パール博士の判決論理】

 (最新見直し2011.8.31日)


 (れんだいこのショートメッセージ)
 浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 田中正明著」、池見猛・編著「国益上、田中元首相の無罪を望む」その他を参照する。


【パール博士の論理―判決理由要旨】
 インドのラダ・ビノード・パル博士(1886〜1967年)は国際法を専門とする学者であるが、極東国際軍事裁判(俗称・東京裁判)判事11名の中でただ一人、この裁判が最初から日本を侵略国と決め付けていることに不快感を示し、日本の無罪を主張した。日本が戦争に至った経緯を丹念に調べ上げ、この裁判は勝者が敗者を一方的に裁いた国際法にも違反する非法・不法の復讐劇だったとして、被告全員の無罪の判決を下した。また、南京事件についても徹底的な検証を行い、松井石根陸軍大将の名誉を回復させる無罪判決を下した。残念ながら松井大将は絞首刑となってしまう。パール判事は戦勝国アメリカの罪についても、鋭く追求言及した。特に広島・長崎における原子爆弾の使用については、アメリカ側の有罪を立証して見せた。

 博士は東京裁判の約2年半の期間、法廷後は帝国ホテルの一室に閉じこっもたまま裁判資料に目を通し続けた。他の判事や検事が休日ごとにドライブやパーティーを楽しんでいる時、博士は自宅からあるいは弟子や知友に依頼して参考文献を取りよせ、もっぱら読書と思索にふけられた。その読書は三千巻にも及んだといわれる。

 「パール判決書」(INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST-DISSENTIENT JUDGMENT OF JUSTICE PAL)は、和訳タイプされ、原稿用紙にして二千二百枚、九十万語にも及ぶ長文となっている。これが日の目を見るようになったのは、秘密保持の念書を入れて清瀬、伊藤両弁護士より借用したからであると云う。

 パール判事一人の意見書(判決)は、「多数判決」(清瀬弁護士の言う「六人組判決」。米、英、ソ、中、カナダ、ニュージランドの6ヶ国の判事の判決文)よりも、浩翰な法理論の展開をしている。博士の論点を要約すれば次のような内容になっていた。

【裁判の本質批判】
 意訳概要「本裁判は裁判という外貌はまとっているが、法に準拠した裁判ではない、裁判の名に値しない法によらざる裁判である、法によらざる裁判は私刑(リンチ)である、司法裁判所たるものは、現行の「法」の命ずるところに従って行動すべきであり、権力表示の道具であってはならない。要するに、「勝てば官軍、負ければ賊軍」式の司法の仮面をかぶった政治裁判、復讐裁判である。

 この裁判の本質は連合国側の政治目的を達成するために設置されたに過ぎず、日本の敗戦を被告達の侵略行為によるものと裁く事によって、日本大衆を心理的に支配しようとしている。勝者によって今日与えられた定義(マッカーサー元帥指揮下の裁判所条例)に従って裁判を行うことは、敗戦者を即自殺戮した昔と、私たちの時代との間に横たわるところの数世紀にわたる文明を抹殺するものである。復讐の欲望を満たすために、単に法律的な手続きを踏んだに過ぎないこういうやり方は国際正義の観念とは凡そ縁遠い。

 犯罪に対して裁判を用い刑罰を科す手段が、敗者にだけ適用されるという段階に国際機構が留まっている限り、到底将来の戦争を防止しようという効果を期待する事は出来ない」。
裁判手法批判
 「戦勝国側による一方的な東京裁判のやり方をも批判した。先のニュルンベルク裁判と東京裁判は前例の無い裁判であり、公平を期すため敗戦国側からも判事を出すべきである。

 この裁判所に出席する判事は、裁判所条例によって行動しなければならない。その裁判所条例はマッカーサー司令部が出しているのである。このような組織の下に於ける裁判の多数決は承服出来ない。国際裁判は軍事司令官の上に立つものでなければならない」。
検察側の論理批判
 「過去の一時点における行為を、新たな現代法解釈で裁くのは適正でなく、受け入れられるものではない。既存の法がないならば、犯罪の処罰は有得ないということは、それが国際法と国内法とに関わりなく、すべて法の基本原則である。『法律の無いところ犯罪無く、法律の無いところ処罰無し』、また『遡及的』なる処罰は、すべての文明国の法律に反するものである。主張されている犯罪行為が行われた当時に於いては、どんな主権国も侵略戦争を指して、犯罪であると決めていなかったし、侵略戦争を定義した成文法は何ら存在せず、かような戦争を遂行したことに対する刑罰は規定されておらずまた違反者を裁判に付し、かつ処罰するための裁判所も設立されていなかった」。
【日本の侵略行為否定、被告の無罪主張】
 「1国が他国を征服し支配しようと準備する事は、最悪の犯罪であると云う事は、現在ではその通りかもしれない。しかし第2次世界大戦には、いやしくも強国である以上は、この様な企画や準備をしなかった国はなかったのである。どうして日本だけが犯罪になるのか、私には理解する事が出来ない。

 検察側の掲げる日本の侵略行為の傍証は、歴史の偽造である。かって欧米諸国がアジア諸国に対して行った行為こそ、まさに侵略そのものである。 東条が裁かれるのであれば、同様に原爆投下を指揮したアメリカのトルーマン大統領も裁かれるべきである。スターリンの条約破棄による対日戦参加も違法である。

 よって、被告達は、起訴事項全部について免除されなければならず、無罪と決定されなばならず、東条英機をはじめとするA級戦犯28名は全て無罪とすべしである。、絞首刑は不相当であると強く主張する。
戦史検証
 概要「米英両国が中国政府を援助して、日本に対して経済封鎖をした事は、国際法による『中立の義務』を破って直接戦争に参加したに等しい。

 日米交渉の最後の段階に於けるハル長官の通牒の様な屈辱的な通牒を受け取ったら、モナコやルクセンブルグの様な小国だって、武器をとって立ち上がったあろう。

 A級の戦犯達が、捕虜虐待や残虐行為を命令したり授権したり、又は許可したという証拠は絶無である。もし非戦闘員の生命財産の無差別破壊というものが戦争に於て違法であるならば、都市爆弾や原子爆弾の使用はどうなのだ」。
【司法的手続きの欠陥批判】
 意訳概要「証拠採用の仕方にも疑念がある。提出された証拠を、仔細に吟味してゆけば、被告達と起訴事実を結びつけるのは困難である。被告達と戦争犯罪という起訴事実を、直接的に結びつける証拠はどこにも無い。南京虐殺や従軍慰安婦連行を日本政府が国策として行った証拠も無い

 証拠及び手続きに関する規則」に関して、宣誓供述書や木戸日記、原田日記など検察側資料の多くは伝聞証拠に過ぎないものに依拠している。司法的手続きに欠陥がある」。
【結びの言葉】
 「時間が、熱狂と偏見を和らげた時、又理性が、虚偽から仮面を剥ぎ取った時、正義の女神は秤の平衡を保つ為に、過去の多くの賞罰を反対にする事を要求するであろう」 。

 欧米先進国では少数意見は必ず発表されることになっており、東京裁判所条例も少数意見は公表すると明記していたが、時間がないことを理由に発表を禁止した。当時GHQによって言論統制を受けていた日本の新聞はただ数行「インドの判事が異色の意見書を提示した」と発表したに過ぎない。かくして、ついにパール判決書は日の目を見ることなく葬り去られてしまったのである。

 このパール博士の見解が、文章という形で出版されたのは、ずっと後の日本が独立を回復した1952年。太平洋出版社発行の「パール博士述・真理の裁き・日本無罪論」によってである。この時出版記念会が開かれ、全国への普及に尽力したのが平凡社社長の下中弥三郎氏であった。

パール判事の判決を聞いて戦犯が遺した歌
東條英機  百年の後の世かとぞ思いしに 今このふみを眼のあたりに見る
板垣征四郎  ふたとせにあまるさばきの庭のうち このひとふみを見るぞとうとき
 すぐれたる人のふみ見て思うかな やみ夜を照らすともしびのごと
木村兵太郎  闇の夜を照らすひかりのふみ仰ぎ こころ安けく逝くぞうれ志き

【「六人組判決理由要旨」】
 六人組の個性についてコメントしておく。オーストラリアのウエッブ判事とフィリピンのハラニーヨ判事は、法廷にもち出された事件に前もって関係していた判事で不適格、必要な言葉すなわち協定用語である英語と日本語がわからないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事、また本来裁判官でない中国の梅汝*判事の五名の判事は不適格判事であった。国際法で学位をとった判事はパール博士一人のみである。

【「意見書」について】
 東京裁判判決は、六人組の多数判決で決定された。しかし、結論は同じでも、法理論はそれぞれ異なっていた。それぞれ別の意見書が出されている。

レーリング判事 オランダ 「廣田弘毅元首相は無罪、他の死刑も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に比して重すぎる」。
ベルナール判事 フランス 「この裁判は法の適用および法手続きにおいてもあやまりがある。とし、「11人の判事が一堂に集まって協議したことは一度もない」と内部告発までしている。
ウエッブ裁判長 オーストラリア 六人組からのけ者扱いにされ、量刑について別の意見書を出している。
ハラニーヨ判事 フィリピン 量刑が軽すぎるとしている。
パール判事 インド 全員無罪、無罪というよりこの裁判は裁判にあらず「復讐の儀式に過ぎない」として根底から否定する意見書である。
ザリヤノフ判事 ソ連
梅汝*判事 中国

【「パール博士の全員無罪の判決文のその後」】
 パール判決書はニューヨーク・タイムズやロンドン・タイムズなどでは大々的に報道され、米英の法曹界ではパール旋風が巻き起こっていることを氏は承知していたのである。しかしこれを日本で出版しようとすると壁にぶちあたった。
 「田中さん、残念ながらこの本はマッカーサーの占領中は絶対に出版できません。内々調べてみたが、出版すればあなたも僕も即刻逮捕された上、発売禁止です。占領が解かれ、日本に主権が回復する日まで待つより外ありません。それまではお互いに秘密厳守で、潜行して作業を進めることです」。

 池見猛・編著「国益上、田中元首相の無罪を望む」は次のように記している。
 「裁いた者たちの侮恨

 日本では、東京裁判に関する批判は、GHQの厳しい言論統制によって、7年間にわたる占領期間中厳禁されてきた。(私がパ―ル博士の判決文抄訳を『日本無罪論=真理の裁き』と題して太平洋出版社から初めて上梓したのは、日本がサンフランシスコ条約に基づき占領が解除され、独立した昭和27年4月28日のことである)

 しかし日本を裁いた側の米英のマスコミや権威ある国際法学者や裁判官は、裁判の判決がおりた直後から、ニュルンベルクと東京裁判に対する批判が行われた。ニューヨークタイムズは東京裁判の直後、この裁判を無効とし、全員無罪を判決したパ―ル判事の少数意見を一面トップで大きく取り上げこれを評価した。ロンドンタイムズは1952年6月から7月にかけて約一カ月間にわたって、この二つの裁判に対する論争を連載した。イギリスの国際法の権威であるハンキー卿はその著『戦犯裁判の錯誤』(POLITICS  TRIALS  RRRORS)の中で、『パール判事の所論は全く正しい』という立場に立って、パールの判決文を引用しながら戦後連合国が行った戦犯裁判(軍事裁判)を徹底批判している。

 米の連邦最高裁判所のW・О・ググラス判事は極東国際軍事裁判所は、国際法に基づいて審理できる自由且つ独立の裁判所でなく、パール判事が述べたように、『同裁判所は司法的な法廷ではなく、政治権力の道具に過ぎなかった』と述べた。米の国際法学者マイ二ア教授は『東京裁判の判決は、国際法、法手続き、史実のいずれからみても誤りであった。結局、勝者の裁きに過ぎない』として『勝者の裁き』と云う著書を世に問うた。同じくアメリカ最高裁のフレッド・M・ヴィシソン判事は、パール判決を支持し、多数判決を糾弾した。ドイツの哲学者ヤスパースも別の角度から、この二つの裁判を行った連合国の思いあがった驕慢な行為を痛烈に批判した。

 何よりも剋目黙すべきことは、この裁判の総括的主宰者であり、判検事の任命権を持ち、自ら戦犯憲章を起草した連合国軍司令官マッカーサー元帥が、1951年5月3日、米上院の軍事外交合同委員会の聴聞会で、『日本が第二次世界大戦に赴いた目的は、そのほとんどが安全保障の為であった』と、東京裁判で裁いた『日本の侵略』を全面的に否定し、日本が行った戦争は自衛のための戦争であったことを認めたのである」。

【「パール博士の判決書の刊行経緯」】
 浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」の「『日本無罪論』の上梓と博士の来日」の項を転載する。

 ある日、拙宅に太平洋出版社の天田編集長が来訪され、「田中さんはえらいことをなさっているそうですね。」という。わたしが言葉をにごしていると、「わが社の社長鶴見祐輔が、あなたの原稿を是非、わが社で出版したいと申しているのです。」という。
 鶴見氏は太平洋協会の会長で、GHQの中にも多くの知友をもつ国際人である。占領下の当時すでに海外の情報も入手されていた。パール判決書はニューヨーク・タイムズやロンドン・タイムズなどでは大々的に報道され、米英の法曹界ではパール旋風が巻き起こっていることを氏は承知していたのである。

 わたくしはパール博士に書簡を呈し、出版に際しての版権についてお尋ねした。博士からのご返事は「判事の判決文はパブリックなものである。しかし勝手に改ざんなどなきよう・・・」とのことで出版をご快諾下さった。そこでわたくしは清瀬、伊藤両先生とも相談のうえ、鶴見邸を訪れた。先生は病中を起き直られこういわれた。

 「田中さん、残念ながらこの本はマッカーサーの占領中は絶対に出版できません。内々調べてみたが、出版すればあなたも僕も即刻逮捕された上、発売禁止です。占領が解かれ、日本に主権が回復する日まで待つより外ありません。それまではお互いに秘密厳守で、潜行して作業を進めることです。」

 のちに江藤淳さんの本で分かったが、占領軍はポツダム宣言に違反して、物凄くきびしい言論統制を行っていた。表現活動で厳禁した三十項目の第一の禁止事項は、占領軍総司令部(マッカーサー)の批判、第二が東京裁判の批判、第三が新憲法、第四が検閲制度への言及・・・等々、三十項目である。この内、東京裁判の批判は第二の禁止事項なのである。

 パール博士の全員無罪の判決文は、東京裁判批判の最大最高の、しかも権威ある法理論による批判である。占領下にこんなものを出版したら、それこそ首がいくつあっても足りないほどの処罰を受けるのは当然で、鶴見先生はすでにこれを承知していたのである。

 そこで日本が独立を回復する日、すなわち昭和27年4月28日を期した。それまでは内密に印刷し、製本し28日に全国一斉に書店で発売した。これが太平洋出版社発行の『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』である。
 この本の新刊紹介は各新聞に取りあげられ、大変な反響を呼び、ベストセラーズになった。パール博士の名が広く日本人に知れわたったのは、この著述によってである。

 この著述をいちばん喜んでくださったのは、わたしの恩師である平凡社社長下中弥三郎先生である。先生は自ら主催して出版記念会を開いて下さった。その席上先生は、パール博士を日本に招聘し各大学や全国各地で講演していただき、『パール博士の日本無罪論』を普及しようではないかと提案された。
 その年(昭和27年)の11月、原爆の地広島で「世界連邦アジア会議」が開催されることになっていたが、そのゲストとして、アジア会議の実行委員長であった下中先生が私費をもって博士をお招きすることになったのである。先生は博士の歓迎委員会も組織され、その代表者にもなられた。

 博士は10月26日に来日された。東京では法政、明治、早稲田、日大など各大学のほか日比谷公会堂でも講演された。さらに京都、大阪、神戸で講演されて広島の『世界連邦アジア会議』に臨まれた。さらに博士は福岡で頭山満翁の墓に詣でられ、九大でも講演された。帰郷後も中村屋ビハリ・ボースさんの墓や、熱海の興亜観音にも参詣された。・・・この一ヵ月余にわたる全国遊説に下中先生、中谷武世先生、そしてわたくしと通訳のA・Mナイル君の四人が終始同行した。

 パール博士と下中先生はこの一ヵ月余の旅行ですっかり意気投合された。年齢も近く(下中が8才年長)、二人とも幼少にして父を喪い、母の手一つで、極貧の中にあって刻苦し、独学で勉学した経歴をもつ。しかも大アジア主義、世界連邦による恒久平和の確立といった思想・信条の共通から、義兄弟の契りも結ぶにいたったのである。

【ラダビノード・パール博士略歴】
 浅岡秀志氏の「パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を参照する。

 1986.1.27日インド、ベンガル州ノディア県クシュティア郡カンコレホド村に生まれる。1907年カルカッタ、プレジデンシーカレッジにおいて理学士の試験に合格、数学賞を受ける。1908年カルカッタ大学にて理学修士を取得。1910年インド連合州会計院書記生として就職。1911年カルカッタ大学において法学士の学位を取得。1920年法学修士の試験に一番でパスする。1921年弁護士登録。1923―36年カルカッタ大学法学部教授に就任。1924年カルカッタ大学にて(LLD)の学位を取得(論文は「マヌ法典前のヴェダおよび後期ヴェダにおけるヒンズー法哲学」)。1925年カルカッタ大学"タゴール記念法学教授"に任命される。このインド学会最高の栄誉といわれる"タゴール記念法学教授"に1930年、1938年と3回にわたり任命された。これは同大学創立以来のことといわれる。

 1927―41年インド政府法律顧問に就任。1937年国際法学会の総会に招聘され、議長団の一人に選ばれる。1941―43年カルカッタ高等裁判所判事。1944―46年カルカッタ大学副総長。1946―48年極東国際軍事裁判所判事。1952―67年国際連合国際法委員会委員(1958年度および1962年度委員長)。

 1952年下中弥三郎らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加、下中と義兄弟の契りを結ぶ。1953年下中弥三郎の招聘により三度目の来日。大倉山文化科学研究所に置いて講義。1955年世界連邦カルカッタ協会会長に就任。1957年常設仲裁裁判所判事。1959年ナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデの称号を受く。1960年インド最高の栄誉である PADHMA RRI 勲章 を授与される。1966.10月清瀬一郎、岸信介らの招聘により、四度目の来日、日本政府より勲一等瑞宝章に叙せらる。1967.1.10日、カルカッタの自邸において逝去される。

【ラダビノード・パール博士のその後】
 浅岡秀志氏の「パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を参照する。

 パール判事について田中正明氏が著書しており、1963年9月に慧文社より刊行された『パール博士の日本無罪論』が小学館文庫より再発刊された。著者の田中正明氏とは、「明治44年2月11日、長野県に生まれる。飯田高校を経て興亜学塾に学び、大亜細亜協会、大日本興亜同盟に勤務し、アジア独立運動に尽力。松井石根大将の支那講演旅行に同行、応召。戦後、南信時事新聞編集長、拓殖大学講師を歴任。現在、評論家として活動。著書『パール博士の日本無罪論』、『アジアの曙』、『南京虐殺の虚構』、『松井石根大将の陣中日記』、『南京事件の総括』、『アジア独立への道』その他多数」の人物である」(浅岡 秀志)。 )

 田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、概要「パール判事は、日本の教科書が東京裁判史観に立って『日本は侵略の暴挙を犯した』と記述していることに危惧の念を表明した。『欧米諸国は日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示する目的であったにちがいない。日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って、卑屈、退廃に流れていくのを、私は平然と見過ごす訳にはゆかない。誤られた彼らの宣伝を払拭せよ。誤られた歴史は書き換えられなければならない』」とまでいって励ましてくれたのである」とある。

 このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。 

 極東国際軍事裁判(以下東京裁判と略称)で東條元首相とともに処刑された松井石根陸軍大将の密葬の夜のことであった。当日は大亜細亜協会理事長下中弥三郎、幹事長中谷武世両先生とともにわたくしもお招きいただいた。その夜の直会の席で、弁護団副団長の清瀬一郎先生と大将の弁護人伊藤清先生のお二人から11名の連合国判事中ただ一人インド代表のパール判事のみが、この裁判は国際法に違反するのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法廷主義を踏みにじった復讐裁判に過ぎない、だから全員無罪であると、堂々たる法理論を展開された旨のお話を承った。


 1953年、パール博士はジュネーブにある国際司法委員会の議長の要職に推挙された。1960年にはインド最高の栄誉賞であるPADHMA・RRI勲章を授与された。同時にインド国際法学会の会長に就任され、のち世界連邦カルカッタ協会長にも就任した。1967年1月10日カルカッタの自邸において多彩な生涯を終えられた。死の前年、すなわち昭和41年(1966)10月、パール博士は清瀬一郎、岸信介両氏の招きに応じて四たび来日され、天皇陛下から勲一等瑞宝章の受賞の栄誉に浴されたのである。
 「パール記念館」は正しくは『パール・下中(下中弥三郎)記念館』といい箱根の関所跡から約1Kmほど箱根峠に向かった国道1号線脇のバス停<お堂前>(元箱根⇔三島)神奈川県箱根408-1に存在する。連絡所:東京都新宿区袋町6番地 (財)日本出版クラブ TEL 03-3260-5271
 『パール博士の日本無罪論』田中正明著・慧文社(昭和38年初版・平成10年増補改訂第27刷)は絶版となり復刻版『パール判事の日本無罪論』田中正明著・小学館文庫(平成13年10 月5日初版)として発行された。本体価格:¥533ー

【パール博士来日時の発言要旨】
 浅岡秀志氏の「パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を転載する。
 パール博士の二度目の来日は、東京裁判からちょうど四年後のことである。 「パール博士歓迎委員会」のメンバーは、日印協会会長一万田尚登氏(日銀総裁)を筆頭に、財界では藤山愛一郎、永野重雄、石川一郎、高橋龍太郎、鮎川義介氏ら・・・。政界では尾崎行雄、岸信介、高崎達之助、安井誠一郎氏ら・・・。法曹界では東京裁判で活躍した鵜沢総明、清瀬一郎、林逸朗、菅原裕、三文字正平、伊藤清ら・・・。学者・文筆家では田中耕太郎、鶴見祐輔、神川彦松、前田多門、賀川豊彦、小野清一郎、中谷武世氏ら・・・。ともかく錚々たる当代一流の48人からなる委員会が結成された。わたしはその事務局長を仰せつかった、とある。
 羽田空港に降り立った博士は、出迎えの一人一人と握手して、待ちかまえた記者団の会見室に臨んだ。博士は開口一番こういわれた。「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。われわれはこの《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」これが上陸第一歩、博士の唇をついて出た言葉であった。

 「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために《中立裁判》は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか。

 「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」

 博士はさらに言葉を改めて、「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」と、語調を強めて語られた。

 それから今まで約半世紀、米国のベトナム戦争、アフガニスタンへのソ連の侵略戦争、4回にわたるイスラエルによるアラブ侵略戦争、イラン・イラク戦争、さきの湾岸戦争等々、世界に戦争は絶えない。だがパール博士の予言通り、国際軍事裁判はおろか、国連において侵略の定義がようやく合意を見たのは、実に東京裁判から26年後の1974年である。つまり東京裁判は、侵略とは何かということが判らないままに、日本は侵略したとして処断されたのである。

 記者団の、サンフランシスコ条約と日本独立の印象についての質問に対し、博士はこう答えている。「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!とわたくしはいいたい。」 これがパール博士の東京裁判と独立後の日本に対する印象の第一声であった。

【「パール博士歓迎委員会主催の歓迎レセプションでのパール博士の発言要旨」】
 浅岡秀志氏の「パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を転載する。

 「パール判事に学べ」


 産経新聞は平成6年8月18日のオピニオンアップで大きく「パール判事に学べ/見直したい東洋の誇り」と題する主張を尾崎諭説委員の署名入りで発表した。パール判事とはいうまでもなく極東国際軍事裁判(俗称・東京裁判)のインド代表判事ラダビノード・パール博士のことである。この裁判で11人の判事のうちただ一人、被告全員無罪の判決(少数意見)を下した判事で、尾崎氏は次のごとく述べている。パール博士の外貌をわかりやすくデッサンしているので、やや長文であるが引用させていただく。

 《ラダビノード・パール(1886〜1967年)。現在、どれほど多くの日本人がこの恩人の名をご記憶だろうか。

 東京裁判(1946〜1948年)で、日本は満州事変(1931年)から盧溝橋事件(1937年)を経て日中戦争に突入し、日米開戦(1941年)、そして終戦に到るまでのプロセスを「侵略戦争」と判定され、この「侵略戦争」を計画し、準備し、開始し、遂行したことは、「平和に対する罪」に当たるとして東條英機ら7人の絞首刑が遂行された。

 パール判事は、この東京裁判で日本が国際法に照らして無罪であることを終始主張し続けてくれたインド人判事である。田中正明著『パール博士の日本無罪論』によれば、同判事は日本の教科書が東京裁判史観に立って「日本は侵略の暴挙を犯した」「日本は国際的な犯罪を犯した」などと教えていることを大変に憂えて「日本の子弟が、歪められた罪悪感を背負って卑屈、頽廃に流されて行くのをわたくしは平然と見過ごすわけにはいかない。」とまでいって励ましてくれたのである。

 日本が敗戦で呆然自失し、思想的にも文化的にも、日本人のアイデンティティーを失っていた時代に、パール判事の言葉はどれだけ日本人に勇気と希望を与えてくれたことか。わたしたちは決してこの恩義を忘れてはなるまい。

 このパール判事の冷静かつ公平な歴史感と人権に感服し、義兄弟の契りまで結んだ平凡社創設者下中弥三郎は、世界連邦アジア会議を開催してそのゲストとしてパール博士を招致した。その没後二人を記念する建設委員会によって創設されたのが、箱根町の丘の上にあるパール記念館である。正式には「パール下中記念館」と呼ばれている。》

 以上が産経新聞の要約である。


 初めて知るパール判決書


 最初、私事で恐縮だが、わたくしは極東国際軍事裁判(以下東京裁判と略称)で東條元首相とともに処刑された松井石根陸軍大将の秘書として、また松井大将が会長をされていた「大亜細亜協会」に勤務していた。そのわたくしが、インド代表判事パール博士のことを知ったのは、松井大将の密葬の夜のことであった。

 当日は大亜細亜協会理事長下中弥三郎、幹事長中谷武世両先生とともにわたくしもお招きいただいた。その夜の直会の席で、弁護団副団長の清瀬一郎先生と大将の弁護人伊藤清先生のお二人から11名の連合国判事中ただ一人インド代表のパール判事のみが、この裁判は国際法に違反するのみか、法治社会の鉄則である法の不遡及まで犯し、罪刑法廷主義を踏みにじった復讐裁判に過ぎない、だから全員無罪であると、堂々たる法理論を展開された旨のお話を承った。

 その日からわたくしは、ものの怪に取り憑かれたように、まずパール判決書を手にいれ、これを上梓して、戦後の罪悪感にひしがれている国民に警鐘を鳴らしたいとひたすら思うようになった。

 当時わたくしは、敗戦後、大陸から帰還し、郷里の信州飯田市の新聞社に勤務していたが、志業達成のため居を東京に移した。そして早速、清瀬、伊藤両弁護士の事務所をお訪ねした。両先生に秘密保持の念書を入れて、和訳タイプしたパール判決書を借用した。悪質の仙貨紙に不鮮明なタイプ印刷で、しかも所々欠落があり、お二人のを合わせて漸く完全なものとなった。わたくしは学生アルバイトを雇い、これを原稿用紙に筆写させた。
 原稿用紙にして二千二百枚、九十万語にも及ぶ長文である。
 多数判決−清瀬弁護士の言う六人組判決(米、英、ソ、中、カナダ、ニュージランド)−の6ヶ国の判事の判決文よりも、パール判事一人の意見書(判決)の方が浩翰な法理論の展開である。

 ついでながら東京裁判は、法律なき裁判ゆえ、その判決も六つに分かれた。前記六人組の多数判決のほかに、五人組がそれぞれ別の意見書(判決)を出している。オランダのレーリング判事は「廣田弘毅元首相は無罪、他の死刑も減刑せよ。ドイツのナチスの処刑に比して重すぎる」。フランスのベルナール判事は「この裁判は法の適用および法手続きにおいてもあやまりがある。とし、「11人の判事が一堂に集まって協議したことは一度もない」と内部告発までしている。ウエッブ裁判長まで六人組からのけ者扱いにされ、量刑について別の意見書を出している。比島のハラニーヨ判事のみが量刑が軽すぎるとし、インドのパール判事は前述の通り全員無罪、無罪というよりこの裁判は裁判にあらず「復讐の儀式に過ぎない」として根底から否定する意見書である。

 欧米先進国では少数意見は必ず発表されることになっており、東京裁判所条例も少数意見は公表すると明記していたが、時間がないことを理由に発表を禁止した。

 当時GHQによって言論統制を受けていた日本の新聞はただ数行「インドの判事が異色の意見書を提示した」と発表したに過ぎない。かくして、ついにパール判決書は日の目を見ることなく葬り去られてしまったのである。

 ついでながら、オーストラリアのウエッブ判事とフィリピンのハラニーヨ判事は、法廷にもち出された事件に前もって関係していた判事で不適格、必要な言葉すなわち協定用語である英語と日本語がわからないソ連のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事、また本来裁判官でない中国の梅汝*判事の五名の判事は不適格判事であった。国際法で学位をとった判事はパール博士一人のみである。
 あまりに卑屈化した日本

 帝国ホテルにおいて『パール博士歓迎委員会』主催の歓迎レセプションが開かれた。この席上、ある弁護士が「わが国に対するパール博士の御同情ある判決に対して、深甚なる感謝の意を表したい。」という意味で謝辞を述べた。すかさず博士は発言を求めて起ちあがり、「わたくしが日本に同情ある判決を下したというのは大きな誤解である。わたくしは日本の同情者として判決したのでもなく、またこれを裁いた欧米等の反対者として裁定を下したのでもない。真実を真実として認め、法の真理を適用したまでである。それ以上のものでも、それ以下のものでもない。誤解しないでいただきたい。」と述べられた。 この博士の高い見識に、列席者一同は益々畏敬の念を深くした。

 博士はこの席上でも、また東京、大阪の弁護士協会や広島高裁での講演においても、日本の法曹界はじめマスコミも評論家も、なぜ東京裁判やアジア各地で執行された戦犯裁判の不法、不当性に対して沈黙しているのか。占領下にあってやむを得ないとしても、主権を回復し独立した以上この問題を俎上にのせてなぜ堂々と論争しないのか、と問題を提起し、奮起を促した。

 博士によれば、「いまや英・米・仏・独など世界の法学者の間で、東京とニュルンベルクの軍事裁判が、果して正当か否かという激しい論争や反省が展開されている。げんに英国法曹界の長老ロード・ハンキーは<パール判事の無罪論こそ正論である>として『戦犯裁判の錯誤』と題する著書まで出版している。しかるに直接の被害国であり、げんに同胞が戦犯として牢獄に苦悶している日本においてこの重大な国際問題のソッポに向いているのはどうしたことか。なぜ進んでこの論争に加わらないのか。なぜ堂々と国際正義を樹立しようとしないのか・・・」と憤慨されるのである。

 博士は日本に来てみて、日本の評論家やジャーナリストや法律家が、東京裁判に対する本質的な論争、ないしは戦犯の法的根拠、東京裁判で裁いた「平和に対する罪」「人道に対する罪」が国際法とどう関連するのか、日本に侵略的意図があったかなかったか・・・。そうした問題について、あまりにも無関心、もしくは不勉強であると同時に、義憤さえ覚えられたらしい。その義憤は日本人の真理探究、マハトマ・ガンジーのいう《真理把持》の精神に欠けている点に対してである。長いものにはまかれろ、強いものには屈服せよという事大主義のしみったれた根性に対する義憤である。

 博士によると「日本の外務省は、わざわざごていねいに英文パンフレットまで出して、日本の《罪悪》を謝罪し、極東軍事裁判(東京裁判)の御礼まで述べている。東洋的謙譲の美徳もここまでくると情けなくなる。なぜ正しいことは正しいといえないのか、間違っていることをどうして間違っていると指摘できないのか。」と、博士は嘆かれるのである。

 「真理喪失」と「日本回帰」

 羽田空港に降り立った博士は、出迎えの一人一人と握手して、待ちかまえた記者団の会見室に臨んだ。博士は開口一番こういわれた。「この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は《法の真理》である。われわれはこの《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」これが上陸第一歩、博士の唇をついて出た言葉であった。

 「たとえばいま朝鮮戦争で細菌戦がやかましい問題となり、中国はこれを提訴している。しかし東京裁判において法の真理を蹂躙してしまったために《中立裁判》は開けず、国際法違反であるこの細菌戦ひとつ裁くことさえできないではないか。捕虜送還問題しかり、戦犯釈放問題しかりである。幾十万人の人権と生命にかかわる重大問題が、国際法の正義と真理にのっとって裁くことができないとはどうしたことか。

 「戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた《法の真理》を奪い返さねばならぬ。」

 博士はさらに言葉を改めて、「今後も世界に戦争は絶えることはないであろう。しかして、そのたびに国際法は幣履のごとく破られるであろう。だが、爾今、国際軍事裁判は開かれることなく、世界は国際的無法社会に突入する。その責任はニュルンベルクと東京で開いた連合国の国際法を無視した復讐裁判の結果であることをわれわれは忘れてはならない。」と、語調を強めて語られた。

 それから今まで約半世紀、米国のベトナム戦争、アフガニスタンへのソ連の侵略戦争、4回にわたるイスラエルによるアラブ侵略戦争、イラン・イラク戦争、さきの湾岸戦争等々、世界に戦争は絶えない。だがパール博士の予言通り、国際軍事裁判はおろか、国連において侵略の定義がようやく合意を見たのは、実に東京裁判から26年後の1974年である。つまり東京裁判は、侵略とは何かということが判らないままに、日本は侵略したとして処断されたのである。

 記者団の、サンフランシスコ条約と日本独立の印象についての質問に対し、博士はこう答えている。「日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法の許で、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!とわたくしはいいたい。」 これがパール博士の東京裁判と独立後の日本に対する印象の第一声であった。 

 原爆のヒロシマ


 パール博士は、広島の爆心地本川小学校講堂で開かれた世界連邦アジア会議にゲストとして参加された。この会議は独立したばかりの新興アジア諸国の指導者を交えた14カ国、45名の代表と千余名の世連主義者によって構成された。壇上には連邦旗を中心に左右に「人類共栄」「戦争絶滅」のスローガンをかかげ、馬蹄形の議事場には14カ国の代表と正面に下中大会委員長、特別来賓のパール博士と英国のボイド・オア卿(ノーベル平和賞受賞者)が着席した。

 博士は45分間にわたる特別講演をおこなった。この講演は、アジア会議の性格を規定する重大な意義をもつものとして注目された。
 「人種問題、民族問題が未解決である間は、世界連邦は空念仏である。」と前提して博士はこう述べられた。

 「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。日本は投下される何の理由があったか。当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。そこに人種的偏見はなかったか。しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。彼らの手はまだ清められていない。こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」

 白人代表を目の前にしての痛烈な民族・人種問題についてのこの講演は、会議の性格を一変したといっていい。この博士の講演に引き続き無残にも悪魔のツメアトも生々しい4名の原爆乙女が壇上に立った。ケロイドで引きつった顔に黒眼鏡をかけた佐古美智子さん(当時20才)が、「わたしたちは、過去7年の間原爆症のために苦しんできましたが、おそらくこの十字架はなほ長く続くと思われます。しかし、わたしたちは誰をも恨み、憎んではいません。ただ、わたしたちの率直な願いは、再びこんな悲劇が世界の何処にも起こらないようにということです・・・。」と、涙にふるえながらメッセージを読みあげれば、会場は感動のルツボと化し、嵐のような拍手が鳴りやまなかった。感極まった比島代表のアンヘルス氏が原爆犠牲者に一分の黙祷を提案した。一同起立して、黙祷を捧げた。米代表のマックローリン夫人が「わたしはアメリカ人としてこの原爆に責任を感じています。この悲劇がふたたび起こらないよう生涯を通して原爆阻止運動に献身します。」と誓いの言葉を述べた。そして乙女たちの一人一人を抱いて頬に感激のキスをおくった。博士によればこれこそアメリカ人にして《原爆の懺悔》をした最初の人であった。

 原爆慰霊碑と博士の追悼詩


 11月5日、博士は原爆慰霊碑に献花して黙祷を捧げた。その碑に刻まれた文字に目を止められ通訳のナイル君に何がかいてあるかと聴かれた。『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』・・・博士は二度三度確かめた。その意味を理解するにつれ、博士の表情は厳しくなった。

 「この《過ちは繰返さぬ》という過ちは誰の行為をさしているのか。もちろん、日本人が日本人に謝っていることは明らかだ。それがどんな過ちなのか、わたくしは疑う。ここに祀ってあるのは原爆犠牲者の霊であり、その原爆を落した者は日本人でないことは明瞭である。落した者が責任の所在を明らかにして《二度と再びこの過ちは犯さぬ》というならうなずける。 この過ちが、もし太平洋戦争を意味しているというなら、これまた日本の責任ではない。その戦争の種は西欧諸国が東洋侵略のために蒔いたものであることも明瞭だ。さらにアメリカは、ABCD包囲陣をつくり、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行って挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。」

 このことが新聞に大きく報ぜられ、後日、この碑文の責任者である浜井広島市長とパール博士との対談まで発展した。

 このあと博士はわたくしに「東京裁判で何もかも日本が悪かったとする戦時宣伝のデマゴーグがこれほどまでに日本人の魂を奪ってしまったとは思わなかった。」と嘆かれた。そして「東京裁判の影響は原子爆弾の被害よりも甚大だ。」と慨嘆された。

 その夜、わたくしたちのホテルに、広島市小町の本照寺の住職筧義章さんが訪ねてこられこういわれた。「わたくしの寺の檀徒も大勢原爆でやられています。また出征して多くの戦死者も出しています。これらの諸精霊に対して、どうゆう言葉を手向けたらよいか。パール博士に『過ちは繰り返しませぬから』に代わる碑文を書いていただきたい。」と懇願された。

 これを聞かれた博士は、意外にも快く引き受けられた。そして一夜想いを練られて、奉書紙と筆をとりよせ次のような詩を揮毫された。その詩が今も本照寺に建立されている『大亜細亜悲願之碑』である。ナイル君がベンガル語を和訳し、さらに英訳して三カ国語で大きな黒御影石に刻んだ。

 それは次のような格調高い詩である。「激動し 変転する歴史の流れの中に 道一筋につらなる幾多の人達が 万斛の想いを抱いて死んでいった しかし 大地深く打ちこまれた悲願は消えない 抑圧されたアジア解放のため その厳粛なる誓いにいのち捧げた魂の上に幸あれ ああ 真理よ! あなたはわが心の中にある その啓示に従って われは進む 1952年11月5日  ラダビノード・パール」        

 子孫のため、歴史を明確に正せ


 1952年11月6日、博士は広島高裁における歓迎レセプションに臨まれて、「子孫のため歴史を明確にせよ」と次のように述べられた。

 「1950年のイギリスの国際情報調査局の発表によると、『東京裁判の判決は結論だけで理由も証拠もない』と書いてある。ニュルンベルクにおいては、裁判が終わって三か月目に裁判の全貌を明らかにし、判決理由とその内容を発表した。しかるに東京裁判は、判決が終わって4年になるのにその発表がない。他の判事は全部有罪と判定し、わたくし一人が無罪と判定した。わたくしはその無罪の理由と証拠を微細に説明した。しかるに他の判事らは、有罪の理由も証拠も何ら明確にしていない。おそらく明確にできないのではないか。だから東京裁判の判決の全貌はいまだに発表されていない。これでは感情によって裁いたといわれても何ら抗弁できまい。」

 このように述べた後、博士はいちだんと語気を強めて、「要するに彼等(欧米)は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって自らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の過去18年間のすべてを罪悪であると烙印し罪の意識を日本人の心に植えつけることが目的であったに違いがない。東京裁判の全貌が明らかにされぬ以上、後世の史家はいずれが真なりや迷うであろう。歴史を明確にする時が来た。そのためには東京裁判の全貌が明らかにされなくてはならぬ。・・・これが諸君の子孫に負うところの義務である。

 「わたしは1928年から45年までの18年間(東京裁判の審議期間)の歴史を2年8カ月かかって調べた。各方面の貴重な資料を集めて研究した。この中にはおそらく日本人の知らなかった問題もある。それをわたくしは判決文の中に綴った。このわたくしの歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。しかるに日本の多くの知識人は、ほとんどそれを読んでいない。そして自分らの子弟に『日本は国際犯罪を犯したのだ』『日本は侵略の暴挙を敢えてしたのだ』と教えている。満州事変から大東亜戦争勃発にいたる事実の歴史を、どうかわたくしの判決文を通して充分研究していただきたい。日本の子弟が歪められた罪悪感を背負って卑屈・頽廃に流されてゆくのを、わたくしは見過ごして平然たるわけにはゆかない。彼らの戦時宣伝の偽瞞を払拭せよ。誤れた歴史は書きかえられねばならない。」

 博士は、慈愛と情熱を込めて切々と訴えられるのである。

 パール博士は東京弁護士会においても多数の法律家を前にして講演された。いうまでもなく、博士は極東国際軍事裁判を根本的に否定している。それは戦勝国が復讐の欲望を満足させるために国際法を無視し、司法と立法を混合してマッカーサーが法を制定し、法の不遡及まで犯した一方的な軍事裁判だったからである。ここでも博士は次のように述べている。

 「日本人はこの裁判の正体を正しく批判し、彼らの戦時謀略にごまかされてはならぬ。日本が過去の戦争において国際法上の罪を犯したという錯覚におちいることは、民族自尊の精神を失うものである。自尊心と自国の名誉と誇りを失った民族は、強大国に迎合する卑屈なる植民地民族に転落する。日本よ!日本人は連合国から与えられた《戦犯》の観念を頭から一掃せよ。・・・」と、博士は繰り返し強調された。

 戦犯家族と遺族へのいたわり


 1952年11月7日、わたくしたち一行が福岡に到着すると、BC級戦犯者の家族が60名ほど福岡消防館で博士を待っていた。深い悲しみにつつまれた家族たちを前に、パール博士は沈痛な表情でこう述べた。

 「戦犯といわれるが、決して犯罪者ではありません。全員無罪です。何も罪とがを犯したのではないのです。恥ずべきことはひとつもありません。世界の人たちも、戦争裁判が間違っていたことを少しづづ分かり始めたようです。しかし、わたくしは、今さらながら自分の無力を悲しみます。ただご同情申しあげるだけで、わたくしには何もできません。・・・けれど戦犯釈放にはできるだけ努めます。これ以上、罪のない愛する者同士を引き離しておくわけにはいきません。・・・わたくしは倒れそうです。・・・許してください。」受刑家族の苦悩を苦悩とする博士は、言葉も途切れがちに、ようやくこれだけ述べて合掌するのみであった。

 戦犯の無罪を確信し、この暴挙に憤りをもつ博士は、受刑家族を目のあたりに見て、深い責任感-自ら犯した過ちの如く- 責められる気持ちであったのだろう。「自分の無力を悲しむ・・・許してください」といって涙し、そして嗚咽する家族の中に歩みよって、家族の一人一人の肩にやさしく手をおいた。

 東京へ帰ると博士は、巣鴨プリズンを慰問された。巣鴨にはA級戦犯とBC級戦犯あわせて130名ほど留置されていた。博士は一部屋ごとに声をかけられ慰めかつ励まされた。当局もインド代表判事ということで、BC級戦犯全員を廊下に整列せしめた。博士は「皆さんには何の罪もない。講和条約も終わった。講和条約が終われば、当然皆さんは釈放されるはずです。あとは手続きの問題だけです。それが国際法の定めるところです。どうかそれまで健康に留意してください。」と励ました。

 博士は東京裁判で処刑された7人の遺族に対しても、心からいたわりの情を示された。まず東條勝子夫人から面会の申し込みがあったのを、夫人にわざわざ来てもらうのは忍びないといって、博士はわざわざ遠隔の世田谷・用賀の東條宅を訪れた。荒れはてた庭にはコスモスが咲き乱れ、七面鳥が鳴きわめいていた。勝子夫人と二人の娘さん、三人のお孫さんに囲まれた博士は、一人一人孫を抱きあげ、頬ずりしながら、長時間勝子夫人を慰めた。

 板垣征四郎元大将未亡人喜久子夫人は博士を帝国ホテルに訪ねてきた。博士は夫人の手をとって迎え、「板垣さんはわたくしの座席の真正面でした。」と博士がいうと、「はい、いつもパール先生がまっ先に正面にあらわれて、被告席に向かって合掌されるので、とても印象が深かったと、主人は死ぬまで申していました。」 夫人はそういって二枚の色紙をとり出した。それには次の二首の短歌が染筆されていた。

  ふたとせにあまるさばきの庭のうち
   このひとふみを見るぞとうとき

  すぐれたる人のふみ見て思ふかな
   やみ夜を照らす灯のごと

 《ひとふみ》とは、博士が判決した全員無罪の要旨を弁護人から聴いた時の感慨である。ナイル君が英訳して伝えると、「そうでしたか・・・」と目をうるませながらこまごまと夫人をねぎらった。

 この夜、廣田弘毅元首相のお嬢さんと、東郷茂徳元外相の夫人が訪ねてきた。この時も博士は懇切に二人を慰めた。木村兵太郎元大将の未亡人可縫夫人は奈良ホテルに博士を訪ね、「わたくしども7人の戦犯処刑家族のものは、年2回、23日の命日に集まってひそやかに慰めあうのを何よりの楽しみにして、淋しい日を送っています。」といった。博士は「12月23日!この日は今に日本国中の人が《記念の日》とする日が来るようになりましょう。」と慰めた。

 博士はその判決文の最後を次の言葉で結んでいるのである。「時が、熱狂と偏見をやわらげたあかつきには、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くにその所を変えることを要求するであろう。」と。

 興亜観音に参詣

 箱根の秋を観光して熱海ホテルに一泊した時、博士は伊豆山の《興亜観音》にお詣りしたいといいだした。山麓には松井大将の未亡人がわび住まいしている。その未亡人を見舞いたいという気持ちである。興亜観音というのは、中支派遣軍総司令官松井石根大将が一念発起して建てた、日支両軍の英霊を祀った観音堂である。大将の《縁起書》によると、「支那事変ハ友隣相撃チテ莫大ノ生命ヲ喪滅ス 実ニ千歳ノ非惨事ナリ 然リト雖 是レ所謂東亜民族救済ノ聖戦ナリ。惟フニ・・・真ニ興亜ノ礎タラントスルノ意ニデタルモノナリ・‥」というので《興亜観音》と名づけ、南京や大場鎮の両軍の血に染めた土を取り寄せ、観音像を創って祭祀した御堂である。大将みずから縁起書を手に布施を乞うて歩かれ、2年半の日子をついやして建立した観音堂である。


 大将はこの鳴沢山の山麓に庵を結んで、《無畏庵》と名づけ、読経三昧の堂守生活に入った。戦犯の汚名をきせられて大将が処刑された後は、文子未亡人と久江嬢の二人が、養鶏をなりわいに寂しく暮らしていた。博士は突然ここを訪れて二人を驚かした。博士は大将の霊に祈りをささげた後二人を慰め、励ました。博士はアジアの独立・解放の悲願に立つ観音像と七人の遺骨が眠る「七士之碑」(吉田茂揮毫)、それに隣した「BC級戦犯殉国刑死1086霊位」の碑に、それぞれ花香を手向け敬けんな祈りを捧げられた。

 パール夫人の追悼法要

 博士の語るところによると次のような秘話があった。パール判事は東京裁判のさなかに、娘から《ハハキトク》の電報を受取った。博士は急いで飛行機で駆けつけた。その時、夫人は枕辺に立った夫の差し出す手を握ってこういった。「娘が電報をしたこと。あなたがわたくしを見舞うため帰ってきて下さったことは嬉しゅうございます。しかし、あなたは日本国の運命を裁く大事なおからだです。どうか裁判が終わるまではわたくしのことはかまわないで・・・たとえどのようなことがあっても、わたしは恨みません。悲しみません。死にません・・・裁判が終わるまでは・・・、決して帰ってきて下さいますな・・・」 病床から息もたえだえに訴える妻のけなげな言葉に励まされて、博士は日本へ戻った。博士はその時「日本は美しい国だ。人情も風景も美しい。裁判が終わったら、一緒に日本に行こう。それまでに早くよくなってくれ。」と妻を慰めた。


 博士が東京裁判の判決を終えて昭和23年(1948 )11月、病妻の待つインドへ帰った時、妻の病は重く、もはやろくに口も聞けなくなっていた。そして5ヶ月後、ついに帰らぬ人となってしまった。

 この話を感動をもって、じっと聴いていた下中翁は「夫人の追悼法要をやろう」とわたくしに命じた。わたくしは帰京すると直ちに伊藤千春氏とともにその準備に当たった。26日の午後1時から東京・築地本願寺で「パール夫人追悼大法要」が厳粛裡に執り行われた。世界連邦建設同盟のほかに、日本仏教連合会、釈尊御遺影奉賛会がこころよく協賛してくださり、さらに千代田女子学園の聖歌隊がこの法要に参加してくれた。法要の前後に聖歌を合唱した。参加者は250名を越えた。それは民族・国境を越えた、身も心も引き締まる、森厳のうちにも愛情のこもった追悼法要であった。


 全訳『日本無罪論』上梓と普及運動


 上梓した前述の太平洋出版社発行『パール博士述、真理の裁き・日本無罪論』は90万語にも及ぶパール判決書を五分の一ほどにカットし、「パール判決書を読んで」というわたくしのコメントを附記した本でしかなかった。博士は来日早々下中翁に対して「判決文全文を刊行すべきである。」と強調された。当時、下中翁は平凡社社長であると共に日本書籍出版協会の会長でもあった。

 幸にして判決書の全文は、わたくしがアルバイトを雇って原稿に筆耕させて持っていた。それを基礎に博士が帰国するまでのあいだ、僅か20日ばかりの間に『全譯・日本無罪論 = 極東国際軍事裁判印度代表判事R・パール述』を見事上梓したのである。A5版の9ポイント二段組み、630頁の堂々たる上製本である。これを手にしたパール博士は大満足し、たいそう喜ばれたことは申すまでもない。下中翁なればこその、おそらく昼夜兼行の組版、校正、印刷、製本の記録的スピードの上梓であったのだ。かくして翁は、パール博士との約束をはたされたのである。《同著は現在絶版になっているが、講談社学術文庫から『共同研究パル判決書(上下二巻)が刊行されている。現在市販されている拙著『パール博士の日本無罪論』(慧文社発行)は23版を重ねロングセラーズとなっている。》

 翁が昭和36年2月、83歳で逝去されるまで、義兄弟まで契ったパール博士との交友は、文字通り《吻頸のまじわり》であった。なお、下中弥三郎翁も死後、パール博士と同様、天皇陛下から勲一等瑞宝章を授与された。       1994年10月23日 田中正明

 
著者の田中正明氏の略歴は次の通り。浅岡秀志氏の「『パール博士のことば』(東京裁判後、来日されたときの挿話) 1994.10.23日著田中正明」を転載する。
 明治44年2月11日、長野県に生まれる。飯田高校を経て興亜学塾に学び、大亜細亜協会、大日本興亜同盟に勤務し、アジア独立運動に尽力。松井石根大将の支那講演旅行に同行、応召。戦後、南信時事新聞編集長、拓殖大学講師を歴任。現在、評論家として活動。主なる著書『パール博士の日本無罪論』『アジアの曙』『南京虐殺の虚構』『松井石根大将の陣中日記』『南京事件の総括』『アジア独立への道』その他多数。 浅岡 秀志

【京都霊山護国神社碑文】
 当時カルカッタ大学の総長であったラダ・ビノード・パール博士は、十九四六年、東京に於いて開廷された「極東軍事裁判」にインド代表判事として着任致しました。既に世界的な国際法学者であったパール博士は、法の心理と、研鑚探求した歴史的事実に基づき、この裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇に過ぎないと主張し、連合国側の判事でありながら、ただ一人、被告全員の無罪を判決されたのであります。

 今やこの判決は世界の国際法学会の輿論となり、独立したインドの対日外交の基本となっております。パール博士は、その後国連の国際法委員長を務めるなど活躍されましたが、日本にも度々来訪されて日本国民を激励されました。

 インド独立五十年を慶祝し、日印両国の友好発展を祈念する年にあたり、私共日本国民は有志相携え、茲に、パール博士の法の正義を守った勇気と、アジアを愛し、正しい世界の平和を希われた遺徳を顕彰し、生前愛された京都の聖地にこの碑を建立し、その芳徳を千古に伝えるものであります。 軍事裁判

日印友好の礎(いしずえ)













(私論.私見)