出雲王朝史4、国譲りの神話考

 (最新見直し2011.7.20日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 2011.8.22日現在の政局は、民主党の代表選が次期首相選びに直結すると云うのにまことにお粗末な限りの、党内の半数でしかない菅派内の同系内限定出馬にして且つ乱立且つ「27日告示、29日投開票」と云う僅か三日間で決すると云う前代未聞のケッタイな代表選に向かいつつある。れんだいこは、その根源に現代政治家の揃いも揃っての日本の国体に関する無知蒙昧を感じる。こういう時の政治は面白くない。よって古代史に遊ぶことにする。

 いわゆる菅派、自公系政治家とは、何の恨みがあってか分からないが、日本を裏から操る国際金融資本帝国主義の、その手下であるジャパンハンドラ―ズの手先として、日本熔解、解体に嬉々として勤しむ宦官勢力である。この論証は別の機会に譲るが驚くほどの反日意識を屯(たむろ)させている。よしんば靖国神社を詣でるなどして愛国者ぶるにせよ、中曽根-小泉同様の偽装でしかない。この連中の売国奴的動きは病的で治癒し難しであろうが、日本人民大衆までその気にさせる訳にはいかない。日本人民大衆を踏み留まらせる為に、日本の国体論の一つを構成する日本神話上の粋たる国譲り譚を確認し、日本人のアイデンティティーを呼び戻す一助にしてみたい。国譲り譚は、北一輝さえ捉え損なった日本の真の国体論を垣間見る貴重な神話なので心耳を澄まして傾けよ。

 紀元1、2、3世紀頃のことと推定しているが、当時の倭国は出雲王朝が治めていた。出雲王朝こそ大和王朝に先立つ先行王朝であり、日本王朝史はこれより始まると位置づけ直すべきである。出雲王朝の最後は大国主の命の御代になる。大国主の命は、それまでの旧出雲王朝の東部王権とスサノウによって創始された新出雲王朝の西部王権を手に入れ統一出雲王朝を経営していた。かっての出雲王朝の圏域を更に拡大し、まさに大国主の命と云われるに値する大国を創出しつつあった。東西出雲を統一し、更に次第に倭国の統合に成功しつつあった絶頂期の大国主の命政治の先に待ち受けていたのが高天原王朝による出雲攻略であった。両者は、長い談判の末に国譲りで決着する。この経緯と決末のさせ方が日本政治史上の一大政変となっている。或る意味で、この時に日本政治の手打ちの型が創られ、はるけき今日まで続いていると読みたい。これを記す国譲り譚は日本神話の粋である。

 「高天原王朝の天孫軍是、出雲王朝の国津軍邪」とする皇国思想で塗り固められた戦前の皇国史観では、この国譲り譚も天孫側の聖戦として描いている。故に、皇国史観では出雲王朝は常に陰の国、黄泉の国として否定的に描かれることになる。れんだいこは、これに異議を唱え、出雲王朝側を是とする史観で国譲り譚を綴ってみたい。先に「検証学生運動上下巻」で日本左派運動を平衡的に分析して見たが、同じ手法で高天原王朝と出雲王朝のそれぞれの正義を描いてみたい。何度も書き換え、語り継ぐに値する神話をものしてみたい。どこまで能く為し得るか堪能あれ。

 戦後は、特殊なイデオロギーでしかない皇国史観の見直し、日本古代史の読み変えが必要であったところ、日本神話譚そのものを荒唐無稽として皇国史観と共に放擲してしまった。これにより、戦後の日本人民には日本古代史に対する軽侮による無知が生まれ、その結果、己の民族と国家の由来を知らない根なし草的コスモポリタンを粗製乱造してしまった。その果てにあるのが、2011.8.22日現在の政局であると見定めたい。日本古代史と現代史はかく繫がっている。今その非を認め、日本古代史上の最重要事変である国譲り史を具現させ、日本人必須の歴史知識としたい。これを挨拶とする。以下、検証する。「国譲り神楽」、千家尊祀著「出雲大社」その他を参照する。

 2006.12.3日、2011.8.22日再編集 れんだいこ拝


【アマテラスが「天壌無窮の神勅」発令譚】
 大国主の命の下に出雲王朝が連合国家を形成しつつあった時、所在がはっきりしないが高天原に住むと云うアマテラス王朝(以下、「高天原王朝」と云う)が立ち現われ、葦原の中つ国を支配する出雲王朝平定を指令する。これを仮に「国譲り譚その1」とする。
 アマテラスは、知恵の神オモイカネと謀り、天の安の河原に神々を集め、「葦原の中つ国は、国つ神どもが騒がしく対立している。中でも大国主率いる出雲が強大国である。豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、我が子孫が治めるべき地として相応しい。天壌無窮の地なり。出雲に使者を派遣せよ」と指令した。この時の宣言が、「天壌無窮の神勅」と云われるものである。日本書紀巻第二は次のように記している。
 「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は、これ我が子孫の王たるべき地なり。宜(よろ)しく皇孫をして統治に当たらせるべし。行牟(さきくませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さかえ)まさんことを。まさに天壌無と窮り無けむ(天壌無窮なるべし)」。
 (私論.私見)
 「高天原王朝アマテラスの天壌無窮の神勅発令譚」より「国譲り譚」が始まる。出雲王朝の支配地域が「葦原の中つ国」とされていることが注意を要する。

【高天原王朝の出雲王朝討伐失敗譚】
 高天原王朝は、アマテラスの息子のアメノオシホミミの命を使者として派遣する。これを仮に「国譲り譚その2」とする。次のように記されている。
 「アマテラスの息子のアメノオシホミミの命が「言向和平」(ことむけやわす)為に派遣され、大国主が治めている葦原中国へ向かおうと天の浮橋を渡った。しかし、それから先は抵抗が強く進むことができなかった。このままでは葦原の中つ国を平定することは叶わないと考えたアメノオシホミミの命は、再び高天原へ戻り、アマテラスに伝えた」。
 アメノオシホミミの命の漢字名は「正勝吾勝勝速日天忍穂耳命」(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)。

 「国譲り譚その2」によると、アメノオシホミミの命が天の浮橋を渡ったところ、「それから先は抵抗が強く進むことができなかった」為に引き返したことになる。これが第一次失敗である。出雲軍の強靭さが分かる。

 アメノオシホミミの命の失敗により、アメノオシホミミの命の弟のアメノオシホヒの命を第二陣の使者として派遣する。これを仮に「国譲り譚その3」とする。次のように記されている。
 「アマテラスとタカミムスヒの神は、天の安河に神々を集め談じ合った。その結果、アメノオシホミミの命の弟のアメノホヒの神が派遣されたが、大国主に靡いてしまい、3年たっても復命しなかった」。(神代妃下巻に「この神、大己貴神に倭媚(ねいび)して、年に及ぶまで、尚ほ報聞せず」とある)
 アメノホヒの神の漢字名は「天穂日命」、「天菩比神」。

 「国譲り譚その3」によると、アメノオシホヒの命が派遣され、今度は出雲に辿り着いたものの大国主の命に取り込まれてしまい、「3年たっても復命しなかった」即ち出雲王朝を成敗するのではなく寝返ったことになる。これが第二次失敗である。アメノオシホヒの命が寝返った理由として、出雲王朝の統治の質が高度且つ神人和楽的な理想社会であった為に感服したと思われる。

 アメノオシホヒの命の失敗により、アマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦を第三陣の使者として派遣する。 これを仮に「国譲り譚その4」とする。次のように記されている。
 「再び神々が集まって相談した結果、アマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦が派遣された。先に送り込まれたアメノホヒの神が失敗したのは、武器を持たずに出かけたせいかも知れないと考えた神々は、アメノマカコ弓とアメノハハ矢を援軍として同行させた。ところが、大国主は、ウツクシ二玉神の娘シタテル姫を介添えさせ、アメノワカ彦はシタテル姫の美しさにみとれ、これを妻として住まい始めた。こうして又も篭絡された。

 8年経過した頃、アマテラスとオモイカネの命は、キジの鳴女を送った。キジは、アメノワカ彦の屋敷の木の枝に止まり、なぜ8年も報告を怠っているのかとなじって鳴いた。アメノワカ彦は、アマノサグメの進言を受けて射かけたところ、鳥の胸を貫いて高天原まで飛んでいった。タカミムスヒの家の壁に刺さった。タカミムスヒが、『アメノワカ彦に邪心が無ければ当るな。高天原に背いているなら射殺せ』と念じて矢を放った。その矢がアメノワカ彦に当って死んでしまった」。
 アメノワカ彦の漢字名は「天若日子」、「天稚彦」。アメノマカコ弓の漢字名は「天之麻迦古弓」。アメノハハ矢。ウツクシ二玉神=顯國玉神。シタテル姫=下照比賣。

 「国譲り譚その4」によると、今度はアマツクニタマの神の子であるアメノワカ彦が派遣され、今度は武器を持たせたと云う。ところが、大国主の計略によりウツクシ二玉神の娘シタテル姫を介添えさせたところ、先のアメノオシホヒの命同様にアメノワカ彦も取り込まれたことになる。アメノオシホヒの命は「3年たっても復命しなかった」がアメノワカ彦は「8年たっても復命しなかった」。その為、高天原王朝の使者が秘かに派遣されアメノワカ彦に問い質したが、アメノワカ彦の親出雲王朝姿勢が変わらず、為に射殺されたとある。これが第三次失敗である。アメノワカ彦もアメノオシホヒの命同様に出雲王朝の統治の質の高さ且つ神人和楽的な理想社会ぶりに敬服し親出雲王朝派に転じたと思われる。
(私論.私見)
 先遣隊の第一使者としてのアメノオシホミミの命、第二陣としてのアメノオシホヒの命、第三陣としてのアメノワカ彦が派遣されたが、第一陣のアメノオシホミミの命は抵抗が強く出雲王朝まで辿り着けず、第二陣のアメノオシホヒの命、第三陣のアメノワカ彦は出雲に辿り着いたものの共に篭絡され、出雲王朝側に帰順する始末となった。 「高天原王朝の出雲王朝討伐失敗譚」は、天孫族の出雲王朝征伐が並大抵では進捗しなかったことを物語っている。

【高天原王朝の切り札としてのタケミカヅチの男の登場譚】
 高天原王朝は、第四陣としてタケミカヅチ軍を送る。これを仮に「国譲り譚その5」とする。
 「アマテラスは次に、天の安の河の川上に住む天の岩屋にいる剣の神であるイツノヲハバリ神に白羽の矢を立てた。イツノヲハバリ神は、息子のタケミカヅチの男を推薦し、フツヌシ神も同行させることになった。こうして、アマテラスは、アメノトリ船神をそえて、葦原中つ国へ遣わした。これが三度目の派遣となった。今度の軍使は篭絡されることを厳に戒め、降伏するかさもなくば戦争によって決着させるとの決意で向った」。
 イツノヲハバリ神=伊都乃尾羽張神。タケミカヅチの男=(古事記)建御雷之男神、(日本書紀)武甕槌。フツヌシ神=(日本書紀)経津主神、布都努志命。アメノトリ船神=天鳥船神。アシハラナカツクニ=葦原中国。
(私論.私見)
 「高天原王朝の切り札としてのタケミカヅチノ男の登場と出雲王朝討伐譚」は、高天原王朝の最後の切り札として軍神タケミカヅチノ男が派遣されることになったことを明らかにしている。

【大国主が、ヤマトの三輪山宮設営】
 日本書紀には、国譲り直前の次のような逸話を記している。これを仮に「国譲り譚その6」とする。
 「或る時、大国主の命が浜辺を逍遥している時、海に妖しい光りが照り輝き、忽然と浮かび上がる者が居た。大国主の命が名を問うと、『吾は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である』と云い、更に、『ヤマトの三輪山に住みたい』と云う。大国主の命は、云われるままに宮を建て、移し祀った」。
(私論.私見)
 これが後に、大物主の神登場の伏線となり、出雲王朝と大和の歴史的繋がりを伝えている事になる。三輪山宮は、現在も奈良県桜井市の三輪山を御神体として大神神社として祀られている。この逸話が何故に挿入されているのだろうか。思うに、出雲王朝側の援軍として大和の三輪山派が加担してきたことを暗示しているのではなかろうか。国譲り後の大国主の命の大和入りにも関係してくる興味深い記述となっている。

【イナサの浜での国譲り談判譚】
 高天原王朝のタケミカヅチは、出雲のイナサの小浜で大国主の命と国譲りの談判をする。これを仮に「国譲り譚その7」とする。
 「高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主の命は、出雲のイナサの小浜で談判することになった。 タケミカヅチとフツヌシの軍使は、アメノトリ船と共に降り立った。タケミカヅチは十握剣(とつかのつるぎ)を抜き放つと剣の切っ先を逆さまに突きたて、その剣の前に胡坐(あぐら)をかいた。こうして武威を示した。次のような問答が交わされた。
タケミカヅチ  「今より、アマテラス大御神、タカギの神の命を伝える。お前達が領有しているこの葦原の中つ国は、アマテラス大御神の御子が統治すべき国である。天神に奉ることを了解するかどうか返答せよ」。
大国主  「私達は、今まで農業を主として平和な共同体を築いてきた。ここで戦争をすると勝敗は別として元も子もなくなる。子供達が反対しなければ私は従う。私の一存では行かない。我が子が返答することになるでせう」。
タケミカヅチ  「子供たちの誰が権限を持っているのか」。
大国  「事代主とタケミナカタの二人です。事代主は文をタケミナカタは武を受け持っております。その二人の了承を取り付けてください」。

 大国主の命は即答を避け、判断を兄であり文人頭の事代主(コトシロ主)と弟であり軍人頭のタケミナカタに委ねた」。
 イナサ=伊奈佐、稲佐。十握剣=とつかのつるぎ。コトシロ主=言代主神。タケミナカタ=建御名方神。
(私論.私見)
 「高天原王朝代表タケミカヅチの男と出雲王朝代表の大国主がイナサの浜での直談判譚」は、高天原王朝と出雲王朝の談判の様子を明らかにしている。大国主の命は即答を避け、判断を文人頭事代主と軍人頭のタケミナカタに委ねた。

【出雲王朝の文人頭、事代主との談判譚】
 国譲りの判断を任された片方の文人頭の事代主は次のように対応した。古事記は次のように記している。これを仮に「国譲り譚その8」とする。
 「この時、事代主は、美保の崎にいた。アメノトリ船が向かい連れて来た。タケミカヅチが、大国主の命に対して述べたと同じ事を伝えると、『かしこまりました。この国は、アマテラス様の御子に奉りましょう』と云い残して、拍手を打って、船棚を踏んで自ら海へ身を投じた(「天の逆手を青柴垣(あおふしがき)に打ち成して隠りき」)。事代主は青い柴垣に変わり、その中に隠遁し出雲の行く末を見守る神となった。事代主は、後々に恵比寿様として七福神に入れられ奉られることになる」(「日本神道の発生史及び教理について」)。
(私論.私見)
 「出雲王朝の文人頭、事代主との談判譚」は、国津族の文人頭、事代主が苦衷の末「国譲り」に応じ、同時に王朝の安泰を願って我が身を引き換えに姿を消したことを明らかにしている。「青柴垣」は、古神道に於ける聖域を意味しており、護り神となったことを暗喩している。投身自殺し後々の信仰対象となったのか、政治の表舞台から隠遁し宗教的権威として生き延びたのかは不明である。
 事代主は、大国主の命と神屋楯姫神(かむやたてひめ)の間の子供と云われる。神屋楯比売神の出自は不詳であるが、旧事本紀には「坐辺都宮・高降姫神」と書かれている。兄の味鋤高彦根神(賀茂大神)の母が「坐胸形奥津宮神多紀理比賣命」と書かれているので、この伝によれば宗像系と云うことになる。大和平野の葛城山系の麓にある鴨津波(かもつは)神社の祭神となっており、鴨一族の代表であった可能性がある。この場合、鴨族が、遠祖を出雲王朝とするのか、大和葛城地方の土着豪族のどちらかということになろう。鴨族には高天原王朝系の系譜もあり非常にややこしい。

【出雲王朝の軍人頭、タケミナカタとの談判譚】
 文人頭の事代主が戦いを避けたのに対し、軍人頭のタケミナカタは応戦した。これを仮に「国譲り譚その9」とする。タケミナカタは、古事記では「建御名方神」、続日本後紀では「南方刀美神」、延喜式神名帳は「南方刀美」と記している。大国主が「越の国」の国造りの際に知り合った奴奈川姫(ヌナカワヒメ・越後地方の女神)の間にできた子供と云われる。 
 「タケミナカタは承知できないとして応じなかった。次のような問答が交わされた。
タケミナカタ  「人の国に勝手にやって来て、無理難題ぶつけている奴はお前か」。
タケミカヅチ  「そうだ。この国をもらい受けに来た」。
タケミナカタ  「そんな暴力が許されると思うのか」。
タケミカヅチ  「これはアマテラス様のご命令だ」。
タケミナカタ  「ならば一戦交えるのみである」。

 こうして談判は決裂し、戦闘することになった。神話では、二人の力比べが始まり相撲をとったことになっている。タケミナカタがタケミカヅチの手を握り投げようとしたところ、タケミカヅチの腕からサキがツララになり、冷たさと硬さと滑り易さでその力をうまく示すことができなかった。もう一度掴みなおすと、タケミカヅチの腕は一瞬にして鋭い刃の剣に変わった。次に、タケミカヅチが同じようにタケミナカタの手を握ると、易々と手を握りつぶした上に、そのままタケミナカタの巨体を投げ飛ばしてしまった。(この逸話は、当初は互角伯仲し勝負がつかなかったが、タケミナカタが次第に劣勢となったことを暗喩している。同時に、これが史上に出て来る相撲の起源とも云われる)

 力競べに負けたタケミナカタの軍勢は、追いかけてくる高天原王朝勢と戦いながら出雲から能登へ、そして科野(しなの、信濃)の国の洲羽海(すわの海、諏訪湖)まで逃げた。この時、現地の豪族の洩矢の神(もれやの神)が抵抗し、敗れて降伏したとの伝承がある。引き入れる派と反対する派が居たということであろう。

 これをタケミカヅチが追撃し、両者は再々度対峙した。しかし、決着がつかず、長期戦化模様を危惧したタケミカヅチと形勢不利を認めたタケミナカタは、手打ちすることになった。1・タケミナカタがこの地から出ず蟄居するならこれ以上戦闘しない。2・アマテラスの御子が葦原中国を支配することを認めよ。双方これを受け入れ和議がなった。以降、タケミナカタはヤサカトメの命(八坂刀売命)を妻に娶り、諏訪大社の主祭神に納まった」。タケミナカタのその後は「諏訪大社考」で考察する。
 シナノの国=科野国、信濃国(現在の長野県と比定されている)。ヤサカトメの命=八坂刀売命。
(私論.私見)
 「出雲王朝の軍人頭タケミナカタとの談判譚」は、出雲王朝の軍人頭タケミナカタが「国譲り」に応ぜず、各地で戦闘を続け諏訪国に逃げ、決着つかず高天原王朝のタケミカヅチ優勢のままで両者が手打ちしたことを明らかにしている。ちなみに、この神話により諏訪大社も出雲大社系譜であることが分かる。但し、諏訪大社は諏訪湖を中心に神域が40ヘクタールにも及ぶ。多数の神社で構成されており、、その中核は諏訪湖南岸の上社と下社、北岸の下社に分かれている。更に上社は本宮と前宮、下社は春宮と秋宮に分かれていて、本宮と前宮、春宮と秋宮の間はそれぞれ1kmほど離れている。各々の御祭神は、本宮が建御名方神、前宮が八坂刀売神、下社はどちらも両神を祀る。これはタケミナカタ派が逃げ込んできたことと関係しているものと思われる。タケミナカタ派の逃亡ルーツも興味深い。出雲から能登へ行ったと云うことは能登に支持基盤があったことを意味しよう。同様に信濃の諏訪に向かったことも然りで、出雲王朝時代の連合国家の一つだったと思われる。タケミナカタ派は事代主派と違う生き方で生き延びたことが分かり興味深い。

 ちなみに、タケミナカタが逃げ込んできた時、力比べをして負けた洩矢の神(もれやの神)は下社近くの御射山(みさやま、現在は霧ヶ峰という)を御神体としている。古くからの在地豪族の一系譜の筋と思われる。

【高天原王朝と出雲王朝の国譲り最後の談判譚】
 タケミカヅチはこうして事代主とタケミナカタの双方を平定し、大国主の命との最後の談判が行われた。これを仮に「国譲り譚その10」とする。
 「タケミカヅチはこうして事代主とタケミナカタの双方を平定した。遂に、タケミカヅチと大国主の命の最後の談判が行われることになった。次のような問答が交わされた。
タケミカヅチ  「お前が申し出た二人の子は、アマテラス様の御子の命令に従うと申した。改めて問う、お前はどうなんだ」。
大国主  「子供が従うことになった以上私も、葦原中国を献上しアマテラスの支配に任せよう。ただ、私どもが創始した母里の国を献上する代わりに、私の住む地を神領地として与えて下さり、そこに宮殿を建て、私どもが神々を祀る祭祀権は認めていただきたい。それさえ保障されるなら私は顕露事の政治から身を引き、幽事のみ治め幽界(黄泉の国)に隠居することを約束する」。
タケミカヅチ  「願いを聞き届けよう」。
大国主  「もう一つ。我が王朝の有能な子供たちを登用してください。彼らが先頭にたってお仕えすれば皆が倣い背く神など出ますまい。あなた方の政権が安定することになるでせう」。
タケミカヅチ  「承った」。

 大国主は、出雲の祭祀を司る広矛を差し出した。タケミカヅチは、高ミムスビの神に大国主の命の国譲り条件の申し出を伝えた。高ミムスビの神は、「勅」(みことのり)を発し、「今、汝が申すことを聞くに、深くその理有り」と了承した。これにより、1・汝は政治から手を引き、神事のみを司る。2・汝が住む天日隈宮の造営を認める。但し、アメノホヒの命が祭祀を司る。3・汝は国つ神と婚交せず、我が娘ミホツ姫を妻とせよ、という条件を出した。玉虫色のまま双方が条件を飲み、こうして、出雲王朝から高天原王朝へ政治支配が移った」。 

 大国主の命のその後は「出雲大社考」で考察する。
(私論.私見)
 「高天原王朝と出雲王朝の国譲り最後の談判譚」は、出雲王朝が、高天原王朝の軍門に屈したことを明らかにしている。

 ところで、古事記と出雲国風土記の記述は、国譲りの描き方が食い違いっている。古事記は、大国主神が、「葦原中国はすべて献上する。ただ、我が住所すみかを壮大に造ってくれれば、根の国に隠れよう」と述べたとある。風土記は、大穴持大神(大国主)は、「我が造り治めた国は奉る。ただ、八雲立つ出雲の国は我が静まります国であり、青垣山を廻らし、玉を置いて守る」と述べたとある。つまり、王朝は譲るが、代わりに祭祀権を保障せよ、と主張していることになる。 大国主の完全屈服かどうかが問われていることになる。実際には、大国主の言い分が辛うじて通り本領安堵され、出雲王朝の命脈が保たれ、それが為その後も「眼には見えぬ幽り世の世界から、その霊威をあらわす」ことで隠然とした影響力を持ち続けていくことになったと思われる。

 いずれにせよ、国譲りは、理不尽なものであった。この理不尽さがその後の高天原王朝、そこから出自する大和王朝の御世に付き纏っていくことになる。ここが日本歴史の裏面史であり、ここを理解しないと何も見えなくなる。

 ところで、古代史上最大の政変「高天原王朝と出雲王朝の国譲り」は、他国のそれと比べて明らかに著しい違いが認められる。それは、決戦的絶滅戦争型ではないということである。武闘と和議の二面作戦で最終的に手打ち和議し、勝者が敗者を攻め滅ぼさないという特徴が認められる。この和合融和方式が日本政治史の原型となり、その後の日本政治史の至るところに影響していくことになる。聖徳太子の「和の政治」もこれに当ると思われる。今もその影響を受けていると云うべきだろう。恐らく、それは今やDNAになっており、これを放擲して決戦的絶滅戦争型に転換するには及ばないであろう。むしろ、尊重していくことの方が望まれている、日本人の体質に合っていると窺うべきではなかろうか。

 この「硬軟両様、手打ち、和合融和」と云う日本政治の質は「現代に至る迄底流となって流れ続けており、国民性ともなる重大問題であり、日本の今後の歴史には、いろいろな面で多く現われてくることであろう」。

 2006.12.15日 れんだいこ拝

 「古代文明の世界へようこそ」の「出雲の国譲りとは 出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ」を転載しておく。
 出雲の神々は敵役

 出雲神話は『古事記』の神代記の3分の1を占めています。『古事記』に描かれる日本神話は、大きく高天原系と出雲系、それに海神系の話に分けられますが、それぞれが系譜でつながって一つのパンテオン(神界)を形成しています。なかでも、天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものの、両者を比べると、その性格はかなり違っています。

 出雲の神々というは、始祖のスサノオと国土開発の英雄オオクニヌシを主人公にしていますが、最後には天孫族に屈伏し、国の支配権を譲るのです。しかも、出雲の神々はどちらかというと、天孫族の敵役といった印象です。『日本書紀』では、その性格はもっと強調されており、スサノオにいたっては、高天原をかき乱すただの乱暴物といったところ。また、オオクニヌシの説話なども『日本書紀』ではほとんどカットされています。国譲りの場面などもわりとスムーズで、いかにも朝廷側の思惑を反映したものになっています。これは記紀に特徴的な「天つ神対国つ神」、「天的な概念対土着的な概念」という対立構造からいえば、当然のことです。「天」というイメージを打ち出して、自分たちの優位性を主張したい記紀の編者たちにとっては、出雲や海神系の神々は無視することはできないけれども、どこか厄介者という扱いです。しかし、何といっても忘れていけないのは、出雲族の祖とされるスサノオが出雲に天降ったのは、天孫族の祖ニニギが九州に天降るよりも前であったこと、そして、出雲族が国を造ったあと、天孫族はその国を譲り受けていることです。


 八俣の大蛇伝説

 そもそもこうした神話の記述をどこまで信用するかという根本的な問題があるのですが、出雲神話には、象徴的な面白い説話が幾つもあります。そのひとつが八俣(やまた)の大蛇(おろち)伝説です。記紀では、スサノオが乱暴狼藉を働いたために高天原を追放され、出雲に天降るところから物語が始まります。出雲の斐伊川のほとりに天降ったスサノオは、川を箸が流れてきたのを見て、櫛名田比売(くしなだひめ・奇稲田姫)を知り、彼女を助けるために八俣の大蛇を退治します。稲田姫を櫛に変えて自分の髪にさし、八俣の大蛇を濃い酒で酔わせ、剣でずたずたに斬り殺します。オロチの腹はいつも血がにじんで爛(ただ)れていたというのですが、殺されたときには大量の血が噴き出し、斐伊川は真っ赤な血となって流れたということです。そのときオロチの体から取り出されたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。

 この説話のなかに、すでに箸と櫛という百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の三輪山伝説のモチーフが登場しているのが面白いですね。魏志倭人伝によると、当時の倭国ではまだ箸を使わず、人々は手で食べていたということです。箸は文化的で珍しい一種の文化的シンボルで、神話の物語のなかにも、それらが象徴的に使われているようです。また、稲田姫という名がしめすように、出雲では稲作が早くから行われていたことも暗示しています。オロチの体からすばらしい剣が発見された話は、斐伊川の上流一帯が古くから砂鉄の産地として知られ、この地域で鉄剣が造られていたことを示唆するといわれています。オロチの腹がいつも赤く爛れており、その血によって斐伊川が真っ赤に染まって流れたというのも、鉄分を多く含んだ赤い水が流れていたことを思わせるというのです。

 考古学的には、まだ出雲から弥生時代にさかのぼる鉄の鍛造所は発見されていませんが、早くから鉄の生産が行われていた可能性はあると思います。でも、興味深いのは、巨大なオロチをスサノオが斬り殺しているというストーリーそのものです。蛇は呪術のシンボルです。八俣の大蛇はその代表ともいえる呪術の権化です。それを殺したスサノオは、偉大な呪術王として新たにこの国に君臨することを認められた存在ということができるでしょう。出雲族の始祖スサノオは、まず葦原中つ国(日本)にやってきて、呪術をコントロールできる存在として自分をアピールしたわけです。

 
大きな土地の貴人

 スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、稲田姫と幸福な結婚生活を送りますが、やがて根の国(冥界)にくだってしまう。その後、出雲神話の中心人物となるのは、オオクニヌシです。オオクニヌシは、スサノオの息子とも、数代あとの子孫ともされていますが、最初はオオナムチ(大己貴神)という名をもっています。このオオナムチという名は、本来、「オホナムチ」であったといわれ、「オホ」は大、「ナ」は土地、「ムチ」は貴人、すなわち「大きな土地の貴人」だといわれています。表記の上では、「大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)」、「大穴持神(おおなもちのかみ)」と記されることもあります。 オオナムチ(オオクニヌシ)には、ほかにもじつに多くの名前があって、ざっとあげてみると、「葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)」、「八千矛神(やちほこのかみ)」、「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」などがあります。神話のなかで物語が展開するたびに、呼び名が変わっていくのです。また、『出雲国風土記』によると、オオナムチは広く国造りを行ったので、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」とも呼ばれています。また『日本書紀』によると、「大物主神(おおものぬしのかみ)とも、国作大己貴命(くにつくりおおあなむちのみこと)ともいう」とあります。

 さて、英雄オオクニヌシは最初、兄弟の神々からひどい試練を受けています。赤い猪に似せた真っ赤に焼けた大きな岩が、山の上から転がり落ちるのを受けとめさせられたり、切った大木の間に挟まれて打たれたりする。実際、そこで2度ともオオクニヌシは死んでしまうのですが、母神の力によって再生しています。また、根の国にスサノオを訪ねていくと、そこでも蛇やムカデのいる部屋に入れられるなど、さんざんな目に遇っています。野原で火に取り囲まれたりもします。しかし、スサノオのもとを脱出するとき、スサノウの宝である太刀、大弓、琴を盗みだし、「大国主神」という名前を授かります。この名は国土を開き、国造りをする許可を得たことを意味しています。そして、少名彦神(すくなひこなのかみ)とともに国造りを始めるわけです。

 
古代出雲文化圏の範囲

 オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。

 ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。また、『日本書紀』の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。

 『出雲国風土記』には有名な国引きの説話があります。出雲は細い布のように狭い土地なので、新羅、高志の国(北陸)、隠岐など四つの地方のあまった土地を引いてきたというのです。大山と三瓶山を杭にして縄で引っぱったという。これはおそらく山陰から北陸にいたる地域、そして、朝鮮半島の新羅にもつながる出雲族の活動範囲を示していると考えられます。 また、天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子のひとりは、長野の諏訪まで逃げている。これは出雲族がすでに東日本にも深く及んでいたことを示しています。

 出雲大社神楽殿の巨大な注連縄

 一方、出雲系の神社の分布についてみると、『延喜式』(927年)の神名帖に記されたものだけでも、出雲の名を冠する神社は丹波、山城、大和、信濃、武蔵、周防、伊予に及んでいます。大国主命を祀る神社も、能登、大和、播磨、筑前、大隅にあるということです(「出雲神社祭の成立」『古代出雲文化展』図録)。これはもちろん、中世に多くの神社が勧請を行い全国展開をみせる前のことで、このように広い分布はまったく異例だということです。つまり、出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいる。大和に多いのも大変重要です。 こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシ、すなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになります。

 これを古代の日本列島の状況に照らして考えてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる最初の動きだったのではないか、ということができます。それが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていったようなイメージが見えてくる。おそらく、縄文文化ともつながる呪術を基盤にした共通の宗教文化圏のようなものが列島には出来あがっていったのではないでしょうか。いわば、出雲文化圏とでもいうべきものです。

 武力で奪った国土

 出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ))が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。 オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけです。

 ところが、『日本書紀』の第二の一書は、国譲りに関して独特の話を載せています。オオナムチ(オオクニヌシ)のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけます。すると、高天原の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、オオナムチのことばをもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示すのです。 その一番の条件は、オオナムチは以後冥界を治めるというものです。さらに、オオナムチの宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えます。オオナムチはその条件に満足し、根の国に下ってしまうのです。

 出雲国か、葦原中つ国か

 こうした出雲の国譲りは、ふつう、出雲国だけの話と考えられていました。朝廷に従わなかった出雲国がやっと大和朝廷に引き渡されたというわけです。これによって、大和朝廷の葦原中国の平定は完了することになります。これまでは、このような図式で理解されることが多かったようです。ところが、『出雲国風土記』はまったく別のニュアンスを伝えています。国譲りにさいして、オオクニヌシ(『出雲国風土記』では大穴持命(おおなもちのみこと))は、次のようにいうのです。「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」。つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのです。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけです。

 このように『出雲国風土記』では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。しかも、この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示している、と考えることもできます。出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと、倭国の支配権が移動した事実を伝えているのではないか。大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で簒奪している。そう考えられるのです。神武東征伝説や、出雲の国譲り神話が語っているのは、このような古代日本の隠された構造ではないかと私は思います。(2005年6月)





(私論.私見)