幕末通史1(ペリー艦隊来航以降の国情)



 更新日/2016.12.15日
 (れんだいこのショートメッセージ)
 2005年初頭、稀代の売国傀儡政権小泉派による日本国融解戦略が暴力的に押し付けられつつあり、これに為す術べなく諸勢力が屈服を余儀なくされつつある事態を見て、れんだいこは再度幕末の開国過程の検証を決意した。思えば、黒船来航でこじ開けられた鎖国体制の終焉が百年先の今日の如くな売国傀儡政権登場までのシナリオを仕掛けていたのではなかろうか。

 以来、百有余年、我らの父祖はこのシナリオに一部気づき大部気づかぬながらもままよく闘った。しかし、敵はあまりにも強大にして百戦錬磨過ぎた。しかし、イスラムを見よ、彼らは今も果敢に闘っている。今後予断は許さない。それを思えば、敵の強大なシナリオの方の破綻も現実的であり、よって歴史は激動していることになる。日本人民の叡智はこのことを的確に認識し、更に英明に対処せねばならぬ。これがれんだいこのメッセージである。

 以上の観点を念頭に置きながら幕末開国過程を検証する。逐次の動きは「幕末史年表」で整理する予定。

 2005.4.3日 れんだいこ拝


【西欧列強の日本開国化の動きと徳川幕府の対応】
 徳川幕府は世界史的にみて脅威の安定社会を生み出していた。良きにせよ悪しきにせよ、近世に至ってこれほどの長期政権は例が無い。が、さすがに治世200年頃より体制的桎梏状況を加速し始めていくことになった。その基底要因として、社会の下部構造を為す経済的変動に比して上部構造が必ずしもその能力を引き出せず、既にこの頃支配体系が硬化しており、この両者の齟齬により秩序の乱れが加速されていったと分析するのが相当と思われる。

 まさにこの時に外圧の波が押し寄せるという歴史の不思議が重なる。かくて、徳川幕藩体制は内憂外患に見舞われ多事多難となる。その内部崩壊の危機が徐々に拡がり始め、やがて飽和点に達して一挙に瓦解する。この「時代の変わり目」に当時の人々がどう対処したかを見ていくのが幕末史考となる。

 「西郷隆盛の生涯」は、西郷を追跡する形で幕末から明治維新の激動を解析してくれている好サイトである。これをベースにれんだいこ流に再編成してみたい。なお、左派からは全く無視されているが、「水戸学の変遷」と幕末期への関わりもまたキーとなる。覚束ないながら、この辺りの絡みを総合的に俯瞰することを企図している。

 この時代西暦19世紀前半の一時期は世界史の上でも特筆される大変動の時代であった。政治、経済、社会、思想のすべての面にわたって、広く深く根源的な大きな変革のうねりが進行しつつあった。西欧においてもっとも早く進行したこの大変革は、遠くアジア地域にまで、その余波を拡げることとなった。資本主義の発達は、生産の増大と販路の拡大を求めて止まない。国内における「民主政治」の確立に逸早く成功した西欧近代国家は次第に海外に進出し始め、武力を背景とした植民地の獲得に鎬を削る軍事列強として立ち現われることとなった。

 イギリス、オランダ、フランスなどがインド亜大陸や東南アジア地域をいち早くその手中にし、続いて老大国清国に狙いを定め進出の機を窺い始めた。やや遅れて北の巨人ロシアがしきりに日本の北辺を窺うようになった。続いて新たにアメリカ、ドイツが参列することとなる。これに抗するに唯一当時の幕藩体制下の日本が、稀なる戦略で危機から逃れた。これは世界史的に見て称賛されることであるが、従来の左派的観点から全く無視されており、早急に見直しが要請されているところであろう。

 その理由として、近時の左派的理論の柱となっているマルクス主義が、国際主義を称揚するあまりに民族主義的ベクトル的運動を無視する傾向があった為と思われる。しかし、ここではこれに触れないことにする。

 この外圧に対する歴史的理解の訂正が要請されつつある。爾来、この外圧は、西欧による攻勢とのみ見られて来ており、西欧内にあるネィティブ国家とロスチャイルド派国際金融資本を核とするネオ・シオニズムの二元的対立過程が見落とされてきた。しかし、それは片手落ち見解というべきものであることが判明しつつある。この時の外圧は西欧列強による攻勢であるが、これを仔細に見れば、ネオ・シオニズムに篭絡された西欧ネィティブ諸国家がそれぞれの思惑と狙いを持って世界植民地化攻勢に乗り出したのであり、背後の画策者はロスチャイルド派国際金融資本ではなかった。彼らは、「シオンの議定書」マニュフェストに則り世界支配を企図しており、その為の首尾一貫した構想力を持っている点で、こちら側の攻勢をこそまさしく危険なそれと見て取るべきではなかろうか。この理解を欠落させると、その後の歩み、政治的事象が理解できにくくなる。

 2005.4.3日、2008.2.20日再編集 れんだいこ拝

【外圧史】
 外圧の動きは次の通りである。最初に接触を持ったのは、南下政策を推し進めつつあったロシアに始まる。次いでイギリス、フランスが様子を窺い始めるが、鎖国体制を実際に打ち破ったのはペリー提督率いるアメリカ艦隊であった。

 ロシアの動きは次の通りである。1778(安永7)年、通商を求めて蝦夷地の厚岸にあらわれた。1792(寛政4)年、ラックスマンが使節となって漂流民大黒屋光太夫を伴って根室に来航して来た。幕府は通商要求を拒否し、交渉は全て長崎で行うと通告した。1804(文化1)年、使節レザノフが通商を求めて長崎にやって来た。幕府がこれを拒否したことにより、ロシア船はその後しばしば蝦夷地に現れて、日本側の守備兵と紛争を起こすようになった。1811(文化8)年、 国後島に上陸したロシア軍艦の艦長ゴローニンが日本側に捕らえられるという事件が起こり、ロシアはその報復措置として幕府の蝦夷地開発事業に当っていた高田屋嘉兵衛(1769〜1827)を捕らえて連れ去った。やがて事情を知らされた嘉兵衛は両国間の紛争調停に奔走し、日本に帰ると幕府を説得して、1812(文化10)年ゴローニンは釈放され、事件は解決を見た。

 これに対応した幕府の動きは適切であった。年代順に追うと、1783()年、工藤平助(1734〜1800)が「赤蝦夷風説考」を著して時の老中田沼意次に献言しており、老中田沼は早速に最上徳内(1754〜1836)に命じて千島方面を探検させたり、近藤重蔵(1771〜1829)らに蝦夷地、南千島を調査させたりした。文化年間、間宮林蔵(1776〜1845)らに樺太、沿海州の探検に当らせ、又蝦夷地を幕府の直轄地とした。林子平が1792(寛政4)年、「海国兵談」で「国難が来た」との警戒情報を発信している。

 ロシアに続いてイギリスの動きも活発であった。イギリス船の来航経緯は次の通りである。1808(文化5)年、フェートン号が突如長崎港へ侵入して来て、薪水、食料を補給させる事件が起こった(フェートン号事件)。イギリス船の日本近海への来航はこれより次第に激しくなり、1818(文政1)年、ゴルドンが浦賀へ来航し通商を求め、1824(文政7)年、捕鯨船が常陸や薩摩に来航して紛争を起こしたりした。この時交渉に当った会沢正志斎は、翌年、「新論」を出版し、この著作が尊王攘夷の思想的基礎となった。

 こうして寛永の頃より、清国、朝鮮、オランダ国以外の外国船が日本近海や長崎の出島へ入港し、貿易を求められる事も数次にわたるようになり、幕府は国防の上からも新たな対応を迫られることになった。かくて鎖国政策の限界が急浮上することとなった。この間幕府も懸命に対応策を講じては見たが、幕閣の思惑を越えて外圧は強まるばかりとなる。

 1810(文化7).2月、幕府は、白河、会津両藩に相模、安房海岸へ砲台構築を命じた。こうした動きが為されておることからも明らかな様に、国防に危急のあわただしさが醸成されつつあり、幕府は和戦両用の対応に心を砕くこととなった。 

 1825年、異国船打払令(外国船打払令)。
 1828年、蛮社の獄。
 1837年、シ−ボルト事件。
 1839年、モリソン号事件。
 1840〜1842年、アヘン戦争。イギリスが仕掛け、老大国の清国が屈辱的な敗北を喫した。この情報が長崎の幕府出先機関に伝えられ、日本全国の武士、学者、有識者の知るところとなった。日本が外国の植民地にされかねないという危機感が生まれ、幕末攘夷運動を形成していくことになる。

 当時、ヨーロッパで揺るぎない巨大な金融帝国を築き上げていたロスチャイルド財閥(国際ユダヤ金融資本の総帥)は、積極的にアジア新介入し、中国の阿片戦争に始まって、次に狙うところは日本だった。この日本侵略のプロジェクトチームは、ロスチャイルド系のサッスーン財閥が担当し、その本拠地はロンドンにあった。そしてまず上海に足場である橋頭堡(きょうとうほ)をつくり、対中国貿易と、植民地化の進行を押し進めていた。
 1844年、オランダ国王(ウィレム2世)の開国勧告。

 こうして、いわゆる鎖国政策の中で独特の封建平和体制を維持し続けたわが国も、否応なく世界史の渦に巻き込まれることとなっていった。

【内圧史】
 徳川幕藩体制の治政の乱れは、農本社会を基盤にしていたことから究極的には農民への圧政として帰趨することとなり、過酷な年貢米の取り立てへと向かっていった。しかし、この頃は又、ひでり、飢饉、台風、治水の氾濫、地震等の自然災害も頻発しており、重税と自然災害による疲弊が農民に塗炭の苦しみをなめさせ、離散、赤子の間引き捨て子、餓死、人妻や娘の人身売買を進行させて行った。この経過で寄生地主といわれる大地主階層も生まれつつあったが、これは徳川政治の基本であった「生かさず、殺さず」(「慶長の御触書」)に窺える農民政策の明らかな破綻でもあった。農村における貧富の差の拡大は止まることなく、むしろこれが基調となり幕藩体制崩壊の前提諸条件を生み出して行くことになる。

 加えて幕府、藩の経済政策の失敗が重なり、米価を主とする諸物価の高騰を招き、農村での百姓一揆、都市部での打ち壊しを連鎖させる等、各階級階層の抵抗力を押えることによって成立していた幕藩体制の統治機構が揺らぎを見せ始め、多難な社会事情を生み出していった。民衆の反乱にたいしては、幕府と藩はこれを徹底して弾圧する手法しか為さず、為に民衆の困窮は一層深まり、応じてその貢租により成り立つ幕府、藩も疲弊するという悪循環に陥り、これを打開する有効な処方箋も見出されないという事態であった。

 過重な貢租や農民階層の分化に加えて、天災飢饉で窮乏した農民による百姓一揆は後期になるほど増加していた。その形態は、逃散(集団離散)、越訴(代官などの手順をこえて、直接領主、幕府などへ訴える)、強訴(集団で抵抗する)から、惣百姓の村ぐるみの団結で強訴する広域的な惣百姓一揆になりつつあった。惣百姓一揆は、村役人、豪農層と平百姓、貧農の対立激化を反映しており、しばしば領主側を圧倒して要求をかちとることが多かった。村人は、一揆の首謀者を義民とあがめ、根強い抵抗運動を組織する力を獲得しつつあった。

 老中松平定信による「寛政の改革」、水野忠邦による「天保の改革」が為されていくが、保守的建て直しであり、時代の流れに齟齬していた。もはや誰の目にも幕府に期待する時代ではなくなり、こうした事情に鑑みて諸藩でも藩政改革を断行し、治政の立て直しに懸命となった。この改革に成功した藩が次第に勢力を増していくこととなり、「雄藩」として台頭し始めていくことになる。この「雄藩」が次第に影響力を行使していくことになり、譜代、親藩、外様と秩序分けされていた大名支配の幕閣秩序を壊し始めて行った。名高いところとして薩摩藩、長州藩等が挙げられ、やがて政局の動向に少なからぬ影響力を及ぼし始めて行くことになる。時代は少しずつ幕末維新の動乱期へと向かっていた。

【新学問、新宗教の胎動】
 こうして徳川幕藩体制の支配秩序はいたるところにほころびが生まれ始め、政情不安の種が蒔かれつつあった。 こうした時代に応じて、イデオロギー的にも、幕府官学の儒教思想や停滞しきった寺院仏教とは系統の異なる、陽明学、国学が台頭してくることとなった。新しい思想、信仰を求めようとする群像が日本の至るところに生まれ始め、次第に統治論として尊皇攘夷の思想が声高になっていった。尊王武士の登場は幕藩体制の根幹を揺るがすかの如くに、時の流れが動き始めることとなった。

 他方では、長崎を上陸地点とした蘭学が西欧の新しい文化、科学技術を伝え、ひいては幕藩封建政治、鎖国体制を批判する風潮を強めつつあった。この頃庶民の間には、仏教、神道に限らず、俗信仰が流行し、世俗的な生活と結びついた講が盛んになった。霊場巡礼、寺社詣り、おかげ詣り、ことに山伏修験者などによる加持祈祷が流行の兆しを見せた。

 こうして学問から宗教まで、右から左から至る所に政情不安の種が蒔かれつつ、時の流れが否応なく幕府の屋台骨を揺さぶり続けていく時代となった。

【「後期水戸学」の尊王運動】
 これは、水戸学の影響で概述する。


1853(嘉永6)年の動き

【黒船来航の衝撃】
 6.3日、「ペリー浦賀に来航」。このように幕藩体制の危機が深まりつつあるとき、神奈川県浦賀にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリー(Matthew Calbraith Perry/アメリカの海軍軍人)提督の軍艦4隻が来航した。この時、従軍ユダヤ教ラビが日本に向って激烈な呪文を唱えた、と後年公刊された乗組員の日記に報告されている。日本中は蜂の巣をつついたように大混乱となった。これがペリーの黒船砲艦外交の第一歩であった。

 ペリー一行は、第14代アメリカ大統領ピアース(1853.3.4日就任)の親書を携えていて、これを幕府に提出した。浦賀奉行与力中島三郎助と通詞堀達之助が交渉に当たるが、長崎回航は受け入れられず、武力を背景として開国を迫った。夜の時砲で沿岸が騒然とした。

 6.4日、浦賀奉行与力香山栄左衛門と中島三郎助が、再度長崎回航を求めるが、失敗。ミシシッピ号が示威行動のため、江戸湾奥に向かう。同日、佐久間象山が米艦隊を視察するため浦賀へ行き、吉田松陰らと会見している。

 6.9日、浦賀奉行戸田氏栄、井戸弘道が久里浜でペリーと会見。アメリカの国書を受け取る。吉田松陰は佐久間象山等と現場でこの状況を見ていた。艦隊4隻は江戸湾を周回する。

 6.12日、東インド艦隊、那覇へ向けて江戸湾を離れる。

 6.15日、幕府(阿部老中)が、ペリー来航を朝廷に上奏する。

 江戸幕府第3代将軍・徳川家光の時代以来、鎖国を国是としてきた幕府にとって、このペリー来航は幕府内や諸大名間に衝撃を走らせた。老中阿部正弘はとりあえず国書を受け取り、ペリーを退却させた。以下、別サイトで「黒船来航の衝撃」として言及する。

【その後の情勢、幕府の対応】
 6.22日、阿部正弘ら幕閣がその対策に追われる中、第12代将軍・徳川家慶が急死した(享年61歳)。

 7.1日、老中阿部正弘が国書の訳文を各大名諸大名、幕臣らに渡し、アメリカの要求について「意見を述べるよう」申し渡す(「処士横議(しょしおうぎ)」)。

 7.3日、幕府、前水戸藩主徳川斉昭を海防参与に任命する。そして対応策を諸大名、幕臣に求めた。

 7.18日、ペリーに続いて、プチャーチン率いるロシア極東艦隊が長崎に来航し、開港通商を要求した。国中が、開国か攘夷かを対応をめぐり議論が大いに沸騰したが、当時の第13代将軍・徳川家定(いえさだ)は心身共に虚弱な人物で、到底この国難にリーダーシップを発揮して、立ち向かえる人物ではなかった。

 この頃より、幕政改革として広く人材を登用していくこととなった。7月、勝海舟、老中の幕臣への要請に応え、貿易論、人材論、兵制改革論の海防意見書を提出する。

 7月、オランダ商館長クルチウスが幕府に「別段風説書」を提出。

 8.19日、ロシア帝国の国書を受け取る。

 9.25日、幕府、長崎奉行をしてオランダ商館長クルチウスに軍艦・鉄砲・兵書を注文する。また、西洋砲術奨励を布告。

 8.6日、幕府、砲術家高島秋帆の禁固を解いて、韮山代官江川太郎左衛門の配下に置く。8.15日、幕府、大砲50門の鋳造を佐賀藩に要請。8.24日、幕府、江川太郎左衛門の指揮のもと、11基の品川沖台場の築造を始める。

 8.29日、島津斉彬が、幕府に建艦、武器・兵書の購入を要求、幕府、薩摩藩に建鑑のみを許可。

 9.15日、幕府、大船建造禁令を解除。

 10.8日、幕府、筒井政憲と川路聖謨を対ロシア交渉全権に任命し、長崎派遣を決定。11.1日、幕府、外国語を船舶・鉄砲名称と練習用語に用いることと、薬屋などでの商標に洋字の使用を禁止する。

 10.20日、徳川斉昭、ロシアとの和親不可を建議。一方大槻磐渓は、幕府に親露を献策する。

 10.23日、徳川家定に将軍宣下、第13代将軍となった。

 11.1日、幕府が海防に関する法令を下した。「諸説異同ハコレ有リ候得共 詰リ和戦ノ二字ニ帰着イタシ候」とした。明年ペリーがきても通商条約締結の返答をしないこととした。これを「ぶらかし」と云う。戦争になる場合に備えて武器の強化を指示し、先方の出方次第だとした。阿部老中は朝廷の意見を聞く為の朝廷の意思を奉じた形式も整えようとした。以降、各藩も意見を申し出るようになった。

 11.7日、幕府、アメリカより戻っていた中浜万次郎を登用し普請役格とする。

 11.12日、幕府、水戸藩に大船建造を命じる。

 11.14日、幕府、相模・上総・安房の江戸湾岸警備を彦根・肥後藩等に命じる。

 11月、幕府、浦賀に造船所の建設を開始する。

 11月、島津斉彬、大船建造を申請し、船印のため、日の丸国章制定を建議する。

 12.5日、幕府、石川島を造船所とすることを決定し、水戸藩に石川島で軍艦建造を命じる。12.5日、ロシア艦隊4隻、ペリーとの協力がうまく行かず、長崎に再来。

 12月、韮山代官江川太郎左衛門、韮山に反射炉を建造。翌1854(嘉永7、安政元).4月、伊豆韮山で反射炉の築造開始。(1857年6月完成)。

 12.20日、幕府、ロシア側と交渉を開始。

1854(嘉永7、安政元)年の動き

【日米和親条約の締結】
 1.16日、前年の予告通り、ペリーが軍艦7隻を率い再来し小柴沖に停泊した。1.17日、米国使節、幕府にエレキテル・テレガラフ・蒸気車などを献上。2.3日、幕府、アメリカ軍艦見物を禁止する。2.6日、幕府、漂流民保護と薪水食糧給与は承認し、通商条約は拒絶する方針を決定する。2.23日、横浜村の応接所で、ペリーの持参した模型蒸気機関車の試運転を行う。2.24日、ドレイパーとウィリアムス、横浜で電信の実験を行う。2.26日、力士小柳、米国人水兵3人と相撲を取り勝つ。

 この間、幕府は、諸外国の圧迫に対し確固とした方策を持って望む事ができなかった。既に大英帝国と清帝国が争った結果(アヘン戦争)、1842年、南京条約が結ばれていた。そういう国際情勢に通じている幕府は驚異を感じ条約締結に向うこととなった。

 3.3日、日米和親条約を締結する(神奈川条約又は下田条約)。これにより水・薪・石炭らを供給すること、下田と函館を1年後に開港すること、最恵国待遇等が取り決められた。以後日本がどんな国と条約を結んだ時にも適応できることとなった。18ケ月後、ハリスが下田に上陸することになる。

 4.9日、大名に調印の経過と条約の概要を示す(条約書は公表せず)。

 5.25日、幕府、日米和親条約付録協定(下田条約)に調印。これにより、下田・函館を開港し、領事駐在を認めることとなった。ここに遂に200年余りにわたって続いた鎖国体制が打ち破られた。鎖国政策の崩壊と共に江戸幕府の屋台骨は大きく揺らぎ、日本封建社会は世界史の激動の中に巻き込まれていくことになる。

 3.27日、吉田松陰、米艦に乗船を求めるが断られる。3.28日、吉田松陰が下田沖の軍艦に密航を企てて失敗し自首する。4.5日、吉田松陰密航事件に連座して、佐久間象山も逮捕される。翌1854(嘉永7、安政元)・9.18日、幕府、吉田松陰、佐久間象山を蟄居処分とする。

 翌1854(嘉永7、安政元)年、アメリカに続いてイギリス、ロシア、オランダのヨーロッパ諸国と和親条約を締結する。8.23日、日英和親条約締結。長崎・函館を開港する。 日露和親条約で下田・函館・長崎を開港する。

【その後の情勢、幕府の対応】
 3.6日、西郷の上書が認められ、斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、江戸に赴いた。4月、庭方役となり、当代一の開明派大名であった斉彬から直接教えを受けるようになり、またぜひ会いたいと思っていた碩学藤田東湖、戸田忠太夫にも会い、国事について教えを受けた。

 4.30日、徳川斉昭、日米和親条約締結を不満として、幕政参与を辞任。
 
 6.17日、琉球王府、米国と琉米修好約条を締結。翌1855(安政2).10.15日、球王府、フランスと琉仏約条を締結する。

 6.30日、幕府、箱館奉行を設置する。

 7.9日、幕府、島津斉彬と徳川斉昭の言を採用し、日の丸を日本惣船印とする事を決定する。

 7.28日、造船技術と航海術を伝えるためのオランダ船スンビン号が長崎に入港する。閏7.15日、英国東インド艦隊が長崎に入港。

 8月、下田奉行伊沢美作守政義ら、下田外国人休息所の建設と女性の接待を建議する。

 9.2日、幕府、オランダに対して下田と箱館の2港を開港する。

 9.18日、プチャーチン大坂湾に投錨。

 9.21日、府、オランダに蒸気軍艦2隻を発注。 

 11.3日、日露条約交渉が下田で行われる。

 11.27日、安政に改元。

 12.21日、幕府、日露和親条約に調印。下田・箱館・長崎をロシアに開港し、択捉−ウルップ間を国境と定める。また樺太を両国人雑居地とする。翌1855(安政2).3.22日、プチャーチン提督らロシア側交渉団は、ヘダ号で帰国の途につく。 
 
 この年、上野、陸中、常陸、越後、美濃、紀伊、備前で農民による打ち壊しや強訴が起こる。 

1855(安政2)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】
 1.11日、幕府、浦賀・下田・箱館の3奉行に外国船寄贈の書籍・武器の江戸送付を命令する。

 2.22日、幕府、松前藩領の内、松前氏居城付近を除く蝦夷地全土を直轄領とする。

 3.4日、フランス軍艦コンスタンチーヌが下田に来航し、物資の補充を願い出るが、拒絶される。

 3.12日、英国軍艦3隻が箱館に入港する。

 3.27日、幕府、松前・南部・津軽・秋田・仙台の各藩に蝦夷地警備を命じる。

 4月、間宮林蔵著「北蝦夷図説」が刊行。

 5.20日、松前藩、幕府の命令により、樺太のクシュンコタンにあったロシア兵陣営を焼く。
  
 7月、アメリカ駐日総領事・ハリスが着任。

 8.4日、老中松平乗全と松平忠優が徳川斉昭らの派閥の圧力で辞任。

 8.13日、徳川斉昭が幕政参与に再任。幕府は大名に米・英・露3国との和親条約の内容の写しを示した。
 
 10.2日、「安政の大地震」発生。夜、江戸で直下型の大地震が発生。死者7千余、家屋倒壊1万4千戸に及び、特に下町は壊滅、新吉原はほぼ全て焼失する。この地震で藤田東湖や戸田蓬軒が圧死した。

 10.9日、下総佐倉藩11万石の藩主堀田正睦(まさよし、46歳)が阿部正弘(37歳)に代わって老中首座に就任。以降、堀田−阿部が幕政を担って外交問題に取り組むことになる。

 10.14日、幕府、旗本・諸藩士・庶民の蝦夷地移住開拓を許可する。

 10.17日、堀田正睦が老中に就任した。(阿部と交代で老中首座、外国事務取扱の専任となる。)

【海軍伝習所設立】
 10.24日、1853年オランダから船を贈与されたのを機に幕府が海軍教育にために海軍伝習所を長崎に開校した。永井岩之丞を総督とする39名の幕臣・諸藩士・庶民への伝習が始まる。勝海舟、榎本武揚、五代友厚ら幕臣と他藩諸士がオランダ人教官(海軍士官ペルス・ライケン以下22名)の指導の下に海軍の基礎知識を学んだ。後、神戸と江戸にも開設される。

 オランダから贈られた軍艦スームビング号(観光丸)を用いての近代的な教育を受けた。第一期伝習生の学生長を務めたのが勝麟太郎(のちの海舟)である。 近代海軍創設の俊英がここから巣立っていった。1859(安政6).2月、閉鎖される。

 12月、西郷の下へ越前藩士・橋本左内が来訪し、国事を話し合い、その博識に驚く。この頃から政治活動資金を時々、斉彬の命で賜るようになる。

1856(安政3)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】
 1.21日、岡山藩、倹約のために、被差別民に渋染・無地藍染以外の着用を禁じ、被差別部落民が撤回の嘆願書を提出する。4月、岡山藩、渋染・無地藍染制限令撤回の嘆願を却下。6.13日、岡山藩領80余か村の被差別部落民が渋染・無地藍染以外の着用禁止撤回を求めて吉井川に集まる。6.14日、岡山藩渋染一揆の被差別部落民約8千人が藩家老へ嘆願書を提出。藩はこれを黙殺するも、事実上衣服差別は廃止する。

 2.11日、 幕府、洋学所を蕃書調所と改称。村田蔵六(長州・大村益次郎)、松木弘安(薩摩・寺島宗則)らを教授として採用。のちの東京大学に発展する。

 5月、西郷が武田耕雲斎と会う。

 7月、西郷が斉彬の密書を水戸の徳川斉昭に持って行く。

 7.10日、ランダ商館長クルチウスが幕府に列強との通商条約締結を勧める。

 7.12日、水戸藩、幕命により石川島造船所で軍艦を建造、旭日丸と命名する。

 7.21日、ハリスがアメリカ総領事として通訳のヒュースケンと共に下田にやってきた。1854年の日米和親条約に基づいて赴任した。

 7月、幕府が、老中の基本方針として通商開始の方向を初めて示す。

 8.5日、ハリス、下田玉泉寺をアメリカ仮領事館とする。幕府とハリスとの通商条約締結をめぐる折衝が始まり、ハリスは、修好通商条約を結ぶ腹の決まっていない幕府高官を相手に、時に高圧的に時に気長に交渉し、次第に幕府を追いつめていく。

 8.26日、ハリス、下田奉行に通商の自由と貨幣等価交換を要求。

 9.10日、(陽暦10月8日)アロー事件発生。

 9.18日、長崎奉行、浦上村山の隠れキリシタン15人を逮捕、浦上三番崩れの弾圧が始まる。

 9.25日(陽暦10.23日)、第二次アヘン戦争勃発。

【松下村塾の開校】
 9月、「黒船来航」は他にも思わぬ回天の種を蒔く事になった。その一つが、吉田松陰の松下村塾の開校である(幕末草莽の志士列伝)。長州藩は、吉田松陰に私塾主催を許可し、身分に関係なく約80人が塾生となった。

 この時まで吉田松陰は、アメリカ密航を企て失敗する。そのアメリカ密航の企ての罪で、萩の野山獄へ入れられる。その後、叔父玉木文之進の松下村塾を引き継ぎ、安政の大獄により29歳で刑死するまでの2年半、若き門下生へ新しき日本を拓く実践の道を熱く説いた。

 藩が作った学校である明倫館へ入学できないような下級武士の子弟が多く学んだ。松下村塾では時代を動かす数多くの人物を輩出した。高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿(としまろ、池田屋にて討ち死に)、入江九一は松下村塾の四天王といわれた。なかでも高杉と久坂は村塾の双璧といわれる。ほかにも、益田親施(ちかのぶ)(右衛門介・須佐領主。俗論党により切腹)、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤博文、山県有朋、前原一誠(いっせい、萩の乱を起こし斬罪)、品川弥二郎らが松下村塾で学んだ。松下村塾の塾生が長州藩を動かし、やがて明治維新の一方の流れを創っていくことになる。

【その後の情勢、幕府の対応】
 10.17日、老中堀田正睦、外国事務取扱、海防月番専任に就く。

 11.10日、日露和親条約批准書を交換する。

【将軍後継問題の発生】
 「黒船来航」は思わぬ回天の種を蒔く事になった。その一つが、13代将軍家定の将軍継嗣問題の発生であった。将軍家定は病弱だった為、この頃から将軍継嗣問題が起こった。水戸家出身で一橋家の当主・一橋慶喜(よしのぶ、後の徳川慶喜)に白羽の矢が立てられた。一橋慶喜は、当時諸大名の間でも、聡明且つ英明と云われていた人物であったが、その担ぎ出しに外様大名の薩摩藩藩主・島津斉彬が乗り出し、これに幕閣が引きずられるという事態を生ぜせしめた。

 この頃の斉彬の考え方は、将軍正室を通じて一橋家の徳川慶喜を第14代将軍にし、賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするもので、日中韓同盟をも視野にいれた壮大な計画であった。

 斉彬は、日頃から親しく付き合っていた老中の阿部正弘や土佐藩主・山内容堂(ようどう)、福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)、宇和島藩主・伊達宗城(だてむねなり)といった人々と力を合せ、一橋慶喜を次期将軍にするべく運動を始めた。その頃、斉彬の無二の寵臣として働いていた西郷は、この将軍継嗣問題にも、斉彬の使いとして、また、朝廷方面の運動者として大いに働くことになる。

 これに抗して、紀州藩主で、当時まだ10代半ばであった徳川慶福(よしとみ)を将軍に推し立てようとする動きが出てくる。その運動の中心人物は、紀州藩の付家老・水野忠央(ただなか)で、「血筋から言うと、次期将軍には、一橋様よりも紀州様の方が適任である」という継承論を展開した。また、一橋慶喜の父・前水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)が大奥に非常に評判の悪い人物であったので、この方面からも、慶福を擁立しようとする動きが活発化してきた。

 こうして、一橋慶喜派(老中阿部正弘、薩摩藩主島津斉彬、福井藩主松平春嶽、幕臣川路聖謨ら)と南紀派(彦根藩主井伊直弼ら)とが対立していくことになった。

 12月、第13代将軍徳川家定と斉彬の養女篤姫(敬子、将軍正室)が結婚。

1857(安政4)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】
 1.18日、幕府、天文方から洋書研究・翻訳のための洋学所を独立させ洋学所を蕃書調所と改称。前年より準備の進められていた蕃書調所教育部門が正式に開講。幕臣190余人が入校する。
 
 2.1日、オランダ商館長クルチウスが長崎奉行に書簡で安政3年9月のアロー号事件の経過を伝え、通商条約交渉に警告を与える。幕府は「広東の覆轍」をスローガンに外国との紛争を極端にまで避けようとした。松陰は幕府の外交態度をするどく批判した。
 2.18日、ハリス、米国人の居住権や治外法権などを要求する7ヶ条を下田奉行に提出する。
 2.29日、遠江豊田郡の幕府領農民1400人が増税に反対し強訴。
 4.11日、幕府、陸軍築地講武所内に軍艦教授所を設ける。

 4月、西郷が、参勤交代の帰途に肥後熊本藩の長岡監物、津山田三郎と会い、国事を話し合った。

 5月、西郷が帰藩。
 5.26日、ハリスと下田奉行間で、治外法権などを定めた9ヶ条の日米和親条約修補条約(下田協約)が締結される。
 6.17日、老中阿部正弘死去。
 7.23日、徳川斉昭、再度幕政参与を辞任。
 7.24日、幕府がハリスに江戸行きを許可する。
 8.29日、長崎で、オランダと40ヶ条の追加条約を締結する(「日蘭追加条約」)。通商条約としては初めて。
 9.7日、ロシアと通商条約に当たる28ヶ条の追加条約を締結。
 10.16日、福井藩主松平慶永、徳島藩主蜂須賀斉裕が連名で一橋慶喜の将軍推挙意見書を提出。

【ハリスの将軍家定に謁見、老中堀田正睦会談】
 10.21日、ハリス、江戸城で将軍家定に謁見し、米国大統領の親書を提出。条約遂条審議までこぎ着けた。この前後から将軍の継嗣が問題となる。一方は紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))、他方は一橋慶喜であった。

 10.26日、ハリスと老中の堀田正睦が会談。ハリスの日本滞在記によれば、カリフォルニアから18日でこれるようになったこと。アメリカは西洋とは貿易が盛んになり家族のようだ、日本は国民が器用で勤勉であるから外国へどんどん出すようにすれば遠からず偉大な国になるでしょうと言い、次の3点を要求した。それは自由貿易・公使の江戸駐留・開港場の増加であった。イギリス・フランスは武力で来るから一民間人が開港を求めた方が国民に同意をとりやすいとこ。日本へのアヘンの持ち込みはしないことなど、ハリスは7時間にわたり大演説をした。通訳のヒュースケンスは、「宰相の家に11時頃行った。…ハリスは雄弁に語った。ハリスが人類は良心の自由が支配原理になるようになりつつある。アメリカでは仏教寺院と教会がひさしを並べている。日本もキリスト教の迫害を止めたらどうでしょうと言ったとき、日本人は全員うなずいた。最後にハリスが日本の高い山に登ってみなさい。多くのアメリカ国旗を掲げた船が捕鯨をしているのが見える。はるばる日本までやって来ているのに、なぜあなた方は勇気も活動力もあるのに、アメリカまで来ないのか。と言ったとき会場がざわめいた」と言っている。

 松陰の「墨使申立の趣論駁(ぱく)条件」の内容は次の通り。「曰く懇切、曰く明白、曰く大君殿下を大切に存じ候由、開口の演説なり。いで其の懇切ならず、明白ならず、殿下を大切に存ぜざる由を次々に論ずべし」、「…力已に足らば、イスパニアのルソン、オランダのジャワ、イギリスのセイロンの如きものあるを欲せざらんや」、「国々より合衆国の部に入るを願へども都(すべて)断りに及ぶなり。サントウヰス辺(具体的に何処か不明)も亦然(しか)る由。…サントウヰスに至り、其の実否を糺(ただ)さばや」。またペリーの幕府への献納品の中にメキシコ戦勝図があり、メキシコとの戦勝にニューメキシコを領土にしている事実があるではないか。アメリカは世界中一族と言うがなぜロシア・イギリス・フランスをけなしたりするのか。「右一統致すに付き二のねがいあるよし。此の二願眼目なり、注意すべし」、「其の一は、事務宰相ミニストル一名アゲント(ハリスのこと)を部下に置附け度き由。勿体なけれども、アメリカの大統領と我が将軍殿下と同等もとる時は、アゲントは御老中と同等とすべし。もし彼れ其の強大を挟み、我が殿下より一等上にありと云はば如何せん」、「又一は国々の商売致し度(た)き由(よし)。是れ大いに不可なり」、「此の両條(領事を置くこと・自由貿易)、拒絶出来ざる位の幕府なれば、幕府決して自ら存する能わず」。

 ハリスは、イギリスが東洋で行っているのはご存じの通りで、今後戦艦を率いて日本にやってくると脅しをかけている。橋本左内等はイギリス・アメリカは信用できないのでロシアと手を結ぶのがよいと云っている。以前から日本の指導層の一部にはロシアと手を結ぼうとする考えがあった。現在イギリスやフランス・ロシアが交渉して来ないのはクリミア戦争(1853〜56年のトルコ・イギリス・フランス・サルデーニャ連合軍の対ロシア戦争。ロシアの南下政策、特にパレスチナの管理権をめぐる対立が発端で、クリミア半島が主戦場)、セポイの反乱(1857〜59年に起きた近代インド最大の反英反乱。インド人の習慣・信仰を無視したことからセポイ(東インド会社のインド人傭兵)がデリー近郊で蜂起し農民市民も参加)等があるからである。アヘン戦争が起こったときアゲントが北京にいたらあのようにはならなかった。アロー号事件(1865年、イギリス国旗を掲げたアロー号に対して清朝官憲の臨検と国旗侮辱問題を発端とする清朝とイギリス・フランス間の戦争。60年北京条約)の時アゲントが北京いたら天に誓って戦いを起こさせなかったとハリスは云ってるが、戦争は二国の忿(ふん)(いかること)と貪(どん)(むさぼること)から起こること故ハリスとて止めることはできないと。またハリスはアヘンを日本に持ち込むようなことはしないといっているが、「是れ怪しむべきことに非ずや」と。

 ハリスが「日本数百年の治平は大幸と云うべし。然れども余り久しき治平なれば武事に怠り、其の国の為にならぬ」と云うのは事実であるが、そしりあざけることは憎むべきであると。ハリスが船も大砲もない自分と条約を結ぶことは日本の誉れを落とすことにならないと言ってるが、実際は合衆国とぺりーの積威によるもので、過去に10隻の軍艦で脅してるではないか。イギリスが50隻の軍艦で条約締結を迫る前に一人と条約を結べと言っているのは、幕府の恐れを見通して言っているのである。

 アメリカでは寺院と教会が並んで建っており、ポルトガルやスペインのように神社仏閣を壊して教会を建てるようなことはしないと言ってるが、邪教を主張する意は同じである。自由貿易は良いと言う基本的な考えはありながら「出交易は可なり、居交易は不可なり」のように、国力が違う場合むやみに外国から物資が入ることは防がねばならない。海外へ出ることは識見を広め、学芸を進めることにもなる。高い山に登って見ればアメリカから捕鯨船が百隻も来ているのが見えると言ってるが人を馬鹿にしているのも甚だしく幕吏の目が見えないことには悲憤に堪えずと述べている。

 ハリスは一人でやって来て、さもわが国を庇護するように云ってるが、これは剛柔を兼ねたアメリカの術策であり、よく洞察すべきである。かってはキリスト教の布教であったが今は国を挙げての使節であることを見極めなくてはならない。松陰は自由貿易を通して日本が外国の植民地になることを何とか防がねばならないと考えていた。

【その後の情勢、幕府の対応】
 10月、西郷が、徒目付・鳥預・庭方の兼務を命ぜられた(親友大久保利通(正助)も徒目付になった)。

 11月、藍玉の高値に困っていた下関の白石正一郎に薩摩の藍玉購入の斡旋をし、以後、白石宅は薩摩人の活動拠点の一つになった。

 11.1日、幕府、米国大統領親書とハリスの口上書について、諸大名に意見を求める。
 11.13日、(陽暦12月28日)英仏連合軍、広州を攻撃。11.14日、英仏連合軍、広州を占領。
 12.11日、日米通商条約締結交渉が始まる。12.13日、幕府、朝廷に対し日米通商条約に調印することを報告。

 12月、西郷江戸に着き、将軍継嗣に関する斉彬の密書を越前藩主松平慶永に持って行き、この月内、斉彬の命により将軍継嗣問題で橋本左内らと一橋慶喜擁立について協議を重ねた。

1858(安政5)年の動き

【その後の情勢、幕府の対応】
 1.5日、日米修好通商条約の条約遂条審議が終わり合意が成立した。が、幕府は条約成立には勅許が必要である事をハリスに告げ、条約の調印を二ヶ月延期することを申し出た。幕府は責任者として老中の堀田正睦を定め、勅許を得るため上京参内させることにした。

 1.8日、老中堀田正睦が、水戸藩を中心とした攘夷論を抑えるために孝明天皇の条約勅許を得ようとし、京へ赴く。1.12日、幕府は朝廷の勅許(ちょっきょ)を貰おうと堀田が朝廷との交渉に入った。

 2.9日、堀田正睦は条約勅許を奏請した。(条約案を示す)

 1−2月、西郷が、橋本左内、梅田雲浜らと書簡を交わし、中根雪江が来訪するなど情報交換し、3月には将軍正室から近衛忠煕への書簡を携えて京都に赴き、僧月照らの協力で慶喜継嗣のための内勅降下をはかったが失敗した。

 これを脱藩(許可なく藩の領地を離れること)志士達が擁護し、京都にあつまり条約勅許の阻止に動いた。既に志士達はたちは尊王攘夷論に染まっており、攘夷という孝明天皇の意思が為されるからにはその実現を目指すことこそ正義なりとしていた。

【岩倉具視と「列参」運動】
 安政4年末から安政5年3月にかけ条約勅許問題に将軍継嗣問題(南紀派(井伊)と一橋派(水戸)の抗争)がからんできた。この頃、朝廷内に岩倉具視が台頭し始めていた。岩倉は、久我家の庶流で家禄百五十石と家格は低かったが、久我建通(たけみち)を通して摂政(後に関白)の鷹司政通に取り入った。且つ、実の妹の堀川紀子(もとこ)が孝明天皇のお側に上がり、やかで寵姫となったことで、この関係をバネにして天皇の侍従兼近習になり、政治参画への道を切り開いた。その岩倉が画策して、次のような政治ドラマを演出する。

 2.23日、朝廷が、老中堀田正睦に対し、沙汰書(三家以下諸大名の意見を徴し、天皇に示すこと)を出し、朝廷と幕府が対立した。条約勅許は国家の重要な問題であるので、諸大名の意見を聞いてから願出せよと指示した。 

 3.9日、白九条尚忠、外交を幕府に委任する案を上奏するが、多くの公家の反対にあう。

 3.11日、孝明天皇は、関白・九条尚忠の上奏を受け入れ、外交は幕府に委任することを裁可する。これにより外交政策は幕府一任へと方針を傾きかけた。

 3.12日、中山忠能が起草した諫疎文に署名した岩倉具視、中山忠能等の堂上公卿88名(当時の公家の数は137家)が参内して幕府外交委任の勅諚案改訂(撤回)を建言し、抗議の座り込みを行った。続いて、官務・壬生輔世と出納・平田職修より地下官人97名による条約案撤回を求める意見書が提出された。この結果、孝明天皇は条約締結反対の立場を明確にし、条約の勅許を頑強に拒否することとなった。

 3.20日、朝廷が、公卿88人の外交委任反対案をいれ、参内した老中堀田正睦に対し、条約勅許は三家・諸大名の意見を聞いてから再願するよう再度指示する勅諚が出された(「堀田正睦、条約勅許の獲得に失敗」)。かくして、条約調印の勅許が拒否された。朝廷が一旦良かろうと認めたものが、尊皇派の公家の圧力により変更させられたことになる。これにより朝廷と幕府の亀裂ができた。

【老中堀田が辞任し、井伊が大老に就任する】
 4.20日、堀田正睦が、京から江戸への帰途につく。堀田は、勅許を得られなかった責任を取る形で老中辞職に追い込まれた。九条尚忠も内覧職権を一時停止された。

 幕府は条約勅許を貰えないが、既に交渉は条約批准寸前まで進行していた。さらに条約を批准しなければ欧米列強の軍事介入は火を見るより明らかであった。そんな追い込まれた状況の中で、水野忠央は、 最後の秘策を登場させる。当時、彦根藩主であった井伊直弼(なおすけ)を大老に就任させるように画策する。

 井伊直弼(1815〜1860、文化12〜万延元年)は、彦根藩第11代藩主・井伊直中(なおなか)の第14男であったが、藩主に就いた兄達が次々に亡くなっていくという不思議な運命の巡り合わせで、とうとう彦根藩主の座に就いていた。水野忠央は、その直弼の腹心である長野主膳(ながのしゅぜん)と共謀し、1858(安政5).4.23日、井伊を大老に就任させることに成功する。 

 4.23日、将軍徳川家定が、南紀派の彦根藩の藩主・井伊直弼を大老に任命する。幕府は井伊直弼主導のもとに88人の当事者の処罰に動き、公家側から多くの処罰者を生む。

【徳川慶福(よしとみ)が14代将軍に内定される」】
 5.1日、井伊大老は、当面の問題であった将軍継嗣問題を強引に慶福を擁立する紀州派有利に展開させ、将軍継嗣を徳川慶福にする旨老中一同に申し渡す。

 6.13日、13代将軍徳川家定没。 

 6.18日、幕府が、将軍継嗣問題発表を延期する。

【「日米修好通商条約の締結」】
 この間、ハリスは度重なる幕府の調印延長に業を煮やし、江戸小紫沖に軍艦ポータハン号を乗り入れて幕府を脅迫した。先に、中国の清国ではアロー号戦争(185−60)で、清国と英仏連合軍の戦争が起こり、清那は敗北し不平等な「天津条約」が結ばれていた。アメリカのハリスは、英仏がこれと同じように艦隊を率いて日本にも押し寄せてくるので、先にアメリカと条約締結しておれば、英仏もその条約を手本にするので中国のようにはならない。また勅許が得られなく交渉が出来ないのであれば今後は江戸では交渉をせず京都で行うと脅迫した。かくして、井伊大老は条約調印を決断する。

 1858(安政5).6.19日、井伊大老は、ハリスの強圧に屈する形で朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約と貿易章程に調印した。これにつづいて幕府は、7.10日−オランダと、7.11日−ロシア、7.18日−イギリス、9月−フランスとも同じような条約を結んだ。それらを総称して安政の五か国条約と呼ぶ。

 これらの条約の中身は、三つの面で不平等条約となっており、後々これが問題となる。一つは、「関税の自主権」(海外から入ってくるモノに日本政府が税金をかける。または、日本から輸出する際に税金をとる権利)の喪失であった。しかし、税金は日本が決めるのではなく、アメリカが決めるとなっていた。もう一つは、「領事裁判権」であった。外国人が日本で犯罪を犯しても、裁判を行うのは日本の裁判ではなく、アメリカの判事が行う、となっていた。領事裁判権がある限り、日本で起った犯罪に対して日本側が裁けないという不都合な仕組みとなる。いわゆる治外法権であった。もう一つは、和親条約で規定されていた片務的な最恵国待遇が継承されていた。

 以降、この不平等条約を撤廃しようと云うのが外交政策の課題となり、明治維新後に引き継がれていくことになる。

 この時、自由貿易港として、神奈川の横浜・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市→神奈川開港にともない下田は閉鎖が決められた。神奈川の開港は翌1859年と規定されていたため、幕府は貿易港の建設場所として神奈川の宿場に近い漁村横浜を選び、横浜築港・居留地の土地整備を強行した。アヘン戦争後の清での状況を教訓として生かし、貿易をめぐる主導権を欧米に奪われないよう先手をうった。

 イギリスは、横浜に一個連隊の軍を派遣した。フランスもイギリスよりやや規模が小さいものの軍隊を派遣した。かくて、英仏駐留軍が治外法権下で常駐することになった。

 6.24日、(将軍継嗣正式公表の前日)徳川斉昭、慶篤(水戸藩士)徳川慶恕(尾張)松平慶永(越前)の一橋派は無事登城し、勅許を得ない条約調印をした井伊大老を非難した。井伊失脚を図る幕政批判スローガンを「井伊の違勅調印」とし責任を追求した。

【徳川慶福(よしとみ)が14代将軍に決定される」】
 6.25日、幕府、諸大名に総登城令が出され、将軍継嗣は徳川慶福と発表される。こうして次期14代将軍が徳川慶福に決定した。慶福は10月に就任する。

 この過程で、福井藩主の松平春岳(しゅんがく、であり、名は慶永(よしなが))は、将軍継嗣問題および条約締結の件で、大老井伊直弼(なおすけ)と意見を異にし、隠居(いんきょ)・閉門(へいもん)を命ぜられた。井伊は未曾有の国難に際して懸命に乗り切りを図るが、幕府を中心とする挙国一致化を求めれば求めるほど逆に反転し、各藩の動きはこれに連動しなかった。

【その後の情勢、幕府の対応】
 6.21日、老中堀田正睦と松平忠固が、外交処置不行き届きにより免職処分となる。
 6.24日、松平慶永が井伊邸を訪問し外交処置に抗議し、徳川斉昭、同慶篤、同慶勝が登城し、井伊直弼に談判を行う。
 6月、長州藩、農民の商業自由化を認め、また農村からの徴兵を定める。

 6月、西郷は鹿児島へ帰り、松平慶永からの江戸・京都情勢を記した書簡を斉彬にもたらし、すぐに上京し、梁川星巌・春日潜庵らと情報交換した。

 7.3日、幕府、官医に西洋医術の採用を許可する。
 7.4日、徳川家定死去。
 7.5日、井伊直弼、不時登城の罪をもって尾張藩主徳川慶勝、越前藩主松平慶永を隠居の上謹慎、徳川斉昭を謹慎、徳川慶篤と一橋慶喜を登城停止処分にする。まず一橋派への弾圧から強権を振るい始めた(広義の安政の大獄開始)。
 7.6日、将軍家定が死去した。
 7.8日、幕府、外国奉行を設置。

 7.10日、幕府、日蘭修好通商条約と貿易章程に調印。7.11日、幕府、日露修好通商条約と貿易章程に調印。7.18日、幕府、日英修好通商条約と貿易章程に調印。9.3日、幕府、日仏修好通商条約と貿易章程に調印。

【薩摩藩主・島津斉彬の秘策と不慮の死】
 このような井伊の強引な政治方針に対抗するために、斉彬は自身が薩摩から兵を率いて京都に入り、京都朝廷より幕政改革の勅許を受け、強大な兵力を背景に井伊大老を中心とする幕府に対し改革を迫ろうとする秘策を抱く。これは、一種のクーデターであった。斉彬は、尋常の手段では幕府を改革出来ない、日本の国難を救うにはこの挙兵上京計画という手段しかないと考え、この計画を実行に移す。

 西郷は斉彬の命を受け、その前準備のために京都に先発、朝廷方面の下工作を手がける。しかし、西郷がその下準備に追われているなか、斉彬が急死するという衝撃的な出来事が起こる。7.8日、上京に連れていく兵を城下の天保山で調練中、俄かに発熱する。

 7.16日、薩摩藩主島津斉彬が急逝した(コレラに罹ったと云われる。海音寺潮五郎は毒殺説を唱えている)

 7.19日、斉彬の弟久光の子忠義が家督相続し、久光が後見人となったが、藩の実権は斉彬の父斉興が握った。

【西郷派粛清される】 
 斉彬の急遽の死は、西郷に大きなショックを与えた。西郷は、「斉彬公亡き今、もう生きてはいけない」として国許に帰り、墓前で切腹を覚悟するが、京都清水寺成就院の住職であった僧・月照(げっしょう)に諌められる。月照は、将軍継嗣問題や斉彬の上京計画、薩摩藩と京都朝廷との橋渡し役を務め、西郷とも周知の間柄であった。月照は西郷に対し、「西郷はん、このまま斉彬公の後を追って死んだとして、天上の斉彬公が、吉之助よくやった、とお褒めになると思われますか。いや、必ず斉彬公は、烈火の如くお怒りになるでありましょう。吉之助、なぜわしの志を継いで働こうとはしなかったのだ、と」。月照の戒めに、西郷は涙を流して謝り、「おい(自分)が間違っていもした」と自殺計画を止め、斉彬の遺志を継ぐことを決意する。

 8月、西郷は、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った。以後9月中旬頃まで諸藩の有志および有馬新七・有村俊斎・伊地知正治らと大老井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようとはかった。

【長州藩長井の航海遠略策】
 この頃、長州藩では長井雅楽(ながいうた)が主唱する航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)を藩是とし、国政に乗り出していた。航海遠略策とは、まず、今の日本の国難を乗り切るには、国論の統一が必要であるとし、その為には朝廷と幕府とが一つになっていくことが重要である。朝廷が頻りに幕府に対して要求する条約破棄というのは、そう簡単に出切るものではない。そもそも、鎖国というのは、朝廷が言うように日本古来のものではないので、今は外国に対して開国し、そして外国と通商し、日本自体が力を付けることによって、日本の国威を上げていくことが、すなわち外国の侮りを受けないことにつながるのである。というような非常に堂々とした論策で、公武合体運動に行き詰まっていた幕府にとっては渡りに船の策であり、長井の論ずるところは非常に現実的な策であったので、朝廷にも大変受けが良かった。

 この航海遠略策は、京において一大旋風を巻き起こした。長州藩はこの航海遠略策で日本の国政に正式に乗り出し、この流れが薩摩藩と共に明治維新を成し遂げた原動力となる。但し、航海遠略策そのものは追って激動の波間に揉まれ捨てられる運命になる。

【朝廷は「日米修好通商条約の締結」を認めず】
 8.8日、孝明天皇朝廷は、違勅条約調印を諮問する勅諚を水戸藩主徳川慶篤他13藩に密勅を出した。孝明天皇は無断調印を責め、一致協力して外夷に当たることを望み、諸藩への伝達を命じた。これを「戊午の密勅」(ぼごのみっちょく))と云う。勅諚は井伊の独裁を諫めるものであった。

 8.10日、朝廷が水戸へ降下した密勅を幕府に示す。内容は、条約調印批判と攘夷決行、水戸と尾張に対する処分の撤回。幕府は、公武合体の密勅が直接水戸藩に下り、幕府は、朝廷と水戸藩が組んで幕府に反逆を企んでいると解釈。これが安政の大獄へと繋がっていく。

 将軍後継問題と条約調印問題で敗れた水戸藩を中心とする尊攘派/一橋派は、井伊政権打倒のため、孝明天皇に「条約調印と将軍後継指名は違勅であり、徳川斉昭らの謹慎を解いて、慶喜を将軍継嗣・斉昭を副将軍にせよ」との勅書を下すよう朝廷工作を始める。

 孝明天皇は井伊の専横ぶりに激怒し、幕府に不満をあらわして譲位をほのめかす。これに驚いた関白九条尚直は、事態収拾のために御三家あるいは大老の上京を要請しますが、井伊直弼は政務多忙を理由に、2ヵ月近く経った後で、老中 間部詮勝を上京させて事にあたらせたのみであった。だが、これは井伊の大きな油断となる。この間に京都では一橋派の志士たちが朝廷に働きかけ、大老の辞任、御三家への処罰の撤回、将軍継嗣の再議などを、勅諚として出す運動を進めていく。

 その結果、8.8日に至って、孝明天皇は、幕府と水戸藩に対して、勅書を下賜した(幕府への勅書は水戸藩の2日後)。水戸藩への勅書は正式の手続き(関白の裁可)を踏まない、前例のない藩への直接降下であるので密勅となった(戊午ぼごの密勅)。勅書は幕府に斉昭ら御三家へのの処罰の理由を問い、さらに今後は御三家や諸大名が一致して時局に対応するように、公武合体を強化せよとの趣旨がしたためられていた。水戸藩への密勅へは、勅書の内容を水戸藩から御三家や諸藩に伝えるようにとの副書がついていた。

  戊午の密勅には「公武合体をいよいよ長久にし、徳川家を助け、内を整え、外夷の侮りをうけぬようにせよ」との文言が含まれていた。「公武合体」が朝廷の公式文書に登場するのは、戊午の密勅が最初で、以後この思想が幕府・雄藩に受け継がれていくことになる。

 勅書が幕府を飛び越して直接水戸藩に下されたこと、しかもその内容を水戸藩から諸藩に伝達せよという命であったことから、幕府はこれを由々しき事態とうけとめることとなった。水戸藩(斉昭)が外様大名や浪士と結託し、朝廷を利用して幕府を転覆させようとしているとの疑念を生んだ。

【安政の大獄】 
 尊皇攘夷派は、井伊大老の独断的条約調印に批判を浴びることになった。これに対して幕府は、水戸藩に対して勅書を幕府に返納するよう命じ、9.3日、老中間部詮勝(まなべあきかつ)は井伊の命を受け反幕勢力に弾圧を加えた。9.5日、幕府は、朝廷に対し、徳川家茂に将軍宣旨が下りるよう要請する。

 一方で、攘夷派の論客や勅書関係者や一橋慶喜の将軍擁立派に弾圧を加えの処罰を始めた。安政5年9月から翌6年にかけて大獄は東西呼応して展開された。弾圧係として老中間部詮勝を上京させ、それに腹心の長野主膳を協力させた。小浜藩主酒井忠義を京都所司代に任じ、老中間部詮勝 とともに、京都における尊攘派の逮捕にあたらせる。

 9.7日、小浜藩士梅 田雲浜が京都で逮捕されたのを皮切りに、各地で尊王攘夷反幕の志士の逮捕が 相次ぐことになった(「安政の大獄が始まる」)。9月、豪商近藤茂右衛門逮捕される。10.23日、越前藩士橋本左内逮捕される。10.25日、徳川家茂に将軍宣下。

 裁判は迅速かつ一方的であった。大老の腹心ばかりで五手掛を固めてしまったので、形式的な尋問が行われただけで、処分の発表が行われた。処分は内勅関係者だけでなく、一橋慶喜をかついだ改革派大名も、尊皇攘夷派の志士も、そして開明派官僚も根こそぎ有罪にされた。まさに空前の大獄となった。

 水戸藩では勅書を受け取った家老の安島帯刀や右筆頭取茅根伊予之介、勅書降下に直接関わった京都留守居役の鵜飼吉左衛門父子が死罪に処せられ(安島は表向きは切腹)、そのほか、前水戸藩主徳川斉昭、次期藩主一橋慶喜、水戸藩主徳川慶篤、越前藩主松平慶永らも処罰され隠居謹慎を命じられている。

 京都の尊皇攘夷志士の中心的存在で朝廷への影響力のあった越前藩の橋本左内、小浜(おばま)藩士・梅田雲浜、頼三樹三郎、長州藩の吉田松陰をはじめ70名を越える志士、幕臣、諸侯、公家などが拘禁され、やがて死罪14名、切腹、遠島(島流し)、追放、蟄居、隠居などに処せられた。世にこれを「安政の大獄」と云う。その反動で後にこの時の幕府側の処罰者も逆に責任を問われ、犠牲者となっていく。逮捕された者は90名近くで、処刑された者7名、自殺・病死の者6名で、吉田松陰が最後の処刑者となる。(詳細は、「安政の大獄処罰者一覧表」 参照の事)

 死刑・獄死は次の通り。吉田松陰(1830〜1859、長州毛利大膳家臣、斬罪)、橋本左内(1834〜1859、越前松平慶永家臣、斬罪)、頼三樹三郎(1825〜1859、頼山陽の息子、京都町儒者、斬罪)、安島帶刀(水戸藩家老、切腹)、鵜飼吉左衛門(水戸藩家臣、斬罪)、鵜飼幸吉(水戸藩家臣、獄門)、茅根伊豫之介(水戸藩士、斬罪)、梅田雲濱(1815〜1859、小浜藩士、獄死)、飯泉喜内(元土浦藩士・三条家家来、斬罪)、日下部伊三治(薩摩藩士、獄死)、藤井尚弼(西園寺家家臣、獄死)、信海(僧侶、月照の弟、獄死)、近藤正慎(清水寺成就院坊、獄死)、中井数馬(与力、獄死)。
(私論.私見) 【「安政の大獄」による当代一級人士の悔やまれる死罪考】
 吉田松陰の人となりについては、薩長土肥その他の人物名簿幕末草莽の志士列伝に記す。
 橋本左内とは、「越前福井城下に藩医の子として生まれる。16歳で大阪の適塾に入門。蘭学と蘭方医学を修めた。ついで江戸へ出て蘭学に磨きをかけ西洋学を学んだ。その一方で、藤田東湖、西郷隆盛ら諸藩の志士と交流し、時局に目覚める。帰藩し、藩主松平慶永に重用された。将軍継嗣問題では一橋派の中心として朝廷の説得に奔走した。適塾出身の蘭学者で開国派。しかし安政6年(1858)安政の大獄がはじまり翌年、死罪となった。享年26歳」。
 梅田雲浜とは、「若狭小浜藩に生まれる。京へ上り近江に塾を開いた。嘉永3年(1850)には海防策の意見書を藩に提出するが幕府批判ととられ藩士身分剥奪された。ペリー来航の際は尊王攘夷のために奔走、将軍継嗣問題では一橋慶喜擁立派として行動。また公家達を説いてまわり、水戸藩の密勅降下にも関わった。京都では梁川星厳につぐ志士の指導者となった。しかし、安政の大獄の最初の逮捕者となり、取調中に江戸で病死した」。
 梁川星厳とは、「美濃の郷士に生まれる。19歳で江戸へ出て山本北山の門に学ぶ。文政5年(1822)妻の紅蘭と天下を遊歴。江戸に戻り、神田お玉ヶに「玉池吟社」を開き、星厳の詩名は大いにあがった。弘化3年(1846)京都に移り住み、その居「鴨沂小隠」には梅田雲浜・横井小楠・吉田松陰などが出入りし時局を論じた。幕府を激しく批判し、安政の大獄に捕らわれようとしたが、その直前、コレラで急死した。このため妻の紅蘭が捕らわれたが、翌年釈放された」。
 頼三樹三郎とは、「京都の三本木に生まれる。父親は「日本外史」で勤王論を論じた頼山陽。大坂、江戸へ遊学後、東北と蝦夷地を旅行。帰京後、梅田雲浜や梁川星厳らと交流。反幕府、朝廷復権の思想を論じ合った。将軍継嗣問題では一橋慶喜を支持。安政5年(1858)4月、梁川星厳と密議をし、水戸藩に倒幕の密勅が降りるように画策。また西郷吉之助(隆盛)とも時局を論じ合った。8月、密勅が水戸に降りたが、これに対し、大老井伊直弼はのちの「安政の大獄」で対抗、弾圧をした。11月、捕縛された。一時、六角獄に入れられたが、翌年江戸へ送られた。取り調べでも幕政批判、勤王攘夷を一貫して主張。10月、刑死」。

 次の詩を遺している。「当年の意気、雲を凌がんと欲す。快馬、東に馳せて、山を見ず。今日危途、春雨冷ややかなり。鑑車、夢を揺るがして函関(嶺)を過ぐ」 。
(私論.私見) 【「安政の大獄」の怨念考】
 「安政の大獄」はその後の政局に大きく影響する。追って見ていく事に為るが、幕末志士派は、「安政の大獄」の下手人を洗いざらい調べ上げ、逆テロしていくことになる。その逆テロに対しテロり返す組織として見回組、新撰組が生まれ、京都の町を血で染めていくことに為る。これが生きた歴史である。

 2005.4.13日 れんだいこ拝

【西郷と月照が死の逃避行】
 9.16日、西郷は再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しく薩摩藩と京都朝廷との橋渡し役を務めていた月照もやがてその身が危険となる。その為、西郷は月照を薩摩藩内に匿うことを計画し、急路先行して薩摩に帰国することになった。。

 近衛家から保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。9.24日に大坂を出航し、下関経由で10.6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。

 しかし、斉彬急死後異母弟・久光の子の忠義(ただよし)が藩主の座に就いたことにより、藩政府の方針は一変していた。忠義は当時19歳と若かったので、藩政後見人として藩内の権力を握っていたのは前々藩主の斉興だった。斉興は子の斉彬の政策をことごとく廃止し、旧体制に戻すことに専念した。西郷が帰国した時には、斉彬が興した近代工業は全て廃止され、薩摩藩内は静まり返ったようになっていた。

 西郷は帰国するや否や、藩政府の要人に対し月照の保護を求めるが、藩政府の態度は非常に冷たいものであった。西郷は月照が薩摩藩のためにどれだけの努力をしてきたかを説明し懸命に月照の庇護を求め続けるが、藩政府の態度は変わらない。

 11月、月照は筑前浪人の勤皇志士・平野国臣(くにおみ)に付き添われ、困難な道中を乗り越えて薩摩にやって来る。しかし、藩政府は西郷に、月照を国外に追放するように命じる。安政の大獄が既に始まり、月照を匿うことによって幕府に睨まれることを恐れた薩摩藩の方針であった。藩士として、藩の命令に背くわけにはいかず、かと言って、月照を幕府の捕り方がいる藩外に追放するなどということもできず、このような事態に絶望した西郷と月照は二人で相談し寒中投海自殺を決意する。  

 11.16日、西郷は、月照・平野らとともに乗船し、前途を悲観して竜ヶ水沖で月照とともに入水した。西郷吉之助30歳の時のことである。ところが月照は絶命し、西郷だけは奇跡的に蘇生する。一人だけ生き残った西郷は、自殺から一ヶ月後に書いた手紙で次のようにしたためている。「私事土中の死骨にて、忍ぶべからざる儀を忍び罷り在り候」(私は今や土中の死骨で、忍ぶべからざる恥を忍んでいる身の上です)。やがて西郷は奄美大島行きを命じられる。この時は流罪ではなく、年六石の扶持が付いていた。ということは、これは安政の大獄によって、西郷にも幕府から捕縛命令が出ていた為、その幕府の目から逃れさせるための処置であったことになる。

 藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕重助を連れて引き上げた。西郷は藩の手で奄美大島に匿われることになった。 

 12月、薩摩藩当局は、幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした、12月末日、菊池源吾(熊本の菊池氏を祖としていたので、吾が源は菊池なりという意で付けたと云われる。公式には西郷三助)と変名して、鹿児島から山川郷へ出航した。

【その後の情勢、幕府の対応】
 10.25日、福沢諭吉、藩命により築地中津藩中屋敷内に蘭学塾を開設。

 12.5日、長州藩、吉田松陰を逮捕。

 10.30日、老中間部詮勝、参内して条約調印事情了解の勅諚(条約勅許)を得る。

1859(安政6)年の動き

【西郷、遠島される】
 1.4日、西郷は、伊地知正治・大久保利通・堀仲左衛門等に後事を託して山川港を出航し、七島灘を乗り切り、名瀬を経て、1.12日に潜居地の奄美大島龍郷村阿丹崎に着いた。島では美玉新行の空家を借り、自炊した。間もなく重野安繹の慰問を受け、以後、大久保利通・税所篤(喜三左衛門)・吉井友実・有村俊斎・堀仲左衛門らからの書簡や慰問品が何度も送られ、西郷も返書を出して情報入手につとめた。

 奄美大島時代の西郷には数々の逸話がある。島役人達の苛酷な徴税の仕方に憤激し、ある日、在番役人の相良角兵衛(さがらかくべえ)に面会を求め、農民達に対する苛斂誅求な施策をやめるよう意見する。しかし、相良は不遜な態度で西郷の意見を無視しようとした。その相良の態度に怒った西郷は、「おはんが方針を改めないのなら、おいが直接、藩主公に対し、建言書を書きもす。おはんの日頃の態度も併せて上申するつもりごわすから、覚悟しておられよ」と言い放ち、席を立つ。驚いた相良は態度を豹変し、西郷に対し平謝り、農民を解放することを約束する。他にも、西郷が病人や老人に対して自分の扶持米などを分け与えていたことなどから、大変島民に慕われるようになる。ついには、西郷の住居があった龍郷(たつごう)一の名家である龍家の一族の娘・愛加那(あいかな)と結婚もする。西郷は、ここで3年もの間、片時の幸せな結婚生活を過ごすことになったが、時代はまた西郷を必要とし本土へ呼ぶことになる。

【その後の情勢、幕府の対応】
 1.13日、 幕府、神奈川・長崎・箱館への出稼ぎ・移住・自由売買を許可。

 1月、宮家公卿の家臣30余人と水戸藩京都留守居役鵜飼親子らが逮捕される。安政の大獄が本格的に始まる。2.5日、幕府、宮家・公家の処罰の意向を明らかにする。2.17日、青蓮院宮尊融親王、一条忠香ら謹慎処分となる。4.22日、鷹司政通、近衛忠煕、三条実万ら出家・謹慎処分となる。4.26日、水戸藩家老安藤帯刀ら逮捕される。4月、吉田松陰、江戸へ護送される。8.27日、第1次断罪により、水戸藩家老安島帯刀らに切腹命令。9.14日、梅田雲浜獄死。10.7日、幕府、橋本左内・頼三樹三郎・飯泉喜内を処刑。

 2月、長崎の幕府海軍伝習所閉鎖される。
 5.24日、幕府、安政金銀の鋳造と外国貨幣の通用を布告。
 5.26日、英国駐日総領事オールコックが着任。11月、オールコック、駐日公使に昇格。
 5.28日、幕府、アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダの5ヶ国に神奈川・長崎・箱館の3港を開港し、自由貿易を許可。
 6.7日、琉球王府、オランダと琉蘭修好条約を結ぶ。
 7.6日、フィリップ・ファン・シーボルト再来日。
 7.27日、ロシア海軍士官ら3人が横浜で日本人数名の襲撃を受け、2人が死亡、1人が負傷する。

【グラバー来日】
 7月、トーマス・ブレーク・グラバー21歳の時、来日した。グラバーはジャーディン・マセソン商会の現地派遣社員として開港後1年目の長崎にやってきた。開港時代の長崎は、巨大な貿易市場に変貌しつつあった。この時期約150名の外国人が在住し、その半数をイギリス人が占めていた。グラバーは貿易商としての経験を積んでいき、長崎を拠点(きょてん)にして次第に幕末の動乱期に重要な働きをするようになる。これにつき、グラバー考(「明治維新とグラバー」考)で概述する。

【その後の情勢、幕府の対応】
 7月、生糸貿易の開始で、生糸不足と糸価格急騰したため、桐生地方の35か村の代表が、幕府に生糸輸出の禁止を願い出る。9月、桐生地方の35か村の代表が、再度生糸貿易禁止について願い出る。10月、江戸の呉服問屋・糸問屋が生糸の急騰に困窮し、奉行所に支援を願い出る。11月、桐生35か村の惣代が生糸急騰問題で、井伊直弼と間部詮勝へ駕篭訴を決行。

 9.13日、幕府、日米修好通商条約本書交換のため、新見正興・村垣範正・小栗忠順らのアメリカ派遣を決定する。 
 10.18日、ジェームス・C・ヘップバーン(ヘボン)来日。
 10.24日、幕府、新潟開港延期を米・仏両国に通告。
 10.25日、幕府、新潟開港延期を蘭・露両国に通告。

 11.8日、西郷は、龍家の一族の佐栄志の娘とま(のち愛加那と改める)を島妻とした。当初、扶持米は6石であったが、万延元年には12石に加増された。また留守家族にも家計補助のために藩主から下賜金が与えられた。来島当初は流人としての扱いを受け、孤独に苦しんだ。しかし、島の子供3人の教育を依頼され、間切横目藤長から親切を受け、島妻を娶るにつれ、徐々に島での生活になじんでいった。

1860(安政7、万延元)年の動き

【「遣米使節団」】
 1.13日、遣米使節が条約批准交換のため派遣される。新見正興(しんみ まさおき)、勝海舟、木村喜毅、ジョン万次郎らが護衛艦咸臨丸に乗り、太平洋初横断し、2.26日、咸臨丸がサンフランシスコに到着。

 1.18日、小栗忠順(副使)、福沢諭吉らが乗る遣米使節が米軍艦ポーハタン号で出発、こちらも無事渡米に成功。艦船の造船所などを見て廻り、種々教唆されている。福沢は強烈な欧米の思想に感化されて、西洋崇拝主義者となって日本に帰って来る。

【「桜田門外の変」】
 水戸藩は、幕府に勅書(戊午の密勅)返納を命じられて以来、藩庁を中心とする返納派(鎮派)と返納反対派(激派)に分かれて対立することになった。幕府は朝廷の力を借りて勅書を返納させることにし、安政6年末、朝廷は勅書返納を命ずる勅書を下賜した。藩論は幕府ではなく朝廷に直接返す返納論でまとまったが、これに対して激派の指導者らは返納を実力阻止しようと、同志を募って水戸と江戸の間にある長岡に屯集した。これを長岡勢と云う。藩庁は激派鎮圧にのりだし、謹慎中の斉昭も返納阻止は君命に背くと説得したので、長岡勢は解散した。激派の主だった者は江戸に向けて脱出し、その数日後に桜田門外の変を起こすことになる。

 3.3日、井伊直弼の独裁専制に対する不満は爆発し、井伊大老は江戸城桜田門外で水戸藩浪士17名、薩摩藩浪士1名に襲われ、46年の生涯を終えた。浪士代表は、脇坂候の屋敷に出頭して「自訴状」を差し出した。これを世に「桜田門外の変」と云う。彦根側は死者4名、負傷者15名、浪士側襲撃者は闘死1名、重傷を負って自尽4名、自訴8名(のち傷により死亡2名、死罪6名)、逃走5名)。襲撃には加わらず、薩摩挙兵を期待して京阪に向かった者も捕吏に囲まれて自尽、捕縛されて獄中死などの最期を迎えた。

 井伊大老は、薩摩浪士の有村冶左衛門によって討ち取られており、これを思えば「桜田門外の変」は水戸・薩摩両藩士の共同作戦として練られたことが分かる。その背景事情は次の通りである。薩摩藩はもともと前藩主島津斉彬が一橋慶喜支持であり、反井伊であった。「安政の大獄」が始まってまもなく、在府の水薩藩士のあいだで、「水戸藩士が井伊を暗殺したら、薩摩の同志が脱藩・東上し、先君(斉彬)の遺志を継いで京都を守護する」という盟約が成った。彼らの「斬奸」趣意は幕政の改造により王事に尽くすことで、江戸で井伊を倒し、薩摩兵を京都に迎え、朝廷を擁して幕府に改革を迫ることを期待していた。しかし、薩摩藩庁や大久保一蔵(利通)が尊攘激派の動きを抑えたので、藩を挙げての連携は実現しなかった。(薩摩藩は、事変の起ったとき、藩主茂久は参勤交替で江戸に向かう途中だったが、報をきいてひきかえしている)。

 白昼堂々と大老が暗殺された事件は幕府の権威を貶めるに十分だった。これに反比例するように朝廷や諸藩の発言力が増していくことになる。

【「桜田門外の変」水戸浪士の斬奸状】
 この時の水戸浪士らの斬奸状は、幕府の条約調印における朝廷軽視、斉昭処分、安政の大獄を非難しているが、「天下の巨賊」井伊を倒すものであり、幕府に敵対するものではないことが強調されていた。

 斬奸状かどうかは不明であるが次のように文面されている)。
 「尊王攘夷は正義の明道(めいどう)なり、天下万民をして富岳(ふがく)の安(やす)きに処せしめ給わん事を願うのみ。いささか殉国報恩(じゅんこくほうおん)の微忠(びちゅう、忠義な心)を表し、伏して天地神明の御照覧を仰ぎ奉(たてまつ)り候(そうろう)なり」。

 首級を挙げた桜田烈士の「自訴状」が、太田龍・氏の「長州の天皇征伐」(成甲書房、2005.11.5日初版)に掲載されている。これの興味深いくだりを転載しておく。

 これより以降は、「幕末通史2、改革か回天か、新政体創出を廻る激闘」に記す。






(私論.私見)