幕末通史2、改革か回天か、新政体創出を廻る激闘



 (最新見直し2015.02.13日)

 【これより以前は、「幕末通史1、ペリー艦隊来航以降の国情」の項に記す】

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「幕末通史2、改革か回天か、新政体創出を廻る激闘)」を確認する。1860(安政7、万延元).3.3日の「桜田門外の変」以降から1865(元治2、慶応元)年末までの期間がこれに該当する。「改革か回天か」は「幕政改革か新政回天か」の略である。

 2012.06.30日 れんだいこ拝

1860(安政7、万延元)年の動き

 3.18日、万延と改元。
【「和宮内親王降嫁」による公武合体路線】
 大老井伊直弼暗殺(桜田門外の変)後、老中久世広周(くぜひろちか)・安藤信正が幕府の実権を握った。久世・安藤派は、井伊派を罷免し、安政の大獄で処分された一橋派の復権をはかるなど、反井伊勢力との和解をはかった。これにより、一橋派が息を吹き返した。当初、幕閣は、水戸藩に対して、幕威を立てるため勅書返納を厳命し違背すれば取り潰しという策を考えていたようだが、騒乱を起こしてまで強硬策をとる愚をさとりいつのまにか沙汰やみとなった。これは、幕威の回復策として、井伊的弾圧策をやめてむしろ朝廷や尊攘派にシンパの多い斉昭の謹慎を解いて朝幕関係改善の助けとする方がよいと判断したからと推定される。

 この経過に会津藩主・松平容保の斡旋があった。容保は徳川宗家と水戸家の和解の周旋にも務め、家臣の外島(家老)や秋月梯次郎(のちの公用人)を水戸の武田耕雲斎(家老)・原市之進(後の徳川慶喜側近)に遣わし、無血の勅書返納に力を尽くした。水戸藩処分について幕府に対して寛大を主張し、将軍にも建議した。将軍は容保の意見を採用して、水戸藩門罪はとりやめになったという。さらに、容保のこの周旋の功を賞し官位を昇進させ、将軍は容保に以後適宜に登城して幕閣と相談するよう命じた。水戸藩処分に関する容保の奔走は、容保が将軍の信任を受け、幕府の役人に重きを置かれる端緒となった。

 久世・安藤派はさらに、今後は幕府のみで国政を運営していくのは無理であると考え、朝廷と幕府が力を併せて国政を運営しようと「公武一和」(公武合体)路線を画策していくことになった。朝幕間の関係改善をはかり、二つの「公」が結び付く事によって、幕府体制の再強化を図ろうとした。これにより、朝廷の権威を利用して反幕的な動きを強める尊皇攘夷派は名分を失った。この間政治改革を断行し、挙国一致の体制を整え、国難を打開しようとしたことになる。これを「公武合体」といい、この政策を進めるのが公武合体運動であった。権威の衰弱した幕府の今後の難局を乗り切る為の幕府の苦肉の政策であった。

 その具体策として推進されたのが、大老井伊の遺策である孝明(こうめい)天皇の腹違いの皇妹和宮(1846~1877年、かずのみや/仁孝天皇の第八皇女)と第14代将軍家茂との婚儀だった。孝明天皇は最初、難色を示した。これは、1・和宮は6歳の時、有栖川宮熾仁親王と婚約していたこと、2・和宮は幼く、江戸は蛮夷の集まるところとして恐怖していること、が理由であった。孝明天皇の侍従岩倉具視は、幕府の降嫁奏請について、朝威を借りて覇権を張ろうとする政治的動機があると分析し、そこで、朝廷側も降嫁を機会に政治的立場を強化することを考え、幕府の願いを聞き届ける条件として、1・7、8年~10年のうちの攘夷の実行、2・国家の重要事の奏聞を命ずることを天皇に奏上した。

 これが受け入れられ、朝廷は攘夷の実行つまり幕府に外国との条約を破棄せよという条件つきで降嫁を認める。11.1日、幕府が和宮内親王降嫁を発表。結果として、降嫁の勅許は降りたものの、公武合体を願うばかりに攘夷の期限を明言したことは後々まで幕府の足を引っ張ることになった。

 1861年(文久元).10.20日、和宮は京都を出立し、翌1862(文久2).2.11日、和宮、家茂との婚儀が行われ江戸城本丸に入る。ここに文字通りの公武合体が行われたが、その狙いはそれぞれの立場によって様々だった。幕府は権力をより強国にするため、朝廷は権力を拡大するため、一部の公卿は壊夷のため、諸大名は発言力や藩の勢力を拡大するためという同床異夢であった。ちなみに、和宮は、家茂の死後は仏門に入り静寛院宮を称する。戊辰戦争では徳川氏存続に尽力した。(この時、「会津藩御留流」(当時は大東流の流名を持たない)の西郷頼母は要人警護の為に、会津藩上士(五百石以上)や奥女中(殿中側御用の上級武士の子女)達にこの御留流を教授している)。

 しかし、和宮降嫁は尊攘派の怒りを買った。

【この頃の情勢、幕府の対応】
 7.22日、水戸藩と長州藩、江戸品川沖に停泊中の丙辰丸内で幕制改革協力の盟約を結ぶ。

 11.21日、幕府、外国人襲撃計画の風聞により、外国使臣館と横浜運上所を警備。

 12.5日、米国公使館通訳のヒュースケン、中ノ橋付近で薩摩藩士に襲撃される。12.6日、ヒュースケン死亡。各国外交官は、危険を考慮し江戸を離れる。

1861(万延2、文久元)年の動き

 1月、公武合体を推進した安藤信正が老中に就任する。

 1.21日、幕府が安全を保障する条件を呑んだ為、各国外交官が江戸に戻る。
 2.19日、文久と改元。
【その後の情勢、幕府の対応】
 3.23日、徳川家茂、江戸・大坂の開市と兵庫・新潟の開港の7ヶ年延期を求める親書をオランダ・ロシア・フランスに送る。
 3.28日、長州藩士長井雅楽、藩主に公武合体・海外進出の「航海遠略策」を建言。

 5.15日、長井雅楽、上洛して「航海遠略策」を朝廷に建白。

 5.28日、水戸浪士ら14名が、品川東禅寺に置かれたイギリスの仮公使館を襲撃。オリファントとモリソンが重傷。襲撃犯は3人が自殺。
 6.19日、幕府、庶民の大船建造と外国商船購入を解禁し国内輸送使用を認める。

 7.9日、老中安藤信正、英国公使オールコック、東インド艦隊司令官ホープと会見し、対馬問題の解決を話し合う。
 7.23日、英国東インド艦隊ホープ司令官、軍艦2隻を率いて対馬に行き、ロシア軍艦ポサドニックに退去を要求。 8.15日、ポサドニック、ロシア外相の命令で対馬を去り箱館へ向かう。8.25日、連絡に来航していたロシア軍艦オプリチニック、対馬を離れる。

【水戸藩と長州藩が「成破の約」】
 7月、水戸藩の西丸帯刀(たてわき)、美濃又五郎が、長州藩の軍艦・丙辰丸の艦内で、長州藩の木戸小五郎と、水戸藩が幕政を破戒し、長州がその後の事態収拾を行うという密約を交わした。この密約に従い、水戸藩が井伊大老暗殺、老中襲撃、外国公館襲撃、天狗党旗揚げへと向う。長州がこれに呼応して、京都での政変を作り出していくことになった。但し、「蛤(はまぐり)御門の変」の失敗で、「成破の約」は破綻する。

【土佐勤王党が結成される】
 8月、江戸で武市半平太ら土佐勤王党を結成する。水戸藩と長州藩の攘夷派の動きに土佐藩も連動しようとしたことになる。坂本龍馬(27歳)らが加盟する。文久2~3年頃、武市半平太率いる土佐勤王党が、長州藩とともに、京の政界をリードしていく。

 10月、薩摩藩主・島津久光は公武周旋に乗り出す決意をして要路重臣の更迭を行ったが、京都での手づるがなく、小納戸役の大久保・堀次郎らの進言で西郷に召還状を出した。11.21日、西郷は召還状を受け取った。
【幕府使節団が訪米、訪欧に派遣される】
 12.22日、幕府の遣欧使節竹内保徳らが、開市開港延期交渉のためアメリカへ出発する。翌1862(文久2).5月、幕府使節竹内保徳ら、「ロンドン覚書」に調印する。8月、幕府使節竹内保徳ら、開市開港延期、樺太分界等約定書にロシアと調印する。閏8月、幕府使節竹内保徳ら、フランスと開市開港延期約定書に調印する。

1862(文久2)年の動き

【薩摩藩で西郷隆盛が召喚される】
 1.14日、西郷は、世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つようにしたのち阿丹崎を出帆し、口永良部島・枕崎を経て2.12日、鹿児島へ着いた。2.15日、生きていることが幕府に発覚しないように西郷三助から大島三右衛門(大島に三年住んでいたという洒落)と改名した。同日、久光に召されたが、久光が無官で、斉彬ほどの人望がないことを理由に上京すべきでないと主張したので、久光の不興を買った。一旦は同行を断ったが、大久保の説得で上京を承諾し、旧役の徒目付・鳥預・庭方役に復した。

【幕府の使節の欧州派遣始まる】
 1862(文久2)年、幕府は勅旨に従い攘夷の方針を決める。それを受けて横浜鎖港が叫ばれるようになる。これは、外国人には国外退去をしてもらい、貿易港は閉じるというものであった。その為に、幕府は使節を欧州に派遣する。その動きをみると、1863(文久3).12月、外国奉行池田長発ら、鎖港談判のため欧州へ出発する。1864(元治元).1月、イギリス代理公使ニール、ロンドン覚書の破棄を通告。使節団はイギリスなど各国と開市(江戸・大坂)開港(兵庫など)延期を取付けていく。「ロンドン覚書」は開市開港を五年間延期するというものであった。1864(元治元).4月、仏・英・米・蘭、下関通行・横浜鎖港に関する覚書を幕府に通告。

【「坂下門外の変」】
 1.15日、坂下門外で尊攘派の水戸浪士6名に襲撃され重傷を負う(襲撃者は全員死亡)。これにより安藤は老中の座を追われた。これを世に「坂下門外の変」と云う。これを岐点に尊皇攘夷運動は益々激化していく。

【西郷隆盛の上京】
 3.13日、西郷は、下関で待機する命を受けて、村田新八を伴って鹿児島から先発した。3.22日、下関着。白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた西郷は、その夜、村田新八・森山新蔵を伴い大坂へ向けて出航し、3.27日、大坂着。3.29日、伏見に着き、激派志士たちの京都焼き討ち・挙兵の企てを止めようと試みた。

【その後の情勢、幕府の対応】
 3.28日、ハリス、リンカーン大統領の親書を徳川家茂に送る。 

 5.9日、遣欧使節、対イギリスの開港・開市の延期を定めたロンドン覚書に調印。8.19日、遣欧使節、ロシアと開港・開市の延期を定めた約定書に調印。この時、使節団と同行した長州藩の高杉晋作が、清国の上海で、清国人が西欧人に酷使されているのを見て憤慨したと伝えられている。 

 5月、外国奉行池田長発(横浜鎖港談判使節)、フランスでパリ約定に調印。7月幕府、仏・英・米・蘭にパリ約定の廃棄を宣告。パリ約定は、外国奉行池田長発ら使節団がフランスのナポレオン三世に会い、七回の会談を経て成立した四か条から成る。その中で、下関砲撃事件の賠償金の支払い、下関海峡の通行、輸入税の軽減などが決められ、横浜鎖港は認められなかった。また、幕府は、パリ約定は国内の混乱を招き、平和を乱すものとして、廃棄を宣告した。この間、元治元年には水戸で天狗党の筑波山での挙兵があり、攘夷の決行を主張し、横浜鎖港を訴えている。

 5.29日、イギリス公使館東禅寺警備中の松本藩士伊東軍兵衛がイギリス兵を斬殺。

 6.10日、勅使大原重徳、一橋慶喜・松平慶永登用の勅旨を将軍徳川家茂に伝える。
 6.11日、幕府、西周助・津田真一郎・榎本釜次郎・赤松大三郎・林研海・伊東玄朴らにオランダ留学を決定。
 7.4日、幕府、諸藩に外国船購入の自由を認める。
 7.6日、幕府、一橋慶喜を将軍後見職に任命。
 7.6日、長州藩、藩是を公武合体から尊皇攘夷へ変更。
 7.9日、幕府、松平慶永を政事総裁職に任命。 
 8.20日、朝廷、岩倉具視・千種有文・富小路敬直の蟄居・辞官・落飾処分を決定。

 幕府、貿易視察使を上海に派遣(五代才助、高杉晋作らも随行)。

【土佐藩の攘夷派志士の動き】
 翌1862(文久2).1.15日、坂本龍馬(28歳)が長州萩に久坂玄瑞を訪ね、意気投合する。

 3.24日、坂本龍馬(28歳)、沢村惣之丞と脱藩。吉村寅太郎も脱藩。

【西郷隆盛が島津久光の不興を買い鹿児島へ護送される】
 4.6日、、姫路に着いた久光は、西郷が待機命令を破ったこと、堀次郎・海江田信義から西郷が志士を煽動していると報告を受けたことから激怒し、西郷・村田・森山に捕縛命令を出した。捕縛された西郷らは4.10日、鹿児島へ向けて船で護送された。

【坂本龍馬と勝海舟の歴史的邂逅】
 春頃、脱藩し江戸に到着した坂本龍馬が、千葉重太郎(千葉定吉道場の長男)と共に勝海舟邸に乗り込み問答する。この時、勝は、咸臨丸での渡米体験談や、妹婿に当る佐久間象山の見識に触れ、国際情勢を諄々と説いて聞かせた、と云う。以降、龍馬(29歳)は、勝に私淑し入門することになる。

 勝の「氷川清話」の中で次のように述懐している。

 「彼(龍馬)は俺を殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時、俺は笑って受けたが、沈着(落ち着いて)何となく冒しがたい威権があって、良い男だったよ」。

 龍馬はその後、福井に赴いて松平慶永から海軍塾設立資金5千両を借り出している。更に熊本に出向き、勝の代理として松平慶永のブレーンの一人であった横井小楠を見舞い啓発される。翌1863(文久3).3.20日、姉の乙女(おとめ)に宛てた手紙の中で次のように述べている。
 「今にては二本第一の人物勝燐太郎という人の弟子に成り、日々かねて思いつくところ(神戸海軍塾創設)を精と致しおり申し候」。

【土佐藩の吉田東洋が土佐勤皇党に暗殺される】
 4.8日、開国論者の土佐藩参政・吉田東洋が、帰宅途中に那須信吾ら4名の土佐勤皇党に暗殺される。

【島津久光が率兵上京】
 薩摩藩ではこの頃、藩主・忠義の実父であった久光が実権を握っていた。久光は、開明的な斉彬とは対照的な国粋主義者であった。長州藩が朝廷や幕府間で勢い大いに振るうのを見て、自分も公武合体を実現させるために国政に乗り出そうと考え、斉彬が考案し成し遂げることが出来なかった率兵上京計画を実現させようと考えた。

 久光の重臣としての地位を確立しつつあった誠忠組の同志であり、西郷の盟友であった大久保一蔵(いちぞう)は、この率兵上京計画を実現するにあたり、先君の寵臣として働いていた西郷を、奄美大島から召還させることを久光に願い出る。こうして、1862文久2).2.11日、西郷は約3年ぶりに本土・鹿児島に帰り着く。

 しかし、島から帰った西郷は、大久保の考えとは逆に、久光の率兵上京計画に猛烈な反対を唱える。西郷は、斉彬が考えた当時と現在の情況が余りにも違うこと、上京準備が余りにも整っていないこと、今軍勢を率いて京に入れば必ず予期せぬ事態が起こること、斉彬に比べて久光が人物的にも数段劣ることなどを理由に、久光に面と向かって堂々と反対意見を述べる。島津久光と西郷の確執が始まる。

 しかし、大久保はこの計画の一端を担うように根気良く協力を求める。その大久保の態度に、西郷は「そいなら、気張って(頑張って)やりもんそ」と答え、久光の行列が出発する約一ヶ月前に先発する。肥後の形勢を視察し下関で行列がくるのを待てという命令を受けていた。しかし、西郷が下関に入ってみると案の定情勢は激しく揺れ動いていた。久光や薩摩藩上層部が考えている公武合体路線の推進は既にアナクロであるとの西郷の憂いは的中した。しかし、一般の志士や浪士、他藩士、薩摩の急進派藩士らは、久光の率兵上京計画を薩摩がいよいよ倒幕に踏み切ったと勘違いし、続々と京都・大阪に集結し、不穏な動きを見せ始めた。

 この落差を知る西郷は、このまま久光の行列が京・大阪に入ったら、思いがけない惨事が起こるかもしれない、何とか未然にそれを食い止めなければならないと考え、久光から下された下関で待てとの命令を無視し、その足で急遽大阪へと向かう。大阪に入った西郷は騒ぎ立てる浪士達を沈静させ、軽挙行動を戒め、自分の命令の元に厳しく統制することを約束させ、騒ぎを収める。

 下関に着いた久光は、命令を無視し勝手に行動した西郷に激怒する。そしてその後、兵庫に入った久光は、西郷の捕縛命令を下す。久光の激怒を知った大久保は西郷を兵庫・須磨の浜に呼び出し、西郷に向かってこう言う。「久光公のお怒りは尋常ではごわはんから、もしかすると、吉之助さあに切腹を命じるかも分かりもはん。こうなったのには、おいにも大きな責任がごわすから、吉之助さあだけを死なすわけには、いきもはん。おいも一緒に死にもす。吉之助さあ、おいと一緒に刺し違えて死にもそ」。

 大久保の悲壮な決意であった。しかし西郷は首を大きく横に振り、こう言う。「今、おいとおはんが二人とも死んだら、薩摩藩の今後はどうなりもすか、天下のことはどうなりもすか。死ぬときは、いつでも死ねもんそ。男が黙って歯を食いしばって堪えなければならない時は、こん今ごわすぞ。恥を忍んで、我慢する時でごわすぞ」。西郷のこの言葉に大久保は改心し、西郷を自分の宿舎に連れて行き、久光に西郷が自分の宿舎で謹慎していることを伝える。

【寺田屋事件発生】
 4.16日、島津久光が藩兵1千名を率いて上洛した。朝廷工作に入り、幕政改革の命令を請う。勅使・大原重徳を江戸に派遣。江戸城に入った勅使は、前福井藩主・松平慶永(春嶽)を政事総裁職に、慶喜を将軍後見職につけるよう要求した。幕府はこれを拒否する力を持たず、勅命に従う。

 この時、寺田屋事件が発生している。長州藩の真木和泉ら尊攘派志士たちは、島津兵上洛は倒幕の為と煽動した。これに応えようと京・大阪に集まった浪士や薩摩藩の急進派藩士(有馬新七、柴山愛次郎、橋口壮助)らは、久光の入京を機に倒幕の先鋒として兵を挙げることを計画していた。朝廷は憂慮し、久光に対し浪士鎮撫の朝旨を出す。

 4.23日、志士が京都伏見の寺田屋に集結しているとの情報を受け、大山格之助(おおやまかくのすけ・後の綱良)や奈良原喜八郎(ならはらきはちろう・後の繁)ら剣術の達人ばかり9名を鎮撫の士として派遣する。久光は「寺田屋の連中が、もし自分の命令に従わない時は、それ相応の処置を取れ」と厳命していた。相応の処置とは、斬っても構わないということを意味していた。

 寺田屋にいた薩摩藩の志士と派遣された鎮撫の士は互いにかっての誠忠組の同志でもあった。寺田屋に着いた大山らは、有馬らに軽挙な行動は慎むようにとの久光の命令を告げる。しかし、有馬は、「事ここに至ってはもはや中止は出来ん」とその君命を無視する。それを聞いた大山ら鎮撫の士は、「君命ごわす」と叫び、有馬らに斬りかかる。そして、ここに同志相討つ寺田屋の惨劇が起こる。

 特に、有馬新七の最後は壮絶を極めている。有馬は鎮撫側の道島五郎兵衛を壁へ押し付け、自分がその上に覆いかぶさり、同志の橋口吉之丞に「おい(自分)ごと突け、おいごと刺せ」と絶叫する。吉之丞は「チェスト~」と気合をかけ、有馬と道島を同時に突き抜く。結果、寺田屋の浪士達は、有馬以下6名が死亡、2名が重傷を負い、鎮撫側は、有馬と共に突き刺された道島のみが死亡した。また、寺田屋に集まっていたその他20数人の薩摩藩士達は大山らに熱心に説得され、挙兵をあきらめ、藩邸に出頭することになる。この時に挙兵を企て、寺田屋、その他に分宿していた激派の中には三弟の信吾、従弟の大山巌(弥助)の外に篠原国幹・永山弥一郎なども含まれていた。

 この久光の取った迅速な鎮圧行動により、朝廷は久光に絶大なる信頼感を持つ。久光が朝廷の信頼を得た契機が、薩摩藩の若者同士の斬り合いとなった寺田屋騒動であったとは、余りにも皮肉過ぎる出来事であった。

【西郷が再度蟄居させられる】
 6.6日、護送され山川港で待命中のこの日、西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島、村田新八は喜界島(鬼界ヶ島即ち薩摩硫黄島ではない。村田新八「宇留満乃日記」参照)へ遠島が命ぜられた。未処分の森山新蔵は船中で自刃した。

 6.11日、西郷は 久光の逆鱗に触れ、鹿児島へと送還される。今度は徳之島への遠島を申し付けられ、その後沖永良部島への遠島替えを命ぜられる。山川を出帆し、村田も遅れて出帆したが、向かい風で風待ちのために屋久島一湊で出会い、7、8日程風待ちをし、ともに一湊を出航、奄美へ向かった。七島灘で漂流し、奄美を経て(以上は「宇留満乃日記」に詳しい)、7.2日、西郷は徳之島湾仁屋に到着した。偶然にも、この渡海中の7.2日に愛加那が菊草(菊子)を生んだ。村田は喜界島へ。

 8.26日、徳之島岡前の勝伝宅で落ち着いていたところ、徳之島来島を知らされた愛加那が大島から子供2人を連れて西郷のもとを訪れた。久しぶりの親子対面を喜んでから数日後、さらに追い打ちをかけるように沖永良部島へ遠島する命令が届いた。これより前の7月下旬、鹿児島では二弟吉二郎、三弟信吾、四弟小兵衛が遠慮・謹慎などの処分を受け、西郷家の知行・家財が没収され、最悪の状態に追い込まれていた。

 藩命で舟牢に入れられて、閏8月初め、徳之島岡前を出発し、14日に沖永良部島伊延(旧:ゆぬび・現:いのべ)に着いた。沖永良部島での西郷の生活は峻烈を極めた。西郷は、昼夜、囲いのある牢屋に閉じ込められ、常に番人二人に見張られる生活を強いられた。沖永良部島は本土よりも沖縄に近く、高温多湿で非常に雨量も多い島で、吹きざらし、雨ざらしに等しい獄舎での生活は、まさに西郷に死ねよと言わんばかりの処罰であった。西郷はその獄舎の中で、三度の食事以外は水や食料もろくに口に含まず、常に端坐し続け、読書や瞑想を続けていたと言われている。このような生活を続けてい西郷は、日増しに痩せ細り、体力も限界へと近づく。

 10月、間切横目土持政照が代官の許可を得て、自費で座敷牢を作ってくれたので、そこに移り住み、やっと健康を取り戻した。この時西郷は沖永良部の人々に勉学を教えている。また、土持政照と一緒に酒を飲んでいる様子がこの島のサイサイ節という民謡に歌われている。

【島津久光が幕政人事に介入し成功する】
 この頃薩摩は次のような動きを見せる。京都へ到着した島津久光は、朝廷より念願の幕政改革の勅許を受けることに成功し、勅使・大原重徳(おおはらしげとみ)を護衛して、1862(文久2).6.7日、江戸に入る。そして勅使の大原は、将軍・家茂に対し、幕政改革9ヶ条を認め朝旨を伝える(「島津久光、幕政改革を要請)。一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政治総裁職にするよう幕府の人事に介入し、これに成功した。

 安藤失脚後、公武合体を推進したのは、薩摩・長州・土佐などの雄藩だった。薩摩藩主島津忠義の父久光が自ら朝廷に赴き、勅使と共に江戸に下り、幕政改革の勅命を伝えたことは、雄藩が幕閣政治に加わるという時代への幕開けを象徴していた。こうして行われたのが文久の幕政改革であるが、幕府を救う事にはならずむしろ幕藩体制の亀裂を深める方向を強めることになった。

【岩倉具視が「姦物」として罷免される】
 6月、五摂家の近衛忠ひろが、長州藩や尊王攘夷派志士などの後押しで関白に就任した。岩倉具視は、和宮を幕府に降嫁させた責任を問われ、「姦物」として糾弾され、無位無官で朝廷から排除された。

【「生麦事件」、薩摩藩のお家事情】
 8.21日、目的を果たした久光の行列が江戸から意気揚揚と引き上げる際、東海道生麦村(現在の横浜市郊外)において事件が起こる。久光の行列のなかを4人のイギリス人が馬で乗り入れ、その行列を横切ろうとし、薩摩藩士・奈良原幸五郎(前名喜八郎)は、「無礼者」と一喝するや、腰の刀を引き抜き、そのイギリス人の一行に斬りかかった。日本に観光に来ていたチャールス・レイックス・リチャードソンは、その太刀をまともに受け、死亡する。これを世に「生麦事件」(なまむぎじけん)と云う。この生麦事件が後年の薩英戦争につながっていくことになる。

 このように、大変な事件を起こしながらも久光は、1862(文久2)年閏8.7日、京に帰着した。久光としては、江戸での幕政改革の要求に成功し、朝廷の覚えも目出度く首尾は上々であったが、それは天皇を含む上流公家達の間だけであって、下級公家や一般のいわゆる志士や浪士、他藩の下級藩士らの評判は散々であった。久光の上京は公武合体策でなく倒幕に踏み切るものと一般の志士らに期待されていたが、久光が京に入って為したことは寺田屋での倒幕派の鎮圧であり、その後の久光の動きも「幕主朝従」であった為、逆に評判がどんどん下がっていった。

 久光が江戸から再び京都へ戻ってきた頃には、主唱する公武合体論は既に2周遅れの古い産物となり相手にされなくなっていた。そればかりか、久光には生麦事件への対処が重くのしかかってきた。イギリスが薩摩を砲撃するという噂が流れ、久光はこれに備えるため帰国を早めざるを得なくなった。

 久光が薩摩に向けて帰国した後、京の町にはテロリズムの嵐が吹き起こる。安政の大獄に働いた者や、開国論を唱える者、その他邪魔になる者は、全て暗殺という手段で消されていった。まさに、この時期は、幕末の時代の中でも、最も凄惨な暗黒の時期となる。

【長州のお家事情と攘夷行動】
 島津久光の上京は長州藩に影響を与えた。長州藩の長井雅楽の航海遠略策の評判をガタ落ちにさせた。これは長井の策が、「幕主朝従」といった形の幕府主導型の公武合体策であったが、久光の一連の行動から長井策の限界が際立つことと為った。かくて長井の威信も落ちた。長州藩は、航海遠略策は長井が勝手に主唱したもので、藩は無関係であったとまで言う始末となり、長井は切腹を命じられることになった。その背景に、長州藩内の松下村塾メンバーを中心とする下級藩士らが長井の排撃運動を目論み、航海遠略策の責任を追及し追いこんだという動きがあった。長井も又悲劇の人であった。

 その後の長州藩は長井の航海遠略策を引っ込めた後、藩論を急展開させ、最もラジカルな尊王攘夷論を藩是と定めた。尊皇攘夷とは読んで字の如く、王(天皇)を尊び、夷狄(いてき・外国)を攘う(撃退する)、という過激な論であるが、長州藩の急進派藩士は最も過激な尊皇攘夷論を吹聴し、これが勢いを持ち始めていた。

 倒幕派が形成されたのは長州藩が最初であった。但し、長州藩では、正義党(倒幕派)と俗論党(佐幕派)の2派閥が抗争していた。正義党は村田清風を祖に周布政之助や松陰門下が、俗論党は坪井九右衛門を祖に椋梨藤太など門閥階級の武士が所属していた。正義派は久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎・伊藤博文・・井上肇らを中心としており、幕府に恭順を装いながら対抗せよという態度をとっていた(後に、尊攘派から後に倒幕派へ転換することになる)。公武合体論を唱えていた長州藩は、久坂玄瑞たちの行動に押されて、尊皇攘夷へ変わっていく。

【一橋慶喜の復権】
 7月、桜田門外の変で大老井伊直弼が倒されたことにより謹慎が免じられていた一橋慶喜(よしのぶ)が、新たな職である将軍後見職に任じられた。慶喜が幼い将軍を助ける形で政治の表面に登場することとなった。松平慶永が政事総裁職となった。これを「文久の幕政改革」と云う。

 この頃、外国との関係をどうするかの大きな問題に直面しており、政事総裁職の松平慶永と論争になる。松平慶永は破約攘夷説を唱えていた。それは、アメリカとの条約をはじめ、朝廷の許しを得ていない条約は無効なので、破約せよというものであった。時に文久2.9月、これに対して慶喜公は開国説をとなえて、概要「世界万国が天地の公道に基きて互に好みを通ずる今日、我邦のみ独り鎖国の旧套を守るべきにあらず。然るに今に至り、従前の条約は不正なれば破却すべしと言ふとも、其説は内国人の間にこそしか言ひもすべけれ、外国人より見れば、政府と政府との間に取換はしたる条約なれば、決して不正とは言はざるべし。今余が斯かる意見を立つるは、既に幕府を無きものと見て、日本全国の為を謀らんとするにあり。此際余が開国論を主張する由世上に流伝せば、忽ち大害を惹起すべし、されば、周防(板倉勝静)越中(大久保忠寛)の外には、これまで談じたることなし」と述べ、慶喜公は松平慶永の破約攘夷説を退け、開国説を主張する(文久二年九月晦日 渋沢栄一著「徳川慶喜公伝」)。

 その後慶喜公は、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に就任し(元治元年3月から慶応2.7月まで)、その後将軍となる(慶応2.12月から慶応3.12月まで)。この間は条約勅許(慶応元年十月勅許なる)・兵庫開港(慶応3.5月勅許なる)を巡る問題が続く。また、外国の公使とも会見し、殊にフランス公使のロッシュ(元治元年3月着任)は、フランスの日本における地位の確立と、これまでの劣勢の挽回ということもあり、幕府へ対して、横須賀製鉄所の設立(慶応元.9月完工)、横浜フランス語伝習所設立、陸軍教官の招請などいくつか協力を申し出ている。一方、慶喜公は、イギリス公使のパークス(慶応元年閏5月着任)とも会い、イギリスは幕府は支持するに足らないとし、薩摩・長州二藩と親交し、討幕、王政復古を助成するようになる。

【会津藩主・松平容保が京都守護職を拝命される】
 閏8.1日、幕府は、福井藩主松平慶永(まつだいらながよし)を政事総裁職に、会津藩主・松平容保は京都守護職、長岡藩主・牧野忠恭(桑名藩主松平定敬)を京都所司代に任命した。

 これにつき、「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は次のように述べている。
 概要「会津藩主松平容保が京都守護職を拝命した時から、会津二十三万石の悲劇が始まる。この時、西郷頼母は、藩主容保が京都守護職に就任する事を最後まで反対した。西郷頼母は霊的な予言ともいうべき諫言『薪(たきぎ)を背負って火の中に飛び込むが如し』を藩主に申し立て反対したが、この進言は退けられた。

 会津藩主松平容保が京都守護職に任命された時、西郷頼母と同じような諫言をした者が、長岡藩国家老(当時は郡奉行兼町奉行)・河井継之助(かわいつぐのすけ/文武両道に優れた陽明学者。洋式の銃砲を購入してフランス式の調練を行なった。フリーメーソンと取り引きした事で、知り人ぞ知る逸話。戊辰戦争にあたり長岡城に籠城して政府軍を苦しめたが負傷し、落城後に死亡)であった。

 長岡藩主・牧野忠恭が京都所司代に推挙された事について、河井継之助は「微弱小藩の力を以っては紛擾(ふんじょう)の渦中に巻き込まれるばかりでありますから、今は藩政を充実して力を蓄え、大事を計るのが何分にも先決でありましょう」と、藩主に所司代辞任を建言(けんげん)したが、これは受け入れられず、河井継之助は空しく帰国している。継之助はこれから騒然となる動乱の時代を読み切っていた。文久二年(1862)八月の事である。

 12月、会津藩主・松平容保は、藩兵約千人を引き連れ京都に入った。この頃、京都には天誅と称したテロリズムの嵐が吹き荒れていた。それらテロを続ける長州や土佐の過激派集団の背後には、これまた過激論を息巻く急進派公家がいたため、容保としてもなかなか手が付けられなかった。尊王攘夷派によるテロルと長州藩の台頭に対処するための取締りを任務とする京都守護職として赴任しながら、その長州藩の横暴を食い止めることが出来ないことに、容保としては歯噛みするような思いで毎日を過ごすことになった。

【幕府のオランダ留学生が長崎を出発】
 9.11日、西周助、津田真一郎、榎本釜次郎(武揚)、赤松大三郎、林研海、伊東玄朴らオランダ留学生が長崎を出発。

【「尊王攘夷」の動き】
 9.18日、薩摩・長州・土佐の3藩が、朝廷に幕府へ勅旨を派遣し攘夷を決行させるよう建言する。9.21日、朝儀、攘夷を決定する。10.27日、勅旨江戸に到着。10.27日、幕府、攘夷の勅旨に従うことを決定。11.27日、勅使三条実美・姉小路公知、攘夷督促勅書を幕府に伝達。12.5日、徳川家茂、勅使三条に攘夷決行と親兵編成について奉答書を上程する。

 10.22日、一橋慶喜が、開港の持論が容れられずとして、将軍後見職の辞表を提出。 
【将軍の歴史的上洛】
 11月、慶喜公は権中納言に任ぜられ、12.15日に江戸を発って上洛する。4代将軍家茂も公武合体推進のため、3代将軍家光以来229年ぶりに上洛し朝廷詣でする。

【長州の高杉晋作らが江戸品川御殿山に建設中のイギリス公使館を焼き打ち】
 12.12日、長州藩の尊王攘夷の過激派武士7名(高杉晋作、伊藤俊輔(後の博文)、井上馨、久坂玄瑞、品川弥二郎ら)が高杉晋作指揮の下、江戸品川御殿山に建設中のイギリス公使館をて焼き討ちする。

 12.19日、横井小楠と吉田平之助が襲撃され、吉田が死亡。
 12.21日、国学者・塙(あなわ)次郎と加藤甲次郎が伊藤博文、山尾庸三(ようぞう)らの手で暗殺される。
 12月、幕府、陸軍奉行設置。
【「幕末志士」の登場と生態】
 「雄藩」として台頭しつつあった薩摩藩や長州藩、土佐藩に共通する特徴として、藩内で下級武士たちによる突き上げが始まっており、下級武士達は、藩政改革から更に幕藩体制そのものの変革まで視野に入れて旧体制批判を展開し新秩序を模索し始めていた。

 藩内の改革に絶望した下級武士の中から脱藩武士が生まれ始めたのもこの頃からである。この武士を「幕末志士」と云う。志士達は既に藩の枠組みを越え、日本という国家的立場から来るべき政治体制を模索し始めていった。「幕末志士」達は、倒幕で共同戦線を構築していくことになるが、互いの思想は大きく隔たっており、暫くの間その構想づくりに忙殺されていくことになる。様々な立場による思想がからみ合いながらやがて「尊王攘夷」という流れを形成していくことになる。

 この当時、「幕末志士」派による政治テロが相次いで発生していた。概要は「」に記した。

1863(文久3)年の動き

【長州藩内で政変】
 2.6日、長井雅楽自刃。 

【伊藤俊輔、志道聞多ら長州藩士5名がイギリスへ密航】
 トーマス・グラバーと長州藩士の密談で、西洋密航を企画。横浜の「英一番館」のジャーディン・マセソン商会に応援を頼み、密航の準備が進められた。この密航の首謀者は志道聞多(後の井上馨、28歳)で、同行者は、遠藤謹助(27歳)、山尾庸三(26歳)、伊藤俊輔(博文、22歳)、野村弥吉(20歳)の5名。井上と伊藤は数か月前、品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちしたばかりだったが、急激に思想の転向をし、一転して西洋をよく知らねばと密航計画になった。その費用は一万両。

 5.12日(6.27日ともある)、長州藩士の井上聞多・野村彌吉・伊藤俊輔・山尾庸三・遠藤謹助の5人が、留学のため横浜を出発する。一行は横浜の英一番館に勢ぞろいして断髪、不似合いな洋服に着替えて、マセソン商会所有の蒸気船でまず上海へ向かい、上海で大型帆船二隻に分乗して、ロンドンをめざした。横浜出港の前々日、長州藩は下関海峡に停泊中のアメリカ商船を砲撃、攘夷の火蓋を切っていた。

 9.23日、一行がロンドンに到着。ユニバーシティ・カレッジの聴講生となるが、その間、先着した井上と伊藤はアバディーンのグラバー家を訪れ、弟二人と共に貿易商社「グラバー兄弟商会」を営む長男チャールズの案内で造船所を見学している。

 彼らが初めて長州藩の外国船砲撃、その報復として英米仏蘭の四国連合艦隊の下関砲撃、砲台占領といった事態を耳にしたのはロンドン到着三か月後のことだった。五人は会議を重ねた。井上と伊藤は、我ら二人は死を賭して攘夷の藩論を転換させるため急遽帰国する旨主張した。ほかの三人も同行を求めたが、井上はそれを押し止め、貴公たちはこの地で勉学に励み、国に尽くせと説得した。

 井上と伊藤の帰国の船はグラバー兄弟商会が手配してくれた。残って学業を続けた山尾庸三は造船の大家となって工部卿(大臣)まで昇り、野村弥吉(のち井上勝)は鉄道庁長官、遠藤謹助は造幣局長と、それぞれ日本の近代化に貢献し、山尾と野村は子爵を授けられている。

 翌1864(文久4年・元治元).6.18日、井上聞多と伊藤俊輔が、長州藩の危機により、藩を説得するため急遽帰国。6.25日、井上・伊藤の和平提案が長州藩重臣会議で否決される。6.28日、長州藩が外国船との戦闘を布告。この年の年末には、長州の力士隊を率いて高杉晋作の挙兵に従う。

【新撰組の登場】
 最悪の治安情勢の京に、幕末志士の登場に抗する形で新撰組前身、壬生浪士組が誕生する。幕末志士活動の活発化に危機感を抱いた幕府が、「毒を以って毒を制する」形で浪士募集策を導入した。2.4日、清河八郎主宰による幕府直轄隊編成のための浪士の会合が行われ、3月頃、清川八郎発案により「浪士組」が結成された。「浪士組」は、将軍家茂上洛の警護のためと称して、腕利きの侍を234名を江戸で募集し、4月、江戸へ向かう。上洛後は壬生・新徳寺に居を構えた。この時、後の新撰組隊長となる近藤勇も試衛館仲間とともに参加している。

 ところが、清河八郎は、朝廷の警護番となり攘夷に向けて活動することを表明し尊王倒幕派へ移行した。この時、幕府の為に京都を護衛するのが筋として京都残留浪士組(近藤勇・芹沢鴨をはじめとする派の約23名)は会津藩・京都守護職・松平容保の支配下の御預かりになり、京の町の治安維持に当たることになった。

 この流れが新撰組となる。3.13日、江戸帰還に反対した浪士13名が京都守護職に属して治安組織「新撰組」を結成。新撰組は隊内に厳格な局中法度を定め、組織を拡大していった。その内容は、一、士道に背くまじき事、一、局を脱するを許さず、一、勝手に金策致すべからず、一、勝手に訴訟取扱うべからず、一、私の闘争を許さず。

 しかし、浪士組、新撰組、及びそれぞれの内部でイニシアチブ闘争が発生する。3.24日、殿内義雄が殺される。4.6日、阿比留栄三郎が暗殺される。4.13日、清河八郎が佐々木唯三郎らに暗殺される。

 この間、新撰組による政治テロも頻発していった。つまり、志士派のテロルと新撰組のテロルが入り乱れ始めたことになる。
(私論.私見) 新撰組考
 幕末志士と新選組の双方にはそれぞれの主張があり、一概に善悪の判断には馴染まない。共に、己の信念に基づいて、己の生きる道を貫き通し、命をかけた戦闘に立ち向かっていった史実こそ貴重と思われる。

【新徴組の登場】
 清河の暗殺により江戸帰りの浪士組のうち清河系の者が次々と捕縛され浪士組は機能不全に陥った。4.15日、幕府は、新徴組を再組織し、主に江戸市中の警戒、海防警備に従事させた。屯所は江戸の本所(東京都 墨田区 )に設置された。取締責任者は高橋泥舟と山岡鉄太郎。

 その後の新徴組史は次の通りである。新徴組が通行人に乱暴を働いたり 商家に押し入ったりと評判も悪く、 高橋泥舟(高橋精一)と山岡鉄太郎(山岡鉄舟)は江戸城に呼び出され、 不祥事の責任として御役御免になり謹慎閉居にされた。6月末、新徴組剣術教授方9名(山田官司、柏尾馬之助(右馬之助)、森土鉞(えつ)四郎、村上常右衛門、玉城織衛、片山庄左衛門、岡島哉弥(さいや)、石井鉄之丞、中村定右衛門)が任命されている。9.4日、飯田町黐(もちのき)坂下に屯所(新徴組屯所跡 千代田区飯田橋1丁目 ) を移す。11.20日、新徴組を庄内藩の酒井家に一切委任、指揮命令から褒賞処罰にいたるまで庄内藩にて行うこと、支配以下の幕府派遣の諸役人を庄内藩士に換えること等達しした。幕臣から庄内藩預かりへの降格は隊士に衝撃を与え、脱退者・水戸天狗党に参加する者などが相次いだ。小林登之助新徴組練兵教授方となる。12月、菅実秀、家老松平権十郎と共に、江戸警備を命じられる。12.16日、酒井吉之丞了恒、江戸詰め、番頭に任じられる。元治元年3.27日、藤田小四郎が常陸筑波山にて挙兵。新徴組を脱退してそれに参加せる者が筑波勢新徴組と名乗る。7.26日、庄内藩が幕命を奉じ長州藩麻布中屋敷を没収する。新徴組50名参加。酒井吉之丞了恒その二ノ手隊長として事に従う。小林組30名参加。9月 小林組が大砲組と改名され、庄内藩酒井家預かりとなる。庄内藩は江戸の地理に精通した新徴組を大いに活用し、新徴組も発奮してこれに応えた。25人1組で市中をパトロールし、相手が旗本でも違法の者は容赦なく取り締まった。これにより江戸の治安は回復し、江戸町民の間ではヒーロー的存在となり、「酒井佐衛門様お国はどこよ 出羽の庄内鶴ヶ岡」 、「酒井なければお江戸は立たぬ 御回りさんには泣く子も黙る」、 「鶴が岡/松を堅固に/守るなり」(鶴ヶ岡とは庄内藩の本城所在地。松とは松平) 、「カタバミはウワバミより怖い」(カタバミ片喰は酒井氏の家紋) とまで謳われるようになった。

 1867(慶応3).12.25日、薩摩による江戸内外の富商・富農への金品強奪・放火という挑発に乗って三田の薩摩屋敷を襲撃し焼き払った。(12.22日、新徴組の屯所に、23日には庄内藩の屯所に鉄砲が撃ち込まれた) 新徴組は薩摩藩の支藩・佐土原藩藩邸を攻撃、薩摩藩士と激しい戦闘した。 鳥羽伏見の戦の火ぶたが切って落とされ戊辰の役へと突入していく。庄内藩士と共に江戸を引き上げ、庄内で新政府軍相手に奮戦することとなった。庄内藩は新政府軍相手に連戦連勝の奮戦をするも、周りの藩が次々と新政府軍に破れていき、庄内藩も結局最後は無敗のまま降伏という形を取らざるを得なかった。1870(明治3)年当時、新徴組は鶴岡・大宝寺・道形に137戸の屋敷を構えていた。庄内藩は戊辰戦争の処分で17万石から12万石に減封され 藩を挙げての開墾事業に取り組んでおり、隊士達は否応無く開墾事業に従事する事になった。関東出身の浪士が多い新徴組には東北の開拓は厳しく、脱走者が相次いだ。脱走者に対して庄内藩は切腹・討伐等の厳しい処置を以って臨み、10年後の再調査では新徴組出身者は11名であった。 

【朝廷と幕府が攘夷決行で意思統一】 
 2.13日、将軍家茂が3千人率いて江戸を発ち、3.4日に入京、二条城に入る。この将軍上洛にともない、水戸十代藩主である慶篤公(順公)もやはり江戸を発って上京する。2.16日に小石川邸を発って、3.6日に京都に到着している。この時に藤田小四郎、武田耕雲斎らが随行する。

 こうして舞台は江戸から京都に移る。将軍、将軍後見職、水戸藩主、そういう人達が京都に集まり、3.11日、孝明天皇御自ら賀茂下社・上社に行幸し、攘夷を祈願する。将軍家茂も賀茂社攘夷祈願行幸に同行する。

 4.11日、孝明天皇が石清水(男山)八幡宮に行幸し、攘夷を祈願する。この背景には京都での長州藩の台頭があった。長州藩の藩論は航海遠略策から最もラジカルな尊王攘夷論に変化し、長州藩の急進派と呼ばれる藩士らが盛んに公家達に尊王攘夷論を吹聴し、思うがままに朝廷を操りはじめていた。

 4.20日、徳川家茂、攘夷期限を5月10日として攘夷決行する旨奉答する。

 将軍後見職の慶喜公の両者が京都に来ており、江戸はがら空きの形であり、これはまずいというので水戸藩主の順公が将軍の目代(代理)として江戸に帰ることを命ぜられた。3.25日、順公が将軍の名代として江戸へ向けて帰る。

 順公が京都を離れる前日の3.24日、順公に代わって京都の守衛は弟の松平昭訓(余四麿)があたるよう命ぜられた。これを補佐するのが家老武田耕雲斎達である。その耕雲斎や大場一真斎に対して、国事に尽瘁すべき旨の朝廷の命令が出る。将軍家茂、順公のお供として山国兵部と一緒に京都に上った藤田小四郎は京都に残り、長州藩の人達と色々会合を持つ。

 4.15日、耕雲斎は宮中において天皇の御陪食を仰せ付かりますと共に、食事の後で、孝明天皇が御使いになられた御箸を拝領している。水戸の家老でありますから直臣ではなく、陪臣である耕雲斎が天皇の御陪食に与るという、この辺りが、耕雲斎の人生の中で最も華やかな時期であり、この人が翌々年にはこの世から消えるということは、誰も想像しなかった。

 4.20、将軍家茂が、5.10日を期して攘夷を実行するということを天下に公表する。

 4.22日、将軍家茂が上奏した二日後、慶喜公は京都から江戸へ帰る。将軍後見職の慶喜公が江戸に戻ってしまう。その時に武田耕雲斎も慶喜公と共に江戸に戻る。その耕雲斎は、6.16日に水戸領海岸を巡視せよ、水戸藩としてどういう防備をすればよいか検討せよと命じられる。この間に「八月十八日の政変」。それと前後して天誅組の乱、生野の変などが起こる。慶喜公が再び上京された後の12.27日に、関東の動きが非常に不穏であるということから、幕府の命により関東鎮撫を依頼され江戸から水戸に戻る。 

【水戸幕末争乱(天狗党の乱)】
 3.27日、水戸藩町奉行・田丸稲之衛門を総帥と仰ぐ水戸藩の尊攘檄派(藤田小四郎藩士、郷士、神官、村役人ら63名)が、「尊王攘夷」を旗印として掲げ筑波山に挙兵した。天狗党と称された。

 一方、水戸藩内には、同じ尊攘派であっても急進主義の檄派に対立してゆるやかな改革をめざす保守系鎮派が勢力を保持しており、門閥派の市川三左衛門らは、尊攘鎮派が主流を占める藩校弘道館の諸生(書生)と結んで反天狗派を結成(これを通常「諸生党」と称する)し藩政の実権を握った。

 以降、両派の争乱が勃発し、時の政局と絡み合っていくことになる。概略は、「水戸天狗党の乱」に記す。

【この頃の京都の政情】
 そのころ京で力を持っていた藩は、まず会津藩。 幕府側の藩であり、京都守護職、そして新撰組を抱え、ますます力をつけていった。 一方、攘夷派では激しい尊王攘夷を掲げて力をつけている長州藩と、いちはやく藩主の島津久光を上洛させた薩摩藩が競争するかのように力をつけていた。長州と薩摩は同じ攘夷派ではあるが、政局のイニシアチブを取ろうとして激しくぶつかり合っていた。

 薩摩藩の島津久光は国政のイニシアチブを握るべく、遠い薩摩からわざわざ兵を率いて京都に入り、江戸にも下向して幕政改革を迫ることに成功したが、京に帰ってみると、長州藩の尊皇攘夷論が勢い盛んになっていた。久光としては、折角の努力が長州藩のために水泡に帰したことから長州藩憎しという感情が芽生えた。この結果、会津藩と薩摩藩とが、お互いの利害関係が一致し、お互いに接近し合い、手を握るという前代未聞の出来事が起こる。

 5.9日、老中格小笠原長行、生麦事件の賠償金440000ドルをイギリス代理公使ニールに公布する。
 5.10日、幕府が指定した攘夷期限5月10日を受け、長州藩が攘夷期限が来たとして、久坂玄瑞らは馬関(下関)で軍艦2隻で田ノ浦に停泊中のアメリカ商船ペムブロークを砲撃する(下関事件)。しかし欧米艦隊により報復攻撃が始まる。壇ノ浦砲台、前田砲台は破壊された。
 5.16日、坂本龍馬と横井小楠・三岡八郎・村田巳三郎会合。
 5.18日、幕府、英仏両軍の横浜駐屯を許可。
【「姉小路公知暗殺事件」】
 5.20日、国事参政職にして孝明天皇の近臣の最も信頼の厚かった公卿・姉小路公知(きんとも)が、京都御所の朔平門外猿ヶ辻で何者かに襲撃され暗殺された。廟議を終えて、護衛を連れ御所を退下中に、三人の刺客に襲われた。姉小路は何度も切り付けられながら奮戦し、奪い取った刀を杖代わりに自邸に辿り着いたものの玄関先で倒れ数刻後絶命した。孝明天皇は怒りに震え、下手人を捕らえるよう厳命した。

 幕府は町奉行や在京諸藩に下手人の探索を命じた。土佐藩の那須信吾は姉小路邸に駆けつけ、現場に落ちていたとされた差料を見て、それが薩摩藩の田中新兵衛のものだと断言した。こうして人斬り新兵衛の異名をとる薩摩藩士田中新兵衛は京都町奉行所で取調べを受けるはめにあった(「田中新兵衛の姉小路暗殺疑惑」参照)。

 新兵衛は否認したが、京都東町奉行永井主水正尚志の訊問中、現場に遺棄されていた証拠の刀「奥和泉守忠重」を突きつけられると、やにわに脇差をもって屠腹、一言の申し開きもせずに自刃した(「新兵衛自害事件」)。以降、事件は迷宮入りとなった。

 この事件は、わざわざ証拠物件が現場に残されており、真相不明であったが、諸藩有志の審議によって、田中新兵衛が犯人ということに決した。その結果、薩摩藩は乾御門の警備を解任され、長州藩が京都政界を牛耳ることになった。薩摩は御所乾門の警護を解かれると、京の政権から追い出された。京ではますます長州の力が独走をはじめる。公卿らを丸め込め、倒幕に向けて一気に加速させようとし始めた。

【孝明天皇の島津久光宛勅書】
 この頃、孝明天皇が島津久光宛に勅書を密送している。これによれば、孝明天皇が如何に島津久光を頼りにしていたかということと、当時の朝廷の情勢や孝明天皇の考え方が判明する。(「会津藩と薩摩藩の関係(後編)-会薩提携、八月十八日の政変-会津と薩摩はなぜ提携するに到ったか?-」参照)
「攘夷之存意は聊茂不相立、方今天下治乱之堺ニ押移り、日夜苦心不過之候、今度大樹帰府之儀ニ付而モ、段々不許趣申張候得共、朕存意ハ少シモ不貫徹、既に帰府治定候事、実以於朝廷茂存分更ニ不貫徹、総而下威ニ中途之執計已ニ而、偽勅之申出有名無実之在位、朝威不相立形勢、悲嘆至極之事ニ候、何分ニ茂表ニ誠忠ヲ唱、内心姦計、天下之乱ヲ好候輩已ニ候、昨年基本ヲ開候事故、深依頼ニ存、只管待候事ニ候、三郎急速上京ニ而、尾張前亜相ト申合セ、一奮発ニ而、中妨無之手段厚周旋、為皇国尽力在之、先内ヲ専ニ相整候辺不浅依頼候、昨年上京之砌言上之筋、一廉も不相立者全姦人之策ニ候得は、何分此処ニ而姦人掃除無之而は、迚茂不治ト存候得は、早々上京ニテ、始終朕ト申合真実合体ニテ無寸違周旋有之度候、何分此侭ニ而は、天下催已ニ而昼夜苦心候間、其辺深熟考有之度候事、上京於周旋は依頼致シ度儀モ候得は速ニ承知、周旋兼而頼置候事」
(『鹿児島県史料・玉里島津家史料二』より抜粋)
「朕が攘夷の意向を示せども、いささかもその通りにはならず、最近の天下はますます乱世の境目に移りつつある。朕は日夜苦心する日々を過ごしている。このたび、大樹公(将軍)が江戸に帰府するということについても許可しない旨を何度も申し渡したのであるが、朕の意向は少しも受け入れられることなく、江戸に帰府することが既に決まってしまったようである。実にもって朝廷においてさえ、朕の意向が少しも貫徹されることなく、総じて下威の者が中途半端な取り計らいばかりしており、偽勅が出されるなど、朕は有名無実の在位でしかない。朝廷の威光が立たないこの形勢について、朕は至極悲嘆に暮れている。何分にも現在の朝廷は、表では忠誠を唱えながら、内心には姦計ありて、天下の乱を好む輩ばかりである。昨年、朝廷を基本とする体制を開いてくれたそち(久光)を深く頼みにしており、ひたすらそちの上京を待ちわびている。三郎(久光)が急ぎ上京して、尾張前大納言(徳川慶勝)と申し合わせ、一大奮発して、朝議が中途で妨害されることのないように手厚く周旋し、皇国のために尽力し、先ずは朝廷内部を整えるよう浅からず依頼している。昨年そちが上京した際に言上したことについて、まったくその通りにはならないのは、全て姦人の策であるので、何分ことここに至っては姦人を一掃しなければ、根本解決にはならないと思われるので、早々に上京して、始終朕と相談して協力し、真実一体となって寸毫も違うことなく周旋して貰いたいと考えている。何分このままでは、天下の政を行なうにしても昼夜苦心が絶えないので、その辺りの事情をよく熟考して貰いたいと考えている。かく上京して朝廷の為に周旋してくれることを依頼したいので、速やかに承知なされ、周旋の件頼み置く次第である」(れんだいこ訳)。

【長州藩が外国船を砲撃、高杉晋作が奇兵隊編成】
 5.23日、長州藩は、幕府の外国船討ち払令を実行し、下関で外国船(米仏蘭)を砲撃する(「四国艦隊下関砲撃事件」)。長州藩砲台、フランス軍艦キンシャンを砲撃。5.26日、長州藩砲台、オランダ軍艦メデューサを砲撃。6.1日、長州藩、アメリカ軍艦ワイオミングと交戦し敗北する。6.5日、フランス東洋艦隊、長州藩砲台を攻撃し、陸戦隊を上陸させ前田・壇ノ浦両砲台を占領。 

 6.7日、高杉晋作、藩に奇兵隊編成を建白し、長州藩が奇兵隊を創設する。この敗報により毛利藩主は高杉晋作に善後策を命じ、憂国の志があればだれでも参加できる奇兵隊が結成された(「高杉晋作、奇兵隊を編成」)。後に、奇兵隊は維新回転の原動力となっていく。

【薩英戦争】
 「生麦事件」により幕府は賠償金を払うが、薩摩藩は拒否した。こうして、「生麦事件」が薩英戦争の引き金となった。薩摩藩は攘夷実行に向けての準備を進め、実弾射撃訓練や模擬戦を行いその日を待ち受けた。

 6.27日、イギリス艦隊が鹿児島湾に到着、停泊。6.28日、イギリス側は前年に起こった生麦事件の犯人の検挙と賠償金の請求を要求したが、交渉は決裂した。7.2日早朝よりイギリス艦隊の砲撃が始まった。世に「薩英戦争」(さつえいせんそう)と云う。イギリス艦隊と薩摩藩砲台群の交戦となったが、イギリス海軍のアームストロ ング砲は、薩摩藩の砲弾の4倍の射程距離を誇る世界最新砲であり、戦死傷者10 余名、市街地焼失1割の被害を与えた後、数十名のイギリス兵が上陸する(「薩英戦争勃発 」)。一方、英国艦隊も嵐の中の戦闘がうまくいかず死傷者を多数出す。この戦闘で、イギリスも旗艦・ユーリアラス号のジョスリング艦長の戦死も含め戦死傷者60余名となった。この薩英戦争では、東郷平八郎、山本権兵衛たちが初陣を飾っている。

 両者痛み分けとなったが、イギリス兵の上陸は薩摩藩の面目を失わせることになった。結局、10.29日、薩英間に和議が成立し、薩摩藩はイギリスに賠償金の支払いを約束。しかし列強の軍事力を体験した薩摩藩は、外国の力を思い知らされ攘夷の不可を一早く悟ることになった。藩論が大きく展開し、これまでの攘夷論から開国論へと路線を転換、急速にイギリスに接近していく。 イギリスの長所を吸収するために接近、通商政策に転じることになり、イギリスも薩摩藩の実力を評価して友好の方針を取るよ うになった。イギリスからの軍艦や武器の購入、留学生の派遣、紡績機械の輸入などが執り行われることになった。

 西郷は、薩英戦争の情報が入ると、処罰覚悟で鹿児島へ帰り、参戦しようとした。10月、土持がつくってくれた船に乗り、鹿児島へ出発しようとしていたとき、英艦を撃退したとの情報を得て、祝宴を催し喜んだ。来島まもなく始めた塾も元治元年(1864年)1月頃には20名程になった。やがて赦免召還の噂が流れてくると、「与人役大躰」「間切横目大躰」を書いて島役人のための心得とさせ、社倉設立の文書を作って土持に与え、飢饉に備えさせた。在島中も諸士との情報交換はかかさず、大島在番であった桂久武、琉球在番の米良助右衛門、真木和泉などと書簡を交わした。

【その後の情勢、幕府の対応】
 6.24日、長州藩兵、小倉藩田ノ浦を占領し、砲台を築いて、外国船攻撃を準備する。6.24日、長州で外国船水先案内をしていた重兵衛が何者かに殺害される。7.23日、長州藩兵、下関港に来航した幕艦「朝陽丸」を砲撃。7.26日、奇兵隊、朝陽丸を占拠。

【坂本竜馬の分析】
 6.29日、坂本龍馬が、下関攘夷戦争直後のこの日、姉の乙女に次のような手紙を書いている。
 概要「誠に歎(なげ)くべきことは、長門の国に軍(いくさ)始まり、後月(5月)より六度の戦に日本ははなはだ利少なく、あきれはてたることは、その(外国船が)長州で戦いたる船を江戸で修復致し、また長州で戦い申し候。これ皆姦吏(幕府の奸吏)の夷人(いじん)と内通致し候ものにて候。龍馬、二、三家の大名と約束を固くし、同志を募り、朝廷よりまず神州(日本)を保つの大本を立て、姦吏を一事に、軍致し打ち殺し、日本を今一度洗濯致し申し候ことに致すべくとの神願にて候」。

【新撰組内の内ゲバ】
 8.10日、新撰組佐伯又三郎、芹沢鴨の内命で佐々木愛次郎を斬るも、自らも芹沢一派に暗殺される。この頃、見廻組、新撰組の仕業と思われる政治テロが続発している。

【攘夷派挙兵の動き】
 1863(文久3).8月頃、この頃の京都は長州藩の影響が強く、攘夷倒幕派志士による反乱計画が練られていった。攘夷派は、孝明帝の大和行幸に際し、挙兵討幕の詔を得ようとしていた。一部が先駆的な挙兵で一気に倒幕気運を盛り上げようとしていた。

 8.13日、孝明天皇から攘夷親征の詔勅が発布された。毛利敬親(たかちか)の建議で、孝明天皇が大和に行幸されるとの大詔(だいしょう)が下った。

 8.14日、首領格である吉村寅太郎(土佐)、松本奎堂(三河)ら38名は、孝明天皇自らが倒幕のため大和行幸するとの計画にあわせ、宿願を達せんとして公家の中山忠光卿を促して京都の方向寺に集まり、大和での挙兵を確認した。中村忠光の妹・慶子が孝明帝の寵愛を受けていたので、背後には朝廷の支持が目論まれていた。

 8.17日、吉村寅太郎らが中山忠光を擁して倒幕を目的とした天誅組を結成した。天誅組は、その日の夜のうちに幹部クラスが淀川を下り伏見から大坂へ出て富田林から観心寺の後村天皇陵、千早城、楠正成首塚などに参拝。このころには、富田林の庄屋・水郡善之祐、藤本鉄石(備前)らも合流していた。堺へと進み、金剛山を越えて、大和五条に下り挙兵した。三条実美や真木和泉は平野国臣を派遣し、鎮静を図ったが、攘夷派志士は構わず計画の実行に入った。

 天誅組は大和で挙兵し、大和五条代官所を襲撃し、短時間で鈴木源内ら5人を殺害。桜井寺に引き上げた。こうして、ひとたびは支配下に置くことに成功する(「天誅組の乱が起こる」)。

 この頃、武蔵国血洗島村の尾高新五郎(渋沢栄一の従兄)、渋沢栄一(当時24歳)・従兄の渋沢喜作(のち成(誠)一郎とも称した)ら六十数名が、攘夷を実行する計画を持ち、高崎城をまず襲撃して乗っ取り、そこから一挙に横浜を襲撃するという計画を立てている。しかし、京都から帰った新五郎の弟・尾高長七郎に止められ、栄一らは涙を呑んで高崎城襲撃を断念している。栄一と喜作は、間もなく血洗島村に居られなくなり江戸に出る。平岡円四郎との関係で京都に出て慶喜公に会い、一橋家の家臣となる。天誅組の挙兵の他、全国各地でこうした攘夷の計画が青年達によって起こそうとされていたということになる。

【「8.18政変」、長州が京都より追放される】
 薩摩は御所乾門の警護を解かれ、京の政権から追い出された。代わりに長州が独走を始めた。長州派公卿を通じて倒幕に向けて一気に加速し始めた。

 これに対し、公武合体派が、攘夷派の挙兵に危機感を高め、反撃する。孝明天皇の意思が倒幕ではなく公武合体、つまり朝廷と幕府が手を握り合うことであることを知った薩摩は長州に逆襲する。薩摩は、保守派の公家や京都に於ける幕府勢力の中心であった会津藩と図り、薩摩系公卿から天皇に働きかけ、三条実美(さねとみ)ら7名の長州系の公卿と長州藩の追い出しをはかった。これによって長州藩の宮内警備の任を解こうとした。京都守護職である会津藩主松平容保は、薩摩の申し出に賛同、中川宮にその秘策を謀った。こうして、1863.8.18日、薩摩・会津・公武合体派公卿たちは、尊攘倒幕派の長州藩、長州派公卿の京からの一掃政略を仕掛ける。これが成功し、公卿はやむなく長州に落ち、長州藩の尊皇攘夷派は京都から一掃されることになった。世にこれを「8.18政変」、「七卿落ち」と云う。

 8.17日の夕方、薩摩系の穏健派公卿の中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)は、御所に参内し、孝明天皇に働きかけ、長州系の公卿と長州藩の追い出しをはかった。天皇から急進派公家の三条実美ら7名の国事掛免職の勅許を得る。そして、同時に長州藩は、受け持っていた堺町御門の守衛を免じられた。

 因州・会津の兵に令して、「国家の害を除くべし」との勅を天皇より賜る。夜になって、中川宮らの「非常の大議あるゆえ、守護職・所司代は、それぞれ人数を引率して子之半刻に参内すべし」との令旨があった。さらに薩摩藩にもこの旨を通達するよう令旨が下った。この日未明、薩摩藩と会津藩が天皇の許可を得て、御所を閉鎖し薩摩藩兵の軍事力でクーデターを起こす。葉室長順卿によって禁門が閉ざされ、非番の堂上の参内を止め、守護職・所司代、薩摩・因幡・備前・越前・米沢以外の諸藩士の九門立入りが禁足とされた。これにより長州藩は、禁門警護の任を解かれ、薩摩藩がこれに代わって、その任につくこととなった。

 薩摩、会津、新撰組の兵が俄かに動き出し、武装して御所の門を固め始めた。長州は堺町御門の警護を解かれ、薩摩、会津、そして新撰組が陣取った。長州は納得がいかず、堺町御門のまえに集結する事態となった。この政変に壬生浪士組も禁門に馳せ参じた。会津藩士鈴木丹下の「騒擾日記」は、概要「壬生浪人と号し居候者共五十二人一様の支度致し、浅黄麻へ袖口の所計白く山形を抜候羽織を着し、騎馬提灯へ上へ長く山形を付け、誠忠の二字を打抜に黒く書置候。大将の芹沢鴨、近藤勇と申者は小具足烏帽子を冠り、鉄扇を取り云々」と伝えている。新撰組は南門を守衛した。

 長州は堺町御門の警備を取り戻したかったが力づくというわけにはいかなかった。そうすれば、京で騒ぎを起こした罪は重いとして朝敵とみなされ更に不利になることが予想された。泣く泣く長州は撤退を始める。これにより、ただでさえ仲のわるかった長州と薩摩はさらに険悪な関係となっていった。勤皇攘夷派の流れが堰止めされ、公武合体へと時勢が流れ始める。

 七卿(三条実美、三条西季知(すえとも)、四条隆謌(たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜちとみ)、壬生基修(みぶもとなが)、錦小路頼徳(にしきこうじよりとみ)、沢宣嘉(さわのぶよし))と長州藩士らは、京から落ちざるを得なくなった(「七卿落ち」)。替わって中川宮を中心とする薩摩・会津・桑名などが御所の中に入り、公武合体派が勢力を盛り返した。この会津と薩摩の長州追い落としクーデターを世に「8.18政変」と云う。

 これにより長州と薩摩は、さらに険悪な関係となっていった。長州藩の志士達は「薩賊会奸」の怨念に固まった。尊皇攘夷一色であった京の政治状況は一変し、公武合体へと時勢は流れ始めた。これにより、不可逆的政争が次々と勃発していくことになった。

【「天誅組の乱」、「生野の変」】
  公武合体派の猛烈な巻き返しによる「8.18政変」により孝明天皇の大和行幸は延期され、天誅組の乱は大義名分を失った。加えて、長州勢力が京より駆逐され、8.19日、三条実実ら長州派公卿7名は長州へ逃れた。長州藩や七卿は都を落ちたという情報が入った。しかし、土佐藩士吉村寅太郎率いる反乱軍は緒戦で大勝利を納めた矢先だったためにそのまま進軍を続けた。

 8.18日、既に大和で挙兵し、大和五条代官所を襲撃し5人を殺していた天誅組は更に南下し、かって南朝方について活躍した土津川郷士に参加を呼びかけ、賛同した数千人と共に大和高取藩の(植村氏)の居城である高取城攻撃を計画する。この高取城は大和屈指の要害。堅固さは五条代官所などとは比べものにならなかった。8.26日、高取城を攻めるが失敗する。主力部隊であった土津川郷士は敗走、幹部も天ノ川に退いた。

 このときになって朝廷は忠光が勅使ではないことを畿内に通達。天誅組は朝廷の後ろ盾を失った。反乱軍はここからは崩壊の一途をたどる。9.4日、幕府が天誅組討伐を決定。京都から続々と切り崩しの使者が幹部や土津川郷士を訪問。9.15日、忠光は参加者に進退の自由を許す。このときにはもう、土津川一帯は紀州・彦根・津の藩兵に包囲されており、忠光は幹部らが討死にする間に突破し長州に逃れたが後に死ぬ。

 寅太郎は高取攻防戦で深手を負い、9.27日に津藩の銃撃で死亡、鉄石も同日、紀州藩陣地に突入し討死にを遂げる。先頭で失明した奎堂は自刃。那須信吾・安岡喜輔ら残りの幹部も討死にや自刃を遂げ、それ以外は、獄舎に繋がれた。鷲家口の戦闘で天誅組壊滅。中山忠光は長州藩大坂藩邸に逃亡。これを世に「天誅組の乱」と云う。

 吉村寅太郎らが大和で討幕の挙兵(天誅組の乱)したのに応じ、10.12日、沢宣嘉、平野国臣(幕末の志士で福岡藩士。国学に詳しく、有職故実に通暁。1858年(安政5)脱藩、京都で同志と国事に奔走した)を主将に但馬生野の農民たちがが幕府代官所を襲撃。しかし、周辺諸藩の出兵がはじまると、内部分裂により3日間で鎮圧された(「生野の変」)。翌年の「蛤御門の変」の際に、平野国臣ら37名が急遽処刑される。

【長州の鬱憤」】
 8.19日、長州藩に派遣されていた幕使鈴木八五郎ら3人、長州藩士に殺害される。8.21日、長州藩に派遣されていた幕府正使中根市之丞ら5人も長州藩士に殺害される。

【「土佐勤皇党壊滅させられる」】
 土佐藩がこの時勢に対応し、山内容堂は、長州と連携していた武市半平太をもはや利用するのに値しないと判断し、土佐勤皇党壊滅の行動にでる。京にいる土佐人すべてに帰国命令を出した。これにより土佐勤皇党は次々と捕縛され始めた。9.21日、土佐藩、土佐勤王党郷士の弾圧を開始、党首武市半平太らを逮捕。武市瑞山投獄される。

【新撰組内で近藤派がイニシアチブ確立する】
 9月、京都残留浪士組はこの政変に参加し、”新撰組”と命名される。その直後の9月上旬、近藤派が新撰組局長・新見錦を祗園山緒で自刃に追いこむ。10.18日、新撰組局長・芹沢鴨、平山五郎らを八木邸にて暗殺(粛正)、近藤勇が新撰組の唯一人の局長となる。

【西郷再度表舞台に登場する】
 薩摩藩としては、「8.18政変」で会津藩と手を結ぶことにより、京における藩の勢力を回復しようと考えたが、実際それは逆効果となった。会津藩と結んだことによる効果は何も無く、逆に勤皇藩と思われていた薩摩藩が、幕府側の会津藩と同盟したことにより、評判がガタ落ちとなった。

 久光並びに薩摩藩の首脳部は行き詰まり、この危機を救えるのは西郷しかいないという運動が藩内に起こり始める。最初に先頭に立って西郷赦免の運動を起こしたのは、寺田屋騒動の生き残りの柴山竜五郎と三島源兵衛(後の通庸)、福山清蔵といった西郷と縁の深い人々であった。三人は京で協議した結果、大久保や家老の小松帯刀(たてわき)といった久光の重臣達に、西郷の赦免を久光に願い出るよう頼むことにした。しかし、それら重臣の人々誰もが久光の西郷嫌いをよく知っていたので、三人の依頼になかなか首を縦に振らなかった。そこで三人は、久光の特にお気に入りの家臣である高崎左太郎(たかさきさたろう)と高崎五六(たかさきごろく)の二人に、久光に願い出てもらうように頼み込む。

 高崎両名は、三人の熱意に心を動かされ、死を決して久光に西郷赦免を申し出た。「西郷赦免の儀、お聞き届けなくば、この場で割腹つかまつる所存でございもす」。その願い出を聞いた久光は、苦々しい表情を浮かべながら、こう言った。「左右みな賢なりというか・・・。しからば即ち愚昧の久光ひとりこれをさえぎるのは公論ではあるまい。太守公(藩主・忠義)に伺いを立てよ。太守公において、良いと言われるのなら、わしに異存はない」。久光はそう言うと、くわえていた銀のキセルをギュッと歯で力強く噛み締めた。その銀のキセルには、久光の歯型が残っていたと云われている。久光としても薩摩藩の今後の命運を考えると、西郷ほど人望や手腕において右に出るものがいない者を、南島に朽ちさせて置くということが情勢上出来なかった。

 9.28日、薩摩、英国代理公使ニールと和平談判を開始。
【参預会議】
 10.26日に慶喜公は再び江戸から海路上京。この時慶喜公は神戸兵庫に11.12日に到着し、やがて京都に入る。12.30日には朝議参予を命ぜられ、朝廷の重要な会議に参画する事になる。

 8.18日政変によって主導権を握った幕府・公武合体派は、この頃から翌年に掛けて、一橋慶喜(よしのぶ)、松平容保、越前の松平慶永(よしなが)、土佐の山内豊信(とよしげ)(容堂/ようどう)、宇和島の伊達宗城(だてぬめなり)、薩摩の島津久光(斉彬の異母弟。兄の死後、藩主忠義の実父として藩政を掌握、公武の間に奔走・周旋し、維新後、左大臣に進んだが、欧化政策に反対、鹿児島に退隠。また「生麦事件」でも有名)らは雄藩大名による参預会議を成立させた。

 これは京都に於ける佐幕派の中心雄藩・会津藩と結んで、孝明天皇の攘夷宣戦を回避する為にとった政策であった。しかし、この会議も朝廷統制派と幕権強化派が対立するに至り、僅か二か月足らずで解散の止むなきを見る。これが原因で公武合体派の各大名は帰国し、幕府の権威は急速に衰退していくことになる。

【幕府が遣欧使節派遣】
 11.28日、幕府、横浜鎖港談判のため、池田長発、河津祐邦らを遣欧使節として任命。幕府、スイスと修好通商条約を締結。12.29日、横浜鎖港談判遣欧使節出発する。翌1864(文久4年・元治元).5.17日、鎖港談判遣欧使節、パリで輸入税率改正と下関通航についてフランスとの約定に調印する。7.22日、横浜鎖港談判遣欧使節、成果なく帰国。使節代表の池田長発は鎖港の不可を建白。

 12.30日、朝廷、一橋慶喜・松平容保・松平慶永・山内豊信・伊達宗城を朝議参与に命じる。
1864(文久4年・元治元)年の動き

 1.9日、武田耕雲斎は諸大夫に列し、伊賀守に任ぜられる。これは普通の家老等では、諸大夫に列するとか、何々の守というのはなかなか戴けない。しかも従五位下に叙せられる。こういうことで、耕雲斎は大変な信頼を得て、単に水戸家の家老というだけではなく、天下に係わる人物として、多くの人から、朝廷からも幕府からも評価されてされて行く。慶喜公からも信頼される立場になって行く。
 1.13日、朝廷、島津久光を朝議参与に加える。
 1.15日、将軍徳川家茂、再度上洛。
 2.11日、幕府、毛利敬親を糾問し、長州藩討伐の準備を始める。
 2.20日、元治に改元。
 2月、長州藩義勇隊、周防別府浦に停泊中の薩摩船を外国交易の疑い有りとして襲撃して焼き払い、船主大谷氏を殺害。26日、大谷氏の首を大坂東本願寺に晒し、義勇隊士水井精一郎ら3人が自刃。3.5日、長州藩処分が決定される。
【西郷再度表舞台に登場する】
 西郷は召喚され、再び時代の表舞台へと登場することになる。2.21日、沖永良部島にいた西郷に、赦免の使者の吉井友実・西郷従道(信吾)らを乗せた蒸気船胡蝶丸が沖永良部島和泊に到着した。途中で大島龍郷に寄って妻子と別れ、喜界島遠島中の村田新八を伴って(村田の兄宛書簡あり。無断で連れ帰ったとも、そうではなかったともいう)帰還の途についた。

 2.28日、西郷は鹿児島に帰り着く。鹿児島に帰った西郷は足が立たなかった。2.29日、這いずりながら斉彬の墓参をしたという。そして、席の暖まる間もなく京へ呼び出され、久光より軍賦役兼諸藩応接係(ぐんぶやくけんしょはんおうせつがかり)を任命される。軍賦役とは兵力を自由に操ることが出来る司令官であり、西郷がこれに任命されたことは薩摩藩の実質的なリーダーとなったことを意味する。ここから西郷の縦横無尽な活躍が開始される。

 3.4日、村田新八をともなって鹿児島を出帆し、3.14日、京都に到着し、3.19日、軍賦役(軍司令官)に任命された。京都に着いた西郷は薩摩が佐幕・攘夷派双方から非難されており、攘夷派志士だけではなく、世評も極めて悪いのに驚いた。そこで、藩の行動原則を朝旨に遵(したが)った行動と単純化し、攘夷派と悪評への緩和策を採ることで、この難局を乗り越えようとした。

 西郷が京に入って最初に手掛けたことは、前年の8.18政変で同盟した会津藩と手を切ることであった。確固とした方策を持たずに、ただ長州藩を追い落とすために会津と結んだことのしわ寄せが、あらゆる方面に出ていたことが薩摩藩の現状を悪くしていると考えた。そのため西郷は、会津藩と一定の距離を保つために、薩会同盟を結んだ人々を薩摩に帰国させ、京での薩摩藩の信頼回復に全力を投じた。 

 3.9日、鎖港問題で対立した一橋慶喜と松平慶永・松平容保・伊達宗城・島津久光が辞任。朝議参与は瓦解。
【フランス公使レオン・ロッシュ着任】
 3.22日、フランス公使レオン・ロッシュ着任。11.10日、幕府、ロッシュに横須賀製鉄所などの建設援助を求める。

【一橋慶喜が禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられる】
 元治元年1.15日に家茂が入洛する。3.25日に、慶喜公は禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられ、将軍後見職は辞任する。禁裏御守衛総督とは、今で言えば皇宮警察本部長、昔で言えば近衛師団長。摂海防禦指揮というのは、神戸のあたりから大坂にかけての大坂湾(明治以後は大阪)の海岸防禦、いわゆる海岸防衛隊長を意味する。その両方を兼ねたことになる。

 慶喜公が禁裏御守衛総督職に就いた背景には、薩摩との駆け引きがあった。藩主忠義の実父として国父の尊称をうけていた島津久光が薩摩藩の実権を掌握し、朝義参予を命ぜられて、公武合体派の中心として朝廷でも重用された。しかし特別な官職には就いていなかったので、薩摩の兵を引き連れて禁裏を御守衛する総督と、海岸防禦の指揮官の地位を欲した。兵学者・折田要蔵に命じて、大坂に塾を開かせ、海岸防禦その他を研究させていた。この情報を察知したのが慶喜公の用人であった平岡円四郎で、平岡は、島津久光の動きがおかしい。久光が禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられると我が主君である慶喜公の動きがほとんど封ぜられてしまう。この久光の野望をなんとか粉砕する必要がある、と考えた。そこで平岡は、渋沢栄一に折田要蔵の塾に入塾しろと命じ、栄一はさっそく築城学を学ぶという名目で塾生として潜り込む。折田と島津久光の狙いを読み取った渋沢は、委細を平岡に報告し、平岡はこのことを慶喜公に伝え、島津が任命される前に手をうつ必要があるということで、慶喜公の立候補となり、朝廷では幕府の了解のもとに、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮の職に慶喜公を任命したとの経過があった。

【水戸天狗党の乱】
 その頃即ち元治元年の春頃、藤田小四郎は長州藩と密接な関係を持って行く。桂小五郎、因幡国の八木良蔵・藤田小四郎達が、麻布の長州藩邸に集まり、東西で兵を挙げる、小四郎達が挙兵すれば必ず長州藩は応援するという密議が交わされたと伝えられている。長州藩は京都に攻めのぼって薩摩・会津に対抗する計画であった。その際に幕府を簡単には京都に向わせないよう水戸が中心となって関東で挙兵する。そうして釘付けしている間に長州藩は京都にいる薩摩・会津をやっつけることが出来る。幕府が動かないようにしてくれ。そのために桂小五郎は藤田小四郎達に軍資金を出そう、という密約を交わしたと云われている。本当に金が渡ったかどうかは不明なるも一千両あるいは二千両渡されたとも言われている。これは。これより小四郎は小川や潮来などを遊説して、竹内百太郎とか岩谷敬一郎などの有力者を同志に得て行く。

 2月、水戸の藤田小四郎(幕末の志士。藤田東湖の四男)が、同志と共に尊王攘夷を唱えて筑波山上に兵を挙げ、指揮者となる。事敗れ武田耕雲斎らと西上、越前敦賀で処刑)らが筑波山に立て篭った「水戸天狗党(みとてんぐとう)の乱」等が起こる。

 4.25日、英米仏蘭の公使、幕府に対して、下関通航と横浜鎖港についての共同覚書を通告する。
 4月、西郷は御小納戸頭取・一代小番に任命された。
【幕府が神戸海軍操練所を設立】
 5.21日、幕府が、勝海舟に命じて神戸海軍操練所を設立。勝海舟は、軍艦奉行・海軍操練所総管に任ぜられる。弟子の坂本龍馬が塾頭になり、広く人材を募った。

【「池田屋事件」、以降幕末志士対新撰組の死闘】
 6.5日、再び勢力を盛り返そうと長州藩士ら20名が、京都三条小橋の池田屋旅館に集結していた。幕府側はこれを察知していたが場所を特定できなかった。しかし、近藤勇率いる新撰組が町人に成りすましていた近江出身の尊攘志士古高俊太郎を激しい拷問の末、池田屋ないしは四国屋で謀議が行われることを突き止め、土方隊24名は四国屋へ、近藤隊の精鋭10名は池田屋へ向かった。近藤、沖田、永倉、藤堂ら5名が決然踏み込み、2時間に亘る激闘の末、松下村塾四天王の一人吉田稔麿(としまろ、長州)、宮部鼎蔵(肥後)、北添佶麿、大高又次郎はじめ7人を斬殺、10人余を捕縛した(「池田屋事件」)。桂小五郎は難を逃れる。明治維新が1年遅れたといわれた程の大事件だった(「池田屋事件」)。

 この事件により新撰組の名声があがった。逆に憤慨した長州藩は禁門の変をおこす一因となった。同年10月、江戸で隊士募集。伊東甲子太郎が加盟。新選組は、1864(文久4).6.5日の池田屋事件を経て、1865(慶応元年)年の春、西本願寺へ屯所を移転する。

 この間、1865年(元治2)3月、副長・山南敬助切腹。同年10月、4番隊組長・松原忠司切腹。1866(慶応2).3月、勘定方・河合耆三郎切腹。同年5.7日、7番隊組長・谷三十郎暗殺。1867年(慶応3).4月、伊東甲子太郎派が「御陵衛士」として「新撰組」から分離。同年7月、「新撰組」が幕臣となる。同年12月、「油小路の決闘」で「御陵衛士」全滅。新撰組は、もはや衰退の方向へと向かっていく徳川幕府の中で否応なしに歴史の流れの中へ巻き込まれ次第に分裂していくことになる。

 この当時、攘夷派および世人から最も悪評を浴びていたのが、薩摩藩と外夷との密貿易であった。文久3年(1863年)半ばに、米国南北戦争(1861年-1865年)により欧州の綿・茶が不足となり、日本綿・茶の買い付けが盛んに行なわれた結果、両品の日本からの輸出量が極端に増加した。このことから日本中の綿・茶値段は高騰し、薩摩藩の外夷との通商が物価高騰の原因であるとする風評ができたのである。世人は物価の高騰を怒ったのであるが、攘夷派は攘夷と唱えながら外夷と通商していること自体を怒ったのである。その結果、長州藩による薩摩藩傭船長崎丸撃沈事件、加徳丸事件が起きた。
 6.11日、西郷派、薩摩藩への悪評(世論も大きな影響を持っていた)は薩摩藩の京都・大坂での活動に大きな支障となったので、大坂留守居木場伝内に上坂中の薩摩商人の取締りを命じ、往来手形を持参していない商人らにも帰国するよう命じ、併せて藩内での取締りも強化し、藩命を以て大商人らを上坂させぬように処置した。
 6.11日、この間、京大坂滞在中の幕府幹部は兵6万の武力を背景に一層強気になり、長州再征等のことを朝廷へ迫った。これに対し、西郷は幕府の脅しに屈せず、幕府の長州再征に協力しないように大久保に伝え、そのための朝廷工作を進めさせた。
 6.24日、西郷が京都で坂本龍馬と会い、長州が欲している武器・艦船の購入を薩摩名義で行うこと承諾し、薩長和親の実績をつくった。
 6.27日、池田屋事件からまもないこの頃、朝議で七卿赦免の請願を名目とする長州兵の入京が許可された。これに対し、西郷は薩摩は中立して皇居守護に専念すべしとし、7.8日の徳川慶喜の出兵命令を小松清廉と相談のうえで断った。
 7.7日、一橋慶喜、京の長州藩士に退去を命じる朝旨を提示するも効果なし。
【佐久間象山、河上彦斎らに刺殺される】
 7.11日、佐久間象山、河上彦斎らに刺殺される。

 7.18日、英米仏蘭4ヶ国連合艦隊、出撃を通告。


【長州反撃、「蛤御門の変(禁門の変)」勃発】
 「8.18政変」、池田屋事件などにより長州勢力が京から排除されたが、長州の尊攘急進派は激昂し、福原越後(ふくはらえちご)ら三家老を将として、嵯峨、山崎、伏見など京都周辺に二千の兵を集結させて、朝廷に入洛許可などを求める。朝廷はこれに対して解兵を命じ、その事態に憂慮した京都守護職の松平容保は、万一の場合に備え、薩摩藩に出兵を要求する。しかし西郷は、「池田屋事件といい、これは会津と長州の私闘である」と言い放って出兵を拒否し、とにかく薩摩藩は御所のみを重点的に守るという方策を立てる。

 7.18日、京都近郊に集結した長州藩軍勢4隊の内、福原越後隊・真木和泉隊が郊外から市内に向けて進軍を開始する。福原越後隊は丹波橋付近で敗北する。

 7.19日、失地回復の巻き返しを目指す長州兵は朝廷の説得に応じず、長州軍勢の国司信濃隊・真木和泉隊がこの日夜、京都市街地へ侵入し下立売門から御所へ突入した。これを阻止せんとして蛤御門を警備していた会津・桑名・新撰組の軍勢と正面衝突となった。前年からの恨みが骨髄にしみわたった長州藩の勢いはまことに凄まじく、会津兵を蹴散らし、長州勢は御所に迫る勢いを見せた。

 この状況を知った藩兵参謀の西郷は、自ら数百の藩兵を率いて蛤御門に駆け付け、長州勢と激しい戦いを繰り広げる。西郷自身も軽傷ながら被弾するなど、この蛤御門周辺の戦いは大変な激戦であったが、西郷はうまく藩兵を使いこなし長州勢を退けた。長州藩は、薩摩藩を中心とした連合軍に撃破され、重臣の来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉など幹部が多数戦死し、後詰めの益田隊も含めて敗走した。久坂玄瑞も負傷し自刃した。大将の一人だった永代家老の益田弾正は帰国後切腹を命ぜられ、責任を感じた周布政之助は自刃した。戦火で京都市内811町に渡る民家27511戸、土蔵1207棟、寺社253などが焼失した。

 この時宮中は大混乱し、「神器を入れたる櫃も縁側に並置せられ」たほどだったという。堺町御門付近でも両者の戦闘があり、鷹司邸に火が放たれた。火は折からの北風にあおられて南へ拡大。晴天続きで乾燥状態にあった京都の町はたちまち火の海となった。火は3日間燃え続け、堀川と鴨川の間、一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされた。「甲子兵燹図」に描かれたそのさまは地獄絵図のようで、命からがら逃げおおせた人々も、山中から呆然と市中の火の海を眺めるばかりであったという。この大火により実に28,000軒の家が焼失し、難民が河原などに溢れた。小川通御池上ルにある六角牢獄にも火の手は迫ったが、この時幕府側は、破獄を企てたという理由をでっち上げて平野国臣ら尊攘派志士37名を斬首した。平野の時世の句は、「憂国十年、東走西馳、成否は天に在り、魂魄地に帰る」。

 この戦いで、薩摩藩兵の強さが際立ったため、西郷吉之助の名は一躍京において有名となった。そのときの彼の立場は、大久保一蔵(利通)に送った手紙にはっきり打ち出されている。「いずれ追討の勅命相下り申すべき儀と存じ奉り候に付き、その節は正々堂々の兵をもって長賊(ちょうぞく)を駆り尽くし申すべしと相待ち居り申し候」。西郷にとって長州藩は「賊」であり、それは幕府の側に立つと同時に薩摩藩の方針に沿って、暴走するこのライバルをたたき伏せるという決意である。凶暴な意志を激しく燃え立たせた戦闘者としての西郷がそこにいる。

 7.21日、天皇、蛤御門の変に関し、長州追討の勅命を発する。これにより、長州は朝敵の汚名を着る事となる。この時長州藩兵を指揮したのが、九州久留米の水天宮の神官真木和泉守保臣であった。この人は水戸にも遊学し、明治維新の方向を明確に打ち出すその元をつくった人だと言われている。真木和泉守は、京都と大坂の中間に位置する天王山において他の16名の同志と共に割腹自決する。長州の「薩賊会奸」を助長した。

 この事件が第一次長州征伐の発端となる。これを世に「禁門の変(蛤御門の変)」と云う。この禁門の変は、皮肉なことに、最も朝廷の立場を考え幕府と対決し、攘夷を実行しようとした長州藩が、御所の外から御所(皇居)に向けて大砲・鉄砲を打つ立場になってしまい、佐幕派の会津桑名、またこれと行を共にする薩摩藩が、御所の中にいて天皇をお守りする立場になった。この禁門の変において目覚ましい活動をされたのが慶喜公で、禁裏御守衛総督としてその指揮にあたった。「禁門の変」は、慶喜にとって重大な事件となった。

【六角獄舎での尊王攘夷派浪士集団処刑事件】
 「六角獄舎の集団処刑」を参照する。

 1864(元治元)年7月20日、京都御所・蛤御門(はまぐりごもん)の変で戦火が市中へ広がり、火の手が堀川、二条城へ迫ってきた。堀川から西約400メートル、二条城からは南約600メートル先に六角獄舎があり、尊王攘夷派浪士を多数収監していた。京都町奉行の滝川具挙(ともあき)は、火の手が獄舎近くまで迫ったことから、尊王攘夷派浪士中の最危険分子とみなした33名の斬首を命じた。その中には、「生野の変」の首謀者、平野国臣ら5人の斬首に続いて、天誅(てんちゅう)組や池田屋事件の関係者らが続いた。「池田屋事件」で逮捕された古高俊太郎もいた。捕囚が辞世の句を読むと同時に首を切って行く凄惨な処刑が続けられ3時間にも及んだ。平野の絶命の声を聞いた収監中の村井正礼(まさのり)はその光景に体が凍りつき、ひと言も声が出ず、「予キョ然タリ」と記している。これを仮に「六角獄舎での尊王攘夷派浪士集団処刑事件」と命名しておく。その村井も3年後の慶応3(1867)年12月、ここで処刑される。直後に滝川は大目付に昇進している。今回の処刑の半年前にも別の天誅組の十数人が六角獄舎で処刑された記録もある。平野とともに斬首されたはずの古高俊太郎ら池田屋事件関係者はこのドサクサの中、新選組によって殺害されたという説もある。平野らの遺体は現在の西大路通丸太町付近にまとめて竹林寺(上京区)に埋葬されている。寺の記録には、このとき埋葬した人数は33人ではなく37人と記されている。


【幕府の第一次長州征伐】
 勤王の名のもとに運動を続ける長州藩や尊攘派の志士たちが、理由はどうあれ宮廷に対して発砲を行った禁門の変は、幕府にとって敵国になりつつあった長州藩を抑える絶好の出来事だった。幕府は禁門の変の責任を追及して、第一次長州征伐を企図する。

 7.23日の朝議により、長州藩追討が決定する。

 7.24日、朝廷からの長州藩追討令を受けた幕府は、西国の中国、四国、九州の21藩に対して出兵準備を命じ、将軍自らが長州征討に出陣することを声明する(「第一次長州征討を発表」)。かくて長州に征討軍が向かう。これを世に第一次長州征伐と云う。

【四国艦隊下関砲撃事件】
 幕府の長州藩追討に合わせるかのように、前年(文久3.5.15日)の長州の攘夷行動に対して、攻撃されたフランス、イギリス、オランダ、アメリカの英米仏蘭四国が連合して下関砲撃すべしとの合意が元冶元年6.19日決定した。幕府は静観するなか、7.27日、連合艦隊が横浜を出港、

 8.4日、英米仏蘭4ヶ国艦隊17隻、兵力5千が、砲撃を開始、下関(馬関)の砲台が占領される(「四国艦隊下関砲撃事件」)。同日下関で火災、10日までに約5千軒が焼失する。8.6日、4ヶ国の陸戦隊2千余人が上陸。砲台を占拠し破壊する。8.8日、長州藩、高杉晋作を降伏使として4ヶ国艦隊に和議を申し入れる。8.14日、長州藩、4ヶ国艦隊と講和5ヶ条で和睦。

 4ヶ国艦隊17隻が砲撃を開始した前年からの、下関海峡での外国船砲撃の報復として、アメリカ・イギリス・フランス・オランダの四ヶ国の連合艦隊の砲撃により長州は完敗した。これにより長州藩の攘夷方針は完全に挫折した。長州藩の攘夷派は、禁門の変・四国連合艦隊の攻撃による降伏で、藩内での実権を失うことになる。代わって実権を握ったのが俗論派で、椋梨藤太をはじめ萩在住の門閥の家柄が中心となり、毛利家の存続のためにはすべてを犠牲にしても幕府に恭順の意を示そうという「純一恭順」を唱えた。

 この事件により、現在の日本の武力では攘夷は不可能なことが世間に広まった。高杉晋作は、伊藤俊輔(後の博文)と共に長崎の英国商人グラバーを訪ね、渡航斡旋を依頼している。その後、藩の正規軍があまりにも力がないために、身分の差別なく、志のある人物で構成される奇兵隊を結成していくことになる。

【坂本龍馬と西郷隆盛が初見】 
 8月、坂本龍馬が、勝海舟の指示で、京都の薩摩藩邸で西郷隆盛と密会。西郷は、勝の意見を参考にして、長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにした。

 勝の「氷川清話」は、京都から神戸海軍操練所に帰った時の龍馬の発言を次のように記している。

 概要「西郷は、大太鼓のような男で捉えどころが無い奴だ。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。もし馬鹿なら大馬鹿で、利口と云えばこれ以上の利口者はいない」。

 ちなみに、坂本龍馬の盟友にして共に近江屋で暗殺された中岡慎太郎は、板垣退助にあてた手紙の中で次のように評している。
 概要「西郷の人となり、肥大にして御免の要石(土佐の御免という土地の角力取)に劣らず、古の安倍貞任などもかくの如きかと思いやられ候。この人学識あり、胆略あり、常に寡言にして最も思慮雄断に長じ、偶々一言を出せば、確然人の腸を貫く。且つ徳高くして、人を服ししばしば艱難を経て頗る事に老練す。その誠実、武市(土佐勤皇党の領袖)に似て、学識あることは優り、実に知行合一の人物、当世洛西第一の英雄なり」。

 豊後岡藩の勤皇党の領袖・小川一敏は、こう評している。
 「さてもかかる勇夫大胆の人、今の世にあるとは思いもよらざる程の人に御座候。極めて大事を成す人と存じ候。かかる勇士もあればあるものと感心仕り候。しかも、猪の武者にてはこれなく候」。

【長州が幕府に恭順和睦】
 8.2日、幕府、長州藩征討令を35藩に命じる。西郷隆盛の指揮する15万の兵士が長州国境に迫った。西郷は征長総督の参謀として西下した。征長軍の総督は、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)であった。慶勝は、征長に関しての意見を西郷に求めると、西郷はこの長州征伐のような国内の内戦が無意味であることを述べ、戦争による財政負担等のことも考え、武力を使わずに長州藩内で事を解決させるべく戦わずして勝つ方策を最上と考えた。長州藩では尊攘派と保守派の二派が対立しており、西郷はこの内紛を利用しようと考えた。長州の支藩の岩国藩主・吉川監物(きっかわけんもつ)に本藩を説得させ、恭順させるのが一番の良策であると進言した。西郷の頭の中には、幕府が考えるように、長州藩を潰すという了見はさらさら無かった。その進言に納得した徳川慶勝は、西郷に征長に関わる一切の工作を委任する。

 ここで西郷は重要な役回りを果たす。西郷の時代を読む眼が次のようなものであったと推測される。長州藩を討ったところで回天しない。幕府の強権体制が持続するだけで、その矛先はいずれ薩摩にむけられてくる可能性がある。この際、長州藩に深刻な打撃を与えず幕府とにらみあいさせておくのが薩摩にとって得策ではないか。これが西郷の読み筋であった。

 11月、朝命によって編成された長州征伐軍は長州藩を包囲し、18日を期して総攻撃の体制を整える。総攻撃の刻限を待つばかりとなる。

 この間長州藩内部では、佐幕保守派と尊攘急進派の対立が激化した。長州藩内の階級闘争でもあったために両者は互いに譲らず、保守派が自らを正党、攘夷派を暴党と呼べば、逆に攘夷派は正義派を称して、保守派を俗論派と卑しめていた。急進派と保守派の政権争いは、8.18日の政変、禁門の変などの重大事件を通して2転3転するが、征長軍の攻撃開始を前に控えた9月末の会議で、ようやく攘夷派の井上聞多の主張が受け人れられる体制となった。奇兵隊ら軽輩を中心とした急進派は、外に対しては恭順を装いつつ、内では武備を充実しようという「武備恭順」を標傍した。 

 この間、慶勝の承認を受けた西郷は総督より一足先に広島へ行き、急遽岩国で藩主・吉川監物と会談する。西郷は吉川に対し、無意味な抵抗は愚策であると論じ、先の蛤御門の変の首謀者の三人の家老や四人の参謀の処罰を徹底し恭順の意を示すこと、8.18政変で長州に落ち延びた五卿(七卿のうち1人は病死し、一人は行方不明になっていた)を他藩に移すこと等の条件を守るならば、征長軍を解兵させるように働くと約束する。

 吉川は西郷の進言を快く受け入れ、本藩の長州藩に先程の西郷が提示した条件を遂行するように働きかける。9.26日夜、会議が終わった帰路正義派の井上は保守派の撰鋒隊士に襲撃され、瀕死の重傷を負い、藩論は保守派が握ることとなる。結果、長州藩は蛤御門の変の首謀者である正義派三家老(益田右衛門介、国司信濃、福原越後)を自刃させ、四参謀を萩の野山獄で斬罪し恭順の態度を示す。さらに、征長総督の命により、長州藩主父子自筆の伏罪状の提出で蟄居して謹慎の意を表わす。

 しかし、五卿の移転に関しては、事態が紛糾した。長州藩が匿っていた三条実美以下の五卿は、長州にとって勤皇藩として働いてきたシンボルであり、証(あかし)であった。それを他に引き移すという征長軍の条件に、長州藩士らは激昂し、「絶対に五卿は渡さない」と主張した。特に前年、高杉晋作(たかすぎしんさく)によって結成された奇兵隊を中心とした諸隊と呼ばれる十数の部隊は、強行に五卿の移転に反対した。武力を使わずに長州処分を行うことが出来ると考えていた西郷にとって、この行動は平和的解決を潰しかねないと思われた。五卿の移転を拒否することは、すなわち幕府に付け入られる隙となり、武力での討伐を考えている幕府の出兵に対する名目ともなりかねないと考えられたから。

 そこで、西郷は思い切った行動に出た。下関の諸隊の本部に乗り込み、五卿の移転に関して、諸隊の幹部らと直談判しようとする。当時の長州藩内では、8.18政変や蛤御門の変での恨みが骨髄にまでしみわたっており、薩摩・会津を憎むものがほとんどで、自らが履く下駄の裏に「薩賊会奸」(さつぞくかいかん)と記して歩く者がいたほどであった。また、過激な長州藩士らは「関門海峡は薩摩にとって三途の川だ。渡れるものなら渡ってみろ、薩摩藩士と判ったら、討ち伏せてくれよう」とまで言い放ち、長州という場所は薩摩人にとって死地に等しい場所だった。特に諸藩の幹部連中には過激な者が多かったので、その諸隊本部に行くということは、まさに死にに行くみたいなものと考えていい。しかし、西郷はその死地に自らを入れることにより、事態の改善に勤めようとした。まさに、「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」であった。

 諸藩の幹部らは、薩摩を代表する西郷が来たことに驚き、目を丸くした。西郷はその諸藩の幹部らに、現在の日本の状況を考えてみれば、内戦を起こしている場合でないことは明らかであることを述べ、また五卿の身の安全を保障し、五卿移転による早急な征長軍の解兵が薩長双方にも有意義であることを述べた。西郷の熱心な説得により、諸隊の幹部らは五卿を移転させることを承知した。結局、長州に亡命中の三条実美ら五卿の他藩への移送、山口城の破却などの諸条件を受け入れて、一件落着を見ることになる。西郷の工作は成功した。

 五卿動座が決定され、かくて禁門の変と英・仏・米・蘭の4カ国連合艦との戦いで戦カの大部分を失っていた長州藩は、開戦直前に幕府に降伏。幕府側もこれを受け入れ、第1次長州征伐は、実際には一戦を交えることもなく終了した。征長軍総督・徳川慶勝は、征討諸軍に解兵を命じた。第一次長州征伐の平和的な解決は、この西郷の死を決した働きによるものだった。

 長州藩は毛利父子の謝罪、禁門の変の責任者を切腹、処刑するなどして降伏。戦わずして第一次長州征伐は終了した。長州藩内は急進派(正義派)から保守派(俗論党)に握られることになった。 長州藩は8.8日に休戦を申し入れ降参した。

  西郷が、長州藩の内扮に目をつけ、無駄な争いをすることなく長州藩を降伏させる方策を強く主張したために、両者の意見の一致を見、内戦の危機は一応回避され、征長軍は撤兵して第一次長州征伐は無血で終結した。西郷の不戦工作は成功した。開戦を目前にした短時日のうちに果敢な行動力を発揮、総攻撃をぎりぎり中止に持ち込んだことになる。 

 長州側では薩摩が好意的に処置してくれたのだと感謝したのだが、このころ西郷が大久保に送った手紙によると、事後の長州処分について、下関あたりの十万石程度の長州領を没収して豊前・筑前藩に守衛させ、長州藩の力を弱めておくという案を幕府に進言している。ここでは非情な政略家の西郷が時局の先行きをながめている。

【勝と西郷の初見】
 9.11日、越前福井藩の堤正誼(つつみまさよし)と青山貞(あおやまさだ)の二人が、突然西郷を訪ねてくる。二人は西郷に、今、大阪に幕臣の勝海舟という人物がいるのだが、勝は幕臣中一廉の人物であるので、是非面会なさった方がよい、と進言した。西郷はその話を聞き、早速、勝に面会を申し込む。勝はその申し出を快く受け、ここに薩摩と幕府の英雄が顔を合せた。

 その席で、勝はざっくばらんに幕府の内情や、現在の諸問題について、西郷と語りあった。勝は、「幕府には、もはや天下を仕切るだけの力がない」と云いきった上で、概要「アメリカの船は、近々間違いなく日本の近海にやって来る。この切迫した御時勢にあって、堂々たる大藩が長州征伐などしている場合か。何を血迷っているのか」と述べ、欧米列強と太刀打ちできる為の雄藩連合の挙国新体制づくりの必要を説いた。司馬遼太郎の「龍馬がゆく」では次のように記されている。
 「幕府なんざ一時の借り着さ。借り着を脱いだところで日本は残る。日本の生存、興亡のことを考えるのが当然ではないのか」。

 西郷はその時の勝との対面を、大久保宛の手紙の中にこう書いている。(現代文に訳し且つれんだいこ風に意訳する)
 「勝氏と初めて面会したのですが、実に驚くべき大人物でした。最初は打ち叩くつもりで会ったのですが、実際会ってみると、こちらが頭を下げられる破目になりました。勝氏にはどれだけの知略があるのか、私には見当がつかないほどです。英雄的な肌合いの人で、佐久間象山よりもなお優れた人物のように思われる。学問と見識に於いては佐久間は抜群なれど、いざ事に処するに於いては勝先生に優る者はいないのではなかろうか。私は勝先生に惚れてしまった」。

 この対面で、西郷がいかに勝の人物を認めたか、この手紙でよく分かる。これが、後年、江戸無血開城の大立者となった勝と西郷の最初の出会いであった。

 9.22日、幕府、前年の長州藩砲撃事件の賠償として300万ドルの支払い、もしくは1港開港の条件に署名する。
 10.1日、前尾張藩主・徳川慶勝から出された条約の勅許と兵庫開港勅許の奏請も、一旦は拒否したが、将軍辞職をほのめかしと朝廷への武力行使も辞さないとの幕府及び徳川慶喜の脅迫に屈して、条約は勅許するが、兵庫開港は不許可という内容の勅書を下した。
 10月初旬、西郷が、御側役・代々小番となり、大島吉之助(『詳説西郷隆盛年譜』によれば、この名は沖永良部島在島以来らしい)から西郷吉之助に改めた。
 10.12日、西郷は征長軍参謀に任命された。
【西周と津田真道がオランダに留学時にフリーメーソンに入会】
 この頃、西周と津田真道がオランダに留学時にフリーメーソンに入会している。西周の入会時は1864(文久4年・元治元)年10.20日。津田真道は西より一ヵ月遅れて西と同じロッジのフリーメーソンに入会している。このあたりのことはほとんど知られていない出来事である。

 加治将一(かじ まさかず)著「あやつられた龍馬」(「幕末 維新の暗号」?)が次のように記している。
 10.20日、第一階級として入会。日本国、津和野生まれ、35歳、日本国官吏としてライデンに在住の西周助(本名)署名・ 

 西は文久3年(1862年)に幕府の研修生としてオランダに留学している。留学先はライデン大学。学んだのは、自然科学、国際法、国内法、政治学および統計学。その西周は、ライデン大学から近くにある「ラ・ベルトゥ・ロッジ ナンバー7」に加盟し、フリーメーソンになっている。現在記録に残っているという意味では、日本人最初のフリーメーソンということになる。

 西周 (にし あまね)(文政12年2月3日(1829年3月7日) - 明治30年(1897年)1月31日)(ウィキより抜粋)
 江戸時代後期から明治時代初期の幕臣、官僚、啓蒙思想家、教育者。貴族院議員、男爵、錦鶏間祗候。勲一等瑞宝章(1897年)。周助ともいう。石見国津和野藩(現、島根県津和野町)の御典医の家柄。父・西時義(旧名・森覚馬)は森高亮の次男で、川向いには西周の従甥(森高亮の曾孫)にあたる森鷗外の生家がある。西の生家では彼がこもって勉学に励んだという蔵が保存されている。漢学の素養を身につける他、天保12年(1841年)に藩校・養老館で蘭学を学んだ。安政4年(1857年)には蕃書調所の教授並手伝となり津田真道と知り合い、哲学ほか西欧の学問を研究。文久2年(1862年)には幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学し、フィセリングに法学を、またカント哲学・経済学・国際法などを学ぶ。オランダ留学中の1864年にライデンでフリーメイソンリーに入会している。慶応元年(1865年)に帰国した後、目付に就任、徳川慶喜の側近として活動する。王政復古を経た慶応4年(1868年)、徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任。同年、『万国公法』を訳刊。明治3年(1870年)には乞われて明治政府に出仕、以後兵部省・文部省・宮内省などの官僚を歴任し、軍人勅諭・軍人訓戒の起草に関係する等、軍政の整備とその精神の確立につとめた。明治6年(1873年)には森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成し、翌年から機関紙『明六雑誌』を発行。啓蒙家として、西洋哲学の翻訳・紹介等、哲学の基礎を築くことに尽力した。東京学士会院(現在の日本学士院)第2代及び第4代会長、獨逸学協会学校(現在の獨協学園)の初代校長を務めた。明治30年(1897年)、明治天皇は西の功績に対し勲一等瑞宝章、男爵の位を授けた。同年1月31日に死去。享年68。

 津田 真道(ウィキより抜粋)
 津田真道(つだ まみち)(文政12年6月25日(1829年7月25日) - 明治36年(1903年)9月3日)は、日本の武士(幕臣)、官僚、政治家、啓蒙学者。福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之、西村茂樹らと明六社を結成。岡山県出身。美作国津山藩上之町(現:岡山県津山市)の生まれ。幼名は喜久治。後に真一郎、行彦とも名乗った。嘉永3年(1850年)に江戸に出て箕作阮甫と伊東玄朴に蘭学を、佐久間象山に兵学を学ぶ。藩籍を脱して苦学したが、安政4年(1857年)蕃書調所に雇用されて、文久2年(1862年)には西周とオランダに留学しライデン大学のシモン・フィセリング(ドイツ語版)に学ぶ。オランダ留学中の1864年(元治元年)にフリーメイソンリーに入会している。4年後に帰国する。その講義録を慶応2年(1866年)に『泰西国法論』と題して訳出する。これは日本初の西洋法学の紹介となる。その後、幕府陸軍の騎兵差図役頭取を経て、目付に就任、大政奉還に際しては徳川家中心の憲法案を構想した(『日本国総制度』)。

【長州藩が幕府に恭順】
 10.21日、毛利敬親、幕府への恭順・謝罪のため、藩内の諸隊に解散を諭示。

 10.24日、西郷派、大坂で征長総督徳川慶勝にお目見えし、意見を具申したところ、長州処分を委任された。そこで、吉井友実・税所篤を伴い、岩国で長州方代表吉川監物と会い、長州藩三家老の処分を申し入れた。引き返して徳川慶勝に経過報告をしたのち、小倉に赴き、副総督松平茂昭に長州処分案と経過を述べ、薩摩藩総督島津久明にも経過を報告した。

 11月、結局、西郷の妥協案に沿って収拾がはかられることになり、西郷が、長州藩の吉川経幹と三家老処分・五卿移転等で交渉、解兵に向け尽力する。

 11.11日、長州藩、3家老に自刃を命令。

 11.15日、長州藩に亡命していた公卿中山忠光暗殺される。

 11.16日、征長総督徳川慶恕、広島に到着する。12.5日、長州藩、幕府に謝罪書を提出。

 12.27日、征長総督が出兵諸軍に撤兵を命じ、この度の征討行動は終わった。収拾案中に含まれていた五卿処分も、中岡慎太郎らの奔走で、西郷の妥協案に従い、1865(慶応元)年初頭に福岡藩の周旋で九州5藩に分移させるまで福岡で預かることで一応決着した。

 11.5日、4ヶ国代表、横浜・長崎・箱館3港における外人居留地配分規則協定を締結。
【勝海舟が神戸海軍操練所を免職される】
 神戸海軍操練所塾生の反幕府的雰囲気が問題になり、11.10日、勝海舟、神戸海軍操練所を免職となり江戸に召還命令が下される。勝は、塾頭の坂本龍馬、紀州藩の陸奥宗光ら塾生を西郷に託した。翌年3.18日、神戸海軍操練所正式廃止される。

【「高杉晋作、馬関で挙兵」】
 12.15(1.2)日、長州藩上層部(俗論党)の謝罪恭順の弱腰に業を煮やした藩内強硬派高杉晋作らが馬関(下関)で挙兵する(「高杉派の挙兵」)。下関の功山寺で挙兵。馬関奉行所を占拠、12.16日、高杉晋作・伊藤俊輔ら率いる力士隊が、下関新地会所を襲撃。三田尻の海軍局を襲い3隻の藩船を奪った。12.2日、征長総督徳川慶恕、征討軍撤兵を命令。

1865(元治2、慶応元)年の動き

【長州藩で強硬派が実権を掌握、藩主の毛利敬親が倒幕論を決定する】
 1.7日、高杉に呼応した太田市之進らの率いる御楯隊が小郡を占領し、山口へ進軍。絵堂・大田の戦闘で勝利。1.15日、幕府、長州藩へ藩主親子の服罪で征討中止することを布告する。1.29日、内戦状態の長州藩で中立派が台頭し、俗論党を更迭。藩の実権を握った。2.28日、毛利敬親、藩是を一変させる。3.15日、長州藩諸隊再編成され、軍制改革が行われる。3.17日、毛利敬親、倒幕論を決定する。3月、長州藩で、高杉らの強硬派が藩の主導権を奪い、奇兵隊以下諸隊軍事力を背景に、藩論を幕府との軍事対決の方向に定めた。

 1月中旬、西郷は鹿児島へ帰って藩主父子に報告を済ますと、人の勧めもあって、1.28日、家老座書役岩山八太郎直温の二女イト(絲子)と結婚した。この後、前年から紛糾していた五卿移転とその待遇問題を周旋して、2.23日、待遇を改善したうえで太宰府天満宮の延寿王院に落ち着かせることでやっと収束させた。これと平行して大久保・吉井らとともに九州諸藩連合のために久留米藩・福岡藩等を遊説していたが、3月中旬に上京した。
 この頃幕府は武力で勅命を出させ、長州藩主父子の出府、五卿の江戸への差し立て、参勤交代の復活の3事を実現させるために、2老中に4大隊と砲を率いて上京させ、強引に諸藩の宮門警備を幕府軍に交替させようとしていたが、それを拒否する勅書と伝奏が所司代に下され、逆に至急将軍を入洛させるようにとの命が下された。これらは幕権の回復を望まない西郷・大久保らの公卿工作によるものであった。
 3.10日、幕府、英米仏蘭4ヶ国に下関開港不可を申し入れる。
【薩摩藩士がイギリスへ密航】
 3.22日、薩摩藩士19人がトーマス・グラバーのお膳立てにより、イギリス留学のため長崎を出発。五代才助(友厚)の根回しで、1864(元治元)年夏、グラバーの意見に基づく近代化促進の上申書を藩主に上提し、これが認められて密航準備を進め、優秀な留学生十五名を選抜し、慶応元年三月、グラバー商会の船でひそかに出港した。

 監督に松木弘庵(寺島宗則、33歳)と五代才助(友厚、30歳)、森金之丞(有礼(ありのり、18歳、後に初代文部大臣になる)など有為の若者がいた。最年少の磯永彦輔(のち長澤鼎、13歳)は永くアバディーンのグラバー家に寄留して教育を受け、のち渡米して葡萄園を開き、「葡萄王」の異名をとっている。

 3.29日、徳川家茂、長州藩再征討の将軍進発を布告する。
【グラバーの志士活動】
 この頃、グラバーが政局を裏で画策している。これをどう見るかが難しい。これにつき、グラバー考(「明治維新とグラバー」考)で概述する。

 4.7日、慶応に改元。
【坂本竜馬が「薩長同盟」画策】
 5.1日、西郷は、坂本龍馬ら土佐脱藩者と共に鹿児島に入る。京都情勢を藩首脳に報告し、その後幕府の征長出兵命令を拒否すべしと説いて藩論をまとめた。5.9日、西郷派、大番頭・一身家老組に任命された。

 5.24日、坂本龍馬、大宰府の三条実美を訪問し薩長同盟案を示す。5.25日、坂本龍馬、東久世通禧と面会。5.27日、坂本龍馬、大宰府で五卿全員と面会。閏5.6日、坂本龍馬・土方久元と桂小五郎、下関で会合し、薩長同盟について話す。閏5.10日、イギリス公使パークス、赴任する途中、下関で井上聞多・桂小五郎らと会見。閏5.16日、西郷隆盛、下関に寄らず薩長同盟締結失敗。閏5月、坂本龍馬ら長崎に亀山社中を興す。6.24日、坂本龍馬・中岡慎太郎、西郷隆盛と会合し再度薩長同盟について話し合う。

 5.22日、将軍徳川家茂が、勅書を無視して、総督紀州藩主徳川茂承以下16藩の兵約6万を率いて西下を開始し、兵を大坂に駐屯させたのち、5.23日、参内して長州再征を奏上した。が、許可されなかった。
【坂本竜馬が亀山社中を結社】
 閏5月、土佐の坂本竜馬(31歳)が、神戸海軍操練所時代の仲間を核として、薩摩藩、長崎の豪商・小曾根家の援助を得て長崎の亀山という地で亀山社中を結社する。薩摩、越前などが出資した。日本ではじめて株式会社の理念を持つ会社となった(「坂本竜馬らが亀山社中を結成」)。亀山社中は、グラバー商会から武器を買い付け長州に売る、その他船舶の周遊、貿易などを引き受け、倒幕派の裏からの支援活動に着手していった。

 亀山社中(亀山隊)は、幕府の直轄施設・神戸海軍操練所に学んでいた生徒の一部と、これに加えて特に勝海舟の影響を大きく受けた坂本龍馬を筆頭とする一団を母体とし、神戸海軍操練所の解散をきっかけに、後に長崎・亀山の地へ結成された。

 亀山社中は坂本龍馬が中心となって組織した私設の、海軍・商社的性格を持った浪士結社だった。当初は薩摩藩の庇護の下に、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していた。社中の目的は、神戸海軍操練所時代に考えていたことを実現するために貿易を行い、商社をつくり海軍・航海の技術を習得することであったが、最大の目的はこれらのビジネス活動を通じて薩長の手を握らせるとこであった。


 この時点での主要な顔ぶれは次の通り(19名程度)だったと推測されている。
土佐 10名 坂本龍馬、近藤長次郎、千屋寅之助、高松太郎、新宮馬之助、池内蔵太、石田英吉、山本洪堂、中島信行、沢村惣之丞
越前 3名 小谷耕造、渡辺剛八、腰越次郎
越後 2名 白峰駿馬、橋本久太夫
紀伊 1名 陸奥陽之助(農商務大臣、外務大臣などの要職を歴任した陸奥宗光)
讃岐 1名 佐柳高次
因幡 1名 黒木小太郎
出身地不明 1名 早川二郎

 結局、亀山社中は坂本龍馬の理想を実現することの無いままに、1867(慶応3).4月、土佐藩の支配下に入り、海援隊として改編される。海援隊は亀山社中(亀山隊)時代を加えても、1865(慶応元).閏五月から1868(慶応4).4月までの約三年間に亘る、比較的短期間の活動であった。

 6月、鹿児島入りした中岡慎太郎は、西郷に薩長の協力と和親を説き、下関で桂小五郎(木戸孝允)と会うことを約束させた。しかし、西郷は大久保から緊迫した書簡を受け取ったので、下関寄港を取りやめ、急ぎ上京した。
【長州藩が武器調達に入る】
 6.27日、毛利敬親、領内士民に徹底抗戦令を発する。7.21日、井上聞多・伊藤俊輔、銃器買い付けのため長崎に入る。7.27日、長州藩、幕府の藩主召還令及び支藩主召還令を拒否。7.28日、井上聞多・伊藤俊輔鹿児島を訪問。8月、井上聞多・伊藤俊輔、亀山社中の協力でグラバーから銃器を購入。10.18日、井上聞多・伊藤俊輔、亀山社中の協力でグラバーから蒸気船ユニオン号を薩摩藩名義で購入、桜島丸条約を締結する。

 7.27日、幕府のロシア留学生6人が箱館を出発する。
【幕府、長崎・横浜・箱館の開港を余儀なくされる】
 9.16日、英仏米蘭の公使、徳川家茂に条約の勅許、兵庫の先期開港の要請をするため、軍艦10隻で兵庫沖に来る。10.1日、将軍徳川家茂、朝廷に条約勅許と兵庫開港を願い出る。10.2日、将軍徳川家茂、将軍職の辞表を提出。10.5日、長崎・横浜・箱館の開港勅許が降りる。また幕府に対し条約改正の勅命が出される。10.6日、幕府、3港開港勅許と条約改正の勅命について、4ヶ国に通知する。

 10月初旬、西郷が、幕府の兵力に対抗する必要を感じ、鹿児島へ帰り、10.15日、小松とともに兵を率いて上京した。この頃長州から兵糧米を購入することを龍馬に依頼したが、これもまた薩長和親の実績づくりであった。この間、黒田清隆(了介)を長州へ往還させ薩長同盟の工作も重ねさせた。
【幕府の横須賀製鉄所・造船所建設着手、この頃の海外列強の動き】
 1865年、幕府は条約勅許を求める列国に対し、朝廷の名のもとで正式に勅許を下した。このことは、天皇が日本の最高権力者であることを列国に示す結果となった。また、翌年には改税約書を列国と結び、輸入関税を大幅に引き下げるなどして日本経済に大打撃を与えた。

 列国代表を務めたイギリス公使パークスは、無力化した幕府ではなく、朝廷と雄藩による雄藩連合政権を期待するようになり、長州や薩摩などの倒幕諸藩を援助するようになった。

 1865年、幕府は横須賀製鉄所・造船所をつくる。この横須賀造船所は明治政府になってからも、海軍の最重要拠点となり、発展して行くことになる。

 【これより以降は、幕末通史3、薩長同盟から大政奉還まで」の項に記す】







(私論.私見)

江戸時代4
4.尊王攘夷
 
開港を機に、安政の大獄で鳴りを潜めていた雄藩や尊王攘夷の志士達の活動も活発になりました。志士達は斬奸や夷人斬りを行い、雄藩は朝廷と幕府の間で影響力を保ち、それぞれ国事に奔走し始めました。長州藩直目付長井雅歌(うた)は、藩主毛利敬親(たかちか)に「航海遠略策」を建白しました。朝廷・幕府・諸藩が積極的な国是の確立を目指す長井の主張に、藩庁の指導者であった周布(すふ)政之助も賛成しました。
長井は正親町三条実愛(おうぎまちさんじょうさねなる)に謁見し、朝廷に建白書を提出しました。孝明天皇はその壮大さに喜び、長井に公武周旋を内命しました。幕府でもその説に感心し、長州藩主に公武周旋を依頼しました。
1862(文久2)年1月15日、安藤信正が坂下門外で襲われました。志士達の攘夷論が高まり、開国和親の幕府に長井はへつらっているという非難が、長州藩内外で高まりました。
 
そんな中、薩摩藩の島津久光の上洛の話が伝わると、公卿や志士達は久光に期待を寄せました。久光は前藩主斉彬の異母弟で、久光の長男忠義(茂久、もちひさ)が斉彬の跡を継いでいました。久光は後見役として薩摩藩の実権を握っていました。
久光は藩内の志士達が結集する精忠組に好意的な小松帯刀(たてわき)を側役に、精忠組の大久保利通を小納戸役に抜擢しました。更に、1862(文久2)年2月、西郷隆盛を徒目付に復職させました。
久光は攘夷派に人気はありましたが、封建秩序を乱す志士達の過激な行動を嫌い、幕政改革を公武合体による秩序ある国是確立を考えていました。
しかし、西国の志士達は久光を擁立して挙兵を画策していました。西郷はこの計画を知り、阻止するため伏見に上ってきました。これを知った久光は西郷が志士達に同調したと思い込み、その弁明も聞かず徳之島に流罪させました。

4月16日藩主の名代として、1000人の兵を率いて久光は上洛しました。権大納言中山忠能(ただやす)の知遇を得て、その家臣の養子になっていた田中河内介、出羽の郷士出身の清河八郎らは、天皇を擁立して京都所司代を襲う計画を西国一帯の志士達に説いていました。
彼らと連絡していた筑前福岡藩士平野国臣(くにおみ)、久留米水天宮神官真木和泉(まきいずみ)は薩摩に潜行して、有馬新七や田中謙助らを糾合していました。
久光上洛直前、江戸詰めを命じられた薩摩藩尊王攘夷派の柴山愛次郎らは、京都で志士を結集させ、伏見で挙兵して所司代を襲い、久光を擁立して王政復古を実現しょうとしました。このため西国の志士達は続々と大坂の薩摩藩邸に集まりました。
大久保や西郷は彼ら尊王攘夷派と一線を画す公武合体路線の久光の側近でした。失脚した西郷に代わり、大久保は彼らを藩邸に軟禁してしまいました。
有馬・柴山・田中謙助らは真木らと図って決起するため、藩邸を集団脱走し、伏見の船宿寺田屋に集合しました。これを知った小松帯刀は、9人の剣の使い手を寺田屋に派遣しました。
1862(文京2)年4月23日、寺田屋で主命を伝えますが、志士達はこれを拒否します。上意討ちされ、柴山・有馬ら6人が斬殺され、他は拘束されました。

この寺田屋事件を孝明天皇は賞賛され、久光の人気は高まりました。関白九条尚忠(ひさただ)が辞任し、近衛忠煕(ただひろ)の関白就任が決まりました。久光の朝廷改革の意見が通りました。
もう一つ久光が考えている一橋慶喜や松平慶永らが幕府権力を掌握する幕政改革の問題では、勅使を派遣することを主張しました。
勅使に三位大原重徳(しげとみ)がなり、久光が随行しました。6月10日、大原は将軍家茂(いえもち)に謁見し、公武合体・夷狄掃攘を伝え、慶喜を将軍後見役に、慶永に大老または政事総裁職に就けて、徳川家を中興するように要請しました。
この時、安藤信正は失脚し、久世広周も直前に辞職していました。幕閣・幕臣達は、朝廷や無位無冠の久光から幕府人事に介入することや不可能な攘夷を迫られることに抵抗しましたが、慶喜・慶永の登用を承知しました。

久光が江戸で公武周旋をしている頃、京都では、尊王攘夷派が勢力を盛り返していました。その中心は長州藩の久坂玄瑞や桂小五郎でした。長井雅歌の弾劾と攘夷の藩論確立の運動を行いました。
1862(文久2)年7月、藩主毛利敬親、周布政之助らの藩の首脳、更に桂小五郎らが集まった京都で、藩論は奉勅攘夷論に転回しました。孤立した長井は帰国謹慎し、遂には切腹させられました。

土佐藩の尊王攘夷派の活動も活発でした。その中心は武市瑞山(たけちずいざん、半平太)でした。彼を中心にする土佐勤皇党は190人ほどいました。その中に坂本竜馬・中岡慎太郎・吉村寅太郎がいました。
土佐藩の実権は前藩主山内豊信(とよしげ)に重用された開国路線の吉田東洋が握っていました。武市は吉田を刺客に暗殺させ、福岡孝弟(たかちか)・後藤象二郎を追放させました。
1862(文久2)年6月、藩主山内豊範(とよのり)の参勤途上に上洛し、中山忠能を通して国事を周旋するように要請させました。その一行に同志が多数同行しました。8月武市は他藩応接掛に就き、諸藩の志士や公卿と交わりました。

 

長州や土佐の尊王攘夷派の活動の盛んな京都では、和宮降嫁に奔走した公卿や女官が攻撃目標になりました。
そんな運動の中、1862(文久2)年7月20日九条家家臣で長野主膳と共謀していた島田左近が斬殺されました。下手人は薩摩藩の田中新兵衛らでした。田中は人斬り新兵衛と恐れられました。この後、天誅が増えていきます。
尊王攘夷派に睨まれた公卿達は、身の危険を感じ洛外に退去しました。岩倉具視は、この時岩倉村に閑居しました。
尊王攘夷派内での内ゲバも発生しました。四条河原に晒された志士の本間精一郎の下手人は、土佐藩の岡田以蔵で、後に人斬り以蔵の異名を取りました。狂気ともいえるテロが横行しました。

この時代、危機感や現状打破に目覚めた一部の村役人・地主・豪農・豪商の草莽達が国事に莽走しました。しかし、一般民衆は非合法の一揆や打ちこわし以外自らの意志を示すことができず、テロに共感さえ覚えました。
これらのテロとともに、米屋・質屋・両替商や貿易商への貼り紙や投げ文などの脅迫も多くなりました。
真木和泉・平野国臣・久坂玄瑞・武市瑞山など尊王攘夷派のリーダー達は、この様な風潮の中で、攘夷と天皇を頂点とする王政復古の目標を固めていきます。久坂・武市は藩主を通じて朝廷へ攘夷貫徹の建白を行いました。
彼らは薩摩の志士とも謀り、勝手に薩長土の藩主名を使って、勅使を江戸に派遣するように要請しました。1862(文久2)年10月、三条実美(さねとみ)以下の勅使が攘夷督促と朝廷に親兵設置容認を求めて東下しました。

 

1862(文久2)年7月、島津久光の周旋で、一橋慶喜が将軍後見職、松平慶永が政事総裁職に就任しました。慶永によって信任されていた横井小楠(しょうなん)は、公共の政(まつりごと)を主張しました。軍事・内政・外交・交易全ての面で徳川家の私益を捨て、朝廷・幕府・諸藩が合体して推進するのが公共の政の理念としました。
それを具体化する政治形態として、譜代・外様及び直臣・陪臣の区別なく、上下院を設け、上院に大名・旗本、下院に藩士を選抜し、公共の論を議するという構想を明らかにしました。それは雄藩連合を欧米議会制度に当てはめたものでした。
この様な理念構想は、幕府内では異端でしたが、幕政改革を将軍側役の大久保忠寛は一橋慶喜に働き掛けて推進しました。その第一は参勤交代の緩和でした。隔年だった参勤交代を3年に1度とし、在府期間を削減し、大名妻子の帰国も許しました。
幕府への進献が廃止され、礼服なども簡素化されました。更に、幕府役人を削減し、朝廷からの関白・大臣・伝奏の任命の事前同意制を撤廃しました。
陸海軍制の改革と拡充が進められました。陸軍は陸軍奉行を新設し、その下に歩兵・騎兵・砲兵の奉行を置き、幕臣の他農民も兵卒に編制しょうとしました。
海軍は、大久保忠寛の推挙で、勝海舟が軍艦奉行並に登用されました。勝は会議の席で、従来の幕府による膨大な海軍構想を否定し、10隻程度の艦船購入と榎本武揚(たけあき)や西周(にしあまね)らのオランダへの留学を答申しました。
多くの幕臣達は慶永・横井・大久保達に反対しました。その攻撃は、まず幕臣の大久保に向かいました。慶喜も慶永に大久保の左遷を迫りました。大久保は   講武所奉行に追いやられました。幕政改革の中で、慶喜と慶永に勢力は二分されました。

こうした中で、島津久光が帰国途上、生麦事件を起こして対外関係が極度に緊張したことと、夷狄掃攘の空気が強くなり勅使が派遣されたことが、幕府に大きな圧力となりました。
1862(文久2)年8月21日、島津久光一行が神奈川の近くの生麦村に差し掛かった時、馬に乗った上海在住のリチャードソン以下4人のイギリス人が、久光の駕篭に近づいて来ました。供頭がリチャードソンに斬りつけ、彼は落馬し、そこを前駆が止めを刺しました。供の者が他の3人も斬りつけましたが、負傷ですみました。
久光は幕府に事件を報告しますが、幕府の事件解決までの滞在の要請を無視し、出発しました。大名行列を犯す者を討つのは日本の国風で、幕府から言われる筋合いはなく、イギリスとは鹿児島で対応するというものでした。
京都に戻った久光は、情勢が急変しているのに驚きます。公武合体を説得しますが、勤王攘夷派に京都も朝廷内も占められ、久光は失意のうちに帰国しました。

10月27日、攘夷督促の勅使が江戸に着きました。幕府は回答を迫られました。
幕府は京都所司代の上に京都守護職を置き、禁裏の警備・治安維持・朝廷・幕府間の庶政決裁に当たらせることを決め、その職に会津藩主松平容保(かたもり)を任命していました。容保は攘夷を標榜しない限り守護職の責任が果たせず、上洛できないと主張しました。
慶永も横井小楠も攘夷論に同調し始めます。違勅調印の条約は破棄し、必戦の覚悟で諸侯を集め、その上で一致して開国するならば真の開国であるとしました。
この変節に幕閣・幕臣は驚き、朝廷や大名の口出しによる政策変更はもってのほか、という意見が出ました。また、条約破棄は、対外的に信義にもとり、戦争になって勝っても不名誉なことだ、と慶喜は反対しました。
横井小楠はこの議論を聞き、開国論に回り、慶永を説得しました。慶永は開国論に一旦はなりますが、勅使の待遇などで慶喜と対立し、攘夷論に戻りました。
両者対立の中、勅使に随行した山内豊信は、勅使に開国論を説けば、攘夷が討幕にさえなりかねないとして、両者を歩み寄らせました。幕府の論議は攘夷論に決定しました。
しかし、慶喜は朝廷を欺く一時の方策であるとして辞表を出しますが、説得され留まることになります。勅使は攘夷の期限や方法を諸藩と協議して、朝廷に報告するように要求しました。幕府は困難な外交問題を抱え、攘夷を約束して、既に決まっていた翌年の将軍上洛の準備をしなければいけませんでした。

勅使が江戸を離れた12月12日深夜、長州藩の高杉晋作・久坂玄瑞・井上馨・伊藤博文らが品川に新築中のイギリス公使館を焼討ちしました。
更に、12月19日、横井小楠が肥後勤皇党に襲われました。横井は逃げて無事でしたが、肥後藩は、藩士である横井に士道に背くとして、切腹を命じました。招聘していた越前藩の交渉により、横井は切腹を免れ、帰藩と士籍剥奪の処分を受けました。

 

1863(文久3)年3月4日、江戸を発った将軍家茂(いえもち)は、二条城に入りました。
この頃朝廷内には、国事に関する機関として国事御用掛が置かれ、朝彦親王・関白・左右大臣・内大臣・議奏や少壮急進派も任命されました。三条実美(さねとみ)・姉小路公知(きんとも)・三条西季知(すえとも)ら少壮急進派が長州・土佐の勢力を背景にして決定権を握っていました。
このため議奏の中山忠能(ただやす)・正親町三条実愛(おうぎまちさんじょうさねなる)をはじめ宮や左右大臣・内大臣は辞職し、関白近衛忠煕(ただひろ)も辞表を出しました。しかし、急進派はますます力を得ました。将軍に対する攘夷決行日の明示が、彼らの当面の目標でした。
テロもますますエスカレートしていました。犯人として逮捕されても、死罪にすべしとする松平容保の意見にもかかわらず、朝廷や志士の援けにより他藩預けの微罪で済まされました。
上洛した一橋慶喜・松平慶永・松平容保・山内豊信それに宇和島藩主伊達宗城(むねなり)らは、朝彦親王・前関白近衛忠煕らと対策を練っていました。
3月5日、将軍名代として参内した慶喜に天皇は、征夷大将軍の件はこれまで通り委任するという勅書を与えました。
その2日後の3月7日、将軍家茂は参内し、天皇と会見しました。この時の勅書に、将軍職の委任の他、事柄によっては朝廷が諸藩に命令すると解釈される事項が付け加えられました。急進派の巻き返し工作によるものでした。
親兵設置や攘夷期限でも幕府は押しまくられました。親兵の名目は撤退させましたが、諸大名の万石につき1人の朝廷守衛兵を上京させるように公示せざるを得ませんでした。
攘夷期限については、幕府は言い逃れようとしましたが、朝廷側は期限明示を迫り、慶喜は4月中旬と上申せざるを得ませんでした。

雄藩も朝廷や尊王攘夷派の強引さに辟易していました。事態に絶望した慶永は、政事総裁職の辞表を出して、帰国しました。長州藩の意気だけが盛んでした。
将軍は江戸に帰ることを要請しましたが、天皇は将軍が京都を離れることを認めず、天皇が攘夷祈願の行幸に随行するように求めました。将軍の補佐として慶喜・容保と3人の老中が残っていました。
天皇は賀茂神社・石清水八幡宮に行幸しました。これらの行幸の後の4月20日、幕府は5月10日を攘夷期限とすると奏聞させられ、その後布告されました。
幕閣も諸藩も夷狄掃攘を真剣に考えてはいませんでした。生麦事件の処理に関して賠償要求されている時に、港を封鎖する交渉など、現実性はありませんでした。
1861(文久元)年5月、東禅寺のイギリス公使館が襲撃された東禅寺事件と生麦事件の賠償金として、幕府はイギリスから11万ポンドを要求されました。将軍上洛を理由に回答が延期されていました。上洛から戻った老中格小笠原長行(ながみち)は、攘夷期限の前日の5月9日賠償金を支払いを通告し、多額の賠償金が支払われました。

 

将軍上洛の列外警備として、浪士隊が上洛しました。壬生(みぶ)の新徳寺に本営を構えました。この浪士隊は、江戸の浪士を取締るため、慶永が幕府の統制下に一隊を編制するように命じたものでした。
講武所剣術教授方松平忠敏や剣術世話心得の山岡鉄舟らが責任者に任命され、浪士が集められました。しかし、真の中心人物は尊王攘夷派の志士、清河八郎でした。
テロ取締りを口実に浪士隊を編制し、将軍とともに上洛させ、本当は攘夷の義挙に利用しょうと、清河は、山岡や松平を使って慶永に上申させました。
上洛すると、真の目的は攘夷にあると演説し、勝手な行動は許さないと、一同を恫喝しました。そして、朝廷に攘夷遂行・京都守護の建白書を出しました。これに驚いた幕府は、対外情勢の緊迫を理由に、浪士隊が江戸に戻ることを命じました。
江戸に戻ると、清河八郎は、直ちに暗殺されました。浪士隊は新徴組として庄内藩支配下に入れられ、江戸の治安維持に当たりました。

京都に清河と意見が対立した20余人が残りました。京都守護職に嘆願書を出し、会津藩支配下の新選組となりました。
壬生屯所を本営とし、近藤勇・土方歳三・沖田総司・芹沢鴨が中心人物でした。近藤・土方は武蔵多摩地方の百姓の子でした。近藤は江戸小石川試衛館道場主近藤周助に認められ、その養子になりました。土方は近藤を支えました。沖田は白河藩を脱藩し、試衛館の塾頭で、師範代を勤めていました。永倉新八は松前藩を脱藩、山南(やまなみ)敬助は仙台藩脱藩で、道場の常連でした。
以上の近藤達と水戸藩脱藩の芹沢鴨を長とする一派は対立していました。しかし、新選組には多くの者が集まり、守護職・所司代の兵とともに京都の治安維持の任につきました。

 

1863(文久3)年5月10日深夜、風雨と関門海峡の潮流を避けて、アメリカ商船ペムブローグ号が門司田野浦に投錨していました。攘夷期限のこの夜、長州藩の庚神(こうしん)丸と癸亥(きがい)丸が砲撃を始めました。船足の速いペムブローグ号は豊後水道方面に逃げました。
砲撃したのは、久坂玄瑞を長とする光明寺党の一派でした。光明寺(下関市)を本営とする一隊は、藩の軽輩の者達で編成されていました。
砲撃を躊躇する海防総奉行に対して、独断で砲撃しました。
関門海峡の外国船砲撃は、更に続きます。5月23日、フランス艦キンシャン号に向けて各砲台・艦船の砲が火を吹きました。同艦は応戦しながら玄界灘に脱出します。
5月26日オランダ艦メデューサ号が長崎から横浜へ向かって関門海峡通過中、砲撃での損害を受け、横浜に着きました。
こうした中、列強は報復に出ました。6月1日、アメリカ艦ワイオミング号が下関に接近し、亀山砲台(下関市)を壊滅させ、庚神丸・壬戍(じんじゅつ)丸を撃沈し、癸丑(きちゅう)丸を大破させました。
更に、6月5日、フランス艦セラミス号・タンクレード号が攻撃し、陸戦隊が前田海岸に上陸しました。

藩内が混乱している6月7日、高杉晋作の進言が通り、奇兵隊の結成に取り掛かりました。奇とは正規に対するもので、正規軍に所属できない足軽・小者や村役人・豪商・豪農の子弟が参加しました。
藩庁は列強の更なる報復を恐れ、郷土防衛を訴え、士以外の農工商にも兵になることや献金を奨励しました。
自主的な郷土防衛組織が各地に結成されました。これらの雑隊のうち、指揮統制がはっきりし、藩庁に公認されたものが奇兵隊とともに10隊余りあり、いわゆる諸隊といわれました。
列強の報復の恐れが薄らぐと、長州藩の尊王派はまたもや勢力を盛り返しました。天皇の奨励もその力を助長しました。

長州藩には攘夷急進派の一面と、現実を見る一面の両面があります。1862(文久2)年、幕府の上海視察使節に長州藩の高杉晋作は随行しています。この船には薩摩藩の五代友厚も同行しています。また、1863(文久3)年5月12日に、藩庁はジャーディン=マジソン商会の斡旋で、密かに井上馨・伊藤博文ら5人をイギリスに留学させています。

襲来もしないのに掃攘するのは国辱ものであると、幕府は長州藩を非難しました。これに対し、長州藩は、幕府こそ違勅だと反論しました。そして、朝廷が長州藩に協力を命じているのに、攘夷決行を傍観したとして、小倉藩の田野浦を長州藩は占領し、勝手に砲台を築きました。幕府と長州との対立は決定的でした。
将軍上洛で留守を預かる幕閣達は、朝廷を操る尊王攘夷派に対して、強い反感を持っていました。彼らは江戸に戻った老中格小笠原長行を担いで、京都から尊王攘夷派を一掃するクーデターを計画しました。
5月25日、小笠原長行以下1600人がチャーターしたイギリス船などに乗り、東上しました。大坂から淀まで進軍すると、京都の尊王攘夷派の公卿や志士達は動揺しました。大騒動の中、天皇は小笠原の処罰を要求しました。将軍と在京幕閣は小笠原を免職し、軍を江戸に帰しました。そして将軍や幕閣達も急ぎ江戸に帰りました。

 

生麦事件の賠償金は幕府が支払いましたが、薩摩藩からは何の対応もありませんでした。1863(文久3)年6月27日、キューバー提督が率いるイギリス艦7隻が錦江湾に停泊しました。イギリスは薩摩藩に、犯人の処刑と被害者・遺族への2万5千ポンドの補償を要求しました。
6月29日、事実上拒否の回答がありました。老幼婦女の避難命令が出され、交渉は決裂しました。
7月2日、停泊中の天祐丸・白鳳丸・青鷹丸が拿捕され、乗艦していた五代友厚・寺島宗則が捕虜となりました。その日の正午、台風の強風の中、薩摩藩の10の砲台から砲撃が始まりました。拿捕していた艦を焼き、イギリス艦は応戦しました。
イギリス艦も被害を受けましたが、薩摩藩の砲とイギリス艦の砲とは、はるかに性能が違い、砲台は次々と破壊されました。かって島津斉彬が建設した、溶鉱炉や火薬・機械・ガラス・紡績の洋式工場がある集成館も破壊されました。そして、城下町の一部も焼失しました。
この後、イギリス艦隊は横浜に帰着しました。代理公使ニールは、反省の色がなければ再度攻撃すると表明しました。被害を受けた薩摩藩は要求を呑むことにしました。
11月1日、2万5千ポンドが支払われ、犯人逮捕・処刑を確約しました。しかし、賠償金は幕府から借金し、遂には踏み倒しています。犯人逮捕は、ニール自体があきらめていました。そして、この薩英戦争の後、薩摩藩とイギリスは接近していきます。

 

薩英戦争前の5月29日、薩摩は京都の禁裏護衛を解任され、御所への出入も禁じられました。これ以前に、尊王攘夷派公卿姉小路公知(きんとも)が暗殺され、その場に薩摩藩の人斬り新兵衛の刀が残されていました。田中新兵衛は捕らえられますが、自殺したため、下手人不明でしたが、薩摩藩は追求されました。
上洛していた真木和泉・久坂玄瑞・桂小五郎は、天皇の大和への攘夷親征を計画し、詔を出させました。しかし、孝明天皇は幕府への攘夷策委任を破棄することに躊躇していました。また、攘夷開戦は時期尚早であると悩んでいました。
攘夷親征の詔を喜んだ長州藩や尊王攘夷の急進派の公卿や志士に対して、会津藩や薩摩藩は反撃の機会をうかがっていました。急進派に対する門閥の公卿達も同じ思いを抱いていました。
薩摩藩士高崎左太郎と会津藩士秋月悌次郎が、クーデター計画を松平容保に話して、決断を迫りました。承認した容保は、朝彦親王に協力を求めました。親王の意により、高崎・秋月は前関白近衛忠煕・忠房父子や右大臣二条斉敬(なりゆき)からも同意を取り付けました。

8月16日、朝彦親王が参内し、天皇に打ち明けて説得しました。しかし、即座の許しは出ませんでした。その夕刻、勅許の密使が遣わされました。
8月18日午前1時、朝彦親王が参内すると、守護職松平容保・所司代稲葉正邦が指揮する会津・淀藩兵が入門し、御所の門を閉ざしました。次いで、近衛父子・二条らが召され、薩摩藩兵に護衛されて参内しました。そして同藩に禁門警備が再令されました。
更に土佐・米沢・備前・安房・因幡藩主に兵を率いての参内が命じられました。朝議で、急進派公卿の参内禁止、長州藩の堺町門警備の免職と退京令、天皇の大和行幸の延期が決められました。
急を聞いた急進派公卿や真木和泉・久坂玄瑞らは参内できず、堺町門隣の関白鷹司輔煕(すけひろ)の邸に集結しました。長州藩兵や諸藩の兵も動員されました。
一触即発の危機の中、時間だけが過ぎていきました。対峙した中、薩長両軍がひとまず退去することになりました。退いた急進派側の敗色は濃いものがありました。ひとまず長州に下って再起を図ろうとする長州藩の説得が功を奏しました。
真木・久坂他長州藩兵に護られて、三条実美・三条西季知ら七卿は、8月19日朝、雨の中を都落ちしました。集結した諸藩の兵は解散させられ、長州藩主毛利敬親には京都藩邸から退去が命じられました。クーデターは成功し、尊王攘夷派は京都から一掃されました。この事件を八・一八の政変といいます。

 

クーデターの前日の8月17日、大和五条の代官所が襲われ、代官が殺害されます。天皇の攘夷親征の先鋒をつとめるという天誅組の義挙が起きました。
天誅組は元土佐の庄屋吉村寅太郎・元備前藩士藤本鉄石・元刈谷藩士松本奎堂らが謀り、急進派公卿中山忠光を首領に仰いでいました。
この暴挙を三条実美は中止させようと平野国臣を派遣しましたが、間に合いませんでした。そして、クーデターが起きました。このため本陣を天ノ川辻に移し、十津川郷士1200人を結集しました。
しかし、高取城の攻防が始まると、攘夷親征の先鋒の勅命が虚偽であることが分かり、十津川郷士達は総崩れとなり、敗退しました。更に天誅組の追討令が出されました。十津川郷士達は逆に包囲して攻撃しました。吉村ら首謀者は討死し、中山忠光らは大坂の長州藩邸に逃げ込み、長州に逃れました。この事件を大和五条の変といいます。

大和五条の義挙中止の説得に失敗した平野国臣は京都から但馬に逃れていました。今となっては天誅組に呼応しかないと地元の志士に働きかけました。
しかし首領には公卿が必要として、長州から都落ち七卿の一人沢宣嘉(さわのぶよし)を連れて来ることにし、長州藩奇兵隊総督河上弥一郎も同行しました。
但馬への途中、天誅組の壊滅を知り、平野は義挙中止を主張しますが、河上らの弔い合戦の強硬論に推されました。
10月12日、但馬生野の代官所を襲い、農兵徴募の布告を出しました。翌日には、村役人に引連れられた農民が2千人集まりました。
ところが、但馬出石藩・姫路藩が鎮圧出兵し、沢宣嘉が脱走しました。農兵達は偽浪士とののしり、包囲して攻撃しました。河上や長州藩奇兵隊士は射殺されました。平野は逃亡中、豊岡藩兵に捕まり、京都に送られました。沢はやっとの思いで長州に逃れました。
この様に但馬生野の変では、その義挙は更に厳しい農民層の反撃を受け、粉砕されました。農民層は世直しを願っているのであって、別の目的を求める尊王攘夷派の欺瞞には、欺かれることはありませんでした。

尊王攘夷派は長州に押し込まれ、公武合体と幕府の権威が回復しました。天皇は国事を議するため、幕閣と雄藩諸侯の上洛を促しました。島津久光・松平慶永・伊達宗城・山内豊信が上洛しました。
山内豊信は国許を発つ前に、武市瑞山ら土佐勤皇党の幹部を投獄しました。中岡慎太郎らは難を逃れ、長州に逃れました。
将軍後見職一橋慶喜は朝命により上洛し、翌年1864(元治元)年1月天皇の要請で将軍家茂は二条城に入りました。クーデター後も天皇は原則的には公武合体であり、攘夷の立場でもありました。
島津久光の主張で、朝廷は一橋慶喜・松平慶永・山内豊信・伊達宗城・松平容保を朝議参豫に命じました。そして1864(元治元)年1月13日には大名でない島津久光にも官位が与えられ、参豫に任じられました。

しかし、幕府と雄藩を集めた参豫会議は2ヶ月足らずで空中分解しました。この時、重要課題として長州藩処分と横浜鎖港がありました。長州藩処分は長州藩の代表を召還し、七卿や暴徒の差出を命じ、それに背けば追討することはほぼ一致していました。
横浜鎖港は情勢も違うので、国是を転換すべきが大勢であるのに対し、一橋慶喜だけが鎖港攘夷論に終始しました。前年には幕府は、横浜鎖港談判の使節をヨーロッパに派遣していました。会議では、沿岸防衛を充実させているので、攘夷を成功させたいと述べました。
天皇は喜びましたが、会議はまとまるはずはありませんでした。成果を上げることなく、全員が辞職し、参豫会議は瓦解しました。
1年前は、慶永や久光が奉勅攘夷で、慶喜は開国を主張しました。それが逆転してしまいました。外様が朝議に参加し、元来幕府が当たる国政に介入することを幕閣・幕臣は快く思っていませんでした。このような感情が慶喜を突き動かしたと思われます。この後、慶喜は、将軍後見職を辞任し、禁裏守護総督・摂海(大坂湾のこと)防御指揮に就任していました。

 

尊王攘夷の志士達を完全には抑えられず、不穏な動きがありました。1863(文久3)年11月、房総の九十九里浜で真忠(しんちゅう)組が挙兵しました。元尾張藩士楠音次郎ら浪人達に、この地の農民達が加わりました。
開港こそ物価高と飢餓の原因だとして、鎖港攘夷のため義挙したと宣言しました。調達された金や米は多額にのぼりましたが、翌年、佐倉藩兵により鎮圧され、幹部は討死もしくは逮捕されました。
真忠組は他の挙兵に比べ、具体的な困窮者への施与の措置を取ったため、農民達の信望を得ました。

1864(元治元)年3月27日、藤田東胡の子小四郎を首領とする天狗党は筑波山で挙兵しました。
水戸藩は尊王攘夷の本家でした。しかし、長州藩に立場を譲るような状況になっているのは遺憾として、保守派の執政武田耕雲斎らの説得に反発していました。前年より豪農・豪商より攘夷の軍資金を強奪していました。挙兵しても来るはずのない勅命を待ち、周辺で強奪を繰り返していました。
保守派の藩庁と挙兵した急進派の分裂を見て、これまで藩政から遠ざけられていた門閥層は、幕府や諸藩の連合軍と一緒に急進派と戦い、保守派執政武田耕雲斎を罷免しました。
ここに幕府・門閥と保守・急進派の組み合わせで対立・衝突しました。しかし、民心は急進派から離れていたため、保守派からも離れました。彼らは農民の自衛軍に包囲され、攻撃され、討死しました。
残る主力2千余人が那珂湊に集結しました。ここで包囲され、10月23日千余人が降伏しました。武田耕雲斎・藤田小四郎ら千余人は一橋慶喜を頼って西上の途につきました。

最も保守的な門閥層が勝利しますが、農民達は門閥層を支援した訳ではありませんでした。彼らを抑圧・収奪する村役人・地主・高利貸に対する打ちこわしが始まりました。世直しが本来の要求でした。門閥層はあわててその取締りに当たりました。
敗走した武田らは、下野・上野から中山道を西に上り、越前新保駅で加賀藩兵に投降しました。その間、尾張・加賀藩や一橋慶喜に陳情書を送り、幕府に敵対する考えはないことを訴えました。彼らは、敦賀に護送され、数百人が斬罪に処されました。

 

長州では、京都を再制覇しょうとする七卿や真木和泉、それに長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛達は、それは時期尚早と抑えようとする高杉晋作らと対立していました。
藩庁は説得は無駄で、脱藩進発することを恐れ、家老国司信濃(くにししなの)を長州藩の弁明のため上洛させました。国司には諸隊の随行を許し、それを統制する軍用掛に来島を充てました。
1864(元治元)年5月、大坂で彼らを迎えた桂小五郎は、上洛を自重するように来島や久坂玄瑞を説得しました。しかし、彼らは、世嗣毛利定広が上洛し、朝廷・幕府に至誠赤心を披瀝し、藩の名誉を回復すべきだと強硬でした。逆に6月4日、藩庁は定広の上洛、更に江戸には福原越後を遣わすことを決めました。

京都では長州軍の東上の噂で、志士達の動きが活発になり、公武合体や佐幕の人達へのテロが起きました。これに対し、新選組は二条河原町の長州藩邸や志士達のアジトの探索をしていました。京都の薩摩軍を指揮していた西郷隆盛は、幕府・会津軍と長州藩が衝突し、消耗するのを望んでいました。
6月5日朝、三条小橋側の池田屋に出入している武具・古道具商で、志士である枡屋喜右衛門を逮捕し、壬生屯所での土方歳三らによる拷問により、同志達が御所近くに放火し、駆けつける朝彦親王や松平容保を襲い、天皇を長州に移す計画を吐かせました。
同日夜、枡屋即ち古高(こだか)俊太郎逮捕を聞いた同志達が池田屋に集まって来ました。新選組は既に30人位で密かに池田屋を包囲していました。集まったのは、長州・肥後・土佐藩の志士約20人でした。
守護職・所司代に新選組は応援を頼んでいましたが、遅れたため、新選組だけで池田屋に討入りました。志士側7人は討死に、残りはほとんど逮捕されました。新選組も多数の者が負傷しました。桂小五郎も集まる予定でしたが、他所の所用で遅れたため難を逃れました。
この頃の新選組は粗暴で異常な行動があった芹沢鴨を土方や沖田が暗殺していて、近藤勇の統制が確立していました。

この池田屋事件を聞いた長州藩は、家老益田弾正に上洛を命じ、真木和泉や久坂玄瑞が率いる諸隊千数百人が出発しました。6月末から7月初め頃、長州軍は伏見・山崎・嵯峨に布陣しました。
天皇は一橋慶喜に対して、長州軍上洛を阻止する権限を与えました。慶喜は幕府・会津藩軍及び諸藩軍で防備を固めました。西郷らの薩摩軍は傍観する訳にはいかず、御所を守るという大義名分に立って長州軍に対峙しました。
7月11日、三条木屋町で、慶喜に招かれていた佐久間象山が暗殺されました。彼は長州藩の無謀攘夷を排撃して、公武合体を説いていました。志士達にとって佐久間は天誅の標的で、長州軍進軍のきっかけになりました。
7月18日早朝、長州軍は洛中に向かって進軍を始めました。福原越後の一隊は伏見街道で大垣藩軍に迎撃され、伏見に退却しました。改めて竹田街道を北進しますが、彦根・会津軍に打ち破られ、山崎に退却します。
嵯峨の天竜寺を本陣とする国司信濃・来島又兵衛の一隊は会津藩が守る蛤門に殺到しました。一時は御所内に入りますが、応援の薩摩・桑名軍により撃退され、来島は戦死しました。禁裏内にも銃弾が飛ぶ激戦で、これによりこの戦い全体を禁門の変と呼びます。

山崎に布陣していた真木和泉・久坂玄瑞らの一隊は、かって守衛していた堺町御門を攻撃しました。桑名・彦根・越前軍と砲撃戦を行いました。真木和泉・久坂玄瑞は負傷して山崎に退却しました。益田弾正の一隊は敗戦の報に浮き足立ち、天王寺から西に逃れました。
各隊とも総崩れになりました。敗走の中、追討されました。新選組や会津・桑名軍に包囲された天王寺の真木和泉は自害しました。追討軍は大坂の長州藩邸を破壊しました。桂小五郎は脱出して、但馬出石で商人に変装して潜伏しました。
京都の町では、砲火に見舞われ、多くの家が焼失しました。この大火の中、六角の獄のでは、逃亡を恐れて、獄中の国事犯を次々と斬首しました。その中に、生野の変で捕らえられた平野国臣がいました。
7月21日、孝明天皇より、長州藩征討の勅命が下されました。これを受けた幕府は、西南の藩に出撃準備を命じました。こうして禁門の変では、尊王攘夷の急進派は指導者を失いました。そして長州藩は朝敵になりました。

 

5.長州と薩摩
 


1864(元治元)年8月4日、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊17隻が戦闘隊形を整えて関門海峡に入って来ました。
奉勅攘夷を掲げる長州藩は、関門海峡の通行を阻止していました。これに対し、武力による懲罰をイギリス公使オールコックを中心に計画されました。4月末には、外交的約束の履行と将来の安全保障のため断固たる行動を取ると、幕府に通告しました。
イギリスに留学していた井上馨と伊藤博文は、欧州諸国の絶対的実力を知り、あわてて横浜に帰国していました。彼らはオールコックに会見して説得のための時間を要望し、長州に戻りました。しかし、国許は禁門の変直前で、彼らの説得に耳を貸す者はいませんでした。彼らが横浜に戻ると、7月18日、連合艦隊の出撃を幕府に通告しました。

ところがその日、前年末欧州に派遣していた横浜鎖港の談判使節が横浜に帰国しました。使節は談判どころか、下関で被弾したキンシャン号の賠償、関門海峡通航権の保障、輸入関税の軽減を取り決めたパリ約定を持ち帰りました。
使節団はその間の事情を説明し、鎖港は不可能であり、まず富国強兵を図ることが必要であると説得しました。しかし、幕閣は幕命違反として使節を重罰に処しました。
7月24日、幕府からパリ約定破棄の通告がありました。四国艦隊は横浜を出港しました。司令官はイギリス海軍のキューパー提督で、兵力の大部分はイギリス軍でした。
長州藩は家老宍戸備前を赤間関(下関)総奉行に任命し、戦闘回避を願って、イギリス留学の経験がある杉徳輔・井上馨を交渉に当てました。8月5日、下関に布陣している奇兵隊などが興奮しているため、彼らが説得しますが、これに時間を取られ、約束の時間が過ぎてしまいました。

8月5日午後4時10分、艦隊の砲門が火を吹きました。田野浦(北九州市門司区)、串崎(下関市)の砲台が砲撃されました。前田村(下関市)の砲台群には、砲撃後、英・仏の陸戦隊が上陸しました。
翌6日朝、奇兵隊軍監山県有朋の命令で、前田村の砲台が砲撃しました。このため、四国艦隊は陸戦隊を上陸させ、砲を破壊し、一部を戦利品として持ち去りました。山県は反撃を試みますが、失敗しました。
7・8日は、更に彦島(下関市)の砲台や、残りの陣地が掃討されました。8日宍戸備前の養子と偽った高杉晋作が井上・伊藤を伴って四国艦隊旗艦のキューパー提督を訪れました。

8月14日、停戦協定が調印されました。長州藩は外国船の関門海峡通航を認め、下関での石炭・食糧・薪水・その他の供給や難に遭った船員の上陸を認めました。この時、高杉らは攘夷決行の朝命や幕命の写しを外国代表に渡し、長州藩は下関の開港を望み、これまでの外国船の砲撃は幕命によるものと弁明しました。
四国艦隊は大坂沖に一時停泊する示威行動を行った後、横浜に帰着しました。オールコックなどは、攘夷決行の責任は幕府にあるとして、賠償は全て幕府に要求しました。9月22日、合意事項が調印されました。

内容は300万ドルの賠償金を支払うというものでした。幕府は150万ドル支払い、残りは明治政府が支払いました。完済されたのは、1875(明治8)年でした。
この交渉にはもう一つの要求がありました。軍事基地提供の要求でした。幕府はこのため、この年の1864(元治元)年末までに、横浜に基地を建設して提供しました。イギリス基地2万坪、フランス基地3千坪で、その中に官舎・兵舎等が建設されました。
それらの費用・修理費は日本側の負担で、地代・家賃もありませんでした。この基地を引き払ったのは、イギリスが賠償金が完済された1875(明治8)年で、フランスはその翌年でした。

四国艦隊の大部分は、中国での太平天国軍討伐に当たっていました。1862(文久2)年、太平天国軍が上海に迫ると、列強は武力干渉に入りました。
前年末の宮廷クーデターにより、清朝では対外妥協派が台頭していました。また李鴻章らの大地主官僚もこれを支持し、私兵団を結成して、太平天国軍と交戦していました。
列強は天津・北京条約で獲得した権益を守るため、対外妥協派政権や軍閥を育成することを選びました。
イギリスはアロー戦争の英雄ゴルドン少佐を退役させて、常勝軍を指揮させましした。フランスも同様な軍を組織しました。更に英仏は討伐軍を中国に多数送りました。イギリスはセポイなどの土民軍を派遣し、アジア人同志を戦わせました。
太平天国軍は軍閥や列強との戦争により、1864(元治元)年壊滅し、洪秀全も自殺して、南京も陥落しました。

 

長州藩征討の勅命を受けた35藩15万からなる征長軍は周防・長門を包囲し始めました。総督は前尾張藩主徳川慶勝、副総督は越前藩主松平茂昭(もちあき)でした。慶勝は西郷隆盛を参謀として軍議に加えました。
西郷らは長州藩を宿敵と思っていましたので、好機だと考えました。しかし、坂本竜馬の紹介で勝海舟に会ってからは、幕府内で強硬派が主流を占めていることに驚き、潰えた列侯会盟の公共の政による国是の再確立の説得に共鳴しました。
勝海舟は将軍家茂を説得し、一方では坂本を通じて桂小五郎らを説得して朝廷を動かして、兵庫海軍操練所を設立しました。そしてそのために、幕府・諸藩の別を問わない有志を集めた私塾を任されました。その塾頭が坂本で、勝は軍艦奉行になりました。
勝は、公共の政のための参豫会議を潰し、禁門の変以来、幕府の権力強化に狂奔する幕府主流に対しては、不信を抱いていましたし、西郷らが幕府主流に踊らされるようでは絶望的だと考えていました。そのため、西郷を説得することに全力を挙げました。

幕府内では、強硬派が返り咲いていました。小笠原長行(ながみち)が老中格(後老中)、酒井忠毘(ただやす)が若年寄に復職しました。大目付には永井尚志(なおむね)がなり、小栗忠順(ただまさ)も勘定奉行に復帰しました。
彼らは、元来公武合体論者の征長総督徳川慶勝の弱腰を歯がゆく思いました。また彼らは、禁裏守衛総督一橋慶喜が朝廷・幕府の協調を図り、雄藩との連携を図って幕府権力を弱体化していると思っていました。
そのため、松平慶永、その顧問の横井小楠の系譜にある勝海舟を快く思っていませんでした。勝は江戸に戻ることを命じられ、軍艦奉行を解任されました。その後任には小栗忠順が就きました。
簡単に幕府の権力が回復するとは、彼らも思っていませんでした。そのためには軍事力の強化が必要で、外国の支援が不可欠だと考えていました。強硬派はフランスに近づいていきました。

この様に征長軍の内情は複雑で、参加した多くの藩は、出費を考えると消極的な態度でした。他方の長州藩の内情は、藩の存亡の危機に直面して更に深刻でした。藩権力は門閥派に握られました。門閥派による新しい藩庁は、ひたすら謝罪降伏して、藩の存続を図る恭順を主張しました。旧藩庁の指導者周布(すふ)政之助は自刃しました。
志士の残党達は、新藩庁勢力を俗論派とののしりますが、その基盤である諸隊に民心の支持はなく、彼らは孤立しました。1864(元治元)年10月21日、藩庁は諸隊の解散を命じ、武器を没収し始めました。
長州藩は征長軍に降伏しました。そして、益田弾正・国司信濃・福原越後の3家老や4参謀の切腹・斬首を行いました。都落ちの公卿は、西郷隆盛のとりなしで、筑前大宰府に移すことになりました。

12月27日、3家老の首実験を終えた徳川慶勝は、全軍に撤兵を命じ、引き揚げました。長州藩の謝罪と降伏を確かめただけの撤兵は、藩主父子の処分がまだ決まっていないため、慶勝が西郷隆盛にたぶらかされたと、一橋慶喜は疑いました。他方幕閣は、慶喜が慶勝と共謀しているのではないかと疑いました。
長州藩主父子や公卿達を江戸に連行するように、征長軍の包囲を解かないようにとの指令を持って大目付が派遣されますが、帰途の慶勝に出会い、すべて手遅れでした。
幕府権力の復権に意欲を見せる幕閣は、参勤交代制を元に戻して厳守するように命じ、姫路藩主酒井忠績(ただしげ)を大老に就任させました。そして、2老中が兵3千人を率いて上洛しました。
幕府の命により2老中が行おうとしている禁中及び公家への贈収賄の噂と、フランス式軍服を着た兵士達の風体は朝廷を刺激しました。朝廷は賄賂の受け取りを禁じ、異国人の風体での徘徊の禁止を幕府に迫りました。
2老中はひたすら弁解に努め、更に将軍上洛を督促する朝命をもらって江戸に引き揚げました。幕府権力の復活に執念した結果、冷静な判断に欠ける軽率な行動は、ますます幕府を窮地に追い込みました。

 

新たに長州藩庁の実権を握った門閥派の俗論派に対して、急進派は正義派と呼ばれました。諸隊は新藩庁の解散命令に対抗して、民心を獲得するため、自己改革を行っていました。農民層の支持を受けるように努力しました。そして征長軍に降服する俗論派への農民の反発を利用し、組織化していきました。
高杉晋作は1864(元治元)年11月初め、身の危険を感じ、福岡に逃れていました。福岡藩士月形洗蔵や野村望東尼(もとに)は、高杉をかくまっていました。長州藩の状況を憂えた高杉は下関に戻りました。
1864(元治元)年12月15日夜半、高杉晋作は長府功山寺で挙兵しました。この時力士隊を率いる伊藤博文は同調しました。彼らは長州藩の下関新地会所を襲い、貯蔵米を民衆に分け与えました。
諸隊が高杉の挙兵に呼応しました。小郡の代官詰所を占領した品川弥二郎・山田顕義(あきよし)の一隊が村役人を集めて挙兵の支持を訴えました。挙兵に呼応した下士・村役人層が主導する隊が瀬戸内一帯に続々生まれました。
高杉と諸隊の挙兵に驚いた門閥派の藩庁は、萩を中心に出兵し、討伐に民衆を動員しょうとしました。しかし、応じる者は少数でした。
諸隊では、酒宴や遊興を慎むように厳しく命じられ、農民達の手本になるように隊員達は指導されました。もはや勝敗の結果は明らかでした。1865(慶応元)年2月5日、和議が成立しました。正義派が勝利し、門閥政権は半年足らずで崩壊しました。

3月23日、正義派の勝利により、藩主父子により新たな藩是が明示されました。それは、外には恭順、内には武備充実による富国強兵でした。
但馬出石に潜伏していた桂小五郎も帰藩しました。桂小五郎は木戸孝允(たかよし)と改名しました。長州藩の新藩庁は、木戸孝允・高杉晋作がリーダーであり、井上馨・伊藤博文が補佐しました。
藩機構は、政事堂を中心に、簡素で集中化され、行政・財政・軍政の一元化が図られました。旧来の身分や格式にとらわれずに、有能な人材が登用されました。
軍制改革は、大村益次郎(村田蔵六)の下で行われました。大村は、村医の子で、緒方洪庵やシーボルトの下で蘭学を学びました。一時は幕府の講武所の教授を勤めますが、軍政面で才能を認められ、長州藩に迎えられました。
家臣団隊は上士層の干城隊が中心になり、中間・足軽・陪臣達の隊までが藩の軍政方の直轄となりました。諸隊は10隊1500人に精選され、藩庁からの給与の正規の藩兵組織になりました。
武器は外国から輸入する以外にありません。そのための富国策は他藩や外国との交易によるしかありません。そのため敵側の薩摩藩や、薩摩藩を通じてのイギリスとの関係を強めていきました。

長州藩は、宝暦年間(1751-64)の藩政改革で年貢の増徴に成功しますが、その分は別途に保管と運用に当たらせました。その担当部局を撫育方といいます。
北前船の往来で、下関は繁栄していました。しかし、長州藩にとっては、下関は支藩の長府藩領でした。そこで、長州藩は運用・蓄積された資金をもつ撫育方の手で、下関地先を埋め立てて港をつくりました。ここに村田清風による天保の改革で越荷(こしに)方が設置され、下関で倉庫や金融の業務を行いました。
幕末期、繁栄した下関で活躍したのが、廻船問屋の白石正一郎でした。本州と九州との接点である下関には多くの尊王攘夷の志士達も往来しました。彼らの多くが白石家に宿泊し、援助を受けました。彼らから正一郎も影響を受けました。
僧月照・真木和泉、福岡藩士の平野国臣・月形洗蔵らと親しくしていました。西郷隆盛も白石家に寄っています。長州藩の高杉晋作や久坂玄瑞の援助も行っています。
坂本竜馬も白石家に寄りました。竜馬は、下関で他に伊藤家の本陣に滞在しました。竜馬が京都で暗殺された時、妻のお竜は伊藤家に身を寄せていました。

将軍上洛の催促の朝命をもらった2老中が江戸に帰ったのは、1865(慶応元)年3月8日でした。この頃には急進派による長州藩の権力奪還があり、この異変の報告が入って来ました。そのため、5月16日を期して将軍が江戸を進発すると宣言しました。これが第二次長州征討の出発点となりました。
幕閣・諸大名を従え、幕府の歩・騎・砲兵を率いた将軍家茂は上洛しました。参内した家茂は天皇に、再度の長州征討のための進発であることを奏上しました。
しかし、降伏した長州藩は、表面上は恭順の態度でした。幕府のメンツに過ぎないとの批判が上がりました。しかし、将軍が出陣した以上、引き返す訳にはいきませんでした。

 

薩摩藩は第二次長州征討には反対でした。第一次の総督であった徳川慶勝も征討反対の進言をしました。諸藩も批判的でした。大義名分がないことや、動員のため諸藩の疲弊が増し、人や物の調達が民衆の反発を買うことを恐れました。
しかし、紀州藩・会津・桑名・彦根藩などの親藩、譜代大名が幕府を支持しました。この背後には、フランス公使ロッシュによる支援の約束がありました。
ロッシュは四国艦隊の下関攻撃の直前に着任しました。それまで植民地アルジェリアの総督をしていました。当時フランスのアルザス・ノルマンデー地方の綿工業資本は輸出市場を求めていました。日本ではイギリスに先を越されていましたが、まだ挽回できるとフランスはロッシュに期待していました。着任早々、ロッシュは幕府の強硬派に取り入りました。その人物は小栗忠順(ただまさ)や栗本瀬兵衛でした。
1865(慶応元)年1月末、横須賀に製鉄所・造船所・修船所などを4年間で建設する。その建設費240万ドルを年間60万ドルづつフランスに借款する。そのためフランスに生糸貿易を独占させ、その利益から支払う。以上の約定を、幕府はフランスとの間に取り決めました。この建設は明治政府に引き継がれ、横須賀海軍工廠となります。

 

勝海舟の軍艦奉行罷免で、坂本竜馬らの兵庫海軍操練所塾生は、その行動の場が無くなりますが、勝の西郷隆盛への依頼により、薩摩藩の世話になりました。彼らは長崎の亀山で、薩摩藩の艦船購入の世話や航海術の修行を行いました。これが亀山社中であり、後、海援隊になっていきます。
土佐藩の中岡慎太郎や坂本竜馬は、薩長の提携が反幕の要であると考え、西郷隆盛と木戸孝允を会見させようとします。
坂本の説得に木戸は、幕府や列国による監視のために長州藩が外国から買えない武器・艦船を薩摩藩名義で購入して、密かに引き渡して欲しい、との難題を持ち出します。
西郷はこれを受諾しました。長崎の小松帯刀・坂本竜馬は、木戸が派遣した井上馨・伊藤博文を保護しました。井上・伊藤は薩摩藩留守居役に成りすまし、グラバー邸などを訪れ、外国商人から大量の兵器を購入しました。
この様に薩長の提携ができ、両藩の交易も進められました。これらの物資輸送やブローカーとしての役割を亀山社中は行いました。しかし、一般の両藩士には敵同士であったため、両藩のこの様な接近は幕府だけでなく、それぞれの藩士や民衆にも秘密とされました。

1865(慶応元)年、イギリス公使オールコックが北京駐在公使に転任し、パークスが新任公使になりました。上海駐在領事であったパークスは長崎に立ち寄り、諸藩代表者と会見しました。そして下関にも寄港して、木戸孝允・井上馨・伊藤博文らに歓待され、その後横浜に到着しました。
長崎・下関の情報及びグラバーをはじめとする貿易商からの情報により、諸藩は幕府の貿易独占に不満、自由な対外貿易を望んでいて、遠からず内戦となると当事者達は考えていることをパークスは知りました。
パークスは長州征討などの内乱が貿易の縮小を招くと、幕閣達に平和的な解決を求めましたが、拒絶されました。そこで、本国からの訓令の1868年1月1日の兵庫開港を2年繰り上げること、安政5ヶ国条約の勅許をとること、輸入税を5%に引き下げることの3点を条件に、下関賠償金の2/3を減額するとの提案をパークスは列国代表に諮りました。
フランスのロッシュは一部条件をつけましたが、アメリカもオランダも異存はありませんでした。英仏米蘭の四国代表は艦隊に守られて大坂城にいる将軍や幕閣を会うため大坂に向かいました。

1865(慶応元)年9月15日、将軍家茂(いえもち)は長州再征討の勅許を取るため上洛していました。一橋慶喜(よしのぶ)・松平容保(かたもり)・松平定敬(さだあき)らが参内して朝彦親王・関白二条斉敬(なりゆき)らに圧力をかけ、勅許の確約を迫りました。
一方、薩摩藩の大久保利通(としみち)は大義名分がない長州征討の勅許を出すべきでないと廷臣を説得していました。しかし、幕府の強硬な要求に負け、9月21日参内した将軍に長州再征討を勅許しました。
四国代表は海上で将軍が大阪に戻るのを待っていました。四国代表は幕府に3要求を行いました。幕府がだめなら直接天皇と交渉すると威嚇しました。反対に朝廷では、幕府は自己の主張を通そうとしているのではないかと思っていました。絶対同意しない朝廷と威嚇的な列強との間で、幕府内は混乱しました。

10月4・5日、幕府・朝廷・在京諸藩代表が集まって朝議が開かれました。ここでも薩摩藩の大久保利通らは、違勅である幕府の条約は公認してはならないと主張しました。
公卿達は本能的に外国嫌いで、対外関係では幕府に頑固に拒否しました。慶喜は条約勅許しなければ列国は戦争を仕掛け、外国と戦えば必ず敗れて国家滅亡となる、その責任は全て朝廷にあると脅迫しました。
しかし、廷臣達は無言で抵抗しました。これに対し慶喜は、自分は責任取って切腹するが、家臣達は黙ってはいまい、その覚悟はあるのかと言って席を立ちました。10月5日遂に勅許が出されました。
10月7日、幕府は四国代表に条約勅許を通告しました。兵庫開港の早期実施は努力し、税率改定交渉に同意し、下関賠償金は全額支払うとしました。そして翌年の1866(慶応2)年5月の江戸協約で、中国との天津条約と同様に、全輸出入品とも5%の従量税を強いられました。

この様な長州再征討及び条約勅許の幕府の行動は、薩摩藩の反幕気運を決定的にし、長州藩への接近を強めました。両藩の間を往復して、両藩の接近を坂本竜馬・中岡慎太郎は強く働きかけました。
1865(慶応元)年、木戸孝允の上洛を求める西郷隆盛の使者黒田清隆が下関にやって来ました。木戸は諸隊の反薩摩の感情がまだ強いため固辞しますが、坂本の説得や高杉晋作の勧めもあり、翌年1866(慶応2)年1月8日、木戸は密かに上洛し、薩摩藩邸に入りました。
小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らは、木戸を歓待しました。しかし、両藩締結の具体策は出てきませんでした。
1月19日に上洛した坂本は、木戸の立場を察して、薩摩藩に同盟具体化の議論に入るように催促しました。その結果、21日夜、6か条の密約が成立しました。
その内容は、討幕を目指した同盟でなかったが、相互支援の盟約で、種々のケースを想定した対幕府策でした。しかし、それは一般藩士には秘密とされました。
この直後の23日夜、坂本竜馬は伏見の寺田屋で、奉行所の捕手に襲われました。この時、竜馬は負傷しますが、同屋の養女お竜(りょう)とともに逃げ、お竜に介抱されました。この後、2人は薩摩の霧島を訪れます。

1866(慶応3)年3月、グラバーの仲介により、イギリス公使パークスの鹿児島訪問が決まりました。前年の3月にはグラバーの斡旋により、新納刑部(しんのうぎょうぶ)・五代友厚・寺島宗則ら薩摩藩士19人が留学生としてイギリスに派遣されました。
寺島は議員や外相に会って、日本の国情を訴え、外交主体を天皇と列侯会議に移すように助力してほしいと訴えました。一方パークスの通訳アーネスト=サトウによって、同じ内容が横浜居留地の新聞に「英国策論」の題で発表されました。
この後パークスに、内政干渉にならない限り、日本の体制の変化を助長せよとの訓令が届きました。
五代友厚は、株式組織の商社によって巨大資本を集中する方法を研究しました。日本の目標を産業と商業の隆盛に見出していました。
1866(慶応2)年5月、帰国した寺島は藩庁に意見を提案しました。閣老と諸侯からなる議定する会院を設けることやその議決方法まで論じました。かって勝海舟が唱えた共和政治の具体的制度が提案されました。
6月16日、パークスが薩摩を訪問しました。パークスは島津久光・茂久父子をはじめ西郷隆盛・寺島宗則らと会談しました。
江戸時代4
6.大政奉還
 
将軍家茂は大坂城を長州征討の本営としました。諸大名・旗本の軍勢10万人が大坂に入りました。このため、大坂やその周辺の物価は騰貴し、人夫徴発などの負担を民衆に強制しました。
1865(慶応元)年以降、諸物価高騰は狂乱状態でした。経済的要因だけでなく、内戦状態にあることが拍車をかけました。諸藩が戦争状態のために兵糧米を備蓄したこと、関門海峡封鎖により西廻りの米が入らなくなったこと、それと投機のために米価は天井知らずに高騰しました。
数か月で米価は2倍になるのに対し、日雇や手間賃の実質賃金は数年前の半額になるなど、特に下層の庶民の打撃は決定的でした。世直しの大一揆や打ちこわしは不可避でした。

幕府は第二次長州征討の体制を強めていき、1865(慶応元)年11月には、各藩の部署も決めました。そして大目付永井尚志(なおむね)を近藤勇らを随行させて広島に派遣します。しかし、長州軍が少しも侵入させまいとの覚悟に対し、征長軍は早く帰国したいとの気持ちであることを知り、一行は寛大な処分で幕府の威信を保つように、平和的解決が望ましいと判断しました。ところが、一橋慶喜は強硬な意見を主張しました。
1866(慶応2)年1月22日、幕府は長州藩から10万石を取り上げ、藩主父子永蟄居の処分案を奏聞して、勅許を得ました。老中小笠原長行(ながみち)や永井尚志を広島に派遣しますが、長州藩は言を左右にして従おうとしませんでした。
長州藩の回答延期の戦術に対し、5月9日、幕府は6月5日を期して進撃すると最後通告をしました。

 

1866(慶応2)年5月1日、摂津西宮で主婦達が米の安売りを始めました。3日には西宮中で、大勢が米屋に押しかけ、安売りを強要しました。拒否すれば、居宅を打ちこわしました。4日河内富田林、8日伊丹・湊川で騒動がありました。10日には池田に波及しました。
幕府は大坂に飛火するのを恐れ、徒党の禁令が出されますが、5月13日から14日にかけて大坂中に打ちこわしが広がりました。幕府の征討のための上納金賦課を非難し、米屋や高利貸を軒並み襲いました。
この前後から5月下旬にかけ、摂津・河内・和泉・大和で庶民が蜂起しました。直接的には米価高騰・人夫徴発でしたが、軍資金賦課は豪商のみならず、町村の一般庶民まで強制され、その限度を超えたための蜂起でした。

5月23日武蔵川崎宿で商家の打ちこわしがありました。28日にはその波は江戸品川宿にも及びました。これ以降江戸全体が騒動に巻き込まれました。米屋とともに貿易商が襲われました。6月に入って江戸の打ちこわしは収まりました。
6月13日武蔵秩父で一揆が発生しました。瞬く間に武蔵西北一帯での世直し大一揆に発展しました。この武州一揆には10万人が参加しました。開港以来の物価騰貴と生糸の買占めで、養蚕・製糸地帯の農民や職人達は生活を破壊されつつありました。生糸の買占めは、幕府が特定の商人に鑑札を与え、その商人が冥加金を上納することにより生糸の買占め権が与えられていました。
この様は世直し一揆で、陸奥国信夫(しのぶ)・伊達郡の信達一揆も6月15日に発生しました。

1866(慶応2)年は一揆や打ちこわし件数が最高の年でした。特に打ちこわしなどの都市での暴動の件数が群を抜いています。
百姓一揆106・都市騒動35・村方騒動44計185件が発生しています。村方騒動は村役人の不正や地主高利貸のあこぎな小作料徴収を契機に、村政の民主化や平等化の騒動で、これらが他に波及して非合法な行動になって一揆になってしまう例が多くありました。

 

幕末期に新しい宗教の動きがありました。民衆の利益や願望の反映した民衆宗教が生まれてきました。その代表が天理教や金光教でした。これらは民衆の世直しの願望を反映し、その系譜は民俗信仰的な神道にありました。
天理教を開いた中山みきは、大和国山辺郡庄屋敷村(天理市)の地主の妻で、神がかりを体験し、使命達成のため施しに出精しました。彼女のシャーマン的呪術は、お産や病気直しの神様と周囲から信じられました。
施しにより夫の死後、中山家は破産状態でした。窮乏の中から天理王命を唯一神とする教えを固め、中山家の屋敷こそ、この世の聖地とし、天理王命を信じれば民衆は救われ、この世の極楽が到来すると説きました。
権力者や有力者には反感を隠さず、唯一神の前での万人の平等を主張しました。当時の世直しの雰囲気を反映してあるべき救済として世直しを謳い、来るべき新しい世を豊作などの農民の願望が実現されるとしました。

備中国浅口郡大谷村の貧農の養子、川手文治郎が金光教を始めたのは1859(安政6)年のことでした。信心深く、勤勉な文治郎は、金乃神からお告げを受けました。民衆救済を命じられ、それ以来布教に専念しました。
苦労と勤勉が報われないはずが無いとの確信を持ちました。金乃神こそ最高神で、全ての者が金乃神の氏子で、他人はいないと教えました。平等感・連帯感を持って、人々の病気や悩み事、農作業について相談相手になりました。
陰陽道の日柄・方角の俗説や修験者の呪術に対し反対しました。目覚めて自己を取り戻すことを繰り返し人々に説きました。
天理教・金光教に遅れて伊藤六郎兵衛の丸山教、出口ナオの大本教が出現します。これら民衆宗教は、世直しの状況が到来したことと、その深化の中で誕生しました。

 

幕末のこの時期、横浜の居留地の中で、新しい文化が誕生しつつありました。アメリカの宣教師で、眼科医のヘボンは1859(安政6)年に来日しました。日本人への医療と伝道に従事しました。1864(元治元)年、最初の和英辞典を完成しました。1867(慶応3)年刊行されました。彼はヘボン式といわれるローマ字による日本語表記法を作り、その辞典で使っています。

1850(嘉永3)年、遠州灘で漂流し、アメリカ船に助けられたアメリカ彦蔵は、サンフランシスコやボルチモアで成長し、アメリカに帰化しました。
アメリカ公使館通訳に登用され、里帰りしてハリスを助けました。
一旦アメリカに帰国しますが、日本に舞い戻りました。1865(慶応元)年、横浜で日本語の木版新聞を発刊しました。

 

1866(慶応2)年6月7日、幕府の軍艦が防予諸島上関(かみのせき)・大島郡一帯を砲撃しました。翌8日、伊予松山藩兵・幕府兵が大島に上陸し、制圧します。第二次長州征討戦が始まりました。
6月12日、高杉晋作指揮下、長州の丙寅(へいいん)丸が幕府艦隊を夜襲し、第二奇兵隊・浩武隊他が上陸し、征長軍は総崩れとなり、大島は奪還されました。

芸州口では、6月14日未明、安芸・周防国境の小瀬川で戦いが始まりました。征長軍は幕府兵のほか、紀州・彦根・大垣・高田・宮津藩兵で、長州軍は遊撃隊・御楯隊他の諸隊と岩国藩兵でした。
ここでも征長軍は敗れ、長州軍は進軍し、芸州大野で戦闘と対峙が続きました。

石州口では、6月16日に紀州・福山・浜田・津和野藩兵の征長軍と大村益次郎を参謀とする長州軍の間で戦闘が始まりました。
長州軍が一気に津和野領を攻略し、浜田領西端の益田を占領しました。そして、7月5日には浜田城にも迫りました。援軍の指揮を命じられた鳥取・備前藩主は、これを断り講和を提唱しました。
浜田藩も講和を提議し、その交渉中、突然城を焼いて藩主以下は松江に脱出しました。こうして長州軍により石州口一帯は占領されました。

小倉口では、征長軍は老中小笠原長行(ながみち)指揮下幕府兵、小倉・肥後・久留米などの九州諸藩兵が固めていました。6月17日未明、参謀高杉晋作、山県有朋指揮下の奇兵隊などが門司・田野浦(門司区)を攻略しました。
7月27日、門司から大里(門司区)を攻撃します。肥後藩家老長岡監物は小笠原長行と衝突し、7月末日肥後藩兵は撤退します。諸藩も次々と撤退します。諸藩の撤退と、将軍家茂の死去の報を受け、小笠原長行自身が撤退します。
残された小倉藩は孤立します。8月1日小倉城を自焼し、藩主以下は豊前田川郡香春(香春町)に撤退します。長州軍は小倉を占領します。小倉口の戦いについては「7.幕末の北九州」でもっと詳しく述べます。

第二次長州征討戦での幕府側の敗戦と各地での蜂起の報告の中、将軍家茂は7月20日死去します。
一橋慶喜は7月27日徳川宗家の相続を承諾し、8月4日慶喜自ら出陣の勅許を得て、8月12日に出陣しょうとしたところに、小笠原長行の撤退と小倉城落城が知らされました。8月20日幕府は将軍の死去と慶喜の宗家相続を公表しました。
幕府は長州藩に第二次長州征討戦で敗れました。洋式装備された幕府兵を除けば、諸藩兵はまだ甲冑を着て、槍を持ち、馬にまたがる状態した。それに大義名分のない戦いに藩財政は疲弊し、領内では民衆の蜂起の恐れさえある状況でした。幕府側の実態は、戦意のない烏合の衆でした。
戦線では、この様な幕府側に対し、長州側に民意は傾き、進軍する長州軍に協力するほどでした。長州藩は領内では郷土を守ろうとする民衆の意識を組織し、戦線に於いては、敵を掃討するだけで侵略の意図はないと宣伝しました。

幕府は大名に対する威信や統率力を失っていました。こうした状況で、公卿達にも反幕の気運が高まってきました。岩倉村に幽居していた岩倉具視は行動を始めました。
1866(慶応2)年8月末日岩倉に説得された大原重徳(しげとみ)・中御門経之以下22人が参内し、孝明天皇に建議しました。朝彦親王や関白二条斉敬(なりゆき)らを弾劾し、天皇が列侯を召集し、国是を立てることを進言しました。
本意でなかった条約勅許の時に、何故言上しなかったのかと天皇は怒りました。これに乗じて参内した公卿を幕府は処罰しましたが、既に朝廷内には反幕の空気は広がっていました。
1866(慶応2)年12月12日、孝明天皇は病に倒れます。一時回復しますが、24日夜から急変し、翌25日夜紫斑が現れ、血を吐いて重態となり、遂に死去しました。

 

1866(慶応2)年12月5日、慶喜は第15代将軍に就きます。翌1867(慶応3)年1月9日には明治天皇が即位しました。
宗家を相続した後の9月2日、慶喜は施政方針を示しています。その中心は、陸海軍を強化することで、頼みの綱はフランスでした。
しかし、兵士を徴発することは中々うまくいきませんでした。その負担が世直し一揆の一因となっていました。そこで村高に応じての兵士をだす代わりに、納められた資金により兵を雇うことに力を入れました。この様な傭兵が幕府の歩兵の中心になりました。

軍制改革ばかりでなく、行財政改革もフランス公使ロッシュの指導と助言を受けました。外交面では、ロッシュはイギリスと薩長の接近を誇大に話して、幕府の正当性を印象付けるには兵庫開港を列国に確約することを助言しました。行政面では近代的な内閣制度を推奨しました。
慶喜は将軍職に就くと、月番制と合議制であった老中制度を責任分担制度に変えました。そして人材の登用に門地により選ぶなと言うロッシュの忠告で、大名でなくても若年寄に登用しました。
また租税制度の改革もロッシュは提案しました。しかし、それは重い年貢を廃止するものでなく、その上に諸税を加重しょうとするものでした。

幕政改革の財政的基礎はフランスからの借款に依存していました。そして軍の武器や服装はフランス製で、訓練もフランス人将校に任せられ、貿易はフランスの貿易会社に独占されようとしていて、行財政制度はロッシュの指導の下に行われようとしていました。
慶喜は1867(慶応3)年5月、パリ万国博覧会に参列する使節団にナポレオン3世への親書を託しました。ナポレオン3世への感謝とロッシュの力を頼りにしていることを書き添えました。
1866(慶応2)年5月に勝海舟は軍艦奉行に復職していました。勝海舟らごく少数の者が幕府内で、フランスへの依存やひも付きの多額の借款に反対していました。その反対は余りに力がなく、勝は辞表を出すしか方法はありませんでした。

 

1867(慶応3)年3月末、将軍慶喜は大坂城内で、英仏米蘭の公使達と会見しました。ここでロッシュの助言に従い、期日通りの兵庫開港を確約し、列国を味方につけようとしました。
この前後に幕府は朝廷に兵庫開港の勅許を要請しました。しかし、朝廷は諸藩の意見を聞くべきだと事実上拒否しました。在京の薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らは、前年の条約勅許の際、兵庫開港は保留されていると、幕府に反対しました。そして、列侯会盟の糸口を探りました。
薩摩・越前・宇和島・土佐の四藩は上洛の上、上申すると返答しました。そして、島津久光・松平慶永・伊達宗城・山内豊信が相次いで上洛しました。
西郷・大久保らは、将軍は大政を奉還して一諸侯になり、天下の公議による朝廷の政治を補佐するように慶喜を説得するように久光らに進言しました。
しかし、慶喜に招かれた四侯は、慶喜からの兵庫開港や長州処分への諮問に答えるのがやっとで、大政奉還の要求は全く出すことができませんでした。四侯会議は何の成果もなく、皆帰国しました。

この結果に力を得た慶喜は、5月23日参内し、兵庫開港を強硬に迫りました。大原重徳らの反対に対し、条約勅許の時のような威嚇が行われ、翌24日勅許されました。5月25日幕府は江戸・大坂の開市と兵庫の開港が公表されました。
兵庫開港問題は、薩摩藩の西郷らにとって、幕府を追い詰め、列侯会盟を実現する最後の切り札でした。そこで、5月29日小松・西郷・大久保らは武力によって倒幕することに踏み切りました。
長州藩の高杉晋作は4月14日、肺病で下関で亡くなっていましたが、生前に敷いた倒幕の路線は不変でした。9月半ば、大久保利通は長州に赴き、木戸孝允・広沢真臣(さねおみ)らと会談し、藩主毛利敬親・定広父子とも会見しました。薩摩と長州の間で倒幕計画が進められました。

この様な薩長の動きの頃、土佐藩でも動きがありました。この頃の土佐藩の主流は、武市瑞山らの尊王攘夷派は一掃され、後藤象二郎・福岡孝弟(たかちか)らの公武合体派が握っていました。
上士出身の後藤は長崎土佐商会の岩崎弥太郎の活動にも飽き足らず、長崎に出張して来ました。このため亀山社中の連中の反感を買いました。しかし、坂本竜馬は後藤に接近しました。坂本は土佐藩を幕府から引き離し、反幕側に引き込もうと考えました。
1867(慶応3)年3月頃、坂本・後藤・中岡慎太郎・福岡孝弟の四者会合が行われました。ここで坂本・中岡の脱藩が許され、彼らを指導者とする一団が藩の公認組織となりました。こうして坂本を隊長とし、運輸・開拓・投機などを任務とする海援隊が、中岡を隊長とし、京都藩邸に属する陸援隊が誕生しました。

この年の6月、坂本は後藤とともに上洛する船中で、新しい国家体制の綱領を示しました。これが「船中八策」です。その構想は、大政奉還によって朝廷中心に政治を行い、無窮の大典(憲法)を定め、上下二院の議政局、御親兵を置き、有材の公卿・諸侯や人材を顧問にして、議員を置いて全て公議によって決定し、外交や貿易においては外国と対等な関係を持つというものでした。
後藤が上洛すると、既に四侯会議は潰れ、薩長の倒幕の計画は進んでいました。後藤は幕府と薩長の間の妥協のためには大政奉還論が有効であるとして、在京の有力者と図って、これを藩是に決めました。
1867(慶応3)年6月22日、土佐の後藤・福岡・坂本・中岡らと薩摩の小松・西郷・大久保らの間に薩土盟約七ヶ条が締結されました。7月後藤は藩主山内豊信の説得のために帰藩しました。
藩の軍事総裁の板垣退助らは大政奉還に反対し、薩長とともに倒幕を進言しますが、豊信は板垣を罷免しました。豊信は大政奉還の決意を固め、土佐藩の路線は決定しました。

薩土盟約では土佐藩も兵を上洛させることを約束していましたが、公平に周旋するに兵の後ろ盾は不要として豊信はこれを拒否しました。このため、後藤は上洛しますが、西郷らはこれを疑惑と不信で迎えました。
武力による倒幕を決断した薩長は、そのための大義名分や新たな政治形態や確固とした政治理念を持っていませんでした。ここが最終的には武力による倒幕としながら、大政奉還の路線と絶縁することが出来ない点でした。
薩摩藩の軍勢は続々大坂に到着し始めました。長州征討で長州のために斡旋役をした芸州藩も協力を約束しました。ここに薩長芸の倒幕同盟が成立しました。小松・西郷は後藤に対し、挙兵倒幕を進めるので、大政奉還の建白をしたいなら勝手にしなさいと告げました。

朝廷でも岩倉具視を中心に、王政復古が画策されました。10月6日薩摩の大久保利通や長州の品川弥太郎らは岩倉と王政復古の具体策が協議されました。
10月8日、薩長芸三藩代表は、中山忠能(ただやす)・中御門経之(つねゆき)に対し、倒幕の密勅を奏請しました。9日には岩倉も中山に対し、王政復古の大命を奏請しました。10月13日付で島津父子に14日付で毛利父子に倒幕の密勅が下されました。そして将軍慶喜、京都守護職会津藩主松平容保、京都所司代桑名藩主松平定敬(さだあき)を討てとの勅命も下りました。

薩長が挙兵倒幕へ急に傾いたことに、土佐藩の後藤らは驚きました。薩長芸の倒幕同盟が成立した9月20日、若年寄の永井尚志(なおむね)は後藤を招き、大政奉還の建白を早急に出してほしいと催促しました。10月3日山内豊信は老中板倉勝静(かつきよ)に大政奉還建白書を提出しました。
幕府にとって、事態は急迫し、躊躇する余裕すらない状況でした。名を捨てても、実質的に徳川家が全権を掌握しうる方策を模索していました。後藤や山内豊信が進めてきた大政奉還論は絶好の誘い水でした。
10月9日、幕府は大政奉還を決めました。10月14日将軍慶喜から奏上され、翌15日に許されました。きわどいタイミングでした。倒幕の密勅が下された日、大政奉還されました。

 

7.幕末の北九州
 
小倉藩5代藩主忠苗(ただみつ)、6代藩主忠固(ただかた)は播州安志(あんじ)小笠原家からの養子で、ここからの技術が加わって小倉織ができました。嘉永年間には小倉織は盛んで、主として藩士の子女が内職として織りました。
小倉藩では1852(嘉永5)年、島村志津摩(しづま)が家老になり、翌年には小宮民部が家老になりました。1854(嘉永7)年、島村が勝手方家老になると、郡代河野四郎の補佐を得て、本格的な藩政改革が行われました。

過去5年間の大庄屋・庄屋の帳簿が調査点検され、無駄が省かれ、効率的な運用に改められました。
殖産興業には特に力を入れ、国産方を制産方と改め、藩による直営方式が取られました。石炭・薬・茶・米・櫨・葛・玉子・楮(こうぞ)などの国産品を全て藩の会所に集めること、直接販売は会所の許可と益銀を納めることが定められました。
田川郡の石炭採掘に力を入れました。薬は小熊野(小倉北区熊谷)に薬園を設けました。

生産物の自由売買を規制し、制産方の許可と低い価格での買い上げは豪商の反発を買いました。この問題では島村と小宮は対立しました。また藩内で、島村が小倉藩になってからの家臣、小宮がそれ以前の譜代の家臣という出身家柄の派閥抗争の面もありました。1858(安政5)年、小宮は家老を退き、翌年、島村も家老を退きました。

福岡藩でも1854(安政元)年、財政整備に着手しました。
翌年には殖産興業の一環として楠橋村真名子(まなこ)に砂鉄の製鉄場を設けました。

 

1858(安政5)年、安政の5ヶ国条約が締結されました。この後安政の大獄があり、1860(万延元)年には、反対に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されています。
この年、小倉藩8代藩主小笠原忠嘉(ただひろ)が亡くなり、嗣子がいないため、分家の播州安志藩から忠幹(ただよし)が養子として第9代藩主に迎えられました。

1861(文久元)年2月ロシア艦ポサドニック号が対馬に来島し、5ヶ月間停泊しました。これに抗議のイギリス艦2隻が来島する中、ロシア艦は対馬を退去します。
この前年には、イギリス人が楠原(くすばる、門司区)に上陸して大騒ぎになりました。またこの年にはイギリス船4隻が門司沖に停泊、関門海峡を調査測量しました。

1861(文久元)年11月、江戸詰めの島村志津摩は勝手方家老に復帰しました。藩主忠幹(ただよし)は、緊迫した政情に対処するため、1862(文久2)年8月、弟の小笠原敬次郎を相談役として政事世話方に就任させました。
しかし、島村と敬次郎は対立します。そのため、1862(文久2)年8月島村は免職となります。この年11月小宮民部が家老に復職します。

1863(文久3)年3月の将軍家茂上洛に際し、藩主忠幹(ただよし)は護衛のため上洛しました。この当時の京都は尊王攘夷派の公卿や志士達で牛耳られていました。その勢いは増すばかりで、上洛していた雄藩の藩主達も辟易して帰国しました。忠幹も帰国しました。長州藩だけが意気軒昂でした。
この頃、大里・葛葉・門司・速戸などに砲台を築き、紫川河口の東西に台場を設け、領内の寺社の鐘を徴発して、木町の鋳造場で大砲や弾丸を製造して、警備体制を固めていました。
家老小宮民部は庄屋以上の農民から農兵を集め、苗字帯刀を許しました。企救郡で267人、藩内で1457人に達しました。金辺峠・道原・田代・荒生田・中原・狸山・大里・門司・田野浦の関所・番所に配置しました。

 

福岡藩主黒田長溥(ながひろ)は島津家からの養子でした。洋式の軍備を採用するなどの開明的藩主でした。1858(安政5)年には西洋式軍事調練を行っています。1860(万延元)年には軍制改革を行い、外国から艦船を購入し、軍事力を充実させました。
この頃藩内では、月形洗蔵・加藤司書らの勤王派が保守派と対立していました。公武合体論の長溥は1861(文久元)年、月形らを流罪にして藩論をまとめようとしますが、保守派重臣とも対立しました。

1861(文久元)年、関門海峡の調査測量していた英国船から若松や戸畑に上陸するなど騒然としました。
1863(文久3)年、藩内各所に砲台を建設しますが、筑前遠賀郡では柏原・芦屋・洞海湾の中ノ島に砲台を築きました。

延ばしに延ばしていましたが、1863(文久3)年5月10日を攘夷期限とする、と将軍家茂は尊王攘夷派の圧力に負けて上奏しました。5月10日深夜、田野浦に投錨していたアメリカ商船ペムプローグ号が、長州藩船から砲撃されました。
5月23日には、関門海峡を通過していたフランス艦が長州藩から砲撃されました。5月26日同じく海峡通過中のオランダ艦が砲撃されました。
小倉藩は砲撃しませんでした。このため、小倉藩を勅諚違反と、長州藩は責めました。小倉藩は、襲って来た者を掃攘するのが幕命であり、幕府は庶政を委任されていると反論しました。
5月26日オランダ艦、6月1日アメリカ艦、1月5日にはフランス艦が報復にやって来て、下関を砲撃しました。長州藩は大きな被害を受けました。
朝廷は小倉藩に対し、攘夷実行を申し渡しました。小倉藩は幕府と相談して攘夷を実行すると回答して、命令を回避しました。

長州藩は小倉藩が攘夷実行しないため、海峡の両側から砲撃できないとして、小倉領内に砲台用地の借用を求めました。小倉藩はこれを拒否しますが、長州藩は小倉領田野浦に砲台を築き始めました。
この様な状況を幕府に抑えてもらうしかなく、郡代河野四郎と勘定奉行大八木三郎右衛門を使者として派遣しました。
田野浦の漁民の家は長州藩兵の宿舎となり、大砲の試射のため漁ができませんでした。藩兵が狼藉を働いたり、下関の渡船場では小倉領の者は留置されるなどの無法が行われました。
京都では、攘夷実行しない小倉藩は大問題となり、小倉藩の減封・転封の話さえ出ました。攘夷視察の勅使として正親町公薫(おおぎまちきみしげ)が西下することが決まりました。7月上旬、勅使は山口に着き、攘夷実行の回答を求めました。
小倉藩は攘夷実行を決めました。勅使は長州藩主父子とともに小倉領に上陸し、大砲試射を視察しました。
河野・大八木の使者は、幕府の役人とともに7月23日、白野江(門司区)沖に幕府軍艦で着きました。長州藩兵は、小倉藩の者が乗り込んでいるとして引渡しを求めました。河野・大八木は幕府に迷惑がかかるとして、艦内で自刃しました。

幕府は田野浦を占領している長州藩兵を武力で追い払うように指示しますが、小倉藩は長州藩との衝突を避けました。このため、幕命を守るのを第一に考えていた小倉藩は窮地に立たされました。
しかし、1863(文久3)年8月18日のいわゆる八・一八政変により、長州藩は京都を追われました。田野浦の長州藩兵も撤退しました。
小笠原敬次郎は、政事世話方を解かれ、江戸の赴く予定でした。しかし、弓の稽古中に腕に傷を負い、出血多量で急死しました。
5月頃から英彦山では、長州藩士らと図って、小倉城を占拠する謀がありました。しかし、発覚して11月に座主以下、僧が小倉の獄に投獄されました。
京都を追放された長州藩は、京都を再制覇しょうとする強硬派が主導権を握りました。長州軍は上洛し、1864(元治元)年7月、蛤門で会津・薩摩・桑名藩兵と激戦になります。この禁門の変で長州軍は敗れました。そして、長州藩征討の勅命が下されました。

外国船を攻撃し、関門海峡の通航を阻止している長州藩に対し、1864(元治元)年8月、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国艦隊が下関を砲撃しました。長州藩は大きな被害を受けました。
長州藩は諸藩からなる征長軍に包囲されました。長州藩は門閥派により藩権力を握られました。小倉にも九州諸藩からの兵が集結しました。1864(元治元)年11月、禁門の変の責任者として3家老が自刃し、長州藩は降伏しました。この様にして第一次長州征討は戦闘なく終わりました。

 

1863(文久3)年の八・一八政変を知った福岡藩は、若松・黒崎に兵を出して国境を固めました。9月5日、攘夷視察で西下した正親町公薫が黒崎に着くと、勅使と認めず、長崎奉行と同格に扱いました。このため一行は山口に引き返しました。
1864(文久4)年、外国艦隊の長州攻撃の話が広まると、福岡藩は若松に兵を出しました。そして、禁門の変の報せで、黒田長溥は加藤司書と月成元勲(つきなりもといさ)が率いる一隊を伴って上洛予定でした。しかし、長州征討の命が下ったため、二隊をこれに備えて黒崎に配備しました。
長州征討を命じられた福岡藩は、征長軍総督の徳川慶勝の元に加藤司書を遣わし、長州藩にも人を遣わして、戦争回避の周旋活動を行いました。
再度登用された勤王派は長溥の意を受け、1864(元治元)年12月長州藩高杉晋作、薩摩藩西郷隆盛を招いて秘密会議を行い、征討軍解兵後の五卿の遷移が決定されました。
第一次長州征討が終わり、長州に西下していた三条実美ら五卿は福岡藩預りとなりました。1865(元治2)年1月5日、黒崎宿の桜屋に着き、歓待を受けました。

福岡藩の勤王派は、長州藩周旋成功で藩内の発言力を増し、加藤司書は家老に就任しました。しかし、藩内は保守派との対立で混乱し、藩主黒田長溥は、藩主の専制政治の確立を阻まれて、勤王派に反感を抱きました。6月に加藤司書、月形洗蔵ら勤王派を捕らえました。10月に加藤らは切腹、月形らは斬首、野村望東尼(ぼうとうに)らは遠島に処せられました。
この後、福岡藩は幕府方に傾斜していき、大宰府延寿王院に移った五卿を冷遇し、勤王派志士達の反感を買いました。

 

1864(元治元)年12月、高杉晋作は長府功山寺で挙兵しました、この挙兵に諸隊は呼応し、1865(慶応元)年2月には長州藩の実権は急進派に握られました。
長州藩は外に対して恭順、内には富国強兵で軍備を整備していきました。1865(慶応元)年9月、第二次長州征討の勅許を幕府は受け取りました。薩摩藩は再度の征長には反対でした。この頃より長州と薩摩は接近を強めました。

1866(慶応2)年6月7日、第二次長州征討戦は始まりました。四境戦争といわれるように長州藩を囲む4方面で戦闘が始まりました。6月3日、小倉口征長軍総督として、老中小笠原長行(ながみち)が小倉開善寺に入りました。小笠原長行は唐津藩主の子として生まれます。藩主になることはありませんでしたが、幕府権力の中枢を歩みます。
第一次長州征討の時も小倉が拠点となったため、農民は種々の供出と、夫役が課せられ、農作業に支障が出、米をはじめ諸物価は高騰しました。
第二次長州征討でも、戦争準備の諸物資の供出と夫役のため農民の生活は破壊されました。更に、農民を不足している従者として出陣させたため、農村の人手不足は深刻化しました。
九州諸藩から軍勢が小倉に集まり、小倉の町は騒然としました。先鋒を勤める小倉軍は、昔ながらの槍隊が主力で、まだ甲冑を身に着けていました。西洋銃を持つ洋式部隊はわずかでした。

1866(慶応2)年6月17日未明、長州軍の田野浦急襲で小倉口の戦闘は始まりました。西洋式装備の奇兵隊・報国隊が上陸しました。その威力に小倉軍は圧倒され、大里方面に後退しました。
田野浦・門司での戦いの後、長州軍は赤間関に引き揚げ、小倉軍は大里を中心に陣を固めました。
7月2日、長州軍は海と陸から大里進攻を始めました。翌日まで激戦が続きました。小倉軍の敗色が濃い戦闘でした。しかし、応援の諸藩の軍や、幕府軍はこれを眺めるだけでした。小倉口総督の小笠原長行の前線視察は1回しかなく、戦場に姿を見せず、ほとんど本営の開善寺に籠もっていました。
前年の1865(慶応元)年9月小倉藩主忠幹(ただよし)は亡くなり、後継の豊千代丸はわずか4歳でした。幼君を擁して小倉軍は戦っていました。長州軍は進攻を一時中断しました。
小倉軍は体制と整え、延命寺台場の守りを固めました。肥後熊本軍が赤坂・鳥越一帯の守りにつき、その後に幕府軍が配備されました。
 
7月27日、長州軍の進攻が始まりました。下関の亀山八幡宮下堂崎港を発って門司白木崎に上陸し、大里を経て、馬寄(まいそう)・藤松・新町と進み、激しい戦闘となりました。赤坂・鳥越は小倉藩にとって小倉を守る最終防衛地でした。
長州軍は家老長岡監物に率いられた肥後軍の攻撃を受けました。連戦連勝の長州軍はこの戦闘で大きな損害を受けました。
しかし、長岡監物は、諸藩の兵や幕府軍が戦列に加わらず、長州軍が海上より赤坂台場を攻撃しているのに対し、小倉沖に回送された幕府軍艦が攻撃しないのを見て、小倉口総督小笠原長行への不信は決定的となりました。

7月28日、肥後軍は夜陰の中を赤坂・鳥越から引き上げました。翌29日夜半、小笠原長行は幕府軍艦で小倉を脱出して、撤退しました。将軍家茂急逝の報せを聞いた後の行動でした。諸藩の兵も肥後藩の引き上げで、それぞれ帰国してしまいました。
赤坂・鳥越激戦址の碑
孤立した小倉藩は軍議を開きました。その結果、防戦に努め、時機を見て開城し、その後は要地に於いて戦うというものでした。しかし、肥後軍帰国後も、長岡監物の指示で残っていた竹崎律次郎の主張を受け、長州軍の進攻しないうちに城を自焼し、不退転の決意で、要地に於いて決戦に出るということに家老小宮民部は決めました。
1866(慶応2)年8月1日、城内に火が放たれました。城は煙に包まれました。城下は大混乱になりました。幼君豊千代丸を守る一行は田川郡に向けて小倉を発ちました。

 

田川に通じる街道は撤退する小倉藩士や避難する町人達で大混乱していました。2年前に江戸より戻っていた島村志津摩(しづま)は、前年には小倉軍の最高責任者になっていました。小倉城自焼の煙を紫川河口東浜台場で見た島村は、田川郡との境の金辺(きべ)峠に向かいました。
島村は金辺峠を拠点に、企救郡内からの農兵の集めて、反撃に出ることを決めました。領内を長州軍からの侵略から守るとの郷土防衛意識をもって志願した農兵が数多く集まりました。
藩庁を田川郡香春(香春町)に移して、8月2日に採銅所で軍議を開きました。ここで、家老小宮民部は、肥後藩細川家に頼ることを主張しました。参加者が少ないため、翌日香春で再度軍議が開かれ、ここで島村と小宮は対決し、島村の決戦論が大勢を占めました。
幼君豊千代丸を守る一行は、頂吉(かぐめよし)を越え、採銅所に入り、添田を経て筑前領に入り、秋月を経由して肥後に入りました。
 8月2日、小倉に入った長州軍は、本営を広寿山福聚寺に置きました。四境戦争で兵力に限界のある長州軍に対して、8月7日島村は奇襲をかけました。以後企救郡内の山野で島村志指揮下の軍を中心に、遊撃戦が展開されました。
金辺峠にある島村志津摩の碑
田川に到る街道の金辺峠に展開する島村志津摩を総括とする軍は、本営を高津尾に進出させ、中津に到る街道に展開する小宮民部を総括とする軍は、狸山口に本営を構えました。この二手から長州軍前線を攻撃しました。
9月に入って、長州軍と戦っている石州口と芸州口は休戦になりました。しかし、小倉口の戦闘は依然と続いていました。休戦になった前線から小倉に増援の諸隊が到着しました。
10月4日夜明けに、長州軍は高津尾と狸山口の二方面に総攻撃をかけました。圧倒的大軍に対する高津尾での島村指揮下の軍の必死の防戦にも関わらず、しだいに金辺峠に後退していきました。狸山口から攻防の激しい金辺峠方面に一部の兵力を割きました。しかし、狸山口でも至る所で苦戦しました。
小倉藩首脳は小倉軍の戦力からして、もう限界と感じていました。大宰府の都落ちの五卿を護衛している肥後藩士と同地に滞在している薩摩藩士に、止戦の調停を依頼しました。しかし、長州軍と金辺峠で戦い続けている島村志津摩を説得できるかが心配でしたが、不本意ながら島村は同意しました。

交渉は難航しました。10月21日、今までともに戦ってきた企救郡の農兵達と決別し、島村率いる軍は金辺峠から退きました。22日には、狸山峠を守っていた軍も後方に退きました。
香春藩庁は下関に使者を派遣して交渉しましたが、難航しました。特に人質の件で、互いに妥協点を見出せませんでした。一部始終を聞いた島村は、幕府から預かった小倉藩領を全て放棄して、他国に移住することを提言し、12月21日小倉藩は長州藩に告げました。

1866(慶応2)年末、家中の者の家族が肥後に旅立って行きました。この状況に長州藩からは、打開に尽力したい旨の使者がありました。小倉藩では屈辱的講和に不穏な動きがありました。この事態を収拾すべく、島村志津摩に家老就任の要請がありました。
長州方と徹底抗戦を主張した藩士数十名が赤心隊を結成しました。強硬な態度の赤心隊を島村は説得し、決起を思い留まらせました。
1867(慶応3)年1月22日小郡で、小倉藩の使者と長州藩の重役の間で、止戦協定が締結されました。小倉領企救郡1郡を長州藩が預かるというものでした。2月6日、島村は熊本の豊千代丸、母貞順院に拝謁して、報告しました。

 

一時添田に移っていた藩庁を香春に戻し、3月18日、小倉藩を香春藩として発足しました。その後、肥後に退避していた者達に帰国の触れを出しました。長い戦乱と肥後への退避などで、藩財政は極度に悪化していました。
この様な状況下、幕府には天領日田よりの米を要請し、大坂の豪商からの献金はじめ、領内富豪には寄金をさせました。
この様な状況を理解してもらうため、家老島村志津摩は上洛し、老中らに小倉城自焼以来の経過と、惨状を説明し、長州藩の企救郡預かりのもとになっている、長州征討の大義名分である毛利侯の罪科を許し、小倉藩の本領安堵をして下さるように懇願しました。その結果、15万石は安堵されました。

島村が上洛している間の5月14日、小宮民部は隠居謹慎となり、失脚しました。小倉城自焼の責任が問われたと思われます。なお、家督はその子が、知行そのままで継ぎました。
1867(慶応3)年6月1日、第9代藩主忠幹(ただよし)の名で、豊千代丸の家督相続願いが出されました。しかし、忠幹は2年近く前に死去していました。長州藩との関係悪化があり、表向きは病気療養とされていました。
豊千代丸は、滞在先の熊本で、忠忱(ただのぶ)と改名し、第10代藩主として家督を継ぎました。忠幹死去の報には、長州藩主毛利敬親は使者を派遣して見舞いました。長州藩との関係もしだいに好転してきました。
第二次長州征討での敗戦は、幕府の権威を失墜させました。薩長は討幕の密勅を得ようと懸命でした。追い詰められていた幕府は薩長の仲介をしていた土佐藩の大政奉還論に乗りました。
幕府は土佐藩の大政奉還の建白を急がせました。1867(慶応3)年10月14日、討幕の密勅が下された日、大政奉還は奏上されました。