぬのみこと)」「豐御毛沼命(とよみけぬのみこと)」「神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)」の名が見える。

 「神日本」は美称で、聖徳を称えた表現。「磐余」は大和の地名。奈良県磯城郡桜井村、阿部村、香具山村付近(現在の奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地)で、桜井市谷には磐余山がある。5世紀から6世紀にかけ、磐余はたびたび皇居の地に選ばれた。

(私論.私見)
 ちなみに、第10代天皇の崇神天皇の和風諡名も「ハツクニシラススメラミコト」(古事記で所知初国之御真木天皇、日本書紀で御肇国天皇)と付けられており、両者の繋がり、同名の「ハツクニシラススメラミコト」の歴史的意味が詮索されている。


れんだいこのカンテラ時評№977  れんだいこ 投稿日:2011年 8月23日
 【神武東征、神武の橿原宮即位譚その1】

 れんだいこの2011古代史の旅は、出雲王朝の国譲り、邪馬台国史の書き換えへと歩を進めた。これで落着としたかったのだが、先の「ニギハヤヒの命と大国主の命の二重写し考」に対し、れんだいこツイッターに「miyuki」さんから次のような最上級のお誉めの言葉をいただいた。「こんばんわぁ! れんだいこさんの『古代史の旅』。画面で無くて紙の印刷物でゆっくり読みたかったのでプリントアウトさせて頂きました。明日、お茶しながら、ゆっくりまったり読ませて頂きまァーす」。これに意を強くし、邪馬台国滅亡史の裏面の流れであったと思われる高天原王朝の「神武東征、神武の橿原宮即位譚」を再確認する。

 れんだいこ史観によれば、アマテラスの曾孫(4代目)の代になって高天原王朝は、「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」と宣べ、東国の美(う)まし国「葦原中国」平定遠征に向かう。この時の「葦原中国」が邪馬台国ではないかと窺っている。

 古事記と日本書紀にほ、神武東征軍が日向を立って橿原に都を定めるまでのいろんなエピソードをほぼ同じ内容で記している。つまり、ここの部分の記述に相当神経が払われ規制されていたことを窺わせる。この伝説か史実か未だ不詳との論もあるが、れんだいこはある程度史実に基づいているのではなかろうか、骨格的にはほぼ間違いない史実ではなかろうかと推理している。

 神武軍一行は日向を発し、大分県の宇佐や福岡県の遠賀郡芦屋に寄り豊後水道を東進し、吉備、難波、熊野と経由して大和に入る。難敵の諸豪族を討ち取った末に大和を平定して、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築く。こうして神武天皇は我が国最初の天皇となり、大和朝廷を建国する。この天皇家が理論上万世一系として平成の現在まで続いているということになっている。

 皇国史観は、この経緯を是として、平定される側に対する平定する側の正義を説く。しかし、れんだいこは、この時、神武軍にヤラレタのが在地土着系の元々の日本の諸豪族であり、その連合国家としての出雲王朝系邪馬台国連合が理想的な神人和楽政治を敷いていたのであり、これを征伐する戦争は決して聖戦ではなかったと見立てる。

 ここでは、両者の正義を平衡的に取り上げ、両派の聖戦と手打ちぶりを確認してみたい。これが国譲り譚に続く日本政治の原型即ち日本の「元々の国の形」となっており大事にしたいと思うからである。国体論を云うのなら、ここに戻らねばならない。北一輝は早熟の天才であったが、国体論に於いて皇国史観に被れており、ここの元一日に戻っての国体論を創り直すべきであった。北に後少しの余命があれば、その可能性があったのではないかと惜しんでいる。「プレ大和王朝」その他を参照する。

 2006.12.4日、2011.8.22日再編集 れんだいこ拝

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れんだいこのカンテラ時評№978  れんだいこ 投稿日:2011年 8月23日
 【神武東征、神武の橿原宮即位譚その2】

 日向国高千穂宮に住居していた高天原王朝天孫族の東征の時の様子が次のように記されている。

 「東に美(う)まし國ありと聞く。我いざこれを討たん」。

 「美(う)まし國」とは、後の大和のことであり、万葉集第一巻第二首に次のように歌われている。

 「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち、国見をすれば、国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」。

 万葉集第二十巻四四八七番は、次のように詠んでいる。

 「いざ子ども たはわざなせそ 天地の 堅めし国ぞ 大和島根は」。

 ここで歌われている大和がどこを指しているのかは議論の余地がある。但し、このように歌われる大和に向かって、高天原王朝天孫族の東征が為されたという神話的史実は間違いなかろう。

 日本書紀の神武東征の下りに次のように記されている。

 「昔、タカミムスビ(高皇産霊尊)とアマテラス(天照大神)が、この豊葦原瑞穂国を祖先のニニギ(瓊瓊杵尊)にさずけた。ニニギは天の戸をおし開き、路をおし分けて進んだ。そのときの倭地は暗黒の世であったが、ニニギが正しい道を開き世を治めた。以来、父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨して一七九万二四七〇余年になる。しかし、遠い所の国ではまだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長が境を設け相争っている」。

 「塩土老翁(しおつちのおじ)に聞きしに、『東に美(うま)き地(くに)有り。青山四(よも)に周(めぐ)れり。その中に又、天磐船(あまのいわふね)に乗りて飛び降りる者有り』と云えり。余(あれ)謂(おも)うに、彼の地は、必ず以って天業(あまつひつぎ)をひらき弘(の)べて、天下(あめのした)に光宅(みちお)るに足りぬべし。けだし六合(くに)の中心(もなか)か。その飛び降りると云う者は、これニギハヤヒと謂うか。何ぞ就(ゆ)きて都つくらざらむ」。

 これによれば、高天原王朝天孫族は、出雲王朝系のニギハヤヒが先行して「東の美(う)まし國」とも云われる「葦原中国」に降臨し、日の本王朝を形成したのを知り、我らも向かわんとして東征に向かったことになる。

 行軍したのは、皇族のイツセ(五瀬)の命、イナヒ(稲飯)の命、ミケイリ(三毛入野)の命、ワケミケヌの命、子のタギシミミ(手研ミミ)の命、護衛のミチオミ(道臣)の命、大久米、途中で随行してきたシイネツ(椎根津)彦等々であった。

 この下りを仮に「天孫族の東征宣明譚」と命名する。天孫族の東征がいよいよ始まったことと、東征軍団の主領格の顔ぶれを伝えている。

 かくて、天孫族は日向の浜を発す。東征の旅程は古事記と日本書紀で異なっている。古事記 では、速吸の門を通過し筑紫の豊国の宇佐に着く。ウサツ彦とウサツ姫が服属して、足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を建てもてなした。次に、豊後水道を経て、筑紫国の岡田宮に1年、安芸国の多祁理宮(たけりの宮)に7年、吉備国の高島宮に8年過ごした。日本書紀では、速吸之門(豊予海峡)を通り筑紫国の宇佐に到る。その次に筑紫国の岡水門に到る。その次に安芸国の埃(え)の宮に到る。その次に吉備国の高嶋宮に到り3年暮らす。つまり、筑紫国の岡田宮と岡水門の違いが認められる。後のコースはほとんど同じであるが各地での滞在期間が異なっている。

 速水の門(はやすいのと)に至った時、国津神のキタカネツ彦が現れ、一行を先導した。浪速の渡りを経て、河内国の難波津に到着した。この下りを仮に「神武東征軍の行路譚」と命名する。

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れんだいこのカンテラ時評№979  れんだいこ 投稿日:2011年 8月23日
 【神武東征、神武の橿原宮即位譚その3】

 河内国の難波津に到着した天孫族は、ニギハヤヒの命率いる国津族出雲系王朝軍と闘うことになった。難波の日下でナガスネ彦軍と闘い敗れる。その時の様子が次のように記されている。

 「難波の日下で、天孫軍は、国津系の豪族ナガスネ彦軍と闘い、長兄のヒコイツセ(五瀬)の命が敵の放った矢に射抜かれて負傷するなど手痛く敗れた。天孫軍は南海道に兵を募り再び戦闘するも、弟のヒコイナイ(稲飯)の命が討ちとられた。第三皇子なるミケイリノ(三毛入野)の命は行方不明となった。第四皇子のワケミケヌの命が統率し、南海道、韓兵、淡路等の兵合わせて再度攻略する。今度はナガスネ彦が重傷を負い、東国に退く。アビ彦は越に退く。天孫族は、四男のワケミケヌの命の指揮に入ることよって辛うじて初勝利することができた」。

 これを仮に「天孫族と国津族の激戦譚」と命名する。ここで、天孫族と国津族の戦いが凄まじく、天孫族は摂津で重大な敗北を喫したことを伝えている。この時の戦いで、長兄のヒコイツセの命が負傷、弟のヒコイナイの命が戦死、第三皇子なるワケミケヌの命は行方不明となった。

 第四皇子なるワケミケヌの命が天孫族を率いて、紀州熊野に上陸する。この時、長兄のヒコイツセの命が没した。その時の様子が次のように記されている。

 「長兄のヒコイツセの命の『日の神の御子が日に向って戦うのが良くない。今よりは行き廻りて日を背に負うようにして戦うことにせよ』の言に従い、天孫軍一行は撤兵した。ナガスネ彦軍は、これを追わなかった。天孫軍は南へ下り茅渟(ちぬ=和泉の海)の山城水門に着いた。続いて、紀の国の男の水門に上陸した。そこで、長兄のヒコイツセの命が『賎しい奴に手傷を負わされて死んでしまうのか』と口惜しがりながら死んだ。

 さらに南下して、名草邑に着き、ナクサトベ(名草戸畔)と名乗る女賊を討伐した。一行は熊野村の浜に舟を着け、そこでニシキトベ(丹敷戸畔)という女賊を誅(ちゅう)した。その後、徒歩で北に向かった。道中、大きなクマが現れたかと思うと姿を消した。佐野を越えて熊野の神邑(みわのむら)に辿り着いた。この時、大熊が現われてすぐに消えた。ワケミケヌの命は俄かに病に襲われ、軍人達も倒れて臥してしまった」。

 これを仮に「天孫族の紀州熊野迂回上陸譚」と命名する。天孫族の東征が苦心惨憺たるものであったことが知らされている。しかしこれを逆に窺うと、国津族が如何に結束し強靭であったかが分かる。皇国史観は、国津族の強靭さを邪、天孫族の悲劇を是として組み立てているが、国津族には迷惑な話でしかなかろう。

 天孫族が疲弊困憊していた時、熊野のタカクラジ(高倉下)が、タケミカヅチが出雲王朝を平定した時の太刀を献上して来る。次のように記されている。

 「天孫軍が絶望の淵に追いやられていたこの時、熊野のタカクラジが、一振りの太刀を持ってやって来て奉った。曰く、アマテラスとタカギの神が夢に現れ、タケミカヅチに『葦原中つ国はまだ騒がしい。お前が行って平げなさい』と、苦戦する天孫軍支援を命じた。タケミカヅチは、『私が行く代わりに先に私が葦原の中つ国を平定した時のフツノ御魂の太刀を天降りさせ、タカクラジの倉の屋根に穴を開け、そこから落とし入れてくだされば良いでせう。国は平ぎましょう』と答えた。

 続いて、『タカクラジよ、私の剣は名をフツノミタマという。あなたの倉の中に置こう。その太刀を天つ神の御子に差し上げるように』と仰せられた。タカクラジの目が覚めた。夢のままに庫を開けると、はたして剣が庫の底板に逆さに突き刺っていた。その太刀を差し上げに参りました。(この太刀はミカフツ神又はフツノミタマと云い、その後石上神宮に納められている) タカクラジの言を聞いたワケミケヌの命は忽ち精気を取り戻した」。

 これを仮に「タカラクジ(高倉下)帰順譚」と命名する。この神話は、タカクラジ一族が最も早く天孫族に帰順したことを隠喩していよう。タカクラジ一族とは何者か、はっきりしない。

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れんだいこのカンテラ時評№980 れんだいこ 投稿日:2011年 8月23日
 【神武東征、神武の橿原宮即位譚その4】

 天孫族が再度大和侵攻を画策している時、ヤタガラス(古事記で「八咫鳥」、日本書紀で「頭八咫鳥」)が現われ、その協力を得て天孫軍は熊野から大和の宇陀に至った。その時の様子が次のように記されている。

 「この頃、ワケミケヌの命は夢を見た。アマテラスがワケミケヌの命に伝えた。『ヤタガラスを遣わすから、これに案内させなさい』。はたして、ヤタガラスが大空から舞い降りてきた。ワケミケヌの命は、『まさに夢の通りだ。アマテラスが私たちを助けてくれている』。ヒノオミ(日臣命=大伴氏の先祖)は、オオクメ(大来目)を率いて、カラスの導くままに山を越え、路を踏み分けて、ついに宇陀(うだ)の下県(しもつこおり)に着いた。そこを宇陀の穿邑(うかちのむら)と名づけ、ヒノオミをほめた。 『お前は忠勇の士だ。よく導いてくれた。お前の名を改めてミチオミ(道臣)としよう』」。

 これを仮に「ヤタガラス帰順譚」と命名する。「ヤタガラス」をどう理解すべきだろうか。独眼流れんだいこ観点は、「ヤ」は八という数字で表徴される「かなり多くの」、「タ」は分からないが、「鳥」という言葉に表象される情報に長けた部族と解する。つまり、「ヤタガラス」に寓意されるような相当数の現地部族が靡き、道案内を買って出たということであろう。即ち、「天孫降臨譚」の「サルタ彦の水先案内」と相似している。このグループも後々神武王朝の枢要の地位を得ることになる。天孫族にとって、「ヤタガラス」の出現は有り難かったようで、「熊野の神使」即ち天皇を始め貴人を先導する霊鳥「ミサキガラス」として称えていくことになる。

 ヤタガラスを豪族名と考えると、この一族とは何者か。旧事紀は、大国主命(大己貴命)と多紀理姫との間に生れた子にしてニギハヤヒの使いをしたタケツノミ(建角身命)としているとのことである。逸話の内容から判ずるに託宣系の者であろうが「大国主命(大己貴命)と多紀理姫との間に生れた子」とするのは如何なものだろうか。

 延喜式神名帳に「八咫烏は賀茂県主建角身命なり」とあり、新撰姓氏録には「鴨県主と賀茂県主は同祖で、神武が大和に入ろうとして熊野山中で路に迷ったとき鴨建津見命が烏と化して先導した功によって八咫烏の称号を賜わった」とある。これよりすれば、ヤタガラスは出雲系の有力豪族である賀茂氏の一族ということになる。即ち、出雲系の有力豪族である賀茂氏の一族が寝返って、天孫系に誼を通じたことになる。この功績で、賀茂氏一族は大和王朝の重臣の一員となり命脈を保つことになる。奈良県宇陀郡榛原町高塚字八咫烏には八咫烏神社が鎮座し、祭神は建角身神である。

 天孫族は、ヤタガラスを使ってシキヒコ(磯城彦)兄弟攻略に乗り出し成功する。その時の様子が次のように記されている。

 「十一月、天孫軍は、師木(磯城)邑の兄(エ)シキ、弟(オト)シキのシキヒコ(磯城彦)兄弟の攻略に向かった。使者を送って兄のエシキを呼んだが返答がなかった。そこでヤタガラスを遣わした。ヤタガラスは、エシキに誘いをかけた。『天神の子がお前を呼んでおられる。さあさあ』 。エシキは、『天神が来たと聞いて憤(いきどお)っている。何の用があって呼びだすのか」 と怒声を浴びせ、弓を構えて射た。ヤタガラスは弟のオトシキの家へ行った。『天神の子がお前を呼んでいる。さあさあ』。オトシキは、『天神が来られたと聞いて朝夕畏れかしこまっていました。ヤタガラスよ、お前が呼びに来てくれて嬉しいよ』。オトシキはヤタガラスの来訪を歓迎し、平な皿八枚に食物を盛ってもてなした。

 オトシキはヤタガラスに導かれてワケミケヌの命の軍営に参上した。『わが兄は、天神の御子がおいでになったと聞いて、ヤソタケルを集めて武器を整え決戦する構えです。速やかに準備されるのがよいでしょう』。ワケミケヌの命は云う。『エシキはやはり戦うつもりらしい。呼んでも来ない。どうすればいいか』。このワケミケヌの命の問いに諸将は答えた。『エシキは悪賢い敵です。まずオトシキをやり、そのときエクラジ(兄倉下)とオトクラジ(弟倉下)も一緒にやって説得すれば、いかがでしょう。どうしても従わないなら、それから兵を送っても遅くはないでしょう』。

 オトシキは兄を説得したが効果はなかった。シイネツ彦は一計を案じた。『まず女軍を遣わして忍坂の道から行くのがいいでしょう。敵は必ず精兵を出してくるでしょうから、こちらは強兵を墨坂に向かわせ、宇陀川の水で敵軍の炭の火にそそぎこめば敵は驚くはずです。その不意をつけば、敵を討ち取ることができるでしょう』。

 ワケミケヌの命は、シイネツヒコの計略を採用して二手に分かれる作戦をたてた。まず女軍を送った。すると、敵は大兵が来たと思い、総力で反撃してきた為、少なからずの被害を受け、甲冑の兵士も疲労した。ワケミケヌの命は、将兵を鼓舞するために歌を詠んだ。『伊那嵯(いなさ)の山の木の間から、敵をじっと見つめて戦ったので、我は腹が空いた。鵜飼いをする仲間達よ。いま、助けに来てくれよ』。強兵の男軍が墨坂を越え、手筈通りに後方から挟み討ちにして敵を破り、エシキを斬った。天孫軍は、待望の磐余や磯城の地に進出することができた」。

 これを仮に「シキヒコ兄弟攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍の来襲により国津軍内に亀裂が入り始めたことを物語っていよう。天孫軍の計略が記されている。留意すべきは、兄(エ)シキ、弟(オト)シキのシキヒコ(磯城彦)兄弟の素姓であろう。兄(エ)シキ、弟(オト)シキと云うのは古日本語であり、アイヌ的蝦夷(えみし)語ではないかと思われることである。つまり、神武東征とは、在地土着のアイヌ的蝦夷(えみし)軍の攻略であったと云うことになる。続くウカシ兄弟、ヤソタケル(八十梟帥)も然りであろう。

 天孫族がヤタガラスに導かれて宇陀(うだ)の下県に着いた時、国津神系の幾つかの豪族が帰順した。中でも、ウカシ兄弟の兄(エ)ウカシを殲滅し、弟(オト)ウカシを帰順させたのは大いなる手柄となった。その時の様子が次のように記されている。

 「この時、ヤタガラスが現れ道案内することになった。天孫族は、一行荒ぶる神々のひしめく中を行軍し、吉野川の下流に着いた。国つ神のニエモツノコ、イヒカ、イワオシワクノコが恭順した。宇陀に着いた時、ウカシ兄弟と対峙することになった。ヤタガラスが説得に向ったが、兄(エ)ウカシは鳴鏑(なりかぶら)で応え敵対の意志を明確にさせた。ところが、軍勢が予期したより集まらなかったウカシ兄弟は一計を廻らし、偽りの降伏で誘って落し入れようとした。ところが、弟が内通し仕掛けられた罠を教えた。『兄は、天孫がおいでになると聞いて、兵を率いて襲わんとしています。仮宮を造り、もてなすはずですが、仮宮の中には仕掛けがしてあり、また兵を隠してこっそり襲おうとしています。この計りごとを知ってよく備えて下さい』。

 事前に偽計を知った大伴の連の祖になるミチノ臣と久米の直の祖になるオホクメが、兄(エ)ウカシを呼び出し、『おのれが作り、お仕え申すという大殿の内に、おのれがまず入れ』と、太刀の柄(つか)を握り締め、矛を突きつけ矢をつがえて殿の内に追い入れた。兄(エ)ウカシは、おのれが作った落とし仕掛けに掛かって潰されて死んだ。引き出して斬ると、血が溢れたので、そこを宇陀の血原と名づけた。弟ウカシは、天津神の御子へ恭順を誓い、沢山の肉と酒を用意して天孫軍をねぎらいもてなした」。

 これを仮に「ウカシ兄弟攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍、国津軍双方が計略、謀略の限りを尽していたことを物語っていよう。ウカシ兄弟の素姓は分からないが前述したように蝦夷(えみし)系と思われる。

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れんだいこのカンテラ時評№981 れんだいこ 投稿日:2011年 8月23日
 【神武東征、神武の橿原宮即位譚その5】

 天孫族はヤソタケル攻略に乗り出し、遂に本格的な軍事戦に向かう。苦戦する天孫族に次々と神託が下されている。次のように記されている。

 「九月、ワケミケヌの命は宇陀の高倉山に登り敵情を望見した。国見丘にはヤソタケル(八十梟帥)がいた。女坂には女軍を置き、男坂には男軍を置き、墨坂にはおこし炭を置いていた。またエシキ(兄磯城)の軍が磐余邑(いわれのむら)にあふれていた。敵の拠点はみな要害の地で、道は塞がれ、通るべきところがなかった。ワケミケヌの命は打つ手に窮し、神に祈って寝た。夢に天神が現れて神託を下した。『天の香具山の社の中の土を取って平瓦八十枚を造り、同じく御酒を入れる瓶を造り天神地祇(てんじんちぎ)を祀れ。身を清めて呪詛せよ。このようにすれば敵は自然に降伏するだろう』 。ワケミケヌの命が、夢の教えにかしこまっているとき、オトウカシが奏上した。『倭の国の磯城邑に磯城のヤソタケル(八十梟帥)がいます。葛城邑にも赤銅のヤソタケル(八十梟帥)がいます。この者らも皆、皇軍に逆らい戦おうとしています。そこで、天の香具山の赤土で平瓦を造り、天神地祇をお祀り下さい。そうすれば敵を討ち払いやすくなるでしょう』。

 ワケミケヌの命は、夢の教えとオトウカシの言葉が一致したことを喜び、早速密使を走らせ、神託の通りに行動した。シイネツヒコに古い服と蓑笠をつけさせ老人の姿にし、オトウカシに箕を着させて老婆の姿にして言った。『お前ら二人、香具山に行って、頂きの土をこっそり取ってこい。事の成否はお前らにかかっている。しっかりやってこい』。しかし、道は敵兵が塞いでいた。シイネツヒコは、『わが君が、この国を定められるものならば行く道が自ら開け、もしそうでないなら敵が道を塞ぐだろう』と神意に占い、出発した。道を塞ぐ敵兵は二人の様子を見て、『汚らしい老人どもだ」とあざけり笑い、道を開けて行かせた。二人は無事、香具山について土を取って帰った。

 ワケミケヌの命は大いに喜び、この土で多くの平瓦や手快(たくじり=丸めた土の真中を指先で窪めて造った土器)、厳瓮(いつへ=御神酒瓷=おみきかめ)などを造り、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀った。そして神意を占った。『私は今、沢山の平瓦で、水なしで飴を造ろう。もし飴ができればきっと武器を使わないで天下を居ながらにして平げるだろう』。飴はたやすくできた。また神意を占った。『御神酒瓷を丹生の川に沈めよう。魚が酔って浮き流れるようであれば、私はきっとこの国を平定するだろう。もしそうでなければことを成し遂げられぬだろう』 。瓷を川に沈めると、その口が下に向き、しばらくすると魚は皆浮き上がって口をバクバク開いた。シイネツヒコはそれを報告した。

 ワケミケヌの命は大いに喜び、丹生の川上の沢山の榊を根こそぎにして、諸々の神を祀った。この時から祭儀の御神酒瓷の置物が置かれるようになった。ワケミケヌの命がミチオミに命じた。『タカミムスビを私自身が顕斎しよう。お前を斎主とし、女性らしく厳媛(いつひめ)と名づけよう。そこに置いた土瓮を厳瓮(いつへ)とし、また火の名を厳香来雷(いつのかぐつち)とし、水の名を厳罔象女(いつのみつはのめ)、食物の名を厳稲魂女(いつのうかのめ)、薪の名を厳山雷(いつのやまづち)、草の名を厳野椎(いつののづち)とする』。

 冬になると、ワケミケヌの命は厳瓮の供物を食し、兵を整えて出陣した。まず国見丘のヤソタケルを撃ち斬った。そして歌った。『伊勢の海の大石に這いまわる細螺(しただみ)のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ、細螺のように這いまわって、必ず敵を討ち負かしてしまおう』 。残党はなお多く、その情勢は測りがたかった。そこでミチオミに命じた。『お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑に造り、盛んに酒宴を催して、敵をだまし、討ち取れ』。ミチオミは、忍坂邑の大室に強者を選んで侍らせた。『酒宴たけなわになった頃、私は立って舞うから、お前らは、私の声を聞いたら一斉に敵を刺せ』。 敵を誘いこみ、座について酒を飲んだ。

 陰謀のあることを知らない敵は、心のままに飲み、酔った。ミチオミは頃を見計らって、立って歌った。『忍坂の大きい室屋に、人が多勢入っているが、入っていても御稜威(みいつ)を負った来目部の軍勢の頭椎(くぶつつ)、石椎(いしつつ)で敵を討ち敗かそう』。この歌を聞いて一斉に頭椎の剣を抜き、敵を皆殺しにした。こうして葛城邑のヤソタケル(八十梟帥)を攻め滅ぼした。

 ワケミケヌの命軍は大いに悦び歌った。『今はもう今はもう敵をすっかりやっつけた。今だけでも今だけでも、わが軍よわが軍よ』。来目部が歌って大いに笑うのは、これがそのいわれである。また歌っていう。『夷(えみし)を、一人で百人に当る強い兵だと人はいうけれども、抵抗もせず負けてしまった』。その時、ワケミケヌの命が言った。『戦いに勝っておごることのないのは良将である。今、大きな敵は滅んだが、その仲間は多い。その実状は分からないから、同じ所にいては危険だ』。ワケミケヌの命軍は、その地を捨てて別の所に移った」。

 これを仮に「ヤソタケル(八十梟帥)攻略譚」と命名する。この下りは、天孫軍の計略、謀略が優り、国津軍のヤソタケル(八十梟帥)殲滅経緯を物語っている。これに相当文量費やされていることは、よほどの難事であったことと、ヤソタケル(八十梟帥)征伐戦がよほど重要な地位を占めていたと云うことであろう。ヤソタケルは、漢字の八十梟帥が意をそのまま表しており、武勇ある者の集団に対して名づけたものと推定され、国津族の正規軍だったと思われる。梟帥は、「コソ」、すなわち「許曽」、「居西」などに通じる烏丸系集団の頭目の称号とする説もある。

 300年前後の大和にもっとも大きな集落があったのは桜井市の初瀬川の流域即ち磯城(師木)のヤソタケルの一族が支配していた地であったとされる。葛城邑(今の御所市付近)のヤソタケルは、忍坂邑(今の桜井市付近)の俄作り大室でだまし討ちにされた。ニギハヤヒが降臨したのは哮峯は葛城山中であり、綏靖朝や孝昭朝の都は葛城であったことからも分かるように、葛城の地は二ギハヤヒ系の重要な拠点であったと思われる。その拠点のヤソタケルが滅ぼされたことになる。大和王朝史は葛城の地を押さえることに腐心しているが、元々国津族の拠点であったと云うことが関係していると思われる。

 天孫族の国津族狩りは続いた。次のように記されている。

 「天孫軍は、国津神族の内部分裂を誘いながら進撃し、平伏しなかった土クモ族を攻め滅ぼした。神武天皇即位前紀己未年二月、大和国(奈良県)の 新城戸畔(にいきとべ)等の土蜘蛛が帰順せず討たれた。これが土蜘蛛の初見となる」。

 これを仮に「土クモ族攻略譚」と命名する。この下りは、天孫族が引き続き各地の土クモ族討伐に向かったことを明らかにしている。この時征伐されたツチグモ族とは何者か。漢字では「土蜘蛛」、「都知久母」と表記される。日本書紀は「高尾張邑(たかおはりのむら)に土蜘蛛有り、其の 為人(ひととなり)身短くして手足長し」と記し、まさに「蜘蛛」的に描いている。記紀の記述は卑しく描いているが、逆に勇猛果敢な土着勢力の姿を髣髴とさせている。

 察するに、「蜘蛛」とは蔑称であり、クモを出雲の雲と読み、出雲系の流れを汲む各地の豪族と読むべきではなかろうか。ツチグモ族の最強軍団は大和葛城山を根城にしていたと思われ、葛城一言主神社には土蜘蛛塚という小さな塚がある。これは神武天皇が土蜘蛛を捕え、彼らの怨念が復活しないように頭、胴、足と別々に埋めた跡といわれる。

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れんだいこのカンテラ時評№982  れんだいこ 投稿日:2011年 8月23日
 【神武東征、神武の橿原宮即位譚その6】

 ニギハヤヒの義父にして在地の豪族の盟主的地位にあったナガスネ彦(登美彦)を棟領とする国津軍の抵抗は引き続いており、決着が着かず戦線は膠着していた。 天孫軍と国つ軍の闘いは長期戦化した。この時、金鶏が飛んできて天孫軍を勇気づけたとして次のように記されている。

 「遂に二ギハヤヒ―ナガスネ彦が登場し、両軍が対峙することになった。この時、急に空が暗くなり雹(ひょう)が降り始め、そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛んできてワケミケヌの命の弓の先にとまった。鵄は光り輝き雷光のようであった。そのため、ナガスネヒコ軍の軍卒は眩惑され、力戦できなかった。

 ワケミケヌの命は、歌を歌った。『御稜威を負った来目部の軍勢のその家の垣の本に、粟が生え、その中に韮(山椒)が一本混じっている。その韮の根本から芽までつないで抜き取るように、敵の軍勢をすっかり撃ち破ろう』。ワケミケヌの命は兵を放ち、ナガスネヒコの軍勢に急迫させた」。

 これを仮に「金鶏譚」と命名する。この下りは、天孫族と国津族の正規軍の最後の決戦場面を伝えている。両軍対峙で膠着する中、「金色の不思議な鵄(とび)が飛んできてワケミケヌの命の弓の先にとまった」とある。これは陰喩であろうから、天孫族によほど強力な助っ人が登場したと解すれば良い。これが誰であるのかは判明しない。

 こうした局面のどの時点のことか定かではないが、天孫族のワケミケヌの命と国津族のナガスネ彦が次のように遣り取りしている。

 「ナガスネ彦は使いを送って言上した。『昔、天津神の子が天磐船に乗って天より降りてきた。名を櫛玉ニギハヤヒの命と申す。私の妹のミカシギヤ姫を娶り、ウマシマデの命を生んでいる。私はこのニギハヤヒを君主として仰ぎ奉(つかえ)てきた。あなたは自らを天津神の子と称し、この国を奪おうとしているが、そうなると天津神の子が二人いることになる。なぜ天津神の子が二人いるのか。思うに、あなたは末必為信(いつわり、ウソ)をついている。どうしてまた天神の子と名乗って人の土地を奪おうとするのですか。私が思うのに、あなたは偽物でしょう』。

 ワケミケヌの命は次のように返答した。『天津神の子は多く居る。もしニギハヤヒの命が本当に天津神の子であるというのなら、必ずやその印となるものを持っている筈である。それを見せてみろ』。この後、ナガスネ彦が証拠の天羽羽矢(あまのははや)と歩ゆぎ(矢箱)を見せて示した。ワケミケヌの命は、「偽りではない」と答え、ワケミケヌの命も同じように見せ譲らなかった。ナガスネヒコは恐れ畏まったが徹底抗戦の構えを崩さなかった。

 これを仮に「天孫軍とニギハヤヒの命軍の王権誇示譚」と命名する。この下りは、国津系のニギハヤヒの命と天孫系のワケミケヌの命が王権の正統性誇示しあっているところが興味深い。決着がつかなかったと云うことは、ニギハヤヒの命の王権が確かなものであったことを寓意していよう。

 ナガスネ彦が、ニギハヤヒの命を天津神の子として位置づけ問答している下りは脚色であろう。本当は、「なぜ天津神の子が二人いるのか」と問うたのではなく、こう問うたのではなかろうか。「ニギハヤヒの命こそ皇統の命である。あなたがたも皇統だと自称している。どちらが本当の皇統なりや」。記紀はこの真問答を記せず、ここでも捻じ曲げて記述しているように思われる。

 天孫族と国津族の第二の国譲り譚が次のように記されている。この下りの神話は、物部氏の伝承「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)によれば、次のように記されている。れんだいこが意訳する。

 「天孫軍と国津軍の戦闘は長期化し、天孫軍優位のまま膠着状態に入った。国津軍の実権は、ニギハヤヒの子のウマシマチに移っていた。ウマシマチは、天孫族新王朝の要職の地位の約束を得ることでナガスネ彦を殺し、抵抗を終息させた。ここに両者が大和議し、天孫軍と国津軍の合体による大和王朝が創始されることになった。『大和』の由来はこれによる。ウマシマチはその後物部氏として大和朝廷の第一豪族として枢要の地位に有りついていくことになる」。

 大野七三氏の「古事記、日本書紀に消された皇祖神・ニギ速日大神の復権」は、「神武天皇とウマシマジの命の盟約」と題して次のように記している。

 「ウマシマジの命は、父・ニギ速日の尊より継承した大和国の統治権を神武天皇に譲るに当たり、天皇との間に重大な盟約を交わされたことが推察される。1・宮中に皇祖神として、元大和国の大王であり、皇后イスケヨリ姫の父であるニギ速日の尊の御魂を奉斎すること。そして、その祭祀はウマシマジの命及びその子孫が司祭者として行うこと。 2・大和朝廷の歴代の皇后は、ウマシマジの命の子孫・磯城県主(しきのあがたぬし、後の物部氏)の関係者の女性から出自させること。更に、その皇后より誕生した皇子のみが次期天皇になれること。3・大和朝廷の最高職(足尼すくね、大連おおむらじ、大臣おおおみ)は、ウマシマジの命の子々孫々が永久にその職を継承すること。これらの盟約は、先代旧事本紀の物部氏系譜と天皇家系譜によって確かめることができる」。

 これを仮に「天孫族と国津族の第二の国譲り譚」と命名する。この下りは、前半でニギハヤヒの子のウマシマチが「ナガスネ彦を殺し、抵抗を終息させた」としている。後段では、「神武天皇とウマシマジの命の盟約」が記されている。この盟約は記紀には登場せず先代旧事本紀のみが記しているところが興味深い。

 ところで、殺されたとされるナガスネ彦は他の古史古伝の東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)では、ナガスネ彦が東北に逃げ落ち、荒覇吐(あらはばき)族を名乗って津軽地方の王となった云々と伝えている。この記述は興味深い。大和王朝が後々東北蝦夷征伐に向かう流れの裏事情が見えてきそうな話である。

 古史古伝の真贋論争に願うのは、徒な入り口論としての真贋論に留まるべきではなく、よしんば偽書であったとしても内容に於ける吟味も必要ではなかろうかと思うことである。体裁等の形式的な偽書認定に止まるべきではなく、内容における偽書認定の両面から向かうべきではなかろうか。目下の偽書認定が入り口段階の話にされ、一向に中身の精査に向かわないのは疑問である。中身の精査に向かわない為のワナ理論ではないかと義憤することがあるぐらいである。

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れんだいこのカンテラ時評№983  れんだいこ 投稿日:2011年 8月23日
 【神武東征、神武の橿原宮即位譚その7】

 天孫族と国津族の手打ちにより、戦争状態が集結した。天孫族は引き続き各地の豪族を平定して行った。次のように記されている。

 「翌年の春、天孫軍は、諸将に命じて兵卒を選抜させ訓練させた。添県(そほのあがた)の波の丘岬(おかざき)にニイキトベ(新城戸畔)という女賊がおり、和珥(わに)の坂下にはコセハフリ(居勢祝)、臍見(ほそみ)の長柄の丘岬にはイハフリ(猪祝)という者がいて、その三ヶ所の土賊は勢力が強く帰順しなかった。ワケミケヌの命は、精兵を遣わして皆殺しにした。また高尾張邑(たかおわりのむら)にツチグモ(土蜘蛛)がいて、身丈が短く手足が長く侏儒(しゅじゅ)と似ていた。ワケミケヌの命軍は葛の網を作って覆い捕えて殺した。そこでその邑を改めて葛城とした。磐余の地の元の名は片居または片立という。天孫軍が敵を破り兵が溢れたので、磐余と改称した。ある人がいうのには、『イワレヒコが昔、厳瓮の供物を食し、出陣して西片を討った。そのとき磯城のヤソタケルがそこに屯娶(いわ)みし、天孫軍と戦ったがついに滅ぼされた。それで屯娶み、つまり兵が多いという意で、磐余邑という』」。

 これを仮に「天孫族の国津族残党狩り譚」と命名する。この下りは、いわば最終戦を記していることになる。女賊が平定されたことを記している。これまで触れなかったが、国津軍には女軍が組織されており、中には女酋長の豪族も居たことが明らかにされている。如何にも卑弥呼を盟主とする邪馬台国―女王国連合にありそうな記述ではなかろうか。

 第四皇子なるワケミケヌの命がカムヤマトイワレ彦命となり、初代天皇として即位した。日本書紀は月日を全て干支で記しており、「神武天皇が、辛酉の年の春正月庚辰朔に橿原に宮を建てた」と記述し、古事記には年月が記されていない。次のように通説されている。

 「こうして、ワケミケヌの命が大和を平定してカムヤマトイワレ彦命となり、畝傍山東南の橿原に宮殿造営を開始した。かくて、大和朝廷を創始した。カムヤマトイワレ彦命は後に神武天皇と称名したので、神武天皇が大和朝廷初代天皇となる。神話上は、この皇統が平成の現在まで続くという事になっている」。

 新唐書日本伝は次のように記している。「みな尊を以って号となし、筑紫城に居る。彦の子神武立ち、さらに天皇を以って号となし、移りて大和州に治す」。

 「先代旧事本紀」、「天孫本紀」が次のように記している。

 「大歳(おおとし)辛酉(しんゆう)正月(むつき)庚申(こうしん)の朔(ついたち)に、天孫イワレ彦命、橿原宮に都を造る。初めて即皇位(あまつひつぎしろしめ)す。号(なづけ)て元年(はじめのとし)と曰(い)う。皇妃、姫タタライスズ姫を尊(とうとび)て立てて皇后と為す。即ち、大三輪の神女なり。宇摩志麻治の命、先ず天瑞宝(あまのみつのたから)を献(たてまつ)る。叉神楯(かんたて)を堅(たて)て以って斎(ものいみ)します。五十櫛(いそくし)と謂う。叉は今木を布都主剣(ふつのぬしのつるぎ)に刺しめぐらし、大神を都内(みあらかのうち)に奉斎(いわいまつ)る。即ち、天璽瑞宝(あまのしるしみづのたから)を蔵(おさめ)て以って天皇(すめらみこと)の為に鎮(しず)め祭る」。

 これを仮に「神武天皇即位譚」と命名する。この下りは、天孫族がやむなく迂回して紀州熊野に上陸し、国津族の内部分裂を誘いながら大和に侵入し、ワケミケヌの命が即位してカムヤマトイワレ彦命となり大和王朝を創始した経緯を伝えている。神武天皇の即位日を「辛酉の年の春正月庚辰朔」とし、それが西暦の紀元前660年に当たることへの疑問については「皇紀2600年考」で述べたので繰り返さない。

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れんだいこのカンテラ時評№984  れんだいこ投稿日:2011年 8月23日
 【神武東征、神武の橿原宮即位譚その8】

 カムヤマトイワレ彦命の即位以降を神武天皇と呼ぶことにする。神武天皇は、畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築き、橿原宮に遷都した。この時、「掩八紘而爲宇」(「八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)と為す」)の「八紘一宇詔勅」を発令している。日本書紀巻第三、神武天皇の条(「橿原遷都の詔 皇宗 神武天皇」)は、次のように記している。

 「我、東(ひんがしのかた)を征(う)ちしより、ここに六年となりたり。頼(こうぶ)るに皇天(あまつかみ)の威を以ってして、兇徒(あだども)就殺(ころ)されぬ。辺(ほとり)の土(くに)未だ清(しづま)らず、余(のこ)りの妖(わざわ)い尚あれたりと雖(いえど)も、中洲之地(うちつくに)、復(また)風塵(さわぎ)無し。誠に宜しく皇都をひらき郭(ひろ)めて、大壮(おおとの、みあらか)を規(はか)り摸(つく)るべし。而(しか)るを今、運(よ)、この屯(わか)く蒙(くらき)に属(あ)いて、民(おおみたから)の心素朴(すなお)なり。巣に棲(す)み穴に住みて、習俗(しわざ)惟(これ)常となりたり。それ大人(ひじり)の制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随(したが)う。苟(いやしく)も民に利(さち)有らば、何ぞ聖(ひじり)の造(わざ)に妨(たが)わん。まさに山林をひらき払い、宮室(おおみや)を経営(おさめつく)りて、つつしみて宝位(たかみくら)に臨みて、もって元々(おおみたから)を鎮(しづ)むべし。

 上(かみ)は則(すなわ)ち乾霊(あまつかみ)の国を授けたまいし徳(みうつくしび)に答え、下(しも)は皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養いたまいし心を弘めん。然(しこう)して後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)をおおいて宇(いえ)にせんこと、亦(また)可(よ)からずや。観(み)れば、夫(か)の畝傍山(うねびやま)の東南(たつみのすみ)の橿原(かしはら)の地(ところ)は、蓋(けだ)し国のもなかの区(くしら)か。治(みやこつく)るべし」。

 八紘の由来は、淮南子(えなんじ)巻七 精神訓の「九州外有八澤 方千里 八澤之外 有八紘 亦方千里 蓋八索也 一六合而光宅者 并有天下而一家也」とされている。淮南子(えなんじ)とは、前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年―紀元前122年)が学者(劉安・蘇非・李尚・伍被ら)を集めて編纂させた思想書。日本へはかなり古い時代から入ったため、漢音の「わいなんし」ではなく、呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。「淮南鴻烈」(わいなんこうれつ)ともいう。10部21篇。道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、一般的には雑家の書に分類されている。

 「八紘」は「8つの方位」、「天地を結ぶ8本の綱」を意味する語であり、これが転じて「世界」を意味する。「一宇」は「一つ」の「家の屋根」を意味する。「八紘を掩(おほ)ひて宇とせん」とは、天下を一家の如く覆い、家族的な和気藹々(あいあい)の絆によって諸国を統合し世界平和を建設せんとする意味の指針である。日本は昔より、こういう造語が上手い民族である。恐らく「敷島の大和の国は言霊の助ける国ぞ真幸くありこそ」(万葉集・柿本人磨呂)とあるような言霊思想と関係している。

 これを仮に「八紘一宇詔勅発令譚」(略して「八紘一宇譚」)と命名する。「八紘一宇譚」は、出雲王朝の国譲りに続いて邪馬台国の国譲りにも成功した大和王朝が「八紘一宇」の建国国是とでも云うべき宣言として拝したい。

 それによれば、これまでのような戦争手法によってではなく、これからは諸国家和合により国土経営に勤しむと云う誓いのようなものだと悟らせていただく。これのどこまでが本音でどこからが建前なのかは分からぬが、日本建国時の申し合わせとして確認しておきたい。

 その後の日本史は、戦争政策と和合政策が縄をなうように混ざり合い、時に応じて好戦派と和合派が舵取りしつつ歴史を刻んできたと読みたい。その背後では常に天孫派と国津派、その内部でも各派が合従連衡しつつ暗闘してきたと読みたい。このようにして綾為してきたのが日本史だ拝したい。尤も、この特徴は黒船来航までの日本史までであり、黒船後は新たに西欧的ネオシズムと云う化け物が日本に吸着した。これとの調整は今後の課題であるように思われる。

 補足として次のことを確認しておく。日本書紀の「八紘爲宇」につき、明治から大正、昭和初期に活動した日蓮系国柱会の田中智学が「八紘一宇」に作り直して、これを日本民族の世界戦略の大目標とすべきであると提言した。この造語が風靡するようになり、戦前の1940(昭和15).7.26日、第2次近衛内閣が基本国策要綱を策定し、大東亜共栄圏建設を指針とした際に、「皇国の国是は八紘を一宇とする肇国の大精神に基き、世界平和の確立を招来することを以て根本とし、先づ皇国を核心とし、日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序を建設する」と掲げるに至った。

 続く大東亜戦争で、「天皇にまつろわぬものを平らげる」精神として「八紘一宇」が称揚された。当時の皇国史観は、「尽忠報国、挙国一致、神州不滅、鬼畜米英、勇戦力闘、無敵皇軍、一億玉砕、忠君愛国、滅私奉公、堅忍持久、忠勇無双、八紘一宇、天穣無窮」等々の四字熟語を多造していた。日本人の民族性にどこか波長が合うのだろうと思われる。

 締めとして一言しておけば、「八紘一宇」の本来の意味は、戦争から和合への政策転換として意味を持つ言霊であると云うことである。戦前の皇国史観は、これを戦争政策イデオロギーとして喧伝したが背教であろう。戦後は、その背教性を暴くのではなく、皇国史観用語故に一律に一掃してしまった。国旗としての日の丸、国歌としての君が代も同じ運命を辿っている。反戦平和思想としては特段には問題ないのかもしれないが、それ自体の学としては戴けないものがあると思う。

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(私論.私見)