「不破哲三」なるペンネームについて

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元).7.31日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこは、「不破哲三」というペンネームに氏の特異な政治的スタンスを嗅ぎ取ろうとしている。以下はその考察である。

 2008.4.4日再編集 れんだいこ拝


【「不破哲三」というネーム考】
 宮顕論の次は不破論に向かう。徳球―伊藤律系党中央を放逐した1955年の六全協後の日共系党中央の系譜である。宮顕の胡散臭さはサイト宮顕論で論証できたとして不破の胡散臭さの論証をサイト不破論でやってみる。その最初の営為として「不破哲三」というペンネームを愚考してみる。れんだいこは、「不破哲三」というペンネームに氏の特異な政治的スタンスを嗅ぎ取ろうとしている。結論を先に述べると、「不破哲三」とは「右派に徹するぞぉー」の意を挺したネーミングである。以下はその解析である。

 不破の本名は上田建二郎であり上田耕一郎の弟である。父は上田庄三郎で、生誕地は高知県幡多郡(現土佐清水市)三崎町。誕生日は1894年11月10日とのこと。教育評論家として名を残しており、「ウィキペディア不破哲三」によれば、「当時上田家には跡取りがいなかったため、父子共々養子として引き取られる」とある。その際の旧姓はどういう理由でか不詳。気になる情報としては、「上田庄三郎もメンバーに加わっています。ただし、加わったその日、反組織活動を行ったという理由で除名されてもいます」(「戦前生活綴方教育史研究の窓3」)とある。「反組織活動」が何を指しているのかは分からないが怪しい気配がある。

 「不破哲三」という名前そのものについてはは、党員名の場合には別名で登場する例が多いこと、雑誌上でのペンネームとしても広く愛用されているところだからして疑問はないとして、不破の場合には国会議員名でも使用されている。ところで、不破が国会議員になった時点に於いて、ペンネーム名で国会議員に成り得るのは広く認められていたことだろうか。れんだいこは、不破のほかには知らないので、どなたかご教示頼む。その際許容される基準についても知りたいとも思う。これは、れんだいこ名で立候補できるのかと云う問題と通底している。

 もう一つの疑問は、この「不破哲三」というネームがいつ頃から使われ始め、その際に秘せられた思いは奈辺にあるのだろうかということである。人が本名に代わる別名を使用する際には、かなりの思い入れがあるのが通常であろう。さすれば、「不破哲三」にはどういう意味があるのだろうか。

 不破は、「私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言」の中で、「不破哲三」の由来について、「不破建設」という自宅付近にあったペンキ屋と当時の職場である鉄鋼産業労働組合の「鉄」から名付けたと語っている。しかし、本人の弁だからと云ってもそう受取る必要はなかろう。まず、「不破建設」というペンキ屋が自宅付近に本当にあったのかどうか調べねばなるまい。れんだいこ的には、ペンキ屋が建設屋を名乗ること自体が珍しいと思う。次に、鉄鋼労連絡みで「鉄」を着想し、「哲」にしたのは良いとしても「三」の由来が依然として分からない。不破こと上田建二郎は次男であり三男ではない。何らかの理由があるなら明かせば良いだけのことなのに語らない。ということは、「不破の語りは臭い」と云うべきだろう。

 れんだいこはある時ふと浮かんだ。これは「右派に徹するぞぉ」の略語ではなかろうか。「右派=不破」、「徹する=哲」、「ぞぉ=三」という、当時の思想戦線における上田建二郎の決意宣言をレリーフさせたネーミングではなかったか。時節は、左派的な島、生田らのブント運動の勃興期と対応している。「右派に徹するぞぉ」の意味を挺した「不破哲三」は、急進主義的な彼らの運動に徹底的に対決し闘うという決意表明ではなかったか。実際、当時その種の論考を数多くものしている。

 あるいはもっと広く当時の徳球−伊藤律系日本共産党運動と対決し、徹底的に闘うという決意表明だったのかも知れない。その後の軌跡から窺うのに、ボルシェヴィキ的戦闘的な国際共産主義運動に落とし込めるのではなく、ブルジョア民族主義的穏健な国内運動を目指すという意思を込めたものではなかったか。仮に自主独立的な動きを希求していたとして、それを徳球−伊藤律系的な急進主義的大衆路線でやるのではなく、もっと穏健な支配階級から見て秩序ある聞き分けの良い議会専一主義的な穏健主義運動へと流し込むことを使命とさせていたのではなかったか。あるいは、国際共産主義運動内の左派運動ではなく、国際ネオシオニズム運動の指揮に従うシオニスタン運動を担うという誓約まで公言しているのかもしれない。

 この観点は、野坂−宮顕の党活動の始発観点と直通する。恐らく当局ないしは奥の院の誘導もこれを眼目としていた。してみれば、その後の「不破哲三」は、その名の通りに右派街道及びシオニスタン的忠誠の道をひたすら歩み続けたことになる。そういう意思を強く持って党中央に参内し、それ故にトントン拍子にその階段を駆け上り、以降宮顕と二人三脚で君臨してきたのも不思議でなくなる。何より不破の党活動の軌跡がこれを証している。そのなれの果てが今日の日共の古色蒼然たる形骸化であるが、当人がこれに痛痒を覚えていない不思議さが読めてくる。今日最後の気力を投じてレーニンの右派主義的な取り込み考をしているようであるが、これも不思議でなくなる。この憶測は正鵠を得ているだろうか。 

 2003.2.14日、長らく日共の最高指導者として君臨してきた不破議長が「国会議員次期出馬せず」表明を行ない、名誉議長の閑職を自ら選ぶことになった。右派路線の最後の集大成に邁進していくことになるだろう。ソ連邦解体に接して過去の言説に頬かむりはものかは右翼顔負けの「崩壊して良かった論」で口を拭い、スターリン批判からレーニン批判へと向い、いよいよマルクス批判にまで辿り着いたようである。その論が値打ちある方向のものならともかく、簡略に云って修正主義から投降主義へと発展させ「議会主義下の穏和左翼」として秩序づける為の便宜理論を創造せんとすることにあるやに見える。とても食えない。

 2002.5.23日、2013.02.22日再編集 れんだいこ拝





(私論.私見)