天津教古文書「竹内文書(竹内文献)」考

 (最新見直し2006.11.22日)
 
 現在整理中です。

【竹内文書とは】

 武内宿禰の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が、雄略天皇の命により神代文字を漢字かな混じり文に翻訳した原本の写しと、皇祖皇太神社由来の神宝類を含む資料の総称。「神代の万国史」と称されている。平群真鳥は、武烈天皇の密旨によって、高天原の故地である越中に隠遁してこれらを庇護したという。


【竹内文書公開考】
竹内文献公開の竹内巨麿は、宇多源氏の庭田伯爵と大中臣家の後裔・藤波奈保子の子として生を受けたと自称している。明治7年、富山県の寡婦の私生児として生まれ、小作農の竹内庄蔵に引き取られている。御嶽教に入信。 明治43年、天津教を開教する。

 明治43年秋、竹内宿禰(たけうちすくね)から数えて66代目の子孫に当ると称する竹内巨麿(たけうちきよまろ、1875(明治3)年−1965(昭和40)年)が、元々富山にあったと云われる皇祖皇太神宮を茨城県北茨城市磯原に天津教として再興した。竹内巨麿は、、竹内文書に基づく太古以来の祭祀を復活させようとした。巨麿は、平群真鳥の子孫であるとされる竹内家の養子であり、その次第は巨麿の口述をまとめたという長峯波山著「明治奇人今義経鞍馬修行実歴譚」に詳しい(大正元年、復刻版として八幡書店刊「竹内巨麿伝」がある)。

 1928(昭和3).3.29日、竹内巨麿が、竹内家に伝わる古文書を公開した。

 竹内文書の信憑性に力を貸したのが酒井勝軍(1874〜1940)であった。酒井は山形県の生まれ。元々は、キリスト教の牧師であった。1918(大正7)年、語学堪能なため大本営付の通訳としてシベリア方面で従軍する内に当時、西欧を席巻していたユダヤ禍論を知り、帰国後はユダヤ人とフリーメーソンの研究に没頭し 反ユダヤ論の論客として名を馳せた。

 その後、彼の研究はさらに古代イスラエルの研究・ヨーロッパの秘密結社・秘教哲学などへと広がり、彼のユダヤ研究に目をつけた陸軍によって、シオニズム運動(ユダヤ国家の建設)調査のため、1927(昭和2)年、パレスチナに派遣される。この時、彼はエジプトを訪れ、自らの目でギザのピラミッドを見るなど古代史研究を深めている。 帰国後、彼は研究の対象を、日本古代史に求めていく。

 この頃より熱烈な親ユダヤ論者となる。そして、ついにはモーゼが神から授かったという十戒の本物は日本に隠されている、あるいはエジプトのものの原形となったピラミッドが日本の何処かにあるはずだなどという奇説を唱え出し、各地で講演しながらその探索に乗り出したのである。彼がその探索行の最中、天津教本部を訪れたのは昭和四年のことだったという。酒井と出会った巨麿は請われるまま、モーゼの十戒石の「本物」やピラミッド建造の由来書などを皇祖皇太神宮の宝物から出してみせた。酒井はすっかり感激し、以来、天津教の有力なイデオローグとなっていった。

 天津教の周囲には酒井の他にも、様々な異能の人々がたむろしていた。たとえば、青森県戸来村にピラミッドがあると主張し、さらに巨麿によるキリストの墓「発見」にも立ち会った画家の鳥谷幡山。あるいはそのキリストの墓をはじめとして相模のゼウスの墓・能登のモーゼの墓・信州の釈尊の墓などを訪ねて日本各地を巡った山根キク。郷里の飛騨地方を中心に先史時代の巨石遺跡を探索、調査して回った上原清二。越中の盆踊り歌に人類発祥の秘密が隠されていると唱えた岩田大中等々。

【狩野亨吉氏の文献批判】
 1928(昭和3).5月、狩野亨吉は、に天津教信者2名から7枚の写真の鑑定依頼を受けたが断った。1935(昭和10)年、「日本医事新報」から鑑定を依頼され、7枚中5枚を鑑定し、偽造と回答した。

 1935(昭和10).12.28日、神宝が秦真次(皇道派の実質リーダーの真崎甚三郎の腹心でもあった)の手により東京市・靖国神社の遊就館の松田常太館長にたくされた。

【竹内氏の受難】
 1936(昭和11).2.13日朝、茨城県多賀郡磯原町にて竹内巨麿と磯原館という旅館の吉田兼吉が逮捕された。竹内巨麿は、神宝を水戸地方裁判所に移す旨の受託書を書く。

 この年、「ひとのみち教団」の初代教祖・御木徳一(1871〜1938)が強姦猥褻容疑で逮捕されている。御木は、1916(大正5)年、御嶽教徳光教会の金田徳光に弟子入り、金田が三年後に病死すると御嶽教徳光教会を離れ、大正13年に金田の後継者を主張、1928(昭和3)年、扶桑教ひとのみち教団を立ち上げていた。

 同年6月、狩野亨吉が、岩波書店の「思想」6月号誌上に「天津教古文書の批判」を発表し、偽書と断定した。狩野氏は、数千枚に及ぶ文書の内の5文書の写真(長慶太神宮御由来、長慶天皇御真筆、後醍醐天皇御真筆、大日本天皇同太古上々代御皇統譜神代文字之巻 大臣紀氏竹内平群真鳥宿禰書字真筆、大日本国太古代上々代神代文字之巻)に目をつけ、書体、文体、内容について批判した。

 1937(昭和12)年、逮捕者15名中竹内巨麿のみが不敬罪で起訴される。弁護士は鵜澤總明(後の極東国際軍事裁判の日本弁護団長)。

【竹内氏の法廷闘争】
 1942(昭和17)年、狩野亨吉は、検察側証人として言語学者の橋本進吉とともに出廷証言する。特高による「不敬罪」容疑での摘発・マスコミを総動員しての「皇祖皇太神宮天津教」(『竹内文書』の継承者・竹内巨麿の主宰する神道系教団)弾圧とあらゆる方面から「偽書化」された。

 1944(昭和19).12.1日、大審院判決で無罪判決が下される。

 公判中、「証拠資料」として大審院に保管されていた竹内文書のほとんどが米軍による東京大空襲によって焼失されたとされている。現在、竹内文書と呼ばれている物は、証拠資料として提出される前に撮影された写真類、文書の継承者で研究家でもあった竹内巨麿らの研究メモなどから再構築された「神代の万国史」などの解説書である。

【竹内文書の二系譜】
 「古史古伝」の代表的なものが竹内文書である。竹内文書は、天津教の開祖・竹内巨麿によって存在が明るみになったが、これを保管する竹内家には少なくとも二系流があるようである。一つは、竹内巨麿が養子入りした越中(富山県)久郷婦負郡神明村を拠点とする竹内家であり、もう一つは、武内宿禰の墓があるとされる越中の射水郡二上山を祭祀拠点とし全国の二上山で祭祀を行なう南朝の後醍醐天皇の直系として代々武内宿禰姓を世襲している南朝小倉宮竹内家の家系である。後者の竹内家は代々実子に受け継がれ、現在73世の竹内睦泰氏にいたっている。この南朝竹内家は、外伝としての文書と門外不出の口伝を中心とする古神道の秘儀をも伝えているという。こちらの方が「正統竹内文書」のようである。

 睦泰氏によれば、秘伝の文書は竹内文献とは共通の部分もあるが、本質的には別のものであるという。現在のところまだ、ほとんど非公開のため、断片的にしか内容はわからない。だが、竹内文書と同様に超古代において天皇家の先祖が世界を支配していたこと、キリストが来日したこと、越中を中心とする王朝が存在したこと等々、かなり同じような内容が含まれているという。

【竹内文書考】 
 「竹内文書」(たけうちもんじょ、竹内文献、磯原文書、天津教文書ともいう)は、動物の皮をなめしたようなものに漢字伝来以前の太古文字である神代文字によって綴られている日本の皇統史書である。その成立年代、編纂者は不明であり、現存するものは、5世紀後半の第25代の武列天皇の御代、平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字カナ混じり文で書き改めたものであるとされている。但し、竹内巨麿が公開した文書は、大東亜戦争の東京大空襲の際に焼失したとされている。現在知ることが出来るのは、当時に写筆された資料に基づく「神代の万国史」(皇祖皇太神宮刊)に拠る。記す内容が古事記、日本書紀のそれと大きく異なっており、真偽定めがたいものとなっている。

 神代文字で記された文書が元々存在し、雄略天皇の勅命により武内宿禰(たけのうちのすくね)の孫の平群真鳥(へぐりのまとり)が漢字とカタカナ交じり文に翻訳した写本群の二種類があると云われる。平群真鳥は、第25代武烈天皇の密旨によって、高天原の故地である越中に隠遁してこれらを庇護したとも云われている。その後、平群真鳥は国政を専断したとして、朝廷軍に討伐され滅ぼされている。縦40センチ・横400センチほどの大きさの、鹿の皮をなめした様な物に、墨ではなく漆によって書かれており、10〜15枚程が、直径13センチほどの筒に、くるくると巻かれた状態で入れられ、その筒は、さらに大きな円筒状の壷に入れられ、その壷が72個あるという。

 平群真鳥の子孫である竹内家が富山県の赤地神明宮の神主として伝えてきた。第二十三世の平群子首は、天武朝に開始された日本書紀の編集で、臣姓伝承編集を担当した。連姓伝承担当は中臣大嶋である。以後、最初のうちは国司、のち代々郡司となったが、四十五世の平群清幹の時に、平将門の乱追討の征伐副将軍となった。配下に甲賀忍者の祖・諏訪三郎兼家がいた。以後、秋田城介・平群利方、鎮守府将軍・平群永盛と続くがその子の頼義が若くして出家したため、再び没落する。頼義は僧侶として比叡山の首楞厳院の阿闍梨・光源として大成した。このころ密教関係の口伝が挿入された。

【竹内文書の内容考】

 竹内文書の内容は、原始神の宇宙創成から神々の地球創造、人類の誕生、二度にわたる超古代文明の興亡をほぼ年代順に伝えている。世界的、壮大なスケールの記述が多く、世界には五色人が存在し、みな日本から発したこと。モーゼ、マホメット、釈迦、孔子などが来日して教えを学んだこと。ボストンやサンフランシスコ、アフリカ、オセアニアなどという地名まで登場する。また、太平洋にある「ミヨイ」「タミアラ」という謎の大陸の滅亡に関する記述があり、オリハルコンを彷彿させるヒヒイロガネという金属も記されている。竹内文書もウガヤフキアエズ王朝を記すが、その歴代天皇名の漢字表記が上記鈔訳と非常に類似している。もともとの上記の原文が漢字ではないことを考えれば、竹内文書は上記鈔訳に基づいてウガヤ王統譜を造作したことは明らかである、とされている。明らかに疑わしい点が多いにも関わらず、竹内文書は、戦前は皇国史観ゆえに国粋主義者に、戦後はUFOや太古の航空機の伝承との関係でSF愛好者に支持され、また、戦前の風潮への反発から、大和朝廷以前に先王朝が成立していたという内容が超古代史研究者をひきつけている。

 竹内文書は、創造神(第1代神)を「元無極躰主王大御神 (モトフミクライヌシノオオミカミ)」、またの名を天地身一大神、あるいはナンモ、アミン、ノンノ、カンナガラ、メシアなどともいうとしている。こうした異名の数々はこの神が持つ究極の神性を表現するためのものらしい。

 この神は「天地ヲ産祖神」であり、「天地乃大根元身体乃大神」だという。次のように記している。

 天地未だ分かれず 鶏子(とりの子)の玉子の如くなり、天地を産める祖神なり、天地未だ土の海の如くなり、 天地の大根元身体の大神・・・・・(アメツチイマダワカレズ トリノコノタマゴノゴトクナリ アメツチヲウメルオヤガミナリ アメツチイマダツチノゴトクナリ アメツチノオオハジメミカラダノオオカミ・・・・・)

 つまり、この神が現れた時、宇宙はいまだ「天地未分ス、鶏子乃玉子如奈リ」という状態で、原宇宙ともいう混沌(カオス)無限の混沌そのものであったと云う。

 第2代神は、「中未分主大神 (ナカナシワカレヌシオオカミ)」と「中未分美大神 (ナカナシワカレミノオオカミ)」。無限の混沌に秩序を与え、現在の宇宙への進化を担当した。この弐神によって、天地(宇宙)はようやく“玉乃如ク”なり、 泥の海に岩石のような塊ができ、ようやく土と水が分かれて天地は玉のようになった。ここまでの年数は、“年歴無数”と表記されている。

 第3代神は「天地分主大神 (アメツチワカレヌシオオカミ)」 と「天地分美大神 (アメツチワカレミノオオカミ)」。この頃、天と地が分離し、現在の宇宙がほぼ完成した。之が、“天地剖判”(てんちぼうはん)である。この期間は、224億32万16歳という。


 第3代神の出現から二百二十四億三十二万十六年後、天地が別れてようやく大空に中空ができる。第4代神は、「天地分大底主大神 (アメツチワカレヌシオオソコヌシカミ)」と「天地分大底女大神 (アメツチワカレヌシオオソコミドノオオカミ)」の男女弐神。天地剖判によってできた“大空”から男女2柱の神が成来した。 この弐神によって、大地の原型が造られ、固まりゆく“万国”(トコヨノクニ)の地上や煙の中より何柱かの神が生まれた。

 第5代神は、「天一天柱主神 (アメハジメハシラヌシカミ)」と「天一美柱主神 (アメハジメミドハシラカミ)」。この御世に“土ノ海”(ドロノウミ)が固まり、“万国ノ底”にできた土の塊に“地美”(チミ)となづけた・・・「地球」の誕生である。 この御代で、天の底にあたる地上で祭天の儀が始まり、天越根日玉国狭依国越中国(飛騨・越中)が天国の柱、天皇・天神の宮が置かれる国と定められた。また、万国の底を地美、造化の男女二神がマグワイした所を淡海根(近江)と名付けた。これらは地上における最初の国名である。それから百六十億万年のちには泥の海がすっかり固まり、二百六十億十万年後には天神五代の神々が天に登った。その神々が天上に登った所は天一柱の国と名付けられた(『古事記』では天比登都柱は壱岐の別名)。

 第6代神は、 「国万造主神 (クニヨロズツクリヌシカミ)」と「国万造美神 (クニヨロズツクリミノカミ)」であった。この弐神は、地球の公転運動から暦日を定め、また無数の星々を造りあげた。その間“地球数百度土ノ海トナリ 岩石ノ角マルクナル”とある。 この御代で、神々は地上に草木の種を蒔き、また地球公転運動のヒナ形を造った上、天上に光星、旗星、彗星など無数の星々を産んだ。その間には地球は数百度にも渡って泥の海となった。高い山中でも貝殻が見つかることがあるのは、その泥の海のなごりだという。さらに神々は天の底の天神人祖神一神宮で造化の神々の像を造って祀り、天皇をその祭主として定めた。また、日神の夫婦が現れて地球の活動をつかさどり、月の女神も現れて大地を照らすようになった。日の神々と月女神の誕生は暦の成立をも意味する。

 天神第七代の位を受け継いだのは、前代に現れた夫婦の日神である。この神々によって暦はさらに整備され、星々の運行まで定められた。また、この神々の皇太子は日玉国の位山(現岐阜県宮村の位山)に大宮を造営した。そして、その皇太子の即位によって上古二五代の御代が始まるのである(その初代は天日豊本葦牙気皇主尊天皇)。

 第7代神は2期に分かれ、前半は「天御光太陽貴王日大光日大神 (アメノミヒカリオオヒナカオオヒノオオテルホオオカミ)」と「天日身光美比女大神 (アメヒミヒカリミトノオオカミ)」。この御世の時、皇孫の地球降臨が神定された。実施されたのは後期の「天日身光ホド男大神 (アメヒミヒカリホドオオオカミ)」と「天御光太陰貴王女大神 (アメノミヒカリオオイナカオオヒメオオカミ)」の御世。皇太神「天日豊本葦牙皇主身光大神 (アメヒノモトアシカビキミヌシミヒカリオオカミ)」が、地球“天元根国”(アメノムトネノクニ)に、諸神を率いて“天浮舟”で降臨し、“上古初代一世天皇”となった。

 以上の期間が天神7代と言われる竹内文書における「宇宙創成神話」である。

 続いて上古二五代に入る。上古第1代の皇子には、農耕、牧畜、魚漁、養蚕や土器作りなどさまざまな生活技術をそのまま人格化したような名が多く見られる。「天浮船大空乗公運尊」皇子の事蹟は、「天空船、水船を造る」であったという。水船はともかくも天空船とは何か。飛行機のような空飛ぶ乗り物ということになる。

 上古第2代の天皇は「造化気万男身光天皇(ツクリノシキヨロズオノミヒカリスメラミコト)」で、この御世の時、天下万国全部土ノ海トナルコト84度、その大異変により世界に“5色人”(イイロヒト、黄・黒・赤・白・青)の皇子・皇女を生んだ。
黄人(キ ビ ト)は アジア人(日本人を含む)、 赤人(アカビト)は アメリカインデアンやユダヤ人等に痕跡あり、 白人(シロビト)は 白い肌とプラチナやブロンドの髪をもつ。黒人(クロビト)は インド人(原住民族)やアフリカ人など、青人(アオビト)は 肌が青白(パールホワイト)に近い、現在純血種はほとんどいないと記している。

 上古第2代天皇は、25人の皇子を世界各地に派遣した。皇子たちは、それぞれの赴任先の土地を”支国“(エダグニ)つまり・・・植民地として支配し、その“民王”(ミットソン)におさまった。支国としてインダウ天竺万山黒人民王やヨイロバアダムイブヒ赤人女祖氏、オストリオセアラント赤人民王、ヒウケエビロスボストン赤人民王、アフリエジフト赤人民王、「ヨハネスブルク」、「ニューヨーク」など、明らかに近世以降の地理的知識によって造作された人名も見られる。

 この時代、天皇は1代に一度は、世界中を視察して廻る、“万国巡幸”をおこなった。その巡幸に使用したのが“天浮船”である。上古第2代天皇は、大海原乗舟造知尊(オオウナバラノリフネツクリシルノミコト)・天豊船乗知主尊(アメノトヨフネシリヌシノミコト)・天日竜舟工知主尊(アメノヒタツフネノタクミシリヌシノミコト)らに命じて、大船8艘小船16艘を作らせたとある。

 天皇万国巡幸・・・大力勇神通力ニテ1日8,000里、天浮舟ニ乗リ行キ給ウ。マタ1日10,000里行キ給ウ時ニ万国5色人ノ王、マタ尊者マタ民王一同、アア天日天皇貴ク天神御来光トイウテ拝礼ス

 上古第3代の即位30億万年、天皇は大船8艘、小船16艘を造らせ、自らは天之浮船(「天空船」と同じものか)に乗って最初の万国巡行に乗り出した。帰朝後、天皇は史官たちに命じて、万国の主の名とを書き記させたという。この天皇の即位160億万年には地球全土大変動し、泥の海となって万国ことごとく滅ぶという事件が起きた。天皇とその一族は天空浮船で日球国に逃れ、災害から5億5万千年目に天降って、ふたたび地球万国を産んだ。これ以降の上古天皇たちの事蹟は、度重なる「地球全土大変動」と復興のくりかえしである。

 上古第4代は、古事記で始源神とされるアメノミナカヌシが登場している。上古第14代は、日本書紀本文で始源神とされるクニトコタチ。最後を飾るのは、記紀神話のヒコホホデミにあたる天津彦火火出見身光天津日嗣天日天皇であり、その後はウガヤフキアエズ王朝73代に引き継がれる。

 大災害はウガヤフキアエズ王朝に入っても無くなることはない。たとえば、ウガヤフキアエズ王朝第10代の女帝、千足媛天皇の御代には、太平洋にあったタミアラ国とミヨイ国(ムー大陸のことか)および現在のインド洋、カリブ海にあった陸塊が海の底に沈んだという(「嗚呼オトロシヒエ地変ぞ」という注記がある)。

 上古21代天皇は、「伊邪那岐身光天津日嗣天日天皇」といい、イザナギ(古事記では伊邪那岐命、日本書紀では、伊弉諾神)にあたるとし、その2子のうち1子が「月向津彦月弓命亦ノ名須佐之男命」すなわちツクヨミ(古事記では月読命、日本書紀では月弓尊)であり、スサノオ(日本書紀では素盞嗚尊・素戔嗚尊、古事記では建速須佐之男命・須佐乃袁尊)の別名とされている。

 また、第69代の神足別豊鋤天皇の御代にも二度に渡って「天地万国大変動五色人多く死す」という災害があり、その結果、紅海とアラビア砂漠が出現したとある。不合朝第69代天皇ノ即位33年サナヘ月(5月)・・・「天地万国大変動5色人全部死ス、ミヨイ国・タミアラ国海ノ底ニ沈ム」。
 上古25代に続いて不合朝時代となる。この御世も、幾度もの大災害に耐え、先古代文明を保っていた。しかし上古代に比べ次第にその権力は衰えていく。世界各地で、内乱や反逆事件がたびたび起きるようになり、その末期(69代)には、上古王朝の先古代文明を伝える中心地ミヨイ、タミアラ両大陸を沈没させる大異変によって壊滅的な打撃を受ける。

 64代の時代に皇子31名と皇女43名が巡幸し、長である万国巡知彦尊が知勇大力で外敵を制圧したのが「桃太郎」の起源だという。

 
69代神足別豊鋤天皇の代にミヨイ、タミアラが陥没した(なおこのミヨイ、タミアラの文字は昭和15年10月の『天国棟梁天皇御系図宝の巻き前巻・後巻』児玉天民著が初出である)とムー大陸昭和13年6月号の『神日本』の「陥没大陸ムー国」が日本での初期紹介)やアトランティス大陸を思わせる記述がある。

 不合朝最後の天皇である第73代は狭野尊(サノノミコト)。天皇は、神武天皇と名を変え神倭時代へ入る。先古代文明から歴史時代へと突入していく。

 メソポタミアで合流したシュメール人と呼ばれるスメル族の物語り。太陽の上る方角に、つまり東へ東へと向かって日本についたらしい。もっともこの太陽に向かって日本にきたというのは、天孫族来日の口伝にもある。スメル族は二手に分かれて日本に戻った。インドネシアなど南方の海路ルートを通って日本に戻ってきたグループは九州高千穂に上陸、彼らは大和族(日向族、天降族、天孫族)と呼ばれた。一方、陸路を使って朝鮮半島から日本に戻ってきたグループは山陰地方に進出、彼らは出雲族と呼ばれた。

 彼らは当時の原日本人を制服していった。出雲族は日本海側を支配、大和族は瀬戸内海側を海路東進し、奈良に入った。出雲族のスサノオは、越王朝のヤマタノオロチを「退治」した。その後、出自不明の大国主はスサノオの娘と結婚して出雲の王となったが、それを認めてもらうために再び越の国を攻めた。

 その間、出雲族と大和族は何度か小競り合いを繰り返した。おそらく最初の戦いでは大和族が勝ち、二度目の戦いでは出雲族が勝利した。二度目の戦いの後、和睦が結ばれ、出雲族のスサノオはアマテラスと夫婦の関係になる。しかし、大国主の息子の事代主(コトシロヌシ)が王の時代に、再び戦争となり、出雲族は大和族に敗退する。その結果、当時の大和族の主である神武は、事代主の娘を娶り、ここに大和朝廷が確立する。おそらく紀元後50年ごろの話だ。「皇祖之霊皇大神宮」がある。口伝によれば、神武四年に神武天皇の詔によって創建された。

 この神宮の初代祭主は、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴姫であり、彼女が事代主命の娘であることから、出雲系神道の口伝が伝わっている。

  竹内文書のユニークさは次の下りある。

 皇祖皇太神宮(スミオヤスメラオタマシイタマヤ)は、上古初代天皇が天日国から天元根国へ降臨された時、天神7代の諸神霊を遷(うつ)し祀った「天神人祖一神宮」が正式名である。その場所は、天越根国の中日見日高見国の光池上であった。これは、現在の越中富山の婦負郡久郷町の御皇城山(おみじんさん)と云われる。

 「天神人祖一神宮」が皇祖皇太神宮と呼ばれるようになったのは上古10代1世天皇が神殿を再建された時である。この時、万国の五色人の民主が参集し盛大を極めたと云う。越中富山日本だけでなく全世界の中心であった。また、ムー大陸やアトランティス大陸を連想させる「ミヨイ」、「タミアラ」という謎の二大陸や、世界には「五色人(黄人、赤人、青人、黒人、白人)」が存在しているが、その発祥は日本である。

 モーゼ、マホメット、釈迦、孔子などがその昔、来日して教えを学んでいる。茨城(巨麿)の竹内文書では、キリスト来日の時期を垂仁天皇のころにしているが、正統竹内文書では神武天皇のころとなっている。キリストは五十鈴彦または伊勢津彦と名乗り、八戸を越え蝦夷地に入り、さらに東へ進んだことになっている。弟は伊須気余理彦または石切彦という名前で、茨城の竹内文書に出てくるイスキリと似ている。

 ボストンやサンフランシスコ、アフリカ、オセアニアなどという地名まで登場する。オリハルコンを彷彿させるヒヒイロガネという金属も記されている。

 その内容は、世界的、壮大なスケールの記述が多く、原始神の宇宙創成から神々の地球降臨、人類の誕生、二度にわたる超古代文明の興亡、日本皇統の始まりを伝える。「神代の万国史」といわれる。

 『竹内文書』もウガヤフキアエズ王朝を記すが、その歴代天皇名の漢字表記が『上記鈔訳』と非常に類似している。もともとの『上記』の原文が漢字ではないことを考えれば、『竹内文書』は『上記鈔訳』に基づいてウガヤ王統譜を造作したことは明らかである。

 明らかに疑わしい点が多いにも関わらず、『竹内文書』は、戦前は皇国史観ゆえに国粋主義者に、戦後はUFOや太古の航空機の伝承との関係でSF愛好者に支持され、また、戦前の風潮への反発から、大和朝廷以前に先王朝が成立していたという内容が超古代史研究者をひきつけている。


【狩野亨吉氏の「天津教古文書の批判」
 1936(昭和11).6月、狩野亨吉氏は、思想(岩波書店)誌上に「天津教古文書の批判」を掲載した。これを転載しておく。

 天津教古文書の批判

http://redshift.hp.infoseek.co.jp/amatu.pdf


青空文庫/図書カード:No.3039「天津教古文書の批判」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000866/card3039.html

 狩野亨吉『天津教古文書の批判』

      第一 緒言

 天津教古文書の批判に先だち、私はどんな因縁で天津教の存在を知ったか、またどんな必要があってその古文書を批判するのか、この二点について説明しておきたい。

 昭和三年五月の末に、天津教信者のある二人の方が拙宅に訪れ、天津教の宝物の写真を私に贈呈され、かねてその本拠地である茨城県の磯原<古文書の所有者を名乗る竹内巨麿がつくった皇祖皇太神宮の所在地>への参詣を勧められた。私は、その写真を一見して、被写体の文書そのもののニセモノ性を感じて、「非常にあやしい話をきかされるものだ」と思ったが、争わないで穏やかに二人の訪問者を帰した。しかし、そのうちのおもだった方の一人は、天津教に対する有力な資金提供者だと推察できたので、同氏の将来を心配し、ただちに手紙で、贈られた写真に対する意見を述べ、天津教を警戒すべき理由を知らせた。その後、同氏からは何らの挨拶もないので、この警告にどれほどの効果があったかは分らない。

 昭和五年十二月、天津教の関係者が、警視庁の取調べを受けた時にこそ、天津教が皇室の歴史に対しておこなった、錯乱と迷妄と狂気によるような改竄(かいざん)行為を追究し、厳重な処分を下すべきだったと思うが、そのような徹底的な処置は講じられなかったらしく、その後も天津教は検挙に懲りないで、<布教の>宣伝を続け、シリヤの石ころ<竹内文書にいう「モーゼの十戒石」のこと>、ピラミッド類似の山<酒井勝軍(さかいかつとき)の日本の山岳ピラミッド説>などを応援にかつぎだして、ますます病的な迷妄なる伝道を試みるのであつた。実に苦々しいことだと思つたが、世間には天津教以上にいかがわしい宣伝をするものも沢山あるから、いちいち相手にしていられない。

 そのうちに昨年の八月、私は『日本医事新報』から天津教古文書の歴史的な価値の調査を頼まれた。天津教古文書は、膨大な量があるといわれるが、信者でない者には容易に見ることは許されないだろうと思い、まずとりあえず手元にある写真七枚のうち、古文書に関する五枚の検討に取りかかった。そして、この五枚の写真のみの研究により、ただこの五枚に限らず、天津教古文書の全部は、ことごとく最近の偽造による文書で、全く取るに足らないとの判断に到達した。そこで依頼者にそのむねを返答したが、<ニセモノであるという>その意味は決定的だったのだが、表現としては抽象的なものになった。抽象的にした訳は、おおよそ教義の追撃や撲滅と解釈されかねないものは、人心を刺激する恐れがあり、このときも同様のことが起こるかもしれない恐れを避けようとしたためだ。

 ところが間もなく、私が関係しているある場所で、ある軍人の勧誘により、思想を善導する講演をやってもらおうということで、天津教を講演する話を聞かされた。こうなると、もはや天津教を対岸の火事あつかいすることはできない。そのうえ、最初に二人の信者を私の家に訪問させた方も海軍大將だったことを想い起こし、「さては天津教の教義からして、これはもしかすると、軍人たちにわりと多くの信者をもつのではないか」との疑念が生じ、いささか調べてみると思った通りだった。そうなると、すぐにわかるのは天津教の狂的妄想が、どの階級・階層を腐食の毒で害するか推察できるので、はなはだしく憂慮すべきである。今のうちにその浸食を防止しなければ、遅かれ早かれ健全な思想との衝突を引き起こし、その結果、社会に迷惑を及ぼすこともあり得ると思われる。

 これは、あるいは杞憂に過ぎないかもしれないが、あらかじめ天津教の実態を知り、もし事件が起こったとしても、とまどうことがないようにしておくべきだろう。そのようなわけで、私はここで、再び天津教古文書の批判をおもいたち、袋の中に屑ひとつ残さないような方法で精査し、是非をただして明らかにすることに努め、それによって一般の人々にも警告し目をさましてもらおうとするものである。

 ついては天津教のなんたるかを知らない人もあると想うから、その性質を一通り見ることにする。

 天津教は、現在、磯原に住む竹内氏が守る「皇祖皇太神宮」を中心として、布教伝道される思想の一派である。その主張するところは、武内宿禰<たけしうちのすくね=第八代・孝元天皇の孫。景行・成務・仲哀・応神・仁徳の連続五代の朝廷に仕えた。成務朝にて日本史初の大臣となる。子孫の氏族は紀氏・平群氏・蘇我氏・葛城氏・巨勢氏など全国に分散して繁栄した>の子孫たる竹内家は、以来、連綿として千九百年間も皇祖皇太神宮を奉戴して今日に至るという。その間、あらゆる困難と迫害とを経て、それでもよく神代より伝わった皇室関係の古文書及び古器物を、いままで守護し保存してきたという。この主張のほかには、今のところ、病気の治癒を保証したり、男女交際の便宜を計ったり、心霊現象を起こして見せたり、あるいは財産金品の寄付の強要を行ったりというようなことは聞かない。この点は、普通の宗教とは違っている。内部の組織も簡単で、いまだ伏魔殿のような施設が建てられているわけでもない。外部への宣伝方法も穏やかで悪辣(あくらつ)ではない。故に風紀・教導上からみて、この教派ほど無難なものは珍しい。

 このように、いわゆる宗教的な施設に関してはなんら注意すべきものはないけれど、そのかわり古器物・古文書を証拠として神代の百億万年の歴史を展開し、皇室の規模を壮大にいかめしくすることに力を用いている。これについては、いやしくも批判を許さないという態度を取っている。いかにもそのやり方が地味とも見え、おおよそ化粧・粉飾と縁遠いため、人品の立派な人たちをも近よる気にさせて、知識階級に呼びかける神社神道を思わせる。

 以上は、もちろん表面の観察によるものだが、一歩深入りして研究して見ると、もちろんたくらむ所あつての教義で、その目的を隠すために皇室の権威を借り、人を幻惑させようとする仕組みが浮上してくる。類似のくわだてをする者にはよくある手で、鎌倉時代にも徳川時代にも明治時代にも現れたことがあり、専門家の目に珍しくはない。

 天津教そのものは、この類の最も新しいものであるけれど、やはり、まったく歯牙にもかけるに値しない粗末なものであることは一見して明白である。しかし、確かな証拠を捉えて、とどめを刺すには第一に研究を要し、第二に力を要する。故に、関係各署から命令があれば骨を折って鑑定するのも面白いが、大概の場合には、この類の労して益なき事どもは「駄目である」の一言でそそくさと逃げるのが賢い。しかし、そうした具合に賢さを発揮した大学の博士達は、天津教側からは、陰口でバカ呼ばわりされているから、私はまた、どんな怨みを受けるか測りがたい。

 さて、いよいよ批判に取りかかるが、その材料は、さきに申したごとく古文書の写真五枚である。わずかに五枚、実に天津教文書の片鱗に過ぎない。故に「片鱗をもって全体を見きわめることはできない」との反駁(はんばく)があるならば、それを認めることを躊躇はしない。しかしながら、同時にまた、「ものの命を奪うには一カ所の致命傷で充分」なことを心得ねばならない。

 そもそもこの五つの文書は、単なる片鱗ではない。片鱗といえども代表的な宝物として写真に撮られ誇示されたものだ。これを、軍隊にたとえれば、天津教の精鋭を統率する将軍と見るべきで、英姿は颯爽として威風堂々たるを想わせるようなものである。もし、私のおこなう批判研究のせいで、これらの将軍が、いちいち致命傷をこうむるならば、その結果は推して知るべしで、率いる全軍は土くれのごとく崩れ、瓦解して、あわれにも潰滅の路をたどるほかはないだろう。
 検討に当たって、批判対象となる文書の順序は、新しいものから古いものへと、時間をさかのぼる。

     第二 長慶太神宮御由來

 第一の文書は写真の標記に「長慶太神宮御由來」とあり、文字が細かい上に染み汚れのため不明な所もあるが、これを拡大して見れば一字を除きまちがいなく読める。すなわち以下の通りである。
(*注:以下の<>の読み下しと句読点の補いは八神)

 掛卷毛恐伎應永二乙亥年十月十四日越中國神明棟梁
<かけまくもかしこき應永二乙亥年の十月十四日 越中國の神明棟梁>
 皇祖皇太神宮境内に長慶太神宮奉勸請祭神皇王九十八代
<皇祖皇太神宮の境内に長慶太神宮を勧請し奉る祭神は皇王の九十八代>
 長慶寛成天皇神靈歴代皇靈神御帝河内交野私市師師窟寺に
<長慶寛成天皇の神靈と歴代の皇靈神。御帝、河内は交野の私市、師師窟寺に>
 敵の爲に元中九年閏十月十五日夜御壽四十九歳御崩
<敵の爲に元中九年の閏十月十五日夜、御壽四十九歳、御崩。>
 百重原に葬神靈神體天皇詔して御名を石に形假名にて堀付る御頭毛
<百重原に葬る。神靈神體を天皇詔して御名を石にカタカナにて堀付る御頭毛>
 □瓶に十六菊紋附十六菊紋袈裟御宸筆歌鈴を神體に祭る
<□瓶に十六菊紋附の十六菊紋の袈裟と御宸筆歌と鈴を神體に祭る>
 攝社秋葉位明神總大將殉死紀氏竹内越中守正四位惟眞
<攝社は秋葉位明神。總大將に殉死したる紀氏竹内越中守・正四位惟眞>
 壽七十三歳の神靈竹内信治五十七歳神靈竹内日座定介改め惟尚の神靈
<壽七十三歳の神靈、竹内信治五十七歳の神靈、竹内日座定介改め惟尚の神靈>
 天皇の忠心勸王者竹内一族百五十名天皇前後の
<天皇の忠心・勸王者たる竹内一族百五十名。天皇前後の>
 敵に隱れ敬護し勸王家元中九年八月十三日窟寺に安着の時
<敵に隱れ敬護し、勸王家は元中九年八月十三日、窟寺に安着の時>
 九十七名居る道中の難戰に討死の者岩崎彌助前田又藏關屋次郎
<九十七名居る道中の難戰に討死の者、岩崎彌助、前田又藏、關屋次郎>
 若槻禮太郎關谷和吉牧野助之丞粕谷十郎倉富利秋
<若槻禮太郎、關谷和吉、牧野助之丞、粕谷十郎、倉富利秋>
 板垣七之助東郷八右ヱ門黒田清兵衞澁澤隆榮高橋門次
<板垣七之助、東郷八右ヱ門、黒田清兵衞、澁澤隆榮、高橋門次>
 澁谷安右ヱ門眞鍋武利楠次郎正幸清浦善次郎平田東右ヱ門
<澁谷安右ヱ門、眞鍋武利、楠次郎正幸、清浦善次郎、平田東右ヱ門>
 野村惣三郎中田清次郎安田作右ヱ門岡崎藤助井上次郎
<野村惣三郎、中田清次郎、安田作右ヱ門、岡崎藤助、井上次郎>
 淺野長義松井藏之助櫻井左ヱ門赤井幾右ヱ門
<淺野長義、松井藏之助、櫻井左ヱ門、赤井幾右ヱ門>
 一條助隆二條利義中條春完三條信義四條隆次五條清信六條助信
<一條助隆、二條利義、中條春完、三條信義、四條隆次、五條清信、六條助信>
 八條信弘芝信義小村安五郎武藤清右ヱ門新保八郎小山三郎
<八條信弘、芝信義、小村安五郎、武藤清右ヱ門、新保八郎、小山三郎>
 杉政次郎右ヱ門高道治助高柳利治藤田小三郎野尻善右ヱ門
<杉政次郎右ヱ門、高道治助、高柳利治、藤田小三郎、野尻善右ヱ門>
 稻垣角之進草野清利蛭田甚左ヱ門木村常陸之助結城三左ヱ門三郎
<稻垣角之進、草野清利、蛭田甚左ヱ門、木村常陸之助、結城三左ヱ門三郎>
 斯波左ヱ門白川政利長井吉兵衞の神靈を同日奉勸請
<斯波左ヱ門、白川政利、長井吉兵衞の神靈を同日、勧請奉り>
 毎年十月十四日を祭日に定
<毎年十月十四日を祭日に定む>

 應永二年十月十四日五日印之
  祭主棟梁皇祖皇太神宮神主
      紀氏竹内宗義謹(華押)
      紀氏竹内惟義謹(華押)

 
長慶太神宮祕藏

 この縁起文の大要を述べれば、応永二年(1395年)十月に越中国の皇祖皇太神宮境内に長慶太神宮を設け、主神として長慶天皇を祭り、摂社として秋葉位神社を建て、之には長慶天皇御崩御の際の殉死者たる竹内惟眞、ほか二名、及び同志の戦死者の岩崎彌助、以下五十三名を合祀するというのである。

 第一に、この文体について吟味すると、初めの文句は「かけまくもかしこき」で、いかにも神社の縁起にふさわしいと読めるが、次の句が続かない。たちまち凡俗の口調に変わって、奇妙な熟語や当て字を使っている。熟語の例は、第二行に皇王(人皇と云うべき所)、第四行に御崩(崩御)があり、当て字の例は第五行に形假名(片假名)堀付(彫付)、第九行に忠心(忠臣)、第十行に敬護(警護)、第二十三行に印(記)がある。しかして「形假名」と「印」とは、後に取り扱う平群真鳥(へぐりのまとり)の文書にも既に現れているから、天津教伝来の語法と取って差支えない訳で、千年も変わらずにこうした文字を使っているのは、はなはだかたくなな所がある。そこには何か特別な理由が存在するものと見られるが、これは後に研究することにする。

 用語の穏やかならないものに、第五行の初めに「百重原(ももえがはら)に葬」がある、ここは「葬」のただの一字で満足すべきでなく、よろしく敬語の形とすべきである。もっとも大体、なっていない文章であるから、敬語の用法などを責めるのは無理かも知れない。第十行の「敵に隱れ敬護し勸王家云々」は多々論議すべき所を持っているが、今はただ「警護せし」というべきを、その中から「せ」の一字を脱した所に注意を呼んで置くにとどめる。それから「勸王家」は、もちろん「勤王家」の誤りであろうが、どうも新しい響きがある。また徳川以前には所有格を示す「の」字はたいてい「之」の字を使ったのであるが、この文にはことごとく「の」字を用いているのも、また新しく見える。

 第二十三行の「印之」は「之を記す」と読まなければ意味が通じない。すなわち「印」は「記」の当て字である。この用例は平群真鳥にも出ている。第二十五、二十六行の署名の下に「書」とか「記」とか、あるいはこれに代る動詞があるべき所に、普通これらの字に副詞として添えられる「謹(つつしんで)」の一字を置き、その下に華押を書き添えている。この形式は、また平群真鳥の場合に現われるから、いわゆる、かたくなさの第二例となる。最後に、この文の最も不都合なる点は、第七行の「紀氏竹内越中守正四位云々」と書下した所にあるのであるが、史実に関するものであるから後にして、今はただ、この文は典故(古典・故実)を知らない人の作ったものであることを言っておく。

 以上、文体の考察をつづめていえば、この文は、文法も知らず典故も知らずして書いたもので、かつ全体の調子より察して、比較的、近頃の人の作と思われる。

 第二に、書体について吟味すると、字形は大体、唐様<江戸時代に流行した明国の書家・文明徴の書風>と取るべきもので、御家流<和様書道の青蓮院流の書風で、江戸時代の公式文書にはこの書体のみ用いられた>の影響は微弱である。しかして一見、菱湖<幕末三筆の一人である書家・巻菱湖>の影響を肯定できる。筆致を考えると器用の質であるが、いまだ修練を積まない。故に無理がきたり誤字が現れたりする。前者の例として第二行その他にある「宮」、第四行「夜」、第六行「歌」等の行体をあげられる。後者の例としては、第四行「窟」、第六行「裟」、第九・十行「勤」、第十一行「難」、第十四行「次」、とすべき所に、無理な形か、あるいは全く別の字を用いている。この外に許すべき範囲に入る特異な字形がすこぶる多い。その中の二〜三をあげると、「皇」「靈」「義」「隱」「信」等の文字が得られる。他は必要もないから省くことにする。これらの文字は、個性と習慣によつて頑強性を保持し、他の文書にも現れることを余儀なくされているのを見るだろう。いわゆる、かたくなさの第三例である。

 以上、書体の考察をつづめていえば、この書は素人の筆で、菱湖の風を受けている所から推測して、天保年間(1830〜1843年)より以前にさかのぼることができないものである。

 第三に、内容について吟味すると、日時、地理、人物、事件の順序で調査する。
 日時に関しては、干支・閏(うるう)月等の記入には不都合がない。
 地理に関しては、越中国・皇祖皇太神宮の所在を問題とすべきであるが、これを決定するには、意外な困難が予想できるので、とりあえず、天津教の言い分を立てておく。しかし、後でわかるが、結局はこれも詮索の必要は無いのである。次に、「河内國は交野郡(かたのぐん)の私市(きさいち)、師々窟寺」は、「師々」を「獅子」として生きる。昔は亀山帝の御陵があると想われた有名な寺(普賢山獅子窟寺・真言宗高野山派)である。百重原もその付近にあって<方丈記の作者>鴨長明の歌で有名である。

 人物に関しては、長慶天皇を除き奉り、ほかの登場人物は、五十六人とも皆目分からない。しかしながら、竹内家郎党の名前の一〜二字を変えると、近頃の相当に名の聞こえた人が現れ出るのである。私の気づいた二〜三を選んでみるならば、現れ出る人は、「岩崎彌之助」「岩槻禮次郎」「黒田清隆」「澁澤榮一」「平田東助」「淺野長勳」「松崎藏之助」あるいは「松井庫之助」「藤田小四郎」等で、この中で藤田小四郎だけが明治より前の人である。選び手が変わると、また人数が増すことになるであろう。

 今一つ、郎党の名前について目立つことをいへば、「一條」「二條」と順を追い、「七條」を除き、「中條」をもってこれに変えて三番目に置き、「八條」までの苗字に、おのおの立派な名乗りをつけて並列させた奇観である。郎党の名前を読んで行けば、なんというか近頃の人が並んでいる様な気がしてならず、応永年間頃の人々の勢ぞろいとしては受け取り難い所がある。すなわち、人物の実在性に関しては、多大の疑いがあるのであるが、そのうちの一人を証明するにも否定するにも、ちょうど「皇祖皇太神宮」所在地の場合と同じ様な困難を感じるのであるから、無駄な努力は止めて、次の事項に移る。

 事件、すなわち史実に関しては、確実な証拠をあげ得ることだけを述べる。この「縁起」には、長慶天皇は「敵の爲に元中九年閏十月十五日夜御壽四十九歳御崩百重原に葬」と記載されている。長慶天皇の御事蹟については中間種々の説もあったが、今日はおおよそ一定し、崩御に関しては『大乗院日記目録』に記載する所が正しいとされている。これによれば、天皇は南北朝合一の後、京都に還幸せられ大覚寺に御座し、応永元年(1394年)八月一日、聖寿五十二にて崩御せられている。この『大乗院日記目録』は、当時第一流の学者であった一條兼良の子たる大僧正尋尊の記録したもので、天津教文書など出たところで対抗はおぼつかない。すなわちこの文書の長慶天皇に関する記事は虚妄である。

 しかし、聞く所によると、天津教では何事でも自分側の主張を正しいとするということで、はなはだ始末に悪いのであるが、ここでも必ず負け惜しみに出るであろう。それならば、先に進んで殉死者のくだりに移る。先に文体を論ずるに当たり、「紀氏竹内越中守正四位惟眞」と書き下したのは典故を知らないためだと指摘して置いたが、官位を記す書式を知らないことは許してやっても、どうしても許せないのは「正四位」である。おおよそ位階というものは、大宝律令(701年)で定められて以来、明治元年(1868年)の末まで変化なしに伝わってきたもので、その定めによれば、位階にはおのおの「正」「従」があり、殊に「四位」以下には「正」「従」に、さらにおのおの「上」「下」があつて、単に「正四位」という位は無いのである<本来なら「正四位上」または「正四位下」でなければならない>。すなわち「正四位」の「竹内某」などという人が応永年間(1394〜1427年)に存在したことは認める訳に行かない。したがって、この記事もまた虚妄である。

 どうして、こんな不都合なことを書いたか、その原因をつきとめて見よう。これには第一に考えられるのは、知っていてこのような不都合を書くはずもないから、知らないで書いたものと、みなさなければなるまい。そこでまた、二つの場合が考えられる。第一の場合は、「実は知っているが、ちょっと忘れるか、不注意のため、書き落したもの」と取るのである。第二の場合は、「全く知らないため、書かなかった」と取るのである。まず事実は、第一の場合であったと取る。そうすると、<書き手の署名にある>「宗義」「惟義」等は大事な<竹内家の>尊族の官位を書きまちがえたといっただけで済みそうであるが、そうは行かない。なぜなら、いかに長慶太神宮秘蔵の文書とはいえ、書き手が<この文書を>再読できないはずもないし、また最初に書き終った時にも校正読みもしたであろう。そうして、この箇所の不都合に気づいたとすると、まったく清書し直すか、または訂正しなければならないはずである。それなのに、なんら<修正の手を>施すところがないのを見れば、忘れたのでも見落したのでもなく、全く知らなかったのである。

 ひとり「宗義」「惟義」が知らなかつたのみならず、竹内家代々の人もまた知らなかったのである。そう演繹せざるを得ないではないか。しかし、要するに書き手の二人が知らなかっただけでよろしい。すなわち第一の場合が成立せず、第二の場合が成立することになる。すなわち「宗義」「惟義」二人ともに正四位に上下のあることを知らないことになるのであるが、無知な子供や農民やふつうの町人ならいざ知らず、殿上人の資格<宮中・清涼殿に昇殿できる四位・五位の地位>のある惟義の近親たる二人が知らないとは、なにごとだろう。しかし、事実、知らないものなら致し方ないが、そのかわり「知らない」で済む時代に生息してもらわなければなるまい。そうすると「惟義」「宗義」は、明治以後の人と取るのがふさわしい。なぜなら、位階に上下が無くなったのは、明治に入ってからであり、これが確かに制定されたのは明治二十年だからである。

 以上、内容の考察をつづめていえば、この文書の史実が認められないだけでなく、応永二年に竹内某の書いたということも、全くの偽りと決まり、その上このようなデタラメを書く資格は、明治も末年の無学のものに限られているという結論が伴うことになる。
 上述の理由により、「長慶皇太神宮由來」は、明治後期から以後の偽作であると判断する。

 第三 長慶天皇御眞筆

 第二の文書は寫眞の標記に長慶天皇御眞筆とあり、二通より成立する。其全文は下記の如くである。

 第一文書            第二文書
鳴ゆたなり諸國巡り       鳴呼覺り天に神辟
父をふて合して歸る       獅子口に隱魂都百重
河内の口ち寺          帝乃千代守り
 元中九壬申八月二十六日     元中壬申十閏月九日
  ゆたなり(華押)         覺理(華押)
        惟眞へ         惟眞へ
        宗義へ         宗義へ
        信治へ         信治へ

 上記、「長慶天皇御眞筆」と、この次に出てくる「後醍醐天皇御眞筆」とあるものは、いずれも破損がはなはだしく、かつ汚染も多く、何のために、こうなるまで粗末な扱い方をしたものか解釈に苦しむ。この破損や汚染も果して自然のものか、それとも人為を加えたものではないのか、はなはだ疑うべきところがある。しかしながら、この程度の写真では、この疑問につき十分の研究をなし難いから、その調査はやめにして、じかに文書の意味を取り調べる。そして、あらかじめことわっておくが、この文書も、また次の文書も一目瞭然、天皇のものでないことが分かるのであるから、そのつもりで批判する。

 第一に、文体について吟味すると、二通ともわずか三十字足らずの文の中に、誤字・当て字・衍字(誤った不要の字)・脱字等をおびただしくかまえ、誤字を除いたほかは、わざと分かりにくくする目的で、おそらくは尊厳を増すために、異様な書き方を試みたように想われる。そこで、これを平易な文に書き換えると、第一文書は「嗚呼(ああ)寛成(ゆたなり)は諸國を巡り、父を追ふて合して河内の獅子窟寺に歸る。」第二文書は「嗚呼(ああ)覺理は天に神避け、獅子窟寺に隱れ都す、百重原は帝の千代守る所。」とこんな意味ではなかろうかと想う。原文を有りのままに読めば巫女の口寄せか御筆先かという口調に類し、一種の悲哀を感じさせる。このようなヘンテコな文であるから、その意味などに重きを置くのも考えものであるが、一つ見逃すことのできないのは第一文書の三行目にある「口ち寺」の「ち」である。私はこれを「つ」の転訛(なまったもの)と取ったのであるが、類似の転訛は平群眞鳥の文書と称するものにも現れるから(以後も)注意すべきである。

 以上、文体の考察を約言すれば、この文はかな違いがあり、かなの多過ぎるのも時代が下ったものなのを示し、口寄せ風の口調もいかがわしいことであり、これを「長慶天皇の宸翰(御書簡)」などとするのは、まことにもってのほかのことである。

 第二に、書体について吟味すると、筆法は「長慶太神宮御由來」を書いた人のものと全く一致し、従って筆者が同一人物であることは疑うべくもない。前に特異な字形として摘出しておいた字がここにも出ているから証拠になる。二つの文書とも、第一行の第一字は「鳴」であるが、これは「嗚」の誤りである。「呼」の崩し方もあやしい。もはや誤字など云々(うんぬん)する必要も薄らいできたが、それでも参考になるから、例の特異の字形、すなわちかたくなさを有する三例を摘出する。それは、「歸」「都」「守」である。これが、やがては「後醍醐天皇御眞筆」にも重ねて出現するのである。

 以上、書体の考察をつづめていえば、これら二つの文書の筆者は「長慶太神宮御由來」の筆者と同一であるという事実に帰着する。

 第三に、内容について吟味すると、第一文書に「父ををふて合して歸る」とあるが、まずこれは「父を追ふ」と読み、御父君の後村上天皇の御跡を追われ、御一緒に河内にお入りになったと取ったのである。ところが、長慶天皇が河内に入られたのは「長慶太神宮御由來」によっても、この文書の日付け「元中九年八月二十六日(1392年)」より遠くさかのぼることはないと推し測れる。すなわち後村上天皇崩御の正中二十三年(1346年)よりずっと後のことである。そうすると「追ふて合して帰る」という読み方では史実と合わないことになる。そこで、「ををふて」の「を」を正しいとして、「終ふ」と読み直せば、そこまではいいが、今度は「合して帰る」に意味が続かなくなり、神秘的な説明でもしなければわけが分らなくなる。そして、神秘的な解釈なら勝手にできることであるが、そんなことをする必要もない。何故なら、この文書の記事は、いくぶん「長慶太神宮御由來」を補足する所もあるが、帰着する所は「由來記」と同一で、なんら事実と認められるものではないのであるから、結局、この文書は偽物と決まり、この上研究する価値のないものだからである。

 次に、第二の文書は、第一行の末字がよく読めないのであるが、多分「辟」かと思い、そうしてまたこの字は、このような文書には不相応と推測し、「避」のまちがいではないかととって、を補って読んだのである。ところで、「天に神避くる」は、あながちおおまかに意味を理解することができないでもないが、いささか神秘的になる恐れがある。そこで、むしろ「辟」のままにしておいてどうかと見ると、「辟」の意味は、「天子」となり「明か」となり「徴す」ともなり、まだまだいくらでも意味がある。「辟」に、これらの意味をこじつけるには、更に努力を要するように思われる。こうして、どんな努力も、この文書のしんがりをうけたまわっている「由來記」同樣に、史実を肯定することは不可能である。結局、この文書は、第一文書と同じく偽物と決まるのである。

 以上、内容の考察をつづめて言えば、二通の文書の記すところは、だいたい「長慶太神宮御由來」の記事に含まれるか、あるいは演繹(えんえき)できる範囲のもので、全くの虚構に過ぎないのである。
 上述の理由により、「長慶天皇御眞筆」は、明治末期に作成した偽物と鑑定する。
 
  第四 後醍醐天皇御眞筆

 第三の文書は、標記に「後醍醐天皇御眞筆」と題し二通ある。全文、下の通りである。

 
第一文書            第二文書
流が禮くる常陸のくに居     我禮隱魂ゆく登む靈實ば
足し王洗良日の國歸り      帝枝たむく帝の國倍榮
隱魂都こぞ           萬づ代守るぞ
 與國二幸已九月六日       興國二幸已九月十二日
  尊治(華押)          尊治(華押)
    惟光へ             惟光へ
    惟眞へ             惟眞へ

 上記、「後醍醐天皇御眞筆」と称する文書の二通は、「長慶天皇御眞筆」と称する文書二通と全く同一の筆で、偽筆であることは明白だが、一応の取り調べを行わねばならない。

 第一に、文体について吟味すると、二通とも「長慶天皇御眞筆」と称するものの文体と同じである。文意は判明しがたい所もあるが、第一文書は、後醍醐天皇が常陸国の大洗へ御着きになり、そこで崩御あらせられたといふ風にとれ、第二文書は、御隠れの後といえども、御霊は帝を助け国を守るべしと仰せのごとくに聞こえる。このように、私が考えたのはまちがっているかも知れず、また幸いにあたっているかも知れないが、何のために、このような堅苦しく難解な文句を書き綴り、畏れ多くも天皇の御名を、文書に付け奉ったか、怪しむべきである。坊さんの読経と同じく、分らない所が尊厳を増すとでも考えての行為か。それにしても御名を冠するには、もっと旨い文章を代作するべきであった。いかに秘密を守る必要があっても、これで押し通せると思うのは、ちょっと変だ。小首をかしげざるをえない。

 以上、文体の考察をつづめていえば、この文は、「長慶天皇御眞筆」の文と同じく、全くはなはだしい偽作である。

 第二に、書体について吟味するに、筆法は「長慶天皇御眞筆」と称するものと全く同一、したがって、また「長慶太神宮御由來」とも全く一致する。すなわち筆者の同一なることを思わしめる。前に指摘しておいた奇癖の文字は、これらの文書にも現れていることを注意すべきである。特に「長慶天皇御眞筆」に現れる「歸」「都」「守」等を比較すれば、同筆であること一目瞭然である。字形に無理があるもの、誤謬とすべきものをあげると、第一文書の第一行「陸」、第二行「足」、第四行「與」(興の誤り)、同じ行の「幸」(季の誤り)、第二文書の第三行「守」、第四行「幸」(季の誤り)等がある。これらの文書は、「長慶天皇御眞筆」と共に、文字はすこぶる大型で菱湖の影響を判然とみることができる。すなわち、これを文化文政(1804〜1829年)以前のものとすることは、許すべからざることなのに、いったい何の根拠があって、天津教はこのような幼稚な筆をもって、名筆かくれなき後醍醐天皇がお書きあそばされたなどと言いふらすのだろうか。

 以上書体の考察をつづめていえば、これら二つの文書の筆者は、「長慶太神宮御由來」の筆者と同一であるとの事実に帰着する。

 第三に、内容について吟味すると、文書に書かれたことの意味が明らかでなく、ほとんど理解に困難を感じる。こんな変態的な記述を吟味するには、いきおい作者の内心を忖度(そんたく)する必要も加わって、容易なことでは判断に達しえない。故に、明確に捕捉できる点についてのみ吟味する。そこで、第一文書の日付は、興国二年(1341年)九月六日。第二文書の日付は、同年同月十二日となっているが、史実を調べると、後醍醐天皇は延元四年(1339年)八月十六日に崩御あらせられているから、これらの日付は、崩御の日から数えて七百五十九日と七百六十五日目に当たっている。いずれも今日の勘定では、二年一ヶ月程度のへだたりがある。すなわち天津教では、後醍醐天皇崩御の後、二年一ヶ月を経て、なお御存命あらせられているととっていることになるのであるが、この事実は、これを歴史への無知に帰すべきか。それとも異をとなえるため、わざと大それた試みをなしたと取るべきか。あるいは、また霊魂不滅の実証を提供せんとの意であるか。いずれにしても、はなはだ面妖の次第である。ここでも負け惜しみをいうならば、天津教の知識の錯誤と迷妄の変態性が証明されたと見るべきであろう。

 以上、内容の考察をつづめていえば、この文書は、「後醍醐天皇御眞筆」とあるにもかかわらず、崩御後二年一ヶ月を経た日付けで書かれているから、まったく疑う余地のない偽物である。
 上述の理由により、「後醍醐天皇御眞筆」は、明治末期後の偽作と鑑定する。

 第五 平群眞鳥眞筆

 <平群真鳥:5世紀後半〜6世紀初頭の大臣。雄略朝に大臣に任命され、清寧、顕宗、仁賢朝の大臣の地位にあって政権を握ったと伝える。仁賢天皇の死後は国政を専らにして王になろうと企て、若年の武烈天皇を無視した言動が多かったという。その子、平群鮪が天皇の許婚の影媛をうばったために大伴金村に一族もろとも滅ぼされたとする。死に際し、諸国の塩を天皇が食べられぬよう呪詛したとの説話がある。
〜『コンサイス日本人名事典・改訂新版』(三省堂1996年3月第3版)より>

 第四の文書は、標記に「大日本天皇国 太古代上々代御皇譜 神代文字之卷」「大臣 紀氏竹内 平群眞鳥宿禰 書写 眞筆」とあり、二枚より成立する。その文は以下のごとくである。

 第一枚目
 「天地棟梁祖根(ムト)日根(ムト)人根(ムト)祖日根(ムト)
 天神人祖一神宮 日根(ヒノムト)国
 五色人ノ棟梁ノ天皇(スミラミコト)天津日嗣天日根天皇ノ系圖
 寶骨像神体寶ノ大祕藏卷」


 第二枚目
 「天皇即位二年十月三日詔シテ日ヨリ即位五年十一月三日迄謹印シ
 大臣紀竹内平群眞鳥宿禰謹
            神代文字「マ」 神代文字「ト」 神代文字「リ」
   大臣    大伴室屋連謹
            神代文字「ミ」 神代文字「リ」 神代文字「ヤ」
   連      物部目連謹
              神代文字「ミ」 神代文字「リ」
 即位五フクラムノ年十一月三日迄印
今上大泊瀬幼武天皇 奉上
棟梁皇祖皇太神宮ノ神代文字卷ヲ 形仮名唐文字以テ写シ寶卷
皇祖皇太神宮大祕藏ノ卷
萬国ノ棟梁天皇寶ノ卷」


 この文書は、今まで取りあつかったものと違い、単独の文書ではなく、一巻の記録の一部分をなすものである。第一枚は、表題あるいは扉にあたり、第二枚はたぶん同一記録の跋語(ばつご=あとがき)と追記に当てたるものと察せられる。

 第一に、文体について吟味すると、第一枚の第一行、第三行、第二枚の第八行、第十一行の四ケ所に「棟梁」の語が出ている。これは「総括する人」の意味に使用しているのは明らかで、別に不思議さもないようであるが、「長慶太神宮御由来」にも二度繰り返されており、いわゆるかたくなさを帯びているから注意を要するのである。

 次に、第一枚の第一行及び第二行に出ている「根」の字には、いちいち「ムト」とふりがなを付けているが、第四行の「根」の字には、このふりがなはない。しかし、ここでもむろん「ムト」と読むのであろう。この「ムト」は「モト」と同義に相違ないが、何故「モ」を「ム」と改めたかその理由は明らかでない。そこで「ム」を「モ」に復帰させて見れば、「祖根」は「祖の本」、「日根」は「日の本」、「人根」は「人の本」となって読めるには読めるが、ちょっと踏み込んで意味を考えると、判然としがたい所もある。

 しかし、この程度の言葉は、何とか解釈もつきそうに考えられる。ところで「祖日根」とは何であろう。これは、かまわず「祖の日の本」と読んで、どんな解釈でもこじつけできるようにしておこう。第二行の「天神人祖一神宮」は、「祖日根」以上に人の頭を混乱させる文字の組み合せで、結局、これもなんとでも、こじつけできるようにしておけば、さしつかえないわけであるから、むしろ読まないことにしておく。読まないながらも、いかなる意味でいっているか位のことは推測してもよろしかろうと思うから、ちょっとその意味を忖度(そんたく)して見よう。そこで直下に控える「日根国」であるが、これは「日の本国」と読み、すなわちわが国をさしていることは、その下に続き出る言葉との関係上、寸分の疑いもないことである。

 おおよそ国民として自分の国をよくしたいのは至情であるから、往々、自慢に取られるようなことをいってもゆるすべきであると思うが、この文の作者もまた、わが国民であるから、忠君愛国の至情のあふれる所、ついにこのような難解の文字をつらね、その間に広大無辺・神聖霊妙の意味を含蓄せしめ、もってわが国を称賛しようと試みたのであると取るは非とすべきだろうか。あるいは難解とみることに対し異存はあっても、精神をくみとりえたとなすのに異存はあるまい。何となれば、公平な第三者の立場から見て、これほど都合のよい解釈はあるまいと考えられるからである。そこで、今までいったことは分からなくても、一番都合のよいように、てっとりばやく、日本をいかめしく形容するために集積した語であろうととって置く。

 第三行の「五色人」はかつて辞書にも見たことのないような気がする名目であるが、あとで内容の吟味に際し重要な役目を演ずる言葉であるから、この所で十分、事実を厳しく調べて置かねばならぬ。「五色人」とわずか三文字の組合せであるが、実物を示されるのならともかく、単に文字だけでいかなるものであるかを極めようとすると、あたかも力学の三体問題<三つの物体の間の物理運動についての問題。正しい解が出せない>にあやかったごとくに、見当をつけるのに絶大の困難を感ずる。

 幸いにも、この所には犯すべからざる制限があって、問題をややあつかいやすくしてくれることを見出すのである。その制限とは、すなわちいかなる解釈を得るにしても、いやしくもわが国に不利益になるようなものを採用することはできないということである。この制限は、第一行・第二行における難解な文字を処理した方針の延長と見るべきもので、なんぴとといえども異存のあるべきものではない。

 さて、「五色人」を、「五の色の人」、「五の色人」、「五色の人」と、三種類の見方をして見当違いにならないようにつとめる。第一に「五の色の人」と見るとき、「色」と「人」との間の「の」が、所有格を現すととれば無意味となるため、これを「五の色」の下につけ、「人」を形容するための接続詞ととれば、結局「五色の人」と同じ意味となるのである。第二に「五の色人」と見るとき、「色人」とはいかなるものかと問うまでもなく、僅か「五」だけの「色人<妻妾>」の棟梁では天皇(スメラミコト)も大したものにならないから、この見方は廃案とせざるを得ない。そこで、残る第三に、「五色の人」と見るとき、まず「色」の意味を、いわゆる「五色」の色の意味にとるのが最も自然である。

 しかし、そうしたところで、「五色人」は、まさか<体の表面に>斑(ふ)の入った人間というわけであるまい。また、七面鳥や七面トカゲ<カメレオン?>のごとく、五通りに色を変える人間というのでもあるまい。なぜなら、万一そんな人間がいたとしても、確実に病的な現象で、たくさんその例があるはずもないし、あった所でますます有難くないものなので、スミラミコトには不相応のものと断ずるべきだからである。そうならば、「色」を目に見える五色の色を指すのではなく、心の移り変わりを指すととったら、いかがであろう。古来、心の根本作用なり、あるいは完全な徳性なりを、あるいは「三」、あるいは「五」、あるいは「六」、あるいは「七」と区分して、名づけているが、この意味において「五作用」、あるいは「五徳の人」と称するかわりに「五色の人」というのも、面白くはないが矛盾もないから許しておけるだろう。

 しかし、この意味における「五色の人」は、単に「人」というのと同様であるから、第一に特色となる「五色」の文字が引立たないことになる。よって、この案は矛盾もなし、不敬にもむろんならないが、さらに「五色」の文字を活かすところがないから廃棄する。そこで、今度は「五色」を静的に並列して見ることをやめ、動的に連続して見ることにすれば、第一に、年齢による精神的な変化を基調として考えた「人間」が想い当たる。しかし、これも、やはり「一般の人間」というのと同じことで、「五色」の文字が引き立たないから取るべきでない。第二に、病的な精神の変化を基調とする場合も考えられるが、うがちすぎだし、その上、<前述の>制限に触れるから除くことにする。第三に、心がわりのある人、豹変する人などを考えることもできる、これなら多数の例を得ること容易であるが、結局、制限に触れることになるから捨てる。

 以上、「五色人」の解釈を種々に試みたが、みな廃案にせざるをえなかった。そうして、いずれの解釈でも「五色」なるものを、各個人が持つものとしてとったのであるが、そもそも、この点がまちがっていたのでなかろうか。否、制限に抵触する原因となったのでなかろうか。ここに気づいて見れば、今度は「五色」を人ひとりの上にかけて見ることをせず、全人類を五つに区分すること、すなわち色別をなす方法を考えることが必要となって来る。

 そして、この方法にも「五色」<の修飾語>を、肉体的な意味にかけるか、精神的な意味にかけるかによって二つの場合を生ずる。心にかける場合を考えると、いわゆる五気質、すなわち粘液質、胆汁質、憂鬱質、神経質、多血質の人間ということに思い当たる。しかし、五つの気質の人は一国内にも一郡内にも一町村内にも見出すことができる次第で、万国の統御に当たれる天子の赤子全体を総括する名称としては適したものとはとれない。よってこれをも廃案とする。最後にあますところは、肉体にかける場合を考えることである。この場合、「五色」の意味を、自然な意味にとり、最も善く適合するものを発見する。

 明治初年の小学校の読本に、世界には五大洲があり、そのおのおのに特有の人種が住居し、それぞれの人種の皮膚の色がちがっていると説いてあったと記憶する。この五種の人間を「五色人」ととるのが一番自然であるのみならず、ほかの意味に取るのは不自然だったり、不敬になったり、さしさわりがあったりで面白くないから、すなわちここに定説を得たことにしておこう。

 同じ行で、天皇に「スミラミコト」と振仮名を附けているが、普通「スメラミコト」というところを、わざと「メ」を「ミ」に改めた理由はわからない。しかし、さきに「モ」を「ム」となしたのと同じ原因によるものとすれば、例のかたくなな何ものかが働いていることが察せられる。第四行より、第五行にわたる「寶骨像神体寶」とは、宝骨をもって造った像を神体と崇め奉った宝物という意味であろう。

 以上、部分的に意味を探究しても、なお判然とし難いところもあるが、大体においてこの執拗に見える文字の行列も、案外、単純なことをいっているようである。すなわち全文をわかりやすくすれば、『天地の棟梁、すなわち「祖根」「日根」「祖日根」はいうもさらなり、天神人、ありとあらゆるものの祖の唯一の神宮というべき日本国に御座して、世界の五種の人類の棟梁にてまします天皇、すなわち天津日嗣・天日根天皇の系図、及び宝骨像御神体の宝物たることを記した大切なる秘密の巻』となる。つづめていえば、「世界の主たる日本の皇室の御系図と宝骨像由来記を合した秘書」となる。このように解釈すれば、前にいったように、これは、表題もしくは扉書きの類なのがわかるであろう。

 第二枚の初めの二行、文法の違反したやり方が二ヶ所ある。まず第一行の「詔(みことのり)シテ」は「詔ノ」「詔シタル」「詔セシ」等とすべきで、もし敬語を使うならばば「詔シ給ヘシ」というべきである。次に第二行の「謹印シ」であるが、「印」は「長慶太神宮御由来」の第二十三行を吟味した際、参照しておいたように「記」の当て字である。その下の「シ」は、「ス」とすべきを、文法を犯しているもので、類似の違反は、第九行にも繰り返されている。これら文法上の違反は、かたくなさを帯びたものと取るべきである。

 次に署名の方式は、前に「長慶太神宮御由来」を吟味した際、参照しておいたように、ここでも全く同一の様式をとり、皆、「謹」の一字をもってとどめている。そして、直下に華押を書くかわりに、<縦書きのため>左側に神代文字をもってこれを記している。
 署名の前に「即位五年十一月三日謹印シ」と記しながら、第六行に至り、また同様のことを繰り返している。これは、この文書に共通な執拗性の一例と見るべきであるが、ただ「五年」とのみいわず、「五年フクラムノ年」と記したのは何の意味か。「フクラム」を「脹らむ」とすれば「ノ」は不必要なのを、そうしないのは文法に暗いせいだとせざるを得ない。しかし、「脹らむ年」の意味は、依然として不明なので、仮に「栄える」の意味にちがいないとしておく。

 第七行は「今上大泊瀬幼武<きんじょうおおはつせのわかたけの>天皇」に上げ奉ると読むのであろう。第九行「形仮名唐文字以テ写シ寶卷」は「カタカナ・唐文字をもって写す宝巻」の意であろう。このの「写シ」を「写セシ」あるいは「写シシ」等のカナの一字を省いたものと取ることは、文章の調子より推測して、過ぎた穿鑿(せんさく)と思われ、やはり「ス」とすべきを「シ」と誤れるものととるのが自然の見方であろう。すなわち、この文の作者は、すでに第二行においても「印ス」とすべきを「印シ」となし、またここでも「写ス」とすべきを「写シ」となし、同じ誤りを繰り返すがごとき常習癖を持つものととって差し支えないだろう。これを東北日本の人、もしくは出雲地方の人、あるいは「シ」「ス」を使いわけることができない程の無教育者ととるのは非とすべきか。

 この第二枚に現れた文意を説明して見れば、「雄略天皇即位の二年十月三日平群眞鳥は詔を受け重要記録の書写に従事し、五年十一月三日に至りその業が終わった。できあがったものは、棟梁皇祖皇太神宮の神代文字卷をカタカナ及び唐文字を以て写す宝巻、皇祖皇太神宮大秘蔵の卷、万国の棟梁天皇宝の巻の三種で、これを今上天皇に上げ奉る」というのである。

 以上の文体の考察をつづめていえば、教養ある人の手に成るものとはとれない俗悪の文章であり、ことに発音上「シ」「ス」の区別ができない疑いも加わり、この点、地方的な色彩が濃厚となり、中央政府の重要なる地位にある平群真鳥の筆になるなどとは、およそ信ずべからざることである。

 第二に、書体について吟味すると、二枚とも同一の筆法であり、一人の筆に成ることが明らかである。しかし、この人は、今まであつかってきた「御真筆」および「長慶皇太神宮御由来」を書いた偽筆家とは別人と認められる。その証拠は、前者は生れつき器用と思われ、また菱湖の影響を受け、文字は幾分、媚態を帯び、一定の型を有するのであるが、後者はむしろ不器用と思われ、これという書家の影響も現われず、文字に風流さ上品さがすくなく、至ってかたくなさに富んだ書きぶりである。書家の影響が認められないとはいったが、後者の書風はよく神道家に見受けることがある。それは、某神道元祖の影響によるものであるが、なお研究の余地があり、かたがた断定を差し控える。

 個々の字形について見ると、第一枚の第二行に「国」の字の異形を用ひており、第二枚の第一行に「詔」の字を誤って書いている。この他、各所に散在する「祖」「神」「寶」「卷」等、皆、許すべき範囲の字形であるのみならず、一方、字形の正確なるものとひろい上げると「梁」「嗣」「即」「謹」等が数えられ、大体において字形は正確で書き振りは謹厳であるととって差し支えない。この点、また某派の文字ににかようところがある。

 以上、書体の考察をつづめていえば、文字は極めて克明に書いているが古雅の風致に乏しく、いたって近頃のもののように思われる。

 第三、内容について吟味すると、第一枚に記するところの奇怪な文中、「五色人ノ棟梁」なる言葉は見逃せない。もし、これが私の推断通り、「五大洲<アジア・ヨーロッパ・アメリカ・アフリカ・オセアニアの五大陸>」に関係あるものならば、この「五大洲」は一体いつ頃から言いならわされるようになったかを考えるべきである。日本はもちろん、西洋でも古代において五大洲の呼び名があったわけではない。なおさら五種の人種があるなど、思いもよらないところである。皮膚の色をもって人類を五種に大別したのはブルーメンバッハ<ヨハン・フリードリッヒ・ブルーメンバッハ:19世紀ドイツの解剖学者・人類学者>の説より始まることで、まだ百五十年も経つたか経たないかの事である。故に、「五色人」を云々するからには、この文章はブルーメンバッハ以後のものと、とらなければならない。もちろん、ここでも負け惜しみが出るであろうが、恐らくこれは「小学読本」が出て以後のものであろう。

 次に「寶骨像神体寶」であるが、宝骨といえば尋常の人の骨とは取り難い。これは生前、高貴の地位にあった人の骨を指していった言葉であろう。前からの続きを考えると、あるいは至尊の御骨をいうもののように思われる。果して、そうならば、これまた見逃しできないものである。いったい、死骨を処理する方法として、「土葬」「火葬」「水葬」「風葬」等が考えられてきたものであるが、いずれの方法も、無残な有様を見ないようにするのが目的で、人情としてまことに無理のないことである。しかし、特別の目的があればミイラにもし、アルコール漬けにも塩漬けにも小間切れにもする。もちろん、人形にすることもできる。かの「被服廠」跡<三万数千人が震災の火災の旋風で大量焼死した本所被服廠の跡>に関東大震災の猛火で死んだ人々の骨を砕き固めて仏像を作って拜ませているなど、その著しい例である。

 ところで、ミイラやアルコール漬けは、是認すべき理由も立つが、人形を作る動機に至っては論議すべきところ多々ある。<死体の骨を>砕いたりこねたりしていじくりまわすとは普通人の忍びないとする所であるのに、これを敢行するに至る原因は、そもそもいかなる心理より生ずるかが問題となるのである。私は、ただちに思想の変態性及び頽廃性を連想せざるを得ない。そして、尊貴もしくは、権威に対する場合には、おもねりを帯びることを自然とすべきである。これらの点を調べようとすれば、いきおい人の心ばえをえぐることになるきらいもあり、同時に確かな証拠をとらえることも困難と思われるから穿鑿(せんさく)はやめにする。また、これよりも大切な点は、わが国において、果して人骨をもって人形を作る風習が存在したか否かであるが、「今日もあることなれば昔にあっても差し支えなし」など抗弁されては、急に白黒もつきかねるゆえ、これも論議を略することにする。

 次に、第二枚に記載の署名の形式、神代文字の花押等、当時、果してそのような書方があったかどうか、誰も知らないことはごまかせるにしても、議論を水掛論にできない境地にもちこんで、そこにおいて問題となるのは「形仮名」である。天津教で「形仮名」なる文字を使う意味は後でわかるが、ここではこの文字によって何を現そうとしているかといえば、それは単に「片仮名(カタカナ)」である。そこで、この片仮名は、吉備眞備に始まるといふ伝説は誤りであったにしても、雄略天皇の時代に、今日と同形の片仮名があったとは恐らく信ずる人はあるまい。もし、その時代にそうした仮名があつたら萬葉集にあんな難しい万葉仮名など使用することがなかったろうと思われる。

 しかし、この程度の反撃は、例の負け惜しみでかかって来るであろうから、すぐ目の前に見える致命症の癌を指摘する。「形仮名」の下にある「唐文字」の「唐」が不治の癌である。この「唐」は「カラ」と読ませるつもりであろうが、それなら「漢」と書かなければならないので、「唐」では時代錯誤となる。「唐」は、雄略天皇以後、百五十年あまりを経ておこった国であるから、平群眞鳥が三百年生きても、雄略天皇即位五年に当たり、この字を使用する理由は一つも見つからない。これは、後醍醐天皇崩御の二年一ヶ月後の「御眞筆」と同型の話で全く驚かされる。それとも、ここの「唐」は、「唐虞(とうぐ=中国の伝説時代の古代聖王、堯と舜)」の「唐」と取れば、時代の矛盾は無いことになるが今度は文字が承知しないことになる。唐虞時代の文字は誰も知らないが、周王朝より以前に楷書があるなど聞いたことがない。あるいは「唐」は「韓」のまちがいであったと逃げる道もあるが、「唐」を「カラ」と読むことを知っているからには、やはり「唐」王朝以後のこととなり、結局、逃げる路を失って斃(たお)れてしまう。
 以上、内容の考察をつづめていえば、内的矛盾を含むのみならず、明治後にいたってようやく知れわたったことを記述するなどのこともあり、これを雄略天皇時代の記録となすは妄言もはなはだしい。

 上述の理由により、「大日本天皇国 太古代上々代 御皇譜神代文字之卷 大臣紀氏竹内 平群眞鳥 宿禰 書写 眞筆」は明治時代の偽作にして、作者は他文書の作者と同一人とすべきも、筆写者は他文書の筆写者とは別人と判断する。

 
第六 神代文字之卷

 第五の文書は、標記を「大日本天皇國太古代上々代神代文字之卷」と題し、第四の文書の標題と極似しているが、「御皇譜」の三字を失っている。そうしてこれは第四の文書と同様に、単独の文書とみなすべきものではなく、まとまった記録の一部分をなすものと推察される。前後二枚続きになっていて、ことごとく見慣れない文字で書き記してある。これが、いわゆる神代文字というものかと思うと、いささか驚かされるが、しかしそう聞かされても、少しも驚くこと はない。今まで「平群眞鳥」の翻訳を見てきた所で、古い言葉も正しい事実も知らずして、デタラメを書いているので あるから、こちらもそのつもりで、どしどし片付ける方針に出る。

 ところで、ただ一つ困ったことは、この文書は一見して、第四の文書の原文と見ることができない、すなわち第四文 書は、この文書を判読するのに最初の手がかりとすることができない。よって致し方がないから、この文書自体の上に 手がかりを探すより他に道はない。さて、この文書の本文は以下の通りである。

 図1[神代文字の巻](クリックすると拡大した画像がでます)

 上記の文書の中から、形の異った文字を拾い出して見れば、その数は四十四となる。そうして、ある文字の右肩に「¨」の符を付けたものを見受けるが、これは濁音符と解する。そうすると、これら四十余の文字は、「イロハ」あるいは「五十音」にほかならないとの推測をなす事ができる。この仮定の下に、これら四十四の異様な文字と五十音とを一致させる試みを、おおよそ二十段に分けて展開して見よう。(以下、中略)


 この文の終りに、「天照太神即位八百万年正月元日」の日付にて御署名があり、これにつづき「素盞烏尊(すさのお のみこと)」「天思兼命(あめのおもいかねのみこと)」「天兒屋命(あめのこやねのみこと)」、「天太玉命(あめ のふとたまのみこと)」の副署がある。すなわち、この文書は神様の御書であり、たとえ模写であったとしても国宝の 資格は十二分である。しかしながら、文章の口調からみて、どうしてこれが神代のものと考えられよう。幼童の数え歌 でさえ、古い呼び方を伝えている数字の<読み方>を、この文書ではほとんどみな漢音で読んでいる。あまつさえ、「 年、即位、勸請、水門」等の語も漢音で出現する。さらには昔をしのばせるめでたい語句はさらに見当たらず、年月日 の鵺(ぬえ)的な読み方などは、もって証拠とするに足らないのみか、かえってぶちこわしである。

 故に、この文章は一見して近頃のもので、しかも拙劣な書きぶりであることもうなずける。もちろん、天津教は「こ れは神代の原稿である」と主張し、その主張の前提として「漢音などは皆、日本が創始した」と言うだろう。何事でも 「日本が創始した」という負け惜しみの考え方は、ひとり天津教に限らず、昔からよく耳にするところで、世間一般に あることとして聞き流しておいてもさしつかえはないが、先に部分的に指摘しておいた、この<「形仮名」>文の欠点 は見逃し難い。かなの違い、脱字、誤字など、まさに乱脈と称するべきなのに、さらに御母親・伊弉那美尊(いざなみ のみこと)の御名の大半を書き落とすような麁相(そそう)の責任を、一体誰に帰させようとするのであるか。ここに 想い到るなら、天津教は、よろしく反省悔悟して深く謹慎すべきである。

 そもそも、このような乱脈は、書き手の頭が悪いか、もしくは取り急いだための過失によるととるのが、最も穏当な 解釈であることに反対する人もあるまいが、これに加えて天津教における、事態をここまで至らせた特殊な事情も、進 んで推定できると思う。すなわち、天津教では、平群眞鳥の記録を「神代文字の記録の翻訳」と称しているが、事実は 正反対で、神代文字の記録が「平群眞鳥の記録の翻訳」なのである。そのような特殊な事情のある下で、翻訳を取り急 いだため、古語の穿鑿(せんさく)も行き届かず、いやが上にも誤謬を犯すに至ったものと解すべきである。

 以上、文体の考察をつづめて言えば、この文書は神代文字で記してはいるが、他の文書と同じく近頃のもので、その 作製は第五文書より後のものと推断される。

 第二に、書体について吟味すると、文字は象形と取るべきもので、書とも画ともつかないながら、その両方の性質を 認めなければならない。すなわち書画一致の見方を応用して、どんな高尚な芸術性があるかを探して見るが、どこか生 硬なるものがあって、あまりよい感じを与えない。技巧の上から見ても、単なる熟練はあっても苦心による丹精修練を 認めることができない。しかしながら、この点は、先入観の連想が働きすぎる恐れがあるから多くを語らない。筆者の 同定に関しては、なおさら臆して判断をさしひかえる。

 私は、いわゆる神代文字の予備知識が無かったため、これら文書の調査を始めた時には、天津教の神代文字が読める などとは想わなかったが、ページの数字にふと気づいてから奮発して、おおよそ一ヶ月を費して全部が読めた。後に、 友人の渡邊大濤氏から、近頃、氏の著した神代文字の本の中に、この文字が説かれていることを聞かされ、自分の寡聞 を恥じると同時に、世間にはまた迷信者もあるものだと思った。この時、ふと『上記(ウエツブミ)』に使用した神代 文字も、この文字ではなかったかと想い、調べて見ると果してその通りである。

ここで天津教の素性はすっかり判ったのであるが、この文字は『上記』とは別個に数ヶ所で発見されたので、国学者の 中には『上記』を疑いながらも、この文字だけは確かなものと信じた人もあった。しかし、これは「植え付け」<いわ ゆるヤラセ>を見破ることのできないために生じた錯覚で、むろんこの文字は『上記』の作者の手になったものに相違 なく、断じて神代のものではない。このような生硬な新文字は、かえって製作に大きな努力を要しない性質のもので、 いわば朝飯前にできるというもので、もちろん判読には手がかりのいかんに応じて相当の時間を要するのである。

 いま「植え付け」ということを暗示したが、これは欺瞞を覆うために都合のよい事物を、関係が無いと想われるよう な所に<あらかじめ>作り設けておき、人に発見させるように仕向けることで、広汎に行われる手段である。この「植 え付け」というやり方には学者もサクラとなったり、デュープ<引用・受け売りを繰り返して流布するもの>とされた りするので、相当に難しいものがある。すなわち、数百年を経て初めて暴露され、千年経ってもなお疑問視されている ものもあり得る。これが宗教界にことに多いのは、嘆かわしい事実で注意に値する。

 どの道、研究家の興味をそそる性質のものであるが、古い所は時効にかかったごとくに思われ、また作為した者があ まりに成功した場合には、どうにもならないこともすこぶる多い。そうではあるが、近頃、聞く所によれば、世間でし きりに異質のピラミッドや新規な神代遺跡などを発見し、いずれも天津教の所説を裏書きするように解せられるそうだ が、そこがすなわち疑うべき所で、こうした「植え付け」は天津教のためにも慎んだ方がよかろうと思われる。

 以上、書体の考察をつづめて言えば、神代の文字と見たとしても、あまり上手な書の神の手になるとは取れない。結 局、この文字は、後世の文字で、瞞着<ごまかしてあざむくこと>を化粧する第二の瞞着に過ぎないものとの判断に帰 着する。


 第三、内容について吟味すると、形式を見ても、記事の精麁(せいそ=詳しさと大まかさ)に適切さを得ない。この 点にまず疑うべきものがある。神代のことは、正史<記紀など正統な歴史文書>にも記載されているが、空々漠々とし て捕捉し難いのである。故に、水戸藩で『大日本史』を編纂するに当たり、義公<徳川光圀>の英断で神代を削ったこ とが伝えられている。しかし、この空漠たる背景を利用して、さらに絵図を広げ、輪をかけた台本を作り、大芝居を打 つことが跡を絶たない。いずれも殊勝に見せかけているが、必ず眉唾ものである。この文書を、実質的に見て、天津教 もまたこの種類の悪だくみであることを断定するにあまりある。

 この文書の第十一行より第十五行へ読み続けると「コシネナカニエヤトトノヲヤマ」というのがある。これは越中国 新川郡の立山を指すものと想われるが、「ニエヤ」は「婦負」とも取れる。そうだとすると立山のある位置が違うこと になる。また、それより重大なことは、この文書の記事に、伊弉那美尊は伊弉那岐尊より後に御隠れになったことにし てあるが、これは正史<古事記・日本書紀の記述>と反対である。

 こうした正史を無視することは、前にも例があるので珍しくもないから、一つ変った矛盾を演繹してみよう。第七行 より第十二行に至る敍述に、「伊弉那岐尊は百億万年にして、御位を天照太神に譲る」とあり、第二十五行に「天照太 神、即位八百万年」の日付がある。すなわち、この文書の作製の時、日本は既に百億八百万年の旧国ということである 。そこで、この間に、神口<神の人口数>の増加は、いかばかりだろうかと問うのである。神代における生殖に関する あらゆる条件を、今日に比して、どれほど控えめに見ても百億八百万年の間には、おびただしい神々を生産し、時々は 神退治が行われない限り、この文書の作製当時には地球上、陸となく海となく、一平方メートル毎に何百万という神を 宿さなければならなかったろうと思われる。

 もちろん、これは胸算用で、もう少し精密な計算もできなくはないが、必要もないから、かたがたごく内々に見積っ ての話であるが、この問題を天津教では何とかたづけるであろう。さだめし「神は天にいませば地上の広狭など問うと ころではない」と説明するかも知れない。そうならば、第一行より第七行に至る記述に、伊弉那岐・伊弉那美の二尊の 時代に造られた大宮のことがあるが、この建築物はどこにあったのか。記事の前の部分を欠いているから判然しがたい 所もあるが、続く所によれば「五色人ハイレス(中略)越根能登ノ西浦水門ヨリ唐イカヘル<五色人は入れず、・・・ 唐へ帰る>」とあり、推察するに越中国の神明村にあったことにしたのでないかと想われる。

 こうして見ると、この大宮は日本の土地にあり、伊弉那岐尊・伊弉那美尊の二柱を始め奉り、八百万神も代々日本の 土地に御住居あらせられたと拝察するほかはない。我々もそれでよろしいと思う。そしてまた、越根中「大宮」の規模 は、大ならずして、五色人を収容しかねたことは甚だ遺憾であったと思う。何故に百億万年に相応して、せめて八百万 里四方の摩天樓でも準備して置かなかったのかと言いたくなる。これを以てこのくだりを見るに、この文書において説 くところは、全く数の観念を欠き、常識的な思想を離れ、その上、正史に反する記述をあえてしてはばからない。実に 、あらゆる点より見て、人騒がせの虚妄を言いふらしているに過ぎないのである。

 以上、内容の考察をつづめていえば、この文書は荒唐無稽にして全く信をおくに足らない。

 上述の理由により、「大日本天皇太古代上々代神代文字之卷」は近年の偽作にして、しかもこの種類の神代文字の文 書は、いわゆる「形假名唐文字」の第五文書の種類の後に成立したものと判断する。

 第七 結語

 以上、数節において試みた批判を要約すれば、天津教が天下の至宝として誇示する「天照太神、後醍醐天皇、長慶天 皇の御眞筆」及び「平群眞鳥、竹内宗義等の眞筆」と称するものは、第一に文章はそろいもそろって下手であり、肝心 の語法・語調も億万年を通して不変なるのみならず、誤謬は頑強に保持せられて共通・永存している。

 第二に、筆蹟はいずれも見事ならず、著しく近代風を帯びている上に、類似の点多く、一々別人の手に成るものと取 れない。

 第三に、所説は正史と矛盾するばかりか、明治以後、ようやく知れわたったようなことを平然と述べている。よって 追次、これらの文書につき、その文体、その書体、及びその内容の検討を遂げ、ことごとく最近の偽造であることを暴 露せしめたのである。この上、疑問として残る変態性は、それを証明し得たところで、偽造の事実を動かすことはでき ない。故に、天津教は五つの致命傷をこうむり、完全に生息の道を絶たれたに等しいのである。

 もし、さらに文書の原物、及び古器物を見ることをなせば、いよいよますます不都合をあらわにし、もし更にその依 拠とする『上記』ないし「西洋の伝説」との比較調査を行えば、剽竊(ひょうせつ)とやきなおしの狡猾なたくらみを 剔抉(けってつ:えぐりだす)することもできるが、いらない努力をはらって死屍(しし)に鞭打つ愚を演ずべきでな い。思うに、天津教の言説は虚妄であるが、今までその宣伝に当たって、類似の宗教的運動に見られような副作用を伴 わないため、害毒は比較的に軽微であると思われる。

 この点、偶然の結果とはいえ、恕(ゆる)すべきものがある。そうであるがゆえに、例のごとくいかがわしい説教を する上に、さらにいかがわしい副作用をもって人を釣り、陶酔させ、迷わし溺れさせ、その虚に乗じて成功を獲得した 族に比べれば、天津教の境遇は貧弱で、気の毒にも思う。この点、当然の結果とはいえ、同情に値するものがある。こ の際、私は、みだりに天津教の悪口をいうものではない。我、かたわらに迷へるものと、迷おうとするものとを見て、 その覚醒を促すために言を述べるに過ぎないのである。望むらくは、天津教もまた反省悔悟して、その虚妄をすて、す みやかに皇道の正しきに復帰せんことを。

底本:「狩野亨吉遺文集」岩波書店   1958(昭和33)年11月1日第1刷発行
TOP PAGE




(私論.私見)