八島教学事件考

 更新日/2019(平成31→5.1栄和改元)年.10.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 天理教内の揉め事、それも教団中央と分教会会長の地位をめぐる争いが世上の裁判で争われるという珍しい事件が起こっており、これを検証する。さしづめ、日共系の「宮地健一裁判」に近似しているように思われる。そう云えば、教団と党中央という両者は何かとよく似ている気がする。

 2007.12.23日 れんだいこ拝


【八島英雄(やしまひでお)氏の履歴と事件の概要】
 「天皇も人間、我々百姓も同じ魂、ほんあづま11月号巻頭言(2002年)」を参照した。
 1929年、東京向島の天理教教会に生まれる。1954年、天理大学文学部宗教学科卒業。二代真柱の正善に見出され、「復元宣言」に沿って1967.2月〜1968.8月、天理教教会本部修養科の「教祖伝」専任講師として補佐する。1968.9月、東京教区教理講座「理を求める会」の講師を歴任(〜1979.6月)。1969(昭和44).2.10日、本吾嬬分教会機関紙「ほんあづま」の編集代表になり、「陽気ぐらしのひながた」の連載始める。
 1969.4.27日付け、天理時報が差別記事事件を起こし、対応に窮した高橋表統領が急死した。後継刑した中山慶一表統領が、八島氏に「私に代わって教会長たちに、教祖の平等思想を教育するように」と依頼したところから、「みちのとも」に「私の教理勉強」の連載を始める。これが教内で非常に評判が良かったが、本部教理を随所に批判していたところから対立が時間の問題となった。
 9.27日、天理教青年大会が武道館で開催された際のパンフレットの八島氏が執筆した「惟神之道とお道の教理、特に終戦までの国家神道と比較して」の内容に対し、本部が咎めることになり、堀越儀郎本部員、次いで主査室主任宇野晴義が八島氏の下へ来訪した。矢島氏は、立会人を付けて問答し、「八島の主張が正しい事が証明された」。この時の宇野本部員の捨てせりふは「右翼が怖くないのか」。八島氏の返答は「右翼が怖くて、教祖のひながたが通れるか」であった。
 10.1日、田中喜久夫道友社社長が更迭され、永尾廣海が道友社社長に就任し、直後に「みちのとも」の原稿に「高山に暮らしているも谷底に暮らしているも同じ魂」というおふでさきを引用し、「どんな者でもひながた通りに通りた事なら、皆ひながた同様の理に運ぶ」というおさしづ引用が不当であると削除され、連載が中止になった。
 1974年、天理教本嬬原分教会会長就任。
 1976(昭和51).1.26日、教祖90年祭執行。
 同年、本部が「稿本天理教教祖伝逸話篇」出版する。
 同年3.25日、八島氏が「私の教理勉強」を出版。1977年、東京教区世田谷中央支部長に就任。
 1978.4月、教団批判を展開する。
 1979年、「櫟本分署跡保存会」を発足させ代表となる。
 1985.12月、教祖百年祭の直前、「ほんあづま」202号で、教祖百年祭を機に応法の理である神道教理や儀礼を廃止し(鏡を神道式の社に祀ることをやめ)、教祖が教えた通りに、かんろだいを目標にして各教会でおつとめを行い、みかぐらうたとおふでさきに基づいて教育せよと提唱した。
 同12.29日、表統領の代理と称する東本大教会役員三名が本吾嬬分教会へ来て、「ほんあづま」の記事は教祖の教えには合っているが、教会本部の教え「天理教教典」に外れているから、既刊の「ほんあづま」数十万冊をすべて回収して、教会長を辞任して、真柱にお詫びしろ」と迫った。八島氏は、「真柱に心配かけた事は詫びるが『ほんあづま』の回収も、教会長辞任も承知できない」と物別れになった。
 1986年、教団本部が、櫟本分書跡保存会代表でもある八島秀雄を本人に通告せぬまま本嬬原分教会長の職を罷免し、東本大教会役員舛岡某を任命した。即日登記し、月次祭当日に裁判所により本嬬原分教会が差し押さえられた。八島氏が位保全の訴えで対抗し、これにより天理教教内事件が世上の裁判で争われるという珍しい裁判が始まった。これを機に、教祖の教えとその伝記出版のため教会本部より独立。
 1991年5.30日、清水国雄表統領は、東京地方裁判所の法廷証言で、「櫟本分署跡で教祖のひながたの真実を明らかにすることは天理教の信仰の根幹に関わる」、「櫟本分署跡の修理保存は、天理教信仰の根幹に関わるから、させることはできない」と述べた。続いて「八島英雄氏が主張する教説、いわゆる八島教学について、八島教学を公式に異端と言った者は一人も居ない。真柱が、異端とか異説とか、異安心と裁定したことはないし、意見を述べたこともない。天理教及び天理教教会本部の正式機関では、八島教学が異端とか、異説とか、いかなる判定も下したことはない」と述べた。この部分が、本部に帰って他の本部員たちに責められ、憩の家病院で静養する身となった。
 「国々所々のかんろだいつとめ」。
岡田弁護士  「八島さんが色々と天理教教学に関わる文章を書いたり、喋ったりしているのですが、この問題について真柱が何らかの、八島教学という言葉を使いますが、八島教学は異端であるとか、異説であるとか、異安心という言葉もありますが、そういう裁定をしたという事実はありますか」。
清水表統領  「ありません」。
岡田  「まったくない」。
清水  「ない」。
岡田  「意見を述べたこともない」。
清水  「ない」。
岡田  「真柱以外で天理教の、あるいは、天理教教会本部なりで、八島教学について異端とか、異説とかという決定というか、判定をしたというような事実がありますか。正式機関で」。
清水  「ありません」。
岡田  「ないのですか」。
清水  「そうです」。
岡田  「前回あなたがフランス語の教授をしている飯田照明さんという、哲学だそうですが、この方がガリ版刷りのようなものを出したことがあると言いましたね」。
清水  「言いました」。
岡田  「その時よくお聞きしなかったのですが、飯田さんが個人的に、もちろん、何か書いたわけですね。これはいつの頃の話なのですか」。
清水  「私が表統領になる前です」。
岡田  「あなたが表統領になるより前の話ですか」
清水  「と思います」。
岡田  「あなたが表統領になられたのは昭和52年11月。それより前ということですね」。
清水  「そう思います」。
岡田  「永尾廣海さんからあなた宛ての手紙というのもありましたね。それもふるいことですか」。
清水  「私が表統領になってから。昭和52、3年です」。
岡田  「そうすると、天理教の正規の機関では裁定したところはないし、個人からのも古い形のものですね」。

 【注】、別のところで、清水氏が「青年会が批判文章を出したことがあるが」と言ったことに対して、岡田氏が「天理教青年会は教団の正式機関ではないでしょう」と言い、清水氏が「そうです」と答えている)
 1994年、証人として出廷した永尾広海本部員は、「八島は『みちのとも』連載当時から異端だ、私が罷免した」と罷免の正当性を述べた。が、「二十五年前のゲラ刷り原稿を目の前に突き付けられて、青くなって立往生し、心臓の不調を訴えて、憩の家病院に逃げ込んだ」。 
 1995.4月、八島に対する立退き要求の訴えは東京地裁で却下の判決が下った。本部の控訴はなく結審した。
 なお、並行して、櫟本分署跡保存会、事務局長川本しづ子が会長をつとめる本常一分教会も、審判会も行なわず会長罷免して裁判になったが、罷免申立てした東本大教会長中川うめ子が証言台で立往生して、東本大教会長と処分した天理教代表役員表統領が謝罪金を出して和解した。現在は東本大教会より独立し、教祖直属の本常一分教会長川本しづ子になっている。
 9.28日、永尾廣海本部員の死が報ぜられた。
 2001年、八島氏が豊文教会に神楽指導。豊文教会独立宣言。7月より模型のつとめ始める。
 2002.8月、櫟本分署跡知多支部、発足。
 2004年、櫟本分署跡参考館版、「顕正天理教教祖伝」編纂にかかっている宣言。
 2006年、櫟本を苗床にして宣言、 『ほんあづま』2000年6月号巻頭言。





(私論.私見)