大正時代史3、大正ルネサンスの光と影 |
1919(大正8)年、ベルサイユ講和条約以降の動き |
1920(大正9)年の動き |
【「西にレーニン東に原敬」】 |
第十四回衆議院議員総選挙で与党政友会の圧倒的勝利をおさめた原敬内閣は、衆議院における絶対多数と、貴族院内に提携勢力を確保する工作に成功した勢いをもって、大正9年(1920)7月、開会の第43回特別議会に臨んだ。原内閣は、かねてから政友会が唱えていたいわゆる四大政綱である教育の改善整備・産業及び通商貿易の振興・交通通信機関の整備拡充・国防の充実をこの議会で積極的に押し進めた。 この積極政策の推進によって、国家財政は急速に膨張した。本議会では、国防充実費、鉄道建設改良費、臨時軍事費等の追加予算案が通過した。四大政綱に関連する文部・内務・海軍・逓信の各省経費は大幅に増大した。特に、わが国の軍事費はかつてない大規模なものとなった。これは第一次大戦後の経済の発展による税収の増加を背景にしたが、また公債も発行された。 外にあっては、前議会閉会当時からシベリア情勢が特に不穏となり、三月十二日から五月末にわたり、ニコライエフスク港において、日本人居留民が同方面の過激派軍のため虐殺されるという、いわゆる尼港(にこう)事件が突発した。 本議会において、野党は、この事件を攻撃材料の一つとして政府の責任を鋭く追及した。内政・外交にわたる原首相・外相・陸相らの報告演説に対し、さきの総選挙に当選したばかりの憲政会代議士永井柳太郎は、七月八日、質疑の中で、「今日の世界において、なお階級専制を主張するものは、西には露国過激派政府のニコライ・レーニンあり、東にはわが原総理大臣あり」との熱弁をふるった。この発言に政友会は激高し、発言の取り消しを迫り、さらに「議院の体面を毀損するもの」として動議を提出、これは懲罰委員に付され、五日間の出席停止を決め、七月十四日の本会議で政友会の多数によって議決した。 このため、憲政会・立憲国民党の両党は、さきの解散の不当性、普選の拒否、財政・外交政策の失敗、尼港事件等を理由とする内閣不信任案を提出したが否決された。しかし、原敬内閣の成立を歓呼して迎えた国民多数の間にも、内閣・議会に対する批判が次第に高まっていった。 |
1921(大正10)年の動き |
【原首相暗殺される】 |
11.4日、東京駅で京都に向かおうとしていた原敬首相が大塚駅の転轍手・中岡艮一に刺殺される。11.5 日、原内閣総辞職。 |
原敬首相の洗礼名はダビデ・ハラ。原は、「日本をキリスト教国する」使命を帯びていた。 |
【ワシントン会議】 |
1921(大正10).11.12日、ワシントン会議が開かれ、米、英、日、仏、伊、蘭、ベルギー、ポルトガルの9カ国が国際情勢、海軍軍縮問題などを話し合う。1・全世界で就役中又は建造中の主力艦65隻180万トンを廃棄する。2・英、米、日、仏、伊の主力艦保有率を5、5、3、1.67、1.67として上限を定める。英・米を50万トンとする。などに合意した(四カ国条約調印)。これは、当時にあつて空前絶後の国際的合意による軍縮の動きであった。会議の成功には、議長国アメリカの「建造中の巨艦15隻61万トンを率先廃棄する」との自ら範を垂れた軍縮提案が効果を与えていた。日英同盟廃棄を決定。 日本側の全権委員は、加藤友三郎海相・海軍大将(1861〜1923)が主席全権、貴族院議長・徳川家達、駐米大使・幣原喜重郎が瀬全権委員として参加した。加藤は、「国防は軍人の専有物ではない。国力の充実がなければ、いかに巨大な軍備を持っても無意味である」と考える自重派であり、艦隊増強派と対立していた。この二派の対立相克が、その後の海軍内に尾を引いていくことになり、やがて政治問題化し、昭和の歴史を彩ることになる。 ヤコブ・モルガン氏の「山本五十六は生きていた」は次のように記している。「この諸条約とともに日本は明治35年以来続いた日英同盟や石井・ランシング協定(明治41年、中国に於ける日本の特殊権益を米国が認めたもの)の破棄、山東省の旧ドイツや満蒙についてのいくつかの特権など21か条約の一部破棄、シベリア撤兵などを約束させられたのであった。このワシントン条約こそアメリカ、イギリスのユダヤ、アングロ・サクソン同盟が日本に突きつけた挑戦状であり、のちの日米開戦の伏線となるのである」。 財政に見合った規模への国防予算の削減・軍縮の気運が高まり、ワシントン軍縮会議により海軍軍縮(大正10年 1921年 11月)・山梨軍縮による陸軍師団の兵員の削減(第一次 大正11年 1922年 8月)、(第二次 大正12年 1923年 4月)・宇垣軍縮による陸軍4個師団削減 (大正14年 1925年 5月)が行われた。 特に陸軍は軍縮により兵員の3分の1を削減。軍縮派の中心、宇垣陸相は軍内部の反対派を予備役に編入して軍縮を強引に押し進めた。宇垣の考えは兵員削減により浮いた軍事費を装備の近代化に充てるというもの。ちなみに予備役とは、軍を退役して民間に戻るが、戦争等の国家緊急時に軍人の増員が必要になるため、この時たたちに現役に戻れるよう、軍籍だけは持っている立場。つまり事実上の引退。この軍縮により多数の陸軍将校が失業。軍人の社会的地位は低くなり、青年将校の結婚難が問題になったほど。軍内部の志気はかなり低下。ポストが少なくなり出世が難しくなった軍将校の間には「出世第一主義」「事なかれ主義」という見えない、そして致命的な構造腐敗が蔓延していく。 |
「このー、二年の防衛費の動きをご覧になったら分かりますが、国民の総生産のーパーセントを突破したらいかんということを盛んに言っておった時代がありました。ところが、実際にーパーセントを突破したら、もうそれが当たり前になって、もう全然新聞などでも攻撃もしない。 大正十年度は国の予算のほぼ半分ぐらい、正確には四十九パーセントまでを軍事費に取られたことがあります。こういうふうになってくると、もうまともな国民の生活などは期待できません。このように軍事費というのは、いったん膨張したら整理がつかなくなる」。 |
1922(大正11)年の動き |
1923(大正12)年の動き |
【関東大震災】 |
9.1日、関東大震災発生。これにつき、「戦前日共史その3、関東大震災事件(大杉栄事件)」で確認する。 |
【虎の門事件】 |
12.27日、後の昭和天皇となる当時の皇太子・摂政宮裕仁親王が、摂政の宮として大正天皇の代理で第48帝国議会の開院式に出席するため、自動車で議会に向かう途上の虎の門を通過中に、ステッキ状の仕込み銃で狙撃された。裕仁は無事で、犯人の難波大助はその場で逮捕された。これを虎ノ門事件と云う。 事件当時、正力は警視庁警務部長の要職にあり警備の直接の責任者であった。正力は警視総監・湯浅倉平らとともに、即刻辞表を提出。警務部長らは懲戒免職、山口県知事は休職、父は衆議院議員を辞任して閉門 蟄居、謹慎した。正力は、翌大正13.1.7日、懲戒免官となった。 1.26日、摂政殿下裕仁のご結婚式があり、正力の懲戒免官は特赦となった。官界復帰の道が開けた。但し、本人は古巣に戻る気をうせていた。 難波大介の履歴は次の通り。 山口県熊毛郡周防村立野(光市)の旧家に生まれる。父作之進は県議を経て大正9年(1920)代議士当選。母はロク。長兄は東京帝国大学、三兄、弟は京都帝国大学出身。 母方の遠縁に河上肇・大塚有章、長兄夫人の遠縁に宮本顕治がいる名望家。 徳山中学に進んだが退学、私立鴻城中学に移り、高等学校受験に失敗。11年、大正第一早稲田高等学院文科に入学したが、翌大正12.2月、退学。深川の労働者街に身を投じた。この間、河上肇『断片』(「改造」)を讀むなど左傾化しつつあった。関東震災直後の帰省の途次、甘粕事件・亀戸事件などを聞いて官憲の非道ぶりにテロリズムの実行を決意する。12.22日、父のステッキ銃を持って上京。京都の友人宅に滞留の後、事前に新居格ら新聞記者にテロ決意の手紙を送ったうえで、12.27日、虎ノ門で帝国議会開院式に赴く車中の皇太子(当時摂政にして後の昭和天皇)を狙撃したが失敗した。この銃は、韓国帰りの林文太郎が作之進に譲ったものだが、伊藤博文が部下の林に与えたものという説がある。 事件当日より予審訊問が行われ、翌年2月、本裁判に付された。裁判長は横田秀雄大審院長、検事は小山松吉検事総長ら。官選弁護人は今村力三郎、岩田宙造、松谷与二郎であった。10.1日、公判開始、11.13日に死刑の判決が下った。 大審院でも天皇制否定の主張を曲げず、裁判所の改悛慫慂政策は、判決直後、難波の「日本無産労働者、日本共産党万歳」の絶叫で挫折した。判決2日後の11.15日、大助は処刑された(享年26歳)。 |
【第二次山本内閣総辞職】 |
虎ノ門事件の即日、第2次山本権兵衛内閣が引責総辞職を余儀なくされている。 |
1924(大正13)年の動き |
【政友本党を結成】 |
1.29日、政友会は、清浦奎吾内閣への賛否をめぐって古傷が開き、激しい対立の結果、床次竹二郎、山本達雄、中橋徳五郎、元田肇らが政友会を離党し、148議席を率いて大挙脱党して政友本党を結成した。 |
【第二次憲政擁護運動(第二次護憲運動)】 |
政友会、憲政会、革新倶楽部三党は三党首会談で、清浦内閣打倒と憲政擁護を謳って共同歩調をとることを決定。これを憲政擁護運動と称して十年前の運動を模した。前回のような盛り上がりに欠けてはいたものの、「苦節十年」の憲政会が154議席で第一党の座に躍り出、野党三党(護憲三派)が圧勝をおさめ、清浦内閣は総辞職した。これを「第二次憲政擁護運動(第二次護憲運動)」と云う。これによって、憲政会総裁・加藤高明に大命が降下し、加藤は昂然、組閣に着手することになる。政友会総裁・高橋是清、革新倶楽部の犬養毅を招いての協議で、高橋は内務、または大蔵のポストを要求して組閣交渉を難航させたが、行司役を務めた平田東助伯爵が「内務は政府の中心、大蔵は政策の中心であるから、これは憲政会から閣僚を出す」としてはねつけ、憲政会の領袖・若槻礼次郎と濱口雄幸がそれぞれ内相・蔵相となった。政友会の高橋には農商務相、横田千之助に法相、革新倶楽部の犬養には逓信相のポストをそれぞれ提供し、こうして護憲三派内閣が発足した。
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【第1次加藤高明内閣成立】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6.11日、憲政会、政友会、革新倶楽部の三党連立による憲政会の加藤高明を首相とする第1次加藤内閣(護憲3派連立内閣)が成立(在任・1924.6.11−1925.8.2日)。多数政党による組閣「憲政の常道」の初め。首相・加藤、蔵相・浜口雄幸、内相・若槻礼次郎、外相・幣原喜重郎。いずれも高文官僚の登用であった。加藤内閣から犬養内閣までの8年間、政友会と民政党(憲政会の後身)が政権交代を繰り返すことになる。
政友会は、民政党攻撃の為もあり軍縮を「統帥権干犯」だと非難し、軍官僚の暴走に手を貸していくことになる。三派連立について、大正十三年三月の「国際写真情報」に次のように評している。「往日の犬と猿が同じテーブルで護憲を談じる、大いに結構だがこれがいつまで続くやら」。 |
【中国軍閥間に内戦が発生「奉直戦争」】 | |
中国内の軍閥間に内戦が発生した。日本軍の支援を仰いだ張作霖がやはり軍閥の呉佩孚の逆襲にあって満洲そのものが危機にさらされる情勢となった。これを奉直戦争と云う。が、浜口首相、幣原外相は動かなかった。これが為「軟弱外交」と評された。その後、呉佩孚の部下だった馮玉祥の反乱にあって、呉陣営は敗退し日本の介入は結果的には必要なくなった。馮の反乱は裏で日本の軍部による謀略だったとの評が立った。この事件は、軍が文官の指揮を越えて政治に手を出す契機となった点で史実的意味がある。 ところが、工藤美代子著「われ巣鴨に出頭せず」(近衛文麿と天皇)が次のように記している。
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1925(大正14)年の動き |
【普通選挙法成立】 |
加藤高明第一次内閣の大仕事は普通選挙法案を可決することであった。貴族院と、枢密院が関門となった。枢密院は、選挙権は独立で生計を営むものに付与すべきだとして、「他人の救助を受けるもの」を除外する欠格事項を設けた。これでは学生などに選挙権が付与されないことになってしまう。内相・若槻礼次郎や翰長・江木翼などが奔走し、枢府議長の浜尾新、副議長の一木喜徳郎などが協力して、「他人の救恤を受けるもの」とした。これにより学生が親から援助を受けることは救恤に当たらないことになった。これにより枢密院可決となった。衆議院は苦もなく通過したが難関が貴族院であった。貴族院は「他人の救恤を受けるもの」規定を問題視した。議論は平行線のまま、両院協議会が開かれるに到った。加藤首相が政友会の名うての策士・岡崎邦輔に依頼し、「他人の救助を受けるもの」の上に「貧困のため」という言葉を入れることによって、ようやく協議会が可決、第五十議会において可決する運びとなった。 |
3月、政治的に「大正デモクラシー」による民主化を求める大衆運動が盛んに成り、その成果として遂に第50議会で25歳以上の成人男子全てを選挙人とする「普通選挙法」が成立し、5月公布された。絶対主義的天皇制の枠内での議会主義のスタートとなった。 戦後の普選法に比べると、1・女性の選挙権は認められていない。2・日本内地に限られ、植民地(朝鮮、台湾)の住民には認められていない。3・成人男子の24歳以下は除外、4・戸主でない者は除外。5・住所が一定しない季節労働者も除外、という点でかなり制限が多い。但し、有権者数は前回の300万人台から1200万人台へと3倍強に増えた。 この時期、不況と恐慌を背景に労働問題が深刻化して労働争議が多発している。雇用・労働条件の悪化に対して労働者が反発・抵抗を始めたのが原因。全国に労働組合運動が起きる。これは共産主義運動と結びつき、労働争議は次第に長期化・暴力化している。これに対して政府は治安を乱すものとして仰圧。この労働争議の増加傾向はその後も続いていく。 |
【治安維持法制定】 | |
4.22日、治安維持法発布[5月19日施行]。第一条は次の通り。
当時の若槻内相によれば、「もともと治安維持法は、・・・・以前から内務省内の宿題であった(古風庵回顧録)」と述べている。同法にも反対が根強く、とくに新聞社は、言論の自由がどこにあるかとして激越に反対した。そこで関係省庁の若槻内相と小川平吉法相が委員会を開いて、新聞の自由な意見までが取り締まられないように、取締のポイントを絞った。つまり、国体変更と私有財産制の否認のみが取締の対象となった。こうして、両院を通過することとあいなった。 |
【総同盟第一次分裂】 |
5月、総同盟が第一次分裂。総同盟主流派の松岡駒吉、西尾末広、鈴木文治ら右派が、当時勢力急伸中の日共系「総同盟革新同盟」を除名。左派の労働組合約30が「日本労働組合評議会」を結成した。総同盟は、右派と左派に割れた。 |
【第2次加藤高明内閣成立】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
8.2日、第一次加藤高明内閣が総辞職した。顛末は次の通り。濱口蔵相の財政改革案に反対し、閣内不統一を惹起した。加藤首相は、どうしても賛成できんか、賛成できんならば、辞めてもらうほかない」と通告したが、政友会閣僚は、「自分らだけで辞めるということはしない」とがんばり続けた。そこで加藤首相は、「そんなら閣内不統一ということになるから、よろしい、自分は辞める」と言って辞表を取りまとめ、捧呈した。往日の犬と猿の護憲体制は、わずか一年足らずで崩壊した。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
閣内不統一によって加藤高明首相が辞表を捧呈すると、摂政宮は西園寺に後継首班の選考を下問した。西園寺は、「大命再降下こそしかるべし」と奉答する。元老はあまりに露骨な政友会のやりかたを嫌悪した。加藤高明は辞退したが、ついに拝受し、憲政会単独内閣が発足した。8.2日、第2次加藤高明内閣が組閣され、1928(対象15).1.30日まで続く。
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1926(大正15→昭和1)年の動き |
【第1次加藤高明内閣成立】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
1.30日、第一次若槻礼次郎内閣(民政党内閣)が組閣される(1927(昭和2).4.20日まで続く)。
加藤高明首相死後の総辞職を受けての西園寺公に下問がくだった。西園寺は、首相死去によって政権が移動することを避けたいと考え、「政界のお使い番」松本剛吉などが収集してくる情報をもとに、摂政宮に対し、今回も憲政会に対して大命降下せられんことを奏請した。憲政会の新総裁となった若槻礼次郎が拝受し、加藤高明内閣の閣員名簿をほぼ引き継ぐ形で新内閣が発足した。若槻内閣が基盤とする憲政会は依然少数党であったから、若槻首相以下は政友本党と提携し、第五十一議会を乗り切ることに成功し、同時に、後の憲本合同への道を開くことになった。 |