ホツマ伝え考

 (最新見直し2011.10.09日)

 ウィキペディアのホツマツタヱ」その他を参照する。

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、遠景から見たホツマ伝え考をしておく。「ウィキペディアホツマツタヱ」その他を参照する。

 2009.3.19日 れんだいこ拝


【「ホツマ伝え」考その1、「ホツマ文字」考】
 「ホツマ伝え」は、十三代目の天皇になるはずだった「日本武(やまとたけ)尊」が全国平定の旅の途上で病死する際に、尊の遺言で纏められたとされている記紀とは一味違う日本神話であり、範疇として古史古伝文献の一つに入れられている。「ホツマ伝え」は内容的に「三笠記」(みかさふみ)と姉妹関係にある。両書ともオシテ文字と云われるカタカムナ系の神代図象文字で記述されている。これを日本古代文字と見るのか後世の作字と見るのか論争があるが、要は中身の内容の方を精査するのを先とすべきではなかろうか。なかなか味わい深い「もう一つの」日本神話」となっている。

 ホツマ伝え、三笠記を古事記、日本書紀、もう一つ「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」と比較すると、それらがホツマ伝え、三笠記を底本として漢字翻訳している箇所が数か所以上あり、いわば記紀原書の地位にあると推理されている。このことを、古事記の編纂者・太安万呂は、古事記編纂を振り返って次のように述べている
 「上古の時代では、言葉も心も素朴で飾り気がないので、漢字を用いた文章に書き改めることは非常に難しく、日本語と同じ意味を持つ漢字を探そうとしても、適切なものがなく、かといって同じ音の漢字を並べていったのでは、だらだらとして長い文になってしまう云々」。

 太安万呂のこの言は、記紀編纂前に上古文字の存在と、上古文字史書があったことを明らかにしており、この点で重要である。れんだいこが思うのに、記紀がホツマ伝え、三笠記を参照していたとして、ホツマ伝え、三笠記も又それ以前の上古文字史書を参照していたのではなかろうか。もとより、ホツマ伝え、三笠記以前の上古文字史書は恐らく現存していない。その転写史書さえ存在しない。転写ながら最も古い文献として辿り着けるのがホツマ伝え、三笠記と云うことではなかろうか。そのホツマ伝えも元々は、「カグミハタ」、「ホツマ」、「ミカサフミ」、「フトマニ」等幾つかの文献から構成されていたと推定されている。その一部がホツマ伝え、三笠記として伝えられていると解するべきではなかろうか。

 ここでは「ホツマ伝え」について確認しておく。「ホツマ伝え」は、記紀で「巻」という所を「あや」という織物の表現を使っている。これを漢字で訳せば「紋」、「綾」、「文」と云う当て字になる。ホツマの語源的意味は、「ホ」は秀でたこと、「ツ」は強調又は「の」又は「繫がり」の意、「マ」はマコトの意と思われる。これにより解すると、「特にひいでたまこと」、「まことの中のまこと」、「真価(真に価のある重要なこと)」という位置づけとなる。ツタヱは「伝え、言い伝え」でありから、「ホツマ伝え」は、「まことの中のまことの言い伝え」の意味と解するのが相当と云うことになろう。

 先に、「両書ともオシテ文字と云われるカタカムナ系の神代図象文字で記述されている」と述べたが、専門的には古代大和言葉の「ヲシテ文字」と云われるとのことである。過去の経緯から「ホツマ文字」、「秀真文字」、「伊予文字」と呼ばれる場合もある。却って分かりにくいので、ここでは仮に「ホツマ文字」と記すことにする。「ホツマ文字」の何が素晴しいかと云うと、「母音要素と子音要素の組み合わせで成り立つ1音1字の文字」にして、その文字群が高度な科学性と美しい規則性を持ち、現在の「あいうえお」の原点となる48文字の基本文字から成りたち、48文字それぞれが互いに調和していると云う独特の構造を示していることにある。変体文字を含めると197文字が確認されている。

 このことが何を意味するのか。それは、「ホツマ文字」が世界に先駆けて例のない高度科学文字であることを意味している。現在の日本語は、「カタカムナ文字」や「ホツマ文字」の神代図象文字を継承していないが、見かけ上は代わりにひらがな、カタカナ、漢字、洋数字から成る混淆文へと転化しているが、驚くことに「カタカムナ文字」や「ホツマ文字」時代に確立されていた48文字、48音からなる言語を面々と骨格にして今日に至っている。いわば民族の生命として今日に脈々と伝え続けている。

 「48文字、48音」の素晴しさは次のことにある。それらは、1字1音が天地の成り立ち、仕組みを象(かたど)り文字化言語化されている。天地が或るリズムを以て共鳴しており、故に「ホツマ文字」は「天の節」のリズムを受けて「五、七調」、「五、七、七調」で文章化されることになる。これは宇宙の振動に関係している。これが和歌の発生に繫がる。即ち、和歌は、「ホツマ文字」と云うか「48文字、48音」に連動して生み出されていることになる。驚くことに、和歌の五、七、五、七、七の31文字は、古代太陰暦の1ヶ月の日数を意味している。

 日本語研究学者は、この辺りをどう説いているのか詳しくは知らない。普通には、上古代語の研究に向かっていると思われるが、他方で、漢字渡来以前に於いては日本には言語が存在しなかったとする説もあり、こういう説に立てば存在しないものを研究する必要もなくなろう。そういう訳で、上古代語の研究が疎かにされていることは十分に考えられる。れんだいこ的には、そういう学者が云う如く、カタカムナ文字、ホツマ文字系の神代図象文字が後世の偽作であったにせよ、朝鮮のハングル文字もこれに似ているが、かなり後代の創作文字であったにせよ、では日本語独特の「48文字、48音」がどこから生まれたのか、これを明らかにせねばならないと考える。日本語の「48文字、48音」は今驚くべき高度なものであることが判明しつつある。詳しくは「ホツマと現代生命科学の一致考」、「神代文字考」で別途に言及したい。

 2011.11.18日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その2、「ホツマ伝え」考】
 「ホツマ伝え」は、そういう神代文字の一つであるホツマ文字を使って日本古代史、日本古来の思想や文化を五七調の和歌の長歌体で叙事詩風に記している。全40章1万行、12万文字で構成され、大和王朝前の御代の神々の歴史、文化、精神を詠っている。神武天皇の御代、オオナムチの命の子孫のオオモノヌシクシミカタマの命(大物主櫛甕玉命、神武時代の右大臣)が、前半の天の巻、地の巻の1アヤ~28アヤ章を編纂した。オシロワケ(同じく景行天皇)の御代、オオタタネコの命(太田田根子、三輪秀聡(すえとし)とされている)が、大三輪氏の祖神・大物主櫛甕玉命(くしみかたまのみこと)が記した神代の伝承にその後の歴史を交え、後半部の29アヤから40アヤを編纂、筆録し、126年、景行天皇の御世に献上したと伝承されている。原文に、「この文は、昔、大物主、勅(みことのり)受けて作れり。阿波宮に入れ置くのちの」とある。

 この時、鏡の臣で伊勢の神臣であるオオカシマの命も、同じくヲシテ(ホツマ文字)で書かれた先祖アマノコヤネの命から伝わる三笠紀(ふみ)を捧げている。天皇も自ら天皇家伝来の文である「香具御機」(かぐみはた)を編纂し、この三種の文が揃ったことを「三種の道の備わりて幸得る今」と慶んでいる。


 「ホツマ伝え」は、縄文時代後期から古墳時代までの出雲系の神々の事跡を詳しく伝えている。恐らく邪馬台国辺りまでの日本史正系の歩みを語ろうとしているのではなかろうかと思われる。アメツチ(天地)の開闢にはじまり、カミヨ(記紀にいう神代)、人皇初代のカンヤマトイハワレヒコ(神武天皇)の大和王朝の建国を経て人皇12代のオシロワケ(景行天皇)57年に至るまでが、ほぼ記紀と同様の構成で叙述されている。

 その目録を記せば以下の通りである。この各アヤがそれぞれかなりの文節に分かれており、かなりの文量の叙事詩になっている。 
  • アのヒマキ(天の巻)
    • コトノベのアヤ        (序)
    • キツのナとホムシさるアヤ(1.東西の名と穂虫去る紋)
    • アメナナヨトコミキのアヤ(2.天七代、床御酒の紋)
    • ヒヒメミオうむトノのアヤ(3.一姫三男生む殿の紋)
    • ヒノカミのミズミナのアヤ(4.日の神の瑞御名の紋)
    • ワカのマクラコトハのアヤ(5.和歌の枕言葉の紋)
    • ヒノカミソフキサキのアヤ(6.日の神十二后の紋)
    • ノコシフミサガをたつアヤ(7.遺し文サガお絶つ紋)
    • タマがえしハタレうつアヤ(8.魂返しハタレ撃つ紋)
    • ヤクモウチコトつくるアヤ(9.ヤクモ撃ち琴つくる紋)
    • カシマたちツリタイのアヤ(10.鹿島断ちツリタイの紋)
    • ミクサゆつりみうけのアヤ(11.三種神器譲り、御受けの紋)
    • アキツヒメアマカツのアヤ(12.アキツ姫、天が児の紋)
    • ワカヒコイセススカのアヤ(13.ワカ彦、伊勢、鈴鹿の紋)
    • ヨツギのるノトコトのアヤ(14.世継ぎ告る祝詞の紋)
    • ミケヨロツなりそめのアヤ(15.御食、万、生成の紋)
    • はらみつつしむヲビのアヤ(16.胎み慎しむ帯の紋)
  • ワのヒマキ(地の巻)
    • カンカガミヤタのナのアヤ(17.神鏡八咫の名の紋)
    • ヲノコロとまじなふのアヤ(18.オノコロとまじなふの紋)
    • ノリノリヒトヌキマのアヤ(19.ノリノリヒトヌキマの紋)
    • スメミマゴトクサゑるアヤ(20.皇御孫十種神宝得る紋)
    • ニハリミヤノリさたむアヤ(21.宮造り法の制定)
    • ヲキツヒコヒミツのハラヒ(22.オキツヒコ火水の祓)
    • ミハさためツルキナのアヤ(23.御衣定め剱名の紋)
    • コヱクニハラミヤマのアヤ(24.コヱ国ハラミ山の紋)
    • ヒコミコトチをゑるのアヤ(25.ヒコ命鉤を得るの紋)
    • ウカヤアヲイカツラのアヤ(26.ウガヤ葵桂の紋)
    • ミオヤカミフナタマのアヤ(27.御祖神船魂の紋)
    • キミトミノコシノリのアヤ(28.君臣遺し法の紋)
  • ヤのヒマキ(人の巻)
    • タケヒトヤマトうちのアヤ(29.神武大和討ちの紋)
    • アマキミミヤコトリのアヤ(30.天君、都鳥の紋)
    • ナヲリカミミワカミのアヤ(31.ナオリ神ミワ神の紋)
    • フジとアワウミミズのアヤ(32.富士と淡海瑞の紋)
    • カミあがめヱヤミたすアヤ(33.神崇め疫病治す紋)
    • ミマキのミヨミマナのアヤ(34.ミマキの御世任那の紋)
    • ヒボコきたるスマイのアヤ(35.ヒボコ来る角力の紋)
    • ヤマトヒメカミしつむアヤ(36.ヤマト姫、神鎮む紋)
    • トリあわせタチバナのアヤ(37.鶏合せ、橘の紋)
    • ヒシロノヨクマソうつアヤ(38.ヒシロの世、クマソ撃つ紋)
    • ホツマうちツズウタのアヤ(39.ホツマ撃ち、つず歌の紋)
    • アツタカミヨをいなむアヤ(40.アツタ神、世をいなむ紋)
 ところで、「ホツマ伝え」が古事記、日本書紀のいわば記紀原書の地位にあるとすれば、「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」との関係はどうなるであろうか。これは非常に興味深い研究課題である。れんだいこは以下のように推定する。ホツマツタヱが孫引きした古代文書が更に先在する。これを仮に「古代文書X群」と命名する。「古代文書X群」は出雲王朝系の歴史書で、これこそ探し出さねばならない古代日本史の正統史書と思われるが焚書、消失、散逸により幻本となっている。景行天皇の御世になって、これを大和王朝の御代(みよ)用に焼き直して写筆したのが「ホツマ伝え」と考えられる。同時期に三笠紀(ふみ)も生まれている。推古天皇の御代になって国史書の要請が強まり、先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)が編纂された。先代旧事本紀は「古代文書X群」とホツマツタヱを元にして万葉仮名で清書されている。これが万葉仮名史書の嚆矢と思われる。この時点までは出雲王朝史を色濃く遺す史書となっている。

 673年、「現在散乱する我が国の歴史書は虚実入り乱れている、と聞く。そこで稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)して詠むところの歴史を記録し、我が国の正しい歴史として後世に伝えようと思う」との天武帝の詔(みことのり)で記紀の編纂が開始された。記紀の先後は確定し難いが一応、古事記を先とする。古事記は、「古代文書X群」、ホツマツタヱ、先代旧事本紀を踏まえて国史の体裁で書かれたものである。時の大和王朝は、出雲王朝系の故事来歴、史話が依然として多いことを気に召さず、さらなる御用史書の編纂を促した。こうして生み出されたのが日本書紀である。日本書紀の出雲王朝史の記録は滅法少ない理由はこれに拠ると推定される。先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんぎたいせいきょう)が記紀の削除した史実をカバーする形で編纂された。

 こういう流れになるのではなかろうか。これを古代文書の嫡系の歩みとしたい。傍系はこれまた尽きない。

 2011.11.18日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その3、「ホツマ伝え」の内容考】

 「ホツマ伝え」の内容は、目録順に要約することで説明できる。但し、これをやると膨大なるので、ここではスル―する。ごく大雑把に概要を述べれば、日本の超古代史だけでなく、ヲシテという文字のなりたち、ワカウタ(和歌)の成立、アワ歌という48音の基本音を表すウタ、マクラ言葉(枕詞)の意味、宇宙の成り立ちと構造、宇宙と人間の関係、生死の意味、女男の分離、その役割と宇宙の関係、皇室の起源と社会的役割、国家の成立、国家の本質、アマキミ(天皇)の発祥、国家の統治の法、ミクサタカラ(三種の神器)の発祥とその意味、当時の憲法、国号の変遷、乗馬の法、各地の馬の品種、トリヰ(鳥居)の意味、自然神の祭祀、大宇宙とヒトの関係、暦の法、ヤマトウチ(神武東遷)の背景、天皇即位の儀式の変遷、ツヅウタの意味、葬儀の法、結婚の法、歴代の天皇のイミナ(実名)と陵墓、伊勢神宮他主要な神社の創建のいわれ、ミソギの方法、家族の意味、子供の意味、望ましい教育方法、人間が食べる物の意味と望ましい食事方法、人と社会、技術との関係、人間の不幸の原因、社会の乱れの原因、犯罪の原因と対処方法、刑罰の意味、いくつかのヤマト言葉の語源などを多岐にわたって記している。

 「ホツマ伝え」は、自然を構成するのは空・風・火・水・土の五元素としている。この五元素はホツマ文字の母音(あいうえお)とも対応している。自然と人間の調和を尊重した優れた自然哲学を伝えている。宇宙創造において、原初神・国常立から流出した地水火風空の五元素が混じりあったとされている。記紀にはこの下りの該当箇所がほとんどない。その他、記紀よりも内容に整合性があり、記紀に記さていない、当時の出来事や人物の活動が、高い整合性を持って詰め込まれており、天皇のイミナ(真名、実名、お名前)なども知ることができる。真書であれば貴重な史料ということになる。記紀では天上でのできごとであるとされている神代の事柄が地上での実在の人物によるできごととして記述されていることも注目される。

 「ホツマ伝え」は、天皇の本来の表記は「あめのしたしろしめすすめらぎ」で、あめ(宇宙)の構造や仕組み、法則性を正しく知り、政治を執り行う人と云う意味であるとしている。三種の神器について、「やたのかがみ(八たの鏡)」、「やさかにのまかりたま(八坂にの曲玉)」、「やへがきのつるぎ(八重垣の剣)」としている。記紀では、「やへがきのつるぎ(八重垣の剣)」のところが「草薙(くさなぎ)の剣」となっている。これに、国を治める要諦を明らかにした「あめなるみち」を記す「みはたのふみ(御機の文)」が後継皇子に伝授されたと伝えている。これらを「ものざね」とも云う。

 「ホツマ伝え」の最大のハイライトは、天皇たるアマテラス(天照大御神)を男神アマテルとして語り、幾人もの妃がいたとしていることである。高天原が日高見国にあり、その日高見国を仙台地方とする東北王朝史を記している。「ホツマ伝え」のこの観点からの比較研究を進めている研究も存在する。これを仮に「記紀原書派」と命名する。記紀原書派は、「ホツマ伝え」を記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書の真書であると主張している。「ホツマ伝え」を真書とするならば、天照大神を始めとする記紀神話の神々は実在した人物だったことになり、神格化される前に人として生きた姿を最も正確に知ることができることになる。

 しかし、これはどういうことになるのか。仮に「ホツマ伝え」を真実とすると、記紀神話の高天原及び女性神としてのアマテラス(天照大御神)の位置づけ、その高天原族による国津族征伐の国盗り物語と云う構図そのものが破綻する。「ホツマ伝え」では高天原は国津族の神話上の聖地であるところ、その聖地たる高天原から降臨したとする記紀神話の構図そのものが怪しくなる。

 これにつき思うのに、「ホツマ伝え」の伝の方が正しく、高天原は出雲系国津系神話の中で捉えねばならないのではなかろうか。と云うことは、記紀神話とは、後の大和王朝の王権、皇統譜を正当化させる為にかなり悪辣な日本神話偽造を仕掛けているのではなかろうか。大和王朝の王権、皇統譜の真実は、恐らく朝鮮経由外航族の来襲からもたらされており、その剥き出しの征服史を誤魔化す為に、敢えて日本神話の核である高天原及びアマテラス(天照大御神)から紐解いて皇統を正統化させるフィクションを考案しているのではなかろうか。その上で、出雲王朝国譲り、二二ギの尊の天孫降臨、神武天皇東征譚と云う史実の正統化を図っているのではなかろうか。この流れに邪馬台国興亡史が関わっている。これを要約すれば、恐らく朝鮮経由外航族の来襲の不当性を隠蔽する為に、出雲系国津系の日本神話上の聖地を史書的に簒奪した上で、その聖地からの正統なる王権を委譲されたと云う立場で、征服史を聖戦化しているのではなかろうか。この視点は、日本古代史の構図をひっくり返すことになるだろう。こういう観点を与えるのが「ホツマ伝え」であり、これを「ホツマ伝えの衝撃」と受け止めるべきだろう。


【「ホツマ伝え」考その4、「ホツマ伝え」と大祓い祝詞の相関考】
 さほど指摘されていないと思うが、ホツマ伝えと大祓いの祝詞がハーモニーしている。記紀の観点から大祓いの祝詞を読むと解せない個所が数か所あるが、ホツマ伝えに照らせばすんなりと理解できる。このことは、ホツマ伝えの実書性を証左していないだろうか。

 古史古伝偽書論が学会の主流であるが、れんだいこは違うと思う。仮にそういう箇所があったとしても、筆写の時点での書き換え等に原因を求めるべきであり、むしろ書き換え者が下敷きにした原本があったことを窺うべきではなかろうか。書き換えカ所の指摘でもって偽書説で得心できるものは、よほど幸せな者ではなかろうか。書き換えカ所があろうがなかろうが、古史古伝の伝える内容の精査にこそ向かうべきではなかろうか。内容のお粗末さの指摘でもって初めて偽書説が有効になるとすべきではなかろうか。入り口段階での偽書説論で中身の精査に向かわないのは、粗脳特有の悪しき学風と云わざるを得ない。

 2011.10.17日 れんだいこ拝

【「ホツマ伝え」考その5、「ホツマ伝え」転写考】

 九鬼(くかみ)文書によれば、仏教伝来時の物部-蘇我の抗争時に多くの国書が焼かれ、貴重な古伝承が失われた。「ホツマ伝え」は、大三輪氏の流れを汲む井保家に伝えられていたものが、近江の地で密かに伝承され、江戸時代に大物主櫛甕玉命78世の子孫にして三輪神道系の和仁估(三輪)容聡(わにこ・やすとし)の手になり、徳川時代の安永年間(1772-1780年)まで家宝として所蔵していた。和仁估家に後嗣がなかったので近江国三尾神社に奉納したという。書名が「秀眞政傳紀」とされている。

 高島郡誌(大正15年)によれば、和仁估(三輪)容聡(わにこ・やすとし)は山伏修験者として安曇村田中横井川または三尾川(現滋賀県高島郡安曇川)に住みつき、本名は井保勇之進で、子孫は安曇村西万木にあるとしている。安永年間に滋賀県高島郡安曇川近辺の神社の本土記を書いたと云う。なお、進藤孝尚の息子「万木森薬師如来縁起」によれば、容聡の先祖に大鶴軒孝阿(伊保坊23代)がいるとされる。


 
1779(安永8)年、春日山紀(溥泉)に「秀眞政傳紀」が引用されている。1793(寛政5)年、和字考(園城寺住職の敬光)に「秀眞政傳紀」が引用されている。この時期まで、近世の国学者・平田篤胤の懸命な捜索にもかかわらず見つからなかった幻の書であった。

 野々立蔵が明治22年に著した「秀眞政傳紀傳來由緒書」によれば、1830(天保元)年、近江高島郡藤田家において京都天道宮神主・小笠原通當(みちまさ 吉田神道)によって「秀眞政傳紀」が発見された。小笠原通當が1843(天保14)年に著した「神代巻秀眞政傳紀(10巻)」が1851(嘉永4)4年に出版されている。以来、小笠原家に伝えられてきた。1874年、小笠原通當の甥の小笠原長弘氏が、ホツマツタヱを筆写して宮中に捧げることを試みたこともある。この写本は別名「奉呈本」と呼ばれている。

 1966(昭和41).8月、自由国民社の編集者であった松本善之助が東京、神田の古書店で、平田篤胤が「神字日文伝」(文政2年)の巻末の「疑字篇」に示した出雲に伝わる秀真伝(ホツマツタヱ)の写本と明治初めの国学者落合直澄(1840 - 1891)が書いた解説書を写本を偶然発見したとされている。このときは、「ホツマ伝え」全40アヤのうち3アヤしか発見できなかった。

 しかし、古書探索に必要な手がかりを得たことで各地をあたり、1967(昭和42)年、四国の宇和島にある小笠原長種宅にて、全40アヤが完本で発見された。これを「小笠原長弘本」と云う。この完本の元本は、天保14年、小笠原通当が近江三尾神社の神宝を転写した「神代巻秀真政伝紀」12巻だったと云う。同年、フトマ二全巻を発見している。これを「小笠原長武本」と云う。松本氏はそれまで「現代用語の基礎知識」や「現代の経営(ピーター・ドラッガー)」などの出版事業に深く携わっていたが、「ホツマ伝え」との出会い以来、写本の発見とその校正、読解に心血を注ぎ、古事記・日本書紀との三書対照を踏まえて、「ホツマ伝え」こそが記紀の原典であると確信するに至った。

 1971(昭和46).6月、「覆刻版ホツマツタへ」が出版されて世に出た。また、内閣文庫に完写本(「内閣本」と呼ばれる)が所蔵されていることも判明した。

 1973(昭和48)年、ミカサフミ8アヤが発見された。これを「和仁估安聡(わにこやすとし)本」と云う。

 1980(昭和55)年、「トシウチ二ナスコトノアヤ」(*泉旧蔵書)が発見された。 


 1992(平成4).5月、池田満・氏が、「ホツマ伝え」の別系統の写本である「容聡本」を発見、確認した。滋賀県にある日吉神社の御輿庫の棚の奥に、3cmほどほこりが積った桐細工の箱が三つあり、ほこりを払うと秀真の文字が現われた。長弘本と異なり、ヲシテ(ホツマ文字)に漢字の訳が添えられた構成になっていた。この発見によって、1874年に時の政府へ奉呈を試みたとされる長弘本は、容聡本を基にしてヲシテ(ホツマ文字)のみで書かれた漢訳の付いていない写本という位置づけになることが判明した。容聡本を含む公開された全ての写本を校正し、記紀との比較対照を可能とした完本は「定本 ホツマツタヱ」として出版されている。

 1993(平成5)年、池田満・氏が、「和仁估容聡本ホツマツタへ」(新人物往来社)を復刻刊行した。

 
「ホツマ伝え」真書であるとする研究者は、記紀よりも古い日本最古の叙事詩、歴史書であると主張している。12世紀初頭に成立した類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)などにヲシテに関する記述が認められると理解して、「ホツマ伝え」は少なくとも平安時代以前に遡るとし、真書であると考える熱心な信奉者も少なからずいる。江戸時代には、和仁估安聡小笠原通当等が真書であると主張した。真書であるとする研究者は、日本の正史を再確認できるだけでなく、日本が当初から立憲君主国であったこと、神道の教義や日本の建国の理念、皇室の発祥が明確になり、各地の地名のいわれや、古い神社の祭神を正確に知ることができ、また漢字や漢文の影響をうけない大和民族固有の哲学を知るよすがとなる可能性があると主張している。

 近代的な文献学の手法に基づいた研究が始まったのは、「ホツマ伝え」が再発見された1966年以降である。諸写本の校正、「古事記、日本書紀、ホツマツタヱ」の三書比較、「ホツマツタヱ、ミカサフミ、フトマニ」の総合的検証が進められつつある。「ホツマ伝え」には、複数の写本が現存している。いくつかの写本では「ホツマツタへ」、「ホツマツタエ」とも、また江戸時代に漢訳されて「秀真伝」、「秀真政伝紀」とも表記されている。「ホツマ」と略されて呼称されることもある。現本のその成立時期は不詳であり、少なくとも江戸時代中期まで遡ることが可能である。文献全体の包括的な史料批判はまだ行われていない。

 完本として公開されている写本は次の通り。

 和仁估安聡(わにこやすとし)本。写本自序によると1775(安永4)年とある。1992年に発見され、「和仁估安聡本ホツマツタヱ」として印影版が市販された。現在につたわり公開されている写本すべての親本でカタカナ表記となっている。

 小笠原長弘本(ながひろ本)。1900(明治33)年頃の写本とされる。1967年に発見され、「覆刻版ホツマツタへ」として市販された。抜け行の多い写本。特殊ヲシテ表記が少ない。古い濁音表記が少ない。数詞ヲシテ(数詞ハネ)の表記が少ない。13アヤで8行、16アヤで8行の抜け個所がある。

 国立公文書館所蔵本。明治期の1868-1921年頃の写本で、国立公文書館で閲覧できる。小笠原長武本と同等。数詞ヲシテの表記が多い。13アヤで8行の抜け個所あり。

 漢字で記された記紀の編纂は、渡来人の指導の下で行われたことが判明している。「ホツマ伝え」を真書であるとする研究者は、記紀の編纂を指揮する渡来人に対して、ヲシテホツマ文字)で書かれた「ホツマ伝え」の内容が分かるように漢文に仮翻訳した編纂用の資料が作成され、それをもとに記紀を編纂したのではないかと推測する者もいる。


【「ホツマ伝え」考その7、「ホツマ伝え」偽書説考】

 「ホツマ伝え」を偽書とする者もいる。その理由として、以下の根拠を挙げている。

 1、「ホツマ伝え」は五七調を貫徹しているが、古代では字余りなどの変則句が含まれるのが自然であるのに対して不自然である。
 2、漢語を無理やり読み下した形跡があり、漢字渡来以前の文章と思えない。
 3、序文の短歌が石川五右衛門の「磯の真砂は尽くるとも世に盗賊の種は尽きまじ」に似ている。
 4、「めかけ」という江戸時代以降の言葉が出てくる。
 5、秀真文字による花押が存在するが、花押は950年以降に登場する。
 6、秀真文字は母音と子音の組み合わせで構成され五十音図の存在を前提としているが、上代の音韻に基づいて作られたとは考えにくい。

 これらの理由から偽書であるとしている。

 明治以降の歴史学、日本語学等の学界においては、清原貞雄武光誠飯間浩明らにより江戸時代の神道家によって作成された偽書であるとされている。

(私論.私見)


【「ホツマ伝え」考その8、「ホツマ伝え」研究史、出版考】

 1971(昭和46).6月、「覆刻版ホツマツタへ」が出版されて世に出た。

 1972(昭和47)年、池田満・氏が、松本塾に入門。記紀との比較、系図、年表などの基礎研究に没頭する。

 1973(昭和48)年、松本善之助氏が「ホツマツタへ」(ホツマツタへ研究会刊)を刊行した。

 1974(昭和49)年、研究誌「ほつま」が刊行された。この年から平成6年まで248号を数えている。

 1980(昭和55)年、松本善之助氏が「秘められた日本古代史」(毎日新聞社)を刊行した。この年、「トシウチ二ナスコトノアヤ」(*泉旧蔵書)が発見された。 


 1985(昭和60)年、鳥居礼・氏が、「言霊ホツマ」(たま出版)を刊行した。

 1987(昭和62)年、鳥居礼・氏が、「神代の風儀(てぶり)」(たま出版)を刊行した。

 1988(昭和63)年、鳥居礼・氏が、「完訳秀真伝(上下)」(八幡書店)を刊行した。

 1989(平成元)年、鳥居礼・氏が、「ホツマツタへ入門」(東興書院)を刊行した。

 1991(平成3)年、池田満・氏が、「ホツマ神々の物語」(長征社)を刊行した。同年、鳥居礼・氏が、「神代巻秀真政伝」(東興書院)を刊行した。 

 1993(平成5)年、池田満・氏が、「和仁估容聡本ホツマツタへ」(新人物往来社)を復刻刊行した。

 1995(平成7)年、鳥居礼・氏が、「秀真伝が明かす超古代の秘密」(日本文芸社)を刊行した。

 1999(平成11)年、池田満・氏が、「ホツマ辞典」(展望社)を刊行した。同年、「校註ミカサフミ・フトマ二」(展望社)を刊行した。

 2001(平成13)年、池田満・氏が、「ホツマツタへを読み解く」(展望社)を刊行した。

 2002(平成14)年、池田満・氏が、「定本ホツマツタへ」(展望社)を刊行した。

 2003(平成15)年、池田満・氏が、「縄文人のこころを旅する」(展望社)を刊行した。

 2009(平成21)年、池田満・氏監修で、青木純雄、平岡憲人著「よみがえる日本語―ことばのみなもと『ヲシテ』」(明治書院)を刊行した。





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