| 剣道の影響 |

(最新見直し2010.10.01日)
| (れんだいこのショートメッセージ) |
| 幕末において、江戸の剣道場が「幕末回天運動」の志士をあるいはそれを追討した新撰組の隊士を輩出した史実がもっと注目されてよいと思われる。思うに、当時に於ける「剣の達人」ぶりは、現代で云うところの学歴に匹敵するステータスであったのではなかろうか。これあればこそ、人が耳を傾けたという具合の重要な履歴ではなかっただろうか。それにしても、囲碁、将棋も幕末期に隆盛している。庶民宗教とも云える多くの新宗派も誕生している。これらを思えば、何と幕末は人々が心身頭脳とも活性化していたことだろうか。このことに驚かされる。以下、「幕末期の剣道の隆盛、剣道場」を検証する。 「道場剣術の時代」の解説を紹介したいが転載を好まぬスタイルにしているので割愛する。「幕末大全、剣術道場」(学習研究社)その他参照することにする。 2005.4.14日、2010.10.1日再編集 れんだいこ拝 |
| 【幕末時の剣の流派】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「剣の流派」を参照する。
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| 【主な剣道場と剣士】 |
| 幕末になると時代が騒然となったことによってか「剣術ブーム」が起き、江戸三大道場として「桃井春蔵の士学館」、「千葉周作の玄武館」、「斉藤弥九郎の練兵館」が名声を高めた。「技の千葉、力の斉藤、位の桃井」と評されていた。 |
| 【福井平右衛門―戸ヶ崎熊太郎】 |
| 天明の頃(1781〜1789)、下野の福井平右衛門が神道無念流を編み出した。その弟子が戸ヶ崎熊太郎で、江戸に道場を構えて門人を採った。この系譜に岡田十松、斉藤弥九郎、鈴木斧八郎が連なる。 |
| 【岡田十松「撃剣館道場」】 |
| 岡田十松(おかだ じゅうまつ)は、。神道無念流戸ヶ崎熊太郎暉芳に弟子入りし、天明5年(1785)に20歳で「目録」、同7年22歳で「皆伝」の印可を授けられた。師の帰郷により道場を継ぎ、後に神田猿楽町に「撃剣館」を建て、神道無念流を幕末の3大流派にまで引き上げた。神道無念流の中で達人中の達人と云われている。門弟に斉藤弥九郎、江川太郎左衛門、渡辺華山、水戸藩士の藤田東湖、武田耕雲斎、水戸浪人の芹沢鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、新撰組の永倉新八等が輩出している。 |
| 【千葉周作「玄武館道場」】 |
| 千葉周作成政は、1794(寛政6)年、陸前高田市気仙町で生まれた。幼名を於寅松(おとまつ)といい、5歳の時に一家で気仙の地を離れた。気仙町中井には千葉周作の生誕地を示す立派な石碑がある。小野派一刀流の「浅利又七朗道場」で浅利又七郎に学び認められる。浅利又七朗の娘婿養子に迎えられる。その後、浅利が学んだ中西道場へ入門し中西派一刀流を学ぶ。その後、北辰一刀流を唱えて独立し、1820(文永5)年春から関東一円に修行へ出掛ける。1823(文永8)年、神田お玉ヶ池に道場「千葉道場玄武館」を構える。 周作は、従来の剣の伝授方式であった12段階を簡素化し、初目録、中目録、大目録皆伝と3段階にするなど革新した。門弟も多く江戸1番の道場の座を獲得し、水戸藩などの「指南役」や「剣術顧問」を頼まれ、道場は更に隆盛の一途となった。1855(安政2).12.10日、病没(享年62歳)。 周作の次男が千葉栄次郎成之(1833、天保4年生まれ)で、若くして北辰一刀流の奥義を極め「千葉の小天狗」とよばれた。斎藤弥九郎・海保帆平もまったく歯がたたなかった稀代の名剣士として伝えられている。1853(嘉永6)年、水戸藩に召し出され、馬廻組⇒大番組に昇進するも、惜しむべく1862(文久2).1.12日、30歳の若さで没した。 門人に山岡鉄舟(鉄太郎)、清川八郎、藤堂平助など。坂本竜馬(龍馬)もこの流派に列なる。 |
| 【千葉定吉「小千葉道場」】 |
| 周作の実弟が千葉定吉政道で、玄武館創設に協力した後独立して道場を開き、最終的に京橋桶町に定まった。その為、「千葉周作道場玄武館」と区別する意味で「桶町千葉」、「小千葉」と称された。1853(嘉永6))年、鳥取藩江戸屋敷の剣術師範に召し出された。その後を長男の重太郎一胤が引継ぎ、30歳にして道場を任された。この道場に坂本竜馬が入門し、重太郎と親交することになる。1860(万延元)年、重太郎も鳥取藩に召し抱えられ、1862(文久2)年、周旋方に就任。同年12.29日、勝海舟の開国論に反発して、坂本龍馬とともに勝邸を訪ね、機を見て斬ろうとしていたところ、龍馬が海舟の言に伏した為に沙汰止めとなったとの逸話が残されている(「海舟日記」)。 なお、1853(嘉永6))年、坂本竜馬が道場へやって来た時、定吉の長女の佐那と初手合わせし、歯が立たなかったと伝えられている。佐那は「千葉の鬼小町」と呼ばれる美人で、後に竜馬の許婚となったが、婚姻には至らなかった。慶応3(1867)年、龍馬が京都において暗殺されると、その後は一生独身を通し、為にかどうか生涯を独身で過ごしている。 |
| 【山岡鉄太郎(鉄舟)】 |
| 山岡鉄太郎(鉄舟)は、天保7年、旗本・小野朝右衛門の子として生まれる。母は塚原ト伝の流れをくむ。千葉周作に北辰一刀流の剣を学び、20歳の時に、刃心流槍術の山岡静山に入門した。静山が早世したため、静山の弟で高橋家の養子となっていた精一(後の高橋泥舟)に請われ、静山の妹・英子と結婚し山岡家を継いだ。 安政3(1856)年、剣の腕を買われ幕府講武所の剣術世話役心得に取り立てられた。その剣技は「鬼鉄」と恐れられた。安政6(1859)年には清河八郎と結び、尊皇攘夷党を結成した。文久2(1862)年、浪士組取締役に任命され翌年上洛するが、清河の建白書提出を受けて程なく江戸に帰還した。その後山岡は浅利又七郎に剣を学び、修行を重ね「剣を捨て、剣に頼らぬ」の境地に達し、一刀流正伝と秘剣・瓶割刀伝授される。 大政奉還後の明治元(1868)年3月には、勝海舟の使者として新政府軍東征大参謀の西郷隆盛を単身訪問し、静岡で会見、江戸総攻撃を仕掛けようと目論む新政府軍に、徳川家救済と戦争回避を直談判し、江戸城無血開城のきっかけを作った。西郷は当初、江戸城を無条件で引き渡す他、慶喜を備前に預けるとの条件を提示した。しかし、山岡は慶喜を備前に預けるのは罪人扱いだとして、涙ながらに説得。最後は切腹するかまえをみせた。山岡の決死の交渉に対し、西郷は方針を軟化させ、これにより勝と西郷の会談が実現し、江戸城の無血開城が決められることとなった。 維新後は、茨城県参事、伊万里県権令を歴任し、明治5(1872)年には明治天皇の侍従となった。そして、宮内庁の要職を歴任する傍ら、剣と禅の修業に精進し無刀流を開いた。晩年は、子爵を授けられ華族に名を連ねている。 1888(明治21).7.19日、座禅のまま往生した。享年53歳。 |
| 【斉藤道場「練兵館」】 |
| 斉藤弥九郎は、岡田撃剣館で岡田十松の門下生として江川坦庵と共に神道無念流剣を学び、四天王と呼ばれた。後に練兵館道場を起こし、千葉周作の玄武館.桃井春蔵の士学館で 江戸の三大道場に数えられた。この地は現在「靖国神社」の境内にある。斉藤と江川の交流は終生続き、江川が名代官として善政をほどこし、領民から「江川大明神」とあがめ慕われる背後に斉藤の補佐があった。 水戸藩・長州藩と強い絆を持ち、門下生として桂小五郎が知られる。1852(嘉永5)年、桂小五郎が20歳の時、斉藤弥九郎の息子にして江戸の剣客・斉藤新太郎が萩に来訪。9月末、新太郎に従って江戸へ旅立つ。11月末、江戸九段下の斉藤弥九郎道場に着。以降頭角を現し塾頭になる。他にも、新選組・芹沢派の「平山五郎」等々。桂小五郎、高杉晋作ら長州藩士を中心とした面々この練兵館には、高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、特に桂小五郎は剣の腕前も優れ、師範代も務めている。 |
| 【桃井道場「士学館」】 |
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桃井春蔵の鏡心明智流「士学館」。土佐藩と関係が深く、門人として武市半平太、岡田以蔵等々。 |
| 【近藤勇「試衛館」】 |
| 後の新撰組隊長となる近藤勇が道場主を務めていた道場で、天然理心流の「試衛館」。「牛込甲良屋敷」にあった。 |
| 【坪内主馬道場】 |
| 心形刀流の「坪内主馬道場」。この道場に師範代として「永倉新八」が招かれた。門人として島田魁。後に、永倉新八は新撰組=二番組組長、島田魁は二番組伍長というコンビを組んだ。他に伊庭八郎。 |
| 【天野道場】 |
| 「天野道場」、道場主は天野静一。新選組で一番長生きした隊士「稗田利八(池田七三郎)」が、剣術を学んだのが「天野道場」。 |
| 【男谷精一郎「男谷道場」】 |
| 防具による試合稽古を創始した。幕臣の門人が多かった。心胆の練磨を強調する重厚な剣。門人は、島田虎之助、勝海舟、天野八郎。江戸末期の剣豪では、「男谷信友、大石進、島田虎之助」が「幕末の三剣士」と云われた。 島田虎之助は、1814年生まれで、九州の中津藩出身。24歳の時に江戸の直心陰流(じきしんかげりゅう)の男谷道場へ入門。勝海舟の剣の師匠であったが、38歳の若さで病没。剣術以外に儒教や禅を好んで学んだことから、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」の言葉を遺している。虎之助の出生地の石碑には、「剣は心なり 心正しからざれば 剣また正しからず。剣を学ばんと欲すれば 先ず心より学ぶべし」と印されている。 |
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(私論.私見)