士族の反乱考

 (最新見直し2013.4.5日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「明治6年の政変」で西郷派が破れ下野した後、士族の反乱と云われる抵抗運動が勃発することになる。通説は、士族の身分を取り上げられたことに対して不平分子が我が身本位で決起したかのように解説している。しかし、征韓論論争でも確認しようにネオシオニズムの歴史歪曲であり、真実は裏切られた革命に対する永続革命派の最後の抵抗であったと捉えるべきであろう。以下確認するように、この流れは、反乱と自由民権運動の二つの流れを生み出す。前者は急進派の後者は穏健派の運動であり、前者は悉く鎮圧され、後者は次第に懐柔されていくことになる。その様を検証していくことにする。

 グーグル検索で出てきた「ウィキペディア征韓論」、「明治六年政変」、西郷の遣韓論」、「征韓論と西南戦争」、「西南戦争概説」等を参照した。「れんだいこの明治維新考」の「明治維新の史的過程考(1)(明治維新から西南の役まで)」のうち「士族の反乱」に関係する件を検証することにする。

 2008.2.2日 れんだいこ拝



れんだいこのカンテラ時評bP128 投稿者:れんだいこ 投稿日:2013年 4月 5日

 「征韓論争、その後の士族の反乱」の歴史詐欺記述にもの申す

 「れんだいこのカンテラ時評bP127、5.15事件と2.26事件の相似と差異考その2」の2.26事件の再考により、皇道派青年将校が実は国際ユダヤの姦計により決起するべく扇動されたこと。事件後速やかに処断され、来る日米戦争遂行上、日本軍の戦闘能力を大きく殺がれたことを確認した。5.15事件が国際ユダヤ系軍部の蛮行であり、2.26事件がその真逆に位置しているものとして考察されねばならないことを指摘した。更に興味深いことは昭和天皇が見せた対応である。5.15事件に対しては温情的であり2.26事件に対しては厳罰を指示しているように窺える。これは偶然ではなく、昭和天皇と国際ユダヤとの妙な阿吽の呼吸を見て取ることができる。もとへ。こうなると同じような臭いのする1873(明治6)年の「明治6年政変、士族の反乱」の真相を確認しておきたくなった。

 「明治6年政変、士族の反乱」とは、通俗史書では征韓論争に端を発するとしている。端を発すると云う意味では問題はないが征韓論争と云う表記は正確ではない。この論争の主人公である西郷隆盛の論は正確には征韓論に対する和韓論又は議韓論とも云うべきものであり、史家はこの辺りを踏まえて征韓和韓論争と命名するべきところではなかろうか。征韓論と命名すると西郷の和韓論が隠れてしまい、あたかも西郷が征韓論を唱え、反西郷派が征韓論に異を唱えたかのように受け止められてしまう。これは歴史の詐欺記述ではなかろうか。

 これを確認するのに、かの時の西郷の弁は次のようなものである。「征韓論の真実考」に記す。
 (http://www.marino.ne.jp/~rendaico/rekishi/meijiishico/saigoco/seikanronronsoco.htm

 これを読めば確認できるように、西郷は、「日・朝・清の三国連合により欧米列強の力に対抗せん」として、これを説得する為に単身乗り込もうとしていた。この「日・朝・清の三国連合によるアジア同盟論」こそ幕末維新派の外交テーゼであった。これを仮に「西郷式アジア同盟論」と命名することにする。

 明治維新は、この「西郷式アジア同盟論」を却下し東アジアの盟主化へと向かうことになる。いわゆる日本帝国主義化である。これが自力の定向進化であったのか国際ユダヤの陰謀によるものであったか問わねばならないが本稿では割愛する。結末が大東亜戦争へと向かい日本民族瀕死の重傷を負ったのは史実の示すところである。もとへ。この流れと並走しつつ「西郷式アジア同盟論」は地下に潜りながら密かに継承されて行くことになる。2013年現在の今もこの対立が暗闘的に続いていると見て差し支えない。

 結局のところ、西郷は維新政府を見限り野に下る。この時、板垣が薩摩−土佐の軍事同盟を打診している。西郷は、「薩摩と土佐が組めば政府は明日にもひっくりかえるが、そんな事をすればイギリスやロシアを喜ばせるだけだ」として拒否している。ここでも、西郷の見据えていた外交戦略が確認できる。思えば、この眼力あればこそ幕末の内戦が回避され、江戸城無血開城へと至っていることになろう。西郷が西郷どんとして敬愛されるのは、西郷のこの眼力とその実践に負っているのではなかろうか。

 これが、かの時の歴史の真相である。これを思えば、「征韓論争で、西郷が征韓論を唱え、岩倉―大久保―伊藤連合派がこれに反対した」などと云う受け取りようはナンセンス極まりないことになる。西郷派は後に「士族の反乱」を起こすが、通俗歴史書はここでも歴史詐欺記述をしている。それらは、維新政府の士族解体、棒碌召し上げに異を唱えた「我がまま士族の反乱」などと描くのを通例としている。それは余りにも児戯的過ぎよう。正しくは、幕末維新以来の「革命の夢」が悉く裏切られ、国際ユダヤの姦計に嵌められつつある明治維新政府権力に対する幕末維新派の最後にして最大の抵抗として記述されるべきだろう。この観点を据えることによってのみ各地の「士族の反乱」の意義と無残な鎮圧のサマが見えてくる。

 れんだいこは、このところ「学んで為になる学問と却ってアホウになる学問の識別考」をものしている。本稿で取り上げた西郷の和韓論を征韓論で記述する史観、「士族の反乱」を武士の俸碌召し上げに対する抵抗などと記述する史観も学んでアホウにされる類のものである。手を替え品を替えて記述されるそれらのものを何万冊読もうとも、読めば読むほど目が曇らされることになる。5.15事件と2.26事件を共に軍部青年将校の反乱として同一視点から記述する史観も然り。近いところでは田中角栄を諸悪の元凶、小沢一郎を政界の騒動士的に描く論評も然りである。

 そういう愚説を唱える者ばかりが登用され「知の巨人」などと持て囃されつつプロパガンダされるので、それを鵜呑みにして正義ぶる愚頓士が後を絶たない。本日現在、石原慎太郎が「経済を蘇生させるには防衛産業が一番いい」などと述べ最後の狂説をぶっているようである。そして彼らが持ちあげられる。我々はそうした歴史の愚昧士、これに提灯する詐術師と闘うべきである。愚頓士は、れんだいこ史学の煎じ薬を飲むべきだろう。


 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/jinsei/

1873(明治6)年の動き

西郷が腹臣の桐野と共に鹿児島へ帰郷する
 

【太政官布告で梓、市子等の禁止を発令、キリスト教解禁】
 明治政府は、前年の「三条の教憲」を引き継ぎ、「梓、市子等の禁止」を発令した。古事記、日本書紀的神道教育を押し進める立場から、それに基づかない諸宗、俗信を規制した。

「岩倉洋行団」の安政不平等条約の改正交渉は一蹴され、逆に、キリシタン解禁を強硬に要求された。新政府はこれを容れて、キリスト教を解禁した。

 これにより諸藩に預けられていた長崎の大浦の天主教徒は4月から8月にかけて帰村した。村を出たときは3380名であったが、死んだ者562名、落伍者1022名、逃げた者、監禁の地にとどまった藻の置く、帰村者は1930名であった。

【地租改正令が布告される】
 7月、陸奥宗光の提唱から始まる地租改正令が太政官布告された。租税はそれまで米の物納で為されてきていたが、これを金納にするため、まず1筆毎に地価をきめ、所有者は地価の100分の3(3%)を税として金納させることとし、実施にとりかかった。これを地租改正という。

地租改正を契機に寄生地主が全国的に成立することになった。寄生地主的土地所有を広汎に創出し、日本型原始的蓄積を推進した。地租改正により地主層が広汎に形成され、その地主層と資本関係が結合することにより、政府による殖産興業政策の基盤をつくっていくことになった。貿易を通じて打撃を蒙りつつあった農民の小ブルジョア的発展に対して、高率地租の重圧を改めて課すことを通じて、下からの資本主義化コースの可能性を奪い去り、権力と地主が収奪した農民的余剰を小作農民経営から析出される賃労働者と結合せしめる形での資本関係創出の前提条件を作り出した。

【地租改正反対運動】
 この金納制は、「旧来の歳入を減ぜざること」を主眼としており、加えて前年の米価を基準にした割当制にしていたため、米価が下がることにより農民の負担が増すことになった。そういう事情が重なり、地租改正の反対運動が全国的に巻き起こることになる。 結局、3分税率を2.5分に引き下げることに成功した。「竹槍で、どんと突き出す二分五厘」。地租改正の反対運動は、全国的な政治闘争を目覚めさせ、やがて国会開設を求めた自由民権運動へと発展していく。 そして明治22年に明治憲法が発布され、国会も開設され、日本の「近代化」の方向が確定する。

1874(明治7)年の動き

【岩倉具視暗殺未遂事件発生】
 西郷派が一斉に帰郷した後、次第に不穏な空気が醸成されていった。

 1.14日、右大臣・岩倉具視が、赤坂の喰違坂(くいちがいざか)辺りで襲撃され、士族に襲われ、負傷する事件が起こる。事件重視した司法省は、旧土佐藩士にして元陸軍大尉、板垣退助の腹心の武市熊吉ら8名を逮捕し、全員死刑による斬罪処分された。

【台湾出兵】
 これより先の1871年、台湾に漂流した琉球宮古島の漁民66名のうち54名が台湾原住民に殺害されるという事件が発生していた。1873年には備中国小田県(現在の岡山県)民4名が同様の被害をうけた。日本政府は台湾を領有する清国政府に善処をもとめたが、清国側は原住民が「(中華文明に浴さない)化外の民、化外の地」であるとして応じなかった。

 2月、日本政府は、台湾への派兵を決め、4月、陸軍中将・西郷従道を台湾蕃地事務都督に任命した。この征討に木戸が反対して参議を辞任した。

 5.22、西郷以下3千名の日本軍が台湾に上陸し、6.3日までに原住民地区をほぼ制圧した。しかし、風土病に悩まされ、戦死者12名に対して病死者561名に及んだ。

 全権弁理大臣・大久保利通が北京にわたって交渉し、清国政府に琉球が日本であることを認めさせ、遭難漁民への見舞金など50万両(テール)を得て撤兵した。この結果、それまで日清間の紛議となっていた琉球の日本帰属が国際的に確定した。

【政府が、士族の反乱を見越して国際金融資本から最新鋭武器を大量買付け】
 維新政府を初期の頃サポートしていたのは、薩摩・長州 ・土佐・佐賀の4藩の士族たちであったが、新政府の中で薩摩出身の大久保利通の力が強くなると士族たちの中には政府の方針に反発する者が多くなっていった。政府は、予見し得る士族叛乱に対抗すべく諸外国から最新鋭の武器の大量買い付けを命じている。

【佐賀の乱】
  佐賀が不穏な空気に包まれていることを憂慮した佐賀出身の参議・江藤新平は大久保利通と韓国出兵を巡って対立したのを期に参議を辞して、佐賀の士族たちをおとなしくさせるため帰郷する。

 2.1日、その江藤が長崎に行っている間に過激派の一部が政商の小野組の支店を襲撃、乱が勃発する。この時、佐賀の乱のもう一人の指導者ということにされている島義勇も東京にいた。江藤も島も急遽佐賀に入るが、結果的には抑えるどころか首領に祭り上げられてしまう。そして他の藩の士族達が呼応して蜂起してくれることを期待するが西郷は立たなかった。

 2.4日、江藤新平らが佐賀の乱を起こす。反乱軍は、佐賀県庁を襲撃し、佐賀城を占領した。反乱軍と政府軍との間に激しい攻防戦が繰り広げられたが、結局、反乱軍は近代兵器を装備した熊本鎮台の政府軍に簡単に平定されてしまう。

 3.1日、佐賀の乱で敗れた江藤は鹿児島に落ち延び、鰻温泉で西郷と会い決起を促す。しかし西郷は動かなかった。翌日、指宿まで見送った。江藤は厳重な警戒線を潜り抜け土佐に向かい、林有造と会い決起を催促する。しかし林も頷かなかった。江藤、島義勇は県境の甲浦漁港で捕捉され斬首された。そのほか反乱軍の幹部11名が斬罪になった。

 佐賀の乱を鎮圧した内務卿大久保(1830〜1878)の政府内での専制はますますひどくなり、木戸も批判する。

【政治結社の創設相継ぐ】
 この頃、土佐の立志社、阿波の自助会、松江の尚志会、熊本の相愛社、名古屋の羈立社、伊予の公共社、久留米の共勉社、福岡の共愛会、三河の交親社、常陸の潮来社等々全国各地に地方的な政治団体が結成されていった。

 パリ・コミューン直後、小室信夫と古沢滋(うるふ)がイギリスから帰朝し、下野していた板垣、後藤を口説き、土佐立志社を中心に日本で最初の政治結社とされる愛国公党が創設されている。板垣は、地方的な政治団体を連合させる全国的政党の結成を目指していくことになる。

 当時の日本の政治結社には、立志社・愛国社・国会期成同盟会など「社」や「会」が多い。加藤哲郎(一橋大学・政治学)教授は、「『共産党宣言』の現代的意味――資本主義分析と政治綱領のはざまで」の中で次のように述べている。
 最近みつかった故丸山真男の講演記録のなかに、こんな一節がある。「『愛国』というのは明治の維新以後、発明された言葉です。西村茂樹という明治の初期の思想家が居ます。『日本道徳論』なんかを書いて、どっちかというと保守的な思想家でありますが、この人がハッキリ『愛国とはパトリオティスムの訳なり』と言ってるんですね。つまり、愛国という言葉は――パトリオティスムもそうですけども――、これはフランス革命以後できた考え方。……したがって、自由民権運動のごく初期の政党は『愛国公党』と言ったんです。なぜ『公』と言うかというと『党』というのは悪い意味だったんですよ。『ともがら』と言って、余り良い意味がなかった。そこで『党を結んで悪いことをする』と派閥の意味で使われた。そこで『そうじゃないんだ、公の党なんだ』というんで『公党』と言った。その上に『愛国』とくっつけた」(丸山真男講演記録「日本の思想と文化の諸問題」(上)、1981年秋田県本荘市、『丸山真男手帖』2、1997・7、pp.11-12)。

【「民選議院設立建白書」が政府に提出される】
 征韓論で下野した板垣退助・後藤象二郎らの愛国公党に江藤新平・ L副島種臣(そえじまたねおみ)らを加えて、「民選議院設立建白書」を世に提起しつつ政府に提出して活動を始めた。「民選議員構想」というのは、憲法を制定し、議会を開き、国民に政治参加の場を与えるといったものであった。次のように記されている。
 「臣ら伏して方今政権の帰するところを察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、而して独り有司に帰す。それ有司、上帝室を尊ぶと云わざるにあらず。而して帝室漸くその尊栄を失う。下人民を保つと云わざるにあらず。而して政令百端朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎にでづ云々」。
 「すなわち、これを振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張るにあり。天下の公議を張る葉、民撰議院を建てつるにあるのみ」。
(私論.私見)
 痛烈な「有司専制」批判による我が国最初の「民選議院設立建白」であった。もっとも、この時の民選議院は選挙洗礼を受けた議員による国会開設の要望であったが、今日的な普通選挙を求めていた訳ではない。選ばれる議員は「維新に手柄のあった士族豪商に限り、天皇政治をたすける者」という「士族民権論」であった。これを評するに、「征韓論に敗れていっしょに参議を辞めた西郷もまた、士族独裁論者であったことと同様だったのである」とする論があるが、時代的制約という枠内での政治的意義を見て取ることが正解であろう。
 
 この構想自体は政府内でも必要が自覚されていた。先の海外視察を通じて、憲法と議会は文明国としての必要条件として捉えていたからである。しかし、政府内には問題が山積みだった。版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、そして征韓論などなど。これらの対応に追われ、国会開設の構想を具体化する余裕が無かった。 大久保は、将来はともかく、今は、官制改革(まぁ、官僚による政治改革ですな)によっての内政整備が急務と考えた。板垣は、将来の日本の姿であるべき「立憲国家」のイメージを先手をうって天下に示した。問題解決の促進と、政治的主導権の奪回をめざす戦略でもあった。

 政府は、この板垣の「自由民権運動」に対し、民間による政治議論の弾圧姿勢を打ち出す。が、このような弾圧は、よりいっそう板垣の自由民権運動を促進することとなった。1874年、板垣は土佐に戻って、言論による反政府活動の拠点としての「土佐立志社」を創設する。

 1873年、米国から帰国した森有礼が中心となって設立した明六社は、機関誌の明六雑誌を発行して、民撰議院設立建白運動を積極的に支持した。

【各地で民権派の演説会が開かれる】
 自由民権運動は単なる政治運動としてばかりでなく、、農民の地租反対や借金返済延期を要請する各地の借金党・困民党などと一部は結び着き、広範な支持を得た。また、都市部の民権派ジャーナリストなども各地の演説会に招かれ、民権の啓蒙につとめている。その結果、各地に勉強会や懇談会が結成され、ついで民間による憲法想起が試みられ、全国で三十数件確認されるという。「広ク会議ヲオコシ、万機公論ニ決スベシ」という「五箇条ノ御誓文」を地でいったことになる。それは国会開設ばかりでなく、民衆による憲法構想、つまりは国家構想であった。

1875(明治8)年の動き

【木戸孝允が下野】
 木戸孝允が、台湾出兵を決めた大久保の政治手法に不満を抱いて下野している。

【「民選議院設立建白書」を廻る綱引き始まる】
 1月、井上馨の周旋で、政府首脳(大久保、井上馨、伊藤ら)と各結社の代表委員が大阪に集まり議論した(「大阪会議」)。西郷は招かれたが欠席した。席上、政府側は時期尚早論を唱え、板垣は、直ちに国会を開くよう主張した。木戸は立憲制導入を条件に参議に復活。 基本的に賛成するが、順序として地方官会議を開き、漸次国会を開くべしという漸進論を説いた。木戸案が一種の妥協案として採用されていく。板垣は、この会議で参議に戻る(10月に辞職する)。

 4月、「立憲政体の詔」が出される。「朕今誓文の意を拡充し、ここにら元老院を設け、以て立法の源を広め、大審院置き、以て審判の政体を立て、汝衆庶と共にその慶に頼らんと欲す云々」。

 6月、地方官会議開かれる。

れんだいこのカンテラ時評181 れんだいこ 2006/06/20
 【この頃の「世相いろは歌」】

 山本七平氏の「派閥」を読んでいたら、次のような「世相いろは歌」に出くわした。面白いのでここに転載しておく。東京日々新聞に掲載されたとのことである。時代はいつの頃のことであろうか。
 この頃、次のような「世相いろは歌」が東京日々新聞に掲載されている(山本七平「派閥」136P)。
 今も昔も神国なるに
 ロシアアメリカヨーロッパ
 馬鹿な夷風に目はくらみ
 日本の乱れは顧みず
 歩(法、帆?)を異国に立かえて
 下手の将戯(将棋)手前見ず
 取られそうだと金銀を
 智恵あり顔に無分別
 利欲我が儘し放題
 盗みは官員、咎(とが)は民
 流浪の士族夥(おびただ)し
 多くの租税罰金を
 私勝ちの政事故(ゆえ)
 替わる布告は朝夕に
 世の行く末はいかならん
 高き卑しき分かちなく
 礼も作法も無くなりて
 そんな我国益は彼れ
 つまり夷国の計略に
 佞奸(ねいかん)者は打ち合うて
 何はともあれ角もあれ
 らい名潰したその時に
 昔に復るというたのも
 ウソと今こそ知られけり
 命を捨て国のため
 逃さず討てよ佞奸を
 大久保三条契り合い
 暮らすこの世は面白や
 止められようかや花の夢
 迷う心の末いかに
 唐人らに国を売り
 武具も刀も捨てよとは
 古今聞かざる布告なり
 蝦夷地も最早追い取られ
 天下の治乱は只今よ
 明日はかからん暗殺に
 さらば逢わんと思えども
 清き心は神人は勤王家
 憂士はあまた隠れ居て
 命を奉ずる者も無く
 みすみす二人が居るゆえに
 職の人は勤王家
 英名敢えて好まねど
 非道を責めるは天の道
 最早この上忍ばれず
 せめて尽くすは武士(もののふ)の
 すまんの民を救わんと
 京(今日)を限りの死に出の旅

 明治維新過程の明治7年頃の士族の反乱、その最後の大舞台となった西南の役に向う過程での、討幕派幕末志士の「裏切られた革命」に対する悲憤慷慨の歌である。れんだいこが思うに、士族の反乱の不平を武士の地位失職に対するものとして受け取るのは一知半解なのではなかろうか。

 実際には、命を賭した幕末維新革命が捻じ曲げられ、ネオ・シオニズムに取り込まれた薩長藩閥専制と化したことに対する抗議として、続々と士族の反乱が起ったのではなかろうか。それはいわば第二の維新であったがいずれも破れた。「不平士族の反乱」はかく受け取るべきではなかろうか。歴史家はそう伝えるべきであるのに、真相を意図的に隠蔽しているのではなかろうか。

 それにしても、このいろは歌が今にも通じているように聞こえるところが面白い。「官の腐敗、政治の私物化、夷国の計略、佞奸(ねいかん)者、唐人らに国を売り」云々とある。これに立腹し、「非道を責めるは天の道、最早この上忍ばれず、せめて尽くすは武士(もののふ)の、すまんの民を救わんと、京を限りの死に出の旅」と決意表明している。その志操や深いと味わうべきではなかろうか。

 明治維新の史的過程考(http://www.marino.ne.jp/~rendaico/mikiron/nakayamamikikenkyu_40_2_history.htm)

 2006.6.20日 れんだいこ拝

【西郷が吉野開墾社設立
 4月、西郷と大山県令との交渉で確保した荒蕪地に、桐野利秋が指導し、永山休二・平野正介らが監督する吉野開墾社(旧陸軍教導団生徒を収容)が設立された。

【日朝間に江華島事件が発生する】
 その後の日朝関係は次のように推移する。大院君が失脚し、外交交渉が始まり、特使として外務省の担当官であった森山茂(後に外務少丞)が倭館に派遣された。

 1874.9月、一旦は実務レベルの関係を回復して然るべき後に正式な国交を回復する交渉を行うという基本方針の合意が成立(「九月協定」)し、両国政府からの方針の了承を得た後で細部の交渉をまとめることになった。

 ところが、日本側が、大阪会議や佐賀の乱への対応で朝鮮問題に取り掛かる余裕が無く、「九月協定」了承を先延ばしにしているうちに、朝鮮で大院君側が巻き返しが起こり、再び攘夷論が巻き起こった。このため、翌1875.2月から釜山で始められた二次交渉は批難の応酬の場に転じ、6月、決裂した。8.27日、日本政府は、森山特使に引上げを命じて当面様子見を行うことが決定した。

 結果的に、李朝外交に翻弄された日本政府は、遂に痺れを切らし、小艦を釜山に派遣し東莱府館員を艦上に招待し発砲演習を見せつけることにより、局面打開を図った。強硬派から(ペリー同様嫌がらせのために)測量や航路研究のためとし朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が出ると、外務大輔の寺島宗則は太政大臣三条実美や右大臣岩倉具視の了承を得てこれを承認、海軍大輔川村純義に『雲揚』『第二丁卯』の2隻の軍艦を派遣させた。

 1875.5.25日、日本の軍艦が無許可で釜山へ入港し、射撃演習などの威嚇行為を行った。朝鮮側は抗議を行った。同9.20日、日本の海軍少佐・井上良馨が雲揚号で日本国旗を掲げながら江華島の草芝鎮沖にさしかかった際に、島に設置された第3砲台から砲撃を受けるという事件が発生した。軍船が他国の河川を無断で遡航することは国際法違反であるからして、日本軍の行動は挑発だったと考えられている。

 日本側は急ぎ雲楊号へ帰艦し、朝鮮からの砲撃の翌日、今度は日本側が艦砲射撃を行ったうえで、陸戦隊を上陸させて江華島第2砲台を放火し、3日目には第1砲台も放火し、永宗城島の要塞を占領した、この間、朝鮮側の35名を殺害しているが、日本側の死傷者は雲揚号の2名であった。この事件が朝鮮政府に与えた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて日本との国交回復を検討することになる。

1876(明治9)年の動き

朝修好条規(江華条約)を締結
 9.20日、韓国京畿道、漢江の河口にある小島付近で示威演習を行なった日本軍艦「雲揚」が砲撃された。日朝鮮近海で日本艦が攻撃されるという江華島事件が発生した。日朝交渉は新たな段階を迎えることになる。政府内では島津久光がこの機をとらえ、板垣退助とともに政権中枢への割り込みを図るが、結局辞職へと追い込まれる。

 翌1876(明治9).2.26日、朝修好条規(江華条約)を締結。その手法は、アメリカのペリー提督が日本に開国を迫ったやり方そのものを踏襲していた。西郷らを一掃した明治新政府は、朝鮮政府に対し、高圧的な交渉を展開した。これにより明治新政府は朝鮮半島支配の足掛りをつくった。

廃刀令、徴兵令
 新政府は、華士族に残されていた特権の廃止にも遠慮なく着手していった。

 3月、政府は廃刀令を出して士族の帯刀を禁じた。1870(明治3)年、一般人の帯刀を禁じ、翌年には士族も帯刀しなくてよいことにしたが、このたびは太政官布告で、以後、大礼服着用者や軍人・警察官など以外の刀を禁止し、違反者はその刀を取り上げるとした。これにより、武士の身分が廃止され、軍人・警察・官吏がそれまでの武士に変わる存在として位置づけることになった。

 この時、満25歳以上の男子への徴兵令が同時に実施された。つまり、廃刀令と徴兵制はワンセットで打ち出されたことになる。明治維新の初期段階では、倒幕運動を進めた薩摩・長州・土佐・佐賀などの藩の武士が「官軍」を形成し、国内の治安の維持に当たっていた。し かし、政府は今後日本が国内の治安を維持し、また外国とも肩を並べていく ためには、こういった武士たちによる軍隊では力不足であると考え、徴兵制 の導入を決定した。 それまで藩に所属していた武士たちの特権を取り上げて(廃刀令・全国民への苗字許可など)、代わりに全ての国民層から均質に抽出した新しい軍隊を作ろうと考えた。

士族の解体政策
 この徴兵制によって突然兵役を課せられた農民や商工業従事者も若い働き手 を兵隊に取られて困惑するが、それよりも困惑したのは旧武士たちであった。 一応身分の上では「士族」と呼ばれ平民(農工商)より上の階級ということにはなるものの、実際には社会的に何か現実的特権があるわけでもなく、それまで藩からもらっていた給料ももらえなくなり、廃刀令で武士の魂としていた刀も召し上げられてしまうと不要の階層へ一挙に転落させられることになった。

 これは士族の解体政策であり、その処遇が問題となる。政府はどのように対応したか。廃刀令が布告された翌日、大蔵卿大隈重信は、「家禄賞典禄処分の儀に付伺い」を政府に提出し、禄制の最終処分に着手することを求めた。家禄にのみ頼って生きる華士族は、大蔵省により「無用の人」と位置づけられることになった。井上毅は、秩禄処分の実施を20年は見合わせるべきだとしたが、政府の最高首脳で秩禄処分に異論を唱えたのは木戸孝允一人であった。

【西郷が私学校設立】
 6月、有志者が西郷にはかり、県令大山綱良の協力を得て、西郷は旧薩摩藩の居城・鶴丸城の厩跡(うまやあと)に、私学校を設立した。この私学校は、村田新八が監督する砲隊学校と篠原国幹が監督する銃隊学校及び村田が監督を兼任した賞典学校からなっていた。県下の各郷ごとに分校が設けられた。

 西郷の後を追い帰郷した青年らの教育機関を作ろうということが、私学校の主な創立理由だった。その真意は、前途有為なる青年を育て、新政府の最良の働き手を養成することに有った。外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れて点でも注目される。いつか来るであろう再維新の為の事業と位置づけていた節がある。

 西郷の私学校党はその後、県下最大の勢力となり、県令大山綱良も協力し私学校党人士を県官や警吏に積極的に採用し、西郷推薦の区長や副区長が生まれた。別府、辺見、河野、小倉壮九郎(東郷平八郎の兄)らが区長になり、私学校党が県政を牛耳るようになった。政府は次第にこれを警戒し始めることになる。

【政府が士族の俸禄停止に代わる金禄公債証書発行】
 7.22日、東北巡幸に随行した大久保利通らが帰京し、7.25日、金禄公債証書発行条例が公布された。政府は、金禄公債証書発行条例に付随し、いくつかの追加措置を施行した。8月、それまで一応旧藩に代わって士族たちに支払っていた俸禄(家禄・賞典禄)を停止し、全面的に現米から金禄に切り替え、全国一斉の処分が可能な条件を作り上げた。大蔵省としては満を持して、禄制廃止の具体案として「華士族家禄処分方之儀に付正院上申案」を提議した。

 8.5日、 5〜14年分の俸禄の額面の公債証書(金禄公債証書)を発行して、その利子だけを支給すると いう方策を取った。希望者に発行して士族の禄制を全廃した秩禄処分で、士族一人あたりの平均公債額は500円であった。これは士族への俸禄が政府予算の3割程度を占めて いて財政的に行き詰まったことが原因であった。廃刀令と金禄公債証書発行条例が旧武士最後の特権を奪うものとなり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせた。

【継続革命論士族の反乱(「神風連の乱」、「萩の乱」)】 
 西郷が去った後の政府による地租改正令、台湾出兵、廃刀令、徴兵令、江華島事件、金禄公債証書条例の矢継ぎ早の政策が、幕末維新を担った士族たちの積もり積もった不満を爆発させる。1874〜1877年にかけて伊勢暴動や真壁騒動などの不平士族の反乱が起こり、1876(明治9)年がピークに達する。

 1876(明治9).10.24日、熊本において熊本県士族の太田黒伴雄(おおたぐろともお)を中心とする敬神党200名ほどの士族が「神風連」を組織し「神風連の乱」を起こす。県庁などを襲撃、知事と鎮台司令長官に重傷(後、死亡)を負わせた。 この反乱は直ちに鎮台軍(児玉源太郎少佐らの指揮)により鎮圧された。

 三日後の10.27日、福岡県で「秋月の乱」。旧秋月藩士宮崎車之助ら400名が神風連に続けといって蜂起した。しかし鎮台が出動するとかなわないとみて大分方面に逃走、現地の士族たちに呼応を呼びかけますが応じる者なく、結局小倉鎮台に鎮圧された。

 10.28日、山口県の萩で、前参議にして兵部大輔の前原一誠(まえばらいっせい)をリーダーとする旧士族500名が「萩の乱」を起した。県庁を襲って山陰道から中央に出ようとし政府軍と交戦、11.4日まで抵抗するが結局一週間で鎮圧された。前原は逃走したが松江で捕われ萩で処刑され、萩の乱は幕を閉じた。政府の要人の一人であった前原一誠は、「士族をもっと政権範囲に入れ、それと共に優れている国民を引き上げ政府を固めよう」と唱えていた。

 前原は、吉田松陰の松下村塾出身。久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と並び称された逸材。幕末から戊辰戦争の過程で、維新後、参議と成り、兵部大輔となっている。

 鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、11月、桂久武に対し書簡を出している。この書簡には士族の反乱を愉快に思う西郷の心情の外に「起つと決した時には天下を驚かす」、「若殿輩(わかとのばら)が逸(はや)らないようにこの鰻温泉を動かない」と記している。

【江華島事件、日朝修好条約の締結】
 翌1876年、日朝修好条約が締結される。日朝両国の明治維新以来の懸念を解決するための(上記の江華島事件などを含めた)条約で、「朝鮮王国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有する」ことが確認されている。ところが、これに対して、清帝国が「朝鮮王国は大清国の属邦である」と主張し、この条約を破棄するように要求してくる。

 ここに、朝鮮半島を巡る情勢として、朝鮮の独立を認める日本と、宗主権を主張する清国とが、朝鮮国内における自派勢力と呼応して抗争し、さらには、この間にあって朝鮮半島に沿岸に不凍港を求めて新たな侵略を狙う帝政ロシアと、これを警戒する大英帝国とが入り交ざり、複雑多岐な様相を、極東では展開していくことになる。清国は、日本と帝政ロシアの勢力が朝鮮に及ぶのを警戒し、直隷総督の「李鴻章」を朝鮮に派遣する。












(私論.私見)