西南の役考



 (最新見直し2008.2.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 士族の反乱は西南の役で総決算する。総大将西郷は何と云っても維新の元勲にして参議の筆頭、軍部の最高権威で近衛都督を兼ねた信望随一の陸軍大将であった。これに従う薩摩軍は、島津の代から伝統的に武勇に誉れの高い精鋭であった。その西郷が止むに止まれぬ戦いへ誘われることになった。

 西南戦争の結末は、大久保政権を産む。その大久保は暗殺され、名うてのネオシオニズム被れの伊藤-山県系が明治政府を担うことになる。その後の日本は国際金融資本ロスチャイルド派帝国主義の指図に従い徴兵制度による国軍を創出せしめ、中央集権的軍事主義国家へと向かうことになり、ネオシオニズムが糸を引く帝国主義国家へと大きく踏み出していくことになる。それら一切が士族の反乱-西南の役後の動きである。そういう意味で、西南の役は時代の画期的な転機となった。

 西郷率いる薩摩軍を主力とする反政府派は、結果的に九州の山野を舞台に7ケ月に及ぶ強靭さを見せ付けた。最終的に次から次へとウンカの如く押し寄せる政府軍の兵力と物量に押し潰された。西南の役戦争による官軍死者は6403名、西郷死者は6765名に及んだ。政府の西南戦争の軍事費は4100万円にのぼり、当時の税収4800万円のほとんどを使い果たすほど莫大なものになった。してみれば、西南の役は史上未曾有の反政府武装闘争として史実に刻まれていることになる。この重要な戦史が、彼らが何を主張して闘ったのかも含め極力隠蔽されていることを怪しむべしであろう。

 「西南の役年表」につき「ウィキペディア西郷隆盛」、「ウィキペディア西南戦争」、「西南戦争」その他が詳しくこれを参照する。これらを踏まえて、西郷及び西郷派の亡びの美学を確認しておくことにする。いずれ、れんだいこ風に纏め直すので、著作権云々をどうか云わぬように乞う。

 付言すれば、れんだいこは、西南の役を、通説の薩摩軍対官軍という対比ではなく、西郷軍対政府軍の戦いとして捉え、西郷軍の視点から史実を検証することにする。例によって日時順に追跡したい。田原坂の戦いのように止むを得ない場合にのみ、それ独自の流れを検証する事にする。この方が却って分かり易いと思うからである。そういう工夫をした。 

 2008.2.15日 れんだいこ拝


【大久保が西郷探査の密偵を送る】
 このように、反政府運動が頻発して起こる中、鹿児島にいた西郷はその動きに呼応することもなく、微動だにしなかった。が、政府の内務卿大久保利通らは、明治維新最大の戦力となった旧薩摩藩士族の動きを最も気にした。この時、大久保は、内閣顧問・木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提案による鹿児島県政改革案を受諾した。この改革案は県令大山綱良の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。実行されたのが、私学校の内部偵察と離間工作の為の密偵派遣であった。

 大久保内務卿は、大警視・川路利良(かわじとしよし)、警視庁警部・中原尚雄、園田長照、川上親ら22名の警吏を墓参名目で鹿児島入りさせた。密偵の目的は私学校生徒らと西郷の離間を図れということであったが、今日でもこの密偵団には西郷暗殺の密名が厳命されていたと言われている。現に西郷が、この後挙兵の理由として、この密偵について政府に尋問があるということを掲げていることからしても、当時そう信じられていたことは間違いない。私学校徒達は中原尚雄等の大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒した。

1877(明治10)年の動き

【政府の密偵が挑発】
 1.11日、中原尚雄警部以下24名の官吏が帰郷名目で鹿児島へ帰県した。私学校徒達は中原尚雄等の大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。この状況下で、鹿児島第一分署の一等巡査・有馬静蔵の元へ「差出人・評論新聞の田中直哉、宛名・中原尚雄警部」の怪文書が届けられた。手紙の内容は、火薬庫に火を放って騒乱を生み出し、その大騒ぎに乗じて西郷、桐野、篠原以下40余名を刺殺するというものであった。政府側の挑発であったと考えられる。私学校党は、逆スパイを送り込み内偵を開始した。

【政府と三菱が鹿児島の陸軍省火薬庫から、武器類を運び出す】
 1.29日、私学校党は、大久保内務卿が送り込んだ警視庁の密偵22名を逮捕し、鹿児島県警が厳しい取調べに入った。この時、鹿児島県庁に連絡のないまま政府が派遣した三菱の汽船「赤龍丸」が錦江湾に入り、鹿児島にあった陸軍省の火薬庫から、武器・弾薬・製造機械類を大阪に移送し始めた。

 この搬出は当時の日本陸軍が主力装備としていたスナイドル銃の弾薬製造設備の大阪への搬出が主な目的であり、山県有朋と大山巌という陸軍内の長閥と薩閥の代表者が協力して行われた事が記録されている。 日本陸軍はスナイドル銃を主力装備としていたが、その弾薬は薩摩藩が設立した兵器・弾薬工場が前身である鹿児島属廠で製造され、ほぼ独占的に供給されていた。後装式(元込め)のスナイドル銃をいち早く導入し、集成館事業の蓄積で近代工業基盤を有していた薩摩藩は、イギリスから設備を輸入して明治5年の陸軍省創設以前からスナイドル弾薬の国産化に成功していた唯一の地域だった。スナイドル弾薬の製造設備を失った事は、薩摩を象徴する新兵器だったスナイドル銃が無用の長物と化し、既に旧式化していた前装式のエンフィールド銃で戦わなければならなくなった事を意味する。

 それらは旧薩摩藩時代に藩士が醵出した金で造ったり購入したりしたもので、一朝事があって必要な場合、藩士やその子孫が使用するものであると考えていた私学校生徒は、大久保ら政府の卑怯なやり方に憤激し、「政府は先手を打ってきた。西郷先生の暗殺団を送りこみ、なおかつ、武器を隠れて他に輸送しようとするとは、けしからん」と批判を強めた。私学校徒は中央政府が泥棒のように薩摩の財産を搬出した事に怒るとともに、当然予想される衝突に備えて武器・弾薬を入手するために、夜、草牟田火薬庫を襲って弾丸・武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きたが、私学校徒が入手できたのは、山縣や大山が重要視しなかった旧型のエンフィールド銃とその弾薬のみだった。

【西南の役前哨戦】
 1.30日、私学校幹部らが谷口登太に中原尚雄ら警視庁帰藩組の内偵を依頼していたところ、同日暮、中原尚雄の西郷暗殺計画を記す供述書仮案が入手され、谷口報告により中原らの帰郷が西郷暗殺を目的としていることを聞いた。篠原、淵辺群平、池上四郎、河野主一郎ら私学校幹部は善後策を話し合い、大隈半島の小根占(こねじめ)で猟をしていた西郷隆盛のもとに彼の四弟の西郷小兵衛を派遣した。
 
 1.31日夜、激昂した一部の過激な私学校生徒が、鹿児島市草牟田(そうむた)の陸軍火薬庫を襲撃する。その騒動が飛び火して、過激な私学校生徒らは、磯集成館、坂元、上之原などの火薬庫を次々と襲い、鹿児島市内は火を放ったような大騒動となる。騒ぎは三日間にわたって続いた。

【西郷、遂に立つ】
 2.2日、弾薬掠奪事件を聞き、吉田村から鹿児島へ帰ってきた桐野利秋は篠原国幹らと談合し、辺見十郎太ら3名を西郷の居る小根占へ派遣した。

 西郷は、私学校生徒が政府の挑発に乗り、陸軍の火薬庫を襲ったとの報に接した時、一言、「もう、これまでごわしたな」(かくなる上は止むを得ず)と漏らしたと伝えられている。この西郷の言葉には、挙兵には時期尚早という考えを持っていたことが分かる。

 西郷はそれまで、私学校を更に充実させ、もう少し時間を稼ぎながら有為なる人士を育て来るべき国難に備えようとしていた節がある。佐賀の乱の首謀者・江藤新平が、鹿児島に落ち延び、鰻温泉で西郷と会い決起を促した時にも色よい返答をしなかったのは、そういう配慮によってであろう。

 その西郷が、事ここに入たらば止むなし、これも叉天命と受け止め、「わいの体をおはんら に預け申そう」と周囲の者に伝え、薩摩の若者達に全てを委ねた。こうして、遂に西郷軍が挙兵することになる。

 西郷が立つか立たざるかに付き、「西南記伝」の「西郷南洲と十年役」の稿の「山県有朋実話」として次のように証言記録されている。
 当時、この薩摩の暴動に付いては、西郷が加って居るか居らぬかと云ふことは、一の疑問であった。現に大山すらも「西郷は決して加って居らぬ」と云ふものだから、一般の人も「大山がああ云ふのであるから、西郷は加って居らぬ」と云ふたものであったが、私は、「いや、そうでない。西郷はくみする考えはなくとも、これまでの情報に於いては、外のものが必ず漕ぎ出すに違ひない」と云ふた。

 歴史は、山県の推定通りになったことになる。

 2.3日、私学校党は中原ら60余名を一斉に捕縛し、以後、苛烈な取調べに入った。その結果、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよう中原らに指示したという「自白書」がとられ、多くの私学校徒は激昂して暴発状態となった。

 2.4日夜、鹿児島暴発の報、行在所に達す。小根占から帰った西郷は幹部たちを従え、旧厩跡にあった私学校本校に入った。

【西郷派の大評議】
 2.5日、私学校幹部及び137分校長ら200余名が集合して大評議がおこなわれ、今後の方針が話し合われた。別府晋介と辺見は、「問罪の師を起こすべし」と主張した。永山弥一郎は、「西郷・桐野・篠原の三将が上京して政府を詰問すべし」と主張した。この永山策に山野田一輔、河野主一郎が同調した。この案に対し、池上は、「刺殺を企む政府が上京途中に危難を加える虞れがある」と主張して反対した。村田三介は、三将に寡兵が随従する策を、野村忍介は、野村自身が寡兵を率いて海路で小浜に出て、そこから陸路で京都に行き、行幸で京都にいる天皇に直接上奏する策を主張した。こうして諸策百出して紛糾した。

 最後に桐野が、概要「断の一字あるのみ。旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が満座の賛成を得た。永山はこの後も出兵に賛成しなかったが、桐野の説得で後日従軍を承知することになる。

 2.6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。この日、西郷を中心に作戦会議が開かれた。小兵衛は、「海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲」する策、野村忍介は、「三道に別れ、一は海路で長崎に出てそこから東上、一は海路から豊前・豊後を経て四国・大坂に出てそこから東上、一は熊本・佐賀・福岡を経ての陸路東上」する策即ち三道分進策を建策した。

 しかし、小兵衛、野村忍介の策は3隻の汽船しかなく軍艦を持たない薩軍にとっては成功を期し難いとして、池上の「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用された。

 2.7日、西郷が、大山県令に率兵上京の決意を告げる。

【西郷軍の編成】
 2.8日、西郷軍の編成が開始された。

 2.9日、西郷の縁戚の川村純義中将が軍艦に乗って西郷に面会に来たが会うことができず、県令大山綱良と鹿児島湾内の艦船上で会見した。この時、大山が「既に私学校党が東上した」と伝えたため、川村は西郷と談合することをあきらめて帰途につき、長崎に電報を打って警戒させた。

 同日、鹿児島県庁に自首してきた野村綱から、「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得た。西郷暗殺計画に大久保も関与していることが判明した。

 篠原が編成の責任者となり、桐野が軍需品の収集調達、村田新八が兵器の調達整理、永山弥一郎が新兵教練、池上が募兵をそれぞれ担当し、2.12日頃に一応の準備が整えられた。

 2.13日、西郷軍は募兵、新兵教練を終え、次のように大隊編成した。元陸軍大将の西郷隆盛を総帥として、一番大隊指揮長に篠原国幹、一番小隊隊長・西郷小兵衛、二番小隊隊長・浅江直之進、五番小隊隊長・鄭智陽、六番小隊隊長・相良吉之助。二番大隊指揮長に村田新八、一番小隊隊長・松永清之丞、二番小隊隊長・中島健彦。三番大隊指揮長に永山弥一郎、一番小隊隊長・辺見十郎太、三番小隊長・高城七之丞、十番小隊長・山内半左衛門。四番大隊指揮長に桐野利秋、一番小隊隊長・堀新次郎、二番小隊長・嶺崎長明、三番小隊隊長・野村忍介、四番小隊隊長・川久保十次、五番小隊隊長・永山休二。五番大隊指揮長に池上四郎、一番小隊隊長・河野主一郎、十番小隊長・児玉八之進が選任され、桐野が総司令を兼ねることになった。淵辺群平は本営附護衛隊長となり、狙撃隊を率いて西郷を護衛することになった。別府晋介は加治木で別に独立系2大隊を組織してその指揮長になった。六番大隊指揮長は越山休蔵、大隊監軍は柚木彦四郎。七番大隊指揮長は児玉強之助、一番小隊隊長・坂元敬介。他に貴島隊が組織され、 指揮長は貴島清。(隊長の正式名称は指揮長。一般に大隊長とも呼ばれた。副長役は各大隊の一番小隊隊長がつとめた)。

 いずれの大隊も10箇小隊、各小隊約200名で、計約2千名からなっていた。最終的に私学校兵1万3千、協力諸藩兵1万7千という戦力となる。

 2.14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷による一番〜五番大隊の閲兵式が行われた。

【西郷軍決起】
 2.14-15日、「今般政府に尋問の筋これあり」なる挙兵の理由を掲げ、60年ぶりといわれる大雪の中、西郷軍の前衛隊(本隊1・2番隊)が鹿児島を出発した。以後順次大隊が鹿児島を出発した。各県庁への届書きに書かれている文言は次の通り。
 「拙者共こと、先般御暇の上、非役にて帰県致し居り候処、今般政府へ尋問の筋之あり、当地発定致し候間、御含みの為この段届け出候、もっとも旧兵隊のもの随行し、多数出立致し候間、人民動揺致さざるよう、一層の御保護依頼に及び候なり。

 明治十年二月 陸軍大将西郷隆盛 陸軍少将桐野利秋 陸軍少将篠原國幹」

 2.16日、西郷軍3・4番隊が出発。

 2.17日、西郷も桐野と共に鹿児島を出発し、加治木・人吉を経て熊本へ向かった。これを見送りに行った桂久武は貧弱な輜重への心配と西郷への友義から急遽従軍し、西郷軍の大小荷駄本部長(輜重隊の総責任者)となった。同日、独立大隊も加治木を発した。

 2.18日、西郷軍5番隊と砲兵隊が出発。西郷軍はこの時約1万3千。

【大久保の対応】
 大久保は、囲碁を打っている最中に西郷の決起の報告を聞いたが、顔色一つ変えずに打ち続け、終わってから「西郷が起った」と静かに言ったと云う。「困ったことになりました」と、困惑した胸中を知人に向かって漏らしたとも云う。

【西郷軍がまず熊本城攻めで包囲する】
 西郷軍は熊本城包囲策を取った。以降、熊本で壮絶な死闘が行われることになるが、当時の熊本の雰囲気が「西南記伝」の「山野田一輔の陣中日記」に「西郷先生の徳」として次のように証言されている。
 「熊本県、士農工商に至るまで、この節は薩兵を慕ふが如き有様にて、万事不都合の義、毛頭無し。西郷先生之徳、万世に輝きたるものに候」。

 2.18日、西郷軍が、熊本鎮台、熊本市民に立ち退き令を発する。

【政府が「鹿児島県逆徒征討の詔」を発し、正式に出兵を決定する】
 2.19日、政府は、「鹿児島県逆徒征討の詔」を発し、正式に出兵を決定した。有栖川宮熾仁親王を征討総督、参軍(副司令官)・山県有朋中将、参謀・川村純義中将の指揮で3個旅団の陸軍と13隻の艦船からなる海軍を九州へ派兵した。この時、乃木少佐も連隊の一部を率いて熊本に向う。政府は、西郷軍が動き出してわずか4日で対応していることからして、事前に予見し有事対応していたことが判明する。

 政府は、有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命した。第1旅団(野津鎮雄少将)、第2旅団(三好重臣少将)、別働第1旅団(高島鞆之助大佐)、別働第2旅団(山田顕義少将)の外に川路利良少将兼警視庁大警視が率いる警視隊(後に別働第3旅団の主力)などが出動し、順次、他の旅団も出動した。中でも臨時徴募巡査で編成された新撰旅団は士族が中心の旅団で精鋭ぶりを発揮する。

【西郷軍がまず熊本城総攻撃、攻めあぐむ】
 2.19日、熊本鎮台のある熊本城で火災があり、天守閣などが炎上、城下も延焼(この火災の原因は今なお不明で政府側の陰謀的自焼説が有力である)。同日、日向飫肥士族小倉処平らが西郷軍に加わるために出発。

 2.20日、政府軍第1・第2旅団が神戸港を博多へ向け出港。西郷軍の先鋒・別府晋介の二大隊が川尻着。熊本鎮台偵察隊と衝突し、これを追って熊本へ進出した。これが西南戦争の最初の実戦となった。この日、民権党40数名が保田久保神社へ結集し熊本協同体結成、西郷軍に呼応する。

 2.21日、相次いで到着した西郷軍の大隊が順次、熊本鎮台を包囲した。西郷軍は川尻で軍議を開き、池上が「熊本に抑えを置き、主力東上」策、篠原らが「全軍による熊本城強襲」策を提起し対立したが、強襲策が採用された。同日、熊本県士族の池辺吉十郎らが西郷軍に呼応して挙兵。2.21日の夜半から22日の早暁にかけて薩軍の大隊は順次熊本に向けて発し、熊本城を包囲強襲した。

 2.22日、西郷軍が早朝から熊本城を総攻撃した。桐野の第四大隊、池上の第五大隊は正面攻撃した。篠原国幹の第一大隊、村田新八の第二大隊、別府晋介の加治木の大隊、及び永山弥一郎の第三大隊の一部は背面攻撃を担当した。

 熊本城内の熊本鎮台兵は防戦し、政府軍の来援を待つ持久戦で抵抗し続けた。この時の司令官は、谷干城少将(後に農商務大臣)。参謀長として、樺山資紀中佐(後に海軍大臣・軍令部長)、児玉源太郎少佐(後に陸軍大臣・参謀総長)、川上操六少佐(後に参謀総長)、奥保鞏少佐(後に参謀総長・元帥)など、後年の大物軍人・政治家らが参加していた。

 この時の戦力比は西郷軍約1万4千名に対して、政府軍は約4千名であった。古来、攻城側は守城側の10倍必要とされている。このことからすれば、3倍での包囲強襲は功を焦った無謀な作戦だったということになる。昼過ぎ、西郷が川尻から世継宮に到着した。

【「田原坂の戦い」始まる】
 2.22日夜半、西郷軍の村田三介、伊東直二の小隊が政府軍の小倉第14連隊と植木で衝突。城北の緒戦がおこなわれた。この時、乃木隊の第14連隊旗が伊東隊の岩切正九郎により奪われるという不名誉を喫している。これが「田原坂の戦いの」初戦となる。菅原神社南方に警戒線をしく官軍に対し、向坂を下って薩軍が攻撃をしかけた。後には薩軍伊東小隊等も加わって薩軍が増加する。乃木少佐は付近の民家に火を放ち、午後10時頃、千本桜に向けて退却した。

【西郷軍が熊本城攻めに手こずりながら別動隊が小倉攻めに向かう】
 2.22日、政府軍第1・2旅団が博多に到着。

 西郷軍が総攻撃した熊本城は堅城で、少ない大砲と装備の劣った小銃では堅城に籠もり、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する鎮台は簡単には攻め落とせなかった。

 夜、本荘に本営を移し軍議するも、篠原らの強襲策続行に対し、遅れて到着した小兵衛や野村忍介の強い反対があり、深夜に開かれた再軍議で熊本城を強襲する一方、一部は小倉を電撃すべしと決した。西郷軍が軍議でもめているうちに、官軍の第1及び第2旅団が本格的に南下し始めた。

 2.23日、政府軍は東京・大坂・名古屋3鎮台に令して第2後備軍を召集。西郷軍の池上が村田・深見らの小隊を率いて北上し小倉攻めに向かう。政府軍の第14連隊は敗北して後退する。同日、愛媛県士族武田豊城らが徒党陰謀の理由で逮捕されている。途中で激戦の銃声を聞いて池上は田原に転進し、村田三介の小隊だけが小倉方面へ進んだ。しかし、この小隊も植木で官軍と遭遇し、小倉電撃作戦は失敗した。

 2.24日、山県参軍が博多着。西郷軍は熊本城強攻を中止する。西郷軍は結局、熊本城を陥落させることが出来なかった。24日以後は両軍の対峙状態に陥った。

【「高瀬の戦い」で両軍最初の本格的激突】
 2.24日、西郷軍は、熊本城攻囲を池上にまかせ、永山弥一郎に海岸線を抑えさせ、篠原国幹(六箇小隊)は田原に、村田・別府(五箇小隊)は木留に、桐野(三箇小隊)は山鹿に分かれ、政府軍を挟撃して高瀬を占領することにした。

 2.25日、政府軍の第1・8・14連隊が高瀬に進出。高瀬の戦い起こる。政府軍第3旅団博多に到着。

 2.26日、政府軍、福岡に本営を置く。この時、桐野・篠原・村田・別府らが率いる西郷軍主力は大窪(熊本市北)に集結中で、左・中・右3翼に分かれて高瀬及び高瀬に進撃しつつある政府軍を挟撃する計画を立てた。右翼隊(山鹿方面)─桐野利秋(3箇小隊約600名)、中央隊(植木・木葉方面)─篠原国幹・別府晋介(6箇小隊約1200名)、左翼隊(吉次・伊倉方面)─村田新八(5箇小隊約1000名)。

 2.27日、西郷軍が三方より高瀬を強襲した。右翼隊は、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の政府軍左翼を攻撃し、中央隊は田原坂を越え、木葉で政府軍捜索隊と遭遇戦になった。左翼隊は吉次峠・原倉と進み、ここから右縦隊は高瀬橋に、左縦隊は伊倉・大浜を経て岩崎原に進出した。政府軍は捜索隊の報告と各地からの急報で初めて西郷軍の大挙来襲を知り、各地に増援隊を派遣するとともに三好旅団長自ら迫間に進出した。両軍の戦いは激しく、三好少将が銃創を負ったほどの銃砲撃戦と接戦となった。

 午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある政府軍の背後連絡線を攻撃した。この時に第二旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。この山を占領した政府軍は何度も奪取を試みる西郷軍右翼隊を瞰射して退けた。次いで、南下してきた野津鎮雄少将(兄)の兵が右翼隊の右側面を衝いたので、猛将桐野の率いる右翼隊も堪らず、江田方面に退いた。稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦が天王山となっていた。

 右翼隊の左縦隊は、政府軍を岩崎原から葛原山に退けたが、中央隊は弾薬不足で退却した。この機に援軍を得た政府軍中央諸隊は反撃に出た。西郷軍も敵前渡河を強行したりして高瀬奪回を試みたが政府軍の増援に押され、日没も迫った頃、大浜方面へ退却した。この方面の戦闘は激戦で、西郷小兵衛以下、西郷軍の諸将が戦死した。政府軍では乃木少佐負傷。 

 2.28日、阿蘇地方で大規模な一揆が発生する。

 2月末、政府は、旧藩の国父であった島津久光に議官柳原前光を勅使として派遣し、西郷軍との切り離しを図った。しかし、久光は薩軍に荷担することはしないが、旧主の恩顧を以てしても効がないとした。勅使らは中原らを出獄させ、弾薬製作所・砲台を破壊し、火薬・弾薬を没収して引き揚げた。

【政府軍が続々到着し攻撃を開始する】
 2月、政府が、三菱汽船に軍事輸送船8隻購入の資金を貸与する。

 3.1日、政府軍の別働第1旅団が博多に到着。 

 3.3日、政府軍が木葉・吉次方面の西郷軍に攻撃開始する。

【九州各地で西郷軍支援隊が呼応する】
 この間および後に西郷軍に九州諸県で支援隊が結成され呼応している。概略以下の通り。

 貴島隊(隊長貴島清、薩摩新募の1箇大隊約2000名)、熊本隊(池辺吉十郎、約1500名)、協同隊(平川惟一・宮崎八郎、約300名)、滝口隊(中津大四郎、約200名) 、飫肥隊(伊東直記・川崎新五郎、約800名)、佐土原隊(島津啓次郎・鮫島元、約400名)、人吉隊(神瀬鹿三・黒田等久麿・村田量平、約150名)、都城隊(龍岡資時・東胤正、約250名)、報国隊(堀田政一、約120名)、高鍋隊(石井習吉・坂田諸潔、約1120名)、中津隊(増田宋太郎、約150名)、延岡隊(大島景保、約1000名)。

「田原坂の死闘戦」始まる
 3.1-3.31日まで、現在の熊本県鹿本郡植木町大字豊岡で田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みが酷く、雨も降る厳しい状況の中で戦いは始まった。

 3.4日、政府軍が田原坂方面の西郷軍へ攻撃を開始。当日、春先で冷え込みが酷く雨も降る天候であった。歴史に語り伝えられる死闘戦となった田原坂の戦いが始まった。西郷軍の篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死することになる。

【政府が前藩主の島津久光説得工作、鹿児島県令・大山綱良の官位を剥奪逮捕、東京へ護送】
 2月末、戦争の帰趨が覚束なかったこの頃、政府は、西郷軍の旧藩の国父であった島津久光の説得工作の為、議官の柳原前光を勅使として派遣した。

 3.8日、勅使・柳原前光、艦船9隻で鹿児島に到着し、島津忠義・島津珍彦と会見し自重を求めた。

 3.10日、柳原前光と島津久光が会合する。しかし、久光は、「西郷軍に荷担することはしないが、旧主の恩顧を以てしても効がない」と伝えた。勅使らは、中原らを出獄させ、弾薬製作所・砲台を破壊し、火薬・弾薬を没収して引き揚げた。

 3.17日、政府は、鹿児島県令・大山綱良の官位を剥奪逮捕した。東京への護送を決定した。

「田原坂の戦い」その後の経緯
 3.11日、政府軍の第2旅団が田原坂総攻撃を行うも失敗に終わる。西郷軍は激しい銃撃と、抜刀白兵戦で応戦した。政府軍は、白兵抜刀攻撃に対抗するため士族出身の兵卒を選び抜刀隊を組織したが討ち破られた。3.13日、新たに警視抜刀隊を組織する。

 3.13日、政府軍に警視庁抜刀隊が編成され前線に投入される。3.14日、政府軍は田原坂攻撃を再開したが、横平山を占領することはできなかった。しかし、警視抜刀隊が薩軍と対等に戦えることが分かった。後にこの時の抜刀隊の功を称えて有名な抜刀隊の歌が作られることになる。

 3.15日、政府軍は遂に西郷軍の守備を破り、横平山(那智山)を占領した。政府軍が、この日に初めて西郷軍の防衛線に割って入ることに成功したことになる。

 3.16日、戦線整理のために休戦。

 3.17日、政府軍は西側からと正面からの攻撃を再開した。西郷軍は地形を生かして応戦した為、田原坂の防衛線を破ることは出来なかった。この間、3.4日からの政府軍の戦死者は約2千名、負傷者も2千名に及んだ。

 3.18日、政府軍は、主力隊本営で、野津鎮雄少将(第一旅団長)・三好重臣少将(第二旅団長)、参謀長野津道貫大佐、高瀬征討本営の大山巌少将などによって幕僚会議を開き、3.19日を休養日として、3.20日早朝に二方面から総攻撃を決行することを決めた。

 3.19日、政府別働軍が八代に上陸。

 3.20日早朝、政府郡は開戦以来、最大の兵力を投入した。田原坂はこの時も雨となった。その中、未だかってない大砲撃を開始した。砲撃が止むと同時に西郷軍の出張本営七本のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃した。

 西郷軍は果敢に応戦したが多勢に無勢で次第に敗北色を深めていった。政府軍の攻撃を成功に導いたのは別働の吉次峠部隊の活躍が大きかった。吉次峠部隊は、西郷軍に対して牽制攻撃を仕掛けた。これによって西郷軍は吉次峠部隊対策に勢力を裂かれ、逆に政府軍主力は「田原坂突破」一本に的を絞ることができた。この日の戦いで、政府軍の戦死者は495名。田原坂の激戦は政府軍の小隊長30名のうち11名が命を落としている。その激しさが窺い知れる。吉次峠部隊の被害も甚大で、駒井大尉をはじめこの攻撃で多くの命が失われた。

 田原坂攻防戦は17日間続いた。最終的に政府軍が田原坂を制圧し、西郷軍は熊本まで後退した。この時の闘いが後に「雨はふるふる 人馬はぬれる 越すに越されぬ田原坂」と詠われることになった。

 
 田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)は西南の役戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から100年以上たった現在でも現地では当時の銃弾が田畑や斜面からしばしば発見されている。この戦いで、西郷軍の副司令格であった一番大隊指揮長・篠原国幹をはじめ勇猛の士が次々と戦死した。他方、政府軍も、小隊長30名のうち11名が命を落としている。政府軍は多大な戦死者を出しながらも西郷軍を圧倒し熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。

【その後の熊本城攻防戦】
 西郷軍は、その後の熊本城攻略戦で兵糧攻め策を取っていた。「西南記伝」の「樺山資紀実話」の稿で「熊本籠城中の惨状」と題して次のように証言記録されている。
 籠城が久しくなるに従って、糧食は減つて来る。煙草も尽きて来る。谷子爵の当時の苦衷と云ふものは、共に籠城した余等でなければ、到底想像だも出来ないであろうと思はれる。其所で、子爵は、幹部は、戦闘線に出なくともいいのであろうからと云ふので、余等一同は、栗の粥を啜り、砲弾で死んだ軍馬の肉を、これ幸いと取って煮染にして喰ふ。

 3.12-13日、段山をめぐる両軍の争奪戦が起こった。霧の中、砲撃・銃撃を混じえた激戦は、霧が晴れたときには双方の距離10数歩という接近戦であった。結局、段山の背後に出た鎮台側が西郷軍を敗走させた。この戦いは政府軍死傷者221名、西郷軍死者73名、捕虜4名という長囲戦最大の激戦となった。

 鎮台側は、西郷軍主力が北方に転戦した為、守城負担は幾分減ったが、依然糧食に苦しめられた。池上率いる長囲軍は当初21箇小隊・1個砲隊、計4700名近くいたが、長囲策が採られると16箇小隊・2箇砲隊に減少し、3月になって高瀬、山鹿、田原、植木等の北部戦線が激戦化するにつれ、増援部隊を激戦地に派遣した為さらに減少した。その為、長囲軍は寡少の兵で巨大な熊本城を全面包囲することに苦しむことになった。鎮台側はこの機に乗じ、時々少量の糧食を城中に運び入れた。

 3.26日、西郷軍が石塘口をせきとめ、熊本城を水攻めにした。坪井川、井芹川の水を城の周囲に引き込んだ。これによって熊本城の東北および西部の田畑は一大湖水に変じた。

 3.27日、西郷軍主力が北部戦線に移動したのを見て、熊本鎮台の城外出撃が始まった。大迫尚敏大尉率いる偵察隊が坪井方面の威力偵察に出撃できるようになった。

【西郷軍が転戦開始。 植木、木留の戦い】
 政府軍南下軍は2月の高瀬の戦い以来目立った成果を収めることができずにいた。そこで高島大佐の建議により、熊本鎮台との連絡をとること、西郷軍の鹿児島と熊本間の補給、連絡線を遮断すること、西郷軍を腹背から挟撃すること等の企図を持った軍が派遣されることになった。黒田清隆中将が参軍となり、この上陸衝背軍を指揮することにした。

 3.18日、政府軍の最初の衝背軍が長崎を出発して八代に向かった。高島鞆之助大佐(後に少将)率いる別働第二旅団(後に別働第一旅団に改称)がこれに当たった。

 3.19日、この旅団は、艦砲射撃に援護されて日奈久南方の州口及び八代の背後に上陸し、西郷軍を二面から攻撃して八代の占領に成功した。

 3.20日、黒田清隆参軍率いる1箇大隊半と警視隊500名余が日奈久に上陸した。西郷軍は二番大隊一番小隊が日奈久、二番大隊五番小隊が松崎西南の亀崎、二番大隊六番小隊が熊本西北の白浜で海岸警備をしていたが防御できなかった。政府軍の八代上陸の報を得た西郷軍は、熊本長囲軍の一部を割き、三番大隊指揮長永山弥一郎率いる5箇中隊・都城隊・二番砲隊を八代に派遣した。

 3.20日、西郷軍先遣隊と高島大佐率いる政府軍が氷川を挟んで激戦し、西郷軍は対岸に進出した。

 3.21日、増援を得た政府軍が押し返し、西郷軍を砂川に退却させた。政府が、岩村通俊を鹿児島県令に任命した。この日、西郷軍は、田原坂の戦いでは敗北したものの、有明海、吉次峠、植木、隈府を結ぶ線に防衛陣地を築きあげた。

 3.22日、政府軍の黒田参軍は八代から宮の原に出、ここで西郷軍と激戦した。増援を得た西郷軍と政府軍の戦闘は24、25日と続き、戦況は一進一退した。

 3.23日、政府軍が再び植木、木留を攻撃し、一進一退の陣地戦に突入した。同日、黒田参軍は八代から宮の原に出、ここで西郷軍と激戦した。増援を得た西郷軍と政府軍の戦闘は3.24-25日と続き、戦況は一進一退した。

 3.25日午後、政府軍の長崎を出発した別働第二旅団(山田少将)・別働第三旅団(川路少将)が八代に上陸した。同日、政府軍は植木に柵塁を設け、攻撃の主力を木留に移した。

 この頃、西郷軍は、戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野の命で淵辺群平、別府晋介、辺見らが鹿児島に戻り、新たな兵力の徴集にあたった。3.25-26日の両日で1500名ほどを徴兵したものの、政府軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていた為、この兵力は熊本にいる西郷軍との合流ができなかった。よって、この部隊は人吉から下って、八代から熊本へ進軍中の政府軍を背後から攻撃し、退路を断って孤立させるという作戦のもとで行動することになった。

 3.26日、黒田参軍は別働第一旅団を左翼、別働第二旅団を中央、警視隊を右翼に配し、艦砲射撃の援護のもと三方から小川方面の西郷軍を攻撃し、激戦の末撃退して小川を占領した。この時、西郷軍の猛将永山弥一郎が、次のように激励している。

 「諸君何ぞかくの如く怯なるや。もし敵をしてこの地を奪はしめんか。熊本城外の我が守兵を如何にせん。大事これに因て去らんのみ、生きて善士と称し、死して忠臣と称せらるゝは唯この時にあり、各死力を尽し刀折れ矢竭(つ)き而して後已(やまん)」(「薩南血涙史」)。

 しかし、戦況を逆転することはできなかった。

 3.28日、福岡県士族・越智彦四郎らが西郷軍に呼応して福岡城を襲撃するも城兵に敗北する。

 3.30日、政府軍主力が、三ノ岳の西郷軍熊本隊を攻撃する。黒田参軍は別働第三旅団に娑婆神嶺、別働第一旅団・別働第二旅団に松橋を攻撃させた。別働第三旅団は娑婆神嶺を占領、別働第一旅団と別働第二旅団は大野川の線まで前進した。

 3.31日、別働第二、第三旅団は山背と本道の両面から松橋を攻撃し、別働第一旅団は北豊崎から御船に進み、西郷軍の右側を攻撃した。西郷軍が川尻に後退したことにより松橋を占領した。同日、増田宗太郎らが西郷軍に呼応して大分県で挙兵し、中津支庁などを襲撃。

 3月、福地桜痴が西南戦争に従軍。

 4.1日、増田ら蜂起軍が西郷軍に呼応して大分県庁を襲撃するも失敗に終わる。同日、政府軍が半高山、吉次峠を占領。政府別働第一旅団軍が西郷軍夜襲隊を追撃して宇土へ進出。別働第三旅団軍は甲佐に退却した西郷軍を追撃して堅志田を占領した。

 4.2日、政府郡は木留を占領し、西郷軍は辺田野に後退し、辺田野・木留の集落は炎上した。

 4.3日、早朝の霧に乗じた西郷軍の急襲を別働第三旅団が激闘5時間の末、これを退け、追撃して緑川を越えて西郷軍の側背を衝き、進んで甲佐を占領した。西郷軍は悉く御船に退却した。

鳥巣の戦い、城東会戦
 鳥巣では、3.10日に西郷軍がこの地の守備を始めてから4.15日に撤退するまでの間、政府軍との間に熾烈な争いが繰り広げられた。まず3.30日の明け方に近衛鎮台の2隊が二手に分かれて隈府に攻め入ってきた。始めは人数不足で不利な状況だった西郷軍であったが、そのうち伊東隊による応援もあり、どうにか政府軍を敗退させることができた。

 4.4日、政府が壮兵1万人を募集。

 4.4日、八代で政府軍と西郷軍が衝突。同日、人吉から球磨川に沿い、或いは舟で下って八代南郊に出た西郷軍は、まず坂本村の政府軍を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、4.5-6日と勝利を収め八代に迫った。

 4.5日、政府軍は本営にて軍議を開く。政府軍の第三旅団(三浦梧楼少将)が攻撃をしかけ、西郷軍の平野隊と神宮司隊守備している真ん中に攻め入った。虚をつかれた両隊が応戦するものの敗走を余儀なくされた。これを聞いた西郷軍の野村忍介は植木にいた隊を引き連れて鳥巣に向かい、挽回しようと奮戦するが、結局、この日一日では決着はつかなかった。

 4.6日、黒川通軌大佐率いる別働第四旅団が宇土戸口浦に上陸した。

 4.7日、官軍がこの地に一旦見切りをつけ、古閑を先に攻略しようとしたことにより、一時的に休戦状態になった。一方古閑では、平野隊・重久隊の必死の抗戦により政府軍は撤退させられた。黒川通軌大佐率いる別働第二旅団が、別働第一、第四旅団の援護を得て緑川左岸に進出している西郷軍を右岸に押し返した。また第二、第四旅団は木原山急襲の西郷軍を挟撃して川尻に敗走させた。同日、政府軍新設別働第4旅団が宇土に上陸。同日、古閑で、平野隊・重久隊の必死の抗戦により政府軍はやむなく撤退した。

 4.8日、辺田野方面で激戦となり、政府軍は萩迫の柿木台場を占領した。4.7-8日の政府軍の反撃によって、西郷軍は八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。

 4.9日、西郷軍は勇戦し、再び隈府に攻め入った政府軍を撃退したが、弾丸・武器の不足によりこれ以上の戦闘を不可能と考え、赤星坂へ撤退した。

 4.10-13日、政府軍の鳥巣再攻略が始まり、西郷軍も応戦したが、いよいよ武器がつきてしまったうえに、鳥巣撤退命令が下され為、この地を後にして大津に向かった。

 4.10日、政府別働軍が、総攻撃を12日と定める。

 4.11日、西郷軍が再び八代を攻撃。政府軍が敗退する。

 4.12日、別働第三、第一旅団が一斉に攻撃を開始した。別働第一旅団は宮地を発して緑川を渡り、西郷軍を攻撃した。西郷軍は最後の反撃を試みたが退却を余儀なくされた。この時、負傷を推して二本木本営から人力車で駆けつけた永山弥一郎は酒樽に腰掛け、敗走する西郷軍兵士を叱咤激励していたが、挽回不能と見て、民家を買い取り、火を放ち、従容として切腹した。御船が政府軍に占領された。

 同日、別働第二旅団は、新川堤で西郷軍の猛射に阻まれ、第四旅団も進撃を阻止された。

 4.13日、別働第二旅団と別働第四旅団は連繋しながら川尻目指して進撃した。別働第四旅団の一部が学科新田を攻撃して西郷軍を牽制している間に、主力が緑川を渡り、西郷軍と激戦しながら川尻へと進んだ。川尻に向かった別働第四旅団と第二旅団は両面から西郷軍を攻撃して退け、遂に川尻を占領した。

 同日、別働第二旅団の山川浩中佐は、緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て機逸すべからずと考え、兵を分けて、自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入し、遂に城下に達した。城中皆蘇生した思いで喜んだが、後に山川中佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。これにより、西郷軍は熊本城包囲から退却を始めた。

 この間、鳥巣でも激戦が展開された。3.10日に西郷軍がこの地の守備を始めてから4.15日に撤退するまでの間、両軍の熾烈な争いが繰り広げられた。

 4.14日、黒田清隆の率いる政府軍第1・第2旅団が、熊本城に入る。同日、桐野利秋は、熊本隊大隊長池辺吉十郎の建議により、二本木の本営を木山に移した。同時に鹿子木の中島健彦、鳥巣の野村忍介に急使を送って川尻の敗戦を報せ、適宜兵を木山に引き揚げるように伝えた。

 4.15日、西郷軍の全軍が植木、萩迫、鐙田、三の岳より退去し始めた。政府軍はこれを追って大進撃を開始した。

 4.17日、一箇大隊に西郷軍の右翼をつかせる作戦が成功して政府軍が有利となり、西郷軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いの時、協同隊の宮崎八郎が戦死し、別府晋介が足に重傷を負った。

 西郷軍諸隊は、熊本城、植木から逐次撤退し、桐野らが本営木山を中心に、右翼は大津・長嶺・保田窪・健軍、左翼は御船に亘る20㎞余りの新たな防衛線を築き、ここで南下する政府軍を迎え撃ち全滅させる作戦をとることにした。

 同日、政府軍が熊本城で軍議。同日、熊本に入った政府軍と入れ替わる形で進駐していた別働第三旅団が熊本から引き返して来て、西郷軍最左翼の御船を攻めた。坂元指揮の諸隊がはこの攻撃は退けたが、それに続く別働第一・第二・第三旅団の西・南・東からの包囲攻撃には堪えきれず敗れ去った。

 4.19日、熊本鎮台・別働第五旅団・別働第二旅団が連繋して健軍地区の延岡隊を攻めた。延岡隊は京塚を守って健闘したが、弾薬が尽きたので後線に退き、替わって河野主一郎の中隊が逆襲して政府軍を撃破した。政府軍は別働第一旅団からの援軍を得たが苦戦した。政府軍はさらに援軍を仰いでやっとのことで西郷軍の2塁を奪ったが、西郷軍優位のまま日没になった。

 4.20日黎明、第一・第二・第三旅団が連繋して大津街道に進撃した。野村の諸隊は奮戦してこれを防ぎ、そのまま日没に及んだ。同日、別働第五旅団の主力が保田窪地区の西郷軍を攻めた。長嶺地区の貴島は抜刀隊を率いて勇進し、別働第五旅団の左翼を突破して熊本城へ突入する勢いを見せた。熊本城にいた山県参軍は品川弥二郎大書記官からの政府軍苦戦の報告と大山巌少将からの西郷軍が熊本に突出する虞れがあるとの報告を聞き、急遽熊本城にあった予備隊第四旅団を戦線に投入するありさまとなった。

 午後3時、政府軍は猛烈な火力を集中して西郷軍の先陣を突破して後陣に迫ったが、中島が指揮する西郷軍の逆襲で左翼部隊が総崩れとなった。腹背に攻撃を受けた政府軍は漸く包囲を脱して後退した。この結果、別働第五旅団と熊本鎮台の連絡は夜になっても絶たれたままになった。同日、政府軍が御船で大勝、西郷軍が矢部に退去。

 4.19-20日、両軍の衝突が続き、戦いは一挙に熊本平野全域に及んだ。先に西郷軍最左翼の御船が敗れ、20日夜半には最右翼の大津の野村部隊も退却した。

 4.21日早朝、政府軍の第一・第二旅団が大津に進入し、次いで西郷軍を追撃して戸嶋・道明・小谷から木山に向かい、小戦を重ねて木山に進出した。第三旅団は大津に進出してここに本営を移した。

 この経緯を「城東会戦」と云う。西郷軍は左翼では敗れたものの、右翼の長嶺・保田窪・健軍では終始優勢な状況にあった。しかし、政府軍は最右翼の大津と最左翼の御船から西郷軍本営の木山を挟撃する情勢になった。これに対し桐野は木山を死所に決戦をする気でいた。しかし、野村忍介・池辺の必死の説得で桐野は遂に翻意し、撤退し本営を東方の矢部浜町へ移転することに決し、自ら最西郷軍退却の殿りをつとめた。こうして本営が浜町に後退したために、優勢だった西郷軍右翼各隊も東方へ後退せざるを得なくなり、関ヶ原の戦い以来最大の野戦となった「城東会戦」はわずか一日の戦闘で決着がついた。

 この間、熊本城籠城が40日になり、糧食・弾薬が欠乏してきた鎮台は余力があるうちに征討軍との連絡を開こうとして、南方の川尻方面に出撃することにした。4.8日、隊を奥保鞏少佐率いる突囲隊、小川大尉率いる侵襲隊、及び予備隊の3つに分け出撃した。侵襲隊が安巳橋を急襲し、戦っている間に突囲隊は前進し、水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て宇土の衝背軍と連絡した。一方、侵襲隊は西郷軍の混乱に乗じて九品寺にある米720俵、小銃100挺などを奪って引き揚げた。

【西郷軍、人吉に本営を置く】
 4.21日、西郷軍が木山で敗れ、本営を矢部浜町に移す。矢部浜町の軍議で、村田新八・池上が大隊指揮長を辞め、本営附きとなって軍議に参画すること、全軍を中隊編制にすること、三州(薩摩国・大隅国・日向国)盤踞策をとること、人吉をその根拠地とすることなどを決めた。この後即日、西郷軍は全軍を二手に分けて椎原越えで人吉盆地へ退却した。

 4.22日、西郷軍が人吉を三州割拠の地と定め、軍を編制改革す。西郷軍最右翼の大津へは野村忍介指揮の部隊が配備された。同日、西郷軍の雷撃隊 (13中隊、約1300名)の指揮長に抜擢された辺見は日ならずして大口防衛に派遣された。

  4.23日、太政大臣三条実美が、島津久光の休戦案を却下する旨、島津珍彦らに伝え帰郷させる。同日、熊本城の包囲が解けたこの日、政府は参軍川村純義海軍中将を総司令官として別働第一旅団(旅団長高島鞆之助)・別働第三旅団2箇大隊(田辺良顕中佐)を主力とする陸海軍混成軍を鹿児島に派遣した。

 4.27日、川村純義らの率いる政府軍が海路鹿児島に入る。同日、人吉盆地に入った西郷軍は本営を人吉に置いた。同日、上陸して本営を設けた川村参軍は情勢を判断して増援を求めた。そこで政府は新たに第四旅団(曾我祐準少将)・別働第五旅団(大山巌少将)1箇大隊を派遣した。川村参軍が最初に着手したのは市民生活の安定で、仁礼景通大佐を仮の県令として警察業務を代行させ、逃散してしまった県官の逮捕・査明等を行わせた。

 4.28日、西郷隆盛ら西郷軍幹部が人吉に到着。これ以来、人吉に本営を設け、ここを中心に政府軍と対峙することになった。西郷軍は江代で軍議を開き、人吉に病院や弾薬製作所を設けること、諸隊の各方面配置を取り決め逐次実行に移した。中島健彦を振武隊など11箇中隊の指揮長として鹿児島方面に派遣した。監軍貴島清を伴って出発した。 

 4.30日、常山隊三番中隊は中村、遊撃隊六番小隊春田吉次は頭治などそれぞれ要地を守備したが、5.3日から7日までの宮藤の戦い、5.10日から14日までの平瀬の戦いで、政府軍は中村中佐の活躍によりこれらを敗走させることに成功した。

 同日、西郷から豊後方面突出の命を受けた奇兵隊指揮長野村忍介は、椎葉山を越え、一部を富高新町(細島西方)の守備及び細島方面の警備に任じ、主力は延岡に進出した。

【西郷軍、戦費調達のため、西郷札を発行】
 4月、西郷軍、戦費調達のため、西郷札を発行。

【西郷軍主力が延岡に転戦する】
 4.30日、常山隊三番中隊は中村、遊撃隊六番小隊春田吉次は頭治などそれぞれ要地を守備する。同日、西郷から豊後方面突出の命を受けた奇兵隊指揮長・野村忍介は、椎葉山を越え、一部を富高新町(細島西方)の守備及び細島方面の警備に任じ、主力は延岡に進出した。

 5.1日、佐野常民と大給恒、博愛社を設立し、西南戦争の負傷者を敵味方の区別なく治療。同日、中島健彦は鹿児島に向かう途中で別府晋介・桂久武らと会して軍議を開き、別府晋介が横川に主張本営を置いて鹿児島方面を指揮し、前線部隊の中島らはさらに進んで山田郷から鹿児島に突入することとなった。

 5.1-9日、別働第二旅団は、7つの街道から球磨盆地に攻め入る作戦をたて遂行した。まず前衛隊は球磨川北岸沿いを通る球磨川道、南岸沿いを通る佐敷道から攻めたが、街道は大部隊が通るには困難な地形であったために政府軍は各地で西郷軍に敗退した。しかし、西郷軍は人員・物資の不足により次第に当初の勢いがなくなった。  

 5.3日、新県令岩村通俊が赴任して来、西郷に告諭書を送った。同日、西郷軍はこの日、山田街道から城山北方に出、背面から政府軍を攻撃しようとしたが雨に阻まれ、4日は激しい抵抗にあって冷水へ後退した。

 5.4日、政府軍は、別働第三旅団の3箇大隊を水俣から大口攻略のため派遣した。この部隊は途中、小河内・山野などで少数の西郷軍を撃退しながら大口の北西・山野まで進攻した。辺見は政府軍を撃退すべく大口の雷撃隊を展開した。

【西郷軍、延岡に拠点を移す】
 5.4日、三田井方面に派遣された池上指揮部隊約1千名が、西郷軍の本拠地人吉と延岡の交通路にあたる三田井の警備に部隊の一部を当て、主力は東進して延岡に進出した。延岡に進出した西郷軍はここに出張本営を設け、弾薬製造、募兵、物資調達をし、奇兵隊1箇中隊を宮崎に、奇兵隊2中隊を美々津に、奇兵隊3中隊を細島に、奇兵隊3箇中隊を延岡に配置して、政府軍がまだ進出していない日向を支配下に置いた。以後、池上は延岡から豊後方面に進出した野村忍介を後援・指揮するとともに三田井方面の指揮をも執った。

 5.5日、政府軍が田ノ浦に上陸。材木村は田ノ浦から人吉に通じる要路であったため鵬翼隊四・六番中隊は材木村に見張りを置き、大野口を守備した。雷撃隊と政府軍は牛尾川付近で交戦したが、雷撃隊は敗れ、政府軍は大口に迫った。辺見は雷撃隊を中心に正義隊・干城隊・熊本隊・協同隊などの諸隊を加えて大塚付近に進んだ。同日、遅れて到着した相良を指揮長とする行進隊など10箇中隊が振武隊と合流した。

 5.3-7日、宮藤の戦い。

 5.5日、田ノ浦に政府軍が上陸。材木村は田ノ浦から人吉に通じる要路であった為、鵬翼隊四・六番中隊は材木村に見張りを置き、大野口を守備した。遅れて到着した相良を指揮長とする行進隊など10個中隊が振武隊と合流した。

 5.6日、政府軍が材木村の鵬翼隊四番中隊を攻めたので、西郷軍はこれを迎え撃ち、一旦は佐敷に退却させることに成功した。同日、西郷軍は、西方に迂回して甲突川を越えて急襲しようとしたが、渡河中に猛烈な射撃を受けて大敗し伊敷へ後退した。この頃、西郷軍は各郷から新兵を募集し、新振武隊155箇中隊を編成した。また上町商人からなる振武附属隊も作られた。

 5.8日、辺見隊が久木野本道に進み、大挙して攻撃を加え政府軍を撃退した。押されて政府軍は深渡瀬までさがった。

 5.9日、久木野・山野を手に入れた辺見は、自ら隊を率いて官軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩境を越えて追撃した。

 政府軍が再び材木村の鵬翼隊六番中隊を攻めた。激戦がおこなわれたが、西郷軍は敗れ長園村に退いた。このとき淵辺が本営より干城隊八番中隊左半隊を応援に寄越したので、政府軍を挟み撃ち攻撃で翻弄し、塁を取り戻した。また、一ノ瀬の鵬翼隊三番中隊は政府軍の襲来に苦戦しつつも材木村まで到達し、材木村の薩軍と共に塁の奪還に成功した。さらに鵬翼隊二・五番中隊、干城隊四番中隊、その他諸隊は佐敷方面湯ノ浦の政府軍を攻めたが失敗し大野に退却した。

 5.10-14日、平瀬の戦い。政府軍は中村中佐の活躍により西郷軍を敗走させることに成功した。

 5.8日、辺見・河野主一郎・平野・淵辺はそれぞれ雷撃隊・破竹隊・常山隊・鵬翼隊の4隊を率いて神瀬箙瀬方面に向かった。

 5.9日、両軍の戦闘開始。同日、政府軍は再び材木村の鵬翼隊六番中隊を攻めた。激戦がおこなわれたが、西郷軍は敗れ、長園村に退いた。この時、淵辺が本営より干城隊八番中隊左半隊を応援に寄越したので、政府軍を挟み撃ち攻撃で翻弄し塁を取り戻した。同日、一ノ瀬の鵬翼隊三番中隊は政府軍の襲来に苦戦しつつも材木村まで到達し、材木村の西郷軍と共に塁の奪還に成功した。更に、鵬翼隊二・五番中隊、干城隊四番中隊、その他諸隊は佐敷方面湯ノ浦の政府軍を攻めたが失敗し大野に退却した。

 同日、久木野・山野を手に入れた辺見は、自ら隊を率いて政府軍に激しい攻撃を加えて撃退し、肥薩境を越えて追撃した。

 5.10日、奇兵隊指揮長・野村忍介は、この日以後、奇兵隊8個中隊を率いて、本格的に豊後攻略を開始した。

 5.11日、雷撃隊は水俣の間近まで兵を進め、大関山から久木野に布陣した。人吉防衛のため球磨川付近に布陣していた淵辺率いる鵬翼隊6箇中隊(約600名)も佐敷を攻撃した。また池辺率いる熊本隊約1500名も矢筈岳・鬼岳に展開し、出水・水俣へ進軍する動きを見せた。

 5.11-13日にかけては、催馬楽山の西郷軍と政府の海軍軍艦龍驤との間で大規模な砲撃戦がおこなわれた。

 5.12日、西郷軍先発の4箇中隊が延岡を出発して重岡に到着した。同日、別働第二旅団は球磨盆地の北部にある五家荘道等の5つの街道から南下し始めた。西郷軍の球磨川北部の守りが薄かったので、別働第二旅団は12-25日までの13日間に五木荘道の頭治・竹の原、球磨川道の神瀬、種山道、仰烏帽子岳など多くの要地を陥落させた。 同日、鵬翼隊は佐敷で敗れたが、雷撃隊は圧倒的に優る政府軍と対等に渡り合い、「第二の田原坂」といわれるほどの奮戦をした。これを見た政府軍は増援を決定し、第三旅団を佐敷へ、第二旅団を水俣へ派遣した。

 5.13日、西郷軍の4箇中隊が竹田に入って占領し、ここで募兵して報国隊数100名を加えた。

 5.14日、後続の4箇中隊も竹田に到着し、大分突撃隊を選抜して部隊に加えた。西郷軍の豊後攻略は順調に進展した。

 同日、西郷軍に包囲されて市街の一画を占領している状態の別働第一旅団が武村を攻撃したが敗退した。同日、高城率いる正義隊など6箇中隊が延岡街道鏡山の熊本鎮台警備隊を襲撃し、追撃して馬見原、川口に進出した。熊本鎮台部隊が5.22日に馬見原から竹田方面に転進すると、この方面を担任することになった。5.14-17日にかけては、政府軍によって西郷軍の硝石製造所・糧秣倉庫等が焼却された。

 5.15日、破竹隊の赤塚源太郎以下1箇中隊が政府軍に下るという事件が起きた。これより神瀬周辺での両軍の攻防は一進一退しながら6月頃まで続いた。同日、政府軍は熊本鎮台と第一旅団から部隊を選抜して竹田に投入して反撃に出た。両軍の激戦は10数日に及ぶ事となった。

 5.16日、政府軍が一ノ瀬の鵬翼隊五番中隊を攻撃した。西郷軍は苦戦したが、大野からきた干城隊三番中隊の参戦により政府軍を退けることができた。

 5.19日、別働第二旅団(山田少将)は、人吉に通じる諸道の1つ万江越道の要衝水無・大河内の西郷軍を攻撃した。これを迎え撃った西郷軍の常山隊七番中隊は一旦鹿沢村に退いた。


 5.20日、豊後竹田で両軍交戦。別働第三旅団が久木野に進入した。大野本営にいた淵辺は干城隊番三・四・八番中隊に命令して久木野の官軍を襲撃させ、退却させることに成功した。この戦いは西郷軍の圧勝となり、銃器や弾薬、その他の物品を多く得た。

 5.21日、桐野利秋が、宮崎支庁長に支援を要請。西郷軍は水無・大河内の政府軍に反撃したが、勝敗を決することができず、再び鹿沢村に引き揚げた。同日、中村中佐は、横野方面の西郷軍を襲撃し岩野村に敗走させた。一方、尾八重を守っていた干城隊二番中隊は岩野村を守備した。

 同日、政府軍の中村中佐は、横野方面の西郷軍を襲撃し岩野村に敗走させた。一方、尾八重を守っていた干城隊二番中隊は岩野村を守備し、5.22日、前面の政府軍を襲撃し敗走させた。さらに追撃しようとしたが弾薬が不足していたこともあり、米良の西八重に退却した。  5.22日、西郷軍が、前面の政府軍を襲撃し敗走させた。さらに追撃しようとしたが弾薬が不足していたこともあり、米良の西八重に退却した。同日、政府、第十五銀行に西南戦争戦費を借り入れる。同日、淵辺は佐敷口の湯ノ浦に進撃することを決め、干城隊三・四番中隊、鵬翼隊六番中隊、その他2隊に進軍を命じた。同日、大野の本営にいた辺見は久木野に進撃することを決意し、淵辺に応援を要求した。淵辺群平は干城隊八番中隊を久木野に寄越した。そこで、たまたま大野口から湯ノ浦に進撃していた干城隊三・四番中隊と合流し政府軍を退けた。

 同日、川村参軍は第四旅団1箇大隊半・別働第三旅団2箇中隊を右翼、別働第一旅団2箇大隊半を左翼として軍艦4隻と小舟に分乗させ、艦砲で援護しながら重富に上陸させて西郷軍の後方を攻撃させた。叉、軍艦龍驤を加治木沖に回航して薩軍の増援を阻止させた。左右翼隊の攻撃でさしもの西郷軍も遂に重富から撃退され、次いで磯付近で包囲攻撃を受け北方に敗走した。こうして政府軍は重富を確保した。

 5.23日、中島・貴島・相良は政府軍に反撃し、行進隊8箇中隊と奇兵隊2箇中隊で雀宮・桂山を襲撃し、多数の銃器・弾薬を獲得した。同日、別働第三旅団が倉谷・高平・大野方面の西郷軍を次々と破り、大野に進入してきた。鵬翼隊五番中隊左小隊、干城隊二番中隊は防戦したが、敗れて石河内に退却した。久木野にいた干城隊八番中隊も参戦しようとしたが、大野の塁は政府軍に奪われてしまった。淵辺群平は、塁を奪還するため夜襲を命じたが、政府軍の反撃で退却した。

 同日、一ノ瀬の鵬翼隊三番中隊の塁にも政府軍が襲来した。三番中隊は大野口の敗報を聞き、左小隊を鎌瀬、右小隊を植柘に分けて退いた。その後神ノ瀬方面も敗れたという報告を聞き、舞床に退いた。鵬翼隊二番中隊は岩棚より程角道三方堺に退却した。同日、政府軍は、矢筈岳へ進攻し、圧倒的物量と兵力で西郷軍を攻撃した。熊本隊は奮戦したが、支えきれずに撤退した。

 5.24日、西郷軍に包囲されて市街の一画を占領している状態の別働第1旅団は武村を攻撃したが敗退した。別働第一旅団と別働第三旅団は大挙攻勢に出、涙橋付近で交戦する一方、軍艦に分乗した兵が背後を衝き、西郷軍を敗走させた。逆襲した西郷軍と壮烈な白兵戦が展開されたが、夕方、暴風雨になり、これに乗じた政府軍の猛攻に弾薬乏しくなった西郷軍は耐えきれず、吉野に退却した。この紫原(むらさきばる)方面の戦闘は鹿児島方面でおこなわれた最大の激戦で、政府軍211名、西郷軍66名の死傷者を出した。

 5.25日、第四旅団は下田街道を南下し、坂元・催馬楽・桂山から別府隊・振武隊十番中隊の背後を攻撃し、吉野へ追い落とした。同日、5.22日に熊本鎮台部隊が馬見原から竹田方面に転進すると、この方面を担任することになった第1旅団は折原を攻撃し、遂に三田井を占領した。

 5.26日未明、佐々友房・深野一三らが指揮する約60名の攻撃隊が矢筈岳の政府軍を急襲したが、政府軍の銃撃の前に後退し、熊本隊はやむなく大口へと後退した。同日、第四旅団が鳥越道と桂山の二方から前進攻撃したところ、西郷軍は抵抗することなく川上地方へ退却した。同日、第一旅団は折原を攻撃し、遂に三田井を占領した。同日、木戸孝允死去。

 5.28日明け方、政府軍が舞床の鵬翼隊三番中隊を襲った。西郷軍はこの日は防戦に成功した。

【西郷軍、宮崎支庁に拠点を移す】
 5.28日、桐野は宮崎から鹿児島方面および豊後等の軍を統監していたが、ここを根拠地とするために宮崎支庁を占領し、軍務所と改称した。同日、政府軍が鹿沢村の常山隊七番中隊を攻撃した。常山隊は必死に防戦したが、弾薬がつきたために内山田に退き、翌29日に大村に築塁し、守備を固めた。

 5.29日 政府軍が再び鵬翼隊三番中隊右半隊を攻撃。西郷軍は塁を捨てて後退したが、鵬翼隊三番中隊左小隊の活躍により塁を取り返し、銃器・弾薬を得た。この夜、三方堺の鵬翼隊二番中隊も襲われ、弾薬不足の為背進した。この為、舞床の西郷軍は鵯越に退いた。札松方面の鵬翼隊二番中隊が人吉に退却したため、振武隊二番中隊・干城隊八番中隊は程角越の応援の為に進撃し、振武隊二番中隊は程角本道の守備を開始した。鵬翼隊二番中隊も同じく程角越に進撃した。西郷軍が豊後竹田から敗走、竹田は陥落して政府軍の手に落ちた。同日、政府は第2号召募を行い、召募巡査を以て新選旅団を編成。

 同日、別働第二旅団の侵攻で危険が目前に迫った人吉では、村田新八らが相談して安全をはかるために、池上に随行させて狙撃隊等2千名の護衛で西郷を宮崎の軍務所へ移動させた。同日、第四旅団が西郷軍の不意を衝いて花倉山と鳥越坂から突入したが、これも撃退された。

 5.30日夜明け頃、政府軍が程角左翼の塁を攻撃し、西郷軍は敗北した。政府軍は勢いに乗じて干城隊八番中隊・振武隊十六番小隊を攻めた。西郷軍各隊は大いに苦戦し、次々と兵を原田村に引き揚げた。激しい攻防が続き、勝敗は決まらず夜になった。

 同日、山田少将が指揮する別働第二旅団の主力部隊は、五家荘道・照岳道などから人吉に向かって進撃した。これと戦った西郷軍は各地で敗退し、五家荘道の要地である江代も陥落した。また神瀬口の河野主一郎、大野口の淵辺はともに人吉にいたが、西郷軍が敗北し、人吉が危機に陥ったことを聞き、球摩川に架かる鳳凰橋に向かった。しかし、政府軍の勢いは止められず、橋を燃やしてこれを防ごうとした淵辺は銃撃を受けて重傷を負い、吉田に後送されたが亡くなった。

 5.31日、西郷軍各隊は原田村に兵を配置した。 西郷が、桐野利秋が新たな根拠地としていた宮崎の軍務所(もと宮崎支庁舎)に入る。西郷が軍務所に着くと、ここが新たな西郷軍の本営となり、軍票(西郷札)などが作られ、財政の建て直しがはかられた。

 6.1日早朝、諸道の政府軍が三洲盤踞の根拠地となっていた人吉に向かって進撃し、照岳道の山地中佐隊に続いて次々と人吉に突入した。政府軍は村山台地に砲台を設置し、西郷軍本営のあった球磨川南部を砲撃した。同諸方面の西郷軍はすべて敗れ、人吉や大畑に退却した。これに対し村田新八率いる西郷軍も人吉城二ノ丸に砲台陣地を設け対抗した。この時の戦いで、永国寺や人吉城の城下街が焼かれた。

 人吉の危機を聞きつけた中神村の鵬翼隊六番中隊・雷撃隊五番中隊・破竹隊一番中隊、その他2隊、鵯越の鵬翼三番中隊、戸ノ原の鵬翼隊五番中隊等の諸隊は大畑に退却した。原田村の干城隊八番中隊・振武隊二番中隊・鵬翼隊二番中隊・振武隊十六番小隊、郷之原の破竹隊四番中隊、深上の雷撃隊一番中隊、馬場村の雷撃隊二番中隊等は、戦いながら人吉に向かった。

 この戦いは三日間続いた。西郷軍本隊は大畑などで大口方面の雷撃隊と組んで戦線を構築し、政府軍のさらなる南下を防ごうとしたが失敗し、堀切峠を越えて、飯野へと退却した。こうして人吉は政府軍の占領するところとなった。三洲盤踞の根拠地となっていた人吉が陥落し、西郷軍本隊は大畑へ退いた。同日、奇兵隊は臼杵を占領した。 同日、山口県士族町田梅之進らの挙兵計画が発覚し、県官巡査と戦うも破れる。

 同日、三田井を占領された西郷軍が日影川の線を占領し、政府軍の進撃を阻止した。西郷軍は苦戦、後退しながらも、8月まで延岡方面への官軍の進出を阻止しつづけた。奇兵隊が臼杵を占領した。

 6.3日、西郷軍が久木野・大口方面の戦に敗る。同日、政府軍の二方面からの大関山への総攻撃が始まった。政府軍の正面隊は原生林に放火しながら進撃した。球磨川方面からは別働隊が攻撃した。雷撃隊はこれらを激しく邀撃したが、二面攻撃に耐え切れず、大口方面へ後退した。これを追って政府軍は久木野前線の数火点および大関山・国見山を占領した。

 6.4日、政府が、本年の補充兵、免役壮丁を徴募することを令する。同日、政府軍が人吉を占領。西郷軍人吉隊隊長犬童治成らが部下とともに別働第二旅団本部に降伏し、その後も本隊に残された部隊が政府軍の勧告を受け入れ次々と降伏した。人吉隊の中には後に政府軍に採用され軍務に服したものもあった。

 6.7日、久木野が陥落し、西郷軍は小河内方面に退却した。臼杵を占領していた奇兵隊に対し、野津道貫大佐の指揮する4個大隊の攻撃と軍艦3隻による艦砲射撃が始まり、6.10日、敗退する。北方から圧力を受けた奇兵隊は6.22日、本拠地を熊田に移した。

 6.8日、政府軍はこれを追撃して小河内を占領した。

【立志社の片岡健吉らが国会開設建白書を提出】
 6.9日、立志社の片岡健吉ら、京都の天皇行在所に国会開設建白書を提出。

 6.12日、政府が、立志社の建白書を却下する。

【西郷軍、善戦及ばず各地で苦戦を強いられる】
 6.10日、西郷軍が、野津道貫大佐の指揮する4箇大隊の攻撃と軍艦3隻による艦砲射撃により臼杵で敗退した。

 6.12日、人吉方面撤退後の村田新八は都城に入り、人吉・鹿児島方面から退却してきた西郷軍諸隊を集め、都城へ進撃する政府軍に対する防備を固めた。

 6.13日、山野が陥落した。政府軍は大口へ迫り、人吉を占領した別働第二旅団は飯野・加久藤・吉田越地区進出のため、大畑の西郷軍本隊に攻撃を加えた。結果、雷撃隊と薩軍本隊との連絡が絶たれた。

 6.17日、政府軍は八代で大口方面に対する作戦会議を開き、別働第二旅団は小林攻略と大口方面での政府軍支援、別働第三旅団は大口攻略後、南の川内・宮之城・栗野・横川方面を攻略するという手筈が整えられた。これにより雷撃隊は政府軍の戦略的脅威の範疇から外れることとなった。 同日、人吉に残った村田新八は、小林に拠り、振武隊、破竹隊、行進隊、佐土原隊の約1千名を指揮し、1ヶ月近く政府軍と川内川を挟んで小戦を繰り返した。

 6.18日、政府軍の山野への進撃に対し、雷撃隊を率いる辺見は砲弾の雨の中、必死に政府軍をくい止めていた。だが、北東の人吉からの別働第二旅団の攻撃、北西の山野からの別働第三旅団の攻撃により、郡山・坊主石山が別働第二旅団の手に落ちた。結果、両者の間の高熊山に籠もっていた熊本隊は完全に包囲された。

 6.19日、河野主一郎は破竹隊を率いて別働第二旅団が守る飯野を6.21日まで猛撃して奪取をはかったが、政府軍は善戦し、陥すことは出来なかった。

 6.20日、政府軍は、高熊山の熊本隊と雷撃隊が占領する大口に攻撃を加えた。この時の戦闘では塹壕に拠る抜刀白兵戦が繰り広げられた。しかし、人吉・郡山・坊主石山からの三方攻撃の中、政府軍の圧倒的な物量によりさしもの辺見指揮下の部隊も敗れ、遂に大口が陥落した。雷撃隊が大口から撤退することになった時、辺見は祠の老松の傍らに立ち、覚えず涙を揮って「私学校の精兵をして、猶在らしめば、豈この敗を取らんや」と嘆いたと云われる。これが有名な「十郎太の涙松」の由来になった。

 6.22日、国産最初の軍艦清輝が竣工する。

 6.23日、大口南部の西郷軍を退けた川路少将率いる別働第三旅団が宮之城に入り川内川の対岸および下流の西郷軍を攻撃した。一斉突撃を受けた西郷軍は激戦の末、遂に鹿児島街道に向かって退却した。

 6.24日、別働第三旅団の部隊が催馬楽に至り、次々に西郷軍の堡塁を落として、夕方には悉く鹿児島に入り、鹿児島周辺の西郷軍を撃退した。こうして政府軍主力と鹿児島上陸軍の連絡がついた。同日、北方から圧力を受けた奇兵隊は本拠地を熊田に移した。

 同日、三田井を占領された西郷軍は、日影川の線を占領し、政府軍進撃を阻止した。こうして苦戦・後退しながらも、西郷軍は8月まで延岡方面への政府軍の進出を阻止しつづけた。

 6.25日、雷撃隊は大口の南に布陣し、曽木、菱刈にて政府軍と戦ったが、覆水盆に返ることなく、相良率いる行進隊と中島率いる振武隊と合流し、南へと後退していった。ここに大口方面における約2ヶ月もの戦いに幕は下りた。

 6.29日、退却した西郷軍は都城に集結していると予測した川村参軍は、別働第一旅団を海上から垂水・高須へ、第四旅団を吉田・蒲生へ、別働第三旅団を岡原・比志島経由で蒲生へ進め、都城を両面攻撃することとした。また海軍には重富沖から援護させ、鹿児島には第四旅団の1箇大隊を残した。

 7.1日、横川方面が官軍に制圧されてしまったため、西郷軍の雷撃隊六・八・十・十三番中隊、干城隊一・三・五・七・九番中隊、正義隊四番中隊等の諸隊は踊に退却し、陣をこの地に敷いた。

 7.6日、政府軍は、国分に進入して背後より踊の西郷軍を攻撃し、西郷軍は大窪に退却した。西郷軍は襲山の桂坂・妻屋坂を守備すべく、干城隊七番中隊などを向かわせ、その他の諸隊に築塁の準備をさせたが、踊街道から政府軍が進出しているとの情報を受け、正義隊四番・雷撃隊十三番・干城隊一番隊・雷撃隊八番隊がこれを防いだ。また、政府軍は襲山街道からも攻めてきたため、干城隊三・七番隊、雷撃隊六番隊がこれを防いだが、決着はつかず両軍は兵を退いた。ここで政府軍は第二旅団全軍をもって大窪の西郷軍を攻めた。

 同日、越山・別府九郎ら率いる市成口牽制の奇兵隊・振武隊・加治木隊は市成に到着した。越山らが兵を三方面に分けて進撃したのに対し、政府軍は阜上からこれを砲撃し、戦闘が開始された。戦闘は激しいものとなり、夕方、政府軍は民家に火を放ち、二川に退却した。西郷軍も本営の指令で兵を恒吉に引き揚げ、振武十一番隊を編隊し直し、奇兵隊一・二番中隊とした。

 7.7日、振武隊大隊長中島は国分より恒吉に到着した。このとき政府軍は百引・市成に進駐していたので、この方面への攻撃を決定した。

 7.8日、、越山・別府九郎ら率いる市成口牽制の奇兵隊、振武隊、加治木隊が百引に到着した。ここで三方面から政府軍を抜刀戦術で襲撃した。不意を突かれた政府軍は阜上からこれを砲撃し、戦闘が開始された。戦闘は激しいものとなり、夕方、官軍は民家に火を放ち、二川・高隈方面まで敗走した。この戦いで西郷軍の死傷者が8名ほどであったのに対し、政府軍の死傷者は95名ほどで、そのうえ大砲2門・小銃48挺・弾薬など多数の軍需品を奪われた。振武十一番隊を編隊し直し、奇兵隊一・二番中隊とした。

 7.10日、政府軍が加久藤・飯野に全面攻撃を加える。西郷軍は支えきれず、高原麓・野尻方面へ退却する。

 7.11日、破竹隊が小林を守備していたが、政府軍が侵入し政府軍の手に落ちた。同日、第三旅団が敷根・清水の両方面から永迫に進撃し、行進隊十二番中隊を攻撃したので、行進隊は通山へ退却した。一方、敷根・上段を守備していた行進隊八番中隊が政府軍の攻撃を受け、福原山へと退却した。行進隊八・十二番中隊は上段を奪回しようと政府軍を攻撃するが、破ることができず、通山へ退却した。

 同日、大崎に屯集しているとの情報を得た先発の奇兵隊が政府軍を奇襲したが、二番隊長が戦死するほどの苦戦をした。そこで、勝敗が決しないうちに蓬原・井俣村に退却した。一方、後発の振武隊は進路を誤り、荒佐の政府軍と遭遇し、半日に渡り交戦したが、結局大崎付近まで退却した。同日、破竹隊は小林を守備していたが、政府軍第二旅団によって占領された。

 7.12日、蓬原・井俣村の奇兵隊は大崎に進撃したが、荒佐野の官軍はこの動きを察知し、大崎にて両軍が激突した。当初、戦況は西郷軍にとって不利な方向に傾いていたが、大崎の振武隊と合流し政府軍に快勝した。しかし、末吉方面が危急の状態に陥ったので、この夜、村田新八は各隊に引き揚げて末吉に赴くように指示した。

 同日、辺見は赤坂の政府軍の牙城を攻撃するため、雷撃隊を率いて財部の大河内に進撃。この地は左右に山があり、中央に広野が広がっているという地形となっており、政府軍はその地形に沿う形で陣を敷いていたため、西郷軍は左右翼に分かれて山道から官軍を奇襲し優位に立ったが、雨が降り進退の自由を失い、あと一歩のところで兵を引き揚げた。

 7.13日、人吉が陥落。その後、干城隊指揮長阿多荘五郎は米良口の指揮を執ることとなり、諸隊を編成して米良方面の守りを固めた。

 7.14日、横川から転進してきた第二旅団が、小林から高原を攻撃し高原を占領した。

 7.15日早朝、行進隊・奇兵隊は嘉例川街道を攻撃したが、政府軍の守りは堅く、加治木隊指揮長越山休蔵が重傷を受けたため、攻撃を中止し通山へ退却した。

 7.17日、辺見は奇兵隊を率いてきた別府九郎と本営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、荒磯野の政府軍を攻撃するため兵を本道・左右翼に分け、夜明けに高野を出発した。辺見らの諸隊は政府軍に対し善戦するが、河野が本営に帰還するよう命じられたことによる右翼の指揮官の不在と官軍の援軍の参戦、弾薬の不足により、雷撃隊は高野へ、奇兵隊は庄内へとそれぞれ退却した。

 7.17日と21の両日、延岡方面にいた掘与八郎が高原麓を奪い返すために西郷軍約1千名(全軍指揮長とし雷撃隊・鵬翼隊・破竹隊などの9中隊を正面・左右翼・霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)を4つに分け、深夜に植松を発ち、正面・左右翼軍は暁霧に乗じて高原の官軍を奇襲し、あと一歩のところで奪還するところまで迫った政府軍と激戦をしたが、政府軍の増援と弾薬の不足により兵を引き揚げ、庄内、谷頭へ退却した。一方、霞権現へ向かった鵬翼三番隊は奇襲に成功し、銃器・弾薬等の軍需品を得た。同日、政府軍は警戒を強め、堡塁や竹柵を築いて西郷軍の奇襲に備えた。

 7.19日、都城危急の知らせにより高野の雷撃隊は庄内へ移動し守りを固めた。また辺見は7.23日の岩川攻撃作戦のために雷撃六番隊、干城七番を率いて岩川へ向かった。

 7.21日、西郷軍は再び高原を攻撃するため政府軍を攻撃するが、政府軍の強固な守備と援隊の投入により、高原奪還は果たせず、庄内へと退却した。 同日、政府軍は西郷軍と交戦。西郷軍は疲労のため勢いをなくし、別働第二旅団が翌7.22日に野尻を占領した。

 7.23、政府軍が岩川に進出したとの報を受け、高野から雷撃隊八・七番隊・干城隊七番隊を率いてきた辺見と合流し、辺見・相良を指揮長として岩川へ進撃し、政府軍と交戦した。16時間にも及ぶ砲撃・銃撃戦であったが、結局、西郷軍は政府軍を破れず、末吉へと退却した。同日、高山天包に進撃するも敗れ、越の尾に退却した。

 7.24日、村田は都城で政府軍六箇旅団と激戦をしたが大敗し宮崎へ退き、政府軍が都城を占領(都城の戦い)。同日、別働第三旅団は、粟谷から財部に進撃し、指揮長不在の西郷軍を攻撃して財部を占領した。続いて、退いた西郷軍を追って、右翼を田野口・猪子石越から三木南・堤通に進め、本体・左翼を高野村街道から進めさせ、平原村で河野主一郎部隊の守備を突破し、庄内を占領した。西郷軍が都城に退却したため、別働第三旅団はさらにこれを追撃して都城に侵入した。第四旅団は福山と都城街道・陣ヶ岳との二方面から通山を攻撃した。中島は振武隊を率いてこれを防ぎ、善戦したが、すでに都城入りしていた別働第三旅団により退路を阻まれて大打撃を受けた。その間に第四旅団は都城に入ることができた。別働第一旅団は岩川から末吉の雷撃隊(辺見)・行進隊(相良)と交戦し西郷軍を敗走させ、都城に入った。こうして、第3旅団、別働第3旅団、第4旅団により都城が陥落させられた。

 要所である庄内方面・財部方面が政府軍に占領された結果、都城の各方面で西郷軍は総崩れとなり、この日、政府軍は都城を完全に占領した。これ以降、西郷軍は政府軍へ投降する将兵が相次ぐものの、活路を宮崎へと見出していこうとした。しかし、この守備に適した都城という拠点を政府軍に奪取された時点で、戦局の逆転はほぼ絶望的となってしまった。

 同日、第三旅団は河野主一郎らの破竹隊を攻撃し、庄内を陥落させた。同日、別働第一旅団は末吉を攻撃し、別働第二旅団は財部を攻撃した。そしてついに第三旅団・別働第三旅団・第四旅団が都城を陥落させた。


 7.25日、西郷軍の中島や貴島らの振武隊、行進隊、熊本隊が山之口で防戦したが、第三旅団に敗北した。 この時、三股では別府九郎の奇兵隊などが防戦していた。

 7.27日、別働第三旅団が飫肥を攻めて陥落させた。この時、多くの飫肥隊員、西郷兵が投降した。

 7.28日、高岡を攻撃するため今別府に集まった第二旅団は、別働第二旅団と協力して紙屋に攻撃を仕掛けた。辺見・中島・河野主一郎・相良長良らの防戦により政府軍は苦しい戦いになったが、やっとの思いでこれを抜いた。

 7.29日、政府軍、清武を占領。同日、西郷隆盛、宮崎を去り北上する。政府軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領した。同日、越の尾を攻めてきた政府軍にまたも敗退した。

 7.30日、都城・飫肥・串間をおさえた第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は宮崎市の大淀河畔に迫った。同時に穆佐・宮鶴・倉岡を占領した。

 7.31日、桐野・村田らは諸軍を指揮して宮崎で戦ったが再び敗れ、西郷軍は広瀬・佐土原へ退く(宮崎の戦い)。第三旅団・第四旅団・別働第三旅団は大雨で水嵩の増した大淀川を一気に渡って宮崎市街へ攻め込んだ。西郷軍は増水のため政府軍による渡河はないと油断していたので、抵抗できず、 宮崎から撤退した。政府軍は宮崎市を占領した。次いで第二旅団により佐土原も占領した。

 宮崎市・佐土原と敗北した西郷軍は、桐野をはじめ辺見、中島・貴島・河野主一郎らの諸隊と、池辺の熊本隊、有馬が率いる協同隊やほかに高鍋隊も高鍋河畔に軍を構えて政府軍の進撃に備えた。これに対し政府軍は、広瀬の海辺から第四旅団・第三旅団・第二旅団・別働第二旅団と一の瀬川沿いに西に並んで攻撃のときを待った。この時、別働第三旅団は多くの西郷軍兵捕虜の対応をするために解団した。

 8.1日、海路より新撰旅団が宮崎に到着した。この後、一の瀬川沿いに戦線を構えている他の旅団と共に高鍋に向かった。

【「延岡の戦い」】
 8.1日、西郷軍が佐土原で敗れ、政府軍が宮崎を占領する。

 8.2日、西郷隆盛ら、都農を去り延岡へ向かい、ここに9日まで滞在する。同日、各旅団が高鍋を攻め、陥落させた。西郷軍は美々津方面へ退く。同日、銀鏡にいた部隊は美々津に退却せよとの命令を受ける。高鍋を突破され敗退した西郷軍は、美々津に集結し戦闘態勢を整えた。本営は延岡に置き、山蔭から美々津海岸まで兵を配置した。この時に桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上は延岡に、順次北方に陣を構えて諸軍を指揮した。

 8.3日、美々津の戦いが始まる。この時、桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上四郎は延岡にいて諸軍を指揮したが、8.4-5日、共に敗れた。

 8.4日、別働第二旅団は、鬼神野本道坪屋付近に迂回して間道を通り、渡川を守備していた宮崎新募隊の背後を攻撃した。西郷軍は渡川、鬼神野から退き山蔭の守備を固めた。

 8.6日、開戦半年を経て西郷は各隊長宛全軍に告諭を出して奮起を促した。

 8.7日、奇兵隊三・六・十四番隊は別働第二旅団の攻撃を受け、山蔭から敗退。政府軍はそのまま西郷軍を追撃し、富高新町に突入した。西郷軍はこれを抑えきれず、美々津から退いて門川に向かった。同日、池上は火薬製作所と病院を延岡から熊田に移し、本営もそこに移した。同日、池上の指示で火薬製作所・病院を熊田に移し、ここを本営とした。

 8.8日 林有造、武器購入を計画して逮捕される。

 8.10日、西郷は本小路、無鹿、長井村笹首と移動する。

 8.11日、西郷隆盛、延岡を密かに離れる。

 8.12日、参軍山縣有朋は政府軍の延岡攻撃を部署した。同日、桐野利秋・村田新八・池上四郎は長井村から来て延岡進撃を部署し、本道で指揮したが、別働第二旅団・第三旅団・第四旅団・新撰旅団・第一旅団に敗れ延岡を総退却し、和田峠に依った。同日、政府軍は、延岡攻撃のための攻撃機動を開始した。

 8.13日、政府軍、延岡を包囲。

 8.14日、政府軍が延岡総攻撃を開始した。別働第二旅団が延岡に突入し、西郷軍は延岡市街の中瀬川の橋を取り除き抵抗したが、やがて第三・四旅団、新撰旅団も突入してきたため敗退した。この日の晩、諸将の諌めを押し切り、明朝、西郷は自ら陣頭に立ち、政府軍と雌雄を決しようとした。この時の西郷軍(約3000~3500名)は和田峠を中心に配置した。長尾山から西部の可愛岳にかけては辺見十郎太(雷撃隊)・中島健彦(振武隊)・野満長太郎(協同隊)らの5箇中隊を配備し、北部の熊田には小倉処平・佐藤三二が指揮する5箇中隊を配備して熊本鎮台兵に備え、予備隊として使用するつもりであった。

 8.15日 西郷軍は和田峠を中心に布陣し、政府軍に対し西南戦争最後の大戦を挑む。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野・村田・池上・別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮する。方山県参軍も樫山にて戦況を観望した。このように両軍総帥の督戦する中で戦闘は行われた。

 西郷軍が攻勢を開始したが、政府軍もまたこれに応戦して和田越の戦闘が行われる。当初、別働第二旅団は堂坂の泥濘と西郷軍の砲撃に苦しんだ。これを好機と見た桐野が決死精鋭の1隊を率いて馳せ下り攻撃したために別働第二旅団は危機に陥った。しかし、第四旅団の左翼が進出して別働第二旅団を救援したのでやっとのことで桐野を退けることができた。

 その後、両旅団と西郷軍とは一進一退の激戦を続けた。やがて政府軍は別隊を進め、西郷軍の中腹を攻撃しようと熊本隊に迫った。熊本隊は政府軍を迎え撃ったが苦戦した。辺見と野村忍介が援兵を送り熊本隊を支援したが、政府軍は守備を突破した。激戦の末、寡兵のうえ、軍備に劣る西郷軍はやがて長尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、熊田に退却した。この機に政府軍は総攻撃を仕掛けて西郷の本拠を一挙に掃討することを決意し、明朝からの総攻撃の準備を進めた。

【敗走転戦する西郷軍が長井村で包囲され危機に陥る】
 西郷軍が延岡奪還に敗れ、長井村に拠る。和田越の決戦に敗れた西郷軍は長井村に包囲され、俵野の児玉熊四郎宅に本営を置いた。これを追って政府軍は長井包囲網をつくった。豊後・日向方面は4月末から5月末にかけて、野村忍介が率いる奇兵隊とそれを後方から指揮・支援する池上とその部隊の働きで薩軍の支配下におかれたが、政府軍の6月からの本格的反撃で徐々に劣勢に追い込まれていった。西郷軍は都城の陥落後、宮崎の戦い、美々津の戦、延岡の戦いと相次いで敗れて北走し、8月のこの頃、延岡北方の長井村に窮することとなった。

 8.16日、西郷が次のように解軍布告する。
 「我軍の窮迫此処に至る。今日の策は唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。この際諸隊にして降らんとする者は降り、死せんとする者は死し、士の卒となり、卒の士となる。唯その欲する所に任ぜよ」。

 西郷は、負傷した長男菊次郎に従者を付けて降伏するように指示した。このいわば「解散令」によって、熊本隊の600人を筆頭に九州各地から馳せ参じた諸隊(協同体、竜口隊)は相次いで官軍に降伏、一部は西郷に決別を告げて自刃した。
 
 これにより精鋭のみ1千名程が残った。一度は決戦と決したが、再起を期すものもあり、選択に迫られた西郷軍首脳は、政府軍の長井包囲網を脱するため、遂に可愛岳突破を決意した。突破の隊編成として、前軍に河野主一郎・辺見、中軍に桐野・村田新八、後軍に中島・貴島をおき、池上・別府晋介は約60名を率いて西郷を護衛した(「鎮西戦闘鄙言」では村田・池上が中軍の指揮をとり、西郷と桐野が総指揮をとったとしている)。この時の突囲軍は精鋭300-500(「新編西南戦史」では約600名)であった。

 8.17日夜10時、西郷軍主力は3隊に分かれ、長井村を発し可愛岳(えのたけ)越えをして政府軍の囲みから脱出した。可愛岳の頂上に到着し、ここから北側地区にいた政府軍の第1旅団(野津鎮雄少将)、第2旅団(三好重臣少将)合同の出張本営を見たところ警備が手薄であったため、西郷軍(前軍は河野主一郎、辺見十郎太。中軍は桐野・村田。後軍は中島健彦・貴島清。池上と別府が約60名を率いて西郷を護衛)は辺見を先鋒に一斉に下山攻撃を開始した。不意を衝かれた政府軍の第一・第二旅団は総崩れとなり、退却を余儀なくされた。このため西郷軍は、その地にあった政府軍の食糧、弾薬3万発、砲一門を奪うことに成功した。

 この時の様子が、「西南記伝」の「矢田宏実話」の稿で「牙営に三味線と婦人の駒下駄」と題して次のように証言記録されている。

 薩将[辺見十郎太]が、先鋒隊を掲げて、可愛岳の官軍を突いたときは、時恰も18日の昧爽、官軍守兵の交替期で、その時、守兵の混乱雑踏と云ふものは、殆ど形容することが出来ぬ。而して辺見が、獅子奮迅の勢で、絶壁を飛下り、萱原の中を飛び越え、大喝一声、電光石火の如く、官軍の牙営(第一旅団、第二旅団)に斫り込んだ勢に辟易して、官軍は皆四散し、牙営に在つた三好少将や野津少将は、周章狼狽、措く所を失つて逃げた。その醜態と云ふものは、実に見るに忍びざる有様で。我等が辺見に従つて、牙営に入つたときには、種種の遺棄品も多くあつたが、一寸、吾人の目を惹いたものは、三味線と婦人の駒下駄であつた。是は正しく官軍の牙営にあつたものである。

【西郷軍、敗残兵として鹿児島に向かう】
 8.18日、可愛岳を突破した西郷軍は鹿川分遺隊を粉砕し、三田井方面への進撃を決定した。西郷軍は、大分、宮崎など各地で政府軍と対決するが、多勢に無勢、圧倒的な兵力と火力を誇る政府軍に次第に追い詰められていく。西郷は日向・宮崎の長井村において、軍を解散させ、西郷ら薩摩軍幹部らは一路鹿児島に引き返すことになる。

 8.19日、西郷軍は祝子川の包囲第2線を破る。

 8.20日、鹿川村、中川村を落として三田井へと突き進む。

 8.21日、西郷軍が三田井に到着する。桐野は、政府軍による包囲が極めて厳重であり、地形が非常に険しいことから西郷軍の全軍が突破することは困難であると考え、熊本城の奪取を提案するも、西郷はこれを却下し、8.22日深夜、西郷軍は鹿児島へ向けて南進を開始した。これに対し、政府官軍は、横川・吉松・加治木などに配兵し、西郷軍の南進を阻止しようとするが、少数精鋭であり、かつ機動力に長ける西郷軍の前に失敗に終わった。

 8.23日、別働第1旅団を延岡から熊本へ向けて出発させる。

 8.24日、西郷軍は七山・松ヶ平を抜け、神門に出たが、ここで別働第二旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何とかこれを免れる。

 8.26日、西郷軍が村所に至る。

 8.27日、第2旅団を延岡から細島を経て海路軍艦6隻で鹿児島へ向けて出発させる。

 8.28日、西郷軍、須木を通過し、小林に入った。同日、薩軍は小林平地からの加治木進出を図るが、西郷軍の南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上陸した第二旅団にこれを阻まれ、失敗に終わった。同日、第2旅団が鹿児島に到着。新撰旅団と合流して鹿児島市内の防衛にはいる。

 8.29日、西郷軍、横川に至る。

 8.30日、溝辺で政府軍と西郷軍が交戦する。

 8.31日、西郷軍、蒲生に入る。

【西郷軍票発行】
 軍費に窮した西郷軍は佐土原の通称ひょうたん島で「西郷札」を発行した。実際に使えたのは薩摩軍の影響力のある地域だけで、薩摩軍の敗北とともに布切れと化す。

【西郷軍、鹿児島城山に籠る、敗北】
 9.1日、西郷軍兵約370名が政府軍守備隊を急襲して鹿児島城山に入る。鹿児島に戻った西郷軍は、旧鶴丸城背後にそびえる峻険な城山を占領して、土塁を積み上げ、陣地を作り上げた。辺見は私学校を守っていた200名の政府軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから鹿児島市街をほぼ制圧し、政府軍は米倉の本営を守るだけとなった。

 9.3日、政府軍が形勢を逆転し、城山周辺の西郷軍前方部隊を駆逐した。

 9.4日、西郷軍の貴島率いる決死隊が政府軍の駐屯する市内の米倉を襲撃する。が、急遽米倉へ駆けつけた三好少将率いる第二旅団に阻まれ、貴島以下決死隊は一掃された。

【西郷軍玉砕】
 9.5日、山県有朋、宮崎に入る。9.6日、山県有朋、都城に入る。政府軍主力が鹿児島に集結し、総計500名と役夫が200名の西郷軍を城山を十重二十重に包囲した。政府軍は、包囲網の中で各旅団から選抜の1500名が攻撃するという方法を採った。西郷とは縁戚にあたる攻城砲隊司令官・大山巌少将は全砲兵を挙げてこの突撃を支援することになった。攻撃開始は9.24日とされた。

 9.6日、政府軍は城山包囲態勢を完成させた。この時、西郷軍は350余名(卒を含めると370余名)となっていた。

 9.8日、参軍・山県有朋が鹿児島に入る。山県は、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策をたてた。

 9.19日、西南戦争が最終局面に入った。西郷軍では一部の将士の相談のもと、山野田・河野主一郎が西郷の救命のためであることを西郷・桐野に隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向き、捕らえられた。

 9.22日、河野主一郎と山野田一輔、西郷隆盛の助命を求めるため、政府軍の陣地へ赴き収監される。同日、城山で西郷の名による「城山決死の激」を出し決死の意を告知した。
 今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、この城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。

 9.23日、河野・山野田と川村純義、山県有朋が面会する。 同日、西郷は諸将を集め決別の宴を開いた。軍使山野田一輔が持ち帰った参軍川村純義からの降伏の勧めを無視し、参軍山県からの西郷宛の自決を勧める書状にも西郷は返事をしなかった。

 9.24日午前4時 払暁とともに号砲が鳴り響き、政府軍の総攻撃が始まる。西郷隆盛を筆頭とした西郷軍幹部(西郷・桐野・桂久武・村田・池上・別府・辺見十郎太)ら将士40余名は、本営の洞窟前に整列し、「前へ進んで死のう」と決意を固め、前線の岩崎口の土塁に 向けて歩き始めた。

 国分寿介、小倉荘九郎は自刃し、桂四郎(久武)はじめ多くの諸将が銃弾に倒れた。政府軍の集中砲火が雨のように飛び交うなか、西郷らは城山を降りて行った。西郷に付き従った 人々 は、一人また一人と政府軍の銃弾に倒れた。そして、とうとう西郷にも島津応吉久能邸門前で流れ弾が当たり肩と右太ももを貫かれた。

【西郷自刃】
 西郷は負傷して駕籠に乗っていた別府晋介を顧みて、「晋どん、晋どん、もうここいらでよか」と声を掛ける。別府は「はい」と頷(うなず)き、将士が跪いて見守る中、西郷は襟を正し、正座合掌して東天に向かって拝礼した。切腹の用意が整うと、別府は涙を流しながら刀を抜き、「ごめんやったもんせ~(お許しください))」と大きく叫んで西郷の首を落とした。西郷隆盛享年49歳。

 西郷の死を見届けた桐野、村田、別府、池上、辺見、山野田、岩本平八郎らの諸将も後を追い、枕を並べて討ち死にした。戦死を肯(がえ)んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎、野村忍介、神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第四旅団の部隊にそれぞれ降伏した。ただ降伏も戦死もしないと口にしていた中島だけは今以て行方が知れない(「鹿児島籠城記」には岩崎谷で戦死したという目撃談が残っている)。

 こうして九州の山野に戦うこと7ヶ月、明治10.9.24日、西郷軍は城山において全滅し、西南戦争は終結した。西南戦争による官軍死者は6403名、西郷死者は6765名、両軍合わせて3万数千人の死傷者に及んだ。政府の西南戦争の軍事費は4100万円にのぼり、当時の税収4800万円のほとんどを使い果たすほど莫大になった。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。

 島津啓次郎は、最後の藩主島津忠寛の第3子として佐土原に生まれ、明治3年に米国に留学し6年後に帰朝、同10年西南の役に際しては西郷軍に従い、同年9月に鹿児島城山にて死す(享年21歳)。

 9.30日、前鹿児島県令大山綱良が処刑される。 
 1889(明治22)年、西郷隆盛に対し、憲法発布の大赦で正三位を追贈される。

【板垣の日和見主義的対応】
  西郷の死により「征韓論」も消滅した。西南戦争勃発に、板垣の土佐立志社のメンバーも動揺する。西郷軍に同調して決起しようとする武闘派も出てきた。これに対し、板垣も当初は賛成したが、結局、最後の最後で腰がくだけ、中止を説いた。理由としては、国会開設について全国的な盛り上がりを見せている運動をより重視したことにあった。西南の役後、長州閥の伊藤博文や井上薫らは勢力均衡のため、板垣の政府復帰を打診する。板垣は、土佐立志社のメンバーの反対を無視して参議として復帰する。自由民権運動の盛り上がりは、この板垣の政府復帰でかき消されることとなった。

【西南の役に対する裏読み史観】
 西南戦争の裏読みとして、「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は次のように述べている。
 「西南戦争に至る諸説はいろいろある。しかしその真相は、単に大久保利通の挑発に乗せられたと言う事だけではない。西郷が願って止まなかった事は、表面上の明治政府に対する不平士族の反乱といった目先の事ではなかった。最大の課題は、自分もろとも、「ユッタ衆」を根こそぎ、道ずれにして、彼等を滅ぼす事であった。かくして西南戦争の火蓋は切られ、そして無残に敗北したのであった」。
 「明治維新は、日本以外の外圧によって、煽動され、蜂起した革命の様相が濃厚である。そして明治維新が完了し、その今迄を振り返ってみて、そこに暗躍した穏微な集団が居た事を感じ取った人物が少なからず居たのである。一人は明治維新に参画した西郷隆盛であり、もう一人は明治維新の流れを側面から見続けた西郷頼母であった。

 明治維新の蓋を開けてみれば、以後の国家政策上、二つの二大勢力が浮上していた。それは西郷隆盛をはじめとする板垣退助、江藤新平、後藤象次郎、副島種臣らの反ユダヤグループと、もう一つは岩倉具視をはじめとする大久保利通、伊藤博文、木戸孝允らの親ユダヤグループであった。そして明治維新完了後、欧米ユダヤの最終段階は、不平士族の集団を西郷隆盛に預けて、これを一気に叩く事であった。これが西南戦争の実態である。

 西南戦争は西郷隆盛の悲願であった「ユッタ衆殲滅作戦」の思惑は、成就されなかった。また薩摩西郷家と遠縁にある、会津西郷家の末裔、西郷頼母の悲願も、西南戦争の敗北で成就できなかった。しかし西郷頼母は、菊池一族の「正義武断」と「大いなる東」を掲げて、欧米ユダヤの血のネットワークに対抗して、『大東流蜘蛛之巣伝』を鮮やかに蘇らせたのである」。
 太田龍氏の「時事寸評」に興味深い観点が記されている。2004(平成16).5.9日付けの「外国スパイ網に浸透されて居た旧日本陸海軍」(樋口恒晴論文)で、次のように寸評している。
 「幕末、薩長首脳と岩倉などは、ロスチャイルド(イルミナティ中枢)に、そっくり丸ごと、日本民族と日本国家、 日本人を売り渡した、のである。これは、単なる(スパイ)の域を超えて居る。こんなことは、世界史上、他に例を見ない驚くべき祖国に対する裏切りである。しかもその裏切りの事実と真相は、そのあとの百三十余年、完璧に、日本人 日本民族に対して隠蔽されて来た。西郷隆盛は、この事実を知り尽くして居た。かくして、明治十年西南の役、と成るのである」。

 太田龍・氏の「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」は次のように記している。
 「西郷隆盛は征韓論政変で失脚したというのが、西南の役以後に大久保利通政権によって流布され、日本国民の中に定着した歴史である。つまり西郷は、征韓=韓国の征討を主張し、大久保は内治重視、征韓反対を唱えたとするのである。しかし、この説は歴史の歪曲、偽造もいいところだ。

 大久保と西郷の対立は全く別の次元のものである。この幼馴染であり、幕末・維新を共に戦い抜いてきた二人の指導者は、この時、日本民族の進路をどこに向けるか、についての、抜き差しなら無い相克関係に入り込んだ。大久保には、ユダヤ・フリーメーソンのヒモがついており、日本は欧米の番犬となってアジアを叩くしか道が無い。さもなければインドのように日本も欧米に食われてしまう、と腹を決めていた。 これ以外に日本の進む道はない、と彼は確信していた。攘夷の旗印は、破れ草履(ぞうり)のように捨てるのだ。

 しかし西郷は、死んでもそんな道はとることができなかった。彼は東アジアの三国(日中韓)は、欧米列強の侵略に対して死ぬも一緒、死なばもろともの運命共同体でありたい、と固く念じていたのではないか。だから、韓国(李氏朝鮮)が欧米に対する開国を忌避し、日本の新政府との通交をも拒否した時、決死の覚悟でこの道理をもって、韓国を説こうと欲したのである。

 つまり、ことは対韓外交問題ではない。ユダヤ(欧米)の奴隷になるか、死を賭してこれと戦い続けるか、という根幹に触れる問題が、大久保と西郷の二人に表現されていたのだ」。
 「明治新政権は薩長閥と総称されるが、これは著しく不正確だ。にぜなら、倒幕維新の主力・長州閥も薩摩閥も、攘夷を貫くん欧米の番犬となるかの岐路に立って真っ二つに分裂し、流血の内乱を経ているからである。維新主体の下級武士団自体も分裂し、ユダヤに魂を売った勢力が権力を握った、とみなければならない」。
(私論.私見) 「太田龍氏の裏史観」について
 「明治維新に忍び寄るロスチャイルド(イルミナティ中枢)の影」説に対するれんだいこ見解はここでは保留するとして、西郷派の「西南の役」に対する史的意義に対する「もう一つの側面」を観ようとするこの態度には共感する。れんだいこは、西郷派こそ明治維新の永続革命派であり、それが潰えていった過程の検証をせねばならない、と考えている。

 2004.5.12日 れんだいこ拝
(私論.私見) 「俗流マルクス主義の西南戦争史観」について
 俗流マルクス主義は、「西南戦争を不平氏族の最後の反乱であり、特権を奪われた従来の士族の最後の反革命の企て」と捉えることで犯罪的な役割を果たしている。これは、単なるネオシオニスト史観の請け売りであり、こうした史観は学べば学ぶほど有害で却ってバカになる。まさに俗流マルクス主義の馬脚を表わしていると見立てるべきであろう。俗流マルクス主義が如何に危険な真の左派運動に対する敵対理論であるかに早く気づくべきだ。

 西南戦争にいたる相次ぐ士族の反乱を実証的に検証すれば、幕末維新に命を賭した連中による「裏切られつつある革命」に対する抗議以外の何物でもなかろう。かく捉えるべきであろう。では、どう歪められたのか。れんだいこは、伊藤ー井上ラインによりネオシオニスト意向反映政治へと歪められた、と見る。それは、アジアの盟主化政策であり、日本帝国主義化の道であった。他方、不平氏族達は、アジアの植民地化からの解放を射程に入れていたのではなかろうか。この対立が、大東亜戦争にも反映しており、戦後の再建にも関与しており、今も続いていると観る。

 2006.10.3日 れんだいこ拝

【西郷暗殺計画裁判】
 西南の役後、参加者は国事犯として裁判にかけられた。これは日本初の戦争裁判となった。裁判所長は、河野敏鎌(こうのとがま)、検事長は大検事・岸良兼養(きしらかねやす)。この裁判で、「西郷暗殺計画」も審査され、中原たちも供述させられた。しかし、戦争前の鹿児島警察での供述書の供述を否定して、概要「鹿児島警察での供述は拷問によるもので、西郷暗殺計画なるものはそもそも存在しない」と居直った。21名の警視庁関係者の鹿児島帰郷についても、「誰の命令によるものでなく、国許の不穏を憂いて、自主的に願い出て許されたもの」と主張した。これに対し、裁判長は、全員に無罪を言い渡した。(小林久三「龍馬暗殺に隠された恐るべき日本史」参照)

【西郷軍の7ヶ月に及ぶ長期戦は如何にして可能となったのか考】
 「西郷軍の7ヶ月に及ぶ長期戦は如何にして可能となったのか」、これにつき愚考しておく。一つは、西郷隆盛のカリスマ的権威と指導能力による。幾度もの窮地に陥りながら神がかり奇跡的な挽回をした史実を残しているが、そこにいつも西郷が指揮していたことを見ておくべきだろう。

 一つは、西郷軍の勇猛果敢且つ赤心の忠誠心による。各地での戦いは、糧食足らず、兵足らず、弾丸足らずの中で行われ、にも拘らず死地への旅とばかりに勇猛無尽の活躍をせしは、指導幹部の好指揮と兵士の一手一つの結束があっての賜物であったであろう。

 一つは、九州全域からの呼応による。いわゆる義勇軍が勝手連的に組織され、西郷軍に列なった。あるいは続々と志願兵が引きもきらなかった史実が残されている。これも注目されるべきであろう。

 思うに、かの時、政府の断固たる征討が遅れればあるいはなければ、西郷軍は次第に勢力を広げ、勝利的に東進した可能性が大いにあったであろう。ということは、政府の迅速な断固たる征討が何によってもたらされたのかを推測せねばなるまい。

 れんだいこは、この背後に、ネオシオニズム派の国際的意志が存在していたと見る。つまり、西郷軍は、国内戦に於いては勝利の可能性が充分にあったが、ネオシオニズム派の断固たる国際戦略に敗北せしめられたと見る。政府軍の指揮官は殆どがネオシオニズム派に飼われた者たちであり、それ故に西南の役後、彼らはとんとん拍子で立身出世階段を昇って行った。それは功績褒章であったであろう。

 彼らはその後日本帝国主義を確立し、アジア侵略を開始していった。その背後には、ネオシオニズム派の国際戦略があったであろう。こう考えればその後の歴史と辻褄が合う。逆に云えば、こう考えないと整合しないのではなかろうか。通説は、アジア侵略を天皇制軍国主義の為せる技と記述しているが、それは皮相的ではなかろうか。明治維新以来の近代的天皇制さえもがネオシオニズム派の国際戦略下にあったとみなすべきではなかろうか。

 西南の役は幕末維新派の最後の抵抗戦争であり、これに敗北することにより武力闘争が終息せしめられた。抵抗派は、武力に代わる手段として言論を重視する自民民権運動へと転換する。その自由民権運動も又次第にネオシオニズム派政府に懐柔される。自由民権運動の終焉を見て、それに代わる理論としてマルクス主義、無政府主義が登場する。これが歴史の流れである。

 それはともかく、日本左派運動が、西南の役戦史から学ぶ作風を知らない。解せないことであろう。

 2008.2.18日 2009.6.28日再編集. れんだいこ拝












(私論.私見)