「大室寅之祐→明治天皇考」

 (最新見直し2007.1.31日)
 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは、数々の裏歴史を考察してきた。既に数々のタブーに挑戦し、通説のウソを暴いてきたつもりである。この先どこまで辿り着くのか分からないが、こたびは「幕末維新の裏歴史」に波止場した。「幕末維新の裏歴史」とは、「明治天皇すり替えによる王朝交代秘史」のことを云う。

 竹下義朗氏や大田龍・氏サイト上で早くよりが指摘していたが、れんだいこには何のことか良くは分からなかった。今漸く云われていたことが理解でき始めた。この話がどこまで本当なのか確証はない。ただ有り得る話だと思う。十分には解明できないが、ここで検証しておくことにする。 

 2004.11.14日 れんだいこ拝


 (はじめに)
 「明治天皇すり替えによる王朝交代秘史」は、鹿島昇・氏が著「裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎」(新国民社刊、1999.2.26日初版)で論証している。れんだいこは、「鹿島説王朝交代論」として別サイトでこれを検証する。

 これに加え、「太田龍の時事寸評」の2005.10.21日付け仮題「1469、大室寅之祐論」、2005.10.30日付け仮題「1477、柳原愛子の「地家作蔵」の位牌持ち去り説」、2005.11.13日付け仮題「鹿島曻氏の不滅の業績考」が興味深い考察をしている。

 なお、竹下義朗氏も早くより「帝国電網省歴史再考」の中でこの問題にコメントしている。竹下氏は、「№20.「明治天皇」は暗殺されていた!!」、「№20-11.大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について 」、「№20-2.なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのか? 」、「№20-3.「明治天皇」は暗殺されていた!! (追補・訂正)」、「№20-4.続・大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について」で更に言及している。

 2005.11.10日、地家寅吉大室寅之祐東京明治天皇の弟地家朝平の玄孫・地家ヤスマサ氏より、関連情報がメールされてきた(「地家ヤスマサ氏のメール文全文」)。これらを検証し、裏歴史的に流布されている諸説の概要を整理し、れんだいこ風にアレンジしながらその概要を記しておくことにする。

 どなたの作か不明であるが、次の詩歌がこの問題の本質をうまく読んでいる。
 世の中は 不昧因果の小車や よしあしともに めぐり果てぬる。

 2005.11.12日 れんだいこ拝

【「大室寅之祐→明治天皇考」をどう受け取るべきか】
 以下、驚くべき「大室寅之祐すり替え明治天皇論」を考察する。見えてくるのは、明治天皇に纏わる皇統譜の不正である。我々は、この問題をどう受け止めるべきであろうか。これにより天皇制の根拠を突き崩すべきだろうか。以前のれんだいこであれば、そう理解したかも知れない。今のれんだいこは、ネオシオニズムの世界席巻を見て取っている。この観点に照らせば、天皇制はネオシオニズムの世界席巻対抗策として日本民族を束ねる貴重にして賢明なアイデンティティ保持制度のように映る。

 従って、れんだいこの「大室寅之祐すり替え明治天皇論」は、万世一系の虚構を突き崩すことで天皇制廃絶の根拠にするのではない。むしろ、我が民族は何故にそれほどまでして天皇制を維持しようとしたのかにこそ関心が向く。北朝南朝のどちらの系譜が正系か論は他の方に任せ、北朝であれ南朝であれ、なぜそうまでして天皇制維持に拘ってきたのか、その歴史的根拠の是非を問いたい。

 もう一つ、当時の伊藤博文ー岩倉具視派が策動した「すりかえ天皇問題」の背景を探るために為そうと思う。その理由を明らかにすることこそ「大室寅之祐すり替え明治天皇論」の本旨となるべきではなかろうか。伊藤博文ー岩倉具視派は、日本近代史上最初のネオシオニズム被れであった可能性が強く、この観点から検証してみたい。

 なぜ、れんだいこは、わざわざこう書き記すのか。それは今やネオシオニズム被れのエージェントが我が「政官財学報司警軍」の八者機関を制圧し、いよいよ天皇制を足蹴りにし始めているからである。れんだいこは、かような「無慈悲なる上からの天皇制解体」を許さない。天皇制問題は、我が民族が自力で相当期間を要して解決させるべき問題だと心得る。

 少なくとも、現行憲法的象徴天皇制は案外理に叶っているのではないかと見立てている。願うらくは、もう少し天皇の国事行為を減らし、文化的象徴としての立場を明確にさせていきたい。この点を割り引けば、現行天皇制の在り方に異存はない。特に、昭和天皇の戦前のみならず戦後に於いても要所での政治的発言が多過ぎたところ、現平成天皇は弁えを保持し、戦後憲法の理念に叶う天皇の在り方を願っているように見える。れんだいこは、この流れを尊重していきたいと思っている。

 しかるに、小泉エージェント政権は、平成天皇のそういう在り方を愚弄し続けている。指摘されていないが、小ネズミの平成天皇足蹴り振りは目に余る。この動きはこれからもっと見えてくるであろう。

 2005.11.12日 れんだいこ拝


【「大室寅之祐→明治天皇考概論」】
 「明治天皇の出自疑惑」については概要次のように整理できるようである。
 明治天皇の出自及び王統系譜に関する疑問が発せられている。これについては早くより識者が個別に指摘し続けてきていたところ、1999年、鹿島昇・氏が「裏切られた三人の天皇-明治維新の謎」で精緻に論証したことで衝撃を与えることになった。鹿島氏は、同書に於いて、概要「孝明天皇は、幕末の倒幕・佐幕両派の抗争過程で、岩倉具視と伊藤博文ら長州志士等によって暗殺された。長州藩はその後、南朝光良親王の子孫(血統)である大室寅之祐を擁立し、孝明天皇を後継した睦仁親王(京都明治天皇)にスリ替えた」との説を唱えている。

 これを仮に鹿島説とすると、「明治天皇として即位したのは、それまでの北朝系ではなく、熊沢天皇同様の南朝系の末裔にして長州藩が秘匿擁立してきた大室家の寅之祐(おおむろとらのすけ)である」ということになる。倒幕派は、「長州に住んでいた南朝の末裔と称されていた大室寅之祐を擁立し、北朝系に代えて南朝系の大室寅之祐を睦仁親王の名で以て身代わり即位させ、幕末政変で勝利するや東京遷都し、終生本物の明治天皇として振舞わせた」ということになる。

 明治天皇の即位前の名前は睦仁親王である。睦仁親王は、孝明天皇逝去後、「幼君」として擁立されたが、この睦仁親王は暗殺され、長州が仕立てた大室寅之祐が睦仁親王を騙って身分を継承した。従って、明治天皇となって即位したのは睦仁親王ではなくて大室寅之祐であるということになる(「明治天皇すり替え説」)。こうなると、「睦仁親王」と後に「明治天皇」として知られる東京明治天皇は別人であり、「皇家クーデター」が起っていたということになる。実に、明治維新とは、「明治天皇すり替えによる王朝交替だった」ことになる。 

 「明治天皇替え玉説」の根拠として、睦仁親王時代の即位前の写真と即位後の明治天皇時代写真の様子の違いが挙げられている。一言で云えば、即位前は腺病質な姿が語られているのに即位後は威風堂々としており、とても同一人物とは思えないという説である。

 つまり、倒幕派は、当初は攘夷派であったが途中で時代の流れに合わせて「開国維新」に転換した。ところが、孝明天皇は、この時代の流れを拒否し、「鎖国攘夷」に固執しつつ「公武合体的佐幕」を志向した。孝明天皇急逝後を後継したその皇子の睦仁親王(京都明治天皇)も孝明天皇と同じ路線を踏襲した為、共に暗殺された。

 補足すれば、孝明天皇の住む御所並びに京都市中の治安維持の総責任者・京都守護職に会津藩主・松平容保(かたもり)が当たった。この容保公も孝明天皇の信任を得ていた。つまり、幕末維新過程で、最後まで「逆賊」として抵抗した会津松平家は、孝明天皇以来の忠義を貫いたことになる。というかネオシオニズム黒幕による討幕運動の不義を告発し続けていたことになる。

 以上のような指摘が更に深化させられ、最新では次のような見解が登場しつつある。竹下氏同様に太田龍・氏は、新著「長州の天皇征伐」(成甲書房、2005.10.20日初版)で、「明治天皇すりかえ説」には同調しつつも、「大室寅之祐が南朝の末裔という証明はない」と疑問を述べている。太田氏は更に新説を紹介し、次のように述べている。 
 概要「北朝系に代えて南朝系の明治天皇として即位した大室虎吉→寅之祐は、母の代に連れ子で大室家に入籍しており、南朝皇室系とされている大室家の血筋を引いていない。正確には地家作蔵の血統である。更に、大室家の家系図も大室家として辿れるのは4代前辺りまでであり、大室家が南朝の末裔であるとの確証の裏づけもない。いずれにせよ、大室虎吉→寅之祐は南朝云々とは関係がない、と言うことになるであろう。この説については、今後、検証して行く」。

 これらに付随して、次のような奇説も発表されている。れんだいこは、あまりなこと故に判断を留保するが安易には退けがたい。
 「明治天皇は大室家から出たのみならず、昭和天皇は大正天皇の子ではなく、大室近祐の息子徳川恒孝の子である。更に、大正天皇は、東久邇宮稔彦の息子三笠宮崇仁の御子である。大室系を南朝と呼び、(実は水戸斉昭の子である)中川宮朝彦系を北朝と称する」。
 「橋本龍太郎の父龍伍は橋本卯太郎と大室ヨネの間の子である。大室ヨネは大室寅之祐の弟庄吉の娘であるから、 橋本龍太郎は明治天皇(従って今の皇室)と同じ家系云々」。

【「大室寅之祐→明治天皇すり代わり考詳論」】
 以下、地家寅吉→大室寅吉→(寅助)→寅之祐→明治天皇」に至る過程を追跡検証してみたい。

 1、地家寅吉が大室寅吉になるまでの経緯
【大室寅之祐の父母】
 後に即位して明治天皇となる大室寅之祐の本当の父親は、作蔵(生年月日は不明 ~1887.4.24日)である。元々は苗字もない海賊某の息子であったが、地家吉佐衛門(1840.3.12日没)の養子となり、地家姓を名乗ることになった。「地家」の名前の由来は「村の中心」と言う意味とのことである。地家作蔵は田布施町麻郷地家に住み着いた。
  作蔵は、 廻船業者で明治20年に死ぬ迄その職にあったと伝えられている。多い時で15人位の部下を持ち2隻の船を使って、屋根瓦を屋根にくっ付ける時に使う粘着剤の役を果たす特殊な泥を田布施町麻郷から愛媛迄運んで、時には大坂湾迄運び、利益を得る仕事で営んでいたと伝えられている。これは、「田布施町のタブー」とされている。
 1843年頃、大谷家の血筋で、京都浄土真宗興正寺派の昭顥(ショウコウ、照景?)坊が何かの理由で娘の興正寺基子(スヘ。始めは末子、季子、後に基子)(1831.5.1~1855.11.20日)を連れて、興正寺から田布施町麻郷地家の西円寺にやってきた。
 18**年頃? 、一代で財を成した作蔵が西円寺の東隣に家を建てる。これが縁で、そこで浄土真宗興正寺派の西円寺の寺娘のスヘと知り合う。
 1846.5月頃、地家作蔵は満20歳の時、スヘ(満13歳)と結婚する。
 スヘが満14歳の頃、第一子(男児?)をもうけるが1歳弱で病死した。その後、夫婦の間には長女ターケが生まれる(1847.4.14日誕生)。
【大室寅之祐の誕生】
 1850(嘉永3).1.10日、長男虎吉が、スヘの実家の西円寺で誕生している。作蔵がおよそ25歳、スヘ18歳の時の子と云われている。この虎吉が後に寅之佑となり明治天皇になったとされる。奇しき事に、「寅吉は1850(嘉永3)年生まれ、睦仁親王1851(嘉永4)年生まれのほぼ同じ年」となる。鹿島説が史実とすると、このことが「すりかわり」の下地となる。
 続いて、次男・庄吉(通名は省吉)、三男・朝平(通名は浅平、浅蔵とも)の3人の子が生まれた。
 1853(嘉永6).6.3日、黒船(ペリー艦隊)来航。
 同年6.22日、将軍・家慶薨去。徳川家定が第13代将軍に就任。
【両親の離婚】
 1854年初頭(5月頃?)、作蔵とスヘは離婚している。作蔵は、長女ターケと三男朝平を引き取り、スヘが長男虎吉と次男庄吉を引き取った。スヘは、西円寺の実家へ戻ったと推測される。
 他方、大室弥兵衛(1813.6.14日~1879年)は、文右衛門の娘ハナ(1815.12.5日~1903.2.1日)との間に子供が二人できたが二人とも早死した(1人目は1849.4.14日、2人目は1853年に早死)。その後、離婚もしくはハナは死亡したようである。

【大室家とは】
 大室家(後大室家)は、頼山陽によって家系図が整備されている。これによると南朝系の皇室系譜になる。天皇家は南北朝動乱の後、代々北朝の流れが継いでいた。南朝は99代の後亀山天皇で絶え、歴史上では滅亡したことになっている。しかし実は、南朝である後醍醐天皇の子孫が正系と傍系に分かれて生き延びていると云う。

 正系は、後村上天皇―長慶天皇―後亀山天皇―良泰(ながやす)親王の系譜である。良泰(ながやす)親王は、南朝の崩壊とともに関東に落ちのび、江戸時代まで水戸藩の庇護を受けた。これが熊沢天皇家として登場してくることになる。傍系は、尊良(たかなが)親王(東山天皇)一守良(もりなが)親王(興国天皇)一興良(おきなが)親王(小松天皇)―正良(まさよし)親王(松良天皇)の系譜である。傍系の正良(まさよし)天皇には、兄の美良(よしなが)親王、弟の光良(みつなが)親王という二人の皇子がいて、美良(よしなが)親王は、三浦佐久姫を妻として三浦藤太夫と名を変え、現在の愛知県豊川市に移り住んだ。これが三浦天皇家として登場してくることになる。

 頼山陽史観によると、1399年の応永の乱後、1400年、南朝系の皇子光良親王(後醍醐天皇の皇子尊良親王から5代正良親王の皇子)が大内弘茂に連れられて吉野から長門国の麻郷に下向(亡命)してきていると云う。この時の周坊の状況が次のように記述されている。
 大内義弘(弘茂の兄)は、幕府の依頼により南北朝の和解を周旋した。義弘が南北朝の間を取り持ったのは、彼が南朝の徒党と近い関係に有るのを見込まれたからである。南北朝末期や室町時代の南党は土地に固着しない賊党的乃至海賊的稼業を行って渡世する外なくなり、南大和の天険に出入りしながら広い連絡を各地と保った様である。当時、内海の海賊も漸く大内氏の統御に入りつつあり、明徳の乱(1391年)後は、紀伊・和泉の賊党も同様の関係に入って来たのでる。南北朝の合一も、大内氏の豪強も、その不可解と見られる反幕的画策も、共にこうした反逆児的な南党と結びついた因縁を無視できないと思われる。(福尾猛市郎「大内義隆」日本歴史学会編)

 江戸300年間、長州藩は、この皇統を秘匿しつつ養い続けた。かくして、幕末に俄かに登場してきた大室家は、1794年から始まり、出自は南朝後醍醐天皇の玄孫・光良親王の末裔で、光良親王が1400年に吉麻郷に亡命してからの株別れの家系で、この時点で23代500年以上続いている朝家ということになる。つまり、南朝の皇統を継ぐべきものとしては、大室天皇家、三浦天皇家、熊沢天皇家の三つがあるということになる。

  但し、大室家の皇統譜について、大室近祐氏が、地家の西円寺の過去帳を調べて次のように疑問を発している。
 概要「大室家は1800年頃(文政時代)に麻郷家から分岐し、大室文右衛門を名乗ったところから始まる。2代目の頃、大室家は村の大庄屋となり家が繁栄した。同じ頃、頼山陽によって大室家の家系図が整備された。2代目は子供に恵まれず、大室又兵衛の息子大室弥兵衛が文右衛門の娘ハナと結婚し大室文右衛門家(大室本家)の養子に入って大室本家3代目として家督を継ぐ。ハナと弥兵衛との間に子供が2人できたがどちらも早死にした。大室家として判明するのは1800年頃からであり、『この時点で、大室家が光良親王(1400~)から23代500年以上継続している』は確証がなく粉飾である」。

【母が大室弥兵衛と再婚し、虎吉は大室虎吉を名乗る】
 1854年下旬(10月頃)、地家作蔵と離婚したスヘ(24歳)は、1855.1月頃、大室弥兵衛の後妻(二号)となっている(地家朝平の孫の地 家武雄、93歳時の証言)。これに伴い、長男の虎吉は大室虎吉に、次男の庄吉は大室庄吉と名乗ることになった。
 1855.11.20日頃、大室弥兵衛とスへの間に大室寅之助が生まれたが直後、スヘが死亡した(西円寺池で入水自殺との大室近祐説もある)。スヘは産後のひだち悪く肺結核で死亡したと云われている。この時、寅吉(後の寅之祐)はかぞえ6歳だった。スヘの位牌の法諡は「謙徳院殿叡仁基成大姉居士」とあり、浄土真宗で最高級の名前が贈られている。

 2、大室寅吉が「玉」になるまでの経緯
【大室家の血統断絶】
 スヘとの間に出来た4代目になる大室寅之助も、虚弱体質で1歳数ヶ月で早死(~1857.6.22日)。これにより、大室家の血統は断絶したことになる。
 大室弥兵衛はその後、文右衛門の娘ハナ(1815.12.5日生まれ、当時40歳?)と再々婚した。
【大室虎吉が大室家を家督相続する】
 この間、虎吉、庄吉らは継母(ままはは)に育てられた。1879年、大室弥兵衛も死亡する。これにより、本来は地家作蔵の息子である大室虎吉と大室庄吉が大室家を相続した。

 大室庄吉の子供たちは次の通り。長男・儀作(明治19年11月23日生)、長女・モト(明治 4年 1月 8日生)、次女・タカ(明治 8年11月24日生)、三女・ツネ(明治11年11月 1日生)、四女・ヨネ(明治14年10月24日生)、五女・ツユ(明治17年 6月28日生)、次男・音吉(明治22年 9月26日生)。

 他方、地家作蔵に引き取られた三男地家朝平の子孫は、山口県田布施町に現存して居る。

 1858(安政5).4.23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かも んのかみ-なおすけ)が大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣と し、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。
 7.16日 将軍・家定薨去。安政大獄が開始される。
 慶福が家茂と改名し、第14代将軍に就任。
 1859(安政6).10.27日、吉田松陰が刑死する(幕末草莽の志士列伝)。
 1860(万延元).3.3日、桜田門外の変が起り、井伊大老が暗殺される。
 1862(文久2).7.1日、一橋慶喜が朝命により将軍後見職に就任する。
 7.6日、長州藩が、長井雅楽(う た)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線 を進み出す。
 1863(文久3).4.20、幕府が、朝廷に対して、5.10日を攘夷期限と上奏。
 5.10日、長州藩、この日より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。
 7.2日、薩摩藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。

 高杉が奇兵隊を結成する。この奇兵隊に伊藤博文を隊長とする力士隊が参加する。力士隊は第二奇兵隊に所属し、屯所(とんしょ)を大室天皇家のあった麻郷(おごう)近くの石城(いわき)山においた。これが大室寅吉の奇兵隊入隊の伏線となる。
【大室虎吉が南朝の末裔として注目され始める】
 大室寅吉が奇兵隊に参加する。この頃より、大室弥兵衛とスヘの間に生まれた大室家4代目にして夭折した大室寅助になりすまし始めた。寅吉の大室家の血筋が注目を浴び始める。

 8.18日、薩摩・会津両藩、幕府と連合し て公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放。この政変により長州尊攘派、七卿とともに京都より追放される。そのため朝敵となった長州藩在京勢力は三条実美ら七卿をともなって長州麻郷の大室家に落ち着く。

 都落ちして長州にやってきた三條実美ら七卿が大室家に滞在中、 かぞえ14歳になったばかりの寅吉を見て喜び非常にかわいがり慈しみ日々をすごしたという。今でも麻郷には三条実美らが滞在したと言われる石碑がひっそりと残っている。
 1863年から1864年までの間、伊藤俊輔が麻郷の大室家に立ち寄るようになった。伊藤については「幕末人士列伝で略述する。伊藤は、寅吉を「玉」(将来の天皇)として関わり始める。このときの寅吉との深い関係が、維新後の伊藤博文の権力を作ることになる。

 大室寅吉の弟・庄吉の孫・大室近祐は祖父庄吉から聞いたとして次のような話を紹介している。
 「わしが数え12,3歳のころ、伊藤俊輔は毎日のように家に来て兄(寅吉)を連れだし、 石城山に登っていた」 。

 石城山は練兵場となっており、この頃、寅吉は、常時400人近い兵と共に銃陣訓練 を重ねていた。時には近くの皇座山で鹿狩りや、乗馬、剣術、角力をとって鍛えていた。鹿島昇氏が新国民社から公刊した「裏切られた三人の天皇-明治維新の謎」の中で、「明治天皇が奇兵隊に属する力士隊士大室寅之祐であるとの説」を述べている。
【吉田松蔭が擁立していた大室虎助の動向】
 歴史は不思議で、この時代もう一人の大室虎助がいたようである。こちらの虎助は、萩に在住している南朝の満良親王の血を引くとされている大室弥兵衛の弟?・大室惣兵衛の息子の大室虎助であり、吉田松蔭は、(寅吉と庄吉は連れ子で、南朝大室家の血統ではないから)こちらの虎助を玉にしようとしていた。この虎助は京都の睦仁親王と同じ年であった。(ちなみに紛らわしすぎるので、寅吉の方の寅助は寅吉として確認していくことにする)

 1864(元治元).1月、将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も変節してこれに賛成する。中川宮邸において、慶喜は、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・ 伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体する。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守 衛総督を拝命。
 (この頃より、将軍家茂の暗殺が計画され始める。薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国 もこれに同意したと思われる)
 7.19日、蛤(はまぐり)御門の変 。
 睦仁親王 (当時13歳)は、「禁門の変」の際、砲声と女官達の悲鳴に驚き「失神」した、と伝えられている。
 
 「孝明天皇と中山慶子との間の子ども「本当の明治天皇」は流産した。 だから京都明治天皇も人攫いつかって誘拐してきた男児をすり替えて京都明治天皇とした。しかも虚弱体質で孝明天皇の子ではないから即位当初から御所内が大混乱になった。当面は中川宮朝彦と中山忠能らが御所の政治をしきった」。
 7.24日、第1次長州征伐(征長の役)。
 8.5日、四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。

3、「大室寅吉玉」の伏せこみ期
【大室寅吉が奇兵隊天皇として歴史に登場する】
 1865(慶応元).1月、数え年16歳の時、寅吉は、高杉晋作による功山寺挙兵に参戦。「錦の旗と南朝の首飾りをつけ、萩へマンジュウつくりにいってくる」(「マンジュウつくりに行く」とは「人の死体の山を築きに行く」と言う意味で平たく言えば「人切りしに行く」という意味)の言葉が伝えられている。その為かどうか、3歳下の次男庄吉は、別府村の高城家に預けられて別居することになった。
 5.10日、英国公使パークス、木戸・井上と会談。
【大室寅吉が伊藤博文らと共に長崎のフルベッキの下へ参集する】
 8月、大室寅吉は長ずるに及び、伊藤博文らと共に長崎のフルベッキの下へ行っている。
 1866(慶応2).1.12日、薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。この時、桂小五郎(=木戸孝允)は、「わが長州としては、南朝の御正系をおし立てて王政復古をしたいのだ」と西郷を口説き、これを聞いた西郷は、自身が南朝の大忠臣・菊池家の子孫だったこともあり、「ようごわす」と南朝革命に賛同し、薩長軍事同盟を締結、薩長が尊皇倒幕にまとまった、との説がある。
【大室寅吉の貴重写真】
 1月か2月頃、フルベッキ塾生全員で撮った記念写真が残されている。(寅吉が前列の左から7番目の白い服を着て映っている。中央のフルベッキ(外国人)の真下の左の白い服着た方である。フルベッキの真上のやや左が西郷隆盛云々。しかしながら眉唾であろう。問題は、少なくともこれだけの数のフルベッキ塾生会員がいたことが注目される。フルベッキ塾生会員とは要するにネオシオニズムのエージェントである)
 http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu/ishin.html
 6.7日、第2次長州征伐開始。慶永は しきりに反対するも、鹿島説では「慶喜はこの戦いで大室寅之祐(寅吉)に関する支配権を求めた」と記されている。

 6月、睦仁親王(14歳)が、皇太子妃として尊皇攘夷派の左大臣一条忠香の三女・勝子(まさこ、後に寿栄姫、18歳)と見合い成婚。一条寿栄姫は、皇太子妃として入内の後は美子(はるこ)と改名した。美子は、数奇な運命を辿ることになる。
 6.17日、英国公使パークスが島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。

 7.15日、「皇太子時代の明治天皇が長州へ御微行」と言う奇々怪々な史実」。これにつき、太田龍・氏が「2005.11.24日付№1503の時事評論」の中で明らかにしている。これを概略整理しておく。大正時代、井上正雄氏がまる十年の時間をかけて完成出版した 「大阪府全志」(全五巻、六千余頁)の第三巻で、豊川村の郡山本陣の項)で、「ここの御本陣、梶家の伝によれば」として次のように記されている。
 「慶應二年七月十五日明治天皇が皇太子でいらせられた時、長州へ御微行の御道すがら、芥川本陣に御宿泊あらせられんとしたが、山崎に合戦があったので俄かにここを立ち退いて郡山本陣に御移りあり、翌日駕籠で御出発あらせられたが、吉川監物以下三十名抜刀にて又坊主頭八名が薙刀(なぎなた)を携えて御守護申し上げたという。当時御下賜になった菊御紋章付の夏夜具は今に同家の宝物として残って居る」。

 太田氏は次のように指摘している。
 概要「これは、実に奇妙な説である。『明治天皇が皇太子・・・・・・』云々とある、この皇太子とは、もちろん、孝明天皇の皇太子睦仁親王でなければならない。『慶應二年七月十五日』とは、徳川十四代将軍家茂が大阪城で暗殺された七月二十日の直前である。そしてこの年の十二月二十五日には、孝明天皇が弑逆されて居る。当時、孝明天皇は、長州とはきわめて険悪な関係にあった。丁度その頃に、皇太子睦仁親王が、長州に、秘密のうちに旅行するなど、まったく辻褄が合わない。そんなことはあり得ない。しかし、『長州の大室寅之祐』と解釈すればこの伝説は、意味深重と成るであろう」。

 井上正雄氏の記述の正しさが問題となるが、井上正雄氏が明治末年から大正八年にかけて調査した時点では、郡山御本陣の梶家は現存し、そして江戸時代の宿帳がそっくり保存されて居たことで確かめられている(この宿帳が、今現在どう成って居るかは分からない)、とある。

【将軍家茂が急逝する】
 7.20日、将軍家茂が第二次長州征伐で大阪城に到着後、急逝している(享年21歳)。朝廷差向けの医師と称する者に毒殺された、とする説がある。大阪城中で死亡。8.20日、幕府ははじめて喪を発し、家茂の遺骸は船で9.6日江戸に運ばれ、9.23日に葬儀が行なわれ、芝の増上寺に葬られた。

 9.9日、京都の上賀茂神社では毎年9.9日に烏祭(からすまつり)と称して奉納相撲が行われるが、この年の奉納相撲の出場者の中に「大室寅介」とい う名前があるとのことである。

 大室庄吉(近祐氏の祖父)が奇兵隊所属の力士隊に大室寅介と言う名前で参加しており、明治維新後、奇兵隊の残党として1868年1月、下関宰判所に投獄されていた事が判明している(「萩東照宮文書」)。
【大室寅吉が吉田松陰の母に帝王学を学ぶ】
 10月末頃、それまで戸籍名大室寅吉(通名大室虎吉)はこのころ、松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育をうながすため俊輔が麻郷から「玉」を連れ出し萩の杉家(松蔭の実家)へ移す。松蔭の母・杉瀧子によるしつけ教育が始まる。
 10月、伊藤俊輔が寅吉を萩の杉家(松陰の実家)へ連れ出した後、庄吉が実家の大室家に戻る。
 この間、力士隊が護衛している。麻郷では寅吉が行方不明になったというので大騒ぎになっている。田布施町麻郷の村人が手分けして探した。(庄吉はこのとき上関宰判所へ呼び出され、大庄屋時政藤五郎の取調べを受け、小役人たちに拷問されたが、歯を食いしばってがんばりとおし、遂に行方を白状しなかったという)

【孝明天皇急逝する】
 12.25日、孝明天皇が堀河紀子邸において急逝している。岩倉が便所の箱番を買収し、伊藤博文に刺殺又は毒殺された、とする説がある。これについては、「孝明天皇暗殺考」で検証する。
【睦仁親王が践祚し、即位して明治天皇になる】
 1867(慶応3).1.9日、睦仁(むつひと)親王が践祚し、即位して明治天皇になる(16歳)。明治と改元された。通称、幼帝と云われた。後の絡みで仮に「京都明治天皇」とする。睦仁親王(京都明治天皇)は、先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承し、基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派)を表明する。

 即位当初の京都明治天皇の写真が遺されている( http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html)。これを見ると、明治維新後の東京明治天皇の写真( http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html)」と比べると明らかに人物が違って見える。
 「日本の歴史学講座」の「有馬範顕卿御一代記」 の「6・暗殺の頻繁化と孝明天皇の暗殺」によれば、睦仁親王に対抗する形で、有馬・中川宮派による公武合体派総帥である中川宮朝彦親王を即位させようとする動きがあったという。
 幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜 で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じ て仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわ たって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。

 4、孝明天皇急逝、睦仁親王が践祚し、明治天皇として即位、明治天皇急逝に至るまでの経緯
 この頃と思われるが、寅吉は、寅助から寅之祐と改名している。
 3月下旬、「玉」は田中光顕や力士隊に守られて萩から周防高森に移る。手紙がきて寅之祐が上洛するから大室弥兵衛が高森までおみまいにいったが寅之祐にあえず、麻郷へ帰ったという。それから「玉」は一時期通化寺の遊撃隊屯所に滞在していたが岩国新湊から英国船で品川弥二郎や中岡慎太郎とともに上京して4.13日、二本松の島津屋敷に入った。
 3月頃、大室寅之祐が萩から京都へ上洛する。
 6.16日、島津久光が、山県・鳥尾に対して、西郷を萩に行かせると約束する。
【大室寅之祐(寅吉)が西郷隆盛らと共に上洛】
 6月下旬、西郷隆盛が大室寅之祐と共に上洛している(鹿島説)。
 6.23日、大室寅之祐の教育係として鍋島直正が入京し、大室寅之祐を半年余教導している。

 6.24日、仏国公使ロッシュ、小笠原長行と 会談。6.25日、英国公使パークス、小笠原と会談。
【睦仁親王(京都明治天皇)が急逝する】
 7.8日、「中山忠能日記」によれば、「新帝は学問所で遊戯をして手に負傷した」、「慶子が武士を使って子どもほどもある仏像の包みを中山家に届けさせた」とある。

 これは、「睦仁親王(京都明治天皇)が手に軽傷を負い、伊良子光順らの侍医が膏薬を貼り、これが毒入りで急逝した」と解され(「匿名希望G氏のコメント)、「遺体はぐるぐる巻きに布に巻かれて、実家の中山家に送り返された」とも解されている(「明治維新の真相」)。これが真相なら、睦仁親王の明治天皇としての在位は、慶応3年1月から7月までの僅か7ヶ月であったことになる。

【大室寅之祐(寅吉)が睦仁親王(京都明治天皇)に成り代わる】
 7.19日、「中山日記」に、「寄(奇)兵隊の天皇」との記述がある。暗殺された睦仁親王(京都明治天皇)に代わり、大室寅之祐が天皇にすり代わった、とする説がある。これを仮に大室明治天皇(大室寅之祐)とする。「明治天皇紀」に「7月、中山慶子5ヶ日の宿下がり」とある。

 鹿島氏の「裏切られた三人の天皇 ── 明治維新の謎」は次のように記している。
 「南朝滅亡ののちに長州に潜んで南朝の光良親王の子孫と稱する大室 寅之佑が西郷に伴われて薩摩邸に入り、岩倉と中山忠能の助けを 借りて睦仁とすり代わってついに南朝の天皇家が復活した」。
 「中山や岩倉は天皇の遺体を洗い清めて食中毒という事にして睦仁に見せたから、睦仁も一応は納得して慶応3年1月9日に踐祚せんそした。先帝には同年2月16日、正式に孝明天皇の謚(おくりな)が贈られたが、 睦仁は宮中の慣習によって女装して女言葉を話すなど、16歳にしては体格も悪くて華奢な少年で、かって岩倉のオチゴさんであった孝明の血統を引く天皇であった」。

 次のような異説がある。
 概要「京都御所にいた睦仁(京都明治天皇)は京都御所から追放され、御所を脱出。その後、比叡山方面の某寺に入り僧として維新後も生き延びた。 鹿島昇が京都明治天皇は暗殺されたと書いているのは間違いで、京都明治天皇はこの時クーデター式に追放され、その後比叡山方面の某寺で僧として生き延びた。同日入れかわるようにして大室明治天皇が軍隊を引き連れ京都御所に入っ た」。

 5、大室寅助(寅吉)が睦仁親王(京都明治天皇)にすりかわるまでの経緯
【大室明治天皇が京都明治天皇にすりかわり倒幕の密勅を下す】
 10.13日、京都明治天皇にすりかわった大室明治天皇(大室寅之祐)が、薩長両藩に倒幕の密勅を下す。

 将軍慶喜、朝廷に対して大政奉還を上奏。

【大室明治天皇が長州に帰還する】
 10.17日、大室明治天皇(大室寅之祐)が身の危険を感じ、女装しつつ、芸者風に変装した女官たちを連れて京都を脱出。西郷らにまもられて英国船などに乗り、10月下旬、田布施町麻郷の大室家に帰ってくる。
 その中に、大室明治天皇(大室寅之祐)の皇后になったはずの一條勝子もいて、大室家に滞在中いつも大室明治天皇(大室寅之祐)の側にべったりであったという。(この時の一条勝子とこのころ京都の准后御殿に避難した後のほんものの一条勝子とは別人)  この勝子は寿栄姫ともいい、性慾も独占慾も強くて、大室明治天皇(大室寅之祐)の行く所へは何処までもついていった。しかし彼女には子ができなかった。そのためか、勝子は、側室に子供が生れると直ちにくの一忍者を使い、幼児の鼻口にぬれ紙を当て次々に殺していったという。

 大室明治天皇(大室寅之祐)の側室は、28人居たといわれ、その間に皇子、皇女は19人いたが多く は2才までの間に死亡している。 明治12年、天皇の子を身寵っ た(実は大隈重信の胤)権典侍柳原愛子は、勝子に知られることを恐れ て、病といつわって実家の柳原光愛邸に帰り、8.31日、無事男児を出産した。この皇子がのちに大正天皇になった嘉仁親王である。

【吉田松陰が擁立していた大室虎助が新撰組に殺害される】
 10.29日、京都明治天皇睦仁と同じ年にして吉田松陰が擁立していたもう一人の虎助がこの頃新撰組により殺された。新撰組の沖田総司らが長州の不良力士達を殺害する事件が起こり、この中に大室虎助(16歳)の名前があった。下鴨神社蔵の「神楽勧請録」の慶応3年の記録には、「大室虎助(16)(中略)等、 同年10月29日、新撰組ガ為二被害」とあり、新撰組側の記録にも「(慶応3年11月) 先日、長州の不逞力士5人を誅す、残党なお洛中に潜する無し」(「慶応洛中日記」 ・「会藩新兵余話」・「新撰組遺事」等)とある。この時殺されたのは、萩生まれの玉とは満良親王系の大室虎助のこと。庄吉も寅吉も繰り返しになるが田布施町麻郷生まれだから。

 ちなみに、吉田松蔭と寅助(寅吉)の接点はなく、吉田松蔭の死後1863年頃から寅吉が玉として浮上してきたようである。
 11月、倒幕出兵軍、海路進発。11月初旬には薩摩の軍船2隻が麻郷米出浜に着岸し兵800を率いて上陸してきた島津久光と、博多から 同乗してきた三条実美ほかの五卿も合流した。(麻郷に島津久光の薩摩屋敷跡あり)
 11.13日、藩主島津忠義が自ら率いる薩摩藩主力3千倒幕のため鹿児島から4隻の巨船にのって西宮へ。後上陸。
 11.15日、京都瓦町の近江屋で、坂本龍馬、中岡慎太郎が共にに暗殺される(「坂本竜馬、中岡慎太郎暗殺事件」)。この日はくしくも龍馬33歳の誕生日だった。11.17日、重傷を負っていた中岡慎太郎死亡。
 11.25日、長州藩は近代的装備の第一陣1200の兵を藩船7隻に分乗させて三田尻を発し、第二陣1千人の部隊は陸路西宮へ進軍した。 先の島津忠義軍と西宮で合流し大洲藩は勤皇藩として西宮の藩邸に長州薩摩軍を無血上陸させるなど貢献した。そして一同は鳥羽伏見 の戦いのため準備をした。

【大室明治天皇が、高松八幡宮で「王政復古の大号令」を発す】
 この時の、「王政復古の大号令」が京都御所で為されたとするのが通説である。次のように流布されている。

 
12.2日、西郷隆盛と大久保利通が、後藤象二郎に王政復古を12月8日とする旨伝える。12.7日、西郷と大久保、王政復古を12.9日に変更する。

 12.9日、西郷は公家らの動揺を押さえ、大久保と共に、朝廷を中心とした新政府を樹立するべく努力した。西郷が薩摩藩兵を指揮し、宮門を固めるなか、「王政復古の大号令」がようやく煥発され、公郷中の同志岩倉具視・中山忠能(明治天皇の外戚)らと結束して、倒幕計画をつづけることが声明された(「朝廷が王政復古の大号令を発し、小御所会議が開かれる」)。

 この時、1・幕府や摂政、関白制の廃止され、2・幼帝明治天皇を擁立して総裁・議定・参与の三職設置による国政運営が詠われた。かくて幕府に変わる新政府が発足し、ここに天皇中心の新政府が樹立された。次の時代への幕あけとなった。 

 異説は、次のように説く。
 12.9日、倒幕軍の進発予定が麻郷に届く。「玉」および奇兵隊一条勝子以下三条実美(さねとみ)ら五卿、島津久光、薩長同盟幹部一 同は打ちそろって、田布施町麻郷の井神(地家の隣)の高松八幡宮での事で「王政復古の大号令」を発している。
 午後、小御所会議が開かれる(通史にある京都御所での話ではない)。新調の錦旗を掲げる官軍(薩長諸 隊)の出陣式を行った。
 王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。その人数は500万人 と云われる。

 6、大室明治天皇が江戸城を新皇居として入城するまでの経緯
 12月下旬、大室明治天皇らは室津(上関町)から英国船など2隻に乗船し、薩摩の軍船2隻と合流し、おくれて京都をめざした。
 1.8日、徳川最後の将軍となる慶喜は、「インド、中国の怜にりこれ以上の内戦は英仏による日本植民地化にのみ利する」ことを見据えて「内戦の危機を憂い」、松平容保、松平定敬ら重役連と軍艦開陽丸にのり江戸に逃げ帰った。
 1868(慶応4).1.13日、鳥羽・伏見の闘いで、幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦い、討幕派が勝利する。
【大室明治天皇が、大阪湾に浮かぶ軍艦の上で成り行きを見守る】
 この時、薩長軍は「錦旗」を掲げている。この時、大室明治天皇(大室寅之祐)自ら閲兵したというのはウソで、戦いの最中大室明治天皇(大室寅之祐)は大阪湾に浮かぶ軍艦の上に立っていた。(護衛は第二奇兵隊)
【大室明治天皇が、大阪に初上陸】
 鳥羽・伏見の戦いで薩長軍勝利を見届け、大室明治天皇(大室寅之祐)が大阪に初上陸。(大阪に明治天皇上陸の記念碑あり) 一同は京都御所をめざす。
 1.10日から1.15日までの間、京都御所の人事の一新が行われた。この間の大室明治天皇(大室寅之祐)擁立の功労者に論功賞が与えられた。この一新が「明治維新」の語源となる。
 1.13日、太政官代を九条道孝公の邸に置く。
 1.15日、京都薩摩藩邸で待機していた大室明治天皇(大室寅之祐)が「明治天皇」として京都御所に向かい入れられる。三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰する。これにより、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位した。

 「明治天皇紀」に「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と記されているとのことである。「中山日記」にも「寄(奇)兵隊の天皇」とある。
 1.17日、国家機構として神祇、内国、外国、陸海軍、会計、刑法、制度の7科の職制を定め、太政官がこれらを一括統べることにした。2.3日、官制を8局とし、神祇官を諸官の最上に置いた。
 3.13日、高輪の薩摩屋敷において、西郷と勝が江戸開城に関する交渉を開始する。
 3.14日、新政府は政治方針として「五箇条の御誓文((ごかじょうのごせいもん)」を公布した。明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百官を集め、天地の神々に誓うという形式で維新の基本方針を明らかにした。
 3.17日(明治元.2.23日)、旧一橋家の床机衆と呼ばれた家臣が中心となって「彰義隊」を結成し、朝敵とされた徳川慶喜を守ろうした。徳川慶喜は謹慎していた上野寛永寺大慈院から水戸の弘道館に退去する。
 3.20日、朝廷、慶喜謹慎、江戸城明け渡しを受ける。3.21日、大室天皇、大阪へ行幸。7月、江戸を東京と改称し、東京遷都する。 
 4.1日、 アーネスト=サトウが「睦仁 (大室明治天皇)」に会う。「木戸日記」に「睦仁東本願寺にあり。誠に御強壮」と記されている。即位以降の明治天皇の伝記についてはドナルド=キーン氏の「明治天皇」上巻に詳しい。
 4.4日、東海道先鋒軍、江戸城に入る。閏4.8日、大室明治天皇、京へ還幸。
 4.11日、江戸決戦が予想されたが、勝海舟と西郷隆盛の談義により、「江戸城無血開城」となった。
 これに従わなかった幕府側残党は彰義隊を結成して東京上野の寛永寺に立てこもった。寛永寺は門跡寺院として、代々、皇族が座主を務めることになっており、公現法親王も伏見宮家の血筋を引く皇族の一員である。この時、京都明治天皇に対抗して輪王寺の宮(後の能久親王)が押し立てられた。

 輪王寺の宮は、元々江戸に住んでいた皇族で、1847(弘化4).4.1(旧暦2.16日)に伏見宮邦家親王の第9皇子として生まれ、1848(嘉永元)年、青蓮院(しょうれんいん)宮御相続。1858(安政5)年、輪王寺(りんのうじ)宮御相続。公現(こうげん)法親王と称せられていた。江戸決戦を控えて急遽、仙台青葉城に居を移し、上野寛永寺の門跡(もんぜき)となった。
 彰義隊は、「孝明天皇を殺して擁立した『成り代わり偽者の睦仁親王→大室明治天皇』などに従えるか」と反発して、輪王寺の宮(公現法親王)を擁立し東武天皇として押し立てた。輪王寺宮はその後、上野を逃れ仙台に入り、奥羽越列藩同盟の盟主となる。
 ちなみにこの頃の、宮家は次のように相関している。尾張家の「玉」は桂宮家分家の広幡氏。水戸藩の「玉」は有栖川宮。長州藩の「玉」は山階宮。島津藩の「玉」は中川宮。紀州藩の「玉」は北朝では伏見宮家。南朝では浅利氏。徳川幕府の「玉」は日光宮こと東武皇帝。
 西郷隆盛は、無血開城を推進した経緯もあって、彰義隊についてもなんとか穏便に解決したいと考えており、勝海舟を通じて彰義隊の解散を呼びかけたが、うまくいかなかった。事態を憂慮した新政府は、軍防事務局判事大村益二郎を江戸に派遣して、軍事的な打開を図ろうとする。
 7.3(5.14)日、大村益次郎は東征大総督の名において彰義隊討伐の布告を出し、7.4(5.15)日、ついに上野戦争が始まった。
 徳川幕府の不服従派は抵抗したが結果的に敗北する。東北決戦に於ける会津降伏の際に、「成り代わり偽者の睦仁親王→京都明治天皇」と輪王寺の宮が講和を結び、1・睦仁親王が明治天皇になること、2・輪王寺の宮が還俗して北白川能久親王となることで生命及び身分が保障される、との条件で和睦した。「能久親王」については「靖国神社の御祭神、御神体について」で考察する。
 4.21日、東征大総督府、江戸入城。閏4・27日、新政府が政体書を発表。3職7科8局制を改め、太政官制度三権分立を定める。5.15日、太政官札5種が発行される。7.28日、天皇・皇后、京都を出発。
 7.30日、大室明治天皇が、江戸城を皇居として入座する。この時、京都で仕えていた女官は全員解雇された。口封じの意味があったと推測される。京都から江戸(東京)へ遷都(せんと)する。各藩の選り抜きの藩士が抱えられ、東久世通禧が侍従長に、高島鞆之助・有地品之允・山岡鉄舟・米田虎雄らが侍従となった。側近が女性から男性に変更されたことにより、天皇教育は旧来の文学的なものから兵学・戦争・武術的なものへと転換していくことになった。
 8.27日、明治天皇の即位の礼が執り行われる。
 9.8日、年号を明治と改める。一世一元の制度がここに確立される。

 7、その後の明治天皇
 1912(明治45).7月、明治天皇崩御。

 8、「明治天皇すりかえ」余波
 明治20年、柳原愛子が、立派な駕籠に乗り、お供を数百人も引連れ美々 し く行列を組んで「地家作蔵」の実家がある田布施に入り、位牌を持ち去っている。愛子は大室庄吉を呼び出して石城山へ登る道案内をさせた。
 或る説によれば、 明治二十年、大正天皇の生母、柳原愛子の一行が田布施に入ったとき、「地家作蔵の位牌」を持ち去った、とのことである。これが、事実であるとすれば、これは、地家作蔵が、大室(地家)寅之祐=明治天皇の実の父親である、ことを承知して居た人々による行動である、ことを証明するのではないか。

 
この帰り道で、女官の一人が大室天皇の秘密をつげぐちして漏らした事に愛子が激怒。刀で某女官を斬り殺した、と伝えられている。京都の 興正寺に立ち寄り、スヘの位牌も柳原愛子が東京に持ち帰ったが戦災で焼 失。こちらは位牌は無いが過去帳に記載有り。
 「20-2.なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのか? (2002.5.9)は次のように記している。
 満州は哈爾浜(ハルピン)駅頭で伊藤博文を暗殺した安重根(アン=ジュングン)の暗殺理由は、一般に日本の朝鮮侵略に対する抵抗であり、伊藤が「韓国統監」だったから・・・とされていますが、安重根は何と法廷で爆弾発言をしたと言われています。すなわち、「伊藤は畏れ多くも(本来の明治)天皇を暗殺した大罪人・・・」だったとか何とか。「天皇暗殺」と言う事件について、案外、当時の国民は薄々と言うか何となくと言うか、様々な風聞で勘付いていたのかも知れません。ただ、『大日本帝國憲法』(明治憲法)における第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラスと言う条項から、敢えて追求しなかったのかも知れません。そうでもなければ、朝鮮人の安重根までが知っていた理由がつきませんから・・・。
 南朝の長慶天皇の後胤を名乗る「神風串呂講究会」主催の三浦芳聖が、宮内庁を訪れ、顧問官の山口鋭之助に「自分は真の天皇資格者で、北朝の天皇は偽者」と訴え、皇位を要求した。この時、田中光顕を紹介された。その時田中は、三浦に対し「明治天皇も実は南朝の正統である。後醍醐天皇の第11皇子満良親王の子孫で長州毛利家がかくまってきた」と述べた。これにより三浦は皇位を要求せず、天皇家の擁護にまわった、と伝えられている。「三浦天皇事件の田中証言」は、田中が三浦の皇位要求を破棄させるために使った狂言ともかんがえられるが真相は藪の中である。
 明治43年頃、南朝、北朝正当論議が学問の場で盛んになった。その論議に、外ならぬ明治天皇が「南朝が正当の王朝である」と幕を下ろした。しかし、これは解せ無い事である。北朝の孝明天皇の子であるなら、当然明治天皇も北朝である。「南朝が正当の王朝である」の断は、自らを否定することである。「すりかわり説」ならいとも簡単に説明がつく。
 田布施町麻郷の大室近祐氏(平成八年田布施町 麻郷で永眠)は次のように 語った。
 「祖父は明治天皇によく似ていた。わしの家は 南朝の末裔で、明治維新の時、七郷がしばらく滞在していた。祖父の兄寅之祐は、 後京都に行って明治天皇になった」。

 9、大室家子孫の驚くべき証言
 次のような証言が為されている。
 1983(昭和58)年、東京から数人のお供を連れた某宮様(高松宮か)が 大室家にやってきた。この人は髭をはやした立派な紳士であったが、近祐翁と懇談 しているうちに次のような打明け話をしたという。
 「今上陛下(昭和天皇・裕仁)の子とされている明仁親王(1933年生)は、実は陛下のお子ではない。明仁親王が五、六才のころ血液検査をして調べ たところ、天皇裕仁の子ではないという ことが判明した。おそらく崇仁親王(三笠宮)のお子であろう。もう一人の正仁親王はどうも徳川の血統のようだ。だから、陛下はご自分が死ぬるまで譲位はしないご意志である」。

 その時、たまたま近祐翁の次男明美(いま改名して弘樹 ・1948生)の長男貴雄 (当時幼稚園児)が庭先で活発に遊んでいるのを、横目 でじ-と見ていた宮様は、 突然、 「この児を天皇家に養子に貰えないだろうか」と言いだした。  

 近祐翁が、「どうしてか」と聞くと、平身低頭しながら次のように説明した。
 「明仁は生来愚鈍でわやだから見ちゃあおれん、宮中でもどうにかしてくれという意見が多くてこまっているのだ。この児 (貴雄)のような良い子を連れて帰れば、陛下もさぞかしお喜びになるだろう。私が責任をもって継嗣にするから、是非東京に連れて帰らせてくれ。実は このようなこともあろうとかと、陛下の内諾も得て来ているのだ。是非是非頼む」 。

 なるほど、その頃の貴雄ははた目にもとても綺麗で利溌な良い子であったから、宮様が慾しがったのも無理はない。また明治天皇(大室寅之祐)の弟・大室庄吉の玄孫を天皇家に入れても血統上おかしくはない。筋の通った話で ある。 そこで近祐翁は、別室に家族一同を集めて慎重に協議した。みんなでいろいろ話し合った末に、「天皇家に入ると家族団らんの楽しい生活は期待出来なくなる だろうし、 毎度の食事も一々検査せねばならないような恐ろしい所へ、可愛いい孫 をやる訳に はいかん」 という結論になって、この話を断わることにした。

 だが、この話を断わるについて、大室家の人々には次のようなつらい思い出が あったのである。近祐翁には三人の弟と三人の妹がいたが、そのうち将来を期待 された二人の弟と 一人の妹が、天皇家のために戦争の犠牲になつている。それも単なる戦死ではなく て、明らかに意図的に殺されたとしか思えないような死に方であった。

(私論.私見) 地家作蔵の三男・地家朝平の子孫考
 地家作蔵に引き取られた三男の地家朝平の子孫について考証しておく。山口県田布施町に現存して居り、地家朝平-勘助と続く。その四男の武雄、その長男の基宏、その長男の康雄へと至り、康雄氏は現在「明治維新とは後南朝麻郷革命」説を積極的に唱え、明治天皇すり替え説を主張していることで知られている。以上簡単ながら触れておき、後日更に検証することにする。

 2007.1.31日 れんだいこ拝

【京都明治天皇と東京明治天皇の比較表】
 京都明治天皇と東京明治天皇の比較表が作成されている。これをれんだいこ風に整理し直す。
項目  即位前(睦仁親王時代)  即位後(明治天皇時代)
写真  どちらも僅かで、京都明治天皇の場合には即位の際の写真が1枚のみ現存する。東京明治天皇も写真を撮られる事を好まず、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。
顔面「あばた」  無し。幼少の折に種痘を受け、疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。  有り。あばたを隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。
 大室寅之祐は、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹り、その結果、口の周りに「あばた」が残っていたた。明治天皇を大室寅之祐と考えれば符合する。
体型  細身。  体重24貫(約90Kg)の巨漢。
気性、性格  ひ弱。幼少より「虚弱体質」で、御所の女官達の中での温室育ちで、元治元年(1864)年7月の「禁門の変」の際には、砲声と女官達の悲鳴に驚き「失神」した(当時13才)。  威風堂々。体格と恰幅が良かった。
運動能力  不得手。16才になっても、宮中で女官と一緒を「遊戯」を好んだ。即位前の睦仁親王に、「乗馬」の記録は残っていない。つまり、馬には乗れなかったと推測される。  得手。側近の者と相撲をとって相手を投げ飛ばしたと云う。鳥羽伏見の戦の際、馬上豊かに閲兵した。維新後も、馬上から近衛兵を閲兵し、自ら大声で号令した。
利き腕  右利き。躾(しつけ)が厳しく、左利きになる訳が無かった。  左利き。左利きになったのは、
 大室寅之祐は、左利きであった。となった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えばであった。
筆裁き  下手。16才になっても「金釘流」つまり「下手」であった。  達筆。
学問  ?  熱心。教養豊かであった。
異性関係  ?  艶福家。
政務  ?  熱心。
政策  先帝・孝明天皇の政策を継承し、「佐幕攘夷」の公武合体路線を敷いた。  先帝・孝明天皇の政策を転換し、倒幕路線を敷いた。
政治能力  京都明治天皇の生母・中山慶子自身が、父である忠能に宛てた手紙が残っている。
 「何分にも世は末に及び、御所中悪魔えいまんにて恐れ入り候。当今様おん事(睦仁天皇)じつにお案じ申し上げ、悲観のほかこれなく候。とかく格別明君にあらせられず候わでは内外とても治まり申さず・・・かかるご時節に当今様の御代にならせられ候おんことなんと申し上げておんよろしく候や。ただただ神慮にかなわせられ、ご強運強く、神明のご加護にて早々内外の悪魔を遠ざけられ候よう、祈り入り祈り入り上げ候。なかなか紙上に尽くしがたき事ども日々御座候いて、浅間しきごようす、嘆き入り、嘆き入り参らせ候」。

 これによれば、孝明天皇ほどの明君ではないことを心配している様子が分かる。東京明治天皇の旺盛な事績は衆知の通りであるので割愛するが、明らかに差が見て取れよう。

【「昭憲皇太后」考】
 「明治天皇すりかえ説」は、明治天皇の正妻であった一条美子(はるこ)が「昭憲皇太后」と云われていたことでも補強されている。

 「皇統譜」(皇室系図)がこれを証している。次のように記している。この辺りの事情について、明治神宮公式サイト内の「なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのですか?」(URL:http://www.meijijingu.or.jp/intro/qa/31.htm)を参照の事、とある。これをれんだいこ風に咀嚼して整理し直すと次のようになる。

 明治天皇の正后は、一条美子(はるこ)である。その履歴は次の通りである。

 1850(嘉永3).4.17日(新暦5.28日)、一条忠香(ただか)の三女として誕生した。はじめ勝子(まさこ)、富貴君(ふきぎみ)、寿栄君(すえぎみ)などと呼ばれ、入内(じゅだい)後、美子(はるこ)と称された。明治元.12.28日、御入内まもなく皇后の宣下(せんげ)があり明治天皇の后となった。明治45.7.30日、明治天皇崩御。大正天皇が践祚(せんそ)する。大正3.4.11日、崩御。同年5.9日、宮内省告示第九号により「昭憲皇太后」の追号が出された。大正4.5.1日、内務省告示第30号により明治神宮の祭神として「明治天皇・昭憲皇太后」の祭神名が発表された。時の宮内大臣は、追号を皇后に改めないまま「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可となった。

 しかし、明治天皇の正后を「昭憲皇太后」とするのはスジが通らない。「皇太后」は、「天皇の母」や「先帝の后妃」に付けられる尊称である。天皇の后妃であれば、「皇后」と付けられるべきである。明治天皇の「皇太后」に当るのは、先帝皇后即ち孝明天皇の皇后である英照皇太后である。美子皇后を「(昭憲)皇太后」と称す事はオカシイ。

 もしも、崩御時の位で尊号の呼称が「皇后」であったり、「皇太后」であったりと変化するのであれば、例えば、天皇についても、在位中に崩御すれば「天皇」、譲位後に崩御すれば、「太上天皇」(上皇)と謚号(おくりな)が変化しても良い筈であるが、現実にはその様な事例は只の一度もない。
 
 どう考えてみても「明治天皇・昭憲皇后」とすべきなのに、何故「明治天皇・昭憲皇太后」とされたのか。その理由はナヘンにあるか。なぜ、明治天皇と昭憲皇太后の間に子供が出来なかったのか? 昭憲皇太后が子供を産めない体だったというのは表向きの理由に過ぎないのではないのか。そういう疑問が湧く。

 実は、昭憲皇太后は暗殺された睦仁親王の正后であり、睦仁親王とすりかわった明治天皇(大室寅之祐)は、天皇の地位はすり替えても睦仁親王の正后の地位は変えられなかった。貞節観念から睦仁親王の正后・昭憲皇太后を娶ることまではできなかったのではないのか。「すりかわり」を隠蔽する為に睦仁親王の正妻を昭憲皇太后として待遇せざるを得なかったのではないのか。そう読み取るべきではないのか。

 表向きは、明治天皇の皇統図は次のように表記されている。
     正妻・昭憲皇太后
       ┃
 孝明天皇─明治天皇
       ┠──大正天皇
     典侍・柳原愛子

 実際には次の図式であったのではないのか。

 孝明天皇─睦仁親王(本来の明治天皇)
            ┃   
        昭憲皇太后


 明治天皇(大室寅之祐)
       ┠────────大正天皇
     柳原愛子

 こう考える事で、「明治天皇の正后のご追号が皇太后」の謎が解けるのではないのか。「明治天皇」にとって、「睦仁親王」は孝明天皇より皇位を継承した「先帝」であり、その先帝の妻だったからこそ「皇太后」扱いとしていたのではないのか。つまり、明治天皇は、一条美子(はるこ)を「昭憲皇太后」として地位を保証した上で、側室として柳原愛子(なるこ)を娶った。実は、柳原愛子こそが、明治天皇にとっての本来の「皇后」だったのではないのか。後に大正天皇が生まれるが、典侍だった柳原愛(なるこ)子こそが生母であったのではないのか。明治新政府は、「明治天皇すり替え」を隠蔽し続けた為、「明治天皇の正后のご追号が皇太后」とする以外に解決しようがないというネジレが生じていたのではないのか。

 全ては、明治新政府が「すり替え式王朝交替」を秘匿した事に原因が有るのではないのか。「王朝交替」を秘匿した理由は、岩倉ー伊藤派による孝明天皇・睦仁親王父子「暗殺」と、明治天皇「すり替え」と云う裏技が暴露されるからである。これを怖れて秘匿し続けられたのではないのか。してみれば、日本最大の動乱となった戊辰戦争は、南朝の末裔として登場してきた大室寅之祐と北朝の末裔・睦仁親王との抗争を背中合わせにしており、「南北朝争乱の再現」だっということにもなる。
 これにつき、「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう何度も伺いが出されているとのことである。しかし、その結果はどうなったか。

 御鎮座寸前の大正9.8.9日、明治神宮奉賛会会長・徳川家達(いえさと)は、宮内大臣宛へ「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう建議を提出している。しかし諸事の理由から御祭神名を改めることは出来なかった。その理由として、1・天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。2・すでに御神体に御祭神名がしるされていて、御鎮座の日までに新しく造り直すことが無理、という二点の理由が挙げられていた。

 しかし、「宮内大臣の間違い上奏による天皇の御裁可論」は不自然すぎよう。仮に、御裁可した大正天皇が、父である先帝(明治天皇)の即位に関わる一件を熟知しており、実母である柳原愛子典侍こそ本当の「皇后」であり、昭憲皇太后は先々代(暗殺された睦仁親王)の皇后である故に「皇太后」とご追号したとするなら、不自然さが無くなる。むしろ、「苦肉の正式な御裁可」だったということになる。

 かくて、大正9.8.9日、「昭憲皇太后」名で明治神宮へ御鎮座された。これにつき、御鎮座当時首相であった原敬は、大正9.10.13日付「原敬日記」の中で、次のように記している。

 「他日、何かの機会及び形式において昭憲皇太后を神功皇后、檀林皇后などの前例によって、一般には昭憲皇后と称し奉りても違法ではないことの趣旨を明らかにしておくことが必要であろう」。

 昭和38.12.10日、明治神宮は、明年(昭和39年)の昭憲皇太后50年祭にあたり、宮内庁へ再度「昭憲皇太后御追号御改定に関する懇願」を、崇敬会会長高橋龍太郎は「昭憲皇太后御追号御改定につき御願」を提出している。

 昭和42.12.26日、明治神宮は、明年(昭和43年)明治維新百年にあたり再度「御祭神の御称号訂正につき懇願」、崇敬会会長足立正より「御祭神の御称号訂正につき再度の御願」を提出している。しかし宮内庁の回答は改めないとのご返事だったとのことである。
【提供情報】
 大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について
 (情報提供者:匿名希望)。
 なぜ昭憲皇后ではなく、昭憲皇太后なのか? (明治神宮公式サイトより転載)。
 「明治天皇」は暗殺されていた!!(追補・訂正)】
 続・大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について -「萩」へマンジュウつくりに行ってくる- 
 (情報提供者:匿名希望) 
 http://map.yahoo.co.jp/pl?nl=33.55.47.426&el=132.3.10.064&sc=4&la=0&CE.x=128&CE.y=304

【元宮内大臣田中光顕証言】
 次のような「元宮内大臣田中光顕証言」が、「元宮内大臣田中光顕氏、明治天皇陛下すり替え告白(三浦芳堅著『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』から)」にサイトアップされている。これを転載しておく。
 「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』と前置きされて、

 『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。

 吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。

 薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、“我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ”と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。

 明治天皇には明治維新になると同時に、『後醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を建立してお祀りせよ』と仰せになり、遠州の井伊谷宮の如きは、明治二年本宮を造営せられ、同五年に御鎮座あらせられ、同六年には官幣中社に列せられた。而して御聖徳に依り、着々として明治新政は進展し、日清、日露の両役にも世界各国が夢想だにもしなかった大勝を博し、日本国民は挙って欽定憲法の通り、即ち明治天皇の御皇孫が永遠に萬世一系の天皇として此の大日本帝国を統治遊ばされると大確信するに至り、然も明治44年南北正閏論が沸騰して桂内閣が倒れるに至った時に於ても、明治天皇は自ら南朝が正統である事を御聖断あらせられ、往来の歴史を訂正されたのである云々』。

 と王政復古明治維新の真相を語り、尚此の外に、岩倉具視卿の活躍や、三條以下七卿落ちの真相や、中山忠光卿の長州落ち等々、詳細に渉ってお話し下さいました」。
 
 これによれば、田中光顕伯爵は、「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。睦仁親王は孝明天皇崩御と同時にただちに即位したとなっているが、じつは、その睦仁親王は暗殺され、これにすり替わった明治天皇は、後醍醐天皇第11番目の息子、満良親王の御王孫で大室寅之祐である」と証言していることになる。明治天皇の血脈を自認している中丸薫・氏はこれを追認している(http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html)とのことである。 

 「元宮内大臣田中光顕氏、明治天皇陛下すり替え告白」管理人は次のようなコメントを付けている。
 大いなる間違いである。日清・日露戦争の場合は、日本が植民地される瀬戸際の問題であるから、その問題を解決される事が先決であるし、清の政治も腐敗があったから、ある意味では、制裁の意味もある。それと明治天皇の正統性とは全く関係がない。皇族一族の正統性は、陽成天皇陛下一族である。日露戦争の場合は、負の遺産を預かった事も忘れてはならない。全体的にいえる事は、明治政府は基本的に孝明天皇陛下が討伐せよと云っている英国との協力を仰いだ。その中で特に阿片戦争の関係者やフリーメーソンとの繋がりを強め、栄誉を与えている。要するに悪人を善人に仕立てた意味では最悪である。そして、そのお金によって、ロシアと中国は、共産主義革命が起き、最大の人的被害を起こした。その意味での共犯者である事を忘れてはならない。勿論日本共産党も同罪であるが。

 現日本政府(2003年時)でも、北朝鮮問題等に問題あった外交官は昇進させたり、栄誉を与えたりして問題を起こしている事を忘れてはならない。外国に売った本来刑務所に入るべき人物や政府高官が栄誉を与えたり、高官のままにいる事が問題である。何よりも国際連合の地下に核爆弾を置いた犯人グループやその手下の共産主義者グループに繋がりを持とうとして戦争や革命を考えている集団を調べようとしない政府の態度はいかがだろうか!愛。

 次の一文を転載する。
 225 名前: richardkoshimizu 投稿日: 2005/09/20(火) 07:12:50 [ 3X0Fjmpk ] 

  第三章 田中光顕(たなかみつあき))、明治天皇すりかえを告白――南朝の末裔・大室寅之祐を天皇にした

 田中光顕(たなか・みつあき) (1843~1939)

 幕末の天保14年に土佐国高岡郡佐川村の郷士の家に生まれる。青年時代高知に出て武市瑞山に学び、土佐勤王党に加わるが弾圧にあい脱藩して長州へ。中岡慎太郎らとともに薩長連合の成立に尽力し、幕府の第二次長州征伐では幕府軍と戦った。中岡が陸援隊を創ったときに幹部として参加し、中岡の死後は陸援隊を統率した。鳥羽伏見の戦いでは錦旗を下賜され、紀州や大阪を牽制する役割を果たした。維新後は新政府に出仕し、兵庫県権判事などを経た後、理事官として岩倉使節団に加わり欧米諸国を視察。帰国後陸軍省に入り、明治14年に陸軍少将になる。その後、元老院議官に任じられ伊藤博文、山県有朋らの知遇を受けた。20年に子爵授与。貴族院議員、宮内次官、宮内省図書頭を経て、31年第三次伊藤内閣で宮内大臣に就任。以後11年間にわたり宮内大臣として明治天皇の側近に仕え宮廷政治家として大きな勢力を確立した。40年に伯爵位を授与され、42年宮内大臣を辞任して引退。晩年は多摩聖蹟記念館(東京都多摩市)、青山文庫(高知県佐川町)、常陽明治記念館(茨城県大洗町)の設立に尽力し、長年収集した維新の志士の遺筆、遺品を寄贈して一般に公開し、維新烈士の顕彰に余生を捧げた。法政大学図書館には伊藤博文や山県有朋の田中宛書簡四百数十通を中心とする『田中光顕文書』が保存されている。著書に「維新風雲回顧録」など。昭和14年、97歳で死去。

 p154~

 明治天皇は孝明天皇の子か?

 将軍家茂と宏茂と孝明天皇を暗殺しても、次の天皇が親徳川または佐幕論者だったならば暗殺は徒労に終わるであろう。「所期の目的」はとげられなかったことになる。「所期の目的」とは次の人を白分たちのパペット(操り人形)にして討幕を実行するということであるが、陸仁が父孝明天皇の遺志を守って長州征伐と公武合体を主張すれば、岩倉たちの計画は画餅に帰してしまう。孝明人皇を殺したのち、果して睦仁はパペツトたるに甘んじて討幕に協力するだろうか。あるいは断固として反対するであろうか。この前後、睦仁の真意は、不明であった。修史官は慎重に努火をかくしたのであろうが、ついにその真意を語る自筆の文書が出現した。

 蜷川は次のように述べている(前掲)。.

 後年、三條家の倉を整理した際、三重の桐の箱が発見されて開いてみたところ、明治天皇の一六歳の時の下手な文字で書いてある文書が出てきた。それには、「徳川の功労を減しないように始末をしろ」ということを三條に命じている。討幕(の密勅)とはまったく正反対である。維新史料編纂の総裁金子堅太郎が事の意外に驚いて、それを自ら小石川第六天の徳川の家に持ってゆき、「これが早く見つかったら、慶喜さんも定めしお喜びになったことでしたろう」といったそうである。此の事は、徳川家の家扶の古沢秀彌氏が私に詰った実話である。多年に亙って、それほど真相は隠されていたのである。

 睦仁にこんなことを命令されたのでは、岩倉が義妹の紀子を暗殺させてまで計画してきた、倒幕による天皇ロボット化という一大プロジェクトの成功は期し難い。しかし陸仁の徳川の功労を認めるという意志はその後の政治にはいささかも反映されず、かえって討幕の偽勅まで出されている。その偽勅と対立する睦仁の密書が三條家で極秘文書として三重に包装されていたという。三條家がこの密書をかくした理由は何であったか。また明治天皇は達筆であったのに、どうして一六歳のときは下手くそな文字だったのか。

 いずれにしろ、岩倉と薩長にとってはこのような新帝の存在が邪魔にならないはずはない。思うに、この時睦仁が一六歳にして「徳川の功労を減しないように始末をしろ」と三條に命じたことは、周辺を長州サイドの列参の公卿にかためられた状況のもとでは、いわば自分の死刑執行命令にサインしたと同じではなかったか。しょせん家茂を失った孝明天皇と同じく、裸の王様であった。いったい、こういう暗殺ゲームは一度やって成功すると、あとあとブレーキがかげられなくて、何回もつづけるのは、オウム事件や三浦事件などでも見かけられたことである。

 しからば長州征伐の二人の主役、将軍家茂と孝明天皇の暗殺に成功した岩倉たちは、自分たちのロボットになる天皇を擁立するという「所期の目的」を達せざる限り、決して暗殺ゲームをやめないであろう。犯人たちは将軍家茂と孝明天皇、さらに岩倉の義妹までも暗殺していたから、邪魔になったら、睦陸の暗殺、すりかえといえどもいささかも躊躇はすまい。孝明天阜暗殺の時使った、万能の魔法の杖、すなわち悪名高い長州忍者をここでもう一度使うだけであろう。

 暗殺やすりかえは忍者の十八番であった。舞台の幕は開いてしまった。かたずを呑んだ観衆の前では、毒を喰わば皿までという岩倉の決意のもとで、手当たり次第「殺せ、殺せ」と大合唱が歌われていたのである。こんなことになったらオウム教団と同じことで、何人といえども、連続する殺人ゲームにブレーキをかけられないであろう。岩倉、伊藤らを止常な人間と考えるのは誤りで、麻原なみの犯人だったのである。

 かくして、暗殺グループはここで「最後の仕上げ」の暗殺に着手したのであろう。「最後の仕上げ」……それは新帝を暗殺して、自分たちの意のままになることが確実である長州の大室寅之祐を、睦仁の替え玉にしたてるという、まさに忍法変身の術ともいうべき史上例を見ない悪魔的、オウム的なプランであった。これは余りにマンガ的な発想だったから、かえって成功すれば成功するであろう。岩倉にしても、睦仁を暗殺しておかなげれば、いくら何でも偽勅など…せるはずはなかったのである。

 ことのはじめに、朝廷の医者に忍者宗伝の毒薬を使わせて将軍家茂の毒殺に成功した犯人たちの殺人シンジケートは、一貫した決意のもとに、次に長州忍者の伊藤を便所にひそませて孝明天皇を刺殺し、さらにそれを手引きした堀河紀子をも薩摩浪人に殺させたのであった。

 家茂は医者によって毒殺され、孝明天皇は女官の手引きで伊藤に刺殺されたとなると、この賠殺シンジケートが毒殺や替え玉作りなど珍案、妙案を考え出す長州忍者をはじめとして、実に多才な殺し屋ども、多くの共犯者たちを抱えていたことがわかるのだが、しかし孝明天皇の刺殺を手引きして多くを知りすぎた堀河紀子をも口止めのために斬り殺したというのでは、そのあともはや女官たちの協力はえられまい。そのために、組織は睦仁親王暗殺という第三の暗殺計画を実行するに当っては、女官たちの協力を求めず、さきにまんまと家茂暗殺に成功して金品を与えておいた医考を使う、しかも家茂の時とは別の方法でやることにしたのではないか。

 このことと関連があるのか、明治天皇は西郷の乱の時病気になっても侍医たちの診察を受けようとしなかった。笹原英彦は「明治一〇年四月に天皇が病気になったとき、(診療が必要だとする)再二、の侍医らの言上を無視したため、侍補の佐々木高行は直諫すること三時問に及んだ。その間佐々木は天皇と言い争い、逆燐に触れ、叱責を受けながらも容易に屈しなかった。強情な天皇もようやく根負けして、翌日侍医の診療を許すことになった」と述べている(『天皇親政』)。

 天皇は自分がすりかわった睦仁が結局侍医によって毒殺された事情を承知していたから、西郷の反乱という未曽有の難局に、同じようなことが行なわれると恐れたのではないか。

 ここではじめに戻って、もう一度考え直してみよう。『記紀』『三国史記』『遺事』などを、「官撰であるが故に正しい」とする服部や吉田などの大前提は、視点さえ変えれば、かえって「官撰である故に正しくない」とすべきものであったが、実は官撰の『孝明天皇紀』と『明治天皇紀』のイカサマは、孝明天皇の暗殺かくしだけでなく、実は、それにつづくもう一つの暗殺事件をかくすためだった、とすら考えられるのである。このことにふれる前に、「もし岩倉らが孝明天皇を暗殺したならば、どうして岩倉、中川、三條らがその息子の睦仁に仇討ちされないという確信をもって、明治天皇を擁立したか。また天皇が、なぜ父の仇である岩倉、伊藤らに国政を委託したか」ということを考えてみよう。

 前三五八年のアケメネス・ペルシァであるが、父王アルタクセルクスの暗殺者によって擁立された王子アルタクセルクス三世は、隠忍自重したのち、自ら実力をつけて、ついに自分を擁立した父の仇を処刑したという実例がある。こうしなければとても王様とはいえないであろう。多くの学者たちに英明といわれ、のちに「大帝」とまで書かれた明治天皇がまこと孝明天皇の実子ならば、父を殺した犯人の岩倉が病死せんとする時、再三自ら見舞いに行ったり、また日清戦争の戦勝ののちに神格化された天皇が、岩倉の共犯者であった伊藤などを重用したのは理解に苦しむではないか。いったい親殺しの犯人に国政を預けた不幸者の明治天皇が『教育勅語』の中で、「なん辞臣民親に孝に」などといったのはどういうことか。

 こう考えると、論理上は、(1)、明治天皇は親の仇を討ちたくても討てなかった、(2)、実は孝明天皇の子ではない、という解釈が生まれるであろう。ある研究家は、(3)、明治天皇は暗殺の事実を知らなかった、と説明しているが、篶時天皇の周辺で相当広く暗殺説がささやかれていたことは、さきの谷信と説明しているが、当時天皇家の周辺で相当広く暗殺説がささやかれていたことは、さきの谷信一の文章からもわかる。千種(ちぐさ))有文から岩倉具視にあてた手紙の中には、「新帝(睦仁親工)には、毎夜毎夜お人枕辺へ何か来たり、お責め申し侯につき、お悩み申すことにて、昨日申し上げ候とおりご祈禱せられ候とか、実説の由に候」とある。だから、(3)の説はとうてい無理なのである。こじつけというべきであろう。

 天皇が万一、先帝殺害の事実を知らなかったにしても、公卿の中には、中川官以下多くの反岩倉派がいて、のちに彼らが明治天皇に近づくこともできたはずだし、また、三〇人もいたという天皇の妾の口を全部ふさぐことは不可能に近く、岩倉や伊藤にとって、確実にタレコミを防ぐ手段はなかったはずである。いったい、密告しようとする本能には生死をかけるほど強烈なものがあるのだ。また(1)については、即位直後の明治天皇ではできなくても、日清戦争で勝って権力が確立したあとならば可能のはずだという反論がある。すると、思いもかけない仮説であった(2)が浮上することになる。

 加茂喜三は次のように述べる(『富上"隠れ"南朝史』)。
 明治天皇は孝明天皇の実子か

 駿河大納言忠長卿の自刃、慶安騒動に告ぐ酒井大老の失脚、さらには水戸光圀の死去と続いて、「隠れ南朝」の「政復片への夢は最早風前の灯となっていたが、酒井大老の打ち出した将軍に親王をお迎えする「公武合体」の構想は閉治維新になって再び息を吹き返す。「公武合体」というのは明治維新のとき生まれた単語のように思われているが、実はかくの如く、五代将車のころ既に、その萠芽を見ることが、出来るのである。こうした経緯をさらに一歩掘り下げてゆくと、明治維新の勤皇と佐幕は、南北朝争いの宮方(南朝)と武家(北朝)の関係の延長であることがわかる。また明治維新の「大政奉還」は南北朝の争いの「王政復古」であったことも知ることが出来る。ということは、火に南北朝の争いはまだ明治維新あたりまで続いていたということになる。そしてこの思想は何と反体制派から生れたのではなく、実に幕府の内部(特に「隠れ南朝」の末裔熊沢家を庇護した水戸藩)から芽生えたものであった。

こう見てくると、「明治につくられた歴史」の矛盾を痛感することになるが、もともと江戸幕府の本質というのは、北朝の如くに装ってはいたが、紛れもなく「隠れ南朝」であったのであり、土台にこの認識を欠くと全くわけがわからなくなってしまう-…ところが驚くなかれ、調べを進めてゆくと、もっとびっくりする話か飛び出してくる。曰く「明治天皇は南朝なり」というもの。

 誰しも、「まさか」というのである。当然である。そもそも、南北朝争いでは南南が敗北して北朝が勝ち、皇統は南朝が廃絶して北朝が継承し、戦国時代を経て、江戸時代にまで連綿としてこれを伝えてきたというのだから、孝明天皇を父とする明治天皇は当然北朝ということになる。しかしよく考えてみると、明治天皇を北朝とする歴史の矛盾は多く、数限りない。これに反して明治天皇を南朝とするならば、明治天皇及びその周辺の事情はすっきり辻褄を合わせてくれる。

 明治天皇が南朝であると記しているのは「神皇正統家極秘伝神風串呂」及び「皇統家系譜」を基礎に論述されたという『徹底的に〕木腱史の誤謬を糺す』(三浦芳堅著)である。同著によると明治の元勲田中光顕伯爵は三浦に、「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない」とはっきり言明したと記している。

 明治天皇は孝明天皇崩御のとき、表向きは孝明天皇の皇子(母は中山大納斤の娘中山慶 子)で、中山大納言邸で育てられていたということになっているが、みは後醍醐天皇の後裔で、後醍醐天皇のあとに五代に亘って続いた「隠れ南朝」正統の最後の天皇となった大宝天皇の弟の光良親王の後裔だったというのである。しかし真偽のほどはまだ(世人に)明らかでない。

 ここで加茂が紹介している「明治天皇はは実は光良親王の後裔だ」ということは、明言を避けているが、結局、睦仁と明治天皇とは別人であるとするもので、睦仁の賠殺、すりかえを意味するものである。

 三浦芳堅と田中光顕の対話

 加茂が引用する前掲『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は豊川市に住む三浦天皇こと三浦芳堅の著作である。この書は市版されたことを聞かないが、国会図書館の蔵書になっているから誰にでも読める。三浦ば例の熊澤天皇と同じように、南朝の子孫を自称して地.元では三浦天皇と呼ばれていた。その三浦が「明治天皇は孝明天皇の子ではない」ことを次のように記述している(前掲)。

 昭和四年の二月、私は思い切って極秘伝の『三浦皇統家系譜』及び記録を、埋蔵せる地下から掘り出していって、山□鋭之助先生に見ていただきました。先生はびっくりして、「私の一存では何ともお答え出来ないから、私の大先輩でかつては宮内大臣をなさった、明治維新の勤王の志士であった田中光顕伯爵がまだ御牛存中であるから、此の力にお尋ねして見よう」という事で、私は連れていって.頂きました。田中光顕伯爵は之を御覧になり、又私の神風串呂の説明を聞かれて、「これは我が国の一番正しい歴史だ!、確かに『太平記』をみても、『比叡山に於て後醍醐天皇が春宮に御位をお譲りになった』と書いてある。学者間に於ては、之は恒良親王に御位をお譲りになったといわれているか、あなたの所の記録を見れば、「尊良親王の第一白皇子守永親王が、後醍醐天皇の第七の宮として人統何となっていて、後醍醐天皇は守永親王に御位をお譲りになった」と書かれている。

 これが正しい歴史であろう。けれども、今理在は明治維新が断行されて、宇宙のあらん限り、絶対に千古不減の欽定憲法が御制定になった。だから過去の歴史は歴史として、現実は此の欽定憲法に依って大日本帝国の国体は永遠に確立せられたのである。

あなたが今此の事を発表したならば、それこそ幸徳秋水同様、闇から闇へと大逆罪の汚名を被せられて、極刑に処せられることは火をみるよりも明からかなことであるから、あなたのお父がおっしゃった通り、早く理蔵して何人にも一切語られぬがよろしい」と云われて、さっぱり私の疑問を解いていただくことは出来ませんでした。

 脇道にそれるが、田中光顕はここで幸徳秋水の事件がデッチアゲであったことと、明治維新によって天皇家の統治権がはじめて確立したことを指摘しているのである。引用をつづける。

 そこで私は、「伯爵は之は日本の正しい歴史だと御鑑定なされた。その正しい歴史を私が発表する事が、欽定憲法に触れて極刑に処せられると言われたが、私は他人と違ってその直系の子孫であります。私の生命観ではとても耐えられません。それを発表する事が極刑に処せられる様な欽定憲法であるならば、今このまま、直ちに私を司直に渡して極刑に処していただきたい」と申し上げました。斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、「私は六〇年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を(自ら実行して)知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました」と前置きされて、「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新という時に急に(殺されて)崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、お生まれになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたという事にして大下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は(その睦仁親工は暗殺され、これにすりかわった)明治天皇は、後醍醐天皇第一一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が減びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の萩に於て、此の御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古御維新を志した勤皇の運動である。吉田松陰亡き後、此の勤王の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。薩長連合に導いた根本の原因は、桂心五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御止系をお立てして王政復古するのだ』ということを打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。明治天皇には明治維新になると同時に、『後醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を逮立してお祀りせよ』と仰せになり、遠州の井伊谷宮の如きは、明治一一年本宮を造営せられ、同五年に御鎮座あらせられ、同六年には官幣中杜に列せられた。而して御聖徳に依り、着々として明治新政は進展し、日清、日露の両役にも(英米の支援によって)此界各国が夢想だにもしなかった大勝を博し、日本国民は挙って欽定憲法の通り、即ち明治天皇の御皇孫が永遠に萬世一系の天皇として此の大日本帝国を統治遊ばされると大確信するに至り、然も明治四四年南北正閏論が沸騰して桂内閣が倒れるに至った時に於ても、明治天皇は自ら南朝が正統である事を御聖断あらせられ、従来の歴史を訂正されたのである。斯様にして、世界の劣等国から遂には五大強国の中の一つとなり、更に進んで、今日に於ては、日英米と世界三大強国の位置にまでなったという事は、後醍醐天皇の皇子の御王孫明治天皇の御聖徳の致す所である」と王政復古明治維新の真相を語り、尚此の外に、岩倉具視卿の(孝明天皇と睦仁親王を暗殺した)活躍や、三條以下七卿落ちの(大室天皇擁立運動の)真相や、中山忠光卿の長州落ち等々、詳細に渉ってお話し下さいました。

 其の時、私は明治維新なるや、直ちに後醍醐天皇皇子宗良親王を井伊谷宮にお祀りあらせられ、官弊中社になさった事を承り、サッと直感したのは、田中光顕伯は明治天皇が後醍醐天皇第一一番の皇子満良親王の御王孫といわれたが、若しそれならば、真先に後醍醐天皇をお祀りにならねばならぬが、吉野神宮も金ケ崎官も明治二二年にお祀りになっている。

 之はヒョッとすると、極秘伝のわが『三浦皇統家』の記録に銘記されているように、「神皇正統第九九代松良天皇(御名正良)が樵夫に扮装して、三州萩(現在の愛知県宝飯郡音羽町大字萩)に落ち延びさせられて、第四皇子光良親王(皇紀二〇六二、四禄木星壬午年生)には、大江氏が此の『萩』から連れて長州に落ち、落ち着いた先を『三州萩』の在所を忘れない為に、『萩』(現在の萩市)と名付け、初めは一二年に一度は連絡を取っていた」と記録されているので、若し此の光良親王なら、系図に記される時に図1のように書かれるに相違ないし、宗良親王は皇紀一九七二年(正和元年)四緑木星壬子年だから、曾孫に其の四緑木星壬午年に一度権現せられ(るはずであっ)たが、明治天皇は嘉永五年の四緑木星壬子年であったから、自ら征東将軍宗良親王の御再現である事を御自覚あって、井伊谷宮をお祀りせられたのではなかろうか。

 又宗良親王は歌聖と称せられているが、明治天皇も全く歌聖であらせらるる、と旧巾光顕仙のお話を承り乍ら、片方では斯く考察して、田中光顕伯のお話が一段落着くや、直ちに私は右の事を『三浦皇統家』の記録を提示して申し上げると、田中光顕伯は、「維新当時、明治天皇は後醍醐天皇の御王孫で"ミツナガ親王"の直系王孫で在らせらるるという事を、先輩から聞かされて、光良親王と云う事は全然文献には無いから、元老院の『纂輯御系図』にも載っている後醍醐天皇第一一皇子満良親王とばかりに、私は思っていたが、あなたの所の御記録にはっきり記されている以上、絶対それに問違いないLと申されたので、私は何とも言われぬ嬉.しさがこみあげて来た……】

 明治天皇と田中光顕の関係は通常の君臣という関係ではなかった。天皇はその孫ヒロヒト、秩父、高松の一二人の里親を田中に相談し、田中が伯爵川村純義を推薦して川村にきまった。ここで、、、笠について柵談しなかったのは意味深重である。註旧中光顕は馬関の奇兵隊にも出人りして高杉晋作と親交があり、慶応二年には、中岡や伊藤とともに同事に奔走していた。のちに伊藤とともに明治天皇の腹心になった人である。余人ならばいざ知らず、薩長同盟を仲介した坂本龍馬の門下生であった田中がいったとなると、この話は俄然信愚性をおびてくる。

 かたくなに佐幕撰夷を主張した孝明天皇をかえなけれぼならないとする討幕志士の野望が、南朝再興を夢みた寅之祐と一致したのである。田中が述べるような、明治天皇の出生に関する疑問は従来から皆無だったわげでなく、意外にも多くの人が、天皇が孝明天皇の実子ならば佐幕撰夷という父の遺命を簡単に破棄しで倒幕開国に切りかえるはずはないと考えたらしく、ある匿名の座談会では、都立大の名誉教授という人が「明治天皇は産後他の幼児ととりかえられた」と喋っており、口伝としては他にもいくつかあったのであるが、南朝云々というのは、私は三浦の書によってはじめて知った。しかし調べてみると、これ以前にも、実は明治時代から、ひそかに皇華族の問では明治天皇すりかえ説が存在したのである。すなわち「明治天皇は萩に亡命した南朝の皇子の子孫で、長州で潜伏していたが、岩倉らが慶子の産んだ睦仁親王の新帝を殺して、極秘にすりかえた」というものである。ところで、仮に大室天坐が南朝系といっても、いったん臣下になった以LL、熊澤大皇や二、浦人内正と同じく歴史的な証明は不可能に近い。『大鏡』に藤原基経が源融に対して、「皇胤なれど、姓をたまはりてただ人に仕へて(天皇の)位につきたる例やある」といったとあるが、これもまた天皇家のルールであった。

 『巾山忠能]記』慶応一二年七月二-の条は、「橋本へ以伏日本史○称徳帝、神護景雲四年八月四日癸巳山明。百川永年五人臣定策禁中即日以遺認奉天皇、光仁爲皇太子。六月乙来令天下挙喪服限一年云々……。一〇月巳丑朔皇太子即位干大殿。」と述べる。称徳は新羅上族系の北朝大皇家の最後の天皇であり、光仁は弟の道鏡とともに南朝灯済上系の天}家の祖で、しかも系図偽造によってその革命を巧みに抹殺した。忠能の書状は口本史における王朝交代、実は革命の実情を報じたものである。忠能がしたことは革命の先例調査と情報抹殺の可能性を探ったものであろう。だから厳密にいえば、中国史の中で前漢王族の子孫であると主張した後漢王家のように、維新とは革命であり、明治天皇は新王朝(後南朝)の始祖であった。瀧川が首張した明治新工朝説は実にここに根拠があったのである。明治王朝は足利貞成系第七王朝につづく第八王朝というべきであろう。南朝光良親正の子孫だといっても誰がそれを信じるだろうか。ここで田中は「御聖徳により日清、日露の両役に大勝を博した」といっているのだが、逆に日清、口露両戦役に勝ったことによって、「御聖徳」を立証したとすべきではないか。ここで「御聖徳」を立証しなければ、いつの日にか自分たちの天皇暗殺がバクロしてしまう。そうなれぼすべてはパーになる、という考えで、天皇殺害犯人たちは侵略戦争をはじめたのであろう。してみれば、清国もロシヤも、そして朝鮮も、とんだとぼっちりを受けたものである。口本では戦国時代も幕末から維新にかけても、ともに支配層のキャラクターによってとんでもない事作がおこった。戦争も平和も独裁者が気ままに決めたのである。

(私論.私見)
 歴史は深いですなぁ。







(私論.私見)